三原城石垣の紋

2016年11月21日 17:33

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 00:43:23.79 ID:UCg95lBi
三原城石垣の紋

 備後の三原城の外郭、石垣にはいろいろな紋が刻みつけてある。
升形、瓢箪、円形、短冊等である。
その故は
織田右府が毛利氏を討たれた時、豊閤がすぐにこの城を築き諸方から普請の助役があり、
その助役に出たものを区別する印であるという。
京の大仏殿前の石垣も、献備した諸大名の紋を刻んだのと同じ事だという話だ。
三原城は今芸侯の臣浅野甲斐が守っている。

〔城の中は至って広大だ、と城内へ入った者が語った。
海手の方に行くと広くなり、山の方に行くと狭くなる。
これから扇城という。
今往来の道は直接城櫓の下を通る。
ここを扇の要という。
以前船で行っており、度々海上からこの城を見たが、成る程、海手からは櫓など数多く見えた。〕
(甲子夜話)


秀吉が築いたことになってる?



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「恋う人は 沼のかなたよ ぬれぬれて わたるわれをば とがめたもうな」

2016年04月08日 14:00

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 10:47:21.12 ID:E4HK9LdF
毛利元就が厳島の合戦で陶氏の大軍を破った後、勢いに乗って次々と陶氏の城を落としていき、
ついには都濃郡須々万まで兵を進めたが、盆地にある須々万城は四方から川が流れ込む沼城で攻めにくい場所である。
毛利2万の軍勢を2つに分けて毛利元就が北側の緑山に陣を張り、息子の小早川隆景が正面から攻めることになったが、
城を守る大将の山崎伊豆守も勇将であったのでなかなか落ちなかった
弘治元年(1555年)の年末から攻め始めたが、にらみ合ったまま時は過ぎて、とうとう弘治3年の春となった

おぼろ月が見える春の夜、城のそばの沼地にあやしい人影が見えた。なんと水をたたえた沼の上を一人の若い女が
歩いていたのだ。それを見た攻め手の兵士たちは幽霊ではないかと騒ぎ立てたが、その若い女は沼の真ん中で立ち止まって
城へ向けて「おまえさまあ」と呼びかけ、「恋う人は 沼のかなたよ ぬれぬれて わたるわれをば とがめたもうな」と歌を詠んだ。
彼女は城内にいる恋人に会いにきたのである
相手が敵方の女と知った毛利側の兵たちは鉄砲でその女を撃とうとしたが、大将の小早川隆景はそれをやめさせて様子を見た。
すると城の中から鉄砲の音がして女は倒れて水しぶきがあがった。味方によって女は撃たれてしまったのだ。そこへ小早川隆景
大声で、「みなのもの、見たか。女の通ったところが浅瀬だ」と叫んだ。
その声で我にかえった兵士たちは、女が通ったところに竹のすのこや むしろなどを重ねて道をつくり、一気に沼を渡って攻め入った。
あれほど守り続けていた城もこの攻撃には耐え切れず、とうとう須々万城は陥落した。
恋人に会いたい一心だった女の振る舞いが自分や恋人だけでなく、須々万城まで滅ぼす悲劇を招いたわけだが、この女性を憎む話は
伝わっておらず、誰もがあわれなことだと噂しあったそうである



小早川隆景「私の父である毛利元就は」

2016年03月29日 17:41

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:18:00.92 ID:DemqXdSQ
北条討伐により、豊臣秀吉は小田原城を攻め立てたものの、小田原は音に聞こえた名城であり、
落城する様子は見えなかった。秀吉は小早川隆景を召して言った

「この城を数ヶ月攻めているが、未だに陥落しない。この上は総攻めにしようと思っているが、
お主はどう考える?」

隆景答えて
「総攻めと命ぜられましたら、即座に攻め落とす事でしょう。ただし、味方も多くの死傷者が出るでしょう。

私の父である毛利元就は、数か国を乗っ取った者でありますが、父は城を囲んで弱らせる時は、
城中を割る謀を巡らせました。この時、仮に我らと語らった者共が、我々に同心しなかったとしても、
語らったという事実は漏れ聞こえ、城内の者達にに疑心暗鬼を生じさせ、程なく落城におよび、
人も損ないません。

殊更、この小田原城は大軍が立て篭もっていますから、必ず人心を統制することは出来ません。
籠城において人が多すぎるのは保ち難いものであると聞き及んでいます。
御計略によって、程なく落城させることが出来るでしょう。」

秀吉はこれを聞くと「兼ねて聞いていたことに増して、毛利元就とは謀略深厚な人物であることだ。」と
感心した。

そうして秀吉は富田将監を召し
「汝は北条氏政の老臣、松田尾張守と親しいのだから、これこれの通り松田に申し伝えよ。」

富田は松田に遣いを立て、『御味方に属せば伊豆相模両国を与える。』と密かに伝えた。
松田はたちまち心を変じ、味方する旨を返事し、嫡子新六郎、次男左馬助を呼び寄せ斯くと語った。
しかし次男左馬助は思う仔細有り、密々に主君氏政・氏直にこの事訴えた。

氏政は大いに驚き、松田を誅殺した。しかしこれにより隆景が考えた通り、城中の諸将兵士、
軽卒に至るまで、各々が疑心を持つようになり、城中騒乱して、今や諸軍の心は個々に立ち隔たる
有様と成った。

このように成っては防戦を遂げることも出来そうになく、城を保つことは難しい事態と追い込まれたため、
氏政・氏直父子は独夫の義勢も尽き果て、是非なく剃髪して秀吉の軍門に下った。
これによって関八州は併呑され、小田原に滞留し残党を征した。

(伊逹秘鑑)



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:23:21.47 ID:JZcHoAiY
本阿弥「親や兄を裏切るなら松田憲秀が誅殺された時点で自害しろよ」

小早川隆景、城に入る

2015年04月09日 18:36

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/08(水) 21:45:32.14 ID:dF0Y/VTy
天文24年(1555)の厳島合戦。陶晴賢の本拠である岩国に集結した防長豊築四ヶ国の軍勢は、船数500艘にて
宇賀島を先手として厳島に押し渡った。

岩国勢は次第次第に渡海し、陶入道も塔ノ岡と云うところに陣取り、もしかすれば毛利勢の後ろ巻きも
あるだろうと、毛利方の籠もる宮尾城を昼夜の区別なく軍勢を立ち代わり立ち代わり攻め立てたため、
城中は水の手を掘り切られ難渋し、櫓の下にまで金掘を入れられ、もはや落城と思うこと度々であった。

この事が城中より毛利元就に注進されると、元就は廿日市という所に陣取っていたが、そこから
厳島の向かいである火立岩まで打ち出て、そこで様々に評定を行った。

この時、元就はその三男である小早川隆景を呼び出して命じた
「その方、どうにか謀って厳島の城に籠もり、城中の兵に、あと3日落城しないように
固く防ぐよう伝えるのだ。その3日のうちに、必ず後ろ巻をする。」

隆景はこれを聞くと、一言の異論もなく陣所に帰り、漁舟を準備させ、船に心得のある侍二人を
漁師、釣り人に変装させ、自分は船底に隠れ、数百艘の周防兵の船の間を、ゆるゆると魚を売りながら
通り過ぎ、磯近くになると、隆景も櫓を押して船を城の岸際に付けると、城内に駆け入った。

城内はこれに力を得て、喜ぶこと限りなかった。

(中国治乱記)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 04:43:07.38 ID:LrHymSvD
>>812
魚売りに来るとかよくある風景だったのかな

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 08:55:22.80 ID:1FdY/eOk
買う方は戦場に銭もってきてんのかなあ
死んだら全部とられるのによく分からん

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 09:28:18.74 ID:6urWHmJB
死に物狂いで戦って生き残ろう、あわよくば手柄も立てよう
その為にもまず旨いもん食って気合入れようって奴もいたんじゃね

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 10:23:33.66 ID:E2+xEx5L
陣借りつってな牢人が現地募集してるところに集まって銭と米を貰って参戦するんだわ
持ってないほうがおかしいぜ

あと銭米だけもらってトンズラしようとか馬鹿なことは考えるなよ
周りは人殺し連中だから卑怯者を殺すのに躊躇いはない

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 10:30:41.49 ID:E2+xEx5L
だいたい金庫なんてもんはねえんだ
留守中に誰が守ってくれるんよ
持っていくのが普通っしょ
女房ひとりなら強盗強姦されちゃって子が産れるってもんよ
だから秀吉に弟妹がいたってのはあり得る話

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 11:02:41.93 ID:XGMpCMnt
現代語訳雑兵物語みたいな

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 13:26:36.08 ID:98gd9DXO
この時代の商人は金儲けに命懸けてたって言うしな

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 19:46:09.00 ID:m2yjwN5M
人が集まれば商売ができるからな。
長陣の最中にはいろんな商人が出入りしてたみたいだし。
陣中で兵糧の代わりに銭を支給することもあったとか。

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 22:06:46.89 ID:xmXMS0v0
そういえば、小田原陣では私娼もだいぶ集まったらしいね

小早川隆景の宮島渡海

2014年10月09日 18:52

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/09(木) 13:23:18.72 ID:m0ZnlYZL
小早川隆景の宮島渡海

弘治元年(1555年)9月30日、毛利元就はこの日の夜に宮島へ渡海し、翌10月1日卯の刻(午前6時ころ)
一戦と定め、「諸軍士ことごとく元就の本陣へ馳せ来たれ」と、触れを出した。
その夜は突然の暴風雨にみまわれ、水夫も将士も船を出すのを躊躇う所であったが、元就はこれを
周の武王の殷討伐、源義経の屋島攻めをに準え(どちらも大風・雷雨の中敵を撃破している)兵を鼓舞。
悪天候の中見事に宮島へ渡海を果たす。

この時の元就3男、小早川隆景の宮島渡海の様子はまとめに既出のこの話

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3987.html

で、そのまま宮尾城に居残った説と、もう一つのエピソードが菊池寛の厳島合戦、また地元の話に伝わっている。

それによると、小早川隆景は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵軍の船の真っ只中を
正面から進み、敵軍に見咎められると

( ゚Д゚)「誰だ!?」
( ´∀`)「これは筑前の宗像秋月の船で、御味方にまいったものです。」
( ゚Д゚)「よし、通れ!」
(*´∀`)「ちょっと通りますね。」

と、そのまま敵の本陣がある塔の岡に上陸するとその塔の岡の坂下に陣を敷き、翌朝の元就率いる第一軍
と、毛利方の宮尾城に篭る兵と陶軍を挟撃する第二軍を率いる用意をしたという。



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/10(金) 08:09:17.28 ID:U100Efv5
合い言葉はどうしたんだw

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/10(金) 10:24:27.83 ID:HogXw4s9
>>25
陰徳太平記では出兵前に元就が自軍の合言葉と併せて陶軍の合言葉を集まった将士に伝えてる記述がある
ただし、陰徳太平記では隆景渡海の逸話は載ってなかったと思う。
暴風雨の中だったってんだから、兵が面倒くさがったか油断してたんかもね


小早川隆景、新城を血に染める

2014年06月23日 18:54

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 00:21:46.22 ID:IN14G2Ii
小早川隆景、新城を血に染める

発生時期や誅された人物がちとハッキリしない逸話ですが、小早川隆景にまつわる悪い話

元亀元年(1570年、ただし1590-92年の天正年間説もあります。)
小早川隆景は新高山城に変わる新たな居城、三原城の完成に伴い新城の完成を祝う祝宴を三原城で開催。
その宴に呼ばれた者の中に、1人の偉丈夫の姿があった。備後本郷城の城主、古志清左衛門豊長(元綱とも)
身の丈六尺三寸、大力にして驍勇無双といわれた豪の者である。
出雲佐々木氏を先祖とした古志一族の者であり、尼子攻めや隆景の宇和島攻めにも参加し活躍した(殺害が天正説の場合)という。
ある戦で味方が危ういと見るや、槍を取って大音声を上げ、瞬時に敵数人を突き倒して形勢を逆転させる程の武勇の持ち主である。

この三原城の宴の直前、彼の武勇を妬んで主君・隆景に古志豊長が敵方に通じていると讒訴する者があった。
隆景はこれを信じ、家臣に古志豊長を殺害するよう命じた。

酒宴もたけなわの頃、酔って寝てしまった豊長の首を、隆景に命じられた家臣が太刀で斬って落とす。
すると、胴を離れた豊長の首は目をかっと見開き血を吹きながら転がり、首を失った胴体は刀を抜いて
立ち上がり、数歩歩んでからその場に倒れた。

豊長の家臣達も1人を残して皆討ち取られ、唯1人生き残った井上大炊介という家臣がこの血の宴を脱出して
本郷城に急を知らせた。城に居た15歳になる豊長の嫡子は直ちに三原城へ赴き、隆景と対面して父の遺骸を受け取ると、
自らの城下に持ち帰り葬った。だが、その墓前で念仏を上げていたところを追っ手に討たれ、古志氏は断絶したという。
この無残な出来事を知った領民達は、口々に小早川の繁栄も長くはあるまいと噂したと言う。

(水野記、広島県史など)

なお、資料によっては古志氏はこの後も名を和田と変え、毛利家の家臣として存続したが、関ヶ原の戦後、毛利家の転封に
付いて行かず、武士としての歴史を終えたとも言われている。




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 10:46:24.93 ID:VmKU1xPn
前期なら讒言に惑わされる普通の人
後期なら養子のために御しえない人物を粛清しただけ
と思ったけど、“小早川秀秋”が誕生するのは文禄3年か

571 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/06/23(月) 11:44:40.79 ID:NFDW0WCH
他にも1572年に古志豊長と不仲の鷲尾山城の杉原氏が戦って小早川隆景の調停で仲直りしたと言う記録も有るし、
天正期には小早川隆景の国人衆に対する国替えに反発して秀吉に直訴しようとした古志豊長(元綱)が誅されたって資料も有ったり、天正20年8月の古志豊長の墓?も有ったりで色々と訳ワカメ
まぁ、逸話スレなので史実うんぬんはとりあえず置いときますかね。

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 13:18:03.78 ID:+4C+UDH6
備後の国人がどこと手を結び謀反を起こそうとするんですかw
元亀の線はないと思う

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 20:29:30.75 ID:lYZpV49i
出雲佐々木氏ってことは尼子と同族なんじゃない?
尼子の残党とか?

黒田家譜、小早川隆景の死を悼む

2014年01月10日 18:54

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 20:37:49.25 ID:3tYSG7jw
小早川隆景は、明日成すべき事は、必ず先ず今日の内にそのことを思案し、様々に想定して、
あらかじめ自分の行動を定めておけば、その時になって慌てることなく、粗略になることはないと
言われていた。これは古語に言う、『事前に定まれば躓かず、事前に定まれば困らない』と
同じ意味であろう。

この隆景という人は普段から虚言を言わず、少しのことであっても人と約束したことは
決して違えなかったため、人々は彼をただの人ではないと考えた。

備後の三原に隠居した後は、慶長元年に足利学校の玄修軒を招き、学問所を建設し孔子の像を安置し、
若者たちに学問を進めさせた。

ある時、緊急のことがあって、右筆に物を書かせたのだが、この時「急用のことである。
慌てず静かに書くべし」と言われた。

隆景はその気質、穏やかで静かであり、才知を外に輝かせるような事はしなかった。そのため
彼を知らない人には、最初に合うと心の鈍い、愚かな人のように映ったのだという。
古語に『大智は愚なるが如し』というが、これはこのことであろう。
また天性、智慮深密にして沈静温厚であった。

小早川隆景が亡くなった後、ある時安国寺恵瓊が、黒田如水の元に来て物語したことがあった。
このとき如水はこう言った。

「隆景殿が亡くなって、日本では賢人が絶えてしまった。この人の存在は毛利家にとって、
船にとっての船頭であった。彼によって中国はよく治められていた故に、亡くなられたと雖も、
今も生前と変わらないのは、ひとえに隆景殿の力の残りである。
例えば船を漕いでいて、にわかに船を止めたとしても、それ以前に艪によって作られた推進力が残っていて、
五間十間はその船は先に進む。これと同じことである。

毛利輝元殿も、隆景殿の遺産によって、今までは見事に見える。しかし今後は、輝元殿自身の思案が
大事になるだろう。」

小早川隆景には、普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。どのため、一巻も今に残っていない。

(黒田家譜)

殆ど聖賢小早川隆景伝と化した、黒田家譜の、隆景の死を悼む一節である。




51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 21:16:33.73 ID:GtHaNkcS
恵瓊とは仲が良かったんだろうか?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 23:37:34.60 ID:954hZ8z0
テルかわいそうだよテル

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 00:59:05.06 ID:iGZ+576x
>普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。

なんて勿体ないことを・・・後世の人のために残しといてくれりゃいいのに

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 08:32:56.58 ID:E1IeR+Pa
書など役に立たない、自分で考えることが大事とか思ってたんじゃね
実際そういうことあるしなw
万巻の書を読み尽くしてきたじっさまが賢人かというとめんどくせーだけの奴だったりしてw

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 10:31:08.13 ID:GlnBMz9t
テルはなんであそこで石田についたんだろ?あの段階でやっても負けるだろうに。秀頼の成人とタヌキが死ぬの待っていればもう一波乱あったのに

56 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/10(金) 10:48:18.57 ID:9+URQCys
波乱を望むテル→甦る鉄拳の記憶→仁愛精神→日本全体の安定をとる

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 11:39:14.47 ID:5wHJfV0W
>>55
そういう見通しが利かず、西軍についても結局積極的なのか寝返るのか
どっちつかずの中途半端な行動で終わるのがテルクオリティ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 12:55:04.68 ID:9gOATlvr
テルが石田に担ぎ出されたんじゃなくて
テルが石田をそそのかして、敗戦濃厚となるや石田や安国寺に全責任押し付けた、
ならむしろよく逃げたもんだと

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 13:06:21.19 ID:ykVO0jjq
お弁当に釣られたんだよ

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 13:40:39.32 ID:jRM3ntvJ
ウチなら味噌汁付けますw

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 14:04:55.09 ID:qNsCaAQ1
関ヶ原が終わったあと防長二カ国に減封されたし、家康はテルの野望と積極的な動きはちゃんと見抜いてたね

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 15:13:54.86 ID:Fuuj+/DJ
石田と大谷が蜂起する風聞が立ってたので、大坂の三奉行と淀殿の連名で徳川(とテル)に鎮圧命令が出されてたんだわ
それで本当に蜂起したとき、会津へ向かってる暗黒寺が近江あたりで勝手に引き返してテルを二重召還した
こういう事情でテルはすごい速さで大坂入りした有能な人物のようになった
さらにあろう事か三奉行が石田に説得され公式戦争と化し、テルも聞いてるうちにもっともな気がしてきたので大将に収まったようだ

小早川隆景「分別の肝要は」

2014年01月09日 18:55

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 19:59:01.84 ID:rdOem/Co
ある時、黒田長政小早川隆景に尋ねたことがあった
「分別というものは、どのようにすればよいのでしょうか?」

隆景は答えて
「それは仔細もありません。ただ、久しく思案して、遅く決断するのが良いのです。」

長政はまた質問した
「分別するにおいて、肝要なことはあるのでしょうか?」

隆景は答えた
「あります。分別の肝要は『仁愛』です。どんな事であっても決断するときに、あわれみの心をその基礎において分別すれば、
その思慮に理屈に合わないところがあったとしても、最も良い判断から遠く離れることはありません。

逆に、仁愛のない分別は、才覚がどれだけ巧みであったとしても、みな道理に合わない間違いである。そのように
知られるべきです。」

(黒田家譜)

小早川隆景の考える、決断に必要なことである。




41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 21:38:02.33 ID:nBPO5RDF
もはや聖書の一節と化してる

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 21:44:01.61 ID:AXECxBXf
論語にありそうな問答だよな

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 22:30:32.10 ID:gy+T4pSw
?「叔父上に仁愛なんて無いだろ」

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 00:11:32.93 ID:8qqHtktQ
隆景「まだ殴られ足り無いようだなTERU」

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 01:00:37.04 ID:H1szDz4j
馬鹿を折檻した後には鮭弁当でもいかがですか?

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 02:45:38.01 ID:HtPcuGZB
デカくなった家を纏める立派な当主となるべく鉄拳制裁も辞さない教育というのも、纏めきれずに潰れたら腹切るか、一族郎党路頭に迷うことになるからそれはそれで仁愛だからね、仕方ないね

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 13:22:00.35 ID:y4Sym+yU
絶対親父に聞けない質問....

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 18:26:43.94 ID:H1szDz4j
両川、雷神様、小十郎さん、ほかに戦国の教師はおったっけ?

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 18:40:47.25 ID:TKWnZxej
小田氏治・大友義鎮・畠山義継・一条兼定

小早川隆景「私が普段から気遣っているのは」

2014年01月05日 19:02

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/04(土) 20:14:39.46 ID:Y1UECYAQ
小早川隆景が金吾殿(秀秋)をその養子としたことを、安国寺恵瓊は聞きつけると隆景の元へと行き、
このように言った

「御養子の事が、貴公の御依頼のまま相済んだとの事、千秋萬歳、めでたく思います。
ですが、これは貴公御一代の誤りであります。
何故なら、御養子を取るのなら多く有る毛利の御一族の中から何れでも、国を治められる器量の人を
お見立てになって、これを養子とすれば、世の末まで筑前は中国と同じく毛利家の御分国となったのに、
他人である金吾殿を養子とし御国を譲るというのは、筑前国を人に差上げたのと同じことです。

貴公のことを、上様(秀吉)は別して御愛敬なされていますから、今新たに1ヶ国取るということも、
出来ない話ではないと思うのです。そのようにしてこそ、毛利家の勢力もいよいよ広くなるではありませんか。
だからこそ、私はこれは、大いなる思案違いだと考えるのです。」

隆景はこれを聞くと
「西堂(恵瓊)はそのように思われるか。それは私の考えとは間逆である。

私が普段から気遣っているのは、毛利家の分国は8ヶ国であり、その上私が筑前を拝領し、
おおよそ9ヶ国となった。毛利家には、国が甚だしく多すぎると言うことだ。これは却って、毛利家の禍と
なるのではないか?私はこのことだけは、大変心もとなく思っているのだ。

であるからこそ、我が国を毛利の子孫に譲らず、金吾に譲るのだ。
国を取るにも、種がなければ取れぬものだ。
私には今、その種は見つけられない。であれば、何を種として国を望むべきであろうか?
種無くして欲が深ければ身の災いとなるだろう。

私はもはや年寄りであるから、間もなくこの身も終わるだろう。私が死んだ後の毛利家が目に見えるようだ。
元清(穂井田元清:元就四男)が長命であれば、長久の謀もあるのだが、彼も病身であればあまり
頼ることは出来ない。相かまえて、種もなく国を望む野心を持ってはならない。」

恵瓊はこの道理に屈し
「短才なることを申しだしてしまい、面目を失いました。ですが後学のため、良きことを承りました。」
そう言って帰った。

しかしその後、恵瓊は隆景の戒めを忘れ、石田三成の乱に与し、輝元にこれを進めたため終には
その身を滅ぼし、輝元の分国を多く失う結果となったのである。

(黒田家譜)

「種」とは根拠や名分の事であろう。小早川隆景が、筑前を秀秋に譲る理由、である。




205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 00:17:35.54 ID:2DDxJeIU
黒田家譜の隆景信仰は突き抜けてるなー

小早川隆景、筑前高祖城攻め

2013年11月17日 19:25

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 16:49:15.19 ID:S/k83Ahu
天正14年(1586)12月、豊臣秀吉の九州役の中でのこと。

原田五郎右衛門尉信種は、筑前国怡土郡、高祖城の城主であったが、豊臣秀吉に従わなかった。

ために小早川隆景はこれを討つためその兵を出撃させ、高祖城へと向かった。
この時黒田官兵衛よりも、その家臣、久野四郎兵衛などが目付けとして派遣された。

原田は田舎侍であり、近隣の城持ちとの小競り合いで度々勝利したことを自慢し、
人数千、二千を大軍だと思い、豊臣秀吉の武威の盛んなるを知らなかった。

また上方の軍勢など、例え大軍であっても公家や長袖(僧侶)のような物であり、何ほどのこともないと
侮って、敵の来る前に、高祖城の前方にある大門河原にでて勢揃いをさせた。
その有り様といえば、ちぎれた鎧を着て、縄の手綱を付けた馬に乗る侍が数十騎も居ないような
ものであった。

そんな彼らが、上方勢の来るのを待ち構えていたが、寄せ手の兵は早良郡より日向山を越えて
高祖城を目指して押しかけてくる。

原田はこの軍勢を見て、思った以上の大軍であったため、これと対決するのは難しいと思い、
先ずは籠城して、薩摩からの後詰めが来るのを待とうと、軍勢を城内に入らせた。

このようにして、小早川隆景の軍勢は抵抗もなく高祖城の城下まで押し寄せたが、
鴾毛の馬に乗った武者が、城下に一番乗りをした。小早川隆景がはるかにこれを見て、
「あれは誰か」と問うと、黒田官兵衛の家臣が、「あれは久野四郎兵衛です」と答えた。

この様に城下に小早川の兵が押し寄せる中、原田五郎右衛門尉は本丸の上から
東の方を見渡すと、敵はなおも押し寄せると見え、博多の西、早良郡より城の麓まで
3,4里の間を大勢が続き、旗、指物、馬物の具をきらめかせて、隙間なく行軍していた。

原田はこれに肝をつぶし、評議にも及ばず降参を乞うた。
このため高祖城は城攻めをすることなく落ちた。

(黒田家譜)

筑前高祖城、軍勢を見ただけで落城す。というお話。




805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 17:00:09.94 ID:CoBgjqb3
塙直政「九州の名族だから、て原田氏名乗らせられたのに、ただの田舎侍とは」

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 17:09:26.67 ID:a0G8zjJr
原田はなぜいつも負け組に付くのか…

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 17:25:56.65 ID:Mx5XOPoH
長袖って坊主なの?吏僚のことじゃなかったっけ

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 19:43:34.22 ID:TSqbRm15
上方の軍勢かと思ったら中国方の軍勢だった
何を(ry

というか上方の軍勢が公家や僧侶の大軍だったらそれはそれで怖いw

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 23:41:04.10 ID:YjZYDJqw
>>808
近衛信尹「呼んだ?」

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/18(月) 02:33:06.55 ID:1pf0sxJS
>>806
最後は朝鮮出兵でフェードアウトするように消えたんだよな
サヤカ説もあるけど

輝元という佞なる人が

2013年11月09日 20:37

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:20:23.57 ID:u+d21jYc
備中高松城を取り囲む織田勢に、毛利三家が相対したときのこと。
小早川隆景は熟考のうえ、
「信長と和議を結ぶのが最良の選択だと思う。幸いなことに相手もそのつもりだ。
 なんといっても、大将(輝元)が頼りにならず、一門でさえ心替えをするようになってしまったこの時、
 元就様のご遺言の通り、降参した国を除いて十ヶ国を保持することで手を打てば、悪い条件ではない。
 元就様が天下を望むなかれと言い置かれたのも、輝元様をお見限りになって、
 後々のことをご遺言されたのだから、ここで和睦するべきだ」
と言って、和睦を決めた。

信長の訃報が届くと、隆景は安国寺恵瓊を連れて秀吉の陣所まで見舞いに訪れた。
秀吉は仰天し、門まで出迎えにやってきて、隆景の手を取って陣屋に入っていった。
「さすがは元就公のご子息ですな。武勇のことは申すまでもないが、
 実に今朝和談がととのったばかりだというのに、君子に二言はなしとはいうものの、
 こうしてすぐに私の陣所にお入りになるとは、天下無双の武勇です」
と、秀吉は褒めそやした。

隆景は、
「名が聞こえた人に実際に会ってみるとがっかりするものですが、
 貴殿に会ってみたら、天下をお取りになる相をなさっているので、この隆景、驚き入りました。
 このたびは必ず明智日向守を御退治なされ、貴殿が天下の主となられましょう。
 輝元という佞なる人が毛利家を継いでおりますので、
 貴家を守り立て、天下取りのお手伝いをいたします」
と笑った。

隆景はさらに、「とにかく大変なときですから加勢をします」と言って、
元就の時代に尼子との戦で先陣をつとめた渡辺石見守という武功の者を選び、
五百騎と毛利の軍旗を秀吉への加勢に差し出した。

(武家万代記)





666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:32:59.90 ID:bliTYw43
『武家万代記』って『三島海賊家戦日記』のことやね

恨みがあったのかしらないけれどこれなにかと輝元をディスってるんだよなw

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:35:12.81 ID:7nN1Vqk1
輝…

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:51:29.88 ID:KFFOoh1f
DQN眼竜は戦国全盛期の武将に比べると小物感が漂うが、
テルなんかと比べるととてつもない名将に見える

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:53:48.98 ID:u+d21jYc
気にかかった部分が一緒の方がいて安心したw

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 00:10:14.97 ID:/syMIewk
同じ史料で輝の治世は不行規で退屈なので中国四国衆は皆大あくびした、とか書かれてんだよな
村上海賊どんだけ輝ナメてたんだよとw

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:16:19.51 ID:B7DtpbVu
村上は全然毛利の忠臣じゃないよな、もっとビジネスライクな何か

大友のほうが儲かりそうなら味方するし秀吉が勝ちそうなら離反

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:41:25.23 ID:eDECr+vy
毛利が中国に勢力を伸ばすと海賊稼業の権益が後退したのか知らんが大内輝弘の周防上陸を阻止しようとした形跡が全くないしな

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:47:50.19 ID:/syMIewk
能島村上は大友にも筑前の権益認められてて親密だったからな
離反に怒った隆景に能島囲まれた時は大友が支援しようとした書状がある

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 02:07:56.31 ID:MlYzOzNE
来島村上が毛利を裏切って秀吉に裏切りそうだった時に「能島の村上も裏切るんじゃね?」という噂が
真しやかに流れてたから小早川隆景が全力で説得しに行ったらしいな。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 02:17:25.50 ID:B7DtpbVu
そもそも全然言うこと聞かねえから隆景に実力行使で能島から竹原に強制退去させられたよな

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 07:30:02.91 ID:kdPcn2jt
>>668
戦国期では断然輝元の方が大物なのにね
信長と全面戦争して大半の領地を保全できたというのは何気にすごいと思う

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 08:17:10.08 ID:RFiNRl1+
あれは、両川のおかげだろう。

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 09:42:00.88 ID:e+b9Cyht
光秀のおかげとしか

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 10:02:50.74 ID:nZcct/kw
輝「みなさんのおかげです」

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 16:22:22.52 ID:Yks+cYuL
両川「もうちょっとフクロにしときゃ関ヶ原もなかたのか?」

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 17:18:31.25 ID:Fb7FD56i
ラスボスが吉川恐怖症にかかって、反動で小早川スキーになるぐらいだからな

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 17:20:07.87 ID:uQo2Yytt
それは陰徳太平記脳すぎるんじゃ…

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 18:48:26.20 ID:4dwMUXKz
>>681
だって吉川さん「心の一方」使えるんだからそりゃ秀吉でもビビるよ
隙を突いても「背車刀」でカウンター喰らうし

漢南大将、小早川隆景の要害に攻め寄す

2013年04月24日 19:52

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:12:48.37 ID:sewJ/kWG
朝鮮の役でのこと

漢南大将(李如松)は本唐・新羅の軍勢を合わせ20万騎を率いて、小西行長の要害を百重にも取り巻き
即座に攻め落とすと、その余勢を駆って小早川隆景の要害に攻め寄せた。
いわゆる文禄2年1月26日(1593年2月27日)の、碧蹄館の戦いである。

この大軍に、城に近づけては敗れると判断し、小早川隆景は2万5千、立花宗茂は5千、
宇喜多秀家1万の軍勢で討って出た。
この時、御検使である石田三成、増田長盛、大谷吉継は都合8千の軍勢を率いており、小早川隆景
指揮下で先陣をした。立花宗茂はその下の備を担当し、この陣形で合戦は始まる。

異国の軍兵は弓鉄砲を隙間もなく撃ってきて入り乱れ、”ちぎり”という物を1万も2万も撃って回った。
これに当たったものは、たやすく起き上がることが出来なかった。

双方、太鼓や鐘を打ち鳴らし、鬨の声をつくりかけながら攻め合い、小早川の軍勢も立花の軍兵も、
息を限りに戦ったが、敵は大軍であり、新手を次々と入れ替えつつ戦うため、小早川・立花の軍勢は、
もはや人馬ともに疲れはてたように見えた、その時である

備前宰相(宇喜多秀家)の1万余騎が、一塊になってどうと突き懸る。
これに漢南勢は押し破られ、終に敗軍した。
この時討ち取られたもの3万あまり、ちぎり、刀槍を始めとして、鉄砲や石火矢までも捨てて
逃げ帰った。

異国の具足というものは、黒鉄を平たく伸ばし、金属の鎖で繋ぎ合わせたものを、ただ地の着物に
貼り付けただけのものであった。雑兵にいたっては黒鉄の平板を繋ぎ合わせたものを、そのまま着ていた。
大将や騎馬武者のものは、五色の漆で見事に塗り分けられていた。

兜も、ただ黒鉄を伸ばして、鍋の縁を反らせたような形にして、これをかぶっていた。

馬乗りは、獣の皮を股引のように拵えて、これを鞍にしっかりと括りつけ、乗る時はそれに、
太ももまで入れ込んでいた。
この中には、馬に乗らないときには兵糧も入れられ、
また草臥れて馬の上で寝る時、あるいは一斉に駈け出して山坂を自在に昇り降りをするときも、
馬から落ちるような危ないことは些かもなく、実に便利で利点の多いものであった。
これによって彼らは、馬上で弓鉄砲も自在に撃ちはなした。
(義殘後覺)




104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:02:51.17 ID:8PRpe9RV
>>102
”ちぎり”って何?
投石系の武器?

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:18:35.15 ID:3mSfHB9G
秀家は甘い坊ちゃんと言われてるけど若い時から戦いぶりは見事なんだよな
良い家臣が揃っていたんだろうけど宇喜田騒動後の関が原でもきっちり戦っていたし

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:25:14.98 ID:7RO21V+k
半分程度の福島と良い勝負っぽいけどなぁ > 関ヶ原の宇喜多

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:30:59.89 ID:sewJ/kWG
>>104
調べてみたけどよく解らなかったです。すいません。

>>106
宇喜多騒動で家中がボロボロに成って、関ヶ原の時は慌てて雇った浪人衆が中心で、
組織としてかなり弱体化していたのは確かみたいね

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:16:24.43 ID:KfKIui8O
>>104
乳切棒サイズの振りずんばいみたいな物を想像した

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:58:27.68 ID:+v3PqY6p
フロイスの「日本史」に明軍の装甲に苦戦する日本軍の話があったが
異国の鎧は興味深いものだったんだろうか

115 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/24(水) 14:40:59.52 ID:aP/+VbRj
宇喜多備前中納言八郎秀家、日本軍の危機を聞き、八丈島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l  


小早川隆景の遺言に

2013年04月19日 19:50

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 17:41:55.02 ID:vmexdl0E
慶長2年(1597)に小早川隆景が亡くなったが、この時遺言で、

『我が領内の小郡という地を、黒田如水・長政親子が、茶屋にしたいから借り受けたいと申し込んでくるだろう。
これは裏に理由のある事なので、絶対に貸してはならない。』

と、申し置いた。

その後一両年過ぎて、案の定黒田親子から、小郡を借りたいと申し込んできた。
名将というものは、予想も出来ないようなことまで察知する知恵があるのだろう。
どのような理由であっても貸与は難しいと答えたそうである。
(紀伊國物語)




321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 18:21:19.23 ID:+mKb8Ivy
そんなのを口実にして借りられるものなのか
わざわざ遺言して止めるってことは

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 18:56:49.19 ID:k5rIkgFl
中津から博多をうかがうにはいい場所だなw

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 19:00:50.93 ID:HBysBHcO
実効支配ちうやつですか

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 23:44:20.92 ID:m15pUdBk
ガイシュツだな。

ちなみに上京する際の休憩場所に借りたいと申し出てる

釜山喧嘩の事

2013年03月31日 19:06

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 17:44:33.83 ID:OOy8AWo+

朝鮮の役の時のこと
釜山の城の普請が完成したことにより、日本軍の諸将はそこに集まった。

ここに毛利家の船大将である野島、来島、粟屋とといった人々も合ったが、折節雨が強く降っており、
徒然に野島と来島は碁を囲み、粟屋を始めとして両島の一族これを見物した。

この時、来島の与力が碁の手を助言した所、野島は激怒した

「大事の所で何を助言しているのか!碁というものは見落としを利するものではないか!」

しかし木島の側はこれに反論した。
すると野島、「助言面を張るべきという、よって御辺の面を張り叩く!」

この言葉に来島

「どうして助言したからといって、侍が面を張られて、おめおめと引き下がれようか!」

「要らぬ説明を尽くすよりも、この方が遠慮するようになるだろう!」

すると来島、侮辱するように
「御辺が張った後が腫れて、殊の外痛むぞ!」と言い出した。

これに野島、即座に刀を引きぬいて頭に向かって斬りつける。
来島も抜き合わせ「やるまじ!」と戦う所に、野島の与力斬って懸り、来島の与力も
そこに打ち掛かる。双方入り乱れ散々な斬り合いとなった。

こうして両派に分かれてひしめき大きな騒ぎとなった所、報告を受けた小早川隆景は激しく怒り

「何と言う憎き奴原か!この上もないような狼藉を起こし、何と言う曲事であろう!
人数を寄せて両方共、一人残らず召し捕れ!」

そう命じて一気に押し寄せ捕らえられた。
そして日本に撤退したあと、一同処罰を受けたとのことである。
(義殘後覺)




128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 18:37:39.17 ID:wVBB2kIV
二人共あんまりヘタなんで、ポロッと言葉が出ちゃったんじゃないの

二人の騎将が大きな背旗を負い

2012年11月27日 19:50

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 23:33:33.87 ID:ORpphC3O
二人の騎将が大きな背旗を負い、大保衣を佩びて陣営の前を過ぎるのを見た
豊臣秀吉は使者に二人の名を問わせた。

使者は馳せて「主将の命である。各々名を伝えよ」と言ったが一騎も答えない。
使者が反命すると秀吉は「お前は馬を降りずに問うたから軍礼を失したのだ。
そりゃあ答えはせん」とさらに別の使者を遣わした。

二騎は馬を降りて小早川隆景の家臣、河田八助楢崎十兵と名乗った。後に
二人は征韓の役で隆景に従いしばしば明兵と戦った。河田の背旗、楢崎の保衣は
ともに雄々しく偉大にして並々ではなかったので、その名を異国に輝かした。

――『近古史談』




599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 09:05:29.22 ID:WR+T6pHf
下馬するしないでけっこう揉めるよなあ
でも、礼というよりもメンツといわれたほうがしっくりするような気も

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 10:37:14.67 ID:Qx1w0kiF
ぶっちゃけこの礼儀知らずの使者はよく斬られずに済んだもんだ。

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 10:43:18.94 ID:SwUk9bgw
豊臣直属を斬れるわけがない

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 12:25:17.12 ID:LWIGGGqm
この下馬する・しないってのはホントに火種になるよな
使者も戦闘中にいちいち下馬してものをいうなんて、って気持ちがあるんだろう

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 12:27:40.80 ID:cXcv4PNS
長尾景虎改め上杉政虎が...

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 15:32:08.28 ID:eahOQBlN
島津豊久「○★下馬×△○~○ごわす!」

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 15:37:34.00 ID:NJOxbHj5
成田さん「ちょっくら水堀数本増やしてくるノシ」

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:24:28.28 ID:XOBI6aC/
現代で言えば車の窓から顔だけだして要件を伝えるようなものかね

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:25:43.66 ID:CgL4870A
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1895.html
いまさらだが既出?

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:54:29.04 ID:UbDSylm2
相手も騎馬なんだから別にいいじゃんと思っちゃうけど、そういうもんじゃないのか

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 22:14:25.36 ID:Lzd8dpMl
もともとは敵意のなさを示す動作だったのが礼儀作法化していったのかもな
挨拶の起源もそんなとこだろうと思ってる

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 22:45:46.92 ID:UUbXdFOe
右手の手首を左手で握りながらその右手で相手の左手首を、
双方で掴むのが敵意のない戦国時代の挨拶だっけ?

毛利国替えと小早川隆景

2012年11月04日 19:02

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 05:42:58.19 ID:e2+vd95b
 秀吉は全国を統一した後、隆景に相談して次のように問いかけた。
 「毛利輝元は当初から自分に二心なく属してきてくれたので、ついに心安く全国を平定することができた。
そう考えると輝元の忠義は忘れがたい。
 そこで、輝元の領国の中国を国替えして、もっと広い九州の九カ国を与えようかと思うのだが、どうだろうか?」と。

 隆景は答える。
 「仰せの通り、九州は輝元の現在の領分よりよほど広くはございますが、しかしながら、今の領国は
輝元の祖父元就が小身より一代で取り広めてきた国ですので、先祖の国を捨てて他所へ参ることは
何ほど領分が広くなりましょうとも、先祖の功労をむなしくするようにも思え、本意ではございません。
広い所へと国替えしていただこうという思し召しは誠にお恵み深いものと思いますが
どうか、そのままにしておいていただけますなら、ますます有難く存じます。
 ことに、輝元は今の領地でさえ莫大でありますに、さらに領分広大となれますれば
殿下にも御後悔なさることがないともいないのが道理です。
 どうか、お国替えはご遠慮したく思います。」

 秀吉はその言葉に感じ入って言った。
 「毛利をさらに大身にと思って国替えを考えてみたが、御辺の申すことは実にもっともなことである。
そのままにしておこう。
 ことに、いよいよ大身となせば後悔もあるべきかと申すこと、実に率直な申され様、ひとしお感じ入った。」と。

『名将言行録』





258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 08:24:19.28 ID:UOLerA8L
輝元「ねぇ、それ悪い話だよね?ねぇ?」

259 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/04(日) 08:39:00.29 ID:HTOordGe
代わりに小早川が九州2国(筑前、筑後)を貰っちゃったというオチ?

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 10:08:24.53 ID:mkRpOs59
肥後の一揆の影響あるし伊予の方が統治しやすそうだけどな

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 10:40:27.66 ID:C8Kf5hoS
九州9カ国って250万石くらいか?これだけあれば秀吉死後天下取り目指せたかもしれん

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 10:41:44.22 ID:icm06Elw
実際に秀吉が打診したのは、毛利領国中の備中、伯耆、備後、伊予を取り上げて、
豊前、筑前、筑後、肥後を与えて、輝元に九州取次を命じるプランだったけどね。(毛利家文書之三 955)

分別とはどのようなものでしょうか

2012年10月10日 20:12

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 19:47:27.07 ID:JWHMPgU7
大河に決まったようなので折角なんで一つ

黒田長政小早川隆景と語った時の事。長政が訊ねるに
「人はあなたを天下の分別者だと言います。分別とはどのようなものでしょうか」
それに対する隆景の答えは
「分別というのは知恵のことで、知恵をもって色々なことに個別に対処することを言います。
そして世の中広しと言えども、あなたの父・如水殿ほどの知恵を持った人はいません。
私も知恵では如水殿には到底及びません。父上の言行を学ばれたら、あなたは天下の分別者になれるでしょう。

しかし、世上が私を分別者と言い、如水殿の事を言わないのはなぜかと言えば、それもまた如水殿が無二の知恵を持つからです。
如水殿に何か相談すれば、速やかに事の善悪を分別し、これはこれと最も良い配慮、判断を下してくれるでしょう。
その判断に聞いた時、例えば秀吉公のように聡明な人には、その分別の正しさを汲みとる事ができるでしょうが、
大抵の者はその分別の速さ深さについて行けず、大丈夫だろうかと無用の不安や不信に駆られてしまうのです。

私などは愚鈍なため、当座に決めたことについても今一度思案してから相談するという具合なので、
却って分別者のように思われているだけで、如水殿の速やかな決断と比べたら劣ることばかりなのです。
分別者になりたければ、如水殿の知恵を学び、分別者と呼ばれたければ、即断する前にひと思案されると良いでしょう」

長政はさらに訊ねた「では分別に肝要の事というのはありますか」隆景は答えて、
「分別の肝要は仁愛です。万事を決断するのに、仁愛を持って分別すれば、思慮が外れてもそう大きくは間違いません。
仁愛なき分別はいかに才知が巧みであってもみな誤りです。」




871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 20:06:59.45 ID:oMCukF1a
隆景さんは人格者だなー

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 20:09:02.15 ID:qwbksDWg
逆に「ああ、如水には分別が足りないんだな」って気にさせる話だなw

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 20:15:23.33 ID:KYIRVEUV
如水さん難しいことをわかりやすく語れなかったのね
数学教師には頭いい人より、頭が悪いにもかかわらず高学歴な人がいいと聞いたが
そんな感じかな

875 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/10(水) 20:23:53.46 ID:Xu+hTzNB
如水も決断早すぎて後悔すんねんけどどないしたらええんやろかって隆景に相談してた
気がするw

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 20:34:33.08 ID:1+j4CPym
天才数学者の妻が
「うちの夫は答えは分かるんだけど過程が説明できないのよ」
って言ってた話をどこかで見たのを思い出した。
問題を見ると答えだけポーンと頭に浮かぶらしい。

とりあえずあの人の頭はレスポンス良すぎて誤操作誘発してそう。

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 20:49:49.64 ID:2k798HK/
>あなたの父・如水殿ほどの知恵を持った人はいません。

長政「あなたの父・元就殿ほどの知恵を持った人はいません」

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 22:04:44.53 ID:aN7oTPW/
元就「尼子経久殿ほどの(ry

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 01:15:14.03 ID:lmSaCmml
如水はいい話エピソードありまくりだからとりあえず脚本家はここ読め

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 02:13:20.80 ID:1FncheTp
最後のヲチをどうするんだろね、上善水如は・・・

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 02:58:18.17 ID:wnewuAgD
死ぬ間際まで長政にダメ出し

小早川隆景、隆達節から

2012年09月20日 20:31

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/19(水) 20:42:20.64 ID:FF1BiZBv
小早川隆景が家督を養子秀秋に譲り、備後三原に隠居した頃の話である。

彼は俗世のことから離れ瀬戸内の風光を楽しみ日々を過ごしていた、
そんなある時、毛利家家臣、林吉兵衛入道梅林が、京より帰国の途中、三原城に立ち寄った。
隆景は梅林と対面し、

「どうだ梅林、京に珍しいことはあったか?最近わたしは上洛していないので、京の噂にも
すっかり疎くなってなあ。」

と話しかけると、梅林

「そうですなあ、特に珍しいというほどのことは無かったように思いますが…、そうそう
この間何か花を遣わすため京の町中を歩いていると、隆達の小歌(隆達節)の中に、

『面白の春雨や。花の散らぬ程ふれ』

と申す歌があるのですが、これが大いに流行っておりまして、男女僧俗、80歳の老人から3歳の幼児まで、
尽くこれを歌っていました。」

「ほう、それは誠に面白い歌だ。されば一節、お主、歌ってみてくれないか?」

「わ、私がですか!?こんな老いさらばえて、気の抜けた歌を聞かれるのは恥ずかしいのですが、
厳命であれば仕方ありませんな!」
そう言い訳しつつ一曲。まんざらでもないようである。

しかし梅林、歌ってみると音程が全く安定せず、歌い終わって後悔

「今から30も40も若ければ、音も少しは麗しく、節回しや拍子もお聞きやすくできたのでしょうが、
私ももう60を超えて、いやはや聞く人の耳を不快にさせてしまうでしょう。
まったく、老いほど恨めしいものはありません。高歌の一曲にある、昨日の少年今は白髪とは、
今このジジイの身の上に知れます。」

しょんぼりしている梅林に隆景笑いながら

「いやいや面白かった。もう一回歌ってくれ。」

「面白い!?この老人入道が声をかすれさせ息継ぎも必死だったその姿を、黄門様は
面白がったのですか!?酷い!」

梅林、すっかり拗ねてしまった。

「これこれ梅林、そなたの声音を面白いと言ったのではない。その歌詞、『面白の春雨や。花の散らぬ程ふれ』
という語意が面白いと言ったのだ。

梅林、広島に帰ったら、輝元様にその歌を聞かせなさい。
輝元様はまだ若い。どんなに賢く在っても、万事の好みに偏りが出来てしまうものだ。

面白の儒学や、武備の廃らぬほどに嗜め、
面白の武道や、文事を忘れぬほどに、
面白の歌学、面白の乱舞、面白の茶の湯の道、
これらに身を捨てぬほどに好まれよと、あの歌は歌っているのさ。

どんな良いことも、中くらいを過ぎる事の無いよう嗜むべきで物である。
諸道を嗜む姿勢は、この歌の一言を以って成すべきなのだ。

返す返すも、輝元様によく聞かせなさい。老臣、奉行たちにもこの歌の心を会得させなさい。」


小早川隆景、隆達節から物を好む姿勢を語る、というお話
(陰徳太平記)




546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 00:23:05.42 ID:sP9kkh1B
うちの部下に聞かせたい話や・・・

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 00:52:09.41 ID:jFNwSsNH
幽斎様、今鼻で笑われましたな?

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 14:02:57.36 ID:/XjT+PGh
幽斎「キャラメイキング?パラメターの割り振り?なにそれ、全部MAXじゃだめなの?」


549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 15:25:21.84 ID:nQESUkPH
あなたのパラメータには、子育てという項目は無かったんですかね・・・

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 18:16:31.16 ID:SHb5RPY5
子供につけた友達がDQNだとDQNになるよ。小十郎さんじゃなくて志村さんみたいのがいればまーくんだって・・・思慮のあるDQNに

草刈景継内応事件顛末

2012年09月13日 20:29

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/13(木) 19:07:45.95 ID:YiRa+l82
因幡国の住人、草刈加賀守衡継の息子である、嫡男の三郎左衛門景継、次男の太郎左衛門重継の兄弟は、
因幡智頭郡、美作苫北郡を切り従え武威を両国の間に震い、毛利家に対して無二の忠功を胃打ち立てていたのだが、
一体どうしたことであろうか、兄の景継はその志を変じ、織田信長に通じようとした。

草刈景継からのこの申し出に織田信長は、景継が味方となれば因幡美作両国の攻略が速やかになると
判断し、過分とも言える報償を約束した朱印状を発した。

ところが、である。天は不義を憎まれるとはこの事であろうか、この景継の遣いが帰国の途中、
小早川隆景の設置した関所のものが不審に思い、これを搦め捕り草刈景継織田信長への内奥を知ると、
これをすぐさま隆景の本拠である安芸国は沼田に連行した!

さて、これを知った隆景は大いに驚き、草刈家の家老、黒岩土佐守を召し出しその一部始終を説明し、
「急ぎ景継を討つのだ!」と下知をした。
黒岩土佐守も否やに及ばず、急ぎはせ帰り次男の重継と協議した。

そしてある時競馬(責め馬)を見物しようと、景継を呼び出した。
景継がこれに応じて見物をしている所を、有無をいわさず討ち取り、その頸を沼田の隆景に捧げた。

草刈重継は武勇優れただけではなく、節義においても固い、節操があり、篤実なる者であったので、
この兄の不義を骨髄に染みるほど口惜しく思い、この後毛利家に対していよいよ忠義をなし、
数度に及ぶ武功を献じた、とのことである。
(陰徳太平記)

草刈景継の、織田への内応事件の顛末である。





416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/13(木) 21:51:38.55 ID:PXchUSlK
まさに中国地方は草刈場

肥後国人一揆と小早川隆景

2012年08月31日 20:51

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:07:44.76 ID:tFvJch7s
天正15年(1587)、肥後国人一揆が起こる。この影響は小早川隆景の領する筑前にも波及するかに見えた。

そもそも肥後の一揆は佐々成政の手荒い施政が原因であった。検地をし、さらには、
昔から港より運搬する荷物を運ぶ使役を、三里とされていた所は五里に、五里とされていたところは八里運ばせる
ようにした。このように荒い仕置を行ったために、一揆が起こったのだ。

小早川隆景は肥後に一揆が起こったことを聞くと、この筑前でも一揆が起こりうると判断し、すぐさま国中に
制札を立てた。

『筑前においては、年貢も、津出し(港への荷物運搬の使役)も、小物成(その他の雑税)にいたるまで、
全て昔のままの年貢沙汰とする。』

この制札が出ると、筑前において一揆を計画していた者たちもそれを取りやめ、結果小早川領の筑前は
何事も起こること無かったとのことである。

(川角太閤記)





280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:30:20.06 ID:H8ISDO8/
筑前煮が混ざってるぞw

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:34:50.59 ID:tFvJch7s
ギャー
1行目、×筑前煮 ◯筑前に
筑前煮が波及するってどんな状況だおいw

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:38:01.23 ID:RwWMsq13
隆景さん優秀

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:41:38.61 ID:Dgbgg3U3
>>281
食い物の恨みは怖いってことよ

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:58:10.37 ID:5KBE0rBQ
>>281
筑前煮大好き。


285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:00:33.55 ID:Ig40vyu0
秀吉は筑前煮派
三成は治部煮派
家康は関東炊き派

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:16:07.24 ID:hCx3MmD6
肥後は九州平定まで国人が残ってたからねぇ

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:36:09.45 ID:Os0dBdgZ
>>285
文字通り、うまいこと言いおってからに

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:36:26.87 ID:xkQJplq/
肥後一揆は隈部等国人衆、豊前は城井家、天草一揆は天草五人衆が
残ってたから起きたけど、秋月種実、原田信種、宗像氏貞等がいなくなった
筑前で反乱おこしそうなのは誰だろ?

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 06:27:05.49 ID:X/ieVMuz
>>279
隆景さんさすがやで
どおりで秀吉に唐入りの最前線を任せられるわけだ

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 09:44:36.53 ID:VY1J2o8S
>>288
新体制にすくい上げられなかった、そのあたりの残党が相当残ってただろうね。