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伊達輝宗の遭難と二本松義継の滅亡

2020年03月04日 18:06

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/04(水) 15:10:08.64 ID:ip48Zz9x
伊達輝宗・政宗御父子が大内定綱を塩松に攻め、早速手に入れられると。輝宗公は近日、この大内定綱と姻戚関係にある
二本松へ御出馬されるべく、その周囲の要害を詰め落とした。

この伊達の急激な動きに、二本松義継は、重臣である二本松四天王の面々に向かって宣うた
「私が小勢を以て大敵と戦った場合、勝負は運に依るだろうか。」

「大勢に一人向かうのは益がありません。小を以て大に敵するといいますが、今当家の力を以て、伊達・田村の
大敵と対峙するのは、頗る以て難しい事です。」

こう言われ、義継はまた宣った
「それならば、私は兜を脱いで降人となり、輝宗の元に出仕して兄弟の交わりを成し、婚姻の義を約して、
先ずは事を無為にするように謀ろう。すると私が帰る時には、輝宗は悦び必ず見送るため座を立つであろう。
その時の輝宗の胸ぐらを無手と取り、縁より引き落として九寸五分の脇差を輝宗に指し当てて舘より引き出せば、
伊達家の者達もどうしてこれを阻もうとするだろうか。」

そう言って、天正十三年十月八日に、二本松義継は降人となって伊達輝宗の元に出仕した。
この態度に輝宗は斜め成らず悦び、義継を饗応する事、限りないほどであった。しばらくして事終わり、
義継は暇乞いをして帰ろうとした所、案の如く輝宗は、御門送りの御礼に立った。

ここで義継は輝宗の体を無手と取って縁の下に引き落とし、輝宗の口先に脇差を脇差を突きかけ、舘より引き出した。
そして鹿子田和泉守を始めとした一人当千の兵二、三人が輝宗を取り囲んで進んだ。

伊達側は数千の軍勢が充満してその後に袖を連ねたが、輝宗を救おうにも方法が無くただその後を追い、輝宗公に対して
逆心が犯せられた事を嘆き悲しんだ。輝宗からは他に言葉もなく、義継に脇差を突きつけられ「申すな申すな!」と
言われており、もし奪い取ろうとすれば輝宗公の御命は無いであろう。

伊達勢は驚周章騒してどうして良いのか進退を失った。その時、嫡子である政宗は御鷹野に他行していたのだが、
御鷹野場に人二人を走らせ急ぎこの事を知らせ奉ると、政宗は御物具をも帯びず、取るものもとりあえず御鷹野より
直に追いかけ、早くも平石の内、アハノスはで十里という所で政宗は一行に追いついた。

政宗はこの時とっさに考えた
二本松義継が川を渡り二本松に戻ってしまえば、政宗がどれほど心猛くとも、輝宗公が擒となり、二本松の城にて
戒めを蒙り、捕らえて盾の面に当てられれば、伊達と二本松が戦っても、伊達が戦に勝つことは出来ない。

だからといって政宗が降参し、父親の命を請うたとしても、二本松に留め置かれ伊達に帰ることは万に一つも無いだろう。
そして二本松の旗下に成ってしまえば、伊達家の滅亡もその時である。

不孝には三つ有るという。その中でも跡継ぎの無い事が最も大きな不孝であるとされている。
そういう事であるなら、父一人を捨て、子々孫々まで伊達の御家一族繁盛させるのは、却って一家への忠孝である!』

そう思し召したのであろう、正宗公は馬に乗り掛かられると
「親共に討ち取れや者共!」
と下知した。

伊達衆はこの下知に一斉に競り掛かり、義継主従を真ん中に取り囲み、逃さぬ構えをとった。
この時、二本松義継の運命は既に尽きていたのだろう。実は義継は予め迎えの合図を定めており、二本松の兵たちは
この合図によって大勢が出てきていたのであるが、どういう間違いが有ったのか、沼によって道が隔てられた
別の場所に出てしまい、この場に一人も間に合わなかったのである。運の末とはこういう事なのであろう。

こうして二本松義継は滅亡し、そのまま政宗は二本松へ馳せ向かいこれを攻めたが、留守居の新城弾正、同名新庵が
堅固に持ち堪え降参しなかった。十一月十五日に政宗は再び攻めたが落城しなかった。このため塩松に陣を引き、
翌年三月十一日、二本松方の簑輪玄蕃、遊佐源左衛門、本宮の遊佐丹波、伐江新兵衛の四人、この他四、五人が
二本松に対し逆心し、箕輪舘まで片倉小十郎を引き込んで、本町、杉田町に火を掛けて焼き払い攻め上るのを、
城中より出向い、簑輪舘の片桐小十郎勢を散々に切り立て十人ばかりを打ち取った。
二本松は七月十五日まで籠城したが、結局開城し、そこには政宗の伯父にあたる成実が入った。

藤葉榮衰記

伊達輝宗の遭難と二本松義継の滅亡について。



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/04(水) 18:33:57.72 ID:KljVSlqr
>政宗の伯父にあたる成実
そういや父系だと成実は一世代上だっけか

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/04(水) 19:58:27.30 ID:sqTtV4Sg
政宗の従兄弟であり叔父である成実
ややこしいな

882 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/05(木) 00:53:28.09 ID:8eN+y0vz
おじではないよね
成実の父は晴宗の弟(つまり輝宗の叔父)、母は輝宗の妹

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 01:39:47.06 ID:1pXv6WeJ
成実からみて
政宗は年長の父方のいとこ甥かつ母方のいとこ
母親は父方のいとこ
正室は父方のいとこ姪
継室は父方のいとこ姪かつ母方のいとこ

伊達家の家系図は複雑怪奇

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花村勾当

2020年02月27日 17:19

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 17:08:33.13 ID:Rg/hXWRW
盲僧の官位は検校から順に、別当、勾当、座頭と大別されていた。

さて江戸時代初期のこと、勾当の位にあった盲僧・花村正一は、奥浄瑠璃(御国浄瑠璃)の名人であり、また狂歌をも良くする、たいへん機転の利く盲僧であった。
あるとき、藩主・伊達政宗公が馬に乗り威風堂々と行列している様子を道場に座り、じっと伺っている一人の盲僧。その姿が馬上の政宗公の目に留まる。

(●∀・)「汝はなんという名前か」

このように尋ねる政宗公。
これに対して盲僧は即座に狂歌をうたって返す。

「なに一字違いありとてことごとし、君は政宗、我は正一」

政宗公はこの即妙な歌に感心し、正一を寵愛して屋敷をあたえ住まわせたという。
以来、正月になると盲僧の代表が青葉城に参上し、御浄瑠璃「御所の的」「仙台状」を演奏して言祝いだという。

正一は花村勾当と称されたことから屋敷の付近は勾当台と呼ばれ、屋敷跡は仙台都心部にある勾当台公園となっている。



696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 19:57:32.91 ID:kVXW8JkY
この前の政宗のプロパガンダの話のまとめのコメント欄に

>お国浄瑠璃は主に盲目の法師が演じていた
>政宗は仙台藩がお国浄瑠璃を保護することで
>盲目の人が自立出来る環境を作り
>庶民に支えられて昭和のはじめまで続いた

こんなコメントがあったのを思い出した

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 22:52:58.51 ID:YSmj2dqr
其夜目盲法師の琵琶をならして
奥上るりと云ものをかたる。
平家にもあらず
舞にもあらず
ひなびたる調子うち上て
枕ちかうかしましけれど
さすがに辺土の遺風忘れざるものから殊勝に覚らる。

松尾芭蕉『おくのほそ道』


大坂の人形浄瑠璃って、劇場があってお金を貰ってっていう現代的なエンターテインメントだけど
東北の奥浄瑠璃は盲法師への福祉政策として庶民が支えるためにやってた節もあって
それが仙台藩を中心に盲法師や巫覡によって昭和初期まで神社仏閣で演じられてたって、ちょっと意味がわからないことやってんだよな
文化をプロパガンダにも利用したとはいえ、根っから好きじゃないとここまでの保護は出来ないし
京や大坂に勝るとも劣らない東北独自の文芸文化の基礎を、盲法師を保護しつつ作り上げた伊達政宗は民俗学的にはかなりやべーやつ(褒め言葉)

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 00:55:40.29 ID:UwbTSFZx
秀吉の時代には興業が京都であって、その後すぐ江戸でも流行しているからどっちかで見に行っていたんでしょうね
なんか、へうげものの絵柄で想像してしまうw

700 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/28(金) 20:43:28.45 ID:zh9u3JPO
>>697
毛利元就「ワシも彼らの琵琶には良く助けられたよ」(意味深)

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 22:56:43.22 ID:Ne+C+WL+
琵琶は精力剤として古くから知られてきたからなあ
タネが大きいから子宝に恵まれるという意味があるし

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 00:18:06.55 ID:9ddTuuOa
夜食べると毒(意味深)

703 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/29(土) 05:54:13.35 ID:xpFpoS5N
元就は浣腸して各地に琵琶法師送ってたんだっけね。

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 06:44:30.96 ID:SJV5Muzh
元就「この下痢グソ痴態バラされたくなきゃ情報あつめてこい

伊達政宗とプロパガンダの影響

2020年02月21日 17:30

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/21(金) 11:58:53.50 ID:MhfiBKEZ
伊達政宗とプロパガンダの影響

天正18年に発生した葛西大崎一揆のあと、葛西・大崎13郡は伊達政宗に与えられたが、地元民による伊達氏への怨恨はあまりにも強かった。
そこで政宗は伊達氏の領下で盛んに演じられていた御国浄瑠璃(奥浄瑠璃)を利用することを思い付く。
当時の葛西・大崎13郡となる陸奥国中部では安倍氏の時代以来、坂上田村麻呂の本地仏を毘沙門天とする田村信仰が盛んであったこと。
また正室の愛姫が坂上田村麻呂の子孫を称していたことから、室町物語『田村の草子』を伊達氏に結びつける形で改編、御国浄瑠璃『田村三代記』を陸奥国中部で演じさせた。
例えば『田村の草子』では悪路王を討伐するため陸奥国へと赴いた藤原俊仁(=藤原利仁)が陸奥国田村郷の賤女と契りを交わして田村丸俊宗(=田村麻呂)が誕生する場面がある。
これを悪路王を討伐するため陸奥国へと赴いた田村利光が陸奥国三春の悪玉姫と契りを交わして田村丸利仁(=田村麻呂と利仁)が誕生すると改編した。
理由は演じられた地域の神社やお寺の縁起を『田村三代記』に合わせて書き換えるため。
他にも鈴鹿山の大嶽丸を陸奥霧山の大嶽丸へと変更し、清水寺の建立を陸奥国に田村大明神として現れる(=田村信仰へと結びつける)物語にすることで、プロパガンダを通じて伊達氏が支配の正統性を植え付けた。
この政宗によるプロパガンダの影響は甚大で、戦国時代中期に仙台藩の社寺の縁起を調査した仙台藩士・佐藤信要が『封内名跡志』で「事実を弁せず妄りに田村の建というは尤も疑ふべし」と匙を投げるほど50を超える寺社の縁起が上書きされていた。
プロパガンダが効きすぎて、地域の歴史を遡れなくなったのである。

東北地方で田村麻呂を利用したプロパガンダは有効であったようで、慶長4年に盛岡城へと移った南部信直と南部利直親子も行っている。
こちらは鎌倉御家人・工藤氏から続く岩手山祭祀を南部氏による支配に合わせて改編した。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/21(金) 12:05:26.80 ID:MhfiBKEZ
政宗による戦後プロパガンダはここ数年で東北の大学を中心に論文がちらほら出始めてて面白い
北上川流域の毘沙門天信仰の地域では田村麻呂で上書きしつつ
そこから離れた領内では田村麻呂の母親で上書きしてる
子安地蔵は田村麻呂と立烏帽子の娘にしてたり
地域全体を使ってのプロパガンダを行えたのが凄いとかなんとか

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/21(金) 12:09:19.65 ID:MhfiBKEZ
あまりにも見事に上書きしてしまってるから戦国時代中期の仙台藩の学者や
平泉雑記を書いた相原友直が「田村麻呂しかでてこねーじゃねーか」って本を残しまくる事態に陥ってる
大半の神社や仏閣の本来の歴史が「政宗から3代くらいの間に書き換えられた」しか判明しなくて残念だと



田村男猿の事

2020年01月05日 18:12

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 01:09:06.02 ID:y6J6oEnE
田村宗顕が改易されて牛縊定顕と名乗り、白石城下で隠棲していたときに次男が産まれた。愛姫たっての希望により仙台城で養育され、伊達政宗や重臣が列座するなか、愛姫から田村男猿と名付けられ、政宗からも我が子同様に可愛がられた。
10歳にして頭脳明晰、武芸万般も剣道、乗馬、砲術はすでに皆伝であった。特に鉄砲は百発百中で、失踪するケモノを苦もなく撃ちとり、政宗や仙台城内では「さすがは坂上田村麻呂の後裔」と評判になった。
政宗、愛姫、片倉重長が相談して14歳で元服すると田村清顕の軍神愛宕尊像、新藤五国光の宝刀、幸村の描いた掛軸を下賜されて、兄とともに片倉喜多の名跡を継いで片倉三右衛門良種を名乗って白石城へと戻った。

ある秋の夜、白石城から屋敷に帰る途中に稲荷の祠の前で白狐が玉を転がして遊んでいるのを見て草履を投げつけた。驚いた白狐は玉を捨てて逃げ去ったので、玉を持ち帰った男猿は夢を見た。「あの玉は稲荷の宝物だから返してほしい。お礼にひとつだけ願い事を叶えてやる」
翌日の夜に稲荷の祠へいくと白狐が待っていた。玉を返して、ケモノより速く走れる秘伝を授けてほしいと願うと、秘伝を授かった。

二代藩主忠宗が巻き狩りのときに男猿は山案内を勤めたが、大猪七頭が忠宗本陣をめがけて疾走してきた。マタギ十数人が撃っても一頭も倒せない。
男猿は手錬の早撃ちで七頭をことごとく仕留め、忠宗は面前の神業に褒美を与えて、磐司磐三郎の再来であるので青葉流マタギを名乗らせて開祖とした。

郷土史に載ってたので。片倉を継ぐまでは三春の田村氏墓の墓誌から。
五郎八姫といい男猿といい政宗愛姫のセンスがパない



485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 07:55:35.49 ID:G16h3Wor
>>484
>ケモノより速く走れる秘伝
願い事が男子小学生みたいな純粋さで草

486 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/05(日) 10:04:26.93 ID:PRAHKvZB
>>484
田村姓時代の男猿でなんて読むんだろう?
おざる?だんざる?だんえん?

幼名にしても、凄い名前だ…

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 06:06:37.62 ID:LiBSrxXT
>>486
Wikipediaだと おざる になってた
愛姫が命名して養育したり、伯母として田村家を気にかけてたいい話

492 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/06(月) 07:29:11.52 ID:o9oNLRMr
>>491
愛姫「まぁこの子、お猿みたいで可愛いわ(キャッキャ)」

命名:男猿

こうですか?

493 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/06(月) 07:30:38.68 ID:o9oNLRMr
┌○┐ハハ
│男│゜ω゜ ) ←愛姫
│猿│//
└○┘(⌒)
  し ⌒

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 13:44:01.69 ID:c7V7TmsI
愛愛 男猿さんだよー

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 18:44:37.17 ID:fGVLO4dY
隆顕┬清顕-愛姫-忠宗   -田村宗良
   └氏顕-宗顕┬片倉定広
            └片倉良種(男猿)

田村氏の家督を継ぐのは愛姫の子ってのが伊達家の規定路線(実際に継ぐのは孫の宗良)であり
田村家を改易に追い込んだのは他ならなぬ政宗という事情もあるし
伯母としての愛情もあるだろうが、予想外の火種にならないよう手許で囲ったような気がしないでもない

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 20:01:36.39 ID:47UdXgtu
片倉喜多は伊達政宗の養育係で、愛姫付きだし
田村定広と田村男猿を手元で囲って喜多流を継がせるのは規定路線だったのかもね

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 20:42:59.58 ID:Ayc/p8i+
田村家を使って仙台藩内の神社とお寺で盲目法師に奥浄瑠璃を演じさせることで、伊達家が管理すべき藩内の祭祀を田村家-坂上田村麻呂-藩内の神社に投げたり
頼朝が鎌倉御家人の工藤行光に作らせた岩手山-頼義義家-工藤-頼朝の祭祀が邪魔で盛岡支配に悩んだ南部信直が、三戸から盛岡に連れてきたお寺に塗り替えさせて岩手山祭祀の管理問題を丸投げしたり
政庁に坂上氏を抱えていたのにそこに気付けなかった奥州藤原氏の利用が下手くそなだけで

伊達政宗ほど坂上田村麻呂の利用法が上手かった人物はいない
政宗と愛姫のいい話の裏には坂上田村麻呂を政治的利用してたものが幾つかある
ttp://miharu-megohime.com/read/read09.php
これとか征夷大将軍の末裔である愛姫を上座に座らせる、という政宗が東北の歴史を重んじたいい話だけど
あえて江戸で流布させてる意図は征夷大将軍というフィルターを通して徳川将軍へのパフォーマンスとも言える
田村男猿と忠宗のいい話もあとあと奥浄瑠璃のネタに使われてる

筆の初めという意味で

2019年10月17日 18:15

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/15(火) 10:53:53.87 ID:lRr5lqDI
丸森町の筆甫地区って政宗が検地の最初に書くから筆の初めという意味で
筆甫にしてるいい話あるやんけ。
地名残すも大事よ

SnapCrab_No-1740.jpg



政宗最後の日光参拝

2019年09月05日 17:29

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/04(水) 22:33:31.12 ID:Pdzgd4fV
寛永十三年(1636)四月二十五日、六十八歳の伊達政宗は体調の不調をおしての、最後の江戸参府となる途、
政宗の希望にて日光東照宮を参拝する。
将軍徳川家光もこの情報を得ており、旗本・伊丹播磨守(康勝)にその案内を命じていた。
折しも二十五日は公家門跡衆御社参の日でも有り、そのもてなしのため四座の申楽による御能が、本堂の前に
敷舞台を拵え行われていた。

拝殿への参拝が終わると、政宗は伊丹播磨守により奥の院へと案内された。拝殿より左、五十四、五段の
石段を四回、三十七、八段の石段を三回上ると奥の院と成る。
政宗は最後の階段の、奥の院本堂まで後一段という所で転倒した。長袴のくくりの糸が緩み、足に
まとわりついたためだという。政宗が倒れようとした瞬間、右に伺候していた山路八兵衛、先に立つ形で
左に伺候していた青木忠五郎、そして後ろについて政宗の腰を抱えていた木村宇右衛門(この覚書の作者)が
とっさに政宗の体を支えた。このため大きな怪我はなかったが、左手の親指を石に少し擦り、少々出血した。
(御左の御手の大ゆびのふしを石にて少すらせ給ひてち少出る)

政宗は左手親指の血を懐紙にて拭き取りつつ、伊丹播磨守へここまでの案内に礼を述べ
「公方様(家光)への礼は改めて述べよう、あなたは先に御下向あるべし、我等は心静かに拝し、その上で
下向する。」と言い、伊丹を先に退出させた。

すると政宗は、負傷した指を包ませ、何ともなく四方を眺めながら、こう語った

「御本堂にあがり拝し奉るには及ばない。ここで戻ろう。倒れるはずのない場所で倒れたこと、
指より血が出て汚らわしいこと、日光に参るのもここまであるという、お告げなのだろう」
(御本堂へあがり拝し奉るにおよばず。是より御下向あるべし。たをれまじき所にてたをるる事、
ゆびよりち出てけがらはしき事、日光へも是ばかり参れとある御つげと見えたり。)

こう言うと、政宗は「はらはらと御落涙あそばし」、御暇乞いであるとして、三拝して下向された。

木村宇右衛門覚書)

伊達政宗の最後の日光参拝についての記録である。



179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 08:35:20.55 ID:j+ZEv0M3
>>178
老いてなおかっこいい…

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 08:51:04.22 ID:lXh1fFMP
政宗無駄にプライド高いからな

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 15:25:38.19 ID:VP8PoBEg
政宗の男振りは老いて尚健在なのか
現代の老害達にも見習ってほしい

愛姫、服を仕立てる

2019年08月23日 15:21

愛姫   
152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/23(金) 01:26:55.82 ID:6jODTXIu
奥方(伊達政宗正室・愛姫)は常に儀式を正しく守ろうとされ、毎年正月、五月、九月にはおびただしい
服を仕立てられた、正月は晴れ着、五月九月は衣替えのためのものである。
公方様へ献上する服をはじめ、様々な方面に進上するための服は数え切れないほどであった。

この衣服を仕立てるため、御縫い物座敷では、左側は一通り表側を縫う衆(ひだり一とをりはおもてをぬい候衆)、
右側は一通り裏側を縫う衆(みぎ一とをりはうらをぬふ)、中央は綿を入れる衆(中とをりにてはわたを入のしたたむ)、
縁側はお召のものを縫う衆(えんがはにては御めしの物ぬいしゅ)と別れていた。
そして奥方は禿衆(近侍する少女たち)を相手に、お一人で布の裁断をして、それをご自身で縫製方に配られた
(おもてうら御一人にてたたせ給ふて、御自身さしくばらせ)。

この事は、ひとえにご恩返しとしての行為であった(是ひとへに御をんをくりなり)。

木村宇右衛門覚書)

伊達者として名高い伊達政宗の装束ですが、これらの多くを正妻の愛姫が主催する工房で自ら作ってたらしい、
というお話。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/23(金) 19:00:53.47 ID:K4Bqm8HE
滅亡した後の大友家の姫(実際は志賀家)が長崎で養蚕を教えて桑姫として名を残したりしてるし
姫というだけあって教養や手に職を持ってるんだな

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0904/index3.html

人々御固浅まに候得は気違物にて候

2019年07月25日 18:29

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 18:23:13.15 ID:u1VAFNKy
正宗(伊達政宗)御死去の前、大献院様(徳川家光)が御成りになった。仰せには、御若年では
あるが天下の為になる事を何ぞ申し上げよ、とのことであった。

その時に正宗は、「御政道について申し上げるべき事は毛頭ございません。憚りながら、御旅行
の時に御宿陣を、非常に御用心仰せ付けなさるようにと存じ奉ります。人々の御固めが浅いよう
では気違うものです」と、申し上げなさったという。

(御宿陣を随分御用心被仰付候様にと奉存候人々御固浅まに候得は気違物にて候(注釈:本マヽ)
と被申上候由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 08:45:48.13 ID:TiDSc5n9
>>113
常在戦場っぽくていいなぁw

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 09:54:37.73 ID:wvtnv1Jv
まあ当然だよね
ゆるくしてたら民の気までゆるんで言う事聞かなくなる

脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹

2019年07月24日 16:32

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 01:11:16.70 ID:qdiUyKEx
ある時、正宗(伊達政宗)は御夜話に登城し御酒宴は長くなったところ、正宗が御見え
申さぬので(徳川家光は)「また外したか」と仰せになった。

しかし、御次の間に脇差があったので退出仕ってはいまいとのことで、所々を探したが
見え申さず、中の御門へ聞きに遣わした。すると、とっくに退出したとの趣を言上した
ので脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹だったので御笑い遊ばされたという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



政宗「さてさて珍しきなり!紅の肩衣というものは」

2019年07月17日 15:37

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 20:50:33.27 ID:3XPLdlvt
松平陸奥守様(伊達政宗)は御合口(相手として調子のあうこと)で不意に登城し、御夜話にも
御出仕した。

ある時に御前約で出仕し、正宗は異風を好んだのでいずれも替わり装束であったという。忠秋公
阿部忠秋)も紅茶裏の御上下を召しなされた。そんな折に、正宗は御酒宴中に御次に御立ちに
なったところ、忠秋公を見なさって、

「さてさて珍しきなり! 紅の袴を着ることは往古ありきたりではあるが、紅の肩衣というもの
はこの歳まで見たことがない! 初めて一覧した!」との由で、かように興じ申されたという。
その時、忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。

(原注:正宗は曲者で諸人を嘲り、その上に唾吐きを仕掛け申されたという。向かい仕る兼松某
若松又七郎か)と申す方は唾を吐き掛けられ、堪忍なりがたく扇子で正宗の顔を強かに打った
という。その時、正宗は「堪忍堪忍!」と申され、「殊勝な若者かな!」と笑い申されたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

参考
小姓衆まで裸で御給仕致した


267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 22:08:15.99 ID:+SP1oFkm
>>266
あやうく刃傷沙汰じゃねーかw

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 22:36:46.11 ID:tH1GGutY
政宗もう60くらいだろ
いいかげん落ち着け

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 23:52:24.77 ID:G0uW+Lhr
つまり血の気からやっていた事ではなく単に面白そうだからとかカッとなったとかそんな理由ということなのか
自制心が弱くなるから年とった方がむしろヤバくなる人間

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 07:06:41.88 ID:Ga9W4yxv
政宗はよくも暗殺されなかったレベル。なかには親の敵と勘違いされて斬られてしまった人もいるのに

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 08:23:52.41 ID:THuUE6L7
>>266
>忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。
煽られてプルプルしてるAAが思い浮かんだw

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 09:05:06.66 ID:jCJ77sYW
かの名老中、阿部忠秋をここまで激怒させる腐れ爺…。
阿部忠秋じゃなければ、切り捨てていたんじゃないか?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 15:27:54.93 ID:ZijLCe+2
辱めを受けた御家人の岩松又七郎は扇子で頬先を殴り正宗に褒められたそうな
そして主人を守らなかった側にいた小姓を正宗は切腹させた

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 15:37:43.86 ID:nRszZZgX
葉隠だと若松又七郎になってるけどどうも兼松正尾という人みたいだね

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 08:37:42.59 ID:5gA42Ipr
>>273
ひどすぎる

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 02:24:54.45 ID:z7/Ij/C3
政宗は酒が入るとやらかして後になって謝罪の書状を送ったりしてるからなw

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 11:41:02.99 ID:o6qNcdqI
(`●∀・)まあ俺という存在そのものがやらかしみたいなもんだしな

伊達の子息は太郎信勝と同年である。これは不思議なり

2019年06月23日 16:46

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 01:25:56.85 ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。

しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。

子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。

(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)

そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)

また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。

(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。

(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)

後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 07:58:39.53 ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 13:09:15.22 ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで

【ニュース】政宗と有楽斎、親密な証し

2019年03月21日 18:03

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 17:57:21.50 ID:nRNRXshP
政宗と有楽斎、親密な証し 河北・永昌寺所有、2人交わした書状と判明 山形新聞2019年03月20日

河北町の永昌寺(布川昱哉(いくや)住職)が所有する仙台藩主・伊達政宗の書状が、織田信長の弟で茶人の
有楽斎(うらくさい)に宛てた物と判明した。政宗と有楽斎が交わした書状は全国で2通発見されており、これで
3通目となる。解読した鈴木勲町郷土史研究会長は「2人の親密な関係が伝わる貴重な史料だ」とし、その価値を
県内外に広めたいと話している。

書状は布川住職が主催する茶会の掛け軸として、約20年前に東京美術クラブで手に入れた。政宗が書いた物だと
いうことは分かったが、宛先や内容が分からなかったため、長らく押し入れにしまっていた。
昨年末に鈴木会長が寺を訪れた際に、布川住職が解読を依頼。宛名や特徴的な花押などが手掛かりとなり、政宗から
有楽斎に宛てた手紙だと分かった。入間田宣夫東北大名誉教授(日本中世史)にも鑑定を依頼し、本物とのお墨付きを得た。

書状は縦約32センチ、横約41センチ。「羽越前正宗(政宗)」とあることから、1591(天正19)年~1602(慶長7)年の6月に書かれた物とみられる。
内容は有楽斎が政宗の元を雨の中訪れたことへのお礼で、政宗は書家としても知られ、流れるような筆跡からは趣が感じられる。


伊達政宗の書状 解読文】
            外不申候
             かしく

即御撚、却而御隔心之至候
 (手紙を頂いたが、かえってもどかしく思う)

誠ニ今日者、御出雨中と申
 (そう思っていたところ、きょうは雨の中おいでいただき)

何之興無之候処、緩々と御
 (何のお構いもできなかったが、ゆっくり打ち解けて話ができてとても良かった)

咄候而、外実共辱次第、書餘以
 (書面に書けなかったことは)

拝面御礼可申候、恐惶謹言
 (直接お会いしてお礼申し上げたい)

林鐘廿日    〈花押〉

     (6月20日     政宗)

http://yamagata-np.jp/news/201903/20/kj_2019032000350.php?keyword=%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97

正宗と政宗の書き間違い、誤変換はよくあることですが
本人もそう書いてんならいくら間違っても許されるよね?

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 18:46:58.98 ID:nRNRXshP
署名の「羽」ってつい出羽の方かと思っちゃったけど、羽柴の方だったのね

>官位履歴[編集]
>天正19年(1591年)3月 - 侍従に遷任し、越前守を兼任。羽柴の苗字を関白豊臣秀吉から授かる[23]。
>慶長2年(1597年) - 従四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。越前守如元。
>慶長13年(1608年)1月 - 陸奥守を兼任。越前守任替。松平の苗字を第2代将軍徳川秀忠より授かる[39]。



ちなみに山形新聞のサイトはパソコンから閲覧すると無料ですが、スマホからだと登録制有料になるという仕組みなんでご注意を



738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 21:12:05.59 ID:v8i+Zr09
政宗が他の大名から「政宗なら正宗の脇差持ってるよな?」とからかわれて
正宗じゃない刀を正宗てことにして脇差にするために削った話を思い出した

この時の政宗の行装美麗を尽くし

2019年03月18日 17:35

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/18(月) 08:34:58.63 ID:hnlS8kPs
寛永三年、台徳院様(徳川秀忠)御上洛の時、伊達政宗の従僕たちは美々しき衣類を着ており、
この時都に集まった諸国の人々と非常に違っていたため、当時、風流の人を見ると『伊達者』と
言い習わしたという。

この時の政宗の行装美麗を尽くし、真紅の糸を以て馬轡を作ったという。これにてその他も
推して知るべし。

(安斉随筆)

江戸時代から、伊達者の政宗語源説あったのね。



政宗が無理に取ってしまいました

2019年02月07日 09:40

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/02/07(木) 00:59:18.95 ID:3cF+4286
元和六年二月五日付
長舟十右衛門宛 細川忠利書状より

吉田にていただいた水差しですが、政宗(原文ママ)が無理に取ってしまいました。
不便で迷惑しております。
もし国産の水差しができましたら、一ついただきたく思います。
いつもいただいている御道具で数寄を嗜むことができ、忝いことです。

伊達政宗細川忠利から水差しを奪っていたという話。



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 05:35:29.89 ID:RuVOwh95
呼び捨てw

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 14:25:34.01 ID:lGDi4mrv
>>725
ワロタw

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 10:11:00.86 ID:JqmSKtn5
DQN四天王迷惑w

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 10:27:57.27 ID:daUYsr3e
中に小便を入れて返すまでがデフォ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 12:04:18.83 ID:CuHW1AF+
>>725
こいついつも人の物パクってんな
732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 23:42:54.67 ID:WGPZr6ec

>>725
ここは喧嘩両成敗ということで半分にして双方で持とう

慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰

2018年12月31日 17:59

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 05:28:17.14 ID:tCCcIX7y
慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰

広大な世界における御親、五番目のはつは はうろ様(パウロ5世)の御足を、日本における
奥州の屋形、伊達政宗、謹んで吸い奉り申し上げ候。

我が国においてサン・フランシスコの御門派の伴天連、フライ、ルイス、ソテロが、貴きデウスの御法を広めに
御越しの時、我らの所に御見舞にこられました。その口よりキリシタンの様子、何れからもデウスの御法の事を
承りました。それについて思案するほど、殊勝なる御事、真の御定めの道であると存じました。
それに従って、キリシタンになりたいと考えましたが、現在それは仔細あって、未だ成せない状況です。
ではありますが、私の分国中おしなべて下々までキリシタンに改宗するよう勧めたく、このために
サン・フランシスコの御門派の内に、わうせれはんしゃ(オブセルバンシャ:サン・フランシスコ派の一派)の
伴天連衆が御渡り下されます事が、何様にも殊勝大切と存じます。その伴天連衆には、万事に付、許認可の
権限を許されて派遣して下さい。彼等には我ら自身が寺を建て、万事に付き御馳走申します。

我が国の内において、貴きデウスの御法を御ひろめに成るためには、そうすることが良いと考えられる程の
事は、相定め預かるため、別して大いなる司(大司教)をお一人定めて下さりますように。そのように
いたせば、直ぐにでも皆々キリシタンに罷り成ること確実と考えます。
我々は如何様な申し出でも承りますので、御合力の事は少しもお気遣い無いように。これについては、
我々の存念は、このフライ、ルイス、ソテロ等が存じておりますので、それを貴老様(パウロ5世)御前にて
申すことを頼み入り、我々の使者として定め、渡海しました。彼等の言うことをお聞きになりますように。

このフライ、ソテロ等に差し添えて、我が家の侍である支倉六右衛門尉(常長)と申す者を、同使者として
遣わせました。私の名代としての御従いの印、御足を吸い奉る為に、ローマまで進上しました。
この伴天連ソテロ、途中の路にて突然果てても、ソテロが申し置いた伴天連を、同じように我々の使者と
思し召され派遣して下さい。
私の国とエスパーニャ(スペイン)の間は近国でありますから、今後エスパーニャの大皇帝とん・ひりつへ様
(フェリペ3世)と話し合い、その調整をして下してください。伴天連衆の渡海が成るよう、頼み奉ります。

なお、私の事については、貴きデウス天道の御前において、御内証にされますよう頼み入ります。なお
この国において如何様の御用であっても仰せ付けて下さい。随分に御奉公申し上げます。
そしてこればかりではありますが、日本の道具を恐れながら進上仕ります。なおこの伴天連、フライ、
ルイス、ソテロ及び六右衛門尉が口上にて申し上げます。その口上次第に成ります。
早々恐れ入り候。誠恐誠惶、敬白

                    伊達陸奥守(花押)
   慶長十八年九月四日             政宗(印)


伊達政宗、慶長六年(1601)四月二十一日付書条

2018年12月21日 22:38

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/21(金) 08:42:56.71 ID:c/bw3w7S
伊達政宗の有名な書条訳してみた

伊達政宗より今井宗薰に與へたる書(慶長六年(1601)四月廿一日)

 追って飛脚にて申し上げます。さて庄内についてですが、昨冬最上に加勢した時、庄内衆も打ち出たのを、谷地と申す所に
庄内の城主取り籠め、命ばかりの体となり、懇望し、罷り出たため、庄の城も明け渡しました。しかる所に、川北に東禅寺と申す
城持ちがあり(志駄義秀)、これと交戦するため城を囲みましたが、かねてから最上の衆が少々遣わされており、合戦に及ばず
明け渡し、これによって庄内は悉く平定されました。
一昨日は山形より修理殿(最上義康)の飛札を預かりました。修理殿が今回のことで熱心に働かれた事、一方ならぬものでした。
この事は報告されるべきだと思います。

 このように庄内が平定されたのも、去る冬に我々が最上に加勢し、庄内城主のしも(下秀久)と申す者を押さえて置いた故です。
また修理殿の働きの顕れでもあります。それぞれの人々に詳しく伝えてはおりませんので、貴老より物語頂けますように。
出羽守(最上義光)の時代では中々このようにはかばかしくは行きませんでした。不思議なことです。

一、伏見に皆々お越しに成ったとのこと、珍重です。この上は大坂の御用心こそ重要だと、私は考えています。
  直接には(家康は)どのようにお考えに成っているのか、本多正信などにも良き折にお尋ねください。
一、とにかく私の願いは、秀頼様が幼少の間は、江戸か、もしくは伏見でも、内府様(家康)のお側でしっかりと置き、
   大人らしく御成人されたなら、その時はいかようにも内府様御分別次第に御取立もなされば良いという事です。
   又、いかに太閤様御子だといっても、日本の統治を行えるような人物で無いと内府様が判断されれば、二、三カ国を
   与えるに留めるべきです。秀頼様の今後の進退を長々と放置していては良くありません。
   今のように大坂にぶらりと置いておけば、時分によって世を乱そうとする者が出てきて、秀頼様をその盟主とし、
   謀反など起こすでしょう。それ故に何も知らぬ秀頼様を切腹させることに成れば、太閤様の亡魂の為にも、
   悪しきことと存じます。
一、私としては、さしあたってこの意見だけでも申し上げたく、第一秀頼様の為でもあると考えています。本多正信などに、
   戯言のようにでも、是非お話下さい、
一、大納言様(徳川秀忠)が江戸に下向されるのを待っています。
一、伏見に女房たちが早々に越してくるようにと、両人の所に申し遣わしました。それについて萬々御意見を頂けますように。
一、五月五日の帷子など、進上して頂けますように。各々へも進上するようにと申し遣わしました。

 丁度今、馬の調練をしてきたため、どうにも手が震え非常に読み辛い文章になってしまいました。どうか他見されませんように。
 恐惶謹言

 四月二十一日           政宗(花押)
   宗薰老へ(河内觀心寺藏)



591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 13:30:51.71 ID:4szgCXxf
>>584
慶長出羽合戦のあとか東北の人は長距離移動してて大変だな
今井宗薫はなぜそんなに政宗に片入りしてたのかね

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 14:52:36.78 ID:Os2XX0rx
>>584
これと同じ日の1601年4月21日付今井宗薫伊達政宗書状がもう一通あるよね
そっちでは政宗が諸大名の妻子は江戸に住まわせるべき
箱根や足柄に番所を置けばさしずめ広い籠の中にいるみたいなものだ
手始めに私から妻子を江戸に送りましょうかなんて言ってる

ニュース【ミス・ワールド日本代表に伊達政宗直系21代目の伊達佳内子さん】

2018年08月29日 18:58

233 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/28(火) 22:11:02.89 ID:EvVT2odV
ニュース【ミス・ワールド日本代表に伊達政宗直系21代目の伊達佳内子さん】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00000036-tospoweb-ent


自分に政宗の血が通っている部分については「負けず嫌いなことと、眉毛が太いことでしょうか」

「負けず嫌い、眉毛が太い」
「負けず嫌い、眉毛が太い」
「負けず嫌い、眉毛が太い」



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 23:17:27.94 ID:0m4UqgFR
>>233
この娘さんに「寝るから起こすな」と言われたのに起こしたりすると
寝起きが悪くて刀片手に追いかけ回されたりするのかな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 00:19:31.10 ID:j2Tx7DuF
>>233
父系だと空気な加藤さん、母系で政宗に繋がるけれど十数代目・・・
父親の名前だけを頼りにした調査が正確ならこの結果

まぁ江戸期以降の名家には違いないけれど

伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

2018年08月05日 18:06

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 21:46:26.95 ID:c/zRkiu+
伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

伊達政宗は能士を持たれた人である。浜田治部は武功ある者であった。政宗が会津表へ出陣なさった時、
家康公より御使者をもって「早く会津表を引き払い、岩手沢へ帰陣されよ」と御指示があったので、

政宗は家老の片倉備中(景綱)を呼び、「白石城を攻め落としていながら捨て退くのもいかがなものか。
かといって城代を残し置くのも危うい。どうしたものか」と仰せになった。

これに片倉が「近ごろ、白石城に置かれている浜田治部を召して城代を仰せつけると良いでしょう」と
申したことにより、政宗が「浜田を呼び出して言い渡せ」と仰せになったので、片倉は畏まって治部に

言い渡され「白石城において貴辺の武功が優れていることにより、かの城に留め置かれることになった。
此度、内府公の御下知により岩手沢へ御引き取りなさるようにと議定された。これによって白石城を

捨て置くのも口惜しき御事なれば某に守らせるべきかといえども、諸事を御相談のうえで某は召し置かれ
がたいとの仰せである。そこで、御辺をかの城に留め置かれるとの御内談である。望み申す輩も多き中で
御辺がこの城に留まることは武士の本意であろう」

と片倉は浜田に申された。この時、政宗も「近頃の無理な所望ではあるが、他に残し置くべき者もいない
ので其の方が白石の城番を勤めてくれよ」と申された。治部はこれを承るも、「人多き中で若輩の某を

召しなさり、敵地に残し置かれるとは冥加に叶ったことではございますが、もとより不肖の某ですから
どうか功者を残しなさって、某はその指図を受けて城を守り申したく存じます」と言った。

しかし、政宗も片倉も同音に「ただ其の方一人しか留まるべき者はいない」とのことだったので、治部は

「このうえは仰せに任せます。敵がもし攻め掛かってきたなら突き出て討死するか腹を切るまでのこと。
何よりも易きことでございます。このどちらも苦しからぬことですから畏まり申した」と、申し上げた。

政宗は聞きも終わらぬうちに「突き出るのは謀のないようなものだ。堅固に城を持ち抱えて叶わなければ
腹を切ってくれよ。三日籠城してくれれば私が後詰する。愛宕八幡も照覧あれ、見殺しはしない」

と仰せになった。治部はまた返答申して、「某を救うために御出馬されれば内府と御誓約を違えましょう。
ただ御捨て殺しくださるとのことならば御受け申し上げます」と言った。

これに片倉備中が聞きも終わらぬうちに、「そちはそち、殿は殿の勤めをなさることだ」(そちはそち、
殿は殿の勤め有べし)と言うと、浜田は了承して退出したということである。

――『日本戦史 関原役補伝(校合雑記)』


セキレイの目

2018年06月13日 17:53

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 16:12:05.73 ID:jXBncqBZ
葛西大崎一揆が終結すると、蒲生氏郷は二本松城へと帰陣した。ここで秀吉より派遣された
浅野長政と対面した。長政は「今回の働きは大変な誉れでした」と氏郷を讃え、今後のことを
相談し、先ずは伊達政宗より取った人質を連れて上洛し、今回の事態に至った経過を申し上げると
決まった。去年のうちに出した飛脚も京都に到着し、豊臣秀吉は浅野に加えて石田三成をも
会津に下すとの事であった。

このような所に、何を思ったのか伊達政宗が「私もあなた方と相伴して上洛したい」との旨を
二本松に伝えてきた。両人は「一段然るべし」とこれを許諾し、先に浅野長政が出立し、
その次に伊達政宗が立った。氏郷は「この上は必要ない」と、政宗からの人質を返した。

しかしこの時の政宗の風情は聞くも恐ろしいものであった。死に装束の出で立ちで、金箔を貼った
磔ものの杭を馬の先に持たせて上洛したのだという。

政宗の後に氏郷も出立し、上洛すると秀吉の御前にて一揆の様子を順々に申し上げ、並びに
政宗の家来であった山戸田八兵衛、牛越宗兵衛が持参した、葛西大崎一揆を政宗が扇動した
証拠となる證文を渡した。
秀吉は氏郷に「今度の手柄に勝ることはない」と激賞し、「こんな事があるかも知れないと思って、
御辺を名代として会津に置いたのだ。」と語りかけた。

その後、政宗への尋問が行われたが、政宗は
「今度逆心を起こした山戸田、牛越と申す者たちは、彼らが幼少の頃より身近くにあり、
また祐筆も申し付けていたので、今回は私への恨みのままに、偽判をしてしまったのでしょう。」
り申し上げた。これを聞いた人々はみな「嘘くさい言い分だ(実しからぬ云分かな)」と言ったが、
政宗は
「疑われるのなら、その判を御見せ候へ」
と請うてこれを見ると

「さてこそ、これは偽判です。私の判は、セキレイの形を模しておりますが、これには、その目が
ありません。本物の判には目が付いています!」

そう陳述した。これにより秀吉は、諸大名小名を詮索し政宗の書状を取り寄せたが、それらには全て、
確かに目が付いていた。
伊達政宗の謀は非常に奥深いものだと感じられた。

これによって言い分が一つ立ち、また秀吉としても、政宗がこのように京都にいる以上
おかしな動きはできないと、再び柔和を加えて、政宗は京都に押し止め、長く在京させたのである。

(氏鄕記)

有名な「セキレイの目」の逸話



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 17:08:15.98 ID:NO0axVvC
一応、言い訳はできたけど、信用はされなかったわけね。政宗自身が人質になったようなものか。
しかし、よく取り潰しにならなかったなあ。もっと薄弱な理由で改易された大名は多かろうに。
秀吉を機嫌よくすれば勝ちなのだろうか。

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:37:04.33 ID:EXL6zAuI
その後、ラスボスのお気に入りになったからな。なにかを感じたんだろうw

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:49:34.96 ID:9Iw3leKK
伊達家潰して新たな騒動の火種を作るより火中の栗を拾わせたほうがマシってことじゃね

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:59:59.61 ID:TpbmBOju
>>856
お気に入りと言っても、減封の上さらに僻地に転封し、その上、中央の政局には一切関わらせないようにしたわけで。

関ヶ原まではプライベートで叫んでいるだけの存在。

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 20:28:35.17 ID:EXL6zAuI
東北勢みんなそうやろ。

給人衆頭の討ち死に

2018年01月17日 16:18

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 03:14:57.92 ID:eUuC9HcM
大阪での合戦の折、伊達政宗の配下において、給人衆百人の頭である草刈源内秋保掃部という者たち
両人が討ち死にに及んだ。

帰陣後政宗は、この事に憤慨した
「給人衆の内、頭両人を討たせて、組の者が一人も損なわれなかったというのは、組の奴原が
不覚と言うべきである!百人とも今後の見せしめとして、皆殺しにせよ!」

この時、「両人の討ち死には私の責任です」と、給人衆の内の、丹野善右衛門が申し出た。
彼はこのように言った

「川向うに味方の備があったのを、源内が敵と思って攻めかかりました。
私は給人衆の組頭ですが、彼にこう言いました。『和殿は何に目がくらんで、味方を敵と見間違えるか』
そうあざ笑ったため、源内は怒り私を斬りつけようとしたのを、秋保が身を乗り出し、
間に入って二人を隔てたため事なきを得ました。

しかしこれによって心が急いてしまったのでしょう、源内は無二に敵陣に乗り込み、討ち死にをしました。
秋保も続いて乗り込み、討たれました。

この事は私の誤りのためですから、皆の代わりに私一人を罪科に処せられるべきです。」

これを聞いて政宗は、百人の罪を許した。
しかし政宗は一生、城下のうち給人衆の住む街を通ることをせず
「不義非道の奴原にて、主人頭を見殺したのだ!」
そう憎んだという。

給人衆とは伊達家の言葉で、他家でいう足軽の類の事である。

(士談)



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 07:20:49.18 ID:cwSBNEqI
大人になったな、政宗