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小田氏治の後継者

2010年07月12日 00:01

809 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 02:54:41 ID:yAr7T5wl
小田氏治の後継者


天文17年(1548年)、小田氏治に待望の長男、喜太郎(後の友治)が誕生する。
これを喜んだ氏治はつい初めて授かったわが子可愛さに「喜太郎を嫡子にするぞ!」と公言し、舅の
芳賀貞利などを教育係に指名した。
ただ一つ問題があったのは喜太郎が「側室の子」であったという事だったのだが・・・

8年後の弘治3年(1557年)、正室との間に次男が誕生。正室との間の子という事で氏治自身の幼名である
「彦太郎」と名付けられた。(後の守治)
どうやら氏治は彦太郎を自身の後継者にと考えていたようだが友治を嫡子にすると言って8年。
既に家中では友治派とも言うべき派閥が形成されており下手なことは言えない。
結局の所、なぁなぁなままで年月は過ぎ去っていった。

元亀3年(1572年)、小田氏治は入道し天庵を名乗り、小田城を守治に譲り藤沢城へと転居。同時に
友治を廃嫡。
友治は小田家を去っている。
しかしながら友治派と氏治・守治派の対立構図だけは残り家中も分裂気味になり、その隙に
太田三楽斎が攻めこんでくるなどやはりすっきりと治める事が出来ず散々な目にあっている。

さて、廃嫡された友治であるがやはり幼少期に嫡子として育てられた事が忘れられず自身が庶子だという
自覚は全くなかったらしい。
小田氏改易後は鎌倉時代に活躍した遠い先祖以来の八田姓を名乗り「私こそ正式な小田の後継者」と
名乗るようになるなど色々と性格面に歪みを残した。


色々と思慮の足りないお話





811 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 03:10:00 ID:d/yTYgZK
友治かわいそうです

812 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 07:28:13 ID:ue9+/xGg
で、よりによって福島正則の元へ走った

813 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 10:51:18 ID:8cgldHFM
なんで側室の子を嫡子宣言したあとに、わざわざ正室とイチャイチャするんだ、危なっかしい

814 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 11:00:21 ID:w+IObfHv
御機嫌とりだろ常識的に考えて…

815 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 11:15:26 ID:eQKCKgit
嫁さんとのイチャイチャは義務だろ・・・家庭内平和的に考えて・・

816 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 11:19:13 ID:czsGjRr4
体が好きだったかも。

817 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 12:53:51 ID:d/yTYgZK
友治の母は家臣の娘だが守治の母は江戸氏から輿入れしてきた娘だからなぁ。

正室の方が輿入れが後なら天庵さまは悪くな・・・いや綺麗に処理出来てないからやっぱり悪いか、うーん。

818 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 12:55:08 ID:yt07FnGI
>>809
幼児期に正室腹の息子が生まれて、そっちを嫡子にする空気にはなってたのに、
正式に廃嫡されたのは二十歳すぎてから?
よくあるgdgdかもしれんけど、もうちょっとなんとか対処できなかったの…

819 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 14:50:11 ID:ZlgKR46n
政宗んとこも側腹が長男で、正室の子が次男だったな。
「後から生まれても嫡男は嫡男」として次男を後継者にしたら
長男がぐれて家臣を切り殺した。
政宗と二者対談して仲直りはしたらしいが
親の都合で振り回された長男にちょっと同情。

820 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 14:58:20 ID:XaYCCeRw
そこは家族まとめて皆殺しにされた山家さんに同情すべき
そりゃ祟るわ

821 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 15:33:31 ID:pdGsRZ9e
信長とかもそうで庶出の長子と嫡出の弟ってよくある話だろう。
長幼の序っていうのも、親の血統が同レベルでこそ言える話。

822 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 15:45:18 ID:udDOvSMU
>>819
でも明治時代になると、兄の分家の方が侯爵で、弟の本家の方が伯爵だったりするから、なにがどうなるかは
分からんもんですな

823 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2010/07/11(日) 18:29:00 ID:4rRpfwZg
兄の分家つったって血統としては・・・
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小田友治の顛末

2010年02月02日 00:09

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:31:57 ID:9Vp7RM9C
このスレでは結構知名度が上がったので説明は省いてもよさそうになった
常陸の戦国大名小田氏治には、後々名前が残っているだけでも二人の息子がいた
一人は色々氏治に似たところがあるのが怖い嫡子・小田守治
そしてもう一人が、今回話す人物、庶子・小田友治である
一応友治の方が年齢的には九歳上なのだが、側室の子であったのだ

他にもそういうことが多々あるが、嫡男より年上の庶子はぞんざいに扱われがちである
大体は出家するか、良くて養子、もしくは人質として他国に送られるのが戦国の習い
友治も父が華麗に上杉謙信を裏切り、北条と同盟を結んだ際、小田原に人質として送られた

でもまあ、彼はその方がある意味幸せだったのかもしれない
北条家では他国からやってくる人質の少年など珍しくはなかったし
その後父が再び謙信に降り北条を裏切っても、その代償に殺されるということも無かった
友治は北条家で教育を受け、北条家で元服し、そのまま北条家の家臣になった

そうして友治は一生を北条家家臣として過ごすことになるかと思われたが、
友治が42歳の時、北条家は豊臣家によって滅ぼされてしまった
で、この友治は教育が良かったせいなのか、氏治に似ず案外有能だったから
スライド式に北条家から豊臣家に再就職が叶い、秀次に仕えることが出来た

再就職先での彼の仕事は自分の血筋を生かしたものだった
関東仕置きの後、関東はほぼ佐竹と徳川のものとなったが
これらの土地の内情を「先祖の墓参り」と称して潜入し、調査する。はやい話がスパイである
友治は見事にこれをやりとげ、常陸の地理や寺社仏閣の縁起、佐竹の内情を秀次に報告した

彼はその仕事で認められて、秀吉から船奉行に任ぜられ伊勢などに八千石を下賜された
この頃、友治は小田の家祖の名である八田を名乗るようになる
没落し結城秀康の陪臣となって小禄を食んでいる弟よりも、こちらが嫡流だという意識が湧いたのだろうか
この後も友治は朝鮮に渡り武功をたてるなど、豊臣家臣としてなかなか頑張っていた


227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:34:56 ID:9Vp7RM9C
ところが、秀次事件がおきる
秀次の死に際しては、出奔し行方をくらませたために幸い命は助かったが
苦心して築いてきた豊臣家でのキャリアは全てご破算となった
それでも小田の人間らしくハングリー精神にあふれる友治は今度は徳川家に就職した
そして、父や弟と同じ結城秀康に仕えることとなった
ここでも友治はなかなか有能だったため重用されて、
秀康に意見をのべたりすることもままあるほどになった
ところがさすが小田の人間というか、彼もこういうときにコケる

慶長五年八月、友治は主君秀康と共に対上杉の牽制として宇都宮にあったが
主君がこれに不満を抱いているのは明白だったから、友治は
「今は東西に敵があり、お家の存亡を決める時です
 君命といっても受け入れられない時というのが世の中にはあります
 戦いに臨んで勇気の無いものは孝子ではありません
 秀康公におかれましてはひそかにここを引き払い西上し
 見方の軍に合流して先駆けを願い出れば、
 家康公もきっと気持ちをわかってくださるはずです」
と主君に進言した。秀康はその進言を喜んで受けた。

で、わかってもらえなかったのである
家康はこの秀康の先駆けに激怒し、それを勧めた友治を憎んだ
友治は弟の守治の家臣となることを命じられたが、友治のプライドはそれを許せなかった
彼は結城家を退去した。

その後、ちょこちょこ出仕先を変えたりしていた友治だったが、
最終的には出家して、京都で死んだ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:37:22 ID:9Vp7RM9C
ところが、小田の血筋の因果はまだ尽きないのだ

この友治の子、義治はこんな父の生き方を見て育ったためか
やっぱり自分が名門・小田の嫡流だという意識があった
で、彼は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣に際しては小田家伝来の旧領
つまり小田城のあのあたりの回復を条件に、全国から小田の家臣を集めて戦った
これが数は定かではないが、結構集まったのである
ただしもう徳川の旗本になっていた菅谷さんは来なかったので
それが悪かったのか、大阪城は落ちた

で、さすがは小田の人間というか
重傷は負ったものの、義治は生き残るのである
そしてどういう縁かは知らないが、福島正則に誘われてその客分になり
布団の上で病死した

氏治さんも濃いが、その系譜も濃いよね




229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:39:15 ID:85wdHz76
何と言うか…

小田家には「軽率」と「悪運」の血が色濃く流れすぎているなw

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:41:33 ID:NkMJttWd
なんか呪われてんじゃないかこれ…
例によって運命が悲惨であっても人望はあるけどw

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:43:46 ID:cnYlui2x
氏治さまの血は不滅だね

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:44:34 ID:7f0EonSN
語弊はあるだろうが、このスレのためにあるような家だな。

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/01(月) 00:14:14 ID:2OnIhGO8
なんだろうな、小田の血筋はみんなこんなんなのかw


234 名前:201[sage] 投稿日:2010/02/01(月) 00:52:49 ID:9wiRcNP4
冬姫が人気らしくてよかった。
それよりもオチの家光への突込みが少ないのが気になる。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/01(月) 00:56:03 ID:JK1Tixtx
一応死なないんだから運はいいんだよなw

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/01(月) 01:45:07 ID:63M1N3EU
・小田政治
足利晴氏に味方→河越夜戦で大敗
・小田氏治
お察し下さい
・小田友治
北条に仕官→滅亡
秀次に仕官→秀次事件
秀康に仕官→秀康若くして死亡・忠直改易
・小田義治
秀頼に仕官→滅亡
市松に仕官→改易第一号

日根野さん程じゃないけどデス一族だな
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