閻魔状

2016年05月16日 15:30

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 04:46:55.42 ID:/09Z0TN3
慶長3年、上杉景勝が会津へ移ることになる折、横田式部という者が召使いの茶坊主を斬罪にした。
そもそも誤りのないことだったので、坊主の親類が大勢決起し、国改めに京都より、前田玄以
石田三成が下向した。親類らはこの両人へと訴えた。

これに玄以と三成は「その事は直江の方へ申せ」と指図したので、訴訟人らは直江兼続のところへ
詰め掛けた。兼続は対面し、「皆々の申し分はもっともである。それならば、主人の横田式部に、
詫び言のために銀50枚を出させるので堪忍せよ」と、仲裁した。

だが、訴訟人たちはますます怒って帰り、再び玄以と三成に訴えたが取り合ってもらえなかった。
そこでまた兼続のところへ詰め掛けると、兼続は「それならば銀70枚を出させよう」と仲裁した。

しかし、訴訟人たちは、「70枚でも700枚でも、死んだ人が帰るであろうか。とても道理に合わぬ
ことを御申しになる!」と、難癖を付けた。すると兼続は札を1枚取り寄せ、一筆書いてじかに持って
出ると、「訴訟人たちのうち、張本人は幾人いるのか?」と、尋ねた。

これに、「その坊主の兄と伯父がこれに」と、両人が出て来ると、兼続は「何と仲裁しても汝らどもは
承知しない。とかくこの上は、かの坊主を再び今生へ呼び還さなくては、汝らの心には叶うまい。
さりながら、誰も呼びに遣わす使いがおらぬので、その者の兄と伯父と2人で迎えに遣わすとする。
この高札を持って早々に地獄へ参り、閻魔主にこれを見せて、かの坊主を召し連れて帰るがよい。
すなわち、その文を聞け」と言い、高札を読んだ。

 『いまだ御目にかかってはおりませんが、一筆申し入れます。さて、横田式部の召使いの
 茶道坊主を親類どもが呼び戻し申したいと達て申しますので、こうして親類2人を迎えに
 寄越し申しました。きっと御返進してくださいませ。恐々謹言。

  二月十日     直江山城守兼続

  閻魔大主殿 参』

以上の書付を読み聞かせると、兼続はかの張本人2人をその場で斬罪にし、その高札を前に立てて、
2人の首を獄門にかけた。そのため、徒党は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、国中強訴は1人も
なく、静謐と相成った。

――『北越太平記』

関連
直江兼続と閻魔大王への手紙・悪い話


629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 12:11:11.17 ID:O2Ebagvq
>>627
村上さんで脳内再生された。
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直江兼続「東根城は」

2015年07月21日 13:02

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 00:34:43.32 ID:2FhXIjUV
直江兼続「東根城は」

直江兼続はある話に曰く、「最上陣(1600年の山形攻め)ではまず、山形盆地に押し寄せ山形城を攻め落とす
そして最上義光を降した後に、そのまま北上して北の東根城を奪取する
この東根城を整備し、ここに籠城したならば、例え徳川家康が率いる天下の連合軍を相手にしても十分に渡り合える」

『名将言行録』

-東根城は窪地や沼沢に囲まれた要害とは言え、実際の地理を見てみるとちょっと買い被りの様な気が…

※東根城…1588年に本庄繁長が攻めるも最上勢からの手痛い反撃を受け撤退する。また1600年に志駄義秀が攻めるも、また落とす事は出来なかった。




「直江状」について

2014年10月25日 18:56

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 21:37:04.61 ID:nGMwD1eh
直江兼続のものとして名高い「直江状」。
しかしこれが偽書ではないか、という説がある。
その根拠のひとつとして、秀吉・家康が崇敬した高僧である西笑承兌への書状としては、
あまりにぞんざいな文体ではないかという点があげられる。

たとえば冒頭「今朔之尊書、昨十三日下着、具拝見、多幸々々」
(今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。
くだけた現代訳:今月一日のあなたの書状が昨日届いた。じっくり拝見、どうもどうも)
は、候すらない体言止め。途中から候を使うようになるが、かなりくだけた言い回しである。
これはやはり失礼ではないだろうか?
ここで同じ時期、慶長五年前後の兼続から主君である景勝への書状を見てみよう。

「御状被見」
「書状被見」

等々。どうも兼続は主君相手でも、体言止めを用いて尊大である。
(漢文に通じているためかもしれないが)

つまり結論から言うと、
「兼続は尊大なのが平常運転なので、ぞんざいな文体でも仕方ない」
のではなかろうか。
というわけで、「直江状」が嫌味たっぷりで一部高飛車な文体でもおかしくはないだろうという話である。

兼続がそんなに傲慢で尊大かどうかは、他の逸話等から皆さんでご判断いただきたいところだ。





606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 09:46:42.19 ID:eqb7g8SL
と言う事は、殿といっしょの直江兼続が本物に近いのか

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 11:55:03.41 ID:SFwG4n+u
直江状は写しを製作年代順に並べると古いものほど江戸時代の言葉使い、尊大な表現が無くなっていくので
残存してない原書においてはまともな文書だったんじゃないか、ってのが最近の真書説やね

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 13:38:01.77 ID:cN62lIFO
德川史観で徐々に改ざんされていったんだろうね
德川に刃向かう上杉と直江を無礼者の印象にしたかったのだろう

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 14:11:50.19 ID:SFwG4n+u
どっちかというと義分かっけーもっと派手に行こうぜ!じゃないかな

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 15:52:12.09 ID:4nL1cEnI
徳川史観なんて久しぶりに聞いたよワロス

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 17:18:53.62 ID:5N6VoFH8
~史観とか言い出したらキリがないからなw
個人の意見もカタにハメられるし

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 18:01:02.06 ID:qCndG40/
文章改変してたらそれ「写し」違うだろって思うが
2chでいうコピペ改変みたいなノリなのかしらん

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 18:34:54.62 ID:4+fyTphZ
>>612
「意訳」に近いね。江戸期も長いから、近世初期の文書だとだんだん意味が通じなくなる事もある

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 19:42:11.70 ID:qCndG40/
>>614
なるほどありがとう
俺らが現代語訳された歴史書を読むようなもんか

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 19:55:00.72 ID:luQDqy+G
原文では候文で書かれてるから直訳すると丁寧語になるところを
タメ口とか尊大な口調で訳されてるのも結構見るけど、
それも互いの立場とかを考慮した意訳なんだろうな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 21:37:02.60 ID:CVS3oRCj
普通の本ならそんなことはない
ネットのことを言ってるんだったらネットをソースにするのが間違い

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 22:07:20.29 ID:0b6E2Qj9
これは普通の本?

細川重男「頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉」(洋泉社〈歴史新書y〉
p97
ところが、広常来陣を聞いた頼朝は、激怒。
「すこぶる彼の遅参を腹り、あえてもって許容の気なし」
(激しく広常の遅刻を怒り、全く許す様子が無かった)
意訳①
「遅ーーーい!絶ッ!対ッ!許さん!」
カンカンである。
意訳②
「今頃来たって遅いのよ!顔も見たくない!ベ、くつに広常のこと、待ってたわけじやないンだからね!」
ツンデレである。

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 22:10:34.71 ID:0b6E2Qj9
あ、OCRが誤変換してた
「腹り」→「瞋り」

十三夜の餅

2014年09月13日 18:53

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/12(金) 20:31:17.47 ID:DHKqFkOS
十三夜の餅

※口語伝承のため、特に原典となるものはありません

慶長5(1600)年の旧暦の9月13日、山形西方では十三夜の月見に合わせてこの日のために取っておいた餅米で
餅を作っていた

そこになにやら鎧兜をつけた集団が次々と現れ、掠奪や狼藉をはじめた

人々は村から追い立てられ山野に逃げ込み、我が家を振り返ると
せっかくこしらえていた楽しみの餅が、軍兵に食い荒らされていた

村人「こんな事なら月が出るまで待たずにもっと早く食べておけばよかった…」

突如として村に現れたのは先に畑谷城を攻め落として勢いに乗り山形盆地へと進軍する上杉の兵で

畑谷城が直江兼続に攻撃された日は「十三夜の餅」の日だった

恐ろしい目にあった畑谷ではいまでも十三日に餅をつかないという

畑谷から東の方面では
十二日や十三日の早い時間に餅をつき
時間を置かずに急いで食べる風習になったと伝わる




上杉軍の侵攻の早さに

2014年09月13日 18:53

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 10:29:11.18 ID:br53l3F2
上杉軍の侵攻の早さに

慶長5(1600)年9月13日の昼過ぎ、直江兼続は畑谷城を落とした

挙げた首級は500余り
味方の死者は200余り、負傷者は数百ほどと、寡兵の城を落とすには被害は少なくはなかった

直江軍の支隊の中条三盛・吉岡家能・土橋惟貞らは付近の鳥屋ヶ森城・左沢城・山野辺城・八ツ沼城を攻撃

山野辺城は明け逃げ策が取られていたが、左沢城には最上方に与する地元の国人が百姓らと立て篭もり、
上杉軍相手に気勢を上げていた

しかし上杉軍の侵攻の早さに八ツ沼城では、山形城に入っていた城主和田正盛の代わりに留守を任されていた
望月隼人らが撤退の期を失い、衆寡敵せず自刃して果てた

最上義光は畑谷城の江口道連をどうにか連れ戻す様に飯田播磨(信兼)と谷柏相模(直家)を畑谷への救援へと派遣したが
援兵が畑谷口に入る頃にはすでに城は攻め落とされていた

上杉軍の電撃戦のお話




慶長5(1600)年9月15日、直江兼続の手紙

2014年09月11日 18:50

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 13:51:09.60 ID:6EVqz2OS
慶長5(1600)年9月15日の直江兼続の手紙

「(秋山定綱殿へ)
(13日に畑谷城を落とし、)昨十四日最上居城に向け在陣し候處に
山形近辺の城五六ヶ所是も明け逃げ候
此の外二三ヶ所降参し候
仕置丈夫に申し付候
近日に隙明け申す可く候
御心安かる可く候」
『編年文書』

直江兼続は畑谷から富神山を抜け、軍の一部を菅沢から長谷堂北の平地にも展開した

その夜、長谷堂の鮭延秀綱の切り込み隊とは別に山形城からは夜陰に乗じて楯岡光直と清水義親の軍兵800が直江軍の本陣を突こうとしたが、水原親憲の鉄砲隊に奇襲を予期され、兵200ほどが討ち取られた

「尚々此書中調候半ばに敵働き候由申し候あひだ則ち乗り出し
敵の打つけにのり頸弐百余り取り候
飛脚見分の如くに候」
(手紙を書いてる途中に最上軍からの夜襲があり、迎撃して敵の首級を200ほど上げました)
『編年文書』

兼続は近日中には山形城も落とし、最上攻めはすぐにも終わるでしょうと結んでいる

長谷堂合戦序盤の
直江兼続の意気揚々振りを伝える手紙

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 13:56:55.21 ID:6EVqz2OS
同じ頃上泉泰綱も小山田将監へ手紙をしたためていた

「庄内人数白岩さが江(寒河江)迄請取り在陣候」
(庄内の志駄義秀と下吉忠らの別動隊も最上領の白岩城や寒河江城を落とし、着々と軍を進めています)

『小山田家文書』

関ヶ原の戦い直前の時期の
地方の戦いの一幕




長谷堂城の門の話

2014年09月01日 18:51

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 03:39:25.25 ID:Bq6cj/Aq
長谷堂城の門の話

元和の最上家信(義俊)改易により、山形南西の支城・長谷堂城は幕府の命令により上杉家に接収される事になった

出羽の各城も小国城は戸沢氏、延沢城・鮭延城は伊達氏により前後に兵糧庫を押さえられ収公された


上杉の代官「これが慶長の折に当家の山城守(直江兼続)が苦汁を呑まされた長谷堂城ですか。こうなってしまうと呆気ないものですな」
最上方の代官・坂上重内(坂光秀の子、坂光重か?)「平和な御世、当地は「長谷堂館(だて・たち・やかた)」や
「亀山の御楯(かめやまのみたて)」と呼ばれております。城ではなく、館、楯ですよ」
上杉の代官「…それがしには立派な城に見えますがな」


上杉の代官は兵糧庫を押さえると、米沢から連れて来た兵や人足らに城山の建物の破却を命じ、さっそく作業に取り掛かった

長谷堂城には代々門番を勤めていた某(なにがし)といった者があった

某「坂上様、上杉の奴腹が無茶苦茶をしております!狼藉を止められないのですか?」
坂上重内「接収というのは、普通は乱取をしてはいけないのが約束事だが、上杉家にとってこの長谷堂の「城」は因縁深い場所だからな」
某「最上家が改易されたからと言っても余りに酷うございます」
坂上重内「そちは重代この城を守り、その想いは海よりも深く、水と魚の様に切り離せぬ関係だものな。
…なにがあっても俺が責任を取るから、お前は城の門を持って帰れ」
某「ええんだが?」

某は長谷堂城門の扉戸を外し自宅に持ち帰ると、囲炉裏の梁上に隠した

門扉は代々その子孫に受け継がれた

門扉は左右2枚で、幅は合わせて約2メートル、高さは約1.9メートル
上杉軍が放ったとされる鉄砲の銃弾の跡も残る

1955年に紆余曲折を経て山形大学資料館に収蔵され、今に伝わる

「上杉家御年譜」「山形古話」ほか




658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 10:15:25.66 ID:4Q13TtUX
近くの名古屋城の門扉を思い浮かべてどうやって持ち帰ったんだ?
と思ってたら案外小さいんだな。

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 14:25:27.80 ID:N1E0Jmmn
そら小さいほど守り易くなるからな

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 14:29:30.83 ID:PZq97E5O
大きさが倍だと、16倍突破されやすくなるらしい

流体力学の本によれば、なんて

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 15:17:34.46 ID:QP9K5ZN6
そうか、城門をにじり口にすればいいのか

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 16:39:13.58 ID:Bq6cj/Aq
イメージをするなら長谷堂城門の扉戸一枚の大きさは襖(ふすま)やアパート・マンションの戸と同じくらいのもの
戸板周りの門柱や梁、屋根も揃えばそこそこのサイズにはなる

(2010年10月5日)山形大学は、高感度加速器質量分析装置を用いた年代測定で、伝・長谷堂城大手門扉が15世紀半ばから17世紀前半のものであると発表した

年代測定の結果、正面扉の回転支柱は文安2年(1445)から寛永9年(1632)に、また右側の回転支柱は寛正4年(1463)から寛永13年(1636)に伐採された木である確率が極めて高いことが示された

この扉は城の門番を務めた人物の子孫が代々保存してきたが、昭和30年(1955)に購入者が山形大学博物館に寄贈した

長谷堂城そのものは元和8年(1622)に最上氏が改易となると、廃城となっている(一部を編集)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4657519&id=57449661

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 17:04:29.91 ID:Bq6cj/Aq
>>662
かつての門番の子孫の方の家屋の建替(改築)時に「然るべき場所に寄贈する」といった約束での購入者といった表現になるらしいので、悪い意味ではないはず

「上杉の陣法さすがなり」

2014年08月27日 18:54

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/26(火) 19:45:33.93 ID:z6GT5VCN
大阪冬の陣の折のこと。将軍秀忠が天満より備前島あたりまで巡視をしたことがあり、この時秀忠は
有馬豊氏の陣の井楼に登った。

しかしその辺りの豊臣方は将軍の馬印を見知っていたので、そこの将軍がいると、井楼に向かって火矢を
射掛け大筒を打ちかけた。この状況に秀忠の近臣達は「ここは危ない、どうか降りて下さい!」と
諌めたが、秀忠はこれを聞き入れなかった。

ここに、水野日向守勝成が馳参り、この有り様を見て、秀忠にこう申し上げた

「斥候は一口を見切るものですが、巡視は全体を判断することが要の行為です。一ヶ所に長くとどまる
べきではありません。鴫野の方へもお出であって然るべきでしょう、」

秀忠はこれに「尤もである」と答え、鴫野方面へと移動した。

この時、鴫野にあった上杉の陣では、今から将軍秀忠が参らせられると聞くと同時に、直江山城守兼続が下知し、
早々に城に向かって鉄砲を打ちかけた。

この上杉勢の攻撃で、城中の者達は先手を打たれ対応せざるを得ず、将軍秀忠が通行する時、そちらに向かって
鉄砲を放つことはなかった。
この事に秀忠は、「上杉の陣法さすがなり」と感じ入ったという。

(校合雑記)




621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/26(火) 21:50:10.38 ID:ZvXxC2kb
冬の陣か…

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 13:33:38.38 ID:BIQ3geQA
直江って調子こいて無様晒すイメージしかなかったから何か新鮮

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 14:45:17.62 ID:a0Amvvn8
というか三河武士に危ない言ったら降りるわけないぞw

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 15:59:00.57 ID:KrZabrnT
秀忠が三河武士といえるかは少し微妙だな

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 17:40:48.60 ID:ZwnCDNgH
遠江生まれなのか、秀忠

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 19:56:58.10 ID:pO7Zi7iM
しかし秀忠もめんどくさい系であることは間違いない

畑谷城の撫で斬り

2014年08月26日 18:51

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 18:03:31.84 ID:9K4T4MFw
畑谷城の撫で斬り

直江兼続の最上陣は畑谷城攻めから行われた

畑谷城は山谷の間の街道を縫い、街道は番所と柵によって隔てられ、城の本丸のある館山を中心に深い空堀が巡らされていた
直江の大軍は街道に沿って城の東側からまず力攻めを実行
直江軍の先陣鉄孫左衛門尉と色部式部に対し、畑谷城では敵を近くまで寄せ付けて弓と鉄砲を散々に撃ちかけた

直江軍の初戦の被害も小さくなく、兼続は畑谷城を守る江口道連に「城を明け渡すなら、名誉ある処遇を確約する」と使者を出したが、
守将の江口道連
( ´_ゝ`)「敵を目前にして城を明け渡す輩の何処に名誉があるのか。他の国の兵ならいざ知らず、最上の兵は最期の一兵まで戦う所存である。城が欲しくば腕で取られるが良かろう」と降伏を拒否した

その夜畑谷城にいた軽技の得意な者が直江陣に忍び込み、兼続の番指物1本と鉄孫左衛門の陣屋の吹貫布1本を盗って戻った
畑谷城内ではさっそくそれを大手口の高い所に掲げておいた

夜が明けて直江の兵が畑谷城を見ると、そこには最上軍の旗に囲まれて兼続の番指物の旗が晒されていた

「馬鹿にしやがって」と直江軍の力攻めが再開された

やがて城山の搦手の急造三重堀の北側の手薄な部分を攻め立てられ、陽が正中を過ぎる前後に城は落ち、城内にいた者たちは悉く撫で斬りにされた

直江軍の挙げた畑谷の城兵の首級は500余
味方の被害は死者200余だったと伝わる




41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 18:16:21.13 ID:882BIRaR
鉄孫左衛門

てつさん? くろがねさん?
かっこいい苗字だな

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 18:17:12.03 ID:9K4T4MFw
鉄孫左衛門尉→鉄泰忠
色部式部→色部(修理)光長
と思われる

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 18:19:39.55 ID:9K4T4MFw
>>41
「くろがね」みたい
読みの似ている倉賀野氏との繋がりは不明

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 18:42:07.01 ID:882BIRaR
>>43
ありがとう
苗字で「鉄」検索したら読みはどちらのパターンもあるとのこと

直江兼続と白狐

2014年08月25日 18:52

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 13:22:21.73 ID:9K4T4MFw
直江兼続と白狐

蒲生氏郷の死により越後の上杉景勝が会津に移封されると、直江兼続は米沢城主として国境にある城の整備に取り掛かった
兼続配下の中津川彦七が荒砥城に入り、早速城域の整備の一環として八幡神社の社殿の修繕を試みた

上方では情勢が緊迫し、兼続は長期の自給戦闘を見据え山形攻め(最上陣)を決定
自ら二万五千の軍勢を率いて米沢を発った

はじめに最上の支城の畑谷城を攻撃しようと間道を探るのに、霧の中荒砥城の守護神である御楯稲荷神社の白狐が直江軍の先に現れ、その誘導に従い直江軍は畑谷城の搦手に至った

畑谷城主江口道連は剛の者であったが、搦手を直江・色部の鉄砲隊に押さえられ、同城はわずか二日で落城してしまった

「八乙女八幡神社縁起」「白鷹町の昔話・狐越街道」ほか





そんなことになったらあなたの人生は

2014年04月14日 18:52

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 17:58:28.03 ID:UipWGa/A
十二月に地頭・代官から年貢の催促があったのに払わないでいると、
大切なあなたの妻を質に入れる羽目になりますよ。
そんなことになったら、若い小者や中間があなたの妻を犯してしまいますね。
荒々しい世間の風にも当てたくない大事な妻が、若い者に犯されるがままなんてひどいですよね。
そんなことになったらあなたの人生は終わります。
周囲の人にもバカにされて、本当に耐えがたいことになります。

そんなことにならないように、十一月中には年貢を納めましょう!
年貢を納めたら正月の準備ができます。年貢を納めて、めでたい年末年始にしたいですね!


直江兼続著『地下人上下共身持之書』より抜粋




963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 19:07:32.69 ID:PVqVSTei
ほんま人を怒らせる天才やw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 19:54:21.76 ID:cniF/GiA
本人に悪気はなくて大真面目なんじゃないか?

素で性格がわるいというだけでw

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 20:06:55.01 ID:WIoEKrWb
本当に本人が言ってそうな気がしてくるわ

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 20:19:11.07 ID:VH+vnNa1
直江って屑なのに何であんなに持ち上げられてるの?

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 20:38:58.59 ID:II/k3Pg4
直江は本当に性格悪いね
こりゃ奸臣言われますわ

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 18:19:15.14 ID:90c4I//7
>>955
>>962
上杉の「ぎ」と「あい」は
兼続の場合は偽と哀でいいよ

庄内藤島一揆

2014年04月13日 18:45

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 22:35:03.02 ID:WgiqqBYR
天正18年(1590)から始まった庄内藤島一揆は、雪の荒れ狂う冬を越え翌年になってもおさまらなかった。

この間、攻め手の上杉勢は何度か和睦の使者を送ったが一揆勢は受け入れなかった。
そこで直江兼続は一計を案じ、配下武将を和議に赴かせ起請文を作成し、交渉した。
これに応じた一揆首謀者・金右馬允は佐渡に流された。

それからおよそ三ヶ月後の九月、豊臣政権より藤島一揆の残党狩りを命じる文書が上杉家に届く。
藤島一揆の者たちは、九戸政実の乱とつながりがあるとみられたのだ。
かくして上杉の率いる大軍が庄内に入り、熾烈な残党狩りを行ったのだ。

その様子が『庄内騒動故老聞書』という本に記載してある。
上杉勢は村々を攻め、女子供まで捕らえた。
藪に隠れた者は槍で突き、木に登った者は鉄砲で撃ち殺す。

美形の女性などは侍どもが集団で嬲り、殺される者の数がしれなかった。
太い竹に子供の首を五六個吊し担いで持ち歩き、痩せ馬の尾に老若男女の首を髪で結びつけ、
ひきずって練り歩いた。

溝は死体であふれ、道は屍だらけであった。
修羅の巷とはこのことであろうか。
地獄の責めとはこのことかと生存者の老人は語った。
住民が全滅してしまった村もあった。

狼が夜な夜な死体を食い荒らすので、この夜の終わりかと思えたそうだ。




985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 18:19:15.14 ID:90c4I//7
>>955
>>962
上杉の「ぎ」と「あい」は
兼続の場合は偽と哀でいいよ

直江兼続「下々の者が山形攻めを特に心配する必要はない」

2014年04月08日 21:44

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/08(火) 17:53:58.41 ID:J51LNWDh
直江兼続「下々の者が山形攻めを特に心配する必要はない」

1600年9月、長谷堂城を攻める直江兼続のもとに、一通の書状が届く

「関ヶ原で西軍敗れる」
 
そして、その返書が最近になって見つかった

返書の主は直江兼続本人

以前の通説では兼続が西軍敗れるの知らせを受け取ったのは、慶長5(1600)年の9月29日とされて来た

しかし、新たに見つかった文書の日付は9月21日
関ヶ原の戦いのわずか6日後の事である

「上方散々まかりなり候由聞き申候(上方で西軍が大敗したのを聞きました)」
『秋田藩蔵文書』

西軍敗退が明らかになった以上、上杉軍は即刻この戦をやめて帰途につかねばならなかったはず

相手の最上軍はその様な事はつゆしらず、長谷堂城に篭城し、最上義光も本隊を山形城に留めていた

兼続はさらに菅沢に帯陣を続け、9月25日には最上軍と大規模な戦闘を引き起こしている

義光を討てば短期決戦の一発逆転で庄内~米沢を結ぶ山形の地を手に入れ
徳川軍を相手に今後の長期戦を挑めるとでも考えていたのだろうか

長谷堂の戦いに参陣した直江軍の一手の将小幡播磨はやがて最上家に仕官する事となるが

小幡播磨「9月末から山城(直江兼続)の挙動は落ち着かず、西軍敗北を隠していたなら家臣たちはみな兼続一人に騙されて戦わされ続けていた事になる」

と語ったと伝わる





直江兼続の手紙

2014年04月07日 19:02

706 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/07(月) 15:18:03.98 ID:zo7V+3Jg
直江兼続の手紙

二ヶ月ほど前に話題になったものから

2014年2月、山形大の松尾教授は直江兼続が関ヶ原の戦いを前に、会津地方で伊達軍と戦っていた家臣に宛てて書いた直筆の手紙が見つかったと発表した。

写本はあったが兼続の直筆の現物の確認は初めて。伊達軍との戦いで善戦する家臣の頑張りを褒めながら「政宗は油断ならぬ相手、伊達軍の動向を滞りなく知らせるよう」指示を出している

書状は山形市の個人蔵
山形大の松尾剛次教授が花押や筆跡から本物であると鑑定した。
本村親盛と上泉泰綱を含む家臣4人に宛てたもので、日付は慶長5年7月27日。小山評定の二日後のもので、伊達政宗が旧領地の会津地方を奪還しようと攻勢を強めていた時期にあたる。

(つづく)

707 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/07(月) 15:20:27.41 ID:zo7V+3Jg
(つづき)

「すぐに城(福島県川俣町)を攻め落とし、城主の桜田氏をはじめ残ることなく討ち果たしたという。おのおのの頑張りは素晴らしいことである」とねぎらう一方で
「白石に伊達政宗がいるというので(上杉景勝から兼続も伊達の介入を防ぐ様後方支援の)後詰めを申しつけられた。(中略)。政宗の様子を注進するのを待っている」と要請している。

松尾教授は「当時の緊迫した状況がうかがえる。写本には誤りも多く、現物は上杉家の研究に役立つ貴重な資料。
上杉家の歴史だけではなく、東北史を見直すきっかけになれば」と話している。

(つづく)

708 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/07(月) 15:22:44.53 ID:zo7V+3Jg
(つづき)

文書はおおよそ縦15㌢、横75㌢。

他に兼続は書状で会津征伐に小山まで来ている家康が引き返したとの情報を「事実ではないだろう」と指摘。

関ヶ原の戦いを目前にした7月に、兼続は11通の文書をしたためているが、現物が見つかったのは3件目。

上杉文書を書き写した史料「覚書公御書集(かくじょうこうごしょしゅう)」に、この書状に該当する写しがあり、内容は基本的に同じだが、「書状を拝見しました」の部分を「連状」とするなど誤写があるという。
また今回、御書集の原本の一部と見られる書状が見つかり、内容も同じで貴重な資料。
松尾教授は「これにより御書集の資料的価値が上がった。さらなる直江文書の出現を期待している。また、上杉氏が会津に移封後の研究の活性化が期待される」と語っている。





「越境記」「最上合戦記」から長谷堂合戦の流れ

2013年11月12日 19:00

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 08:54:57.70 ID:ClsJsM9F
「軍記物」にまつわるちょっと悪い話

特定の合戦においても立場が異なれば、味方と敵とでものの見方や書き残す内容がまったく違ってくる事は少なからず出てきます

上杉家に残る「越境記」「最上合戦記」から長谷堂合戦の流れを軽く拾ってみました

直江兼続の所領は米沢にありましたが、北の山形の最上義光の国人や百姓らが無法にも直江方の所領に侵入する事が頻繁にありました
この報告を受けた兼続は「下々の事は最上の名主に問い合わせよ」と指示を出しましたが、一向に改善なされる様子はありません
兼続は「これは山形の義光が領民らをそそのかし、こちらの出方をうかがって米沢攻めを目論んでいるに違いない」と考えました

白石城を伊達政宗に取られたのも、計略に長けた最上義光が裏で糸を廻し、隙を見て米沢攻めを画策しているのだ、と

ならばいっそお仕置きをかね、山形周囲の城を叩き、義光に痛いお灸を据えてやろう

(つづく)

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 09:14:40.08 ID:ClsJsM9F
(つづき)

この事を景勝公にお願いしても、上方の事で大変な時期に出陣の許可は易々と得られないだろうから、後のお叱りは殿のお情けにすがり、お咎めは甘んじて受けようともまずは最上を叩こう

水原親憲が「大兵をもって山形城を囲んではどうか」と提案してきましたが
兼続は「山形周りの城を叩き、義光に反省を促すのが目的である。それでも行いを省みない様ならそれから山形城を囲もう」と評定を締めました

直江軍の動きは予想されていたのか、畑谷には江口五兵衛といった剛の者が配され、山形の最上義光も大軍を率いて後詰めをする手筈を整えていました

しかし直江軍は大兵をもって畑谷城を急襲したために、最上義光は後詰めの兵を出すタイミングを完全に失い、畑谷城は孤立無援のまま数日で落ちました

(つづく)

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 09:23:29.92 ID:ClsJsM9F
(つづき)

勝手に兵を動かしたものの最上方の城を落としてしまったので兼続は景勝公の元に伝令を出す事にしました

すると景勝公は意外にも「最近政宗や義光が領内を荒らしわがままに振る舞うのをいぶかしく思っていた。兼続は民を思いこらえかねて兵を動かしたのであろう
これで政宗も勝手な事はするまい。山形方面は時期を見て軍を返せ。畑谷を落とした事は褒めてつかわす」とおっしゃいました

兼続が畑谷を抜け富神山から山形を望むと、長谷堂と山形の方面には雲霞のごとく最上軍の旗がたなびいています
最上義光はまったく話し合いに応じるそぶりもなく、あくまで戦うつもりの様子です

菅沢に布陣して数日後、最上軍からの夜襲がありましたが直江軍は簡単に撃退しました

(つづく)

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 09:38:44.13 ID:ClsJsM9F
(つづき)

また、別動隊の上山口の方面では最上方の領民らが中山に侵入し、直江領の民らに喧嘩を仕掛け、張番の足軽が鉄砲で最上方の不法者を撃退するといった話もあった様です

にじりにじりと長谷堂城を取り囲み、最上方からの和議の使者を兼続は待ちました

奥羽の山を越えて伊達の援軍が山形入りをし、数を頼みに散発的に長谷堂城や山形城から菅沢の本陣に奇襲がありましたが、なんなくこれも撃退しました

山形城主の最上義光は無双の大力の強者で、鉄棒を常に携え「義光これを持つ」と象眼させていた様ですが、味方の兵が上杉軍に敗れる報を聞くたびにその鉄棒で地面を突いて怒りを顕にしていたと伝わります

しばらくして会津から「上方で急変があった」との事で米沢に兵を引く事になりました」

(つづく)

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 09:52:53.52 ID:ClsJsM9F
(つづき)

兼続「山形進攻はまずはこれまで。上意であるから山形の領民には迷惑を掛けぬ様速やかに兵を引け」

菅沢から兼続が兵を引き始めるそぶりを見せると、「上杉軍に戦意なし」「臆病風に吹かれたか」と
最上軍と伊達軍が米沢勢を残らず討ち取ってやろうと長谷堂城と山形城から一斉に打ち寄せてきた

最上軍は琵琶の小旗を着け総勢一万二千騎余
これに伊達軍も加わり、山形勢の士気は天をも突くばかりだった

見る見る内に長谷堂城から菅沢への平地が最上軍の人馬で埋まった

勝ち誇り追い縋る最上軍
戦う様に見せて幾段にも分けて伏勢を置き、鉄砲を打ち掛けては退く直江軍

なにぶん最上軍は大軍なので鉄砲で打ち払っても打ち払っても簡単に退く事はできなかった

(つづく)

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 09:59:19.65 ID:ClsJsM9F
(つづき)

殿軍の兵らはよく戦ったが勢いにのる最上軍は大兵。(直江軍の)味方に戦死傷者が続出しはじめた

こうして直江軍は多勢の最上軍に追い縋られながらも全部これを退け、畑谷を通り米沢方面へと引き揚げた

この撤退時に味方が討ち取り持ち帰った最上軍の首は約三百余である

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 10:02:18.17 ID:ClsJsM9F
「最上記」と比べると、大分いくさ観に違いがある様です

最上軍の兵が12000人+伊達の援軍って…

買い被られてたのか
それとも補正で水増しされていたのか…

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 11:37:50.05 ID:ClsJsM9F
この「最上合戦記」は長谷堂城主を坂紀伊守(坂光秀)と扱い、志村光安を山形城軍としています。
他にも湯沢に篭城中の由利豊前(楯岡満茂)や既に死んでいる延沢能登(満延)が長谷堂合戦に参戦していたり、鮭延越前(秀綱)が城野越前として重複してカウントされていたりと
気になる部分も見受けられます




725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 18:03:13.03 ID:6Xc33ZES
これは検証スレでやるべき話題やね

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/13(水) 14:20:00.37 ID:7Zod2C6F
さすがにたった八人で敵を退却させたという話はないのね

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/13(水) 16:21:25.89 ID:gDVuHnz7
ん?景勝さんがしゃべってる!?

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/13(水) 17:49:24.15 ID:jhPTV3QY
景勝「…」
兼続「わしが喋ってもおかしくないだろう、と殿はおっしゃられておる」

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/13(水) 18:36:52.64 ID:cpBuua7P
>>726
大村の三城七騎籠ならあるよ

733 名前:716[sage] 投稿日:2013/11/14(木) 03:48:01.56 ID:TMFzcbhY
>>726

一方組外衆が撤退戦で最上の兵おおよそ二百を足止めした

「二百」

字が「二万」にも読めなくはない

※「花の慶次」のエピソード誕生
-とも思えます

>>728

会津の景勝から山形に出ている兼続への「手紙」での文言でしょうね

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 07:15:35.69 ID:aaZ50duI
>>726
遅レスだけど
「上杉諸士書付?」だったかには「八人が最上本陣を襲い、最上方をしっちゃかめっちゃかにやっつけた」とか
いった内容があったと思う

750 名前:749[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 07:19:37.78 ID:aaZ50duI
間違えた…

>>726
「上杉将士書上」にあるらしい

直江兼続曰く、主人にするなら

2012年10月04日 20:29

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 18:34:09.02 ID:o3nRy/lW

直江兼続曰く、

「今日本には大身小身の名将が多くいるが、その中から
選んで主人にするならば、太田三楽と我君の謙信公に及ぶ者はいない、
と他家にて話題になっていたと聞くが、実にもっともなことである」

――『名将言行録』



717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 20:41:54.53 ID:DpkzE+6j
実は直江と謙信って会ったことが無い可能性があるんだよな

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 00:52:03.82 ID:ImmTqv4a
>>717
所詮名将言行録だから。
謙信に目通りした事あるかないかはともかく
直江兼続は景勝以外に仕えた事無いし。
まあ上杉の家名箔付けのために
「謙信の家」を強調していた可能性は無くもないかも

雑談・今ニュースで山形県の五色温泉の紹介が

2012年04月05日 21:35

552 名前:sage[] 投稿日:2012/04/04(水) 18:00:29.71 ID:u4CGuhOU
今ニュースで山形県の五色温泉の紹介がされていたんだけど、その説明が
「直江兼続が整備し子宝の御利益があるといわれている」って。
なんか御利益薄そうだなと思ってしまった。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/04(水) 22:35:05.96 ID:DK9u/joP
>>552
大ふへんもの「利益ならここに」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2727.html
しかしこの山田風太郎も「くノ一紅騎兵」でネタにしている異聞の男装女も
その温泉にはいっていたりして

雑談・直江兼続のことなど

2012年01月13日 21:59

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 11:38:52.40 ID:kzahPtmK
慶次はともかく兼続に清涼感有る?


413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 15:11:10.20 ID:qzUCVkDt
>>409
直江は上杉と徳川が対立した原因を家康にも景勝にも求められなかった人たちが
江戸時代にスケープゴートにしただけで本人は基本的に忠臣じゃん
直江状も爽快な文章だとして広まったもんだし
水原や安田が直江と対立したような話も
出所は直江を悪臣にして徳川上杉叩きを回避しようとした話が元だし。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 15:25:35.16 ID:gU7lqkXF
爽快……?

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 15:34:27.22 ID:8NJoN/ZK
何が疑問?

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 18:14:58.81 ID:QXtAUjp+
山城守は地で嫌われてないか?

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 18:17:25.01 ID:AY2+RVW6
そういえば直江状って、「家康を批判したものではない」って説まであるんだよなw
それどころか家康の権威を素直に認めたものだとか何とか。
そうなるともうわけわからんw

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 18:41:06.31 ID:l0leCNf5
武田家における跡部勝資もそうだけど、意思決定に大きく関わる立場にいて、
結果としてその意思決定のために国が害を蒙ったら(武田→国が亡んだり、上杉→石高が激減したり)、
後世非難されたり、嫌われても仕方がないと思う。
国の指導的立場にある人の宿命でしょう。

直江状も、その後がうまくいっていれば、時の権力者に啖呵を切った爽快な文書として素直に受け取れるけど、
結果、主君に土下座させることになったわけだから、
身の程知らずが書いた愚かな文書、と受け取る人がいてもしょうがない。

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 18:44:15.73 ID:Y7hHO2Km
>>409
景勝家臣としては慶次や兼続の方が評価されているけど
水原もいいなって書いただけだよ

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 20:23:08.83 ID:U6GkUUgF
>>418
跡部勝資は本当に可哀想な人間だと思うぞ
側近の同僚だった山県昌景、原昌胤、土屋昌次が一時期にごっそり死んでしまったからな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 21:02:47.08 ID:l0leCNf5
>>420
基本的に異論はない。跡部勝資の人生は、個人的には気の毒だったと思う。
才幹能力と地位にミスマッチが生じたのは、
偶然と勝頼の人材を見る目のなさに起因していて、そういう意味では跡部勝資の責任じゃないから。

ただ、それなりの地位に就いた人が、その地位に見合うだけの能力がなかったってのは、
現実のステイクホルダーにとって、可哀相で片づけられない不幸だと思う。
前に土屋昌恒の逸話で、跡部勝資の判断の行き当たりばったりさが「無分別」だと激烈に非難されてたけど、
それはやむを得ないことだと思う。
一国の指導者層の人間が、判断を誤って国を滅ぼして、それでも非難されないとしたら
歴史から学ぶことは何もなくなってしまう。

うん。立派な長文スレ違いだw
お詫びに何か出せる逸話がないか、手元史料を探してくるノシ

『餅』と米沢と庄内を結ぶ山道の開削

2012年01月03日 22:00

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 13:32:39.52 ID:B3Fvg6Y3
まだ正月三が日ということで、餅にちなんだ逸話でも。
ただ、出典が数年前の地方紙なので、その程度のものとしてお読みください。


慶長3年、上杉家が会津・米沢及び庄内を領地として持ったころ。
会津と庄内の連絡には他家の領地を通るしかなく、それはそれは不便であった。
この現状をどうにかせんと、上杉家の重鎮・直江兼続は一計を案じた。
それは米沢と庄内を結ぶ山道の開削である。
だが、その道が隣国の最上家や堀家に露見しては厄介なことになるため、あくまでも秘密裏に、かつ早急に完成させる必要があった。
その工事における、人足の食事における一節。
「餅一升を最初に食い、工事に臨む。最初の二日は腹がくちくて苦しく、中の三日はちょうど良く、後の二日は空腹で苦しい」
という記録があったらしい。

……炊煙があがるとヤバいのはわかるが、もうちょっと福利厚生に気を使ってください、山城守様。





562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:24:27.32 ID:6FwvJdne
一週間断食して働けとかブラックとかいうレベルじゃねぇなw
干飯とか乾物とかやりようはなかったのか…

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:31:13.02 ID:DLPNF1XR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1419.html
蓼をおかずに食べてたら
>兼続「メシは塩だけで十分だ!蓼まで必要ないだろう!」
こりゃ、おかずも期待できないな

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:59:23.78 ID:HuCz4brz
ブラック大名に仕えているんだがもう俺は限界かもしれない 人足編

しかしなんかの悪影響で兼続に文句つけると利いた風な口を聞くなー!と叫ばれるイメージしか浮かばんw

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 20:38:21.83 ID:ftkNyCaV
一升餅1.8キロ×餅235kcal/100g=4230kcal?
約4000kcal一気食いって血糖値が怖いことになってそうなんだけど。


566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 21:45:41.95 ID:B3Fvg6Y3
>561です。
蛇足ですが、このブラック大名が開削した山道、関ヶ原後は存在価値が無くなって使われなくなってしまったんですね。
朝日山道という名の道ですが、過酷な労働に耐え抜いた人足の皆様の心境はさびれゆく道をどのように見ていたのか……

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 22:57:29.79 ID:YHtQx8Fp
謙信は出陣のときはたんまり飯食わせてくれたって話だけどな
所詮三流の人か

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 22:59:17.49 ID:Lyo5d9qt
目的が違うからなんとも

569 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/03(火) 23:20:17.09 ID:lNB70Z3A
~米沢藩からのお知らせ~
 ☆急募・短期アルバイト☆
上杉家では一緒に働いてくれる臨時スタッフを募集しています。
力を合わせて米沢を豊かにしよう!

内容:道路工事人足
場所:上杉領国境
待遇:食事あり、現物支給
連絡は直江山城守まで

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 23:23:21.57 ID:l3XCrJG9
人足たち「わしはこんなとこ、きとうはなかった」

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 11:21:39.51 ID:FJjBq1ri
戦下手なうえに人使いも下手なんだね。
評価できるのは家康への檄文くらいなのかな?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 11:44:06.02 ID:q7k5tcAy
内政家としてはそれなりじゃね?
あと文化人としても。

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 13:21:26.77 ID:6Wj7V65T
鷹山が評価しなかったら
武田の長坂光堅や跡部勝資みたいについ最近まで佞臣の代名詞になってたんじゃないかって気がする>山城守

574 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/04(水) 15:31:31.47 ID:jPZDSygS
奇襲は上手いかもしれない
春日山城占拠とか

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 15:39:23.77 ID:WSoEXaDF
だから山城守なんだなw

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 15:46:00.49 ID:KqhVrGjC
>>575
だれうまw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 18:50:53.91 ID:6uGyk9Fu
なんで秀吉に「アイツは頭が足りないw」とか言われてんのかと思ったらこういうことだったのかw

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 18:56:18.56 ID:x6kKMzwc
思いやりも足りてないんじゃ?

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 19:04:00.99 ID:+SG6/CYY
各種の逸話を見るに如才さが足りてねぇな
足り過ぎてて九州に飛ばされた誰かさんも居るが

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 19:04:28.97 ID:RcB7Nasp
そこまで気が回らない、ということは回りすぎるくらい頭回る頃の秀吉から見れば頭が悪い、ってことになるんじゃね

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 19:27:36.66 ID:7twx6ghO
wikiに出典が載ってないが、日本槍柱七本て項目があって
小野鎮幸
本多忠勝
島津忠恒
後藤基次
直江兼続
飯田直景
吉川広家
の七人がラスボスに槍働きを賞賛された、とか
しかし山城守は場違い感があるから、いっそ直江と飯田はまとめて樋口角兵衛に

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 21:00:07.99 ID:FJjBq1ri
しかし大河の罪は重いなw
ぶっちゃけミニ治部ってとこかいね?

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 23:40:25.76 ID:3V3L5IZF
戦国じゃないけど白洲次郎も吉田茂の佞臣ってイメージだったらしいね

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 03:23:53.00 ID:SIkx9rm8
治部に比べりゃ政治軍事文芸あらゆる方面で活躍してるが。
つーか戦下手評価も元々大して積極的に攻めてない長谷堂城での話が
元だから下手ってほど下手でもない。
撤退戦で凄まじい働き見せたのも事実だし。

あのクソ大河の影響で不当な過小評価受けてる印象だ。
[ 続きを読む ]

山城は何にて

2011年07月22日 23:11

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 00:33:02.69 ID:MyGGRZ9I
山城は何にて

大御所徳川家康のもとに諸大名が集まった時のこと。
「近ごろ、珍しい物を手に入れましてな。」伊達政宗が異国の貨幣を取り出し、家康に見せた。

「これは面白い。やはり我が国の貨幣とは違うのう。どれ、皆にも見せてやってくれ。」
政宗は家康の言葉に従い、貨幣を諸大名の回覧に付した。末席にいた直江山城守兼続にも回されたが、
兼続はこれを扇子を開いて受け、手に取ろうとはしなかった。

遠慮していると思った政宗が「山城守よ、直に手に取っても構わんぞ?」と声をかけると兼続、
政宗をジロリと見て、
「このような汚らわしき品、景勝様に代わり上杉の軍配を握る拙者の手にするべき物ではござらぬ。」
と答えた。

政宗は赤面して返す言葉もなかったが、上座から兼続に鋭い問いが飛んで来た。

「あぁそうかい。では山城よ、お前さんどうやってションベンを切ったりケツを拭いたりするんだね?
(原文:山城は何にて両便の取捌きするや。)絶対に手を汚さず生きていると言えるのかね?」

怒気すら発して問う家康を前に、兼続も言葉に詰まり顔を伏せるしかなかった。(想古録)

有名すぎる話ですが、こんなバージョンもある、という話。




680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 03:02:03.82 ID:rFPoq8vv
>>679
兼次「何で徳川殿はそんなに怒ってんの?綺麗な手で軍配を握る心構えっておかしい事?何で怒ってんの?
何で糞小便の話までとぶの?ねぇ何で?」
と言いたいのを我慢して顔を伏せざる得なかったという
~民明書房より~

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 06:59:41.91 ID:E6M3PFcZ
秀吉時代と何も成長していない独眼竜と直江兼続。君ら2度目だぞ。

そして焼味噌の話題に定評のある権現様。

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 07:03:37.48 ID:6XDo5rwE
兼続の代りに一物を持つ役の女中とか居たのかもしれん

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 07:09:47.57 ID:uB0t4Aw8
伊達だけならともかく、家康をはじめとした諸大名までバカにしてることになるからな

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 07:26:54.55 ID:Bqvk6PDJ
ま、そのままストレートに受け取ると、不浄と不潔の見分けが付かない家康って話か。
流石に伊達はその辺の見分けが付いているみたいだけど。

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 07:56:26.78 ID:GVFiWex8
どっちにしてもいい話なのだろうか?

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 09:35:59.07 ID:tQN+xXY9
家康が政宗&諸大名の面目立てたいい話だろ

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 09:43:06.32 ID:QDWUTPQT
まあこの話が実際にあったとしたら、大名一同直江に対して「何いってんだこいつ」と
思ったには違いないからなあw

>>684
> 不浄と不潔の見分けが付かない家康
この時代それは一致してるよ。不浄と不潔を分離したのは科学的衛生観念が生まれた
近代以降だね。トイレを「御不浄」と何故呼んだのか、って事。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 10:09:34.87 ID:rFPoq8vv
家康が直に手に取って諸大名に見学を促してるから、一連の流れを否定する事は家康の面目を潰す事になるな
でも焼き味噌菌で汚染された物体を遠慮したい直江の気持ちも分かるよ
限界ギリギリの断り方で直江にしては十分配慮してるし
まあ、一番の被害者は宝物を汚染された事に気づいて俯いた政宗なんだけど

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 11:48:59.71 ID:yvPFdgCR
直江はこんな珍しいもんもってる俺かっけー、な雰囲気が不快だったんじゃね
現代でも他人の自慢話、知識のひけらかしほどうっとうしいもんはないからな
そんな汚いもん触りたくない、って言う直江の気持ちもよくわかる

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 11:49:30.72 ID:hSN2Eqok
異国の貨幣だから汚いのか?
国内の貨幣だって、敗走兵の便を通過して再利用されている可能性もあるらしいから
そうとうヤバいよ。大丈夫か、兼続。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 12:18:12.83 ID:qFiIBI56
>>689
そういう感情を表に出してああいうこと言っちゃうんじゃ、
もっとうっとうしくて、汚らしい人間だと思うけどなあ

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 12:20:16.17 ID:QgLcg/Oy
直江は結構ウザイキャラ
近年美化されてるが

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 12:48:35.48 ID:dA8Nkcq0
つまり、
直江「くっ、静まれ、俺の愛染明王…!」
とかやるわけだな…

694 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/22(金) 16:07:31.04 ID:KvRccKRU
くだらんことで自慢する政宗にイラッとする山城
いちいち場を荒立てる山城にイラッとする家康
どっちも解るな

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 16:26:31.55 ID:tpTUAeij
陪臣の癖に生意気

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 16:49:43.34 ID:NGQ3VZEz
神君バージョンでは結局味噌話になるのか

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 21:44:14.25 ID:yvPFdgCR
>>691
いや、潔癖だからいわでものことがついつい口に出るんだと思うよ
汚い、というか人間関係に計算が働く奴なら流した方が得だってわからないわけないからね
直江さんは洒落の通じない真面目委員長タイプと思われ

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 22:12:03.29 ID:nugZd22c
三成と気が合うはずだw

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 22:12:35.50 ID:qFiIBI56
>>697
この場でのこういう発言は損得以前の問題として人としての常識に欠ける

浪人なら好きにしてくれればいいが、
本人の発言が主君にも影響をあたえるんだからこんな発言しちゃ駄目だろ

実際こんなことを兼続がいったとも思わんが、
兼続の逸話でのキャラってこういう独善的なものが多いよね
秀吉の評のまんまのキャラといったところか

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 22:30:27.11 ID:tpTUAeij
色々と商業や産業育成をしてた人だし、本気で金が汚いと思ってたんじゃなくて政宗を侮辱したかっただけだろ。

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 22:34:48.97 ID:wwcRHk7k
何にせよ政宗が一旦は恥じ入り、家康も糞小便と並べているわけだから
武人的に見たら貨幣は汚らわしいという観念はあったのだろうが
実際的な意味ではどうだったんだろうか?
本当に絶対触らないような心構えでいたらやってけないような気がするんだが

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 22:44:05.83 ID:EhZl2g8W
そもそも状況からして兼続のポジションから
金は不浄とか言い出すとこじゃないw

海外の貨幣が珍しいという話なのに
突然見当外れなこといいだしてる。


703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 22:56:58.58 ID:yvPFdgCR
>>699
そういう人間だ、って割り切って景勝も使ってるんだと思うよ
この手の欠点があってもそれを補えるだけの能力があるから重職についてるんだろう
第一、ホントに口喧しいだけの人間なら実力社会の戦国で生き残れないと思う
仮に直江がこの癖で景勝に不利益をもたらしたとしてもそういう人間を重用した景勝の自己責任

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 23:02:47.46 ID:rFPoq8vv
こういうのは場で一番偉い奴の捉え方次第だからな
采配を振るう手で不必要な振る舞いを自重する行為は間違って無いし
この場を仕切ったのが秀吉だったら兼続は知恵が足らんな~って思いながらも
「その程度の事で武運が落ちる山城守でもあるまい、この場にいる全員がその様な者と儂は信じておるぞ、
とは言え儂も伊達も考えが浅はかだったな、三成お前なんか一発芸でもやって場を盛り上げろ」
ってな具合に誰1人として面目を潰す事なく丸く収めたと思う

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 23:07:35.89 ID:Dr4/rFK+
>>713
いや、受けが得られない三成の面目が…

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 23:22:16.62 ID:ey+6MQlO
普通に考えると商業を蔑視する、江戸武士道の影響で生まれた逸話じゃないかね?
まず、有名な天正大判の方の話が生まれて、そこに権現様を参加させて…
って経緯でできた話だと思う。

707 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/23(土) 01:06:53.58 ID:XP9Herdo
なら権現様は兼続に賛同するんじゃないか

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/23(土) 01:14:30.54 ID:FQR0oXNk
まあ江戸期も長くて、社会風潮として貨幣を蔑視する時期もあればありがたがる時期もあるので、
そのへんを調べていけばこの逸話の成立時期も見えてくるかもな。


709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/23(土) 05:29:07.93 ID:fIpRQ7GY
伊達が嫌いで屁理屈こねただけじゃねーの?

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/23(土) 09:15:57.41 ID:vZaB3BWG
政宗への嫌がらせにしては愚かなやり方だわ。
結局、権現様以下の諸大名みんなを侮辱してるし。