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「続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ

2023年05月26日 19:37

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/26(金) 18:27:01.89 ID:sRKV6zV6
続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ

在原業平朝臣が伊勢の斎宮(恬子内親王)と密通して(「伊勢物語」第六十九段「狩の使」)もうけた子供が丹波守の高階茂範の家を継ぎ、高階師尚といった。
その後裔である長野業正は上州箕輪城に居住し、千五百騎を指揮する身上であり、太田資正入道三楽とともに上杉家無類の忠臣であったが、おのおの大功を立てられず、鬱々として病死してしまった。

長野業正が在原業平の子孫とされたのは有名だけど、業平の東下りでできた子供の子孫のはずだから高階氏とは関係ないはず。
高階氏と在原業平との話は、来年の大河で藤原定子(高階貴子の娘)の息子で藤原彰子に養育された敦康親王が春宮になれない理由で出てくるかも。



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そなたは固陋の頑夫であるな

2022年12月28日 19:21

518 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/27(火) 23:01:39.62 ID:xZUKIk8a
上杉謙信が関東攻めを行い、平井城を奪還した時のこと。
謙信は山内上杉家の家臣たちに使者を送り、こう伝えさせた。
「山内公(上杉憲政)は私を子とし、関東管領職を譲られた。それによって私も父のために平井城を取り返した。そなたたちも山内公に仕えていたのだから、そのまま私に仕えなさい」
長野業政は笑いながら言った。
「越後公(謙信)の功労は最も多い。後日そちらに赴いてお祝い申し上げよう。だが、家臣になることはできない」
使者がその内容を伝えると謙信は怒り、兵を以って攻めようとした。
すると、すでに謙信に降ってそばにいた太田資正がこう言った。
「業政は頑固な老翁で、常にこのような感じです。しかし、心は善良でわざわざ憎むべき者でもないです。明日必ずこちらに挨拶に来るでしょう。もし来なければ私が攻めて蹂躙します」

次の日、業政が平井城へ向かおうとしたところ、老臣たちはこれを諫めた。
業政は「死ぬのであれば謙信も道連れだ。憂うことはないぞ」と言い、そのまま平井城へ赴き、謙信に謁見した。
謙信は「そなたが昨日私の使者に向かって家臣になることはできないと言ったのは本当か」と聞いた。
すると業政はこう答えた。
「その通りです。父が子に家督を譲る際は、まず老臣に諮り、その後に天子あるいは将軍に告げてその許しを得るものです。ましてや管領職のようなものは室町将軍が任ずるものであり、父が私に譲るものでもなく、子も私から受け取ることはできません。しかし、山内家再興のためとあれば私はあなたの指揮に従い、先鋒を務めましょう」
それを聞いた謙信は笑いながら言った。
「資正の言うとおり、そなたは固陋の頑夫(わからずやでかたくなな男)であるな」
その後は宴会となり、宴会が終わった後に業政は箕輪へ帰り、謙信も軍を越後に還した。

長野記より



519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/28(水) 12:51:57.96 ID:6Yi16Vhc
>>518
なにいってんだこいつ

これ皆、寺を壊した仏罰であろう

2022年12月24日 19:42

668 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/23(金) 22:44:43.49 ID:CLLYe5AS
武田信玄長野業政が亡くなったのを機に上州を攻めた際のこと。
武田軍は一郷山城という牛伏山の東端に築かれた山城を落とそうとした。
数日にわたって偵察したところ、水の手が牛伏山の西側の見銘寺のところからとっていることが分かり、その寺をおさえ、水を汲みにくる城兵を弓、鉄砲で狙撃させた。
城主の安部中務之友は水の手を確保するべく、城兵に見銘寺の崖上から寺へ大石を落とさせて甲州勢諸共お堂を粉砕してしまった。
ところがそれによって寺から火が出てそれが北風にあおられて山の北側一帯が火事になってしまった
城兵は阿鼻叫喚の灼熱地獄に襲われた。
信玄は好機に乗じて総攻撃を命じた。その結果、城兵や女子供は皆、崖上から飛び降りたり、または火の中へ追い落とされた。
信玄は「これ皆、寺を壊した仏罰であろう」と要害が思いがけなく楽に落ちたことを喜んだという。

加沢記より



669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/24(土) 00:15:37.76 ID:cWWrEB3o
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5082.html
武田信玄の西上州侵攻と見銘寺
過去に「箕輪軍記」出典(群書類従巻三百八十八・合戦部二十、上野国群馬郡箕輪軍記「長野信濃守業政卒去し事」)で同じ話が出てたから
「箕輪軍記」を読むと武田方に水を止められたということで、この話の直前に白米城(籠城側が馬の背に白米を流して、敵に水がまだあるように見せる)ネタがあった

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/24(土) 01:29:27.04 ID:LzXtJ3Ah
>>669
その米の噺、なあ…。
伊勢宗瑞の伊豆制圧戦に関する口碑伝承にもそっくり同じ噺があるんだよ。
登場人物の名前が替わっただけ。
元ネタがあるんだなと猿でも解るレベルの。
いずれ漢籍あたりに何かの原典があって様々にアレンジした上で流布された巷談俗説だろうよ。
 
と、思ってたんだが、
伊豆では考古学的証拠に近いブツが出ちまったから馬鹿には出来ねえな。

サイカチの木、武田勢を退ける

2013年08月31日 19:54

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 20:27:00.84 ID:mMEqwZnc
ある時、上州箕輪の長野業正の軍勢が、武田信玄の軍に撃ち負けた。

この時長野業政の家臣で、隠れなき勇者と呼ばれた赤名豊前守が殿となって退いていたが、その途中、
自分の旗指物を道の傍のサイカチの木に引っ掛けてしまった。

赤名は取ろうとするも枝葉が茂り、そのうえ刺が生えているので取ることが出来ない。
しかしこのまま捨てていくのは武士の名折れ、家の恥であると難渋している所に、同僚である
土肥実吉が引き返してきた

「何をしている!?早く城へ戻れ!」

そう怒鳴ったが赤名は退こうとしない。
この上は木を切り倒すより仕方がないと、二人は馬から降り、その馬の尻を叩いて城の方に駆け去らせると、
サイカチの木を切りにかかった。

もし敵が追撃してくれば、ここで斬死する他ない。やっとの思いで木を切り倒し、旗指物を取り戻すことが出来たが、
その時にはもう敵の甲州勢4,50騎が直ぐ目の前まで迫っていた。
しかし、さすがは勇者である、赤名豊前守土肥実吉は少しも動じず槍を取って構えた。

ところが、どうしたことであろう、敵は目の前5,6間ほど先でピタリと止まり、掛かってこようとしなかった。
彼らは、道に意味ありげに倒れているサイカチの木に、なにか仕掛けがあるのではと警戒したのである。

その時、先に追い返した馬をみた城兵が、赤名と土肥が危ないと見て、10騎ばかりで引き返してきた。
その騎馬の足音を聞いた甲州勢はやはり罠だと思い

「すわ!反撃してきたぞ!」

と、口々に叫んで逃げ去った。
こうして赤名と土肥は危ない命を全うし、箕輪城へと戻ることが出来た。
(関八州古戦録)

関連
土井大膳、大木を切る・いい話


8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 20:30:56.46 ID:O18MHKQv
名のある武将の軍勢は得だな

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 20:38:39.57 ID:yBNh4XDa
まて、これは孔明の罠だ
意図しなかったとはいえ空城計に通じるものがあるな

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 21:06:51.74 ID:lEn5yrH0
殿お待ちください、これは三楽の罠です!!
小田城を狙っているのです!!!

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 23:06:12.58 ID:bDMg7T57
面白い話だなw こういう損得勘定じゃなくて、些細とも思えるようなことに命を掛けちゃう武士は好きだなー

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 23:12:15.56 ID:9zYsfYAG
旗指物とか母衣ってぶっちゃけ邪魔になるときあるだろうなw

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 23:17:21.53 ID:O9vwY6Hs
旗指物無くすとか全然些細じゃないから

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/31(土) 12:45:28.75 ID:sOTeg4TL
そりゃ汚い信玄公の配下だからな。何かあったら深読みするだろうね

長野業正は和歌や連歌が上手だった

2013年05月16日 19:51

291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/15(水) 21:47:30.50 ID:N/jQmoYI
長野業正は和歌や連歌が上手だった。

ある時、家臣の男が百姓の家から妻を娶った。
ある日のこと、この妻が髪を結んでいると庭を5,6尺ほどの蛇が這っている。
妻は夫である男を呼び、「見て、オウコ(肥桶を荷う棒)みたいな蛇よ」と叫んだ。
それを聞いた男は、このような下品な言葉を使う田舎者な妻と一緒にいると笑いものにされると、この妻を親元に帰した。
妻は去り際に「万葉の 歌の言の葉 なかりせば 思いのほかの 別れせまじ」(万葉集の歌の言葉さえ無ければ、
このような別れはなかっただろうに的な)と和歌を1首残していった。

男はそのわけがわからず、いろいろな人にそのことを話した。
それが業正の耳に入り、早速男は業正に呼ばれた。
そして男がその経緯を業正に説明したところ、業正はこう言った。。

「これは恥ずかしいことだ。『陸奥(みちのく)の 千引の石と わが恋を になわばオウコ 中や耐えなん』
と万葉集にも出ているように、オウコという言葉はけして下品な言葉ではない。それなのに下品な言葉を使ったとして
離縁したとあれば末代までの恥だ。早く仲人に頼んで呼び返すべきだ。」

そして男は業正の言葉通り妻を呼び戻して、復縁しましたとさ。

『名将言行録』より




292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 21:50:26.19 ID:HGl43v6v
>>291
流石は 在原業平の子孫

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 22:53:11.86 ID:1GA0Oylg
百姓の出と言っても、いいとこのお嬢さんだったのかな

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 23:43:22.62 ID:pXdybTPZ
金上盛備「メゴイと言ったら都の連中に嘲笑われましたが
     古の歌にも使われている言葉です」


太田道灌「雨が降ってきたので蓑を借りに民家に立ち寄ったら
     雨に濡れるよりも恥ずかしさで汗塗れでした」

土井大膳、大木を切る・いい話

2009年02月07日 00:13

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 11:50:54 ID:4+HYzei4
大木を切る

土井大膳は元は北条氏の被官であったが、北条氏に背き長野業正の客将となった。
長野氏と武田氏は長年の抗争状態にあったが、ある戦で長野氏が武田氏に負けて
退却することになった。
殿軍は、土井大膳と赤石豊前の2人が務めることとなった。

ところが、運のないことに赤石の旗指物がさいかちの木にひっかかって取れなく
なった。馬上から手を伸ばしても取ることはできない。
「お~い大膳。旗指物が取れなくなった。旗指物を捨てて帰るのは末代までの恥。
何としても取り返したいので助けてくれ。」
大膳は「よっしゃ、心得た。とにかく貴様も馬から降りろ。その木を切って旗指物
を取り戻そう。」と言って馬から飛び降り、先に退却した殿軍のいる箕輪城の方向に
2頭の裸馬を走らせた。
二人は刀を抜いて「えっさほいさ」とさいかちの大木を切り始めた。
そして、やっとこささいかちの木を伐り、大木は道をふさぐ形で「どうっ」と倒れた。

豊前が倒れた木から旗指物を取り戻している間に、武田軍の追っ手がやってきた。
「武田の侍は多勢。こちらはたった2人じゃ。存分に働いて討ち死にせん!」
と死を覚悟したころに、先ほど引き揚げた殿軍の一部の10名が2人の元に引き返してきた。
聞けば、大膳と豊前の裸馬だけが追い付いてきたので、「さては大膳と豊前は討ち死にした
か。心配だから様子を見に行こう。」ということで引き返してきた、とのことである。
そして、「われも俺も」ということで、続々引き返してきて総勢100人余りになった。

武田軍は大膳らを打ち取ろうとするも、さいかちの大木が道をふさいでおりしてなかなか先には
進めない。さりとて、さいかちにはびっしりとトゲが生えており乗り越えていくこともできない。
大膳と豊前はさいかちを盾にして、「ござんなれ!」陣を組み両軍はこう着状態となりやがて日が
暮れ始めた。
とうとう武田軍の追っ手は追跡をあきらめて引き上げ、大膳と豊前は無事に箕輪城に帰還した。

業正は二人に対して、
「敵を我が城に寄せ付けず、途中で踏みとどまった大膳と豊前の働きは莫大な功である。」
として大いに褒めたという。
(続武者物語)

関連
サイカチの木、武田勢を退ける


389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 17:25:37 ID:ER1pOmgT
>>378
逆に、指物がサイカチに引っかからなかったら、追っ手に捕捉されて討死してたかもしれんのだよな
こういうのを、昔の人は武運と言ったのかね

真田幸隆と長野業正の、「その後」・いい話

2009年01月10日 00:18

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 12:42:16 ID:Z68yCiyN
>>964に便乗して、真田幸隆と長野業正のお話、「その後」


永禄四年(1561)、名将、長野業正も七十一歳。
老齢からの体の衰えは隠しようもなく、体調を崩し、人に会うことも少なくなり、屋敷に籠もりがちの
日々を送るようになっていた。

そんなある日、業正が家人に突然このようなことを言い出した。
「そろそろ客があるだろうから、迎える用意をしておくように。」

不思議に思いながらもその準備をしていると、程なく、その頃、羽尾に引退した真田幸隆が
旧恩のお礼の言上にと、業正の元を訪れた。

真田幸隆殿がいらっしゃいました。そう聞くと業正は「そうだろうと思っていた」と、手を打って喜んだ。
そして幸隆と二人で語り合った。

「幸隆殿、貴公が箕輪にいた頃、誰もその言を用いることがなく、ついに武田家の謀臣となり、
信濃もとうとう切り取られてしまった。この上野も、いずれそうなるであろう。
私ももう、七十を過ぎた。同じ切り取られるなら、どこの誰とも知れぬものより、気心のわかる
貴公に渡すことが、憂いの中の喜びというものだ…。

さて幸隆殿、ここに吾妻郡に続いた地に、利根郡という地がある。

私の養女の夫で、沼田上野介景康という者がここを治めておる。色に溺れるような、
思慮のない男ではないのだが、最近、金子美濃守の姪とかいう、素性の知れぬ女に産ませた子を
平八郎景義と名乗らせ寵愛し、嫡子景久をないがしろにし、廃嫡せんとする気配が見受けられる。
これでは沼田の家も、長くあるまいよ。

私が盗ってやろうと思っていたのだが…、もう、寿命も尽きるようだ。
かと言って、わが子の力ではまだまだ及ばぬ。
よってこの沼田、貴公に進上しよう。ははは、まあ疑いなさらぬことだ。」

幸隆は形を正して座を降り、業正に深々と頭を下げた。

「拙者、これより沼田において方便を駆使し、必ず奪い取って見せましょう。」

そう言って、箕輪を後にした。

後、この沼田は幸隆の子、昌幸が攻略するのだが、これは業正の教えに従った幸隆が、
十分に布石を打っていたからこそ出来たのだ、ということである。




969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 12:50:47 ID:qo+xZuC2
>>968
沼田万鬼斎の話か。なんか沼田側視点で小説になっていたのを読んだっけな。

昌幸が大北条、そして徳川と敵対しても沼田領にこだわったのは、
そういう父祖以来の縁で治めた地だったから、かもね。

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:37:52 ID:f8WuQhos
息子の業盛はかわいそうだ、遺言に
「降伏するな、闘って死ね」
って書かれてたそうな
これを守った業盛も偉いよ

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:43:25 ID:r0gU3SXu
>>995
>>968が本当だとすると何がしたかったのかよくわからなくなる。
息子の花道でも用意したつもりなのか・・・

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:47:31 ID:Z68yCiyN
>>996
「他の地を攻め取るにはまだ器量が足りない。
だが父祖の地は守りぬけ」

ってことじゃないかね?

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:51:04 ID:f8WuQhos
一回は遺言通り撃退できてるんだけど、
その後に2万ほどの大軍に攻められてる
こんな大軍追い返すには才能だけじゃなく
経験も必要だったんじゃないかな…
19歳で死んだのが惜しいよ

長野業正、真田幸隆への手紙・いい話

2009年01月10日 00:05

964 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/09(金) 11:49:38 ID:d/RhsbSy
真田幸隆への手紙

村上義清との戦いで所領を失った幸隆は箕輪城主の長野業正を頼り暫く滞在してた。
山本勘助の紹介により武田信玄の元へ仕えることになった幸隆は一計を案じる。
彼は病を患ったと言って出仕を止めた。
これを聞いた業正は使者を遣わし、さらに馬までも与えた。
幸隆は驚いたがいつも通りに使者をもてなし、その夜の内に箕輪から出ていった。
下仁田にさしかかったころ、続いて来る馬の背には家具が積まれ、その後には妻や家僕がやってくる。
これはと不審に思い聞いてみたところ、幸隆の出立後に業正の老臣がやってきて、これを我らの追い及ばない所で幸隆殿に渡されよと、一通の手紙を手渡した。
手紙を開けてみるとこう書かれていた。
「甲斐に武田信玄あり、まだ若いがまたとない弓取りである。しかし、箕輪にこの業正がいる限りは、碓氷川を越えて馬に草飼わせようと思ってもらっては困るぞ・・・」
幸隆はこれを読んで恥ずかしく思い、こんなことなら腹を割って話し合うべきだったと幸隆は立ちすくんだ。

いい(じいさんからの手紙)の話




965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 11:57:36 ID:qo+xZuC2
>>964イイハナシダナー
長野業正がかっこよすぎる……全て見通していて、餞別がわり?の馬までやって。
気概溢れる手紙の文面といい、武人の鑑だな。

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:33:30 ID:Mww8Zzxk
>>964

今川・北条・上杉・徳川・織田と錚々たるメンバーを
纏めて亘りあった信玄が業正が生きている間は無理って絶望した程だからね
信玄が10年長生きしたらと言う話しは良く持ち上がるが
業正が10年早く亡くなっていたらと言うのもまた面白そうだ
それほどの武将だね

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:37:52 ID:f8WuQhos
息子の業盛はかわいそうだ、遺言に
「降伏するな、闘って死ね」
って書かれてたそうな
これを守った業盛も偉いよ

長野業正とその娘達と国人・いい話

2008年10月16日 10:44

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/05(火) 19:33:03 ID:ABtOf6Ki
いい話というか、長野業正のちょっと面白い話を見つけたので張り

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/03/08(土) 21:56:37 ID:i4ZXIU7M
業正の娘たちはいずれも美女揃いだったので先を争って縁談の申し入れがあったそうだ。
あまりの人気ぶりに業正も生産が追いつかず娘を貰えなかった豪族が反抗したりして上州戦略に支障を来たした。
あと10人娘がいれば信玄に箕輪城とられずに済んだのに惜しい。





637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/05(火) 20:44:34 ID:Bisuc0Cm
さすが在原業平の末裔だ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/05(火) 23:47:17 ID:/v/TPvAG
じゃあ、業正はものすごく顔立ちが整ってたのかもしれんな
というか豪族どもはどんだけ美人の嫁が欲しかったんだw

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/06(水) 09:46:15 ID:xM69f+Ww
政略に有効でかつ美女だったら言う事なしだしw

640 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/06(水) 12:16:37 ID:ufKHF8s9
>>636
あと10人いればって、12人も嫁がせてんだよ。
徳川家斉みたいにやること無くて子作りマシーンならともかく、ふつう無理だよなwww

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/06(水) 12:22:13 ID:rL17nwz+
関東管領家の下で上野を実質支えてきた長野家
国人衆にしてみれば少々のぶさいくでも婚姻関係になりたいだろう
ましてや美女だなんてサイコーすぎる!

もらえなかった国人衆がふてくされるのもしょうがないな