総じて武士の殉死には

2017年08月17日 17:13

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/17(木) 04:15:30.84 ID:fm2rTd/F
ある老人の話によれば、「総じて武士の殉死には様々あって、義腹・論腹・商腹がある。

君は礼をもってし、臣は忠をもってす。主君のために心を尽くし、軍陣では主君の危機
を救い、太平の時は賞禄を目に掛けず無二の奉公を致し、もし主人の死去あらば二世
の供を致す、これが義腹なり。

昔、相馬長門守利胤の家士の金澤備中と申す者は相馬家代々の忠臣で、すでに備中
まで11代が戦場で討死したのであった。その子・忠兵衛という者は、将門より26代目
の大膳太夫義胤(中村藩第2代藩主・相馬義胤)が病死なさった時に申して、

「私めの先祖より亡父・備中まで11代は、いずれも御馬前で討死致した。ところが今は
天下太平なので、そのような御用にも立ち申さず。せめて二世の御供でも致し君臣先祖
の忠孝に備えるとしよう」

と、相馬の城下中村で殉死した。「これこそ誠の義士と言うべきだ」と、諸人は誉めた。

また、同格の傍輩が殉死するのを見て、「我も劣るまじ」として腹を切るのを論腹という。
また、さしたる恩もなく、死なずとも済むはずのものを、「我が命を捨てれば子孫の後栄
にもなるだろう」として腹を切るのを商腹という。

また、いつもは「主君に万一のことがあれば一番に命を捨てる!」と罵りながらその期に
臨んではとやかく言ってその場を外す者もいる。これは論ずるに足らず」

――『明良洪範』


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太刀「瀬上がり」

2017年01月04日 21:03

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/03(火) 18:06:49.71 ID:ri5zkNb1
太刀「瀬上がり」

永禄12年(1569年)正月、本圀寺の変の際、
相馬家の堀内俊胤は三好義継の軍勢に加わり、
三好長慶、松永久秀、岩成友通らと戦い敗死した。

家来が俊胤の首を抱えて桂川を渡る際に、
俊胤の佩刀が流れてきたために「瀬上がり」と名付けられた。

堀内俊胤の跡は、奥州三春城主の田村氏の一族である中津川大膳が堀内氏の養子となり、
名跡を継いでいたが後に離縁されて国元へ帰る際、この「瀬上がり」を持って帰ってしまう。
ところが国元で凶事が起こったため、この「瀬上がり」を堀内氏へ返して寄越した。

その後伊達家に近い藤田四郎宗知が堀内氏を継いでいたのだが、
離縁され国元へ帰る際に「瀬上がり」を持って帰るが、
これも同様に奇怪なことが起こったために、
やはり「瀬上がり」を堀内家へ返して寄越したという。

その後は堀内家に伝来した。



※管理人注:史実的に見るとかなり無茶な内容ですが、この伝承は確かに存在します。

我々の内実は、

2017年01月03日 16:42

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/03(火) 14:12:08.99 ID:NcThKzBi
関が原が始まろうとする頃、伊達政宗は自領への帰還を急ぎ、相馬領を通過する。
ここで政宗の家臣である片倉小十郎景綱は、政宗を迎えるためと、鹿島町に先行してそこの宿泊した。
この鹿島町は田中城の近辺であり、田中城には相馬家当主・相馬義胤の父、盛胤の居城であった。

片倉小十郎は草野左馬充、鈴木掃部左衛門を案内として、盛胤の家老である佐藤左近を呼び出し対面した。
左近を通して盛胤に刀、次郎郷胤に脇差しを進上し、その上で左近にこう語った

「今度、政宗は領地への下向につきこう命じました。

『冨塚近江は上下1500の人数にて岩城領に向かえ。我々片倉父子は上下1000人にて御領内の鹿島に
向かえ、矢田勘解由兵衛は上下3000の人数にて駒ヶ嶺領に向かうべし。』

これについて考えるに、世上の浮説ににおいて、佐竹、岩城、相馬、那須の面々が、長尾景勝に同意され、
石田治部少輔に与して家康公に敵対されると言われています。
これに対し我が主君政宗は無二の家康公の御方ですので、これらを警戒する必要があるのです。

憚り多きことですが、相馬と伊達は代々の縁類ですから、私ごときでもそのお為良かれと考え、
全く粗略にすることはありません。

もしも、一旦治部少輔にお志があったとしても、それはお諌めになるべきです。
何故ならば、今天下に、家康公に比するような大将は誰も居ないからです。
治部少や景勝が時の威勢に誇ってとやかく申されようとも、彼らが末まで全う出来る事はありえません。
それに与した人々の家は、滅亡するでしょう。

家にとって大切なのは社稷であり、主人は一代のものですから、時に至っては義を失っても
それは仕方のない事です。ただ期して末の所をよく吟味して頂きたいのです。」

左近はこれに
「底意を残さぬ懇切なお話、委細承りました。これについて先ず、盛胤に聞いてまいります。」
そう答えて退出し、田中城の盛胤に、片倉小十郎の語ったことを逐一申し上げた。
盛胤はこれを聴くと

「世上の浮説について、そういうものも有るだろう。だが我々は全く治部少輔に与していないし、佐竹や
景勝にも与していない。我々の内実は、小十郎も推察しているだろうが、累年の合戦のため諸士はおおかた死に、
今漸く、その子供たちを養育している段階であり、人数を持っていないのだ。なので家康公のお為といっても、
一体何が出来るだろうか?万一、家康公より御催促があれば、その時は50,30であっても召し連れて
参ずるつもりである。

政宗が家康公の御方に参るのならば、伊達との国境に番士を置くべきではない。また伊達家の人数の往来の自由も
認めよう。もし伊達方が相馬に対して隔意を持たれてはどうにも出来ない。内々にこの旨を伝えるように。」
そう語り、佐藤左近は立ち戻りこれを小十郎に詳しく申し聞かせた。

小十郎は
「そういう御心入であれば御家長久、珍重であります。しかし返す返すも、お諌め申し上げるべきです。
義胤公へのお諌めこそ第一です。」
そう申し、政宗に対しても盛胤の考えを伝えた。

片倉小十郎はこの地に1日滞留して、2日目に政宗のお供をして帰っていった。
その後程なく、景勝領であった白石を、政宗が攻め取った。

(奧相茶話記)



相馬義胤の秀吉への臣従

2017年01月02日 20:56

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 08:19:11.54 ID:TySr3gnB
豊臣秀吉公は天正10年、明智日向守光秀を討ち取った後、天下を順次掌握した。
天正18年、秀吉公は諸国において私の争論そしてはならぬと、固く禁制としたことを触れられた。
そのため伊達と相馬の間の調略は、互いに停止した。

同年、秀吉公は相州小田原に発向され、北条の門族を征伐されるということが、この国までも確かに
聞こえ来た。そのため「将軍(秀吉)の御支配に預かるなら本望である。ともかく小田原に参陣然るべし」
と、相馬義胤は相州へ参上し、浅野弾正少弼長政を頼りこれを言上した。

秀吉公は相馬に対し、少々悪印象を持っていた。しかし石田治部少輔三成が殊更に懇意があり、
浅野長政以上に頼りと成り、これによって相馬の言い分は疎意なく巨細に上聞に達し、故に秀吉公は

「相馬は小身ではあるが武勇の士将にて、大身の敵に向かって度々の戦功有りと聞いた。」

と仰せになり、義胤の謁見を許した。

その後、義胤は妻子とともに上洛し、北野の千本に屋敷を給わりそこに居住した。
この年、後の相馬大膳亮利胤は11歳であった。
またやがて佐竹修理太夫義隆の御母堂となる桂雲院殿は、天正19年にこの千本の屋敷にて
誕生されたのである。

(奧相茶話記)

相馬義胤の秀吉への臣従について。石田三成に世話になったことをこれだけハッキリ書いているのも珍しい。

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:01:51.94 ID:wVQJxPkt
なるほど

おかげで、世界史上でも有数の長期に渡って領土を治めた名家が存続できたのか

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:24:49.35 ID:93XZxViO
そりゃ利胤も初名は三成から偏諱を貰って三胤ですからな。

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 14:08:23.09 ID:LNdqipkQ
浅野を頼るか石田を頼るかで命運が別れる東北の大名たちw

堀内家娘の事

2016年12月15日 14:57

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 02:05:42.36 ID:Da97V1+q
相馬家の分家、相馬堀内氏の当主・左衛門には娘が一人だけで、嗣子無く、このため
娘に、相馬一族である藤田齊庵の弟、掛田兵庫という人物を迎え、堀内家を継がせようとした。
ところがこの娘が兵庫を嫌ったため、兵庫は堀内家から去り、その後柏寄村に居住して生涯を終えた。

兵庫が去った後、次に中津川家の二男、大膳亮を娘の婿として迎えたのだが、彼もまた嫌われたため、
仙道へと帰った。

ある夜、男二人が顔を隠し、誰ともわからぬようにして堀内の屋敷に忍び入った。
時間は宵の口で、召し使われている女房たちは自分の仕事をしており、堀内の娘は屏風の陰から
何とも無く外を見ていた。

するとそこに、先の男のうち一人が不意に走りより、この娘を一太刀切って逃げた。
召し使う女房の中には、この事態を見て一人、この暴漢に飛びかかり組み留めようとしたが、
男たちは二人で右や左に蹴り転ばした。女の事とて力なく、彼女はそこから逃げた。

この二人の男たちが誰だったのか、後までわからなかった。
娘は耳の下から頬にかけて傷が残ったという。
彼女は後に、二本松安房守義秀の嫡子、右馬頭国秀の妻となった。
しかしこの国秀は、叔父の義国に討たれた。
この時妊娠していた彼女は、相馬に帰って出産をしたという。

(奧相茶話記)

誰が彼女を襲撃したんですかねえ。



412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 02:41:51.33 ID:Sv/EWd5r
犯人はヤス

相馬顕胤が愛憐深く、義理を重んじる人であったので

2016年12月13日 09:11

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 23:31:05.05 ID:LYbS+1jX
老武士たちの語る所によれば、相馬顕胤は相馬三郡の武士を総動員して戦ったのは三度であった。
小戦での働きは度々に及んだ。しかし近郡を尺地も犯すことはなかった。実に良将の器であった。
その封土を今見てみれば、東は一里あまり。南は行程十三里あまり、西は六里に近く北は二里に足らず。
漁樵は便を得てその利多し。地雄人傑にして東方の険地である。
魚鳥禽獣尽く集まり、木竹は豊かで、漁樵五穀の利は挙げても尽くしがたいほどであった。
そして相馬顕胤が愛憐深く、義理を重んじる人であったので、人々はみなこれに懐いた。

しかし、牛渡兄弟だけは違った。
牛渡治部とその舎弟、近江は、所領のことで恨みを含む事があり、岩城へと亡命した。

相馬顕胤が富岡に在城していた時、牛渡兄弟は岩城氏に「野伏を三百人ほどお預けいただきたい。
富岡を取って参りましょう。」と申し上げると、了承され望むに任せ富岡へと差し越された。

ところがそこで兄弟は、幾千ともしれぬ大量の人魂が、まるで蛍火のように乱れ飛ぶのを目撃した。

近江は思わず、兄に言った
「この奇怪の甚だしさよ。夜討ちは止めるべきではないでしょうか?」
しかし兄の治部は答えた
「日限を定めてここまで来たと言うのに、帰れば人の嘲りを受けるだろう。しかしお前は帰れ。」
そう言われ、近江は岩城へと帰っていった。

そうして牛渡治部は富岡城に夜討ちを仕掛けたが、彼の襲撃は城中において既に察知されており、
待ち構えていた所に寄せてきたのを、追い散らし、ここで治部は討ち取られた。

牛渡近江はその後伊達へと行き、そしてまた標葉に戻った。
その事を知った相馬顕胤は、江井河内、岡田摂津に、岡田宅に近江を呼び寄せ討ち取るように仰せ付けた。
江井、岡田の両人は相談し、牛渡近江を呼び、酒肴を勧めた後、江井はこう言った

「牛渡殿の御刀は達磨正宗にて、名誉の切物と承っている。どうか見せてくれないだろうか?」

この望みに牛渡近江
「貴殿も大原真盛の太刀にて、度々の功名隠れなし。それを、私にも見せてほしい。」

こうして互いに抜いて、左右の手に取り替えて見て、その後また返し、互いに鞘に収めた。
近江は退出する間際に
「この牛渡を謀って討とうなど、思いもよらぬことだ!」
と言って帰っていった。

その後、牛渡近江は小高に来て、宿老を通じて相馬顕胤に面会し、言った
「私は流浪の身となるよりは、死して御屋形様の憎しみを晴らして差し上げましょう!」
そう申し上げると自分の太刀、刀を投げ捨てた。

これを見て相馬顕胤は言った
「虎狼も牙がなければ、誰がその威を恐れるだろうか。」
そして近江の帰参を認め、扶持を与えた。

相馬顕胤は質素純朴で、普段から近習外様を集め古今の政治について議論し、賢愚得失を評した。
彼は常にこう言っていた
「私が人を捨てなければ、人もまた、私を捨てないだろう。」

(奧相茶話記)



411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/13(火) 17:32:27.28 ID:W90PPjNz
>>409
そんな豊かな土地だったのに今じゃ

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/13(火) 17:58:42.17 ID:Zl37lP2U
>>409
人魂はなんだったんだ…?

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/14(水) 06:50:55.86 ID:8BFODaSn
>>412
治部兄貴たち襲撃者の魂が飛散するさま

盛胤にとってこの嫁は叔母である。

2016年12月08日 17:21

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 08:50:13.30 ID:1Y7hC+6p
相馬義胤13歳の時、小高城において能を催した。これは伊達稙宗が居城である丸森より
小高を訪問したので、その歓迎の為である。
稙宗はこの趣向に殊の外喜び、そのあまり即座にこう提案した

「私には秘蔵の娘がある。義胤殿をその婿にしたい。」

父親の相馬盛胤はこれを承諾し、その年、永禄2年にこの姫を迎え取った。この時姫は15歳であったという。

ところで、伊達稙宗の長女は、相馬顕胤の妻であり、すなわち盛胤の母であった。
その妹が義胤と結婚するということは、盛胤にとってこの嫁は叔母である。
昔はそういった義別が無い世の中だったという。

この本文には永禄2年で義胤13歳とあるが、正確にはこの年では12歳である。
但しこの嫁取りは永禄3年だったのではないか。

(茶話記異説改選集)



顕胤は味噌を調える下屋にいた

2016年12月06日 17:43

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 16:38:17.05 ID:wFpqOVTa
ある時、伊達稙宗は飯尾尾張という武士を、相馬家への使者として遣わした。
この飯尾というのは伊達家において武勇の名があり、燐郡に隠れ無き者であった。

しかし相馬に到着すると、当主の相馬盛胤は病に伏しており、このため飯尾は、盛胤の嫡子であり
稙宗の娘婿である相馬顕胤の御前に召された。

この時、顕胤は味噌を調える下屋にいたため、その場所にて飯尾と対面した。
相馬家の家臣たちがあえて飯尾をこの場所に通したのは、こう考えたためだった

『飯尾は伊達にて武勇の名を得たること、燐郡にまで隠れ無き名誉の者である。
であれば彼は、相馬の大将は未だ幼いが早くも弓箭の心懸けがあり、味噌等にまで御心を
付けておられる、と感心するであろう。合戦を心がけるには、味噌は第一の物だからであり、
丁度ここに居られたのは幸いである。』

そうして対面は無事終わり、飯尾は伊達に帰ると、稙宗にこう報告した

「殿は姫様をお捨てになられましたぞ!今度婿殿を見てまいりましたが、自身で味噌の奉行を
していました。あのような体では、相馬の大将としていかがかと思います。」

そう尽く悪口をして、顕胤を貶めたのである。

(茶話記異説改選集)



385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 16:42:39.41 ID:bJFgmhKY
>>384
ワロタw

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 22:13:59.13 ID:LSKo+3bE
>>384
まあ味噌のところで面会させたら普通そうなるわなw

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 00:52:02.81 ID:GpgXSUb1
副業:味噌屋の大将とか弱そうだもんな

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 02:08:34.37 ID:YRvVvTmk
顕胤の体格を見て、自分が顕胤に及ばないのを悟ったとき、貶める他ないと決めたんだろうね

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 04:17:46.73 ID:al9iUwlI
政宗「お味噌は大事なんやぞ」

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 17:04:18.71 ID:T1fueiDr
家康「せやな」

平成27年7月。奥州相馬に、四百五十余の騎馬武者が帰って来た。

2015年07月27日 17:59

448 名前:番外編:ある騎馬武者の話[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 21:35:36.70 ID:eyZ380dP
『相馬野馬追』は、その名の通り相馬氏領で行われる神事であり、平将門が下総相馬郷において
野生馬を追って軍事訓練をした事に始まるとされる、古式ゆかしい祭りである。
慶長7年(1602)、相馬義胤が江戸より改易の報を受けとったのも、野馬追の最中であったという。


「それがし北郷が組頭、中橋安彦!供養のため畏れながら、北郷騎馬先頭組頭として本年も
出陣させていただきます!何とぞ御加護を賜りますよう、お願い申し上げます!よしなに!」

相馬北郷組頭・中橋安彦は、大音声で縁者・先祖に告げて、馬上の人となった。

例年は五百騎を揃える騎馬隊が、今年は八十騎を連ねるのみ。それでも沿道には三万六千の民が詰めかけた。
苦しい日々の中で集まってくれた人々に応えるかのように、中橋は声を張り上げた。

「沿道の方々に物申す!ただ今、北郷騎馬隊、進軍開始!!」
武者たちは威風堂々と練り歩き、一刻半ばかりの武者行列を終えた中橋は乗馬とともに自宅へ向かった。

ガレキの山となった、自宅の跡へ。

平成23年(2011)3月11日。大震災に襲われた中橋が急いで帰宅した時には、自宅は津波に飲み込まれていた。
翌12日、中橋はガレキの下から冷たくなった妻を発見した。

毎年、中橋は妻に具足を着付けてもらっていた。今年は、着付けだけで一時間を要した。
7月22日生まれで「野馬追のせいで、誕生日を祝ってもらえない」そうムクレつつ、手伝ってくれた妻だった。
震災から数か月後の野馬追参加も、亡き妻への供養と、自分自身の勇気を取り戻すためのものであった。

「これで一歩踏み出せる。俺はもう大丈夫だと、どこかで見てくれている妻に、この甲冑姿で伝えたい。」
自宅跡前で黙祷を終えた現代の騎馬武者は、明日へ向けて一歩を踏み出した。
(NHKスペシャル他より、敬称略)

平成27年7月。奥州相馬に、四百五十余の騎馬武者が帰って来た。



451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 22:50:12.73 ID:bsfrDP5Y
>>448
現代のとてもいい話にござりますなあ

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 23:51:39.02 ID:7c4EnYQv
感涙した!

岩城重隆婚約破棄事件

2013年04月29日 19:50

451 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 00:09:36.98 ID:0q8LlLTo
大永4年(1524)、相馬顕胤は義父である伊達稙宗より相談を受けた。稙宗はその嫡男である晴宗に、
そろそろ妻を娶らせたいが、岩城重隆に年頃の娘が有ると聞く。これを嫁に迎えたい。
ついて近隣である相馬が取り次いで頂きたい、というものであった。

これを承った相馬顕胤は家臣たちと相談。木幡出羽守を岩城へと派遣した。
岩城側の相馬との取次は志賀寒虫という岩城家家老であり、先ず彼の邸宅を尋ねた。
双方、普段から交流のある中であったため、寒虫は直ぐに出てきて
「今日は一体何の御用だろうか?」と聞いた

これに木幡は先ず「岩城重隆様には、確かご息女があられましたな?」
「確かも何も、殿はお子様はご息女お一人だけで、大変に愛していらっしゃっている。
それよりも、何故そんなことをお聞きに成る?」
「ええ、そのことです。顕胤が私をこちらに遣わしたのは、岩城重隆様のご息女を、
伊達稙宗様が御嫡男の晴宗の後妻女として貰い受けたい、と願われまして、顕胤に媒をお頼みに
なられたのです。
御存知のように顕胤は稙宗様の婿であり、また若輩でもありますのでこう言ったお頼みは
断ることはできません。どうかあなたから重隆様にこの事を申し入れられ、首尾良く出来ますように、
あなたの才覚に任せ入る所であります。」

寒虫聞いて
「そのお話は、私のような者にとっても喜ばしいことです!むろんご息女様は未だ誰とも婚約なども
しておられぬ。ですが私ばかりがこのように申していても仕方がない。 これから重隆に申し伝えて
話を決めてきたいと思う。暫くここで待っていて頂きたい!」
そして早速登城しこの話を重隆に説明すると、重隆も
「私の娘を伊達に遣わすことといい、相馬が媒酌人を勤めることといい、万喜千悦、限りないほどである。
しかし伊達は大身であり、我ら岩城は小身であれば、不相応であるという事にさえ異議がないのであれば、
この縁組は実に有り難いことである。」

寒虫これに
「岩城の事は、例え伊達が知らないとしても、相馬殿は燐郡であれば良くご存知です。
そして御心にかなったからこそ、こうやって仰せ出になられたのです。」
「そういう事ならばこれに何の問題があろうか。但し私には跡継ぎが居ない。私の娘と晴宗殿の間に
子供が出来たなら、嫡男を給わって我が跡を継がせたい。そうそう、乳母にもこのことを聞かせるように!」
と言われたため、寒虫は息女の乳母のもとに行きこの事を話すと、彼女も大いに喜んだ。
この頃岩城重隆は妻を亡くし、独り身であった。

さて寒虫は御前を下がり帰宅して、待っている木幡に早速報告した
「さてさて、目出度く殿はご了承なされた。こちらは固く事済みました。伊達については、
相馬殿にお任せいたす。」
木幡出羽も「どうぞご安心下さい」と、直ぐに帰ろうとしたが、寒虫から「このように目出度いことですから、
祝儀の一献を」と饗応を受けた。

木幡は帰って顕胤に詳細を報告し、顕胤から伊達稙宗に、岩城重隆の存念は残らず伝えられ、稙宗からも
大いに喜ばれた。
が、この輿入れは延期された。それはこのような事が起こったためである

相馬の方では新婦のための座所が完成し、この事は岩城にも伝えられ、もはや伊達稙宗からの
受け入れ準備の完了を待つだけ、という状況であった所に、羽州名掛の者で、小高町に住んでいた
商人が、岩城の町人からこのようなことを聞いたのである
「岩城殿の娘は、白河殿(白河結城義綱)の御嫡男(晴綱)の所にお嫁ぎになると、もっぱらの噂です。」

この商人は岩城のご息女が相馬家の媒酌で伊達に嫁ぐということを聞き知っていたため、実に
不審なことだと思い、商売の品を宿に預け、すぐさま岩城から小高まで帰り、もはや暮れ時であったが
そのまま木幡出羽守の台所を尋ね、「お殿様に直接お伝えしたいことがあります!」と言う、
何事かと木幡出羽出て、彼に話すように言えば、「実は…」と、岩城での噂をありのままに伝えた。

これを聞いた木幡、賤しき者の言葉ながら、ともかく殿にお知らせしなければと、もはや夜間であったが
急ぎ登城し顕胤に申し上げた。顕胤はこれを聞くと笑われ
「夜中に何事かと思ったが、岩城重隆ほどの人物が、どうして娘一人に婿八人というような事を
するだろうか?町の者の無責任な噂など、取り上げるほどのことではない。」

452 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 00:10:28.88 ID:0q8LlLTo
しかし木幡
「しかし、現在は自分だけが勝てば良いという世情であります。今日は今日、明日は明日などと
別けて考え、どんな約束も頼みには出来ません。先ず諸老臣とこれに関して評議すべきです!」
「実否もわからないまま老臣を集めて評議しても仕方ないだろう。では小人二人、歩卒一人を
商人に変装させ、白河に遣わして様子を探ってこさせよ。」

そうしてこの3人に、台所に有った鰹節や麻を少々、商品として持たせ遣わした。
一両日して彼らは帰ってきて、報告する

「岩城殿のご息女と白河殿との祝言が、近々必ず行われます!」

老臣たち尋ねる
「どうしてお前たちはそのように言い切れるのか?」
「それはこういう事です。巷説は勿論のこと、染屋、鍛冶屋。木細工屋などが、急ぎ
婚礼用具の用意を命ぜられているからです。」
相馬顕胤は予想外のことであると驚き、一族諸老を集め相談し、とにかく取次の志賀寒虫の元に
使者を遣わし事情の説明を求めることになった。

寒虫は使者の言葉を最初笑っていたが、やがて驚き、「重隆が私に聞かせないような事は
よもや無いとは思うが、とにかく重隆より承ってまいる!こちらで暫く待っていてほしい」
と、直ぐ様登城し御前に出た

「相馬殿より使者が使わされ、このような事を言って来ました。殿はそのような不義をなさったのでしょうか?
そして何故それを私に仰って頂けなかったのですか!?」
しかし岩城重隆は扇で頬杖をついて、寒虫から何度声をかけられても答えなかった。
重隆は大変な上戸であり、この時も昼間から大酒を飲んで泥酔していたのである。

それでも寒虫は詰問した。「相馬からの使者をどれだけ留め置く気ですか!?本当に白河と縁組が
有るのであれば、その理由をご返答あれ!」

すると重隆は顔色を変えて
「どうしてだと!?白土与七郎が言うには、伊達はその領地が我らから遠く離れており、
多くの郡を隔てている以上、婿を仕ったとしてもなんの役にも立たない。
一方白河殿は、何を申し合わせるにせよ燐郡であるので便宜であり、また子が出来れば貰って
家督に立てるのも易き事である。内々に白河殿よりお望みがあったが、既に伊達から先に話が来ていると
申した。ところがそれは以ての外の分別だという。しかし伊達と、相馬殿の媒酌で先に縁が決まった以上、
これを取りやめるのは難しいと言うと、白土は、それは大丈夫だ、白河と岩城が一和すれば、どこからも
手出しなど出来はしませんし、時が経てばどうとでも成ることです。是非白河に嫁がせて頂きますように、
と言うではないか、よってそのようにしたのだ!」

この白土与七郎志賀寒虫と同じく岩城家の重臣で、白河結城氏との取次であった。

寒虫は怒り
「さてもさても、殿は御運がお尽きになった!相馬殿が木幡を使者に立て固くお約束なさったことを
お忘れになったのか!?今に見給え、相馬伊達の両勢にて岩城は攻められますぞ!ですが御家に忠義の
者達も、私を始めとして不義の将に忠戦致すものはおりませんぞ!そうなれば岩城は滅亡の時です!」

そう言い捨ててそのまま御前を退去した。そして相馬からの使者にもこの事を知らせ、
使者から詳細を聞かされた相馬顕胤
「さてもさても、重隆殿はなんという無分別の人だろうか、相馬を何だと思ってその様な事をなさるのか」
と言い捨て、その後何も言わなかった。

志賀寒虫はそれから日を経ずして妻子を引き連れ岩城を立ち退いた。途中小高の城下を通り、
この時顕胤は「このまま相馬に留まってほしい」と仰ったが、彼は更に奥の大崎に向かって去っていった。、
(奧相茶話記)

岩城重隆の、婚約破棄事件に関する話である





相馬義胤、大阪遅参

2013年04月12日 19:50

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 19:40:46.52 ID:j1BlCTDN
慶長20年(1615)3月、江戸の幕府は再びの大阪攻めのため全国の大名に参集するよう命じた。
大阪夏の陣の勃発である。

奥州の相馬利胤もこれに応じ上方へと上ったが、駿府において病にかかり、十死一生というべき
重体に陥った。無論病臥したまま軍勢を動かすことは出来ず、それ故急遽、隠居していた
父・義胤が人数を率いて参陣することとなった。

4月、義胤は隠居所である標葉郡(現・、福島県浜通り)泉田の城を出立し、まず江戸に向かった。
この時義胤が近習や外様の面々に言ったことには

「太閤様以来、天下一統して安静の世になったため、我が身も畳の上で朽ち果てることに成るのかと、
毎晩眠る時に口惜しく思っていたのだが、このように不意の出来事によって、天下の武将の御為に
命をかけて戦うことになった!
これは誠に老いの果報!老後の大幸、一体何事がこれに優るだろうか!?枯れ木に再び
花が咲くというのはこの事である!」

そのように大いに喜ぶこと限りなかった。
義胤は次男の左近及胤、そして3男の越中久胤(この時16才)を伴い進軍した。

義胤はこの年66歳であったが、その頃下々は喜胤の事を
「謡の平家物語を聞かれるにも、常に修羅場を好んで聞かれて、その時は御心も浮き立っているようであった。
この度は真の修羅場であるのだからその浮き立ちもひとしおであろう。」と言い合っていた。
その時分は家中にも戦場を駆け巡った老巧の者達が存命していて、義胤と共に従軍していた。

さて、相馬義胤の軍勢は5月9日、近江草津に到着した。ところがここで衝撃的な情報が

「大阪城は一昨日の7日に落城しました。」

諸勢は既に帰陣を始めており、兵卒たちも口々にこのことを語っていた。

これには義胤を始め老若上下、進み勇んでいただけにガックリと力を落としたが、

「と、とにかく大阪までは参陣しよう!」

そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

この様にどうしようもない状況であったため、醍醐の方に宿陣すると、佐藤丹後を使いに立て、
佐竹義宣に「どうすれば良いだろうか?」と尋ねた。

義宣からは「とにかく人数のうち過半は国元に返して、義胤殿はそのまま醍醐に居てください。
遅参についての詳細は私の方から幕府の老中に伝え、両御所様(家康・秀忠)のお耳に達するよう
取り図っていただきます。」との返事であった。

そうしている内に利胤も病から回復し、上洛したのであるが、彼も醍醐で父と合流した。
こうした所で、大御所様並びに将軍家からも「特に気にしていない(無御別心由)」とのことで、
佐竹義宣が同道して、二条城において相馬家父子4人お目見えがかない、その後親子ともども
帰陣したとのことである。
(奧相茶話記)

相馬義胤大阪遅参、というお話





225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 21:25:10.60 ID:1xdXtEFu
おれは平家物語の修羅場だと『信連』が好きかな
長谷部信連が1人で300人迎え撃つ話
信連は長続連たち能登長氏の先祖

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:49:38.68 ID:NLBTYAWT
>そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
>「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
>などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

カワユスw

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:54:44.90 ID:eEJD0fni
相馬さんガンバ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 23:50:04.41 ID:9j5yzmzt
横向きってまさか蟹歩き…
まあ、顔背けてるだけかw

相馬義胤の意地

2013年04月10日 19:52

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 22:41:04.27 ID:mVgV5xwJ
関ヶ原の役が進行している中、北では伊達政宗が上杉方の白石城を攻略すると、
中立を決めていた相馬家は動揺し、水谷式部を始めとした重臣たちは相馬義胤
このように申し上げた

「この戦、最終的には家康公が天下を掌握なされるでしょう。
そうであるのに、我が相馬家は家康公に対してお味方する験を一事も成しておりません。
ここはせめて家康方の伊達政宗に内通だけでもしておかなくては、末々御家の御ために悪しきことかと
考えます。」

しかし義胤はこれを聞くや
「家康公に御味方する験が無いから申し分が立たないというのなら、家を滅ぼしてしまえ!
あの政宗に内通し、その下知を請うなど、考えもできないことだ!
この事、重ねて申し出すことならぬ!」

そう、怒りの色もあらわに言い切った。
憎むべき敵で在り続けた政宗に、膝を屈し情けを請うなど、義胤には耐えられぬことだったのである。

重臣たちは義胤にこのように断言され、再び集まって相談し
「ご嫡男である利胤様は若年でも有り、これが政宗に内通しても、苦しからざることではないか?」
と考え、これを義胤に申し上げると

「彼は若者であるから、その身の振り方はお前たちに任せよう。
私は、例え家康公より仰せ付けられたとしても、政宗の下知には絶対に従わない!
…しかしお前たちは自分自身の考えによって、一族のために成るよう働いてほしい。」

こうして、相馬利胤伊達政宗と通じ、政宗の指示により福島を攻めた。
この時の政宗からの指示の書類など今も残っているが、相馬家が一旦改易された時、
それらの書類はなんの役にも立たなかったとの事である。
(奧相茶話記)




220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 11:39:22.38 ID:BPhl7Pl/
>>212
なぜ秀康ではなく政宗なんだろう

相馬顕胤への輿入れ

2013年03月21日 19:51

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 22:00:08.87 ID:R8PTPxwb
陸奥相馬氏13代目である相馬盛胤は病気がちで体が弱く、未だ幼い嫡子顕胤への家督相続を
進めていた。そして顕胤の嫁として、奥州最大の勢力である伊達稙宗の息女を望み、
婚約を交わした。

所で先にも言ったように盛胤は病気がちであり、ある時伊達家より、その見舞いの使者として、
伊達家中でその武勇が近隣にまで聞こえた飯淵尾張という者が派遣された。

しかし盛胤は病重く対面はならなかった。かわりに嫡子である顕胤、この頃10歳ほどであったが、
彼の前に召し出されることとなった。

この時顕胤は丁度味噌を製造する下屋に居り、飯淵への対面もそこで行われた。
この場所を選んだのは、相馬家の家臣たちが考えて行ったことであった。

『隠れない武勇の者である飯淵尾張なら、相馬の大将は未だ幼少であるが、早くも弓矢の心得が有って、
味噌など兵糧のことにも心がけられていると称賛するでしょう!彼は合戦の時の必需品として
味噌が第一と言っている程の者ですから!』

そのように言って顕胤に進めたのである。

さて、帰国した飯淵尾張は、伊達稙宗の前でこのように報告した

「殿はご息女をむざむざと御捨てになりますか!?今回私は婿殿を見て来ましたが、
あの方はご自身で味噌の奉行をするような人物であり、その程度の者が相馬の大将とは、
一体何と申し上げていいのか…」

ほとんど罵倒である。大失敗であった。
報告を聞いて稙宗も不安になり、相馬盛胤が「私が生きているうちに新婦へ対面したい」
と行ってきても、色々と理由を構えて輿入れを引き伸ばした。

このような状況に盛胤および相馬家中は焦り、輿入れがないのなら伊達と合戦を行うという
事にまでなり、この強硬姿勢にようやく稙宗も娘を輿入れさせることに同意した。
時に永正17年(1520)、相馬顕胤13歳、稙宗息女15歳であったという。
そして稙宗息女が相馬の居城・小高城に輿入れしたその日、相馬盛胤は没したという。
(奧相茶話記)

後に奥州に様々な影響をもたらした伊達稙宗の婚姻政策の内、相馬顕胤への輿入れについての
逸話である。




973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 22:03:31.64 ID:nzS+1SPZ
教訓 小細工するな

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 22:54:37.57 ID:x0eXJf0A
白い装束で謝罪みたいな小細工はしないよねー

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 23:06:14.14 ID:17oJ7skP
合戦の時の必需品として味噌が第一って言うのは、やっぱり塩分が大切ってことなのかな?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 23:10:53.58 ID:3449Dmoo
味噌の奉行くらいでそこまで言うか
戦国を終わらせ伊達を屈服させたのは味噌作りどころか何でもかんでも自分でやってきたような人物なのに

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 23:24:23.51 ID:nhRz/fRl
もうくそみその話はいいです

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 23:45:07.34 ID:jxkXI0L0
伊達って本拠地羽州なんだけど奥州最大の勢力だったのか?

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 05:48:35.05 ID:Nf7/3pFx
相馬盛胤って生涯戦い続けた猛将みたいなイメージあったのに・・・


と思ったら先々代が同じ名前だったんだな

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 08:27:05.88 ID:mbqVQr6r
味噌蔵対面案を出した奴は左遷されただろうなw

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 09:40:00.86 ID:/x+ohJg7
>輿入れしたその日
安心してポックリ逝っちゃったのかなあ。
ギリギリ会えてなかったりしてたら気の毒。

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 10:19:16.25 ID:Up30wcjl
>>975
腐りにくく携帯しやすいのが最大の利点じゃないかな
栄養学的な面は当時は不明だったろうが、貴重なタンパク源でビタミンも豊富

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 11:18:57.47 ID:9XyJggfE
味噌が戦場の必需品なのは、ウンコ漏らした時焼き味噌だと誤魔化す為

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 12:49:53.26 ID:TtsoQ8ho
wiki見たら顕胤から盛胤、義胤と勇将揃いじゃねーか
顕胤を婿にして正解だろ
反故にされたとはいえ伊達七世弓を相馬に引くべからずは相馬が信義に厚いということのあらわれ
そんな相馬を滅ぼそうとした政宗は流石俺らのクソムシ

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 18:26:23.36 ID:4kXo+laV
どうしてあんなDQNに育ったんでしょうな、小十郎さん?

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 18:48:55.13 ID:lDI89spo
>>984
つまり見抜けない飯淵さんの悪い話ということか?

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 10:34:20.08 ID:8e22FhqE
>>993
いやいや、醤油はうまみ調味料じゃないでしょ。
無理やり主張するとしても「出汁」くらいしか該当しないんじゃないか?

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 20:39:43.85 ID:3Jo90yzA
前スレ>>996
あえてうまみ「系」と書いたところで勘案してくれよ
現代の「うまみ調味料」、つまり化学調味料があるわけないだろ
戦国時代のポピュラ-な調味料は味噌、酢、塩ぐらいで、
塩味以外のうまみ(アミノ酸)を加えよと思えば味噌しかなかった。

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 23:35:34.61 ID:3Jo90yzA
醤油が大量生産されるのは江戸時代に入ってからなんだな。

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 23:46:47.31 ID:J/+0MHyH
信長のシェフで言ってたもんな



相馬家伝来の家系図

2011年03月28日 00:00

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 14:28:12.48 ID:jGGWVMQY

基本的にはいい話だと思うんですが、少々グロい表現があります。
ですので、この話を投下する事が空気を読めているのかどうか、ちょっと自信あり
ません。
不快に感じた方がおられたら申し訳ない。


岩城国を治める相馬家の家中に、一人の男が仕えていた。
気が利かず、何の特技もない男であったが、高い忠義が主君に認められ、側用人と
して雑用を言いつけられていた。

ある時、相馬家の屋敷が火事で全焼してしまう。
火の勢いは強かったが、誰もが身一つで逃げ出して来た為、意外と犠牲者は少なく
て済んだという。

しかし、
「屋敷や家財道具は別に惜しくもないが、先祖伝来の家系図だけは何とか助けたか
ったものだ」
相馬家と言えば平将門の末裔として名高い、東北の名門である。
その出自を記した家系図は、家宝として代々受け継がれていたのだった。

主君が残念そうに漏らした言葉を聞いた雑用係の男は、
「それでは、私が今から取って参ります」
と言って走り出してしまう。

屋敷は今も絶賛延焼中。
「お、おい! 何考えてんだ!」
「無理だよ、戻れ!」
引き止める同僚や主君を振り切って、男は燃え盛る炎の中に飛び込み、二度と戻っ
てはこなかった。

鎮火後、せめて男の遺体だけでも拾ってやろうと捜索を始めた相馬家の主従であっ
たが、彼らが見つけた男の遺体は、少々様子がおかしかった。

焼死の筈なのに、腹から大量の出血がある。そう、男は焼け落ちる屋敷の中で切腹
していたのである。

「焼死が避けられぬとみて、切腹して果てたのであろうか……」
「だから無理だと言ったのに……」
最後まで愚直ではあったが、気が回らず、役に立てなかった男を悼んだ一同が、遺
体を運び出そうとした時、体を動かしたのが悪かったのか、焼け焦げた男の腹の『中
身』が外に溢れ出してしまう。

現代の我々は勿論、戦国が終わって暫く経つ当時の侍であっても、眼を背けたくな
るようなグロテスクな光景だっただろう。
しかし、彼らは男の腸に混じって、『ある物』が男の腹の中から転げ落ちた事に気
がついた。

「……これは」
「先祖伝来の家系図ではないか!!」

間一髪、家系図を助け出した男は死の間際、自分の腹の中に家系図を押し込む事で、
炎から守り抜いたのである。


以来相馬家では、この血染めの家系図を『血系図』と呼び、将門以来の血筋を誇る
よりも、命を捨ててこの家系図を守ってくれた忠臣がいた事を誇るようになったと
言う。





568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 14:49:54.31 ID:KdZYUSkC
これほどの忠臣を火事では失いたくなかっただろうな。
まあ江戸時代の話とすればその後はでかい戦争もないだろうし、
絶好の死に場所だったのかもしれんけど。

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 15:03:04.68 ID:WhWig7fJ
相馬って平将門の末裔末裔と称しているけど、家系図上ですら将門の従兄弟の 平忠頼の末裔なんだよなぁ

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 17:19:51.68 ID:WTYtA827
>>567の話を読んで細川の血だるまの話を思い出したのは俺だけじゃないはずだ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-736.html
この時代、火事の中大切なものを守る最後の手段は自分の腹の中ってのが流行りだったのかな

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 17:33:13.86 ID:bpgdehDE
>>571
体内なら焼け残るからでしょ
惨いけれども、重用してくれた主君のために何が何でも残さなければって思ったんだろうな

相馬って、実質的に千葉一門だっけか?

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 19:38:44.97 ID:c632fA3K
藤原秀郷の子孫:佐野、小山、結城etc

平貞盛の子孫:平家主流、北条etc

平将門の子孫:相馬

逆賊の子孫を名乗るのはなかなか勇気があるな

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 19:44:59.80 ID:nl7jDLQN
中国でも死ぬ間際に大切なものを呑み込んで隠すような話はあるし、
腹の中は一番安全な場所ってイメージがけっこうあったんじゃないの?

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 20:42:56.87 ID:uwaCxJlF
>>573
将門は一部地域をのぞいて板東じゃ神だろ

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 20:46:53.21 ID:C9GR5vE8
創作界隈でも人気だしね、将門さん。

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 00:26:55.12 ID:zxJkOLDw
>>573
でも、相馬って系図上は平将門の従兄弟が祖先でそ

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 00:33:16.52 ID:lGzUW2XQ
>>583
平将門の従兄弟の子孫が将門の子孫の養嗣子…という話じゃなかたっけ?>相馬

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 16:14:04.50 ID:zxJkOLDw
>>584
wikpediaに「伝承によると師常は平将門の子孫である篠田師国の養子で、
将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする」とあるのか。なるほどというか、
こじつけというか…

相馬義胤の決意

2011年03月27日 00:00

相馬義胤伊達政宗、出くわして、コメント欄より
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5249.html

相馬と被災地応援の気持ちで投下。

相馬義胤は法名から「外天公」と呼ばれ、地元の人達に親しまれているらしい。
初陣(1563年)からの約30年間に30回伊達氏と合戦している。
(相馬野馬追も特に伊達家に対抗できるよう「武芸技術を研ぎすましておくようにと続いた」と自分も聞いた事がある。)

伊達政宗が蘆名・二階堂両氏を滅ぼした天正17(1589)年、
相馬氏からも駒ケ嶺城を奪って、相馬氏への総攻撃を進めた時の事。
政宗への服属を勧める書状が宮城県伊具郡の武将から届いたが、
これに義胤は「政宗に従って家名を残して汚すよりは、
屍を砂礫にさらすとも名は汚さない」と徹底抗戦を主張したという。

この決戦はしかし、
豊臣秀吉の小田原攻めによって時勢が急変、回避されたらしい。

以上『武者たちの舞台 ふくしま紀行 城と館(上下巻) /福島民報社刊』より。



雑談・現在の相馬家に関することなど

2011年03月27日 00:00

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 16:26:03.65 ID:4FGFxj+k
東日本大震災:麻生元首相、相馬市で地元産野菜を味わう /福島

麻生太郎元首相は24日、相馬市で風評被害が広がっている地元産野菜を味わった。
原発事故で一部野菜から放射性物質が検出され、汚染が確認されていない野菜も売
れなくなっている。元首相はこれらシイタケやトマトを食べて「1年間摂取しても健康に
影響はない。過剰反応は慎んで」と訴えた。

 元首相は相馬家33代当主の相馬和胤さん(長野県在住)の義兄に当たる。市立中村
第一小の避難所を視察し、被災者から「原発事故を解決して」「JR常磐線の復旧を急い
で」などと要望を受けた。
http://mainichi.jp/area/fukushima/news/20110325ddlk07040161000c.html


麻生さんって相馬家と親戚だったのか

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 16:34:58.58 ID:aOaHxOp7
相馬家って長野県だっけ?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 16:41:51.17 ID:+s3ej5+d
天皇家って東京都だっけ?

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 16:44:13.41 ID:j1VLWXpy
現相馬市長が相馬家の足軽の家柄なんだって
その縁で麻生さんに来てもらったと、ニコニコとのインタビューで話してた

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 17:04:50.83 ID:pLKSyTHX
旧華族系はどこで繋がってるかわからんからなぁ。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 19:09:36.34 ID:FM79KxrF
>>508
相馬家の現当主の奥さんが麻生の妹らしい
あと長男が結構イケメン

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 19:23:00.84 ID:NzyuqrX1
佐竹といい相馬といい、21世紀になって活躍を見られると誰が予想した?

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 19:27:21.84 ID:0sNaSOpo
>>513
09年の相馬野馬追で総大将役を勤められた34代相馬行胤氏

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/c3/3167fb57cc66c3ae65324004db7c7245.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/21/c1cacfcae2c673fe636b5fd1db50e939.jpg
http://blog.goo.ne.jp/kage-yh7/e/b8d671b3a9f814fc8efae816cf7488a5

北海道に移住してるけど、今なんとか相馬に入って救援活動をされているそうな。

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 19:34:06.81 ID:tISM8MX0
>>508
麻生さんは宗茂の弟さんの子孫筋らしいとwikiでみたが

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 19:43:28.18 ID:He85ORgG
血筋と言えば女系で見ると意外なところで親戚だったりして面白いよな

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 20:12:38.17 ID:RyY1JiK5
先祖は争えんのう

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 20:15:33.97 ID:Y1xE/E24
現代ちょっといい話

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 20:47:44.05 ID:+xcTm2Qj
相馬、佐竹、甘利、亀井、細川と今の政治に関わっている人が結構いるんだな。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 20:49:46.38 ID:PMRqooip
歴史は繋がってるという事を実感するな

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 20:52:49.72 ID:enK1KbG/
>>516
お婆様が三池藩の血筋
ちなみに女系から伊達政宗公の血も受け継いでおられます
麻生!麻生!(_゚∀゚)o彡°

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 21:27:46.63 ID:4FGFxj+k
伊達家、立花家と仕えてきたうちの家系と麻生さんがこうもゆかりある人だったとはw

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 21:51:28.22 ID:IaI+Qpz6
あ そうだったのか

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 21:57:46.26 ID:KQoOXQHb
ぶっちゃけ麻生の先祖がどうこうとかスレ違いもいいところ

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 22:00:24.48 ID:3m6H3uEn
少しでもよいと思えることに目を向けていたいんだよ

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 23:01:48.20 ID:hQj4Op3V
有名人の先祖が戦国時代の名のある人物なら余談の範疇で有りでしょ。
菅さんは菅公が先祖らしいからスレ違いかもしれないが。

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/26(土) 00:18:47.55 ID:bNxUSQ+I
>>508 >>513-515 泣ける。ほんま被災地の一日も早い復興を祈ります
 相馬救援隊!
http://ja-jp.facebook.com/sohma.aid

相馬義胤と伊達政宗、出くわして

2011年03月25日 00:01

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 12:30:34.63 ID:fKau0LAV
寛永2年(1625)9月、相馬利胤が父・義胤に先立ち、世を去った。

後を継ぐべき嫡男の虎之助は未だ六歳、領内泉田村に隠居していた義胤は孫を後見するため現役復帰。
まもなく八十に届こうという老体に鞭打って、再び働き続けた。


寛永6年5月、ようやく虎之助は元服。手塩にかけて育てた孫に対し、義胤は己の名乗り『義胤』を譲り渡した。

元服後の初御目見えのため、老人と孫が江戸城に登城すると、ちょうど伊達政宗が退出してくる所に出くわした。
駕籠に乗りかけていた政宗は、下馬して城内へと向かう相馬家一行を、立ったまま何をする訳でもなく、見送った。


「あれで良いのだ。」
尊敬する祖父に対する政宗の態度に、不満気な顔を浮かべたままの孫に向かって、義胤は声をかけた。

「我らは若い頃、仇敵同士であった。武士たる者、仇敵に対して構えるのは当然のことだ。
今の若者も、日ごろ親しい人であっても、気を抜かずに用心して付き合うべきなのだ。」




497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:23:18.18 ID:ZA1o8lKB
相馬さんも揺ぎ無くめんどくさい武士じゃのう。

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:25:44.68 ID:ogWsox2P
下手に政宗に絡まれる方がめんどくさいって知ってるからだろ

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:35:20.00 ID:Hr7NaFEn
ふむ・・・・

絡まない:自分がめんどくさいと評価される
絡む:自分がめんどくさい目にあう

よし、酒に酔った市松の前横切ってくる!むろん挨拶とかガン無視で!!

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:45:19.18 ID:KesQ7rse
政宗がおべっか使ったら使ったで「あれは奸計だ騙されるな!」とか言うのか
確かにこれで良いのかもしれん

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 16:16:36.66 ID:9+oewzJl
そういや相馬さんとこの地元、今大変だよね

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 21:31:31.92 ID:xgB9DlKu
相馬さんは死ぬ時も伊達領の方を向いて立ったまま葬られたんだっけ?

伊達と相馬、累代の敵国

2011年03月20日 00:00

410 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 10:49:23.69 ID:IVblgCDc
慶長5年(1600)6月のこと、上杉景勝征伐が行われようとしている時である。

これに伊達政宗は本国より会津を攻めるため、大阪より急ぎ帰国の途に付いた。
だが白川から白石に通る道は敵によって塞がれている。常陸国を廻り、岩城相馬を経由して帰国を果たそうとした。

しかし、これに従う家臣たちは大変不安に思った。伊達家と相馬家は累代の敵国である。その相馬領をつつがなく
通り抜けられるとは思えない。しかも今、政宗が従えているのはわずかに50騎ばかりである。

常陸国を経て岩城と相馬との境に至ると政宗、先ず相馬のもとに使者を立て、こう言上させた

『今度徳川殿、上杉景勝を征伐することとなり、政宗は領国より会津の搦手を攻めるよう命ぜられました。
白川の方からの道はすでに塞がっており、東側の道を通って漸くこの国境へと至りました。
しかしここまで、余り道を急いだため士卒ともども疲れきっております。願わくば城下に旅館を用意していただけ
ないでしょうか?馬の足を休めて、明日、我が国に入りたいと考えています。』

これを聞いたのは相馬家16代当主、相馬長門守義胤である。彼は大いに喜んだ

「あいつの運も遂に尽きたか!只でさえ伊達は相馬年来の敵であり、また我らが味方している上杉を討とうとする
一方の大将!今夜夜討ちをし、土地の案内を知らぬ者達をここかしこに追い詰めて一人も残さず討ち取り、
年来の仇に報い、今度の戦役での手柄としようぞ!」

急ぎ民家を旅館として伊達一行を迎え入れ、同時に家臣を集め夜討ちの謀議をした。

と、この謀議の席において、末座より進み出て声を上げたのが水谷三郎兵衛尉胤重である。

「遥か末座の者が進み出てご意見すること、大変恐れ多いことですが、この謀議の席に参加している以上
自分の考えを申し上げなければその役目の意味が無いと考え、ここに申し上げます。

世に”窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず”と申します。今、伊達政宗ほどの大名が年来の恨みを捨て、
君を頼んで来たというのに、それを謀って闇討ちにするのは、勇者の本意とする所ではありません!
我が相馬家の、長き弓矢の瑕瑾となってしまうでしょう!

それから、ここを注意してください。我が城から伊達領までの行程はわずかに3里(約12キロ)でしかありません。
今は未だ未の刻(午後1~3時)を過ぎていません。政宗が国境に至ろうと思えば、本日日の暮れる前に
たどり着くことも可能だったわけです。

さらにあの僅かな勢でここに留まること、あの政宗のことですから、何か裏に謀り事を秘めているに違い有りません。

ここで我々は、警備を全うして今夜一晩彼らを守り、今回は本国へと返してやりましょう。その上で重ねて合戦と
なった時は正々堂々と戦って、勝負を両家に天運に任せるべきではないでしょうか?」

これに満座の衆、賛同し、相馬家は政宗の旅館の側に食料から馬の飼料、藁束まで積み上げこれを提供し、
夜に入ると旅館の四面に篝火をたかせ兵士たちに徹夜の警備をさせた。

411 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 10:54:27.99 ID:IVblgCDc
が、その警備の者達もそこは相馬家の者たち、憎い伊達政宗の警備を命ぜられて心は穏やかではない。
また政宗があまりに落ち着いていることも気に入らない。そこで政宗の驚き慌てた姿を見てやろうと、
夜更けに馬の1,2匹の綱をわざと切って放ち、これに驚いた雑人たちが走り逃げ、深夜に騒ぎ罵る声が響いた。
するとここに政宗、白い小袖を上に打ちかけ、左手に刀を携え、小童一人に燭を持たせて現れた。

「相馬殿の人々であるか?相馬殿の人々であるか?」

「左様でござる!」

「なにやら騒がしいが何事であろうか?政宗の雑人たちが狼藉を働いたのであれば、よく静めておくように。」

とだけ言い、また寝所へと下がっていった。


そして夜が明ける。だが政宗の一行はなかなか出立せず、巳の刻(午前9時頃)になって相馬義胤の元に
使いを出して感謝の念を伝え、その上で静かに馬を出し国境へと向かった。
これを相馬家の者が密かに着けると、国境の駒ヶ嶺のあたりには、伊達家の軍勢が雲霞の如く満ち
政宗を出迎えていた。


さて、関が原の合戦が終わり、相馬は佐竹に連座し改易となる。
ところが、ここに意外な人物が相馬の弁護に奔走し、徳川家に働きかけた。伊達政宗である。
彼は言う

「相馬はこの政宗の年来の敵であります。さらに上杉石田らに与する事を決定していたと言いますが、
彼らにはこの政宗を打ち取る機会があったというのに、私が家康公の仰せを承り馳下るという説明を聞いて、
たちまち古き恨みを忘れ新しき恩を施してくれました。
これは彼らが、野心を挟まなかった証拠ではないでしょうか!?

また相馬家は累代の弓矢の家。その家を現代に至って断絶するのは、まことに良いこととは思えません!
どうかかの家の本領安堵のこと、お許し頂きたい!」

このような事を折に触れて嘆願した。この事もあり慶長7年(1602)10月、ついに改易は撤回、本領安堵とされた。
この時から相馬家の評定始では、満座の輩、一々に水谷胤重の子孫の座の前に進みより、
「水谷殿のご意見、違うことあるべからず」
と宣誓して罷り出づる事が長く佳例となったという。


さてさて、その後に政宗、井伊直孝を仲立ちとして義胤の嫡男、相馬利胤に、伊達相馬両家の仲直りを打診した。
利胤これを聞くと言下に

「我が家はすでに伊達殿の芳志をいただき、本領を安堵することが出来ました。
ですが、我らは累代の敵国、今私が私的に仲直りをするのは憚りがあります!」

と、遂に両家が仲直りすることはなかったという。

長く争った伊達と相馬の、関ヶ原前後におけるエピソードである。
(藩翰譜)





413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 13:14:18.64 ID:Zf/4Cio3
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1697.html

こっちの話より生々しいなw

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 14:06:43.99 ID:eQy7oi6G
それはそれ、これはこれ って感じかなw

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 18:23:52.04 ID:aRvmxkqN
この頑固っぷりはいかにも坂東武者の流れを汲む関東武士らしいなw

「相馬の九曜紋にはどのようないわれがあるのか」

2011年03月16日 00:00

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 14:02:52.17 ID:sIRLWHrA
豊臣秀吉が相馬義胤にたずねた、というから、小田原北条攻めか、それ以降であろう。
「相馬の家紋は九曜紋であるな。どのようないわれがあるのか」

相馬義胤、答えて
「九曜紋とは九つの星、すなわち北極星、北斗七星、輔星であります。
相馬の祖先は平将門であります。
将門が戦いに敗れて葦の中に身を潜めていたとき、北斗の化身である妙見菩薩が現れて
将門を助力し、脱出させたばかりか勢力を盛り返して関東を席巻させました。
その後将門はおごって朝敵となったので神の加護を失いましたが、
子孫であるわれらは妙見菩薩を変わらず崇拝しているのであります」

相馬義胤、九曜紋由来を語るの巻。

でも、考えたら秀吉はなぜそんなことを聞いたんだろう。家臣に調べさせればすぐわかりそうなのに。
きっとあれか、話題のない相手に話しをふって、気分よくお家自慢をさせたのかもしれない。
というわけで、しゃべらせ上手な秀吉の話。

ちなみにこの話、源頼朝と千葉常胤が同じ会話をしているらしいので、信憑性は察してほしい。




337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 17:15:37.98 ID:e/7eWDSA
相馬市がはやく復興しますように

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 18:04:43.43 ID:tV/8iuSg
>>336
頼朝スキーの秀吉がその逸話を知っててなぞったのかもしれないな

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 18:58:08.38 ID:+yDHCx+e
秀吉って頼朝のこと、同じ天下人だけど血筋も門地もなしで切り取った自分のが優秀ですんでwww
ってディスりまくってなかったっけ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 19:07:52.69 ID:KQmMeH9O
>>342
いや、
頼朝公とオレが日本史上の武功ツートップだろうな!!
で、まぁ、でもオレの場合スタートの条件が違ったからな!!
どうよ?

くらいな感じ

相馬家復興と、門馬吉右衛門の貸し与えた円座

2009年11月18日 00:27

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 23:45:30 ID:JhGyGvZm
東北の超弱小大名の相馬家にも一つくらいいい話とか伝わってないですか?



384 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 02:28:31 ID:FUBLtg/f
>>382

慶長7年(1602)5月、相馬家は佐竹家に連座して改易が決まった。相馬義胤は家臣を集め、
「このままではお家の破滅。佐竹殿から『1万石で仕えぬか』と誘われているがどうか?」
と広く問うた。義胤の嫡男、三胤が進み出た。

「私は反対です。ここは私が江戸に行って徳川殿の怒りを鎮め、少分なりとも天下人の
禄を受けられれば本望です。今、飢えを凌ごうと佐竹に仕えるなら、滅んだほうが良い。」

義胤もこの意見を容れ、三胤は14名の家臣を連れ江戸に向かった。途中、三胤のもとに
義胤に暇を出された鈴木金兵衛と志賀久内が現れた。
「お家の危機なれば推参。お許しあれば如何なる奉公でも勤め上げ、旧恩に報いまする。」
三胤はこの2名の同行を許し、さらに江戸へ急いだ。

江戸に着き、谷中瑞林寺を宿所とした三胤一行は、住職と懇意の旗本、藤野宗右衛門を
招いて相談した。
「お話は承った。して、その話を家康公に通せる要人など、ご存知かな?」
家督相続も済ませていない小大名の子の三胤に、徳川家中の知人などあろうはずも無い。
途方に暮れていると、同行の士の一人、門馬吉右衛門が突然ある事を思い出した。

385 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 02:29:31 ID:FUBLtg/f
天正も終わり頃のこと、豊臣秀次の関白補任の儀式の際、相馬義胤も式典に参加した。
諸大名は殿中で式典を見守ったが、その従者たちは炎天下に晒されて白洲に控え、義胤の
すぐ下にいた侍も、フラフラになっていた。
見かねた義胤は、「これを笠にされよ。」と、その侍に自分が座っていた円座を貸し与えた。
「か、かたじけない。拙者、徳川家中の島田治兵衛と申しまする。」

この時、義胤の従者だった吉右衛門は、その男・島田治兵衛の名を挙げた。
「かの治兵衛殿、今や徳川家の執事に次ぐ職分とか聞きまする。ぜひ、お頼みなされ。」
「しかし関白秀次公の頃と言えば、10年以上も前の事であろう。その後、音信もない者が
覚えているものか?」
三胤は半信半疑だったが、吉右衛門の強い勧めにより治兵衛に書状を出した。

さて、島田治兵衛重次は2千石の大身旗本として伊奈忠次、次いで本多正信の下で
関東総検地を任される身であった。
(現在、心霊スポットとして有名な雄蛇ヶ池も、貯水池用に彼が造ったもの。)
書状を見た治兵衛は、「覚えておりまする。疎意あるべからず!」
と言い放ち、さっそく三胤の訴状を受け取ると、上司の正信に提出した。

かくて正信による家康への嘆願により、相馬家は旧領三郡の安堵を許された。
のちに三胤は「三成」に通じる名を蜜胤、さらに土井利勝より一字もらい利胤と改めた。

江戸行きに加わった14名はそれぞれ加増、鈴木金兵衛と志賀久内も再び召抱えられ、
瑞林寺の住職の甥を家老の一門に加えた。島田治兵衛と藤野宗右衛門は、利胤個人と
昵懇の間柄になったという。




386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 02:40:50 ID:2CXzq1MA
まさに「情けは人の為ならず」。
いい話だなあ。

387 名前:382[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 04:31:02 ID:xZBsJ9XM
利胤公が江戸へ直訴へ赴いたことは存じていたけれど、
その経緯と陰にこのような良い話があったことまでは知らなかった。

実にいい話です。
>>384-385さん、ありがとう。

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 06:42:37 ID:yP2TS32M
傘地蔵を思い出した

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 08:44:16 ID:VjFJO42X
江戸時代は、何をするにも縁故社会だなぁ。
でも、賄賂も無しに奔走してくれるものなんだな。

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 10:11:14 ID:lZShqV6i
笠地蔵ツボったw