織田秀信の没落

2014年03月05日 18:57

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 17:58:57.63 ID:R5Jpo6Py
織田秀信は慶長五年の石田三成の呼び集めに応じて一味し岐阜に籠城した。

関東の先手ならびに軍鑑の井伊と本多たちはこれを攻め、
先手田中兵部少輔(吉政)の合渡川の先陣に織田勢は敗軍した。

池田と福島が大手と搦め手より攻めたために、ついに落城するという時、
秀信は硯を取り寄せて戦労の者へ感状を与え、それぞれに暇を遣わして
自身は高野山へ遁世した。

「この急戦中に静かに感状を書き与えるなどとは、若将ながらさすがは
右大臣信長公の御嫡孫かな」と、その頃、敵方においても賞美された
ということだ。

その時、秀信は少々の御供とともに敵数万の中を参然として通った。
その折に生け捕るべきだと相談したところ、福島正則は、

「家来に暇をやるのは命を助けたいと思ってのことだ。こうして僅かに
十人ほどの小姓者ばかりを連れて、この大事の中を落ちて行くのを
生け捕ったからといって功にもならない。かえって非義無道である。
士の情はこのような時にこそあるのだ」と言って、制止した。

――『明良洪範』






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織田秀信の感状

2011年06月13日 00:01

67 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/12(日) 02:11:11.34 ID:+dAo55Yr
1600年にあの織田信長の嫡流である織田秀信は石田三成と
徳川家康の争いである関ヶ原の戦いにおいて家中には東軍派も多かったが
三成率いる西軍に直々に秀信が三成と面談し祖父の旧領である美濃尾張を約束され三成に同心することとした。

東軍が小牧評定の後に福島や池田を先鋒として美濃に攻めかかり
美濃は西軍派が多かったにも関わらずあっという間に防衛戦を突破されてしまう。
秀信は岐阜城に東軍の大軍が迫ってくると3500人で木曽川を用い1万7000人を迎え撃ち川の手で鉄砲を打ちかけたり
百々綱家が伏兵を用いたりで奮戦するものの大軍に勝てるわけもなく敗北、秀信軍は撤退して岐阜城に籠城した。

岐阜城はけして堅固ではない城であるが、東軍と西軍は相当な激戦となったようで秀信の家臣である
飯沼長資が一騎打ちで
東軍の一柳家の勇士大塚権太夫を討ち取ったり正面から攻めてきた福島隊相手に上格子門で
またその他の東軍にも砦や施設でも奮戦を見せたようである。
しかし岐阜城は大軍相手にはとても支えきれず一日で本丸に追い詰められで38人が籠城してるだけとなった。

秀信はここにいたり家臣の軍功を褒めた感状を書き記し最期まで付き従っていた家臣全員に与えたのである。
感状は再仕官の際の証明書のようなもので、その内容により仕官の可否や禄が決まるということで禄を失った
家臣への
秀信の最後まで従った家臣への優しい配慮であった。またそれを書き終えたあと自害しようと秀信はしたのであった。

東軍の池田輝政の降伏勧告もあり秀信は岐阜城を開城開城、助命されることとなった。

どうでもいい余談
せっかく感状を書いてもらったであろう秀信家臣の38人は落城時に切腹、現在でも血痕が残っている。
秀信家臣の多くは福島家に仕えるものの福島家は旗本となってしまったり元秀信家臣の中にはキリシタンで
処刑されたのがいたり、
歌人になった人間がいたり秀信自身は高野山を追い出され仕官すら出来なかったようで感状はあまり役に
立たなかったようである。




68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 02:35:08.89 ID:DB6hDY3y
>>67
この感状の逸話のおかげで秀信の評価上がってるよね
やっぱり人間こういう時の対応が大事なんだなあ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 03:17:56.83 ID:lv47T30d
そっせん東軍に参加」したほうが・・・・。
寝返りの機会なんざいくらでもあっとぁ訳だし・・。

70 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/12(日) 03:54:29.58 ID:SQTIMzee
たった38人に降服勧告って、、、

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 04:12:22.67 ID:3ylVv9Q6
3500人の兵力があるなら、最初から篭城しておけば
決して堅固でない城でもそう簡単に落ちなかったと思うんだが
なんか討って出なきゃあいかんという事情でもあったのかな

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 04:15:22.27 ID:G8BFWHS/
たしか、お爺ちゃんの信長のマネをしたからだって聞いた事があるな

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 07:10:10.63 ID:axYSqfbc
>>71
山中城は4000人篭めて半日で陥落

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 14:56:39.91 ID:e36bx8l+
>>77
竹中が二十人以下で制圧したくらいだしね


82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 15:19:53.59 ID:t2Qc1imh
>>80
逸話と史実は区別しようぜ

落ちゆく織田秀信

2010年01月27日 00:01

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/26(火) 00:13:25 ID:y1i15NtW
関ヶ原、岐阜城攻めの時の事、

城方の者の中には相当の武功を誇る人間も多かったのだが、そう言った人々は尽く
自身の功を得るため城外に出て戦った。
そのため、城方が東軍への降伏を受諾し、城主織田秀信が下城する頃には、その傍に居たのは、
家老の木造長正一人であったと言う。
他の者たちは皆、残らず信秀より先に落去ったのだそうだ。

「忠義の道が衰えると、人は皆、自分の身を利するようになると言うが、まさにその通りである。」

人々、城より落ちゆく織田秀信の寂しい姿に、そのように語り合ったと言うことである。




23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/26(火) 01:55:47 ID:OereBmwL
秀信さんは降伏の前に、
禄を失った部下達が再仕官の時に困らない様にって
手柄を立てた人達みんなに感状を与えてるんだよね・・・

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/26(火) 07:12:33 ID:niv2CuhC
>>23
信長の嫡孫とか言われて担がれたけど、きっといろんな人に気を遣いながら育ったのかもな。
と、その感状の話を見るたびに思う・・・・

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/26(火) 08:29:47 ID:yAdmIQAx
その話は良く聞くが、
家臣は再就職できたのかな?

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/26(火) 11:08:16 ID:2uQ/vSNh
越前黄門や時代がズレるが駿河大納言に仕えてたりすると面白いな…

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/26(火) 23:06:26 ID:Ei+E0/Ut
木造は福島家、百々綱家は山内家に仕えてるな
他にも福島や池田といったあたりに仕えたのが多い

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/26(火) 23:10:32 ID:vTd+zk94
岐阜の秀信を攻めた家に仕えた人が多いのかな。
いい働き見せてスカウトされたとか?

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/26(火) 23:27:47 ID:Db4ZY39Z
同情されたんじゃないのかね。
すぐ落城しちゃったし何もする時間なかたろうし

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/26(火) 23:59:30 ID:OereBmwL
元の持ち主が目の色変えて攻めてくるなんてあんまりでござる

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