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政宗「さてさて珍しきなり!紅の肩衣というものは」

2019年07月17日 15:37

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 20:50:33.27 ID:3XPLdlvt
松平陸奥守様(伊達政宗)は御合口(相手として調子のあうこと)で不意に登城し、御夜話にも
御出仕した。

ある時に御前約で出仕し、正宗は異風を好んだのでいずれも替わり装束であったという。忠秋公
阿部忠秋)も紅茶裏の御上下を召しなされた。そんな折に、正宗は御酒宴中に御次に御立ちに
なったところ、忠秋公を見なさって、

「さてさて珍しきなり! 紅の袴を着ることは往古ありきたりではあるが、紅の肩衣というもの
はこの歳まで見たことがない! 初めて一覧した!」との由で、かように興じ申されたという。
その時、忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。

(原注:正宗は曲者で諸人を嘲り、その上に唾吐きを仕掛け申されたという。向かい仕る兼松某
若松又七郎か)と申す方は唾を吐き掛けられ、堪忍なりがたく扇子で正宗の顔を強かに打った
という。その時、正宗は「堪忍堪忍!」と申され、「殊勝な若者かな!」と笑い申されたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 22:08:15.99 ID:+SP1oFkm
>>266
あやうく刃傷沙汰じゃねーかw

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 22:36:46.11 ID:tH1GGutY
政宗もう60くらいだろ
いいかげん落ち着け

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 23:52:24.77 ID:G0uW+Lhr
つまり血の気からやっていた事ではなく単に面白そうだからとかカッとなったとかそんな理由ということなのか
自制心が弱くなるから年とった方がむしろヤバくなる人間

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 07:06:41.88 ID:Ga9W4yxv
政宗はよくも暗殺されなかったレベル。なかには親の敵と勘違いされて斬られてしまった人もいるのに

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 08:23:52.41 ID:THuUE6L7
>>266
>忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。
煽られてプルプルしてるAAが思い浮かんだw

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 09:05:06.66 ID:jCJ77sYW
かの名老中、阿部忠秋をここまで激怒させる腐れ爺…。
阿部忠秋じゃなければ、切り捨てていたんじゃないか?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 15:27:54.93 ID:ZijLCe+2
辱めを受けた御家人の岩松又七郎は扇子で頬先を殴り正宗に褒められたそうな
そして主人を守らなかった側にいた小姓を正宗は切腹させた

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 15:37:43.86 ID:nRszZZgX
葉隠だと若松又七郎になってるけどどうも兼松正尾という人みたいだね

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 08:37:42.59 ID:5gA42Ipr
>>273
ひどすぎる

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 02:24:54.45 ID:z7/Ij/C3
政宗は酒が入るとやらかして後になって謝罪の書状を送ったりしてるからなw

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 11:41:02.99 ID:o6qNcdqI
(`●∀・)まあ俺という存在そのものがやらかしみたいなもんだしな
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伊達の子息は太郎信勝と同年である。これは不思議なり

2019年06月23日 16:46

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 01:25:56.85 ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。

しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。

子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。

(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)

そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)

また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。

(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。

(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)

後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 07:58:39.53 ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 13:09:15.22 ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで

【ニュース】政宗と有楽斎、親密な証し

2019年03月21日 18:03

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 17:57:21.50 ID:nRNRXshP
政宗と有楽斎、親密な証し 河北・永昌寺所有、2人交わした書状と判明 山形新聞2019年03月20日

河北町の永昌寺(布川昱哉(いくや)住職)が所有する仙台藩主・伊達政宗の書状が、織田信長の弟で茶人の
有楽斎(うらくさい)に宛てた物と判明した。政宗と有楽斎が交わした書状は全国で2通発見されており、これで
3通目となる。解読した鈴木勲町郷土史研究会長は「2人の親密な関係が伝わる貴重な史料だ」とし、その価値を
県内外に広めたいと話している。

書状は布川住職が主催する茶会の掛け軸として、約20年前に東京美術クラブで手に入れた。政宗が書いた物だと
いうことは分かったが、宛先や内容が分からなかったため、長らく押し入れにしまっていた。
昨年末に鈴木会長が寺を訪れた際に、布川住職が解読を依頼。宛名や特徴的な花押などが手掛かりとなり、政宗から
有楽斎に宛てた手紙だと分かった。入間田宣夫東北大名誉教授(日本中世史)にも鑑定を依頼し、本物とのお墨付きを得た。

書状は縦約32センチ、横約41センチ。「羽越前正宗(政宗)」とあることから、1591(天正19)年~1602(慶長7)年の6月に書かれた物とみられる。
内容は有楽斎が政宗の元を雨の中訪れたことへのお礼で、政宗は書家としても知られ、流れるような筆跡からは趣が感じられる。


伊達政宗の書状 解読文】
            外不申候
             かしく

即御撚、却而御隔心之至候
 (手紙を頂いたが、かえってもどかしく思う)

誠ニ今日者、御出雨中と申
 (そう思っていたところ、きょうは雨の中おいでいただき)

何之興無之候処、緩々と御
 (何のお構いもできなかったが、ゆっくり打ち解けて話ができてとても良かった)

咄候而、外実共辱次第、書餘以
 (書面に書けなかったことは)

拝面御礼可申候、恐惶謹言
 (直接お会いしてお礼申し上げたい)

林鐘廿日    〈花押〉

     (6月20日     政宗)

http://yamagata-np.jp/news/201903/20/kj_2019032000350.php?keyword=%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97

正宗と政宗の書き間違い、誤変換はよくあることですが
本人もそう書いてんならいくら間違っても許されるよね?

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 18:46:58.98 ID:nRNRXshP
署名の「羽」ってつい出羽の方かと思っちゃったけど、羽柴の方だったのね

>官位履歴[編集]
>天正19年(1591年)3月 - 侍従に遷任し、越前守を兼任。羽柴の苗字を関白豊臣秀吉から授かる[23]。
>慶長2年(1597年) - 従四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。越前守如元。
>慶長13年(1608年)1月 - 陸奥守を兼任。越前守任替。松平の苗字を第2代将軍徳川秀忠より授かる[39]。



ちなみに山形新聞のサイトはパソコンから閲覧すると無料ですが、スマホからだと登録制有料になるという仕組みなんでご注意を



738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 21:12:05.59 ID:v8i+Zr09
政宗が他の大名から「政宗なら正宗の脇差持ってるよな?」とからかわれて
正宗じゃない刀を正宗てことにして脇差にするために削った話を思い出した

この時の政宗の行装美麗を尽くし

2019年03月18日 17:35

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/18(月) 08:34:58.63 ID:hnlS8kPs
寛永三年、台徳院様(徳川秀忠)御上洛の時、伊達政宗の従僕たちは美々しき衣類を着ており、
この時都に集まった諸国の人々と非常に違っていたため、当時、風流の人を見ると『伊達者』と
言い習わしたという。

この時の政宗の行装美麗を尽くし、真紅の糸を以て馬轡を作ったという。これにてその他も
推して知るべし。

(安斉随筆)

江戸時代から、伊達者の政宗語源説あったのね。



政宗が無理に取ってしまいました

2019年02月07日 09:40

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/02/07(木) 00:59:18.95 ID:3cF+4286
元和六年二月五日付
長舟十右衛門宛 細川忠利書状より

吉田にていただいた水差しですが、政宗(原文ママ)が無理に取ってしまいました。
不便で迷惑しております。
もし国産の水差しができましたら、一ついただきたく思います。
いつもいただいている御道具で数寄を嗜むことができ、忝いことです。

伊達政宗細川忠利から水差しを奪っていたという話。



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 05:35:29.89 ID:RuVOwh95
呼び捨てw

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 14:25:34.01 ID:lGDi4mrv
>>725
ワロタw

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 10:11:00.86 ID:JqmSKtn5
DQN四天王迷惑w

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 10:27:57.27 ID:daUYsr3e
中に小便を入れて返すまでがデフォ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 12:04:18.83 ID:CuHW1AF+
>>725
こいついつも人の物パクってんな
732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 23:42:54.67 ID:WGPZr6ec

>>725
ここは喧嘩両成敗ということで半分にして双方で持とう

慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰

2018年12月31日 17:59

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 05:28:17.14 ID:tCCcIX7y
慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰

広大な世界における御親、五番目のはつは はうろ様(パウロ5世)の御足を、日本における
奥州の屋形、伊達政宗、謹んで吸い奉り申し上げ候。

我が国においてサン・フランシスコの御門派の伴天連、フライ、ルイス、ソテロが、貴きデウスの御法を広めに
御越しの時、我らの所に御見舞にこられました。その口よりキリシタンの様子、何れからもデウスの御法の事を
承りました。それについて思案するほど、殊勝なる御事、真の御定めの道であると存じました。
それに従って、キリシタンになりたいと考えましたが、現在それは仔細あって、未だ成せない状況です。
ではありますが、私の分国中おしなべて下々までキリシタンに改宗するよう勧めたく、このために
サン・フランシスコの御門派の内に、わうせれはんしゃ(オブセルバンシャ:サン・フランシスコ派の一派)の
伴天連衆が御渡り下されます事が、何様にも殊勝大切と存じます。その伴天連衆には、万事に付、許認可の
権限を許されて派遣して下さい。彼等には我ら自身が寺を建て、万事に付き御馳走申します。

我が国の内において、貴きデウスの御法を御ひろめに成るためには、そうすることが良いと考えられる程の
事は、相定め預かるため、別して大いなる司(大司教)をお一人定めて下さりますように。そのように
いたせば、直ぐにでも皆々キリシタンに罷り成ること確実と考えます。
我々は如何様な申し出でも承りますので、御合力の事は少しもお気遣い無いように。これについては、
我々の存念は、このフライ、ルイス、ソテロ等が存じておりますので、それを貴老様(パウロ5世)御前にて
申すことを頼み入り、我々の使者として定め、渡海しました。彼等の言うことをお聞きになりますように。

このフライ、ソテロ等に差し添えて、我が家の侍である支倉六右衛門尉(常長)と申す者を、同使者として
遣わせました。私の名代としての御従いの印、御足を吸い奉る為に、ローマまで進上しました。
この伴天連ソテロ、途中の路にて突然果てても、ソテロが申し置いた伴天連を、同じように我々の使者と
思し召され派遣して下さい。
私の国とエスパーニャ(スペイン)の間は近国でありますから、今後エスパーニャの大皇帝とん・ひりつへ様
(フェリペ3世)と話し合い、その調整をして下してください。伴天連衆の渡海が成るよう、頼み奉ります。

なお、私の事については、貴きデウス天道の御前において、御内証にされますよう頼み入ります。なお
この国において如何様の御用であっても仰せ付けて下さい。随分に御奉公申し上げます。
そしてこればかりではありますが、日本の道具を恐れながら進上仕ります。なおこの伴天連、フライ、
ルイス、ソテロ及び六右衛門尉が口上にて申し上げます。その口上次第に成ります。
早々恐れ入り候。誠恐誠惶、敬白

                    伊達陸奥守(花押)
   慶長十八年九月四日             政宗(印)


伊達政宗、慶長六年(1601)四月二十一日付書条

2018年12月21日 22:38

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/21(金) 08:42:56.71 ID:c/bw3w7S
伊達政宗の有名な書条訳してみた

伊達政宗より今井宗薰に與へたる書(慶長六年(1601)四月廿一日)

 追って飛脚にて申し上げます。さて庄内についてですが、昨冬最上に加勢した時、庄内衆も打ち出たのを、谷地と申す所に
庄内の城主取り籠め、命ばかりの体となり、懇望し、罷り出たため、庄の城も明け渡しました。しかる所に、川北に東禅寺と申す
城持ちがあり(志駄義秀)、これと交戦するため城を囲みましたが、かねてから最上の衆が少々遣わされており、合戦に及ばず
明け渡し、これによって庄内は悉く平定されました。
一昨日は山形より修理殿(最上義康)の飛札を預かりました。修理殿が今回のことで熱心に働かれた事、一方ならぬものでした。
この事は報告されるべきだと思います。

 このように庄内が平定されたのも、去る冬に我々が最上に加勢し、庄内城主のしも(下秀久)と申す者を押さえて置いた故です。
また修理殿の働きの顕れでもあります。それぞれの人々に詳しく伝えてはおりませんので、貴老より物語頂けますように。
出羽守(最上義光)の時代では中々このようにはかばかしくは行きませんでした。不思議なことです。

一、伏見に皆々お越しに成ったとのこと、珍重です。この上は大坂の御用心こそ重要だと、私は考えています。
  直接には(家康は)どのようにお考えに成っているのか、本多正信などにも良き折にお尋ねください。
一、とにかく私の願いは、秀頼様が幼少の間は、江戸か、もしくは伏見でも、内府様(家康)のお側でしっかりと置き、
   大人らしく御成人されたなら、その時はいかようにも内府様御分別次第に御取立もなされば良いという事です。
   又、いかに太閤様御子だといっても、日本の統治を行えるような人物で無いと内府様が判断されれば、二、三カ国を
   与えるに留めるべきです。秀頼様の今後の進退を長々と放置していては良くありません。
   今のように大坂にぶらりと置いておけば、時分によって世を乱そうとする者が出てきて、秀頼様をその盟主とし、
   謀反など起こすでしょう。それ故に何も知らぬ秀頼様を切腹させることに成れば、太閤様の亡魂の為にも、
   悪しきことと存じます。
一、私としては、さしあたってこの意見だけでも申し上げたく、第一秀頼様の為でもあると考えています。本多正信などに、
   戯言のようにでも、是非お話下さい、
一、大納言様(徳川秀忠)が江戸に下向されるのを待っています。
一、伏見に女房たちが早々に越してくるようにと、両人の所に申し遣わしました。それについて萬々御意見を頂けますように。
一、五月五日の帷子など、進上して頂けますように。各々へも進上するようにと申し遣わしました。

 丁度今、馬の調練をしてきたため、どうにも手が震え非常に読み辛い文章になってしまいました。どうか他見されませんように。
 恐惶謹言

 四月二十一日           政宗(花押)
   宗薰老へ(河内觀心寺藏)



591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 13:30:51.71 ID:4szgCXxf
>>584
慶長出羽合戦のあとか東北の人は長距離移動してて大変だな
今井宗薫はなぜそんなに政宗に片入りしてたのかね

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 14:52:36.78 ID:Os2XX0rx
>>584
これと同じ日の1601年4月21日付今井宗薫伊達政宗書状がもう一通あるよね
そっちでは政宗が諸大名の妻子は江戸に住まわせるべき
箱根や足柄に番所を置けばさしずめ広い籠の中にいるみたいなものだ
手始めに私から妻子を江戸に送りましょうかなんて言ってる

ニュース【ミス・ワールド日本代表に伊達政宗直系21代目の伊達佳内子さん】

2018年08月29日 18:58

233 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/28(火) 22:11:02.89 ID:EvVT2odV
ニュース【ミス・ワールド日本代表に伊達政宗直系21代目の伊達佳内子さん】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00000036-tospoweb-ent


自分に政宗の血が通っている部分については「負けず嫌いなことと、眉毛が太いことでしょうか」

「負けず嫌い、眉毛が太い」
「負けず嫌い、眉毛が太い」
「負けず嫌い、眉毛が太い」



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 23:17:27.94 ID:0m4UqgFR
>>233
この娘さんに「寝るから起こすな」と言われたのに起こしたりすると
寝起きが悪くて刀片手に追いかけ回されたりするのかな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 00:19:31.10 ID:j2Tx7DuF
>>233
父系だと空気な加藤さん、母系で政宗に繋がるけれど十数代目・・・
父親の名前だけを頼りにした調査が正確ならこの結果

まぁ江戸期以降の名家には違いないけれど

伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

2018年08月05日 18:06

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 21:46:26.95 ID:c/zRkiu+
伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

伊達政宗は能士を持たれた人である。浜田治部は武功ある者であった。政宗が会津表へ出陣なさった時、
家康公より御使者をもって「早く会津表を引き払い、岩手沢へ帰陣されよ」と御指示があったので、

政宗は家老の片倉備中(景綱)を呼び、「白石城を攻め落としていながら捨て退くのもいかがなものか。
かといって城代を残し置くのも危うい。どうしたものか」と仰せになった。

これに片倉が「近ごろ、白石城に置かれている浜田治部を召して城代を仰せつけると良いでしょう」と
申したことにより、政宗が「浜田を呼び出して言い渡せ」と仰せになったので、片倉は畏まって治部に

言い渡され「白石城において貴辺の武功が優れていることにより、かの城に留め置かれることになった。
此度、内府公の御下知により岩手沢へ御引き取りなさるようにと議定された。これによって白石城を

捨て置くのも口惜しき御事なれば某に守らせるべきかといえども、諸事を御相談のうえで某は召し置かれ
がたいとの仰せである。そこで、御辺をかの城に留め置かれるとの御内談である。望み申す輩も多き中で
御辺がこの城に留まることは武士の本意であろう」

と片倉は浜田に申された。この時、政宗も「近頃の無理な所望ではあるが、他に残し置くべき者もいない
ので其の方が白石の城番を勤めてくれよ」と申された。治部はこれを承るも、「人多き中で若輩の某を

召しなさり、敵地に残し置かれるとは冥加に叶ったことではございますが、もとより不肖の某ですから
どうか功者を残しなさって、某はその指図を受けて城を守り申したく存じます」と言った。

しかし、政宗も片倉も同音に「ただ其の方一人しか留まるべき者はいない」とのことだったので、治部は

「このうえは仰せに任せます。敵がもし攻め掛かってきたなら突き出て討死するか腹を切るまでのこと。
何よりも易きことでございます。このどちらも苦しからぬことですから畏まり申した」と、申し上げた。

政宗は聞きも終わらぬうちに「突き出るのは謀のないようなものだ。堅固に城を持ち抱えて叶わなければ
腹を切ってくれよ。三日籠城してくれれば私が後詰する。愛宕八幡も照覧あれ、見殺しはしない」

と仰せになった。治部はまた返答申して、「某を救うために御出馬されれば内府と御誓約を違えましょう。
ただ御捨て殺しくださるとのことならば御受け申し上げます」と言った。

これに片倉備中が聞きも終わらぬうちに、「そちはそち、殿は殿の勤めをなさることだ」(そちはそち、
殿は殿の勤め有べし)と言うと、浜田は了承して退出したということである。

――『日本戦史 関原役補伝(校合雑記)』


セキレイの目

2018年06月13日 17:53

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 16:12:05.73 ID:jXBncqBZ
葛西大崎一揆が終結すると、蒲生氏郷は二本松城へと帰陣した。ここで秀吉より派遣された
浅野長政と対面した。長政は「今回の働きは大変な誉れでした」と氏郷を讃え、今後のことを
相談し、先ずは伊達政宗より取った人質を連れて上洛し、今回の事態に至った経過を申し上げると
決まった。去年のうちに出した飛脚も京都に到着し、豊臣秀吉は浅野に加えて石田三成をも
会津に下すとの事であった。

このような所に、何を思ったのか伊達政宗が「私もあなた方と相伴して上洛したい」との旨を
二本松に伝えてきた。両人は「一段然るべし」とこれを許諾し、先に浅野長政が出立し、
その次に伊達政宗が立った。氏郷は「この上は必要ない」と、政宗からの人質を返した。

しかしこの時の政宗の風情は聞くも恐ろしいものであった。死に装束の出で立ちで、金箔を貼った
磔ものの杭を馬の先に持たせて上洛したのだという。

政宗の後に氏郷も出立し、上洛すると秀吉の御前にて一揆の様子を順々に申し上げ、並びに
政宗の家来であった山戸田八兵衛、牛越宗兵衛が持参した、葛西大崎一揆を政宗が扇動した
証拠となる證文を渡した。
秀吉は氏郷に「今度の手柄に勝ることはない」と激賞し、「こんな事があるかも知れないと思って、
御辺を名代として会津に置いたのだ。」と語りかけた。

その後、政宗への尋問が行われたが、政宗は
「今度逆心を起こした山戸田、牛越と申す者たちは、彼らが幼少の頃より身近くにあり、
また祐筆も申し付けていたので、今回は私への恨みのままに、偽判をしてしまったのでしょう。」
り申し上げた。これを聞いた人々はみな「嘘くさい言い分だ(実しからぬ云分かな)」と言ったが、
政宗は
「疑われるのなら、その判を御見せ候へ」
と請うてこれを見ると

「さてこそ、これは偽判です。私の判は、セキレイの形を模しておりますが、これには、その目が
ありません。本物の判には目が付いています!」

そう陳述した。これにより秀吉は、諸大名小名を詮索し政宗の書状を取り寄せたが、それらには全て、
確かに目が付いていた。
伊達政宗の謀は非常に奥深いものだと感じられた。

これによって言い分が一つ立ち、また秀吉としても、政宗がこのように京都にいる以上
おかしな動きはできないと、再び柔和を加えて、政宗は京都に押し止め、長く在京させたのである。

(氏鄕記)

有名な「セキレイの目」の逸話



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 17:08:15.98 ID:NO0axVvC
一応、言い訳はできたけど、信用はされなかったわけね。政宗自身が人質になったようなものか。
しかし、よく取り潰しにならなかったなあ。もっと薄弱な理由で改易された大名は多かろうに。
秀吉を機嫌よくすれば勝ちなのだろうか。

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:37:04.33 ID:EXL6zAuI
その後、ラスボスのお気に入りになったからな。なにかを感じたんだろうw

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:49:34.96 ID:9Iw3leKK
伊達家潰して新たな騒動の火種を作るより火中の栗を拾わせたほうがマシってことじゃね

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:59:59.61 ID:TpbmBOju
>>856
お気に入りと言っても、減封の上さらに僻地に転封し、その上、中央の政局には一切関わらせないようにしたわけで。

関ヶ原まではプライベートで叫んでいるだけの存在。

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 20:28:35.17 ID:EXL6zAuI
東北勢みんなそうやろ。

給人衆頭の討ち死に

2018年01月17日 16:18

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 03:14:57.92 ID:eUuC9HcM
大阪での合戦の折、伊達政宗の配下において、給人衆百人の頭である草刈源内秋保掃部という者たち
両人が討ち死にに及んだ。

帰陣後政宗は、この事に憤慨した
「給人衆の内、頭両人を討たせて、組の者が一人も損なわれなかったというのは、組の奴原が
不覚と言うべきである!百人とも今後の見せしめとして、皆殺しにせよ!」

この時、「両人の討ち死には私の責任です」と、給人衆の内の、丹野善右衛門が申し出た。
彼はこのように言った

「川向うに味方の備があったのを、源内が敵と思って攻めかかりました。
私は給人衆の組頭ですが、彼にこう言いました。『和殿は何に目がくらんで、味方を敵と見間違えるか』
そうあざ笑ったため、源内は怒り私を斬りつけようとしたのを、秋保が身を乗り出し、
間に入って二人を隔てたため事なきを得ました。

しかしこれによって心が急いてしまったのでしょう、源内は無二に敵陣に乗り込み、討ち死にをしました。
秋保も続いて乗り込み、討たれました。

この事は私の誤りのためですから、皆の代わりに私一人を罪科に処せられるべきです。」

これを聞いて政宗は、百人の罪を許した。
しかし政宗は一生、城下のうち給人衆の住む街を通ることをせず
「不義非道の奴原にて、主人頭を見殺したのだ!」
そう憎んだという。

給人衆とは伊達家の言葉で、他家でいう足軽の類の事である。

(士談)



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 07:20:49.18 ID:cwSBNEqI
大人になったな、政宗

況や郡邑など

2017年12月02日 16:49

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/02(土) 09:49:53.84 ID:pZFOXZaq
小田原の役のおり、伊達政宗は奥州より越後を越え、甲斐に出て相州箱根へと至り、
豊臣秀吉に謁した。

この時政宗は24才、片倉小十郎一人を召し連れて、広野において礼を行う。
秀吉は床几に腰を掛け、政宗に言った

「上杉景勝は既に使節を以て礼を行い、佐竹も使者を送って来た中、政宗一人そうせず、
漸くにして今日礼を行う。その罪は甚だ重い。
汝の横領した地を速やかに返上すべし。ただ本領の三十万石は安堵しよう。
これに同意できないのなら汝は直ぐに帰国し我に敵すべし。汝が会津に至る頃合いには、
我は必ず北条を族滅し、そこから直に会津に進み、汝と対面するだろう。」

政宗は元来度量豪傑の勇者であり、聊かも恐れる様子無く答え申し上げた

「私は今、匹夫の姿で唯一人御前に参りました。生死も又命のままであり、
況や郡邑など御意のままであります。返上いたします。」

これに秀吉は大いに喜び、政宗に暇を与えて返した。

秀吉の左右の者達は皆異議を申し上げた
伊達政宗は必ず、奥州に帰れば仇をなすでしょう。速やかにここで討つべきです!」

秀吉は大いに笑って言った
「お前たちは豎子であるなあ。共に謀るに足らぬ。」

(士談)



479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/02(土) 10:59:45.08 ID:oTw3QgRm
政宗にエンターティナーの素質があると一目でわかったのか、さすがラスボス。

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/02(土) 11:30:45.38 ID:+W+OTzwU
秀吉の左右「討つべきです、と范増のような提言をしたら項羽扱いされた」

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/02(土) 11:45:59.97 ID:9aRr4QWn
家康も単身で助けを求めてきた治部を守ったでしょ
王者てもんはそういうものさ

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/02(土) 14:24:55.78 ID:JrO/NKpY
>>478
>聊かも恐れる様子無く答え申し上げた
これがカッコイイ

これ士の見せしめである

2017年11月15日 17:19

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 12:32:23.31 ID:vEgaCA4Q
大阪の陣の時、伊達政宗が奈良において、全ての足軽大将を集めて鉄砲を釣瓶撃ちさせたが、
加藤太という足軽大将の足軽たち300ばかりが鉄砲を撃たなかった。

この事を糾明したところ、加藤太は
「道中にて火を持っていれば、火縄を入れておく意味はない。火薬を足軽に預ければ道にこぼして多く
廃ってしまう。」
そう言って火縄、火薬ともに荷に包み小荷駄に付けて後より来るようにしたため、この時の釣瓶撃ちに
間に合わなかったのだという。

政宗は激怒し
「職分を忘れて、役人の出納を気取るか!?これ士の見せしめである!」
そう言うと自ら斬って棄てた。

また足軽たちに命じて、一斉に刀を抜かせ木を切らせた。
この時、一人錆びた刀を差し、木を切ることできなかった。これも糾明したところ、足軽が病のため、
人足を雇って代わりに役を勤めさせた。そのためそのような刀を持っていたのだと答えた。

政宗はこの足軽大将も成敗し、諸卒に示した。

(士談)



308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 13:37:17.20 ID:ujGD9s1O
>>307
大阪の陣の頃になると実践遠ざかって久しいから、経済を優先させちゃう輩も増えたんだろうなぁ…
関ヶ原の頃ですら、朝鮮行かなかった大名は結構な期間実戦やっていなかったし。

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 13:43:04.94 ID:tw7Qdp6q
鉄砲の件はもっともだが、刀で木を切るのはやめた方が

陸奥守政宗は三方を頭に被って踊り申された

2017年09月30日 22:11

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/30(土) 02:43:45.97 ID:PbrYLDou
大献院様(徳川家光)は名誉な公方様でござった。御一代の内に御鷹狩をされ、
ならびに島津家へ仰せ付けなさり、犬追物を上覧された。

また安宅丸を仰せ付けなさり、諸大名を召し集められて御遊覧などをなさった。
大方、太閤秀吉の気風を御慕い遊ばされた御様子である。

その安宅丸御遊覧の時、諸大名が舞いを仕るなど、色々の音曲がござった。

松平陸奥守政宗(伊達政宗)は御酒宴のうえで三方を頭に被って踊り申された
という。興に思われる趣のあることであったとの由である。

松平越後守殿(光長)や新太郎殿(池田光政)もその座に御出の方で、以後に
相公様(前田綱紀)へ御参会の折に度々直に御物語りを聞こし召されたとの由、

同年(享保7年)1月12日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



仙台では政宗生誕450年をお祝いしていたのに

2017年09月02日 21:10

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/02(土) 09:09:40.71 ID:LylpQUao
仙台では政宗生誕450年をお祝いしていたのに
http://imgur.com/ijijVa4.jpg
http://imgur.com/qB9oIlP.jpg
ijijVa4.jpg

qB9oIlP.jpg

生誕地の米沢では全く何もしていなくてギャップが面白かった
https://i.imgur.com/0Eb9VE7.jpg
0Eb9VE7.jpg

そして19人目に、

2017年08月04日 09:29

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 09:19:48.91 ID:im8VIwth
伊達政宗が、小田原に出馬した豊臣秀吉に謁するため向かった間、会津の留守は伊達成実に任された。
この留守の間、二、三夜ほど会津が以ての外に騒動した。『会津の内に心変りの者があって、越後の人衆を
引き入れる』との噂が広まったのである。この事を実尺という山伏が成実も告げたが、成実は
「一体何者がこれを言っているのか」と尋ねた。実尺は「世上隠れなき噂ですので誰とは特定できません。」
と答えたが、成実

「ともかく一人づつ名指ししろ。さもなくば汝を罪科に問う。」

このため山伏は、そう言っていた人間を一人づつ語り、成実は順次これを改めていった。
そして19人目に、伊藤七郎という者の屋敷に仕える下女にたどり着いた。

伊藤七郎は政宗の小田原行きに従っていた。そしてその屋敷の門の脇の長屋に、なにがしと言う若党が居たが、
彼が槍を持って広間から出てきたのを、かの下女が見て「さては何事かあったのか!?」と、この事を
出入りの魚売りに語ったというのだ。この話が広まり、そこに尾ひれがついて会津中の騒動になったと
考えられた。

これによって、成実はかの下女を成敗し、当面の戒めとした。

(士談)



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 09:27:51.57 ID:pSJEYCRn
成敗しちゃったの!

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 09:33:34.04 ID:YjmFAJXA
おおごとにならないうちにな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 10:45:29.34 ID:wElgxufl
性売!

ある時、皇寛と申す唐人の話に曰く

2017年06月01日 12:24

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 04:08:34.17 ID:yPT0Gczf
ある時、皇寛と申す唐人の話に曰く、

「それがしが国にいた時、ここかしこで物心の付いた小倅などは、誰が教える
ともなく政宗公(伊達政宗)と聞いては物事に恐れをなし申した。

未だ幼き子供がその母の懐に抱かれて嘆いているのを何と慰めても止まない
時に、母が怒って、

『日本の政宗が只今この国へ来るそうだぞ! 嘆くのを止めなさい! 泣いて
政宗に捕まるな!』と制すれば、

(日本の政宗、只今此國へ来ると云ふぞ、なげきを止めよ、泣きて取らるるな
と、制すれば、)

その子はすぐに泣くのを止め、流れる涙を止めて、むしろ母に取り付き、顔を
隠して恐れ申す」とのことあった。古今御座無き御事かなと、感じ奉る。

――『命期集』



809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 10:43:21.09 ID:ZxIfVxi9
正宗って文禄の役で朝鮮行ってたんだな。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 11:03:46.49 ID:MAtG1P6q
張遼じゃあるまいし

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 12:38:29.46 ID:79OXoLCr
史料の性格が知りたいところだ

中里介山「大菩薩峠」の「伊達政宗と細川忠興で半分こ」

2017年05月30日 18:10

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/30(火) 15:31:13.86 ID:RaAvraES
伊達政宗=文化財クラッシャーってことで王羲之の書をまっ二つにしたことがネタにされてるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
「伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?」

>政宗と忠興と言えば、朝鮮出兵時に漢陽(ソウル)の王宮で見つけた
>王義之の書(写本)を取り合って、結局山分けして半分ずつ持ち帰った話が
>2人らしいエピソードで印象深い

中里介山「大菩薩峠」を読んでたらこのエピソードが載っていて、その内容は
細川三斎の部下甲がソウルの王城で王羲之の孝経(李世民親筆の序つき)を見つける。
伊達政宗の部下乙もそこに来て、甲に伊達に譲るよう言うが、早い者勝ちということで甲が自軍に持って帰る。
→乙から聞いた伊達政宗が細川三斎の陣を訪れて、王羲之の孝経を見ようとする
→細川三斎が「このままでは政宗に持っていかれる」と思い、政宗に両家の結婚話を出す。
→政宗が両家の婚姻を承知する。
→細川三斎が王義之の孝経を2つに裂き、両家が一つずつとり結納代わりとする。
この後
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-845.html
のとおり、細川宗孝が板倉勝該に人違いで斬殺された際に伊達宗村(小説では父親の吉村)が機転を利かせて
細川家取り潰しを回避し、恩を感じた細川家から王羲之の書が伊達家に与えられ、王羲之の孝経がもとに戻る。

てことになっていた。
これだと三斎様のほうが文化財クラッシャーになってしまうけど、もともとの話ではどうだったんだろう。
中里介山の創作がここで戦国エピとして語られたんじゃなきゃいいが


1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡

2017年04月07日 09:11

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 20:25:55.13 ID:7i7Ye65s
1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡

『神の恩寵によりイスパニヤ、ナポリ、シシリヤ、エルサレム、東西インド、太平洋中の諸島及び大陸の王、
アウストリャの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミラン公爵、ハプスブルク、フランデル及び
チロル伯爵を兼ねたるドン・フェリペ(フェリペ3世)

支倉六右衛門、サン・フランシスコ洗足派のフラル、ルイス、ソテロとともに当宮廷に来たりしにより、
喜んでこれを引見し、貴国において、我等の主、イエス・キリストの神聖なる真の教えを善とし、これを
奉ぜんとする賀すべき考えであることを聞きて、特に喜び、また国王(政宗)がその国を平和に治め、
その幸福を増進せんと欲するがゆえに、双方にとって好き結果があることを認め、彼らに対して善き待遇を
与え、イスパニヤ滞在中、並びにローマの庁への旅行中、必要なるものを支給し、帰国の際、乗船を
与えることを命じた。

朕はこの旅行の結果として、キリスト教が弘布され、貴国の住民の霊魂が救われるに至るべきことを信じて、
大いに悦んでいる。

朕が宣教師、その他キリスト教徒を厚遇されることを切望する事は、親しく大使(支倉常長)に語り、
日本全国の君に書簡を以って伝えた、

神が奥州の王を護り、その正しき意図に大いなる成功を与え給わんことを祈る。

 1616年7月12日(元和2年5月29日) マドリッドに於いて。
                            朕国王(親署)』
(異国叢書)

スペイン国王来日記念に


支倉常長、スペイン国王宛書簡

2017年04月01日 13:23

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/01(土) 10:12:09.50 ID:+GLeDb+v
支倉常長、スペイン国王宛書簡

『昨年私の主君である奥州の王に宛てた、陛下の答書を与えられることを願いましたが、艦隊の出港までに
これに接することが出来なかった故に、随員は同艦隊にて帰国の途につきましたが、私はこれに乗り込むこと
出来ませんでした。

その後、去る5月到着の報知船によって、日本よりの報告および書簡を得ましたが、これに寄れば国王(政宗)は
キリスト教を保護し、その領内の会堂及びキリシタンを支持したるのみならず、諸人に対し恐れること無く
信仰を継続すべきことを諭し、その領内に逃れ来たりし者は皆、これを保護しました。
日本国中においてこれ程の事を成し得た王は、我が君及び、皇帝(徳川家康)が戦を行いたる国君(豊臣秀頼)の
他、一人もありません、

皇帝は偽神の助けにより、戦争に勝利を得ようと欲してキリスト教への迫害を成しましたが、その目的を
達すること能わざりき。よって我が君並びにかの君国はいよいよキリスト教を喜び、これを保護するに至りました。

我が君、並びに日本のキリシタン全体は、本使節が使命を全うして、宣教師、及び司教を伴い帰る日を
待ちて、その善き計画を実行せんとしています。これ故に、私は昨年乗船すること無く、既に決定している
通り、宣教師を派遣することを陛下が命じ、また司教については法王の定めたことを実行されることを
請願するのは、神の摂理による物であると信じます。

また日本の皇帝が、マニラその他の地方に放逐した宣教師等が、服装を変じて密かに、前に居た地に
帰っているという話が伝えられましたが、奥州は日本の極端ですから、特にその地に向けて派遣された者の他は
その地に到着することは出来ないでしょう。

陛下の希望は正統なるキリスト教の隆盛に他ならず、そして彼の国においては先に述べたように希望と意向とを
有するが故に、これを述べることは、我が君なる王ならびに彼の国その他キリシタンのため、私が為した
請願が入れられた事で、最も有効なる動機となるでしょう。
また私に対しては、速やかにこの旅行を終え、彼の地に帰りて陛下より受けた恩寵を語るという栄光を
得せしめられる事を信じます。

もし新イスパニア(メキシコ)と日本との通商が許されないのであれば、イスパニヤとの直接の通商の許可が
あらんことを請う。
またフィリピン諸島の長官には、我が君なる王と特別の親交通信を命ぜられることを請う。

我が君が、陛下のためいかなる事をも辞さない事は、前に陳述しましたが、再びこれを陳じます。
神が陛下を護り、多年の間栄せしめ給わることを祈る。

1617年4月24日
           セビーリャに於いて

 陛下の僕 ドン・フェリペ・フランシスコ・ハセクラ
       とん、ひりへえ、ふらいせすこ(日本語)
         支倉六右衛門長経(常長) (花押)』

(異国叢書)

秀頼のことを書いていますが、この日付だと2年前にすでに豊臣家は滅びていますね。
支倉はそのことを知らされていたのかどうなのか…。