富永伴五郎忠元の討死

2010年02月02日 00:02

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/01(月) 19:57:51 ID:XAiVzUR8
三河の名族吉良氏の家中に富永伴五郎忠元という剛の者がいた。

富永家は吉良氏譜代の家臣で、伴五郎も弱冠25歳ながら家老職を務め、
主君である吉良義昭にしたがい数々の合戦で多くの武功があった。

桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、今川氏の三河統制が弱まると、
独立を模索し出した家康と今川氏に従う周辺武将の間で緊張が高まる。

主君の吉良義昭は、西三河で今川氏に従う武将たちの旗頭的な存在となり
松平勢に先制攻撃を仕掛け一旦は勝利する。しかし、調略により寝返りが
相次ぎ、遂には本城である東条城を四方から包囲されることになる。

攻城はおよそ半年に渡ったが、伴五郎らの奮戦により容易に城は落ちない。
苛立った家康は、未だ東条城籠城中の伴五郎の所領を攻城陣中の主な武将に
宛がって奮起させた。家康の心を察した武将連は総攻撃の期日を9月13日に定め
それぞれ支度に入った。攻め手の一人、本多広孝は出陣当日、鎧の上帯の結んだ
端を家臣に切らせて解けないようにして決意ののほどを示した。

松平方の総攻撃を見た伴五郎は(もはや敗戦を覚っていたのか)、

「籠るばかりでは御運も開かれまい。某が打って出て殿の御運を開きましょう」

と言って己れの手勢のみを率いて攻め手の中へ斬り込んだ。
富永勢は大いに奮戦したが、多勢に無勢、郎党ことごとく討たれて伴五郎も城の
南西、藤波畷に追い詰められた。押し寄せる敵をなおも斬り倒す伴五郎であったが
本多広孝の槍にかかり遂に斃れた。


伴五郎戦死の報が松平陣中に伝わると、それを聞いた者は皆こう呟いた。

「ああ、伴五郎が逝ったか・・・城も落ちたな・・・」

果たしてその日のうちに吉良義昭から城を明け渡し降伏する旨の使いが来た。


伴五郎は、敵・味方ともに認める勇士であった。彼を斃した本多広孝は伴五郎戦死の地に
供養塚を建てたが、地元民の手によりいつしか地蔵に建てかえられ「伴五郎地蔵」として
崇拝されている。何故か「眼病によく効く」と言われている。




574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/01(月) 20:40:14 ID:/6sqZ4Ss
>>573
なんか激しいけど、余韻を感じるような良い話ですな。
しかしこういう勇者を祀ったお地蔵様は、たしかに下手な神様よりご利益がありそうだ。

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