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前田薩摩守利信のちゃっかり

2010年03月07日 00:06

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/06(土) 00:28:31 ID:S+pe/or1
奥羽の大名がそれなりの時期に、織田信長に遣使していたことは諸書に見える。
天正9年、角館の戸沢盛安も安土へ使者を派遣した。
この時、盛安14歳。前年に兄から家督を継いだばかりだった。
恐らく、代替わりにあわせ、地位を固める狙いがあったのだろう。

使者の名を前田薩摩守利信。
戸沢氏配下ではあったが、自ら所領を持つ豪族だった。
利信は信長との謁見を許され、鷹を献上、しかも堀久太郎に安土城を案内してもらった。
よほど安土の賑わいに驚いたのか、帰国後も生涯の思い出として語ったとされる。
この、信長の権勢に目がくらんだのかもしれない。
なんと、利信は戸沢の名を出さず、献上品を自分からのものと偽った。
そして奥羽の独立大名と認めさせてしまったのである。

だが、悪いことはできない。
鷹商人・田中清六がこれを盛安にチクリ、利信の野心はあっさりばれた。
情勢が許さなかったのか、前田氏は特に処罰されず、関ヶ原以後も戸沢家臣として従っている。
しかし、江戸期に子孫が絶えた時、この過去を蒸し返され、家名存続を許されなかったそうだ。




19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/06(土) 10:56:43 ID:Y17feInD
よくもまあ夜叉と呼ばれる男相手に大それたことを。
いや、むしろ後から器量を証明したから無事仕えてくれたのかな?
江戸期まで夜叉九郎が命を保ってたら家名も保てたかも。

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/06(土) 13:42:25 ID:+V7Pac4Z
>>17
一度独立大名と認められたモンが覆ったのか!?
お隣の南部の殿様にその交渉術を教えてやれよ。www

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戸沢盛安、参陣するために

2009年12月02日 00:11

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 20:28:12 ID:AgWIzT4N
羽後の戦乱で武名を上げた夜叉九郎こと、戸沢盛安。
小田原参陣でも、↓のような勇ましい逸話が残されている。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2782.html

しかし、この参陣の途上にはこんな逸話もある。
張り切って出発した盛安一行、羽前の港・酒田に到着したところで大変なことが判明した。
なんと、旅費が尽きた。
まだ出羽国から出てすらいない。手持ちの銭が全然足りていなかった。
羽後でも新興勢力、しかも旅慣れぬ地方武士の悲しさか、わずか10騎足らずの旅費も
ままならなかったらしい。
仕方なく、酒田の豪商・加賀屋与助より七両ばかり借金し、ようやく上洛することができた。

いくら勇将でも、やっぱり先立つものがなくてはどうにもならなかった。




765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 20:39:28 ID:BggSIZaL
>>764
なんか関ヶ原の謝罪で家康に会うため、福島正則から金を借りて江戸へ行った
島津家久を彷彿とさせる悲しい話だな。

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 21:09:20 ID:FDWat5kv
当時の旅費って何がかかったのかな?
食費、宿泊費、馬のニンジン代?

出発前にある程度予想がつきそうな気が…それとも地域によって物価があほみたいに
違ってたのかな

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 21:11:09 ID:BggSIZaL
まずは
木賃だな。
炊飯用の。

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 21:16:03 ID:EpdzG+Iv
通行税とか凄そうだけど

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 21:42:05 ID:9boDiZZ6
物価は京と南部では5倍くらい違ったり、物によるけどね

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 21:49:01 ID:BggSIZaL
どうせ旅するなら、天秤棒担いで商売しながら歩けばよかったのに。>>戸沢
そうすれば旅費に苦労するどころか、稼げる。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 21:50:24 ID:9boDiZZ6
どう考えても遅参です。あがt

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 21:52:04 ID:utM4WvRM
大名の参陣で最も金がかかるのは貢物。
ケチればその程度の勢力かと認識されるので、身の丈精一杯のお土産を
用意する必要があった。
北条が秀吉のところに使者を出したときでさえ、そのために臨時の増税したほど。
毛利輝元は初上洛のときは家臣から借金してた。

小田原討伐と戸沢盛安

2009年09月10日 00:13

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 05:23:46 ID:tpbRqi9a
小田原討伐が始まり
秀吉は京を発って東海道を下り始めた。
その頃出羽角館戸沢家の若き当主であった盛安には先見の明があった。
彼は東北の大名としてはいち早く小田原討伐への参加を決め、
わずか9騎ながら秀吉の元に参陣するため、
日本海から海路を通り京を目指していた。
まあ当然、彼が京に到着する頃には、
秀吉は既に京を発って随分経っていたものだから、
盛安は今度は大急ぎで東海道を行き秀吉を追いかけた。

ところが馬を飛ばしハイペースで進む彼の前に東海道一の難所が牙を剥く。
「箱根の山は馬でも越すが、越すに越せれぬ大井川」
である。

秀吉はどうやらこの先の島田で陣を構えているらしい。
ところが秀吉が川を渡ってから盛安が到着するまでの間に、
このあたりでは大雨が降っていて、大井川は増水し、
とんでもない濁流となって盛安の目の前に立ちふさがっていた。

しかし戸沢家の家運を背負って立つ盛安の熱い気概は、
そんな一級河川の濁流を前にして臆するようなものではなかった。

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 05:25:21 ID:tpbRqi9a
数刻後、
夜もとっぷりと更けた島田の秀吉の陣に
たった今、着陣したのでお目通りを請いたいという若武者が現れた。
頭の先から爪先まで具足ごとびしょぬれの若武者は、
秀吉の前に通されると、こう名乗りを上げた

「出羽は角館の住人、戸沢九郎盛安。
此度の戦に是非とも馳せ参じんと
大井川を泳いで参った!」

秀吉はなんで出羽の住人がわざわざ大井川を越えてくるのかと不思議に思ったが
大いに驚き、またそんな盛安の行動を褒めたという。

ただそんな無茶をしたせいか、
盛安は小田原の陣中で24歳という若さで病没することになる。
泳いで参るのも大変なのだ。




125 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/09(水) 05:52:13 ID:cYTVgbHA
>>124
秀家「・・・」

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 07:12:38 ID:xxVtoMtb
夜叉九郎、蒲生氏郷らが生きていたら関が原はどうなってたんだろうか。

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 08:29:07 ID:9RxH8Q8w
盛安の跡を継いだ彼の弟も朝鮮出兵の最中にあっけなく病死しちゃったそうだし、
蒲柳の質だったんだろうか戸沢兄弟

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 09:48:39 ID:YiKn97Cq
さすがに関ヶ原の結果をどうこう出来るほどの身代じゃないでしょ盛安ちゃんは
蒲生氏郷が生きてると石田家に人材が流れないだろうから西軍が悲惨なことに・・・