不滅の法灯

2015年03月12日 18:39

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/12(木) 06:47:02.09 ID:h0bjFSds
不滅の法灯

比叡山延暦寺には「不滅の法灯」と呼ばれる灯火がある

この灯は開山に当たり宗祖最澄によって燈されたものである

しかし元亀2(1571)年、織田信長による延暦寺の焼き打ちで根本中堂ごと比叡山の法灯は失われた

灯はかつて天文12(1543)年に出羽の最上義守の庇護下にあった山寺立石寺の一相坊圓海(円海。最上義光の学師)により山形に分灯なされていたために、延暦寺の中堂再建に当たりこの灯が山寺から逆に延暦寺へと分けられ復せられた

なお「油断」という言葉は油を絶やす事の無い様に常日頃から気を配るこの行為から生まれたという説もある




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「夏衣装で合うのは恥ずかしい」

2014年06月26日 19:02

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 20:18:06.48 ID:cx2X9NFm
常磐井殿という公家に、お目見えを望む人があった。
仲介の人がこれを伝えると、常磐井殿は「夏衣装で合うのは恥ずかしい」と答えた。
「それで構いませんよ」と仲介は答え、伴をして出かけることとなった。

その仲介人も、夏衣装とは夏の装束の事であると思っていた。
ところがこの常磐井殿は、困窮のため帷子すら無く、なんと蚊帳を身にまとって現れたのである。

これは織田信長の時代の頃の話である。

(老人雑話)




592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 20:45:50.57 ID:fd917aZI
出かけるときが蚊帳なら普段は…

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 20:59:16.13 ID:C1LCWmsM
ありのままの姿か…

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 21:36:01.28 ID:Jy/xY/vi
こ、これは蚊帳じゃなくてレース素材なんだからねっ!

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 21:59:00.18 ID:YPU4+gEs
常磐井殿「夏の装束じゃないから恥ずかしくないもん!」

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 23:30:03.62 ID:BMTGTS54
真宗高田派の法主になる家系?

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 02:07:53.21 ID:eXXLQtAg
ときはいま あめがしたしる さつきかな

意味:常磐井殿の部屋(間)では、梅雨時になると雨が漏ってかわいそうであることよ

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 02:29:30.08 ID:1kimAW50
みっちゃんの優しさに袖が濡れた

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 02:31:07.21 ID:rwXANrYv
けふわかやとのきぬとみるらむ

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 08:23:04.15 ID:Imsfgjtw
いやいや、十兵衛ちゃんなら心のなかで舌出して笑ってそう

「五逆の罪人、言にたへたり」

2013年04月28日 19:00

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 16:12:14.26 ID:1utBP5pf
見しは今。上野国石根という所の光円寺という坊主は永伝という弟子を一人もっていた。
住持は七十余り、弟子は四十に及ぶ。

弟子はとっくに寺を請け取ってもよいはずではあるが、老僧は渡さなかった。
ある夜、弟子は師匠の首をくくり殺し、頓死したと檀那に知らせた。

しかし、天罰は逃れ難く、事実はあきらかとなり弟子は首に縄をかけられて江戸にやって来た。
御奉行衆は「五逆の罪人、言にたへたり」と仰せになって、弟子は浅草原で磔にされた。

――『慶長見聞集』




448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 16:57:07.72 ID:U4unQ/i8
坊主も隠居みたいな制度だったのな
死んでから住職交代するものだと思ってた

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 17:18:27.16 ID:t3Z6YHFM
世の中には3日間で住職辞めた人も居るくらいだ
なりたがる人がいるって条件付きで割りと頻繁に交代はする

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 01:22:12.81 ID:ND0FTJMI
>>448
今でも支障が出るほどの重病なら隠居して家督相続みたいな形を取る場合があるみたい

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 07:11:38.04 ID:CVE3W22k
神主も終身で、普通は体がきかなくなったら引退するんだけど早くにボケが始まって
行事やら会議やらすっぽかすようになって周りの人が呆けに気づいたときには
すっかり恍惚状態で神主なんて無理なんだけど本人が引退するって言わない限り交代出来ないので
みんなてんやわんや、というのが昔身近であったよ

455 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2013/04/29(月) 23:02:29.39 ID:oyb4lvdo
江戸幕府の意向で宗派の本山による統制が進んでからは末寺の住職は本山が指定してたんじゃなかった?
住職クラスも結構色々な寺を異動して回ってたみたいだし

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 00:59:54.79 ID:1p0wPT3v
うちの近所の神主さんは定年があるw
まぁでかいところはまんま会社だからなぁ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 10:07:10.61 ID:skzijdtl
小さい神社の神主は兼業が多いな
大概は公務員やっている

江戸時代以前の末寺ってどうやって食ってたんだアレ
寺領1石程度で檀家ゼロなんてのが大量にあった

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 11:50:32.11 ID:4vFIosP3
本山が戦略的出院として援助寄越してたか
もしくは食い詰め者の流浪坊主が勝手に寺を名乗ってたか

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 12:40:41.79 ID://dvgk4Y
寺社はその他収入がありそう。
今と一緒なんじゃね?
この時代もお祓いでも冠婚葬祭でもすればお礼金貰えたのでは?

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 13:11:56.93 ID:Y0iUc6wE
熱田の神主は信秀の美濃遠征に付き従って死んだり、桶狭間でゲリラ特攻して戦死したりしてたっけか

この町には日本の王である内裏が住んでいる

2012年12月08日 19:54

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 01:35:54.53 ID:qMHWH+Hs
ついにある午後、都の望める所に着いた。都に関しては際立つ素晴らしさが数え上げられているので、
世界にその名が知られるのは当然だ。

都は大変広々とした平野にあるが、この地に住む人間が大勢なのでその必要がある。80万を越すとの証言もある。
人口については様々な説を聞き、40万というものもあったが、少なくとも30万は居る。とにかく絶対確かなことは、
世界で知られている都市でこれより大きい所はないということだ。

端から端まで10レグアを城壁が取り囲んでおり、朝の7時から夕べの祈りの時間(午後6時)まで、正午に1時間
休憩しただけで歩き続けたが、それでも最初の家群の域から出られなかった。

この町には、日本の王である内裏(天皇)が住んでいる。彼は別名『ボイ』(不明)と呼ばれる。
この王は日本の初めの始まりから直径継承されてきた。日本では王や領主は人目に触れず、ひとと交わらないのが
威厳と考えられているので、常にここに閉じこもって来た。

法的には日本諸国の統治権は彼に帰すが、少し前、太閤様(秀吉)がこの王国に立ち、全ての殿と領主を
武力で彼に服従させたので、この生まれながらの王である内裏は名目のみ残している。

彼は皇帝(徳川家康)自身やこの国の大身の者に権威や官爵の授与を行う。その為の日(除目の日)が
決まっており、当日には全ての者が彼に目通りを求め、各自爵位を示す記章をつけて馳せ参じる。
また「ボンソ」(坊主)と呼ばれる偶像の司祭らにも位階や称号を授与する。ボンソにとって彼は教主であり
最高の司祭なのだ。

皇帝のみが最初の除目の時を除いてこの認証式に来るのを免れる。この(最初の除目の)時ばかりはやむを得ない。
外目に触れる行為や儀式では、皇帝は常にこの内裏に非常に敬意を表し、上席を与える。
この事は良いが、後は彼に許されるのはわずかでしか無い。ほとんど生計の術を持たないのだ。

都のこの町で、内裏が住む宮殿は贅を極め、皇太子(秀忠)や皇帝の城に比肩しうるという。
最も私はこれを見たことがない。というのは、今述べたその日でないと誰の目にも触れさせず、王宮からも出てこない。
この町の奉行所も、王宮の門より内側には統治の手段も権限も何もないからだ。
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)

江戸初期の、京都と天皇についてのスペイン人による記録である。




685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 07:33:02.32 ID:5OyvkLr+
>>680
>彼は別名『ボイ』(不明)と呼ばれる。
これが気になる

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 09:19:15.71 ID:gj2beKTx
スペイン人が日本の統治制度について結構理解してるのがすごいな。

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 10:01:36.24 ID:ExodO2E6
スペイン人をなんだと思ってるんだw

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 11:26:00.38 ID:tZoqLLYX
寧ろ皇帝・諸侯・教皇の闘争とかアナーニ事件とかみてるヨーロッパ人は
こういった権力の二重構造に関しては元々造詣深いんじゃなかろうか

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 22:27:53.77 ID:OLCesmLg
>>687
サッカーとSE○にしか興味のないイタリア人みたいな連中だろw

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 01:29:53.67 ID:AVZPFXC+
サッカーとS○Xと脱税と料理に関心と寄せるのがイタリア人
サッカーとS○Xと闘牛に宗教に関心を寄せるのがスペイン人

似てるようでちと違う

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 02:33:17.66 ID:b4U4/JMy
    ∧ ∧  _丿⌒|_   o=oヽ
    (゚ー゚*)   (゚∀゚*)   (゚ー゚∪
    ノヽ~ノヽ  ノヽ~ノヽ   ノヽ~ノ゛ヽ,
   ん †  ) ん †  ) ん †  )  
    丿 八 ゝ 丿 八 ゝ  丿 八 ゝ  
    U~U    U~U    U~U 

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 10:51:41.07 ID:FULY31Rh
三河武士は何に心を寄せるんだろう?

変なところで素直な土一揆

2012年04月23日 21:23

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/23(月) 17:36:53.87 ID:jUTmYakp
天文15年(1546)10月のこと、京の内裏に、数千人の土一揆が、天皇に直訴するために押し寄せた事があった!
噂ではこれは、幕府の奉公衆や奉行衆のうち、一揆の相談を受けた2,3人のものが、そうしろろ支持したのだ、
とも言われた。

ともかくも一揆側の直訴内容はこうだ

『幕府が徳政令発布を認めないので、我々は迷惑をしております。どうか朝廷から幕府へ、徳政令を行うように
仰っていただきたい。』

この突然の直訴に慌てた朝廷では、後奈良天皇の御前で緊急会議が行われた。
天皇は内裏に土一揆が乱入することを心配し、「幕府に徳政令を促そうと思うが、どうか?」と発言。
これに勧修寺尹豊などは賛同の意を表した。

しかしこの時、広橋兼秀らが猛然とこれに反対した。
兼秀はいう

「これは間違いなく、後代に悪しき先例を残します!また世上の嘲りをご推察してください!
たとえ一揆が乱入しても、我々が力づくで追い払います!」

このような意見に結局後奈良帝も、直訴を受け入れないことに決定した。
そこで、この時朝廷は、直訴を受けない理由を、土一揆にどう説明したか?その内容はなんと

『正当な訴訟なら白昼に持って来るべきなのに、このように「夜中の強訴」をするとは狼藉千万である。
よって聞き入れるわけにはいかない。』

そもそも内容以前に手続きルール違反だからダメだわ。ということである。これに土一揆は…

『それは尤もである』

と、納得し、帰っていったそうである。


幕府に対してすら傲慢なのに、変なところで素直な土一揆であった。
(兼秀公記)





750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/23(月) 18:16:01.36 ID:ZWZ3VlM9
>>749
今の政府にはこの気概がないよな。
だから国民に支持されない。

永正四年、無名の僧のメモ(抜粋)

2012年02月18日 21:51

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 04:00:23.24 ID:QAYy5Arr
永正四年、無名の僧のメモ(抜粋)

前年の干戈止まず、また新たに起こったものは数えられない。
夏より地震止まず、年末近くになっていよいよ耐え難くなる。

南海在所はことごとく浸水し(死者は)五万とも十万とも言う。
聞いたところ、伊勢・那智・熊野・熱田・(鎌倉)八幡も破滅に至ったという。

本年当国(相模)の(寺社の)消滅三十五六、甲州七八十、豆州二十、駿州二三十、武州十余。

末世末法。

弥勒菩薩。弥勒菩薩。

(真光院文書)




浅間神社の吹流し・由来

2012年02月06日 21:51

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 05:15:29.77 ID:Otl5hA4/
連投スマソ。立物の話が出たので。

永正(信縄~信虎期)のころ、甲斐郡内の地侍達は離合集散を繰り返していた。
それが余りに激しくなったので、互いに誰が敵か味方かも分からなくなり、
道を行くのにも贈答を交わすのにも難儀するようになってしまった。

そこで浅間社に季節の供物を納めた時に置く立物に、細い吹き流しをつけるようになった。
この色と立物の置かれた場所を見ることで、国内外の外交関係が一目瞭然になった。

いまでも浅間神社ではこの習慣があり、寺社・商家・部落・馬借等の関係が見て取れるという。

(日国記)




769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 05:18:51.45 ID:N+VT5Uzh
>>768
>互いに誰が敵か味方かも分からなくなり、
>道を行くのにも贈答を交わすのにも難儀するようになってしまった。
って、どんだけ世紀末救世主伝説な世界なんだよ
甲斐の国、恐ろしすぎる

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 08:29:55.90 ID:mALZKV4h
>>769
北条、今川、武田のどの勢力の影響下かに加えて、地元勢力の小山田、加藤のどれに属するか、全く属しないか、
武田でも、信縄・信恵派か信虎派があって…グチャグチャ。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 21:51:35.62 ID:UX+KPOYa
>>770
流石さん、小林さん、富士さん、河口さんらの大領主も忘れないで!!1111

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 22:35:35.36 ID:mALZKV4h
>>779
おっと、渡邊もいたな。

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 23:52:39.29 ID:UX+KPOYa
>>783
渡邉さんってどのあたりの豪族?

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/07(火) 02:03:42.35 ID:4t4jcK2H
>>785
都留郡とか西湖のあたりとか。南朝方に組したのでも歴史に残る。

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/07(火) 16:21:43.63 ID:AAj5Iw8F
>>770
むしろ武田より跡部、穴山、栗原らの国人のほうが
力が強いくらいの時代だな。
西関東には、上杉配下の小大名も一杯だしカオス。

雑談・戦国時代の天皇のことなど

2012年01月04日 22:00

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 00:18:27.22 ID:YeUawEl+
戦国時代の天皇の逸話って何かないかな?
宇多天皇の黒猫日記のような和みエピ好きだけど
戦国時代じゃそんな余裕もなさそうだね…

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 02:32:32.14 ID:JQoc9hlE
天皇の逸話ねぇ。

昔物凄く困窮してた天皇家の惨状を見かねて、
ある饅頭屋が饅頭を持って言った所、宮中は大喜び。
その後毎日続けられたお饅頭の宅配は、
天皇家の財政が安定した江戸時代以降も、
儀式的に毎日続きました。

なんて話を見た事があるな。
涙無しには語れない話だが。

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 02:53:02.96 ID:VsZC+963
お金なくてお葬式だせなかったのは、この時代だっけ?

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 10:10:59.93 ID:ItCnHBW0
>>248
後奈良天皇だっけ?
毛利が献金したって話だったと思う

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 13:24:10.88 ID:ovdwBTof
>>248
某ゲームのお金がなくて餅がつけなかったを思い出した

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 13:44:32.65 ID:wq860xx/
後土御門天皇と若き将軍足利義尚が、ほとんど学問上の師弟みたいな関係で、
この二人で絵巻物の収集、編纂や、新しく小型の絵巻物の制作、普及みたいなことをやってるな。
義尚が、寺社なんかから古い絵巻物借り受けて天皇のところに「こんなの借りてきました!
これどう思います!?」なんて直ぐに報告していたり、非常に微笑ましいw

あまりに仲が良いので、義尚は実は天皇の子供、なんて噂まで流れた。

実弘寺来歴

2010年11月05日 00:00

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 01:37:53 ID:xPjEUdgK

天正十年、本能寺の変を受けて滝川一益と北条氏直の間で行われた神流川合戦。
周辺一帯にも被害は及び、現在の埼玉県上里町にあった実弘寺という寺院も本堂以
下、殆ど全てが火災により焼失してしまった。

その後、実弘寺は江戸初期の元和年間に奥喜兵衛尉安盛という人物によって再興さ
れ、喜兵衛尉の名前を取って安盛寺と改称された。

宝暦年間にも再び火災に遭い、焼失&再興を繰り返すコトになるのだが、不思議な
コトに境内にあるカヤの巨木のみはいつの時代も焼け残っていたと言う。
このカヤの巨木、根元に大きな洞があり、中には石作りの祠が祀られている。

洞の中には白蛇が住み着いており、祠はそれを祀った物だと伝えられる。
近隣の住人は何か願い事があると、このカヤの木に鶏卵を供え、白蛇に祈ったのだ
と言う。


安盛寺の案内板にはカヤの木は現存しているようなニュアンスで紹介されていまし
たが、境内をザッと歩いてみても、そんな木は見つけられませんでした。
見落としているのか、伝説のみで現存はしていないのか、詳細は不明です。
つか、村人が祈る対象って白蛇かい。本尊の立場ってドコ?www

本尊を差し置いて、実質信仰を乗っ取ってしまった白蛇さん。というコトで、どっ
ちかと言うと悪い話か?




禁中並公家諸法度制定の思いがけない副効果

2010年03月27日 00:05

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 21:39:47 ID:t5zNAyeL
禁中並公家諸法度はその性格上、古典旧籍を多く参照して作成されたがその参考書籍は
当の規制相手である公家に多く収蔵されていた

その為、幕府は公家に旧書の提出を求めたが当然ながら従わない
そんな訳であっさりと脅しに入る幕府
「提出が終わった後に、そうでない書物が見つかったら没収ね」
そうして集まった書籍は禅宗の僧侶をカンヅメにして筆写させ、お陰で禁中並公家諸法度は
滞りなく、制定されましたとさ

しかし公家にとってむしろ痛いのは筆写の方であった
それらは幕府の物になったが、文教に熱心な彼らは容易にそれを世間に広めたのである
結果として公家の連中は貴重な収入源であったそれらの講義・伝授指南料を失うことになった
のであった




670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 23:00:52 ID:k5Tcao1f
>>667
従っても従わなくても飯の種が奪われることとなるとは泣ける話ですな
公家って戦国には荘園領地失ってジリ貧になって古今伝授で食いつないだんだったら
それすら専売じゃなくなった>>667以降ってどうやって生計たてたんだろ

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 23:07:03 ID:8ORVqjkg
>>667
たしか徒然草あたりも公家の古文書を調べたなかから出てきて、世間に広まったんだよね。

>>670
公家の領地は幕府が保護したので、少なくとも江戸中期くらいまではそこそこの生活が出来たはず。
ただ、これは武士も一緒なんだけど、時代が下るにつれだんだん世の中が豊かになると、
支出は増えるのに収入はずっと変わらないので、どんどん生活が苦しくなっていったらしい。


672 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2010/03/25(木) 23:07:08 ID:BtdZQtsd
はいwiki。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E4%B8%8A%E5%AE%B6

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 23:14:35 ID:j1k9TuoX

>>671
ついでに全国で開墾が進んだ結果米は増産に次ぐ増産
値段は江戸時代を通じて下がりっぱなしで、石高が変わらなくとも収入は減という。

公家って武士と違って軍役がないから支出はそこまでではない?のかな。

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 23:58:07 ID:z0qmEUL0
>>673
その分、宮廷行事、交際、教養関係での出費が・・・

675 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2010/03/26(金) 00:01:32 ID:DuDde4kv
高家扱いで景気に左右されそうではあるね。

大和の菩提山寺において、衆僧が集まって一同で起請文をしたためた

2010年02月13日 00:01

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/12(金) 17:24:42 ID:EpeetbWn
文明五年のこと。
大和の菩提山寺において、衆僧が集まって一同で起請文をしたためた。
仰々しく約束されたその内容とは…

「寺中において、にんにく、ネギ、魚肉などを受用してはならない」

魚や肉は言うまでもなく、にんにくなどの香りの強い植物も、精進潔斎のために禁じられている。
そんな自明のことを、改めて起請しあわなければならなかったらしい。
「寺中において」とわざわざ断りを入れているのも気になるが…

ちなみに、仏僧大嫌いのフロイスは次のように述べている。
「坊主らは、表では肉も魚も食べないと公言している。
 しかし、ほとんどの者は陰で食っているのだ。」




492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/12(金) 17:52:08 ID:FvpvGh8q
何故ネギとにんにくは駄目なのか?

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/12(金) 17:54:11 ID:AsOTiWRs
美味しんぼで精進料理でニンニクがダメな理由を昔やってたな
忘れちゃったけど

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/12(金) 18:17:09 ID:Ni+6Nwjx
美味しんぼだと確か性欲が強くなっちゃうからとかいう理由だな
それだけじゃなくて、くさいからとか色々な理由があるらしいんだけど、美味しんぼではそこだけクローズアップしてた

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/12(金) 18:28:16 ID:bZJTKkVW
一方、親鸞は妻を娶った

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/12(金) 18:33:16 ID:gYqLdIX+
調べたら発祥のインドじゃあんまり根菜類食わないみたいだね(ローカーストの食べるもの扱い)

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/12(金) 19:24:10 ID:Zycqz7UQ
>>496
カレーの発祥地なのにターメリック食わないのか知らんかった


498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/12(金) 19:29:02 ID:Qc6ykN7p
酒を般若湯と言い換える人間臭さは嫌いじゃないぜ。

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/12(金) 19:38:16 ID:pT4GAksd
>>497
具として入れるのとスパイスとは別物なんでしょ

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/12(金) 19:43:27 ID:Ni+6Nwjx
つうか今のインドは仏教ちゃいますやん


512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 00:53:45 ID:c8tULCuF
>>492
ここまで挙げられた理由の他にも、五行説が関係してるとかいう話もある。
五葷(ネギ・にんにく・にら・らっきょう・あさつき等香りや刺激が強い野菜)
を好むのは五戒で言うところの妄、殺、淫、盗、酒を好むものだからダメだとか。

あと陰陽五行説では
にんにく→心臓(火)
ニラ→肝臓(木)
ラッキョウ→脾臓(土)
ねぎ→腎臓(水)
あさつき→肺臓(金)
を害するとかいうのが理由もあるみたい

井伊家から皇室へ塩鮭が献上された

2010年01月11日 00:07

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 13:23:18 ID:MIKHQO2L
鮭の話なんだが・・時代がわからん
(戦国末期か江戸初期?)

井伊家から皇室へ塩鮭が献上された。
その夕、鮭が天皇の食卓に並んだが、半分残したと聞いて
「御気に召さなかったか・・」と気を落とす井伊家の使者に、取次ぎ役が
「お上はたいそうお喜びになり、残り半分は明日に取っておくと言われました」
と伝えた。
天皇の食卓には7種の馳走を並べる決まりがあったが、
そのうちの3~4種には赤い札が置いてあった。
これは既に腐っているから食べないようにという印である。

皇室の困窮さを物語る話
鮭嫌いの人、スマンナ




881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 16:38:32 ID:4rmhpWaC

>>878
>既に腐っているから食べないようにという印
何そのトリアージ・・・井伊家からってことは江戸期の話だよな
貴重品の鮭を半分残したのは分かるけど、マジで!?

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 16:49:16 ID:20cO0w+7

井伊家は南北朝時代南朝方で活躍した家で、皇室とは
非常に繋がりが深かったらしいので、これはおそらく
皇室が最も衰微した、応仁の乱から信長の上洛
あたりまでの話じゃないかな?

実際には、皇室の経済的状況は信長→秀吉→家康の順番で
良くなってる。天皇の代替わり儀式である大嘗祭は室町末期から
断絶して、江戸期になってようやく復活した。

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 17:08:29 ID:yaiR1ZlM
>>881
宮家の窮乏は有名な話。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 19:16:06 ID:4rmhpWaC
>>883
へぇ、井伊って以前から朝廷と繋がりがあったんだね
一介の井伊谷の郎党ではなかったのかー

貴族はこまめに日記を記した

2010年01月07日 00:00

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/06(水) 19:20:57 ID:YS0pXap1
貴族はこまめに日記を記したが、これは子孫のために先例や故実を残さねばならなかったからだ。
それに残ってしまった悪い話。

明応の六年のこと。
摂関家の近衛尚通が、徳大寺実淳の娘を娶ることとなった。
当時の近衛家の家長は、尚通の父・政家である。
当然ながら、婚姻の話は政家と実淳の間で進められた政略結婚だった。

さて、祝儀の土壇場になって、一つの問題が持ち上がる。
実淳が、「娘を送るから輿と侍を迎えに寄こせ」と言ってきたのだ。
政家は公職にないとはいえ、かつて太政大臣まで務めた公卿トップの人物。
プライドがある。
「そんなことは先例にない。そっちで用意しろ」と居丈高な応答をした。
これに、実淳もかちんときたのか。意地になったらしく、
「『園太暦』(洞院公賢の日記)の貞和二年四月十六日の条を見てください。
近衛家が洞院家から娘を娶る時、輿を出してる。ほうら、先例はあるでしょう」
と、南北朝時代の記録まで持ち出して要求を取り下げなかった。
仕方なく、政家は迎えの人数を負担した。

政家は「件の例は不快」とはっきり日記に記したうえ、
「一向諸事は省略す(もう結婚式の段取りとか書かないわ)」と言い捨てた。

祝儀の空気や尚通妻が心配になるような事態だが、
妻・維子は公での活動も多く、長寿を全うしたようなので、幸福な家庭だっただろう。
たぶん。




510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/06(水) 19:32:32 ID:a1cbga9K
冠婚葬祭の準備は本当に大変だよね…
今みたいに式場なんてないし

藤原摂関家の娘

2009年12月24日 00:02

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 16:57:17 ID:yrcay5tN
明日明後日一人ぼっちだっていいじゃない


中世、朝廷は徐々に権力を喪失していった。
が、限られたパイを守るため、かえって家格や家業が細分化・厳格化されてくる。

しかし、これが困った事態を引き起こす。
戦国時代になると、藤原摂関家の娘は格下の家と婚姻しない慣例ができた。
皇族か、同じ摂関家で適齢の者がいないと、結婚できないのである。
おかげで、近衛房嗣は、自分の娘をすべて尼僧にして院に入れてしまった。
息子の政家も、娘はすべて出家。
その息子の尚道はさすがにまずいと思ったか、足利義晴に一人嫁がせた。
だが、他はまたしても尼僧院へ。
さらに息子の稙家は、父にならって義輝に嫁がせ、他はまたまた出家。

お家の身分ゆえに尼にならざるをえなかった女性達、
不幸だったのか、かえって幸せだったのか、定かではない。




328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 18:16:59 ID:t3KpnCA5
>>327
でも義晴に嫁いだ慶寿院は義輝に殉じているんだよな。
九条稙通も養女が十河一存に嫁いでいるようだけど、公家にとっては
大変な時代だったんだろうね

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/24(木) 01:44:24 ID:WwHvRJtu
<<327
そうか、わらわも藤原一門のはしくれ、家格のせいで1人なのじゃな…

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 09:11:42 ID:QXqW5TnJ
>>332
クソ、おれも摂関家に運れたばかりに

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 09:52:24 ID:oIwYFRIO
なるほど俺も家紋にも姓にも藤原氏の痕跡など無いが
つまりこの様は実は我が家が摂関家だったからなんだな

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 10:06:15 ID:O/YlYDNN
貴い血筋の人が多いスレでつねw
         サ   ン  タ
みなみなさんに第六天魔王さんが来ますように

336 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/24(木) 10:50:40 ID:YUacFBGT
節子!それサンタやない、サタンや!

[ 続きを読む ]

薩摩の寺と添え木

2009年08月30日 00:34

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 21:42:01 ID:tswDGQFy
薩摩の寺には山門を構えたり壁で囲ったりする風習が無かった。
とはいえ、戦国の世ともなれば治安も悪化する。

寺院を預かる僧侶達から「盗難を避けるために山門を気づくことをお許し願いたい」
という申し出があったのも仕方の無いことであった。
この話を受けた義久は一旦許可を出したが、このように付け足した。
「山門を築くのは致し方ないが"駆け込み寺"と言う言葉があるように、寺とは領民にとって
 心のよりどころでもある。
 たとえば夜に助けを求めてきた者が、山門に阻まれて寺内に入れなかったとあっては
 意味があるまい。山門の横には塀を乗り越すための添え木も建てておくように。」
 
そこで薩摩の寺院では寺の門の横には必ず添え木を立てて、登り越しのための
横木を付ける事が義務付けられた。
これは江戸時代に入っても幕末まで守られたという。




861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/30(日) 02:15:40 ID:Lk2U2uvz
>>857
すげぇな全国各地で戦国時代前後の文化や風習が明治維新までごり押しで
残ったとか色々聞くけどこう言う系の話があったら教えて欲しいでござる

862 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2009/08/30(日) 10:21:44 ID:FMFoaVVE
>>857
それって盗賊も入ってこれるんでは……

と書こうとして思いついた。壁に忍び返しをつけて一方通行にすればいいのだ。

873 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2009/08/30(日) 17:37:47 ID:Lk2U2uvz
>>863>>867>>870
おぉ見たかったのはこういうのです ありがとう


東寺の新見荘と応仁の乱

2009年08月20日 00:03

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/19(水) 18:34:44 ID:4pJbEAt/
京の東寺の数ある荘園のうち、備中には新見荘という荘園があった。

応仁元年(1467)、東寺はこの荘園との連絡が非常に困難となった。
そう、応仁の乱の勃発である。

乱の影響は地方に及び、東寺における新見荘担当代官、祐成は、年貢収得のための
備中への下向を危険だとして拒否。その後2ヶ月あまりもゴタゴタを続けた挙句、
結局祐成の中間である左衛門五郎と言う人物が、新見荘に下向することとなった。
これが同年10月のことである。

さて、翌応仁二年正月、左衛門五郎下向の知らせを持って、新見荘より一人の僧が、
使者が東寺へと現れた。しかし書状の日付から見ると、新見荘から京までは
通常7,8日でこられるのに、この僧は21日もかかっていた。その事を荘園担当部署である
最勝光院方が尋ねると、彼がに言うには、

「私は新見荘の田所(農政責任者)に扶持されているものです。
今備中と京の間は、上洛する軍勢とそれを阻止しようとする軍勢とが結集し、
甚だ危険なことになっています。このため山陽道も瀬戸内海も通行することが出来ず、
私は四国に渡り、遠回りをして京に上がりました。そのためこれだけの時間がかかったのです。」

最勝光院方は、危険を冒して上洛した彼の行動を大いに賞賛し、僧の苦労に報いるため、
粉骨分(報奨)として銭二百文を与えるよう要求した。

が、ここから話はややこしくなる。
東寺の内部で、「誰が粉骨分を支払うか」が、まるで決まらないのだ。

本来の新見荘の責任者である祐成はこの負担を拒否。

それならば東寺から直接出すわけには行かないのかと、供僧(東寺指導部)に願い出ると、
供僧達は評定で
「前例が無いからできない」と、けんもほろろ。

そりゃあ前例の無い騒乱が起こっているのだから、先例が無いのも当然だと思うが、寺社も
こういう事に融通の利く組織ではなかったのだ。

そこで皆が頭をひねった結果、ナイスアイデアが生まれた

「そうだ!公文僧祐(行政官)から、二百文の銭を新見荘の使僧に『貸す』と言う形にしよう!
そして使僧から借状をとっておいて、後から新見荘に請求すれば良い!」

何のことは無い。最初は東寺からの褒美であったはずの粉骨分が、担当者が皆、自分の懐が
痛むのを嫌がるあまり、結局荘園の負担に添加されてしまったわけである。

寺社の、領主としての当事者能力の欠落を感じさせる、戦国の初めの頃のお話。




553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/19(水) 20:36:12 ID:yhZ7Kctd
>>552
しょうもないと言うか、どうでもよさそうと言うか……。
まあお役人にとっては問題だったんだろうな。
前例にないことを自分の部署でやったら、これからもあるかもしれない。
そうしたら、また自分の懐が痛むかもしれない、と。


東西の山伏「貝が森くずれ」

2009年06月30日 00:02

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 19:06:48 ID:pZAbnaCb
天文年間の事だそうだ

大和国、大峰に全国の山伏が集まって修験した事があった。
その時伊予の修験者福生院と、美濃の修験者利勝院とが、席順をめぐって争いとなった。

悪い事に、福生院は西国に、利勝院は東国にそれぞれ大きな影響力を持つ修験者で、
この争いはたちまち、東西の修験者の大喧嘩となった。

そして福生院は与党の山伏を引き連れ帰国、やがて土佐の貝が森にたてこもり、
三年にわたって紫燈護摩の祈祷を行い、その間西国の山伏達を糾合、そのため貝が森の山伏は
大勢力となった。

これを聞いた利勝院は脅威を感じ、彼らの復讐を受ける前にと、東国の山伏を集め軍勢を組織、
船団を組み、観音崎の有る土佐の下の加江に上陸。近江国の金剛院を先鋒に
貝が森に攻め寄せた。

不意を突かれた貝が森の福生院党はたちまち壊乱、敗走した。
福生院は部下の金王院、南蔵院等をつれて伊予へと逃れようとしたが、途中の長瀬という場所で
金剛院の軍勢に追いつかれ、ついに討たれた。

だが、この時金剛院も傷を受け竹部と言う場所まで引き返したものの、そこで斃れた。

そして東軍の大将である利勝院も、攻め懸けた折に負傷し、貝が森まで引き上げたときに
「この地に美濃国蔵王権現を祭れ」と言って、自害したとのことである。

この事は「貝が森くずれ」と呼ばれ、この周辺には、この時死んだ山伏達を弔った墓石が、
今も処々に残っているのだという。

山伏の東西合戦のお話。





800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 19:31:00 ID:B/99TFaR
>>798
とんでもない怨念がこもってそうだなあ・・貝が森

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 20:00:47 ID:QQMmacwE
山伏って独立独歩なイメージがあったけど徒党も組んだんだな


雑賀衆と根来衆、傭兵集団と宗教

2009年06月24日 00:06

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/23(火) 16:25:57 ID:72K7yUsd
戦国屈指の傭兵集団雑賀衆が浄土真宗に集団で帰依したのは本願寺蓮如が
紀州に布教に訪れた時のことである。
阿弥陀仏を信じて南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな人間でも救われるという教えは、
明日をも知れない傭兵集団である雑賀衆の心を癒していたのだろう。
退けば無間地獄、進めば往生極楽というのも傭兵集団には心強かったのだと思われる。
一方、同じ紀州の傭兵集団である根来衆は真言宗根来寺の僧兵を中心としていたので、
紀州には一向衆門徒の雑賀衆と根来寺の僧兵を中核におく根来衆、二つの
傭兵集団が誕生することになったのである。
仏教の教えが直接的に人の境遇や立場を救っていた頃の話。






ある青年僧のスキャンダルIN葉隠・悪い話

2009年05月15日 00:04

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/13(水) 22:10:17 ID:o8oGVAkL
ある青年僧が18歳のころ、修行を認められ、寺の本山に呼ばれた。
本山へ向かう道中、日が暮れて宿を借り眠っていた所、真夜中にやって来た男女に
起こされ、大きな箱を背負わされて山へ向かった上、山中で穴を掘れと言われた。

青年僧が掘った穴の中から「この程度の穴で良いですか?」と聞くと、
男が「箱を埋めるための穴だぞ。まだまだ浅いわ。」と穴に入って来た。

次の瞬間、青年僧は隠し持っていた脇差で、男を突き殺した。
青年僧は穴から這い上がり、残った女が「い、命だけは・・・」と拝むのを無視して
背負って来た箱を開けた。宿を借りた家の主人の死体が出てきた。

「フン、間男にダンナを殺させて、オレに始末させようとしたってトコか。いいだろう、
有り金を全部よこしな。それで助けてやるよ。」
青年僧は、女を身ぐるみはいで尼寺に叩きこみ、本山に登った。

その後、本山は信長の攻撃を受けて焼け落ちたが、たまたま地方へ出ていた青年僧は
助かり、のちに家康の信頼を得て南光坊天海と名乗り、諸大名の尊敬を集めた。

そんな天海のもとに、ある日お福という女人が訪ねて来た。
「はて、竹千代さまの乳母どのが何の用事やら・・・」
お福の要望により、天海は人払いして彼女と面会した。
「さて、今日はどんなご用で 「 死 ね や━━━━━っ!!!1!」
お福が懐剣を抜いて、襲い掛かってきた。

「なっ!何をするだァーッ!!」
「うるせェーッ!テメェが裏で政治に口出ししてるって、みんなウワサしてるわ!!
竹千代さま差し置いて、国松さまを跡継ぎにしようとしてるのも、テメェの差し金だろ?!
不届き者のクソ坊主はアタシが消す!!」
「しっ、知らん!誤解じゃ!そ、そうじゃ、誤解である証拠に大御所に話してやるから!!」

という訳で、天海がお福と家康の面談をセッティングをしたおかげで、竹千代が正式に
徳川将軍家を継いだそうな。

以上、昔ブイブイ言わせたけど、元祖お局様には勝てなかったでゴザルの巻。
しかし「武士道といふは(ry」といっしょに黒衣の宰相のこんなスキャンダル書いてある
葉隠マジパネェ。




432 名前:コロッケ美味いナリ[sage] 投稿日:2009/05/14(木) 00:07:33 ID:eJDXfg6q
>>426
お坊さんどくな!そいつ……

戦国時代の善光寺について

2009年05月01日 00:08

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/30(木) 09:09:54 ID:0NHwvtUi
今まさに善光寺御開帳の真っ最中なんで、戦国時代の善光寺についてのお話でも。

武田家と上杉家が川中島で争うようになると、上杉謙信は善光寺のご本尊様(善光寺如来)
以外の全ての仏様を越後へ移した。
これを見た武田信玄、「へっ、謙信の奴ぁやる事が半端だよな」と思ったのかどうか、
大胆にもご本尊様を甲斐へ移して甲斐善光寺を建立した。

その後、武田家は滅亡、善光寺如来は織田信忠によって岐阜へ移されたが、
落ち着く間もなく本能寺の変が起こって信忠が自害すると、今度は弟の信雄によって
清洲へ、そして次に家康の手にわたって浜松へと……。

さすがの仏様も人間の都合であちこちたらい回しされるのに疲れたのか、
ある日、家康の枕元に如来が立ち、「甲斐へ帰してくれんかのう…」と言ったそうな。
家康はこの言葉に従い、善光寺如来は再び甲斐善光寺へ戻ることになり、
とりあえずは一件落着……とはいかなかった。

秀吉「くっ、せっかく作った方広寺の大仏が地震で壊れちまった……」
秀吉「どこかに代わりの仏様はいないものか……そうだ!」
秀吉「フッフフフ、仏教伝来から伝わる善光寺如来こそ、我が方広寺の本尊にふさわしい」
こうして、善光寺如来は京へ迎えられた。

しかし、善光寺如来が京に入った頃から、秀吉は体調を崩してしまう。
京の人々の間にはある悪い噂が広まっていった。
「秀吉様が病に伏せるようになった原因は、善光寺如来を勝手に動かした
バチが当たったからなんだよ!」
「ナ、ナンダッテ-!!」
秀吉もこの噂はさすがに応えたのか、善光寺如来を元あった信濃に返そうと
決心したそうな。

1598年、善光寺如来はおよそ40年の歳月を経て信濃へ帰還する。

戦国という世の中に翻弄されたのは、何も人ばかりではなく、仏教伝来以来の仏様と
伝えられる善光寺のご本尊様とて例外ではなかったというお話。




97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/30(木) 09:22:41 ID:1oCtzn1l
98年って秀吉がなくなった年だよな
まさか如来が信濃にかえるついでに・・・・

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/30(木) 10:14:44 ID:FrOZcG9t
「甲斐」の善光寺にって時点でおかしいよなこの話。

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/30(木) 14:13:29 ID:hRZkm8sD
善光寺は源頼朝が参拝の時に下馬の礼をシカトして馬で乗り込んだら
馬が勝手に回れ右したという「駒返し橋」が残ってたり武士に優しくない寺

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/30(木) 15:11:55 ID:CGnprqNi
>>99
そりゃあやっぱり牛揃えで…

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/30(木) 15:43:33 ID:rbBdRn6O
>>98
信玄の扱いがよくてそれが懐かしかったんじゃろうて

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/30(木) 18:07:25 ID:3Esi6X3O
信州信濃善光寺は北京五輪のことあって何気に好感

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/30(木) 18:24:38 ID:mHLnX8ws
武田織田豊臣と滅んでるのは祟りか何かか

なんで途中から甲斐から信濃に変わってるんだ?

105 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/04/30(木) 22:02:49 ID:1oCtzn1l
織田は別に血統たえてねえぞ

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/30(木) 22:15:58 ID:rwLX0d82
>>105
嫡流は絶えてる

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/30(木) 22:19:48 ID:SbRwc/FM
そういうことを考えていくと上杉も徳川も嫡流は絶えてることになるな
そもそも謙信は山内上杉のry

となっちゃうから揚げ足取るのやめよう
めんどくさい