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拙者が鴟の十文字を持って備えておれば

2022年06月09日 17:33

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/09(木) 16:45:21.57 ID:QvziPqEU
浅野家の臣である亀田大隅守高総は、元、溝口半之丞と言い、若年より手柄高名ある大剛の兵であった。
忍・岩槻での武辺、泉州樫井にて鑓を入れた軍功、言葉に尽くし難し。

持ち鑓は下坂忠親の作にて、十文字であった。鞘は鴟(とび)の嘴にて、栗毛のなめし革、鞘は総青貝にて、
銅の金具であった。

さて、浅野家が担当する、江戸御城の石垣を築き立てて後、三度まで崩れた。徳川秀忠公が巡見の時、
亀田に対し「何故に石垣が度々崩れるのか」とお尋ねがあった。これに大隅は畏まって

「拙者が鴟の十文字を持って備えておれば、一度も崩すことなど無いと存じ奉っていますが、石は
非情の物でありまして、仕るべき様が無いのです。」
と申し上げた。

さて、御普請が終わると、亀田は秀忠公より、鹿毛駮の御馬を賜った。
亀田は土井大炊頭利勝の家来・早川団右衛門に向かって

「公方様より御馬拝領仕り、有り難く存じ奉っているのだが、二毛の馬であり、外聞も如何かと思う。
御馬は如何様でもかまわないので、御替えして頂きたいのだ。」と訴訟した。
これを早川が大炊頭に伝えたところ、「尤も至極なり」と、他の馬を下されたという。

新東鑑

勇者だけどわりとユーモアもあるタイプなのか



508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/09(木) 17:39:18.61 ID:dZuFsclC
二毛=逃げかw
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其方之者と不可存候、天下之者と可存

2020年12月08日 18:02

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/08(火) 17:27:09.40 ID:wHMS4+2V
(大阪夏の陣、四月二十九日の樫井の戦いの後)同日夜に入り、但馬守殿(浅野長晟)より、
大隅(亀田高綱)と上田宗箇に同心して山口まで罷り越すように申し来た。
早々に参上した所、但馬守殿は

「両人ながら呼び出したのは、今日の鑓の、一、二を改めたく思ったためである。両人共に、
今日の合戦での次第を有り体に申すように。先ず亀田より述べよ。」
との事であったので、大隅が合戦の次第を申し上げた

「上田とそれがしが鑓を入れたのは、多分同時であったと思います。しかし、あの時私の周りは
騒がしかったので、分明ではありません。」

そう申した所、上田宗箇は
「いや、左様では無かった。大隅は私よりも、五、六間先に行っていました。」

もう申し上げたため
「そういう事であるのなら、一番鑓は大隅、二番鑓は宗箇である、という事だな。」
と仰せになった。その夜はまた、和歌山へ罷り帰り、この次第は浅野家の諸侍何れも承っている。

大阪落城の後、上田宗箇と大隅は京の二条城に召された。家康公の御前へは、大隅が先に
召し出され、直に樫井合戦の次第をお尋ねに成られた。そして但馬守殿を御呼びになり、こう仰せに成った

「この亀田は、当代に至り、両度御用に立った者である。彼をただ、その方の家臣と存ずべきではない。
天下の者と存ずるべきである」
(此亀田儀ハ当代に至り両度御用に立候條、其方之者と不可存候、天下之者と可存)

誠に以て有難き御諚であると存じ奉り、涙を流して御前を立ちかねるほどであった。

その次に上田宗箇が雄目見得いたしたのだが、今度の骨折りによって(関ヶ原で西軍についたことの)御勘気が
御免となるとの御諚であった。

その日、将軍様(秀忠)にも御目見得をし、一番は上田宗箇であった。「茶の湯は上がられるか?」
とのお尋ねがあり、罷り立った。次に大隅が罷り出でると、今度の働きを聞き届けられて居られた。
これにて御振る舞いが下されたのだが、たいへん騒がしい時期でも有り、兵衛様(徳川義直・浅野幸長の娘婿)に
申し付けたので、早々に参上するように、との御諚であったので、罷り立った。
その日、上田宗箇は既に但馬守殿の元から立ち退いていたので、大隅一人が兵衛様の元に参上仕り、
御振舞を下された。保昌五郎の御脇差を拝領した。これは現在、善右衛門に遣わし置いてある脇差の事である。

(亀田大隅守高綱泉州表合戦覚書)

大阪夏の陣、樫井の戦いでの亀田高綱の活躍とその評価について



小筒も、用いる所によって利があり

2018年11月12日 21:03

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 20:58:05.78 ID:ldUNo1GI
近年鑓鉄砲と称して、鑓に小筒を持ち添えて、鑓を突き出すと鉄砲が放たれるよう拵えた銃器がある。
確かに一理あるが、鑓前急な時に、これを用いる事、用捨あるべし。みな弓矢の工夫が薄いためこのような事に
成っており、心得るべきだろう。

亀田大隅(高綱)、後に鉄斎と号したが、彼は筒尺一尺余りの短い鉄砲に腕抜きを付けて、常に馬の際に付けていた。
慶長五年、新加納川越の時、川の半ばにて此の筒を撃った所、川向うの敵驚き去ったという。然らば小筒も、用いる所に
よって利があるということだろう。

(士談)



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 21:02:55.36 ID:fcfYanbe
銃剣的な発想での運用なのかな
銃に槍を付けようじゃなくて槍に銃を付けようって発想だし
何となく実戦だと激しく使えなさそうな気配がするが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 14:44:21.94 ID:QbO22WvF
弭槍みたいな弓に槍つけたのとか、絶対に使いにくそうだもんな

亀田高綱、普請の石垣が崩れたことに

2010年01月23日 00:14

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/21(木) 23:43:43 ID:5vF8nonj
大坂の役も終わった元和の頃のこと。

浅野家の家老亀田高綱と言えば、小田原、朝鮮、関ヶ原、大阪で活躍した、当時有名な武勇の者であり、
彼のフクロウの鞘の十文字槍は、知らぬものの無かったほどであった。

さて、江戸城の石垣の普請が浅野長晟に命ぜられ、亀田高綱がその総奉行となった。
ところがこの浅野家が担当した石垣、工事中に崩れてしまった。しかも、二度。

将軍、徳川秀忠が普請場を巡検した際、奉行の亀田を召し出して尋ねた。「どういうわけでここの石垣は
こうも度々崩れるのか?」

亀田、これに

「私がフクロウの十文字槍を持ってすれば、備(戦国期の軍隊の作戦単位)であれば一度たりとも
崩れることはありません!ですが…、
残念ながら石には心が無く、私のそう言う頼もしさがわかりませんようで、
まったく仕方の無いことでございます。」

と、自慢なんだか言い訳なんだか、良くわからないことを言ってその場を収めた。

そんな亀田であったが、この普請がどうにか完成すると、秀忠より「骨折り、ご苦労であった」と
馬が下された。その馬は鹿毛のまだらであったのだが、亀田はこの馬を見るや、
土井利勝の家臣、品川弥五左衛門に言った

「チェンジ!」

「せっかく頂いた御馬ではあるが、まだらでかっこ悪い!これ以外ならどんなのでもいいから
とにかく交換して!」
品川、これを土井利勝に報告すると、利勝は「しょうがないなあ」と苦笑い。
新たに別の馬を下げ渡すようにした、とのことである。

ちなみにこの亀田高綱さん、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-114.html
↑この件で上田宗箇にかなり腹を立て、それが遠因になって浅野家を出奔、紀伊に隠棲することに
なるのだが、その後も「亀田大隅一代働覚」「泉州樫井表合戦次第覚書」といった、ぶっちゃけ
自分の武功を自慢する本を著すなど、実に元気に隠居生活を過ごした模様。

なんというか、この時代の武辺者はとにかく面の皮が厚くてめんどくさいのだ。と言うお話。




906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/22(金) 00:19:21 ID:bJuK72vR
そもそも上田重安は普通に槍働きで万石取りなった人なのに
何故そこまで侮るのかってのがよく解らんよねw

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/22(金) 00:49:47 ID:StUnpmmR
相手の武功を知ってる小人物は張り合う気持ちから今零落してるのを過剰に馬鹿にする
知らん連中は…福島家の重臣たちを馬鹿にする若衆みたいなもんでしょ。

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/22(金) 09:59:14 ID:qo1/Bypk
加賀百万石ならともかく、3、40万石程度の大名家での1万石だからな。
むしろいろいろ言われない方がおかしいというもの。