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奥の兵、一偏の東夷たるを以て

2022年03月06日 15:52

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/06(日) 15:12:56.57 ID:ipMLukOV
或る本に、神保長三郎(相茂)の部隊を、仙台(伊達政宗)勢が鉄砲にて悉く撃ち殺したが、
(別記によると被害は従者一人であり、長三郎は別状無かったともある。未詳)
後に大御所(徳川家康)よりこの事についてお尋ねが有った所、伊達家より

「奥の兵、一偏の東夷たるを以て、大和武者の美麗を見、『我が党に非ず、城兵なる事必定なり』と
思い誤り候」

と陳謝したが、重ねての台命は無かったという。

別記に、この時伊達方と水野日向守(勝成)家令・塚本弥兵衛、竹本左門、寺島助九郎の三人が
味方討ちしたとも言う。
新東鑑

伊達家による神保隊味方討ちについてのお話



386 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/08(火) 16:59:38.37 ID:5bTTo9MU
>>383
>奥の兵

ところでこの表現なんだけど、過去まとめのこちらではこんな風に書かれてるんだが
奥州独特なのかな?

政宗の黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10342.html
>奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え
>奥武者の我が家は

他の地方でも同様の呼び方ってあったんだろうか
下野で下士とか備中で備武者とか
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猫を溺愛する伊達政宗

2022年02月20日 15:21

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/19(土) 18:46:13.48 ID:xB7rqSUd
猫を溺愛する伊達政宗

政宗が江戸幕府の伝達役、野々村四郎右衛門に宛てた書状
https://i.imgur.com/9T58nl0.jpg
9T58nl0.jpg

https://i.imgur.com/Yebwj2q.jpg
Yebwj2q.jpg

「独眼竜」が猫にデレデレ? 書状が伝える意外すぎる武将の一面(Sデジオリジナル記事)
山陰中央新報 2022/02/06
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/159624

以下抜粋
 ▼お礼の手紙で飼い猫をべた褒め

 公開された書状は縦34・2センチ、横50・7センチ。政宗本人が江戸幕府の伝達役、野々村四郎右衛門に宛てたもの。岡学芸員によると、政宗は参勤交代で江戸にある屋敷にたびたび滞在したため、2人は見知った仲だったと思われるという。内容は現代語に訳すと、以下のようになる。

 「猫の子をしっかりと預かりました。男ぶり(顔つき)が見事です。家来から『夜、(猫が)自身の体よりも大きいネズミを見事につかまえた』と聞きました。ますます大事に飼おうと思います。喉輪(首輪)もおしゃれで、一段と華やかに見えます。直接会ってお礼がしたいです」

 書状の前後の流れは不明だが、政宗が四郎右衛門から猫を譲り受け、そのお礼の手紙とみられる。猫について「顔つきがりりしい」「大きなネズミが捕れるほど強く賢い」「首輪が似合う」と、べた褒めだ。独眼竜の名からは想像できない猫ラブな一面に、親しみを感じた。

(中略)

 書状に年月日の記載はない。岡学芸員によると、時期によって形が変わる、花押(かおう)と呼ばれる署名の形から推測し、政宗が50歳を過ぎ、大坂の陣(1614~1615年)も終わった1620~21年頃のものと推測できるという。岡学芸員は「戦乱が終わった後なので、政宗も平凡な暮らしをしていたのかもしれない。よくこんな資料が残っていたものだ、と思う」と笑った。



 ▼政宗の書状、なぜ島根に?

 岡学芸員によると、政宗は筆まめで有名で、書状は全国に約2千点残るが、猫に関するものは唯一だという。
(抜粋終了)


政宗が猫を可愛がる話はちょっと新鮮だったので。



27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/19(土) 18:57:37.77 ID:2XK1l8/y
野々村四郎右衛門
隆慶一郎「影武者徳川家康」で初っ端に出てきて、
暗殺者の甲斐の六郎に殺されて、すり替わった六郎が真の家康を殺しちゃったのを思い出した。

28 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/19(土) 19:00:21.91 ID:xB7rqSUd
一応、こちらのツイートも貼っておこう
https://twitter.com/nekomasamunecom/status/1493417028329238529?s=21

29 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/19(土) 19:05:13.80 ID:xB7rqSUd
>>27
創作物の影武者徳川家康だとヤられてたけどまぁ、家康の前に馬乗り付けてぶち切れられた記録が残る使い番のあの人と同姓同名だから多分同一人物だよね。

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/19(土) 19:15:26.21 ID:2XK1l8/y
影武者徳川家康でも徳川実記を引用しているからたぶん同一人物
政宗と猫といえば

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-314.html
伊達政宗と最上義光・悪い話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2735.html
まーくんがぐれました。


で最上義光あてに
「伯父貴援軍マジありがとな。で、オレ、城落としたら女も子供も犬も猫も
八百人くらいぶっ殺したから、マジでwwwww」
と書いたとかいう話が出ていたけど、
小手森城のなで斬りの時の書状だとしたら本当は
「五百餘討捕、其外女童におよばず、犬迄なで切に為成候条、以上千百餘人きらせ申候」
と書かれているようだから、猫好きは安心して

31 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/19(土) 20:02:47.77 ID:xB7rqSUd
江戸初期までは猫が貴重な生き物だったと言うし、放し飼いなら一城撫切りになっても、繋がれた犬とかと違ってすばしっこい猫はそうそう頃されることがなかったんじゃなかろうか?

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/19(土) 21:11:51.63 ID:QCDtD4Ha
政宗と猫はネズミ嫌いで話が合ったのだろう

33 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/20(日) 07:34:48.07 ID:Pj0bDDqh
政宗の書状に注釈と訳文を付したものがTwitterにありましたのでそちらも。
https://i.imgur.com/bZvX5B8.jpg
https://i.imgur.com/s2O4mt3.jpg
bZvX5B8.jpg
s2O4mt3.jpg

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/20(日) 07:41:38.30 ID:IR2F0tfs
猫御前にライバルが
(調べたら猫御前って山岡荘八がつけた呼び名だったんだな)

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/20(日) 07:54:16.57 ID:0PFxHNiv
>>32
いやいや
どちらも食べちゃいたいほど好きなのだろう

36 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/20(日) 08:22:24.63 ID:lLeoMbk4
>>35
愛の前立ての人のレス

37 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/21(月) 14:31:19.54 ID:1cd2BFms
>>26
遠く離れていたって元領地とか子孫が移住したとかもあるけど、ただ単に好事家が古文書収集した結果というのもよくあるお話

武田信玄と朝倉のやり取りで有名な伊能文書も、朝倉ゆかりの家に伝わったというよりは、佐原の伊能家(忠敬の遠縁の同族)が手に入れただけっぽいし

38 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/21(月) 14:34:25.54 ID:1cd2BFms
というようなことはちゃんとリンク先に書いてありましたね
余計なこと書きました

>美術品や古文書収集家の桑原羊次郎(1868~1955年)が所有していたもの。桑原没後の昭和40年(1965年)代、
>島根県が遺品を譲り受けた際、書状も混じっており、そのまま長年保管されたそうだ。

>桑原家は代々、松江藩の両替商を務めた豪商。藩士が参勤交代で江戸に行った際、桑原家への土産として錦絵を
>買って帰ることが多く、昔から美術品が集まる家だった。桑原羊次郎は特に古文書の研究に熱心だったため、国内各所の資料を収集したという。

【ニュース】義姫の人物像に迫る機会に 山形で尊像のみ入れ式

2021年09月28日 17:41

義姫   
612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 16:25:11.39 ID:wTypS4si
義姫の人物像に迫る機会に 山形で尊像のみ入れ式
https://www.yamagata-np.jp/news/202109/27/kj_2021092700585.php
山形新聞2021/9/27 18:51

初代山形藩主・最上義光の妹で、伊達政宗の実母である義姫(よしひめ)(1548~1623年)の400年忌(没後399年)を2022年に迎えることに合わせ、
菩提(ぼだい)寺の少林山保春院(仙台市若林区)が木製の尊像を制作するプロジェクトを展開している。山形市での尊像の「のみ入れ式」が27日、
同市の最上義光歴史館で行われ、関係者は「義姫の人物像に迫る機会にしたい」と期待を込める。

義姫は米沢城主伊達輝宗と結婚し、政宗らを出産。米沢城の東館に住んだことから「お東の方」とも呼ばれ、出家後は保春院と称した。死後、政宗が
供養のために建立した保春院には位牌(いはい)が安置されている。

義姫にはさまざまはエピソードがある。政宗を毒殺しようとしたとされ、悪女のイメージを持つ人も多い。しかし、政宗と互いを思いやる手紙のやりとりが
あったことなどが分かり、近年は、伊達家と最上家を守るために必死だったことや、家族を思いやる人物像が考察されている。

プロジェクトでは、没後400年の2023年7月に開眼法要を計画している。尊像は木曽ヒノキを用い高さ約50センチ。三浦真人住職(42)は「保春院様の
人物像をひもとき、見つめ直す機会にしたい」と話す。仙台市では先月と今月にのみ入れ式を行った。

この日は山形霞城郷土史研究会、同館サポータークラブ「義光(ぎこう)会」、同館の関係者ら約50人が出席し、一人一人が順番にのみを入れた。
同研究会の伊藤藤夫会長(83)は「義姫の今までのイメージを払拭(ふっしょく)し、いい母親だったと多くの人に知ってもらいたい」と話した。



中々鬼にて御座候

2021年09月28日 17:39

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 16:45:06.45 ID:DF35CRNy
関ヶ原の役における、伊達政宗勢と上杉景勝勢の衝突した松川の戦いにおいて、
上杉方の青木新兵衛は殿をして隠れない働きをし、その上伊達政宗と鑓を合わせ、
兜の立物(有名な半月の前立)を突き折った。総じて、若い頃より十六度の働きが有った。

関ヶ原後、景勝が米沢に移された時に暇を出され浪人した。そして越前黄門(結城)秀康卿に
召し出された。この時、永井善左衛門も召し出された。

加賀肥前守(前田)利長の茶の会に、秀康卿が御越しになり、その御相伴に政宗、
堀丹後守直寄、半井驢庵が参られていた。この時、数寄屋において政宗がこのように申した

「今度、奥州において骨折った能き者共を、黄門様が召し出されたこと、御重宝だと存じます。
青木親兵衛は(松川の戦いにおいて)鳥毛の棒の黒幌、十文字の鑓、瓦毛の馬(川原毛:
灰白色・黄白色で、たてがみ・下肢・ひづめが黒いもの)に乘っていました。
中々の鬼でありました(中々鬼にて御座候)。」

青木は大阪両御陣でも手柄が有り、後には法体となり、方齋と申した。

これについて、落合(主膳)と安田(能元カ)によると、青木のことを永井善左衛門と
取り違えて政宗が申され、そのため秀康様にそのことを落合主膳が申した事があった。
故ありて記さず。

(杉原彦左衛門覚書条々)



614 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:00:54.17 ID:qbAFEM+l
>>613
松川の戦い自体が無いのでそれはホラ逸話ですな。

松川が今は信夫山の北側を流れているが
当時は南側を流れている。要するに政宗が信夫山を占領していたとなれば
梁川城と大枝城を既に落せている状態。
ところが実際は政宗は落せていない。
 
           〇梁川城
==×=←今の松川
信夫山
〇        〇大枝城
==×=→当時の松川
〇福島城

要するに今の松川の流れる基準で
×想定される松川の戦いが戦記物には書かれているが
当時の河川の様子を考えると、政宗は梁川・大枝城を攻め落とさないと福島城(今の県庁)を
包囲するのは難しいと言える。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 17:04:26.08 ID:kR2UOwai
松川の戦いで政宗と戦ったのは岡左内じゃなかったかと思ったら
岡左内とやり合った後に青木新兵衛に三日月折られて
ついでに斎道二に陣羽織を切り破られたのか
(松川の戦い自体、伊達と上杉の記録でいろいろ食い違ってるみたいいだけど)
青木新兵衛も岡左内も永井(長井?)善左衛門も蒲生→上杉でややこしい

616 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:05:32.19 ID:qbAFEM+l
よって明らかに構成の配置を元に書かれた話で
実際の松川の戦いは信夫山の北側での小競り合いじゃないかと言われている
また、家康が100万石のお墨付きで政宗の切り取り次第を推奨したのであれば
政宗の南進にSTOPをかけた書状に矛盾が出てくる。
政宗が南進せずに釘付けにしているだけで50余万石を与えるという条件を保護したという事になるわけだ
切り取り次第であれば、政宗も損害が出ても福島城を奪還して、梁川城と大枝城も領有したと思うが
そこで止まっている。

要するにそもそも松川の戦いなどというものは存在しておらず
家康は、政宗に南進するのはやめておけと書状を出しているので
政宗の切り取り次第という前提も無いと言える。

617 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:07:23.16 ID:qbAFEM+l
>>615
どちらにしても松川の位置が違うし
松川事件の松川という街も福島市内の南西部にある

松川の戦い自体がそもそも当時の地形を考えたら無いであろうし
福島城を攻めなくても信夫山に兵を置いて傍観しておけば政宗の仕事

618 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:11:41.10 ID:qbAFEM+l
(家康に上杉を釘付けにしておけばいい)という条件は達成するわけだから
焦って、松川に飛び込んで上杉と野戦する必要は無いと言える。

政宗が切り取り次第で領地を与えるとなるのであれば、家康の政宗の南進のSTOPの書状に対して
政宗が話が違うのではないか?と言って、上杉側に寝返る可能性だった有り得る。
そういうリスクを家康は考えていたわけだから、上杉を牽制すれば50余万石を与えるというとおり
政宗は松川ではなく、梁川と大枝のあたりで小競り合いをして釘付けにしただけだと思う。
そもそも当時の政宗に信夫山を占領する力があったか疑問だ。

実際行ってみればわかるが信夫山とれば福島城なんて鼻くそみたいな城(信夫山と比べると)だから
戦にならず撤収するはずなんだがな。

619 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:34:52.92 ID:wTypS4si
杉原彦左衛門親清は杉原親憲の一族で大老酒井忠勝の家臣であった
忠勝の命で上杉時代の記録を筆記したという

会津陣物語(杉原彦左衛門物語)、武辺話聞書、近世軍記、それぞれ延宝8年(1680)、景勝ファンを自称する近江大津の国枝清軒が諸文献をまとめたものである

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:38:58.25 ID:qbAFEM+l
地形図画像で説明

https://dotup.org/uploda/dotup.org2602707.png.html

家康が切り取り次第であれば、政宗に福島城を落せと命令するはずなんだけど
家康は上杉を釘付けにしろと言っている。
その場合、信夫山を占領しておけば上杉勢の本隊は西の板谷峠から攻めて来ても耐えうるし
無理な場合は西山城に政宗は撤退すればいい。

621 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:39:56.78 ID:qbAFEM+l
>>619
ふむふむ。福島市に土地勘がある私からすれば、米沢の人間が適当に書いた軍記物なんだろうなと思う。

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 17:51:23.62 ID:wTypS4si
いや、米沢藩が関が原以後60年ほどは福島市を領有してたの忘れないでね?
福島市の置賜町ってなんで名前が付いたか知ってるでしょ
米沢市にも信夫町があるけどね

渋川城大爆発

2021年08月07日 17:40

904 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/06(金) 22:26:39.90 ID:+JGuVzIn
渋川城大爆発

有名な逸話だけど、どうやらスレでの紹介自体はまだされてなかったぽいので…

伊達政宗の股肱の臣である伊達成実の右手は指の肉同士がくっついて不自由であったと言う。

生まれつきそうだった訳ではなく、ある一つの事件が原因であった。

天正13年(1585年)、佐竹をはじめとする連合軍と伊達家による人取橋の合戦から一月ほど経った12月11日夜のこと、成実はこの時前線地帯にある渋川城にて、敵勢力に備えていた。

夜も更けてきた頃(20時から22時頃とか)、灯りを持ち城内を隈なく油断なく巡回する者があった。

https://i.imgur.com/0HX6Gz2.jpg
0HX6Gz2.jpg

この日の夜間警備を担当するこの男は鼠1匹見逃すまいぞ!と全ての部屋を鋭い目付きでチェックして回っていた。

そして男はある部屋に差し掛かった。武具弾薬を収めた倉庫(成実の部屋とも)である。
最も重要なこの部屋に怪しい者は居らぬか?おかしな物は無いか?男はここでも油断なく、隅から隅をチェックした。

すると何やら見覚えのない箱がある。これは怪しいぞ、と睨んだ男は箱を開いて灯りを近づけた。

箱の中にあったのは鉄砲用の口薬(ないし玉薬=火薬)であった。

なんだ、怪しいものではないでないか、紛らわしい… 男がホッと一息ついた次の瞬間…

https://i.imgur.com/ooaTDHD.jpg
ooaTDHD.jpg

男は手に持っていた灯りをうっかり箱の中に落としてしまった…

刹那、大音声と共に武器庫は弾け飛び、城は業火に包まれた。
成実もこの時、右手に大きな火傷を負う羽目となり治癒後にその右手の指は癒着してしまい、野口英世の少年時代の様な不自由な右手になってしまったと言う。

しかし、成実はその後も数々の戦いで指揮官として武功を上げ、一時は伊達家を出奔するものの他家からも高く評価される武将となるのである。

政宗記』『新奥羽永慶軍記』より




【ニュース】若き政宗、覚悟と気概 米沢城主2年目の書状見つかる 戦国武将の駆け引きも

2021年07月16日 16:15

296 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/15(木) 18:39:33.39 ID:QXMk6ZEN
https://kahoku.news/articles/20210714khn000040.html
若き政宗、覚悟と気概 米沢城主2年目の書状見つかる 戦国武将の駆け引きも
河北新報2021年07月15日 06:00


見つかった政宗の書状。花押のみ本人の肉筆
 仙台藩祖伊達政宗(1567~1636年)が家督を継ぎ米沢城主になって2年目の20歳の時、
伯父である山形城主最上義光(よしあき)の重臣に宛てた書状が仙台市内で見つかった。知られていない
当時の最上家の動向が明記されている上、戦国武将の駆け引きもうかがえる貴重な史料。政宗の若い頃の
書状は珍しく、覚悟や初々しい気概が読み取れるという。

日付は卯月(うづき)13日(旧暦4月13日、現在の5月)で内容から1586(天正14)年の書状。
宛先は最上家家老の氏家尾張守(おわりのかみ)=守棟(もりむね)=。縦33・7センチ、横47・0センチに
当時の一般的な武将の書状と同じく右筆(ゆうひつ)が字を書き、花押のみ政宗の肉筆だ。
有名なセキレイの花押の原型という。
冒頭、鮭延(さけのべ)口まで出陣し真室(山形県真室川町)で敗れた氏家を気遣い、義光が自ら赴くことに
関心を寄せている。義光出陣を知らせた氏家の書状への返事とみられ、山形勢が北の最上地方を攻略する
緊迫した状況を示す。
政宗は自身の近況にも触れ、南下して小浜(福島県二本松市)城主の畠山氏に攻め入る準備をしていると説明。
政宗に家督を譲った父輝宗はこの前年、投降を装った当時の城主畠山義継に拉致され、阿武隈川(同市)の河原で殺害された。
人質となった輝宗は伊達勢に「自分もろとも義継を討て」と命じ、凄惨(せいさん)な最期を遂げている。
文面には父を弔う政宗の意思がにじむ。
当時、伊達家と最上家は領地が接しておりライバル同士だが、引き続き手紙のやりとりも求めた。
佐藤憲一・元仙台市博物館長は「盛りだくさんの内容だ。当時の義光の動き自体が知られておらず、新たな史料ではないか。
戦続きの時期の二本松攻め直前の手紙で、政宗の覚悟が分かる」と指摘。友好的な内容で、政宗と義光は仲が悪いという
印象とは違うが「両家はいつか直接対決もあり得ると意識している。腹の探り合いであり、相手の情報を引き出す
戦国の世の駆け引きだ」と推測した。

<原文(抜粋)>      
急度用一簡候、仍鮭延口出勢付而其方被
打越之由候條、内々無心元候哉、近日於真室ニ
少々被失利之由、其聞候、実義候哉、就中
依之義光も自身被打出之由候、弥御床布候、(中略)
当口之事も二三家相催今十五日ヨリ
向二ニ押詰可及其刷之由令逼塞候、於時宜に
可御心安候、扨々其表模様委曲被顕回答候者
可為本望候、(以下略)

<現代語訳>
 急いでお手紙を差し上げます。鮭延口まで手勢を率いて出兵したとのこと、内心心配しておりました。
近頃、真室で少々敗戦したと聞きましたが、本当でしょうか。特に、そのことを聞いた義光公も自ら
出陣なされると聞き、どのような状況か知りたいものです。(中略)
 当方も2、3の味方となる者を誘って今月15日から二本松に向かい、相手に攻め入るつもりです。
これから先のことは、どうぞご安心ください。そちらの様子を詳しくお知らせいただければ本望です。(以下略)



297 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/16(金) 05:57:22.42 ID:vZZjKxhH
氏家が、現在の秋田県側の小野寺方だった鮭延秀綱を降したのが天正9年とされるので、
5年たっても秋田からは峠で隔てられた現在の山形県側を掌握できてなかったのかよ?
ってとこと、対戦相手は小野寺だよね?ってとこも

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/16(金) 08:39:03.30 ID:/hg+qTEl
天正13年鮭延降伏説もあるから、対戦相手は大宝寺かもしれん
まあその年でも小野寺の可能性は否定できないけど

302 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/17(土) 13:19:35.52 ID:T1b5z7I4
山形宮城以北の戦国時代はなんかもう知識的にというか喧伝のされ具合でも空白地帯で・・

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 13:48:18.08 ID:kSnbjMiS
最近、なろうで木村吉清や新田政盛に転生して頑張る話が連載されていて、全然このあたりのこと知らんから勉強になる

政宗はピンチとなります。

2021年04月10日 17:25


105 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/10(土) 10:39:08.46 ID:FU7BM7+c
斯波氏の名門大崎家は伊達家の影響下にあったが
政宗(成実かもしれない)が畠山(二本松)義嗣ともども輝宗を撃ち殺してしまったあたりから
大崎義隆は独立を企むようになった。
大崎義隆の妹は最上義光の正室であり、叔母は黒川晴氏の正室でもある。
この2人の娘は政宗の叔父である留守政景の正室でもあった。

最上と黒川と留守が組めば政宗など怖くないし、最上は政宗の実家でもある。
政宗は蘆名や佐竹、相馬、二階堂、石川、田村、岩城、結城らとも親戚だが
北方の大名勢力とも親戚であった。

大崎義隆はこの様な血縁関係と輝宗の暗殺から政宗を脅威とは感じていなかった。

ところがである・・・

黒川晴氏の叔父式部(とはいっても年齢が近いので兄弟みたいな存在)の婚約者に
飯坂宗康の娘がいた。娘は凄い美人で頭も良くまだ9歳であったが
黒川家と飯坂家は親戚関係でもあったので婚約が決まっていた。
ところが宗康は式部の行いが良くない事を憂い、娘を政宗の側室に送り出す事になる。
黒川氏は小大名だが、式部は伊達家に仕えていた国人領主だった。
晴氏のところに行くと迷惑になるので越後に逐電してしまった。

106 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/10(土) 10:51:12.83 ID:FU7BM7+c
大崎義隆は晴氏と式部とのやり取りを知っており、晴氏は政宗に宗康に不信感を持っていたので
自陣に加える事が出来ると読んだ。
また留守政景も政宗の与力大名として厚遇をされているものの
政宗の与力大名には正室の父、田村清顕や側室の飯坂宗康や亘理一族、白石一族、伊達成実なども
いて不信感があると思っており、政景の正室は大崎と黒川の血筋であることから
引き入れる事を容易だと考えていた。

奢った義隆は、中奥羽の覇王として、政宗など佐竹とぶつかって消耗すればいいと考えていた。

その頃、政宗は父輝宗の仇(いや主犯お前と成実じゃね?)として畠山義嗣の残党狩りをしていた。
旧畠山残党は蘆名や佐竹に救援を求めて、政宗は田村清顕や飯坂宗康、伊達成実らと共に
打ち破ってきた。田村と代々仲が悪かった二階堂の女城主阿南姫が立ち上がった。
阿南姫の妹は佐竹義重・蘆名盛隆の正室の姉であり、石川昭光の姉でもある。岩城親隆は兄である。
更に蘆名盛隆の実母でもある(わけわからないですね)ぶっちゃけ輝宗の姉だったのである。
阿南姫「政宗!成実!お前ら輝宗を殺した張本人だろ!?」と言うと
南奥羽の諸将がみんな阿南姫側(畠山残党)に付きます。

政宗はピンチとなります。



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/11(日) 11:34:14.67 ID:N+3iAtVt
祖母の妹を娶らされた相馬義胤さんとか、この時期の南奥羽諸勢力の親族関係は面倒くさいよねえ
大概は伊達の責任だけど

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/12(月) 12:50:41.26 ID:P9SBbOEv
続きは暇な時に書きます。

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/12(月) 14:53:26.20 ID:pXPAmdyK
できれば出典を
複数あるかもしれないけど

第二章 奥州(Voxu)国王の来歴/その古さと高貴さ

2021年01月17日 16:16

シピオネ・アマティ・ロマーノ「伊達政宗遣欧使節記
第二章 奥州(Voxu)国王の来歴/その古さと高貴さ

当時の奥州Voxu王国は、正統かつ最も古い王である内裏Dairiから派遣された副王Vice Reたちによって統治されていた。
なかでも秀衡Findefiraは近衛殿Conoyendonoという由緒正しい公家Cungisの家系であり、他の副王たちが叛乱を起こした際、武力により鎮圧し奥州王国全体の専制君主となった。
22年後、謀反人を滅ぼし頼朝Yoritomoが皇帝に任命された。
頼朝の弟である牛若殿Vxivacandonoは秀衡により息子のように遇されていた。
死に際して秀衡は息子たちに牛若殿と仲良くするようにと遺言したが、息子たちは牛若殿を殺してしまった。
しかし頼朝により秀衡の息子たちは殺害された。
頼朝の死後、近衛殿は彼の家系に奥州の権益を保持させようと、一族である山陰中将Iamacanque Ciuscioを派遣し奥州を統治させた。
三百年後、父親の代で領土の大半を失ったため、時の領主は父親の臆病さに嫌気がさし、苗字を高貴さと勇敢さを意味する伊達Jdateに改姓した。

伊藤喜良「伊達一族の中世」によれば、当時の伊達家は
自身の家計を秀衡や近衛家と積極的に結びつけようとしていたとか



鶴が育てたこの子こそ

2020年10月16日 18:45

愛姫   
640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 07:47:46.53 ID:4lj8HkbF
舞鶴城と称された三春城を居城とする三春田村氏は、平安時代初期の征夷大将軍として高名な大納言・坂上田村麻呂の末裔を称していた。三春城下では次のような伝説が信じられていた。
坂上田村麻呂の母・阿口陀媛は、夫となった坂上苅田麻呂が都に帰ってから子を出産した。阿口陀媛が下仕えをしていた家の主人が怪しく思い問いただすも、阿口陀媛は子の父の名を言わなかったため家の主人が子を捨てさせると、どこからともなく二羽の鶴が飛んできてその子を運んで育てた。人々はこの奇瑞に驚き、阿口陀媛のもとに子を戻して育てさせた」
鶴が育てたこの子こそ坂上田村麻呂であると信じられ、三春城下では鶴の包丁をしないという決まりごとがあった。しかし鶴の肉は縁起物として大変珍重されていたことから、鶴料理ができなかった三春田村氏や三春城下では鶴に見立てた三角形の食べ物で代用した。

愛姫生誕450年記念で舞い上がった地元が作ったアニメのパンフレットを眺めてて気になったちょっといい話
この話で真っ先に思い出したのは(●∀・)が家光を招待した時に鶴のつみれ汁を出してるし、同じく東北の伊達家では鶴料理に馴染みがあっただろうし
秀吉が天皇に鶴を献上して正月儀礼が鯉の包丁から鶴の包丁になって、公卿や大名にも正月儀礼の鶴の包丁が広まったりとか
伊達家に嫁いで以降に愛姫の前にも正月とか鶴料理が並んだことがあるのかな



641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 08:25:23.02 ID:5kUSekXx
光秀が作った家康おもてなし御膳に鶴料理があった。御馳走だったんじゃないかな。

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 11:11:40.60 ID:uE7LJ6Tm
まとめの12366
伊達政宗とプロパガンダの影響

で伊達氏が坂上田村麻呂出生伝説を捏造して広めた話があったけど
影響はなかったのかな

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 15:01:47.11 ID:uE7LJ6Tm
よく考えたら阿口陀媛って「あくだ姫」だから
伊達家が奥浄瑠璃「田村三代記」を使って広めた「悪玉姫」の影響は受けてるようだ
(中世に流布していた「田村の草子」だと田村麻呂の母親は賤女とされる)

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 19:13:58.53 ID:SMG/JatR
三春町史なんかからまとめると
産湯とか遊んだ石とか大熊とか母を祀る社とか武芸を学んだ森とかが、戦国時代以前には阿武隈の坂上田村麻呂伝説として存在してたらしい
田村郡は一木一草に至るまで坂上田村麻呂伝説が宿ると言われるんだけど、阿武隈の伝説の要因は藤原姓田村氏も平姓田村氏も田村郡を支配したら真っ先に田村麻呂の子孫を名乗ってきた名残だとか

『田村の草子』の賤女が最も古いけど、三春田村氏は賤女を阿武隈伝説の阿口陀媛に変えて、田村麻呂の幼名を鶴に育てられた鶴子丸に改編して流布することで三春支配を強化した
この鶴子丸こと坂上田村麻呂をまーちゃんが利用するときに、領地で重要な伊達家ゆかりの熊野権現と千賀の浦(塩釜の浦、千賀の塩釜)から1字ずつとって幼名を千熊丸に再改編
田村大元帥明王から鹽竈神社に変更されてるあたりに戦国時代の権力の移り変わりが伺えるね

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 19:22:02.60 ID:SMG/JatR
>>641
鶴料理が普及したのは信長秀吉家康の頃なんだって
中国の影響で日本でも鶴は禁食だったけど、平安時代には既に公卿が隠れて食べてたり、鎌倉時代以降は狩りをする武士に食べられてたり
禁食を気にせず畿内で食べ始めたのは信長が家康をもてなしたあたりが転機で
秀吉が天皇に鶴を献上してから禁食じゃなくなった
家康の頃には鶴、雁、雉が三鳥として貴重な鳥肉扱いされたから乱獲されまくったけど各大名が禁狩礼を出して対応した
そこで鶴や雁が食べられない庶民や金のない大名は、鶴もどきや雁もどきで代用した

文章が変になったけどこんな流れらしい
鶴の包丁って本に載ってたんだったかな

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 20:53:24.71 ID:QFParjqv
記憶が確かなら、義植が山口に逃げたときに歓待した大内が鶴料理を出していたのをここで見た気がする
あと鶴の羹を出されて肝付が島津に激怒した逸話があるね
創作らしいけど

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 22:14:24.72 ID:vTbs50tw
その後鶴の汁にあたり申した
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10549.html

そういえば利家が鶴の汁を食べ過ぎてお腹が痛くなった話が前に出てた

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 22:39:44.95 ID:dGbp89+Z
寛永2年に伊達忠宗が仙台に入部した際政宗が忠宗に宛てた九ヶ条からなる覚書の一条にも
「鷹場之義、鶴・白鳥・鳫・鴨・うつら・ひはり、何にても少も無機遣、
何方をも身之遣ことくニ不苦候事、」

(鷹場では鶴・白鳥・雁・鴨・鶉・雲雀、何れも遠慮なく捕ってよい。
何処でも政宗と同様に鷹場を使ってよい。)

とあるし食べる機会は多かっただろうから普通に食してたんじゃないかな

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:44:13.52 ID:phvBLPVO
足利義植を饗応した大内義興は鶴の煎物(『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』)
徳川家康を饗応した織田信長は鶴汁(『天正十年安土御献立』)
後陽成天皇を饗応した豊臣秀吉は鶴あいの物(『行幸御献立記』)
徳川家光は大姫出産祝いで鶴の饗行、徳川吉宗は町奉行に御拳の鶴(将軍が狩りで獲った鶴)のあつもの、明治天皇の新年宴会に温物鶴……
室町時代前後から鶴食の例は増加してるけど鶴食せず神聖視してた三春の田村家は饗応がさぞ大変だっただろう

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:51:54.02 ID:phvBLPVO
「鶴はマナヅル、ナベヅル、タンチョウとあるがタンチョウは珍しく滅多にない」と記録が残るくらいタンチョウが貴重品だった
江戸時代初期には青山氏が松前から鷹と鶴を取り寄せる際、秋田藩主佐竹氏義宣に宛てて「松前から取り寄せた鷹と鶴が領内を通過するので協力をお願いします」的な書状が残ってる(『青山忠俊書状』)
盛岡藩が松前からタンチョウの活鶴をお取り寄せした際、松前藩への支払いはタンチョウ1羽10両で2羽購入、4日後に追加で1羽購入
約40年後、福井藩がタンチョウ1羽15両で購入してるため値上がりしていた
少し時代が違うがアイヌによる鶴の販売価格はタンチョウ1羽896文、並1羽672文であった、松前藩ぼったくり疑惑
戦国時代末期から明治時代の根室本庁と札幌本庁まで鶴の産出記録を残してるから面白いぞ
盛岡藩や津軽藩は松前を通じてアイヌから生鶴を買って飼育してたり
松前藩伝説の鶴職人岡田藤七は狩りで生涯300の鶴を獲ったけど卵から孵化させる境地まで達してたり
戦国から離れてくからこのあたりで

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:57:24.78 ID:phvBLPVO
ちなみに卵から孵化させた鶴なんかは特にだけど
生鶴で買ってきて飼育した鶴は懐いて後を着いてくるから死ぬまで飼うんだって
かの水戸光圀も飼い鶴に追いかけられたと残ってる
死んだら塩漬けにして肉や羽やを有り難く皆で分け合う

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 03:19:50.85 ID:PxjGZs6g
衛の懿公「呼ばれたような、嫌がらせされているような・・・」

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 12:16:05.25 ID:MAbhH7Td
>>652
利家「鶴を愛でても鶴にいくさをさせることはできないでしょ」
で鶴汁にして食べた結果が>>647

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 23:59:35.26 ID:nySHf8sO
利家は夜中、寝てる信長の警護を任されたほど信頼されてたと言う良い逸話なのに
下世話に男色関係だったとされてるなぁ…

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/18(日) 16:11:36.19 ID:/O6R6YqR
腕枕して一晩中起きて守ってくれてるんだぞ
寝るまでピロトークなんかしてくれて
もう芯棒堪らんじゃないか

今からでも取り掛け申すべきを

2020年06月15日 17:50

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/15(月) 16:45:17.03 ID:snZwuq8m
寛永四年(1627)二月、加藤嘉明が会津に封ぜられた。この日、伊達政宗は殿中で嘉明の子である
明成と行き逢い、このように声をかけた

「足下父子に会津の地を預け賜ると承った。会津は全く、陸奥の鎮衛の地であれば、この老耄を
よく防げ、との御事であろう。しかし足下父子によって、容易くは防ぎ留められまじ。」

そう大声を出して笑った。これに明成はその笑い声の下より

「老黄門(政宗)、もし今の禄に倍して百二十万石をも領し給われば、今からでも取り掛け申すべきを。」

と申したという。

名将言行録



瓢箪から駒が出たぞ

2020年06月14日 17:24

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/14(日) 11:50:10.73 ID:dWadqL55
大阪冬の陣が和睦となって、従軍した諸大名も皆閑暇となり、このため幕府方の陣中では訪れた者に対し、
何れの方でも、景物(景品)を競う香合せ(香の香りで銘を当てる遊び)をしていた。

そのような所に伊達政宗が参った所、「幸いなり香をおかぎあれ」と勝負をした。
何れも鞍、障泥(馬の鞍の下にひく泥除け)、弓箭などを景品として出したが、政宗は腰につけた瓢箪を
出した。これに対しては何れも、可笑しな景品であると言って取る者が居なかった。
最終的にはこの香合せの亭主の家来が、この瓢箪を取って終了した。

政宗が帰る時、飾りをつけたままの自分の馬を「瓢箪から駒が出たぞ」と言って、瓢箪を取った者に与えた。
はじめ「奥州の大将の景物よ」と笑った者達は、この時に至って羨ましがったという。

名将言行録

関連
伊達政宗と瓢箪から駒・いい話


上様より拝領申したるぞ、汝らも有り難く存じ頂戴せよ

2020年06月12日 17:45

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/11(木) 19:54:17.42 ID:VjWg7rQ8
豊臣秀吉がある時舟遊びに出た時、伊達政宗にも供すべきとの事であったが、遅参して船の出た後に
やって来た、このために、馬を引き寄せ打ち乗って、ただ一騎で船を見ながら住吉の方へ乗り行った。

秀吉はこれを見て「あれは大方政宗であろう」と言われた。船は住吉にも着けられず、また漕ぎ戻された
ために、政宗もまた乗り返し、着船される所に参ると、秀吉は

「只今の馬は政宗であったか。武者振り見事なり。定めて草臥れたであろう」
と言って、饅頭の入った折を賜った。

政宗は頂戴して折を傾け、自分の着物の前を広げその中に移し、入れ包んで立ち退き、自分の
家臣を呼び寄せて「上様より拝領申したるぞ、汝らも有り難く存じ頂戴せよ。」と言って
残らず与えた。家臣たちは何れもその厚志に感じ入った。

名将言行録

こちらは長曾我部元親の逸話が政宗のものに変換されてますね



曲者めが、また先へ廻った

2020年06月09日 18:35

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 21:46:33.67 ID:WutUdWiN
豊臣秀吉は大きな猿を飼い、諸大名が登城する時、通る側につなぎ置いた。この猿が歯を剥き飛びかかる時。
諸人が狼狽する体を、秀吉は覗き見ていた。

伊達政宗はこの事を聞き、病と称して登城せず、秀吉の猿の猿引を百方手をつくして捜し、密かに猿を借り
玄関に繋ぎ置いた。猿は政宗を見ると歯を剥いて飛びかかろうとするが、政宗は鞭でしたたかに打ち竦めた。
このように度々した所、かの猿は最後には政宗を見ただけで?息した。こう仕込んだ上で猿を返した。

その後、政宗が登城した所、秀吉はこの事を知らず、政宗の様子はいかがかと覗き見た所、政宗が玄関を
上がる時、猿は飛びかかろうとしたが、政宗がはったとにらみつけると、かの猿萎縮して退いた。
秀吉はこれを見て「曲者めが、また先へ廻った」と笑われたという。

名将言行録

猿の話は太田道灌のものが有名ですが、政宗のものもあるのですね。



122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 21:59:33.69 ID:iRM7GFQX
大友宗麟もだっけ、こういう話あるの
痘痕持ちの女性を正室にした話と一緒で登場人物だけ入れ替えてお話一緒シリーズって感じね

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 22:47:21.19 ID:iflZPDLi
>>121
今は政宗のが一番有名だろう

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/09(火) 05:39:56.38 ID:jQPrYPKQ
こういうドッキリって真似したくなるよね

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/09(火) 11:45:37.40 ID:StWSoDZL
>>122
明智光秀は疱瘡女か

山形県長井市「草岡の大明神桜」

2020年06月07日 21:24

113 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/05(金) 22:53:19.04 ID:nykzd3q7
悪い話?かわからんけどNHKでやってた

山形県長井市の「草岡の大明神桜」を守り続けている横山家には、伊達政宗が初陣の際に
この桜の木に身を隠して難を逃れたとする書付が残されている。
https://imgur.com/VOyt05o
VOyt05o.jpg
http://www.watarigraphic.com/sakura/daimyoujin.php

個人的にはこの話を思い出した
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3693.html

四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか

2020年06月06日 17:03

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/05(金) 23:51:00.79 ID:wt4PFcb/
文禄4年、関白秀次に謀反の聞こえあった時、伊達政宗もこれに与しているとの説があった。
豊臣秀吉は怒り、政宗の領地を伊予に移すとした。

政宗は伊達上野、他一名を以て徳川家康の元に遣わし、「このように仰せ付けられ、伊達家の浮沈は
この時に極まりました。もはや家康公の賢慮を仰ぎ奉るより他ありません」と訴えた。

家康はこれを聞いて、両使に茶飯などを与えた。暫くして彼等は「政宗はさぞ待ち遠しく思っているでしょう。
早く帰り、ご返事を申し聞かせたいのです。」と申し上げると、家康は大声で言った

「各々が主の越前(政宗)という男は、当たりは強いように見えるが腰の抜けた男であり、後ろの弱きゆえに
そのように狼狽え付くのだ。四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか、よく分別
あるべしと言え!」
そして重ねて、秀吉より催促の有る時の返事のやり方を、細々と教え、両使は罷り出た。

間もなく、家康は秀吉の所に至った。また秀吉より政宗に使いがあり、
「昨日の要請についてどうなっているのか、早々に予州へ下るべし」と伝えに来た。

この使いが政宗の宿所に来てみると、門前には弓鉄砲、長刀を帯びた者達がひしと居並んで、今にも
打ち出しそうな有様であった。御使有ると聞いて、政宗は無刀にて出迎え、座に招いて御使の旨を聞くと、
涙をはらはらと流して申した

「上様の御威勢ほど、世に有難き事はありません。人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙るほどの不幸は
無いと、今日こそ思い知っております。私に於いては、たとえ今回の事で御不審を蒙り首を刎ねられても
異議は申しません。況や国郡を下し賜って所を変えるとの事に、何の不満があるでしょうか。

されども我が譜代の家僕たちは、何れも訴えてくるのです。『どうして数十代の御領を離れて他国に流浪する事が
有るべきか、速やかにここにて腹を斬られ、我々も一人も生きて所を去り渡すような所存はありません』と
言い切って、ひたすらに自害を勧めるのです。私は色々と義を尽して申し聞かせましたが、家臣たちは一向に
同心せず、あなた方もご覧の通りの、狼藉の至りの有様です。

つまり、偏に現在私が御勘当の身に罷り成っている故に、数十代の家人さえ我が下知を用いず、恣にしており、
是非に及びません。」
このように述べ、使いは帰ってこの旨を報告すると、秀吉の傍に在った家康も申し上げた

「いかにも左様に、私も承っております。政宗一人の事であれば、上意を違背し旧領を去り渡し奉らざるに
於いては、私に仰せ付けられれば、即座にかの旅宿へ押し寄せ踏み潰すことに、何ほどの事があるでしょうか。
しかし、今度こちらに供を仕った、政宗の千に足らざる小勢にてさえ、家臣共が左様に思い切っているのであれば、
旧領に残り留まっている郎従達は、国を退くとは何としても言わないでしょう。
政宗の郎従等を追い払うべき賢慮がお有りでしたら、政宗については、どうぞ私にお申し付けになって下さい。
ではありますが、累代の所領を没収することで、彼の郎従たちが愁訴する事も、不憫に思います。
ですので、枉げて今回は、ご赦免も有るべきではないかと。」

このように申し上げると、秀吉は「兎にも角にも家康の計らわれることに若くはあるまじ」として、
国替えのこと沙汰無くなりその事止み、その後勘当も免されたという。

名将言行録



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:10:30.36 ID:QjiO30i5
まるで道化だな

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:28:15.16 ID:orWYLZXD
>>260
伊達上野って留守政景か
後半の訳が力尽きてることも併せて
スレを盛り上げようとする意気は素晴らしいけど
無理に全文貼る事もないと思うよ

【話題】伊達政宗”容疑者”!?

2020年05月24日 16:16

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 09:54:08.64 ID:YdfFy2qH
ツイッターからそのまま転載なので、あくまでも参考ネタということで

https://pbs.twimg.com/media/EYrgXfUU8AE3BBR.jpg
https://pbs.twimg.com/media/EYrgXfUU8AAvDVX.jpg
https://pbs.twimg.com/media/EYrgXfUVcAIqeHE.jpg
EYrgXfUU8AE3BBR.jpg
EYrgXfUU8AAvDVX.jpg
EYrgXfUVcAIqeHE.jpg
https://twitter.com/tatsu_note/status/1264069349242855424
たつのん/元新聞記者? @tatsu_note
東日本大震災の犠牲者と思われた白骨遺体が殺人事件の被害者だと判明したが
戦国時代の他殺体だった上に休暇中の伊達政宗にやられた家臣だったっぽい話

togetterまとめ
「さすが伊達政宗」東日本大震災の犠牲者と思われた白骨遺体が殺人事件の被害者と判明…なんと戦国時代の他殺体だった話
https://togetter.com/li/1521278


84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 10:09:40.36 ID:B7yyK1lo
>>83
政宗を書類送検w

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 12:27:32.91 ID:CixKdHgZ
証拠があったとしても、時効だろw

86 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/05/24(日) 17:07:58.78 ID:TOtaqHHd
これTwitterで見かけたけど、政宗が殺した根拠なんてないのに
本当に政宗が殺したと解釈したようなコメントもいくつかあって引いたわ
ネタかもしれないが

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 18:53:46.00 ID:rR8W1qw3
面白さ優先で事の真偽がどうでもいいとされやすいパターンで
本人は恐らくある程度分別つけたうえでのツイートだったけど、確かに周りがそう思い込みだしそうな感じでちょっと危ういなとは思った

伊達輝宗の遭難と二本松義継の滅亡

2020年03月04日 18:06

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/04(水) 15:10:08.64 ID:ip48Zz9x
伊達輝宗・政宗御父子が大内定綱を塩松に攻め、早速手に入れられると。輝宗公は近日、この大内定綱と姻戚関係にある
二本松へ御出馬されるべく、その周囲の要害を詰め落とした。

この伊達の急激な動きに、二本松義継は、重臣である二本松四天王の面々に向かって宣うた
「私が小勢を以て大敵と戦った場合、勝負は運に依るだろうか。」

「大勢に一人向かうのは益がありません。小を以て大に敵するといいますが、今当家の力を以て、伊達・田村の
大敵と対峙するのは、頗る以て難しい事です。」

こう言われ、義継はまた宣った
「それならば、私は兜を脱いで降人となり、輝宗の元に出仕して兄弟の交わりを成し、婚姻の義を約して、
先ずは事を無為にするように謀ろう。すると私が帰る時には、輝宗は悦び必ず見送るため座を立つであろう。
その時の輝宗の胸ぐらを無手と取り、縁より引き落として九寸五分の脇差を輝宗に指し当てて舘より引き出せば、
伊達家の者達もどうしてこれを阻もうとするだろうか。」

そう言って、天正十三年十月八日に、二本松義継は降人となって伊達輝宗の元に出仕した。
この態度に輝宗は斜め成らず悦び、義継を饗応する事、限りないほどであった。しばらくして事終わり、
義継は暇乞いをして帰ろうとした所、案の如く輝宗は、御門送りの御礼に立った。

ここで義継は輝宗の体を無手と取って縁の下に引き落とし、輝宗の口先に脇差を脇差を突きかけ、舘より引き出した。
そして鹿子田和泉守を始めとした一人当千の兵二、三人が輝宗を取り囲んで進んだ。

伊達側は数千の軍勢が充満してその後に袖を連ねたが、輝宗を救おうにも方法が無くただその後を追い、輝宗公に対して
逆心が犯せられた事を嘆き悲しんだ。輝宗からは他に言葉もなく、義継に脇差を突きつけられ「申すな申すな!」と
言われており、もし奪い取ろうとすれば輝宗公の御命は無いであろう。

伊達勢は驚周章騒してどうして良いのか進退を失った。その時、嫡子である政宗は御鷹野に他行していたのだが、
御鷹野場に人二人を走らせ急ぎこの事を知らせ奉ると、政宗は御物具をも帯びず、取るものもとりあえず御鷹野より
直に追いかけ、早くも平石の内、アハノスはで十里という所で政宗は一行に追いついた。

政宗はこの時とっさに考えた
二本松義継が川を渡り二本松に戻ってしまえば、政宗がどれほど心猛くとも、輝宗公が擒となり、二本松の城にて
戒めを蒙り、捕らえて盾の面に当てられれば、伊達と二本松が戦っても、伊達が戦に勝つことは出来ない。

だからといって政宗が降参し、父親の命を請うたとしても、二本松に留め置かれ伊達に帰ることは万に一つも無いだろう。
そして二本松の旗下に成ってしまえば、伊達家の滅亡もその時である。

不孝には三つ有るという。その中でも跡継ぎの無い事が最も大きな不孝であるとされている。
そういう事であるなら、父一人を捨て、子々孫々まで伊達の御家一族繁盛させるのは、却って一家への忠孝である!』

そう思し召したのであろう、正宗公は馬に乗り掛かられると
「親共に討ち取れや者共!」
と下知した。

伊達衆はこの下知に一斉に競り掛かり、義継主従を真ん中に取り囲み、逃さぬ構えをとった。
この時、二本松義継の運命は既に尽きていたのだろう。実は義継は予め迎えの合図を定めており、二本松の兵たちは
この合図によって大勢が出てきていたのであるが、どういう間違いが有ったのか、沼によって道が隔てられた
別の場所に出てしまい、この場に一人も間に合わなかったのである。運の末とはこういう事なのであろう。

こうして二本松義継は滅亡し、そのまま政宗は二本松へ馳せ向かいこれを攻めたが、留守居の新城弾正、同名新庵が
堅固に持ち堪え降参しなかった。十一月十五日に政宗は再び攻めたが落城しなかった。このため塩松に陣を引き、
翌年三月十一日、二本松方の簑輪玄蕃、遊佐源左衛門、本宮の遊佐丹波、伐江新兵衛の四人、この他四、五人が
二本松に対し逆心し、箕輪舘まで片倉小十郎を引き込んで、本町、杉田町に火を掛けて焼き払い攻め上るのを、
城中より出向い、簑輪舘の片桐小十郎勢を散々に切り立て十人ばかりを打ち取った。
二本松は七月十五日まで籠城したが、結局開城し、そこには政宗の伯父にあたる成実が入った。

藤葉榮衰記

伊達輝宗の遭難と二本松義継の滅亡について。



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/04(水) 18:33:57.72 ID:KljVSlqr
>政宗の伯父にあたる成実
そういや父系だと成実は一世代上だっけか

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/04(水) 19:58:27.30 ID:sqTtV4Sg
政宗の従兄弟であり叔父である成実
ややこしいな

882 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/05(木) 00:53:28.09 ID:8eN+y0vz
おじではないよね
成実の父は晴宗の弟(つまり輝宗の叔父)、母は輝宗の妹

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 01:39:47.06 ID:1pXv6WeJ
成実からみて
政宗は年長の父方のいとこ甥かつ母方のいとこ
母親は父方のいとこ
正室は父方のいとこ姪
継室は父方のいとこ姪かつ母方のいとこ

伊達家の家系図は複雑怪奇

花村勾当

2020年02月27日 17:19

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 17:08:33.13 ID:Rg/hXWRW
盲僧の官位は検校から順に、別当、勾当、座頭と大別されていた。

さて江戸時代初期のこと、勾当の位にあった盲僧・花村正一は、奥浄瑠璃(御国浄瑠璃)の名人であり、また狂歌をも良くする、たいへん機転の利く盲僧であった。
あるとき、藩主・伊達政宗公が馬に乗り威風堂々と行列している様子を道場に座り、じっと伺っている一人の盲僧。その姿が馬上の政宗公の目に留まる。

(●∀・)「汝はなんという名前か」

このように尋ねる政宗公。
これに対して盲僧は即座に狂歌をうたって返す。

「なに一字違いありとてことごとし、君は政宗、我は正一」

政宗公はこの即妙な歌に感心し、正一を寵愛して屋敷をあたえ住まわせたという。
以来、正月になると盲僧の代表が青葉城に参上し、御浄瑠璃「御所の的」「仙台状」を演奏して言祝いだという。

正一は花村勾当と称されたことから屋敷の付近は勾当台と呼ばれ、屋敷跡は仙台都心部にある勾当台公園となっている。



696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 19:57:32.91 ID:kVXW8JkY
この前の政宗のプロパガンダの話のまとめのコメント欄に

>お国浄瑠璃は主に盲目の法師が演じていた
>政宗は仙台藩がお国浄瑠璃を保護することで
>盲目の人が自立出来る環境を作り
>庶民に支えられて昭和のはじめまで続いた

こんなコメントがあったのを思い出した

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 22:52:58.51 ID:YSmj2dqr
其夜目盲法師の琵琶をならして
奥上るりと云ものをかたる。
平家にもあらず
舞にもあらず
ひなびたる調子うち上て
枕ちかうかしましけれど
さすがに辺土の遺風忘れざるものから殊勝に覚らる。

松尾芭蕉『おくのほそ道』


大坂の人形浄瑠璃って、劇場があってお金を貰ってっていう現代的なエンターテインメントだけど
東北の奥浄瑠璃は盲法師への福祉政策として庶民が支えるためにやってた節もあって
それが仙台藩を中心に盲法師や巫覡によって昭和初期まで神社仏閣で演じられてたって、ちょっと意味がわからないことやってんだよな
文化をプロパガンダにも利用したとはいえ、根っから好きじゃないとここまでの保護は出来ないし
京や大坂に勝るとも劣らない東北独自の文芸文化の基礎を、盲法師を保護しつつ作り上げた伊達政宗は民俗学的にはかなりやべーやつ(褒め言葉)

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 00:55:40.29 ID:UwbTSFZx
秀吉の時代には興業が京都であって、その後すぐ江戸でも流行しているからどっちかで見に行っていたんでしょうね
なんか、へうげものの絵柄で想像してしまうw

700 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/28(金) 20:43:28.45 ID:zh9u3JPO
>>697
毛利元就「ワシも彼らの琵琶には良く助けられたよ」(意味深)

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 22:56:43.22 ID:Ne+C+WL+
琵琶は精力剤として古くから知られてきたからなあ
タネが大きいから子宝に恵まれるという意味があるし

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 00:18:06.55 ID:9ddTuuOa
夜食べると毒(意味深)

703 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/29(土) 05:54:13.35 ID:xpFpoS5N
元就は浣腸して各地に琵琶法師送ってたんだっけね。

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 06:44:30.96 ID:SJV5Muzh
元就「この下痢グソ痴態バラされたくなきゃ情報あつめてこい

伊達政宗とプロパガンダの影響

2020年02月21日 17:30

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/21(金) 11:58:53.50 ID:MhfiBKEZ
伊達政宗とプロパガンダの影響

天正18年に発生した葛西大崎一揆のあと、葛西・大崎13郡は伊達政宗に与えられたが、地元民による伊達氏への怨恨はあまりにも強かった。
そこで政宗は伊達氏の領下で盛んに演じられていた御国浄瑠璃(奥浄瑠璃)を利用することを思い付く。
当時の葛西・大崎13郡となる陸奥国中部では安倍氏の時代以来、坂上田村麻呂の本地仏を毘沙門天とする田村信仰が盛んであったこと。
また正室の愛姫が坂上田村麻呂の子孫を称していたことから、室町物語『田村の草子』を伊達氏に結びつける形で改編、御国浄瑠璃『田村三代記』を陸奥国中部で演じさせた。
例えば『田村の草子』では悪路王を討伐するため陸奥国へと赴いた藤原俊仁(=藤原利仁)が陸奥国田村郷の賤女と契りを交わして田村丸俊宗(=田村麻呂)が誕生する場面がある。
これを悪路王を討伐するため陸奥国へと赴いた田村利光が陸奥国三春の悪玉姫と契りを交わして田村丸利仁(=田村麻呂と利仁)が誕生すると改編した。
理由は演じられた地域の神社やお寺の縁起を『田村三代記』に合わせて書き換えるため。
他にも鈴鹿山の大嶽丸を陸奥霧山の大嶽丸へと変更し、清水寺の建立を陸奥国に田村大明神として現れる(=田村信仰へと結びつける)物語にすることで、プロパガンダを通じて伊達氏が支配の正統性を植え付けた。
この政宗によるプロパガンダの影響は甚大で、戦国時代中期に仙台藩の社寺の縁起を調査した仙台藩士・佐藤信要が『封内名跡志』で「事実を弁せず妄りに田村の建というは尤も疑ふべし」と匙を投げるほど50を超える寺社の縁起が上書きされていた。
プロパガンダが効きすぎて、地域の歴史を遡れなくなったのである。

東北地方で田村麻呂を利用したプロパガンダは有効であったようで、慶長4年に盛岡城へと移った南部信直と南部利直親子も行っている。
こちらは鎌倉御家人・工藤氏から続く岩手山祭祀を南部氏による支配に合わせて改編した。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/21(金) 12:05:26.80 ID:MhfiBKEZ
政宗による戦後プロパガンダはここ数年で東北の大学を中心に論文がちらほら出始めてて面白い
北上川流域の毘沙門天信仰の地域では田村麻呂で上書きしつつ
そこから離れた領内では田村麻呂の母親で上書きしてる
子安地蔵は田村麻呂と立烏帽子の娘にしてたり
地域全体を使ってのプロパガンダを行えたのが凄いとかなんとか

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/21(金) 12:09:19.65 ID:MhfiBKEZ
あまりにも見事に上書きしてしまってるから戦国時代中期の仙台藩の学者や
平泉雑記を書いた相原友直が「田村麻呂しかでてこねーじゃねーか」って本を残しまくる事態に陥ってる
大半の神社や仏閣の本来の歴史が「政宗から3代くらいの間に書き換えられた」しか判明しなくて残念だと



田村男猿の事

2020年01月05日 18:12

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 01:09:06.02 ID:y6J6oEnE
田村宗顕が改易されて牛縊定顕と名乗り、白石城下で隠棲していたときに次男が産まれた。愛姫たっての希望により仙台城で養育され、伊達政宗や重臣が列座するなか、愛姫から田村男猿と名付けられ、政宗からも我が子同様に可愛がられた。
10歳にして頭脳明晰、武芸万般も剣道、乗馬、砲術はすでに皆伝であった。特に鉄砲は百発百中で、失踪するケモノを苦もなく撃ちとり、政宗や仙台城内では「さすがは坂上田村麻呂の後裔」と評判になった。
政宗、愛姫、片倉重長が相談して14歳で元服すると田村清顕の軍神愛宕尊像、新藤五国光の宝刀、幸村の描いた掛軸を下賜されて、兄とともに片倉喜多の名跡を継いで片倉三右衛門良種を名乗って白石城へと戻った。

ある秋の夜、白石城から屋敷に帰る途中に稲荷の祠の前で白狐が玉を転がして遊んでいるのを見て草履を投げつけた。驚いた白狐は玉を捨てて逃げ去ったので、玉を持ち帰った男猿は夢を見た。「あの玉は稲荷の宝物だから返してほしい。お礼にひとつだけ願い事を叶えてやる」
翌日の夜に稲荷の祠へいくと白狐が待っていた。玉を返して、ケモノより速く走れる秘伝を授けてほしいと願うと、秘伝を授かった。

二代藩主忠宗が巻き狩りのときに男猿は山案内を勤めたが、大猪七頭が忠宗本陣をめがけて疾走してきた。マタギ十数人が撃っても一頭も倒せない。
男猿は手錬の早撃ちで七頭をことごとく仕留め、忠宗は面前の神業に褒美を与えて、磐司磐三郎の再来であるので青葉流マタギを名乗らせて開祖とした。

郷土史に載ってたので。片倉を継ぐまでは三春の田村氏墓の墓誌から。
五郎八姫といい男猿といい政宗愛姫のセンスがパない



485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 07:55:35.49 ID:G16h3Wor
>>484
>ケモノより速く走れる秘伝
願い事が男子小学生みたいな純粋さで草

486 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/05(日) 10:04:26.93 ID:PRAHKvZB
>>484
田村姓時代の男猿でなんて読むんだろう?
おざる?だんざる?だんえん?

幼名にしても、凄い名前だ…

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 06:06:37.62 ID:LiBSrxXT
>>486
Wikipediaだと おざる になってた
愛姫が命名して養育したり、伯母として田村家を気にかけてたいい話

492 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/06(月) 07:29:11.52 ID:o9oNLRMr
>>491
愛姫「まぁこの子、お猿みたいで可愛いわ(キャッキャ)」

命名:男猿

こうですか?

493 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/06(月) 07:30:38.68 ID:o9oNLRMr
┌○┐ハハ
│男│゜ω゜ ) ←愛姫
│猿│//
└○┘(⌒)
  し ⌒

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 13:44:01.69 ID:c7V7TmsI
愛愛 男猿さんだよー

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 18:44:37.17 ID:fGVLO4dY
隆顕┬清顕-愛姫-忠宗   -田村宗良
   └氏顕-宗顕┬片倉定広
            └片倉良種(男猿)

田村氏の家督を継ぐのは愛姫の子ってのが伊達家の規定路線(実際に継ぐのは孫の宗良)であり
田村家を改易に追い込んだのは他ならなぬ政宗という事情もあるし
伯母としての愛情もあるだろうが、予想外の火種にならないよう手許で囲ったような気がしないでもない

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 20:01:36.39 ID:47UdXgtu
片倉喜多は伊達政宗の養育係で、愛姫付きだし
田村定広と田村男猿を手元で囲って喜多流を継がせるのは規定路線だったのかもね

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 20:42:59.58 ID:Ayc/p8i+
田村家を使って仙台藩内の神社とお寺で盲目法師に奥浄瑠璃を演じさせることで、伊達家が管理すべき藩内の祭祀を田村家-坂上田村麻呂-藩内の神社に投げたり
頼朝が鎌倉御家人の工藤行光に作らせた岩手山-頼義義家-工藤-頼朝の祭祀が邪魔で盛岡支配に悩んだ南部信直が、三戸から盛岡に連れてきたお寺に塗り替えさせて岩手山祭祀の管理問題を丸投げしたり
政庁に坂上氏を抱えていたのにそこに気付けなかった奥州藤原氏の利用が下手くそなだけで

伊達政宗ほど坂上田村麻呂の利用法が上手かった人物はいない
政宗と愛姫のいい話の裏には坂上田村麻呂を政治的利用してたものが幾つかある
ttp://miharu-megohime.com/read/read09.php
これとか征夷大将軍の末裔である愛姫を上座に座らせる、という政宗が東北の歴史を重んじたいい話だけど
あえて江戸で流布させてる意図は征夷大将軍というフィルターを通して徳川将軍へのパフォーマンスとも言える
田村男猿と忠宗のいい話もあとあと奥浄瑠璃のネタに使われてる