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蒲生飛弾殿の家は、代々癖があると

2022年11月29日 19:40

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/29(火) 19:04:25.09 ID:5dlPTUwI
これは要らぬ義ではあるが、蒲生飛弾(氏郷)殿の家は、代々癖があると言い習わされている。
飛弾殿の御父は兵衛允(蒲生賢秀)と申すが、彼は殊の外世間に疎い人物であった。
しかしその親(蒲生定秀)は殊の外利発であった。
この飛騨殿は何事にも武道第一と仕り、世に優れた利発人と聞こえている。

このように、代々(優秀な当主と無能な当主が)替るのだと承っている。

川角太閤記



648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/29(火) 20:14:34.32 ID:sl6A3g/j
鍋島藩もそんなこと言われてたっけ>暗君と名君が一代ごと

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/29(火) 20:33:47.21 ID:F6uZeBw5
せめて明暗二人づつ出てから言って欲しいわ

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/30(水) 09:53:53.99 ID:pwvXSIHh
ツルフサの法則のようなものか

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/30(水) 20:04:03.92 ID:Vlz34xuk
優れてるように見える当主は後継者を見る目がなく
暗愚とされる当主は後継者を見る目があるってこと?
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氏郷の所労

2022年03月31日 17:00

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/30(水) 20:10:56.12 ID:Uvu0HEdg
会津宰相(蒲生)氏郷は朝鮮征伐の頃、肥前名護屋に於いて下血を患い、諸医技を既に尽くしたが、堺の宗叔が
いよいよこれを治した。私(曲直瀬玄朔)はその時、朝鮮まで従って帰り、上洛した。その後、翌年の
秋に法眼(曲直瀬)正純が語ったところによると、氏郷に宗叔は養生葯(薬)を進上したという。この時私は、

「名護屋にて所労(病気)の後、脈を診る事ができなかったので顔色を見たが、終に調わず、肌は黄黒く
首の付け根あたりの肉は痩せ消え、目の下にはわずかに浮腫があった。もしこれで腹が張れ、四肢がむくめば
必ず大事となる、
葯を進上するといっても分別があるべきだ。」と言った。

その後十一月に太閤秀吉公が蒲生氏郷邸に御成をなされ、私もその供奉をしたのだが、この時顔色を観察すると、
腫れはやや甚だしかった。その後張腫は増し、十二月朔日、太閤殿下は民部法印(前田玄以)の屋敷に座されて、
葯院(施薬院全宗)と私の二人を召されて、氏郷の所労は如何かと聞かれた。二人ともに
「終に脈を診ることも出来ませんでした。」と答えた。「葯は誰が与えているのか。」と問われた。
「堺の宗叔の葯」と申した。

その後秀吉公は、左右に在った大納言(徳川)家康、中納言(前田)利家の二人に、「諸医を召して
氏郷の脈を診せるように」と仰せになった。
すぐに上池院、竹田蘆庵、盛方院、祥寿院、一鴎、祐安、その他九名の医師が氏郷の床下に至った。
家康、利家が左右に在って、諸医は脈を診て退いた。

同月五日、前田利家徳川家康卿は私と一鴎を召して、氏郷の脈を診た上での診断を聞いた。
私は言った「十中九は大事(重体)であります。残りの一つというのは、年齢の若さと食欲のあることだけです。
しかしさらに食欲が減じ、気力が衰えれば、十は二十にもなるほど、大事となります。」

利家が言った「他の医師たち一人ずつに尋ねたが、或いは十に五つ大事、或いは十に七、八は大事と申した。」
そして宗叔を召し、「玄朔は十に二十も大事であると言う。残りの医師は、或いは十に五.六.七、八などと
云う。お前はどのように考えるか。」
宗叔曰く「十に一つほど難しいと存じます。」と申した。

その後、利家は私に対し「氏郷の所労はいよいよ悪化している。宗叔の葯を止めるべきだ。今日よりそなたが
治療をせよ。」と言われた。私は「宗叔の葯では十死であると見ておられるのなら、五日三日は葯を与えて
その様子を見るべきです。そうしなければそれぞれの治療を照らし合わせることが出来ません。」と申した。
そこで宗叔が召され、その旨を仰せられたのだが、彼は尚も「十に一つほど危ういのだ」と申した。
それ故に、翌文禄四年正月末、宗叔の葯が止められた。

蒲生氏郷は次第に気力衰え、食欲も減じた。一鴎の葯を与えたが、十余日にして果たして逝去した。

医学天正記

蒲生氏郷の病についての記録



422 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/30(水) 22:07:24.76 ID:f88ysiOU
>>421とは別の者ですが、文字化けが一か所あるようなので一応付け加えを。

坂浄慶、竹田定加、半井驢庵、吉田成方院浄忠、祥寿院瑞久、一鴎宗虎、祐庵

医師それぞれの名がこちらです。
秀吉は皇室や足利将軍家の侍医を番医として雇い入れ、身内の診察だけではなく味方にしたい有力者へ派遣して信頼を得ようとしたとか。


医学天正記』は症例ごとに患者の名と治療実績が書かれていますけれども、ちょっと面白かったのが正親町天皇は正親町院で、後陽成天皇は今上皇帝ってとこですね。

※管理人注
修正しておきました


423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/31(木) 10:50:28.35 ID:DaErJV62
肝硬変の末期症状だね

425 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/31(木) 18:25:21.07 ID:u6Hz94cM
>>421
まとめ過去ログにやっぱ同内容のものがあったか
つか10年前だし致し方なし

蒲生氏郷の病
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7540.html

凡そ家中の困窮は、その将の過ちである

2021年12月20日 17:45

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/20(月) 15:28:15.13 ID:B2NNC59W
奥州会津の城主・松平(本姓蒲生)下野守忠郷の家人に、岡半兵衛重政という者があった。
彼は忠郷の母儀(正清院・家康公御娘)に対して度々違背する事があった。母儀はこの事を
内々大御所(家康)へ訴えたため、岡半兵衛の禄を放つべき御諚の旨、老臣より奉書を投じた。
岡半兵衛は大阪御陣の後、様々に弁じたが終に御赦免無く、駿府に於いて自害した)
そして岡半兵衛に同心していた池信濃以下数人が浪人した。

岡半兵衛の居城であった奥州津村の城には蒲生五郎兵衛を移し、また蒲生源左衛門尉郷成を呼び返し、
三春の城に差し置くべき旨仰せ出されるに依って、源左衛門尉を召し寄されたのだが、彼はその路中にて
病死した。このため郷成の嫡子である源三郎郷喜を、源左衛門と改名して三万石、二男・源兵衛郷舎に
一万五千石を賜って、この兄弟を返した。
蒲生家執権の事は、町野長門守、玉井数馬の両人が相勤めるべき旨、御下知あった。

また下野守の使者として北安達内匠という者が大御所に申し上げた所によると、
蒲生主計は年来武勇に達し、その上無欲にして、家中及び百姓等を撫育してきた為、家も貧しかった所に、
今度両御所(家康・秀忠)が大阪へ御発行(大阪冬の陣)に付き、下野守の人数も差し向けられるという
風聞があります。これについて、蒲生主計は訴えました、

『家貧しうして兵を動かし難し、願わくば黄金拝借仕り、忠郷様の名代として大阪へ馳せ向い、
討ち死にを遂げたいのです。』

そのように望んだのですが、下野守・中務大輔(忠知)兄弟共に幼少であり、殊更この主計は、先に
御改易を仰せ付けられた岡半兵衛の一族であります故に、その訴訟を取り次ぐ者も有りませんでした。
そこで主計はこれを恨み憤り、忽ち自害してしまいました。
この趣は先達て江戸の御留守である(松平)忠輝朝臣まで申し上げましたが、今又、直に言上仕ります。」

これを聞いた大御所は
「主計は武功有る者であった。彼のような者については、善悪に依らず訴訟の事が有れば取り上げるべきなのに
打ち捨てて置く事、蒲生家の老臣たちの怠慢甚だしい。主計の卒爾の自害、不憫の至である。
凡そ家中の困窮は、その将の過ちである。然しながら忠郷は未だ幼少である。よってこれらは臣下の罪である。」

そのように仰せに成りご立腹されたことで、安達内匠は戸惑いながら帰国した。

新東鑑

大阪冬の陣の頃も、氏郷死去以来の蒲生騒動が未だ治まっておらず家中が混乱したままだった蒲生家についてのお話
しかし本当に蒲生だらけですね。



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/20(月) 16:04:04.81 ID:g3dHoHz9
名字を活躍した家臣に配る、やってもらった側は感無量だけど後から見る人間からは誰が誰やら

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/20(月) 16:10:51.18 ID:fHEcECu2
読み方を変えよう
がもう、かもう、がまお

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/20(月) 18:43:11.05 ID:yGHycAm/
かばなま

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/20(月) 19:02:54.51 ID:FmAYMNPX
夜悪いことするとがおーさんが来る、みたいな伝承が滋賀だかで残ってたっけ?

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/21(火) 02:04:50.43 ID:8asVSz2+
ナボナはお菓子のホームラン王です

裏切りは御免候へ

2021年09月12日 16:14

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/12(日) 14:45:20.23 ID:ofsTfoaa
蒲生秀行と申すのは、童名は鶴千代、その後藤三郎と号した、蒲生氏郷の嫡子である。
家老・蒲生四郎兵衛(郷安)の所業により家中が二つに割れる、大きな騒乱が起こった(蒲生騒動)。
その咎により、百二十万石の会津を召し上げられ、ただ十八万石にて宇都宮に移されたため、
譜代の侍共の多くが会津に残り、新たに入部した上杉景勝に召し抱えられた。

そして徳川家康による会津征伐が行われると、秀行は密かに、自筆の書状を使者に持たせて
会津に残る元蒲生家の侍共に遣わし、このように伝えた

『お前たちは何れも、元々は蒲生家譜代の侍である。一旦上杉家に付いたといっても、
きっと旧恩を忘れてはいないと思う。

この度、お前たちには秀行に対して、宇都宮が関東方の一の手先である事を以て、関東の先手で
あるとして向かってくるのではなく、昔の契を思って、景勝を裏切ってほしい。
それ私にとって本望であるし、その上に大分の恩賞を出す。』

これに対し、栗生美濃守(初めは寺村平左衛門)、岡野(岡)左内、志賀与右衛門、布施次郎右衛門、
外池甚五右衛門、小田切所左衛門、高力圖書、安田勘介、北側圖書、等は何れも秀行の直書を
拝見し、返状を送った。その内容は

『思し召しの所、誠に以て浅からず、忝なく存じ奉ります。
さりながら古より申し伝わる事にも、人の禄を食む者は、その人のために死すとあります。
古主の御恩浅からずと申しながらも、差し当たって上杉の恩を受けながら裏切ることは
罷りなりません。殊更、景勝は現在天下を敵として受けられ、危ういことは目前に見えます。
こういった時に挑み、二心を差し挟むというのは、武士の恥辱です。

ではありますが今後御一戦に及んだ時に、秀行様が御難儀に及ばれた所を見かけた場合は、
我等は何れも馬を控え、進むこともしないでしょう。どうかこれを御恩報と思し召しになり、
裏切りは御免候へ。』

これを見た秀行は感涙を流し、聞く人も皆称嘆した。

近世軍記

蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫

2021年09月07日 18:08

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/07(火) 17:03:23.04 ID:3jQ6lCF7
蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫、鎮守府将軍俵藤太秀郷の後胤である。

永禄十一年に織田信長公は江州に討って入り、佐々木(六角)を攻め傾けられた時、
氏郷の父である蒲生兵部太夫賢秀が信長の味方に参り、子息鶴千代十三歳の時、証人として
信長へ進じると、近習に伺候され、奉公した。

彼は他と異なるほど利根発明であったため、信長の御意に叶い、ある時宣われた、
「汝が眼晴は常ならない。おそらく只者ではない。我が婿にするぞ。」
と、契約された。

元亀元年、信長が越前国に発馬の時、氏郷は十五歳にて鑓を合わせ高名を成した。これが初陣であった。
その後濃州岐阜の城にて元服あり、その頃信長は弾正忠であったため、「忠」の字を給わって、
蒲生忠三郎賦秀(または教秀)と名付けられた。
秀吉公の代に至り、「秀」の字を憚って氏郷と改められた。
元亀元年の初陣より文禄四年まで、氏郷自身の高名は三十六度であった。

太閤秀吉の時、氏郷を羽柴飛騨守参議宰相に叙任された。初めて南伊勢五郡十二万石を領した。
その後数度の忠戦、秀吉公の感心斜めならず、その賞とりて奥州会津七十万石を給わり、また
奥州での軍功によって二十万石の加恩地が下され、それらを合わせて百二十万石となった。

しかし、石田三成が企んだ如く、関白秀次公を思いのままに亡ぼしてから、直江兼続との密談の通り
蒲生氏郷を失わせる事を図って、文禄四年の春の頃、瀬多野掃部と内通し、能く示し合わせて
氏郷を掃部の茶の会盟に招き酒を勧め、毒を飼った事によって、同年二月七日、氏郷は四十歳にして
俄に心身悩乱し逝去されたのは、いたわしいことである。

近世軍記

氏郷の通称の忠三郎が、信長の官途名の弾正忠から、というのは珍しいパターンの気がするのだけど、
こう言った例って他にあるのかな?

参考
思いのままに謀を廻らせた


片目の頭は、我々が太刀の切っ先にかけて

2021年06月14日 18:59

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 13:20:14.98 ID:gXgD925U
上杉弾正大弼定勝と、蒲生下総守忠郷は、無二の入魂にて、兄弟の契約をしていた。
忠郷は蒲生氏郷にとっては孫、秀行の嫡子にて。家康公の御外孫、会津六十万石の領主であった。
定勝は米沢三十二万石であり、互いにその領内の百姓まで、双方申し合わせ、境目も睦まじく往来した。
南部信濃守利直も、忠郷と殊の他に懇意であった。

仙台の伊達政宗とこの三人の衆は仲が悪かった。そのため何時でも政宗が出てくれば、
蒲生、上杉、南部の三家言い合わせ、「政宗を立ち挟んで討ち果たすべし」と、密々に堅く
言い合わせていた。

定勝、忠郷、利直の三人が同道して。上野の天海大僧正の元に夜咄に行った帰り、三人ながら
馬を乗り連ねられた。その途中にて南部殿の馬が荒々しく勇んだ。この時南部殿は大声で忠郷、定勝に
呼びかけた

「相公(忠郷宰相)、羽林(定勝左少将)、この馬の勇んでいるのをご覧候へ!
明日にも何事かあれば、この馬に乗り、ご両人と申し合わせ、彼奴(政宗)を立ち挟んで討ち果たすべし!」
と申された。これに忠郷、定勝もからからと笑われ

「仰せらるるにも及ばぬ事なり!片目の頭は、我々が太刀の切っ先にかけてご覧に入れ候はん!」
と宣われた。三家中の供の輩は皆、これを聞いたという。

蒲生忠郷は寛永三年(正確には寛永四年)正月に薨ぜられたが、定勝は大変に嘆き悲しみ、
三十五日精進され、上杉家中の士卒は申すに及ばず。米沢領内は十四日の間殺生禁断となり、
追善の法事が有った。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

なんで政宗こんなに嫌われているのか



808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 18:07:06.66 ID:gTgcpvPU
むしろ南部、蒲生、上杉から見て政宗を好きになれる要素があるのかと

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:11:51.94 ID:jObLku2y
政宗がいじめっ子で南部蒲生上杉はいじめられっ子って感じか。
しかもいじめたほうは全然覚えてなかったり身に覚えがない態を装う。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:30:58.80 ID:gTgcpvPU
虐めっこっていうか迷惑な隣人というか…
現代的にいうなら騒音が煩いとかゴミ出しの時間守らないとか
人の家の庭に出入りしてくるとかそういう感じの厄介さじゃないかと

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:46:49.68 ID:JsZl/HXh
蒲生と南部は姻戚関係の親族だから、普通仲の悪い隣接した領地の上杉と仲いいってのが
よっぽど伊達に問題があったような

汝は正直なる者かな

2021年02月07日 16:28

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 15:25:36.33 ID:5gFfphl4
これは吉田又左衛門が語ったことなのだが、佃又左衛門には武道の心懸けがあり、度々の用に立った
侍であった。その佃の物語に、

「総じて主君が言ってくる事で、無理なことを言ってきたとしても、さしあたりの申し訳をするのは、
事にもよるが、基本的に固く慎むべきである。

私が蒲生氏郷に仕えていた時、奥州において敵の城中に押し寄せ、陣取りをしたのだが、そこに大将で
ある氏郷自ら忍んで、夜な夜な陣中を巡り、勤めるを勇め怠るを戒められた。

ある時、敵が夜討ちに出た。私は真っ先にそれと渡り合い、氏郷の見ている所で、鑓にて競り合い、
終に敵を追い払った。

翌日、軍功の評価の時、氏郷はこう言われた
「佃は常々の心がけに違わず、先駆けしたこと大功である。さりながら、少し狼狽えていたと見えた。
鑓の鞘を外さずに突き合いをしていた。」

私は承って、「誠に夜討ち厳しく、鑓の鞘を外したのか外さなかったのかもわきまえ難き状況でしたが、
奇特にご覧になられたものです。」と申し上げた。

氏郷は「汝は正直なる者かな。世の常の者なら、今のようには申さないだろう。誠の武士である。」
と褒美された。」

思うに、合戦という時に臨んで、鑓の鞘を外さないという事はありえないのだが、主君の言葉が
違えないため、自身の身を顧みないという気持ちが、常にその心内にあったため、こういった事態に
臨んで外に顕したのだと見える。尤も殊勝な事である。

備前老人物語

つまり蒲生氏郷の勘違いをうまくフォローしました、という話ですね。



雪にはおれぬ青柳の枝

2021年01月04日 17:47

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/04(月) 15:55:09.68 ID:fnVE6c2t
蒲生氏郷が病に伏せられた時、利休が見舞いに来た。この人は氏郷の茶の湯の師であったので、
寝床に迎え入れて対面した。

利休は病の有様を見て、
「御患いの御養生は、未だ半ばと見えます。あなたは第一には。御年も若く、文武の二道の御大将であり、
日本において一人二人というほどの御大名であり、どれもこれも大切な事共です。
慮外ながら、あなたは御保養を疎かにしているように存じます。どうかご油断なさりませんように。」

そう言うと、氏郷は

「かきりあれは ふかねと花はちる物を 心みしかき春の山風」

と詠まれた。これに利休は涙を流し「殊勝千万の御事かな。」と言うと、しばらく言葉もなかったが、
やがて「さようには候へども」と言いながら、涙を抑えて

「ふるとみは つもらぬさきに はらへかし 雪にはおれぬ青柳の枝」
(あなたは、雪が降ってきても積もる前にそれを払い返し、雪の重みに折れることのない青柳ではありませんか)

と言って、その後物語一つ二つして立ち帰った。

備前老人物語

これは実際には、氏郷と、利休の養子である千少庵の間の逸話のようですね。



それ以降、斎藤内蔵助の異見の如く

2020年11月06日 18:16

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 13:59:28.90 ID:ZA1G15La
私(蒲生氏郷)が儒道歌道茶湯ばかりに心がけていた頃、弓矢修行を仕っていた斎藤内蔵助(利三)と言う者が申すには、
「入らぬことに心を尽くすより、家職に心を入れよ」と云い、私は度々諌められたのだが、若輩故か、さほども
耳に留めず、そのまま打ち過ぎていった。

そんな所に、織田信長公が江州観音寺へ御出馬され、先手は伊賀衆、二番に美濃衆・近江衆の寄り合い勢であった。
その中に私も在り、敵に打ち向かっていた所、斎藤内蔵助はただ一騎来たりて、
「伊賀衆は今日先手を成すが、軍立、足軽の使いようが非常に乱雑に見える。あれでは城中より人数を押し出し
かかって来れば、敗軍するだろう。

その方、備えを西の山本、竹藪の内に隠し置き、先手が崩れたならば通し過ごし、敵陣の真ん中に横入りに
駆け入れば、必ず勝利を成すだろう。

また、崩れず恙無く引き取るようであれば、その時は伊賀衆に乗り向かい
『今朝よりの御働きのため、御草臥れに成られたことでしょう。私が入れ替わって跡を受け持ちます』と
断りを入れて殿を仕れば、これも高名となる。両方とも変わらない。」

そう申したので、その意に任せ、西の山本竹藪の中に人数を入れて待っていた所、案の定、伊賀衆は深入りし
観音寺の足軽に押し立てられ敗軍した故に、私は横入りにかかり、敵は逆に敗軍し、十四、五町追い討ちをし、
三十人ばかりの首を討ち取り、信長公の御目にかけた。そして『若輩が神妙の働きである』と、御感になり、
二字國俊の御腰の物を拝領仕った。

それ以降、斎藤内蔵助の異見の如く、武士に遊芸の誉れは要らぬと会得したのである。

蒲生飛騨守氏鄕書状之写

蒲生氏郷が、斎藤利三に武士としての有り様を教えられたというお話



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 16:11:28.16 ID:bqJKElpR
なんで斎藤利三蒲生氏郷に対してこんなに偉そうなの
方や当時は稲葉一鉄の家臣、こなた信長の娘を娶り自ら烏帽子親を務めたほどの御曹司
弓の師匠であっても戦場では身分違いで気安く指示するような立場ではなくね?
あるいは軍監として付けられてたとか? でも陪臣を軍監として他の家の軍勢に付けたりするの?

あと斎藤利三蒲生氏郷も結局のちのち茶の湯はやってるじゃんというツッコミも

686 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/11/06(金) 23:15:19.49 ID:Q61bka++
>>684
この場合の弓矢って弓術じゃなくて戦のことじゃない?
アドバイス自体も「こうやるとどう転んでも手柄になるよ」って感じだから
受け入れ易いと思うし

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 22:42:13.47 ID:8aJnR1j9
近江の国人の蒲生と美濃の国人の稲葉と斎藤の三者は身分違いつえるほど身分は違わないから特に違和感はないな

名誉の精兵

2020年05月06日 17:16

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 23:18:59.61 ID:SC7VeA1M
文亀二年(1502)、江州の住人、佐々木六角高頼は、去る明応の頃、前将軍家(足利義材)による
江東征伐の時、居城観音寺を落ちて甲賀山に隠れ居ける所に、その後数年の乱中に程なく居城へ
立ち帰り、本城その他所々を従え、再び大名と成った。しかしその頃、彼の家臣の伊庭(伊庭貞隆)
という者が謀反を起こし(伊庭氏の乱)、今度文亀三年四月四日には、東国百済寺も兵火のために
消失した。然ればこの江南の乱中に乗じて江州を退治せんと、、細川政元内衆の赤沢澤蔵軒宗益(朝経)は
多勢を率いて江州へ乱入した。

彼等は所々の城を攻め取り、甚だ猛威を奮い働いたが、同国音羽の城主・蒲生下野守貞秀は、昔当国の
湖上に百足を射て龍宮へ渡ったと云われる俵藤太秀郷の後胤にて、武勇の士であり、剃髪の後は智閑と称した。
赤沢澤蔵軒はこれをも攻めよとて、音羽の城を取り巻き日夜激しく攻めたが、城強く、能く防いで
落ちる様子もなかった。寄せ手は攻めあぐね、徒に日数を送り、延々と囲んでいた。

この時城中に鋳物師の安河という者が籠っていたが、彼は稀代の弓の上手であり、彼が射る矢先に立つ者、
一人として命を失わずという事無かった。赤沢澤蔵軒は音羽城より三町(約300メートル)ほど遠ざけて
本陣を取っていたのだが、陣の前に、五尺廻りの柳の木があった。これに、かの安河が射た矢が、
羽ぶくら(矢の端の羽のついている場所)まで貫き通した。これを見る人々、皆舌を巻いて畏れ驚き、
直ぐにその柳を切って城中へ送り、名誉の精兵と称賛した。

應仁後記

敵であっても、こうやって讃えていたんですね。



149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/06(水) 09:41:55.64 ID:CKuddwdz
>>147
そんな名人が何で鋳物師やってんだ

天正十二年、美濃賀々城攻め

2020年03月09日 18:28

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/09(月) 18:02:57.78 ID:oiSUTUIE
小牧長久手合戦の時のこと。
尾張国竹ヶ鼻城では不破権内(綱村)の子息である源六郎が立て籠もり、織田信雄に合力していた。
そこで羽柴筑前守秀吉はじめ、その他の大名はこの城に押し寄せ攻め寄せ、水攻めに然るべしとして
大河小河を切かけ攻め破った。それより直に美濃国賀々城へ押し寄せ攻められた。

これに城中の兵たちは
「寄せ手の軍勢に比べれば、自分たちは大海の一滴、九牛の一毛である」と、叶うとも見えなかった。

城主の賀々井駿河守は謀りを廻らし、五月六日の夜、寄せ手の陣へ夜討ちをかけようと、伊勢国住人である
嶺、久須、千草、上木の四人を大将として、子の刻(深夜0時ころ)に追手の門より打ち出た。

実はこの内の千草は、蒲生飛騨守氏郷の母方の叔父であり、宵の頃より飛騨守に対して知らせが有ったという。
されば蒲生氏郷は「氏郷でなければ手に合わない」と、真一番に掛け合って戦われた。それに続いて
上坂左文、小坂といった侍たちが左右に従った。
その他、寄せ手の軍兵我も我もと追手の陣へ向かった。

五月の暗闇は大変暗く、敵も味方も見分けることが出来なかった。敵が二人落ちて来たのを、氏郷が
「何者か!?」と声をかけると、彼らは偽って「浅野弥兵衛家臣、生駒弥五左衛門!」と名乗った。
しかしこれを聞くと「そんなわけがない」と二人共に打ち留めた、

ここに城方の嶺孫三郎は、生年十八歳、容貌美麗、また人に優れて心優しい人物であったで、天下の男女恋焦がれて
小唄などを作って謡うほどであったが、彼も真っ先に駆けて戦ったところ、味方の兵たちと共に中に取り囲まれて
生け捕りと成り、片陰にて頸を斬った。

次に久須は生年十六歳、これも無双の若衆であったが、同じく氏郷勢に生け捕られ頸を斬られた。

千草は当時六十歳ばかりの人物であったが、これも氏郷勢に生け捕られ頸を斬られた。

上木は歳三十ばかりと見えたが、これも討ち死にした。

こうして城方は敗北し、落ちてくる敵はその数を知れぬ程であった。
また関勝蔵の家子・佃又右衛門は追手の門際まで攻め寄せ、比類ない働きをして良き頸を取ってきた。
或いは、敵が「蒲生の者である」と名乗って氏郷の前に来たのを討ち留めたのも多かった。

敵は蜘蛛の子を散らすように落ちていくのを、氏郷主従三人はその真ん前にて突き倒し、斬り伏せ、頸を獲った。
その他、寄せ手も大勢が頸を取ること、その数が知れぬほどであった。

暫く戦っているうちに夜も白々と明けると、氏郷は左文、小阪を召して、自分の鑓を突き出し「これを見よ」と
言った。その鑓はササラのように成っていた。氏郷の鑓下の頸が曲がって、鑓の柄に血が朱に流れていた。
左文、小坂の鑓も見た所、ササラのように成っていた。
その時氏郷は
「今夜の合戦は、この三人のみが骨を折ったのだ。」と申された。
寄手の方が討ち取った頸数、都合四百余の内、氏郷の手にて百余を取ったと云う。

寄手の軍兵が我も我もと追手へ寄せ戦う間に、城の大将である林与五郎賀々井駿河守は密かに搦手より出て、
遂に尾張国へ落ち行った。

氏鄕記

蒲生氏郷等による、美濃賀々城めについての記事である。


滋賀京都辺りの妖怪 ガオーさん

2020年01月14日 17:17

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 17:51:10.32 ID:2v3QEvLh
滋賀京都辺りの妖怪でガオーさんってのがいて
それは戦国時代六角氏の領民が蒲生氏郷を恐れて蒲生が来るぞがなまったとされる
みたいなニュースは見たことはあるなぁ、どの程度信ぴょう性があるかはしらないけれど

ガオーなんて怖い生き物の鳴き声からの着想で十分ありそうだし



512 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/13(月) 18:32:37.48 ID:2jgCXgsI
>>511
我王かな?と思って火の鳥を思い出したのは俺だけで良い

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 18:39:43.01 ID:FG5Q7KtQ
能登には逆に、上杉謙信の襲来の時、鬼や幽霊の格好で太鼓を成り響かせて上杉軍を
恐怖させ撤退させたという、「御陣乗太鼓」の伝承があったりするね。

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 18:47:47.72 ID:Ox4dFlNG
謙信「わっ、お化け!怖いから越後に帰ろう…」

かわいいじゃん。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 00:11:12.70 ID:bKDKxVUo
>>511
滋賀の街にガオー
夜の京都にガオー
すみません言ってみたかったんです…

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 14:25:33.63 ID:aQvqBDrV
>>511
京都の町人は氏郷をおちょくった
『大石を道の蒲生に引き捨て
  飛騨の匠も成らぬものかな』
の落首で氏郷をぶちギレさせて
方広寺まで一直線で巨石を運ばれてるからな…

ぶちギレたガモーさんに町を破壊される恐怖を実際に体験してる事を考えると
コクリムクリのようにガオーさんの元ネタと言われても違和感ないわ

蒲生氏郷、小田原役に際して

2019年10月30日 17:17

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 15:24:11.20 ID:CG1Gj3kI
蒲生飛騨守氏郷は、南伊勢五郡12万石を領する飯野郡松坂の城主であるが、今度秀吉の命で
一軍の将として、天正十八年三月二日居城を出て関東(小田原征伐)へと向かった。

出発に当たり氏郷は、領内で家中を整え勢揃いをした。前駆、後駆の手当もし、隊伍の備えも済ませ、
自身は家重代の鯰尾兜を近臣に持たせ、ここに居よと命じて軍勢の見聞をし、その場に戻った所
兜を持たせた家臣は居なかった。その最初の失態に氏郷は何も言わず、二度目の見聞の後、その場に戻ると
又もその家臣は居なかった。何かの事情でやむなく場を外したのであろうが、主人の命を二度まで
蔑ろにしたということで、氏郷は即刻太刀を抜いてその家臣を切り捨てた。これを見た諸士たちは
唇を震わせ恐れ、小田原及び奥羽の陣中。誰もが厳しく軍法を守り命に背く者は居なかった。

またこの当時、氏郷の馬印は熊の毛の棒であったが、今回関東に発向するにあたって、その馬印を止めて
三階笠を用いたいと、秀吉に願い出た。三階笠の馬印とは、越中の佐々内蔵助成政の馬印で、天下周知の
ものであるだけに、秀吉はこれを許さなかった。
氏郷が「では私の武勇は成政に劣ると言われるのでしょうか?。」と問うと、秀吉は
「今暫く待つように。小田原表での働き次第で許すとする。」と答えた。
氏郷は黙って引き下がったが、今度の出陣に命を捨てる覚悟であることが見て取れた。

氏郷は松坂を出発前に画工に命じ、綾の小袖を着し手に扇を持った自分の姿を旗指物に描かせ、
例の三階笠も内緒に仕立てた。そして門出に当たって重臣である町野左近将監繁仍の妻を呼んだ。
この女性は氏郷の乳母であった。

氏郷は彼女に語った
「私は関東に下って討ち死にする覚悟である。なのでこの旗を江州蒲生郡日野の菩提所に送り
納めるように。」
そう言って旗を渡した所、乳母は涙を流して
「殿は未だ歳もお若いのに、そのように、旗を菩提所に納めるなどというのは忌々しき事です。」
そう承知しなかったが、氏郷はこれを笑って
「この度はるばる関東に下れば、生死のほどはおぼつかない。もし予想したように討死したのなら、
我が子藤三郎秀行が成長の折、父の平生の姿を見たいと思うことも有るだろう。その時はお前が
長生きをして、この絵姿を見せ、また我が事もよく語り聞かせて欲しい。」
そのように言った。

また三階笠の馬印は、その後小田原攻めでの斉田口の夜討ちで戦功を立て秀吉より御感を賜り、
翌日三階笠の馬印を許されたという。

(関八州古戦録)

小田原役に際しての、蒲生氏郷の事



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 17:36:57.94 ID:c98Y6W1Y
小田原では死なないけどその数年後だよね
若くして死ぬのは乳母不幸でもあるな

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 18:11:05.23 ID:ziwIggb6
工場長は人生が漫画チックだな。原哲夫にお願いしたい。

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/31(木) 06:23:50.17 ID:uednysj4
ぶった斬る前に叱ってやって欲しいよね...無茶苦茶腹を壊してたかもしれないしさあヽ(´Д`;)ノ

老人雑話より、蒲生氏郷の逸話まとめ

2019年04月12日 17:54

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:20:47.89 ID:lNjfT+Y9
・蒲生は近江の士なり。佐々木承禎(六角義賢)の家臣であったが、後に信長に仕え、また太閤に仕えた。

 氏郷は優れた人なり。初めは伊勢松坂で12万石を所領した。それより直ちに会津120万石を領した。
 太閤の時である。この時、40歳ほどなり。

 承禎は近江1ヶ国を領した大名なり。信長に滅ぼされて近江を取られる。承禎の子は四郎殿(六角義治)
 といって太閤の時は咄の者となり、知行2百石なり。蒲生はその家臣だったが、100万石余りを領す。
 伏見などで四郎殿が太閤の御前に侍って退参する時、氏郷は昔を思い刀を持って従われたことがあった
 という。

 蒲生が近江で承禎の家臣だった時は日野を領した。氏郷の父(蒲生賢秀)は頑愚で天性臆病の人である。
 その時の俗間の小歌に、「日野の蒲生殿は陣とさへ云やへをこきやる」と言ったが、この人の事なり。

・小田原開陣の後、太閤が諸将を会して宣うには「会津は関東八州の要地、優れた大将を置いて鎮めなけ
 ればならない地である。各々は遠慮なく所存を書き付けて見せよ」と言った(原注:今はそのような事
 を“入札”という。その頃は“かくし起請”という)。
 
 すると「細川越中守(忠興)が然るべき」という者が10人中8,9人であった。太閤は開き見て曰く、
 「汝らは愚昧も甚だしい。私が天下を容易く取ったのも道理である。この地は蒲生忠三郎でなければ、
 置くべき者なし」と言い、忠三郎を会津に置いた。

・太閤は小田原開陣の後に蒲生飛騨守を会津に封じた。会津は大事の要地なり。そのうえ敵が上野から通
 行して、もし武蔵・相模に事があれば、上野佐野から一檄を伝えて少しも敵を働かせないためである。

・太閤が氏郷を会津に封じた後に氏郷が出仕した。太閤は他事を問わずに曰く「汝は手を良く書けり。謡
 の本を一番書いてくれよ。紙と硯を持って参れ」と宣ったという。君臣心安き間柄なり。

・氏郷はある時に諸士を饗応した時、自ら頭を包んで風呂の火を焼いたという。

・氏郷も日野で2万石の身上なり。太閤は伊勢松坂に15万石を与えた。後に会津100余万石を与えた。

・氏郷の近習の者が氏郷に問うて曰く「太閤以後は関白殿(豊臣秀次)に馬を繋がれるのですか」と。氏
 郷は答えて曰く「かの愚人に従うような者は誰もいない」と。

 また問うて曰く「天下の主たらん者は誰でしょう」と。答えて曰く「加賀の又左衛門(前田利家)であ
 る」と。また問うて曰く「又左衛門が天下を得なければどうなりますか」と。答えて曰く「又左衛門が
 得なければ、私が得るだろう」と。

 東照宮(徳川家康)の事を問うと曰く「この人は天下を得られる人にあらず。人に知行を過分に与える
 器量がない。又左衛門は人に加増を分に過ぎて与える切れ物である。取るであろう人はこの人なり」と
 言ったという。

――『老人雑話』

老人雑話より、蒲生氏郷の逸話まとめ



792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/12(金) 00:09:06.99 ID:gXKzQX1o
利家が家臣に気前のいい器量者?

793 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/12(金) 05:35:11.47 ID:2v+tybTJ
>>790
「日野の蒲生殿は陣とさへ云やへをこきやる」

 ('A`) プウ
  ノヽノ) =3 'A`)ノ
  くく  へヘノ


799 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 17:48:57.53 ID:DhdKHX4V
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906666
老人雑話はこの国会図書館デジタルで戦前の翻刻本が読めるが
さてどこの部分か読んでみるかな

一方の大将たらん者は、

2018年10月02日 18:31

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 11:55:40.26 ID:UGo9HjLG

天正二年七月、織田信長が長島の一揆を伐った時、蒲生氏郷は大剛の者を組み討ちにして首を取り
実検に入れた。しかし信長はこれを冷笑し褒詞無かった。

暫くして氏郷に言った
「凡そ勝負は時の運に寄るもので、兼ねて計ることは出来ない。功名は武士の本意というが、それは
品によるものだ。今の汝の功名は、軽卒のやることである。一方の大将たらん者は、更に好むべきではない。
身の危うきを顧みないのは、それほどの功とは言えない。今後、この心を忘れるな。」
そう戒めたという。

(名将言行録)

信長「この時注意したのに…」



255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 12:17:40.56 ID:sUtctfiJ
婿じゃなかったら褒めてたろ

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 13:12:35.48 ID:u24CW0IM
>>255
鬼武蔵相手なら激賞だったろうな

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 00:40:35.31 ID:AUGOf0r/
鬼武蔵は敵にけしかける狂戦士だが氏郷は士官候補だからな

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 05:45:34.46 ID:KOBAUlk+
バーサーカー武蔵

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 07:06:44.21 ID:iHzjGr8g
特殊奥義持ってる武蔵にモブが敵うわけないじゃろ

この家には銀の兜をつけた侍が

2018年08月30日 17:59

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 22:02:07.71 ID:hN7iYod7
蒲生氏郷は常にこう言っていた
「人衆を戦場にて使うに、ただかかれかかれと計り下知していてたかからない物である。
かかれと思う所には、大将自身がその場に至り『この所へ来たれ!』と言えば、あえて大将を
見捨てるような者は居らぬものである。しかし大将自身は後に居て、ただ士卒をかからしめんと
しても、かかることは無いものなのだ。」

氏郷はその言葉の如く、人を新たに抱えた時は常に
「この家には銀の兜をつけた侍が、いつでも一番に乗り出して、諸卒に先立って働いている。
なのでこの男に劣らぬように稼ぐべし。」
そう言い教えたという。
これ則ち、氏郷の鯰尾の銀兜のことであり、働きを諸軍に先んじていた故であるという。

(士談)



240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 23:46:43.97 ID:p31L3AQN
足利義明「その通りである」

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 08:29:23.45 ID:vtjT338y
>>240
S「目障りだから置いてくわ」

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 10:15:04.89 ID:WpX3rZhX
お、おう

日置の夜合戦

2018年07月02日 18:38

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 17:32:24.99 ID:+lDXEXb7
蒲生氏郷が羽柴秀吉より勢州松島を拝領した頃は、伊勢に限らず諸国未だ静謐成らなず、
小牧・長久手の戦いが始まっていた。

氏郷は松島に入部すると、先ず領地の仕置を優先し日置へ押し寄せようという気持ちは全く無かったにも
関わらず、織田信雄の家臣である木造左衛門佐(長政)の支配する日置方面からは、氏郷の領内へ夜な夜な
人数が出て苅田などを行った。
氏郷はこれを聞くと「哀れ足長にも出てきたか。討ち果たしてやろう。」と、方々に物聞(見張り)を
置き、苅田をする者たちが侵入してくれば鉄砲を撃ち、これを合図に松島より出撃しこれを討つ決まりとし、
これにより度々侵入者を撃退した。この時、氏郷は早馬を以って真っ先に乗り懸かった。
これを見た木造長政は、謀略によって氏郷を討ち取ろうと工夫を考えた。

9月15日の夜、木造長政勢は氏郷の領分である会原という場所に侵入した。この時、木造の家中において
物頭をし、発言権を持つほどの兵は残らずこの会原周辺のよき場所に伏兵として起き、氏郷が駆けてくれば
即座に討ち取れる準備をさせ、あとはいつものように苅田をさせた。

これに蒲生の見張りが気づき鉄砲を撃って知らせ、この音を聞き松島より蒲生氏郷が駆けつけた。
その夜は月が冴えて、まるで日中のような明るさであったが、氏郷はそこに真っ先に駆けつけ、
その後に早馬を持つ兵たち7,8人が続いた。彼らが入ってくると伏兵たちが一斉に起き上がり、
氏郷たちを包囲し攻めた。この時は流石に危うく見えたが、氏郷は馬の達者でありその騎馬も逸物で、
四角八面に懸け破り、突き倒しては駆け回り、乗り散らし乗り返し、その戦いにおいて蒲生方の
外池長吉、黒川ノ西、田中新平などと言った者たちは散々に戦い討ち死にした。
小姓の姿であった外池孫左衛門という者は氏郷の矢面に立ち塞がり防戦した。
この時、氏郷の銀の鯰尾兜に銃弾3つが当たり、鎧にも傷数ヶ所があったが、その身には薄手すら
負っていなかった。

このようなうちに、氏郷勢が追々駆けつけ、騎馬のもの7,80騎となると、氏郷は敵の少ない所へ
そのまま馬を乗り入れ東西南北に懸け破り蹴散らし、敗北した者は手下に討ち取らせ自身は追い打ちをかけ
日置の城下まで追い詰め、木造家中にて物頭を勤める屈強の兵30余人、その他甲冑をつけた者36,
雑兵数多を討ち取り勝鬨を作り、日置の城下から10町ばかり引き取った場所に陣を取った。
これにより、木造長政は在城を諦め、翌日詫び言をし命を助けることで城より退去した。

世間において「日置の夜合戦」と呼ばれるのがこれである。

(蒲生氏鄕記)

敵の計略どおり単騎突撃してまんまと罠にハマったけれども特に何ということもない氏郷であった。



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:20:12.31 ID:rLUgrkrt
連邦のモビルスーツか

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:33:58.80 ID:rorhF+dI
え-、なにそのチート…

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:39:34.50 ID:AoEQtwek
秀吉「氏郷が活躍するのは珍しいことではないから」

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/03(火) 11:07:03.37 ID:MtOOE3S3
>>47
花の慶次かな?漫画のキャラみたいな活躍で草

敵の後にただ一人

2018年06月21日 21:49

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 08:54:19.80 ID:tSvrzezH
小田原の役の時、北条氏直の陣所に対する豊臣方の仕寄場へ、城中より夜討が仕掛けられ先手の者たちが
これに対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も付けず鑓を持つと、正面の敵に構わず、敵の後に
ただ一人廻り、敵の後から突き倒し、散々に相働いた。

これにたまらず敵方は城中に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責め立てられ、逃げ惑い堀に飛び込む
者まで居た。これを見て後から駆けてきた侍たち、我も我もと頸を討ち取った。
氏郷は数多の敵を突き倒し、その頸を取った者も多かったという。

関白秀吉はその働きを聞いて感じ入り、「氏郷が活躍するのは珍しいことではないが、今回の
夜討に敵の後ろに回り、一人で切り取り数多の頸を討ち取ったこと、当意の機転、古今稀なる働き
である」と讃えたという。

(蒲生氏鄕記)

氏郷の単騎攻撃のお陰で敵の夜討がボーナスステージに成ったお話。



28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 10:51:47.16 ID:R6dkeP0Z
単騎突撃で死なない人・・・
夜討の混乱状態で後ろに回った機転が、武功と生存の鍵なのか。

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 19:02:19.99 ID:ZEe/6+m0
夜襲したら後ろから奇襲されたでござる
ゲームの主人公かな?

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 20:26:59.26 ID:z22uOANl
>>27
またしても裸アーマーか

吹かねど花は散るものを

2018年06月20日 20:56

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 08:14:50.40 ID:snSb52k0
石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時を越えた讒臣であった。彼はある時、太閤秀吉に密かに申し上げた
「現在は、御世長久に治まり四海の内に旗を立てる(反乱を起こす)者は一人も居りません。
さりながら、会津宰相(蒲生氏郷)は、謀も優れ、良き侍をも数多持っており、先年九戸一乱のみぎり、
私は現地に下って彼の計略を見たのですが、彼の軍勢の人数、そして実施されている法度の数々には
目を驚かされました。

あのような良将を愛して置いては、虎を養えば必ず踵を返すとも言います。」

秀吉も常々、氏郷を訝しく思っていたため、彼を失わせるための談合評定を行わせた。
その頃、天下一の大名で、殊に武道に優れていたのは江戸大納言(徳川)家康であったが、家康は謀に達していた
故に、秀吉の前では作って凡人を装っていた。

しかし氏郷は錐が袋に収まらぬ風情にて、言葉のはしにも人に指をさされまいと心がけていたため、秀吉が
警戒したのも仕方がないのだが、かといって忠功第一の人であるのでどうにも手出しできなかったため
「人知れず毒飼いをせよ」
という結論に至り、ある時、氏郷に毒を盛った。

この毒が祟ったのだろうか、朝鮮征伐の頃、下血を病み、さらにその頃から気色常ならず、面色は黄色くなり、
頬の肉が痩せ、目の下もすこし浮腫した。
秋頃、法眼正純を召して養生薬を用いたが、その後も腫腫やや甚だしく、名護屋にて宗叔の薬が合うのでは
ないかと言われ、彼を召してその薬を用いいたが、その験無かった。

この年の12月朔日、太閤秀吉は何を思ったか江戸大納言(家康)、加賀中納言(前田利家)に、
「諸医者を集め氏郷の脈を見せよ」と命じた。
両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め脈を見せた。彼らは皆「重体です」と答えた。
明けて文禄4年正月まで、宗叔の薬を服用していたが、氏郷の気力は次第に衰え、それより道三の薬を
用いた。しかしながら回復はもはや叶わず、同2月7日、生年40歳で、京都にて朝の露と消えたのである。
この時の辞世の句はこのようなものであった

「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風」

未だ勇々しき年歳を一期と見捨てられたこと哀れなる事どもである。近習外様の老若男女、賤男賤女に至るまで
泣き悲しんだが、もはや詮無きことであった。その後葬礼が美々しく取り繕われ、紫野大徳寺の和尚を請して
一時の烟となった。その戒名は『昌林院殿前参議従三位高岩忠公大禅定門神祇』と号された。

(氏鄕記)

有名な蒲生氏郷毒殺説のお話



872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 08:58:13.97 ID:KwLVBxqB
氏郷記って、政宗が毒を持ったという話もあるし、毒が大好きなんだな。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:09:28.61 ID:88yyrNxx
病気で早世したというよりは、有能さを恐れられて毒殺のほうがカッコイイということか。

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:10:19.19 ID:9mDsavLx
肝硬変の症状だな

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:20:23.02 ID:aKAhGxdn
肝硬変、肝臓がん、直腸がんなどの説があるねい。
んで、症状や闘病期間から毒殺はまずありえないというのが定説。

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 14:29:44.68 ID:v/cke0Ys
氏郷の病状は医学天正記にも書いてたな
確かまとめにもあったような…

心の問はば如何こたへん

2018年06月19日 18:12

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 00:25:10.18 ID:LF7ESyC8
長岡越中守(細川)忠興が蒲生氏郷に、蒲生家重代の宝である”佐々木鎧”を所望したことがあった。
氏郷の家臣である錦利八右衛門は、「似せの鎧を遣わしましょう」と申し上げたが、氏郷は

「『なきなどと 人には言て有なまし 心の問はば如何こたへん』という古歌がある。
お前の言う事、我が心は恥ずかしい。

確かに佐々木鎧は天下に一足の鎧であるから、それが如何なるものか知る者はほとんど居ない。
だが、私は一度忠興に遣わすと言ってしまったのだ。そうである以上、後に残ったとしてもそれは重宝ではない。」

そう言って佐々木鎧を忠興へと遣わした。後になって忠興は、その鎧が蒲生家重代の宝であることを知り
様々に返還しようと働きかけたが、氏郷は決して受け取ろうとしなかった。

この鎧は氏郷逝去の後、跡を継いだ秀行へ返還されたという。

(氏鄕記)



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 05:34:44.11 ID:PX6q8q1U
半分にされなくてよかったな

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 08:36:19.46 ID:FtljizKO
後で知って慌てる三斎さんw
ちょっと珍しいパターンかも。

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 17:39:01.63 ID:780zjbW0
忠興さんええ人やな
氏郷さんもええ人やな

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 18:55:35.55 ID:TBSus3I3
>忠興さんええ人やな
ええっ?……

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 19:13:09.28 ID:MQw5BSy8
鎧の由来とか説明を聞いてなかったのね