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「新羅之記録」から蠣崎良広、蠣崎季広について

2021年11月05日 17:05

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/04(木) 19:04:58.26 ID:5XO+gxv1
「新羅之記録」から蠣崎良広、蠣崎季広について
(それぞれ悪い話といい話だけど同じスレに書く)

蠣崎良広(光広の子)
享禄二年(1529年)三月二十六日、狄が和喜之館を攻めてきたため、良広は和睦をすると言って多くの財物を館から離れた平地に置いた。
狄の酋長・多那嶮(タナサガシ)が財物を受け取ろうとしたところ、矢倉から放たれた矢が百余間超えて酋長の胸板に命中し絶命。
これを見た数百の狄が逃げ出したため、館から打って出、悉く討ち取った。
この前後、夜間の風雨に紛れて狄忍が館をうかがうことが数度あったが、
そのたび良広は柵越しに怪しいところを槍で突いたり、足音が聞こえる方角を射たりした。
どちらも翌朝その辺りを探ってみると、絶命している狄忍が見つかった。
天文五年(1536年)六月二十三日、多離困那(タリコナ)という狄と和睦し、得意(アイヌ語でもtokuy=親友、日本語由来)となり酒でもてなした。
酒が回ったところでタリコナ夫妻を一太刀で斬殺した。
妻の方は先に討った酋長・タナサガシの娘であり、父の仇討ちのために数年経略を巡らせていたからである。
これにより国内の東西は安全となった。

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/04(木) 19:06:28.50 ID:5XO+gxv1
蠣崎季広(良広の子)

夷狄が喜ぶ宝物を与え、懇切に喜ばせたため夷狄から神位得意(カムイ・トクイ)と呼ばれ敬慕され、国内はおさまった。
天文十九年(1550年)六月二十三日、檜山の屋形・安東尋季の嫡男である安東舜季がこの国を見ようといらっしゃった。
いわゆる「東公の島渡り」である。
この時、舜季の二男の茂季や、津軽の喜庭伊勢守秀信(小笠原信浄?)との縁組みがなされた。
こうして近国に威勢が振るい、遠国にまで家名が知れ渡った。
また勢田内(セタナイ)の波志多犬(ハシタイヌ)を西夷の尹(統治者)、志利内(シリナイ)の知蒋多犬(チコモタイヌ)を東夷の尹となし、
「夷狄の商舶往還の法度」を定め、船舶での利益を両酋長に配分することにした。
なお光広によるショヤ・コウジ討伐の際の夷塚だが、季広の代になって鳴動することは無くなった。
(光広のところの記事だがわかりやすくするためにこちらで記載)

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/04(木) 19:13:03.07 ID:5XO+gxv1
以下私見

wikiだと「新羅之記録」出典で安東舜季が「夷狄の商舶往還の法度」の立ち会いをしたことになってるようだけど、少なくともこの箇所では不明。
祖父の光広や父親の良広のやり口を考えたら、蠣崎氏の主君である安東氏の人間が立ち会わないとアイヌも信用しなかったのかもしれない。
ついでに「新羅之記録」では蠣崎氏はもちろん神武天皇→清和天皇→新羅三郎義光→武田氏の流れであり、
安東氏は神武天皇に敵対した安日長髄(長髄彦、安日は長髄彦の弟という説もあるが本書では同一人物としている)の子孫とされている。
安東氏が蠣崎氏のアイヌへのたびかさなる騙し討ちを見て、
宴会の最中に土蜘蛛を騙し討ちにした神武天皇のことを思ったかどうかは知らない。
現在だと「古事記」といい「新羅之記録」といいわざわざ家名に傷つくことを遺さなくても、と思うが



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「新羅之記録」から武田信広と息子の蠣崎光広について

2021年11月03日 17:15

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/03(水) 09:42:55.24 ID:CzQuy7Ia
松前藩の家史「新羅之記録」から武田信広と息子の蠣崎光広について

松前当家の家祖である鎮狄大将武田彦太郎若狭守新羅氏信広朝臣について
若狭守護の武田伊豆守信繁朝臣には三人の嫡男がいたが、長男信栄は子がないまま世を去ったため
次男の信賢が家督を継ぎ、信賢の一子・信広を弟の国信の養子として次々代の家督を継がせようとしたが、
信広は大力強盛で性格が荒々しかったため、信賢と国信は信広を義絶し、殺害しようと図った。
家老数名が哀れに思い、家来をつけて宝徳三年(1451年)三月二十八日、信広二十一の時に若狭を出奔させた。
奥州田名郡を知行する蠣崎李繁は武田信繁の親族であったが、過ちを犯し出奔。商船で当国に来て安日(安東)政季の婿となっていたため、そこに身を寄せた。
政季は十三湊の安東盛季の傍系であったが、本家が南部氏との戦で敗れたため安東氏を継ぎ、
もともと安東氏の領地であった狄之島(北海道)に向けて武田信広らを従えて康正二年(1456)八月二十八日に出航した。
長禄元年(1457年)五月十四日(康正から長禄への改元は九月)、狄之島の夷狄が蜂起し、安東氏配下の
志濃里之館、箱館、中野館、脇本館、穏内郡館、覃部館、松前(大館)、禰保田館、原口館、比石館、花澤館を襲ってきた。
蠣崎季繁は城を守り、武田信広は総大将となって夷狄の酋長・胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人を射殺し、斬り殺すこと多数、凶賊を悉く敗北させた。
武田信広は戦功を賞され、男子のいなかった蠣崎季繁の婿となり家督を継ぎ、天河の洲崎之館に居住した。
館を建立した時、西海のはるか沖に夜間光るものが見え、調べたところ藻屑にまみれた毘沙門天像であった。
明応三年(1494年)五月二十日、六十四歳で逝去。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/03(水) 09:44:04.37 ID:CzQuy7Ia
蠣崎光広について

永正十二年(1515年)夷賊徒がふたたび蜂起。
光広は計略をなし、客殿に夷賊の酋長・庶野(ショヤ)、訇峙(コウジ)たち大勢を招き入れ
一日中、酒で歓待し、宝物を披露したため、賊徒は酒に酔い宝物をもてあそびだした。
この隙をつき、女たちに音曲を奏でさせ、音に紛れて、部下たちに鎧を装備させ
いきなり数名で客殿に乱入し、光広も太刀をとり酋長二人を斬殺した。
この刀は信広から受け継いだものであり当家の重宝となっている。
大勢の夷狄を一人も漏らさず討ち取り、夷どもの死骸を埋め、夷塚と名付けた。
その後、夷狄が敵対するごとに、この塚から鬨の声が上がるようになったということだ。



基広謀反と広継夫妻の自殺

2017年07月21日 10:24

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 05:51:12.75 ID:kjoRx6NM
蠣崎季広の時代、一族の基広は謀叛を企てて家督を奪おうとし、季広が
帰依する賢蔵坊という者を誘って季広を呪詛させたが効果が無かった。

天文17年3月、季広が上国に行くのを機会とした基広は、賢蔵坊に季広
を討たせようとするも、彼は心を翻してその企てを季広に告げた。

季広はすぐに長門藤六広益を遣わし、基広を誅殺させ、南条越中広継に
上国を守らせた。広継の妻は季広の長女であった。

彼女は婦女の身ゆえに家督を継げないことを憤り、ついには謀叛を図り、
父・季広の近臣を誘い、弟の舜広と元広に毒を与えた。このために二弟
は病んで毒害され、陰謀は発覚して広継夫妻は自殺した。

――『北海道史』


「飢饉の兆しである」

2016年11月21日 17:32

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 02:57:40.45 ID:BF3y+tQK
この夏(慶長13年)、麦は豊年だった。ただし、関東の麦は凶年だった。

奥州南部に金があるということで、金掘りたちが、その山に佐渡国から下って来た。
初めは際限無く金が出たのだが、そのうちに出なくなった。

再び金堀りたちは松前に下った。松前の主(松前慶広)は、かの地は兵糧が乏しい
ため、それ以来「飢饉の兆しである」として、「(金掘りは)許容できない」としたという。

――『当代記』



棄鉢の梅

2015年12月08日 15:50

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/07(月) 21:45:22.10 ID:ortMqA78
徳川三代将軍・家光は梅の盆栽を熱愛するあまり、「もしこれを傷つける者が
いれば、すぐさま手打ちにする」との旨を、厳しく言い渡した。

ところが、大久保忠敬(忠教。彦左衛門)がその梅を殊更に傷つけて主君の
反省を促した。家光は自分の非を悟り、鉢を庭に捨てようとした。

その時、松前家当主・公広が伺候してその場にいたのだが、彼は特に請うて
その梅を拝領した。公広は江戸の藩邸にこれを埋めて“棄鉢の梅”と名付け、
後に居城福山に移植した。

現在、福山公園(松前公園)にある臥龍梅はすなわちこれであると伝えられる。

――『北海道の口碑伝説』

その梅がこちら。
ttp://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/oldmaps/4f50c7d8ea8e8a0b70001ca5





黒石と黒豆

2015年09月12日 15:35

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 15:31:20.47 ID:0vp9KbvQ
黒石と黒豆

蠣崎家においてコシャマインなどアイヌとの戦いで功績を上げ、蠣崎季繁の女婿として蠣崎家を継いだ武田信広がある時アイヌの首長らと宴を催した。

その際に、信広は首長たちに黒石の吸い物を振る舞った。
当然ながら、そんなものを食べられるはずがない…のだが、信広はそれを美味しそうに食べていた。

これを見た首長たち、大変驚いたのだが、実は信広が食べていたのは黒豆で、自分だけが黒石を食べることで、その力を見せつけようとしたと言われる。

力だけでなく、知略も使ってアイヌを抑えようとした信広のいい話。


出所:サッポロビール博物館資料



699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 15:47:26.61 ID:/ioA7PLK
信広「マジ旨いんだけどな~、なんで食べないんだろう??」
蠣崎娘「こんなにツヤツヤに上手く煮るの難しいんだから!」
首長たちガクブル

ちゅうだけにしか見えないw

藩祖伝来の兜

2014年04月03日 18:59

868 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/03(木) 12:23:59.46 ID:ayhuo9bP
戊辰戦争の時、新政府軍に城を占拠された松前藩主・松前徳広は再起を図るため、わずかな家臣や家族と船で津軽に脱出した。
しかし海は大荒れで、いまにも船は転覆しそうだった。
このままでは危うしと、藩祖・松前慶広が太閤秀吉より拝領したと伝わる松前家伝来の兜を海神に捧げ、嵐を鎮めたまえと一心に念じた。
すると海はみるみる穏やかになり、徳広一行は津軽へと渡ることができたという。

余談ですがこの兜、かの有名な「諏訪法性の兜」だって話もあるんですが・・・
ちょっと盛りすぎだろー、と思ってしまったのでこちらに。




869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 14:02:02.24 ID:ZZlSpcmg
>>868
戊辰戦争で戦ったのは旧幕府軍
あと完全にスレチ

870 名前:868[] 投稿日:2014/04/03(木) 14:42:55.45 ID:ayhuo9bP
>>869
>戊辰戦争で戦ったのは旧幕府軍
ああ、そうなのか。素で間違ってたわ。ご指摘感謝。

俺もスレ違いかと思ったけど、慶広所用の兜だし
まとめにも某所用の品が~的な話もあるし、その範囲かなと思って書いてみた。
松前の話ってあんまりないしな。

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 16:19:38.41 ID:kipJlKAu
松前藩はアイヌ施策の酷さとか
戊辰戦争時の不甲斐なさ(数時間で松前城落城)で
いいところがないからなぁ。
今ある北海道に松前藩の関与はほとんどないし
道民からしてみると一緒にされたくないというか何というか。
まぁ、宙に浮いた存在で
逸話が掘り起こされないのはそういう面もあると思う。

北海道のオサレさん松前慶広と神君の話

2009年10月04日 00:13

40 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/03(土) 12:49:34 ID:rC0/Tysr
松前藩のだいぶ悪い話が出たので、面白い逸話がないか探してみたぜ!
北海道のオサレさん松前慶広と神君の話

お人形遊び実季ちゃんをスルーして秀吉に謁見し、あっさり独立に成功した松前慶広。
時流を読むのに長けた彼は、秀吉在世中から次の天下人家康とも誼を通じていた。

文禄2年1月のことある。松前慶広は肥前名護屋にいた。
秀吉の唐入りに従軍するためで、北海道から遠路はるばるやって来た慶広に秀吉は
「えっマジで来てくれたの!?嬉しいなあ、よーしそんな慶広くんにはおじさん近江に
領地あげちゃうぞ!」とはしゃぐほど喜んだ。

同7日、慶広は今度は徳川家康に謁した。
挨拶もそこそこに、家康はじろじろ慶広の姿を眺めた。

家康「(゚Д゚)お前、なかなかナウい服着てんな。この辺じゃ見ねーな」
慶広「ああ、これですか?これはサンタンチミブ(唐衣)と言って、
樺太からアイヌ経由で手に入れたものです。もとは中国の官服なんですよ」
家康「(゚Д゚)へー、ちょっと格好いいじゃん。へーっ、へー」
慶広「…………よろしければ差し上げましょうか?」
家康「∑(゚Д゚)えっ、マジで?いいの!?」

家康がよほどもの欲しそうな目をしていたのか、それとも始めから慶広の計算だったのか。
慶広は着ていた唐衣をその場でサッと脱ぎ、家康に献上した。
家康も珍しいものを貰って大喜びし、以後松前家と徳川家は深く交誼を結ぶことになった
という。

松前家の歴史では有名な話だったかな?すみません。
ちなみに唐衣は別名蝦夷錦ともいい、大体こんな感じ→
ttp://www4.ocn.ne.jp/~gensifu/santan.htm
これによれば、蝦夷錦は江戸時代に入っても松前藩のオリジナルブランドとして重宝
されたみたいですね。




41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 13:02:54 ID:1/HJ98tU
家康を可愛いと思う日が来るなんて!

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 13:07:54 ID:RKGgwspt
>慶広は着ていた唐衣をその場でサッと脱ぎ、家康に献上した。
そしてそのままアッー!な展開に
以後松前家と徳川家は(性的な意味で)深く交誼を結ぶことになったという

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 13:12:32 ID:wQt+adtT
>40
現代でいうとビンテージのライダースジャケットみたいなもんかね
写真の唐衣もしぶくてかっこいい
こりゃヤスも欲しくなるわ

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 13:20:02 ID:UI3TRw1b
>>40のは清代のだけど、時代的に明朝官服だろうから、
こっちのが近いんじゃねえかな?
http://www.epochtimes.jp/jp/2008/11/img/m89278.jpg
http://8031.teacup.com/cszj/shop/01_01_04/Y-D1606001/
まあどっちにせよカッコイイよな!

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 13:33:29 ID:IRfI92PV
松前って姓も松平+前田のゴマすりだからな。
まるで北国のラスボスだ

46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/03(土) 15:54:07 ID:rC0/Tysr
>44
こっちのが時代的に合ってるぽいね
しかし相変わらず刺繍が派手だ

>42
家康「わしが欲しいのは唐衣ではない、そなただ!」
慶広「アッー!!」
こうですか?わかりません><

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 16:19:02 ID:wQt+adtT
清代のほうが袖の切り替えが黒くてかっこいいんだよなあ
俺がもしこれもらったほうだったらそりゃ仲良くなるわ

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 20:54:39 ID:nINy5ZmA
蝦夷錦姿の慶広って残されてなかったっけか


蠣崎氏の台頭

2009年10月03日 00:10

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 21:33:28 ID:p/bFVAWk
>>1乙武蔵
新スレ記念(?)で、蠣崎の(一応)良い話と悪い話を投下
まず、こっちに"蠣崎氏から見て"良い話。

蠣崎氏の台頭

鎌倉幕府成立以降、蝦夷島は流刑地として使用されるようになり、
やがて土着した人々(和人)はそこで支配者化し、アイヌ民族と対立するようになっていった。
15世紀中ごろの道南には、安東氏の配下の上之国・松前・下之国の三守護と、
各守護の下に全部で九の領主が居り、蠣崎氏は上之国守護であった。

1456年春、鍛冶職人とアイヌ人青年との間でマキリ(アイヌの小刀)の出来・値段をめぐって
争いになり、
鍛冶職人は遂に青年を刺殺してしまった。
これに端を発したアイヌ民族の蜂起は数十年間断続的に起こるのだが、
中でも最大のものが1457(長禄元)年の「コシャマインの戦い」である。
東部アイヌ首長のコシャマイン率いるアイヌ軍の勢いは凄まじく、道南にある十二の館のうち
十の館が陥落。
残ったのは下之国守護の安東家政(安東政季の弟)と、上之国守護の蠣崎季繁の館のみとなった。

ここで登場するのが、蠣崎氏の客将であった武田信広である。
信広は和人軍の惣大将として出陣すると、コシャマイン父子を射殺
さらにその他のアイヌ人を斬殺し、蜂起を鎮圧した。
この活躍に、家政と季繁は信広の武勇をを賞して大刀を与え、信広も家政に大刀を進じた。
さらに安東政季の娘を、嫡子のいない季繁の養女としたうえで、信広に嫁がせ、
蠣崎の家督を継がせた。
これにより、蠣崎氏は蝦夷の正当な支配者として安東氏から認められたのである。
また、1512~13(永正九~十)年のアイヌの武装蜂起により、蠣崎を除く
各地の守護・領主たちはほとんど滅亡。
かくして和人の指導者としての地位も手に入れた蠣崎氏は、近世大名松前氏となっていくのである。


蠣崎氏にとって(家運の上がった)いい話。
…もっともアイヌの人たちからすれば、後の圧政の始まりとも言える悪い話でもあるが。




10 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/02(金) 22:39:29 ID:4stZsGet
そして松前藩はアイヌに勘違いしていくのである。
アイヌへの差別や搾取をしても良いと考えていたためアイヌは度々放棄している。
アイヌが蜂起したら大半は、人間とは思えない和議と見せかけた騙まし討ちを蠣崎氏は行った。
シャクシャインの乱では松前藩で圧政にあっていた、
アイヌが決起をし松前藩を圧倒したが日本側の圧倒的勢力で鎮圧されている。

松前藩は徹底してアイヌ搾取をした。
アイヌへは重労働がかされて、アイヌの人間は松前藩に搾り取られていった。
日本人に好きでもないのにアイヌの娘は強制的に犯され、逆らうものは殺されていった。
アイヌへの人道的な意識は無かった。アイヌは土人であり松前藩が搾取しても問題ない。
このような考えをしていたのだろう。差別もされていたと考えられる。
松前藩からの被支配史はアイヌにしてみれば圧政と差別の歴史であり、現在でも禍根が残っている。

そして交易では鮭との交換などでは始め、1-10、終わりに見られるような行為を行っている。
これははじめと終わりを入れて12個を鮭を持っていっている
心底なめ切った行為であり、アイヌの土人扱いをしている行為である。

最後に起きた乱は、北方四島での決起である。日本人の搾取に耐えかねて
アイヌはついに反乱を起こした。
商人がアイヌへの酷い労働を負わせていためだ。いろんな人間が入りアイヌを搾取していたのだろう。
幕府はお金を得ていた。日本の商人がアイヌに入り、アイヌを使って金儲けした。

アイヌが決起して商人は次々に殺されていったという。これはこれで酷い話だが
鎮圧されたアイヌは大量に殺されていった。結局全て決起したアイヌは殺された。
松前藩下のアイヌ統治ではこのような酷いことが行われていたのである。




11 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/02(金) 22:47:57 ID:Pv5WYzlM
悪い話しは悪い話しスレに。

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 22:53:16 ID:37KDcm1F
しかし極悪すぎる話しだなw

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 22:56:30 ID:0O6+BZC0
どこでも弱者は惨めなものだな

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 00:00:05 ID:TmOiL+4O
アイヌも決して一枚岩ではなく、日本人と組んで「金儲け」をしていたアイヌも多く存在した。
アイヌ同士の抗争も珍しくなかった。

この視点はよく無視され、あたかもアイヌ支配が、日本人とアイヌ人の民族抗争で
あったかのように言われがちだが、そんな単純なものでは決して無い。

アイヌにも複層的な階級と勢力があり、それぞれにアイヌ社会の中での立場も、そして
日本人とのかかわり方も違っていた。
「日本人側」についたアイヌもまた多かったのだ。


蠣崎氏のアイヌ民族対処法

2009年10月03日 00:08

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 21:40:32 ID:p/bFVAWk

あと、新スレ記念と言うことで良い話スレに蠣崎ネタを投稿したので、悪い話スレにも

蠣崎氏のアイヌ民族対処法

コシャマインの戦い以後、戦国時代に突入してからもアイヌ民族の武装蜂起は何度か起きた。
記録でわかるのは、1471(文明三)年・1512(永正九)~1513(永正十)年・1515(永正十二)年・
1525(大永五)年・1528(享禄元)年・1529(永享二)年・1531(永享四)年・1536(天文五)年の8回である。
本当はこれより多いかもしれないし少ないかもしれないが、少なくともこれらの蜂起により、
道南の守護・領主たちは滅び、また蠣崎氏も本拠地を攻撃されたりしている。
そんな状況で蠣崎氏はなぜ生き残ってこれたのか?それは鎮圧の方法にある。
蠣崎氏は「和 睦 の 席 で 首 長 を 殺 害」する手段をとったのである。
例に挙げると、
・1515年のショヤコウジ兄弟→和睦するような儀式を行いつつ、酒に酔ったところを光広が斬殺
・1529年のタナサカシ→タナサカシが「償い物」を受け取ろうとした際に義広が射殺
・1536年のタナサカシの婿のタリコナ→酒宴の場で義広自らタリコナ夫婦を斬殺

何故、アイヌの人たちは和睦の席で暗殺されたのか?これにはアイヌの習俗が関わってくる。
アイヌでは他集団との紛争解決手段として「非があったとされる集団が相手に宝物(イコロ)を
差し出す」のが常とされた。
そこで、当時まだ劣勢にあった蠣崎氏は、これを利用して難を切り抜けていったのである。
もっとも、こんな手段をとっていたのでは根本的な解決になるはずもなく、その後も対立は続いていく。

時代は下るが、1669(寛文九)年にシャクシャインの戦いが起きた。
シャクシャインは反松前の機運を利用して敵対していたアイヌをまとめ、
東はシラヌカ(現白糠町)から西はマシケ(現増毛町)に至るまでの大規模蜂起を統率したほどの
男である。
だが、そんな彼も「和睦の席」で酔ったところを殺害されてしまう。
ちなみに、彼は松前藩からの「償いを出せば命は助ける」という降伏勧告を一度蹴っている。
これはもしかしたら暗殺を恐れてのことだったのかもしれないが、今となってはそれは
本人たちしか分からないことである。




51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 21:43:39 ID:iMVWAA8b
悪すぎる…

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 22:02:34 ID:dXEyIwRu
すごいでかい規模だなおい<シャクシャイン
白糠-増毛間って200~300キロぐらいあるぞ


逆さ水松の伝説

2009年09月20日 00:09

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/19(土) 21:03:55 ID:bnVe2B4m
逆さ水松の伝説

天文17年(1548)勝山の城代だった南条広継の妻は、蠣崎季広の長女であった。
しかし女では家督をつげないのを無念に思っていた。

そこで、娘婿の基広(季広の従兄弟)に家を継がせようとし、
基広をそそのかして季広を殺害しようとした。
しかし基広は季広の命を受けた長門広益に討たれてしまった。

広継の妻は、今度は自分の夫に家督を継がせたいと考え、
実弟の舜広(季広の長男)と明石元広(季広の次男)を毒殺した。
たが、そのことが露顕して広継の妻は自害させられた。

夫の広継も当然追及を受けたが、広継は固く身の潔白を誓い、
礼服に身を固め棺に入り、自ら命を絶った。
その時、一本の水松を棺の上に逆さにいけさせ
「水松が根付いたら身に悪心ない証であり、
三年たっても遺骸が腐っていなかったら、
それこそ潔白のあかしである」と遺言し、
節を抜いた青竹で呼吸しながら鉦を鳴らし経文を読誦した。

鉦の音と読経の声は三週間も続いたという。
三年たってその水松が成長し、さかさオンコ(逆水松)になったという。

※オンコは常緑樹のイチイのアイヌ語






蠣崎慶広の下積み時代のお話

2009年09月17日 00:19

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 03:56:23 ID:jCwKIiZ1
天才丸の幼名で有名?な蠣崎慶広の下積み時代のお話でも


お人形遊び実季ちゃんのパパ愛季さんが健在の頃のお話。
この頃は蠣崎さんは安東家の一家臣に過ぎない。戦があれば従い、無くても近従すること甚だ多し。

天正十一年、比内地方を治める浅利勝頼と愛季さんが和睦することになった。
……のは勝頼だけで、愛季さんはこの機会に勝頼を暗殺しちまおうと考えた。

そんなこともつゆ知らず勝頼がのこのこ檜山にやってきた。
愛季の配下である深持季総が勝頼に酒を盛り、飲めや飲めやと進めるわけであるが
この男、何度も手柄を立てた大剛の者。

どうみても刺客です本当にありがとうございました

刹那! 季総は太刀を抜いて勝頼に襲いかかった!

が!
勝頼、咄嗟に自分の太刀を持ち、柄で受けとめた。ナニソレカッコイイ
さらに太刀を抜き、季総の剣戟を払いながら座敷を立って飛び去る勝頼。
伊達にその武勇を北奥羽に鳴らした男ではなかったのである。

慶広は勝頼が飛び移った次の間に控えていたからこれは大変である。
それでも慶広、臆することなく咄嗟に太刀を抜き、勝頼の股を切り落とした。
さらに倒れる勝頼を冷静に討ち取り、暗殺を成功させたのである。


これには愛季さんも大喜びですぐさま褒美に檜山郡領地を切り分ける程。
手紙には「もう二、三日も顔を見てないので寂しい」とか「もう兄弟のうち誰か
一人ここに住んじゃってもいいんじゃない?」
とか書き出すぐらいなお気に入りとなったのでした。


そんな蠣崎慶広の(度胸の)いい話






だがしかし、その慶広が湊合戦の時は自分をスルーして大名として独立したときの
実季の気持ちを考えると……





491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 13:20:40 ID:uSgI47jb
>>483
勝頼って名前は縁起が悪そうだな・・・

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 23:07:05 ID:3zqzTm3y
>>491
黒田秀忠
武田信長

既視感を覚えるような名前の武将っているよね


蠣崎慶廣とアイヌ兵・悪い話

2008年10月16日 12:59

681 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/15(水) 04:08:20 ID:WS1HZZju ?2BP(500)
大阪の陣に於いて、
蝦夷の蛎崎氏にも、もれなく軍役が課せられる事になったのだが
蝦夷から長駆大阪へ出陣するのを、家臣達が嫌がり思うように兵が集まらない。
そこで蛎崎の殿様はアイヌの民を騙し、大阪へ連れて行くことになった。
アイヌの兵達を見た東軍諸大名は
未開の地の兵達はきっと勇猛に違いないと、羨望の目でアイヌの兵を見る。
それには殿様もご満悦。

しかし、実際に合戦が始まると見たこともない凄まじい銃撃戦にアイヌ兵は戦意喪失。
各自敵前逃亡をし始め、それを物頭が必死に追い掛け回すという状態になり大混乱
結局、特に功無く、蛎崎勢はスゴスゴと国許に帰っていったとさ。

682 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/15(水) 04:09:38 ID:WS1HZZju ?2BP(500)

ごめん つけたし
(格好)悪い話。


蠣崎季広、天下の将軍・いい話

2008年10月16日 11:25

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/28(木) 06:16:44 ID:w2vsN6NG
蠣崎あたりでイイ話しない?


771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/28(木) 10:02:41 ID:8IRMi1FP
蠣崎季広が息子の天才丸(のちの松前慶広)が
豊臣の直大名になった時に
「わしは長年檜山館の家来だったがお前は晴れて天下の将軍(本当にこう表現してる)の
直臣になったんだな」と喜びながら天才丸(のちのry)に拝礼したことと
はるか未来で現当主が陸軍「上等兵」として人知れず戦死したぐらいしか逸話がない気がする・・・



772 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/28(木) 13:22:01 ID:uP49F0F9
蠣崎・・・・ちょっといい話・・・か?
●秀吉に謁見した際、徳川家康に褒められた綿入れをその場で家康に献上し、
 蝦夷支配のための強力なコネを作った。(太閤の後は徳川だという先見性)
●アイヌから「鮭」を詐欺まがいの交換レートで大量に搾取した。
●九戸征伐で、率いたアイヌ部隊の毒矢の威力が凄まじく、諸大名を震えあがらせた。

函館の役所とか図書館ならなにかありそうだが
地元の人、なんかある??