487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 10:24:22.25 ID:sDLB/S+3
寛永十二年の頃、或る人が甲陽軍鑑を畠山入庵(義春)の所に持ち来たりて、慰めに読み聞かせた所、
入庵曰く
「この書、大いに相違している。第一に上杉謙信が梶原景時の裔とあるが、謙信は元々長尾であり、
村岡勝軍忠通の三男・鎌倉四郎兵衛の孫、治郎景弘が始めて長尾を氏とし、兄弟が分かれたのであり、
別流である。
また「長尾義景」と書かれているのは、私の舅である政景の事であり、義景ではない。
また、天正三年の記録に、公方霊陽院義昭公と書き載せられているが、義昭公は秀吉公後他界の
前年まで後在世であり、慶長二年八月二十八日に薨ぜられたのを、その二十年前、天正六年に死んだ
高坂弾正が諡号を書くこと、不審である。
また天正五年十月に切腹した松永弾正の事を、天正三年六月の記事の中に書いている、松永の滅亡を
三年前に知って載せている。
また天文十六年二月十五日、武田晴信(信玄)が甲府八幡に詣で、山本勘介(勘助)を呼んで西国の事を
尋ねると、勘助はその座に於いて、大内義隆を家臣・陶尾張守晴賢が討ち滅ぼした事を語るとある。
義隆は天文二十年九月、長州深川村大寧寺に於いて生害している。これは晴信へ勘助が談じた年月から
四年後のことである。
また川越夜軍を、北条氏康が上杉と戦ったとある。川越の夜軍は氏康の父氏綱と、上杉五郎朝定との
戦いであり、天文六年七月十五日の夜である。
また両上杉に北条氏康が討ち勝った戦は九年後、天文十五年四月二十日の昼である。
(筆者注:こちらが一般的に言われる河越夜戦)
これら二つの戦いを一度に記するのは誤りである。
また十巻目の下に、松山の城主・上杉友定とある。松山城主は上杉左衛門大輔憲勝である。
憲勝は山内上杉・民部太夫憲顕より六代の孫である。また友定という人は、上杉一門の中には居ない。
朝定の事であろう。但し朝定はその一五年前、天文十五年四月二十日に討ち死にしている。
この書は偽書である。その上で謙信の時代のことは、私が直に見た事である。」
そう言われたという。
(新東鑑)
畠山義春による甲陽軍鑑へのダメ出し
488 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/03(金) 10:44:29.98 ID:aZoX+ODJ
日記じゃないし、昔のこと思い出して書いてるから年月日は自信ありませんと甲陽軍鑑に断りとして書いてあるのは読めてなかったのかな?
489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 11:04:33.63 ID:XcW5W4tO
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3542.html
畠山義春さん、甲陽軍監を聞いて
出典がないのは前に出ていた
こちらのは新東鑑が参考にした書が出典だろうと思うけど
490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 18:29:51.57 ID:IglZJe0y
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7423.html
畠山義春の出奔
甲陽軍鑑に畠山義春がダメだしをした、て話は怪しいとか前に出てたな
宇佐美定祐が甲州軍学より自分の上杉軍学の方が優れていると言うために
甲陽軍鑑の誤りを畠山義春の名前を借りて指摘したとか
寛永十二年の頃、或る人が甲陽軍鑑を畠山入庵(義春)の所に持ち来たりて、慰めに読み聞かせた所、
入庵曰く
「この書、大いに相違している。第一に上杉謙信が梶原景時の裔とあるが、謙信は元々長尾であり、
村岡勝軍忠通の三男・鎌倉四郎兵衛の孫、治郎景弘が始めて長尾を氏とし、兄弟が分かれたのであり、
別流である。
また「長尾義景」と書かれているのは、私の舅である政景の事であり、義景ではない。
また、天正三年の記録に、公方霊陽院義昭公と書き載せられているが、義昭公は秀吉公後他界の
前年まで後在世であり、慶長二年八月二十八日に薨ぜられたのを、その二十年前、天正六年に死んだ
高坂弾正が諡号を書くこと、不審である。
また天正五年十月に切腹した松永弾正の事を、天正三年六月の記事の中に書いている、松永の滅亡を
三年前に知って載せている。
また天文十六年二月十五日、武田晴信(信玄)が甲府八幡に詣で、山本勘介(勘助)を呼んで西国の事を
尋ねると、勘助はその座に於いて、大内義隆を家臣・陶尾張守晴賢が討ち滅ぼした事を語るとある。
義隆は天文二十年九月、長州深川村大寧寺に於いて生害している。これは晴信へ勘助が談じた年月から
四年後のことである。
また川越夜軍を、北条氏康が上杉と戦ったとある。川越の夜軍は氏康の父氏綱と、上杉五郎朝定との
戦いであり、天文六年七月十五日の夜である。
また両上杉に北条氏康が討ち勝った戦は九年後、天文十五年四月二十日の昼である。
(筆者注:こちらが一般的に言われる河越夜戦)
これら二つの戦いを一度に記するのは誤りである。
また十巻目の下に、松山の城主・上杉友定とある。松山城主は上杉左衛門大輔憲勝である。
憲勝は山内上杉・民部太夫憲顕より六代の孫である。また友定という人は、上杉一門の中には居ない。
朝定の事であろう。但し朝定はその一五年前、天文十五年四月二十日に討ち死にしている。
この書は偽書である。その上で謙信の時代のことは、私が直に見た事である。」
そう言われたという。
(新東鑑)
畠山義春による甲陽軍鑑へのダメ出し
488 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/03(金) 10:44:29.98 ID:aZoX+ODJ
日記じゃないし、昔のこと思い出して書いてるから年月日は自信ありませんと甲陽軍鑑に断りとして書いてあるのは読めてなかったのかな?
489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 11:04:33.63 ID:XcW5W4tO
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3542.html
畠山義春さん、甲陽軍監を聞いて
出典がないのは前に出ていた
こちらのは新東鑑が参考にした書が出典だろうと思うけど
490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 18:29:51.57 ID:IglZJe0y
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7423.html
畠山義春の出奔
甲陽軍鑑に畠山義春がダメだしをした、て話は怪しいとか前に出てたな
宇佐美定祐が甲州軍学より自分の上杉軍学の方が優れていると言うために
甲陽軍鑑の誤りを畠山義春の名前を借りて指摘したとか
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