わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない

2017年07月13日 17:31

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/11(火) 18:03:36.07 ID:aeyCj/OX
 前田肥前守利長なる者がいる。加賀大納言の子である。前田はその姓である。
大納言は、もともと、家康と官爵勢力ともに相等しかった。
秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前守に依託して、「そこもとは、備前中納言秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。
諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌年冬に死んだ。
肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
高く門楼を建て、それが大坂内城と斉しいほど高かった。
彼はひそかに、上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・越中守らと、
家康を殺してその土地を分けようと謀り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。
石田治部少輔が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、
その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。
家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入って拠りどころとし、
肥前の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。
家臣たちはみな、「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。
死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、
我が主君の命に違って死ぬことはない」
と言ってその命令に従わなかった。家康の怒りはますます激しくなった。
肥前の妻の甥であった秀家が行って肥前の家臣を喩し、撤去させ、
「そち達の主が私に言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、
又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。
肥前守も城や隍を修理改築して固守の計を取り、
ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、
景勝などともひそかに相互援助の盟約を結んだ。
群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。
和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。

(看羊録)
※前田利家が死んだのは己亥


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その後鶴の汁にあたり申した

2017年02月03日 10:58

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 03:42:19.15 ID:QlvkgnZx
利家様が鶴の汁を召し上がりなさったところ、すぐに御蟲にあたり(腹痛)申した。
それを契機に御物語りになられたことであるが、

信長公が安土山の御城に御成りの折、いずれの人にも御振舞を下され、鶴や色々
の珍物のうえに、信長公は御引出物を、御自身で御引きになられた。

柴田(勝家)の前で仰せになったことには、「貴殿を初めとして度々手柄を致された
ゆえ、このように天下を静めて万事成就し、満足し申しておる」とのことだった。

またその他それぞれに御言葉をかけた。さて7,8人が末座にいて利家様もおられた
のだが、信長公は御引出物をなされ申す時、

利家様は若き時は信長公の御側に御寝伏しなされ、御秘蔵であったと御戯言を
仰せになり、利家様はその頃までは大髭でおられたのだが、その髭を御手で掴み、

(利家様若き時は信長公御傍に御ねふし被成候。御秘蔵にて候と御ざれ言御意候
而、利家様其比までは大ひげにて御座候鬚を御取候而、)

「其の方が稲生合戦の時に16,7歳の頃、武蔵守(織田信勝)家中の宮井勘兵衛
という者の首を取った時、私は21歳になって初めての合戦だった。

私がその首を、『なるほど小倅ではあるが、この手柄を見よ!』と言って、馬上で
采振り致すと味方は気を得て、ただ7,8百ばかりで3,4千人の人数を押し崩した。

その如く各々が手柄を致したゆえ、このように私は天下を静めて万事成就致した」
との旨を仰せになった。「なんとまあ、かたじけなき御言葉!」と存ずるところに、

御近習衆の給仕を仕る衆までも「はてさて、冥加なる又左殿かな!」と、あやかり物
とばひやひ候(肖り物を奪ひ合ひ候?)ように給仕の者が誉めるので、

利家様は得意がりなさり、「かたじけなき御言葉!」とひたすら物を食べ過ぎ、鶴汁
を止む無く飲み過ぎて、その後鶴の汁にあたり申したと仰せになり、御笑いになった。

前述の通りを、太閤様も度々仰せられたとのことを、金森法印(長近)や羽柴下総殿
(滝川雄利)なども、利家様のもとへ御出でになられた折に御申しになられ、それを
承り書き付け申すものである。前述の御合戦の時、柴田殿は武蔵殿の衆でおられた。
色々の物語りがある。

――『亜相公御夜話』




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 08:07:34.18 ID:iWka4lYR
信長はその話をする度に、「勝家の野郎、そのうち用済みにしたるー」と腹の中で思ってそう

それはさておき、織田家や羽柴家の雰囲気が伝わってくるちょっといい話だね

「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




利家様の仰せによると、

2016年10月09日 12:34

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 03:37:36.64 ID:DapAlDQQ
一、利家様(前田利家)の仰せによると、

「若き者は、世間で事のある時に意気盛んな言葉を言わせておくのが良い。『その言葉
を違えまい』と思う心のあるものである。早くも2,3度手柄をあげると、意気盛んなことを
言はぬものだ」とのことである。

一、戸田武蔵守殿(勝成)も坪内平太も物語りに御申しになったことであるが、利家様を
近頃取り沙汰して申すことには、

「又左衛門は、この頃意気盛んなことを言わないが、早くも心を引き締めたのだろうか」

とのことだった。ところが、利家様は大坂合戦の時にまた日本無双の槍をなされたので、

「又左衛門は若き時は意気盛んなことを言っても武辺をなしたが、いま心を引き締めても
このように手柄をあげるならば、あれこれとは推し量れぬ人である」

と、上下の身分ともに申したとのことである。

――『亜相公御夜話』




昔の縁組、今と相違の事

2016年09月05日 14:30

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 02:53:31.34 ID:dFlSQvTW
昔の縁組、今と相違の事

昔の縁組は今とは心入れがはるかに違ったものである。
阿倍四郎五郎〔二千石〕が先祖(阿部政澄)は、加藤主計頭清正の婿である。
今もその家に当時に物件がある。
大小不釣り合わせの事であるが、
きっと清正から阿倍の武勇を愛でて縁組させたのであろう。

また偃武の後のことであるが、
加州前田家から四辻家納言の子息に縁組があった。
これは加侯が京都で四辻幼息の楽舞を見て、
その立ち居振る舞いが閑雅であったのを賞する余り、婚姻を申し込まれたという。

(甲子夜話)

調べてみたのですが、前田家というのは前田利政のことで、
彼の娘が四辻大納言公理に嫁いだようですね。
彼の領地は能登で、しかも没収されているのですがね




前田慶次が大事にしていた召使い

2016年07月29日 14:03

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 14:08:18.50 ID:U/gwoNap
前田慶次は関ヶ原で活躍することはできなかった。しかし関ヶ原の戦い
のちょうど一年後、関ヶ原をちょうど通過していた。
そのときに、前田慶次の朝鮮人召使いが体調不調がいちじるしくなり、
馬に乗せることもできないほど重態になった。
前田慶次はその朝鮮人を斬首して捨てていった
わけではなく、竹中ハンベエの息子がちょうど近くで城主をやっていたため
入院の招待状?を書いて、召使いを竹中氏に預けている。
前田慶次が大事にしていた召使いであった。



1000 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 14:09:24.54 ID:U/gwoNap
入院の紹介状、だな。大体の意味は。
1000ゲット

戦場での頓智

2016年05月01日 17:14

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:34:37.83 ID:nbHvxLNh
美濃・尾州を取り合いました時のことです。
日暮れとなり、互いの兵共が槍を持ってにらみ合っていた。

尾州側には佐久間久右衛門という功者武辺者、これは佐久間玄蕃の父で、柴田修理殿の姉婿であった者がおり、
彼は日暮れになると左右に下知して小声で「田を結べ、田を結べ」と言う。

当時は八月の頃で、ちょうどその場にいた兵は何れも流石にその道に心得ている者たちだったので、
槍の柄を持ちながら田を結び静かに退いていきました。
折節中秋の頃なので、草村を過ぎる風の音がしほしほと鳴いていました。
尾州側が六、七間ほどさっと退きました時、敵がどっと槍を入れてきた。
しかしかの武者共は先の結び目に蹴躓いて転び、尾州方は美濃方の兵の首を十五、六個程取れたという。
それゆえ美濃から五十日ほど人数を出せなかったそうです。


以上のことを利家様は物語なされました。
皆々もこのような話などは、ぼんやりと聞くことは無いようにと仰られました。
(利家夜話)

戦場での頓智のいい話



649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:39:37.51 ID:4uXgvXJp
農民にはえらい迷惑な話だね

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:44:20.67 ID:P+SQIl3F
この頃は泥臭く戦ってそうだもんな

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:55:48.07 ID:x4B2WdUx
子どもがやってお百姓さんに怒られそうな罠だ

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 04:42:21.54 ID:gw+TwaKS
>>650
泥じゃなくウンコ投げてたしな

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 06:11:37.94 ID:tMR6Mg7P
中秋の頃なら、刈り取り終わってね?

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 07:17:26.06 ID:KedlLjNm
>>653
中秋といいつつ八月とも書いてあるからなぁ

ただ本当に中秋だとしても関ヶ原の直前も刈田がどうこう言ってたし、美濃では普通なのかも

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 07:29:24.50 ID:tMR6Mg7P
>>654
8月は旧暦の八月だと思う

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 08:01:48.76 ID:O6t3KIs2
中秋とは八月のこと。
昔は梅雨(五月雨)の頃に田植して十月に稲刈りが一般的
以上はもちろん、旧暦での話

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 11:59:18.46 ID:gWM6M/E4
何故尾州と書いて濃州と書かない?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 12:14:24.32 ID:98MthrCf
なるほど、そりゃ「春は(食料も尽きてきて)死の季節」って話にもなるわ

人を呪う事はあってはならない

2016年04月28日 11:07

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 02:50:37.10 ID:V0jy1STk
大納言(前田利家)様の御咄に、人を呪う事はあってはならないというものあります。
その理由として以下のお話をされました。

利家様が荒子を信長公の御意で前田蔵人(利久)殿から受け渡されたとき、
蔵人殿の御内様が腹を立てられて、色々呪う事をなされた。
屏風・障子にまでも呪いを封じさせてから退城されましたが、
結局大納言様にはいや増しに吉事があったとのことです。

村井豊後も同じことを語っていました。
(利家夜話)

なんで信長は利家に家督を相続させたんですかね



575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 06:09:16.99 ID:lAFOKSFt
そりゃもうアーッよ

576 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/04/29(金) 00:54:22.03 ID:GjfOD1XB
>>574
呪うと呪った相手にいや増しに吉事が訪れるから?

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/29(金) 10:03:32.46 ID:lNQCYFn2
「祝ってやる!」だろ?

古今稀なる値段であった

2016年02月09日 09:54

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/08(月) 21:40:08.39 ID:hgTyXSQ3
日野肩衝茶入(元来は日野家御珍蔵)は次々と伝来があり、加賀様のお館に入りました。
井川善六から金一万両でのお買い上げであり、古今稀なる値段であった。
(本阿弥行状記)

調べてみたら、湯川善六という人から前田利長へ伝来していますね。
そしてもう一回湯川善六の元へ戻ってもいます



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 12:35:22.19 ID:vHAWVXux
何が良い話なんだろう

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 13:30:24.82 ID:my3cxd0i
前田が金一万両も出した
金払いのいい話?

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 13:43:51.89 ID:6lkYJXcB
長屋の浪人から屑屋が買い取った仏像を手に入れて磨いてたら中から小判でも出てきたんだろ

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 14:56:19.35 ID:IArT5ku2
今の価値に換算したときが怖いんですが

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 16:51:30.97 ID:pSVTyQTE
10億くらいかな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 18:52:00.40 ID:pbn6bhoo
>>281
持ち逃げしたとか脅し取ったとかじゃなくて
ちゃんと金払って買ってんだぞ
充分いい話だろうが(戦国脳)

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 18:52:11.59 ID:OEiUCML7
国を貰うより茶器のほうが良かったとか言う人もおったわけだし

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 20:33:10.15 ID:yt1305kz
宗峰妙超墨跡 「梅溪」号

大坂夏の陣を終えた前田利常(1593~1658)が、
加賀への帰途に立ち寄った酬恩庵で目にとめ、何度かの交渉後、
前田家と寺が続く限り、毎年米百石(現在の約750万円)を寄進することを約束して、
寺から前田家へ譲られたと伝わる。

http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_04/08108_001.html

利家公はきわめて御憐憫の深い君であったので

2016年01月29日 18:51

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 15:06:16.95 ID:et56NdCV
 私達が一年加州へ御用に下向して逗留している時に、御台所の勘定奉行がひどく使い込んでしまったので、
退役閉門、知行の内から毎年返納するよう仰せ付けられたということがあった。
 その人は常々懇意であった人だったので特別に気の毒に思った。

 この背景には利家公はきわめて御憐憫の深い君であったので、御家中で百石から千石の侍衆で身持ちが放埓でない貧しい人々を吟味して、
順番に御台所の勘定奉行に仰せ付けられたことにあります。彼らは捨てられた物を拾い、余った物を売り払い、先ずは横物成の類から着手していって、
一ヶ年毎に勤めさせてもらったので、君のおかげで身の上を取り直してきました。
 
この度の使い込んでしまった人は一粒一銭の私物化もなかったが、吟味が足らず、下に勤めている者らに対し、
様々なものに条件の良い値段をつけたので、御台所の出費がいつもより一ヶ年で三千両ばかり高く必要であると申し上げた。
そのため不足分を負債としてしまいました。
 この人はきわめて篤実な人ですが、器量がなかったのでこのようになってしまった。

 これにつきましては、親にひどく孝行して国家の用に挙げられたが、才が足らなかった人がいることを思い起こします。
 孝行といえばただ一道にして、その孝行には事情や立場あると考えられます。
(本阿弥行状記)




小又兵衛

2015年12月27日 17:37

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 04:11:04.50 ID:LWKcLI1N
殿様(前田利家)はたいへん御機嫌の良い時か、または御叱りなさる時に、
勘十郎(村井長明。著者)のことを“小又兵衛”と仰せになった。

その時は、「お前の父の豊後(村井長頼)は俺が名付けた“又兵衛”である。
今は天下も静まって武辺事は無いから、よく奉公仕り年齢20余りになったら
又兵衛になれ。その時は、小又兵衛とは言うまいぞ」と、度々仰せになられ、

もったいなく存じ奉る。斯様の仰せは生生世世ありがたく存じ奉ることである。

――『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』



いやいやそれは僻事である

2015年12月25日 09:19

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/24(木) 19:23:49.59 ID:mS3DRJV8
加藤左馬助殿(嘉明)が家中の者を直ちに成敗致された時、少し手負いなされた
とのことを、いずれの人も利家卿の御前で御話になり謗りなさったが、利家卿は、

「いやいやそれは僻事である。両者身二つであるから、もし仕損じて手負い、
敵を逃した場合こそ落ち度ではないだろうか?

その者を仕遂げたならよくやったと申すべきだ。軽傷を負っても仕遂げたならば
落ち度ではあるまい。信長公の御時はそういう批評だった」

と仰せになり、「御もっともである」と、各々は申された。

――『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』




隼人に限らず老人は

2015年10月31日 18:46

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 01:53:21.73 ID:5Woe+ME6
前田筑前守(利常か)へ阿和隼人という者が罷り出て、謁見した折のこと。

隼人は畳廊下を長袴で通ったちょうどその時に、どうしたことかつまづいて転んだ。
すると筑前守の近習の士は一同に笑った。その時、筑前守は以ての外に顔色を変えて、

「隼人に限らず老人はこのような誤ちがままあるのだ。少しも笑うべきことではない。
後日の戒めとして、笑った者どもは鬮取り(くじとり)で1人切腹せよ!」

と仰せ渡した。しかし、隼人がその事を聞き筑前守の前へ進み出て、様々に詫び言を
したので、筑前守はようやく聞き届けて、近士の切腹を許したということである。

隼人は初めは善右衛門といって関白秀吉に仕え、後には堀尾家にいたそうである。

――『明良洪範』



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 03:58:13.82 ID:g8Mx1uZe
もし阿部さんが止めなかったら鼻毛様はどうしたんだろう

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 04:47:37.94 ID:NodawvfQ
>>921
阿部さん「やめないか!」
前田の殿様「うほ!」

拝郷次大夫の討ち死に

2015年10月09日 12:28

798 名前:人間七七四年[aaaa] 投稿日:2015/10/08(木) 21:22:35.29 ID:2LGsNHl9
前田筑前守利長の近臣に拝郷次大夫という者があった。拝郷の祖父は五左衛門宗直(家嘉)といって、柴田勝家の臣であり、賤ケ岳で討ち死にした。父は丹羽長秀に仕え、小松の城にいた。
次大夫は十六歳の時、加賀に行き、利長の寵臣となった。慶長五年八月、利長と長重が仇敵の仲になると、次大夫は「長重は旧主であり、父親も丹羽家にいる。父母の主君に弓を引くのは、武士の定めと言っても不義である」と思い利長に暇乞いに行った。
利長も感じ入り、この戦が終わったら必ず帰参するように申渡した上で暇を出し、次大夫は同僚に挨拶をし、小松に帰っていった。浅井縄手では次大夫が一番手として討って出て、松平久兵衛と槍を合わせたが、日頃入魂の間柄であったので、笑い通していた。[
続いて水越縫殿助と槍を合わせたがこれも同様であった。その後、岩田伝左衛門と槍を合わせたが、決着をつけようと組打の最中、伝左衛門に討ち取られてしまった。
利長は首実検で、次大夫の首を見、無慚に思い涙した。松平・水越らも次大夫を思い、立派な忠孝者であったと称した。

『元禎筆記』



799 名前:人間七七四年[no] 投稿日:2015/10/09(金) 17:14:18.64 ID:SbIuOL0o
次大夫「俺、この戦が終わったら前田家へ帰参するんだ」

その家であってかくの如し。

2015年09月15日 17:29

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 05:20:40.44 ID:94hHNS5O
小松中納言前田利常卿は、肥後守を号し、加州小松に居城しているため、常には小松との
称号を用いていた。

武家大系図御吟味の時、江戸城においてある人が、「前田の御系図はいずれより始まっているのか」と
尋ねると、利常はこのように返答した

「又左衛門(利家)は、何れもご存知のように小身より成り立ち、先祖のことは少しも存じません。
林道春に申し付けておりますから、定めて良きように書いてくれるでしょう。」

この答えに時の人たちは大いに感じ入った。彼は将軍の聟であり、大名の首座、御三家の末席であり、
その家格を子孫に伝えている。その家であってかくの如し。

(明良洪範)



708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 07:37:57.12 ID:Fk/EkXl+
源平だの藤原だのと詐称せず利家が起源と、その潔さに感服した

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 07:40:35.18 ID:bclq8VJc
脇坂「北南 それとも知らず この糸の ゆかりばかりの 末の藤原」

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 06:23:17.14 ID:rdL5ARTl
前田家の逸話ってときたま肥後守に化けちゃうな

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 10:03:03.81 ID:rWhUaf9t
林家に系図捏造を依頼したいい話

慶長伏見地震の前田利家

2015年08月30日 13:45

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 02:16:34.31 ID:xkkO1eh3
伏見での地震の時、大納言(前田利家)殿のお屋敷と肥前守(前田利長)殿のお屋敷は隣り合っていました。
地震の時は父子共に庭へお出になられ、互いにお言葉を掛け合いなされました。
何れも大丈夫と者どもは涙を流して申されました。

さて大納言殿は、小姓五六人に、
「上様は御城の周囲へお出になられましたか。大納言めを呼んでください。」
と仰せ付けられました。
小姓達はその意を得て、叫んでいると
太閤様がお答えなされました。

「ここにいるぞ。無事に出たから、心配しなくてよい。大納言も無事であるか。」

との上意であった。退出して、其の件を利家様へ申し上げました。


それから大納言殿は御一人で、何の構いもなく城中へお入りになさったとき、太閤様はご機嫌が好く、秀頼公を利家様へお渡して抱かせました。

とのことを帰って話されました。




以上のようには、震災でお取込のときに太閤様の身を案ずる判断は素晴らしいと、利家様を名大将と上下の者どもは申しました。

さてその後に、太閤様は伏見山に御城を拵えて、移りなされました。
(利家夜話)

慶長伏見地震の逸話です。秀頼を抱かせるとは、秀吉も利家をたいそう頼りにしていたのですね。




627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 06:12:17.33 ID:g2cHYBCN
「この両腕で秀頼君を抱かせてもらうたわ」
「その時、父上の両足は何をしていたのです?」

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 09:20:26.77 ID:jiqRsAPz
蹴る?両輪の如く駈ける?
正解は?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 11:08:21.50 ID:48J3e4yl
かがんでたんだろ

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 11:27:17.53 ID:vE03DJbH
>>626
天正地震で利家は弟を亡くしたからな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 13:06:58.11 ID:lrmaBUfO
あの時代にデカい地震あったら建物ボロボロになっただろうな

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 15:29:02.92 ID:DZwRT9CX
内ヶ島の皆さんが何か言いたげです




そのため、大軍の大将は

2015年08月29日 18:49

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 23:09:01.83 ID:hwvx/3ga
利家様が度々お話されことに、

立ち合いの合戦の時には、双方が一万と三千の数であったら、大将それぞれの分別で、三千の数の方が度々勝利を得るものである。
それは、少人数ではもはや一か八かと兵共が分かりきっているからだ。
そのため、大軍の大将は油断しないものだ。

というものがありました。

(利家夜話)



620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 23:12:27.51 ID:KP8JUIn7
織田軍は少人数でも勝ってきた実績があるから説得力があるな

621 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/29(土) 00:35:47.51 ID:4sq+V+h+
>>619
これまさしく天王寺砦の戦いだね
救助された光秀、助けた信長、諸々考えさせられる

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 00:40:19.30 ID:ro/xanhY
光秀「石ころ同然の境遇から信長様は私をおとりたててくださったばかりか、御自身で救いに来てくださるとは」
きっと感謝したんだろうね

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 01:53:30.36 ID:KvH0oWBI
殺し間にて候

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 17:05:15.69 ID:42ZUql1l
光秀「此度の御恩、生涯忘れませぬ。もし、殿の首級頂戴つかまつることがありましても晒すことは致しませぬ」

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 19:48:37.00 ID:XI9aKwmb
>>622
光秀って簡単やな!はよ尻だせ

【ニュース】キリシタン大名の高山右近「福者」に 

2015年06月21日 14:09

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 10:42:11.08 ID:IWGHGpvY
【国際】キリシタン大名の高山右近「福者」に…バチカン審査委了承
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1434848601/
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150621-00000002-mai-soci



211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 14:43:26.82 ID:f/EHBiN5
福者とか聖人ってのは殉教者でないと認められないのかー
右近はべつに磔になったわけじゃなく、追放だからあんまりピンと来ないな


まあジジイになってから、北陸から九州まで護送されて
船旅も楽じゃなかったろうから、すぐ向こうで死んじゃったわけだが

天主教のこと

2015年06月18日 18:01

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 12:58:05.93 ID:KmJa9IYX
慶長19年正月、前田利常より使者を以って幕府に申し立てがあった。それは高山右近、内藤飛騨守(如安 )が
天主教を信じる徒であることが明白であるため、両人を召し捕り牢に入れ、京都所司代まで送ったことを
注進するものであった。
また京都所司代の板倉伊賀守(勝重)よりも、邪宗の徒数十人を召し捕った旨注進があった。
その後、高山、内藤を始め百余人を長崎に遣わし、長谷川藤広に命じて船に乗せ遠島に追放となった。

この天主教が日本に渡って来たのは、大友家より始まった事だという。
大友宗麟は大国を領し西海まで勢いを振るっていた頃、南蛮国と音信し彼の国の者と交易が始まったが、
この宗門を信じる者は交易でも必ず利益が多かったため、日本の民も追々邪宗門に入る者が多くなり、
大友宗麟も信じるように成った。それより追々広まり、京都にまで広まって、高山右近、荒木摂津守(村重)らも
みな邪宗の信者と成った。

ところが、荒木村重が織田信長に対し逆意を起こした時、邪宗の僧が一人、荒木方であった高山右近の元に
使者に立ち信長に味方するよう招いた。高山は即座に信長に帰服した。これによって荒木は叶わず逃げ去った。

この功績により、織田信長は邪宗の僧を取り立てた。そのため天下に邪宗が広まったという。


(明良洪範)



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 13:14:55.04 ID:WmjIKTeR
本能寺の時はイエズス会は右近に日本語では明智への帰順
ポルトガル語では帰順の反対の手紙を出したとかいうけど
この時もどっちに転んでもいいように日本語ポルトガル語で二枚舌使ってたりして

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 17:18:14.07 ID:zJOa01Hx
邪宗の僧って誰のことだろう?

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 17:36:57.06 ID:nJFH4AZE
>>948
オルガンティノ

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 00:56:35.78 ID:ZqwZEobT
>>947
明智に強要されたからやで

前田利家夫人、および奥村永福夫人のこと

2015年05月25日 18:37

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 18:30:13.16 ID:yG6n96NO
天正12年(1584)、佐々成政は、前田利家の重臣・奥村助右衛門永福の守る、能登末森城を囲んだ。
世に言う末森城の戦いである。

成政は旗本を以って前田利家の後巻(救援)を抑え厳しく攻め立て「この城を打ち破れば
能登一国は即座に我々に従う。後巻が来ない内に乗っ取れ!」と下知した。

奥村はわずかに300ばかりの兵でここを守っていたが、あまりに激しく責め立てられたため、
「もはやこれまでである。自害しよう」と言い出した。

ところが、この奥村の妻は、小袖をたすき掛けにし鉢巻をして、刀を横たえ粥を煮て、
手桶に入れて下女に持たせ、城内の人々に手ずから汲んで食させながら、こう言って回った

「昔、楠木という大将は日本国を敵に受けて籠城したと聞き伝えられています。
明日には金沢より後詰めの軍が到着するでしょうから、今宵、ただ一夜だけ防いで下さい!」

奥村はこれを見て「今日の振る舞い男子にも優っている。さりながら女の力によってこの城を
持ちこたえるというのは口惜しいことだ。」とつぶやいた。

一方、佐々成政方は負傷者も増え、敵も容易くは落城しそうもないのを見て、これは火攻めに
すべきだと進言するものもあった。しかし成政は
「この城の大手の門を取って富山の城門とするのだ。また石動山の衆徒も私に心を合わせた。
慌てて火攻めを行う必要はない。」と下知し、既に二、三の丸を攻め取って夜が明けるのを待っていた。

この末森城から前田利家のいる金沢まで九里ばかり。その日の酉の刻(午後6時頃)、末森城より、
夜が明けるまではなんとしても城を守るという注進が入った。

前田利家はこの報告を聞くや金沢城の広間に出て、嫡子利長を呼んで
「汝はこの城の留守をせよ!」と命じた。しかし利長は

「いいえ、私が真っ先に出て佐々を打ち破ります!ここに残り留まるなど思いもよりません!」

これを聞くと利家
「ならば父子で打ち向かおう。敵の不意を打ってこそ利もあるだろう。兵を整える必要はない、
馬に鞍を置き次第一騎がけに打ち出よ!一足でも早く出る事こそ今夜の功だと思え!」
そして富田与五郎に
「おまえは津幡に行って不破彦三に末森の後巻きの先手をするように申せ」と下知した。
富田は直ぐに自宅に戻って馬を引き出し、不破彦三の元へと駆けた。

利家は士卒に「皆汁をかけて飯を食え!」と言いつつ具足を着て庭に自身の黒毛の馬を用意させていた。
この時、前田利家の婦人(芳春院)が三方にのし鮑を入れて入ってくると、利家・利長父子に従う者達に
向かって語りかけた

「おのおの、よく聞いて下さい。私は利長の母です。今日の後巻きは誠に大事の軍です。
それぞれ心を合わせて功名して下さい。

もし、末森城を敵に取られたなら、皆々、討ち死にしなさい。
私も人手にはかかりません!」

そして利長の側近くに進んで我が子に対し「末森が落城したなら、あなたも討ち死にしなさい。」と言った。
利長これに「生死の別れですね。」と答えた。

利家はこれを見て「荒心であることよ。成政を打ち破ること必定である!」と言い放つやいなや、
具足の上帯を締めて、結ぶ端を切り捨てて馬に打ち乗り出撃した。
この時前田父子の兵はわずかに100人余であった。利家は馬上で
「味方が少数である事こそ吉事である!佐々が思いもよらない所に斬りかかって打ち勝つであろう!
奥村を死なせては生きる意味もない!」と叫んだ。
(明良洪範)

末森城の戦いにおける、前田利家出陣までの逸話である。