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小早川隆景、吉川元長の上洛

2022年09月11日 16:51

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/10(土) 20:53:11.98 ID:Ggs1f0hu
天正十三年十一月十九日、小早川左衛門佐(隆景)、吉川治部少輔(元長)が堺に到着し、二十日に
御門跡(顕如)より刑部卿を御使として、馬一疋が遣わさた。これは秀吉より参った然るべき馬であった。
新門様(教如)よりも御馬一疋が遣わされた。

二十一日、小早川、吉川の両人は大阪に行かれ秀吉に御礼し、毛利右馬頭(輝元)より銀千枚、
小早川より五百枚、吉川は三百枚を進上した。
二十四日には御能があり、金剛又兵衛大夫が能三番をり、芸州衆をもてなしめた。

二十五日、両川は御暇を給わり帰国。二十五日、当門様(顕如)へ返礼の使者があった。
小早川より一腰と五千疋、吉川より一腰と虎豹の皮三枚、馬代銀二枚であった。
吉川よりは同苗字の又五郎という人が来て、小早川隆景が早くも今朝兵庫まで下ったと言った。
夕方には中村孫平治が御礼に参った。

宇野主水記

小早川隆景吉川元長の上洛について




358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/10(土) 22:08:17.57 ID:3lvuD7ir
宇野主水は顕如の秘書役(右筆)、その日記のうち現存するものがこれです。
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こうお尋ねに成った所、隆景公は

2019年12月08日 17:51

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/08(日) 13:07:40.75 ID:8cGZA4ia
小田原北条氏に上洛するよう、天正十七年に豊臣秀吉公が命ぜられた所、これを難渋したため、
秀吉公は出馬され小田原を攻め懸けられた。しかし城の守りは堅固であった。

その頃小早川隆景公は小田原に御在陣なされており、秀吉公より御相談を受けた
「私はこの小田原城を攻め崩したいと思っている。ところでそなたの父である元就は、こういった
城の攻略をどのように成されていたのか。」

こうお尋ねに成った所、隆景公は
「御意の趣、ご尤もな事です。このままでこの城を切り崩されること、少しも手間は要らないでしょう。
しかしながら、今後五日から十日の間城を厳しく攻め立て、その上で城内に調略を懸ければ、内部より
その調略に釣れる者が出てきて、この城攻めも落着するのではないかと思います。」

秀吉公はこの通りに指図した所、五、六日の内に北条一家は相果て、小田原攻めは落着した。

(老翁物語)

毛利家にも、小田原城攻めで小早川隆景が秀吉にアドバイスしたという話が伝わっていたのですね。



406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/08(日) 15:55:21.66 ID:SXQBO423
>>405
毛利家じゃないほうが扱い良いのが不思議だ>>342

小早川隆景の事

2019年11月30日 17:47

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/30(土) 08:25:29.97 ID:f6sI2SvR
豊臣秀吉公によって天下が制せられた頃、毛利輝元公に小早川隆景公がお供して上洛を成した。
秀吉公と参会したが、大方ならない非常に丁寧な接遇であった。この事は桂美作守が詳しく
書き置き、その書物は今もかの家にあるり、その概略をここに示す。

この時、秀吉公の御意に
「私は主君の敵を討ったことで、その本意が天道に叶ったためであろうか、このように
日本を従え、高位にも上った。しかしながら隆景、安国寺のような優れた家臣を持っていない。
そこは輝元に劣っている。」
と仰られた。

小早川隆景は毛利元就の三男であり、十二、三の頃より元就公を助け、御一生の間、子の刻(夜0時頃)
に寝て寅の刻(午前四時頃)に起きると言われているように、不断に夜半過ぎまで伺候し、曉天に
起きられ火を灯して朝御膳をまいらされ、終日御前に在って、諸方への御用、御調を成されていた。
元就公、隆元公が御他界の後は輝元公を一層御尊敬になり、吉川元春公は、その輝元公を取り立てる
あり方を、周公旦の道に学んでいると仰せに成っていた。これはどういう事かと言えば、周の文王、
武王、周公旦は唐土四百余州の大聖人であることが書物に様々に見え、中で周公旦は文王の子、
武王の弟で成王の叔父であり、天下で誰一人その地位を争おうと思わない高貴の人であったが、
成王に仕えて、一回の髪を洗う間に三度も止め、一食の間に三度も口中の食べ物を吐き出して天下の士に
まみえたという。その行いと隆景公のあり方に違いがないと思われたのであろうか。

隆景公が輝元公の御座の前をお通りに成る時は、必ず膝を折り手をつかれてお通りに成った。輝元公が
その座に居られる時は申すに及ばず、御座に居られない時でもそのようであった。
この事ひとつを以ても、全体に於いて隆景公が輝元公にどのように接して居られたか推し量ることが
出来るだろう。またこのようであったので、隆景公の御行儀は日本一であると諸国でも申した。

先程の秀吉公の言葉の最後に言われていたように、後々に隆景公は日本国の御政道の御教書に
御連判もされ、輝元公、隆景公、前田利家公、宇喜多秀家公、徳川家康公の御上判にて諸国に
命が出された。そして後には東三十三ヶ国を家康公、西三十三ヶ国は輝元公にその進退をお預けになり、
このため西国の大名衆は折々に御挨拶に訪れた。

(老翁物語)

小早川隆景について



390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/30(土) 17:18:19.23 ID:JVFouEOb
>>389
隆景が長生きしてたら関が原はどうなったかなぁ

小田原城包囲の様子

2019年11月16日 17:15

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 05:58:00.15 ID:vWED/vaX
小田原の陣のさなか豊臣秀吉は、小早川隆景が老武の物知りであるとして、尾州清須より呼び下した。
彼は塔峰の艮(北東)の方角にある鍋曲輪という山手に陣を張り、安国寺恵瓊長老を相備として、
二万騎ばかりにて在陣した。これ以前に、関白殿下の陣営を一夜に紙にて張り立てたのも、隆景の
工夫より発起した謀略であった。

そのような中、秀吉公は隆景を本陣に呼び寄せ雑談する中に
「今の状況では小田原城が早速に落城するとも思えない。そして諸軍には長陣に退屈の色が見える。
であれば所々に附城を築き、この本陣には私の名代として近江中納言秀次にそなたを付けて差し置き、
軍勢の大半は(徳川)家康殿に委ね、私は京に帰り一両月ほども滞留して上方表の仕置を沙汰し、
その後また下向したいと考えている。これについてそなたになにか思うところ有れば、心底を残さず
異見してほしい。」

隆景は答えた
「貴命を承りました。ただし、不肖ながら私の考えは、理不理を弁えていないのかも知れませんが、
今回の長陣は間違いなく御勝利の基であると思っています。であるのにこちらを捨て置いて、この時期に
御上洛されるというのは、在陣の諸将から鋭気をくじき、弓矢に怠りが生まれてしまうでしょう。
ただそのままに在陣され、急いで敵城を攻められようとはせず、弓鉄砲の鳴りを鎮めて、各仕寄を
丈夫に手当し、敵からの夜襲などを懸けられないように、諸隊に用心を専らとさせ、さらに倍の長陣の
覚悟を決意すれば、城中は日を追って困窮すること疑いありません。

またこれにおいて退屈させないように、若者たちに命じて小唄を唄わせ踊りなども促し、乱舞音曲の
遊興をなさしめれば、味方が長陣に倦まないように出来るでしょう。」

これを聞いて秀吉はうなずき
「そなたの父である毛利元就が生きている時に、これに似た城攻めの例は有ったのだろうか?」
と尋ねた。

「父である元就の代にも、出雲の尼子右衛門佐義久との対陣の時(月山富田城の戦い)、小唄、踊り、
能、囃子を催して長陣を張り、ついに敵を攻め破りました。その他にもこのような形の調略は度々に
及びました。」

「なるほど、元就は軍謀密策において並びなき達人である。」
秀吉はそのように激賞し、それより上洛を中止した。

その頃は五月雨が降り続いており、諸陣も湿っぽく物寂しい様子であった所を、秀吉は自らの陣営に
仮の数寄屋を設え、喫茶の会を興行した。橋立の壺、玉堂の茶入といった名物を取り出して、
徳川家康を始めとして、北畠信雄、上杉景勝も招待し、長岡三位法印(細川幽斎)父子、小早川隆景
津川三松(斯波義銀)、前波半入(勝秀)、羽柴下総守(滝川)勝利、有馬兵部卿法印則頼、
安国寺恵瓊長老、施薬院法印全宗、大村由己、利休居士、等を加えられ折々の会席あり、その陣中に於いて
古き新しきを取り交えて、はやり詞、戯れ歌などを言い触れるなかに、西行法師の詠んだものであるとして
誰も彼もが口ずさんだ歌が

 星ひとつ 見つけたる夜の嬉しさは 月にもまさる五月雨の空

さらに近習外様の若者たちに命じて、流行歌音曲を促すと、もとより上方生まれの遊興に親しんだ
者たちであったから、得たり賢しと、ありふれた小歌に様々な新作を加えて、水無月(六月)の初めの頃より
この山かの平地と群れ出て涼みがてらに謡ぞよめき鬱を散らした。後には秀吉を始めとして、尾張内府(信雄)、
黄門秀次、宇喜多秀家、蒲生氏郷などまでも、手拍子にて小歌の遊興が有ったが、躍りは未だ興行しなかった。

小田原の城中ではこれを聞いて、
「寄手は長陣を決意し、あのように遊楽に日を暮らしているのだ。この戦いは一体いつに成ったら
終わるのか。」
と気を屈し、心を労して、滅入らない者はいなかった。

(関八州古戦録)

小早川隆景の提言による小田原城包囲の様子。



343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 08:59:41.74 ID:lGo0pu+2
氏康「小唄踊りに紛れて敵を討つのだ!」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 12:55:17.35 ID:HeMAIOet
付け入られて落城か

漢家三傑に比すべき家臣

2019年11月01日 17:38

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 11:04:43.93 ID:p2MQ/1GV
豊臣秀吉は小田原への進軍の途中、小早川隆景を尾州清須に残したのを残念に思い、急にこれを呼びにやった。
この隆景は知勇兼備の勇士で、上杉景勝の臣である直江山城守兼続、堀左衛門督秀政と共に、漢家の三傑
(蕭何、張良、韓信)に比すべき大切な家臣であった。そこで駿河清見寺に滞在中、飛脚を飛ばしたのである。

これに隆景は取るものもとりあえず下向し、この日沼津に到着した。
その隆景の家来の中に、十八反の大母衣をかけた武士と、もう一人三間もある大指物を靡かせた武士がおり、
大変に人目を引いた。この事は秀吉の耳にも達し、彼らを垣間見ると、近習に命じてその名を尋ねさせた。

ところが近習が彼らに追いつき名を尋ねると、答えず黙って行ってしまった。近習は不快な顔で、戻ってきて
秀吉に報告した。秀吉は聞くと笑って

「軍中礼なしという。それは何か急な用があったか、それともお前が馬を降りずに名を聞いたのではないか?」

そう近習をたしなめ、別の近習に馬を降りて名を聞くように命じ、再度走らせた。この者が下馬して
この二人の武士に名を尋ねると、大母衣の侍は
小早川隆景が家臣、樽崎十兵衛である。」と答えた
大指物の侍は
「我は同じく隆景家臣、河田八郎である。」
と言った。


近習は帰ってこの事を報告すると、秀吉は「健気なる武士である」と感じ入った様子であった。

その後まもなく、樽崎は病死した。
河田八郎は隆景が死去した後は浪人となり、後に池田三左衛門輝政に仕え河田太郎左衛門と名乗り、
摂州難波の戦いで鉄の盾を振り回して戦い、見る者皆舌を巻いた。そして今なおこの勇士の名は、
人々の口に語り伝えられている。

(関八州古戦録)

小田原の陣における小早川隆景とその家臣について。



299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 15:09:00.72 ID:L131GxwK
鉄の盾を振り回して戦いってだけで戦国無双でキャラとして立てるな

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 15:32:38.63 ID:s7/hLmJu
名将言行録の天下の三陪臣の元ネタ?

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 20:57:17.02 ID:IclFUXMt
どっちが時間軸として先にあったかは知らないが
「本営前で下馬しなかった上に捨て台詞まで吐いた」、花房助兵衛は縛り首にしようとして、
この、「聞いた近習の礼儀がなってないから、陪臣の無礼を不問にした」ってエピソードと比べると
秀吉もそこまでご無体な老君主じゃなく、きちんと礼儀上は一貫してるように見えるな

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 23:52:40.98 ID:EXYR56kw
無言と罵詈雑言じゃ対応が変わるのは当然

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/02(土) 07:43:33.75 ID:dDdSc6I8
>>298
>鉄の盾を振り回して戦い
漫画みたいな超人がサラッと書いてあって草

三原城石垣の紋

2016年11月21日 17:33

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 00:43:23.79 ID:UCg95lBi
三原城石垣の紋

 備後の三原城の外郭、石垣にはいろいろな紋が刻みつけてある。
升形、瓢箪、円形、短冊等である。
その故は
織田右府が毛利氏を討たれた時、豊閤がすぐにこの城を築き諸方から普請の助役があり、
その助役に出たものを区別する印であるという。
京の大仏殿前の石垣も、献備した諸大名の紋を刻んだのと同じ事だという話だ。
三原城は今芸侯の臣浅野甲斐が守っている。

〔城の中は至って広大だ、と城内へ入った者が語った。
海手の方に行くと広くなり、山の方に行くと狭くなる。
これから扇城という。
今往来の道は直接城櫓の下を通る。
ここを扇の要という。
以前船で行っており、度々海上からこの城を見たが、成る程、海手からは櫓など数多く見えた。〕
(甲子夜話)


秀吉が築いたことになってる?



「恋う人は 沼のかなたよ ぬれぬれて わたるわれをば とがめたもうな」

2016年04月08日 14:00

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 10:47:21.12 ID:E4HK9LdF
毛利元就が厳島の合戦で陶氏の大軍を破った後、勢いに乗って次々と陶氏の城を落としていき、
ついには都濃郡須々万まで兵を進めたが、盆地にある須々万城は四方から川が流れ込む沼城で攻めにくい場所である。
毛利2万の軍勢を2つに分けて毛利元就が北側の緑山に陣を張り、息子の小早川隆景が正面から攻めることになったが、
城を守る大将の山崎伊豆守も勇将であったのでなかなか落ちなかった
弘治元年(1555年)の年末から攻め始めたが、にらみ合ったまま時は過ぎて、とうとう弘治3年の春となった

おぼろ月が見える春の夜、城のそばの沼地にあやしい人影が見えた。なんと水をたたえた沼の上を一人の若い女が
歩いていたのだ。それを見た攻め手の兵士たちは幽霊ではないかと騒ぎ立てたが、その若い女は沼の真ん中で立ち止まって
城へ向けて「おまえさまあ」と呼びかけ、「恋う人は 沼のかなたよ ぬれぬれて わたるわれをば とがめたもうな」と歌を詠んだ。
彼女は城内にいる恋人に会いにきたのである
相手が敵方の女と知った毛利側の兵たちは鉄砲でその女を撃とうとしたが、大将の小早川隆景はそれをやめさせて様子を見た。
すると城の中から鉄砲の音がして女は倒れて水しぶきがあがった。味方によって女は撃たれてしまったのだ。そこへ小早川隆景
大声で、「みなのもの、見たか。女の通ったところが浅瀬だ」と叫んだ。
その声で我にかえった兵士たちは、女が通ったところに竹のすのこや むしろなどを重ねて道をつくり、一気に沼を渡って攻め入った。
あれほど守り続けていた城もこの攻撃には耐え切れず、とうとう須々万城は陥落した。
恋人に会いたい一心だった女の振る舞いが自分や恋人だけでなく、須々万城まで滅ぼす悲劇を招いたわけだが、この女性を憎む話は
伝わっておらず、誰もがあわれなことだと噂しあったそうである



小早川隆景「私の父である毛利元就は」

2016年03月29日 17:41

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:18:00.92 ID:DemqXdSQ
北条討伐により、豊臣秀吉は小田原城を攻め立てたものの、小田原は音に聞こえた名城であり、
落城する様子は見えなかった。秀吉は小早川隆景を召して言った

「この城を数ヶ月攻めているが、未だに陥落しない。この上は総攻めにしようと思っているが、
お主はどう考える?」

隆景答えて
「総攻めと命ぜられましたら、即座に攻め落とす事でしょう。ただし、味方も多くの死傷者が出るでしょう。

私の父である毛利元就は、数か国を乗っ取った者でありますが、父は城を囲んで弱らせる時は、
城中を割る謀を巡らせました。この時、仮に我らと語らった者共が、我々に同心しなかったとしても、
語らったという事実は漏れ聞こえ、城内の者達にに疑心暗鬼を生じさせ、程なく落城におよび、
人も損ないません。

殊更、この小田原城は大軍が立て篭もっていますから、必ず人心を統制することは出来ません。
籠城において人が多すぎるのは保ち難いものであると聞き及んでいます。
御計略によって、程なく落城させることが出来るでしょう。」

秀吉はこれを聞くと「兼ねて聞いていたことに増して、毛利元就とは謀略深厚な人物であることだ。」と
感心した。

そうして秀吉は富田将監を召し
「汝は北条氏政の老臣、松田尾張守と親しいのだから、これこれの通り松田に申し伝えよ。」

富田は松田に遣いを立て、『御味方に属せば伊豆相模両国を与える。』と密かに伝えた。
松田はたちまち心を変じ、味方する旨を返事し、嫡子新六郎、次男左馬助を呼び寄せ斯くと語った。
しかし次男左馬助は思う仔細有り、密々に主君氏政・氏直にこの事訴えた。

氏政は大いに驚き、松田を誅殺した。しかしこれにより隆景が考えた通り、城中の諸将兵士、
軽卒に至るまで、各々が疑心を持つようになり、城中騒乱して、今や諸軍の心は個々に立ち隔たる
有様と成った。

このように成っては防戦を遂げることも出来そうになく、城を保つことは難しい事態と追い込まれたため、
氏政・氏直父子は独夫の義勢も尽き果て、是非なく剃髪して秀吉の軍門に下った。
これによって関八州は併呑され、小田原に滞留し残党を征した。

(伊逹秘鑑)



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:23:21.47 ID:JZcHoAiY
本阿弥「親や兄を裏切るなら松田憲秀が誅殺された時点で自害しろよ」

小早川隆景、城に入る

2015年04月09日 18:36

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/08(水) 21:45:32.14 ID:dF0Y/VTy
天文24年(1555)の厳島合戦。陶晴賢の本拠である岩国に集結した防長豊築四ヶ国の軍勢は、船数500艘にて
宇賀島を先手として厳島に押し渡った。

岩国勢は次第次第に渡海し、陶入道も塔ノ岡と云うところに陣取り、もしかすれば毛利勢の後ろ巻きも
あるだろうと、毛利方の籠もる宮尾城を昼夜の区別なく軍勢を立ち代わり立ち代わり攻め立てたため、
城中は水の手を掘り切られ難渋し、櫓の下にまで金掘を入れられ、もはや落城と思うこと度々であった。

この事が城中より毛利元就に注進されると、元就は廿日市という所に陣取っていたが、そこから
厳島の向かいである火立岩まで打ち出て、そこで様々に評定を行った。

この時、元就はその三男である小早川隆景を呼び出して命じた
「その方、どうにか謀って厳島の城に籠もり、城中の兵に、あと3日落城しないように
固く防ぐよう伝えるのだ。その3日のうちに、必ず後ろ巻をする。」

隆景はこれを聞くと、一言の異論もなく陣所に帰り、漁舟を準備させ、船に心得のある侍二人を
漁師、釣り人に変装させ、自分は船底に隠れ、数百艘の周防兵の船の間を、ゆるゆると魚を売りながら
通り過ぎ、磯近くになると、隆景も櫓を押して船を城の岸際に付けると、城内に駆け入った。

城内はこれに力を得て、喜ぶこと限りなかった。

(中国治乱記)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 04:43:07.38 ID:LrHymSvD
>>812
魚売りに来るとかよくある風景だったのかな

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 08:55:22.80 ID:1FdY/eOk
買う方は戦場に銭もってきてんのかなあ
死んだら全部とられるのによく分からん

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 09:28:18.74 ID:6urWHmJB
死に物狂いで戦って生き残ろう、あわよくば手柄も立てよう
その為にもまず旨いもん食って気合入れようって奴もいたんじゃね

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 10:23:33.66 ID:E2+xEx5L
陣借りつってな牢人が現地募集してるところに集まって銭と米を貰って参戦するんだわ
持ってないほうがおかしいぜ

あと銭米だけもらってトンズラしようとか馬鹿なことは考えるなよ
周りは人殺し連中だから卑怯者を殺すのに躊躇いはない

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 10:30:41.49 ID:E2+xEx5L
だいたい金庫なんてもんはねえんだ
留守中に誰が守ってくれるんよ
持っていくのが普通っしょ
女房ひとりなら強盗強姦されちゃって子が産れるってもんよ
だから秀吉に弟妹がいたってのはあり得る話

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 11:02:41.93 ID:XGMpCMnt
現代語訳雑兵物語みたいな

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 13:26:36.08 ID:98gd9DXO
この時代の商人は金儲けに命懸けてたって言うしな

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 19:46:09.00 ID:m2yjwN5M
人が集まれば商売ができるからな。
長陣の最中にはいろんな商人が出入りしてたみたいだし。
陣中で兵糧の代わりに銭を支給することもあったとか。

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 22:06:46.89 ID:xmXMS0v0
そういえば、小田原陣では私娼もだいぶ集まったらしいね

小早川隆景の宮島渡海

2014年10月09日 18:52

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/09(木) 13:23:18.72 ID:m0ZnlYZL
小早川隆景の宮島渡海

弘治元年(1555年)9月30日、毛利元就はこの日の夜に宮島へ渡海し、翌10月1日卯の刻(午前6時ころ)
一戦と定め、「諸軍士ことごとく元就の本陣へ馳せ来たれ」と、触れを出した。
その夜は突然の暴風雨にみまわれ、水夫も将士も船を出すのを躊躇う所であったが、元就はこれを
周の武王の殷討伐、源義経の屋島攻めをに準え(どちらも大風・雷雨の中敵を撃破している)兵を鼓舞。
悪天候の中見事に宮島へ渡海を果たす。

この時の元就3男、小早川隆景の宮島渡海の様子はまとめに既出のこの話

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3987.html

で、そのまま宮尾城に居残った説と、もう一つのエピソードが菊池寛の厳島合戦、また地元の話に伝わっている。

それによると、小早川隆景は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵軍の船の真っ只中を
正面から進み、敵軍に見咎められると

( ゚Д゚)「誰だ!?」
( ´∀`)「これは筑前の宗像秋月の船で、御味方にまいったものです。」
( ゚Д゚)「よし、通れ!」
(*´∀`)「ちょっと通りますね。」

と、そのまま敵の本陣がある塔の岡に上陸するとその塔の岡の坂下に陣を敷き、翌朝の元就率いる第一軍
と、毛利方の宮尾城に篭る兵と陶軍を挟撃する第二軍を率いる用意をしたという。



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/10(金) 08:09:17.28 ID:U100Efv5
合い言葉はどうしたんだw

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/10(金) 10:24:27.83 ID:HogXw4s9
>>25
陰徳太平記では出兵前に元就が自軍の合言葉と併せて陶軍の合言葉を集まった将士に伝えてる記述がある
ただし、陰徳太平記では隆景渡海の逸話は載ってなかったと思う。
暴風雨の中だったってんだから、兵が面倒くさがったか油断してたんかもね


小早川隆景、新城を血に染める

2014年06月23日 18:54

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 00:21:46.22 ID:IN14G2Ii
小早川隆景、新城を血に染める

発生時期や誅された人物がちとハッキリしない逸話ですが、小早川隆景にまつわる悪い話

元亀元年(1570年、ただし1590-92年の天正年間説もあります。)
小早川隆景は新高山城に変わる新たな居城、三原城の完成に伴い新城の完成を祝う祝宴を三原城で開催。
その宴に呼ばれた者の中に、1人の偉丈夫の姿があった。備後本郷城の城主、古志清左衛門豊長(元綱とも)
身の丈六尺三寸、大力にして驍勇無双といわれた豪の者である。
出雲佐々木氏を先祖とした古志一族の者であり、尼子攻めや隆景の宇和島攻めにも参加し活躍した(殺害が天正説の場合)という。
ある戦で味方が危ういと見るや、槍を取って大音声を上げ、瞬時に敵数人を突き倒して形勢を逆転させる程の武勇の持ち主である。

この三原城の宴の直前、彼の武勇を妬んで主君・隆景に古志豊長が敵方に通じていると讒訴する者があった。
隆景はこれを信じ、家臣に古志豊長を殺害するよう命じた。

酒宴もたけなわの頃、酔って寝てしまった豊長の首を、隆景に命じられた家臣が太刀で斬って落とす。
すると、胴を離れた豊長の首は目をかっと見開き血を吹きながら転がり、首を失った胴体は刀を抜いて
立ち上がり、数歩歩んでからその場に倒れた。

豊長の家臣達も1人を残して皆討ち取られ、唯1人生き残った井上大炊介という家臣がこの血の宴を脱出して
本郷城に急を知らせた。城に居た15歳になる豊長の嫡子は直ちに三原城へ赴き、隆景と対面して父の遺骸を受け取ると、
自らの城下に持ち帰り葬った。だが、その墓前で念仏を上げていたところを追っ手に討たれ、古志氏は断絶したという。
この無残な出来事を知った領民達は、口々に小早川の繁栄も長くはあるまいと噂したと言う。

(水野記、広島県史など)

なお、資料によっては古志氏はこの後も名を和田と変え、毛利家の家臣として存続したが、関ヶ原の戦後、毛利家の転封に
付いて行かず、武士としての歴史を終えたとも言われている。




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 10:46:24.93 ID:VmKU1xPn
前期なら讒言に惑わされる普通の人
後期なら養子のために御しえない人物を粛清しただけ
と思ったけど、“小早川秀秋”が誕生するのは文禄3年か

571 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/06/23(月) 11:44:40.79 ID:NFDW0WCH
他にも1572年に古志豊長と不仲の鷲尾山城の杉原氏が戦って小早川隆景の調停で仲直りしたと言う記録も有るし、
天正期には小早川隆景の国人衆に対する国替えに反発して秀吉に直訴しようとした古志豊長(元綱)が誅されたって資料も有ったり、天正20年8月の古志豊長の墓?も有ったりで色々と訳ワカメ
まぁ、逸話スレなので史実うんぬんはとりあえず置いときますかね。

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 13:18:03.78 ID:+4C+UDH6
備後の国人がどこと手を結び謀反を起こそうとするんですかw
元亀の線はないと思う

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 20:29:30.75 ID:lYZpV49i
出雲佐々木氏ってことは尼子と同族なんじゃない?
尼子の残党とか?

黒田家譜、小早川隆景の死を悼む

2014年01月10日 18:54

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 20:37:49.25 ID:3tYSG7jw
小早川隆景は、明日成すべき事は、必ず先ず今日の内にそのことを思案し、様々に想定して、
あらかじめ自分の行動を定めておけば、その時になって慌てることなく、粗略になることはないと
言われていた。これは古語に言う、『事前に定まれば躓かず、事前に定まれば困らない』と
同じ意味であろう。

この隆景という人は普段から虚言を言わず、少しのことであっても人と約束したことは
決して違えなかったため、人々は彼をただの人ではないと考えた。

備後の三原に隠居した後は、慶長元年に足利学校の玄修軒を招き、学問所を建設し孔子の像を安置し、
若者たちに学問を進めさせた。

ある時、緊急のことがあって、右筆に物を書かせたのだが、この時「急用のことである。
慌てず静かに書くべし」と言われた。

隆景はその気質、穏やかで静かであり、才知を外に輝かせるような事はしなかった。そのため
彼を知らない人には、最初に合うと心の鈍い、愚かな人のように映ったのだという。
古語に『大智は愚なるが如し』というが、これはこのことであろう。
また天性、智慮深密にして沈静温厚であった。

小早川隆景が亡くなった後、ある時安国寺恵瓊が、黒田如水の元に来て物語したことがあった。
このとき如水はこう言った。

「隆景殿が亡くなって、日本では賢人が絶えてしまった。この人の存在は毛利家にとって、
船にとっての船頭であった。彼によって中国はよく治められていた故に、亡くなられたと雖も、
今も生前と変わらないのは、ひとえに隆景殿の力の残りである。
例えば船を漕いでいて、にわかに船を止めたとしても、それ以前に艪によって作られた推進力が残っていて、
五間十間はその船は先に進む。これと同じことである。

毛利輝元殿も、隆景殿の遺産によって、今までは見事に見える。しかし今後は、輝元殿自身の思案が
大事になるだろう。」

小早川隆景には、普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。どのため、一巻も今に残っていない。

(黒田家譜)

殆ど聖賢小早川隆景伝と化した、黒田家譜の、隆景の死を悼む一節である。




51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 21:16:33.73 ID:GtHaNkcS
恵瓊とは仲が良かったんだろうか?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 23:37:34.60 ID:954hZ8z0
テルかわいそうだよテル

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 00:59:05.06 ID:iGZ+576x
>普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。

なんて勿体ないことを・・・後世の人のために残しといてくれりゃいいのに

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 08:32:56.58 ID:E1IeR+Pa
書など役に立たない、自分で考えることが大事とか思ってたんじゃね
実際そういうことあるしなw
万巻の書を読み尽くしてきたじっさまが賢人かというとめんどくせーだけの奴だったりしてw

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 10:31:08.13 ID:GlnBMz9t
テルはなんであそこで石田についたんだろ?あの段階でやっても負けるだろうに。秀頼の成人とタヌキが死ぬの待っていればもう一波乱あったのに

56 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/10(金) 10:48:18.57 ID:9+URQCys
波乱を望むテル→甦る鉄拳の記憶→仁愛精神→日本全体の安定をとる

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 11:39:14.47 ID:5wHJfV0W
>>55
そういう見通しが利かず、西軍についても結局積極的なのか寝返るのか
どっちつかずの中途半端な行動で終わるのがテルクオリティ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 12:55:04.68 ID:9gOATlvr
テルが石田に担ぎ出されたんじゃなくて
テルが石田をそそのかして、敗戦濃厚となるや石田や安国寺に全責任押し付けた、
ならむしろよく逃げたもんだと

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 13:06:21.19 ID:ykVO0jjq
お弁当に釣られたんだよ

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 13:40:39.32 ID:jRM3ntvJ
ウチなら味噌汁付けますw

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 14:04:55.09 ID:qNsCaAQ1
関ヶ原が終わったあと防長二カ国に減封されたし、家康はテルの野望と積極的な動きはちゃんと見抜いてたね

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 15:13:54.86 ID:Fuuj+/DJ
石田と大谷が蜂起する風聞が立ってたので、大坂の三奉行と淀殿の連名で徳川(とテル)に鎮圧命令が出されてたんだわ
それで本当に蜂起したとき、会津へ向かってる暗黒寺が近江あたりで勝手に引き返してテルを二重召還した
こういう事情でテルはすごい速さで大坂入りした有能な人物のようになった
さらにあろう事か三奉行が石田に説得され公式戦争と化し、テルも聞いてるうちにもっともな気がしてきたので大将に収まったようだ

小早川隆景「分別の肝要は」

2014年01月09日 18:55

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 19:59:01.84 ID:rdOem/Co
ある時、黒田長政小早川隆景に尋ねたことがあった
「分別というものは、どのようにすればよいのでしょうか?」

隆景は答えて
「それは仔細もありません。ただ、久しく思案して、遅く決断するのが良いのです。」

長政はまた質問した
「分別するにおいて、肝要なことはあるのでしょうか?」

隆景は答えた
「あります。分別の肝要は『仁愛』です。どんな事であっても決断するときに、あわれみの心をその基礎において分別すれば、
その思慮に理屈に合わないところがあったとしても、最も良い判断から遠く離れることはありません。

逆に、仁愛のない分別は、才覚がどれだけ巧みであったとしても、みな道理に合わない間違いである。そのように
知られるべきです。」

(黒田家譜)

小早川隆景の考える、決断に必要なことである。




41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 21:38:02.33 ID:nBPO5RDF
もはや聖書の一節と化してる

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 21:44:01.61 ID:AXECxBXf
論語にありそうな問答だよな

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 22:30:32.10 ID:gy+T4pSw
?「叔父上に仁愛なんて無いだろ」

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 00:11:32.93 ID:8qqHtktQ
隆景「まだ殴られ足り無いようだなTERU」

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 01:00:37.04 ID:H1szDz4j
馬鹿を折檻した後には鮭弁当でもいかがですか?

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 02:45:38.01 ID:HtPcuGZB
デカくなった家を纏める立派な当主となるべく鉄拳制裁も辞さない教育というのも、纏めきれずに潰れたら腹切るか、一族郎党路頭に迷うことになるからそれはそれで仁愛だからね、仕方ないね

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 13:22:00.35 ID:y4Sym+yU
絶対親父に聞けない質問....

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 18:26:43.94 ID:H1szDz4j
両川、雷神様、小十郎さん、ほかに戦国の教師はおったっけ?

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 18:40:47.25 ID:TKWnZxej
小田氏治・大友義鎮・畠山義継・一条兼定

小早川隆景「私が普段から気遣っているのは」

2014年01月05日 19:02

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/04(土) 20:14:39.46 ID:Y1UECYAQ
小早川隆景が金吾殿(秀秋)をその養子としたことを、安国寺恵瓊は聞きつけると隆景の元へと行き、
このように言った

「御養子の事が、貴公の御依頼のまま相済んだとの事、千秋萬歳、めでたく思います。
ですが、これは貴公御一代の誤りであります。
何故なら、御養子を取るのなら多く有る毛利の御一族の中から何れでも、国を治められる器量の人を
お見立てになって、これを養子とすれば、世の末まで筑前は中国と同じく毛利家の御分国となったのに、
他人である金吾殿を養子とし御国を譲るというのは、筑前国を人に差上げたのと同じことです。

貴公のことを、上様(秀吉)は別して御愛敬なされていますから、今新たに1ヶ国取るということも、
出来ない話ではないと思うのです。そのようにしてこそ、毛利家の勢力もいよいよ広くなるではありませんか。
だからこそ、私はこれは、大いなる思案違いだと考えるのです。」

隆景はこれを聞くと
「西堂(恵瓊)はそのように思われるか。それは私の考えとは間逆である。

私が普段から気遣っているのは、毛利家の分国は8ヶ国であり、その上私が筑前を拝領し、
おおよそ9ヶ国となった。毛利家には、国が甚だしく多すぎると言うことだ。これは却って、毛利家の禍と
なるのではないか?私はこのことだけは、大変心もとなく思っているのだ。

であるからこそ、我が国を毛利の子孫に譲らず、金吾に譲るのだ。
国を取るにも、種がなければ取れぬものだ。
私には今、その種は見つけられない。であれば、何を種として国を望むべきであろうか?
種無くして欲が深ければ身の災いとなるだろう。

私はもはや年寄りであるから、間もなくこの身も終わるだろう。私が死んだ後の毛利家が目に見えるようだ。
元清(穂井田元清:元就四男)が長命であれば、長久の謀もあるのだが、彼も病身であればあまり
頼ることは出来ない。相かまえて、種もなく国を望む野心を持ってはならない。」

恵瓊はこの道理に屈し
「短才なることを申しだしてしまい、面目を失いました。ですが後学のため、良きことを承りました。」
そう言って帰った。

しかしその後、恵瓊は隆景の戒めを忘れ、石田三成の乱に与し、輝元にこれを進めたため終には
その身を滅ぼし、輝元の分国を多く失う結果となったのである。

(黒田家譜)

「種」とは根拠や名分の事であろう。小早川隆景が、筑前を秀秋に譲る理由、である。




205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 00:17:35.54 ID:2DDxJeIU
黒田家譜の隆景信仰は突き抜けてるなー

小早川隆景、筑前高祖城攻め

2013年11月17日 19:25

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 16:49:15.19 ID:S/k83Ahu
天正14年(1586)12月、豊臣秀吉の九州役の中でのこと。

原田五郎右衛門尉信種は、筑前国怡土郡、高祖城の城主であったが、豊臣秀吉に従わなかった。

ために小早川隆景はこれを討つためその兵を出撃させ、高祖城へと向かった。
この時黒田官兵衛よりも、その家臣、久野四郎兵衛などが目付けとして派遣された。

原田は田舎侍であり、近隣の城持ちとの小競り合いで度々勝利したことを自慢し、
人数千、二千を大軍だと思い、豊臣秀吉の武威の盛んなるを知らなかった。

また上方の軍勢など、例え大軍であっても公家や長袖(僧侶)のような物であり、何ほどのこともないと
侮って、敵の来る前に、高祖城の前方にある大門河原にでて勢揃いをさせた。
その有り様といえば、ちぎれた鎧を着て、縄の手綱を付けた馬に乗る侍が数十騎も居ないような
ものであった。

そんな彼らが、上方勢の来るのを待ち構えていたが、寄せ手の兵は早良郡より日向山を越えて
高祖城を目指して押しかけてくる。

原田はこの軍勢を見て、思った以上の大軍であったため、これと対決するのは難しいと思い、
先ずは籠城して、薩摩からの後詰めが来るのを待とうと、軍勢を城内に入らせた。

このようにして、小早川隆景の軍勢は抵抗もなく高祖城の城下まで押し寄せたが、
鴾毛の馬に乗った武者が、城下に一番乗りをした。小早川隆景がはるかにこれを見て、
「あれは誰か」と問うと、黒田官兵衛の家臣が、「あれは久野四郎兵衛です」と答えた。

この様に城下に小早川の兵が押し寄せる中、原田五郎右衛門尉は本丸の上から
東の方を見渡すと、敵はなおも押し寄せると見え、博多の西、早良郡より城の麓まで
3,4里の間を大勢が続き、旗、指物、馬物の具をきらめかせて、隙間なく行軍していた。

原田はこれに肝をつぶし、評議にも及ばず降参を乞うた。
このため高祖城は城攻めをすることなく落ちた。

(黒田家譜)

筑前高祖城、軍勢を見ただけで落城す。というお話。




805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 17:00:09.94 ID:CoBgjqb3
塙直政「九州の名族だから、て原田氏名乗らせられたのに、ただの田舎侍とは」

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 17:09:26.67 ID:a0G8zjJr
原田はなぜいつも負け組に付くのか…

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 17:25:56.65 ID:Mx5XOPoH
長袖って坊主なの?吏僚のことじゃなかったっけ

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 19:43:34.22 ID:TSqbRm15
上方の軍勢かと思ったら中国方の軍勢だった
何を(ry

というか上方の軍勢が公家や僧侶の大軍だったらそれはそれで怖いw

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 23:41:04.10 ID:YjZYDJqw
>>808
近衛信尹「呼んだ?」

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/18(月) 02:33:06.55 ID:1pf0sxJS
>>806
最後は朝鮮出兵でフェードアウトするように消えたんだよな
サヤカ説もあるけど

輝元という佞なる人が

2013年11月09日 20:37

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:20:23.57 ID:u+d21jYc
備中高松城を取り囲む織田勢に、毛利三家が相対したときのこと。
小早川隆景は熟考のうえ、
「信長と和議を結ぶのが最良の選択だと思う。幸いなことに相手もそのつもりだ。
 なんといっても、大将(輝元)が頼りにならず、一門でさえ心替えをするようになってしまったこの時、
 元就様のご遺言の通り、降参した国を除いて十ヶ国を保持することで手を打てば、悪い条件ではない。
 元就様が天下を望むなかれと言い置かれたのも、輝元様をお見限りになって、
 後々のことをご遺言されたのだから、ここで和睦するべきだ」
と言って、和睦を決めた。

信長の訃報が届くと、隆景は安国寺恵瓊を連れて秀吉の陣所まで見舞いに訪れた。
秀吉は仰天し、門まで出迎えにやってきて、隆景の手を取って陣屋に入っていった。
「さすがは元就公のご子息ですな。武勇のことは申すまでもないが、
 実に今朝和談がととのったばかりだというのに、君子に二言はなしとはいうものの、
 こうしてすぐに私の陣所にお入りになるとは、天下無双の武勇です」
と、秀吉は褒めそやした。

隆景は、
「名が聞こえた人に実際に会ってみるとがっかりするものですが、
 貴殿に会ってみたら、天下をお取りになる相をなさっているので、この隆景、驚き入りました。
 このたびは必ず明智日向守を御退治なされ、貴殿が天下の主となられましょう。
 輝元という佞なる人が毛利家を継いでおりますので、
 貴家を守り立て、天下取りのお手伝いをいたします」
と笑った。

隆景はさらに、「とにかく大変なときですから加勢をします」と言って、
元就の時代に尼子との戦で先陣をつとめた渡辺石見守という武功の者を選び、
五百騎と毛利の軍旗を秀吉への加勢に差し出した。

(武家万代記)





666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:32:59.90 ID:bliTYw43
『武家万代記』って『三島海賊家戦日記』のことやね

恨みがあったのかしらないけれどこれなにかと輝元をディスってるんだよなw

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:35:12.81 ID:7nN1Vqk1
輝…

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:51:29.88 ID:KFFOoh1f
DQN眼竜は戦国全盛期の武将に比べると小物感が漂うが、
テルなんかと比べるととてつもない名将に見える

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:53:48.98 ID:u+d21jYc
気にかかった部分が一緒の方がいて安心したw

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 00:10:14.97 ID:/syMIewk
同じ史料で輝の治世は不行規で退屈なので中国四国衆は皆大あくびした、とか書かれてんだよな
村上海賊どんだけ輝ナメてたんだよとw

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:16:19.51 ID:B7DtpbVu
村上は全然毛利の忠臣じゃないよな、もっとビジネスライクな何か

大友のほうが儲かりそうなら味方するし秀吉が勝ちそうなら離反

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:41:25.23 ID:eDECr+vy
毛利が中国に勢力を伸ばすと海賊稼業の権益が後退したのか知らんが大内輝弘の周防上陸を阻止しようとした形跡が全くないしな

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:47:50.19 ID:/syMIewk
能島村上は大友にも筑前の権益認められてて親密だったからな
離反に怒った隆景に能島囲まれた時は大友が支援しようとした書状がある

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 02:07:56.31 ID:MlYzOzNE
来島村上が毛利を裏切って秀吉に裏切りそうだった時に「能島の村上も裏切るんじゃね?」という噂が
真しやかに流れてたから小早川隆景が全力で説得しに行ったらしいな。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 02:17:25.50 ID:B7DtpbVu
そもそも全然言うこと聞かねえから隆景に実力行使で能島から竹原に強制退去させられたよな

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 07:30:02.91 ID:kdPcn2jt
>>668
戦国期では断然輝元の方が大物なのにね
信長と全面戦争して大半の領地を保全できたというのは何気にすごいと思う

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 08:17:10.08 ID:RFiNRl1+
あれは、両川のおかげだろう。

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 09:42:00.88 ID:e+b9Cyht
光秀のおかげとしか

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 10:02:50.74 ID:nZcct/kw
輝「みなさんのおかげです」

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 16:22:22.52 ID:Yks+cYuL
両川「もうちょっとフクロにしときゃ関ヶ原もなかたのか?」

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 17:18:31.25 ID:Fb7FD56i
ラスボスが吉川恐怖症にかかって、反動で小早川スキーになるぐらいだからな

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 17:20:07.87 ID:uQo2Yytt
それは陰徳太平記脳すぎるんじゃ…

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 18:48:26.20 ID:4dwMUXKz
>>681
だって吉川さん「心の一方」使えるんだからそりゃ秀吉でもビビるよ
隙を突いても「背車刀」でカウンター喰らうし

漢南大将、小早川隆景の要害に攻め寄す

2013年04月24日 19:52

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:12:48.37 ID:sewJ/kWG
朝鮮の役でのこと

漢南大将(李如松)は本唐・新羅の軍勢を合わせ20万騎を率いて、小西行長の要害を百重にも取り巻き
即座に攻め落とすと、その余勢を駆って小早川隆景の要害に攻め寄せた。
いわゆる文禄2年1月26日(1593年2月27日)の、碧蹄館の戦いである。

この大軍に、城に近づけては敗れると判断し、小早川隆景は2万5千、立花宗茂は5千、
宇喜多秀家1万の軍勢で討って出た。
この時、御検使である石田三成、増田長盛、大谷吉継は都合8千の軍勢を率いており、小早川隆景
指揮下で先陣をした。立花宗茂はその下の備を担当し、この陣形で合戦は始まる。

異国の軍兵は弓鉄砲を隙間もなく撃ってきて入り乱れ、”ちぎり”という物を1万も2万も撃って回った。
これに当たったものは、たやすく起き上がることが出来なかった。

双方、太鼓や鐘を打ち鳴らし、鬨の声をつくりかけながら攻め合い、小早川の軍勢も立花の軍兵も、
息を限りに戦ったが、敵は大軍であり、新手を次々と入れ替えつつ戦うため、小早川・立花の軍勢は、
もはや人馬ともに疲れはてたように見えた、その時である

備前宰相(宇喜多秀家)の1万余騎が、一塊になってどうと突き懸る。
これに漢南勢は押し破られ、終に敗軍した。
この時討ち取られたもの3万あまり、ちぎり、刀槍を始めとして、鉄砲や石火矢までも捨てて
逃げ帰った。

異国の具足というものは、黒鉄を平たく伸ばし、金属の鎖で繋ぎ合わせたものを、ただ地の着物に
貼り付けただけのものであった。雑兵にいたっては黒鉄の平板を繋ぎ合わせたものを、そのまま着ていた。
大将や騎馬武者のものは、五色の漆で見事に塗り分けられていた。

兜も、ただ黒鉄を伸ばして、鍋の縁を反らせたような形にして、これをかぶっていた。

馬乗りは、獣の皮を股引のように拵えて、これを鞍にしっかりと括りつけ、乗る時はそれに、
太ももまで入れ込んでいた。
この中には、馬に乗らないときには兵糧も入れられ、
また草臥れて馬の上で寝る時、あるいは一斉に駈け出して山坂を自在に昇り降りをするときも、
馬から落ちるような危ないことは些かもなく、実に便利で利点の多いものであった。
これによって彼らは、馬上で弓鉄砲も自在に撃ちはなした。
(義殘後覺)




104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:02:51.17 ID:8PRpe9RV
>>102
”ちぎり”って何?
投石系の武器?

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:18:35.15 ID:3mSfHB9G
秀家は甘い坊ちゃんと言われてるけど若い時から戦いぶりは見事なんだよな
良い家臣が揃っていたんだろうけど宇喜田騒動後の関が原でもきっちり戦っていたし

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:25:14.98 ID:7RO21V+k
半分程度の福島と良い勝負っぽいけどなぁ > 関ヶ原の宇喜多

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:30:59.89 ID:sewJ/kWG
>>104
調べてみたけどよく解らなかったです。すいません。

>>106
宇喜多騒動で家中がボロボロに成って、関ヶ原の時は慌てて雇った浪人衆が中心で、
組織としてかなり弱体化していたのは確かみたいね

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:16:24.43 ID:KfKIui8O
>>104
乳切棒サイズの振りずんばいみたいな物を想像した

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:58:27.68 ID:+v3PqY6p
フロイスの「日本史」に明軍の装甲に苦戦する日本軍の話があったが
異国の鎧は興味深いものだったんだろうか

115 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/24(水) 14:40:59.52 ID:aP/+VbRj
宇喜多備前中納言八郎秀家、日本軍の危機を聞き、八丈島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l  


小早川隆景の遺言に

2013年04月19日 19:50

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 17:41:55.02 ID:vmexdl0E
慶長2年(1597)に小早川隆景が亡くなったが、この時遺言で、

『我が領内の小郡という地を、黒田如水・長政親子が、茶屋にしたいから借り受けたいと申し込んでくるだろう。
これは裏に理由のある事なので、絶対に貸してはならない。』

と、申し置いた。

その後一両年過ぎて、案の定黒田親子から、小郡を借りたいと申し込んできた。
名将というものは、予想も出来ないようなことまで察知する知恵があるのだろう。
どのような理由であっても貸与は難しいと答えたそうである。
(紀伊國物語)




321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 18:21:19.23 ID:+mKb8Ivy
そんなのを口実にして借りられるものなのか
わざわざ遺言して止めるってことは

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 18:56:49.19 ID:k5rIkgFl
中津から博多をうかがうにはいい場所だなw

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 19:00:50.93 ID:HBysBHcO
実効支配ちうやつですか

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 23:44:20.92 ID:m15pUdBk
ガイシュツだな。

ちなみに上京する際の休憩場所に借りたいと申し出てる

釜山喧嘩の事

2013年03月31日 19:06

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 17:44:33.83 ID:OOy8AWo+

朝鮮の役の時のこと
釜山の城の普請が完成したことにより、日本軍の諸将はそこに集まった。

ここに毛利家の船大将である野島、来島、粟屋とといった人々も合ったが、折節雨が強く降っており、
徒然に野島と来島は碁を囲み、粟屋を始めとして両島の一族これを見物した。

この時、来島の与力が碁の手を助言した所、野島は激怒した

「大事の所で何を助言しているのか!碁というものは見落としを利するものではないか!」

しかし木島の側はこれに反論した。
すると野島、「助言面を張るべきという、よって御辺の面を張り叩く!」

この言葉に来島

「どうして助言したからといって、侍が面を張られて、おめおめと引き下がれようか!」

「要らぬ説明を尽くすよりも、この方が遠慮するようになるだろう!」

すると来島、侮辱するように
「御辺が張った後が腫れて、殊の外痛むぞ!」と言い出した。

これに野島、即座に刀を引きぬいて頭に向かって斬りつける。
来島も抜き合わせ「やるまじ!」と戦う所に、野島の与力斬って懸り、来島の与力も
そこに打ち掛かる。双方入り乱れ散々な斬り合いとなった。

こうして両派に分かれてひしめき大きな騒ぎとなった所、報告を受けた小早川隆景は激しく怒り

「何と言う憎き奴原か!この上もないような狼藉を起こし、何と言う曲事であろう!
人数を寄せて両方共、一人残らず召し捕れ!」

そう命じて一気に押し寄せ捕らえられた。
そして日本に撤退したあと、一同処罰を受けたとのことである。
(義殘後覺)




128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 18:37:39.17 ID:wVBB2kIV
二人共あんまりヘタなんで、ポロッと言葉が出ちゃったんじゃないの

二人の騎将が大きな背旗を負い

2012年11月27日 19:50

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 23:33:33.87 ID:ORpphC3O
二人の騎将が大きな背旗を負い、大保衣を佩びて陣営の前を過ぎるのを見た
豊臣秀吉は使者に二人の名を問わせた。

使者は馳せて「主将の命である。各々名を伝えよ」と言ったが一騎も答えない。
使者が反命すると秀吉は「お前は馬を降りずに問うたから軍礼を失したのだ。
そりゃあ答えはせん」とさらに別の使者を遣わした。

二騎は馬を降りて小早川隆景の家臣、河田八助楢崎十兵と名乗った。後に
二人は征韓の役で隆景に従いしばしば明兵と戦った。河田の背旗、楢崎の保衣は
ともに雄々しく偉大にして並々ではなかったので、その名を異国に輝かした。

――『近古史談』




599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 09:05:29.22 ID:WR+T6pHf
下馬するしないでけっこう揉めるよなあ
でも、礼というよりもメンツといわれたほうがしっくりするような気も

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 10:37:14.67 ID:Qx1w0kiF
ぶっちゃけこの礼儀知らずの使者はよく斬られずに済んだもんだ。

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 10:43:18.94 ID:SwUk9bgw
豊臣直属を斬れるわけがない

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 12:25:17.12 ID:LWIGGGqm
この下馬する・しないってのはホントに火種になるよな
使者も戦闘中にいちいち下馬してものをいうなんて、って気持ちがあるんだろう

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 12:27:40.80 ID:cXcv4PNS
長尾景虎改め上杉政虎が...

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 15:32:08.28 ID:eahOQBlN
島津豊久「○★下馬×△○~○ごわす!」

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 15:37:34.00 ID:NJOxbHj5
成田さん「ちょっくら水堀数本増やしてくるノシ」

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:24:28.28 ID:XOBI6aC/
現代で言えば車の窓から顔だけだして要件を伝えるようなものかね

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:25:43.66 ID:CgL4870A
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1895.html
いまさらだが既出?

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:54:29.04 ID:UbDSylm2
相手も騎馬なんだから別にいいじゃんと思っちゃうけど、そういうもんじゃないのか

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 22:14:25.36 ID:Lzd8dpMl
もともとは敵意のなさを示す動作だったのが礼儀作法化していったのかもな
挨拶の起源もそんなとこだろうと思ってる

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 22:45:46.92 ID:UUbXdFOe
右手の手首を左手で握りながらその右手で相手の左手首を、
双方で掴むのが敵意のない戦国時代の挨拶だっけ?