fc2ブログ

戦国時代の二つの南部

2010年12月18日 00:02

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/17(金) 01:11:44 ID:WD6cwNo9
悪い話で南部さんの盟友?がちょっと出ていたので

戦国時代の二つの南部


天正18年(1590)、南部軍の大将として津軽氏と戦っていた八戸政栄は、
三戸の南部信直の呼び出しを受け急遽帰国した。
二人はそれぞれ三戸南部氏・八戸南部氏の二大巨頭ではあるが、
家中で立場の弱い信直になにかと親身になってくれたのが政栄だった。

このとき信直は人生最大のピンチを迎えていた。彼は思い詰めた末、政栄にこう切り出した。

信直「八戸殿は小田原に行かれるおつもりですか?」

政栄「…………」

信直「いま関東の大小名はこぞって太閤様のもとに参陣し、御沙汰を待っています。
   我らも一刻も早く小田原へ行かねば後々よろしからぬことになるでしょう。
   しかし参陣したくとも、津軽は騒ぐし九戸も不穏だし、領地を留守にはできない。
   だからといって参礼をしないわけにも行かない。

   …あなたは他の末家と違い、朝廷公家に直参するお家ですから、
   一緒に小田原に行き、本領安堵されたいと思っています。
   しかし我ら二人が領土を空けるわけにはゆかないのです。
   
   だから、どうかこの地に残り、南部の土地を守っていただけないでしょうか。
   御朱印を拝領する名代として、ご子息の直栄殿をお連れします。
   当主のあなたが直接参陣できない理由は私から利家様に必ずご説明します。
   
   当家の存亡はあなた一人の思慮に懸かっております!お願いいたします!!」


政栄は少し考えこんでから、静かに語り出した。


政栄「おっしゃる通り、八戸は三戸から一度も禄を受けたことはありません。
   ですが、先祖代々不幸のあるときは互いに助け合い、家を存続させてきました。
   いま九戸政実と津軽為信の反逆によって、ご領内は三つに分裂してしまっています。
   こんなとき私まで太閤様に参礼したら、嫡家の威勢はさらに弱まり、滅亡してしまうでしょう。
   南部の大事に自分の家の都合のことなど申してはおられません。
   
   私が自領とあなたの領地をお守りします。
   あなたはお気遣いなく、すぐに小田原へ行きなさい。
   息子は参陣させますが、八戸の所領安堵はご領内が落ち着いてから後日願い出るつもりです」


信直はうなだれて政栄の話を聞いていたが、話が終わるとワーッと泣き崩れた。
「八戸殿、かたじけない…。ご親切は決して忘れません」


こうして信直は領内に八戸政栄を残し、ようやく小田原に参陣できたという。
結局八戸は大名になれなかったんだけど、
信直が八戸家を立てたので彼の生前はまあ良好な関係だったそうな




861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/17(金) 01:39:06 ID:f1LztK/7
政栄死後の八戸家に対する南部の扱いがなけりゃいい話で終わるんだがな・・・

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/17(金) 07:29:04 ID:yGpFqwuY
八戸さんはもうちょっと評価されても良いと思う。

信直はいいんだが、利直がなあ…。ただでさえ外様豪族の力が強い南部で
権力を確立する為には外様潰しが必須だったとはいえ。

南部さんの憂鬱な8月

2010年12月16日 00:00

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/15(水) 19:05:45 ID:dgl2CJIl
小ネタだが。

奥州仕置後の朝鮮出兵時、南部信直安東実季は、対立していた両者の和解の証として
安東実泰と南部信直の義娘(北信愛の娘)の結婚を取り決めた。
この婚姻は前田利家を仲介として進められ、文禄4(1595)年8月に二人は結婚することになっていた
のだが、この年、安東実季と比内郡の豪族浅利頼平との間で紛争が起きた。
両者は断続的に交戦を繰り返し、この紛争は中央も巻き込んだ大きな騒動となったのだが、
二人の結婚はこの騒動の影響をもろに受けた。


南部信直が8月に娘千代子に出した書状より
「お前の妹の結婚についてなんだけど、実季と頼平の争いのせいで、比内―檜山間はひとの行き来も
ないそうだ。おかげで連絡なんか来やしねえ、今月は難しそうだ、困ったわ(;´Д`)ハア」

「秋田側から結婚について22日に執り行いと連絡してきた。いや無理だろ(* ̄ ̄)/☆」

「津軽の奴が後押ししたせいで比内がその気になっちまったっぽい。比内勢が秋田方の稲を刈り
取りやがった。近日中に戦争はじまりそうだ・・・orz」

「結婚のことなんだけど、秋田の情勢が悪くなってるからとりあえず待てと人をやった(;´д`)トホホ…」

「秋田への輿入れのことだけど、もう連絡もなにも途絶えちまった。もう先に延ばすしかないわ。
しかも秋田の進退がやばいらしい(;´Д`)マジカンベン」


しかもこの8月には、盟友八戸政栄の息子で長女千代子の夫でもある八戸直栄が病死している。
隣国では戦争が始まるわ、おかげで娘の嫁ぎ先家自体が危なそうだわ、大事な娘婿は亡くなるわ、
どうにも良いことがない南部さんの憂鬱な8月。




玉山大和の化物退治 その1

2010年11月03日 00:00

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/02(火) 17:26:34 ID:bbtR+XkX
玉山大和の化物退治 その1-1

南部氏の家臣玉山大和。彼は南部信直の父南部高信のもとで、岩手郡の平定などに功を成した勇武の士であった。
ある時、彼は同僚の福士伊勢と共に三戸城へ向かっており、ふたりが蓑が坂という所にさしかかった時、
突然玉山の馬が病になり倒れてしまった。

どうしたものかと思案しているとちょうど巫女が通りがかり、玉山はお祈りしてくれないか頼んだ。
巫女「えー、嫌ですよ、馬なんか祈ったことないし」
玉山「人と獣じゃ薬が違うってのは分かるが、祈りに異なることはねえだろ、祈らなくばここを通さんぞ!」

玉山の脅しに巫女は渋々馬に祈ったが、すると巫女は突然神がかり口走った。
「我は坂の下の池に千年住む大蛇なり。諸人が我が頭の上を乗りうちすることが無念で
それを咎める為に馬を倒れ伏させたのだ」

巫女に乗り移った池の主の言葉に、玉山は切れた。
「この坂を通る皆が下馬する中で俺ひとりが乗りうちしたなら咎めるのも分かるが、
なんで俺ひとりだけ咎められなきゃならんのだ、姿を現せ!」
怒鳴るが大蛇は姿を現さない。
巫女は正気に戻り、馬は祈りもあってかすぐに回復した。

福士「まあまあ怒るな、たかが巫女の言ったことではないか。もう日暮れだ、先を急ごう」
玉山「……貴殿は先に三戸へ行ってくれ」
よっぽど怒りが溜まっていたのか、玉山は服を脱ぎ捨て、池の中に入ろうとする。ちなみに季節は真冬である。
「ちょっ、トチ狂ったか玉山!?」
止める福士の話も聞かず、玉山は池に飛び込んだ。


259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/02(火) 17:27:41 ID:bbtR+XkX
玉山大和の化物退治 その1-2
池は奇麗でチリもなく、水は湯の如く温かかった。
池の主らしきものは見つからなかったが、四~五丈ほどの臥せ木が横たわっている。
あるいはこれが池の主かもしれない。玉山はこれを引き上げようと福士に縄を用意させた。
福士はあきれ果てながらも、玉山の指示通り縄を用意した。

縄を木に付け終えた玉山は家臣二十~三十人でこれを引かせたがびくともしない。
往来の人に縄を牽くよう脅し誘い、さらに集まってきた見物人をも参加させて、
百人ほどでようやく岸辺まで上げたが、そこからどうにも動かない。

玉山は急いで三戸に使いを出す。
使者「玉山・福士が蓑が坂の池の主を引きあげています、ご加勢をたまわりたい!」
信直「……あの玉山が無茶苦茶すんのは今に始まった事じゃないからなぁ」
と信直はさらに五十人を遣わし、そうしてようやく引き上げたのは、なんの変哲もない朽木だった。
もう日も暮れる。玉山は根っこのほう三尺ばかりを斬り、それを三戸へ土産として持っていった。

翌朝朽木を見れば、それは何とも恐ろしい大蛇の首になっていた。それを見た信直はこう言った。
信直「こういうものは後でたたりをなすという。だが、その肉を食べればたたらぬそうだ。
玉山、食え」
大蛇は煮て食べられ、たたりも起きませんでしたとさ。




261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/02(火) 19:17:49 ID:2/jB8DPt
>>259
>縄を牽くよう脅し
往来の人すごい迷惑w

玉山大和の怪物退治 その2

2010年11月03日 00:00

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/02(火) 17:28:32 ID:bbtR+XkX
玉山大和の怪物退治 その2
南部家の家臣、玉山大和は信直の命を受け、前田利家への使者のひとりとして出立、出羽を抜けて日本海に出、
そこから船に乗って利家の領国へ向けて出航した。
乗った船は順調に航海を続けていたが、突然船が動かなくなる。騒ぎ出す乗員達。
船頭曰く、これは鰐が船をはさんでいるという。
海上では渦が巻き船も回り始め、このままでは船が覆されてしまう。乗員達は生きた心地がしない。

船頭「鰐がこのようなことをするのは何か望みがこの船にあるからだ。持っている物を海中にかざしてみてくれ」
乗船していた人々は自分の所持する物をかざしてみたが反応がない。
さては鰐の望みは物ではなく人であろうと、人々は髻を斬り海に投げてみる。
どの髻にも反応がない中、玉山の投げいれた髻は、海は落ちるより先に引込まれた。鰐の思い人は玉山だった。

玉山は乗員に迷惑を掛けまいと海に飛び込む決意をし、その前に鰐を見てから海に飛び込もうと
弓に矢をつがえて名乗りを上げる。
「我こそは南部家臣の玉山某なり! 何の遺恨あって我を害そうとするのか!」
すると、渦巻く海から恐ろしい大鰐が現れ、玉山を睨みつける!
玉山は慌てず騒がず、弓をひきしぼり矢を放つ。
矢は大きく開けられた喉の奥に命中! 鰐は波間に沈んでいった。

さて、船は無事に利家の領国へ到着し、使者の任をつつがなく終えた玉山は、
陸路帰還する際浜辺で大魚の肉を切り分けている所に出くわす。
話を聞けば矢が刺さっているという。あの大鰐であった。
確認してみると、喉には確かに自分の放った矢が突き刺さっている。
「俺を食おうとした天罰だ、思い知れ!」
と玉山は鰐の頭を踏んだ。その際エラが少し足に当たった。

その時は何もなかったが、帰還した後、足の痛みが増し、それによってついに落命した。
玉山の家では鰐を退治した矢の鏃を槍の穂とし、大蛇を斬った剣は蛇切りとして代々伝えたそうだ。


化物を倒した良い話というより、化物の為に周囲を否応なく巻き込む玉山のはた迷惑な話






264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/02(火) 21:45:54 ID:UfgZpsZ+
戦国時代みたいな合理主義が妄信を駆逐するような時代でも
こんな話が残るのは東北が草深い田舎だったからなのかそれとも・・・

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/02(火) 22:09:38 ID:RY/CC7nx
>>264
中央部ですら可児さんみたいに尻をなでる妖怪にあった人もいるわけで。

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/02(火) 22:15:11 ID:MUt707Cu
自然の猛威を神や妖怪に例えていたのかもね。
妖怪にとり憑かれた~とかなら現代でいう精神疾患だろうけど。

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/02(火) 22:37:30 ID:TXdefoR2
>>267
オッカムの剃刀とかの概念が無い時代だし、事象の解釈が雑多でも問題ないから
狐憑きとかの外的要因を想定するのはむしろ当然じゃないかね
当人たちが納得できればそれでいいんだよ

南部晴政と奥さんの馴れ初め

2010年10月19日 00:00

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 01:19:09 ID:8WTsWTzs
南部の話が少ないと思ったので小ネタを。南部晴政と奥さんの馴れ初め

南部晴政は北奥に覇を唱えた有能な大名だったが、不幸にも男子に恵まれなかった。
そのため晴政は娘たちを有力家臣の娘に嫁がせ、ゆくゆくは長女の婿に家を継がせるつもりでいた。

ある日、晴政は家臣を連れて鳥狩りに出かけた。
ちょうど田植えの季節だったが、城主を見た農民たちはその場に平伏した。
行列は何事もなく厳粛に通りすぎるかに見えた。

そのとき、突然田んぼの中から十七・八歳の美しい娘が飛び出してきた。
彼女は「殿様にお祝い申し上げま~す!」と言い、笑いながら両手の泥を晴政の服と顔に塗りたくった。

凍りついたのはその場にいた家臣と農民たちである。
実は無病息災を願う泥を擦り付け合う風習は全国各地で見られるのだが、殿様相手では話が違う。

が、晴政は「おめでたいことだ」とニコニコ。
娘を叱りつけることもなく、全身泥だらけになりながら輿に乗ったという。


後日、この娘は晴政によって召し出され、やがてその寵愛を受け男子を生んだ。
晴政は諦めかけていた実の息子の誕生に大喜びし、この子を鶴千代と名付けた。
この鶴千代が後に元服して南部晴継となるわけだが… これ以上語ると悪い話になるのでやめておく。




771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 01:44:12 ID:TQAlHth0
>>770
秀吉「つまり秀次を生かしておいては、秀頼が殺されてしまうという事だな」

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 06:57:04 ID:DH1jtz42
>>770
跡継ぎ無く養子をもらう→その後実子誕生→養子との間で対立
――ってお家騒動のテンプレのひとつだよね。
ラスボスといい高虎といい晴政といい
跡継ぎを選ぶタイミングって難しいんだなーとつくづく思う。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 10:19:40 ID:2eG1xEP+
不動の後継者居ても本人長生きしすぎて跡継ぎに先に逝かれることもあるし後継者問題は色々難しいねぇ。

出来のいい養子に死なれて覇気失った人もおるし…

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 10:36:31 ID:RUc9ZUTP
普通の家の財産分与だけでも揉めるのに大名なんかは跡継ぎ候補者の家臣の進退にも関わってくるからねえ
跡継ぎがポックリ逝くと家中の権力構造に穴が空くし…

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 11:26:54 ID:QKnVws/E
個人存在が家を極度に左右しないよう、行政を発達させた北条家
おかげで内乱も少なかった。しかし合議制のために動きが遅かった

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 12:47:35 ID:na5V9hNL
>>773
出来のいい養子に死なれた人の例が思い出せそうで思い出せないんだが
よかったら教えてくれ。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 13:10:26 ID:iInS34rL
>>776
毛利兄弟、陶etcを大量に食いまくってたあの人

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 13:41:03 ID:vS/e5vM6
>>772
応仁の乱の原因もそれだしね。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 17:17:27 ID:RUc9ZUTP
遅れて産まれた実子をもり立てるって非主流派の人間にとっては一発逆転のチャンスだからね

奥州北部の戦国大名、南部晴政の娘達は

2010年07月18日 00:00

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 01:04:46 ID:DkU9vkrG
吹いたw
確かに惜しい。

> 379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/14(水) 17:14:24 ID:cvsDNaOh
> 奥州北部の戦国大名、南部晴政の娘達は
>
>
>
>
>
>
> それぞれ九戸の乱で活躍した南部家臣、東朝政、南盛義、北秀愛に嫁いでいる。
> 南部の家臣に、西という一族もちゃんといたようだが、
> 活躍しなかったのか、すでに断続していたのか…痛恨のグランドスラム失敗である。




921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 01:11:54 ID:TUurYAf+
中さん!中さんはいずこにおわすか!

確か毛利とか大内とかあそこらへんには居た記憶があるんだが。

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 02:06:27 ID:NHLzDa3k
そりゃ元々南部一門の北家なんだから東西南北そろってて当たり前でしょ?

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 02:23:20 ID:/SbbESOO
いやいや、佐竹四家も同じように東西南北だし一門の分立を方角で表すことは
有り得ることだが、それを当たり前と言ってはそれで終わってしまう。

律儀にお家の再結束をしていく中でちょっと中途半端になっちゃったね、という
感じではあるじゃないか。

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 03:37:44 ID:fpIUzEB4
東西南北中央必敗スーパーひたち、その名は  小田天庵也ー!!  コウデスカワカリマセン(棒

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 08:25:46 ID:vZxXE3Sd
失礼な、稀に勝てるぞ

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 08:33:27 ID:8QZS8EiQ
天庵様に負けた人達はどうなるんだろう…

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 12:45:55 ID:vpMVivhe
一戸~九戸も揃ってるし人間麻雀できそうな勢いだな南部家

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 14:53:42 ID:N3VVmwNe
>>920
以前いた職場に東西南北・上中下の「○野」が揃ってたのを思い出した

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 17:35:37 ID:aldIAApc
しかし白と中はいても發が居ないのではないか。

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 20:25:53 ID:Y3BCLw/H
>>930
発中(雑賀衆)「呼んだ?」

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 20:29:16 ID:aar5Eyvc
警察呼んだよ

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 21:41:56 ID:rGl0SuJt
鬼武蔵「狼藉者が居ると聞いて(ry」

「十左衛門火」

2010年06月20日 00:02

468 名前:sage[] 投稿日:2010/06/19(土) 17:32:05 ID:E/tjJ2RR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1454.html
この話の補足。ソースは実家で埃をかぶってた岩手の民話集

「十左衛門火」
北信景は通称を十左衛門と云い南部利直の寵臣だったころは十左と呼ばれていた
その十左衛門が伊勢で捕らえられ盛岡藩の利直の元へ連行された

十左衛門は弓の名手として家中でも知られ、大坂の陣でも巧みな腕前を披露し将軍秀忠の目に止まった
利直は秀忠に「南部は惜しい家臣を失ったな」とまで云われてしまい、かつての寵臣だっただけに怒りは激しかった
まとめには利直じきじきに処刑したとあるが、利直が命じたのは惨いもので
十左衛門の全ての指を一日一本ずつ切り落とせと命じたのだ

利直「指を落とされるたびに己の罪を悔いるが良い!」
十左衛門「ならば拙者は指を1本落とされるたびに、殿へ怨みの矢を10本射てくれましょう!」
返事に怒った利直の命令で処罰は執行された
そして全ての指が切り落とされた20日後、再び利直は十左衛門に対面した

利直「どうじゃ!少しは後悔したか?」
十左衛門「おお!殿へ怨みの矢を200本放ちましたぞ!」
利直「おのれ!まだ云うか!」
カッとなった利直は持っていた銃をブッ放し十左衛門を撃ち殺した

それ以来、城には怪異が続き十左衛門が殺された刑場に鬼火が出るようになり
人々は「十左衛門火」と呼んで恐れおののいた
さて、全国的な知名度は低いがDQN度は高い南部利直。彼は別に暗愚ではない
利直「十左のことは、やはりワシの不徳の致すところだろう」と思いなおし供養塔を建てた
ねんごろに弔ったところ、しばらくすると怪異は治まり鬼火は出なくなったそうだ

どんな怪異が起きたのかは民話集には載っていなかったです




南部利直の虎退治

2010年06月16日 00:00

398 名前:sage[] 投稿日:2010/06/15(火) 17:02:26 ID:wro4E+7x
ソースは民話集なんで緩い目で見てください

南部利直の虎退治

大坂の陣での功績で南部さんは徳川家から雌雄2頭の虎を拝領した
城内に厳重な檻を作り、マタギから一名の虎番が選ばれた
スリランカだったか、とにかく南国産まれの虎が東北で生きるのも大変そうだが
差し当っての問題は肉食獣である彼らのエサだった
虎たちの食欲は旺盛で鹿、猪など獲りつくし猟犬までエサに出すように命令が出たほどだ

ある時、虎番が檻に鍵をかけようとしたところ雄虎が檻から脱走し
目の前にいた虎番に牙を向き襲いかかった
南部利直は虎番のピンチを、たまたま高楼から見ていた
そして火縄銃を装填すると狙い定めてぶっ放し見事に雄虎を仕留めた

残った雌虎は1622年まで生きていたそうだが
檻に紛れ込んだ虎番の猟犬とケンカになり、老衰していた雌虎と猟犬は相打ちで死んだそうだ
戦国かどうかも微妙で、いい話か悪い話かも迷ったが
生まれ故郷から離された虎には気の毒な話と思い悪い方に投下




404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/15(火) 19:19:49 ID:RZ37HjKJ
>>398
シベリアトラ(チョウセントラ)は意外と北国(雪国)でも
生息している。加藤清正が退治した虎もおそらく同種じゃないかな?
まあ、飼育には現代でも、かなり手間がかかるんで、利直も
折を見て処分したんだろうね…虎には気の毒だけど。
現代であれば人間より手厚く保護されるだろうに…



関連
清正の土産
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5204.html

2つの安東氏~檜山と湊~ その2:南部氏の悪い話

2010年06月05日 00:02

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 07:29:30 ID:xMVYQ+Sg
2つの安東氏~檜山と湊~ その2

長らく南朝の勢力であった奥羽においては南北朝統一後もその勢力は残り続けた。
北畠顕家、顕信兄弟に従い続けた南部氏は北奥羽においては安東氏と並ぶ大勢力である。
津軽に本拠を構える安東盛季は決して無能な人物ではない。十三湊の最盛期は師季、貞季、盛季の三代であると言われる。
鹿季の独立にも背景がある。応永年間においては蝦夷ヶ島で大乱があり、北方の治安と交易を保護する安東氏としては
これの鎮圧に奔走させられた。
蝦夷に於ける大乱は大陸の明朝の北元討伐による北方民族の玉突き現象に原因があるとも考えられている。

時は盛季の子の康季に移り、応永二十四五年(1418)、疲弊した下国(津軽)安東氏を攻める好機とみた南部守行は
嫡子を京に送る。
(この南部守行も顕家、顕信を支えた八戸南部氏ではなく、上杉禅秀の乱で将軍と結びつき台頭した三戸南部氏である)
馬百匹、金千両を献上した南部氏は鹿季と同じく京都御扶持衆の地位を得、また嫡子は将軍・義持から「義」の一字を
与えられ義政と名乗った。
そして応永二十七年、南部守行・義政親子は下国安東氏に攻勢をかけ、藤崎城、大光寺城を陥落、津軽の支配を
強めていくのである。
一方で康季も次の将軍に命じられた義量に馬三十匹、雉羽根五千枚、中国古銭二万匹、ラッコ皮三十枚、
昆布五百把を送る。
この南部氏と下国安東氏の争いは将軍・義教の代に仲裁として康季の妹と義政の婚姻で落ち着いた

……かに思われたが、その義教、嘉吉元年(1441)に赤松満祐に暗殺される。有名な嘉吉の変である。
目の上のたんこぶが混乱しているのを幸いとばかりに南部義政は再び津軽併呑の策を勧める。
妹婿として康季の福島城を訪れた義政は外に潜んでいた南部の手勢を引き入れ福島城を攻略
そのまま攻めに攻めたて、康季は先祖伝来の津軽の地を捨て海を渡り、蝦夷ヶ島まで退去したのであった。

しかし康季は以前として北海に強い影響力を保持しており、「安東」の影響力を無視できない南部氏は
捕虜にした安東氏傍流である安東重季の息子に師季の名乗りを与え、田名部の地を知行し
安東家惣領の名である「安東太」を名乗らせ、傀儡にする策にでた。(師季の母は南部義政の娘である)
一方で正統である安東康季は蝦夷の和人やアイヌらを再編し、軍船をもって外ヶ浜に上陸、
その報に津軽に残っていた安東氏同族、安東氏恩顧の土豪らが集まり、南部との対立の姿勢をみせた。

だが文安二年(1445)、津軽奪還で意気があがる安東氏の陣中で康季は病没したのである。

その後、残された康季の息子・義季は幾度となく抵抗を繰り返しながらも津軽を奪還することは叶わず
享徳二年(1453)、白神山地追良瀬川を下った深浦館で自刃した。
ここに安東氏嫡流は途絶えたのである。


南部氏の悪い話





関連
2つの安東氏~檜山と湊~ その1:ほんのちょっとだけ義満の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その3:安東政季の(諦めの)悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その4:安東愛季の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その5:檜山安東氏と湊安東氏の(仲が)悪い話

南部老臣の奮戦

2010年05月28日 00:00

北信愛   
311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 20:43:50 ID:x7m83FIY
南部老臣の奮戦

関ヶ原合戦の時、南部家の重臣北信愛(松斎)は、上杉責めに出陣した南部利直の留守を預かっていた。
彼のいた花巻城(鳥谷ヶ崎城)は伊達との国境にあり、
奥州仕置によって没落した諸豪族がいまだ影響力を持つ地域だった。
南部信直とその息子利直はこの地を重視し、北信愛を城代として八〇〇〇石をもって封じたのだ。

そのかつての旧領に返り咲かんとしていたのは、隣国の伊達政宗に仕えていた和賀氏の遺児和賀忠親。
彼は伊達正宗から白石宗直・母帯越中を通じて武器や物資のみならず兵士まで融通してもらっており、
利直の留守を狙って決起、一揆勢・伊達勢により南部領の各城へ攻撃が行われた。
信愛は各方面で起こった一揆を制圧する為に自らの兵を増援に送る。
それこそが一揆勢の狙いだった。

「いまぞ好機!」

和賀忠親は夜を待って、手薄になった花巻城を急襲した。

この時花巻城にいたのは御年77歳、眼盲を患った北信愛を加えてもわずか十数名。
それに対して敵の数は和賀忠親を大将として稗貫旧臣や農民も加わり約千。
だが信愛も歴戦の武将、知らせを受けると素早く城内を固め、兵のみならず
城下の住人、女・老人まで総動員して防戦にあたる。
だが多勢に無勢、三の丸、二の丸は次々に破られ、ついに本丸に追い詰められてしまう。

「敵はもはや本丸近くまで攻め入ってきております!」

信愛は慌てず騒がず、落ち着いた様子で武具を着ると、ふたりの女中に命じて、
二丁の鉄砲に次々に火薬を入れさせ、本丸から空鉄砲を次々に撃つ! その絶え間ない音は、
まるで二〇挺のつるべ打ちのように聞こえた。
それを聞いた部下の熊谷藤四郎が、その意図を読めずにやってきて問うた。
「こんな時になんで空砲撃ってるんですか?! 敵をひとりでも討ってこそ味方の助けになるでしょうに」

「わかっとらんな、相手に応じて手段も変えるものだ。
 寄せ手は大概地下人だ、命を捨ててまで駆けてはこんよ。
 大勢を無勢で防ぐには、味方を大勢に見せかけ、さらに敵はひとりも討っちゃいかん。
 ひとりでも殺したりケガをさせたら、連中は興奮して遮二無二に突っ込んでくる。そしたらこっちは落城だ。
 こうして時間を稼げば、じき救援が来る。ひたすら鉄砲で防げ」

その言葉通り、一揆勢は絶え間ない発砲音にたじろぎ、
まだ相当数の兵が残っていると思ってか、足を止めてしまう。
そして一揆勢が攻めあぐねている内に夜明けとなり、報を受けた近傍の南部勢が到着、一揆勢は南へ後退する。
態勢を立て直した南部勢は追いすがり、岩田堂にて激突、これを撃破し、一揆勢は岩崎城方面へと撤退した。
南部の老臣はったりで城を守りきる、の話。


ちなみに、花巻城を守った兵士のひとりに葛西旧臣だった新渡戸伝助という者が居る。
後の新渡戸稲造のご先祖さんである。




313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 21:32:47 ID:vcACwl9J
>>311
さすが南部のドロドロ時代を治めた人は格が違ったか…

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 23:31:19 ID:VDgj71J9
>>311
二丁の鉄砲を絶え間なく連射したら
ものの数分で銃身が焼け付いて、手で持てなくなると思うんだけど・・・

まあ、実際撃退してるのは確かなんだよねぇ・・・

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 23:36:01 ID:r7w6ad2y
>>316
ゴルゴでその解決法があったな、濡らしたウエスで冷却するという。
これなら当時でも十分可能なやり方だって。
[ 続きを読む ]

ムカデ姫

2010年03月06日 00:05

武姫   
984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 14:18:18 ID:U8grQRW8
竜には負けるが……
「ムカデ姫」

蒲生氏郷の叔父、小倉行隆に武姫という娘がいた。彼女は氏郷の養妹となっていたのだが、
南部利直のもとに嫁ぐことになる。
この婚姻は蒲生家としてもかなり重要視されてたようで、武姫は蒲生家の家宝を持参していた。
蒲生氏郷は伝説の英雄田原藤太(藤原秀郷)の後裔ということになっていた。田原藤太と言えば
平将門を討ち取ったとされる男だが、何よりも「大ムカデ退治」で有名だ。
その大ムカデを討ち取った時の矢の根(鏃)を南部家に持参したのである。
武姫は以後「お武の方」と呼ばれ、無事に嫡男(南部家3代藩主重直)を産み、90歳余りで天寿をまっとうした。
問題はその死後。遺体に異様な形の変色が見られ、しかもそれはムカデに似ていた。
「矢の根に残っていた大ムカデの呪いじゃね?」
南部家の人は気味悪がって、彼女のの墓の周囲には堀がめぐらされた。(ムカデは水を嫌うから)
ところが墓に架けた橋はムカデによって壊されるので、何度も架け替えられたという言い伝えも残っている。
武姫はいつしか、ムカデ姫と呼ばれるようになった。
現在、問題の矢の根は京都の妙心寺にあるという。

ちなみに武姫はキリシタンだったので、それが忌まれたのが真相だとする説もある。




南部利直VS八戸(南部)祢々

2010年02月14日 00:09

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 15:06:51 ID:FLOp92Su
跡継ぎ云々の話で一つ。こんな選択肢もあるよ?


南部利直VS八戸(南部)祢々

北東北の雄、南部氏には、有力な二つの氏族が存在しました。
三戸(後に盛岡)に本拠を置く三戸南部氏と、八戸は根城を本拠とする根城南部(八戸)氏です。
根城南部氏は、南北朝期に南朝について没落し、戦国期には前者が本家として扱われていたようですが、
それでもなお『三戸南部の家臣ではなく、独立した大名である』との気概を持っていたようです。

さて、その八戸氏の二十代直政の時、徳川家から命が下りました。
南部家当主利直の名代として、徳川家康の六男忠輝の居城である、越後高田城の普請に向うようにというものでした。
ところが、ここで頑張れば独立した大名として認めてもらえると思って頑張りすぎたのか、
それとも南部は領地から離れては生きてはいけないのか、彼はこの地で病死してしまいました。
その八戸氏をさらなる不幸が襲います。直政の葬儀が終わった一週間後に、
その一人息子である久松までもが病死してしまったのです。

根城では後継者を誰にするかで頭を抱え、本家の利直に助言を求めました。
これに対して、利直は名家である根城南部をここで絶えさせるわけにはいかぬ、さしあたって直政の妻であった
祢々(ねね)を当主とし、
落ち着いて後継を探せばよろしかろうと応じます。八戸氏二十一代当主、八戸祢々の誕生です。
彼女は利直の姪にあたり、当時の正確な年齢は不明ですが、二十代だったようです。


874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 15:09:51 ID:FLOp92Su
長くなったので分割

さて、ここまでなら普通のいい話なのですが、利直とて乱世を生き抜いてきた武将です。親切だけでそんな助言をしたわけではありません。
自家の中に半独立勢力がいるのはうまくない、これを奇貨として、八戸氏を完全に家臣としてしまおうという魂胆でした。

後継も決まり、ほっと一息ついていた根城の祢々とその家臣の下に、利直からの書状が届きました。
曰く、これからも久しく女主人とはいかなるものか、戦の時に侮りを受けるのではないか
『幸い我が家中の者にふさわしきものがいるので婿につかわし、この者に根城南部家を相続させては如何だろうか』(大分略)
半ば命令ともとれるこの言葉に、またしても根城の八戸氏家臣団は頭を抱えます。
この助言を容れれば、八戸氏は完全に三戸南部氏に取り込まれてしまうでしょう。
ですが、当主が変わったばかりの家中で、三戸南部氏と不和になるのはまずいことになります。
ところが、頭を抱えた家臣達へと、当主祢々は言いました。すなわち、私が自ら回答すると。

さて、これを聞いた利直はにんまりとしたでしょう。
年は若く当主について日も浅い、しかもかなり近い血縁者。あっさり助言(と書いて要求と読む)を受け入れるに違いありません。
……が、そんな利直の元に届いたのは、祢々が髪をおろし、尼となったという情報でした。
続いて、祢々からの書状も届きます。曰く、ありがたき勧めなれど、御仏に仕える覚悟を決めました故、お断り申し上げます……と。

これを読んだ利直は、彼女の覚悟の見事さに舌を巻き、婿を送り込むのを諦めると、自ら後ろ盾になる事を約しました。
尼となった祢々は、この一件の見事さから清心尼と称され、永く八戸家中をとりまとめることとなります。

実は、この後も何度か二人はぶつかったりするのですが、それはまた別の物語。大阪の陣の頃にあった
(なので戦国からはちょっとずれるかもorz)
南部利直と八戸祢々のいい話、でした。




875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 15:29:48 ID:3GEYLVhe
相手がラスボスじゃなくて良かった・・・

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 15:51:33 ID:YnMxpowm
家光「尼さんと聞いてすっ飛んできました」

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 16:50:44 ID:2XklYDQo
でも結局は盛岡藩の筆頭家臣の地位に甘んじちゃうんだよな。

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 17:47:25 ID:uqWDCHzC
>>877
まあそうなんですけどね(汗

しかも田名部とられ(正確には廃藩置県まで借りられ)たり、遠野に国替えされてしまったり。
ただ、清心尼も、色々と譲歩を引き出していたりしたようです。
自談判&利直の妻にお願いで田名部の借り上げ証文とったりとか、三戸南部から養子を送り込まれるのを拒否して、
八戸家家臣の新田直義を養子にしたりとか。
直義が後を継ぐも城代家老として盛岡に出ると、遠野の内政は清心尼が取り仕切り、女大名とか尼殿様と言われたようです。
結構評判はよかったみたいです。

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 19:25:31 ID:L024oP/5
そんじょそこらの尼ちゃんとは大違いだな

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/14(日) 02:05:12 ID:ROlC72ue
>>873
八戸南部の隆盛はむしろ南北朝だと思われ
顕家、顕信から郡検断貰って勢力拡張して、鹿内を切り取ったのこの頃だし
義満に降伏するときも八戸の所領は安堵されている上、
津軽から安藤氏を追っ払ったのも八戸政経だし
その後の水軍経営が失敗したけど

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/14(日) 12:40:54 ID:y9a2bmMv
>>893
873です。書き方が悪かった……申し訳ない。
『南北朝期に南朝方についた為、戦国期には勢力を減じ』と訂正させて下さい。
没落というか、じわじわ三戸南部に侵食されてきたような雰囲気が。

南部信直の家族への想い

2010年01月30日 00:09

437 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/29(金) 03:44:45 ID:ZWfCBJJp
家族関係の話がよく出ているんで便乗して。初カキコ+文章力皆無なんで、お見苦しかったらすいません。

九戸の乱も終え、朝鮮出兵の軍役も終えて故郷へ帰った南部信直。
この頃彼は、病弱で体調の悪い娘婿の八戸直栄と娘千代子への手紙を幾つか書いている。

『次郎殿(直栄)の病気良くないそうだね、とても心配しているよ。
養生ばかりしてないで、湯治にでも行ったらどうだい、薬をやめて食事に注意してはどうだろう』
『近習の者を使いに出しても、くわしいことを教えてくれない。ちゃんと養生しなさいよ』
『梅を二櫃送ります、何か用事があればいってよこしなさい。孫達がみんなで梅を拾っています。
次郎殿が少しいいようだったら、四・五日泊まりに来なさいな』
『次郎殿の病気はどうですか? 心配なので知らせてください。くわしい返事を待っています』
こんな手紙を数日おきに送っている。娘夫婦を心配する老人そのままです。

戦乱の中、分裂しがちな南部家を取りまとめ、津軽・安東等と戦い、九戸の乱を乗り越えて、
ようやく彼にもこんな手紙を書く余裕が出来たのでしょう。
最後の手紙を書いたちょうどその日に、八戸直栄はわずか25歳で死去してしまうのですが、
南部信直の細やかな心遣いが感じられる話なのでこっちに投下してみました。
安息の日々を得た南部信直の、家族思いなお話。




438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 05:03:35 ID:enBYCy0O
しかし八戸氏は利直の時にあわや取り潰しにされかかったな
親の恩人でも子の代では……黒田さん家みたいなのもアレだがw



444 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/29(金) 19:47:20 ID:5cSV5GwY
>>437
信直の娘大好きっぷりは見ていてちょっと恥ずかしいw
逸話とは時期は違うけど大体こんなペースで手紙を書いてるね

1957年12月 3日 八戸おちかたへ
      6日 八戸千代子かたへ
      9日 八戸千代子かたへ
      23日 杢方(五戸代官木村秀勝)へ
      28日 八戸千代子かたへ
1598年1月  4日 八戸千代子かたへ
      7日 八戸千代子かたへ
      9日 八戸千代子かたへ
      15日 八戸千代子方へ
      24日 八戸千代子かたへ
  2月  1日 おちかたへ
  2月  1日 八戸千代子かたへ(二通目)

部下宛の書状が娘宛の書状に完全に埋れてる



449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 20:46:09 ID:7dw7tdj9
>>438
三戸と八戸南部氏の関係を思えば八戸信栄の滅私ぶりは奇跡じゃね?
元お隣りの実季は親子二代で取り組んだ檜山と湊の確執解消が関ヶ原後の転封をきっかけにグダグダだし

ある南部家臣の災難

2010年01月10日 00:24

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/09(土) 04:36:23 ID:gsne5dd5
ある南部家臣の災難

元亀3年3月、南部信直がまだ田子信直と名乗っていた頃
三戸城近くの毘沙門堂参詣の際に不仲だった養父南部晴政に襲撃され
近所の家臣川守田常陸入道正広宅に非難、危機を脱した。
この時北信愛は自宅でまったり中、信直の傍には居なかった。
実はコレ、北信愛がわざと信直に隙を作らせ晴政の謀反を誘ったとも言われている。
川守田「えー、マジ勘弁」
 
天正10年1月、南部晴継の葬儀の帰途で信直は九戸政実の襲撃に遭い
またもやたまたま近所の川守田宅に非難した。
もうとっくに日は暮れ、突然の訪問者に驚く余裕も無く
老体に鞭打って門内に入ってきた数人の九戸党を
信直のお供北主馬之助・金田一久助等と松明と刀で蹴散らし門外へ追い出した。
あ、信直もちゃんと働いたよ!自ら鉄砲を撃ち政実の弟実親に命中。
川守田「ほんとマジ勘弁」

豪腕として知られた川守田は三戸城の北側を守りつつも
火急の用事や連絡の際には自宅から城に矢文を飛ばしたとされる。
何となくだが、信直との直接的な関わりを避けてるようにも思える。
アイツに関わるとトンデモねー事に巻き込まれる、みたいな。




566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/09(土) 17:46:52 ID:BiNLMYFP
>>565
ホームドラマにしてくれんかのう。昼ドラでw

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/09(土) 17:49:54 ID:BiNLMYFP
「また親父殿に狙われちゃったよ・・・ちょっと匿ってくれませんかね」

「若殿がそんな受け身でドースンノ!」でも匿ってあげる川守田さん

顛末を聞いて「九戸の連中、後で泣かす!」と歯ぎしりしながら復讐ノートに書き綴る北さん

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/09(土) 17:57:30 ID:YNr0pvks
川守田「早くこの車に乗るんだ!」
信直「私を連れて逃げて!」
北「社長、信直さんをどうする気です?」

実親「この泥棒猫」

本国に帰りたい南部利直

2010年01月03日 00:03

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/02(土) 12:44:55 ID:VenamTkc
関ヶ原の時のこと

南部利直は家康からの命により、上杉景勝征伐のため、山形は新庄までその軍勢を進めていた。
が、ここで上方に置ける石田三成挙兵の報が伝わり、さらに南部領内において一揆が勃発した。
まあ、この一揆の黒幕は西軍ではなく例によってこの人なのだが… →(●∀゚)ナニカ?

利直は進退極まり、とにかく本国に引き上げようと仙北と最上の境の山道を通って撤退を始めた。

さて、仙北との境金山と言う場所に最上の端城があり、ここに丹の与三という小身の者が、少数の
守備兵と共に置かれていた。

退却中の南部からこの金山城に軍使が送られる

『ここを通って本国に引き上げようとしている最中であるが、この城をお借りして
一泊させていただきたい。』

これに与三は激怒した

「義光様より、あなた方をお通し申せとの命もない以上、いかなる理由があろうともここを通すことは
出来ません!是非にまかり通ると言うのなら、一戦に及びましょう。
ましてや城を宿として貸すなど、沙汰の限りでござる!」

南部勢はこの勢いに驚き、なんと小荷駄を捨てて逃げてしまった。
そして致し方なく新庄へ再び戻ろうとしたが、この事が最上義光に報告されると、義光は
南部の通行を許可する旨を命じ、これで南部勢はようやく本国に帰ることが出来た、と言うことである。

たかだか端城の勢いに腰の砕けてしまった、南部さんのちょっと情けない話。




466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/02(土) 16:36:28 ID:1DuPsclb
ただでさえ、当初の東軍助成をうっちゃつて帰るところなのに東軍の軍勢と一戦なんてとんでもないと、
南部さんにしてみたら、怖いのは家康だったんだろうな。


467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/02(土) 17:04:27 ID:pvVMS2Tq
>>465
投げ捨てた小荷駄に鮭が入っていてだな…

南部信直の葬儀と猫塚

2009年12月27日 00:17

526 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/26(土) 10:46:21 ID:kc0sJDVg
慶長4年(1599)、南部信直は福岡(現在の岩手県二戸市)で息を引き取った。
その葬儀を行っていたところ、突然風がゴウゴウと吹き出し、
砂塵を巻き上げながら黒い雲が下りてきて、殿様の棺が空中に舞い上がってしまった。
辺りは真っ暗で、天地も見えない。
「これは祟りか、鬼の仕業か!?」一門家臣は驚き慌てた。
僧侶たちが必死に読経をするものの、一向に変化はない。
家臣団は近所の神社から神主まで引っ張ってきて加持祈祷をさせたが、
棺はプカプカと空中に浮かんだままである。

そこで一人の若い和尚が呼ばれた。
和尚が数珠を繰り念仏を唱えると、たちまち風雲は収まり、殿様の棺が静かに
地面に下りてきたので、葬儀は無事終わらせることができた。
信直の子・利直は和尚に深く感謝し、和尚に引き出物をたくさん持たせ、寺領も30石与えた。

和尚が家に帰ると、和尚の帰りを寺で待っていた母が不思議な夢の話を始めた。
これより少し前のある夜、母の夢枕に和尚が子供の頃から可愛がっていた
30歳にはなろうかという老猫が現れ、こう話したという。
「今までずいぶんお世話になりました。
 私もようやく御恩に報いることができる機会に恵まれました。
 和尚様は出世なさるでしょうが、私はもう寿命もないので、これにてお暇をいただきます。」
その日からトラは寺から姿を消した。
和尚は、一連のことは全てこのぬこのおかげであろうと思い、
寺の鬼門にあたる森の中に猫塚を築き、その霊を崇めた。

浄法寺町のインター近くの福蔵寺というお寺には本当に猫塚というものがあるらしい。
殿様の葬式が庄屋の娘の葬式になったりと、いろんなバージョンの話が伝えられているようだ。
個人的には北爺が腰を抜かしてないか心配になった。

527 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/26(土) 10:51:30 ID:kc0sJDVg
スマン、トラってのはぬこの名前な。



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 11:27:49 ID:iCsmT+VD
南部信直「おのれ妖猫め、ワシをダシに使いおったな!」
いやまあ、それは冗談として、世話になった礼を返した義理堅い猫ですなあ。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 11:39:09 ID:gdwMsE/T
それ
大店だか庄屋だかの娘のバージョンがあるね
昔、まんが日本昔話でやってたよ

どっちが古いのかなあ

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 11:40:49 ID:gdwMsE/T
ゴメン
最後まで読んでなかった

531 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/26(土) 13:36:51 ID:T2t0Wtig
九戸政実の祟りだな

南部信直、意外な人物と交流

2009年12月03日 00:06

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/02(水) 19:44:46 ID:z+YVjJ9L
奥州仕置後に上洛した南部信直、ホームシックになってしまった↓
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-181.html

一方で、信直は意外な人物と交流している。
父祖代々の因縁があり、先代同士は血で血を洗う合戦を繰り広げた、秋田実季である。
名護屋滞在中、信直と実季は語らう機会があり、互いの人品に感心した。
二人は両家の争いを不毛と確認しあい、また、今後は懇意に付き合っていくことを約束したという。
後に、信直は次女を実季の弟に嫁がせており、この友好を形に表している。

天下統一がもたらした、思いがけない友人関係のお話。




830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/02(水) 20:00:40 ID:WINSjjG/
例の木像の材料も青森産だったりしてな

831 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/02(水) 20:13:22 ID:Vq5wZ1+Y
明らかに仮想敵が津軽な件

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/02(水) 20:21:51 ID:/RVohN/K
信直「あのヒゲむかつくよね~」
実季「わかるわかる」

第26代当主南部信直の誕生

2009年09月27日 00:47

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/26(土) 15:03:15 ID:opgZPqmz
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-918.htmlでも触れられていた、
南部さんちのお家騒動の話

南部信直は養父に命を狙われ、実父を津軽で失い、何かと家族に恵まれない男だった。
しかし彼には親子ほど年の離れた頼れる家臣がいた。
名前が読めないことで有名な北信愛である。

信直は12歳のとき従兄弟の三戸城主・南部晴政の婿養子になったが、
その後晴政に実子が生まれたために命を狙われ、自宅(田子館)にも帰れない有様だった。
一門の北信愛は当時まだ晴政の家臣だったが、信直の器量を憐れみ、
彼を自分の城である剣吉城に匿い、晴政による数度の城攻めを耐え続けた。

そんなこんなの内に、晴政と男子が急死してしまう。
空いた三戸城主のポストをめぐって、晴政の娘婿やら一門の実力者やら様々な候補が出る。
衆議の席は揉めに揉めた。
皆が真剣な顔で話し合っているなか、突然北信愛が声を上げて笑い出した。

北「(´_ゝ`)クッククク・・(´∀`)フハハハ・・( ゚∀゚ )ハァーハッハッ!!」
一族「北殿、どうしたの!?」
北「咲かすべき論に勝ちたり!」

北は大笑しながら座敷を出た。そこには鉄砲を持った大量の兵たちが控えていた!

一族「Σ(゚д゚;)!?」
北「三戸城主になる御方はと っ く に 決 ま っ て ん だ よ !!」

要するにクーデターである。北は兵に命じ、田子に信直を迎えに行かせた。
第26代当主南部信直はこうして誕生したのである。

まあこれだけ強引な家督相続をしたので、当然の如く家中は反発の嵐となった。
信直と信愛はこの後も様々な困難に見舞われたが、ガッチリ信頼で結ばれた彼らは
二人三脚で南部家の地盤固めに尽力した。
南部の知将北信愛の、ちょっとアグレッシブなお話。






南部信直、津軽為信に対して・悪い話?

2009年03月01日 00:14

上方で人付き合いに苦労し、すっかりホームシックになった南部信直
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-181.html
書状で他にもこんなことを言っていた

「津軽為信のやつ、前田利家殿のところで迂闊な言動をしたそうです、馬鹿だよね(笑
それで前田の陪臣風情に、田舎者って罵られたみたいですm9(^Д^)プギャー!!
最近じゃ、さすがに為信も前田殿や浅野殿に顔を出せないんだってwざまあww」

同じ境遇にいたってもなお、仇敵同士は和解できないのだった




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/27(金) 23:11:38 ID:mHNPpkNb
>>438
流石南部さんと津軽さん。仲の悪さは筋金入りだぜ。

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/27(金) 23:12:43 ID:YR9G/KzF
現代でもいがみ合ってんだしそりゃそうよね

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/27(金) 23:32:34 ID:rmlbjCLx
下の人間はさらに下の人間を見て安らぎを得るのです。

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 01:55:47 ID:am5C+oNK
その信直の手紙、津軽に対する嘲笑というよりは
「オラだけじゃなくて為信も馬鹿にされただよ、田舎ものはなんで上方大名に馬鹿にされるんだべか」
という同情の気持ちが有ると自分は感じたが
少なくとも原文読む限りそんなプギャーとかいうノリじゃなかったよ

無粋は承知だけど

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 09:56:02 ID:JuQ+Ig65
いや、無粋じゃないだろ
むしろ同じ逸話なのかと思うぐらいニュアンスが違う
>>438の意訳の仕方だと南部の器量ちいせーw
と思ったけど>>442読むと地方大名の悲哀みたいなのを感じるし

本当に逸話は書き方次第すなぁ

444 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/28(土) 11:00:01 ID:JVB5gvt+
>>443
南部の場合、ろくなエピソードがないからなぁ。
いい話といえば、第三者が読んでも共感できない
「相馬大作テロリスト」の話とかだし。

南部利直とその家臣、北信景・悪い話

2009年02月24日 00:13

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 09:30:50 ID:AISn4vDq
南部利直の家臣に北信景という男が居た
彼は名臣北信愛の甥で南部盛岡藩の金山奉行を勤めた有能な人物である

ある日、利直の食事に小石が混じっていた
これに激怒した利直は小姓をしていた信景の子の十蔵に料理人の手打ちを命じた
しかし十蔵、料理人の必死の抵抗にあって重傷を負い死亡してしまう
これに信景は「元服前の若輩に命じる事か!」と激怒し出仕しなくなってしまう
これに利直も激怒、閉門処分とし職責を剥奪してしまう
こうなると収まりがつかない信景はついに高野山へ出奔してしまうのである

そして大坂冬の陣
大坂城内に派手な甲冑を身につけ‘南部の光武者’と渾名された南部信景なる人物がいた
そう、北信景である
彼は南部宗家血を引いているのでこの名乗りは利直への当てつけである
さらに彼は入城に際して、弓500矢1万(祐清私記)とも鉄砲数百挺(篤焉家訓)いわれる膨大な装備品を持ち込んだ
これらは金山奉行時代に‘不正に’貯め込んだ財産が元手であるといわれる
もちろんこの信景の行動に利直は激怒
従来、徳川への忠勤を示すとされる冬の陣へ強行参戦も信景を討つ為だけだったとする説もある

さて、夏の陣終了後もしぶとく生き残った信景であったがついに伊勢にて捕縛される
盛岡藩に移送された彼を南部利直は直々に処刑した


いろんな部分で悪い話




297 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/23(月) 10:03:54 ID:QYZ8Mf1r
>>296
北信愛「俺が長生きしていれば…」

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 10:47:35 ID:+mWgVJTC
南部の当主って根暗揃いのイメージ

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 11:19:08 ID:NKpF8JqO
津軽為信「ワシもそう思う」

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 11:37:40 ID:29f7XcwC
九戸政実「わしもそう思う」

301 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/23(月) 11:43:46 ID:COXheLoU
>>298
南部って
「弱い者たちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く」
と言う歌の、叩く方ってイメージなんだな。
自分も強者にしてやられているが、
弱い立場の相手にはものすごく高圧的。
もののふの情けとかとは無縁。

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 12:19:51 ID:sZIhWmjq
何故突然南部叩きの流れに?
弱いものに高圧的になるのが酷いと言う人に、朝倉宗滴翁のお言葉を

「犬とも言え、畜生とも言え。武士は勝つ事が本にて候」

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 12:21:04 ID:nOe2tkKM
それはさすがに南部さんに失礼
だがまじめに住んでいる場所の気候が似ていると
生活環境など諸々が似ていて、人間性なども似ているらしい

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 12:31:50 ID:EGNti6Y8
お前ら→え゜=ぷノ ←南部さん

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 12:41:01 ID:kVuIlv65
万が一に備えて、家臣を大阪に送り込むも徳川の勝利。
徳川への弁明のために後で話を捏造系のネタのような気がしないでもないが。

308 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/23(月) 19:27:08 ID:6IHhSLbb
>>306
テル「家臣をこっそりと大阪に送り込むなんて卑怯だよ」

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 19:45:24 ID:1zRwLVaG
>>306
三斎「家臣じゃなく息子を大坂に入れた大名もいるらしいぜ。徳川に忠勤を尽くす細川家にはあり得ない話だな。」