二面の鏡を用いて

2015年07月16日 11:47

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/15(水) 20:35:04.97 ID:ehDOn7Gj
寛永年間のことである。

小幡勘兵衛(景憲)には実子がなかったため、何某の次男を養子とした。
ところが、その頃旗本の若輩の面々には、丹前風という髪の結ざまから、大小衣類に至るまで、
異様なる風体をすることが流行っていた。
この小幡の養子も、若年の事ゆえその風を真似て、鏡を二面用いて髪を結っていた。
これを養父の景憲が見咎めた

「若輩だからといって、武の家に生まれた身として二面の鏡を用いて姿形を整える、などというのは
遊女野郎の所業である!」

そう激怒して、そのまま義絶した。
その後横田次郎兵衛の子を養子とした。これが今の又兵衛である。

(明良洪範)



64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/15(水) 21:53:54.34 ID:HsY8g1wm
何が悪い話?

65 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/15(水) 23:28:32.90 ID:7g8RSJCV
鏡を二面用いて髪を結っていた→そのまま義絶
の話は聞いたことあるけど、
>その後横田次郎兵衛の子を養子とした。これが今の又兵衛である
これは初めて聞くなあ。

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/16(木) 01:00:49.78 ID:bf6R3VAw
寛永年間って100%戦国時代じゃないよね?
なんでここに載せるの?

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/16(木) 05:11:54.34 ID:8E4QrWHF
小幡景憲が戦国時代の人だからだ
つーか、いまさらすぎるだろ

68 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/16(木) 06:21:32.90 ID:G4Pj3hIr
戦国時代の人www

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/16(木) 08:11:22.50 ID:TdQT5SGj
「戦国時代」をどこからどこまでとするか、というのは研究者でも定義があまり定まってない。

戦国の一番広義の捉え方は享徳の乱(享徳3年:1455)の勃発から島原の乱の終結(寛永15年:1638)くらいまで
ただし嘉吉の変(嘉吉元年:1441)から戦国状態に入ったという説もある。

一番狭いと明応の政変(明応2年:1493)から足利義昭の追放(元亀4年:1573)まで。以降を近世とする見方。

一般的には応仁の乱(応仁元年:1467)から大阪の陣の終結(慶長20年:1615)までか。

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/16(木) 09:20:20.85 ID:b/yxLmB8
戦国、てことを考えると元和偃武がしっくりくる
スポンサーサイト

二面の鏡

2013年01月24日 19:52

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 23:29:11.62 ID:jpTOhSIv
寛永年中のことだが、小幡景憲は実子がいなかったので某の次男を養子にした。
その頃、御旗本の若輩たちの間で丹前風という名の、髪の結い方から
刀脇差・服装に至るまでも異様な風俗が流行していた。

景憲の養子も若者だったので、彼もまた丹前風を学び、二面の鏡を用いて
髪を結っていたのだが、そこを養父・景憲に見られてしまった。

「若輩だからといって、武家に生まれた者が二面の鏡を用いて形を作るとは、
遊女男娼のふるまいだ!」と、景憲は腹を立てて咎め、養子を義絶してしまった。

その後、景憲は横田次郎兵衛の子を養子にした。これが今の又兵衛である。

――『良将言行録』




278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 00:02:44.85 ID:ABbkugDD
Twitterで余分なこと言って内定を取り消し合う感じだなw

小幡景憲の暗躍

2010年01月22日 00:05

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/21(木) 18:02:30 ID:oEFE44I1
「小幡景憲の暗躍」
大阪冬、夏の陣にて、甲州流軍学の祖として名高い小幡景憲は大阪城でスパイ活動をしている。
真田幸村と後藤基次が積極的に先制攻撃を仕掛ける事を軍議で発言した時、反対したのが
この景憲と言われている
だが冬の時点で、前田利常の家臣富田越後守に仕え真田丸攻撃に参戦していた事から
誤伝と伝えられている

景憲が大阪城内に現れるのは大阪城冬の陣の和議以降のこと
主家を退去した彼を大野治房が味方として招き入れ、夏の軍議に参加したとされている
彼の諜報活動と内部撹乱活動は幸村ら主要武将から疑いの目を向けられたが、
巧みな話術で偽装し、思惑通りに事を運んだと伝えられている

大阪の陣後、その功を認められた景憲は幕府のお使番として1500石を与えられ
「甲陽軍鑑」を編纂する事となる