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991 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 08:30:20.62 ID:k/wP8bZN
佐竹傘下の鮭騒動
久慈川には鮭が遡上し、石神領と額田領で秋月の半々を折半し、漁をする決まりが約定されていた
しかし天正4(1576)年の額田領ではほとんど鮭が獲れず、これをおかしいと感じた額田の民らが川を調べたところ、石上領側が川底に網を仕掛け、約定を無視し、鮭を獲りまくっていたことがわかった
額田領主・額田照通は石神領主・石神通長に文句を付けたが石神通長はのうのうと無視
さらに石神通長は「言い掛かりで武士の体面を汚された」と、額田氏にいやがらせを続けた
ある日額田照通が佐竹義重を饗応する際に、家の子二人に久慈湊に鮮魚を買出しに行かせたが、この二人が使いの帰りに石神領を通る際にいざこざに巻き込まれ、斬首にされた
額田城では、使いに出した者が帰って来ず、料理の準備が間に合わず、来訪していた佐竹義重を大いに怒らせてしまった
堪忍袋の緒が切れた額田照通は石神城を攻撃
燃え盛る城の中で石神通長は自害して果てた
『石神後鑑記』
994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 09:07:24.21 ID:Ty8ilLKV
>>991
常陸でも鮭とれたんだ。江戸にも遡上してたんだっけ。
996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 09:39:48.11 ID:+ShZ5FQX
>>994
下総でも獲れる
九十九里からだったか香取海からだったかは忘れたが上がってきていたようだ
小さい頃に父親の田舎の秋祭りで炭のようになった鮭を風邪予防だといって食わされたのを覚えてる
997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 10:13:59.39 ID:/2QViTit
ハタハタといっしょに秋田に遡上の経路が変わってたりして
999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 13:14:01.35 ID:Ty8ilLKV
>>996
ってことはあの辺までは鮭がとれたのか。秀元はどこで手に入れたんだろうか。
佐竹傘下の鮭騒動
久慈川には鮭が遡上し、石神領と額田領で秋月の半々を折半し、漁をする決まりが約定されていた
しかし天正4(1576)年の額田領ではほとんど鮭が獲れず、これをおかしいと感じた額田の民らが川を調べたところ、石上領側が川底に網を仕掛け、約定を無視し、鮭を獲りまくっていたことがわかった
額田領主・額田照通は石神領主・石神通長に文句を付けたが石神通長はのうのうと無視
さらに石神通長は「言い掛かりで武士の体面を汚された」と、額田氏にいやがらせを続けた
ある日額田照通が佐竹義重を饗応する際に、家の子二人に久慈湊に鮮魚を買出しに行かせたが、この二人が使いの帰りに石神領を通る際にいざこざに巻き込まれ、斬首にされた
額田城では、使いに出した者が帰って来ず、料理の準備が間に合わず、来訪していた佐竹義重を大いに怒らせてしまった
堪忍袋の緒が切れた額田照通は石神城を攻撃
燃え盛る城の中で石神通長は自害して果てた
『石神後鑑記』
994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 09:07:24.21 ID:Ty8ilLKV
>>991
常陸でも鮭とれたんだ。江戸にも遡上してたんだっけ。
996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 09:39:48.11 ID:+ShZ5FQX
>>994
下総でも獲れる
九十九里からだったか香取海からだったかは忘れたが上がってきていたようだ
小さい頃に父親の田舎の秋祭りで炭のようになった鮭を風邪予防だといって食わされたのを覚えてる
997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 10:13:59.39 ID:/2QViTit
ハタハタといっしょに秋田に遡上の経路が変わってたりして
999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 13:14:01.35 ID:Ty8ilLKV
>>996
ってことはあの辺までは鮭がとれたのか。秀元はどこで手に入れたんだろうか。
946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:03:56.49 ID:Jxnn7roW
降参峰
永禄9年(1566年)8月24日、佐竹義重は大関高増の持ちかけた義重の弟義尚が那須家の家督を継ぐという策に乗り、
重臣佐竹義堅(東義堅)を大将として那須家討伐の兵を下野に派遣した。
佐竹軍は佐竹義堅の軍勢2000に加えて宇都宮家からの援兵1000、更に大関ら上那須衆300の総勢3300に対して、
大関の引き抜き工作などで伊王野・蘆野など有力な国衆にも離反された那須家は総動員を掛けても兵が集まらない。
佐竹勢は茂木城、千本城を順調に落とし、那須家の本拠である烏山城に迫る。
上那須衆も烏山城の事はよく知っているので彼らの情報で佐竹軍は的確に防御に穴のある烏山城の西側に布陣した。
一方で那須家はなんとか集めた兵で反撃の機会を伺っていた。もう烏山の目前まで兵が迫っている事もあり背水の陣である。
烏山のすぐ西の治武内山へと向かって南から佐竹勢、西から宇都宮勢、北から上那須衆が三隊に分かれて進軍していたが
那須勢はまず兵数の少ない上那須衆に標的を定め出馬した。
動きを察知された上那須衆は佐竹・宇都宮と急ぎ合流しようと南下し、那須軍出馬の報告を受けた佐竹義堅も
宇都宮勢に上那須衆との合流を急がせたが
那須の動きは速く、上那須衆は合流前に高瀬の地で那須軍に捕捉されてしまう。
追いつかれてはやむなしと上那須衆も応戦したが、4倍の敵相手に何の策もなく勝つのは無理であった。
しばらくすると宇都宮勢もようやく追いついたが既に上那須勢は崩れており少々遅かった。今度は那須の軍勢が
宇都宮勢に襲いかかる。
宇都宮勢ももちろん反撃しようとしたが敗走してくる上那須の兵などが逃げこむとどうにも士気が上がらない上に
むしろ混乱が生じた。
結果として決死の那須の兵の攻撃を支えきれずついには宇都宮勢も敗走した。
場面は変わって治武内山を制圧した佐竹義堅はそこで高瀬の戦いで上那須衆・宇都宮が敗走した報告を受けるが、
それがまた混乱を呼んだ。
なんと「大関の家紋の軍勢が那須側に寝返って敗走する宇都宮を追撃し、今度はこちらに向かってきている」
というのである。
この報告、実は大関家が一枚岩では無く大関家を乗っ取った高増をよく思わない本来の大関の一門が
那須軍に参加していただけだったのであるがこれがまた佐竹軍の戦意を萎えさせた。
948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:05:32.67 ID:Jxnn7roW
義堅も備えを固めて那須の軍勢を迎え撃ったが、ここを抜かれればもう後がない那須軍は反撃されても
突撃を繰り返した。
だんだんと日が落ちて暗くなるにつれて元々士気の高くなかった佐竹軍も那須軍の度重なる突撃に
不安に駆られ始める。
「敵の数は我が方の倍らしい」「宇都宮は既に敗れて撫で斬りにされた」など根も葉もない噂が飛び交い出すと
いよいよ統率がままならなくなってきた。
勝手に戦線を離脱する者なども出始める始末でこれでは戦にならない。
義堅は家臣の大窪秀光の「ここは一度退いて再起を図るべし」との進言を受け入れて撤退を始めた。・・・が
判断が遅かったらしい。
この頃には義堅も周りには馬廻や旗本など数百程度しか付いておらず、これを見た那須家臣千本資俊の
執拗な追撃を食らった。
そしてついに義堅は烏山城の南の千束台という場所で千本資俊に完全に包囲されてしまう。もう護衛は
20人程度しか居なかった。
資俊は和議を持ちかけ「ここで降服して軍をまとめて常陸に帰って頂けるなら命は取らない」と義堅に宣言する。
もう戦っても勝ち目は無い上に総大将が討たれた佐竹軍が追撃を喰らえば被害はより深刻なものとなる事は
明らかなので義堅も提案を受け入れて降伏する他はなかった。
以後、この地は『降参峰』という佐竹軍にとって不名誉な名で地元民に呼ばれるようになった。
949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:16:03.78 ID:tyyRP2Po
大関さんは裏切っても不思議では無い奴だと佐竹にも思われてたんだな。
950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 03:42:38.29 ID:9Uno5LPh
随分綺麗に各個撃破が決まったな
那須家の強さもあるだろうけど
951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 08:39:09.96 ID:C5saOIz6
追い詰められた時の那須家の強さは異常w
953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 21:09:44.16 ID:0TTBYdH+
迎撃側だといつも強いな
降参峰
永禄9年(1566年)8月24日、佐竹義重は大関高増の持ちかけた義重の弟義尚が那須家の家督を継ぐという策に乗り、
重臣佐竹義堅(東義堅)を大将として那須家討伐の兵を下野に派遣した。
佐竹軍は佐竹義堅の軍勢2000に加えて宇都宮家からの援兵1000、更に大関ら上那須衆300の総勢3300に対して、
大関の引き抜き工作などで伊王野・蘆野など有力な国衆にも離反された那須家は総動員を掛けても兵が集まらない。
佐竹勢は茂木城、千本城を順調に落とし、那須家の本拠である烏山城に迫る。
上那須衆も烏山城の事はよく知っているので彼らの情報で佐竹軍は的確に防御に穴のある烏山城の西側に布陣した。
一方で那須家はなんとか集めた兵で反撃の機会を伺っていた。もう烏山の目前まで兵が迫っている事もあり背水の陣である。
烏山のすぐ西の治武内山へと向かって南から佐竹勢、西から宇都宮勢、北から上那須衆が三隊に分かれて進軍していたが
那須勢はまず兵数の少ない上那須衆に標的を定め出馬した。
動きを察知された上那須衆は佐竹・宇都宮と急ぎ合流しようと南下し、那須軍出馬の報告を受けた佐竹義堅も
宇都宮勢に上那須衆との合流を急がせたが
那須の動きは速く、上那須衆は合流前に高瀬の地で那須軍に捕捉されてしまう。
追いつかれてはやむなしと上那須衆も応戦したが、4倍の敵相手に何の策もなく勝つのは無理であった。
しばらくすると宇都宮勢もようやく追いついたが既に上那須勢は崩れており少々遅かった。今度は那須の軍勢が
宇都宮勢に襲いかかる。
宇都宮勢ももちろん反撃しようとしたが敗走してくる上那須の兵などが逃げこむとどうにも士気が上がらない上に
むしろ混乱が生じた。
結果として決死の那須の兵の攻撃を支えきれずついには宇都宮勢も敗走した。
場面は変わって治武内山を制圧した佐竹義堅はそこで高瀬の戦いで上那須衆・宇都宮が敗走した報告を受けるが、
それがまた混乱を呼んだ。
なんと「大関の家紋の軍勢が那須側に寝返って敗走する宇都宮を追撃し、今度はこちらに向かってきている」
というのである。
この報告、実は大関家が一枚岩では無く大関家を乗っ取った高増をよく思わない本来の大関の一門が
那須軍に参加していただけだったのであるがこれがまた佐竹軍の戦意を萎えさせた。
948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:05:32.67 ID:Jxnn7roW
義堅も備えを固めて那須の軍勢を迎え撃ったが、ここを抜かれればもう後がない那須軍は反撃されても
突撃を繰り返した。
だんだんと日が落ちて暗くなるにつれて元々士気の高くなかった佐竹軍も那須軍の度重なる突撃に
不安に駆られ始める。
「敵の数は我が方の倍らしい」「宇都宮は既に敗れて撫で斬りにされた」など根も葉もない噂が飛び交い出すと
いよいよ統率がままならなくなってきた。
勝手に戦線を離脱する者なども出始める始末でこれでは戦にならない。
義堅は家臣の大窪秀光の「ここは一度退いて再起を図るべし」との進言を受け入れて撤退を始めた。・・・が
判断が遅かったらしい。
この頃には義堅も周りには馬廻や旗本など数百程度しか付いておらず、これを見た那須家臣千本資俊の
執拗な追撃を食らった。
そしてついに義堅は烏山城の南の千束台という場所で千本資俊に完全に包囲されてしまう。もう護衛は
20人程度しか居なかった。
資俊は和議を持ちかけ「ここで降服して軍をまとめて常陸に帰って頂けるなら命は取らない」と義堅に宣言する。
もう戦っても勝ち目は無い上に総大将が討たれた佐竹軍が追撃を喰らえば被害はより深刻なものとなる事は
明らかなので義堅も提案を受け入れて降伏する他はなかった。
以後、この地は『降参峰』という佐竹軍にとって不名誉な名で地元民に呼ばれるようになった。
949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:16:03.78 ID:tyyRP2Po
大関さんは裏切っても不思議では無い奴だと佐竹にも思われてたんだな。
950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 03:42:38.29 ID:9Uno5LPh
随分綺麗に各個撃破が決まったな
那須家の強さもあるだろうけど
951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 08:39:09.96 ID:C5saOIz6
追い詰められた時の那須家の強さは異常w
953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 21:09:44.16 ID:0TTBYdH+
迎撃側だといつも強いな
516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 21:38:19.97 ID:A2xBlLDI
関が原の戦いの後、佐竹家は転封を命じられ、佐竹義重も奥州路を通り一路、新天地・秋田へ向かった。
途中、白河は滑津まで来たところで武装した集団に出会った。伊達政宗が、陣を構えていた。
「さては旧怨を報いんとてか、それとも別の魂胆あっての事か?誰ぞ政宗に談判して参れ!」
義重は家臣に伊達軍との交渉を命じたが、苛烈をもって知られる政宗と、背後に控える軍容を恐れて
誰も名乗り出ようとしない。
ついに、末席に控えた小姓の和田十二郎が、しばしためらった後に使者の役を買って出た。
ただ一騎、十二郎は思い切って伊達軍の中を駆け抜け、中央に位置する陣幕の中へ乗り入れた。
「狼藉者め、何奴じゃ!?」
床机に腰掛け、眼光鋭く睨みつける政宗を前に、十二郎は馬を飛び降り、平伏した。
「突然の無礼、失礼致しました。拙者、佐竹義重配下の者。ただ今、義重が秋田へ向かうに及び、
大勢で待ち受けるは、野伏り等が追剥ぎせんとの企みなり。追い散らせとの主命により、参った次第。あに図らんや、伊達殿のかかる振舞いは、義重を妨げ、通さずとの心にございますか?」
「いや、これは義重殿が途中にて不慮の事あれば、政宗これを保護せんとの心。いざ心安く通られよ。」
「武門たる家が、他家の保護を受けて秋田へ赴いたと言われては、末世までの恥辱になり申す。
ご好意の程は主にお伝え致しますゆえ、速やかにお引き取りあるべし。もし引かずば、義重もこの道を
動くまじ。さすれば、互いに遺恨が残りまする。」
政宗は十二郎を見据えて考え込んでいたが、やがて立ち上がった。「よし、引き上げじゃ!この政宗に異心なき事、お主の口から義重殿によーく伝えよ。それにしても、
お主は年若く見えるに、大事の使者を良く成し遂げた。名を聞いておこう。年はいくつじゃ?」
「拙者は、和田昭為が孫・十二郎。生年は十八!!」
「家老の和田安房が孫か!道理で・・・よし、これをやろう。」
十二郎の態度に感心した政宗は、褒美としてみずからの替鎧を与えた。
堂々たる大将の鎧をかつぎ、意気揚々と佐竹家の一団に戻った十二郎は、事の次第を義重に報告した。
「よくやった!しかしお前確か、年は十六じゃろ?なぜ十八歳などと偽ったのだ?」
「はっ、えー、いや、そのぅ、十六歳と言って、もし政宗に小僧扱いされたらシャクだと思い・・・」
破顔一笑した義重は、厚く十二郎を賞してやった。(秋藩温故談より)
517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:00:44.99 ID:Dh3NzgPM
結局政宗は何しにきたんだ?
佐竹との遊び収め?
518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:05:51.67 ID:DTb+47mN
禍根ある相手が自領を通るんだから狼藉略奪を警戒しての行動なんじゃね?
519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:07:55.34 ID:huLOkJw5
白河って伊達?
520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:08:05.61 ID:K7A2lEAM
>>517
まあ史実かどうかはともかく、キャラクター的に言えば政宗のことだから、
半ば嫌がらせでそれに対し佐竹が怒ってなにか仕掛けてきたら、これ幸いと
自分の勢力拡大のために何らかの手をうとうとした、ってあたりかねw
521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:16:43.84 ID:CUF0qj+e
さすがに具体的に何かしようってのはないだろう、どっちもそんな馬鹿じゃない。
地方に飛ばされていく旧敵を眺めてにやにやしたかっただけだろうな。
522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:21:52.33 ID:QAJpI4rj
明らかに嫌がらせだな。
でも、ただの嫌がらせが、ちょっと対応間違えると血腥いことに。
523 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/08(金) 23:29:06.70 ID:Kc80vtsS
暇だなー正宗
524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 23:36:44.40 ID:05Kpxf63
政宗個人がやるのは構わんが、そんなことのために軍隊動かすのは何だかな
525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 01:39:29.15 ID:AxlGhnwt
多少の流血沙汰は期待してたかもしれんね
526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 01:42:21.45 ID:Jykh43aO
国分盛重を引き渡せ、と迫ったりしてw
まぁ、居なくなってもらった方が政宗には都合が良いか。
これが叔母(義重室)への敬慕故の行動だったらロマンティックなんだけど。
実際はニヤニヤするために出張って来た、ってのが妥当かな。
義宣と従兄弟なんだから仲良くしろw
527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 04:18:39.45 ID:56pNIyFm
佐竹をそのまま素通りさせるのはシャクだぜ、な空気が伊達家中にもあったけど
大仰に事を構えたように見せかけて実質的には東北らしい馴れ合いで済ませたぜ
なんて所じゃないかね
政宗時代の伊達家中ってノリも主君に毒されているような気がしてならん
528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 07:51:01.09 ID:Py3a/zpv
ねぇねぇ、代々の領国から北の果てに飛ばされるけど
今どんな気持ち?
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|
/ × (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ × (●) 丶 今、どんな気持ち?
| ( _●_) ミ :/ :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ ___/
/ /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
/ /  ̄ :|::| ::::| :::i ゚。  ̄♪ \ 丶
/ / ♪ :|::| ::::| :::|: \ 丶
(_ ⌒丶... :` | ::::| :::|_: /⌒_)
| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン ソ トントン
529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 09:26:08.40 ID:L8rv7rTO
>>528
政宗も、秀吉時代にやられてるじゃないか
534 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/09(土) 11:26:16.07 ID:pDQPVeAA
こういうヤツだから100万石もらえないんだろうな> 政宗w
関が原の戦いの後、佐竹家は転封を命じられ、佐竹義重も奥州路を通り一路、新天地・秋田へ向かった。
途中、白河は滑津まで来たところで武装した集団に出会った。伊達政宗が、陣を構えていた。
「さては旧怨を報いんとてか、それとも別の魂胆あっての事か?誰ぞ政宗に談判して参れ!」
義重は家臣に伊達軍との交渉を命じたが、苛烈をもって知られる政宗と、背後に控える軍容を恐れて
誰も名乗り出ようとしない。
ついに、末席に控えた小姓の和田十二郎が、しばしためらった後に使者の役を買って出た。
ただ一騎、十二郎は思い切って伊達軍の中を駆け抜け、中央に位置する陣幕の中へ乗り入れた。
「狼藉者め、何奴じゃ!?」
床机に腰掛け、眼光鋭く睨みつける政宗を前に、十二郎は馬を飛び降り、平伏した。
「突然の無礼、失礼致しました。拙者、佐竹義重配下の者。ただ今、義重が秋田へ向かうに及び、
大勢で待ち受けるは、野伏り等が追剥ぎせんとの企みなり。追い散らせとの主命により、参った次第。あに図らんや、伊達殿のかかる振舞いは、義重を妨げ、通さずとの心にございますか?」
「いや、これは義重殿が途中にて不慮の事あれば、政宗これを保護せんとの心。いざ心安く通られよ。」
「武門たる家が、他家の保護を受けて秋田へ赴いたと言われては、末世までの恥辱になり申す。
ご好意の程は主にお伝え致しますゆえ、速やかにお引き取りあるべし。もし引かずば、義重もこの道を
動くまじ。さすれば、互いに遺恨が残りまする。」
政宗は十二郎を見据えて考え込んでいたが、やがて立ち上がった。「よし、引き上げじゃ!この政宗に異心なき事、お主の口から義重殿によーく伝えよ。それにしても、
お主は年若く見えるに、大事の使者を良く成し遂げた。名を聞いておこう。年はいくつじゃ?」
「拙者は、和田昭為が孫・十二郎。生年は十八!!」
「家老の和田安房が孫か!道理で・・・よし、これをやろう。」
十二郎の態度に感心した政宗は、褒美としてみずからの替鎧を与えた。
堂々たる大将の鎧をかつぎ、意気揚々と佐竹家の一団に戻った十二郎は、事の次第を義重に報告した。
「よくやった!しかしお前確か、年は十六じゃろ?なぜ十八歳などと偽ったのだ?」
「はっ、えー、いや、そのぅ、十六歳と言って、もし政宗に小僧扱いされたらシャクだと思い・・・」
破顔一笑した義重は、厚く十二郎を賞してやった。(秋藩温故談より)
517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:00:44.99 ID:Dh3NzgPM
結局政宗は何しにきたんだ?
佐竹との遊び収め?
518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:05:51.67 ID:DTb+47mN
禍根ある相手が自領を通るんだから狼藉略奪を警戒しての行動なんじゃね?
519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:07:55.34 ID:huLOkJw5
白河って伊達?
520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:08:05.61 ID:K7A2lEAM
>>517
まあ史実かどうかはともかく、キャラクター的に言えば政宗のことだから、
半ば嫌がらせでそれに対し佐竹が怒ってなにか仕掛けてきたら、これ幸いと
自分の勢力拡大のために何らかの手をうとうとした、ってあたりかねw
521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:16:43.84 ID:CUF0qj+e
さすがに具体的に何かしようってのはないだろう、どっちもそんな馬鹿じゃない。
地方に飛ばされていく旧敵を眺めてにやにやしたかっただけだろうな。
522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:21:52.33 ID:QAJpI4rj
明らかに嫌がらせだな。
でも、ただの嫌がらせが、ちょっと対応間違えると血腥いことに。
523 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/08(金) 23:29:06.70 ID:Kc80vtsS
暇だなー正宗
524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 23:36:44.40 ID:05Kpxf63
政宗個人がやるのは構わんが、そんなことのために軍隊動かすのは何だかな
525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 01:39:29.15 ID:AxlGhnwt
多少の流血沙汰は期待してたかもしれんね
526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 01:42:21.45 ID:Jykh43aO
国分盛重を引き渡せ、と迫ったりしてw
まぁ、居なくなってもらった方が政宗には都合が良いか。
これが叔母(義重室)への敬慕故の行動だったらロマンティックなんだけど。
実際はニヤニヤするために出張って来た、ってのが妥当かな。
義宣と従兄弟なんだから仲良くしろw
527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 04:18:39.45 ID:56pNIyFm
佐竹をそのまま素通りさせるのはシャクだぜ、な空気が伊達家中にもあったけど
大仰に事を構えたように見せかけて実質的には東北らしい馴れ合いで済ませたぜ
なんて所じゃないかね
政宗時代の伊達家中ってノリも主君に毒されているような気がしてならん
528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 07:51:01.09 ID:Py3a/zpv
ねぇねぇ、代々の領国から北の果てに飛ばされるけど
今どんな気持ち?
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|
/ × (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ × (●) 丶 今、どんな気持ち?
| ( _●_) ミ :/ :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ ___/
/ /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
/ /  ̄ :|::| ::::| :::i ゚。  ̄♪ \ 丶
/ / ♪ :|::| ::::| :::|: \ 丶
(_ ⌒丶... :` | ::::| :::|_: /⌒_)
| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン ソ トントン
529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 09:26:08.40 ID:L8rv7rTO
>>528
政宗も、秀吉時代にやられてるじゃないか
534 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/09(土) 11:26:16.07 ID:pDQPVeAA
こういうヤツだから100万石もらえないんだろうな> 政宗w
906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/28(火) 22:11:30 ID:ZiyRhY7d
佐竹家が秋田に転封となり、義重が六郷に隠居した後の話
義重の館を守る当番で、小貫三之助という武士がいた
いつからか、彼は仕事場に二、三歳の女の子を連れてくるようになった
それをあやしたり、抱きかかえたりして当番をするのである
さすがにその姿は目立ち、義重にも報告が入った
義重は三之助を呼び出すと、なぜそんなことをしているのか尋ねた
三之助は答えた
「実は先ごろ、妻が病死してしまいました
我が家には、子を見られるような者はおりません
家に置いておいては、病になるかもしれず、死んでしまうやもしれません
そこで面倒を見ながら、御役を務めていたのです」
「そうか…」
義重は頷き、これを許した上、様々な品を与えた
この時代にもシングルファザーの苦労はあったようである
907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/28(火) 22:38:39 ID:oc41Yz4X
>>906
転封されて来たばかりの土地だから、乳母を雇うとか近所で預かってもらうって
ことも出来なかったんだろうな。
908 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/07/28(火) 23:16:21 ID:TFkQnv+T
>>906
義重も家臣の事情を知った以上は許さないけないわな。
まさか小さな子供を泣かわけにはいかないからな。
佐竹家が秋田に転封となり、義重が六郷に隠居した後の話
義重の館を守る当番で、小貫三之助という武士がいた
いつからか、彼は仕事場に二、三歳の女の子を連れてくるようになった
それをあやしたり、抱きかかえたりして当番をするのである
さすがにその姿は目立ち、義重にも報告が入った
義重は三之助を呼び出すと、なぜそんなことをしているのか尋ねた
三之助は答えた
「実は先ごろ、妻が病死してしまいました
我が家には、子を見られるような者はおりません
家に置いておいては、病になるかもしれず、死んでしまうやもしれません
そこで面倒を見ながら、御役を務めていたのです」
「そうか…」
義重は頷き、これを許した上、様々な品を与えた
この時代にもシングルファザーの苦労はあったようである
907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/28(火) 22:38:39 ID:oc41Yz4X
>>906
転封されて来たばかりの土地だから、乳母を雇うとか近所で預かってもらうって
ことも出来なかったんだろうな。
908 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/07/28(火) 23:16:21 ID:TFkQnv+T
>>906
義重も家臣の事情を知った以上は許さないけないわな。
まさか小さな子供を泣かわけにはいかないからな。
858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 00:12:15 ID:eEED+PEF
天正4年(1576)8月、佐竹義重は三春城主・田村清顕の要請を受け、白河義親を攻めた。
ところが9月になって清顕が裏切り、22日の夜半に義重は白河と田村の挟み撃ちにあった。
思わぬ夜襲に佐竹の兵は右往左往するばかりだったが、義重は床机に腰掛け、冷静に
采配を振るい続けた。
しかし、一度乱れ散った隊列が闇夜で整うはずもなく、ついに義重の本陣にまで矢弾が
飛んでくるに及んで、動かぬ義重を近習がムリヤリ馬に乗せて退却を図った。
この時、義重は近習と押し合ったはずみで采配を取り落としてしまった。
「いかん、拾って来い!」
義重の命により落ちた采配を探したが、夜のうえに雨まで降ってきて、見つけることが
できない。敵はいよいよ迫り、義重の馬丁まで銃弾に倒れた。
「殿、旗本も討たれております!采配などあきらめ、早くお逃げを!」
しかし義重、少しもあわてず答えた。
「勝敗は兵家の常だ!ここであわてて采配を失くしては、オレは二度と佐竹の家で
采配を振るうことが出来ぬわ!」
「殿!ありましたぞ!」一歩も退かぬ義重を見て、重臣の川井大学が偽って別の采配を渡し
義重の馬の口を取った。
「お馬の口に侍りしは、川井大学と知り給えぃ!」
川井の芝居がかった言い方に義重も苦笑し、ようやく退却を始めた。
が、途中で小川を見て立ち止まった。
「こんな泥まみれの馬に乗って、もし追いつかれて討ち死にすれば、『義重は慌てたり』
と笑われよう。」
そう言って、川の流れで馬を洗った。
この戦、当然義重の負け戦となったが、関東奥州の諸将は
「合戦は時の運によるもので、義重が采配を拾ったのは、源義経の弓流しの故事と
同じである。」と言い、義重を褒めた。
859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 01:28:09 ID:tfyM2Q+u
水戸の光圀さんに言わせりゃ悪い話にもなりかねん。
でも、俺はいい話だと思うよ。
862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 09:49:14 ID:vDt6n78F
>>858
一方、織田信長は「大将たる自分が討たれたら戦は終わりだろjk」とばかりに一目散に逃げていた
どっちも武士らしいと思うけどね
863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 10:19:25 ID:1sQDM9Qv
>858剛毅だなあ鬼義重の人……
>>862
まぐれ当たりでも何でも、今川義元を戦場で討って織田が生き延びた実感があったんだろうね
865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 11:13:41 ID:1oW14Ut1
信長は型の外れた大将だから、真っ先に逃げても評判が落ちないという利点があるよな。
佐竹みたいな古い大将は逃げたくても真っ先に逃げるわけに行かないし。
天正4年(1576)8月、佐竹義重は三春城主・田村清顕の要請を受け、白河義親を攻めた。
ところが9月になって清顕が裏切り、22日の夜半に義重は白河と田村の挟み撃ちにあった。
思わぬ夜襲に佐竹の兵は右往左往するばかりだったが、義重は床机に腰掛け、冷静に
采配を振るい続けた。
しかし、一度乱れ散った隊列が闇夜で整うはずもなく、ついに義重の本陣にまで矢弾が
飛んでくるに及んで、動かぬ義重を近習がムリヤリ馬に乗せて退却を図った。
この時、義重は近習と押し合ったはずみで采配を取り落としてしまった。
「いかん、拾って来い!」
義重の命により落ちた采配を探したが、夜のうえに雨まで降ってきて、見つけることが
できない。敵はいよいよ迫り、義重の馬丁まで銃弾に倒れた。
「殿、旗本も討たれております!采配などあきらめ、早くお逃げを!」
しかし義重、少しもあわてず答えた。
「勝敗は兵家の常だ!ここであわてて采配を失くしては、オレは二度と佐竹の家で
采配を振るうことが出来ぬわ!」
「殿!ありましたぞ!」一歩も退かぬ義重を見て、重臣の川井大学が偽って別の采配を渡し
義重の馬の口を取った。
「お馬の口に侍りしは、川井大学と知り給えぃ!」
川井の芝居がかった言い方に義重も苦笑し、ようやく退却を始めた。
が、途中で小川を見て立ち止まった。
「こんな泥まみれの馬に乗って、もし追いつかれて討ち死にすれば、『義重は慌てたり』
と笑われよう。」
そう言って、川の流れで馬を洗った。
この戦、当然義重の負け戦となったが、関東奥州の諸将は
「合戦は時の運によるもので、義重が采配を拾ったのは、源義経の弓流しの故事と
同じである。」と言い、義重を褒めた。
859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 01:28:09 ID:tfyM2Q+u
水戸の光圀さんに言わせりゃ悪い話にもなりかねん。
でも、俺はいい話だと思うよ。
862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 09:49:14 ID:vDt6n78F
>>858
一方、織田信長は「大将たる自分が討たれたら戦は終わりだろjk」とばかりに一目散に逃げていた
どっちも武士らしいと思うけどね
863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 10:19:25 ID:1sQDM9Qv
>858剛毅だなあ鬼義重の人……
>>862
まぐれ当たりでも何でも、今川義元を戦場で討って織田が生き延びた実感があったんだろうね
865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 11:13:41 ID:1oW14Ut1
信長は型の外れた大将だから、真っ先に逃げても評判が落ちないという利点があるよな。
佐竹みたいな古い大将は逃げたくても真っ先に逃げるわけに行かないし。
757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:21:42 ID:GI1oQLto
佐竹義重の宿老に和田昭為という者がいた
ある日、佐竹と激しく抗争していた会津蘆名家から、和田屋敷に使者が遣わされた
和睦の使者だったが、条件が悪く昭為は独断で拒否した
ところが、これを察知した重臣の車丹波守は、昭為の内通を疑った
丹波がこのように上申したため、義重も昭為を猜疑し、和田家討伐を指図した
昭為自身は間一髪出奔したが、息子三人は上意討ちで殺された
出国した昭為は蘆名重臣の佐瀬源兵衛を頼った
しかし、「下位に置くわけにもゆかず、かといって上位に置けば蘆名の歴々が納得すまい」
と語るのを聞き、早々に見切りをつけて再度出奔
今度は南陸奥の白河義親を頼った
義親は昭為の境遇に同情し、またその計略の見事さから重用した
白河重臣となった昭為は、常々佐竹への復仇を口にし、義親にその策を話してもいた
ついに義親もその気になり、佐竹領へ軍勢を率いて打って出た
が、結果はこてんぱんに負けた
侵攻した義親を、東義久が迎え撃ち、さらに背後では昭為が反義親勢力を蜂起させたのだ
そう、昭為は佐竹への復帰のため、すべてを義久に内報していたのである
この敗戦で義親は佐竹に膝を屈し、昭為は宿老として返り咲いた
なんだか色々とおそろしい話
758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:28:00 ID:+01SrhGo
これぞ虚虚実実の戦国時代、って感じの話ですなあ。
759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:30:16 ID:a/KKa78c
>>757
息子と一族が殺されてるのに出戻りしたいという気持ちとはどんなものなんだろうな
760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:32:10 ID:8FHbrQqd
忠義・・・なのかな?
761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:38:01 ID:epOWrp0B
それだけ「先祖代々の我が土地」への執着が強かったんでしょうこの時代の武士は
762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:52:32 ID:4HL11caA
さすがに息子殺されてるの知ってれば疑わないよなぁ
763 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/28(日) 02:02:39 ID:Ifb/F+VP
直家さん家でも似たような話あったよな
あっちは全て台本通りって感じだったけど
764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 02:14:37 ID:+01SrhGo
たしか義重が、蘆名への内通は誤解だってことに気がついて、昭為に書状で謝ったって
話じゃなかったかな?それで復帰の手土産として、義重に作戦内容を知らせたとか何とか。
765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 03:13:17 ID:lYn4SFtr
>>752
謙信じゃなくて信玄に対抗してじゃなかったっけ?
766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 04:28:02 ID:l4f06QhF
子はまた生めばいい的な発想もあったろうさ
子供は最大のライバルになりえることだってあるし
男親は腹痛めて子供産むわけじゃないからな
767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 05:25:28 ID:dYaX0pPn
乳幼児死亡率が今よりも遥かに高かったし、
滅多なことでは子供が死なない今とでは親子の愛情や距離感も違うのだろうね
もっとも、長宗我部元親は子供亡くして鬱病になっちゃったけど
768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 11:28:19 ID:epOWrp0B
>>767
むしろその方が、子供に対する執着は強まると思うが
769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 12:25:38 ID:OU016/pP
一夫多妻制じゃあ、お気に入りの女から生まれた子供だけ可愛がる様になるんじゃないの。
佐竹義重の宿老に和田昭為という者がいた
ある日、佐竹と激しく抗争していた会津蘆名家から、和田屋敷に使者が遣わされた
和睦の使者だったが、条件が悪く昭為は独断で拒否した
ところが、これを察知した重臣の車丹波守は、昭為の内通を疑った
丹波がこのように上申したため、義重も昭為を猜疑し、和田家討伐を指図した
昭為自身は間一髪出奔したが、息子三人は上意討ちで殺された
出国した昭為は蘆名重臣の佐瀬源兵衛を頼った
しかし、「下位に置くわけにもゆかず、かといって上位に置けば蘆名の歴々が納得すまい」
と語るのを聞き、早々に見切りをつけて再度出奔
今度は南陸奥の白河義親を頼った
義親は昭為の境遇に同情し、またその計略の見事さから重用した
白河重臣となった昭為は、常々佐竹への復仇を口にし、義親にその策を話してもいた
ついに義親もその気になり、佐竹領へ軍勢を率いて打って出た
が、結果はこてんぱんに負けた
侵攻した義親を、東義久が迎え撃ち、さらに背後では昭為が反義親勢力を蜂起させたのだ
そう、昭為は佐竹への復帰のため、すべてを義久に内報していたのである
この敗戦で義親は佐竹に膝を屈し、昭為は宿老として返り咲いた
なんだか色々とおそろしい話
758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:28:00 ID:+01SrhGo
これぞ虚虚実実の戦国時代、って感じの話ですなあ。
759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:30:16 ID:a/KKa78c
>>757
息子と一族が殺されてるのに出戻りしたいという気持ちとはどんなものなんだろうな
760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:32:10 ID:8FHbrQqd
忠義・・・なのかな?
761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:38:01 ID:epOWrp0B
それだけ「先祖代々の我が土地」への執着が強かったんでしょうこの時代の武士は
762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:52:32 ID:4HL11caA
さすがに息子殺されてるの知ってれば疑わないよなぁ
763 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/28(日) 02:02:39 ID:Ifb/F+VP
直家さん家でも似たような話あったよな
あっちは全て台本通りって感じだったけど
764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 02:14:37 ID:+01SrhGo
たしか義重が、蘆名への内通は誤解だってことに気がついて、昭為に書状で謝ったって
話じゃなかったかな?それで復帰の手土産として、義重に作戦内容を知らせたとか何とか。
765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 03:13:17 ID:lYn4SFtr
>>752
謙信じゃなくて信玄に対抗してじゃなかったっけ?
766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 04:28:02 ID:l4f06QhF
子はまた生めばいい的な発想もあったろうさ
子供は最大のライバルになりえることだってあるし
男親は腹痛めて子供産むわけじゃないからな
767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 05:25:28 ID:dYaX0pPn
乳幼児死亡率が今よりも遥かに高かったし、
滅多なことでは子供が死なない今とでは親子の愛情や距離感も違うのだろうね
もっとも、長宗我部元親は子供亡くして鬱病になっちゃったけど
768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 11:28:19 ID:epOWrp0B
>>767
むしろその方が、子供に対する執着は強まると思うが
769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 12:25:38 ID:OU016/pP
一夫多妻制じゃあ、お気に入りの女から生まれた子供だけ可愛がる様になるんじゃないの。
77 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/12(月) 10:41:11 ID:0E1tAddZ
布団と言えば佐竹(鬼)義重だな。有名な逸話だけど。
佐竹義重は就寝時、敷き布団を使わず、いつも薄い布を板張りの床に敷いて寝ていた。
(非常に暑がりな体質だったらしい。)
晩年、家督を義宣に譲るが関ヶ原の合戦後、出羽久保田へ転封される。
老いて北国出羽に移る事になった義重に義宣は、「流石に出羽は寒さが酷く、御身体に障るので
御布団と寝間着を贈ります。」と、手紙を添えて布団を贈った。
息子の気遣いに、大喜びの義重。早速布団を敷き、眠りについた。
だが暫くして…「暑い!!」と布団を撥ね除け、またいつもの様に薄い布を敷き、再び就寝した。
「老体となっても相変わらず…」と義宣も、苦笑するしかなかった。
また義重は毎日、寝床の場所を変えて、暗殺に備えていたらしい。
寝る事にこだわる武将、佐竹(鬼)義重であった。
78 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/12(月) 11:09:03 ID:287QCiF6
相当な暑がりだな
79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 11:14:48 ID:gQSjfAEk
まったくフッとんだ話だな
80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 11:45:19 ID:rjEr/PMG
>>79
ちょ、おま…
81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 12:31:07 ID:RCSDsBJQ
>>77
寒がりな俺は是非添い寝してほしい
82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 12:34:18 ID:bTm4Q1iF
>>81
添い寝しようとしても「暑いっ」って蹴りだされるだけじゃね?
83 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/12(月) 12:55:14 ID:287QCiF6
そして添い寝の相手が美少年だったら意気投合するんですね、わかります
84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 15:47:07 ID:rQUC0QXG
アッー
85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 17:47:29 ID:sU8WIjfN
>82鬼佐竹の人は戦のたびに武者震いが止まらず、自ら打ち太刀して戦うまで収まらないほどだったっけ。
顔が怖くて、えもいわれぬ威厳があったとも聞いたが、これは伊達政宗あたりと呼応してそう言われてるのかな?
106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 00:36:20 ID:/W18E2CE
>>81
添い寝が許されるのは葦名盛隆ただ一人のみです。
布団と言えば佐竹(鬼)義重だな。有名な逸話だけど。
佐竹義重は就寝時、敷き布団を使わず、いつも薄い布を板張りの床に敷いて寝ていた。
(非常に暑がりな体質だったらしい。)
晩年、家督を義宣に譲るが関ヶ原の合戦後、出羽久保田へ転封される。
老いて北国出羽に移る事になった義重に義宣は、「流石に出羽は寒さが酷く、御身体に障るので
御布団と寝間着を贈ります。」と、手紙を添えて布団を贈った。
息子の気遣いに、大喜びの義重。早速布団を敷き、眠りについた。
だが暫くして…「暑い!!」と布団を撥ね除け、またいつもの様に薄い布を敷き、再び就寝した。
「老体となっても相変わらず…」と義宣も、苦笑するしかなかった。
また義重は毎日、寝床の場所を変えて、暗殺に備えていたらしい。
寝る事にこだわる武将、佐竹(鬼)義重であった。
78 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/12(月) 11:09:03 ID:287QCiF6
相当な暑がりだな
79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 11:14:48 ID:gQSjfAEk
まったくフッとんだ話だな
80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 11:45:19 ID:rjEr/PMG
>>79
ちょ、おま…
81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 12:31:07 ID:RCSDsBJQ
>>77
寒がりな俺は是非添い寝してほしい
82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 12:34:18 ID:bTm4Q1iF
>>81
添い寝しようとしても「暑いっ」って蹴りだされるだけじゃね?
83 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/12(月) 12:55:14 ID:287QCiF6
そして添い寝の相手が美少年だったら意気投合するんですね、わかります
84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 15:47:07 ID:rQUC0QXG
アッー
85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 17:47:29 ID:sU8WIjfN
>82鬼佐竹の人は戦のたびに武者震いが止まらず、自ら打ち太刀して戦うまで収まらないほどだったっけ。
顔が怖くて、えもいわれぬ威厳があったとも聞いたが、これは伊達政宗あたりと呼応してそう言われてるのかな?
106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 00:36:20 ID:/W18E2CE
>>81
添い寝が許されるのは葦名盛隆ただ一人のみです。
526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 19:48:24 ID:uKBhvrK7
謙信と義重
天正二年、関東制覇を目指す北条氏政は、いよいよ関東中央部最大の拠点、下総関宿城の攻略にかかった。
この情報を得た越後の上杉謙信はすぐさま出陣を決意、常陸の佐竹義重や、下野の宇都宮広綱にも出兵の
命を下した。
越山をした上杉軍は怒涛の進撃をした。新田金山の猿窪城を陥れると利根川を超え、鉢形、成田、足利、
館林一体を荒らしまわり、赤石(群馬県伊勢崎市)に布陣した。が、
佐竹、宇都宮の軍が、いつまでたっても参集しないのである。謙信の元からは、何度も何度も催促の
使者が送られたが、宇都宮方は「出陣の際は佐竹殿と共同で出ると約束していますので、佐竹殿が出陣しなければ
我らも出兵できませぬ。」との返事。
そして肝心の佐竹は、散々言を左右した挙句、
「我々は、謙信様からの血判の誓詞がなければ出陣できない。」と言い出した。
謙信は既に関東管領であり、それは佐竹も認めている。その関東管領の命令権を、佐竹は事もあろうに
疑っているのだ。関東管領の権威に係わるだけに、これには簡単に同意できない。しかし、そうこう
しているうちに、関宿城からは、「このままでは落城も間もなくです!」と、救援を求める必死の書状が相次いだ。
佐竹、宇都宮の協力無しでは、関宿救出は無理があった。しかたなく謙信は、血判誓詞の提出に応じた。
苦悩の選択であった。が、ここで事態は急変する
なんと関宿城が、北条との交渉に応じ、無血開城に同意したとの情報が入ってきた。
義重の狙いはこれであった。謙信を出兵の問題で足止めし、時間稼ぎをしている間に、密かに関宿城と接触し、
北条の求めに応じて開城するよう、説得していたのである。
確かに北条の拡大は脅威である。だが関宿は佐竹にも宇都宮にも領土的な利害関係はなく、両家とも、
そのような関係の無い土地のために、しかも、おそらく激戦となるであろう戦に、家中の者を動員することを
嫌っていたのだ。
義重の事情とこの策略を、謙信は全く見抜けなかった。
上杉勢は憂さ晴らしのように下総一帯を荒らしまわった挙句、成す所無く上野の厩橋に撤退した。
その日閏十一月十九日は、北条との約定により、関宿が開城された日であった。
527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 19:50:25 ID:1Uh0wkd0
謙信ざまぁwww
義重さすがだな
でOK?
528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 20:23:54 ID:MPbH3Mnj
まあ越相同盟破棄直後だから、
義重らが謙信をいぶかしがっても仕方ない時期ではあるけどな。
義重ら関東諸将にしてみれば、北条と単独講和した謙信は裏切り者と思っていてもふしぎではないし。
530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 21:18:56 ID:GshOuQvX
謙信は関宿が北条に落ちたら関東はすぐさま全て北条の手に落ちると考えて
越相同盟したみたいだけどなー。
怒るなんて酷い話だと泣き付いてるし。
しかし当の本人が関宿を重要視してなかったんじゃ仕方ないな。
531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 21:29:41 ID:megndWF7
義で生きていくのは立派だけど、
それだけじゃ世の中渡っていけないよっていう事だな
謙信と義重
天正二年、関東制覇を目指す北条氏政は、いよいよ関東中央部最大の拠点、下総関宿城の攻略にかかった。
この情報を得た越後の上杉謙信はすぐさま出陣を決意、常陸の佐竹義重や、下野の宇都宮広綱にも出兵の
命を下した。
越山をした上杉軍は怒涛の進撃をした。新田金山の猿窪城を陥れると利根川を超え、鉢形、成田、足利、
館林一体を荒らしまわり、赤石(群馬県伊勢崎市)に布陣した。が、
佐竹、宇都宮の軍が、いつまでたっても参集しないのである。謙信の元からは、何度も何度も催促の
使者が送られたが、宇都宮方は「出陣の際は佐竹殿と共同で出ると約束していますので、佐竹殿が出陣しなければ
我らも出兵できませぬ。」との返事。
そして肝心の佐竹は、散々言を左右した挙句、
「我々は、謙信様からの血判の誓詞がなければ出陣できない。」と言い出した。
謙信は既に関東管領であり、それは佐竹も認めている。その関東管領の命令権を、佐竹は事もあろうに
疑っているのだ。関東管領の権威に係わるだけに、これには簡単に同意できない。しかし、そうこう
しているうちに、関宿城からは、「このままでは落城も間もなくです!」と、救援を求める必死の書状が相次いだ。
佐竹、宇都宮の協力無しでは、関宿救出は無理があった。しかたなく謙信は、血判誓詞の提出に応じた。
苦悩の選択であった。が、ここで事態は急変する
なんと関宿城が、北条との交渉に応じ、無血開城に同意したとの情報が入ってきた。
義重の狙いはこれであった。謙信を出兵の問題で足止めし、時間稼ぎをしている間に、密かに関宿城と接触し、
北条の求めに応じて開城するよう、説得していたのである。
確かに北条の拡大は脅威である。だが関宿は佐竹にも宇都宮にも領土的な利害関係はなく、両家とも、
そのような関係の無い土地のために、しかも、おそらく激戦となるであろう戦に、家中の者を動員することを
嫌っていたのだ。
義重の事情とこの策略を、謙信は全く見抜けなかった。
上杉勢は憂さ晴らしのように下総一帯を荒らしまわった挙句、成す所無く上野の厩橋に撤退した。
その日閏十一月十九日は、北条との約定により、関宿が開城された日であった。
527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 19:50:25 ID:1Uh0wkd0
謙信ざまぁwww
義重さすがだな
でOK?
528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 20:23:54 ID:MPbH3Mnj
まあ越相同盟破棄直後だから、
義重らが謙信をいぶかしがっても仕方ない時期ではあるけどな。
義重ら関東諸将にしてみれば、北条と単独講和した謙信は裏切り者と思っていてもふしぎではないし。
530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 21:18:56 ID:GshOuQvX
謙信は関宿が北条に落ちたら関東はすぐさま全て北条の手に落ちると考えて
越相同盟したみたいだけどなー。
怒るなんて酷い話だと泣き付いてるし。
しかし当の本人が関宿を重要視してなかったんじゃ仕方ないな。
531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 21:29:41 ID:megndWF7
義で生きていくのは立派だけど、
それだけじゃ世の中渡っていけないよっていう事だな
682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 00:44:08 ID:JuFABJ3e
佐竹義重の配下に、浜野正杞と言う侍がいた。彼は天正12年(1583年)の沼尻の合戦で武功を上げ、
義重は政杞に、直々に戦功をたたえた書状を与えた。
時は過ぎて関ヶ原合戦のあと、佐竹家は出羽に国替えとなった。この頃政杞は既に老齢で、
「もうお供も出来ません」と、佐竹義宣から暇を取り、下総で帰農した。やがてこの地で死ぬが、
その時
「何かの役に立つ事もあるだろう」
と、義重だけは後に残した。しかし、彼には娘一人しかおらず、この娘は結局嫁に入り、
浜野の家名は断絶した。
その下総に、新たに水野忠光が領主として入ってきた。彼は、どこかからかこの義重の書状の話しを知り、
「鬼義重と呼ばれたほどの武将の筆、是非拝見したい」と、自ら娘の嫁ぎ先にまで出向き書状を見た。
これによりその書状は有名になり、佐竹義宣まで父親の文章を見るために、参勤交代の折わざわざ立ち寄った。
そうして、沼尻の合戦からおよそ100年後、元禄11年(1698年)の佐竹藩の家臣名簿に、浜野久兵衛という名前が現れる。
浜野家は、佐竹藩において再興されたのだ。
侍の命がけの武功とは、子々孫々にまで影響を与えるものだ、と言うお話。
683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 05:51:20 ID:MbkgHhMr
( ;∀;)イイハナシダナー
684 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/16(土) 07:01:51 ID:ynOi68BW
(;∀;)いいスレだなぁ
685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 14:33:18 ID:ht+w5s3g
久兵衛は娘の子?
687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 16:31:41 ID:JuFABJ3e
>>685
娘の子の血筋
佐竹義重の配下に、浜野正杞と言う侍がいた。彼は天正12年(1583年)の沼尻の合戦で武功を上げ、
義重は政杞に、直々に戦功をたたえた書状を与えた。
時は過ぎて関ヶ原合戦のあと、佐竹家は出羽に国替えとなった。この頃政杞は既に老齢で、
「もうお供も出来ません」と、佐竹義宣から暇を取り、下総で帰農した。やがてこの地で死ぬが、
その時
「何かの役に立つ事もあるだろう」
と、義重だけは後に残した。しかし、彼には娘一人しかおらず、この娘は結局嫁に入り、
浜野の家名は断絶した。
その下総に、新たに水野忠光が領主として入ってきた。彼は、どこかからかこの義重の書状の話しを知り、
「鬼義重と呼ばれたほどの武将の筆、是非拝見したい」と、自ら娘の嫁ぎ先にまで出向き書状を見た。
これによりその書状は有名になり、佐竹義宣まで父親の文章を見るために、参勤交代の折わざわざ立ち寄った。
そうして、沼尻の合戦からおよそ100年後、元禄11年(1698年)の佐竹藩の家臣名簿に、浜野久兵衛という名前が現れる。
浜野家は、佐竹藩において再興されたのだ。
侍の命がけの武功とは、子々孫々にまで影響を与えるものだ、と言うお話。
683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 05:51:20 ID:MbkgHhMr
( ;∀;)イイハナシダナー
684 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/16(土) 07:01:51 ID:ynOi68BW
(;∀;)いいスレだなぁ
685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 14:33:18 ID:ht+w5s3g
久兵衛は娘の子?
687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 16:31:41 ID:JuFABJ3e
>>685
娘の子の血筋
63 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/11/02(金) 23:49:39 ID:Ypc2+khU
郡山城には人柱の代わりに百人一心の石碑が埋まっている。
伊達輝宗の遺徳を慕い殉死が相次いだ。その中には低い身分から異例の出世をした者もいた。
謙信が佐竹義重の武勇をみて「我が武略を真に継げる人物はあなただけです。
この長刀は老後に杖として使うつもりでしたがあなたに託そうと思う」と言って刀を贈った。
しばらくして手取川で織田軍5万を2万で破った謙信は死去した。義重はこの宝刀を大切に想い
武神の魂としていつも手入れを欠かさなかった。
義重もいつしか歳をとり息子の義宣に我が武略の魂として長刀を与えた。
少し経ってから義宣に会った義重は何やら見た事がある刀を見かけて不思議に思って聞いてみた。
「なんだその刀は見た事あるな?」
すると義宣はニコニコしながら答えた。「あぁこれは過ぐる日に父上からもらった長刀です。
なんか長すぎて柄に収まりづらくて使いづらいから短く切断しました♪だいぶ使い易くなりましたよ!」
それを聞いた義重は悲しい表情をして空を仰いで「あぁ我が武神も去ったか」と嘆息した。その後義宣は
常陸一国から転封され出羽秋田に飛ばされた。
64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/03(土) 12:13:20 ID:2G+Lmnvj
>>63
それがかの有名な「小豆長光」なんですか?
だとしたら哀しすぎる。・゜・(つД`)・゜・。
65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/04(日) 01:33:49 ID:luPKBsQo
ニコニコしながらではそんなふうになるのも無理はないな。
66 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/11/04(日) 03:36:49 ID:RhVo/1S4
まあ、その頃の武者達も長い古刀を扱いやすいように短くしていたのは事実だが、
一国の大将が扱い易さを優先って・・・。
大将が刀持って戦う時点で負け戦な訳で・・・。
67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/04(日) 05:00:54 ID:ZvUB45gz
>>66
たしなみとして大名が剣術をやるのはおかしいこととは思わんが
むしろ自ら切りかかって北条勢を七人だか討ち取った義重のほうが実際は・・・
関ヶ原の時も義重が口出ししたせいでどっちつかずな態度になってしまったしな
68 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/11/04(日) 05:30:53 ID:fpD70y5F
>>66
それやる人の違いで受け取られ方も違うんじゃない?
家康とかなら常に対処を怠らない例とかにされそう
郡山城には人柱の代わりに百人一心の石碑が埋まっている。
伊達輝宗の遺徳を慕い殉死が相次いだ。その中には低い身分から異例の出世をした者もいた。
謙信が佐竹義重の武勇をみて「我が武略を真に継げる人物はあなただけです。
この長刀は老後に杖として使うつもりでしたがあなたに託そうと思う」と言って刀を贈った。
しばらくして手取川で織田軍5万を2万で破った謙信は死去した。義重はこの宝刀を大切に想い
武神の魂としていつも手入れを欠かさなかった。
義重もいつしか歳をとり息子の義宣に我が武略の魂として長刀を与えた。
少し経ってから義宣に会った義重は何やら見た事がある刀を見かけて不思議に思って聞いてみた。
「なんだその刀は見た事あるな?」
すると義宣はニコニコしながら答えた。「あぁこれは過ぐる日に父上からもらった長刀です。
なんか長すぎて柄に収まりづらくて使いづらいから短く切断しました♪だいぶ使い易くなりましたよ!」
それを聞いた義重は悲しい表情をして空を仰いで「あぁ我が武神も去ったか」と嘆息した。その後義宣は
常陸一国から転封され出羽秋田に飛ばされた。
64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/03(土) 12:13:20 ID:2G+Lmnvj
>>63
それがかの有名な「小豆長光」なんですか?
だとしたら哀しすぎる。・゜・(つД`)・゜・。
65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/04(日) 01:33:49 ID:luPKBsQo
ニコニコしながらではそんなふうになるのも無理はないな。
66 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/11/04(日) 03:36:49 ID:RhVo/1S4
まあ、その頃の武者達も長い古刀を扱いやすいように短くしていたのは事実だが、
一国の大将が扱い易さを優先って・・・。
大将が刀持って戦う時点で負け戦な訳で・・・。
67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/04(日) 05:00:54 ID:ZvUB45gz
>>66
たしなみとして大名が剣術をやるのはおかしいこととは思わんが
むしろ自ら切りかかって北条勢を七人だか討ち取った義重のほうが実際は・・・
関ヶ原の時も義重が口出ししたせいでどっちつかずな態度になってしまったしな
68 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/11/04(日) 05:30:53 ID:fpD70y5F
>>66
それやる人の違いで受け取られ方も違うんじゃない?
家康とかなら常に対処を怠らない例とかにされそう
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