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塙団右衛門の討死

2022年02月16日 17:11

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/16(水) 11:20:01.09 ID:QRrDT6wP
一説、塙団右衛門(直之)は大坂夏の陣・樫井の戦いにおいて、多胡助左衛門に射られながら駆け寄り、
多胡の弓の弦を十文字の鑓にて突き懸かったが、その時八木新左衛門が鑓を以て渡り合った。
塙直之は重傷であったが、小家の壁に寄りかかり、八木と鑓を合わせ、首を新左衛門に取らせ、
天晴なる討死をしたという。

別本に、亀田大隅(高綱)の家記に、塙団右衛門を彼が討ち取ったと伝わる。即ち直之の具足も、かの家に
有るという。しかし浅野家においては八木新左衛門が討ち取ったことに決定している。亀田方はこれを
憤ったとされるが、亀田の息子である半左衛門曰く
「父大隅一代の軍功、挙げて数えることも出来ないほどだ。それなのに塙の首一つをとやかくと
論ずるには足りない。如何様にも申されればいい。それに憤るような事は無い。」と申したという。

ある本に、団右衛門の死体を埋めた塚は、樫井村の北の方にあるが、紀伊国衆の小笠原作右衛門という人が
直之の親類で、その塚に五輪を立てたという。

別記に、この当たりの土地の者達曰く、毎年七月十五日には加州金沢の人がここに来て、墓の塵を払い、
燈籠に火を揚げるという。然れば塙の子孫は加賀国に在るのだろうかと言っていた。

新東鑑

塙団右衛門の討死について



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今後斯様の儀は御無用に候

2022年01月22日 17:34

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/22(土) 17:11:02.28 ID:gBV29mvz
大阪冬の陣に於いて、大阪方は博労淵、福島等の出城が幕府方によって敗れたため、
「天満、船場の両町も如何あるべし、この上は両町をも(幕府軍に取られる前に)焼き払うべし」と、
評議し、その方面に在った大野主馬に、軍勢とともに大阪城内に引き取るよう言い送った。

主馬はこれを聞いて、「我万夫に先達て横行の勇を振るわんと志した上は、節に当たり義に臨み、
命を惜しむべきではない!然りと言えども、事に臨んで恐れ、謀を好んで成すのも勇士のする
所である。暫く船場の出城を退かん。」と、十一月晦日に天満四町に火を放って城中に引き退いたという。

或る記に、天満を自焼の時に、何れも旗指物等を、皆打ち捨てて城中へ引き退いた。しかし塙団右衛門(直之)は
少しも驚かず

「自火なのか、もしくは敵方より火を放ったのか見届けるべし。」

と、馬に乗って出て篤と見定め、「自火に相違なし。雑具は捨つるとも、馬物具を捨つるのは武家の恥である。」
と下知し、心静かに本町橋へかかり、城中に入らんとした。ここは織田左門頼長の持口であった故、その
家臣である今中左馬助が罷り出て人数を改めていた所に、織田左門も一騎駆けに馳せ来て、団右衛門を見ると
「其の方の所為にて斯様に及ぶこと、言語道断である!」と申した。これに団右衛門は立腹し

「如何程の軍陣を勤めたとしても、陣払も致さぬ先に、自火する法は承り申さず!諸軍はこの騒動のために
諸道具以下を捨て置き、その見苦しき有様は是非なき事である。さりながら私の組は、兵具少しも
取り落とさなかった。今後斯様の儀は御無用に候!」

と申したという。

新東鑑

大阪方の混乱した撤退を嗜める塙団右衛門のお話。



林が心中尤も至極である

2022年01月14日 15:41

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/13(木) 20:19:07.80 ID:PO3NNjLJ
或る本によると、大阪冬の陣の御和睦の後に、塙団右衛門(直之)の古き傍輩・知音らが、彼の元を訪れ
音信をする中に、水野日向守勝成の家人である黒川三郎右衛門が訪れ来た。
直之は彼との物語の序に、このように問うた

「私の旧知である林半右衛門は、必ず訪ねに来るべき者なのだが、未だに音信がない。
もしかして今回、この表に出てきていないのだろうか。非常に不審である。」

三郎右衛門はこれを聞くと
「半右衛門は今、池田武蔵守(利隆)に奉公し、天満口に居る。」と云う。
団右衛門は即ち黒川三郎右衛門を以て林の方に申し送った

『古き傍輩たちは皆、私の所に訪ねて来ているのに、御身は遂に音信をしてこない。その心如何。』

林半右衛門はこのように返辞をした

『私が貴殿に無音である仔細は、我等は若年の時、「未来大名に成るとも、自身鑓を取り太刀打ちを致さずば
勇士の本意に非ず」と申し合わせた。であるのに先達て貴殿の夜討(本町橋の夜戦)の有り様を聞くに、
貴殿は本町橋の上に在って床几に腰を掛け、白旄(指揮官が指揮をするときに用いる旗)を取り、
その身は手を下さなかったとか。
貴殿は今年四十八であり、未だ勇力の衰える歳ではない。武辺に歳を寄せ勿体を付けた話を聞くのも
如何かと思い、使いも遣わさなかったのだ。』

黒川がこの旨を団右衛門に伝えると、彼は涙を浮かべ

「林が心中尤も至極である!私が夜討の時に大将の仕方を致したのは別儀にあらず、先の関ヶ原御陣にて、
私が足軽の備に張り出した事を、出過ぎた事だとして、故主である左馬介(加藤嘉明)は以ての外に怒り、
『己は一代、人数を引き廻す将にはなるまじ!』と叱った。
私はそれを無念に思い、一生に一度采配を取り、将帥の功を故主に見せたいとの念願により、夜討の時、
むず痒さを忍んで采配を取ったのだ。

最早望み足りたる上は、重ねての事あらば、太刀は目釘の堪える迄、鑓は端食抜ける迄働いて討ち死にを遂げ、
林に見せ申さん!」

そのように語ったと云う。

新東鑑



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 11:57:41.86 ID:KJHdchY6
おや意外と統率値あるんだな

ただ人に先んずる戦を以て

2021年12月04日 16:39

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/04(土) 16:32:21.32 ID:azef0qea
或る記に、大坂冬の陣、加藤式部少輔明成は豫州より渡海し神崎川上に控え、その家臣である
加賀山小左衛門を以て斥候をさせた所、帰り来ると「早く川を越して駐屯されますように。」
と申し上げた。

これに対して加藤家の功臣たる川村権七、佃次郎兵衛一成の二人は
「この寒天、しかも夜陰に及んで川を越えたなら士卒は凍えてしまう。その時に敵兵が寄せて来て
一戦すれば、手足がかじかんで忽ち利を失うだろう。であれば、川のこちら側で夜を明かし、
翌早朝に川を渡るのが良いであろう。」
と申し、皆、これに同意した。

しかし加賀山は重ねて

「拙者の合戦における経験は未だ不熟ではありますが、今宵、川を打ち渡るべきです。
何故ならばこの川の上下に連なる味方の軍勢の様子を見るに、早くも川を渡ろうと用意をしています。
その中でたとえ躊躇する勢があったとしても、一陣が渡れば緒軍皆渡るでしょう。そして明朝
合戦するとき、当家ばかり一戦も遂げなかったとしたら、武名の瑕瑾遁れられません。
かつ両御所(家康・秀忠)の御疑いを蒙り、国家も危うくなるでしょう。

今度の軍は天下中を味方とする事なのですから、戦の土地を争うような端軍とは大いに異なります。
然れば、強いて勝敗にも拘るべきでは有りません。後のことも計るべからず、ただ人に先んずる戦を以て、
専要とされるべきです。」

この言葉に、川村権七は大いに感心した。佃次郎兵衛は頃く思案し
「足下壮年と雖も、只今の諫言は理に当たっている。我等が及ばざる所である。」
そう言うと、加藤家の部隊に忽ち川を渡らせ、北中の島に駐屯させた。
この事について世間では、川村・佃が忠を専らとして、己を立てようとはしなかったことに
感じ入ったという。

新東鑑



関東に下るべきか、それとも大阪城に入るべきか

2021年11月29日 17:22

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/29(月) 17:00:44.44 ID:NLV3QtN+
或る記に、塙直之(団右衛門)は加藤嘉明の元を浪人した後、左馬助(嘉明)に奉公構を受け、慶長十四年に
出家と成り中国地方に在った所、大阪の一乱(大坂の陣)が起こるということを聞いくと直ぐに
「関東に下り、何方へなりとも付いて参陣しよう。」
と、譜代の家人である山縣三郎右衛門という者を召し連れて近江路まで進んだが、この時
諸浪人が大阪に抱えられているという事を知り

「関東に下るべきか、それとも大阪城に入るべきか」

と迷い、心一決せず山縣三郎右衛門に相談した。すると三郎右衛門は
「はるばる東国へ下ったとしても、諸大名やその従臣数多であり、参陣しても禄は多く貰えないでしょう。
大阪へ行かれれば、歓迎され高知を給わるでしょう。さらに軍功があれば大名にもなれるでしょう。
この理、当然のことです。」
と諌めた。

これに「然らば」と、塙直之は近江路より引き返し大阪に着くと、伝手を以て豊臣家に仕えようと
様々に徘徊していた折に、雲居法師が城に出入りするのに行き合ったが、彼は直之の従弟であったので、
その事を話し、直に城中に入ったという。

新東鑑

塙団右衛門、大阪入城についての逸話



加藤左馬助殿は、常に動じない人であった

2021年05月12日 18:49

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 14:31:04.74 ID:H+XpSd11
未の年の正月、岡山に於いて物語された事である。

加藤左馬助(嘉明)殿は、常に動じない人であった。
(秀吉公が伏見に御座の時)殿中に於いて地震があった時も動じず、
また虎が朝鮮国より進上の時、虎の置かれていた大書院の縁を通る諸大名は、虎を恐れて
皆少し退くといった体であった。
山崎甲州(山崎家治カ)も気味悪く思われ、引き退こうとした時、左馬助殿を見ると、
彼は柱にもたれ、嘘眠りをして居られた。(柱ニモタレウソ子ムリテ被居)
これを見て、歯を食いしばって甲州も退かなかったと、甲州が光政様に物語されたという。

烈公間話



165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 15:40:33.86 ID:qwZOPA/Q
嘘眠り見抜かれてちょっと恥ずかしい

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 23:41:50.58 ID:ipb/lOQ8
他人の失態を見るのは失礼だから眠ったフリをしたんだよ

167 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/14(金) 06:40:52.21 ID:Ra1/CEvj
この逸話、かれこれ4回くらいこのスレで出てるけど登場人物が加藤清正と加藤嘉明のバージョンもあったりするけど、出典によって内容が違うんだろうか?

加藤左馬助殿は常に動かない人である

2019年09月04日 17:31

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 18:53:07.73 ID:ca7nyELK
未の年正月、岡山での(池田光政の)御物語り。加藤左馬助殿(嘉明)は常に動かない人である
(常ニ不動人也)。殿中で地震の時(慶長伏見地震。原注:秀吉が伏見にござった時)に動かな
かった。

また虎を朝鮮国から進上した時に大書院の縁を虎を牽引して通り、諸大名は皆少し退き申される
様子であった。山崎甲州(家治)が気味悪く思って引き退こうと致した時、左馬助殿を見なさる
と、柱にもたれて嘘眠りしておられた。

これを見て甲州も歯を食い締めて退かなかったと、甲州が光政様へ御物語りしたという。

――『烈公間話』

家治は文禄3年生まれだから当時3,4歳か



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/04(水) 10:42:49.57 ID:HqI8Jr40
実は腰が抜けていた

【ニュース】「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明

2019年09月03日 17:28

359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:46:52.97 ID:GItnMJTM
京都新聞「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25

滋賀県甲賀市水口町の藤栄神社に伝わる十字形洋剣「水口レイピア」が、約400年前にヨーロッパ製の
レイピア(細形洋剣)をモデルに国内で制作されていたことが分かった。水口歴史民俗資料館(同市)などが
共同研究成果を3日の国際博物館会議(ICOM)京都大会で発表する。
 国内に現存する唯一のレイピアで、アジアでもその存在は知られていない。関係者は「時の権力者が
南蛮人から入手し、好奇心から複製を作らせたという東西文化交流の一つの在り方を示す希有な事例」としている。
 十字形洋剣は、戦国武将加藤嘉明豊臣秀吉から拝領したとの伝承がある。嘉明を水口藩主加藤氏の祖
として祭る同神社が所蔵し、1987年に同資料館に寄託された。
 共同研究は東京文化財研究所の小林公治氏ら国内外の専門家グループが6年前から実施。その結果、
17世紀前半のレイピアを基に国内の技術を結集して制作された精巧な模造品とみられることなどが判明した。
 ICOMセッションで研究成果を小林氏と共同発表する同資料館の永井晃子主査は「地域で大切に
守られてきた宝物の価値が国際会議で発表されることは市民の誇りにもつながる」と話す。

画像
20190902-00000026-kyt-000-14-view.jpg

360 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:47:11.02 ID:GItnMJTM
東京文化財研究所
甲賀市水口藤栄神社所蔵十字形洋剣に対するメトロポリタン美術館専門家の調査と第7回文化財情報資料部研究会での発表
https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/247392.html

この度、世界でも有数のレイピアコレクションを誇るニューヨークのメトロポリタン美術館武器武具部門長、
ピエール・テルジャニアン博士にご来日いただき、現地での調査を実施のうえ、この洋剣に対する見解に
ついて第7回文化財情報資料部研究会にて、「ヨーロッパのルネッサンス期レイピアと水口レイピア」と題した
ご発表をいただきました。
 博士の見解は、銅製の柄部分は明らかに日本製であること、また剣身も日本製あるいはアジア製であって
ヨーロッパ製ではないこと、そして水口レイピアのモデルとされたヨーロッパ製レイピアは1600年から1630年の間に
位置づけられ、その間でもより1630年に近い時期であるが、この剣自体には実用性に欠ける面がある、というものでした。
 この見解は、17世紀前半の日本において、ヨーロッパからもたらされた洋剣を日本人が詳細に調べ上げ、
その模作までも行っていたという、これまでまったく知られていなかった新たな事実を意味するものです。
またその一方で、この剣には高度なネジ構造によって柄と剣身とを接続するなど、ヨーロッパのレイピアには
認められない独自の技術が使われていることも明らかとなりました。こうした独自の特徴は、当時の日本の職人が
見慣れぬ西洋の剣を自身の持つ技術で正確に再現しようと努力苦心し、工夫を重ねた結果であると理解できるでしょう。



361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:51:44.42 ID:GItnMJTM
伝来と製作推定時期が違う?

こういうのでそんなん気にしちゃダメよ
伝世品や家宝ではよくある話だからw

とりあえずコーエーでキャラ化されるときのビジュアルはこれで決まりましたね
イカ頭にレイピアって

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/02(月) 22:16:11.79 ID:Fkp1/lw1
ジミーさんって秀吉から色々なもの貰ってるな

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 10:10:39.63 ID:6rZ+ESk2
秀吉「これいらないんだよなあ・・・嘉明にやっとくか」

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 11:00:09.55 ID:xR9TLq28
なんか知らんが秀吉は嘉明に歯も与えてるな。
貰ってもいろいろ困るだろうに。

参照
君に歯をあげよう
秀吉の歯
366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 16:08:26.41 ID:Yei4roZj
>>364
大明神の歯やぞ

367 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/03(火) 17:23:42.33 ID:LdMBi2cl
>>360
紺糸威南蛮胴具足
http://www.emuseum.jp/detail/100509/001?word=%E9%BB%92%E7%B3%B8&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=2&mode=simple¢ury=

画像
0_0.jpeg

この水口レイピアに限らず、例えば過去ログの「徴古館 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」で鍋島勝茂所用の青漆塗甲冑が、
青漆ではなく西洋絵画の油絵具に近い技法で作製された塗料であることがわかったというのもそうですし、こちらの
榊原康政所用の南蛮胴も、舶来品の改造であると思われていたのが和製の胴鎧であることがわかったというのも、
江戸初期に西洋技法を取り入れようとした実例は意外とあるんでしょうね。
ただしそれがどの程度定着したのかは?


それと、レイピアの調査をした東京文化財研究所は鍋島の具足も調査してたんですね。

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 20:11:00.78 ID:OUs1SCTH
鎧通しをレイピア風に作ってみましたな気がしないでもないんだが

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 20:50:01.06 ID:i7NzSYU+
鎧通しは短くて分厚いものだし
リーチ足らないなら槍というものがあるし

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 23:11:30.61 ID:612t7r84
歯医者さんが考えた歯ブラシ

377 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/07(土) 12:11:45.47 ID:Sq1cwAIv
>>368
wikipediaだけど見てみたら、そもそもエストックとレイピアって基本構造も違ってて
エストックも日本で良くあるイメージのプレートアーマーの隙間を狙う武器じゃなくて、鎖帷子へ突き刺すための雑兵用の代物なんじゃん
レイピアは同じくイメージ通りの護身用、素肌剣術での決闘用のようだけど



173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/03(火) 10:18:15.03 ID:UPaTOunc
★「秀吉から拝領」伝承の十字形洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25


...地味なほうの加藤さんがレイピアを振り回す...



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 15:01:25.11 ID:Yei4roZj
>>173
神社が保管ていうのがまたじわじわくるな

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 17:37:15.93 ID:LdMBi2cl
水口レイピアは悪い話スレの方にも書かれてますよ。

で、藩祖を祀った神社に家宝や伝世品が納められてるというのは良くある話なので、
例えば米沢藩の上杉神社には、信長から謙信に贈られた西洋マントや、豊臣政権の
重役として明朝との交渉で贈られた官服とかが所蔵されています。

家康を祀った久能山東照宮に時計とか鉛筆とかがあるのも有名ですね。

神社に西洋由来の所蔵品があっても全くおかしくないのです。


加藤一分殿

2019年07月10日 17:15

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 15:49:22.27 ID:XPK8fwud
(前略)ところが明成(加藤明成)は闇将で武備を守らず、ただ金銀珍器を好んで臣庶国
民の困窮を顧みず、諸人の肉を削っても金銀となして集めることを喜んだ。

その金銀を集める時は、皆一分にして取り集めた。時の人はこれを“加藤一分殿”と称した。
(原注:“式部”と“一分”は発音が近い故、そのように言ったものか)

これ故に金銀財宝は蔵に充満した。私欲は日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を
掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割り付けて取った故、家士の口論、商工の公事喧
嘩は止むことなし。これ故に老臣は心を合わせ、一同にこれを諫めても聞かず。(後略)

――『古今武家盛衰記』



嘉明家中の者迄みな、前帯に

2018年11月15日 12:11

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 08:22:13.81 ID:wfNGKXgM
加藤左馬殿(嘉明)が密かに家来に物語した事によると

「事を競って居る時は必ず、帯を前に結ぶべし、後ろで結んではならない。
伏見で大地震が有った時、太閤(秀吉)は如何遊ばしたかと、何れもがご機嫌伺いに
走った。この時私よりも足早に行く者があり、彼に行き負けるのも口惜しいと考え、
人混みの中でそっと、かの者の帯の結び目をほどいておいた。
すると彼は門を入った途端帯がほどけ、刀脇差が地に落ち、これを拾い上げ帯を
結び直す間に、私は先に駆け抜けた、という事が有ったのだ。」

この事以降、嘉明家中の者迄みな、前帯にいたしたという。

(武功雑記)



445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 09:58:54.02 ID:0DfYpmTa
刀と脇差だけでよかったな
ボトム全部脱げて下帯丸出しにならなくて

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 11:49:41.15 ID:ZMC6mAH2
これがあるから三斎様は下半身露出しないふんどしを開発したよな

小ネタ「地味な方の加藤さん」で

2017年09月12日 14:24

219 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/12(火) 14:01:47.81 ID:BebqZxQE
小ネタ
「地味な方の加藤さん」でヤフー検索をかけると
何の捕捉もなく先頭に加藤嘉明のwikipediaが
出てくる。



220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 14:04:57.26 ID:zq9eIs7l
加藤光泰「地味にすらなれなかった」

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 14:36:22.50 ID:78lKO1+I
グーグルで検索してもワロタわwww
https://i.imgur.com/7433hNm.jpg
https://i.imgur.com/tdN2sfZ.jpg
7433hNm.jpg
tdN2sfZ.jpg

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 14:38:52.06 ID:+QnJlqGZ
空気だからしゃーない

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 17:19:15.45 ID:NAm1IRRB
>>220
空気なおかげで文禄の役で前野長康といっしょに明軍に負けてるのも知られてないな
一応甲斐24万石の大名になってたんだっけか

河村の才知

2017年07月01日 15:06

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 09:35:57.74 ID:or08M729
加藤左馬助嘉明が伊予の松山にあった時、藤堂和泉守高虎は今治に在城していた。
松山の枝城には、嘉明の弟・主馬が置かれていた。これは今治領との境目であった。

ところが、この境目において在地の争いがあり、高虎の領分の百姓が、主馬支配下の百姓に
殺される、という事件が起きた。

高虎は堪忍致せぬ事態であるから、主馬の所へ軍勢にて押し掛け城を踏み潰すとの噂もっぱらとなり、これが
飛脚により嘉明に伝えられた。これを聞いた嘉明は扇子を手に持ちながら
「さればこそ 人かよいけり あさぢはら」
という歌の上の句を2,3度唱え、暫く黙っていたが

「今、弟を人に殺されて堪忍することは出来ない。今後どうなろうとも、是非出陣して
高虎を討ち果たすべし!未だ主馬が死なぬうちに後責め致すべし!」

そう言って即座に陣触れし、その夜の五つ(午後8時ころ)出勢と決め、諸士ひしめいた。
老臣たちも黙ってこれに従った。

しかし、河村権七といい、彼はこの頃まだ若年で、家老の列に入っていたが末座に控えていたが、
彼が進み出て四方に主張した

「今少し、後思慮なされるべきです!何故ならば、今から出陣いたしましても、高虎の勢が
主馬様の所を攻撃するのに間に合いません。また噂だけで実際に藤堂勢の出勢がなければ、我らが
陣触れして出撃する意味もなく、かえって公儀を軽んじて私の軍を起こしたとの批判も受けるでしょう。
特に藤堂は公儀において重んじられていますから、何を企んで我等に対し手段を致すか、はかりかねます、
今少し実否を正して、その後に後出勢なさるべきです!」

これに嘉明も屈し、その夜の出勢は中止となった。二時(約4時間)ばかりを経て注進があったが、
藤堂の出陣は噂だけで実際に軍が動く様子はない、との事であった。河村の才知が功を奏したのである。

その後、藤堂高虎は公儀に対し「加藤嘉明は境目の紛争で我儘をいたし、陣触れまで行った」事を、
数通の実例を上げ申し上げたため、嘉明の立場は難しいものとなり、身上破却に至る寸前まで行ったが、
様々に弁明し別状無かったという。

(士談)


この両人を以て優れた勇者と

2017年04月24日 17:17

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/24(月) 09:01:54.06 ID:l5bkCo34
大阪冬の陣、塙団右衛門直之の夜討ちの時、大阪方にて勇猛の働きあったのは木村喜左衛門であった。
木村は誰よりも先に出て、蜂須賀の陣より出て来る者たちを叩き伏せた。
しかし股を突き抜かれたが、その攻撃をした相手も突き殺した。
これは蜂須賀家の中村右近であったと言われる。
木村はその負傷が元で、城中に帰った後死した。

また冬の陣の今福の戦いで見事な振る舞いがあって負傷したのは大井可右衛門であった。
彼も、誰も続くものがないほど先駆けし、その戦闘の負傷により城に帰って死した。

冬の陣の大阪方では、この両人を以て優れた勇者とされる、

大井可右衛門は牢人にて京にあったのを、冬の陣前に池田家に招かれたのだが、大野修理が
秀頼の命であると行って、入城させたという。

(士談)


加藤嘉明、仲間の悪口を言った者達に

2014年12月06日 18:54

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/05(金) 23:02:40.57 ID:8QLg9v3E
ある風の強い寒い夜のことである。

加藤嘉明は江戸桜田の藩邸内を見回っていた。
すると一室で若侍が二三人集まって仲間の悪口を言っている。

嘉明は知らぬ振りをして部屋に入り、前日獲った鴨を渡してこう言った。

「お前たちは災害の警備をしているな。慰労としてこの鴨をやろう。
これを肴に酒でも飲め。ただし朋輩を謗ってはならぬぞ。」

一同は恐れ入って言葉もなかったという。



313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 03:49:29.81 ID:W0G6YswX
いいね

盥(たらい)に乗ってでも

2014年11月20日 17:51

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 09:08:37.14 ID:l80z4riQ
太閤は、高麗(朝鮮)の者どもが船を出して日本船の邪魔をしているというので、九鬼大隅守、藤堂佐渡守、加藤左馬之助(嘉明)、脇坂中務、
久留島(来島)らに退治を命じた。
そこで佐渡守の屋敷へ皆が集って協議していると、左馬之助がやってきて「なんで知らせてくれなかったんだよ!」と言った。
皆は「ここは安宅(大型船)を持ってるやつだけで協議してんだよ。お前は安宅を持ってないんだから教えなかったのは当然だろ。」と口々に言ったので
左馬之助は腹を立て、「安宅なんてなくても皆の集まりには盥(たらい)に乗ってでも参上する!」と言って帰って行った。

『弾塚助之進征韓紀聞』
引用元は参謀本部編「日本戦史 朝鮮の役」




843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:05:03.82 ID:bUh9RFbh
涙の捨てせりふ(´;ω;`)

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:07:24.44 ID:7AfqQ5uK
ジミだ。タライっていうのがさらにジミ度アップ。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:33:40.62 ID:fPrFgDdN
地味どころかシジミですな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:42:02.61 ID:V1V66d1R
蜆は栄養価が高いんだぞ!

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 11:30:42.57 ID:w54PN1cb
ジミーの意志は彦左が引き継いだ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 12:29:05.45 ID:4HaHXYef
やべ、ニコニコにある大公開時代のサントラ動画思い出した
あれにちょうど海に乗り出すたらいがあったわw

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 22:37:07.07 ID:Y5ydmYUj
協議の場へ盥に乗って現れるのかと思った

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/20(木) 00:43:02.71 ID:nN8A1gZk
八丈島より泳いで参った!

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 13:50:31.42 ID:WiXHrUYD
>>842
ちなみに「日本戦史」でその逸話には「加藤嘉明の気概」ってタイトルがつけられてるから
つまり、やる気を見せた、いい話という扱いなのだ

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 23:17:54.78 ID:jRwsxZfR
タライで出陣とかよっぽどの気概が無いと出来ないしな

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 23:40:42.82 ID:JvCl2kZo
別にキチガイにだって出来るだろ

加藤嘉明と焼けた火箸

2014年10月22日 18:54

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 20:06:57.02 ID:PqAwp755
加藤嘉明の近習たちがある時、焼火の間にて爐に炭火を起こしていた。
この時、近習の者達は寄り合って、火箸を焼き、これを灰に立ておいて人に取らせようとした。
知らずに火箸を使おうとして手にとって熱さに驚かせる、というイタズラである。

ところが、ここにやって来たのは主君である嘉明であった。
嘉明が火箸を取ると、手から煙が立った。
しかし一向平気な様子で、灰に一文字を書きそのまま差し込み、他の者達と物語などしたが、
手の痛む様子は全く見えなかった。

近習の者達は、もとより主君を驚かせようと思ってやったイタズラではなかったので、各々心中
大いに恐れていたが、翌日嘉明は医者から薬を取り寄せ、程なく完治し、その後何の沙汰もなかった。

(明良洪範)

加藤嘉明、イタズラを気にせず、というお話



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 20:35:46.45 ID:YMTtV9cN
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-28.html
前に見たことあると思ったら6年前に一応出てたのか
出典はないけど

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 23:11:50.82 ID:tFKhZDfj
>>90
島津義弘版を読んだような

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 23:42:45.68 ID:dTZPRtFD
地味加藤の痛覚おかしいだけだろw

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 11:27:02.10 ID:5wAGXIVZ
作左や宗茂みたいに痛くても平気な顔してないと武将じゃないから

嘉明はそう言ったきり

2014年02月27日 19:09

474 名前:1/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:02:38.03 ID:F91xE93Q
池田光政の家老、池田伊賀守長明は加藤嘉明の外孫でもあり、父が早逝した長明は、一時期嘉明に
養われたこともあって、裸一貫から大大名にまでのし上がった祖父を大いに尊敬していた。

ある時、長明は嘉明にその武功を尋ねたが、嘉明の答えは「そんな昔のことは忘れたわい。」
と、そっけないものだった。

「ですが、おじい様は唐の島(巨済島)の海戦等で大手柄を立てた、と聞き及びますが……」

「十五~六歳の小姓が敵船に乗り移ろうとして、矢に当たり海に落ちて死んだ。かわいそうな事をした。」
嘉明はそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。

475 名前:2/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:04:50.57 ID:F91xE93Q
慶長2年(1597)7月、日本軍は巨済島沖で朝鮮軍船団数百艘と対峙した。諸将は対策を話し合ったが、
加藤嘉明は「目に余るような大敵相手に、小勢で当たるのは如何なものか。」と主張した。

ところが肝心の嘉明隊から、敵船団に向かって行く船が現れた。

「あーこれはいかん。わが命に背くあの者共を止めてこい。」
嘉明の命により次々と船が漕ぎ出されたが、いっこうに先の抜け駆けした船に追いつかず、ついには
敵船団に迫ってしまった。

「うーむ。これは、わしが行って止めねば収まるまい。」そう嘉明が言い放つや否や、嘉明隊の全船が
動き出した。要するに、最初の嘉明発言からして仕組まれた、抜け駆けのための策である。

476 名前:3/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:07:05.87 ID:F91xE93Q
河合庄大夫・庄次郎親子ら五人を連れた嘉明一行の船は、敵船団の中を進んでいった。
「殿、船はどちらに着けましょう?」「中央の大船に着けよ。」

船団の真ん中の大きな船に乗り移った嘉明一行を、敵は船内で剣を抜き、鏃を揃えて待ち構えていたが、
一行は恐れず敵中に飛び込んで斬りまくり、この船を乗っ取ることに成功した。
嘉明が船内から甲板に出ると、味方諸将の船団を追いついており、すでに火のついた敵船もあった。

嘉明一行は次の獲物を物色し、十六歳の河合庄次郎が真っ先に別の船へ飛び移った、その瞬間。
狙い撃ちされた庄次郎は海に落ち、そのまま浮かんで来なかった。(常山紀談より)


この武功等により十万石に加増され、大大名への足がかりをつかんだ嘉明だが、
己の無謀な策により海の藻屑と消えた若者たちがいたことを、生涯忘れていなかった。





君に歯をあげよう

2014年02月14日 18:22

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/13(木) 23:44:51.91 ID:PTUORU8V
君に歯をあげよう


慶長元年冬。豊臣秀吉の奥歯が、抜けた
すでに60をこえた老人であるから無理もないことだった

彼はそれを拾い上げて、しばし眺めると

「これを、左馬介(加藤嘉明)に預けておこう」

そう言い出した

『一歯一本、其方ヘ預ケ置候也  慶長元年 極月   秀吉
                            加藤左馬介とのへ』


そんな手紙と共に、豪華なケースに入れられた歯が京都・豊国神社の宝物殿にありましたとさ
秀吉は嘉明のことを結構気にかけていたのかもしれないと感じたわ




354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/13(木) 23:53:05.86 ID:CUk0U8Ep
こんなもんいらねーよ糞ジジイwww

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 00:02:47.44 ID:mhY8AtC7
呪術に使われるもんですのでね

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 01:37:30.09 ID:AcbzGhjf
秀吉「あいつどんな顔するんだろW」

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 07:54:24.52 ID:+JHJY72M
現代でも誰某の使ったなんちゃらがオークションでかなりの値がついたりするからなあ
矢沢永吉の奥歯だって価値が出るやもしれん

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 08:01:12.67 ID://AIZCJn
>>353
…いい話なのか…

いい話…
いいはなし…
いい歯なし…

(゜m゜;)!

良い歯無しなのかっ!!

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 09:23:53.03 ID:SXBHeHVN
>>353
ありがたやありがたやw 嘉明さんは真面目そうで好きな武将だからえがった

しかしながら、嫡子の明成がいる。

2013年10月04日 19:43

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/04(金) 17:51:34.82 ID:fpB3YH0E
寛永四年三月十四日、加藤嘉明は新恩二十万石を賜り、松山から会津への移封を命じられた。

この時、嘉明は「かたじけなき恩命を拝受いたしましたが、会津は枢要の地でございます。
しかしながら、今となっては家臣の武事に馴れた者もすでに亡くなってしまいました。

この地を守る役目におこたえすることができません。できることなら、松山にいたく存じます」
と、これを辞退した。これに対して(将軍の?)「しかしながら、嫡子の明成がいる。

彼がどうしてお前に劣るだろうか。無理に辞してはならない」との仰せがあったので、
嘉明はふたたび断るまでもなかった。そして会津に移り、四十万石を領して若松城に住んだ。

――『寛政重修諸家譜』





432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 01:08:04.45 ID:63EPQkxw
嫡子がアレだから、どっちにしろ駄目だったような

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 17:14:24.46 ID:mWYlaOPV
会津って行く大名ロクな目にあってないように思えるのは気のせい?

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 18:26:23.26 ID:4BQaJR0y
要地だからな。
代替わりとかで任せられないと判断されたら速攻で減封移封

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 18:27:24.42 ID:TpseN78i
譜代の鳥居ですら速攻改易だもんなあ

樫井合戦の時

2013年09月27日 19:50

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 17:44:47.28 ID:yDHM3m1S
樫井合戦の時、先鋒塙団右衛門直之、淡輪六郎兵衛重政、岡部大学則綱以下は三千程の勢を
引き連れ、安松を目指してやって来た。ところで、岡部は去る冬に直之が蜂須賀陣へ夜討ちした時、口論して
共に出なかった事に腹を立てていた。

「今日は団右衛門に先陣を越させまい」と、岡部はなにくわぬ体で先へ乗り出した。これに直之が声をかけて、
「約束の通り胴勢を揃えて攻め寄せようぞ」と言った。岡部は振り返ったけれども、うんともすんとも答えずに
進んでいった。

直之は激怒して「侍の義理を違えて先を駆けるなら今日は必ず討死しろ!さもなくば男は立たないぞ!」
と言って、同じく駆け出した。重政も「某は泉州路の案内をお受けしているというのに、後に残ることはできない」
と、同じく乗り出し、彼らは思い思いに馳せて行った。

(この後、浅野勢と戦って直之と重政は討死)

ある本によると、この合戦が終わった後、米田監物、御宿越前守、上条又八らは安松にて岡部に向かい、
「団右衛門を捨て殺しにするようでは、男は立たんぞ」と悪口したところ、岡部は返答も無かった。

このため、彼らは大野主馬介治房に「臆病者を組に置かれることは無用です」と言った。これに治房が、
「もっともな事ではあるが、今に至って物頭を追放するというのはどうしてだ。御利運の上で」と言ったので、
皆々治房とは不和になったという。

ある本によると、岡部大学は塙団右衛門とは古い傍輩で、加藤嘉明の甥川村権七の母方の叔父だった。
大坂陣の時に城を出て剃髪し『愧世庵』と称した。当時の人が大坂陣の事を尋ねれば「某は隠れもなき者であるが、
男のならぬ首尾のためにこのような身となった。よって合戦のなりゆきは一切知らない」と答えたのだという。

――『新東鑑』