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左様のうつけたる同類に

2021年09月10日 18:08

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 16:24:19.47 ID:Y2Q3SaZT
堀久太郎(秀治)が越前から越後へ入部した折り、家老の堀監物(直政)より国中に触れ渡し、
当年の年貢を納め取ろうとした、
この時百姓たちは言った

「時分は既に冬になっています。年貢の半分は既に、転封された上杉殿に納めていますので、
その分を納めることは罷りなりません。」

そこで監物方より上杉家の直江山城守(兼続)へ申し遣わし
『納め取られた越後の当年貢半分を、こちらに返されますように。』
と伝えた。直江はこの返答に

「久太郎殿が越前を出られる砌に、越前の当年貢半分を納め取っておくべきでした。
会津領においても、前の地頭である蒲生秀行は当年貢半分を納め取った上で宇都宮へと移られた。
そのため(上杉)景勝も会津に移って、その残り半分を納めました。
越後に於いて納めた半分を、返納するいわれはない。」

そう言って堀監物の要求に肯かなかった。
しかし監物は重ねて使者を以て、

『越前の当年貢は残しておいて蔵に納め置き、公儀へと差し上げたのです。
ですので越後半分を戻されますように。』

と乞うたのだが、直江は笑って

「越前の年貢半分を納め取らなかったのは、監物の誤りである。
左様なうつけ者の同類に、我々が成る事はない!」
(左様のうつけたる同類に、此方には罷りならず)

そう嘲り愚弄した。そのため、堀監物はこれを根深く遺恨に思ったという。

近世軍記

そういえば堀家が移った後の越前北ノ庄城には、当初小早川秀秋が入る予定だったな。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 18:04:38.61 ID:21GKIKTf
そういう決まりがあったならともかく、公儀へ年貢渡す前に上杉と調整してなかった堀のミスだな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 20:14:16.94 ID:0w+T8jRj
年貢については通例で国替えの時はそうするってなってた筈
ただ黒田と細川も同じ事で揉めてるし(黒田が持ち逃げ)
その時に細川から提訴受けた家康は裁定しなかったので
法で決まってた訳ではない模様

ちなみに黒田が移る先の小早川も持ち逃げしてたので
黒田が持ち逃げしてなければ黒田も困ってた
細川や堀の脇が甘いといえば甘いか

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 23:02:29.70 ID:KX7wPrkn
黒田細川堀と、ガメツもといしっかりしてそうな家が被害者側なのがなんか面白いな

33 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 23:45:05.05 ID:z9qVs5NZ
まぁ堀家は名人Q太郎じゃなくて若年の二代目Q太郎だし舐められてたのかも知らん

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 10:57:35.23 ID:jXOTE7+0
この話し一年分持ち去ってたのかと思ってた

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 13:18:11.10 ID:7XTJHesh
正直年貢持ってかれたどうこうよりも、秀吉に朱印状で全員会津へ連れてくよう言われた上杉家臣が残ってる事のがよほど堀からしたら問題よね
実際乱になった際に上杉が煽って一揆起こしてたし

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:50:23.87 ID:jWvq4BOh
農民は一切連れて行くなだから帰農されるとどうしようもないし

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:58:15.14 ID:9KDPLPok
いやー、家臣全員連れてくよう言われたんですけどーたまたま家臣たちが一斉に帰農しましたー
ってさすがに無理があるくない?

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:31:52.06 ID:YwIdib8P
上杉の遺民一気ってだいたい越後風土記が元の記述?
堀毛の家譜とかにも載っている?

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:34:40.46 ID:YwIdib8P
地元が蜂起に参加していたらしい記述見かけたんだけど
該当箇所が見当たらない

40 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 20:55:43.02 ID:hllB7l4p
( ●Д`)y━・~~ 旧臣使って一揆の煽動とか酷い奴も居たもんだな

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:03:35.30 ID:u236VH5d
輝元「どこのどいつだよ」

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:31:43.99 ID:WBGVVljn
>>40
お前はネズミ汁でも喰ってろ

43 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:11:53.00 ID:MGyRhaXZ
上杉謙信・山内忠義・島津義弘・福島正則「イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!(エンドレス)」

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:16:41.44 ID:hllB7l4p
>>43
母里太兵衛「ウェーイ!」
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直江兼続と鉄砲

2021年08月08日 18:02

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/07(土) 18:22:17.81 ID:6p8TSKjR
兼続(直江兼続)は当時にあって最も精鋭の武器である鉄砲の鋳造、及び射撃の錬磨を奨励した。

慶長9年(1604)、かねて伏見にいた時、景勝(上杉景勝)に従って所々歴覧の折、盟約ある良工
和泉国堺の和泉屋松右衛門、近江国住友村の吉川総兵衛を米沢に召致、工場を関村高湯に設置して、
鉄砲を鋳造させて各禄2百石を給し、その従弟と共に城市に居住させた。今の鍛冶町である。
火薬・軍器を調製させ不慮に備えた。

「一、鉄砲は張者の江州の者総兵衛、堺の者松右衛門と申す者、彼ら両人が大工にて鉄砲を張り申した。
   鍛冶は10人ばかりいて鍛冶町と申す所に罷りあったが、彼らも年々、10匁筒、15匁筒、
   20匁筒、30匁筒と御用次第に張り立て申した。
   右の両人は知行2百石ずつ下された。残りの者どもは御扶持ばかりで、役鉄砲の他は何挺張り
   申しても、作料米を下された。
   また金具は白金や御免町という所にあったが、受け取ってそれぞれに御作事次第であった。

一、鉄砲の玉薬ならびに塩硝は白河・岩城・相馬より年々に買い集められた。鉛は越国筋方々より買い調え、
  また当国でも掘っては買い置きなされた。

  さて薬は慶長9の頃より夏夕の嫌いなく御足軽20人で、からうす(唐臼)で踏ませられた。
  奉行は鳥山修理と申す仁である。夏の土用には薬を踏みきり拵えた。
  すなわち三の丸に薬蔵3間張りで20間に作らせ、薬をは大こかいくつ共なくゆわせ入れ、
  しかと詰め入れ置き申した。実にこれまでの20余年々合わせ申した。

一、武具・馬具・鉄砲・弓矢、万事諸道具の細工人は20人ばかりで、慶長9年頃より年々細工仕った。
  右の細工人衆へも二人扶持、三人扶持ずつに切米を下された。毎日罷り出て御細工仕った。
  この奉行は高橋清左衛門と申す仁である。これも二の丸に細工所としてあった」

  と、当時の武器製造の事が『景勝卿記』に記載せられてある。

  ――『直江兼続伝景勝卿記)』

390 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/08(日) 18:06:52.08 ID:A90kfpZO
鉄砲鍛冶工場を置いた関村高湯とは、現在の米沢市白布温泉(白布高湯)のこと。
市街地から南へ登った山上の関町集落から、車で更に20分の山奥にあり、さすがに大坂の陣終了後は撤収した模様。

この関町(立石)は伊達時代に支倉常長が誕生した地でもあります。


白布温泉
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B8%83%E6%B8%A9%E6%B3%89



392 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 07:32:55.42 ID:0Q6lNaf4
>>389-390
https://i.imgur.com/5I2CHNi.jpg
https://i.imgur.com/syATkuG.jpg
syATkuG.jpg

5I2CHNi.jpg

パチ○コで恐縮だが、花の慶次の○チンコで直江兼続が直江大大筒と言う超兵器使ってるんだけど、それを思い出して馬鹿げたことだと調べたら、当然そんな大砲は当時無いけど、>>389にも書かれてる通り、米沢藩の銃は10〜30匁で大坂の陣では上杉の雷筒と呼ばれて他家に恐れられる程の代物だったんだね…

https://www.miyasakakoukokan.com/hinawaju.html

https://i.imgur.com/SyU2huK.jpg
https://i.imgur.com/rItTWUI.jpg
SyU2huK.jpg

rItTWUI.jpg

確かに他所の銃と比べたら太いわ…

http://www.日本の武器兵器.jp/legacy/hinawajyu3/page/020.html

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:07:04.50 ID:zqhEdkjg
上杉家の大口径火縄銃は戊辰戦争でも使用され、家屋の壁の破壊などでも活用された話があります

394 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:24:18.45 ID:zqhEdkjg
館山城 (出羽国)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A8%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%9B%BD)
米沢市の館山城は会津への街道入り口にあり、近年の発掘調査で国指定史跡となりました
伊達時代の城そのままを確認するつもりの調査が、実は上杉家が建設し破棄したものとわかった経緯があって
本城である米沢城は東日本系の土塁なのに、西の技術の石垣が構築されていたりします
それで直江の書状の一部で理由がわからなかった「例の城の始末よろしく」の文面が理解できたということだそうです

関ヶ原後、元和までの各家はそういう準備を怠らなかったし、終わったら終わったで何食わぬ顔で始末してたわけですな

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:25:34.99 ID:wtwlFdzc
家屋の破壊より薩人マシーンの破壊に使えよと。
いかに後退のネジを外された奴らと言えど、20〜30匁の弾でぶち抜きゃ活動停止するだろうに…


と思ったけど戊辰戦争の頃じゃあ、洋製の新式銃にゃあ射程やら何やらの点で太刀打ち出来なかったのかね?

396 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:37:10.65 ID:zqhEdkjg
なお石垣については、上杉家の直前に西出身の蒲生家の領地になってますが
やはり上杉で間違いないという報告ですね

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/09(月) 11:27:51.15 ID:W8r3Z/Qm
>>395
アームストロング砲と比較するとなあ。

398 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 11:35:25.44 ID:wtwlFdzc
>>397
やっぱ時代はコレだよね
https://i.imgur.com/0hOfmvK.jpg
0hOfmvK.jpg

399 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 11:37:04.41 ID:wtwlFdzc
>>397
ていうかアームストロングぶっぱしたら市街地ヤバない?

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/09(月) 21:10:10.55 ID:W8r3Z/Qm
>>399
当時炸裂弾(たしか)じゃないから。上野戦争はアームストロング砲で薩長が勝ったなんて言われてる。

一人を赦して、天下の人の心を安んずるべき

2021年06月11日 19:02

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/11(金) 17:11:10.28 ID:bexE1HJ7
関ヶ原の御陣の後、直江山城守兼続を誅伐すべきであると大御所様(家康)は思し召されていたが、
「そのような事をすれば、他国にも兼続の例に当てはまる者も多い、一人を赦して、
天下の人の心を安んずるべきであろう。」と御遠慮あって御助けなされ、剰え本多上野介正純の
弟である長五郎(本多政重)を婿養子として直江に下され、御懇意にされた。

関ヶ原で治部(三成)方をした諸大名の家老たちはこれを見て、「治部と心を合わせ、謀反の
張本である直江さえ御免なされた。まして我々のような末々は気遣いなし。」と、皆安堵したという。

寛永五年十二月十九日に直江山城守兼続死去。法名英貔院殿達三全智居士。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

これも既出の内容ですが出典が無かったので

関連
徳川家康の直江兼続処分


親類二人を迎えに越し申し候

2021年06月10日 16:45

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/10(木) 10:06:50.60 ID:EvlcOtgV
直江山城守兼続は、木曽(義仲)殿四天王の樋口次郎兼光の末である。
ある時、聚楽御城中において、諸大名列座されている中、伊達政宗が懐より金銭を取り出し、
直江山城を呼んで、

「城州、これを見よ。昔にはない物である。このように金銀にて銭を鋳る。見事なるものである。」
と、直江にこれを渡して見せた。
山城守は扇を抜き、少し開いて金銭を請けて、跳ね返しながら見て「実に珍物に候。」と言った。
この様子を政宗見て「城州、手に取って見よ。」と言われた。これに直江は申した

「私は輝虎(謙信)の目利きにて、用にも立つべきものと思われ、景勝に付けられました。
何時であっても采配を執る手であり、このようなむさき器は触らぬものであります。」
そう言うと金銭を畳の上に、扇より移した。これに政宗は赤面し、一言の返答も無かったという。

また、慶長三年、会津に景勝が移封される砌、横田式部という者が、召使いの茶道坊主を斬罪とした。
しかし、元よりこの茶坊主には誤りが無かったため、坊主の親類大勢が決起した。

丁度この頃、国改として京より前田徳善院玄以、石田治部少輔三成が当地に下向しており、
かの親類達はこの両人に対して訴えた。玄以、三成は「その事は直江方に申すべし。」と指図したため、
彼らは直江方に詰めかけた。

兼続は彼らに対面し「皆々の申し分は尤もである。であれば、主人である横田式部より、
詫び言として銀五十枚を出させるべし。それにて堪忍せよ。」と扱った。しかし訴訟人たちは
これに納得せず、怒って帰っていった。そして再び玄以、治部に訴えたが、彼らはこれを
取り合わなかった。そのため又山城守方に詰めかけた。

直江は「そう言うことであるのなら。銀七十枚を出させよう。」と扱いをしたが、彼らは
「七十枚が七百枚であっても、死したる人が帰ってくるでしょうか。中々分の無いことを
申される!」と、ごねた。
兼続はその時、札を一枚取り寄せ、一筆書きにて、直に持って出て、彼らに対し「訴訟人共の内、
張本人は幾人あるか」と尋ねた。「その坊主の兄と伯父であります。」と、両人出た。
彼らに対し山城守

「どのように扱おうとも、汝らは納得しない。もはやこの上は、かの坊主を再び今生に
呼び還さねば、汝らの心に叶わないであろう。ではあるが、誰であっても呼び返すための
使いが無いので、その者の兄と伯父の二人を、迎えに遣わそう。
この高札を持って早々に地獄に参り、閻魔王に見せて、かの坊主を召し連れて帰るべし。
乃ちその文を聞け」

と、山城守は高札を読んだ

『未だ御意を得ずと雖も、一筆申し入れ候。されば横田式部が召し使っていた茶道坊主を、親類どもが
呼び戻したいとたって申すに付き、即ち親類二人を迎えに越し申し候。きっと御返信有るべく候。
恐々謹言

                    直江山城守兼続
二月十日
  閻魔大王殿 参』

そう書き付け、読み聞かせ、かの張本の二人をその場にて斬罪し、かの高札を前に立てて、
二人の首を獄門にさらした。それ故にかの徒党達は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、
以後国中で嗷訴(大勢で喧しく訴え出る)するもの一人もなく、静謐となった。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



266 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/18(金) 12:03:01.16 ID:6npJKe2o
>>260
直江兼続って金の価値わかってないからただの馬鹿だねってエピソードだね
(樋口兼光の子孫というのも自称であって確証がない。これは俺は武田だから武田信玄の末裔だというレベル)

そもそも政宗の叔父の伊達実元が越後守護の上杉家の養子で謙信の長尾家は守護代
家の格が伊達家>長尾家

267 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/18(金) 12:07:04.04 ID:6npJKe2o
さらに上田長尾家(景勝)で相手にならない

政宗は伊達宗家の跡取りである他に三浦氏の蘆名義高の子孫でもある(女系)し結城氏の子孫でもある(女系)
母親の家は斯波氏の流れを汲む最上氏で
近隣大名を分家化している立場で、樋口某がどうこうってレベルじゃないんだけどね。

これね結局のところ戦で上杉が伊達に勝ったことない
輝宗のせいで新発田の乱がおきて
政宗のせいで白石城奪われて
伊達家は上杉領を浸食して撤退戦はしているけど伊達領は上杉に戦で奪われていない
事に関しての後米沢藩士たちの妄想日記なんだよ

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 18:22:31.81 ID:aEvDc5Pw
>>266-267
左京大夫乙

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/19(土) 05:27:22.71 ID:G/F/j9ep
>>266
実元が養子って、新しい資料でも出て養子入り頓挫ってのが覆ったのか?

上杉家に於いては直江山城守兼続一人で

2021年06月09日 18:31

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/09(水) 15:06:41.23 ID:m8ajUsaT
上杉景勝、定勝の代まで、上杉家に於いては直江山城守兼続一人で、万事国の仕置(行政)、
公事(裁判)沙汰までした。訴訟があると、山城守一人にて、傍の人を払い、刀を傍に置いて、
百姓、町人は白沙へ呼び対決させ、侍は座上に呼んで様子を尋ね、何事であっても大方
その場で裁き賞罰を行った。家中の訴訟も、手形・証文の判形も、兼続一人で事を済ました故、
物事が停滞するということがなかった。

直江は学問多智の分別者故、正しく動理に適っている事が多かった。
彼は元より謙信の傍にて生い立ち、武功も重ねたため、世の覚え、人の信用も厚く、
秀吉公にも重用され、また大御所様(家康)、秀忠様からも重用された。

会津に於いては三十二万国を領していたが、米沢に景勝が移封されると、六万石を賜った。
この時、自身は一万石を領し、五万石は諸傍輩に分配し、さらに一万石の私領からも五千石を分けて
家中に与え、自身は五千石であったのだが、景勝より新田を開き与え、また一万石となり、
その頃死去した。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



兼続の五撰の戒

2021年05月15日 17:49

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/15(土) 17:02:28.92 ID:DpWJqXT/
城州公略伝には、兼続の五撰の戒を挙げてある。

「武士の心掛け多しといえども、五撰を専要とすべし。

五撰の道たる甲冑は籠手に念を入るべし。胴は片ひけなきように威し、美麗を禁ずること可なり。
太刀は、精神釣り合うて骨を徹すを要とす。作を好むことなかれ。仮に業良しとしても、釣り合
わざるを好むことなかれ。槍は勢つまりたるは良し。大身横手物は伸の研を専とす。馬はかんと
爪を許すべからず。皆具は波を切るを要とす。弓は七分の業を高々仕懸け、根を改むべし。

総じて槍・太刀・具足に金銀をちりばめ奇麗を好むこと、士の本意にあらず。君に仕える者は継
信が矢先に立つが如しといわれる。武士の境界平生万端の動作、この直体を取り失うべからず。

少しでも余念にひかれたならば、よし一旦の功をなすとも、ことごとく虚妄とならん」

――『直江兼続伝(直江城州公略伝)』



直江も腰をかヽめ候迄の由

2019年07月19日 14:59

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 19:31:33.07 ID:wMVJRuAB
外桜田南通の石垣は上杉景勝に仰せ付けられ、権現様(徳川家康)も度々御見分ならせ
られて御指図遊ばされた。

上杉家の家老・直江山城(兼続)が罷り出て御挨拶申し上げれば、権現様は直に肩を御
押し遊ばされて、かれこれと仰せがあった。直江も腰を屈めるだけであったという。

(権現様直に肩を御押被遊彼是上意有之直江も腰をかヽめ候迄の由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ

2019年06月14日 16:24

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 12:52:11.46 ID:IX8PHLFL
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

【参考】

『直江重光(兼続)書翰留』

(上略)あなたが近日、かぶきを御調査されていることに関して、旦斎が御子息の新二郎殿を御
気遣いなさっているとのことです。実否はどうなのかと御心許ないのです。(中略)

(其元近日かぶき御穿鑿ニ付而、旦斎御子息新二郎殿御気遣之由、実否如何無御心元候事、)

     8月13日

         千坂伊豆守殿(高信。上杉家江戸家老)


(上略)旦斎より御知らせが届きました。御子息の新二郎殿の様子について未だ解決していない
とのことは、全くもって気の毒です。その事について旦斎へ書状を進め置きました。(中略)

(旦斎より御報相届候、御息新二郎殿様子未相済候由、笑止千万候、右之儀ニ付而旦斎ヘ書状進
置候事、)

     9月14日

         千坂伊豆守殿


すぐに御知らせを示し下されましたことを忝く存じます。そして御子息の新二郎殿を御気遣いな
さっている様子を承り、御心許ないものと存じます。きっとその他の御気遣いはないものと推し
量っております。なお、追って御意を得られることでしょう。恐惶謹言。

(乍御報示被下、忝令存候、然者、御息新二郎殿御気遣之様子承、無御心許令存候、定而不可有
異儀候由、推量仕候、猶追而可得御意候、恐惶謹言、)

     9月14日

         小旦斎様
             人々御中

――『大日本史料』



英雄の掘った井戸である故

2017年06月12日 19:10

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 18:37:21.30 ID:xZqoEU9p
井伊掃部様の御屋敷前、坂中の北に仰々しい井戸がある。それは
汲みもしないのに立派な釣瓶縄を備えていた。

それは昔“鱗屋敷”といって、直江山城守が住んでいた時に掘った
井戸だという。これをトウ庵先生(古賀トウ庵)に聞くと曰く、

「直江は天下の英雄なり。英雄の掘った井戸である故、井伊家では
用いないけれども代々大切にこれを保存しているのである」

とのことである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 01:49:44.51 ID:qTIEz3oo
>>21
大河で井伊の先祖は井戸から出てきたとか言ってたし、井戸を特別視してたのかも

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:59:57.31 ID:oqc2RtC1
>>21
憲政記念館の所に現存しているよな。この井戸

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:09:14.48 ID:qFtwVh1m
兼続の屋敷跡が
「憲政」記念館になったとは、
御館の乱の因縁があるようなないような

重任は威が無ければなしえない

2017年06月02日 17:23

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 05:27:47.46 ID:lIWQQcsK
直江兼続が伏見城御普請の頭取だった時、杉原親憲と事を論じたが合わず、
兼続は拳で親憲を打った。親憲は大いに怒ったが、国の患いを起こすのを

恐れて我慢して帰った。しかし、不平の勢いは一向に収まらず、「明日赴いて
共に死んでやろう!」と決心し、まず本庄繁長を訪問して別れを告げた。

すると繁長は親憲を諭し、共に兼続のもとに参った。 兼続が迎えて申すには、
「私めは早く行って多罪を謝罪する心得であったが、折りしも繁務のために

出ることができず、再び貴殿に罪を犯した。私めが先に思ったのは、重任は
威が無ければなしえないということだ。威がなければ事は行われず、

事が行われなければ国家の利にあらず。貴殿は天下に聞こえる豪傑の士だ。
貴殿さえ怒ることができないならば、誰か号令に背く者がいようか。

罪を犯したのはこのためである。貴殿が幸いにも私めの多罪を許しなさって、
貴殿の足を我が頭に加えなされば、少しばかりは多罪をあがなえよう」

とのことだったので親憲はさしもの怒りも解け、十分に楽しんで宿所に帰った
のだという。

――『直江兼続伝(鶴城叢談)』



814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 08:10:41.27 ID:OX53w4Zl
「徳のある政治は恐怖がないと無力である」
とフランス革命の指導者の1人も言ってたな

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 18:36:43.58 ID:dMULztp1
水戸黄門も格さんと助さんがぶん殴って黙らせてから印籠持ち出すわけだ

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/02(金) 19:01:41.01 ID:pPSEnR4W
Shock and Aweですねわかります

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 20:18:31.72 ID:/I3q2Y2i
北斗神拳もモヒカンがいないと無意味なわけだな

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 21:44:12.63 ID:aKCPlR46
>>815
どちらかというと徳川八万騎+親藩+徳川寄り諸藩連合に勝てるかって話じゃね?

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 23:06:55.47 ID:geu/lSHb
>>818
長州藩「旗本八万騎www」

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 01:49:54.44 ID:10fH6c15
偽官軍だってw

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 11:25:08.35 ID:4Ghf+TWg
奥州十万騎

遺物は武具と書籍のみ

2017年05月22日 17:59

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 05:54:36.32 ID:Pj7Ed7SX
直江兼続の最愛の一子・平八景明が、本多正信の媒酌で近江国膳所城主・戸田氏鉄
<今の戸田伯爵家>の娘と江戸で婚儀を挙げる時、

戸田家より朱塗の膳椀に金蒔絵の道具が着いたので、直江家の役人たちが、「これに
相応する道具を準備するべきでしょうか?」と、兼続に尋ねたところ、

兼続は、「それはもってのほかである。もし、対等の膳椀でなければ婚礼させられぬと
あらば早速破約する。武士の魂である刀や槍に錆がなければ、何の恥ずべきところが
あろうか。朱塗の膳椀が何だというのか」と、言ったという。(『我郷の先哲』)

兼続はこの如く倹約であったが、社会に有益な事業には多額の私財を投じて惜しまな
かった。慶長11年には文選60巻を刊行して文化に貢献し、その他にも論語などをも
出版したとのことである。

また元和4年には禅林寺<後の法泉寺>を建立して、学僧・九山を招き開祖となしたが、
これは寺子屋式に子弟を教育し、また藩学の興隆を図ったのである。

この如くして、上杉家の大元老の遺物は武具と書籍のみであったといわれている。

――『直江兼続伝』



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:00:16.06 ID:rKmpoToj
こういうの見ても直江兼続に対するバショクや趙括的なイメージが拭いきれないんだよね

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:12:03.24 ID:qz+Ugzga
大河や漫画やらでそんなイメージはないなw

直江兼続の衣食住は

2017年05月21日 15:12

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 02:49:51.97 ID:ReHkwYuF
直江兼続の衣食住は非常に倹素であり、食事の如きも山椒3粒で済ませた。

中条越前守が蓼漬と蛮椒(唐辛子)を用いたのを兼続は見咎めて、「どれか
一品になさるのが良いであろう」と、忠告したとある(『愛日漫録』)が、実際、
余程粗末のものであったと見える。

また色部修理のところへであろうか、招かれた時に雁の吸い物を差し出した
として亭主に断り、「奢りである」と言って、その汁を食べなかった。かつその
用人を追放させたとのことである。(『鶴城叢書』)

衣服も頗る質素で、今上杉家に保存されている兼続が着用した浅黄綾子の
羽織を照らし合わせると、これは彼の衣服でも最上等のものであるが、裏は
黄金色の練らない絹で、細かい継ぎ切れを縫い合わせたものである。
(『我郷の先哲』)

――『直江兼続伝』



923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 05:50:16.60 ID:7S0zCOK5
山椒って高いよね

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 06:44:56.33 ID:BtCnM7UP
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1419.html?sp&sp
こっちでは「おかずに蓼は贅沢!塩だけで十分!」

蓼か唐辛子かどちらかにしていても文句言ったようだ

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 07:43:47.93 ID:epP0gEsi
倹約して貯めた金はどこに消えたんだ?

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 09:05:52.09 ID:C40FsJar
誰のせいでこうなった!

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 10:18:35.12 ID:9hLRGUoc
大酒呑みの基地外だろうね

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 10:55:42.70 ID:k0AZsbIn
戦国時代は香辛料をおかずにご飯を食べるのが普通だったのか?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 12:15:20.27 ID:3gTOYsOw
>>928
まあ遠回しに「そのくらい美食を遠ざけ倹約してたんだよ!」って言っているんだよ

直江兼続は断じて反対し

2017年05月20日 16:21

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/20(土) 02:31:20.56 ID:WjJkd30J
上杉家が30万石に減封させられた時、老臣の中には、「この際、30万石の丈に
見合った家臣の数に減らすべき」とのことを提案した者もいたが、

直江兼続は断じて反対し、「この如き際には、人ほど大切なものはない。一同が
協力して復興を計るべきである」として、

新季奉公の牢人たちで去る者は追わなかったが、旧来の家臣は1人も去ることを
許さなかったということである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


閻魔状

2016年05月16日 15:30

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 04:46:55.42 ID:/09Z0TN3
慶長3年、上杉景勝が会津へ移ることになる折、横田式部という者が召使いの茶坊主を斬罪にした。
そもそも誤りのないことだったので、坊主の親類が大勢決起し、国改めに京都より、前田玄以
石田三成が下向した。親類らはこの両人へと訴えた。

これに玄以と三成は「その事は直江の方へ申せ」と指図したので、訴訟人らは直江兼続のところへ
詰め掛けた。兼続は対面し、「皆々の申し分はもっともである。それならば、主人の横田式部に、
詫び言のために銀50枚を出させるので堪忍せよ」と、仲裁した。

だが、訴訟人たちはますます怒って帰り、再び玄以と三成に訴えたが取り合ってもらえなかった。
そこでまた兼続のところへ詰め掛けると、兼続は「それならば銀70枚を出させよう」と仲裁した。

しかし、訴訟人たちは、「70枚でも700枚でも、死んだ人が帰るであろうか。とても道理に合わぬ
ことを御申しになる!」と、難癖を付けた。すると兼続は札を1枚取り寄せ、一筆書いてじかに持って
出ると、「訴訟人たちのうち、張本人は幾人いるのか?」と、尋ねた。

これに、「その坊主の兄と伯父がこれに」と、両人が出て来ると、兼続は「何と仲裁しても汝らどもは
承知しない。とかくこの上は、かの坊主を再び今生へ呼び還さなくては、汝らの心には叶うまい。
さりながら、誰も呼びに遣わす使いがおらぬので、その者の兄と伯父と2人で迎えに遣わすとする。
この高札を持って早々に地獄へ参り、閻魔主にこれを見せて、かの坊主を召し連れて帰るがよい。
すなわち、その文を聞け」と言い、高札を読んだ。

 『いまだ御目にかかってはおりませんが、一筆申し入れます。さて、横田式部の召使いの
 茶道坊主を親類どもが呼び戻し申したいと達て申しますので、こうして親類2人を迎えに
 寄越し申しました。きっと御返進してくださいませ。恐々謹言。

  二月十日     直江山城守兼続

  閻魔大主殿 参』

以上の書付を読み聞かせると、兼続はかの張本人2人をその場で斬罪にし、その高札を前に立てて、
2人の首を獄門にかけた。そのため、徒党は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、国中強訴は1人も
なく、静謐と相成った。

――『北越太平記』

関連
直江兼続と閻魔大王への手紙・悪い話


629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 12:11:11.17 ID:O2Ebagvq
>>627
村上さんで脳内再生された。

直江兼続「東根城は」

2015年07月21日 13:02

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 00:34:43.32 ID:2FhXIjUV
直江兼続「東根城は」

直江兼続はある話に曰く、「最上陣(1600年の山形攻め)ではまず、山形盆地に押し寄せ山形城を攻め落とす
そして最上義光を降した後に、そのまま北上して北の東根城を奪取する
この東根城を整備し、ここに籠城したならば、例え徳川家康が率いる天下の連合軍を相手にしても十分に渡り合える」

『名将言行録』

-東根城は窪地や沼沢に囲まれた要害とは言え、実際の地理を見てみるとちょっと買い被りの様な気が…

※東根城…1588年に本庄繁長が攻めるも最上勢からの手痛い反撃を受け撤退する。また1600年に志駄義秀が攻めるも、また落とす事は出来なかった。




「直江状」について

2014年10月25日 18:56

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 21:37:04.61 ID:nGMwD1eh
直江兼続のものとして名高い「直江状」。
しかしこれが偽書ではないか、という説がある。
その根拠のひとつとして、秀吉・家康が崇敬した高僧である西笑承兌への書状としては、
あまりにぞんざいな文体ではないかという点があげられる。

たとえば冒頭「今朔之尊書、昨十三日下着、具拝見、多幸々々」
(今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。
くだけた現代訳:今月一日のあなたの書状が昨日届いた。じっくり拝見、どうもどうも)
は、候すらない体言止め。途中から候を使うようになるが、かなりくだけた言い回しである。
これはやはり失礼ではないだろうか?
ここで同じ時期、慶長五年前後の兼続から主君である景勝への書状を見てみよう。

「御状被見」
「書状被見」

等々。どうも兼続は主君相手でも、体言止めを用いて尊大である。
(漢文に通じているためかもしれないが)

つまり結論から言うと、
「兼続は尊大なのが平常運転なので、ぞんざいな文体でも仕方ない」
のではなかろうか。
というわけで、「直江状」が嫌味たっぷりで一部高飛車な文体でもおかしくはないだろうという話である。

兼続がそんなに傲慢で尊大かどうかは、他の逸話等から皆さんでご判断いただきたいところだ。





606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 09:46:42.19 ID:eqb7g8SL
と言う事は、殿といっしょの直江兼続が本物に近いのか

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 11:55:03.41 ID:SFwG4n+u
直江状は写しを製作年代順に並べると古いものほど江戸時代の言葉使い、尊大な表現が無くなっていくので
残存してない原書においてはまともな文書だったんじゃないか、ってのが最近の真書説やね

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 13:38:01.77 ID:cN62lIFO
德川史観で徐々に改ざんされていったんだろうね
德川に刃向かう上杉と直江を無礼者の印象にしたかったのだろう

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 14:11:50.19 ID:SFwG4n+u
どっちかというと義分かっけーもっと派手に行こうぜ!じゃないかな

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 15:52:12.09 ID:4nL1cEnI
徳川史観なんて久しぶりに聞いたよワロス

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 17:18:53.62 ID:5N6VoFH8
~史観とか言い出したらキリがないからなw
個人の意見もカタにハメられるし

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 18:01:02.06 ID:qCndG40/
文章改変してたらそれ「写し」違うだろって思うが
2chでいうコピペ改変みたいなノリなのかしらん

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 18:34:54.62 ID:4+fyTphZ
>>612
「意訳」に近いね。江戸期も長いから、近世初期の文書だとだんだん意味が通じなくなる事もある

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 19:42:11.70 ID:qCndG40/
>>614
なるほどありがとう
俺らが現代語訳された歴史書を読むようなもんか

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 19:55:00.72 ID:luQDqy+G
原文では候文で書かれてるから直訳すると丁寧語になるところを
タメ口とか尊大な口調で訳されてるのも結構見るけど、
それも互いの立場とかを考慮した意訳なんだろうな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 21:37:02.60 ID:CVS3oRCj
普通の本ならそんなことはない
ネットのことを言ってるんだったらネットをソースにするのが間違い

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 22:07:20.29 ID:0b6E2Qj9
これは普通の本?

細川重男「頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉」(洋泉社〈歴史新書y〉
p97
ところが、広常来陣を聞いた頼朝は、激怒。
「すこぶる彼の遅参を腹り、あえてもって許容の気なし」
(激しく広常の遅刻を怒り、全く許す様子が無かった)
意訳①
「遅ーーーい!絶ッ!対ッ!許さん!」
カンカンである。
意訳②
「今頃来たって遅いのよ!顔も見たくない!ベ、くつに広常のこと、待ってたわけじやないンだからね!」
ツンデレである。

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 22:10:34.71 ID:0b6E2Qj9
あ、OCRが誤変換してた
「腹り」→「瞋り」

十三夜の餅

2014年09月13日 18:53

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/12(金) 20:31:17.47 ID:DHKqFkOS
十三夜の餅

※口語伝承のため、特に原典となるものはありません

慶長5(1600)年の旧暦の9月13日、山形西方では十三夜の月見に合わせてこの日のために取っておいた餅米で
餅を作っていた

そこになにやら鎧兜をつけた集団が次々と現れ、掠奪や狼藉をはじめた

人々は村から追い立てられ山野に逃げ込み、我が家を振り返ると
せっかくこしらえていた楽しみの餅が、軍兵に食い荒らされていた

村人「こんな事なら月が出るまで待たずにもっと早く食べておけばよかった…」

突如として村に現れたのは先に畑谷城を攻め落として勢いに乗り山形盆地へと進軍する上杉の兵で

畑谷城が直江兼続に攻撃された日は「十三夜の餅」の日だった

恐ろしい目にあった畑谷ではいまでも十三日に餅をつかないという

畑谷から東の方面では
十二日や十三日の早い時間に餅をつき
時間を置かずに急いで食べる風習になったと伝わる




上杉軍の侵攻の早さに

2014年09月13日 18:53

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 10:29:11.18 ID:br53l3F2
上杉軍の侵攻の早さに

慶長5(1600)年9月13日の昼過ぎ、直江兼続は畑谷城を落とした

挙げた首級は500余り
味方の死者は200余り、負傷者は数百ほどと、寡兵の城を落とすには被害は少なくはなかった

直江軍の支隊の中条三盛・吉岡家能・土橋惟貞らは付近の鳥屋ヶ森城・左沢城・山野辺城・八ツ沼城を攻撃

山野辺城は明け逃げ策が取られていたが、左沢城には最上方に与する地元の国人が百姓らと立て篭もり、
上杉軍相手に気勢を上げていた

しかし上杉軍の侵攻の早さに八ツ沼城では、山形城に入っていた城主和田正盛の代わりに留守を任されていた
望月隼人らが撤退の期を失い、衆寡敵せず自刃して果てた

最上義光は畑谷城の江口道連をどうにか連れ戻す様に飯田播磨(信兼)と谷柏相模(直家)を畑谷への救援へと派遣したが
援兵が畑谷口に入る頃にはすでに城は攻め落とされていた

上杉軍の電撃戦のお話




慶長5(1600)年9月15日、直江兼続の手紙

2014年09月11日 18:50

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 13:51:09.60 ID:6EVqz2OS
慶長5(1600)年9月15日の直江兼続の手紙

「(秋山定綱殿へ)
(13日に畑谷城を落とし、)昨十四日最上居城に向け在陣し候處に
山形近辺の城五六ヶ所是も明け逃げ候
此の外二三ヶ所降参し候
仕置丈夫に申し付候
近日に隙明け申す可く候
御心安かる可く候」
『編年文書』

直江兼続は畑谷から富神山を抜け、軍の一部を菅沢から長谷堂北の平地にも展開した

その夜、長谷堂の鮭延秀綱の切り込み隊とは別に山形城からは夜陰に乗じて楯岡光直と清水義親の軍兵800が直江軍の本陣を突こうとしたが、水原親憲の鉄砲隊に奇襲を予期され、兵200ほどが討ち取られた

「尚々此書中調候半ばに敵働き候由申し候あひだ則ち乗り出し
敵の打つけにのり頸弐百余り取り候
飛脚見分の如くに候」
(手紙を書いてる途中に最上軍からの夜襲があり、迎撃して敵の首級を200ほど上げました)
『編年文書』

兼続は近日中には山形城も落とし、最上攻めはすぐにも終わるでしょうと結んでいる

長谷堂合戦序盤の
直江兼続の意気揚々振りを伝える手紙

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 13:56:55.21 ID:6EVqz2OS
同じ頃上泉泰綱も小山田将監へ手紙をしたためていた

「庄内人数白岩さが江(寒河江)迄請取り在陣候」
(庄内の志駄義秀と下吉忠らの別動隊も最上領の白岩城や寒河江城を落とし、着々と軍を進めています)

『小山田家文書』

関ヶ原の戦い直前の時期の
地方の戦いの一幕




長谷堂城の門の話

2014年09月01日 18:51

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 03:39:25.25 ID:Bq6cj/Aq
長谷堂城の門の話

元和の最上家信(義俊)改易により、山形南西の支城・長谷堂城は幕府の命令により上杉家に接収される事になった

出羽の各城も小国城は戸沢氏、延沢城・鮭延城は伊達氏により前後に兵糧庫を押さえられ収公された


上杉の代官「これが慶長の折に当家の山城守(直江兼続)が苦汁を呑まされた長谷堂城ですか。こうなってしまうと呆気ないものですな」
最上方の代官・坂上重内(坂光秀の子、坂光重か?)「平和な御世、当地は「長谷堂館(だて・たち・やかた)」や
「亀山の御楯(かめやまのみたて)」と呼ばれております。城ではなく、館、楯ですよ」
上杉の代官「…それがしには立派な城に見えますがな」


上杉の代官は兵糧庫を押さえると、米沢から連れて来た兵や人足らに城山の建物の破却を命じ、さっそく作業に取り掛かった

長谷堂城には代々門番を勤めていた某(なにがし)といった者があった

某「坂上様、上杉の奴腹が無茶苦茶をしております!狼藉を止められないのですか?」
坂上重内「接収というのは、普通は乱取をしてはいけないのが約束事だが、上杉家にとってこの長谷堂の「城」は因縁深い場所だからな」
某「最上家が改易されたからと言っても余りに酷うございます」
坂上重内「そちは重代この城を守り、その想いは海よりも深く、水と魚の様に切り離せぬ関係だものな。
…なにがあっても俺が責任を取るから、お前は城の門を持って帰れ」
某「ええんだが?」

某は長谷堂城門の扉戸を外し自宅に持ち帰ると、囲炉裏の梁上に隠した

門扉は代々その子孫に受け継がれた

門扉は左右2枚で、幅は合わせて約2メートル、高さは約1.9メートル
上杉軍が放ったとされる鉄砲の銃弾の跡も残る

1955年に紆余曲折を経て山形大学資料館に収蔵され、今に伝わる

「上杉家御年譜」「山形古話」ほか




658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 10:15:25.66 ID:4Q13TtUX
近くの名古屋城の門扉を思い浮かべてどうやって持ち帰ったんだ?
と思ってたら案外小さいんだな。

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 14:25:27.80 ID:N1E0Jmmn
そら小さいほど守り易くなるからな

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 14:29:30.83 ID:PZq97E5O
大きさが倍だと、16倍突破されやすくなるらしい

流体力学の本によれば、なんて

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 15:17:34.46 ID:QP9K5ZN6
そうか、城門をにじり口にすればいいのか

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 16:39:13.58 ID:Bq6cj/Aq
イメージをするなら長谷堂城門の扉戸一枚の大きさは襖(ふすま)やアパート・マンションの戸と同じくらいのもの
戸板周りの門柱や梁、屋根も揃えばそこそこのサイズにはなる

(2010年10月5日)山形大学は、高感度加速器質量分析装置を用いた年代測定で、伝・長谷堂城大手門扉が15世紀半ばから17世紀前半のものであると発表した

年代測定の結果、正面扉の回転支柱は文安2年(1445)から寛永9年(1632)に、また右側の回転支柱は寛正4年(1463)から寛永13年(1636)に伐採された木である確率が極めて高いことが示された

この扉は城の門番を務めた人物の子孫が代々保存してきたが、昭和30年(1955)に購入者が山形大学博物館に寄贈した

長谷堂城そのものは元和8年(1622)に最上氏が改易となると、廃城となっている(一部を編集)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4657519&id=57449661

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 17:04:29.91 ID:Bq6cj/Aq
>>662
かつての門番の子孫の方の家屋の建替(改築)時に「然るべき場所に寄贈する」といった約束での購入者といった表現になるらしいので、悪い意味ではないはず