170 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 04:02:05.63 ID:+LeHdO+v
伝え聞く所によると天正12年(1584)、上杉景勝より、上条(畠山)義春に、信州貝津、ならびに川中島領が
与えられた。その拝領の席でのこと。直江山城守兼続は景勝の前に座し景勝を脇に置き、自身に対して
諸侯が頭を上げられないようにしていた。
義春はこの事を奇怪に思い、貝津から何度か景勝に書状を出した。その趣は
『大名家においてただ一人の出頭人というのは御為に成りません。この事が陰でどのように言われているか、
よくよくお聞きになるべきです。』
景勝はこの書状を直江に見せ、
「これはどういう意味だろう?上条はこの様に申しよこしてきている」
直江は、これは自分の事を言っているのだと直ぐに悟ったが、表に出さず、さにあらぬ体で
「上条殿がどういう意図でそのようなことを言われているのか、よく解りません。」
と答えたが、内心、義春を自分の障害になると思い、景勝に讒言を行った
「上条殿は真田安房守昌幸と内通し、殿に対し逆心が有ると噂されています。」
景勝は、そのようなことが有るはずがない、と否定したが、それでも直江は
「とにかく、上条殿をこの春日山に引き取り置くべきです。何故ならば芋川、栗田、島津、岩井といった
信州衆の面々は、上条殿に大変に懐いており、これを放置すれば後々難しいことになると考えるからです。」
この様に何度も讒言を行ったため、景勝も、そうかという心が生じ、終に義春を越後に召喚する
使いを出した。
171 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 04:02:38.75 ID:+LeHdO+v
信州衆はこれを知ると大いに驚き
「これは只事では有りません。絶対に行くべきでは有りません!
申し訳を行うのであれば、ここから行なっても良いでは有りませんか!
春日山に行って良い事は、絶対に有りません!」こう、再三に渡り意見した
しかし義春
「私は幼少より謙信に取り立てられた人間であり、その恩を報じ無くてはならない。
春日山で切腹することに成っても構わない。その上、私には心底から、謀反の心など欠片も無い。
であれば申し訳も必ず立つはずである。」
そう言って貝津を出立したが、信州衆は彼を城橋まで追いかけ
「どうしても春日山に行くべきでは有りません!こうなれば真田と一味して御謀叛なさるべきです。
先陣は我々が承ります!」と、なおも説得した。それでも義春は
「私の妻女、そして子の弥五郎、源四郎、弥三郎は皆春日山に居住しているのだ。そうである以上
そのようなことは出来ない。」
そう断り、終に春日山城に参上した。
すると景勝は即座に義春を捕縛し。領地は全て没収、信州衆との連絡も立たれ、彼の家臣も
妻子ある者は皆地元の上条へ戻り、義春の周りには5,6人だけが従っている、という有様となった。
そして今日明日にも切腹、という状況に追い込まれた。
ところが、義春の番をしていた者が密かに申し上げた
「このように成ってしまえば、もはや御滅亡は疑いありません。他の者が番をしている間は
ここから脱出することはできません。ですから、私が番を担当している時に、どうか脱出を
してください!」
義春は合点し、直ぐ様能登に人を遣わして迎え船を府中湊まで呼び寄せ、天正16年(1588)7月3日、
春日山より密かに脱出し上方に上り、そして大阪の秀吉に申し上げた
「このような理由で、私はこちらに上がりました。私に立身の望みは有りません。
どうか、理非を吟味され、私に理がないと判断されるなら、即座に切腹いたします。
しかし、私に理があると判断なされれば、景勝に御扱いを仰せ下され、私が本国に
帰国できるようにしてください!本国には妻子も残っており、大変不憫に感じております。」
秀吉もこれを至極尤もだと思い、先ず飢えにようにせよと玄米千石を御扶持米として下され、
そして石田三成に
「義春と景勝を仲直りさせるようにせよ。直江山城さえ了解すればいい。景勝は直江次第である。」
と命じたが、三成は直江と親しい関係であったため、知らぬふりをし、ついにそれは13年間
捨て置かれたのである。
(北越太平記)
畠山義春出奔についての逸話である
172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 04:58:55.25 ID:+NZFBHtb
三成が隠したってこんなもめごとあったら、秀吉も景勝が来た時に「あの件どうなった」って聞くだろ
173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 07:58:34.57 ID:5kQRsSwa
>>169
一応甲州の方からは北条氏長と山鹿素行が出てるからな
174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 07:59:57.77 ID:dAD9VSpO
で13年後はどーなったの?
175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 08:36:30.02 ID:kvKiWyEE
えっと・・・景勝は馬鹿なの?
176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 09:04:10.21 ID:LNSY4flI
直江と三成は君則の奸のテンプレみたい
しかし景勝はラスボスと違って操縦簡単そうだなwww
177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 10:05:46.15 ID:s/lZUpkv
「と、殿が申しております。(キリッ!」だな。
178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 10:08:19.40 ID:pkLLlO7J
側
179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 11:18:07.89 ID:63eEMAob
義春さん関ヶ原では東軍だったらしいな
仕返しはなった訳だ
180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 11:25:49.63 ID:oWibhH2D
笑わない
全部直江任せ
自閉症?
181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 11:39:00.09 ID:5kQRsSwa
本当に謙信死後の上杉って陰険だよなぁ・・・
182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 12:19:10.20 ID:jcT9av3r
また宇佐美定祐か。この人の上杉関係の著作って
紀州藩や畠山義真とのラインで、いい加減な話どころか
(出自すら)嘘っぱちだらけだからなあ。
正直『甲陽軍鑑』あたりと比較するのも失礼なレベルで俗悪だと
思うんだけど。
いかに逸話スレとはいえ、ここらへんをソースに言いたい放題とか
悪い冗談としか思えん。
183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 12:29:50.95 ID:asPC0UJM
上杉sageのための工作書か・・・あの当時の2ちゃんみたいなものだな
184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 13:04:51.35 ID:bSrbgxM0
>>182
要するに上杉と武田の資料は全く信用が置けないってことか
185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 13:09:42.64 ID:kGEvB6jb
直江を主人公で大河とか今更ながら基地外じみてる
186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 13:36:11.19 ID:Ne4U7bUU
>>184
だから一次資料が重要なんだよ
187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 14:15:32.14 ID:jcT9av3r
>>183
上杉sageというか、越後流軍学を推したい紀州藩の思惑と、それに
乗っかって自家の経歴を詐称して仕官にありついた宇佐美定祐の「捏造」だな。
さらに畠山義真も一枚噛んでいるようだし、しかも畠山は米沢藩の「軍法役」に
「軍法」を伝授したりもしているとのこと。
しかも、それが米沢藩の修史事業にも大きな影響を与えてしまっているため、
なかなか厄介なことになっている。
長尾政景の横死なんておかげでなにがなんだか、さっぱり判らないことになって
しまっている。
このラインゆえか、宇佐美定祐の著作は畠山義春を持ち上げて
直江兼続をくさし、そして直江の専横にまったく口出ししない景勝、
という傾向が強いと思う
>>184
すくなくとも宇佐美定祐関連は眉唾かなあ。
『甲陽軍鑑』に限らず二次史料は注意は必要だけど、有用な史料には
なると思うけどね。考古学的な成果によって二次史料や言い伝えの内容が
証明されたケースもあるわけだし
188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 14:24:56.22 ID:hS+6+fdG
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3542.htmlこの逸話で理路整然と畠山義春が甲陽軍鑑の間違いを指摘しているけど
もしかしてこれも宇佐美関係?
189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 15:27:17.42 ID:Ne4U7bUU
家譜や軍記は君主や自分の先祖を持ち上げるための誇張は付き物だけど
宇佐美定祐だけはそこに悪意まで入るからどうしようもない
190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 16:40:42.05 ID:7UGOs80f
>>188
その可能性は高い。
畠山義春が『甲陽軍鑑』の間違いを指摘したというエピソードの出典は
国枝清軒編纂の『武辺咄聞書』なんだけど、この国枝は『東国太平記』の
編者でもある。そして、紀州藩の儒学者・榊原篁州がこんな証言をしている。
「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠がつくり、その名を隠した
ものである」
つまり、国枝清軒という人物の正体は・・・・。
まあ義春本人は宇佐美勝興の経歴詐称を見破った人物なんだけど、義春の
子・義真は後年「それは間違いでした」と撤回してるんだよね。
最近出た『神になった戦国大名』という本では、畠山家の伝えていた「謙信の
軍法」を越後流軍学を作り上げるのに寄与してもらった見返りに、国枝清軒と
して、義春の逸話を書いたんじゃないか、と指摘していたな。
191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 21:19:32.57 ID:0LbL04cn
>>172
まあそういうツッコミ所もあるから逸話ってのは話半分に受け止めときゃいいのよ
192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 00:39:29.86 ID:s1NJjeq0
>>179
いい話になったな