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故有って2人とも卒去

2022年03月10日 15:52

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/09(水) 12:47:50.32 ID:1/ZuZ5BC
大浦五郎・六郎の兄弟(共に実名不詳、大浦為則の御実子)は陸奥藤崎城に在し為信公からの御信愛も厚かった。
天正13(1585)年の水無月の大暑の頃、兄弟は水浴びをしようと船で藤崎川に出たところ、故有って2人とも卒去してしまった。
為信公はお嘆きになり堪えきれず兄弟の守役と船の水主を御成敗されたという。
津軽一統志

津軽為信の義理の兄弟が水遊び中にどういうわけか死んでしまったという謎の話。
何があったのかは想像に難くないと思う。



388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/09(水) 12:57:26.68 ID:x+DZIOFz
信愛厚い義理の兄弟を謀殺するとはと
北信愛も呆れ顔

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/09(水) 19:38:10.48 ID:eRP9GMDf
>>387
守役と水主だけは生還してるってのがなんとも
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髭殿、必死だった

2016年01月30日 17:44

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 01:58:42.81 ID:sUYAW1Cr
サライって雑誌に髭殿がラスボスと 誼みを結ぶ為に必死だった話が載ってた

①天正13年 鯵ヶ沢から船で上洛しようとするが嵐で松浦沖まで流され失敗
②天正14年 矢立峠を越えて上洛しようとするが、比内の浅利氏に阻まれ失敗
③天正15年 兵2000を率いて鹿角に向かい南部領を突破しようとするが失敗
④天正16年 秋田口から上洛しようとしたが、秋田氏の妨害にあい失敗
⑤天正17年 秋田氏と和睦して重臣の八木橋備中を上洛させる事に成功

弘前藩の正史である津軽一統志が出典みたい
いち早く中央と結びつこうとしてたのは知ってたけど、こんなに必死だった
とは知らんかった。

鑑真和上かよ...



233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 02:01:28.14 ID:qxVdg1gg
よかったな髭。

仙桃夫人はとてもとても御仁心深く

2015年12月20日 17:21

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/19(土) 02:07:29.01 ID:vQ4u5pdt
天正7年、羽州比山勢(南部六郎、同七郎らが率いた時)が津軽へ押し入り茶臼館六羽川
で御合戦となった時、味方の弾薬が少ないので、すぐさま大浦城へ人を走らせたところ、
大浦でも蓄えは少なく、どうしたらよいかと慌てふためいた。

その際、夫人(戌姫。仙桃院。津軽為信正室)は多くの女中を集め給いて、錫類の器物を
ことごとく集めて丸を鋳造し、すりこ木を使って自ら合薬を作り、昼夜をかけて本陣に送った
ため、味方は大いに力を得たのであった。

――『津軽記』

仙桃夫人はとてもとても御仁心深く、御智謀も深遠であられて、為信公が御国家を治められた
時に、良く御内政を助けなさった。

桜田宇兵衛(為信公の功臣)の子・又七(後に斎藤平内兵衛とも、また桜田宇兵衛ともいう)や
折笠与七の子供などを慈しみなされ、皆を広敷に迎えて御長屋を建て、または御台所に置き
なされて、成長まで養育しなさった。

夫人が忠臣や孝子の類の子孫たちをこの如く扱われたことは、幾ばくあるのかを知れない。

――『斎藤平内兵衛由緒書』



津軽為信、平癒の賀

2015年08月29日 18:48

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 21:04:04.90 ID:7STu+me9
天正16年、津軽為信は久しく病に臥せっていたが漸く平癒した。
そして3月7日に、平癒の賀として城中で大いに饗宴をおこなった。
為信の伴食は達戸左京、洞内浄庵、下田南一、下館九郎兵衛であった。
為信は家臣たちを率い、妻とともに自ら料理した。そして配膳したのは娘の久子であった。

饗宴が終わり、翌日、娘の久子がにわかに病を発して死んだ。
13日、饗宴に伴食した者達、および為信の妻が死んだ。
16日、久子の夫であった南部政信が死んだ。

ここに及び、人々は騒々しく物議し、みな為信による毒殺を疑った。

(九戸戦史)




228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 21:55:55.34 ID:YbDUk9O1
身内を疑うなんて…直家とはいい酒が呑めそうやな

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 23:10:34.74 ID:8Ae/KR+R
食中毒じゃね

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 00:09:09.48 ID:URgtEBvf
>為信は家臣たちを率い、妻とともに自ら料理した。


夫婦揃ってメシマズなんでしょ(適当)

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 00:24:00.95 ID:dSvqn3aP
まぁなんてヒゲキ的

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 11:39:12.31 ID:LC4h1qek
>>226
北信の一部は切り取れなかったけどな

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 11:43:04.43 ID:58XVVymZ
ちょっと前の逸話のせいか
「北信」を見ると「愛」をつけたくなる

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 13:11:45.32 ID:1hPrw7IW
>>231
褒美をとらす。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 14:23:23.91 ID:V7Lmu64X
石川政信毒殺説は南部側資料だけで、津軽側には無いんだっけか
それと久子は大概、為信の娘じゃなくて妹になってるはず

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 16:57:58.17 ID:eOVgLp4a
>>234
ああ、髭とヒゲキをかけてたのかw
気づかなかったわw

為信公はすやすやと眠っていた

2015年01月12日 18:46

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:33:43.59 ID:0jNNNnqh
(大浦)為信公が養子入りしてから間もない夜、為信公はすやすやと眠っていた。

すると突然、荘厳な容姿をした二人の人が現れた。
為信公は、「夢の中に現れるとは、汝らはいかなる者か」と尋ねた。
するとその二人は、「我等は往古より西山(岩木山)に住み、専ら勧善懲悪を宗として民を教戒することをもって心とす。公(為信)、年頃、心意に秘すところの望み、時すでに至れり。そうそう思い至るべし、我等はまた、公の旗を守護す」と答え、立ち去ろうとした。

その時、為信公が「御身の姓名は何という」と尋ねたところ、「萬字」「錫杖」と二人は答えて西を目指して飛んでいくのを、為信公が見ると、その夢は醒めた。

為信公は「古今稀なる霊験である」と喜び、西の山を三度も拝んだ。
そして、夢に出てきた二人の名から、旗の紋に卍を、馬印には錫杖を用いた。

(津軽一統志)

津軽氏の旗の由来に関する逸話である。
ちなみに津軽為信は、兜の前立てにも錫杖をつけたようで、それを復元した甲冑は結構かっこいい。
http://www.yoroi.co.jp/gazou/topics/2006/tsugar



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:38:36.01 ID:oUc1Pp+z
404notfoundじゃねーか

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:41:23.62 ID:cmxkj4XU
>専ら勧善懲悪を宗として民を教戒することをもって心とす。

なんとヒゲ殿に似つかわしくない御使いなんだ

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:52:03.84 ID:0jNNNnqh
ほんとだ
これで勘弁してくだされ
http://www.yoroi.co.jp/topics/2006/tsugaru/tsugaru.html
為信

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 20:04:52.36 ID:9BBVVpip
>>545
旗揚げ時には味方にした罪人たちに城下で乱暴狼藉の限りをつくさせるし、恋慕した女性の旦那は殺害(したらしい)、あげくに女性に袖にされたら怒って女性も殺害だもんなあ

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 21:36:07.29 ID:y6MrDnRF
どうやら南部の手の者が草として紛れ込んでるようだな

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 00:22:32.37 ID:lw/cq3kA
んまぁ、南部も津軽のド辺境の悪政大名なのは一緒だけどな。

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 12:12:12.55 ID:Nh3JqyHr
>>546
この鎧でヒゲボーボーだったのか。威圧感あるわな。

「刃傷あってはお家の一大事」

2014年07月19日 19:09

327 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/07/18(金) 22:59:30.28 ID:BBI/UJGJ
旗本の方の進藤正次さんの話が出たので少々時代は下るがもう一人の進藤正次さんのお話を一つ。

弘前藩三代目津軽平蔵信義は江戸勤番中、屋敷に大名たちを招いて深夜まで酒宴を張った。
ところが、大名の一人と口論になったため、その大名は裏口からひっそりと帰ってしまった。
信義はこれを知ると激怒し、「首をひき抜いてくれん」と刀をかざして玄関から走り出た。
その時、進藤庄兵衛正次がすばやく門を閉じ、その場に平伏し信義の行く手を遮った。

信義は、正次の首元に刀をつけ、「門を開けよ」と怒鳴ったが、「刃傷あってはお家の一大事」と正次は動かなかった。
しばらくにらみ合いが続いたが、信義はあきらめて屋敷に戻った。
一方の正次は信義の刀がかすって流れ出た血をぬぐい、夜通し門を守り続けた。

(進藤家譜)

津軽さん家の進藤正次さんでした。
時代は下ったけどすでに2つくらい信義さんの逸話出てるからいいですよね。
この進藤さん後に鬼庄兵衛とか呼ばれる家老にまで抜擢されます。




328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/18(金) 23:19:50.20 ID:Fmlp0bYo
>大名の一人と口論になったため

南部じゃないのは確か

浪岡征伐

2014年04月18日 18:26

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/17(木) 22:06:47.34 ID:CpqQTzOJ
大浦為信にとって、浪岡御所は目の上のこぶであった。
浪岡御所は南部地方はもとより津軽地方や出羽北部からも一応尊敬されていた家柄であったためである。
そこで、大浦為信は北畠顕村が遊興にふけっているのに目をつけた。

浪岡一帯の博徒を大浦城に呼び、金を与えて賭博をさせ、酒宴まで開いて帰した。
この賭博は数度開かれ、為信と博徒らがすっかり親しくなったところで、為信は急に賭博の開帳をやめた。
不思議に思った博徒らは大浦城に出向き、「近頃さっぱり賭博をやめられましたが、どうなされましたか」、と尋ねた。
為信は「所用あり、遊ぶ暇がなかった。しかし、今日はゆっくり遊んでゆけ」ともてなしたあと、
「ところで汝らの領主は下を慈しみ、人心を得ていると聞くが、汝らはなぜ生業につかないのか」と聞いた。
すると博徒らは「仰せのごとく、領主が政を敷いておれば我らも自ら善をはげみます。しかし、領主が柔弱で奉行、頭人らが邪欲を欲しいままにしているため、皆困窮しこのような筋無きことで妻子を養っているのです」と答えた。
その言葉を待っていた為信は、「苦しんでいる民を救うのは心やすいことだ。我らはこれまで所々の虐政を討ち、民を救うことを本意にしている。ひとつ、浪岡を征伐してやろう。その時は汝らも善をはげめ。そうなれば、汝らを召抱えてやろう。
この事は絶対にもらすな。近いうちに浪岡を攻めるから、汝らは戦に乗じて金銀財宝を盗み、大いに乱暴せよ」

大浦為信は大義名分を「救民」と明らかにし、天正六年七月二十日未明(1578)、浪岡御所を攻めた。
大浦軍は総勢2300余りで、兵を第一陣の乳井・千徳勢700、第二陣の森岡・兼平勢600、大浦本軍1000余に分けた。
この日は北畠顕村の後見役北畠顕忠が油川城に行っていたが「御所が襲われることはない」と安心しきっており、たちまち大混乱に陥った。

この騒ぎに乗じて為信の息がかかった博徒らが「大浦勢が来た!」と浪岡城に入り四方に火をかけた。
そして、一応顔を知っている北畠顕村のところへ走り、「大浦勢は目の前です。早くこの駕籠に乗って避難してください」と駕籠を差しだした。
すると、顕村は"渡りに船"と、早速駕籠に乗った。
博徒らは北門を出ると、まっすぐ大浦勢の本陣へ突っ走り、駕籠を大浦勢に渡し、まんまと北畠顕村は生け捕りにされた。
合戦から二日目、北畠顕村は
故郷を夢にいでこし道芝の 露よりもろきわが命かな
と辞世の句を詠み幽閉先の寺で自ら命を絶った。

以上、つがるの夜明けより

既出では無かったので、一応。
津軽為信が救民の為に浪岡征伐を敢行した、悪い話。




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 10:19:56.61 ID:jIky1PaD
三瀬の変の二年後だな

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 11:19:59.08 ID:rWlg2JRm
もちろんこんな話ばかりあるわけじゃないんだろうけど「つがるの夜明け」ってw

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 19:41:04.31 ID:zmKTEB+I
>>6
面松斎は旗揚げ戦でこんなやり方はもう嫌だと言っていたのに髭どのは味をしめたのか

津軽為信が開墾を奨励したこの地域は

2014年04月07日 19:03

702 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/06(日) 21:19:44.61 ID:wJYmAo3t
天正四年(1576)旧三月、津軽平定の途上にある津軽為信公はある時鯵ヶ沢地方巡視の帰りに、
妙堂崎の山手にさしかかったさい遥か東北の方に茫々と広がる芦原を望むと、
無住の地と思わる彼方に一大老樹が天を覆っていた。
その傍より一条の炊煙が立ち上るのを見つけ奇異の念をいだきその所を尋ねる事にした。
ようやくたどりついて見ると一大老柏木の傍に葦芽の家が三軒並んであった。
これは、工藤祐益、花巻頼母、山崎織部等落武者の庵で付近僅かに粟稗が耕されてあった。
一行は暫くこの草庵に憩をとることにした。昼時ともなったので、村人達は心をこめて粟や稗の酒飯を炊いてもてなした。
為信公はことのほか上機嫌で祐益老の願いを聞くと産土神の御加護の下に開墾を進めたい、とお宮の建立を上願した。
そして為信公はしの四方遥か広漠たる葦原を眺めこの土地を広須野と名づけ帰城して行ったという。
翌天正5年(1577)旧三月公命によりて国家安泰万民豊楽五穀成就、
新田開発成就の祈願の社として広須八幡宮が建立され祐益老の孫千之太夫が宮司となった。

(柏正八幡宮境内由緒書)

津軽為信が開墾を奨励したこの地域は、第二次世界大戦中に全国で最も米の供出量が多い地域となった。





津軽信建と天藤四兄弟

2012年11月29日 19:50

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 11:34:54.86 ID:5nEj0bsG
慶長7年(1602)、津軽氏は堀越城に本拠を置いていたが、津軽為信は黒石の館で政務を執っており、
長子・津軽信建が堀越城の城主となっていた。
津軽信建の嫡男である熊千代はこの年のある日に祖父為信の元へ遊びに行った。
その折にどうしたことか、囲炉裏の中へ真っ逆さまに落ちてしまい、顔から頭にかけて、
月代まで焼けただれてしまったといわれる。

熊千代のやけどは為信によって秘密にされていた。しかし、噂が信建の耳に入ってしまう。
信建は烈火のごとく怒った。
「熊千代をすぐさま黒石から堀越へ連れて来い」と、家臣に命じた。
この使者に選ばれたのが、天藤家の衛門四郎、小太郎、佐衛門四郎、甚右衛門の四兄弟
(津軽家譜草案)であった。

天藤兄弟はさっそく黒石館に駆けつけ、為信に目通りした。信建の意志を伝えたが、為信は拒絶した。
やけどの熊千代を見れば信建が何をしでかすか分からないからである。

しかたなく四人は堀越城へ帰還、その旨を信建に報告した。しかし、逆上している信建は、
「必ず連れてもどれ」と重ねて厳命。兄弟は再び黒石を訪れたが、為信は依然として
連れ帰ることを許さなかった。
兄弟は板ばさみとなり、しばらくは黒石館で粘ったものの、ついにはあきらめて堀越へ帰ることにした。

ところがその途中、ちょうど天藤家の前にさしかかった時、四人は信じられないものを見た。
家族が皆殺しに遭い、その遺体を縁者、知人らが葬ろうとしていたのである。
仰天して訳を聞くと、四人の帰りが遅いので、激怒した信建が斬り殺させたのだという。
兄弟は呆然し、怒った。

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 11:36:14.04 ID:5nEj0bsG
「まことに宮仕えほどくやしきものはない。連れ帰れというのも主君なら、おさえて
帰さぬのも主君。臣たる者、どちらの道をとれば良いのか。
 我々の家来としての命運もここに尽きた。家族を皆殺しにするほどの主君だから、
我々も極刑に処されるだろう。
 しばり首になるよりは、場内へ斬りこみ、命を懸けて諌言しよう。 それから
腹を切っても遅くは無い。むしろ家族への供養になる。」

四人は堀越城に着くと、喚声をあげて無二、無三に斬り込んだ。黄昏時だったという。
不意をつかれた城内の武士はたちまち斬られて、四人は信建の居間の近くまで迫った。

しかし、ここで「三代相伝の主君へうらみをなし奉らんことは、臣たる者の道にあらず。」
と剣先が鈍った。
そこで、この上は、日ごろ奸臣と苦々しく思っていた奴ばらを討って取り、
最後の思い出とするべく城内を発った。

一方の津軽信建は居間にいた。騒ぎを聞いて仰天し、乱入者どもが近づくにつれて、色青ざめ、
立ち尽くすばかりであった。
とうとう、女中のすすめに従い、長持の中にかくれ、女どもにかつがれて居間を脱出、
四兄弟が城を出るまで離れたところに隠れていた、とされる。(永禄日記)


さて、城外へ出てきた天藤兄弟は白取瀬兵衛を襲うも、下人どもがかけつけたため、撤退。
次に森岡信元を暗殺した梶仁右衛門方を襲撃し、仁右衛門の母を惨殺。夜明けの頃だったという。
この後も四人は散々に暴れ回り、奈良岡万助が討たれ、他にも怪我人が十数人いたという。
徹夜で暴れた天藤兄弟は疲れ、近くの空き家に入り休憩した。

この頃には騒動を聞いた津軽家中の諸士が天藤兄弟の立てこもる空き家を包囲。
双方とも激しい攻防戦をするも、多勢に無勢。
東海幸義が向かいの家の屋根にこっそり登り、雁股の大矢を放ち、矢は衛門四郎の首を貫き、
二本目の矢は小太郎の胸板を射通し、二人は討たれた。
これを見た左衛門四郎と甚右衛門は立ち腹を切り、最期を遂げた。

家臣が首を持ち帰り、ことの次第を言上すると、信建は怒りにまかせて首を獄門にかけたという。
津軽の官製史書『津軽一統志』もさすがに哀れと思ってか、一件っを記したあと、
「天藤が横死せし、不運のほどこそ浅ましけれ」と結んでいる。

以上、「続・つがるの夜明け」から

ちなみに熊千代のやけど跡は治らず、醜いままであったのも一因となり、津軽氏を継承せずに
為信三男で関ヶ原合戦時に家康本陣にいた津軽信枚が二代目を継承することとなった。




544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 14:19:17.31 ID:ebhULvH2
豊臣時代に信建は京でそつなく為信の代行をこなしてるんだよな

信建が豊臣に近かったことと為信よりも先に亡くなったことで、この系統は没落するんだよな

津軽信義、幕府の尋問に

2012年11月11日 19:00

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 00:52:36.28 ID:U660Ng4G
津軽信義は幼少時代より母・辰姫とともに弘前藩飛び地大館に幽閉されていた。
その幽閉時代に母は死去、その後は乳母である船橋半左衛門の妻によって育てられた。
信義が藩主になると、国許の家臣をほとんど知らないために船橋半左衛門が重用されることとなったが、
国許の家臣、特に譜代の家臣に不満が募った。
そこで、譜代の兼平信孝乳井建定らが江戸の町屋に篭城し、船橋追放を幕府に訴えた。
これを受け、津軽信義土井利勝松平信綱阿部忠秋らの尋問を受けることとなった。

まず土井利勝は、
「訴状によれば《主君のためにした》としているが平蔵殿(信義)はどのように考えるか」
対する津軽信義は、
「私が若輩のため、家臣どもはいきなり目安をもって公儀に訴え出てしまった。
藩邸より立ち退いた者には帰ってるように再三の説得をしたが、難題を申して聞き入れてくれない。
私には何が良いのか悪いのか判断がつかない。
この上はご公儀においてよろしく御裁断申し上げる。」

と、15歳ながら神妙な回答をしたため、土井利勝
「若年ながらこの分別、私達も子を持つ者として考えさせられる。
特に平蔵殿には岳父がおらず親族も少ない。
相談相手もなく辛いことだろう。苦衷のほどはよく判る」
と、落涙した。これにつられて同席した幕閣も貰い泣きし、信義に対して「お構いなし」の裁定が下された。

余談であるがその後、津軽信義は、娘の萬を土井利勝四男・利房に嫁がせている。

尋問部分は白川亨さんの「石田三成とその子孫」に書いてあり、元の出典は『服部長門守宛、乾四郎兵衛、
船橋半左衛門書状』のようです。





359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 01:02:18.51 ID:Km/8uD4Z
みんな涙脆いなw
それにしても土井利勝松平信綱阿部忠秋の三人の前で話すのは緊張しそうだなー

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 01:07:25.65 ID:4fW2CcqC
>>358
そういや白川亨さんって、今年亡くなられたね。

武功夜話を真書として扱ったりミスはあったけど、実証的石田三成研究の
端緒をつけた人で、惜しい人を亡くしたものだ。

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/11(日) 03:43:07.88 ID:BonGPYJ3
で反抗した人達のその後はどうなったんだろう?

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 07:49:41.61 ID:AKuoj+Ih
と後の宇都宮藩主が尋ねておられます

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 09:17:46.43 ID:WHBQaoke
船橋半左衛門兼平信孝乳井建定も喧嘩両成敗で他藩お預けになり、
裁定に反発した藩士たちが両派問わず出て行って、城の警備にも事欠く有様になったそうな。
・・・あれ、悪い話?

津軽為信のお母さん頑張る

2012年10月29日 19:57

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 07:12:35.02 ID:FBgcykdN
天正18年(1590)、関東では豊臣秀吉による小田原の役が進行しているころ、奥州において津軽三郡を確保した
津軽為信は焦っていた

「いち早く秀吉公の前に参礼し、御朱印を申し請け津軽三郡の支配を確立せねばならない!
とにかく南部に先を越されては大変である!」

そう言って準備を急いでいた所、為信の老母が、為信が津軽を離れることへの不安を言ってきた

「お前がここを留守にして小田原に行けば、そのあとにどんな異変が起こるか計り知れない。」

この時期の津軽為信の支配は、それだけ不安定だったのである。

「そこで、お前は国に残って仕置をしなさい。私は女の身ではありますが、小田原へ馳せ参り、所領安堵の
御朱印を申し請けるのに問題はないはずです!」

そう、驚く為信を構わず早々に津軽を出立し、相模に赴き秀吉と対面。当主為信に変わり母である自分が
参上したことなど言上すると、秀吉も女性の身で遠くここまで旅してきたことに強く感銘を受け、
難なく御朱印を下した。

老母はこれを大いに喜び、急いで本国へと戻り御朱印を為信に渡した。
(天正南部軍記)

津軽為信のお母さん頑張る、というお話。




119 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/29(月) 10:47:12.17 ID:zgHQK22q
母ちゃん凄いな

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 10:53:37.83 ID:MfZcRhng
東北女の行動力には驚かされる

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 10:57:13.47 ID:J+fb6Xd7
自分は城でのんきに過ごして自分の老母を関東まで往復させるとは…
津軽の人間は本当に酷いな

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:01:17.72 ID:mO4B+NMB
>>121
ものは書きようとはいえ、
これは酷いw

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:15:39.35 ID:mCiLTF6I
義姫も毒を盛らずにみずから出向けば丸く収まったのか

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:35:02.90 ID:YWgZj1p7
んまぁ、自ら小田原による見参したというのが定説だけどね。

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:41:44.16 ID:l56Iow4O
>>121
信直さん乙

為信が40歳くらいだから60歳とかそんくらいかな?
今ならともかく、当時の津軽から、しかも女性だからなーそりゃーラスボスも感嘆するわ。

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 12:35:04.59 ID:urNB5sC+
>>121
恋慕した女の旦那は殺すし、拒否した女も殺す悪党だからな
そういや、石川を殺るときも城下の屋敷に押し入って南部方の女性を○姦させたりしてたっけな

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 15:17:07.48 ID:vdmzKBjL
>>118
そういや秀吉もマザコンだっけ?
そら老母が必死こいて来たら邪険にはしないだろうな。

津軽為信に取られた諸城

2012年01月20日 21:58

504 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/20(金) 13:48:09.35 ID:w9Xt6lnx
 青森県弘前市にある弘前城は昨年が築城400年ということで多数の
記念イベントを開いたが、地元「東奥日報」は12月に「落城400年を
歩く」を連載し、津軽為信に取られた諸城を紹介した(当然ながら
落城は津軽統一戦の過程なので、400年よりもっと昔)。

 初回は石川城で、落とした手口は悪い話にある。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5509.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2433.html

 討死したとも、落ち延びたとも伝えられる南部(石川)高信は地元に
「おらほ(=うち)の殿様」と慕う人が多い。送り盆では松明行列で
高信を慰霊するほか、2004年に弘前中心街に為信の銅像が建てられた
時も町内で集まりが悪く「石川はしょうがない」と催促されなかった。

 他にも南部方として為信と戦った滝本重行@大光寺城、北畠顕村@
浪岡城らもそれぞれ地元で根強い人気があり、謀略や奇襲を常とした
為信を嫌う住民もいる。

 滅亡、改易となった武将のいた城下はどこも同じかも知れないが、
津軽といっても為信を讃える地区ばかりではなく、敗将もそれなりに
偲ばれているという話。




505 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/20(金) 15:06:44.85 ID:KW58J62k
弘前は青森県だけど、心は岩手県民って人が多いって聞いたが(笑)

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/20(金) 15:13:10.21 ID:X2Bo3mIW
十三湖とか青森西部はやっぱお慕いするのは安東さんなのかな?

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/20(金) 15:22:35.00 ID:KW58J62k
県割りと県庁所在地は官軍の心積もりだったらしいからね~

佐賀辺りは、県としては小さいのにピンだしね~

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/20(金) 23:59:21.70 ID:ysa3RWeN
(´・ω・`)「きたない、さすが津軽はきたない」

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/21(土) 00:28:23.96 ID:wO1rsch3
津軽平定中に恋慕した女性の旦那を殺したことがあったらしいな

当然、その女性がなびくわけもなく、為信はその女性も攻め殺した


たしかまとめにあったかな

527 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/22(日) 12:52:21.90 ID:ctTztZGI
>>512まとめブログにある藤代御前の話だね。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3160.html

藤代御前が立て籠もったと言われる館跡には、この逸話通りに津軽家の
菩提寺である革秀寺が建っている。藤代には地元バスの営業所があって、
青森に転勤してきて、弘前駅前で「藤代(営)行き」という表示のバスを
見た時に「ここか」とこの話を思い出した。

津軽為信は「油断する瞬間」を待った

2012年01月01日 22:00

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 12:57:01.94 ID:ZlCSGiV7
正月だから正月の逸話をやろう


まだ津軽為信が大浦為信と名乗っていた頃の話。
津軽統一を目指す為信は南部家臣の猛将、滝本重行の守る大光寺城を攻略しようとしていた。

天正2年(1574年)8月、為信は4,000の兵で大光寺城を取り囲んだ。対する滝本重行の兵はわずか700。
楽勝に思われたこの戦いだが重行は兵力差に怯むこと無く、大浦軍がぬかるみに踏み込んだ所で突撃を仕掛け、
小回りが効かなくなった大浦軍は対応出来ず、為信は危うく討たれそうになりながら敗走するという惨敗を喫した。

正面切って戦うのは得策では無いと悟った為信は重行の「油断する瞬間」を待った。
そして翌年の天正3年(1575年)元旦、ついにその瞬間が訪れる。
大雪が降って視界が効かないという行軍に向かない悪天候、そして正月という晴れの日…
これら「気が緩む要素」が揃ったこの日に為信は再び大光寺城攻略の兵を挙げたのであった。

驚いたのは重行である。今日が正月であるという事以上に、この大雪の中で攻めてくるというセオリー破りに意表を突かれた。
今までの苦戦が嘘のように大光寺城はあっさり陥落し、重行は大雪の中敗走する他なかった。

こうして大浦為信の津軽統一の野望は一歩前進したのでしたというお話。




550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 13:19:30.93 ID:W2Ahza+u
為信さんらしい逸話ですな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:15:46.19 ID:GBZQKBQr
為信汚いな、流石為信汚い


でも比較的正攻法かこれ

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:32:59.91 ID:Rpgscx2H
>>551
正月に攻め込むのは定番だよね。
六条合戦とか天庵様とか。

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:37:39.23 ID:W2Ahza+u
定番の珍手って印象

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:42:24.32 ID:uOTzmrdG
信玄の初陣思い出す(正月じゃないけど)

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:47:28.82 ID:FvcAE74X
多分元旦じゃねえだろな

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:51:38.50 ID:/TYw3zKU
戦国で元旦の悪い話といえばこれ以上のものをちょっと知らない

佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:54:56.27 ID:ZlCSGiV7
>>555
いやまぁ旧暦で言うと正月は1月の事だけどこの逸話は元旦だよ。

田中太郎五郎の討死

2011年10月09日 22:14

14 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/08(土) 22:54:44.62 ID:onLeTo27
田中太郎五郎の討死

津軽統一戦に乗り出した大浦為信(津軽為信)は支配者の南部氏だけでなく、
浪岡の北畠氏ら有力領主や彼らが頼った出羽安東氏を敵に回すことになった。
1579年に六羽川で連合軍と激突し、大浦勢は本陣まで追い込まれた。

だが為信の乗馬は泥にはまり、逃げられない。これを見た家臣の田中太郎五郎
吉祥は為信の兜などを貰い受けると、馬の尻を槍で刺して泥から抜け出させ、
主君を逃がした。自らは為信の身代わりとなり、銃弾を浴びて討死した。

連合軍は為信を討ったと思い込んで油断したところを逆襲され、出羽に退いた。
太郎五郎の亡骸と槍は、翌朝に戦場を訪れた妻が見つけ、江戸時代に弘前藩が
創建した岩木山の高照神社の宝物館で今も見ることができる。

田中家は弘前藩で功臣の家系として遇され、昭和になってから戦跡には子孫の
佐藤尚武氏(ソ連が対日宣戦した時のモスクワ大使)らが「津軽之忠臣」碑を
建てた。

15 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/08(土) 23:13:14.85 ID:onLeTo27
>>14は高照神社の展示を見た記憶をネットで補いながら書いたが、合戦では
よくある状況であるとはいえ、三方ケ原で家康を逃がした夏目吉信の逸話と
似ているので、忠臣の最期としてテンプレ補正がかかっているかも知れない。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-337.html

ちなみに今年は弘前城が築城400年ということで色々行事をやっていていて、
この3連休は津軽家菩提寺の長勝寺でヒゲ殿の木像を公開しています(今日
見てきました)。

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/hirosaki400th/topics/pdf/201109bikkuri.pdf




16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 23:27:14.54 ID:iBjxXhYf
太郎なのか五郎なのかはっきりしろ

狩場沢の藩境

2011年10月09日 22:13

17 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/08(土) 23:54:28.22 ID:onLeTo27
>>7津軽と南部と前田利家というと、こんな話もある。

津軽藩と南部藩の「藩境塚」は陸奥湾沿岸の南東端に近い狩場沢にあり、
戊辰の野辺地戦争もここが戦場になった。

1592年、利家が東奥巡検使として豊臣政権に服属した奥羽を回った折、
為信は自ら利家一行を狩場沢まで見送った。津軽家は南部家と合意が
あるかのように装ってここに境界の塚を設けており、狩場沢の藩境を
既成事実化することに成功した。

津軽為信とすればしてやったりのいい話、南部信直にはタッチの差で
津軽独立阻止を失敗したのに続いて煮え湯を飲まされた悪い話。

http://www.mutsu-ogawara.or.jp/areaguide2.html

江戸時代になっても津軽と南部は国境の檜伐採問題、官位競争などで
揉め続け、ブチ切れた南部藩士が相馬大作事件を起こすに至る。

Wikipediaで南部信直を見たら、死去直前に娘(八戸直栄室)に送った
手紙で「ワカメや昆布が食べたい」と書いていたそうで。上方や九州も
海藻類は流通していたと思うが、故郷を遠く離れて心身とも疲れていた
様子が伝わってきて泣ける。北西だけじゃなく、南の隣人(DQN眼竜)も
油断ならないし。




18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 00:04:24.84 ID:qcrFCojR
唐入りの為とはいえ、老体で西国まで行くのは辛かったろうに
死去前の言葉がまた泣けてきた
そういう武将の末期の言葉一覧作られたら、最後まで読めずに泣いちゃいそう

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 14:00:35.33 ID:JQd/Mrtb
南部さんはなあ…
同じお隣でも津軽と佐竹は何やかや言いながらも上手く付き合っていたのに
南部さんだけは相手を怒らせてぎくしゃくしてたからなあ…

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 22:37:41.70 ID:ldHd3tCL
佐竹『ここは前にいた土地より寒くてかなわないねぇ』
津軽『ウチも寒いけど雪はそっちの方が多いもんねぇ』

南部『おい、そこはウチの土地だ』

津軽に残った石田三成の血筋

2011年10月05日 22:03

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/04(火) 21:32:40.78 ID:VJX4jmh7
津軽に残った石田三成の血筋

関ヶ原の戦いで津軽為信は東軍に加わったが、嫡子の信建は大阪城にいて、
豊臣秀頼の小姓を務めていた。西軍敗れるの報が伝わると、小姓仲間だった
三成次男・重成を連れ帰り、津軽で匿った。

重成は後に杉山源吾と名を変えた。子孫は家老も出す藩重臣となり、通字は
「成」を使った。墓などでは豊臣姓を名乗った。

962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/04(火) 21:47:27.55 ID:VJX4jmh7
>>961の続き

信建は1607年、為信死去の直前に夭逝し、2代藩主は弟の信枚が継いだ。
彼が1610年頃に正室に迎えた辰姫=辰子は高台院(ねね)の養女になって
いたとはいえ、三成の三女だった。

直後に家康養女の満天姫を正室として迎えたため、辰姫は側室に退き、
関ヶ原の戦功で加増された上野国大舘に暮らして大舘御前と呼ばれた。
その後も2人は睦まじく、信建は参勤途中に大舘に立ち寄った。

妻2人は各々男児を産んだが、3代藩主は辰姫が生んだ信義が継いだ。
後に御家騒動の火種にもなるが、信枚の遺志が強かったと言われる。

満天姫が産んだ信英は旗本→黒石藩祖として遇されたが、福島家からの
連れ子だった大道寺直秀は悲劇的な最期を遂げる。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-534.html

963 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/04(火) 22:07:02.93 ID:VJX4jmh7
>>962

辰姫と初期弘前藩については、弘前市本社の「陸奥新報」で今春から、
郷土史家の田澤正氏が「津軽信建と『津軽の江』」という大河ドラマに
ちなんだ連載をしている。信義は「じょっぱり殿様」と言われるくらい
良くも悪くも我が強い藩主だった。田澤氏は「祖父は家康に挑んだあの
三成であるという自負から自由に行動したといわれる」と記している。

他にも弘前は城の稲荷社で密かに祀った像が明治になって豊太閤坐像と
判明したり、「大坂屋」という御用菓子商が「冬夏」なんていう菓子を
藩主に献上していたりする。

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyo/bunkazai/shi/shi20.html

南部氏から必死こいて切り取った津軽を安堵してくれた豊臣政権に心底
感謝していたのだろうと思われる。

弘前藩は御家騒動が起きまくりだったのに、公儀が北辺の安定を重視した
ためか、改易はもちろん、一時検討された転封もなかった。




964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 22:40:25.42 ID:iCqeDVeC
津軽藩って弘前城に確か秀吉奉ってたりしたよな

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:13:19.92 ID:dtRA/sGh
後は津軽は近衛の関係者扱いになってるから、
公家+朝廷に手を出しづらかったのかもしれない。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:19:31.48 ID:ZDhfc0BI
ヒゲ殿は関羽を尊敬してたから義にあつい
その精神を汲んで

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:58:13.99 ID:k1UPp5jt
津軽は隣の佐竹に金を借りたり人馬をやりくりしてもらったりしているが、貧乏だったのか?

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 05:06:01.58 ID:Uh4EZWYz
>>966
気に入った女の旦那を殺したり、その女に抵抗されて殺したりする人だけどな

971 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/05(水) 13:12:42.57 ID:jifG1Ana
>>965地元の小説や稗史では、為信の軍師である沼田祐光(面松斎)が天海と
親しかったとされることが多い。さらに関ヶ原で為信とともに東軍に随行し、後に
家老を務めた服部康成という人物がいて、家康が鬼半蔵の一族を監視役を兼ねて
送り込んでいたという説もある。

旧恩への義理と外交を使い分けて、うまく世渡りした印象。西軍人脈だけだと
叛意を疑われかねないが、徳川から重臣と正室を迎えていれば警戒されにくい。

「何とかしてよ、ハットリくん」「またでござるか、ノブヨシ氏」。

2011年10月05日 22:03

971 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/05(水) 13:12:42.57 ID:jifG1Ana
地元の小説や稗史では、為信の軍師である沼田祐光(面松斎)が天海と
親しかったとされることが多い。さらに関ヶ原で為信とともに東軍に随行し、後に
家老を務めた服部康成という人物がいて、家康が鬼半蔵の一族を監視役を兼ねて
送り込んでいたという説もある。

旧恩への義理と外交を使い分けて、うまく世渡りした印象。西軍人脈だけだと
叛意を疑われかねないが、徳川から重臣と正室を迎えていれば警戒されにくい。




972 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/05(水) 13:23:29.48 ID:jifG1Ana
>>971この津軽のハットリくんは、のび太ならぬ3代藩主・信義の大ぼらの
尻拭いをさせられたことがある。

江戸城年賀で「金沢城の六尺太鼓は日本一」と聞いた津軽信義は「弘前では
その程度は子供の玩具。城内には十尺に余る太鼓がある」と口走ってしまう。
居合わせた諸大名が「されば雪解けを待って見届け役を送ろう」と衆議一決
したため、焦った信義は国元へ早馬を走らせた。

「何とかしてよ、ハットリくん」「またでござるか、ノブヨシ氏」。

服部康成は急いで大太鼓を作らせ、春に間に合わせた。弘前入りした検使は
大太鼓の現物を見届けて、唖然としながら帰って行ったという。

4代藩主・信政はこの大太鼓を本所上屋敷に運び込み、隅田川を越えて響き
渡る轟音は江戸名物になった(弘果という地元企業のHPより)。

今でも夏の弘前ねぷた&青森ねぶた祭では、打ち手の背丈より大きい太鼓が、
山車とともに市街を巡行します。




973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 13:47:18.49 ID:FY+B0z0m
のぶよし。をプロデュース


974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 13:49:17.54 ID:kgb62dC/
やたら長い大根とかじゃなくて良かったな

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 15:54:02.13 ID:rgO8GD7Y
弘前ねぷた見に行ったら太鼓の上にサラシ巻いたおにゃのこが4人くらい乗って叩いてた
あれはよいものだ

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 17:46:07.19 ID:Vqj51m+Z
よくある小咄なら
「俺の地元にはこんなでっかい太鼓があるんだぞ」
「それなら俺の地元にはこんなでっかい牛がいるんだぞ」
「そんなでっかい牛がいるもんか」
「いなきゃその太鼓の皮を貼れないじゃないか」

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 17:53:06.62 ID:w121xO+F
>>972
実際には太鼓なんて作らず見届け役に
くのいち忍法の肉接待と忍法黄金色の菓子折り
が炸裂している

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 20:00:59.15 ID:CxokdZHx
>>972
本所七不思議の1つ、津軽の太鼓に繋がる話かな
火事の時板木を鳴らすのが普通なのに、津軽屋敷からは何故か太鼓の音がしたってやつ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 22:08:01.78 ID:Pq0DlnoY
他にも伊達の殿様がホラ吹いて豆鉄砲を作ってたよな
「座敷で蝿を射つのに使う」とか言って

あと佐竹の殿様も「秋田の蕗は傘に使える」とか言っちゃって、
領民狩りだして大きな奴を国中探しまわった話もあったな

幕末に生きた藩祖の縁

2011年10月02日 22:01

910 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/02(日) 08:08:51.22 ID:7MyDJQes
幕末に生きた藩祖の縁

津軽為信は南部系久慈氏に生まれて大浦家に婿入りしたとも、大浦家の血筋とも
言われるが、津軽統一後は大浦家に近衛尚通の落胤がいたという伝えに着目して、
その孫である近衛前久の猶子となり、本姓を藤原に変え京都政界に足場を築いた。

それから300年近く過ぎた幕末。弘前藩本国は当初、奥羽越列藩同盟寄りだったが、
藩京都屋敷御用人を任された西館孤清は、鳥羽伏見の戦い等で倒幕側優勢と知る。
付き合いが続いていた近衛家から、勤王に励むべしという朝廷の令書と、近衛家の
教書をいただいた西館は帰国して藩論を新政府側に統一した。

最後の功名稼ぎに南部領に侵攻して撃退される(野辺地戦争)なんてことがあった
ものの、戊辰戦争では官軍側だったということが考慮されて弘前城は破却を免れ、
江戸時代の天守が残る数少ない名城として現在も残っている。

西館の墓は江戸の旧下屋敷横の寺にあり、有志が今月25日に120回忌法要を開いた。
(青森県の地方紙「東奥日報」より)。


主家が滅んで再仕官を繰り返しただけなのに、鳥羽伏見で幕府側→討幕側に寝返っ
たら「藩祖に似たり」と罵られた藤堂家とか、宮中で煙草を1本失敬したら「血は
争えんな」と天皇陛下にからかわれて学者に先祖の経歴調べを頼んだ蜂須賀家とか、
藩祖がやったことというのは虚実、善悪含めて影響が大きいようです。




津軽為信、独立の狼煙

2011年06月17日 00:00

677 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/16(木) 02:23:10.87 ID:xWUDlpQm
南部からの独立を決意した津軽為信は、南部家当主の信直の実父で、津軽地方を治めていた南部高信の討伐を計画。

「私が大浦(青森県弘前市)を治められるのも高信殿の仁愛のお陰です。」

と高信をおだてつつ、その居城である石川城近くにあった自身の城である堀越城の改修を願い出た。
高信の許可を得た為信は、土石に見せかけて兵糧や武器を運び入れると共に、人夫を装わせて兵を集め、改修が終わると
高信の重臣3人を大浦城に招いて歓待し、家臣の板垣兵部を見送りに付けて帰した。

そしてその夜、そのまま堀越城に入っていた板垣を先手として石川城を急襲。油断していた高信を自刃に追い込んだという。
こうして為信は独立の狼煙を上げると共に南部との血で血を洗う抗争を開始したのである。

以上、「津軽一統志」より為信22歳頃の話である。




678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 04:21:32.73 ID:arXvdHTf
石川を落とす時は、罪人を使って城下でえげつないことをさせたものな

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 22:08:03.89 ID:qBl/gPFI
>>678
あれは本当に後味の悪い話だった

津軽為信、村を焼き払って

2011年06月16日 00:10

155 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/15(水) 01:08:05.59 ID:mc1NcsSh
津軽為信が大浦家の家督を相続した翌年、軍事演習を行って自分の元に集まる兵の数とその
働き振りを調べる事にした。演習に集まった約1000人の兵は演習場になった陸奥国野崎(青森県弘前市)
という小さな村になだれ込み、合図に従って民家に一斉に放火した。村人達は事前に命令を受けて避難していたが、
辺り一面焼け野原になってしまった。しかし翌日、為信は大工を派遣して以前よりも立派な家を建てさせ、さらに
家具や食料も与えたので村人はかえって為信に恩を感じるようになったという。

以上、津軽為信村を焼き払って人望を得たお話。為信19歳頃の話である。





158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/15(水) 06:53:18.89 ID:CKmxyuW+
軍事演習と村の再開発を組み合わせた
全く新しい公共事業である