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最上殿が本当に全部持ち帰ってしまうとは

2022年12月07日 18:39

653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/07(水) 16:45:30.46 ID:/LNvPK4p
山形市最上義光歴史館 特設展示/第三部「最上家ゆかりの古文書」
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=520014

山形市最上義光歴史館では、先日より最上義光所縁の書状の数々を展示中です。伊達政宗のあの「皆殺しにしましたよ」書状も。
まだ日にちがありますのでぜひご来館ください。入館料は無料なので。

その中でも新公開がこちら。連歌を愛好した義光は里村紹巴一門と親しく付き合っており、里村昌叱(紹巴女婿)が知人に宛てたものです。


14.里村昌叱書状/宗澗宛/年未詳玖(九)月十日

猶々、珍酒・珍味
非大方候、かしこ、

昨日者節日為
御礼義御出本望候、
殊一双 鮎十九
被持候、毎度御
懇情満足不浅候、
令他出不能面談、
御残多候、佳肴故
今朝俄ニ最上殿
申入候て、只今御帰候、
右御酒 佳肴至而
恨入候、大咲、如何
様以筆可
申述候、恐々謹言、

 玖月((九))十日 策庵
        昌(花押)

 宗澗公
   まいる
    □□□(吟意下)


知人より酒樽一双と鮎19尾を頂いたお礼の書状ですが、そこへ招待された義光が全て持ち帰ってしまったという顛末で、
学芸員諸氏のご解釈によりますと、

(最上殿が本当に全部持ち帰ってしまうとは)残念です、(これだから田舎の人は)大笑い(大咲)ですね。

というような、どうも京都人による儀礼的な問いかけに、言葉通り乗ってしまったぶぶ漬けトラップ的な案件だったのではないかとのこと。
京都人こわい。



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/07(水) 18:29:54.59 ID:6oIoO6gb
昔から陰険なんだね
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【ニュース】最上義光、やっぱり長身だった

2022年06月28日 18:22

532 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/27(月) 17:15:18.86 ID:ubDy3UJz
最上義光、やっぱり長身だった 山形大・松尾名誉教授「奥羽永慶軍記」で確認 山形新聞2022/06/25
https://www.yamagata-np.jp/news/202206/25/kj_2022062500674.php

初代山形藩主・最上義光の身長が180センチ以上と長身だったことを具体的に記した史料が存在することを
山形大の松尾剛次名誉教授が確認した。史料は義光が生きた時代の東北地方を描いた「奥羽永慶軍記」で、
東京大史料編纂所のデータベースから見つけた。同軍記から引用して義光の容姿に触れた本はあるが、
具体的にどのページを引用しているか分からなかった。今回の発見で義光の長身伝説が裏付けられた。

同軍記は天文から元和年間の東北全般の群雄争乱の跡を書いた軍記物語。義光の容貌が記されているのは
「巻二十五」の前半で、豊臣秀吉の命令で全国の大名が朝鮮出兵のため京都をたつ場面だ。
政宗の身長は以前、埋葬されている墓の発掘調査で159センチだったという結果が残っている。同軍記の記載と
矛盾がないことから義光の記載内容も「信ぴょう性が高い」と松尾名誉教授。義光は使っていた指揮棒が
刀2本分の重さで、背が高く、怪力だったとのエピソードが残っているがこれまで裏付ける史料が確認されていなかった。

同軍記は現在も活字本が流通しているが、内容が割愛されている部分も多く、今回松尾名誉教授が確認した
義光の部分はない場合が多い。理由について松尾名誉教授は「まず自筆本が現存しない」と指摘する。

(中略)

奥羽永慶軍記 秋田藩(現在の秋田県)の郷土史家戸部正直が記した軍記物語。元禄11(1698)年にまとめ上げた。
当時の東北地方の史料が少なく、物語ではあるが多くの歴史家が引用している。

※山形新聞ウェブサイトはPCからなら全文無料閲覧可ですが、スマホからだと有料です

533 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/27(月) 17:20:01.16 ID:ubDy3UJz
一応、一番下の永慶軍記の解説の通り、軍記物というのは承知の上であえてのお話でありますので・・・



伊達の加勢

2021年09月14日 18:45

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 15:06:35.11 ID:q8uyA47f
慶長出羽合戦、始め最上義光上杉景勝の大軍が押し寄せると聞いた時、子息修理太夫家親に申された

「この度、直江山城守(兼続)大将にて四万余りの軍兵を引率し攻め来たるという事であり、
敵勢は定めて、雲霞のごとくであろう。
私は山形の城を以て。出来る限り防ぎ戦い、叶わずば腹を切る。その方は早々に奥州岩手沢に赴き、
加勢を伊達政宗に乞うように。

但し、我が姉(義姫、実際には妹)は政宗の実母であり、その方と政宗は従兄弟であるのだが、
先の鮎貝藤太郎(宗信)の事で政宗との関係が悪化し多年となっている(鮎貝宗信謀反事件)。
既に弓矢も数度に及んでおり、伊達家も我々に加勢する事は中々合点しないとは思う。

しかし政宗も関東方無二の味方であるのだから、私からの要請を聞く時は、関東(家康)の後聞を憚り、
加勢すること必定である。
その内に山形が落城すれば、私は討ち死にする。その方は生き残って、家名を相続するのだ。
父子が一所にあって討たれるなど、言い甲斐もない事だ。」

そう言って今生の暇乞いの盃を取り交わし、家親は馬に打ち乗って奥州岩手沢を指して駆けた。

九月八日、岩手沢に到着して政宗に対面した。家親は言った
「この度、関東の御下知により義光も軍兵を催促し、米沢口より会津に取り掛かるべしと支度をしていた
所に、治部(石田三成)が大阪に討って出て、京都、畿内がこれに一味し、伏見の城を攻め落とし、
既に治部の先勢は美濃口に充満しているとの事で、関東の御勢は会津攻めを止められ、江戸に引き入り、
上洛されました。これによって直江山城はその利に乗じ、この隙を伺って、四万余りの軍兵にて近日、
最上を攻め潰すべき支度をしているとの情報が申し来ました、そのため味方にも数ヶ所の砦を構えさせ
待ち受けていますが、大敵であれば、此の方が打ち負けること必定です。

事新しき申絛ではありますが、貴殿の御母堂は我が叔母であり、従兄弟のよしみ浅からず。
然れども先年の鮎貝藤太郎の事により、伊達・最上は確執に及び敵味方となり、数年争いましたが、
これは頗る本意では有りません。

この度直江が最上を攻め平らげれば、則ち、さらに下湯の原にかかり、岩手沢に取り掛かること、
隴を得て蜀を望むの勢いはとどまることは無いでしょう。これはいわゆる、唇亡びて歯寒しという
警句です。

今度、多年の宿意を咎めること無く、加勢を出され、最上の急難を救われれば、外には関東への奉公、
家は一家を救う所、名実ともに全き所であります。
正に今、最上は大事に及んでいます。貴殿が加勢されず、直江が最上を攻め取れば、一体何の面目が
あって、御所(家康)に見えられるのでしょうか?」

このように理を尽くして申されると、政宗もこれを聞いて「尤も至極」と同心し、
「追っ付け、加勢を出すので、貴殿は父義光と一所に、山形を持ちこたえるように。」と家親を反し、
則ち最上へ加勢を差し越した。
(中略)
政宗総軍は旗の紋に、琵琶の図を書いた。『我は琵琶なり。敵ひけ。』という事である。

近世軍記

慶長出羽合戦に於ける、最上から伊達政宗への救援要請について



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 18:41:05.76 ID:Ovha0XjA
今となってはいろいろ突っ込みはあるが一番は家親じゃなくて義康の誤りか

【話題】最上義光時代の山形城本丸御殿復元CG

2021年05月23日 17:37

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 17:00:50.04 ID:QYAc2Tbk
鳥居忠政に取り壊される前の最上義光時代の山形城本丸御殿復元CG
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kakuka/machizukuri/koen/sogo/yamagatajo/vr/

30年以上霞城公園(山形城跡)は発掘や工事を続けているけれど、生きている間にどこまで建物群は復元されるのだろう




最上義光と向去(ムカサリ)道

2019年12月11日 16:39

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/11(水) 11:01:10.95 ID:+Xsq24cf
最上義光と向去(ムカサリ)道

戦国時代のある日、山形の最上家と谷地の白鳥家の間で縁談の話が持ち上がりました。
最上義光は家臣の蔵増親景に命じて長男の最上義康と白鳥長久の娘の日吉姫(伏姫とも)の婚儀のために、姫を谷地から山形へと迎える新道を(山形から漆山、高擶、蔵増、谷地を通る最短距離の新街道)を切り開きました。

日吉姫はこの道を通って山形に嫁ぎ、沿道の領民たちは、この道を「向去(ムカサリ)道」と呼びました。
それから間もなく血染めの桜で知られる白鳥長久謀殺事件が起き、婚姻が事実上のおしゃかとなると、最上の軍勢がこの新道を谷地まで攻め入り、姫の里の谷地は落城。
「ムカサリ道」は「いくさ道」でもあったのです。

天童にあるこの道も、今ではわずかに名残を留めるだけとなりました。
また、長崎と山辺間の「立道」(たちみち)にも中山氏と山野辺氏の縁組の不幸な逸話があり、以後嫁入りの際は「ムカサリ」はこの道を避けて通らなくなったと言います。
他にもムカサリと冠される橋があり、白鷹町荒砥の「ムカサリ橋」も何故か理由はわかりませんが、昔から「ムカサリ」は渡れない橋だと言われています。伝承は理屈ではないということでしょう。

山形の昔話
天童の昔話
てんどうのむかしばなし第二集
白鳥十郎公ものがたり/槙清哉/著
山辺夜話/武田泰三/著
あらと百物語/荒人・乱舞実行委員会/編



【ニュース】初公開 山形城主・最上義光 直筆の手紙一般公開へ 山形市

2019年06月09日 09:22

130 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/08(土) 17:02:18.56 ID:1WjVqsNF
初公開 山形城主・最上義光 直筆の手紙一般公開へ 山形市
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190605-00010003-sakuranbo-l06
山形城主・最上義光の研究を進める上で、貴重な直筆の手紙が、7月初めて、一般公開されることになった。

今年3月まで、山形大学で日本史学の教授を務め、現在は名誉教授の松尾剛次さん。松尾さんは38年間、山形大学で研究し、
最上義光に関する史料の発見と見直しを進めている。今回、松尾さんは以前から研究対象で私的に所蔵されていた史料を
自ら買い取り、初めて一般公開することを決めた。

(松尾剛次さん)
「天正14年の正月7日付、最上義光書状で、東禅寺氏永に宛てたもの」

松尾さんが買い取った義光直筆の手紙は1586年、援軍を求めた酒田城主・東禅寺氏永に宛てたもので、わずかながら軍を
派遣すると応えている。松尾さんによると、至るところに義光の字のくせや力強さがあり、義光の刻印も押されている。

(松尾剛次さん)
「字も力強く書かれているが、論理的な組み立て、非常に義光は頭のいい人。天正14年における最上義光の判断・情勢がわかって非常に興味深い」

義光の人物像を克明に浮かび上がらせる上で、こういった古文書の1つ1つが貴重になってくる。

(松尾剛次さん)
「(義光は)ずるくて残忍なイメージがあるが、多くの史料に最上義光は名君だったとある。優秀かつ素晴らしい人物だったとの史料がたくさんある」

古文書の多くは、私的に所蔵されていることが多く、一般に公開されることはほとんどない。今回松尾さんが見せてくれたのには、
公開することで貴重な史料を後世に残すという狙いがある。



最上義光、山形城作庭のいい話

2019年04月19日 16:37

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 16:21:36.68 ID:tLGrHa8N
最上義光、山形城作庭のいい話

出羽国上山(かみのやま)には昔蔵王の山が噴火した際の火山岩が点在している

昔々のある日のこと、最上義光が鷹狩に上山の金瓶にやって来たことがあった
その金瓶の丘陵に義光は東西12m、南北7m、高さ3.3mもの巨岩を見つけた

最上義光「なんと素晴らしい大岩なのだろう!是非に山形のお城の庭に置く石に欲しいものだ」

義光が家来に岩を見に行かせると、岩の下に洞(ほら)があり、洞の中には子狼がおり、
不穏な唸り声に岩の上を見ると、岩の上には親の狼がおり、義光の家来たちを睨み付けておりました

家来が義光に「岩は狼の巣でした」と報告すると、義光は
最上義光(´・ω・`)「岩が狼の家なら奪うことは可哀想だし、今回はしょうがないよね。素晴らしい岩だけど庭石にするのは諦めよう」と言いました

当時狼は人が飼っているニワトリやヤギなどの家畜を襲い、その狂暴さからも人に恐れられていましたが、
しかし、この狼石に棲んでいた狼の親子だけはとても人懐こく、金瓶の人たちは狼に子が産まれると巣穴にお祝いのご馳走を持ち寄るなど可愛がっていました

金瓶では狼と住民との良好な関係が後世まで続いたそうな

「上山(かみのやま)の昔話」「おおかみ石」



803 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/19(金) 18:25:33.44 ID:ZFKPFqLy
         \       ヽ           |        /        /
          \      ヽ               /      /
‐、、   殺 伐 と し た ス レ に オ オ カ ミ が ! !   _,,-''

       ,-'"ヽ         ∩___∩
      /   i、  _,、    | ノ      ヽ
      { ノ    "'"  "'"'"/  ●   ● |
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      /          彡、   |∪|   ミ  _/\/\/\/|_
    i つ き の わ ぐ ま  \  ヽノ  /   \          /
    /              `ー-ー'" }   <  ニャーン! >
    i'    /、                 ,i   /          \
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最上義光、山形城作庭の悪い話

2019年03月24日 17:33

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/24(日) 15:54:12.02 ID:sv4h2wg8
最上義光、山形城作庭の悪い話

昔正月に新庄藩の殿様が曲川に鷹狩に行ったところ、突如大吹雪となり、先達の案内で杉の大木の下で風雪を凌いでいた
連れの人数は15人程で、木陰で一行が二列に並んだが、木の枝張りが良いため少しも風があ当たらなかった
暫くすると大吹雪もやんだので、その木の下から出て来て10間ほど歩き、振り返って大木を見ると葉が茂り幹も見えない
巨木であった
新庄の殿様は大変に不思議がり「これはどうした木だ」と先達の村人に尋ねた
村人は「この杉の木はお目にかける事はもちろん、話にも出してはならない木だったのです。ただ、今は大吹雪で
凍死寸前だったので、やむなくこの木の下にご案内しました
この木は曲川の大杉と言って、昔は2本あったのですが、1本は最上義光公がこの大杉の噂をお聞きになり、
是非に山形のお城の庭に欲しいと仰せられ、大勢の人夫を駆り出して掘り起こし、数月掛けて山形まで運んだところ、
土が馴染まず枯れてしまいました
それからというもの、この大杉の西沢目の村には悪い事ばかり起こるようになり、現在でも貧乏なのです
今はお殿様がほど近い新庄におられますので、もしこの木がお目にとまりご用材になってしまえば、西沢目の村は
なおいっそう貧困になってしまいます故、
この木の話は申し上げませんでした。なにとぞこの木のお話はなさいませぬよう」と答えた
吹雪もおさまり、お殿様は新庄にそのまま帰ったが、帰り際にまた大杉を振り返ってみると、不思議なことに大杉は
普通の杉と同じように見えたという
その後この大杉は神木として現在まで大切に守られてきた

「新庄古老聞書」
関連:小杉の大杉、トトロ杉



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/24(日) 17:42:06.15 ID:73iKfOuo
>>812
日本昔話でありそうw

備の形成途中で

2017年11月04日 13:34

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 12:35:39.58 ID:KfZh2TsO
慶長5年、長尾(上杉)景勝が出羽国最上義光を攻めた時、上山城に里見越後(義近)の子、民部太夫が
籠っているのを、上杉方である山中城主・横田式部穂村造酒允と言う者が両人大将分にて、人数
300ばかり押し寄せ、山向に陣を取り、それぞれ馬より降りて備の形成を初めた。

この様子を詳しく見ていた里見は、馬武者を選りすぐってこれに突撃を行い、横田・穂村の兵は
尽く敗北した。

横田はこの突撃の時、未だ馬に乗っていたためそのまま馬を駆けて落ち延びた。
穂村は馬から降りており、再び乗ろうとした時馬が付きかね手間を掛けている間に、敵が重なり来て
討ち死にしたという。

(士談)

備の形成途中で攻められるとやはり弱いのだな



240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 12:42:09.96 ID:Anj7CIbq
城攻めにきてるのに300っていうのも気になるが、こんなしょうもない負け方は初めて見た

獅子踊祭

2017年01月10日 17:50

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 00:34:24.29 ID:bY/+l3+r
獅子踊祭

最上義光の御世、7月の盆辺りになると方々から300人もの獅子踊りの集団が集まってきて、山形城下の三寺を打ち揃えるでもなく太鼓を叩いて練り歩いたという
今は廃れてどの様な祭事であったかは定かではない

「新庄古老覚書」



野口(もしくは野上)七郎右衛門という人は

2017年01月05日 09:39

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/05(木) 01:01:30.53 ID:Kng6zxaG
 最上の侍の野口(もしくは野上)七郎右衛門という人は、
首供養までしたほど働き軍功を稼いだ侍であったが、一生具足を着なかった。
いつでも羽織ばかり着て功名を得た。

 とかく命は天に在り。死のうと思っても、時節が来なかったら生き延び、
どれだけ用心して逃げ隠れても、命の極ならば逃れる事はない。


『武士としては』

本多忠勝みたいな人だ…



最上駿河父之遺跡を受て後

2016年11月11日 11:10

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/11(金) 02:18:29.80 ID:1jlJkqVM
今日は鮭の日なので、鮭様関連の話を一つ

※原文準拠

最上駿河父之遺跡を受て後

駿河守家親(最上家親)父の遺跡を受て後 日々に花車を好み 双六鞠俳諧に日を送り 殿宅に金銀を鏤むを 諸人諌めける
昔時源頼朝公政道正敷諸士に情深かりしが共 御子右衛門督頼家政道宜しからず
終に弟の実朝に殺れ玉ひ 実朝は頼家の子悪禅師公暁に討れ 頼朝父子三代治世纔四十余年にして亡びぬ
是頼朝平家を亡さんと多くの人の命を断し故 其積悪子孫に報ふて断絶せり
去れば義光も頼朝の如く政道正敷 万民に情深く 寺社を敬ひ其領を寄付し 古今に稀なる大将と云へ共
以謀略多くの領主を打亡 栄花身に余ると云へ共 其積悪子孫に報ふて 源五郎(最上家信=最上義俊)殿御代に至て没落せり
彼頼朝父子の古へに不異
家親御行跡宜しからざる由 三浦上総助御諌言申ければ 御腹立有て終に切腹被仰付けり
延沢能登守(遠江守延沢光昌の誤り)楯岡甲斐守(楯岡光直)御一門顔にして御異見無れば 最上家の家の可亡時節至来と見へたり
去れば聖人禍福将に至らんとし善必先知之 不善必先之を知と云り
孔子も国家将に興らんとし必禎祥有 国家将に亡んとし必妖□(けつ=草冠に辟)有と 云り

「信辮手記」等




義光は笑った

2016年10月21日 09:24

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 02:00:56.12 ID:ZIiyZKTJ
義光は笑った

慶長5(1600)年9月半ば、直江兼続率いる上杉の大軍が山形盆地を臨む菅沢丘へと布陣した

最上軍の将の氏家左近(氏家光氏)は「(富神山奥の)西黒森で上杉の荷駄道を撹乱し、後方を掻き回したい」と軍議で申し出た

この提案に小勢ではすぐに消耗し、あたら兵を失うと諸将の反対はあったが、左近の手勢60人程での作戦が認められた

兵には命知らずで足の早い者が集められた

これを耳にした延沢遠江(延沢光昌)も沼木方面への遠見の役を申し出た

最上義光は延沢の重臣有路但馬、笹原石見、糟谷延元らに軽挙あるべからずと念を押した

その日の夕刻延沢勢の進出した沼木の西、須川の東岸に大量の最上方の幟旗が立ち気勢が上がり
横目衆から義光に「この様な立て札が至る所に立っております。いかがいたしましょう?」と問い合わせがあった

立て札には「最上は 国の真秀(まほ)ろば 畳(たた)なづく 青垣 山篭れる 最上し 美(うる)はし」と書かれていた

義光は立て札を元に戻す様に命じて声を立てて笑い、非常に嬉しそうであったとされる

「山形合戦」等



【話題】最上義光・義姫兄妹がヒストリアに

2016年10月20日 17:47

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/20(木) 11:30:53.75 ID:4lT/gcTv
【話題】最上義光義姫兄妹がヒストリアに

ツイッターから

最上義光義姫が「歴史秘話ヒストリア」に登場!

12月9日(金)20:00NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」で、「(仮題)もう一つの真田丸戦国を生き抜いた兄妹」が放送されるとい情報が!

野望と謀略が渦巻く戦国乱世を力を合わせて生き抜いた兄妹、最上義光義姫の実像を伝える内容で、最上義光が単独の番組としてフィーチャーされるのは、恐らく史上初めてと思われる

(´・ω・`)NHK…ヒストリアというのに一抹の不安が残る



262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/20(木) 15:15:57.17 ID:DlX9p96e
随分と先の番宣をするんだな

最上義光の小田原参陣

2016年06月19日 15:59

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 14:38:17.62 ID:jsVozfSA
最上義光の小田原参陣

天正18(1590)年、最上義光が豊臣秀吉の命令により兵500(300とも)を引き連れ小田原に向かう途上徳川家康の使番が義光に文を齎した

家康「義光殿、遠路遥々ご苦労様です。この先酒勾川辺(ほとり)からは道案内をさせて頂きます」

義光が酒勾川に着くとそこには徳川家康自らが義光の到着を待っていた

義光はまさか家康本人が出迎えてくれるとは予想外でいたく驚き、大変に感動したと伝わる

「山形の昔話」




最上義光の武者修行(複数説あり)

2016年06月18日 11:27

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 11:06:57.52 ID:YWmczOZ9
最上義光の武者修行(複数説あり)

座王高湯(蔵王温泉)で賊を退治した最上義守・義光父子が山形城に帰って後、義光は昼夜問わずに寝食を忘れ武芸の鍛錬に勤しんだ。
そんな義光は城を訪れた者から「越後の主上杉謙信は世にも知られた名将ですが、幼少の時から修業に明け暮れ、国中のあちこちに忍び旅をされたと言います」といった話を聞いた。
また近習が言うには「天下に名前を知られる大将に愚かなる者は一人もいません。
小田原の北条氏康の祖父の早雲公は昔伊勢国で友達数人と巡礼の如く武者修行を行い、旅の途中の駿河で今川氏親に仕え両上杉を追い払い、伊豆相模は素より関八州の棟梁ともなりました。」と話をされた。
義光は幼心に英雄譚に想いを馳せ、父義守に暇乞いもせず親しい者わずか二・三人と語らい、書き置きを残して夜のとばりに山形城から忍び旅立ってしまった。

明くる朝若殿(義光)がいない事に気付いた山形城内は騒然となり、最上義守に近臣が義光の書き置き状を差し出した。

義守が紙を開いて見ると

義光(`・ω・´)「義光はいやしくも清和天皇の流れの武門の家に生まれ、おとん(義守)の慈しみを受けて成長してもう立派な若者なんよ。
…なのに未だ武勇の徳が足りずにご先祖様の名跡にふさわしい行いができていないからこれは歎き悲しむだけではダメなのでなんとかしようと考えたんよ!
だから天童街道から大石田を抜け庄内から越後方面へと武者修業するんよ!
名刹・古戦場を見学して修行の旅を通じて人馬の運用や地形と戦術を身につけるんよ!
あ、とりあえず七年くらい武者修行してくるんよ」

義守「・・・」

近習の者が殿(義守)を見るには微動だにせず、その内心を窺い知る事はできなかった。

「奥羽軍談」



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 11:39:34.08 ID:knxNHmPT
最後の一文も書いてあるのかな、それとも投稿者の創作?
最上は見極めづらい

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 12:33:02.22 ID:Ljbl26nA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8510.html?sp&sp
これだと自分より強い者を探しに全国で武者修行するぞ!ととりあえず隣の越後行ったら
軍神様がいて自分の弱さを思い知ったとかなんとか

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 12:49:24.85 ID:s4ObcymM
馬鹿だねぇ

747 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/18(土) 13:46:22.71 ID:YWmczOZ9
義守ヒラキテ見玉フニ其文「…先ツ七年ノ御暇玉ハリ候得カシ(義光書置)」ト有シトカヤ。義守気色少驚カセ玉ハズ。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 13:59:37.20 ID:YWmczOZ9
(´・ω・`)雰囲気で

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 14:39:23.92 ID:NzW65WpW
いつも同じ顔文字つけるといろんな解釈できる逸話も一様に印象偏るんだけどわざとやってんのかな

横町の由来

2016年04月14日 18:49

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 02:08:21.73 ID:DDb6sdaQ
横町の由来

天童合戦で野辺澤信景(延沢満延)を味方に率いれた最上義光はその喜びの余り、山形城下の定期市町の名称である「九日町」の名を満延に上げてしまった

それを知った重臣の氏江尾張のなにがし(氏家守棟)といった者が眉間に皺を寄せ、義光に窺った

守棟「城下には一(日)から十(日)までの数を冠した市町がありましたかな。
嗚呼、誰かが能登殿(満延)にその一つを差し上げられたので、今は歯抜けがありましたか。
ーそれで、欠けた『九日町』の代わりになる様な素晴らしい名前を我が殿は用意なされているのでしょうか?
満月も一つを欠いてはままなりませぬ。
思いつきや勢いで町名を上げたり等という事はまさかありませんよな?」

義光は守棟を宥める様に口を開いた

(´・ω・`)「いくら儂でもノリだけで迂闊な事はそうはしない。九日町の名を満延に与えたのはそれだけ彼を買っての事。
…九日町は七日町の南隣(つまり横)
かつ十日町の北隣(つまり横)
九の字は四(よ)と五(こ・ご)を足した数だから旧九日町の地の町の名には四と五で横町なんてどうだろう!
…なんつって!」

守棟「…」

(´・ω・`)「…(やばい…怒ってる?)」

かい摘まんでますが、本当に横町の由来がこんな鮭様のおやじギャグが発祥とされています

「山形細見」

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 02:49:01.91 ID:DDb6sdaQ
山形市横町(現山形市民会館付近)
http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=10558417622106&c=10

●九は四たす五、だから四五町に。語呂が悪いから「横町」

…義光公時代に「九日町」は尾花沢の延沢城にくれたという。町人は、四と五を加えて九日となるので、九の日に市を開きたいので四五町(よご町)にし、語呂が悪いから「横町」というようにしたと語り伝える人も見られた。



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 07:32:45.86 ID:GMsMng5l
家康「安直じゃな」

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 08:00:54.98 ID:9jR94Tq+
ノブ「子供の名前に使わせてもらおう」

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 19:33:28.52 ID:VVpbIm0a
また最上の病気が再発したか

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 21:18:29.99 ID:1ByHse5H
>>522
せっかく1から10まで揃ってるのに9あげちゃうのかよw
それだけ買ってるってことなのかも知れんが、もらう方も微妙な気が…

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 21:51:26.97 ID:biJM3Xtr
一戸から九戸までのうち四戸は縁起が悪いせいか今はないのに
四日市はいろんなとこにあるな

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 00:49:20.25 ID:aV2luiL4
そもそも町の名前ってあげちゃっていいものだったのか

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 11:24:57.02 ID:toTFfKWq
犬ころに娘を差し出す奴だっているしねえ

一栗豊後誕生

2016年04月14日 18:48

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 02:30:18.62 ID:DDb6sdaQ
一栗豊後誕生

山形の最上義光は目を掛けた家臣に「光」の字や受領名を与えていた

しかしあるとき市来隆春(一栗高春)といった侍が苦虫を潰した様な顔で義光に尋ね出た

高春「周りに人がいないので殿に直にお聞きしますが、何故に私の受領を豊後守になされたのでしょう?
いくさに後(おく)れ(油断や遅れ)を取る事が多い、もっと精進せよとでもいった意味でもあるのでしょうか?」

義光は高春に即座に返答した

(´・ω・`)「否、そちはなにか思い違いをしておる。そちは兵の道の他に歌や文の道にも長けておる。
豊後はいくさで遅れを取るのが多いといった意味ではなく、文悟(武道だけでなく文才もある一角の人物だよ)といった言葉遊びを含めてのもの。
難しく考えず、受領を授けるだけ気に入ってると考えてほしいんよ」

「山形の昔話」

裸武太之助や鶴ヶ岡・亀ヶ崎のネーミングと連歌の豊かな表現とのギャップとで、鮭様の普段のセンスが正直わからなくなってきた…



【ニュース】人物叢書『最上義光』、発売時点で品切れ

2016年03月12日 14:14

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/12(土) 06:39:46.85 ID:x4ZIOuxh
吉川弘文館営業部
伊藤清郎『最上義光』(人物叢書)出羽57万石の礎を築いた戦国武将!山形を見守り続けたその生涯を描く決定版!3/11出荷開始。

吉川弘文館営業部
人物叢書『最上義光』ですが、事前のご注文・ご予約が非常に多く、本日発売時点で品切れとなりました。ありがとうございます! 現在、3月末出来予定にて重版に取りかかっております。書店さんで見つけた時点で即ゲット、をお勧めいたします。

(´つω;`)おまいら鮭様好き過ぎ…どこにも在庫が無いお…



461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/12(土) 13:28:06.38 ID:uVrm8Bs+
>>458
すげーw出版社もびっくりしてそう、なんでマイナー武将が即日売切れするんだよ!?って

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/12(土) 16:39:31.10 ID:QLqbZWfD
>>458
どんな本なん?
検索かけたら、最上義光 鮭と最上義光 シスコンがワンツーでワラタ。

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 13:28:45.82 ID:CgeMS3F6
>>458
ついさっきまでamazonにも残ってたけどな。
ネット通販なら探せばまだあるだろ

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 12:08:33.67 ID:h0pzVdeU
いったいどこの奴らだ
最上義光と鮭やシスコンを結びつけたのは

義光がここに侍っている以上

2016年01月16日 17:58

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/15(金) 19:57:16.12 ID:PiZdnrgl
文禄4年7月、秀次事件が起き、関白秀次が切腹すると、彼の側室となっていた最上義光の娘も
誅せられた。その上義光も秀次の謀叛に与していたとの噂が流れ、最上家滅亡かと思われた時、
徳川家康の計らいによりその罪免ぜられた。義光がこれに感謝することこの上ないものであり、
如何にもしてこの恩報じ参らせんと決意した。

明けて慶長元年閏7月12日の夜、伏見に大地震が起こり、伏見城も崩壊した。
この時、伏見に在った諸侯は皆、太閤秀吉の元に馳せ集まった。
しかし最上義光一人は、家の子郎党を具し、裸馬に打ち乗って徳川家康の館に馳せた。

「このような時には人心も計り難いものです。御館を御出になるべきではありません。
いかなる事態になろうともこの義光がこのように居る以上、お心やすくいて下さい。」

そう申して家康の館を守った。

その後、秀吉自ら茶を点て、家康にも参るようにと言ってきた。
この事、怪しく聞こえたため、義光は急遽秀吉の御所に参り、家康に近づくと
「相構えて、今日のことお気をつけ下さい。義光がここに侍っている以上、何の差障りも
起こさせませんが、しかしながら思うところもあり、事が終われば直ぐにお帰りに成るべきです。」
そう申し上げ、茶会が終わると家康の供をして御所を下がった。

(藩翰譜)



191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/15(金) 21:40:35.81 ID:Fbvw596u
えらく屈強なボディガードやね…<家康の供をする鮭様