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横田大学の事

2021年09月27日 17:54

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 12:55:44.38 ID:RPHVWC63
徳川家康による会津征伐への発向前、藤田能登守(信吉)取次にて、御所様(家康)より上杉家中において
御存知の輩には、御内通の御書を下され、今度は沼田を限り、奥へ御働きなされることにより、
『裏切りの手を合わせ候へ』との御意があったが、上杉家中の面々は御書を反し進じた者もあり、
また有無の御返事を申さなかった輩もあった。

横田大学は年来御所公と懇意であったので、殊更この時、御懇ろに書を下されたのであるが、
大学はつくづく考えた
「私は、古は大身であったが、秀吉公が関東に打ち入られ、その時本領を放れて浪人した。
今は僅かに二千石だが、上杉景勝に懇意にして頂いている。

只今景勝は小勢であり、御所は数万騎にてこれに取り懸かる。侍たる者が主を捨て、敵方に書を通ずる
ような事は、有るべき儀ではない。」
そう思い、御請の書状を差し上げなかった。

関ヶ原合戦の後、景勝は小身になられ米沢に移られたため、大学も浪人し、駿河へと参った。
そしてその事は城和泉守(昌茂)の取り持ちで、家康公の御耳に達したのだが、召し抱えられることは
無かった。
しかし大阪御陣の時、家康公は南光坊(天海)に対して「横田大学は現在何方に居るのか」とお尋ねに
なられた。その時分、彼は出羽に下り居た。

御所様も大学を勇者と思し召されていることを、この時紀伊大納言頼宣卿が聞き召された。
その時分は常陸介と申し奉り、未だ十三歳であったが、勇知厚き御器量にて、名のある武功の侍を
御所望の御心深く、「何卒、大学を召し抱えたい」と思し召し、板坂卜斎を以て柳生但馬守(宗矩)に
内意を仰せ入れられ、そして但馬守は伊達政宗に大学のことを尋ねた。
但馬守は、あたかも自分が聞きたいために尋ねているようにしたが、これを政宗聞いて

「この大学は人も知りたる者です。一万石ばかりにて堪忍致されるのであれば、私も望みに存じます。」
と返答した。
「奥州においては千五百、二千の大将になり、度々の合戦に勝負致し、敵城をも攻め落とし、我が城も
攻め落とされたこと数十度であり、慥かなる武士です。」と、政宗は物語した。

但馬守はこれを卜斎に語った。卜斎はこの事を常陸介頼宣も(以下欠)

(杉原彦左衛門覚書条々)

原典で最後の方が欠落しているらしく、このあとどうなったのか解らないお話。



75 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/27(月) 13:30:37.94 ID:AugSLeoP
>>74
https://aizufudoki.sakura.ne.jp/zakki10.htm

こちらによると、「新編会津風土記」には最上家に仕えて例の騒動の時にお家存続のために色々頑張ったけど甲斐なく最上家は改易。「横田系譜」では62歳で病死したとか

あと、山内一豊と同一人物説を説くものもあるとか。

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 15:46:21.69 ID:MAPLbMjJ
天海、蘆名氏つながりで蘆名家臣の横田大学(山内豊政)とも親しかった説

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 21:49:18.14 ID:8YXrZf7I
横田大学本人ではないが、
大学の孫が真田松代藩に仕官してる
重文・旧横田家住宅はその旧居
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丁寧に借りパク宣言するむりうじ公

2020年12月02日 19:35

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/02(水) 14:05:18.04 ID:LrkvWOEY
蘆名盛氏、太鼓方の出向延長を伊達輝宗へ要請

~前略~
然らば加納弥兵衛去年より逗留し申し候
内々に御当方へお届けの為、近日罷り立つべくの由申し候
然しと雖も、盛隆太鼓の稽古一向に罷りならざりし候
当春中より秋まで徒に数日を送り候
当冬中に稽古致す為、来春二、三月の時分きっときっとと返す返すも申すべく候間、お暇給わり候わば祝着たるべく候
盛隆稽古し申し候間、斯くの如く申し候
謹言恐々

(天正四年か)九月十三日 蘆名止々斎 花押
米沢(伊達輝宗) 江
(東大史料編纂所 編 大日本古文書

超訳
去年からお借りしてた能の太鼓方の加納弥兵衛、そろそろ送り届けないといけないのですが息子がダラダラしてちっとも稽古できませんで
本来なら二、三月には絶対の絶対にお帰ししますと何度も何度もお約束しなくてはいけないのですけれど
来春まで猶予して頂けたら喜ばしいことでございます
息子も稽古し出しましたので、このようにお願いします

丁寧に借りパク宣言するむりうじ公であったとさ
輝宗の立場がちょっと悪い話



471 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/04(金) 13:17:46.33 ID:3FfByG3y
>>469
きっと加納が眉目秀麗なので盛隆が稽古よりも落とすことに執着していて、この度やっと稽古し始めたことを言ってるのだろうね
加納の尻を鼓に見立てて夜な夜なパンパンと励んでそうだわ

蘆名盛隆殺害事件

2020年03月05日 18:00

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 15:18:45.62 ID:9PH4zRef
蘆名盛隆公が大庭三左衛門に討たれ給うたのどのような理由によるか、と言えば、
ある年、盛隆公が八丁目に出馬され陣を貼り、伊達政宗公と決戦されて、伊達の軍悉く破れて引き退いた。
蘆名勢はこれを急追し、伊達の兵を数多打ち取って勝鬨を作り、そこから戻って御帰陣の時、二本松の宿を
通った。

この宿では貴賤群衆して蘆名勢の凱旋を見物したが、この時、ある町家の内に十四、五歳の容儀勝れた童が、
片手に色有る花を一枝持ち、前に書物を広げていたのを、盛隆公が見つけた。
盛隆公は少しの間、この町家の前に馬を留めると、その主人に、使いを以てその子を御所望された。
彼の父母には否やという言葉はなく、御所望にお任せすると応えると、盛隆公は御悦び斜め成らず、両親に
物の具を給わり、少年を自らの引き替えの御馬に乗せて会津へと共に帰城した。この少年が大庭三左衛門であった。

盛隆公が大庭三左衛門を寵愛し給う事限りなかった。
しかし愛楽の互いに替わることは、紅の栄えから?して落ちる樹に例えられる。まもなく君の寵愛も廃れ、
御志も枯々となった。

これに大庭三左衛門は恨みを含んでいたが、家中の譜代相伝の子たちは、三左衛門に権を取られると
安からぬ事に思い、妬ましいと思っていた所に、これを見て悦び、三左衛門に聞こえぬ所で、彼を
『鴨汁』と渾名を付けて笑っていた。これは「醒めては喰われぬ」という意味であった。
後になって三左衛門はこの事を密かに聞いて、胸塞がり心迷い、跳ね上がったように大息をついて、
昼夜これを思うに骨髄に徹し、忍びがたきこと限りなかった。

このような所に、ある人が三左衛門に向かって「今朝の(盛隆の御前での)御鴨汁の御料理に御参りになるように」
と言ってにっこりと笑った。
三左衛門はこれを聞くと、毒矢を胸に受けたよりも甚だしく堪忍に及ばず、彼を一刀に斬って憤りを休んじ、返す刀で
切腹しようと思いきったが、大汗を流してそこは堪忍した。

「これは他の誰が言ったわけではない、屋形(盛隆)の仰せである。咎なき奴を殺し徒に命を捨てるより、屋形を
一太刀討ち申し恨みを泉下に報ぜん」
と思い定めた。

「明日、盛隆公を討ち奉らん」と考えていたその晩、三左衛門は知音朋輩達を呼び集めて丁寧に振舞った。
彼は交わりを深くして酒を進め、にっこりと笑いながら客に向かってこのように言った

「昨夜の夢に、私の望みが叶う事を見ました。その内容は三日過ぎて各々に語りたいと思いますが、確かな吉夢で
ありましたので、これを喜ぶために、今朝にもと考えましたが、昼間は互いに公用重ければ、座席を急いで
立ててしまうと心残りも多いと思い、大した饗しも出来ませんが、一盃奉る饗応のために、このような夜中に
申し入れました。緩々と過ごして頂ければ辱き次第です。」
そう言って、色々と様々な肴を調え、盃を指しつ指されつ、舞い、謡い、いかにも亭主ぶり、結構華奢に興を催し、
快く酒宴を終え、夜に及んでも明朝死ぬと思う気色は少しも見えなかった。
客人が座席を立って帰る時、彼が「名残惜しい」言った言葉の意味を、客たちは後になって思い知った。

夜も明け十月十日の早朝に、三左衛門は沐浴焚香し、出仕の衣装を美麗に着、袴をつけて御広間へ出た。
丁度その時、盛隆公は御鷹を据えられ椽の柱にもられられていた。御前に近習の者達も居らず、ただ一人御座していた。
三左衛門は椽を一礼して通ったが、普段は刀を抜いて、差さずに通るのだが、この時は刀を指したまま通り、
そして振り返りざまに声を出して、一刀斬りつけ奉った。盛隆公は深手であったが「心得たり!」と御腰の刀を
過半抜かれた所を、三左衛門が二の太刀を継ぎ、斬り伏せ奉った。

そして大手の方へ走り出たが、これを追いかけ討ち留めようとする者も無く、諸人驚き騒ぎ、慌てて屋形の死骸の御傍に
群がり集まった。そのうちに侍一人が三左衛門を追って行くと、跡から人数多続き、三左衛門は二町余り逃げ延びたが
追い詰められ、打ち殺された。
彼の体を見ると、下には白き絹の衣装を着け、六文銭と数珠を首に掛けており、逃げて生き延びようとは思わなかった
ようである。
いかなる因果の報いもて主君を討ち給わったのか。さても余りある次第である。

そしてその後、盛隆公には御子が無く、会津の御家を継ぐ御方が無かったために(実際には嫡子亀王丸が有ったが夭折)、
佐竹屋形の御子に、義宣の御弟義広(蘆名義広)と申す人を御名代に立て申し、御入部ありて義広公の御代となった。

藤葉榮衰記

大庭三左衛門による蘆名盛隆殺害事件について



892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 08:05:37.78 ID:jxfsYbE9
>>886
お持ち帰りして飽きたらポイーってそら恨まれるわ

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 22:17:40.32 ID:RxaGC4uW
>>886
痴情のもつれか
武家の子じゃないから家臣としてはうまく使えなかったのかな
美少年だからって適当に手を出したらいかんな

蘆名盛隆と美麗な小姓

2018年05月15日 21:02

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/14(月) 19:27:57.57 ID:l7ZwV+IQ
蘆名盛隆の麾下であった二本松義継の小姓に非常に美麗な者があり、盛隆はこれを貰い受けたいと
伝えた所、義継は「あの小姓は随分甲斐甲斐しいのだが、悪しき所もあり、やめたほうが良いと
思います」と答えた。

盛隆は義継があの小姓を手放すことを惜しんでそのよう事を言うのだと思い、不満を漏らした。
しかし義継としては、惜しむような気持ちは一切なかったので、「そこまで思われているのなら」と、
かの小姓を盛隆の元へ遣わした。

盛隆は2,3年はこれを寵愛したが、次第に疎となり、またこの小姓の噂を、近侍の医者に
色々と申し聞かせ、この医者がさらにこの事を様々に語った。
これをかの小姓は深く恨んだ。

ある時、蘆名盛隆は鷹を据えて縁の柱に寄りかかり、近くの者たちにこれを見せていた所、
かの小姓が通りかかった。盛隆は小姓の名を呼び、「お前もこの鷹を見よ」と進めた。
小姓は「心得候」と返事をするや、刀を抜いて盛隆を二刀斬りつけるとそのまま走り去った。
この時盛隆の周りには武士が5,60人居たのであるが、皆狼狽えたのか慌て、かの小姓を
討ち止める者は居なかった。

小姓はさらに、噂を広めた医者の所へ向かい門を走り抜けようとした所、門番が不審に思い
彼を止めた。そこに追手の者達が追いつき、小姓を討ち取ったという。

(老士雜談)




754 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/14(月) 20:39:11.24 ID:u5qrCqxx
小姓「衆道とは修羅道と見つけたり」

主人を裏切った天罰でしょう

2018年01月10日 18:14

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/10(水) 09:24:14.09 ID:dL0PHSS6
伊達政宗が会津を速やかに制することが出来たのは、会津代々の家老、平田、松本、佐世、
富田といった、世に蘆名四天王と呼ばれる人々を始めとして、多くの重臣たちが謀反した
ためであった。

中でも安積郡の押さえとして猪苗代という城があり、ここに猪苗代弾正(盛国)といって、
蘆名数代の臣下があったが、欲に心を奪われ代々の主人に逆意して、政宗を引き込み
彼を猪苗代城に入れた事が、蘆名滅亡に直接つながったという。

かくして政宗は会津を存分とし、知行割をして功臣を賞した。
この時猪苗代盛国は伊達安房守成実を通して申し上げた

「かねがね会津別心の時、三ヶ条の望みとして申し上げていました通り、北方の半分を
下されますように。」

政宗は尋ねた
「弾正は北方にどれほどの所領を持っているのか?そなたに半分与えるとは聞いていないが…」

「私は北方には、領分少しもありません。恥じ入ることですが、譜代の主人に逆意仕ったのも
身のためであります。」

そして盛国の家臣である薄源兵衛と申す者が発言した。
「それがしが、その書付を書きました。”半”の字が無ければ切腹いたします!」

そこで政宗がその書付を取り寄せると、そこには『北方分』とだけ書かれており、『半』の
文字は無かった。

盛国は驚愕し
「主人を裏切った天罰でしょう」
そう言って猪苗代へと帰った。

しかし彼が伊達勢を引き入れなければ、会津はこのように速やかに奪うことできなかったと、
政宗は北方において五百貫の加増を盛国に与えたという。



472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 22:14:30.48 ID:RtY44ibW
>>470
で薄原は切腹したの?

蘆名盛隆の悪い癖で

2017年04月22日 17:04

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/22(土) 16:59:17.93 ID:hu64FrmF
会津の蘆名盛隆に、三左衛門(大庭三左衛門)という小姓があった。
彼は18歳までに3度、敵と鑓を合わせたことから、三左衛門と号した。

はじめは二本松家に仕えていたが、蘆名盛隆が気に入り、これを所望した。
二本松側は「心を見届けて居ない者であり、如何かとも思いましたが、たっての御所望ですので
遣わします。」と、会津に彼を遣わした。

会津において彼は盛隆に寵愛された。しかし、後になるとその寵愛も衰えた。

蘆名盛隆の悪い癖で、彼は初めに寵愛した小姓も、成長のあとは必ず悪く云い、噂も色々と言い立て、
嘲弄することを好んだ。
三左衛門もこの仕打ちを受け、深く憤った。

ある朝、盛隆が鷹を手に据えて居た所に出てきた三左衛門に対し、彼を侮り嘲った。
三左衛門、一刀にて主人を殺し、逃走を図った。

蘆名家の家老たちはその座に居ながら、呆然として三左衛門を仕留めることはできなかった。
その次の間まで切って出たときも、ここに居た24,5人の番人たちは仕留められず、彼は
そこから駆け出た。しかし蘆名家の者たちも追々集まり、遂に打ち留めたという。

(士談)


盛高の武勇は世の常にあらず

2015年11月30日 07:21

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 17:56:04.54 ID:e0erDwHE
蘆名盛高の旗本であった猪苗代某は、当時14,5歳の美少年であり、新國藤兵衛と言う者と知音であった。
両者は談合して、盛高が羽黒に向かって留守の間に、若松の城を乗っ取った。

しかし盛高は帰ってその夜のうちに取り返した。上記の両人も城中にて打ち取り、その他の者たちも
撫で斬りにした。盛高の武勇は世の常にあらずと、人々は皆感じ入った。

この時、原田如礫と言う者、盛高に従い「今夜は頸3つほど取る!」と宣言し、結果その言葉の
通りであった。この如礫は会津三千騎の内でも無双の勇士であり、常にこのように言っていた

「総じて、合戦の場に挑んで人の集まっている所に向かうから手柄を致さぬのだ。
わたしはそういう時は、人の寄り付かぬ方に向かうようにしている。」

ある時、足軽を殺して立て籠もった者があった。人々が取り扱いかねた所に、如礫行って、
自分の太刀を縄にくくりつけて、立て籠もっている者に投げ渡し、話しかけた

「この上は安心して私を近づけよ!その方の誤りなき理由を聞かせよ!」

かの者も同心し、彼を近づけた、如礫はその所で踏み込み、これを召し捕った。

(武功雑記)

会津蘆名盛高の人間兵器のような主従についてのお話



57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 03:19:13.97 ID:o9Mt8xQ8
>>54
盛高さんってただのホモだと思ってたけど
武勇伝

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 12:13:30.38 ID:qaNYrNrp
それは"隆"さんでは
"高"さんが城を乗っ取られたことがあるかは知らないけど

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 16:46:34.57 ID:NTZPLXHk
ここが詳しい
http://bushomemo.blog.fc2.com/blog-entry-977.html

蘆名義広の改名

2013年03月15日 19:57

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 20:14:10.16 ID:7q8hpfO6
天正17年(1589)、蘆名義広は摺上原の戦いによって、従兄に当たる伊達政宗より会津を追われた。

それ以前から伊達政宗の累年の狼藉は豊臣秀吉の耳にも聞こえており、蘆名義広に対して少々の
援助は有ったものの、何と言っても都鄙は遠く離れており、援兵を送ることが出来なかった。
その為この様な事態になったのである。

こういう事であったので秀吉は義広に、会津を奪われた罪を問うこともなく、この年、
小田原征伐のため関東に下向した後に、政宗を所領を取り上げ、先規のごとく義広を旧領に戻すと、
折あるごとに伝えてきた。
これを義広は一途に頼りに思っていた。

さて、3月になって秀吉は、北条退治として相模国に下向し、小田原にしばらく陣を定めた。
この時蘆名義広は石田三成を通して、前から内々に言われていたよう、会津への復帰・安堵の
御沙汰が出ることを願い上げたが、はたして、鳥がいなくなれば良い弓も捨てられ、兎が死ねば
猟犬も煮て食われる、という諺の通りであろう。

秀吉は去年までは、北条を退治することを心にかけ、関東・奥州に一人でも味方をつくろうと
考えている時は、義広にも会津への復帰の御沙汰などあったのだが、この頃小田原北条氏は
秀吉軍の猛攻に言う甲斐もないほど弱り果て、残った燭の火が今まさに消えようとする有様であり、
逆に秀吉の威光の上り立つこと、烈火の焔を巻くにも似ており、この様な状況で義広は、
旧領復帰の沙汰を、言い出すことすら出来なかった。

こう言った状況で、取次の石田三成は蘆名義広に対し、内々にこのように提案した。

「あなたは”義広”と名乗っていますが、蘆名の家督を相続されたのですから、(蘆名の姓である)
平氏累代の一字、例えば”盛の某”などと名乗るべきなのです。
それなのに、いかに源氏の名門である佐竹の御子であるとは申しながら、養子に入っても
そのまま”義広”と名乗られていること。これでは平氏の家督を相続されたとは、言い難いのでは
ないでしょうか?」

これを聞いた義広は、誠にその通りだと思い、すぐに”盛重”と改名した。
その後も折につけ様々に訴えたが、秀吉の方ではこれに全く関心を示さず、会津の旧領を
回復することは終に無かったのである。
(会津四家合考)




914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 23:36:32.21 ID:q2hi2GXb
三成のエピソードは何なんだ。名前変えたらいいことがあるのかと思いきや何もないじゃないかw

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 02:59:22.00 ID:Rsw3PLK2
アピールしすぎてウザがられたんじゃw

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 06:36:54.47 ID:L/B8O0RT
前線で一隊率いてアピ。アボーンすればそれで御仕舞いリスクはあるけど。

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 09:55:37.06 ID:bmlkKorS
三成ってほんと、普段気を遣わないくせにたまに余計な気を遣って失敗しますます恨みを買うっていう、
天才タイプというかなんというかだな

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 10:43:46.45 ID:dvPhRh2j
養子とはいえ佐竹の子息だし勢力拡大を恐れたんじゃないの?
小田原で何か戦功があったわけでもないのに旧領復帰とか虫がよすぎる

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 14:50:16.84 ID:Oh8VcyrX
家康と政宗の両方を牽制しないといけない場所に
家柄だけの人間を置くわけにはいかないだろうな

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 15:46:14.35 ID:81johXuF
まーくんと仲良く攻めて来ちゃまずいしかといってタヌキとま-くんとガチ戦争するような
椰子でもまずい・・・やっぱ工場長とかになるだろうな、クロカンじゃ絶対陰謀しそうだし

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 18:21:11.24 ID:RguHCmfy
>>914
>>917
「はいはいわしが悪いわしが悪い」


盛備は寸刻思案すると恐れ入りながら

2012年05月07日 21:01

45 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/06(日) 17:56:27.37 ID:cTDmFpmn
会津蘆名の臣、金上遠江守盛備は「蘆名の執権」と称され
家中の政事、軍事を取り仕切った重臣であったが、
弓馬の道だけでなく会津出身の僧・岌州を通じて
細川幽斎と和歌のやりとりをする等、
一流の教養人としても知られていた。

盛備は生涯三度に渡り、主の名代として上洛しているが、
今回の逸話は天正十六(1588)年、三度目の上洛の時の事。
会津訛りを嘲った都人をその教養で逆にやりこめた話は
このスレでもすでにでも紹介されているが、
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3677.html)
この逸話を聞いた後か、その前か、盛備と引見した関白秀吉

「その方、鄙にも稀な風雅の人と聞いているが…どうだ、この句に上句を接いでみよ。」


 「女も鎧を 着るとこそ聞け」

と下の句を詠んだ。盛備は寸刻思案すると恐れ入りながら


 「姫百合か とも草摺りに 花散りて」


と詠み上げた。
「女も鎧を~」というのは、源義経の郎党・佐藤兄弟が戦死した後、
嘆き暮らしていたその母を慰めるため、兄弟の妻が二人の形見の甲冑を
身に着け、その雄姿を演じてみせたという故事に取材している。
盛備の郷里である陸奥国の英雄二人の逸話を秀吉は題材に取ったわけである。
(ただ佐藤兄弟の出身地信夫郡は(●Д・)の故地近くだったりするけど気にしないw)

草摺りは鎧の腰周りから膝上にかけてを守る、スカート状の部分であり、
野をゆき、足に摺った姫百合の花が散る様子と、二人の姫君がともに
草摺りを身に着けて舞う様子をかけたわけである。
このみごとな返歌に秀吉は天晴であると賞賛し、盛備に
帰国時の人夫伝馬の便宜はかる朱印状を下賜したという。

また盛備が上洛途中、近江の国で詠んだ一首が残っている。

 「雪ならば いくたび袖を払はまし しぐれを如何に 志賀の山越え」
  (雪ならば何度でも袖を払い落とせるが、袖に染み着く時雨は
   この志賀の山を越えるのにいったいどうやってしのごうか)

当時の蘆名家は伊達家の侵攻に加え、家臣団の対立により四分五裂しており、
外敵(雪)の侵攻ならば自分が何度でも追い払って見せようが、
払う事が出来ぬ家中の内紛(しぐれ)どう収めるべきかという、
盛備の苦衷を詠んだ歌と言われる。

蘆名家が摺上原の合戦で滅亡し、盛備がそれと運命を共にするはこの翌年の事である。





そんな金上さんのノブヤボでの教養値

ttp://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/fuundata.cgi?keys2=%8B%E0%8F%E3&index=&IDn001=AND&sort=&IDn002=key&IDv002=%81%9B&print=25
ttp://hima.que.ne.jp/tenkasousei/tensoudata.cgi?up1=0&keys3%2C6=%8B%E0%8F%E3&index=&IDn001=AND&sort=&print=20

・・・。




46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 18:03:47.27 ID:sJJIdEjv
あの訛りの逸話好きだったな

生き延びて豊臣政権でも活躍してくれればどっかの大名もホームシックにならずに済んだかも

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 18:48:43.75 ID:cH/2mGpz
>>46

「(前略)同じ奥羽の者でも、会津の金上入道などは、
都人の意地悪も当意即妙に切り返して、陪臣なのにリア充しちゃってます。
それに比べ、私なんて気の利いた返事すらできません。
ああ、はやく帰りたい・・・」
冗談はさておき、金上さんと北の爺様って似てる印象
同世代だし、御家騒動豪腕で収拾して、若い主君のかわりに年取っても骨折って・・・。

ただこっちは最後は滅亡しちゃったから、ノブヤボでの能力も、このスレでの知名度も差が開いちゃってるけど。

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 18:55:41.25 ID:gP7h//ue
個人的には運の無い直江兼続って印象だ>金上さん

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 19:05:55.68 ID:O2BIk1Yn
>>47
北信愛も教養人だったそうだしね

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 19:05:58.92 ID:cH/2mGpz
>>48
確かに頑張れば頑張るほど
「あいつでしゃばり過ぎ、死ね」
となる当たりはそっくりだな

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 19:10:28.06 ID:cTDmFpmn
>>47>>48
主導した佐竹との養子縁組が結果論だけど
最後のトドメになっちゃったのは痛いと思う
まぁ、マーくんも信頼できんけどw

蘆名盛隆が大庭三左衛門に討たれるに至ったのは

2011年12月01日 22:00

219 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 17:48:27.07 ID:9ujpDut+
蘆名盛隆大庭三左衛門に討たれるに至ったのは、このような理由があった。

有る年のこと、蘆名盛隆が八丁目という土地で伊達政宗と戦いこれを大いに破り、追撃をして
伊達の将兵数多討ち取り勝鬨をあげ、居城へと帰陣する途中、二本松の宿を通っていた時である。

ここで群集大いに集まり盛隆の凱旋を見物した。
そんな中、ある町家の中に、14・5歳の容貌優れたる少年が、片手に色美しい花を持ち、前に書物を広げ、
表の騒ぎも気にかけず読書をしていた。

盛隆はこの少年に気が付き、その家の前に馬を止め、彼の両親に伝える
「あの少年を貰い受けたい。」

突然のことに驚いた両親であったが、元より辞するという言葉も無く「ご所望にお任せします」と答えれば、
盛隆は多いに喜び両親に物の具を与え、少年を自分の変え馬に乗せて騎乗した。
この少年が大庭三左衛門であった。
蘆名盛隆は三左衛門を深く愛し、その寵愛は限りがないかのようであった。

しかし紅に栄える葉もやがて黄となり木より落ちるもの。時が経つと共にその君寵も衰えていった。
これを三左衛門が恨みに思っていたところを、彼が君寵によって取り立てられたことを妬ましく思っていた
譜代の若者たちは、その失落を喜び、三左衛門の居ない所で彼を『鴨汁』と仇名して笑っていた。
その意味は「冷めては食われぬ」ということであった。
後で三左衛門は自分がそう呼ばれていることを知り大変なショックを受け、昼夜深く悩み、このような屈辱に
耐え忍ぶことが出来なかった。

そんな時に、ある人が三左衛門に伝えに来た。

「御屋形様(盛隆)が、今朝のお食事は鴨汁なのであなたも参るように、とのことです。」

そう言って、ニッコリと笑った。


220 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 17:48:59.72 ID:9ujpDut+
三左衛門はこれを聞くと、毒矢が胸に刺さったよりも激しい心の痛みを感じた。この者を斬ってこの憤りを晴らし
返す刀で自分も腹を斬って果てよう。とっさにそう思ったが、尋常ならぬ努力でこれを耐えた。彼はこう考えたのだ

『この事は他の誰が言ったのでもない、御屋形様がそう仰せられたのだ。ならば罪なきものを殺し徒に命を捨てるより、
御屋形様を一太刀討ち申し、恨みを泉下に報じよう!』

そして明日、盛隆を討ち果たそうと心に決め、その夜知人友人を呼び集め酒肴を振舞った。彼は客人に
「実は昨夜、我が望みが叶う夢をみたのです。夢の内容は三日後に語ろうと思いますが、突然の吉夢であったため、
これを祝おうと皆様をお呼びしたのです。」
そう言って盃を指しさされ、舞い謳い、実に楽しい酒宴を主催した。

翌、天正12年(1584)10月6日、早朝

大庭三左衛門は沐浴し香を焚き、出仕の衣装を美麗に着こなし城の大広間の方へと向かった。
この時、蘆名盛隆は丁度、広間において鷹を据えて柱に寄りかかっており、まわりに近習もおらずただ一人で居た。

これを見た三左衛門は一礼をして縁を通ろうとした。ただ、本来ならここは刀を刺さずに通るべき所であったのを、
この時は刺したままで通る。と、その瞬間、「キエーーーーー!」叫び声と共に振り返り、盛隆を一刀、斬った。
深手ながら未だ意識がある。盛隆は腰の刀を抜こうとした。その前に三左衛門の二の太刀。盛隆は絶命する。
すると三左衛門は大手門の方に走っていく。

蘆名家の家臣たちはこの騒ぎを聞きつけ集まったが、三左衛門を追いかけ討ち取ろうと言う者はなく、ただ
盛隆の死骸の周りに集まり周章狼狽するばかりであった。
が、ようやく一人の侍が三左衛門を追いかけ走った。これをきっかけに人々次々と彼の後を追う。
三左衛門はニ町(約200メートル)ほど逃げ延びたものの、ついに追いつかれ討ち殺された。

三左衛門の死体を改めると、出仕着の下には絹の死装束を着、六道銭と数珠を首にかけていた。
これを見た人々

「死ぬ覚悟をしていたのは明らかなのに、どうして逃げて生き延びようとしたのだろう。
いったいどんな因果の報いで、主君を討つようなことをしたのだろう。
何もかも理解出来ないことばかりだ。」

と、この事件をどう受け止めれば良いのか、皆、悩んだということである。
(藤葉栄衰記)




221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 18:12:57.57 ID:745KC2vW
僕のおしりじゃもうダメなんだ…っていう悲愴な思いがひしひしと伝わってくる

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 18:28:02.89 ID:tpbQ213m
戦国の武人で今日死ぬって心を決めててもいざとなったら気が動転してしまうのかあ

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 18:43:29.03 ID:bBtxXZOC
前日談の異聞
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2418.html
>この後、二人がどうなったのかは知ってのとおりである。
これを読んだ時、コメントしている人のように続き書いてくれよ、とつっこみたくなったからありがたい

ついでに
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1866.html
この時つかまえた鴨を汁にしようとしたのかな
つまり、鴨つかまえて死んだのはただの偶然じゃなかったと


225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 00:03:53.23 ID:eQ57+vaX
このスレ見てると男同士の恋愛の縺れは男女よりドロドロしてる気がする・・・

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 07:49:36.13 ID:2jMGGzRD
>>225
当時の男女間の話は政治的なものが関わることがよくあったからね
己を抑えて終わらすことも多いのでは
 
男同士だとそういうのが少し緩かったんだろう

猫魔の黒猫

2011年06月25日 23:20

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 09:15:51.28 ID:+wPy8F18
天正12年(1584)11月、伊達政宗の桧原侵攻により、それまで伊達勢を防ぎ続けた岩山城も
ついに陥落。城主・穴沢新右衛門俊光は一族もろとも自害して果てた、と云う。

しかし俊光の長男・善右衛門俊次(広次)はその時たまたま小田原にあったため無事で、
その後蒲生氏郷に仕え会津に帰還した。

さて、そんな穴沢善右衛門が磐梯山にある温泉に、妻子を連れて湯治に来たときのことである。

善右衛門は湯治場の下男を連れて山の麓にある池に釣りに出かけた。
その日はいつになく魚がかかり、その面白さに二人は宿に戻るのを忘れ、日が暮れたため
近くにあった仮小屋に泊まった。
小屋の中で釣った魚を焼いて食べ、よもやまの話などをしていると、ふと、小屋の戸の方から
こちらを見ている人間が居ることに気がつく。なんと、それは善右衛門の乳母であった。

善右衛門は大いに驚き彼女を中に招き入れ、魚を再び焼いて与えると、乳母は嬉しそうにむさぼり食べた。
そうしているうちに夜も更け、3人も川の字になって眠る。…ふと、善右衛門は猫の声が聞こえる事に
気がつく。目を覚まし傍を見ると、そこにいたのは乳母はなく、真っ黒で巨大な猫であった。

「こんなところに我が乳母が来るわけもないと怪しく思っていたが、さてはこいつが磐梯山に棲むという
化猫の魔物か!」

善右衛門は刀を取って振り下ろすと、魔物は一声上げて、絶命した。

翌朝、善右衛門と下男が湯治場に戻るため山道を登っていると、駆け下りてきた湯治場の主人に
でくわした。主人は混乱した体で善右衛門に告げる

「あなたの奥様の姿が、突然見えなくなりました!」

すぐに近隣の村人にも頼み、辺り一帯の捜索をした。そして2日後、山深い沢の断崖で、大木の枝に
妻が死体となって引っかかっているのが発見された。

その木の近くには、年老いた木こりがいた。善右衛門は木を伐って妻を降ろしてほしい、と頼む。しかし木こりは
「ならばあなたが今挿している刀を貸してください」と言い出す。善右衛門は不思議に思いそれを断ると
きこりはたちまち、先日のものよりさらに大きな黒猫へと姿を変えた

「二日前お前が殺したのは我が妻であった!その怨みによりお前の妻を噛み殺し木にかけ、ここで待って
いたのだ!」

と叫ぶと木を駆け上がり善右衛門の妻の死骸を咥え、雄国山中へと飛んで行った。

善右衛門は驚き、桧原より一族を呼び寄せ猫が飛んでいった方向を探す。
そして磐梯山の西、雄国沼南東の岩場にある穴に、善右衛門の妻の死骸を咥えたまま、目を見開き
睨みつける黒猫の姿が発見された。
善右衛門とその一族は穴を取囲み、善右衛門が一刀のもとに黒猫を斬り殺す。こうして彼は妻の
亡骸を取り返した。

彼が黒猫を切った刀は、穴沢家初代俊家が盗賊文太郎を切った時に、葦名盛高より賜った家宝の名刀であったが
この後から『猫切丸』と名づけられた。そして黒猫が斬られた岩は『猫石』、その山は『猫魔ヶ岳』と
呼ばれるようになったという。

磐梯山に伝わる、猫魔の黒猫の伝説である。





763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 15:52:38.95 ID:MsCShzcp
>>761
化かした事以外特に悪事もしとらんし旦那猫が報復に来るのしょうがない気もするなぁ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 16:46:21.87 ID:hIIeBjYi
戦国武器○○切りシリーズに新たな1ページが刻まれた
効果は猫科属性の敵に大ダメージだな、鍋島さんが喜びそうな武器だ

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 17:13:51.88 ID:LMM+bejz
化猫さんも凝った真似せずに普通に近寄っておねだりすれば魚くらいもらえただろうにな。

あと「猫切丸」っていまいち強そうじゃないよね・・・

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 17:26:52.59 ID:iIXHFcvK
もしかしたら猫魔スキー場の事かな。
イメージキャラの黒猫は可愛いのに。

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 17:59:50.15 ID:i4u/sEmt
猫と雖も400年も経てば立派なゆるキャラですね

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 22:13:06.84 ID:XdLaq3iV
磐梯山というか、猫魔ヶ岳というまんま化け猫伝説の山が磐梯山西側にある。
そこにあるのが猫魔スキー場。伝説にあやかったねこまんまが食堂メニューにある。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 23:15:48.50 ID:LMM+bejz
現代人の商魂がたくましい話ですね

蘆名の勇者・河原田如礫

2011年04月10日 00:01

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 22:32:43.91 ID:WTLYu8Ac
蘆名盛高といえば戦国初期、蘆名氏を戦国大名として飛躍させた名君である。

その蘆名盛高の家臣、猪苗代某は当時14・5歳の美少年であったが、新國藤兵衛という者の愛人であった。
この両名が談合して、蘆名盛高が向羽黒が出かけた留守に、若松の城を乗っ取る、という事件があった。
しかし高盛はそれを知ると直ぐに取って返し城に突入、猪苗代、新國両名を城中にて討ち取り
さらにその協力者たちも皆撫で斬り(皆殺し)にした。
この時の事、『盛高の武勇、世の常にあらず』と、人々から大いに感嘆されたという。

さて、この時蘆名盛高麾下の河原田如礫と言うもの、若松の城への突入前、盛高に

「今宵は首三つほど取りましょう」

と言い、その言葉の通りの働きをした。
この河原田如礫というのは、会津三千騎の内でも無双の勇者と呼ばれる男であった。
彼は常に

「総じて戦場にあって、軍勢が集中している所に同じように寄って行っても居、手柄を立てることは
出来ない。私はそういう時はあえて、軍勢が集まって居ないところから攻めかかるようにしている。」

と、言っていたと云う。

さてある時、城下である者が足軽を殺して立てこもる、という事があった。
この者強く人々手を出しかねているところに、河原田如礫が来て、自分の太刀を縄でくくりつけ
立てこもっている者に投げ渡し、語りかける。

「このように武器は渡した!安心して私を近付けよ!その方の言い分を私に聞かせなさい!」

立てこもりの男、これに納得し如礫が近づくことを許した。
と、

如礫、間合いに入った瞬間踏み込み、たちまちこの男を召し捕った。


蘆名盛高の勇将、河原田如礫について伝わる話である。





809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 22:41:12.71 ID:/bDl+/Iz
>>808
若松は地名に松をつけるのが好きな蒲生さんがつけた名前で以前は黒川な

ちなみに会津若松と松坂は蒲生さんつながりで交流がある

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 23:40:12.48 ID:WTLYu8Ac
>>809
> 若松は地名に松をつけるのが好きな蒲生さんがつけた名前で以前は黒川な

なので「若松の城」と、「の」を付けておいた。まあ察してくださいw

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/09(土) 03:43:58.42 ID:sR5X/vuM
>>808

上泉信綱が剃髪して僧体を装い人質の子供に飯を与えたいと言って小屋に入り
相手の油断を誘った逸話にも似ているね

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/09(土) 11:08:12.20 ID:QDhaV804
七人の侍でも引用されてたな、そのエピソード。

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/09(土) 12:14:41.89 ID:msNTlpon
なんて的確で冷静な判断力なんだ!!の元ネタなんか

蘆名盛氏、盛隆と松本家

2011年01月25日 00:00

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/24(月) 10:25:53 ID:bkCiApbO
永禄元年、会津四家の一つに数えられる奥会津の豪族、山内俊政・横田俊範兄弟が兵を起こした。
二人が攻めるは岩谷城、蘆名四天の筆頭松本家の根拠地である。
折から当主松本舜輔やその子氏輔は黒川城に詰めており、城代井上河内守が代わって城を預かっていたが
何分不意打ちである。
河内守は討ち死に、城も落城したとの知らせが黒川に届くまでそう時間は掛からなかった。
報告を受けた蘆名盛氏は、相当激しい怒りを発したらしい。
それでなくても、山内家は河原田家、長沼家と並んで蘆名家と会津の覇を競ってきた間柄。
決着を付ける時と見たのかもしれない。

「すぐに兵を発し山内家を討ち滅ぼすべし」

そう下命した盛氏に、しかし異を唱えた家臣が一人いた。

「此度のこと、兵を出すには及びませぬ。某にお任せいただければ必ずや山内一族を帰順させて参ります故、
しばし追討の儀はお待ち下さいませ」

そう訴え出た者こそ、山内一族の一人であり、例外的に蘆名家に早くから帰順していた沼澤政清である。
この頃田村家との抗争が激化していた頃でもあった為か、盛氏は政清の願いももっともなことであると思い、
政清が山内舜通(山内家当主で俊政、俊範の長兄)の下へ赴くことを許した。
すると果たして、政清はほどなく山内家との和議を成立させて帰ってきた。
それも山内家の蘆名家への臣従という、明らかな蘆名家優位の講和でだった。最良の成果といっていいだろう。

……ただし岩谷城の山内家への割譲という条件を取りまとめて、ではあったが。

舜輔「えっ」
盛氏「えっ?」
舜輔「何それこわい」
政清「(にやり)」

家臣一人殺された挙句、領地は戻ってこなかった上に割譲に対するフォローもなし。
と、ここまでなら会津統一のための外交配慮の結果とも取れる話なのだが、この話には続きがある。

後の天正二年に松本氏輔が田村清顕と戦って討ち死にすると、嫡男行輔が七歳の若年であることを理由に
領地は召し上げ、
その領地は沼沢政重(政清の子)に与えられてしまった。
さらに行輔が元服した後にも「若年の故」をもって黒川城下の屋敷さえ収公し、政重に払い下げた。
挙句の果てにはこれに不満を爆発させた行輔の謀反、その翌年の松本一族関柴輔弘の謀反も
沼沢に鎮圧させている。
そしてその後に松本家を継いだのは、松本源兵衛なる宗家との血縁すら判らないぱっと出の男だった。

どう見ても蘆名盛氏、盛隆二代足掛け30年越しの松本家潰しにしか見えないお話。




494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/24(月) 10:28:24 ID:bkCiApbO
ちなみに松本さん家の反乱年表。

明応元年(1492年)松本藤右衛門輔忠、富田氏、伊藤氏などと組んで謀叛。蘆名盛高に討たれる。
明応四年(1495年)松本備前守輔豊(輔忠の次兄)、猪苗代氏、伊藤氏などと組んで謀叛、長沼正義に討たれる。
明応七年(1498年)蘆名盛高、松本家当主豊前守行輔、その従兄弟大学頭輔治、小四郎輔任ほかを誅殺する。
明応九年(1500年)蘆名盛高、謀叛与同の疑いで松本対馬守輔政(輔忠の三兄)を滅ぼす。
大永元年(1521年)蘆名盛舜、謀叛を起こした松本大学、藤左衛門兄弟(宗家との血縁不詳)を討つ。また同年、猪苗代氏の謀叛に松本一族多数が参加。
弘治元年(1555年)松本与右衛門輔敦(輔忠の子)、猪苗代氏庶流の小桧山盛長と共に蘆名盛氏に謀叛、討たれる。
天正十二年(1584年)松本太郎行輔(輔豊の玄孫)、蘆名盛隆に謀叛し討たれる。
天正十三年(1585年)松本輔弘(輔忠の孫)、伊達家に寝返って謀叛。蘆名盛隆に討たれる。

……潰されても仕方がないといわざるを得ない。

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/24(月) 10:35:54 ID:wjmialUe
蘆名に従う気無いだろ、これw
なんでそんなに回りくどい事しなきゃならなかったんだろう。

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/24(月) 15:07:18 ID:n0sDOQSh
30年越しで不忠の松本家を潰す、いい話に思えてきたw

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/24(月) 23:35:33 ID:kejyFCDx
>>494
100年間も族滅されずに残ったのか?信じられない

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/25(火) 10:15:15 ID:RYqXRmfb
>>508
明応元年(1492年)松本藤右衛門輔忠、富田氏、伊藤氏などと組んで謀叛。蘆名盛高に討たれる。
明応四年(1495年)松本備前守輔豊(輔忠の次兄)、猪苗代氏、伊藤氏などと組んで謀叛、長沼正義に討たれる。
明応七年(1498年)蘆名盛高、松本家当主豊前守行輔、その従兄弟大学頭輔治、小四郎輔任ほかを誅殺する。
明応九年(1500年)蘆名盛高、謀叛与同の疑いで松本対馬守輔政(輔忠の三兄)を滅ぼす。
文亀元年(1501年)蘆名盛高、謀叛を起こした猪苗代盛頼を討つ。
永正二年(1505年)蘆名家中で松本氏と佐瀬、富田陣営が衝突。当主蘆名盛高が後者を、嫡子盛滋が前者を支援。盛滋・松本氏陣営が敗れて伊達氏を頼る。
大永元年(1521年)蘆名盛舜、謀叛を起こした松本大学、藤左衛門兄弟(宗家との血縁不詳)を討つ。また同年、猪苗代氏の謀叛に松本一族多数が参加。
天文十年(1541年)蘆名盛氏、謀叛を起こした猪苗代盛頼を討つ(文亀元年とは別件&別人)
弘治元年(1555年)松本与右衛門輔敦(輔忠の子)、猪苗代氏庶流の小桧山盛長と共に蘆名盛氏に謀叛、討たれる。
永禄十一年(1568年)蘆名盛氏、謀叛を起こした庶兄の蘆名氏方を討つ。
天正六年(1578年)山内重勝、大槻政通が越後上杉氏に通じて謀叛。蘆名盛氏に討たれる。
天正十二年(1584年)松本太郎行輔(輔豊の玄孫)、蘆名盛隆に謀叛し討たれる。同年、盛隆は男色のもつれから大庭三左衛門に殺害される。
天正十三年(1585年)松本輔弘(輔忠の孫)、伊達家に寝返って謀叛。蘆名亀王丸に討たれる。
天正十六年(1588年)猪苗代盛国謀叛、伊達氏を会津盆地に引き込む。
天正十七年(1589年)摺上原の敗戦後、会津四天が一致して謀叛し蘆名盛重を常陸に追放する。

蘆名氏にとっては一門筆頭の猪苗代氏と四天筆頭の松本氏の謀反は日常業務の内です
そんなことで族滅していては洞中が持たない

他の洞でもここまで酷いのはほとんど見ないけどな!

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/25(火) 12:55:03 ID:HQyMFkIW
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2418.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3710.html
実際のところ上のように松本氏に対する処遇を誤った結果、伊達が付け入る隙の
一つになった観は否めない。四天筆頭の動員力は蘆名を支える柱の一つでも
あったはずだし。
蘆名宗家の力が強化されていけば差し引きで帳尻も合っただろうけど歴代当主の
相次ぐ急死が重なって果たせず、他の家臣の力が増しただけだったりではね。

佐瀬源兵衛と太田三楽斎の会合

2010年12月17日 00:11

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/16(木) 20:21:14 ID:AdsW1wN4
元亀2年(1571)、会津蘆名家と常陸佐竹家は、陸奥南郷で対峙したが決着はつかず、和議を結んだ。
両者が帰国の準備を進める中、会津四天の佐瀬源兵衛のもとに、佐竹の客将・太田三楽斎より書状が届いた。

“このまま帰国すれば、今生の別れとなろう。互いにいつ果てるか分からぬ身である。老後の思い出に、
顔を合わせて旧交を温めたし。”

「さすがは三楽じゃ、よし、会おう!」
源兵衛は小躍りして喜び、すぐさま主君・蘆名盛氏の許しまで得てしまったが、同僚たちはこれを危ぶんだ。

「相手は謀将として名高い太田三楽だ。ノコノコ行けば、何が待っていることか。」
「いや、わしはヤツを良う知っておるが、そんな男ではない。」
心配する同僚をよそに、源兵衛は甲冑を脱ぎ捨て道服に着替えると、わずかな手勢を連れて佐竹陣へ向かった。


久しぶりに対面した源兵衛と三楽斎は、膝を突き合わせて来し方行く末を語り合い、名残を惜しみつつ別れた。

無事戻って来た源兵衛に、同僚たちが詰め寄った。
「いくら三楽と懇意と言えども、昨日までの敵のもとに、鎧も着けずに出かけるとは何事じゃ!
我ら、手に汗を握って待っておったのだぞ!?」

「何を言う。わしは昔、関東に武者修行に出向いた折、三楽の居城でやっかいになった。その時は武辺話に
花が咲き、毎日夜が更けるまで語りあったものだ。そのわしらの仲に、妙な謀略などあろうものかよ。」

「それでも万に一つ、という事もある。やはり危なかろう。」
「なぁに、万に一つなどという事があっても、顔と顔、眼と眼を合わせておれば、そうそう不意を打たれる
ことはないわ。向こうが動いた瞬間、こちらもお相手し、刺し違える。会津と佐竹、一人ずつ減るだけよ。」

「だ、だが帰るところを、後ろから襲われたらどうする?」
「わしの馬の名はご存知かな?」「……確か、『韋駄天』だったか。」

「そう!その名の通り、風のごとく逃げ去るのみよ。このようになっ!!」
そう言って笑みを浮かべると、源兵衛は愛馬に一鞭当て、懐かしき会津へ向けて駆け出した。





864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/17(金) 18:13:23 ID:4+BgzHWc
>>858
佐瀬源兵衛って三忠碑に名前のある佐瀬種常、佐瀬常雄のどっち?

それとも全然関係ない人なのか

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/18(土) 10:49:15 ID:3ASRHVGE
>>864
どちらでもないけど関係なくはない


源兵衛(常教?)――種常―(養子)―常雄

の親子三代とされる

猪苗代家の家督相続の悪い話

2010年11月07日 00:01

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 01:26:14 ID:AWA8RrQz
じゃあジャムの口直しに

猪苗代家の家督相続の悪い話

陸奥猪苗代氏は蘆名氏の重臣であったが、自立傾向が強く度々反乱を起こしていた。
猪苗代盛国も最初は蘆名盛氏の家臣として仕える。
1585年、嫡男の猪苗代盛胤に家督を譲って隠居したが、
1588年、後妻の息子であるを溺愛し、後妻の讒言に乗って盛胤を廃嫡しようと画策した。
盛胤に譲ったはずの猪苗代城ごと伊達軍に寝返り、その軍勢を招き入れ、摺上原の戦いでの
蘆名氏惨敗の原因を作った。
その際、後妻の息子を伊達方に人質として差し出している。
この功績により伊達氏の準一門に列せられ、5000石を食む栄光を手に入れたのである。

結局猪苗代氏の家督は次男の宗国が継いだ。

本来嫡子であった猪苗代盛胤は葦名義広と常陸へ逃れたが
やがて猪苗代に戻り庵を作って隠棲したと伝わる。





425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 07:57:30 ID:CPNOf8DG
>>422
長男悲惨だな…
殺されなかっただけましだろうか

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 22:25:42 ID:6RZjQHDj
>>422
嫡男 VS 弟&父
この構造ってほんと多いねー
伊達と蘆名に別れて御家の生き残りを賭けたのかな。

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 22:37:25 ID:kCzuxUdj
>>434
家中が揉めるテンプレですから^^
江戸時代に入ってからでも大して変わってない気がする~

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 22:48:24 ID:V6VLCovx
>>434
大陸じゃそれがあるから父親が若い女こさえて子供ができたときは、
古女房とその息子が、父・女・子供を先んじて殺しとくもんだ。
とか書かれていた本があったな。

伊達晴宗の娘・彦姫の生涯

2010年04月08日 00:01

彦姫   
928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 11:44:04 ID:Cw+v9GTE
既出だったらスルーしてくれ
伊達晴宗の娘・彦姫の生涯

彦姫は晴宗の娘として、蘆名盛興の元に嫁いだ。
…のはよかったのだが、子供がいないまま夫・盛興は死去。
他に蘆名を継ぐべき男子は居らず、当主の座は宙に浮くことになる。

仕方がないので二階堂家から養子をもらって、
彦姫を盛興の父・盛氏の養女ということにして娶わせ、蘆名家を継がしめた。
彦姫の夫となったのは蘆名(二階堂)盛隆であるが、彼の母親もまた伊達晴宗の娘、阿南姫。
つまり彦姫は甥っ子と結婚することになってしまった。しかも10歳近く年下の甥である。
しかし彦姫は盛隆との間に数人の子供をもうけ、今度こそ幸せになったかと思われた。

が、不幸というものは続くもので、盛隆が衆道のもつれから
家臣の大庭三左衛門に殺されてしまう。23歳の若さだった。
(いきさつはこちら ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2418.html)
義父・盛氏ももう亡くなっている。
蘆名家はまだ赤ん坊の亀王丸(亀若丸)が継ぐことになった。

赤ん坊が当主となるという緊急事態に、彦姫の兄弟・伊達輝宗がすかさず介入し、
輝宗は亀王丸の後見となることに決まる。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 11:45:07 ID:Cw+v9GTE
同年、輝宗は嫡男政宗に家督を譲って隠居すると、
輝宗が亀王丸の後見になると言ったばかりなのに、
政宗は突如蘆名家に攻め入る。
彦姫は気丈に蘆名家臣をまとめ、頑強に政宗に抵抗。政宗に敗戦を喫させた。

しかし不幸はさらに続き、わが子であり、頼みの綱であった亀王丸が3歳にて病死。
再び宙に浮いた蘆名の当主の座。
待ってましたとばかりにこの跡継ぎ問題に伊達と佐竹が介入し、
誰が跡を継ぐかで再び紛糾することになる。
結局、佐竹家から養子をもらうことになり、義広が蘆名当主となった。
ちなみに義広も彦姫の姉妹の子供なので、彦姫にとっては甥に当たるが、
この義広と自分の娘(亀王丸の姉妹)を娶わせることになった。

その後も伊達と蘆名・佐竹の争いは続き、
彦姫は血族に翻弄され続けた。
彼女は蘆名に留まったまま1588年に病死。まだ30代の若さだった。
政宗はこれを弔し喪に服したと言うが、彦姫は政宗を恨んでいたので
政宗に喪に服されたくはないと思ったかもしれない。

その後、義広は家中の心を掴むことに失敗し
坂道を転がり落ちるように蘆名家は没落していく事になる。

蘆名家没落の中心にいた彦姫の、家族運の悪い話。




930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 12:31:57 ID:UKR43dUf
素直に小次郎を養子にすれば良かったのに・・・

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 12:51:51 ID:tGA5K2DX
有力家臣団による主導だからどうにもならん

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 13:33:33 ID:ce3m4che
佐竹も介入ぶりは伊達と変わらなかったしな。
彦姫は可哀想なのは確かなのだが、盛興が死んで、盛氏が死んで、盛隆が死んで、
さらに亀王丸が時点で蘆名氏は詰んで居たとしか思えぬ。
宗家が断絶して猪苗代とか針生とか支流が健在でありながら蔑ろにされがちになった
のもまずいし。

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 15:34:22 ID:tGA5K2DX
つうか、甲斐武田と同じで盛氏の頃で滅亡は決定づけられてたと言っても過言では無いかも知れない
信長が生きていれば滅びなかったかも知れないけど

彼気違男に伐たれんより

2010年03月09日 00:00

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 17:49:50 ID:pJiOy9PD
鬼小島こと、越後上杉家の小島弥太郎と言えば、指で兜をひしぎ砕くほどの大力の勇者として有名であった。
そんな彼ががある時牢人し、会津の蘆名盛氏の元に来たことがあった。

その頃丁度、蘆名家は仙道において合戦をしており、敵は取出し(前線陣地)を築きそこに軍勢を入れた。
小島の名声を知っていた盛氏は、彼に足軽100人を付け「あの取出しを蹴散らして来てもらいたい」と要請、
小島もこれに、自信満々に足軽を率いて出発したが、なんということか小島の部隊は、敵に散々に追い立てられ
逃げ帰ってきてしまった。

ここで盛氏に声をかけたのは、その頃蘆名家に帰参した会津の勇者、佐瀬源兵衛である。
「この上はどうか、私に仰せ付けていただきたい!」

源兵衛は盛氏の許可を受け、足軽を率いて出発すると言う時、小島に向かって言い捨てた。

「そなたは聞いたところによると、越後においては鬼小島と呼ばれているようだが、
この会津では”味噌小島”と名乗るが良かろう!この源兵衛の働きをいささかご覧候らえ!!」

そうして敵陣に向かうと、足軽達に向かい
「お前たち!命が惜しければ部隊の先に立て!もし後方に下ってくるような者がいたら躊躇わずに斬って捨てる!」
そして実際に遅れて後ろに下がってしまった足軽二人を斬り捨てた。

これには足軽達
「あんなキチガイ男に討たれるくらいなら、敵に向かって勝負した方がましだ!」
(いやいや彼気違男に伐たれんより、一向敵に逢ひて勝負を決せんと)

そんな破れかぶれの気持になって突進した。源兵衛もこれにますますテンションを上げて下知をする。
その勢いに飲まれたか、敵はもろくも追い払われ、源兵衛は見事主命を果たして帰陣した。

盛氏は源兵衛の武功を称賛し、その場で武者所に任じたとのことである。


いやまあ、最終的にはいい話なんですけど、ねえw




118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 17:55:20 ID:1L3+TCO2
>(いやいや彼気違男に伐たれんより、一向敵に逢ひて勝負を決せんと)

こ、これ原文、なんだよな……?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 17:57:36 ID:pJiOy9PD
>>118
Yes。原文ですw

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 18:03:00 ID:1L3+TCO2
原文なのかぁー……

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 18:40:34 ID:JvzBeNqi
会津武士と越後武士の対抗心みたいのを感じるね

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 20:19:01 ID:crouuRni
自分が強いからって部隊指揮がうまいとは限らんわな

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 20:26:18 ID:0jqgcBOc
むしろ100人率いるよりも鬼小島一人で攻めたほうがうまくいったんじゃね?

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 20:32:19 ID:/uca9tIc
丸目師範も戦の指揮やらせると壊滅的だったな

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 22:11:49 ID:2ieyfEHA
コーエーの三国志は、武将の個人武芸が強ければ、軍隊の攻撃力も高いけど

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 22:15:18 ID:bmxThH+g
稲富さんがログアウトしました

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 22:16:03 ID:1L3+TCO2
逃げんなww

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 22:25:01 ID:LLJxz4gJ
天翔の稲富さんは正直最強すぎて困るわ

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 22:28:22 ID:/uca9tIc
>>126
忠興「絶対に許さない、顔も見たくない」

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 22:30:18 ID:zy65xNwj
>>117
味噌小島ってひょっとして
「ウ〇コ小島」って意味?

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 22:38:03 ID:Jq3K3sV3
>>129
庭師の首を刎ねる作業に戻るんだ

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/09(火) 03:19:53 ID:Hon2NQGg
そんなの作業でやられたらたまったもんじゃねぇw

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/09(火) 10:22:47 ID:cOeKzYUI
むくつけき表現は細川家にそぐわない。

さあ歌仙を三十六から四十八まで増やす作業に戻るんだ

佐瀬源兵衛、人質を奪い返す事

2010年03月04日 00:04

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/03(水) 19:51:13 ID:tQ79DWDb
鯖復活記念

佐瀬源兵衛と言えば蘆名家で並ぶものの無い勇者として有名であった。
彼が若い頃、武者修行と称し関八州を廻ったことがあった。
まず初めに小田原の北条氏のもとに行ったが、この北条氏は常に大軍を擁し、小敵を相手にする戦ばかりを
していた。これに源兵衛

「つまらぬ」

と小田原を辞し、下野の壬生綱房の元へと行った。その理由を尋ねられると

「壬生氏は小身でありながら、宇都宮、佐竹、那須とまで敵対している。ここなら面白いことがあるだろう。」

佐瀬源兵衛とはそんな男だった。

さて、この頃壬生氏は、大田原氏の嫡男を人質に取っていたのだが、ある時この子が病を患った。
その症状重く、大田原氏の方から「せめて生きている間に母親にも対面させたいのです。どうか暫くの間だけでも
わが方へお返し頂け無いでしょうか?」と言ってきたためこれも仕方がないと人質を返した。

ところがである、その子はその後病から回復したものの、壬生に返そうとしなかった。
壬生綱房は激怒し、どうすべきか家臣たちと相談をした。
源兵衛これを聞いて

「どうするかと言われても、大田原殿を討つかその子を取り返すか、そのどちらかしか無いでしょう?」

「そんな事はわかっている!」
壬生家の面々、新参者の出すぎた口に苛立ちながら

「しかしそのようなことそう簡単に出来るものではない!だからこうやって相談をしているのが解らぬか!?」

「そんな事なら…」
源兵衛、何でも無いと言う顔で
「それがしに思案が有ります。おまかせ頂けますかな?」

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/03(水) 19:52:13 ID:tQ79DWDb
その頃大田原の宿では、ひと月に6回市が開いた。
市の立つ初日には必ず風呂が炊かれ、その一番風呂には領主である大田原氏が入るのが習わしであった。
そんな市の立つ日、その日は風雨がある、酷く寒い日であった。

市の中にある風呂屋の前で、みすぼらしい身なりの男が倒れ、叫んだ

「私は今日の市に出る商人でありますが、風雨と寒さに当てられ、腹痛をおこしました。
ほんの少しでいいのでこちらの風呂の竈の火に、当たらせて頂けないでしょうか?」

風呂屋から亭主も出てきてこれを哀れに思い、「そんなものは容易いことです」と、温かい竈の前に
その商人を寝かせた。

『もう殆ど成功したようなものだ』

商人、見られないよう不敵に笑う。この男、もちろん源兵衛の化けたものである。
彼が腹痛を起こした商人のふりをしていると、やがて大田原が一番風呂に入りに来た。

今だ

源兵衛、やおら起き上がり猛然と走り寄ると脇差を引き抜き大田原の体にピタリと当てた。

「これは!?一体どういうことか!?」

何が起こったのか解らず驚く大田原に、源兵衛、刃を当てたまま

「近頃、壬生に対しての人質を返還なさらなかったこと、これは人でなしの所業であります。よって、このような事を
致しました。
さて、壬生に人質をお返しになるかどうか、応か否かでお答えください。否とおっしゃるならば仕方がない、
一刀参らすだけのことでござるが…」

「まてまて!そ、そなたの申すとおりだ。すぐにわが子を人質に出そうぞ!」

そこで源兵衛、嫡子をその場で受け取ると、抱えて壬生えと帰っていった、とのことである。





会津河原田家の最後

2010年02月28日 00:02

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 04:11:53 ID:wHinKBLb
伊南の河原田盛次と言えば、摺上原の戦いのあと会津盆地を制圧し、さらに勢力を拡大させる伊達政宗に対し、
会津蘆名氏の家中において一人頑強に抵抗を続けた、硬骨の勇者であった。

天正十八年(1590)、伊達政宗は小田原の豊臣秀吉の元に参陣、事実上の降伏をした。ここ東北の戦闘は停止され
盛次は危機を脱した。
秀吉が小田原から東北へと動座すると言う事を聞いた盛次は、早速お目見えすべく宇都宮へと罷り越した。
すると石田三成より、「本日中にお目見えをいたしますので、風呂に入ってくるように。」と指図を受けた。

ところでそのころ豊臣軍は戦時体制を解いておらず、誰もが半袴などの軽装でいたが、盛次は
故実を大切にしたため、脇差に長袴と言う姿でお目見えに望もうとしていた。
その姿は酷く場違いで、手ぬるいように見られた。

そして石田三成も、河原田盛次が天下の奉行である自分と同じ治部少輔を考えも無く名乗っていることが
奇怪だと思った。

そのような事のせいか、その日は色々と手違いも有りお目見えすることはならず、その後は
お目見えについて何の知らせも無かった。そのうちに三成より
「今は色々と忙しいので、取り合えす会津に帰った方がよろしかろう。その後こちらから良いように計らいましょう。」
と言われ、仕方なく会津に帰り、しかし程なく死んでしまった。

ところで、盛次には亀丸と言う一子があった。河原田家の郎党達は、会津に新たな領主として蒲生氏郷が
入ってくることを聞くと

「この上はせめて亀丸君に氏郷様に仕えていただき、所領を安堵してもらおう。」

と言う事になり、氏郷の家来の侍を頼んだ。
ところがこの亀丸は美少年であり、この氏郷の家来は亀丸にすっかり心を奪われ、離れがたさに
仕官の話を何かと引き伸ばしにした。これには亀丸も腹をたて、越後へと出奔したが、そのまま漂泊の身となり
死んでしまったそうである。

蘆名などとともに「会津四家」と呼ばれ、長く会津の地で栄えた河原田家の、その不運な最後である。




838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 04:21:45 ID:1YWh0T7N
この時代男で美貌だとロクな事ないな・・

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 04:31:17 ID:+epjpdsS
この後河原田家の中には佐竹さんとこに流れた人もいたみたいね

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 10:09:07 ID:kE1yd8hB
>>838
美形だととりあえず出仕は保障されるよ
そのあとの仕事内容がアレなだけで・・・

美形だと噂される鬼武蔵は信長の(グシャッ

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 11:05:32 ID:1YWh0T7N
>>840
君主のお気に入りの肉尻便器でも屈強な家臣に横恋慕されて
襲われたりするんだぜ?

どんだけ危険なんだよ・・アメリカの刑務所よりケツが寒いぜ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 11:35:08 ID:FPyrd2c2
俺は現代に生まれて良かったんだなあ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 12:04:24 ID:HrP5YEkJ
すると>>842は沖田総司バリのぽっちゃり系(笑い)なんですねわかります

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 12:09:39 ID:Azu0pyoL
しがない橋守として生きるでござる

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 12:46:13 ID:qqUJtOeW
清十郎、名古屋山三郎、亀丸と蒲生氏郷は美少年に縁があるんだなあ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 14:19:00 ID:7fEXyOrX
>>840
ご主人様のお手つきを心待ちしていたところ
とうとう暗がりに連れ込まれてドキドキワクワクしていたら

「ぬし、姉か妹はおらぬか?」
とのご下問を受けたでござるの巻

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:19:48 ID:m0zawFBG
お手付き心待ちどころか、そっちに目覚めさせる任務のはずが姉妹聞かれてズコーって話だろ

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:26:27 ID:1YWh0T7N

>>846
美少年好きなところまで信長そっくりだよな

松本図書助氏輔が討死したわけ

2010年02月26日 00:05

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 00:40:35 ID:Q9fNAjel
>>787
待ってました松本図書助

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 00:47:46 ID:SLv4aaG9
と、図書助だと・・・

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 01:16:03 ID:Q9fNAjel
あの本を殿に届けてくれよ! あれは、いいものだぁ!!
って言いながら死んだらしいな



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 02:33:54 ID:i4MzDWyv
>>797-799

では図書助さんの話を

松本図書助氏輔が討死したのは、その父右京のためだと言う。

ある年、那須が白河を攻めたとき、白河方への加勢として会津より、佐瀬氏とこの松本右京が派遣された。
ところが、佐瀬氏の勢の働きは諸事キビキビとしていたものの、松本右京の勢は働き甚だ鈍く、人々はこれを
大いに嘲笑した。
敵である那須方からは

『佐瀬殿は聞及しよりも無慈悲な人だ。しかし松本殿の御慈悲によって、我ら那須勢は多くが無事国に帰ることが出来た。
松本殿のご芳志には、かたじけなく存じております。』

と言う、嫌味たっぷりの落書を出される始末であった。

さて、時過ぎて松本図書、ある時鷹狩に出かけたおり、地下の女童たちが磨臼を引きながら歌を唄っているのを聞いた。
その歌は

『松本殿はするす米、敵だに見れば引け引けと~』

こんな内容だった。
するすとは米のモミを取り除くこと。モミを取るため米を引くのとかけているわけだ。

図書は、父の汚名が今だ消えていないことを知り、これを深く恥じた。
そして討死をして家の汚名を注ごうと心に決め、程なく討死をしたとのことである。




803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 12:00:25 ID:dlQ6QRrk
>>800
己の身より名を惜しむいい話だな

こんな逸話があるのに信長の野望での扱いが・・・(´・ω・`)

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 12:20:31 ID:Q9fNAjel
>>800
全米が泣いた

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 12:26:15 ID:pge/KgLK
>>803
ちょっと悪い話

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 13:02:42 ID:jTGTU1Cq
>>803
ほぼまるっきりの犬死にだから悪い話だと思う