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龍泉寺の事

2020年02月15日 13:58

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 02:29:54.96 ID:hq79ljkl
https://ikura.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/466

これにあった「兄弟の絆」に関係する話
この大田原資清さん、兄を呼び寺を建て大田原氏の菩提寺にしたとあるけど

当然ながら、その前には別のお寺が菩提寺だったわけで
その寺はと言うと「龍泉寺」

過去の大俵氏の水口館への移転の際にも一緒に移転しており
大俵氏からは「菩提寺」と「祈願所」として大事にされてたらしい

そしてその後の資清さんが新たに城を建てた際にも三の丸に移され
菩提寺が光真寺に移ったあとも、
大田原氏は代々「祈願所」として残し大事にしたらしく

「龍泉寺」は大田原氏ゆかりの遺品を遺していて
今も大田原城跡のそばに寺があったり
何気に大田原氏は主に三兄弟とその父親がアレだが
身内は大事にする一族だったようだ



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兄弟の絆

2012年11月19日 19:52

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 23:25:33.47 ID:I0cJ4jNX
兄弟の絆


永正18年(1518年)、那須家臣大田原資清大関宗増らの讒言によって失脚し所領を追われた。
そんな資清を救っていたのが故あって僧籍に入り塩谷家の所領にある長興寺の住職となっていた
実兄の麟道和尚
那須家の力の及ばない所で施しを与え、資清は再起への力を蓄えていた。

そして天文11年(1542年)、実に24年の時を経て大田原資清大関宗増を降伏させて長男を
大関家に送り込み復権を果たす。
復権した資清は居城を従来の水口城から龍体山に移すことを計画し、これと同時に追放時の
ゴタゴタで今まで行うことのできなかった
両親の菩提を弔うために新たに七堂伽藍を建立した。

資清はこの寺に世話になった兄の麟道和尚を開山第一世として請うて招き、寺の名前を
兄弟の父の法号「明庵道光」の光の字と、
母の「真芳妙観」の真とをとって「光真寺」と命名して、300石という破格の寺領を与えて
大田原家永代の菩提寺とした。

関連
龍泉寺の事


468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 00:18:26.18 ID:xVwgnoRT
那須家って何でこんな家臣からボコボコにされるの?

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 00:28:58.98 ID:FXD/ktxV
スケキヨ兄とか住職になるまでに泥沼の権力闘争を征したりしてるんでしょ・・・?(偏見)

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 14:23:17.35 ID:wY2zrM6X
長男ってきたない大関だっけ?

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 19:49:59.12 ID:RbQCKCwP
>>466
これを見習った息子達も兄弟が一致団結、那須資胤と戦ったというわけか

城鍬舞

2012年07月08日 20:58

城鍬舞

大田原資清


290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 23:26:48.37 ID:4t36OVTS
城鍬舞


天文14年(1545年)、大田原資清が新たなる本拠地として建築していた前室城(大田原城)が
ついに完成した時のこと。
資清はこれまで城の築城に携わった城下6ヶ村の農民たちを労い彼らを招いて酒宴を開いた。

宴もたけなわ、興が乗ってきた所で酔っ払った石神村の藤兵衛という男が鋤や鍬を持ったまま
奇っ怪な踊りを披露すると
これが会場で大受けしたが、これが領主資清の目にも止まった。
どうやら資清もこの踊りを気に入ったらしくその後、資清は毎年正月になると彼等を城中に招き、
この踊りを演じさせたという。

最初は酔っぱらいの宴会芸に過ぎなかったこの踊りも次第に舞踊として形式が固まっていき、
現在に城鍬舞として伝承され、
現在は栃木県の県指定無形民俗文化財となり、例年10月になると上石上温泉神社に奉納されている。




291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 23:30:22.47 ID:zJGl1MAL
大田原スケキヨさんなのにいい話だと
てっきり農民たち全員殺すのかと思った

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 23:37:59.27 ID:7vQC2XM1
領民に対しては割とフランクで慕われてたりしたんだろうか



293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 23:59:38.97 ID:rKyNG4Yr
那須でスケキヨってw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 00:41:19.54 ID:rJ7C71LD
謀将策士といわれるタイプの人は民虐げるの少ない印象が

損得計算できるわけだからねぇ

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 00:44:18.40 ID:a2+ZtMI9
>>290
てっきり酒宴の後に城の築城に携わった城下6ヶ村の農民たちを口封じのために殺すのかと思ったw

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 00:48:19.17 ID:Gyn7CuHa
大田原資清なんて普通の人は知らないであろう人物の評価が、
ここでは一定しててワロタw


297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 00:54:24.71 ID:6i5dFhg3
ここはいい話スレなんだからそんな身構えるなよw

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 01:53:17.66 ID:qE3zdK9J
そりゃ、まず罠だと疑うでしょwww

遠謀

2010年07月21日 00:00

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 21:14:13 ID:Z299spqA
遠謀


天文19年(1550年)当時、那須家の当主は那須高資という人物であるが那須家家老、大田原資清は
高資の弟の那須資胤に家督を継がせたいと考えていた。
というのも高資と資胤は別腹の兄弟であり、資胤の母は大田原資清の娘であったので外戚として
影響力を今以上に増したいと思いがあった。

そんな資清の元に思わぬ来訪者があった。敵対しているはずの宇都宮家の家老、芳賀高定からの使者である。
高定は高資を亡き者にしたいという思いがあったが、家老でありながら同じく高資の事を疎んじている
資清が話に乗る可能性に賭けたのだ。
しかしながら高定の使者からの高資暗殺の企みを資清は断る。

ただ、資清も謀反人にはなりたくないだけでこの話を面白いとは思っていたようだ。
大田原城に那須資胤を招くと高資の家中での評判の悪さを挙げて、遠まわしに高資排斥を提言したが
資胤はこれを断った。
不発に終わったのでやむなく資清はこの場では高資の暗殺をしつこく薦めることはしなかった。

この動きを察知したのが芳賀高定だった。
高定は揺さぶりをかけた。すなわち「那須資胤、大田原資清両名に翻意有り」という情報を人づてに
高資に直接流したのである。
もちろん高資は激怒したが既に家中での権限をかなり掌握していた資清に手を出す事の危険性は
理解していたので資胤を排除することにした。
すなわち高資の名代として資胤を熊野参詣に送り出し、その道中に資胤を暗殺するというものである。
家老の興野氏の提言によって上那須の将は資清の息がかかっている可能性が高いことから
下那須の将から刺客が選ばれた。

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 21:16:20 ID:Z299spqA
だが暗殺を命じた将もまた高資に不満を持っていた。資胤を殺したと偽って千本資俊の元に匿わせたのである。
兄の補佐をしたいと思っていた資胤もこの事態に愕然とし、ついに高資を憎むようになり高資暗殺を容認した。
ここに全てにお膳立ては整った。

まず、芳賀高定が動く。
千本資俊に使者を送り、貢物を贈ったうえで芳賀領の一部譲渡を条件に挙げ、高定暗殺を頼み込んだ。
資俊も資胤の許しはあれども資清の勝手な行動から生まれた事態なので実行を渋っていたのだが、
欲が勝ったかついに暗殺を実行に移すことになった。

そして天文20年(1551年)、千本資俊は千本城に酒宴に招いた那須高資が酔ったところを襲撃。
高資は酔いながらも奮戦したがついに力尽き千本家臣に討たれる前に自害して果てた。
逆臣となった千本資俊を討つべく、那須家臣が千本城を包囲したが死亡したと思われていた那須資胤が現れ動揺する。
結局のところ、強硬路線の高資に内心で反発感情を持っていた将は少なくなかったため、
包囲していた将は次々と戻ってしまう。

翌日、那須家諸将が集まり会談が持たれたがそこで決まったのは
「一、高資は病死した事とする」
「二、資胤が家督を相続する」
「三、千本資俊に咎めなし」

という事であった。
それを抜け抜けと提案したのが全ての元凶となった大田原資清その人である。
こうして自らの手を汚さすに全てを思い通りに動かすことに成功したのであった。




975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 21:19:48 ID:jln7BGp+
黒い。実に黒い。
しかし那須がらみはホント、こんな話ばっかりだな。

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 21:25:02 ID:oX+2Q6ey
揺さぶりをかけたつもりがいつの間にかより質の高い策にするべく協力していたでござる。

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 21:25:11 ID:SOz0zHT1
>>972
>もちろん高定は激怒したが
これは高資の間違いかな?(修正済)
しかし酷い謀略合戦だな

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 22:38:51 ID:m8VmF3N5
大関はきたな・・・おっと違った。茄子さん家は家をあげて謀略を競ってる感じがする。

>>970
顔文字はいいけど(それでも読みづらい)最低限顔文字の武将が誰だか書けよ。
971があるから義光って想像できるけどさ。

981 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2010/07/19(月) 22:40:50 ID:T0bDsZ3K
那須一門は何やかやで子孫を遺そうとする本能に長けている印象。

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 00:20:57 ID:eJQ0rfND
「一致団結」という言葉と最後の最後まで無縁だったな、那須家

主に3人のせいだが

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 00:33:13 ID:GRDJm0kb
芳賀さんもけっこうダーティなことやってるんだけど
ヒールイメージが無いのはやはりお家第一だからか

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 00:42:36 ID:yPFAxmM1
>>983
「宇都宮家を何とかしたい!」という所はぶれないからな、芳賀。

一方の大田原党は私利私欲が常いかなる時も優先されてる感じ。

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 01:32:46 ID:3Fw0+8hP
スケキヨさんは怖いな

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 18:46:42 ID:DNR6DCn4
>>972-973
読んでたら頭がゲシュタルト崩壊を起こした。

大田原資清の悪謀

2010年02月03日 00:04

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 00:15:44 ID:A0SB74EK
関東八屋形の一つ、那須家は応永年間に上那須家と下那須家に分裂して戦国期を迎えた。
上那須四代・資親は実子がなく、白河結城家から養子・資永を迎えたが、晩年になって
実子・資久が生まれ、家老の大田原資清に資久を当主にするよう遺言して世を去った。

資清は遺言を守って他の家老たちと協力し、永正13年(1516)、資永を福原城に追い詰めた。
ついに上那須の家臣団が福原城の本丸に討ち入った時、資永の家臣・田川時法が
「資永様は自害された!」と言って攻城兵に白衣の包みを渡し、城に火を付けて消えた。

包みの中には資永の首と、田中城にいるはずの、まだ六歳の資久の首が入っていた。
こうして、上那須家は唐突に断絶した。

「追い詰められた資永の命により、田川が田中城に忍び込んで、資久様を誘拐した。この上は
下那須の資房様に従い、指示を仰ぐべし。」という大田原資清の釈明に、誰もが疑問を持った。
資清が統一那須家の筆頭家老となるに及んで上那須党の不満は爆発し、大関宗増と福原資安が
主君・資房に讒言して、その傍観を勝ち取り、永正15年(1518)、両名は資清を攻めた。
資清は命と引き換えに実兄・麟道のいる長興寺において出家し、越前永平寺へと旅立った。

24年後の天文11年(1542)、突如那須郡に乱入した兵団を率いる将を見て、宗増と資安は驚いた。
「きっ、貴様、大田原資清!どうやってこれだけの兵を・・・?!」
「やぁご両所、お久しゅう。実は永平寺に参拝に来られた太守の朝倉孝景様と意気投合してのぅ。
身の上を話したところ、こうしてご助勢下さったわけよ。」

不意を突いて大関・福原に勝ち、那須家の家老に返り咲いた資清は、宗増の嫡子・増次を殺すと、
自分の長男・高増を大関家の養子にねじ込み、資安を高野山に追放して、次男の資孝を福原家の
養子に押し込んだ。
さらに、三男の綱清に自分の跡を継がせ、次女を那須資房の子・政資の側室に送り込んだ。

この資清の息子たち三人、いわゆる大田原三兄弟が、父に勝るとも劣らぬ悪謀を巡らせ、
那須の実権を握り、幕末まで続く家を輩出することになる。





258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 02:43:27 ID:vgPRIJb4
遠く越前は永平寺に隠遁したの大田原資清が22年後に突如舞い戻って来たでござる。
結構壮大な話だよな。

資清の他家乗っ取りのやり方ってちょっと面白い。長男高増を大関氏、次男資孝を
福原氏に入れて独立させ、大田原氏は三男綱清に継がせる大陸風の末子相続か。

でも3家のイニチアシブは長男大関高増が執っていたみたいだね。


259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 06:19:41 ID:IT+qGobI
>>254
そもそもの資久暗殺も実は資清の差し金?

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 09:43:50 ID:L5TsXL+b
>>259
統一那須家の家老に収まって資房にも重用されてるのを見ると
そう思えてしまうよなw

資房自身は上那須家の相続争いに関しては資久を支持したみたいだけど、
両方共倒れ後にちゃっかり自分が統一那須家を支配してるし、
資清と資房がグルになってる気がしてならないw