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一戸兵部大輔政連横死のこと

2020年03月13日 16:33

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 00:50:33.54 ID:Iz+5LKKk
一戸兵部大輔政連横死のこと

陸奥南部の一族一戸兵部大輔政連という人は、彦太郎行朝の嫡流にして代々一戸の城主として三千石を領地していた。
天正9年7月18日夜、政連の弟一戸信州(平館の家を継ぎ千石を領地していた)は不意に政連の寝所に乱れ入り、兄政連を斬り殺した。
女房どもは大いに騒ぎ、騒ぎを聞きつけた男たちが信州に斬りかかる。
その中に政連の子出羽もおり、彼も斬り殺されてしまった。これによって代々続く名家・一戸家は断絶してしまった。

事が収まった後、南部家当主の南部信直は凶行に及んだ理由を尋ねると、
一戸信州は「兄兵部は平生暴悪にして百姓たちが困窮のあまり一揆を起こそうかと考える有様で、兄に諫言をしても聞き入れてもらえなかった。
そのため兵部を捨て子の出羽を立てて領内安泰を図ったが、誤って出羽をも斬り殺してしまい、後悔している」と言った。

信直は「兄を殺すこと汝が逆罪は八つ裂きにするとも飽きたらない。だが思うところあり一命は助けよう」
と知行を取り上げ領内から追い払った。
年月を経て、信州は領内に忍び居たが乞食同然の体で病死したという。

伝曰く この話は皆が不審に思ったが、数年後、事の次第があらわになった。
九戸政実が逆心を催し領内の大身の領主たちを誘った際に、政連にもその誘いを密かに入れたが、
政連は忠義を重んじて同意しなかったため、一戸信州をたばかり兵部を討たせたのだという。

奥南旧指録



913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 21:16:35.42 ID:jPTP3wxG
これは本当に悪い話だ
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南部信直・利直とプロパガンダ

2020年02月27日 17:00

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 03:09:08.14 ID:aKB9yww/
南部信直・利直とプロパガンダ

青森三戸では三戸斗賀霊験堂・善徳院によって熊野権現の申し子という南祖坊が八郎太郎を討伐して十和田湖の主となる「十和田の本地」が作成された。
三戸を本拠とした南部氏は、『祐清私記』で利直の武勇は夢に南祖坊が現れたためであると記したように、十和田湖の青龍権現と南部氏を結び付けることで三戸における存在基盤を宗教面から確実にした。
「十和田の本地」を作成した善徳院こそ、南部氏の陣僧的存在であった。

慶長4年(1599年)に岩手盛岡へと移った南部信直・利直はひとつの問題に直面する。
南部氏の霊地である十和田湖との距離が遠くなり、一方では盛岡城下から仰ぎ見える岩手山・早池峰山・姫神山の祭祀を管理することになったのである。
岩手山を「領内総鎮守」として5月27日を祭礼日に定め、山頂に奥の宮、山麓の登山口3ヵ所と城下に新山堂を設置、登山3ヵ所は三戸の修験を連れてきて祭礼にあたらせた。
しかし話は単純ではなく、存在基盤を宗教面から確実にするためには岩手山と南部氏を結び付ける必要があった。

南部氏より以前の岩手山は鎌倉御家人・工藤氏や、その流れを組む栗谷川氏が大宮司として祭祀を管理していた。
『岩手山記』によると、坂上田村麻呂が行基作の阿弥陀・薬師・観音を岩手山に祀り、霧山嶽(岩手山の古名)で高丸・大嶽丸・吹落という鬼神を討伐した。
その後は安倍氏が崇敬していたが源頼義・義家親子が盗み、前九年の役で安倍氏を討伐して高家となった。
源氏に相伝された三尊仏は源頼朝の守護仏となり、工藤行光が拝領して岩手山の大宮司に任命されて元に戻った。
文治5年(1189年)に奥州合戦で軍功をたてた工藤行光が頼朝からこの地を拝領したことで、存在基盤を宗教面から確実にするために岩手山と工藤氏を結び付けていた。

南部氏は、この工藤氏によるプロパガンダをさらに上書きするために御国浄瑠璃『御山本地一代記』を創出した
物語後半で田村将軍利仁が岩手山の鬼を退治して岩鷲山大夫権現として荒人神となり、田村将軍に付き従った斎藤五郎なる人物が祭祀をする。
斎藤氏は、工藤氏に仕えて岩手山の別当として祭礼を司ったが、南部氏が盛岡へと移ってきたため、禰宜を堅持するためには南部氏との関係を構築する必要があった。
南部氏にとっても禰宜である斎藤氏を取り込むことで岩手山の祭祀をスムーズに引き継げた。
思惑が一致した両氏は岩手山の阿弥陀・薬師・観音を岩鷲山大夫権現に置き換え、南部藩の職称別号「大善大夫」を「大夫権現」として見立てた。
また岩鷲山大夫権現=南部氏とした上で、岩鷲山大夫権現となる田村将軍の家臣として斎藤五郎なる人物を登場させた。
『御山本地一代記』には他にも様々な仕掛けが施されている。

正室が田村麻呂の子孫を称した田村家出身であり、御伽草子『田村の草子』の内容を支配地域にあわせて変更した御国浄瑠璃『田村三代記』を作るだけで、意図も容易く宗教面のプロパガンダを成立させた伊達政宗。
工藤行光による源頼義・義家と頼朝を使ったプロパガンダを消しつつも、工藤氏の家臣である斎藤氏を取り込みながら、南部氏と無関係な田村麻呂まで宗教面のプロパガンダに利用しなければいかなかった南部信直・利直親子の苦労が『御山本地一代記』から伺える。



693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 13:26:31.68 ID:0zdRWkWm
東北はとりあえず坂上田村麻呂と先祖が絡んでたってのがプロパガンダの基礎になるのね

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 15:50:27.85 ID:oovRDk1b
古代東北は天台教団、長谷信仰、白山信仰、羽黒信仰、鹿島信仰あたりがエミシに対して布教活動をしていた
東北に慈覚大師、白山神社、十一面観音が多いのは奥州安倍家と奥州藤原家が上記の宗教を庇護したから
宗教は民衆の支配にも使えるしね

でも前九年の役や奥州合戦で安倍藤原が滅亡すると、中世には鎌倉御家人が東北に入り込んできて
彼らは宗教を庇護するだけでなく、宗教の中枢に入り込むことで一大勢力を作り上げようとした
だから戦国時代には鎌倉御家人の系統が司祭や禰宜を独占していた

伊達家にしろ南部家にしろ、この地域で本拠地が変わったり、新たな土地を獲得すると、そのつど支配者と宗教の不一致が起こる
何をするにしても鎌倉御家人系統の司祭や禰宜が邪魔になるわけ
その時の便利ワードが天台教団、長谷信仰、白山信仰、羽黒信仰、鹿島信仰の時代から使われてた「田村麻呂とワイらは関係あるんやでー」っていうプロパガンダ

これを宗教じゃなくて家系に取り込んで成立してた地域が三春
平姓田村家も藤原姓田村家もとりあえず支配すると坂上姓を名乗る

空太鼓

2015年08月25日 12:16

北信愛   
600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/25(火) 01:13:04.02 ID:xfQW/kFg
慶長5年9月20日、南部氏の重臣北信愛(当時剃髪して松斎)は、
伊達領から攻め込んできた和賀忠親率いる一揆の攻撃を受けた。
彼の守る鳥屋ヶ崎城は侍わずか十数名しかいなかったが、民や女性まで動員してこれを撃退した。

一揆の襲撃を除けたその二日後のこと、城下の農民商人が城にやってきて、大きな太鼓を献上した。

「私どもは百姓町人ですので、武事に預かる事は恐れ入る事ですが、
もし今後鳥屋ヶ崎城へ一揆が来たなら及ばずながらも馳せ向かい、
後詰をして賊徒を討ち散らし御報恩に仕りたく、この儀をお許し願いたい。
城中にまた何か異変があれば、この太鼓を乱拍子に叩いてください、しからばこれを合図として馳せ参ります」

信愛はこの志を賞して願いを聞き、太鼓を受け取って家臣の熊谷惣三郎にこれを任せた。

さてこの頃、信愛の親戚の高橋伝助という男が三戸から来て城に入った。
だがこの男、大酒飲みで常に酔っぱらっており、いつも戯れを起こしていた。

城中に入った伝助は、そこで大きな太鼓を見つけた。
この時太鼓を管理する熊谷惣三郎はおらず、伝助はバチを持ってこれを思いっきり叩いまくった。

驚いた信愛は近習を遣わす。近習は伝助の姿を見てこれを咎め、伝助は事情を知り大いに恐れた。

近習「伝助は民が集まる事を知らず、ふざけて太鼓を叩き、今は大いに後悔しております」
信愛「……酔っていたとはいえ、その故を知らなかったのであれば仕方がない」

と信愛は急ぎ人を走らせて、酒数石分を買わせた。
そして数百人もの農民商人たちが城中に集まってきた。
信愛は多くの蓆を敷かせて席を設け、また酒器を並べ、自ら彼らの前に現れて言った。

「このたび上方の風説に、我がお館様がかの表において抜群の勲功を上げられ、
 その賞として将軍家より格別の御加増を賜るべきとの風説がきた。
 しかしながら未だその実否は詳らかではないけれども、まことに目出度きこと恐悦なれば、
 その方らも一層身命をなげうって働いてほしい。
 私はそなたらの志を知っているので、一刻も早くこの事を知らせ、
 我らと共に喜びを分かち合おうと思い、太鼓にて呼び上げた次第である。お上を祝して心よく飲むべし」
 この言葉に集まった者たちは大いに喜び、数石の酒を飲み干し帰っていった。

熊谷惣三郎はこれを無益な事だと思い、それが態度に出ていたようで、信愛は言った。
「酒を費やした事は無益の事だと思うけれども、三戸の客人が酒によっていたずらに太鼓を打ったななどという事実を告げたら、
 我らが法令を軽んじているなどと知らしめ、その後は太鼓も合図にならなくなってしまう。
 よって、本意でもない偽言をもって空太鼓の誤りを取り繕った。
 諺にも下郎は喰に着くというだろう、祝いの席と称して酒を勧めて喜ばせて、今後の合図を違わぬように計らったのだ」

この言葉に熊谷は伏したという。
また信愛は周りに語り
「人は皆酒は好物であるものだが、我が親類高橋のごときは酒に飲まれるというものだ。いずれ酒は量の問題だが、
(南部家臣の)石井伊賀親子や中野吉兵衛、岩清水右京、桜庭安房、大槌孫八郎等は真の上戸と言える。羨ましい酒飲みだ。
 この者たちはいくら飲んでも酔っぱらうという事は無い。しかしながら孫八郎や右京は一升枡で一息に三升の酒を続け飲みするという。
 これは確かにすごいが、下郎の如き振る舞いで不愉快だ。
 戦いでは少し酒気を帯びれば、勢いに乗じて日の中水の中も怖れることなく、また大雪や寒風の中でもいささかも厭う事がない。
 敵前での働きも一層潔くなる、そう考えれば酒は実に徳のある物だ。
 しかし高橋のごとく心を放しては、酔酒飲に劣りたり、と言うものだ」

 この言葉に周囲の皆は感服したという。

(公国史)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/25(火) 09:15:01.69 ID:0Nk9RM79
>>600
北さんは隠れた名将だよな。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/25(火) 17:24:24.86 ID:YltpjxhE
信愛なる北様へ

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 18:50:25.96 ID:KiNWDPYW
高橋のおっさんは最後まで改心もしてないし評価もされてないんだな

そして阿曽沼広長は

2015年03月06日 18:54

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/06(金) 10:51:39.98 ID:k5W8PY2+
そして阿曽沼広長

慶長5(1600)年7月、南部利直は徳川家康の要請を受け、兵5000を伴い米沢口からの最上義光の上杉攻めに加勢するべく山形の勝山に出陣していた

そこに上方で西国大名が挙兵した知らせと家康父子の会津攻めの中止と西進、更には伊達との国境で一揆が発生したとの報が立て続けに早馬で届いた

利直「かような時に他国に大軍を持ったまま長居する訳にはいかぬ。さりとて起請連判をしたからには全兵を引き揚げる事もまずい

・・・!

…阿曽沼(広長)殿、浜田(喜六)殿、最上への体面もある故そち達と兵500を山形に残しこれを任せる。最上殿に引き続き助力してくれ

なにかあったら使番で連絡を取り合う事にしよう」

南部利直はそのまま本陣を畳むと兵4500を連れ帰国の途についた

阿曽沼広長「…といった訳で我等が山形の陣を任されました」

最上義光「…それではお二方には城南の守備をお願いできますでしょうか?」

しかしこれは南部利直の謀で、阿曽沼広長の領地の遠野は広長の留守中に帰国した利直に収公されてしまった

「山形の昔話」「岩手の昔話」ほか

※阿曽沼氏は元は独立大名だったが、奥州仕置で南部の下に付与されてしまった

※浜田喜六も南部氏と対立していた旧葛西氏の重臣の浜田広綱の弟と言われる




真田式部清鏡の切腹

2013年06月21日 19:50

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 11:01:18.98 ID:WCkNjnBn
出羽羽黒山は修験の盛んな山であった。
羽黒山で重職にあった出羽真田家は武将の出であって、行法の事に預からず山内の行政を司っていたが、
中には行法に優れた者もあった。

真田式部清鏡は、真田幸隆の子とも言われ、羽黒山で修験者となり醍醐坊を開いた。
また天正19(1591)年九戸政実の乱の折には、南部利直を助けとされる。
慶長4(1599)年の頃、清鏡は檀那である利直と碁の賭けをして勝ち、利直の娘を妻にする約束をした。
しかしこの約束を利直が果たさないので、清鏡は南部家への面当てに、南部家の玄関で腹を切り果てた。
利直はその事に怒り屍を川に投げ捨てさせたが、
屍は川を逆流して三戸に流れ着き、それ以来清鏡の霊が南部家へ祟りを成すようになった。
そのため、利直は浅岸薬師の境内に清鏡荒神として清鏡を祀り、その祟りを鎮めたという。


知切光蔵 天狗の研究より





南部信直の申し入れ

2013年01月25日 19:50

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 21:15:45.13 ID:/cMzjHMl
「奥羽津軽一族」に書いてあったのを抜粋。

九戸政実らが投降したことで諸将は各陣所に引き上げていったが、一方で南部信直浅野長政の陣所を尋ねた。

津軽為信は実父高信の仇である。幸いにも為信がこの地に在陣している。まさに天与の機会である。
 この際、為信を攻めて父の仇を討ちたい。是非、貴将の許しをいただきたい。」
と申し入れをした。

これに対し、長政は
「この度の出陣は貴殿に対して謀反を起こした政実を討伐するためであり、
 この機会に津軽為信に対し私怨を晴らさんとすることは認められない」
と拒否した。

この時信直は言葉もなく下がったが、次いで蒲生氏郷の陣所を訪れて同様の願いを述べた。
これに氏郷も同調、ともに長政の陣所を訪れ重ねて願いを繰り返した。

これに対して長政は
「為信は殿下に属し、それに拠って朱印を賜りたる者であり、此度も当地で十分武功を顕し、
天下へ忠勤を示している。
 そのような時に貴殿が私怨を晴らそうとする行為は容認できない。」
と拒否し、津軽為信には不測の事態を避けるために即刻の帰国を勧告し、為信は従って帰国した。


なお、後に名護屋で津軽が馬鹿にされたことで津軽家と浅野家は絶縁しているので
本当にあったやり取りなのかは疑問が残る。



283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 21:56:55.38 ID:sfOCPR+u
工場長が同調しちゃうのがちょっと意外

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 21:59:56.63 ID:voF6uaqJ
津軽と九戸どこで差がついた

時流の読みとしたたかさの違い

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 08:36:14.11 ID:ASx27AZm
>>282
まあ、南部と津軽は相手をディスる為に無茶苦茶な話を書き残してるからなぁ

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 11:47:46.61 ID:uij6e+ed
●∀・「もっと仲良くしようぜ!」

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 14:25:14.84 ID:hDIRbCtu
>>283
工場長の娘か養女だったかが
信直の息子の嫁になってるし、仲は良かったんだろう

北松斎(北信愛)と奴踊りの始まり

2012年08月18日 20:51

北信愛   
117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/17(金) 22:12:40.86 ID:m9sndWvf
本日北松斎公400年忌

北松斎(北信愛)と奴踊りの始まり

慶長6年4月26日、伊達に支援された和賀忠親の篭る岩崎城を陥落させた南部軍は、
戦勝に喜びながらもさすがに疲れた様子で、岩崎街道を花巻へと帰還していた。
既に時間も遅く、空には夜闇が立ち込め、兵達は煌煌と灯るたいまつを手に列を作って粛々と行進した。

そして南城というところにさしかかった頃、東の北上山地から光り輝く月が顔をのぞかせた。
北上川は月の光りを映して銀色にさざめき、街道の松の向こうには花巻城のいらかが見える。

先頭を歩む隊長は、自分と馬の影がくっきりと映るほどの、松明もいらないほどの明るさに興が乗り、
部下達に松明を捨てさせ、そしてそれを踏み消させながら朗々と馬上で歌いだした。
つられた士卒たちもこれを真似て歌いだした。

  地こぶのてっぺんから
  星の親玉顔出して
  火事の卵をがちゃりと踏んごわした

地こぶとは土のこぶ、すなわち山のこと。星の親玉とは月。火事の卵とは松明のあかりのこと。
そして火事の卵とは、和賀稗貫領でくすぶっていた和賀一党の反乱のことで、その光を星の親玉――北信愛がうち消した、という歌なのだ。
将士はこの歌をすっかりと覚えこんで、歌に合わせてだれともなく両手を動かし、左右に足さばきをつけて踊りながら歩いた。
これが今に続く奴踊りの一番歌、その元歌とされている。

その後時を経て、花巻にある観音寺の祭礼の際、城中の若侍たちが唐竹で大きな鯨をこしらえ、これを車に乗せて町を練り歩いた。
その山車は評判となり、松斎の耳にも届き、これを見物してすこぶる上機嫌となり、若侍たちに酒をふるまった。
若侍たちは酒興に乗り、例の歌を北松斎の前で歌い踊った。

松斎は大変喜び
「気味のいい歌だ、もっとつづけよ」
とほめそやし、さらに勢いづいた若侍たちは縁側にかけてあった大うちわを手に取り、それをかざして踊りまわった。
これが、にないもの奴踊りの始まりだという。




118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/17(金) 22:24:13.36 ID:yREJO4JG
戦国の頃は武士も領民も芸達者が多いようで宴会芸を一つも持っていない俺としては羨ましい

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/17(金) 22:46:03.49 ID:s9xZ4BTH
では一つ某がエビ掬いをば…

遅かった話 南部信直・北信愛編

2012年08月11日 20:56

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 23:44:58.10 ID:CU/QAYC2
遅かった話 南部信直北信愛編

すったもんだの末に南部家25代当主として家督を相続した南部信直は、北信愛をそばに呼びこう語った。
「天下に名高き武将は多いが、今皆がその名を知り四海に武威を振るっているのは、織田信長様だ。
諸国諸士はこぞってよしみを結んでいると聞く。
私も参上こそ叶わないが、土産を持たせて使者を送りたい。だが、この遠い糠部の地、なかなか
思うようにはいかない。
それに、信長様に我が家の由緒を示したいが、代々の由緒を記した巻物(系図書)も火災によって
失ってしまっていてなぁ……」

天文18年(8年とも)に、当時の居城であった本三戸城は、晴政に妻を奪われた
家臣の赤沼備中によって放火され、
南部家相伝の証文・系図・家宝などはことごとく燃えてしまっていた。

信直はどうしたものかと思案していたが、そこへ北信愛が
「御屋形様、これを……」
と、差し出した。それはまさに焼けて無くなった筈の系図書だった。
「どうしたのだこれは?!」
「はい、御城炎上ののちに、晴政様は家中に自家の系図を提出させ、その時集まった
30巻余りをつき合わせて抜きだし、
御前で清書しました。私の父は文筆の心得があったので、その手伝いを任されました。
その下書きを、晴政様は私の父に賜り、その後父はこれを私に譲ったのです」

そして信愛はそれから延々系譜の内容について詳しく説明した(長いので割愛)
「――ということで、そのほかにも筆にも及ばぬ言い伝えは数多ありますが、それは
追々話すとして、あらましはこのようなものでした」
信直の喜びはひととおりではなかった。
「よし、こうとなればさっそく信長公へ使者を登らせよう! 誰が良いと思う?」
「このたびの使者は御家の一大事のことです、私が行きましょう。
良い伝えを持って帰りますので、安心して待っていてください」
と、信愛は御家の由緒を荒々と書き抜いて、献上するための馬三頭・大鷹五羽を持って糠部を出立した。

時に“天正10年 6月中旬”のことだった。

北信愛は順調に進み、日本海側に抜けて下越後へ着いた。が、そこで、信長公が京都で
逆臣のために果てたことを風聞に聞いた。
不安に思った信愛はしばらくその所に逗留して情報を集めていたが、風聞が真実だと知ると、
今は上洛しても詮無しと、力を失い帰国したという。




924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 01:53:21.67 ID:TZJ+STfh
本能寺の変への各大名の反応とか調べたいな

色んな情報が錯綜してそうで面白そう


931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 16:46:39.73 ID:/qNjNtQX
ん?6月中旬ってことは実際は越後は天正壬午の乱中だったんだろうが
信長が死んだことを知らないのになんで越後側に抜けたんだ
まさか上杉が織田と戦ってたことすら知らなかったのか?

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 16:54:23.60 ID:yi+zMmTj
下越後から船で上杉領スルーするとか?

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 17:32:29.71 ID:HF/OB6T/
>>931
下越後だと新発田重家の領内だろうから、そこから船にするか
関東方面へ出るつもりだったのかも。

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 17:34:21.45 ID:UyImDaMx
>>922
この時秀吉に従ってれば、津軽は安堵されたのに(´・ω・`)

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 19:30:48.90 ID:9jyoXUZh
>天下に名高き武将は多いが、今皆がその名を知り四海に武威を振るっているのは、織田信長様だ。
>諸国諸士はこぞってよしみを結んでいると聞く

この程度の把握では信長急逝後の後継者見込みを立てられなかったんじゃないかな

轟木長右衛門とその妻妾

2012年07月28日 20:58

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/27(金) 21:35:47.59 ID:bUdKwb22
轟木長右衛門とその妻妾1/2

陸奥国和賀郡笹間の領主轟木長右衛門は、奥州仕置後の和賀氏没落後、その主人を和賀氏から南部氏に変え、
関ヶ原の際に南部領で起きた岩崎和賀一揆の時も
他の者達が旧主和賀忠親につく中、南部氏に仕えて岩崎城を攻め、その命脈を保ち、安定した生活を送っていた。

この長右衛門にはひとりの愛妾がいた。この妾を、長右衛門はことのほか溺愛していた。
面白くないのが本妻である。最初は我慢もしていたが、次第に嫉妬の気持ちが芽生え
遂に妾を陥れようと画策した。

ある日、本妻は夫を誘って清水観音に参詣した。と、境内の大杉をみると、
その木に釘で打ち留められた髪の元結いがぶら下がっていた。
首をかしげる長右衛門に、本妻は言葉を掛けた。
「これまで何度か申し上げようと思ってはいましたが、女ずれのはしたないことと思われてはと
そのままにしておりました。貴方の妾は、家臣の某と懇ろな仲になって、貴方様のお命を縮めようと謀っています
これ、このようにもとどりを打ち付けて祈念をこらしているよしにございます。ゆめゆめご油断あそばすな」

長右衛門は、この時はただのやきもちから来る言葉だろうと聞き流したが、
本妻はその後も折に触れて妾の行いの疑わしいことを夫に告げ口し続けた。
長右衛門も、何度も聞かされるうちに疑念の心が浮かんできて、それとなく愛妾を疑うようになった。

秋頃のこと、長右衛門は本妻と妾を連れて将軍寺という菩提寺に仏参した。
寺の本堂で誦経が終わり、焼香を終えて別間で休息している時、本妻が耳打ちした。
「妾のたもとになにやら怪しいものが潜められている様子。取り上げてごらんになっては・・・」
妾は呼び寄せられ、長右衛門の言いつけに不審に思いながらも自分のたもとを探ると、一枚の板札が出てきた。
それには墨で「轟木長右衛門」と書かれてあり、その上を何度も踏みつけられた跡がある。

怒った長右衛門は詰問するが、妾は全く覚えのないことで答えられない。
それを見ていた本妻が
「それは言えぬも道理。その板札こそは、そなたがそれが家来の何某と密会するたびに、泥足をもって
踏みつけるといううわさのものに違いない」

それを聞いた長右衛門は烈火のごとく怒った。
「おのれ、よくもこの長右衛門をたばかったな!」
彼は傍らの太刀を抜くと、動転している愛妾を斬りつけた。
「ぎゃあーっ!」
悲鳴を上げて敷居ぎわに愛妾は倒れ伏せる。鮮血はふすまに飛び散り、床を真っ赤に染めた。
思わぬ修羅場に住職も家臣たちも声を飲んだ。


755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/27(金) 21:36:44.96 ID:bUdKwb22
轟木長右衛門とその妻妾2/2

それから21日後――三七にあたる夜のこと。
その日は天気も良くなかったが、夜にはいって風が吹き出し、ざわざわ落ち着かない様子だった。すると
「ぎゃーっ!」
どこからか大きな悲鳴が聞こえてきた。
書き物をしていた長右衛門が何事かと立ち上がると、吹き込んできた風がろうそくの火を消し、
とたん、血の臭いがあたりに漂った。そしてまた、
「ぎゃーっ!」
と、暗がりから悲鳴が聞こえてきた。
長右衛門も恐ろしくなり、「たれかある、灯りを持て、灯りを――」と狼狽したという。

またその翌日の夜。
長右衛門の本妻が侍女達と雑談をしていた時、侍女の一人が悲鳴を上げた。
月明かりに照らされた障子戸に、ざんばら髪を振り乱した女の影が映っていたのだ。
本妻が意を決して障子を開け放つ! が、人影はない・・・。
「ほっほっほっほっ・・・」
虚空から気味悪い悪い笑い声が降ってきて、生臭い風がさあっと吹いた。

そのまた翌日の夜。その日は雨が降っていた。
本妻とともに眠ろうとした長右衛門が服を脱いでいた時、雨がいっそう強く振ったかと思うと、
部屋が急に薄暗くなって、やがて青白い光が立ち込めた。
「ひいっひいっひいっ・・・」
不気味な笑い声がする。天井を見ると、顔面を血まみれにした愛妾が天井に張り付いて、
口を耳元まで開き、長い髪を振り乱して、恨めしげにふたりを見下ろしている。
長右衛門が床の間の刀掛けに走りよって太刀を握ると、亡霊はすっと消えた。

――以来、亡霊は毎日のように城内に出現した。家臣や侍女達はすっかり怯えてしまい、
口実をもうけて次々に暇を取っては去っていってしまった。

そして秋も終わりの頃。
さすがに長右衛門もすっかりほおの肉が落ち、恐怖と不安でイライラしながら暮らしていた。
城内の静けさが気に触り、彼は太刀を持って妻の部屋まで行くと、本妻の声がする。
「ああ、苦しや。そこを放せ、ええい、放さぬか――!」
長右衛門が障子を開けると、なんとそこには本妻の衣装をまとった愛妾がいて、虚空を睨んでいる。
長右衛門が思わず刀の鯉口を切ると、愛妾の顔はたちまち消えて、本妻の顔が。
「ああ、苦しや。まこと、わらわがそなたを落としいれようと濡れ衣を着せ、夫をたばかったもの。
わらわの奸計よ。ああ、苦しや。こう白状したからには、そこを放せ、放せい――」
妻はそう言いながら床の上を転げまわっていた。長右衛門は呆然と立ち尽くすほかなかった。
その4・5日後、本妻は狂ったままこの世を去った。

そして長右衛門は日夜を問わず亡霊を見るようになった。薬も祈祷も効く事はなかった。
そしてやがて雪が降り始める頃。
長右衛門の目に、妻だけではなく、岩崎の戦いで戦い殺したかつての仲間――和賀氏の何某や何某の首を
見るようになった。彼らは空中から降りてきては床に下りてきて、長右衛門を睨みすえ、
そして小気味よさげに高笑いしては消えていった。

その年も暮れぬうちに長右衛門は死んだ。彼に子はなく轟木氏はここに断絶。
その城館も取り壊され、わずかに土塁が残るだけだという。





757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/27(金) 22:49:51.38 ID:Na0wy1Uf
暑い夏こそ相応しいちょっと悪い話だね

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/27(金) 23:40:07.67 ID:/0XdNYsw
鬼武蔵なら気にしないんだろうなw

南部利直 代官を叱る

2012年07月07日 21:08

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/06(金) 20:25:21.77 ID:tvLtD7va
南部利直 代官を叱る

陸奥の南部氏領は、浄法寺塗に代表される漆の産地だった。
漆掻きが始まる頃、時の当主 南部利直は家臣の毛馬内三左衛門宛に宛てて書状を書いた。

『漆掻きに良い時期となったので、漆掻きの者たちを代官たちにつけて、急ぎ派遣しなさい。
 最近は(量を取ろうとして)漆を深く掻かせてしまい、木を枯らせてしまう。
枯れなかった木も傷んで、実がならなくなってしまう。
 漆は一杯ニ杯少なくても良いから、木を枯らせないようにさせなさい、そう毎年申し付け、
奉行にもそれを伝えているのに、奉行たちがそれを理解していない。
もし木が枯れたら、それは奉行の落ち度として処罰するから、よく申し付け、厳重に取り締まるように』

代官の悪い話の気もするけど、資源を大事にした年直のいい話ってことで。





283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 20:02:33.54 ID:WZeXkCam
漆に実がなるのかよとぐぐったらろうそくの原料の原料か…

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 20:05:01.51 ID:EPbOlz/G
欲は身を滅ぼす、っていう事の好例だな

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 20:08:32.11 ID:tIwx5QfD
どっかの記事で森を守るには独裁者が適してるというのを読んだ

286 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/07(土) 20:10:59.58 ID:VdlAuKXN
森を守るのは、信長。

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 20:40:49.99 ID:zJGl1MAL
もうりまもる、は宇宙飛行士

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 22:44:45.24 ID:10mCiz8Z
>>286
TERU「信長さんは身を挺して毛利(もり)を守ってくれたんだね。ありがとう!」

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 22:46:55.83 ID:azH3NmH/
>280
お隣は津軽塗りもあるし、良い漆が取れるんだろうな

おぢおののき申し候て、有やうを申す人なく候

2012年05月08日 21:04

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/07(月) 20:38:23.84 ID:cIlYgPCA
おぢおののき申し候て、有やうを申す人なく候

文禄2年、朝鮮での戦局が転換を向かえ、明軍の講和使節が名護屋にやってきた頃、
在陣中の南部信直は留守居の八戸政栄宛てに手紙を出した。

『十郎がこちらに下ってきたので、文を送ります。
5月15日に唐の官人二人(謝用梓・徐一貫のこと)が名護屋に来ました。
(秀吉は)早々に兵を高麗へ入れるべしと申してましたので、
連れてきた者を集めておくようにと仰いましたが、赤キ国(全羅道)を占領せよと命ぜられたので、
8月までの御在陣を仰せられました。
そして近日、佐竹義宣・堀秀治・丹羽長重・織田信包など、五人を渡海させよと指示されました。
なにはさておき、詳しくは十郎がお伝えします。』

『高麗八州四ヵ国は日本に割譲されるとのことで、これは一国が九州ほどで、使者は多くの人々を引いてきて
年貢を送ると詫び言があったそうです。唐の大王も貢物を送ってくるそうです。
これ以上ない条件だと上も下も言っていますが、高麗四か国に
日本の侍を置かなければ平和は無いだろうと太閤様はいろいろな御難題を仰られる。
そういうわけで、北金の都より大将としてやってきた遊撃将軍(李如松のこと)が釜山海に居るので、
太閤様が仰られた通りの事をこの人へと伝えたそうです。』

『高麗に在陣している大名達はさんざんに疲れ果てて、何の役にも立たない様子です。
だがその有り様を秀吉の御前で話しては、即刻処分されるので、皆怖がり恐れて、この有り様を申す人はいません。
この状況をわかってほしい。』

『日本では大身者であろうと小身者であろうと、御前で物を申す者はいません。
日本国内では一切の争いも許されません。ですが、武具などは油断なく準備し、九郎(南部利直)に奉公してほしい。』

『高麗の年貢は年々印子金1万2千ずつだそうです。印子金一つは100目(匁)で、これというほどのものではありません。
弾正殿(小西行長)は釜山海に居ます。
こちらで重ねて何かあったら、おいおい人を下して連絡します。以上

(文禄二年)五月廿五日  信直
 八戸殿』


当時の情勢や秀吉の独裁者振りが垣間見える南部信直の書状。
『高麗に在陣している大名達は~』のくだりを読んだ時、秀吉って本当に独裁者だったんだなぁ、としみじみ思った。
誤訳あったらゴメン。




66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/07(月) 20:45:37.12 ID:B3YaATvq
もう早く帰りたいと書きたかったけど八戸さんや北爺を
心配させまいと我慢した信直くん

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/08(火) 05:44:52.47 ID:bN+9LY1b
>>65といい
太平洋戦争といい
原発事故といい…
日本人の気質は400年以上変わってないなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/08(火) 09:57:37.00 ID:yzMucEDe
>>72
大切なのは耳に痛い進言を許す上なのだけどね

そう考えると徳川家は本当に異様だな

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/08(火) 10:00:16.87 ID:i8fNsTvc
MSNGさん再評価の流れですね

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/08(火) 10:09:51.62 ID:vyd3V7yM
>>76
進言を取り入れる度量?進言をほとんど必要とさせないほどの智謀あっての度量だろ、jkとの声が届いています

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/08(火) 11:20:28.26 ID:6+bzqfZS
信長も信玄も、文書上は自分に悪いところがあったら遠慮なく言え、としているね。

……ただ、リアルに考えると怖くて諌言できねえよw

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/08(火) 14:20:32.32 ID:aMpjFMa+
>>76
三好政長?

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/08(火) 14:22:54.10 ID:i8fNsTvc
うん、素で間違えた

82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/08(火) 23:34:30.38 ID:Kamt77nI
>>78
佐々成政

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/09(水) 00:17:22.67 ID:VJ72z96+
>>78
不平分子を炙り出す罠だから......

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/09(水) 02:27:44.62 ID:m0I6GJ3n
>>78
武井夕庵さん忘れちゃ駄目だろ

南部藩の二代目藩主、南部重直は

2012年04月22日 21:51

736 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/22(日) 17:32:31.54 ID:r+dq3SN4
今日岩手県立博物館で市民向けの日曜講座で「南部重直は暴君か」ってのをやってたんで聴講してきたんだが面白い話をいっぱい聞けたよ。

南部藩の二代目藩主、南部重直は暴君として後世に伝えられている。
譜代の家臣を理由も無く改易し、江戸や上方の巧言令色な新参者を召抱えたり
参勤交代に遅刻して家光の怒りを買い、家を改易の危機に陥れ、
あげくのはてに継嗣を定めぬまま死んだために藩の分割相続の原因を作ってしまった。

・・・っていう世評は正当なのかってのを一次資料に当たりながら検証してくんだけど
リストラの手際が悪かったせいで譜代の家臣からおおいに恨みを買ったってのが真相みたいね。
まー、重直自信も性格にムラっ気があったみたいで正月の将軍への挨拶を仮病でサボって鷹狩りに行くとか色々やらかしてて、
天才でも秀才でもない凡人が重責負わされる苦労ってのが垣間見えて中々面白かった。

特に参勤交代に遅れたってのはよりによって武家諸法度の制定後第一回目のことで、相当家光に怒られたらしいw
原因は病気で体調崩してたから(伝説では側室とケンカして遅れたことになっている)らしいんだけど、
細川家の日記には「伊達政宗でさえ病気を押して遅刻はしなかったのにあいつは何やってるんだ!」と書かれてるらしいw

こんなところまで引き合いに出されるヤツって・・・w




737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/22(日) 17:36:03.25 ID:8cuJkuPw
細川家は常に他家に厳しいからw
これはちょっと悪い話の方がふさわしいとは思うがその講座聞いてみたかったな

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/22(日) 18:23:55.27 ID:R/Ktogxv
それって政宗の死の直前の最後のお勤めだよな?
さすがに悪意や皮肉の意味はないと思うぞ

中野修理康実の怪力

2012年02月06日 21:50

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/05(日) 19:49:34.48 ID:S031iv0F
中野修理康実は九戸政実の実弟だが、九戸の乱の際は南部信直に味方し、その家を存続させた。
だがやはり兄弟を討たれたことに思うことはあったのだろう、信直を恨む様子が折々に見え、そんな吉兵衛に
信直も警戒していた。

さて、この中野修理は大男で怪力の持ち主だった。彼は唐竹の中に鉄棒を仕込んだ五寸回りの狩り杖を
つねに持ち歩いており
三戸城の石垣を組む時、三十人でも引けないような大きな石が落ちてくるのを
その狩り杖で押さえたという逸話があった。

ある冬の事、信直が三戸にて冬雪の上にて追鳥をして気晴らしをしていた。
信直はかんじきを履いて雪の上を自由に歩いていたが、大男だった中野は雪を踏つぶし、
歩くのも難儀しているようだった。
その様子に信直は
「御身はいつも鬼のようだが、こう雪が深くては我には駆けつけられないだろう?」
この言葉に中野は言い返した。

「さてさておかしな事をおっしゃる。御前を手取りにするのは、わが心のままですぞ」
「ほほう、さればわれに追い付いてみよ!」
駆け出す信直、中野は自慢の狩り杖を持ち直し、それを信直のかんじきに当てた。
雪の中にこける信直。中野は
「堪忍せぬぞ!」
とトドメを――刺さなかった。理由は分からない(書いてない)

こうしてこの場は何事もなく終わったが、信直はさらに中野を警戒するようになり、
いつか討ってやろうと折を窺っていたが
結局機会が来ることはなかったという。





南部但馬守信長 都会生活を満喫する

2012年01月07日 22:04

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/07(土) 00:33:42.45 ID:QngnlNrT

ちなみに伊達は鷹を送るくらいの親善はしていた…けど潰されるよなぁどのみち
南部くらいの僻地だと服従で済むかもしれんが



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/07(土) 15:41:37.14 ID:zS9x57hy
>>320
南部と信長でふと思い出したんで投稿してみる。

南部但馬守信長 都会生活を満喫する

南部家から上洛した南部但馬守信長は、国元の七戸氏に書状を出した。

『今春の慶び、言い古されてはいますが、慶び終わることがありません。
去年は遠路にもかかわらず、鷲の尾を十尾も送っていただいて、ご懇切の段、お礼申し上げます。
当年は国元に下向するつもりでしたが、信虎(武田信虎か)に色々ととどまるよう言われちゃって
やむを得ないこともあり、(逗留を)引き延ばすこととなりました。来年は早々に下国するつもりです。

昨年は禁裏様(天皇・正親町天皇か)の前に置いて能が催された際に召し出されちゃいました!
また今月の五日には上意様(将軍・足利義輝か)のところで能の笛を吹かせていただきました。
上意様には特に懇ろにお言葉を掛けていただき、生前の思い出になりました、もうなにも言うことありません!
くわしくはかならず、助五郎から話があると思います。

追って申し上げますが、お届けした一枚起請文は梶井殿様の直筆のものなので、秘蔵されるなら本望です。
また、そちらに留め置いている足弱達を扶助していただいていること、祝着至極です。
来年は下国し、お目にかかりましょう。

南部但馬守
  信長(花押)
四月十日
南部七戸殿』

ちょっと微笑ましい、笛の名手の南部但馬守信長さんのお手紙。
この書状、いまだに年代比定が定まってない(文明19年説・永正15年説・永禄6~7年説等)のですが
個人的には、言継卿記の永禄12年の条に、『南部但馬守が知行のことについて話しに来たので
、織田信長の奏者に引き合わせる』
という記事があるので、もしかしたら二人の信長が対面したこともあったかも、ということで
永禄説を(勝手に)推してますw




わんこそばの始まり

2011年11月27日 22:00

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:28:14.36 ID:Pfb6bthU
わんこそばの始まり

南部利直が江戸に向かう際、花巻市鍛治町の宿に立ち寄り、食事を所望した。
「殿様がお食事ご所望だじゃ」
「なら蕎麦出すべ」
「んだども、お口に合わねがったら失礼になんねべか?」
「あー…んだば少しずづ出して様子見んべ」

家人は漆塗りの椀に一口大に蕎麦を盛りつけ、利直に出した。
「美味い!」
利直は蕎麦を大変気に入り、何度もお代わりをした。
以来、蕎麦を小分けして振舞うことをわんこそばと呼ぶようになったという。

ちなみに当時は今のような大食いの形ではなく、ゆっくり味わって食べるのが普通だったそうな。




780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:30:43.22 ID:FEKM4Qwa
昔のほうが風情があるね ちょっとずつ味わって食べるんだ
いつから大食い・早食いなんて下品な食べ方にしてしまったのか…

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:35:01.46 ID:TvijQjtC
>>779
この時代に江戸でさえまだまだな蕎麦切りが奥州奥深くに波及しているわきゃ無い

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:42:31.09 ID:q9otc+Aw
蕎麦がきだったかも。

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:43:09.56 ID:70A4zj5d
>>781
蕎麦掻きのわんこそば説


南部さんが蕎麦アレルギーじゃなくてよかったよ

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:50:59.34 ID:V4M2Ixzs
たしかに蕎麦がきならゆっくりたべるってのもわかるな。

時代の変化

2011年10月08日 22:06

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 18:18:04.77 ID:V4BUjsDV
時代の変化

名護屋在陣中の南部信直が、娘婿の八戸直栄宛てに手紙を出し、こう語った。

『ここ最近は上方の者達と付き合って、すっかり心境が変わってしまった。帰国したらわかってもらえると思うが
そのことを整理して帰りたいと思う。

昔の苦労に心を痛めて、昔はこうであったなどと言う者があったならば、すぐに追い棄てられてしまっても仕方ないであろう。
上方では、身分の低い者であっても主人に一生懸命に奉公すれば、すぐ取り立てられて侍になれる。
それを見た者は自分も負けていられないと一生懸命奉公する、こういう”からくり”なのだ。
貴方の所ではまず昔からの身分や家柄を調べて一族の中に組み込んでいく。私らも以前はそうだったが、後悔している。

(だから)上方衆は我々遠国者をとかくなぶる気持ちをもっている。
なので筑前(前田利家)のもとへ、月に一度ご機嫌伺いをする以外はどこにも出ないようにしている。
『日本の付き合い』に恥をかくようなことがあったら、家名を汚すことになる。
もしなにか問題を起こすようなことがあったら、その解決に大変な苦労が必要となる。
朝夕、寝ても覚めても気遣いすることばかりで、その苦労を察してほしい。

津軽右京亮などは筑前殿を訪ねて、くりかえししつこく自分の考えを申し述べたので、
奥村主計からやり込められ、恥をかいたという。その後は筑前殿を訪ねていけなくなってしまった。
大事な人付き合いなので、気遣いすることばかりである。

いまは新しい時代である。さらに重要なことだ。
もし不相応なことを申しつけられても、不満に思うことはあってはならない。
上手く対応できなければたちまち財産や身分はなくなってしまう。以前のような大名の心ではいけないのだ。
全てに念を入れ、何事が起きても、息子の九郎の身上が絶えないように、併せて、しっかり働く事が大切だ。

何度も申し上げるが、八戸はただ古い習慣があるからとばかり言っていて、心許ない。
古い分だけ新しい家風を積むように奉公なさるべきである。
返す返すも、昔を引きずった九戸の一族が、主人の政実をひき倒してしまった事情を考え、
物事の判断をしてもらいたい。
秋には帰るつもりである。よくよく上方のことを語り聞かせたいと思う。

京や田舎、古本(古いしきたり)はもう廃りものなのだから、それにこだわらず、才覚を巡らせて家督を続けてほしい

(文禄二年)五月二七日』

以上書状より抜粋。
既出の部分もあるけどあえて載せてみた。




8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 20:36:20.04 ID:yWSHIyRl
胸に迫るものがあるなあ

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 20:40:40.64 ID:Bzdw2q3c
胃に穴あきそうだ・・・

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 20:49:54.45 ID:bKo91DdR
戦国武将の手紙は、どれもこれも切実なものを感じる
その時その時の時代に対応しなければ、生きていけないのは昔から変わらないんだな

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 21:22:21.44 ID:XqMtQqt3
>>7
>津軽右京亮などは筑前殿を訪ねて、くりかえししつこく自分の考えを申し述べたので、
>奥村主計からやり込められ、恥をかいたという。その後は筑前殿を訪ねていけなくなってしまった。
>大事な人付き合いなので、気遣いすることばかりである。

本来ならスカッとしたぜと言いたいはずだろうに
憎い髭野郎にすらも同類として哀れむ信直の姿がいっそう涙を誘いますな

南部信直と九戸旧臣・工藤業綱

2011年06月18日 00:03

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 20:33:30.20 ID:ToXtkX3b
九戸政実の乱の際、九戸党に味方した者の中に工藤業綱という者が居た。
彼は銃の名手であり、九戸没落ののちは一旦津軽へ逃亡したが、南部信直への恨みから
信直の居城となった福岡へ潜伏し、これを討たんとその機会を窺っていた。

天正20(1592)年の正月12日のこと、正月の賀儀を終えた南部信直
その日の夜半、わずかな供を連れて窟の観音(岩屋観音堂)に詣でることとなった。
それを知った業綱は銃を持って待ち伏せる。

燈灯を持った間盗役(忍者)の唐式部を先頭として、信直が供の葛巻覚左衛門・大光寺左衛門らと下堂する時、
そばを流れる白鳥川の対岸から大声で信直を呼ばわる声がする。業綱だ。
「我は九戸左近政実を頼りし工藤右馬助業綱と言う者なり。それなるは信直公と見えたてまつる。
 ただ今九戸が仇を報ずる間、お覚悟めしませ!」

供の者達が矢先に立ちふさがり「燈灯を消せ!」と狼狽する中
唐式部は冷静に、囮となって飛び出し「大丈夫だ、君はここにおられる!」と燈灯を振り回して大声で護衛に呼びかける
業綱は銃を持ち直して放つ。弾は燈灯に当たってこれを撃ち落としたが、
信直はその隙に危地を脱出、福岡へ帰城した。

その日はあいにく雪が降っていたが、捕縛の為に数百人が集まり、遂に業綱は生け捕られた。
信直の前に引き出された業綱は
「九戸の仇を討つ為に君を狙いたてまつること既に十余度、天運も既に乾いてこの次第となりました。
 早く命をお召しください」と請うた。

信直はこの優れた武士を殺すのが惜しいと思ったか、
「旧怨を捨てて我に使える意があるなら、すみやかに命を許し相伝の家人に列し、長く恩顧を与えよう」
と言い、業綱を許して二〇〇石・三十人の足軽の頭として取り立てた。
家臣達はこの厚遇に「お屋形様のご思慮とはいえ、いかなることか」と怪しんだが、
帰服した業綱はその後君臣の礼を守り、忠義を尽くしたという。




203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 21:39:33.99 ID:d1NdsFiW
>>202
九戸政実の乱のエピソードを聴くたびに、余程慕われた男なんだろうなぁと思う。
その遺臣達を懐柔する南部信直の器量の広さも大したもんだな。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 23:11:43.88 ID:bEEWcw+u
>>202
信直さんはこれで殺されかけたの何度目だよ…

それにしても、九戸の乱のとき伊達政宗に「俺が仲立ちするから九戸と和睦すれば?」と言われて全力で拒否っていた信直が、
乱後津軽に逃げたり各地で潜伏したりしてた九戸の残党をまとめて再雇用してるんだよなー
けっこう治安が問題になってたらしい


206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 23:14:48.77 ID:CLfHF30R
>>205
土佐入りしたカズさんだってそうしてるべ
結局そうしないと治まんないのさ

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 23:17:43.99 ID:g+sWdfZR
>>202
騙し討ちで、5000人皆殺しのはずが、生き残りがいたのか

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 23:31:38.24 ID:ISRMMvsl
けっこう脱出できた人間は多かったみたいよ
津軽あたりには九戸の乱で逃れた者が家臣として雇われているし、政実の末裔を名乗るひともいるそうで

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 23:37:51.34 ID:UuaFzrRx
皆殺しといっても「沢山死者が出た」程度のニュアンスで
実際のところ一城一人残らず全滅、ってケースは日本だとなかなか無いよね

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/18(土) 00:02:01.62 ID:58WiPK7p
島原の乱で原城に立てこもった奴はほぼ皆殺し


213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/18(土) 00:06:13.56 ID:Ag/wtQST
>>212
つーか原城にこもった連中はむしろ自分から殉死を望んでいた面が強い。
こう言っちゃ何だが、アレは一種の集団自殺だな。

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/18(土) 00:21:30.96 ID:a+E9kFqc
>信直はその隙に危地を脱出、福岡へ帰城した。

俺が無知だったらごめん。なんで東北なのに福岡?

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/18(土) 00:24:37.97 ID:7W0dkHN1
改名した元・九戸城のことっしょ
筑前福岡じゃないよ

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/18(土) 00:30:19.30 ID:ZjbzSMm6
筑前福岡も備前福岡から名前をとって命名されてるし、改名するのは珍しくはないよね

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/19(日) 20:12:25.00 ID:NXsH5+NQ
>>202
一時的に恭順しても恨みを忘れず、後に本望を遂げた、もしくは失敗して
処刑された奴もいるんだろうな。

北信愛の鷹

2011年06月17日 00:03

北信愛   
184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 13:45:35.94 ID:OkZ3MenE
南部の武将北信愛(松斎)が和賀・稗貫郡を領して、城代として花巻城にあった頃のこと。
時の藩主南部利直は、信愛が老齢で目を患い、楽しみの少ないことを哀れみ、
鷹野にでも出て気を慰められるよう、一羽の鷹を与えた。信愛はこれを喜び、その鷹を鷹匠に預けた。

ある日のこと、鷹匠のひとりが山野に出て、その鷹を放っていた。
鷹は一羽の鳥を捕らえると、そのまま近くの農家のそばに降り立った。
するとそこへ、たちまち一匹の犬が駆けてきて鳥もろとも鷹をかみ殺してしまった。

驚いた鷹匠はその犬を捕らえ、辺りの者を集めて飼い主をただしてみると、門右衛門という百姓の犬であった。
鷹匠は門右衛門を捕縛すると、これを同道して花巻城に引き返し、おそるおそる事の次第を信愛に言上し、
門右衛門とともに罪に服したいと願い出た。
それを聞いた信愛はいつになく立腹の体で鷹匠を叱りつけた。

「お前はなんと無分別なことをするのか。
この門右衛門は飼い犬をそそのかして鷹を噛ませたものではない。またお前とて、
鷹を犬に噛ませようとして放ったわけではあるまい。

元来、犬はその性分として鳥獣を噛もうとするのは当たり前のことだ。鷹は他の鳥類に優れて
眼も羽も速いものであるから、滅多に犬などに噛まれたりするものではない。
それが噛まれたというのは、鷹のほうに油断があったのであって、その命運が尽きたものである。

一体、あの鷹はその門右衛門に比べて、これまでどういう働きをしたというのか。
あの鷹は拝領の鷹である故、お前が責めを重んじてそのような処置をとったことは
一応無理のないことであるにしても、わずか鷹一羽のために、大事な百姓を痛めるわけにはいかぬ。
お前は粗忽にも門右衛門を捕らえてきたが、はやくその縄を解いて、門右衛門に謝罪せねばならない」

鷹匠はこれを聞いておおいに恥じ、門右衛門に深く詫びて帰宅させた。
この話を聞いた稗貫・和賀の人々は、いずれも信愛の仁徳に感じ入り、その信望はいや増すばかりであったという。





187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 21:43:49.92 ID:cAB8nhct
>>184
これは当時の鷹が現代で言えば高級スポーツカーとか、そのくらいの価値観で見られていたことを
考えると一層味わい深いな

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 21:52:05.59 ID:hO131Qev
>>184
弱い鷹だな。地上で戦えばそんなものなのか。

参考動画:モンゴルの鷹を使った伝統的狼狩り
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm7233456

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 23:43:38.90 ID:PV2sbT7t
>>184
当時の犬は放し飼いだったのかな。

鷹匠も一緒に罪を償おうとした、というところもいい話かも。

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 23:52:09.11 ID:iZVa/P0K
鷹と百姓(とか子供とか)の粗相っていうと、たいてい酷い結末になるから
どきどきしたけど、あ~よかった。いい話で。

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 23:55:05.61 ID:mnA3Jpo6
北さんは名前からして優しそうだよな

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 00:10:01.58 ID:EMCM8gZ2
日本一の不覚人「もっと信頼されたかったなあ。」

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 00:20:39.30 ID:NF/zSc6j
信愛は晴継の烏帽子親を勤めながら、晴継謀殺の黒幕だったりして

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 00:33:36.62 ID:Omjbpnkk
南部さんちの周辺はけっこうえげつないからなー

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 09:36:17.26 ID:GmgcOAQh
南部晴政さんが農民の娘に泥を塗られて喜んでた話が好きだ
どっちかっていうとその娘さんに胸キュンなんだけど

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 10:06:09.10 ID:NF/zSc6j
その泥娘が晴継の母ちゃんなんだよな

198 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/17(金) 10:10:31.01 ID:9Hz2fsCK
泥を塗られて喜ぶってどんなシチュなんだ。
領民のどろんこ祭りみたいなものにおしのびで参加したってこと?

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 15:23:22.00 ID:RVbQrmXv
>>198
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4751.html
この逸話のことやね。

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 15:27:28.46 ID:T8Wp+0WD
ブスだったらその場で斬り殺されたと思う・・・

南部利直、盛岡築城の普請現場で

2011年03月16日 00:00

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 18:01:15.31 ID:LcLonGfK
南部利直、盛岡築城の普請現場で

盛岡築城の総指揮をまかされた南部利直は、自ら現場監督と共に普請の現場を見回っていた所、
ひとりの人夫が気にかかり声を掛けた。
「お前の面体は並の百姓には見えない。さだめし名のある者だろう、名を名乗れ」
百姓は一度は否定したが、利直の眼識に服して潔く伊達の家臣であることを認めた。人夫に紛れ
て城の様子を探ろうとしたのだ。

間者は処罰を覚悟していたが、利直は平然と間者に聞いた。
「この城地を見てお前はどう思う?」
「は?」
「城を探っていたなら心得はあるだろう。どんな感想を持った?」
「……されば、全て結構な惣構えですが、東北の方に山を負っているのが惜しいことです。
ここを占拠すれば遠目が利くものなら城内を一望できてしまいます」

この山とは現在の愛宕山の事らしく、実際、現在この山には展望台があり、盛岡の街が一望でき
るようになっている。
利直はこれに頷き、その間者を処罰することなく、人数をそえて仙台に送り返させた。伊達さん
への皮肉も感じさせる対応である。

南部利直、間者に城の感想を聞く話。




南部晴政の刀

2011年01月13日 00:00

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/12(水) 14:31:43 ID:Ic1uIIUo
刀を盗まれた話で思い出した。


ある時、南部家の三戸城で南部晴政の刀が盗まれた。犯人は分からず、刀番は事の次第を晴政に説明すると共に、
自分を罰するよう願った。だが晴政はその申し出を不問にした。

「刀番と言っても朝から晩まで始終刀を守っているわけではあるまい、ならば罰するには及ばない。
 刀のある場所は城の奥だ、刀ひとつを盗む為にわざわざ奴僕がくるところじゃない。

 刀は武器だ。おおかた武に励み、剣を好む若侍が、馬鹿な心を出して盗んだのだろう。
 ならば、その刀をもってよく奉公してくれるだろう。武士の盗みにはそのようなこともあるものだ。
 これがもし、武士が金銭や米穀を盗んだというなら、法をもって処罰しよう。
 この事は沙汰すべきでない、放っておけ」




221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/12(水) 14:55:55 ID:k2qbhP8u
その話が広まったしばらく後、南部勢苦戦の折晴政の身にも危険が迫っていた。
その時若侍が晴政の前に飛び出し、いつぞや刀を盗んだ石川五右衛門(仮)でござる、と名乗り出て奮戦。
主君の危機を救った、

とかの後日談つくと綺麗かつ逆に胡散臭くなるんだが…なさそうだな

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/12(水) 15:11:30 ID:KS74u7ye
王妃にセクハラした家臣の話そのまんまじゃねーかw

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/12(水) 15:14:21 ID:wFpzn690
秦の穆公にも似たような話があった