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つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて

2019年05月19日 12:29

45 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/18(土) 17:52:01.62 ID:Wwgww9Qv
漫画『花の慶次』での有名な場面として、秀吉に謁見した前田慶次が、虎皮の裃や奇矯な袴にわざと横向きにに結った髷で、
顔を横向きに頭を下げて意地を示し、その直後に装束を改めて見事な武士っぷりを見せるというシーン。
作中でも屈指の名場面ですが

「今度は成程くすみたる程に古代に作り、髪をも常に結直し、上下衣服等迄平生に改め・・」

と『可観小説』の一文が引用されていますのはご存知の方も多いかと思います。

ですが実は可観小説にこのような個所は存在しません。

では捏造か?というとそんな訳ではなく、大正時代に前田家が編纂した『加賀藩史料』が原作者・隆慶一郎の元ネタです。
加賀藩史料は古文書や書籍からの引用文を掲載し国史体で編纂されており、慶長10年11月の個所で慶次の略伝として様々な
書籍資料から引用紹介されていますが、このエピソードは加賀藩家老今枝直方の著作『重輯雑談』からのものなんですね。
つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて、それがそのまま漫画に掲載されて世に広まってしまったと。

自戒として、こういうスレに限らず元ネタと引用先は気をつけねばなりませんね。
加賀藩史料は国会図書館デジタルアーカイブでウェブ閲覧できますのでぜひご覧ください。

ちなみに可観小説の著者、加賀藩の儒者青地礼幹は直江兼続の養女(姪)の子孫です。



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 13:44:26.48 ID:eIFVPv4q
週刊ジャンプであの連載で大人気って、今思うと凄いな

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 16:08:18.65 ID:6vZU7cQO
>>45
可観小説に書かれたエピソードは、利家を水風呂に入れる話だね。
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土佐日記(定家筆本)

2019年03月27日 18:38

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/26(火) 17:15:05.86 ID:2ysR5WPg
貫之(紀貫之)自筆の『土佐日記』は蓮華王院の仕物であった。それを定家卿(藤原定家)が写した本が、
連歌師の玄的(里村玄的)のところにあった。今は加賀(前田家)の家蔵となっている。

定家の写本はすべて自分の筆力で写し、末の2,3葉は貫之自筆の本の大きさのまま、字の形をも模して
書かれている。これは後の世に貫之の書法を知らない者が、これを法とできるようにするためとして後書
きに書いた。これをもって見れば貫之の自筆は定家の時代でさえ至って稀であったと見える。今時は往々
にして人の家に貫之の真跡として所持しているものもあるが、笑うべきことなり。

定家の時代までは貫之自筆の本があったと見えて、その本の大きさをも図しているのである。貫之の本は
今は絶えてしまった。定家の本は老人(江村専斎)が度々見ていたのだが、貫之の書法は変わった字様な
り。今時の偽物とは似たものにあらず。定家の本は今は加賀より八条殿(八条宮家)へ進ぜられたという。

――『老人雑話』

※現在、前田育徳会尊経閣文庫蔵のこの定家筆本土佐日記は、国宝とされています


決しかねる二つのこと

2019年02月25日 21:29

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 19:56:05.69 ID:kCbdXMQS
山崎の合戦の時、高山右近は自陣にて薙刀の鞘を外し、床几に腰を掛け、未だ合戦に至らないところに、
高山の家臣の甘利という者、彼は高山に寵遇されず、末座にしか居なかったが、高山の前に進み出て、
跪いてこう尋ねた

「私には今ここに、二つのうちどちらを選ぶべきか決しかねていることがあります。恐れながら
殿にその判断を承りたいのです。」

「それは一体何事か」

甘利は言った
「勇智の名のある者は、遠国、他家にあっても伝を求めて家に招き、高知を賜って恩顧薄くありません。
いわんや元よりこの高山家の家臣たちは、殿にとっての干城になるべき人材だとご覧になれば、人並みの
御言葉をもかけられます。

であれば、私が人数成らぬ体にて捨て置かれているのは、そのような御用に立たない者と思し召されて
いるからでしょう。

今、私が敵を斬り陣を破れば、それは殿のお眼鏡が違っていた事となり、これは不忠と言うべきでしょう。
だからといって、攻めかかるのに遅れ、退却することに先立てば、武士の名を失い、父祖を汚し、これは
不孝となってしまいます。

不忠の罪と不孝の罪、いずれが重いのかと、案じわずらっているのです。」

高山は甘利をじっと見ていたが、一言も答えなかった。
そうしている内に、敵すでに近くなると、甘利は

「たとえ不忠の罪であったとしても、拾い頸をし、敵の行く手を遮るくらいであれば、そのように悪しく
捉えられる事も無いでしょう。そして怯弱不孝の罪は重ねて補い難いものですから、あちらを捨てこちらを
取りましょう。」

そう言うと味方に先んじて攻め入り、高山家の一番槍を合わせ、兜首を獲った。
また明智光秀の軍が敗北し逃走を始めると、これを追って光秀の甥である明石義太夫を討ち取った。

直諫すべき時でなければ、みだりに主君の非を言うべきではない。
甘利の言葉はまことに無礼である。しかしその無礼を聞き届け、自ら反省することが出来なければ
暗君と言うべきである。

(武将感状記)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 20:44:44.21 ID:Z+5elnds
こんなめんどくさい事ばかり考えてなきゃいかんのかと思うと絶対武士とかに生まれたくないな
もっとも平民に生まれたらもっと悲惨な人生なんだろうけど

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 09:52:51.69 ID:WuMV8JSF
>>761
これは単純に嫌味を言っただけかと

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 11:29:34.76 ID:YGzEIqam
>>761
多分こんなに面倒な奴だから厚遇されなかったんだろうね

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 19:46:02.19 ID:eCED7ohD
高山は松永、和田、荒木、明智、全ての主家を裏切ってる
こんな変節漢にいい家臣がいるわけがない
結局大名より宗教を選び家臣を路頭に迷わせたクズ

如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候

2019年01月27日 17:55

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/26(土) 20:19:07.24 ID:jQx+upVJ
(賤ヶ岳の戦いの時)

20日の夜に入り、秀吉は賤ヶ岳山の麓に夜に紛れて御入りになった。その隣の百姓どもを呼び出され、
この頃の陣取りの事なので、百姓どもに敵の陣取りの次第を御尋ねになられると、一々にこうであると
申し上げた。

「それならば汝は案内をよく知っているだろう。筑前守の者を汝に付けよう。頼む」と秀吉は仰せられ、
金1枚を遣された。「難無く戻ればまた2枚を遣しましょうぞ。この者を連れなさって前田又左衛門殿
(利家)の陣へ紛れ入りなされよ」と仰せになれば、その百姓は「大形山をつたって参りましょう」と
御受けし、秀吉は申状を御書きになり、前田又左衛門殿へ遣しなさった。

「夜に紛れてここまで参着しました。敵の人数を残さず引き付けた時には、篝火を数を尽くして燃やし
ます。火が多く見えたならば、明日の合戦と思し召されよ。合戦を結んだ時には裏切りを願い奉りたく
存ずるが、かねてよりの御心中は存じておるので、はっきりと裏切りにはなられますまい。

合戦に御構いなさらぬことは裏切り同様でござるので(合戦に御かまひなき事裏切同前に御座候間)、
そのように御心得なされたい」

このように仰せ遣わしなさると、又左衛門殿からは、

「それでは茅野まで夜に紛れて御着きになられたか。篝火のことは心得申した。仰せのように裏切りは
御容赦なさって頂きたい。外聞は如何なものかと存じます(如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候)。
明日の御合戦では、御指図のように双方ともに構いますまい」

との御返事であったと相聞こえ申し候事。

(中略)

前田又左衛門殿は、自城の越前の府中に難無く父子ともに入りなさった。この城は柴田殿(勝家)の家
城から道を5里隔てた近江の入り口である。又左衛門殿は「秀吉は早々にここへ気負いして攻め掛かり
なさるものであろう」と思案された。

裏切りを確かにしてこうと見えればこそ、秀吉も御満足と思し召されようが、そうではなかった(裏切
をも慥かにして角と見えはこそ秀吉も御満足とは可被思召に其儀はなし)。

身の上も危うく思いなさったということなのか、又左衛門殿は「まずは城の総構えに鉄砲を配置せよ!」
と子息の孫四郎殿(前田利長)を出され、あちこちに鉄砲を配置し今か今かと御待ちになったのである。

――『川角太閤記』


「狼を退治した狛犬」

2019年01月09日 16:56

627 名前:人間七七四年[sag] 投稿日:2019/01/08(火) 23:46:27.62 ID:bnGBQAK8
この時代、狛犬が門番として
実際に人食いニホンオオカミと戦った民話が金沢にあり、アニメ化された

加賀藩の伝燈寺が舞台の「狼を退治した狛犬」より

※三河(みかわ)神社
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/chubu/shrine/mikawa/mikawa.html
  慶長5年、関ヶ原の合戦の年、
  この地に狼の群れが出没し、人々を襲うようになりました。

  ある日、子供達が遊んでいると狼の群れが現れました。
  一人の子供が逃げ遅れ、地蔵堂の中に逃げ込むと、狼の群れはお堂の周りを囲みます。
  すると、地蔵堂の前に鎮座していた狛犬が動きだし、
  狼の群れに戦いを挑み一匹残らず退治してしまったそうです。

↓アニメ化↓
※TBS:マンガ日本昔ばなし「不思議なコマ犬」
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=439

  小さな孫が「こまいぬさま~~~!」と叫んだ。
  その時、狛犬に積もっていた雪が崩れ落ち、
  狛犬が獅子のごとくオオカミの群れに飛び込み、次々に噛み殺していった。



628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 10:24:30.65 ID:E7AumqXT
戦国期だったら狼くらい狩って喰ってそうなイメージがあるがw

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 14:35:33.20 ID:SW6hirNY
>>627
>関ヶ原の合戦の年
死体がいっぱいあって人の味覚えたのかな…。

630 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/11(金) 22:30:44.65 ID:KzwFYReg
それ以来、金沢の狛犬は今にも飛び掛からんとする姿に彫られるようになったという

前田利長と七人の鋳物師

2018年10月24日 18:20

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 11:24:10.42 ID:OKsi2wXl
前田利長と七人の鋳物師


慶長14年、前田利長は居城としていた富山城が燃えたため、幕府に許可を取り
同国の関野に城を築くことにし、その周辺を高岡と名付けた。
慶長16年に、利長は近郊の西部金屋から鋳物師七人を招き、免税などの特権と
東西五十間南北百間からなる御印地を与え、鋳物づくりを行わせた。
この御印地が現在重伝建に指定されている高岡市金屋町である。

一国一城令で高岡城は廃城となり城下町ではなくなったが、金屋町は繁栄した。
当初は日用品である鍋や釜、鍬といった鉄器を作り、百姓に貸し付けていたが
仏具の需要が高まってきたことから、天保・弘化の頃に銅器も作るようになった。
現在の高岡は銅器のまちとして知られ、日本における銅器の生産額シェアの
約95%が高岡で作られたものである。

金屋町では、毎年利長の命日とその前夜2日間に渡って”御印祭”を行っている。
元々は鋳物師七人衆が利長に報恩するため、御印地をもらったことを示す文書を
拝んだことが始まりのもので、前夜祭では、鋳物師の作業唄である民謡弥栄節に
振り付けて、千人ほどが踊るにぎやかな祭りとなっている。



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 17:29:13.90 ID:BVEYNKqg
それでオナベの聖地になってるのか

南坊が最初に総門を固めたのは

2018年09月13日 21:13

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 14:10:04.47 ID:Lb9DTZ1/
(山崎の戦いの時)

明智勢総軍1万4千余人は淀を出て狐川まで打ち立った。先手は川より向こうの方へ出張、
光秀は川より東に陣取った。明けて6月13日寅の刻、池田父子(恒興・元助)が

山崎表へ進んで見れば、高山南坊(右近重友)は総門を差し固め他の兵は1人も通行させ
なかった。池田父子はこれを見て、「高山は異心か! 油断するな!」と言いながら、

川に沿って細道より山崎の東総構の外を巡り、明智勢に打って掛からんと馬を速めて急ぎ
行く。南坊はその間に総門より打ち出て池田勢より遥かに先に進んでいた。

かくて南坊が最初に総門を固めたのは他の勢を入り交えずして先陣せんと心掛けた武辺の
嗜み、素晴らしくもまた殊勝なことよと敵味方ともに感じ入った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


備の場にて馬を

2017年11月08日 20:28

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 12:43:43.33 ID:twusLRGw
備の場にて馬を取り放してしまっては、必ず味方の破れにつながるので、聊かも疎かにしてはならない。

賤ヶ岳の合戦で、柴田方であった前田利家の備が敵と交戦する前に崩れたのは、前田の家臣であった
三吉左吉という者が馬を取り放してしまい、それゆえに備が乱れ。佐久間玄蕃同時に崩れたのだ。

この時、前田の旗奉行である横山半喜(長隆)という者が討ち死にした。これはあの横山山城(長知)の
父である。旗の立てよう、見事であったという。

また関ヶ原の時、近江大津城攻めは9月15日に行うと決定していたが、13日に毛利方の吉川家の者が
陣屋において馬を取り放し、殊の外なる騒ぎとなったのを、共に大津城攻めに参加していた立花家の者達が

「さては中国衆は、我々を出し抜いて城を攻めるのか!」

そう勘違いをし、柳川衆はそうはさせるかと攻め掛かり、二、三の郭を乗っ取った。
柳川衆のこのような行為を見て、中国衆もまた攻め掛かった。

これらは、みな馬を取り放してしまったために起こったことである。故に、陣屋、備の場ともに、
馬を取り放さない心得がなくてはならないのだ。

(士談)



利太(前田慶次)は浴場で入浴した。

2017年10月04日 19:07

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 22:38:23.77 ID:k5xzbSsL
ある日、利太(前田慶次)は浴場で入浴した。

この時の利太は巾で顔を覆い、褌に合口(短刀)を帯びて入った。
浴槽にいる者は驚いて出て、皆が刀を帯びて浴槽に入った。

そのうち利太は浴槽から出て合口を抜くと、その合口で垢を落とし
始めた。戻って来て入浴する者がこれをよく見ると、

それは合口ではなく竹べらであった。ここで初めてたぶらかされた
と分かり、人々は大いに恥じた。

――『加賀藩史稿』



160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 22:54:05.10 ID:W4EWc78u
お決まりのアレね

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 23:03:17.56 ID:KBj7WAN5
まとめサイトの547(リンク貼ろうとしたら弾かれた)の
前田慶次の、かぶき者の入浴・悪い話
ていう翁草の話と少しちがうな

本多安房守は色々御話を申し上げた

2017年09月21日 18:46

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/21(木) 03:22:10.82 ID:bTnaNMaE
一、本多安房守(政重)は大献院様(徳川家光)の御代に、毎度御前で色々
と御話を申し上げた。これがあまりに御話申し上げ過ぎているとして、

酒井讃岐守殿(忠勝)などは御笑止(気の毒に思うこと)に思いなさったとの
由、岡田豊前殿(善政)が相公様(前田綱紀)に申し上げられた。

一方で申し過ぎることは、微妙院様(前田利常)や陽広院様(前田光高)の
御為によろしきことも多くあったとの由である。

これは右の記事と同じ時(享保5年8月12日夜)に仰せになった。


一、本多大夢が安房守と申した時、大献院様の御代に参府し、何れの時か
御目見えした折、大献院様の仰せがあると、何やら色々申し上げたという。

その後に岡田豊前殿が申されたことには、松平伊豆守殿(信綱)が御申しに
なったそうで、安房守は何やら御前で申し過ぎたとの由を御申しになられた
との旨の噂があったとのことである。

これは前述の豊前殿の物語りを聞こし召されたとの由を、右の記事と同じ時
(享保8壬卯年5月25日)に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



その者を前に抱えて立ち退き

2017年09月19日 14:38

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 05:07:13.57 ID:bkfnltZI
中黒道随は毎度御前へ召され、古戦の物語をも聞こし召された。
ある時に道随は申し上げて、

「大坂において傍輩の中に手負いの者がいて引き退く時、その者
を背負って退くと、手負いの者を盾に致しているように見え申すか
と存じましたので、その者を前に抱えて立ち退きました」

との旨を申し上げた。道随の嫡子・太左衛門は黒田家に罷り在り
物頭であったが、道随は相願って暇を乞い、

御家(前田家)へ罷り越した。すなわち、その太左衛門へ家督を
仰せ付けられた。その子は六左衛門、二男は八右衛門と申した。

太左衛門の代までは2千石であったが、太左衛門が相果てると
六左衛門に千5百石、八右衛門に5百石が下されたとの旨、

同年(享保5年)4月27日の夜に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



禄が重くなれば安堵致して、

2017年09月16日 21:53

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 02:09:29.56 ID:whL2ywNF
越後の謙信が一揆を退治しに加賀へ発向した時、たいへんに寒気が強く、
太田村へ人数を入れて、火を焼いてあたって居申した。

そこへ加賀の一揆の大将で、何とかの能登とか申す者が、にわかに攻め
掛かり、謙信はやり様もなく打ち負けて敗軍した。

これを大納言様(前田利家)は聞こし召され及んで、能登を召し出された。
それ以後、度々の合戦に能登は参加したが、1度の高名も無かった。

凡そ奉公人は禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬものであるとの由、
享保5庚子年6月5日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 06:53:07.43 ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:11:44.64 ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:43:44.23 ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 10:35:41.22 ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 11:34:35.22 ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 18:33:26.75 ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

私と刺し違えるのは、

2017年09月11日 17:00

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/11(月) 14:55:59.26 ID:NI9S8d5p
大阪の陣の時、前田家家臣の平野弥次右衛門に、味方の武士が楼門より出て攻撃してきた。
弥次右衛門は味方と知らず、これと戦うため鎌槍にて駆け寄ったが見れば加賀前田家の相印であり、
顔は見えなかったが兜と指物を見て

「何者か!?味方打ちであるぞ!」

そう大声で罵しり槍を引き、さらに罵った。

合戦の後、この罵られた者、堪忍ならざるによって弥次右衛門と刺し違えようと、彼のもとに
やって来た。弥次右衛門は彼の来訪を知ると、郎党中言たちそれぞれに棒を持たせ、自身も
木刀を持って彼の前に出た

「其方は私と刺し違えると聞きたる仔細有るによって、このような用心をした。」

彼は来訪した趣を述べ、それを聞いた弥次右衛門

「その事で来られたとは知らなかった。私はその時断ったように、顔は見えておらず甲冑だけは見えた。
其方と知って言ったのではない。である以上、悪口を言っても仕方がないではないか。
あの時罵った相手がその方であるのなら、私と刺し違えるのは、大いなる誤りである。」

そう言い、押しすくめて帰らせた。
彼の者止むを得ずして、その夜、駆け落ちをした。

(士談)


「前田利太の馬である」

2017年09月02日 21:07

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/02(土) 04:14:54.03 ID:FEKQ9VHC
かつて夏夕に、前田利太(慶次利益)は馬飼いに松風という愛馬を引かせ、
馬飼いは洛東の鴨川で松風に水浴びさせるために出発した。

馬飼いは利太の意を受けて、烏帽子を腰にして鴨川に赴いた。その途中で
出くわした武士に「誰の馬なのか?」と問われると、

馬飼いは烏帽子を着けて舞い、今様の曲を口にして謡った。その曲中にて
「前田利太の馬である」と述べて、馬飼いは謡い舞ってその場を去った。

――『加賀藩史稿』



198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/02(土) 06:53:19.22 ID:vXsrAWJJ
あかいちょっかい革袴
とりのとっさか立烏帽子
前田慶次の馬にて候

利太が変通を知ること

2017年08月31日 16:58

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 04:04:36.60 ID:UEGnf68d
前田利太(慶次郎利益)が高徳公(前田利家)に従って京都にいた時、
関白・秀吉は利太が奇人であると聞いて謁見を望み、

務めて異様を表して出仕するように命じた。すると利太は髻を耳上に
作り、皐比(虎皮)の肩衣を身に付け、異様な袴を穿いて出仕した。

利太は謁見するに到り頭をそばだてて拝謁し、髻はまっすぐになった。

秀吉は大笑いして良馬一頭をお与えになり、「再謁してわしの面前で
この馬を受け取れ」と、言った。これは利太が更に異様な装いで出仕
することを推量しての心中であった。

利太は退くと服を改めて髻を正し、進見して賜物を拝領した。表情は
正しく、容姿も厳粛であり、進退も規律があった。

秀吉は感嘆して、利太が変通を知ることを称えた。

――『加賀藩史稿』



194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 06:34:26.82 ID:sFrl8ECp
大人ひとりじゃ持てないような脇差は持ってなかったのか

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 10:43:01.79 ID:tjcfsPmD
花の慶次の見せ場にあったな

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 11:59:21.66 ID:DQ47Luus
>>193
これが元ネタか、懐かしい。

わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない

2017年07月13日 17:31

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/11(火) 18:03:36.07 ID:aeyCj/OX
 前田肥前守利長なる者がいる。加賀大納言の子である。前田はその姓である。
大納言は、もともと、家康と官爵勢力ともに相等しかった。
秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前守に依託して、「そこもとは、備前中納言秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。
諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌年冬に死んだ。
肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
高く門楼を建て、それが大坂内城と斉しいほど高かった。
彼はひそかに、上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・越中守らと、
家康を殺してその土地を分けようと謀り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。
石田治部少輔が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、
その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。
家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入って拠りどころとし、
肥前の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。
家臣たちはみな、「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。
死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、
我が主君の命に違って死ぬことはない」
と言ってその命令に従わなかった。家康の怒りはますます激しくなった。
肥前の妻の甥であった秀家が行って肥前の家臣を喩し、撤去させ、
「そち達の主が私に言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、
又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。
肥前守も城や隍を修理改築して固守の計を取り、
ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、
景勝などともひそかに相互援助の盟約を結んだ。
群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。
和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。

(看羊録)
※前田利家が死んだのは己亥


その後鶴の汁にあたり申した

2017年02月03日 10:58

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 03:42:19.15 ID:QlvkgnZx
利家様が鶴の汁を召し上がりなさったところ、すぐに御蟲にあたり(腹痛)申した。
それを契機に御物語りになられたことであるが、

信長公が安土山の御城に御成りの折、いずれの人にも御振舞を下され、鶴や色々
の珍物のうえに、信長公は御引出物を、御自身で御引きになられた。

柴田(勝家)の前で仰せになったことには、「貴殿を初めとして度々手柄を致された
ゆえ、このように天下を静めて万事成就し、満足し申しておる」とのことだった。

またその他それぞれに御言葉をかけた。さて7,8人が末座にいて利家様もおられた
のだが、信長公は御引出物をなされ申す時、

利家様は若き時は信長公の御側に御寝伏しなされ、御秘蔵であったと御戯言を
仰せになり、利家様はその頃までは大髭でおられたのだが、その髭を御手で掴み、

(利家様若き時は信長公御傍に御ねふし被成候。御秘蔵にて候と御ざれ言御意候
而、利家様其比までは大ひげにて御座候鬚を御取候而、)

「其の方が稲生合戦の時に16,7歳の頃、武蔵守(織田信勝)家中の宮井勘兵衛
という者の首を取った時、私は21歳になって初めての合戦だった。

私がその首を、『なるほど小倅ではあるが、この手柄を見よ!』と言って、馬上で
采振り致すと味方は気を得て、ただ7,8百ばかりで3,4千人の人数を押し崩した。

その如く各々が手柄を致したゆえ、このように私は天下を静めて万事成就致した」
との旨を仰せになった。「なんとまあ、かたじけなき御言葉!」と存ずるところに、

御近習衆の給仕を仕る衆までも「はてさて、冥加なる又左殿かな!」と、あやかり物
とばひやひ候(肖り物を奪ひ合ひ候?)ように給仕の者が誉めるので、

利家様は得意がりなさり、「かたじけなき御言葉!」とひたすら物を食べ過ぎ、鶴汁
を止む無く飲み過ぎて、その後鶴の汁にあたり申したと仰せになり、御笑いになった。

前述の通りを、太閤様も度々仰せられたとのことを、金森法印(長近)や羽柴下総殿
(滝川雄利)なども、利家様のもとへ御出でになられた折に御申しになられ、それを
承り書き付け申すものである。前述の御合戦の時、柴田殿は武蔵殿の衆でおられた。
色々の物語りがある。

――『亜相公御夜話』




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 08:07:34.18 ID:iWka4lYR
信長はその話をする度に、「勝家の野郎、そのうち用済みにしたるー」と腹の中で思ってそう

それはさておき、織田家や羽柴家の雰囲気が伝わってくるちょっといい話だね

「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




利家様の仰せによると、

2016年10月09日 12:34

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 03:37:36.64 ID:DapAlDQQ
一、利家様(前田利家)の仰せによると、

「若き者は、世間で事のある時に意気盛んな言葉を言わせておくのが良い。『その言葉
を違えまい』と思う心のあるものである。早くも2,3度手柄をあげると、意気盛んなことを
言はぬものだ」とのことである。

一、戸田武蔵守殿(勝成)も坪内平太も物語りに御申しになったことであるが、利家様を
近頃取り沙汰して申すことには、

「又左衛門は、この頃意気盛んなことを言わないが、早くも心を引き締めたのだろうか」

とのことだった。ところが、利家様は大坂合戦の時にまた日本無双の槍をなされたので、

「又左衛門は若き時は意気盛んなことを言っても武辺をなしたが、いま心を引き締めても
このように手柄をあげるならば、あれこれとは推し量れぬ人である」

と、上下の身分ともに申したとのことである。

――『亜相公御夜話』




昔の縁組、今と相違の事

2016年09月05日 14:30

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 02:53:31.34 ID:dFlSQvTW
昔の縁組、今と相違の事

昔の縁組は今とは心入れがはるかに違ったものである。
阿倍四郎五郎〔二千石〕が先祖(阿部政澄)は、加藤主計頭清正の婿である。
今もその家に当時に物件がある。
大小不釣り合わせの事であるが、
きっと清正から阿倍の武勇を愛でて縁組させたのであろう。

また偃武の後のことであるが、
加州前田家から四辻家納言の子息に縁組があった。
これは加侯が京都で四辻幼息の楽舞を見て、
その立ち居振る舞いが閑雅であったのを賞する余り、婚姻を申し込まれたという。

(甲子夜話)

調べてみたのですが、前田家というのは前田利政のことで、
彼の娘が四辻大納言公理に嫁いだようですね。
彼の領地は能登で、しかも没収されているのですがね