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浅利頼平毒殺疑惑と実季そして家康

2015年11月30日 07:20

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 20:25:07.76 ID:EqQyOhlD
浅利頼平毒殺疑惑と実季そして家康

比内浅利独立騒動は秋田・石田VS浅利・浅野の構図だったがそこへ徳川家康が浅利・浅野の
肩を持つようになった
浅利有利になる可能性もあった中で浅利家当主・頼平は上洛中に急死する
タイミングから秋田実季による毒殺が疑われた
結果的に五大老筆頭のメンツを潰された格好になった家康がこのことに激怒したのか
その後実季はわざわざ家康家臣の永井直勝に弁明書を出している
この場は何とかしのいだものの、関ヶ原後に常陸宍戸に転封される
東軍で働きながら加増もなく実質の減封処分…
こうなったのは西軍加担疑惑に加え浅利頼平毒殺疑惑も響いた可能性もある
最も浅利毒殺がクロと判ったら実季は間違いなく切腹、秋田家は改易だったろう



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秋田実季、そのトラブルの連続

2015年11月29日 17:10

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 15:23:37.20 ID:EqQyOhlD
前に秋田実季のネタが出たけど家督を親父から継いだ時からトラブルの連続だったんだなと思う

・家督相続後、戸沢や南部たちに支援された従兄の豊島通季と湊系家臣団に造反される
・由利十二頭や津軽の助力もあって一応豊島たちを撃退し秋田家当主の座を守る
・湊系家臣団を抑えこむことには一応成功するものの遺恨はずっと燻り続ける
・湊合戦のこともあり津軽為信独立を支援したことで南部信直にはさぞ恨まれたろう
・小田原参陣時には蠣崎氏にちゃっかり離反・独立される
・その後南部の調略で重臣・五十目兵庫に離反される
・比内浅利領をヒャッハーしたことで浅利独立騒動が勃発
・小田原仕置の時と同じく石田三成のおかげで浅利独立は何とか阻止
・しかし浅利側についていた浅野長政の顔を潰すことに
・ついでに小田原仕置後、秋田・浅利の和睦に尽力した津軽の顔も潰している
・南部信直が没しても後継が利直ではやっぱり分が悪い
・ちなみに強敵の一人・戸沢盛安は若くしてとっくに没してた
・関ヶ原役では一応東軍についたが最上義光の讒言もあり常陸に減封の上転封
・三成と親しかったことがここでアダになった(義光は大の豊臣・石田嫌い)
・義光が伊達政宗に当てた書状では馬鹿扱い
・それを見て政宗が実季をどう思ったかは想像に難くない
・内政はお世辞にも上手とは言えなかった
・嫡子・俊季と対立
・元々実季に遺恨持つ湊系家臣団はこぞって俊季に付く
・そんなこんなで遂に藩主の座を追われ伊勢朝熊に配流
・勝手に出家して幕府を怒らせ俊季が釈明に追われる
・このことを細川三斎が息子・忠利に当てた書状でdisっている
・最後は凍蚓と名付けた自身の木像を話し相手に生涯を過ごすことに

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 22:39:09.32 ID:lsnV0mh3
桶狭間の戦いから丁度100年経った1660年
伊勢朝熊で蟄居中の秋田実季は83歳で没した
その2年前には真田信之が93歳で没している
大坂の陣を戦った人間で生き残っていた大物は徳川頼宣や松平忠輝(蟄居中)ぐらい
彼らでも生まれは秀吉の天下統一以降である
実季こそ秀吉の天下統一前の時代を知る最後の人間と言っても過言ではないだろう

ちなみに「秋田実季、そのトラブルの連続」 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9635.htmlに登場した他の大名家の当主の移り変わりはこうなっている

秋田家:実季→俊季→盛季
戸沢家:盛安→光盛→政盛→正誠
南部家:信直→利直→重直
津軽家:為信→信枚→信義→信政
最上家:義光→家親→義俊(改易)→義智(寄合旗本)
仙台伊達家:政宗→忠宗→綱宗→綱村
芸州浅野家:長政→幸長→長晟→光晟
肥後細川家:忠興→忠利→光尚→綱利

由比正雪の乱ですらもう10年近く前の話
伊達騒動が勃発するのはこの11年後

上には上がいるとはいえいかに実季が長生きだったかがよくわかる

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 23:06:37.84 ID:LgiqV54Z
泳いで参ったの人も長生きだぞ!って1655年没か。
どうでもいいけど、宇喜多秀家って活動範囲が広すぎ。
紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役
関ヶ原、薩摩へ逃亡、駿河久能山へ幽閉、八丈島へ島流し等。
生涯に移動した距離は戦国一では?

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 23:18:15.97 ID:TC7U/Vtp
支倉…

秋田実季の所業

2015年11月26日 16:44

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 20:12:23.81 ID:OTpElVKD
古き人の語る所によると、秋田実季は子息・俊季に家を譲るという時、
俊季にはわずか1万石の地を与えてそこに5万石の賦役を勤めさせ、それ以外の領地は
全て自分が押し取って、郡中の民に重い租税を課した。

それだけではない。実季は家を作り、垣を結い、カマドを作り、窓を穿つ事にすらも一々に銭を賦し、
強制的に徴収した。
このため貧しき民は、家の軒が傾き壁が破れても、修理することが出来なくなった。
男は髷を結い、女はお歯黒をつけるべき年齢を遥かに過ぎても、ただ童のような姿のままであった。
民は親子兄弟、皆嘆き悲しんだ。
嫡男である俊季自身もその家来たちも苦しみ困窮したことは言うに及ばない。

それだけでも酷いというのに、実季は我が子俊季に対し、筋無き事を幕府に訴えるなどしたため、
終には伊勢朝熊へと流された。

その後、俊季が大阪城の守衛を命ぜられ上る時に、実季は道に出迎え、対面しようと伝えた。
実はこの時、実季は内心息子を殺害しようと考えており、俊季の家臣たちは素早くそれを察し
対面を決して許さなかった。

秋田実季の振る舞いは、こう伝えられるほど酷いものではなかったと考えられるが、
彼によって苦しめられた民衆が、その恨みを悪し様に語ったため、このように伝わったのであろう。
しかし大相国家(徳川秀忠)のお耳にも達し、実際に罪を被った事でもあるので、完全に
事実無根というわけでもないのだろう。

(藩翰譜)


これより秋田領は5万石とされたが

2015年11月22日 07:45

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 07:37:26.48 ID:Ugx+z1MX
秋田実季は天正18年の秋、小田原征伐に下向した関白豊臣秀吉にはじめて見参した。
明けて19年、九戸の乱が起こると秀吉政権の催促に従い馳せ向かい、城を攻めた。
朝鮮の役が起こると、これもまた催促に従い、軍勢を率いて筑紫の陣に馳せ来た。

いずれの時であったか、秀吉は実季に「お主の所領はいかばかりか?」と尋ねた。
実季はどう思ったのか、僅かに「租入、4,5万石ほどでしょうか。」と答えた。
「であれば、軍の賦役はその額に従うべし。」秀吉はそう仰せ下した。
これより秋田領は5万石とされたが、実際には20余万石あったとのことである。

(藩翰譜)



673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 08:47:13.95 ID:s76zDYMx
冷害込みじゃね?
貿易で儲けてるのかもしれんが

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 09:26:37.97 ID:BeN7x4Xm
>>661
あったな
内灘海岸だっけ

675 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/22(日) 11:21:45.14 ID:z4uYDD4v
徳川家の半分は水野一族の狂気な血で出来てます
特に越前系とか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 11:27:17.70 ID:AAlTs53h
ラスボス「5万石?じゃあ残りは太閤蔵入地な」
実季「・・・・」
ちゅうことか

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 17:54:10.25 ID:raQEjblr
>>672
こういうのもあるから

上杉景勝越後転封裏話・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1164.html

孫の名前の字面が悪い

2015年03月06日 18:57

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 18:59:19.09 ID:e4mfSWKa
孫の名前の字面が悪い
 秋田実季が、孫・盛季に宛てた手紙より。

あなたの名乗る「盛」の字について、私は少しひっかかっているので、真照寺に相談いたしました。
そうしたところ、「あなたの父・俊季がつけた名前ですから、変えられるものではない」ということでした。
さらに私が、「『モリ』と読む別の字に変えたらどうか」、と相談すると、真照寺は『五行を考えると、『季』の字に合うのは『盛』だけだ」ということだそうです。
ですが、そもそも私の「実季」という名前も、五行からすると相性悪いのです。
占い師からそのように言われた我が父・愛季は、しかしこれを信用しませんでした。
近くにいた義田という禅僧も、「中国でも日本でも名前に五行は入れない。『季』の字と和すならば、問題ない」と言うので、私の名は「実季」となったのです。
その御蔭とは思いませんが、私はこうして八十三まで無事に生きています。
これも、名前と五行とが関係ない証拠でしょう。
名前の文字についてはきちんと相談してください。
くれぐれも、秋田の家を尊敬することが、あなたの長生きの秘訣でもあります。
それでは。

   (万治元年/1658年)十二月十七日   宗実 書判
 安房守殿 御館

実季死去一年前の書状。すでに子・俊季は十年前に死んでいる。
なぜ「盛季」が悪いのか、実季は語らない。あるいは、俊季の決めた名前が気に食わなかったのか。
死後七十年をへた愛季を、秋田家の「先例」として持ち出すあたり、実季の愛季の思いを感じられる気もする。






532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 23:58:27.07 ID:EQU0gN8M
信之の改諱も長生きの秘訣だった・・・?

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/06(金) 10:20:12.15 ID:q9DulQzQ
長生きして自分のフィギュアに萌えてる爺さんに言われても説得力無いよな

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/06(金) 12:35:17.11 ID:dlSTxqbX
>>533
孫も返答に困ってそうやねw

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/06(金) 19:53:53.23 ID:c7kcpxv1
盛の字に何の恨みがあったかわかるお手紙は無いのか

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/06(金) 20:04:33.64 ID:6Bpx0oJ5
湊合戦の折に戸沢盛安が湊通季を支持して実季と戦ってるからな
盛は戸沢の通字だし多分これだろう

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/06(金) 20:48:34.01 ID:c7kcpxv1
なるほど敵さんの通字か
そりゃ少しひっかかるな

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/06(金) 21:12:14.32 ID:ayrLPiei
檜山安東初代が盛季であって、名前がかぶってることも気に食わないのかも。
十三湊を南部に攻め落とされて、安東が流浪することになった時の当主じゃなかったっけ。

「御前落とし」

2014年04月01日 18:38

849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/01(火) 15:07:32.53 ID:1KwSB2JV
北天の斗星こと安東愛季は戸沢氏との合戦で陣没した。
後を継いだのは若干12歳の安東実季。これに強い不満を抱いたのは叔父の豊島道季だった。
彼は小野寺氏や戸沢氏と同盟し、謀叛を計画した。
実季の湊城を攻めるには安倍千寿丸の双六城が邪魔である。そこで先ず、双六城を急襲した。
突然の攻撃に双六城は落城、安倍千寿丸は自害し、奥方は崖から身を投げた。

これを重く見た実季は自ら出陣するも敗れ、湊城も奪われるなど苦戦したが檜山城に籠り道季を撃退した。
徐々に盛り返した実季はついに道季を大破し、道季は討死したとも落ち延びたとも伝わる。
道季の奥方も落ち延びたが、双六城のあたりで囲まれ、もはやこれまでと崖から身を投げた。そこは奇しくも
安倍千寿丸の奥方が身投げした崖であった。

いつのころからか、二人の奥方が飛び込んだ場所は「御前落とし」と呼ばれるようになったという。

男鹿の昔話です。
結構、いろんなパターンがあって謀叛を起こしたのが腋本五郎だったり安東友季だったり、
道季さんが従兄弟だったり叔父だったりするんですが、多分3回あった湊騒動が混ざってるんだと思います。
余談ですが、道季さんは改名し南部に仕えたとか。





秋田俊季とタバコ

2013年04月28日 19:00

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 14:48:24.79 ID:7HUDBhEw
秋田俊季とタバコ

「秋之夜之夢噺」(個人蔵)という史料には、三春藩秋田氏歴代藩主のエピソードが記されています。
真偽とりまぜたエピソードの中に、初代俊季について、次の話が載せられています。

俊季はタバコが好きだったようです。3月か4月のころ、タバコの火消しを持ってくるよう声をかけたところ、
誰もやってこなかったそうです。俊季は、御殿を歩き回って家来を探しましたが誰もいません。

それもそのはず、家来達は、春の陽気に誘われ、三春城三階櫓の辺りで駆けくらべをやっていたのです。
家来達の遊びが終わった後、俊季は咎めることもせず、何の話もしなかったそうです。

俊季のタバコ好きはすさまじく、狩りに出かけた時は、馬の口取りをする中間のキセルを使ってタバコを吸ったそうです。
(記述者 個人名)

秋田俊季とタバコ|Web資料館|三春町歴史民俗資料館(生涯学習課) より引用

出羽より常陸宍戸、後に三春に移封した秋田俊季。俊季は、三春藩主になってわずか3年半、
ほとんど三春に住むことなく、慶安2(1649)年正月3日、52歳で死去しました。との記述もあります。

移封の顛末は 過去レスで 秋田実季と嫡男・俊季 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1136.html

三春は江戸時代から葉タバコの名産地だそうです。俊季が地元の煙草を吸っていたかどうかは
定かではありませんが、草葉(葉タバコ?)の陰から末永く三春の地を見守っていることでしょうね




145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 17:38:30.55 ID:9iZ4bBa4
>>144
春めいた、のどかでいい話ですね
今はタバコ受難の時代だけどw

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 00:37:22.45 ID:llpKtHqJ
タバコの火消し程度で怒るのもバカバカしいと思ったんだろうか
でもタバコが狂おしいほど好きならそうは思わないよな

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 01:29:46.44 ID:jqvMRw0N
そこは殿様の度量じゃないかな
せっかくみんなが楽しく遊んでるのに水を差しても可哀想だと思ったのではなかろうか

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 01:59:13.26 ID:ADp+5ffo
誰も殿様に気付かなかったにも関わらず火消し所望してた記述は残ってるって…

それはさておきDQN眼竜も愛煙家だったっけ

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 06:30:46.22 ID:BjfKzb7M
愛煙家エピが残ってるのは宗矩

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 12:14:18.03 ID:u8LRxcpm
>>144
狩りには自分のキセル持っていかなかったのね

157 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2013/04/29(月) 21:37:18.27 ID:oyb4lvdo
>>146
そういう問題よりも、近習や小姓が一人も主君の声の届くところに居なかったっていうのは
本来はかなりの責任問題のような気がする

北海道駒ヶ岳の名の由来

2012年10月31日 20:05

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 06:45:21.74 ID:PdAsCncF
北海道駒ヶ岳の名の由来

道南十二館のうち大館の主で松前守護でもあった安東恒季は行状が悪く、訴えられて
宗家檜山安東忠季の命による蠣崎光広の攻撃によって滅ぼされた。
その後は小館領主の相原季胤が松前守護の代理を務めることになった。

その頃海難事故が多発し、季胤は頭を悩ませていた。
ある時老占い師に「これは矢越岬の海神の怒りである、人身御供を捧げて
怒りを鎮めるべし。」と言われた。
そんな怪しい神信じられぬと季胤は思ったが、恒季時代からの家臣である
村上政儀に押し切られて実行することにしてしまう。
しかしそうは言っても誰を生贄にするか迷った。
領民から選ぶのも家臣の一族から選ぶのも気が引ける…。

しかし、そこで政儀は進言する。
「アイヌ人を人身御供にしちゃえばいいじゃん。」

こうしてアイヌ人の娘を20人ばかりさらってきて海に沈めてしまった。

これにアイヌ達は激怒。
大軍を率いて大館小館を囲んだ。
村上政儀は討死し、ついに落城。
季胤は二人の娘を連れて大沼へ逃れるが、逃げ切ること能わずと悟り、娘とともに入水して果てる。
この時乗っていた愛馬の鞍をとき、山へ逃れるよう言い聞かせた。
その馬は狂ったように啼き叫んだかと思うと、瞬く間に山へ駆け登った。

以来その山を駒ヶ岳と呼ぶようになった。また季胤が外した鞍を掛けた岩を鞍掛岩と呼ぶようになった。
その後も季胤の馬は生きていて、入水した7月3日になると馬の嘶きが聞こえるという。




98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 07:18:04.40 ID:89foey0g
自分を人身御供としたいい話

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 20:00:42.25 ID:rupB6Urn
>>97
饅頭でも投げ込んどけば良かったのに。
つか20人て。何でそんな大盤振る舞いしてんのー!?

下国師季は謎が多い。

2012年10月27日 18:05

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 06:33:28.50 ID:MTzhoiLC
下国師季は謎が多い。

彼は安東家政の孫であるという。家政は1457年のコシャマインの乱の鎮圧にも参加した人物で、
1501年に没した。
またその子で師季の父に当たる家季は父家政より早く1492年に没したらしい。
よって師季は1490年前後の生まれのようだ。それから1563年に没しているので70歳以上は生きている
なかなかの長寿。

問題は師季の妻だ。

師季は蠣崎季広の二女を妻にしているのだ。蠣崎季広は1507年生まれである。
長男の舜広は1539年生まれで、長女の嫁いだ南条広継は1529年生まれだから、
概ね二女の生まれはこの間の1530年代半ばくらいだろう。
となると、二人の年齢差は40歳以上…?
しかも二人の間には重季という子供もしっかり生まれている。

戦国時代の加藤茶とでもいうべきだろうか。





51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 12:25:15.37 ID:OEYb97HQ
>>50
山口直友パート2くらい言ってあげなよ。w

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 12:34:48.76 ID:sWrG/cwG
小少将と長宗我部元親は小少将がうんと年上だそうだが、これはどう呼ぶんだ
もっとも産んだ異父兄弟の年の差が40以上という無理ある話だが

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 12:38:17.36 ID:mTSUofq/
>48,>50
ドリフターズだな

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 12:41:57.97 ID:qWN6W0Zi
加藤茶は現代だから注目されるけど
昔は年齢差が大きい結婚が多そうだよね

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 13:17:11.00 ID:aEIVsLLX
13歳くらいで嫁いだものの、高齢の夫に興味持たれないまま先立たれて、手付かずのまま
生涯を終える姫とかいそうだよな

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 14:01:43.46 ID:bDmnSvcG
>>54
そこそこ身分の有る人間が年寄りになると、
「あの方も寂しかろう」つうて勝手に周りが十代の下女兼愛人を世話してくれる時代なんだよなあ

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 18:27:25.72 ID:MTzhoiLC
発掘研究などから下国師季が茂別館を追われたのは永禄5年(1562)は誤りで、
永正5年(1508)が正しいらしい。
18歳くらいで城を奪われて蠣崎の庇護に入った己を恥じて長く妻は娶らなかったのかな?

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 01:05:14.60 ID:enuPRoD0
ところで蠣崎氏といえば、二代当主の蠣崎信広って
若狭武田家という名門の子息として生まれる→出奔→南部家ののち蠣崎家へ
→コシャマインの戦いでアイヌの反乱を鎮圧→蠣崎家の婿養子として後を継ぎ、蝦夷地と樺太をおさめる

なんか御曹司島渡の貴種流離譚そのまんまのような

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 07:21:13.20 ID:lRKgg1Vm
>>67
全般的にテンプレみたいな話ばっかだよね、蠣崎の歴史。
松前守護の安東恒季は粗暴で無実の民を殺すこともあったという典型的な暴君。
で、訴えられて安東宗家に滅ぼされる。
跡を継いだ相原季胤もアイヌ人を人身御供にしたとかでアイヌに滅ぼされる。
最終的に蠣崎氏が全部接収してるから、実は全部蠣崎が仕組んだことじゃね?とも言われてる。

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 14:27:16.24 ID:MFodyCec
全部は秀吉あたりに出仕する時にでもでっちあっぷした後付だなきっと

96 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/30(火) 21:10:12.13 ID:1Mij6FVA
>>50>>54
歳の差婚なら
家康(1543年生)の最後の子を産んだ英勝院(1578年生)は35歳差。
子を産んでない側室で一番年が離れてるのは、英勝院の侍女上がりの養儼院(1597年生)で54歳差。
親子の差どころか孫と同年代の側室www
年齢的に側室になったのは、早くても数え歳13(1609年)としても家康が満66歳の時。
大坂冬の陣(家康、満71歳)に養儼院を連れてきてるwwから、家康はほぼ生涯現役だったんだろうな

蝦夷に下国師季という武将がいた

2012年10月26日 20:01

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 05:10:22.88 ID:z3mDjgZL
雑魚武将の話を発掘してみる。

蝦夷に下国師季という武将がいた。
下国氏は安東氏の一族で茂別館に拠り下国守護を任じられていた。蠣崎氏と同格以上の家柄である。
また1551年にはアイヌと和人の講和が結ばれ平和な時代が訪れていた。

…にも関わらず、1562年なぜか師季はアイヌの攻撃を受け茂別館を落とされてしまった。
そうして松前に逃れて蠣崎氏を頼り、その臣下に甘んじることになる。
しかしそれだけでは終わらず、息子重季と不和になり、
挙句に頼っていた蠣崎氏から追放されてしまう。
そしてセタナイで1563年死亡した。

ただただ没落しまくったことしか記録がない地方の武将の話。





32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 05:42:18.69 ID:MtAUdzdA
天庵様が興味を示されたようです

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 18:22:44.89 ID:5bAlAIIx
>32、天庵さまはちゃんと俸禄貰ってる身分で終わってるだろ

秋田実季老人、関ヶ原を振り返る

2010年08月22日 00:00

591 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/21(土) 19:20:32 ID:aRSQDJ+T
大岩祐夢「たとえ小さくとも家を残すことは武家にとって肝要である」

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 19:23:18 ID:suCFD1Sf
実季「関ヶ原の時の話を聞きたいってわざわざ朝熊まで来てくれた人が居るよ」
凍蚓「関ヶ原か……あの頃は実季ちゃんも24、5歳だったね」
実季「あの戦いの後に、最上義光さんに因縁つけられたんだよね」
凍蚓「そうそう。実季ちゃんから小野寺さんに出した手紙が西軍に付いていた証拠だって
    最上さんが本多佐渡守に訴えたんだよね」
実季「六月の日付の手紙がどうして証拠になるのか、理解できなかったよ、凍蚓くん」
凍蚓「そもそも、この手紙……『お互いよくよく相談して公儀の為に奉公しましょう』っていう内容だけど
    これが最上さんに渡ったのが十月の末だったか十一月の頭だったかな?
    まだ庄内地方が騒がしい時だったね。実季ちゃんは未だ西軍として城に籠もる小野寺さんに
    実季ちゃんが『天下は収まったんだから、降伏しにおいで。命は助かるよう運動してあげるから』
    って勧告したんだけど、小野寺さんは最上さんの方に降伏したんだよね」
実季「小野寺さんとはウチも最上さんも仲が悪かったけど、関ヶ原の時は最上さんには余裕がなかったからね。
    西軍の小野寺さんを攻めたのは私と六郷だったよ。だから小野寺さんは私に頭を下げたくはなかったんだろうね」
凍蚓「小野寺さんはそういう人だよね」
実季「でも最上さんまでそういう衝動的な行動を取るとは思わなかったね。
    小野寺さんが点数稼ぎに差し出した手紙を、日付も確かめずに幕府に提出するなんて」
凍蚓「上杉の攻撃を凌いで浮かれてたんだろうねぇ。甥っ子の政宗君に『羽後の連中みんなバカスwww』なんて手紙残しているもの」


実季「会津征伐の時は家康公から朱印状を貰って帰国していたんだよ。
    それでも先発隊は最上さんに助力できるよう山形に残しておいたんだけど、最上さんが『帰って、帰って』って
    何回も言うもんだから、先発隊も引き上げたのに、それを『西軍に応じたから』と言われたら困るよね」
凍蚓「それで上杉がやっぱり最上に攻め入ったって聞いたから、今度はちゃんと最上さんの了承を得て援軍に行こうとしたんだっけ?」
実季「そうだね。金山城主にその話を通してお墨付きを貰ったんだ。
    だけど由利郡の矢島で小野寺の息がかかった連中が一揆を起こしたせいで、兵力をそっちに回さなきゃならなくなった」
凍蚓「八月下旬、それから九月中旬の二回だったかな。一揆を鎮圧したら、今度は戸沢と小野寺が協力して
    実季ちゃんの領地との境になる淀川に城を再建したんだよね。太閤秀吉の天下の時に破棄した城を」
実季「戸沢には『小野寺を一緒に攻めよう、それがムリなら貴方の領内を通して欲しい』って、何度も言ったんだけどね
    早く最上さんの援軍に行かなきゃって私もその時は必死だった」
凍蚓「仕方ないから南部さんに『戸沢を牽制して』ってお願いしたら『一揆起きてるからムリ!』って言われた」
実季「その一揆って伊達の政m……」
凍蚓「最上さんを助けるための援軍が、最上さんの甥っ子のせいで足止めを食らってしまったんだね」


実季「結局、由利の方面から大回りして、小野寺の大森城を攻め落としたのが十月の十七日だった」
凍蚓「翌日の十六日に六郷くんが最上さんの手紙を持ってきたんだよね。最上さんの手紙は十月八日付けだった」
実季「その手紙の内容は『十月六日に家康公が関ヶ原で勝利した』っていう内容」
凍蚓「最上さんですら八日に知った家康公の勝利を、実季ちゃんはもっと早く知っていたの?」
実季「まさか。だってその日と言えば城攻めの真っ最中だよ?」
凍蚓「でも最上さんは実季ちゃんが家康公の勝利を知ってから城攻めを開始したって言いふらしていたよね」
実季「困ったものだね、あのお爺ちゃんは。あの手紙には『庄内へ援軍を出してくれると聞いて感謝感激』とか
    『上方の騒動も収まったから庄内は任せて仙北を平定してNE☆』とか書いていたのに」
凍蚓「人の心は移ろいやすいね、実季ちゃん」
実季「とは言え、ムリにでも庄内への出陣しておけば良かったとはあの時も、今も思ってるよ」




秋田実季老人、関ヶ原を振り返るの巻





598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 21:48:55 ID:D3o+eSMx
>>592
しかし実季の行動はあまりキレが無いなぁ
若いから仕方ないんだろうけど、
状況に完全に振り回されてる

家督継いだときもそうだし(年齢が年齢だけど)、
俊季との権力闘争にしてもそうだけど、
どうにも後手後手になるのは、
安東家の体質なんかねぇ



608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:30:29 ID:suCFD1Sf
>>598
実季自体は撫で斬り、暗殺(疑惑)と父親の血の片鱗を見せていると思いますよ
関ヶ原の時も、上杉を迎え撃つ為に戦力を集中させた為に空になる最上領に
同じ東軍の味方として居座わって領土化しようというのが実季の思惑だったのではないかな
その為にもこまめに榊原康政と連絡をとっていたわけだし
最終的に
「湯沢、増田で援助して貰いたい(湯沢、升田を被引助可給候)
 庄内の事はこちらで責任をもつので、仙北に攻め上ることを急いで貰いたい
 (庄内之事ハ此方より行等可申候間、仙登偽さりとてハ 可被相急候)」
という義光の手紙が届いた事で、実季は協定が成立したと考えたかと


しかし十一月八日付の伊達政宗宛の義光の手紙には
「さてまた仙北へ人衆越し申し候。その後とかく申すことも候わず候。
 由利秋田よりまかり出で候も、そこそこはひとつに談合候て、出たる体のよし申し候て
 なかなかに馬鹿けなることに候と、人々語り申し候。
 南部も二十四日に横手分に家の六つとか七つとやらん候を、代官にて焼き申し、その日に引き帰り候よし
 仙より申し越し候。いずれも上への儀を、以後の首尾口合わせまで科逃ればかりのことを仕り候」
とあり、この時点で羽後勢力の解体を義光が狙い始めたかと
羽後勢力を馬鹿と嘲笑う程に(アンタが仕掛けておいて)義光には徳川とのラインに自信があったのだろう

逆に実季は浅利氏との対立の過程で奉行衆との繋がりの方が強かったのがアダになった。
特に比内の浅利氏の独立を推していたのは対石田親徳川の浅野氏だったし



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:30:30 ID:Pio0gt+Y
>>598
30にもならない実季と永禄年間から戦い続け、のし上がってきた義光では役者が違ったというか…

>>603
実季と凍蚓という誰もが絶対あり得ない組み合わせであるとすぐわかる>>592と
直江と景勝とか政宗と小十郎のような組み合わせを同列に語るのはナンセンスだと思う。


610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:54:00 ID:D3o+eSMx
>>608
なるほど
そうやってできた徳川との隙を義光に突かれたのか
肝心な所で上を行かれたのは、経験や環境の差かなぁ…
これが後に響いた事を思えば、実季にとっては痛恨事だったろうな

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 00:16:11 ID:Vg/xQKqo
関ヶ原後の鮭様の有頂天とやりたい放題は
その後のお家騒動と最上氏改易を知っていると何とも言えんものがあるな
後世の人は因果応報と語ったが
しかし、遡って徳川とがっちり結び付くという勝ち組への一歩が
ラスボスに娘を殺された事と考えるとマジで人生の山と谷がはげしすぎる
塞翁が馬ってレベルじゃねーぞ

秋田実季と嫡男・俊季

2010年06月05日 00:02

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 22:21:35 ID:jU6RVhz4
1598年、秋田実季に嫡男・俊季が誕生した。
彼の母は細川昭元の娘で、秀忠の正室とは従姉妹の関係にあたる。

そして1602年、秋田家は宍戸に移封される。
実季は不満たらたらだったが、徳川家にも目論見はあった。
次代俊季と三代将軍家光とは又従兄弟となる。
長い目で見れば、北関東に配置して損はないだろう。

大坂の陣後、俊季が藩政を掌握すると、それは見事に当たる。
藤井松平家から妻を娶り、将軍家から譜代格の待遇まで受けた俊季は発奮。
連年割り振られる公役を積極的にこなした。
物心ついた頃から宍戸藩嫡子、俊季は完全な新人類世代だった。

と、こうなると面白くないのが父親の実季である。
親しい僧への書状には、
「今年もまた、将軍御上洛に俊季がお供します。財政難はお察しください。
 大坂在番はともかく、此度の普請は未曾有の大規模。
 家の滅亡を招きかねず、本当に迷惑しております」
とまで書き、露骨に俊季と幕府を批難。フラグを立てる。
俊季も藩政にうるさく介入する父に反抗し、
「以後は凍蚓(実季)様に公務への口出しをさせないこと。皆、よく心得ておけ」
と政界追放を宣言。
ついに親子の対立は、実季自身が「和漢に比類なく」と表現する最悪のものとなった。

決裂から二年後の1630年。実季は伊勢への物理的追放を、幕府より申し渡された。




188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 22:29:05 ID:57z5U14z

>>187
同じような世代の細川忠興が、息子に対して幕府への奉公をむしろせっついているのに比べると、
はやり視野が狭いと言う印象を受けるな>実季

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 22:31:02 ID:/KBF0XII
そしてもう一人の自分と向き合う時間が始まるのか

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 07:28:12 ID:xMVYQ+Sg
>>188
俊季のバックには湊安東氏がいるんだから、檜山安東氏である実季は自派閥の人間を守る為に対立せざるを得ない
俊季が毎年のように幕府の公役を務めて藩政が赤字だったのは確かだし
根が深いんだよ、檜山と湊は。どっちも正統じゃないし……
さらに三春藩のお家騒動は宍戸以降の新参組と実季の側室である荒木氏が結びついて三すくみになるし。

2つの安東氏~檜山と湊~ その1:ほんのちょっとだけ義満の悪い話

2010年06月05日 00:02

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 07:28:12 ID:xMVYQ+Sg

2つの安東氏~檜山と湊~ その1

遡ること応永二年(1395)
前年に太政大臣に命じられ、権力基盤が安定した足利義満が日本の南北に自分が影響力を持つ人物を配置した。
即ち、南の九州探題には今川貞世に変えて渋川満頼を、北の秋田城介には安東盛季の弟・鹿季を
切り離して置いたのである。
当時、秋田郡にはなおも南党残党が蠢動しており、これの制圧の為に義満が鹿季を抜擢したのが表向きである。
鹿季は京都御扶持衆であり、それ以降安東家が独占していた秋田城介は嫡流の盛季ではなく鹿季の系統に
引き継がれるのである。
幕府側の史料においては鹿季の系譜は「安藤(安東)」ではなく「湊」と記され、別家として確立された。
湊(土崎)安東氏の誕生である。


ほんのちょっとだけ義満の悪い話




関連
2つの安東氏~檜山と湊~ その2:南部氏の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その3:安東政季の(諦めの)悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その4:安東愛季の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その5:檜山安東氏と湊安東氏の(仲が)悪い話

2つの安東氏~檜山と湊~ その3:安東政季の(諦めの)悪い話

2010年06月05日 00:01

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 07:30:35 ID:xMVYQ+Sg
2つの安東氏~檜山と湊~ その3

一方で南部氏の傀儡となっていた安東師季は義季死亡の報を受けてか、行動を起こす。
享徳三年(1454)、師季は南部氏の元から脱出し蝦夷ヶ島に渡海、再び安東氏勢力を糾合する動きを見せたのである。
この時、に随行していたのが武田信広――やがて松前氏となる男である。

下国安東氏と南部氏が熾烈な争いを繰り返していたその間、湊を名乗る安東氏は
一族を秋田郡の各地に配置するなど、地盤固めに邁進、
南の庄内の争いの調停なども行い、精力的に活動し存在感を示していた。
とはいえ、湊安東氏も仙北方面に南部氏(と戸沢氏、小野寺氏)の攻勢を度々受けている。
そこで康正二年(1456)、湊初代である鹿季の孫に当たる惟季は南部から脱出した政季(将軍より一時拝領、師季改め)を出羽に誘ったのだった。
依然として海路に影響力を持つ安東氏、政季は精鋭を率いて海伝いに蝦夷ヶ島から男鹿に上陸、
2つの安東氏は共同して檜山に拠点を構える南部方の葛西に当たった。
(一方、政季不在の蝦夷ではコシャマインが蜂起、これを鎮圧した武田信広が頭角を現した)

しかしこの政季、度々檜山ではく白神を超えて津軽を伺った。
捲土重来を目指したものであるが、これには湊安東氏やそれに従う周辺豪族の不信を招いても仕方ない。

長享二年(1488)、政季は家臣の長木大和守に謀殺される

その後、政季の嫡男である忠季が七年の歳月をかけて葛西氏を駆逐し檜山に館をかまえた。
それが檜山(能代)安東氏である。
檜山安東氏は「自分こそは津軽に拠を構える安東氏正統」という主張なのか
下国安東氏をその後も名乗り続けている。


安東政季の(諦めの)悪い話




関連
2つの安東氏~檜山と湊~ その1:ほんのちょっとだけ義満の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その2:南部氏の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その4:安東愛季の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その5:檜山安東氏と湊安東氏の(仲が)悪い話

2つの安東氏~檜山と湊~ その4:安東愛季の悪い話

2010年06月05日 00:01

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 07:34:48 ID:xMVYQ+Sg
2つの安東氏~檜山と湊~ その4

米代川を中心とした肥沃な地帯を掌握した檜山安東氏と
湊安東氏は境界で度々衝突を始めるようになった。

鉄船庵の法名を持つ九代目湊安東氏・堯季はこの問題を解決しようと
忠季の孫に当たる檜山安東氏・舜季に娘を嫁がせた。
この堯季は官僚細川氏から謹上書衆にも遇されている。
一方で舜季も蝦夷の視察に繰り出し、統制を再び固めたのである。

しかし不幸にもまず名君と呼べる堯季には男子がいなかった。
為に娘婿である檜山安東・舜季の三男・茂季を養子に迎え入れたのである。
さらに舜季はこの茂季に蠣崎季広の六女を娶せ、檜山・湊・蠣崎の紐帯を太く固めたのである。

しかしその舜季も天文二十二年(1553)、死没する。
檜山安東氏を継いだのは若干十五才の愛ちゃん……安東愛季であった。


嫡子と定められていた時から胸に秘めたるものがあったのか、愛季は次々と政策を打ち出していった。
能代の湊を整備し、新しい町をつくり、それを起点に越前の朝倉氏と交易を結び日本海に自身の基盤を打ち立てた。
さらに関東管領に上杉輝虎が就任したとみるや直ぐさま使者を派遣して結びつきを強めた。
浅利氏を謀殺し比内を掌握、一度は鹿角郡を南部氏から奪うことにも成功した。

若さと才気に溢れる愛季は長年南部と結びつきの強かった浪岡氏(北畠氏)に自分の娘を輿入れさせた。
これは浪岡氏を南部氏から切り離す為だけの政略ではなかった。
浪岡氏は長年中央との結びつきが強く、その為に南部氏も併呑はせずにいた存在である。
これを味方に取り込むことで愛季は中央(信長)との結びつきを手に入れることができるのである。

中央工作は幕府との繋がりの深い湊家の領分であり、愛季の行為はいわば安東氏連合における越権行為であった。
蠣崎氏も茂季に嫁いでいるとはいえ、元々檜山安東氏と繋がりが深く
さらに浅利氏暗殺や浪岡氏との婚姻の功績と称して愛季は抜け目なく季広の息子達を手元に置いていた。
そもそも茂季自体、愛季の弟である。
ここに至って湊家家臣団の愛季への対立は必然であり、永禄十三年(1560)、畠山重村らが茂季に謀反を起こす。
予期しない愛季である筈がなく、謀反は瞬く間に鎮圧、さらにこれを口実に茂季を湊城から引き離し、自らが湊城に入ったのである。



安東愛季の悪い話




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2つの安東氏~檜山と湊~ その1:ほんのちょっとだけ義満の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その2:南部氏の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その3:安東政季の(諦めの)悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その5:檜山安東氏と湊安東氏の(仲が)悪い話

2つの安東氏~檜山と湊~ その5:檜山安東氏と湊安東氏の(仲が)悪い話

2010年06月05日 00:01

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 07:39:28 ID:xMVYQ+Sg
2つの安東氏~檜山と湊~ その5
乱世において最も優先されるのは事の善悪よりも実力であろう。
結局、愛季には実力があり、実季も湊合戦を生き抜いた以上、湊系家臣団は従うしかなかった。
しかし転機が訪れる。当事者達にとっては転機というよりは災厄に近い。
関ヶ原後の転封である。

湊系家臣団が実季のミスを非難し、彼に敵対する俊季に付くのは自然の流れであった。
俊季が藩政を掌握すると、実季が統合した湊家の菩提寺を復活させたことからも
俊季の背後に湊系の家臣団の姿が見える証拠といえるのである。


檜山安東氏と湊安東氏の(仲が)悪い話




……でも本当に悪いのは湊と檜山の対立が根深かすぎて
ここまで長く説明しなきゃならないことである。




202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 08:54:22 ID:gYH2PN56
ちょっとスレの範疇を超えてるwww

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 11:12:18 ID:huVLpLMA
お疲れw、北の歴史は詳しくないので興味深かったよ

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 12:10:20 ID:6IF+67Ax
非常に興味深く読ませてもらいました。



205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 12:39:00 ID:xMVYQ+Sg
コピペミスで>>200と>>201の間が抜けてることに今気付いたしw(消しちゃったのに)

掻い摘んで言うと
愛季が湊城を制圧したあと、湊の正統な主である茂季は湊城には入れなかった。
嫡男である業季を湊城に、その弟の実季を檜山に残して、自分は息子二人の城の間である脇本城で睨みを効かせたからだ。
ところがままならないもので、業季は16才の若さで死んでしまった(湊の連中はザマァwと思っただろう)
ついでにその一ヵ月後に愛季が強いパイプを持っていた信長も本能寺でアボン
しかし空いた湊に茂季や、茂季の息子である通季を戻す筈もなく
実季を湊城にいれて引き続き湊と檜山の両家を掌握し続けたのが愛季。

こういう背景があったので愛季が戸沢との対陣中で発病してそのままポックリいって
実季13才ともなれば華麗に湊が後ろから裏切って一騒動になるわけですな
北斗とかに例えられたり、名将あつかいされてるが
出自が由緒正しい(本当か?)だけで梟雄とか謀将の人だとつくづく思う>安東愛季
鮭の人とイメージ取り替えると丁度良いんじゃないかw



206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 13:25:31 ID:Mmjzwjs1
最初にフンを丸めたフンコロガシは
フンを横取りしてくるフンコロガシには絶対に勝てないって
昔ファーブル先生が言ってた

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 14:40:22 ID:e2eF1s3T
しかし、名君の安東堯季が舜季に娘を嫁がせた、か
都合よく堯舜が揃うとは思えないから、どちらかが改名したのかな
そして自らを堯舜になぞらえて、統治に励んだのだろうか

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 18:30:26 ID:zA0YRgQt
こんなにおもしろい東北勢なのに
ちょっとでかい図書館へ行っても
ろくに「資料」がないんだぜ

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 18:41:18 ID:pyrss1w3
まったく人の名前ってのは難しいのう…。
いつも愛の読みだけ忘れてしまう。

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 18:54:18 ID:CnynYTKf
めごでいいよもう


211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 18:56:48 ID:gYH2PN56
政宗さんまで絡めるなよw

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 19:15:57 ID:CgmUIh3W
同じ東北でも、近隣の資料とかないんだよな・・
仙臺(台)叢書見ようとしたら、ページ開けるか怪しいぼろぼろ本が出てきたり
和綴じ本出てきたこともあったし



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秋田実季と木像

2010年03月12日 00:05

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 22:17:25 ID:9hZ3NfoB
ガイシュツのような気もするが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1559.htmlでパペットマスター、お人形遊びの実季ちゃんと
思いっきりキャラの立った秋田秋田城介実季(ややこしい)。しかし、この話は別バージョンもあって、


伊勢朝熊に配流となった実季は、「自分の木像を作っておきたい。」と言い出した。
「では、ここより程近い奈良から仏師を呼びましょうか?」
「いや、仏師などに作らせれば釈迦・地蔵・達磨に似た姿になろう。わしは、そんな偉い者ではない。」

そこで、わざわざ鎌倉から新六なる人形職人を呼び寄せ、新六が木像を刻む横で我が身を鏡で見つつ
作り方に注文をつけていった。
木像が完成すると、その背に『 秋田凍蚓、みずから奉行して之を作らしむ 』と書き付け、

善悪も 知らぬ翁に 刻みなす 吾が顔見てぞ 吾も知りける

と、歌を詠んで木像と向かい合い、これまでの人生を自問自答する晩年を送った。



・・・そうなのだが、この話でも実季ちゃんの遺言は、「凍蚓に茶を出してあげて・・・」
だったりするのでニンともカンとも(´・ω・`)

細川家史料見てたら三斎さんが忠利くんに
「実季ちゃんがキレて幕府に無断で出家したよ!息子の俊季くんがあちこちに謝ったおかげで
死罪は免れたよ!」って手紙出してて軽くショックだった記念。




173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 22:36:09 ID:rhT+UKEL
なんというか言葉に詰まる遺言だ・・・
こんなん言われたら一体どうしたらいいんだか

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 22:41:37 ID:trcItm3l
つまりは
死後もお人形を大事にしてあげてねと言うことか

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 22:46:02 ID:UFf8oxGQ
宇喜多直家「遺言しかと承知仕った」

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 22:50:20 ID:CRtaOmN8
>>172
実季の死後、結局お人形さんはどうなったんだろ…

>>175
おまえは弾正と仲良くお茶会でもやってろw

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 11:07:10 ID:WwONB+f/
えらくリアルさにこだわったんだな
家系図の編纂といい、なんか自分の存在を後世に残したかったのかもしれんね

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 12:03:00 ID:5UmBEYqb
ttp://www1.city.obama.fukui.jp/obm/sekai_isan/HP-Images/192-1.jpg
0311-192-1.jpg

この木造も妙にリアルで生々しいんだよね。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 17:38:03 ID:1cnpPoJJ
>>175
そういや直家も木像がかつてあったんだよね
燃えちゃったらしいけど

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 17:40:42 ID:ic01yVVJ
初期の某SLGの直家は木造の姿を元に絵に起こしてたはず
いまはしらね

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 18:44:33 ID:TGIP7fwQ
木造を「こづくり」と読んでしまうのは俺だけじゃないはず

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 18:57:05 ID:wTgso2Px
え、こづくりじゃないの!?
木像って書いてないからてっきりこづくりと読んでしまったw

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 19:13:57 ID:r7gsBswp
木造住宅

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 19:25:09 ID:BGvawDjj
"もくぞう"を"こづくり"と読んでしまうという事だろう

秋田実季、比内浅利氏のサボタージュに

2009年11月26日 00:04

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/25(水) 20:33:49 ID:+XDPRmZM
かわいそうなイメージばかりつけちゃったので、乱世っぽい秋田実季の話を。

数代にわたって秋田氏に圧迫されてきた比内浅利氏。
安東愛季には当主・浅利勝頼を謀殺され、嫡子の頼平は津軽為信を頼って浪々の身となる。
後、為信と実季の妥協によって比内へ帰還したが、身分は秋田氏配下になってしまった。
しかも、時は豊臣秀吉が奥羽まで従えた、ちょうどその頃。
中央に秋田氏配下と認められてしまい、独立の機会は遠のいた。

さて、全国の大名には豊臣への奉公義務があったが、秋田からは杉材や鉱物が納められていた。
頼平も当然負担していたのだが、ある日これが馬鹿らしくなった。
「せっせと太閤に貢納しても、全部実季の功績になるだけだ。
なんで仇敵の手柄を稼がなきゃならんのだ」
頼平、豊臣への負担分をごまかすようになった。サボタージュである。
当然、すぐに実季にばれた。
「ほう、津軽の顔を立てて戻してやったが、そういう態度なら容赦はいらんな」
実季は税金の「強制徴収」を始める。
比内へ進攻し、浅利軍を攻撃、ついでに村々から略奪を行ったのである。

浅利方は後に被害を訴えるため報告書を作るが、それにはこう書かれている。
「この村では家が七戸しかなくなった。以前は二十戸の村だった。秋田軍が撫斬、放火した」
「この村は十五戸あったが、今はもうない。荒れている。秋田軍が放火した」

秋田・浅利紛争は豊臣政権の法廷に持ち込まれるが、実季勝訴の判決とともに、頼平は急死した。




593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/25(水) 22:05:43 ID:xlxJDe4X
>>592
戦国大名の発生が遅れた、東北らしい話って感じですなー。
南北朝時代のようだ。

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/25(水) 22:37:30 ID:Kc8dkWQe
南北朝時代ならもっとドロドロしているだろ

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/25(水) 22:46:14 ID:hJKQ2rJ5
南北朝の東北は初代風林火山の人のおかげか結構話題になるな
すごい複雑で理解が追いつかないけど、東北から関東突き抜けて上洛とか
戦国時代でも考えられない


597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/25(水) 22:56:31 ID:W5jADjNU
南北朝は戦国では蹂躙される一方の足利様、北畠さん、菊池さんや山名さんや
畠山さんが強者として戦う様は胸が熱くなるな

負けっぱなしの少弐さんも…少弐さんも…負けてるなぁ。

安東実泰の妖怪退治

2009年09月17日 00:15

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 07:18:42 ID:jCwKIiZ1
もいっこオマケに妖怪退治のお話


なんやかんやで比内を手に入れた安東実季、この地を弟である実泰に与えた。
この比内の地は陸中、羽後、津軽の三方に通じる要所であるため、南北朝のころから
ずっと争乱の地である。
特に陸中に根を張る南部氏は何度も攻め入り、支配したり手放したりを繰り返した。

そこで安東実季、南部信直は境界の平穏を得る為、実泰に信直の娘を娶せることになった。

その南部のお姫様、ある日湯殿に入って沐浴をしていると何やら視線を感じる……
ふと窓の外を見ると……

凄まじい形相の鬼が覗いていた!!

ただでさえ覗きである。そのうえ妖怪変化の類である。
女性には言語に絶する状況であろう。
しかしこの姫さま、慌てず騒がず、灯をもって湯殿を後にした。

だがやはり恐ろしかったのであろうか、気味が悪かったのであろうか、それとも慎み深かったのか
このことを人に話す事はなかった。

それに調子を良くしたかこの妖怪変化、覗く、覗く、姫様を存分にストーキング!!!

堪らず姫様は旦那に泣きついた。
旦那である実泰、何とも不思議なこととも思うし、何より自分の妻をそんな目に会わせている
妖がいるならば不届き千万である。
実泰は絹の着物の裏に一尺八寸の来国後の刀を隠し、なんと女装をして湯殿に向かったのである。

さて妖怪変化は今日も今日とて姫さまの裸を覗いてやろうと姿を現した。

ホントに出たぞと実泰は妻の姿でその妖を盗み見れば、確かにこの世のものとは思えぬ形相、
身の丈も六尺余り。
さりとてここで怯んでは男が廃る。新婚ホヤホヤの夫はするりするりと刀を抜き、
妖怪変化の眉間をテイ!と打ち抜いた。
これは手応えありと相手が倒れたを見、実泰は「妖怪を討留めたり!蝋燭を出せ!」と叫んだ。
そして近習が集まって灯で妖怪を照らしてみればそこに居たのは
何年生きたとも分からぬ程の古狸であった。
……狸とはこれまたベタな。


ともあれ思慮深い南部の姫さまと逞しい安東の御曹司の(格好)いい話





















が、その年に姫様が病で亡くなり、後追うように実泰も病死していたりする
これが呪いなら途端に古狸の(往生際の)悪い話になってしまう……




488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 08:41:08 ID:xTMsUV0X
ID:jCwKIiZ1
面白かったよ。でもちゃんと寝ないと体に障るぞ。

489 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/16(水) 08:53:23 ID:TbaUqmLe
東北の姫は美人
小松だったら自分で仕留めそうだな


安東実季、敵を匿った者に

2009年06月22日 00:12

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 22:28:23 ID:2c7Svp4c
1587年、秋田で安東愛季が病死すると家中は大混乱となった
1589年には、周辺勢力を巻き込んだ内乱、湊合戦が勃発する

その後、なんとか内乱を鎮圧した実季方は、謀反人の追捕に全力をあげた
しかし、安東脩季という大物が一人だけ、身を隠し続けた
彼をかくまったのは、配下の豪族・森元祐禅である
結局は発覚し、脩季は自害、祐禅も罪を問われて捕らえられた
当然、家中は祐禅死罪という意見だった
が、祐禅助命を願う者がいた。いまだ15歳の実季、その人である
「自分の主君を敬愛し、かくまったことが罪科なのか?むしろ立派な行いじゃないか」
実季はそう言って死を免じ、追放に処した

祐禅は甲斐に隠れ住んでいたが、
やがて佐竹義宣が秋田に移る際、荷を運ぶ船の案内役を務めたため、
男鹿の肝煎として帰国できたという




617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 23:13:06 ID:c6j+a2WV
こういう人格者があんな悲惨な老後を迎えなきゃならんのか・・・

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 23:36:58 ID:CPxs4L7V
>>617のおかげで哀しいお話を思い出しました・・・(´;ω;`)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1983.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1559.html

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 23:54:24 ID:YYYv4NlW
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 実 や |i         ヽ   | ト/人7} 〃〃    〃〃´ ∠イr 'ちノ::::: |  ふ 家 
 季 っ  |i      / ・ i     イ:リ::::|    '、        |:::::rイ:::::::: |  え 族
 ち た  |i          t    / i:::::ハ    r‐--ー、     /ハi!:::::::::::::::: |  る が
 ゃ ね  |i         〃 ●   ハ::::::: \   .イ_ _,,ツ  イ/'/:::::::::::::. <  よ
 ん    |i   r一 ヽ      )  /i::ハi::::i:::::>,, ___ _,, ´ /,,ハ/|/:::ii:::::::: |  !!
 !    |i   |   i   ∀"    "  ̄ ̄     ト、  //ヽ  ̄" ̄  |
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  __ /          / ⌒`)⌒) i:::::ヽ::`r‐'___ `   ヽ ,,:_,,_,,/:::::ノ"ノシ    〃
      ,ノ フr フ   メ   / ノ  ゝ:::::: ゝ- 、 ヽ     |::::::::::::::::::::ソ /     ./


620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 00:11:07 ID:HLeF4R8Y
いやそりゃ人形とお話するけどさwww

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 00:36:00 ID:AZUb7Hje
そのAAは

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 00:45:50 ID:M8qq6HvM
たえちゃんをこのスレに張るなよ…

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 09:02:22 ID:IsR+UYg7
すっかり木造の人ってイメージが定着しちゃったな実季…

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 13:21:04 ID:xHJyXXrr
DQN四天王+テラ小物ス市松さんは言うに及ばず

鮭様
狂犬富田長繁
やるおテル
フリチン四郎勝頼
魔法使い義宣・ただしリア充
ヒャッハー坂東武者(鈴木大学はじめ全般)


らに続く、フィギュア遊び実李ちゃん

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 13:23:19 ID:h4SfDJxH
覚醒実季
ある条件を満たすと大名としての自覚を失い、真剣に木像を友人扱いするようになる

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 13:24:54 ID:wNw9+gzd
実李ちゃんはガチで可哀相なのでネタにしにくい

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 13:27:08 ID:IsR+UYg7
>>616自体は真面目にいい話だし他に出てる話もいい話なんだがなぁ
やっぱり初めに出された木像の逸話がインパクトありすぎるのか
終わりよければ全て良しと言うが晩年があれだとやっぱりなぁ…

628 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/21(日) 14:06:07 ID:+EW6hhmL
>>627
人格者であることと家庭的幸福とは無縁、ということだなw

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 14:12:08 ID:s0+dk/E5
真面目ないい人ほど精神を病みやすいとか言うしな。
秋田は鬱病とか自殺の発生日本一とか聞いたが
戦国時代からすでにその傾向があったのだろうか。

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 14:53:18 ID:z/yp6sgv
木像に話しかけたのは別に気が違ったわけじゃないと思ってたが違うの?
隠居中に系図作ってるし、おかしくなったわけじゃないと思うけどな。

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 14:56:31 ID:IsR+UYg7
現代でも人形やぬいぐるみに語りかける子供はいるし、
おばちゃんやおばあさんが草木に話しかけるなんて光景はみられるが
自分の像を造らせて自分の名前付けた木像に語りかけるってのはなぁ
気が触れて無くても寂しすぎる晩年だろう

634 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/21(日) 15:07:42 ID:Q+hQN6AY
おめぇらが冷遇するから、俺はこんなんになっちゃったよ!
っていうポーズかもな。

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 15:09:31 ID:ZeGjLTMX
寺に引きこもる謙信かよw

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 18:17:34 ID:OdCQNiHw
このスレにもいるんじゃないの?
リアルドールに話しかけている奴w

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 19:05:50 ID:T9IecYSO
まあ贔屓の女性キャラを嫁にしてる男なら大勢いそうだ。


642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 20:10:58 ID:gIo7aWyM
>>632
俺もなんか禅とか哲学?みたいなのの裏付けがある行動かと思ってた
俺には意味わからんけど

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 20:16:53 ID:x2F9R6t4
確かに現代人の価値観から見るとおかしいと思うかもしれないが
ものにも魂が宿ると広く信じられていた時代の話だし
おかしい話でもないと思う
アンネが日記に名前付けて話かけているようなもんだ
話かけても返ってこないことは
本人が一番よくわかっているだろうことを考えると涙が止まらんよ
俺男の子だけど

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 20:51:18 ID:hbK+R0sh
たとえ木造に魂が宿ったとしてもその魂は喋ってる自分のもので・・・あれ?

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 20:57:11 ID:IsR+UYg7
>>643
像が自分をかたどったもので無く自分の名前で呼んでいなければその通りだとは思うんだがなぁ…