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「朝野雑載」から前田利常の乳母の話

2022年03月25日 19:33

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/25(金) 18:57:36.74 ID:HfPN5Ga9
朝野雑載」から前田利常の乳母の話

加賀中納言利長の弟の猿千代(継嗣となった1601年以降の幼名は犬千代)は幼少時、啞(おし)であった。
猿千代の舌は腮(あご、ここでは口腔内だろう)に着いていたが、乳母が切り離したところ、言語が明瞭となった。
のちに利長の跡を継いで利常と号した。



94 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/26(土) 15:32:39.77 ID:k/biLpZ5
その逸話は何らかの医学的な手術を反映しているのかな?
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徳山則秀と徳山英行

2021年11月19日 17:31

800 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/19(金) 02:35:02.72 ID:kcCwIa2J
徳山則秀と徳山英行
 
賤ヶ岳の敗戦後、徳山則秀がひそかに養育した人物が鬼玄蕃こと佐久間盛政の息子である徳山英行です。
賤ヶ岳で則秀とともに戦った佐久間盛政は刑死し則秀は悲運に死んだ戦友の遺児を引き取り成長後は徳山英行と名乗らせて娘婿に迎えています。
1606年に則秀が亡くなった後、家督を継いだ嫡男である直政は若年のため姉婿である英行に2千石を与えて後見役とし(則秀の事前指名か?)、直政は3千石(のち3,243石)を相続しました。しかし英行は後見役を辞退し2千石は幕府に没収されてしまいました。
なぜ後見役を辞退したかは三つの説があります。
・僧となる志があって逐電したという説
・養父則秀への追慕と感謝の気持ちがあったからという説
・義弟直政に憚ったという説
があります。



801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 08:29:54.35 ID:73lL6Gjh
徳山則秀って勝家の養女を娶った事で柴田家中から重用されたけど
実際の徳山氏の嫡流は則秀がいた時代でも他にちゃんといて健在だったのに
どうしてその中から則秀が娘婿として抜擢されたんだろう?


21

802 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/19(金) 10:17:56.88 ID:Afz+aD5S
>>801
兄貴が病弱だったからとか、勝家に気に入られたとかかな...わからないけど

806 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/19(金) 10:49:47.65 ID:kcCwIa2J
>>800
則秀と盛政の関係性が少しわかったかもな

809 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/19(金) 12:04:07.45 ID:Afz+aD5S
>>800
気遣いで辞退したつもりなら幕府に没収されちゃったから裏目に出てしまったな...

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 14:06:55.12 ID:tqj7QyJe
なぜか壊れかけのレディオが頭の中で流れる

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 15:00:33.95 ID:a3sY0J16
>>809
五千石だから、若年の当主じゃ不安で後見人つけろって言ったのに、無しにするって言われたから削ったのかな
この場合、幕府が後見人として英行を指名したことになるが
見方によったら義兄が五千石中、ニ千石握ってる状態だと、色々問題が起こるから却って良かったのかも

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 17:00:44.81 ID:73lL6Gjh
徳山氏にも武田家と今川家の間で起こったような塩留めの逸話があるんだな
今更ながら南北朝時代の敵対関係の話掘り起こされて主家の土岐家から塩留めされてしまった
朝倉氏に泣きついて越前府中の塩が売買されている市の側に領地貰って一時的に家臣となった
朝倉氏の美濃侵攻の手先となって何度か土岐・斎藤陣営と敵対してる

813 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/19(金) 17:01:11.61 ID:Afz+aD5S
>>811
本人たちにその気がなくても軋轢生みかねないしな

私の主には景勝より他には無し

2021年09月17日 18:24

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 17:20:26.10 ID:A57wqFIW
前田慶次郎は、関ヶ原後の減知転封の折に、上杉景勝より暇を出されたが、
「そのまま召し仕り下され」
とて、五百石にて米沢に共をした。方々より七千石、八千石にて、抱えたいと招かれたのだが、
慶次郎は関ヶ原陣にて、諸大名を見限ったのだ。

「治部(石田三成)が負けると等しく降参し、追従軽薄、させさて男は一人も無し。
景勝ばかり、始めより終わりまで、弓矢を取り腕を張った事、まさしく武士なり。
私の主には景勝より他には無し。」

そう言って在郷へ蟄居し、弾正(上杉定勝)代に病死した。


杉原彦左衛門覚書条々



545 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 17:39:17.09 ID:MGyRhaXZ
        だ

        が
   そ

   れ

   が

   い

   い

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 08:20:40.17 ID:UccZ4pjD
前だけイジろう

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 09:35:17.25 ID:0SpbPWgs
はなのけ いじろう
とか
はなのけ いじろう とします
だったら漫画も人気でなかっただろうな

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 10:09:36.61 ID:3ZGurbSa
まえだけ いじろう とします

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 21:54:47.63 ID:iwDTxuAA
おだの豚だ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 12:23:53.13 ID:Ky3syVjQ
得がワイ、え~安っ!

前田利益(慶次郎)の嫡子は正虎。利長・利常に使えた

2021年06月18日 19:06

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 00:34:16.86 ID:UuqCrrWX
前田利益(慶次郎)の嫡子は正虎。利長・利常に使えた。書家として知られ、『前田家之記』の編纂にも加わったそうだ。
父が出奔して、その所領を受け継ぎ、多分肩身狭かったんじゃなかろうか。

豊太閤の関東攻めのおり、北条氏邦は武蔵鉢形城にこもるが衆寡敵せず、開城して降伏。
氏邦は前田家預かりとなったが、のち許されて家臣になる。
氏邦が死去したのち、京で出家していた氏邦の末子を呼んで北条庄三郎として名跡を継がせ、前田利益の娘をめあわせた。

特にいい話でも悪い話でもないが、ヒャッハーオヤジの出奔後も粗略にはされなかったことがわかる。あと別の地の英雄の子供同士が縁を結んでいたりするとなんかほっとするよね


賤が植うる 田歌の聲も都かな

2021年06月08日 17:10

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 12:48:59.84 ID:bZSdvN0k
慶長三年、会津に上杉景勝が入部した時、蒲生家の浪人数百名を召し出した。栗生美濃守、外池甚五左衛門、
岡野左内、布施次郎右衛門、北川図所、高力図所、青木新兵衛、安田勘助、小田切所左衛門、
横田大学、正木大膳、長井善左衛門、佐野源太、堀源助、等である。
この時関東浪人には、山上道及、上泉主水、車丹波守、等数十人、
上方者には、水野藤兵衛、前田慶次郎、宇佐美弥五左衛門など数十人が召し抱えられた。

このうち前田慶次(利益)は、加賀(前田)利家卿の従弟である(実際には甥)。
彼が初めて景勝に礼を申し上げたときは、穀蔵院ひよつと斎と名乗った。
その夏頃であったか、高宮の二幅袖の帷子褊綴を着し、非常に異形なる体であった。
また、彼は詩歌の達者であった。直江山城守兼続も学者であった故に仲良く、
直江宅にて慶次は論語の講釈をいたし、又は源氏物語の講釈をした。

慶長五年九月、景勝の名代として、直江山城守が四万余にて最上に出陣した砌、慶次は黒具足に猩々緋の羽織、
金のいらたか念珠(修験者の用いる角のある108の珠を用いた数珠)を頭に懸けたが、念珠の房には
金の瓢箪が付けられ、背に下るようにかけられた。
河原毛の野髪、大しだの馬に、金の兜巾を冠らせて打ち乗り、三寸計りの黒の馬に、緞子の袋に
干し味噌、乾飯を入れ鞍壺に置き、種子島ニ挺付けて、乗り換えとして引かせた。

最上からの上杉勢の退き口の時、敵勢と槍を合わせて、その高名は耳目を驚かせた。
水野藤兵衛、藤田森右衛門、溝口左馬助、韮塚理右衛門、宇佐美弥五左衛門と慶次と、以上五人が、
一所にて槍をした。

この時、最上義光は伊達政宗よりの加勢を一手に合わせて、上杉勢の退き口を追撃したため、
中々大事に及び、杉原常陸介、溝口左馬助らが種子島八百挺にて防ぎ戦ったが、最上勢は激しく
攻撃してきた。これに直江山城守は怒り出し

「味方が押し立てられて足を乱し、追い打ちに遭うのはもはや間もなくの事だろう。さても口惜しい。
腹を切らん!」

と言い出したところを、前田慶次が押し止め

「言語道断!左様に心弱くて大将が出来るでしょうか。私におまかせ候へ!」

と言うと取って返し、先の通り、水野、韮塚、藤田、宇佐美と、この慶次の五人にて槍を合わせ、
最上勢を突き返し、能く引き払い、何事もなく引き取った。

関ヶ原御陣過ぎて、景勝が米沢に移封された時、慶次を諸方より欲しがり、高い知行にて呼んだが、
「我が主は景勝より他は無し」とて、一生妻子も持たず、寺に住居しているかのように生活し、
在郷に引き込んで、弾正定勝の代に病死した。

慶次は連歌を嗜み、紹巴が評価した句も数多あるが、その中より覚えているものを記す

『賤が植うる 田歌の聲も都かな』

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 14:53:36.83 ID:KzHVeQpO
花の慶次の名場面だったな

私の小唄は高直なる唄である

2021年05月14日 17:51

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/14(金) 16:02:37.63 ID:mTE2p1tD
呉服所の大森三郎兵衛は、平九流の小唄の上手であると(前田利常が)お聞き召され、彼が
小松に参った時分に、御聞きに成りたい旨を内々にお尋ねになられたところ、彼は近年は年も寄り、
唄うことも無くなっていたのだが、御意故に年寄ながら唄った。

これに利常公はご満足遊ばされ、
「この頃はそのように年も寄っているのだから、茶湯なども立て慰みとするように。」
と、定家の文の、見事なる御掛物を下された。これは現在も大森家が所持している。
三郎兵衛は大変に有難がり、「私の小唄は高直なる唄である」と言って自慢したという。

当代の大森三郎兵衛よりこの咄を承った。

(微妙公御夜話)



169 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/14(金) 18:35:31.47 ID:yCyt20/p
利常の戒名、微妙院殿から微妙公ですが、「みみょうこう」なんでご注意ください

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/14(金) 19:47:53.30 ID:DINF7vmf
まあ武将、藩主としての評価も微妙だもんな


171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/14(金) 19:56:10.36 ID:KjqNR5qp
従兄弟:慶次郎利益
鼻毛を伸ばした微妙公:毛いじろうとしません

173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/15(土) 03:45:08.86 ID:HUfxYiBs
>>169
こんな魔物居たよね

  _____
 / ̄ /三/ ̄ /⌒i
 L__LO_L_L/|
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なんと、 宝箱はハゲだった!!
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   彡 ⌒ ミ \|
 /ヽ(´・ω・`)ノ/|
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みなみな無になってしまったのに

2020年11月26日 17:09

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/26(木) 16:47:46.99 ID:Jq8EZIPS
みなみな無になってしまったのに

前田利家の次男・利政は関ヶ原合戦の折に改易され、その後は京に隠棲した。
一時は本多佐渡から兄の利長に「(利政を)国の端にでも置くように」と家康の仰せがあったと伝えられ
母のまつ(芳春院)も利政の放免を喜んでいたが、実現することはなかった。
年次不詳だが、利政の処遇についてまつが嘆く書状が残されている。(前田土佐守家資料館蔵)


本当に度々人を遣わして下さるので嬉しく思っています。孫四郎(利政)のことは
初めはするするとしたお返事を(家康が)申されたのですが、今は色々なことがあり
勢いがありません。側で人がどれだけ力を入れても許されなかったので、好機は済んだのでしょう。
大御所さま(家康)は御口が上手いので、(自分の)死んだ後のことまで申されるそうですが
太閤さま(秀吉)が日本の衆に政治をさせ、どれほどの多くのことを仰せられていても
みなみな無になってしまったのに、おかしなことだと思います。
こんなことを申すのは、我が身の因果の程(報い)を感じるようになり、仏心にも見放されたと
思っているからです。九月より喉のあたりが腫れてきて、胸も痛く”けんかん”の薬を飲みました。
合間合間に飲んでいるからか、腫れてはいますが物はよく食べることが出来ているので、安心して下さい。
めでたくかしく

十月六日 より
おちよ御返事 参 ちま はう(芳)
申給へ



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/26(木) 19:08:52.41 ID:ydaJNGMI
親子共にケチだから分家つくるの嫌がったのかね?

つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて

2019年05月19日 12:29

45 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/18(土) 17:52:01.62 ID:Wwgww9Qv
漫画『花の慶次』での有名な場面として、秀吉に謁見した前田慶次が、虎皮の裃や奇矯な袴にわざと横向きにに結った髷で、
顔を横向きに頭を下げて意地を示し、その直後に装束を改めて見事な武士っぷりを見せるというシーン。
作中でも屈指の名場面ですが

「今度は成程くすみたる程に古代に作り、髪をも常に結直し、上下衣服等迄平生に改め・・」

と『可観小説』の一文が引用されていますのはご存知の方も多いかと思います。

ですが実は可観小説にこのような個所は存在しません。

では捏造か?というとそんな訳ではなく、大正時代に前田家が編纂した『加賀藩史料』が原作者・隆慶一郎の元ネタです。
加賀藩史料は古文書や書籍からの引用文を掲載し国史体で編纂されており、慶長10年11月の個所で慶次の略伝として様々な
書籍資料から引用紹介されていますが、このエピソードは加賀藩家老今枝直方の著作『重輯雑談』からのものなんですね。
つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて、それがそのまま漫画に掲載されて世に広まってしまったと。

自戒として、こういうスレに限らず元ネタと引用先は気をつけねばなりませんね。
加賀藩史料は国会図書館デジタルアーカイブでウェブ閲覧できますのでぜひご覧ください。

ちなみに可観小説の著者、加賀藩の儒者青地礼幹は直江兼続の養女(姪)の子孫です。



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 13:44:26.48 ID:eIFVPv4q
週刊ジャンプであの連載で大人気って、今思うと凄いな

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 16:08:18.65 ID:6vZU7cQO
>>45
可観小説に書かれたエピソードは、利家を水風呂に入れる話だね。

412 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/22(火) 18:52:37.48 ID:9LYGOP2z
つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11941.html

まとめ過去で「可観小説」関連だと、「花の慶次」のこれですかw
近年だと竹島一件についての伝聞も注目されてるとか。


戦国関連だと、青地礼幹は家老本多家の一族ですね。
本多政重と直江兼続養女(大国実頼娘)の間に生まれた長男政次は母方の樋口姓を名乗り京に住まいしていたそうですが、
本多家を継ぐのに直江本家断絶後で後ろ盾がなくなった遠慮のようなものがあったのではないかとの推測があるとのこと。
子の樋口朝政は祖父に似た豪胆な人物だったそうですが、その子の定政が青地家に養子入りし、礼幹兄弟の父です。

土佐日記(定家筆本)

2019年03月27日 18:38

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/26(火) 17:15:05.86 ID:2ysR5WPg
貫之(紀貫之)自筆の『土佐日記』は蓮華王院の仕物であった。それを定家卿(藤原定家)が写した本が、
連歌師の玄的(里村玄的)のところにあった。今は加賀(前田家)の家蔵となっている。

定家の写本はすべて自分の筆力で写し、末の2,3葉は貫之自筆の本の大きさのまま、字の形をも模して
書かれている。これは後の世に貫之の書法を知らない者が、これを法とできるようにするためとして後書
きに書いた。これをもって見れば貫之の自筆は定家の時代でさえ至って稀であったと見える。今時は往々
にして人の家に貫之の真跡として所持しているものもあるが、笑うべきことなり。

定家の時代までは貫之自筆の本があったと見えて、その本の大きさをも図しているのである。貫之の本は
今は絶えてしまった。定家の本は老人(江村専斎)が度々見ていたのだが、貫之の書法は変わった字様な
り。今時の偽物とは似たものにあらず。定家の本は今は加賀より八条殿(八条宮家)へ進ぜられたという。

――『老人雑話』

※現在、前田育徳会尊経閣文庫蔵のこの定家筆本土佐日記は、国宝とされています


決しかねる二つのこと

2019年02月25日 21:29

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 19:56:05.69 ID:kCbdXMQS
山崎の合戦の時、高山右近は自陣にて薙刀の鞘を外し、床几に腰を掛け、未だ合戦に至らないところに、
高山の家臣の甘利という者、彼は高山に寵遇されず、末座にしか居なかったが、高山の前に進み出て、
跪いてこう尋ねた

「私には今ここに、二つのうちどちらを選ぶべきか決しかねていることがあります。恐れながら
殿にその判断を承りたいのです。」

「それは一体何事か」

甘利は言った
「勇智の名のある者は、遠国、他家にあっても伝を求めて家に招き、高知を賜って恩顧薄くありません。
いわんや元よりこの高山家の家臣たちは、殿にとっての干城になるべき人材だとご覧になれば、人並みの
御言葉をもかけられます。

であれば、私が人数成らぬ体にて捨て置かれているのは、そのような御用に立たない者と思し召されて
いるからでしょう。

今、私が敵を斬り陣を破れば、それは殿のお眼鏡が違っていた事となり、これは不忠と言うべきでしょう。
だからといって、攻めかかるのに遅れ、退却することに先立てば、武士の名を失い、父祖を汚し、これは
不孝となってしまいます。

不忠の罪と不孝の罪、いずれが重いのかと、案じわずらっているのです。」

高山は甘利をじっと見ていたが、一言も答えなかった。
そうしている内に、敵すでに近くなると、甘利は

「たとえ不忠の罪であったとしても、拾い頸をし、敵の行く手を遮るくらいであれば、そのように悪しく
捉えられる事も無いでしょう。そして怯弱不孝の罪は重ねて補い難いものですから、あちらを捨てこちらを
取りましょう。」

そう言うと味方に先んじて攻め入り、高山家の一番槍を合わせ、兜首を獲った。
また明智光秀の軍が敗北し逃走を始めると、これを追って光秀の甥である明石義太夫を討ち取った。

直諫すべき時でなければ、みだりに主君の非を言うべきではない。
甘利の言葉はまことに無礼である。しかしその無礼を聞き届け、自ら反省することが出来なければ
暗君と言うべきである。

(武将感状記)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 20:44:44.21 ID:Z+5elnds
こんなめんどくさい事ばかり考えてなきゃいかんのかと思うと絶対武士とかに生まれたくないな
もっとも平民に生まれたらもっと悲惨な人生なんだろうけど

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 09:52:51.69 ID:WuMV8JSF
>>761
これは単純に嫌味を言っただけかと

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 11:29:34.76 ID:YGzEIqam
>>761
多分こんなに面倒な奴だから厚遇されなかったんだろうね

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 19:46:02.19 ID:eCED7ohD
高山は松永、和田、荒木、明智、全ての主家を裏切ってる
こんな変節漢にいい家臣がいるわけがない
結局大名より宗教を選び家臣を路頭に迷わせたクズ

如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候

2019年01月27日 17:55

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/26(土) 20:19:07.24 ID:jQx+upVJ
(賤ヶ岳の戦いの時)

20日の夜に入り、秀吉は賤ヶ岳山の麓に夜に紛れて御入りになった。その隣の百姓どもを呼び出され、
この頃の陣取りの事なので、百姓どもに敵の陣取りの次第を御尋ねになられると、一々にこうであると
申し上げた。

「それならば汝は案内をよく知っているだろう。筑前守の者を汝に付けよう。頼む」と秀吉は仰せられ、
金1枚を遣された。「難無く戻ればまた2枚を遣しましょうぞ。この者を連れなさって前田又左衛門殿
(利家)の陣へ紛れ入りなされよ」と仰せになれば、その百姓は「大形山をつたって参りましょう」と
御受けし、秀吉は申状を御書きになり、前田又左衛門殿へ遣しなさった。

「夜に紛れてここまで参着しました。敵の人数を残さず引き付けた時には、篝火を数を尽くして燃やし
ます。火が多く見えたならば、明日の合戦と思し召されよ。合戦を結んだ時には裏切りを願い奉りたく
存ずるが、かねてよりの御心中は存じておるので、はっきりと裏切りにはなられますまい。

合戦に御構いなさらぬことは裏切り同様でござるので(合戦に御かまひなき事裏切同前に御座候間)、
そのように御心得なされたい」

このように仰せ遣わしなさると、又左衛門殿からは、

「それでは茅野まで夜に紛れて御着きになられたか。篝火のことは心得申した。仰せのように裏切りは
御容赦なさって頂きたい。外聞は如何なものかと存じます(如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候)。
明日の御合戦では、御指図のように双方ともに構いますまい」

との御返事であったと相聞こえ申し候事。

(中略)

前田又左衛門殿は、自城の越前の府中に難無く父子ともに入りなさった。この城は柴田殿(勝家)の家
城から道を5里隔てた近江の入り口である。又左衛門殿は「秀吉は早々にここへ気負いして攻め掛かり
なさるものであろう」と思案された。

裏切りを確かにしてこうと見えればこそ、秀吉も御満足と思し召されようが、そうではなかった(裏切
をも慥かにして角と見えはこそ秀吉も御満足とは可被思召に其儀はなし)。

身の上も危うく思いなさったということなのか、又左衛門殿は「まずは城の総構えに鉄砲を配置せよ!」
と子息の孫四郎殿(前田利長)を出され、あちこちに鉄砲を配置し今か今かと御待ちになったのである。

――『川角太閤記』


「狼を退治した狛犬」

2019年01月09日 16:56

627 名前:人間七七四年[sag] 投稿日:2019/01/08(火) 23:46:27.62 ID:bnGBQAK8
この時代、狛犬が門番として
実際に人食いニホンオオカミと戦った民話が金沢にあり、アニメ化された

加賀藩の伝燈寺が舞台の「狼を退治した狛犬」より

※三河(みかわ)神社
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/chubu/shrine/mikawa/mikawa.html
  慶長5年、関ヶ原の合戦の年、
  この地に狼の群れが出没し、人々を襲うようになりました。

  ある日、子供達が遊んでいると狼の群れが現れました。
  一人の子供が逃げ遅れ、地蔵堂の中に逃げ込むと、狼の群れはお堂の周りを囲みます。
  すると、地蔵堂の前に鎮座していた狛犬が動きだし、
  狼の群れに戦いを挑み一匹残らず退治してしまったそうです。

↓アニメ化↓
※TBS:マンガ日本昔ばなし「不思議なコマ犬」
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=439

  小さな孫が「こまいぬさま~~~!」と叫んだ。
  その時、狛犬に積もっていた雪が崩れ落ち、
  狛犬が獅子のごとくオオカミの群れに飛び込み、次々に噛み殺していった。



628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 10:24:30.65 ID:E7AumqXT
戦国期だったら狼くらい狩って喰ってそうなイメージがあるがw

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 14:35:33.20 ID:SW6hirNY
>>627
>関ヶ原の合戦の年
死体がいっぱいあって人の味覚えたのかな…。

630 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/11(金) 22:30:44.65 ID:KzwFYReg
それ以来、金沢の狛犬は今にも飛び掛からんとする姿に彫られるようになったという

前田利長と七人の鋳物師

2018年10月24日 18:20

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 11:24:10.42 ID:OKsi2wXl
前田利長と七人の鋳物師


慶長14年、前田利長は居城としていた富山城が燃えたため、幕府に許可を取り
同国の関野に城を築くことにし、その周辺を高岡と名付けた。
慶長16年に、利長は近郊の西部金屋から鋳物師七人を招き、免税などの特権と
東西五十間南北百間からなる御印地を与え、鋳物づくりを行わせた。
この御印地が現在重伝建に指定されている高岡市金屋町である。

一国一城令で高岡城は廃城となり城下町ではなくなったが、金屋町は繁栄した。
当初は日用品である鍋や釜、鍬といった鉄器を作り、百姓に貸し付けていたが
仏具の需要が高まってきたことから、天保・弘化の頃に銅器も作るようになった。
現在の高岡は銅器のまちとして知られ、日本における銅器の生産額シェアの
約95%が高岡で作られたものである。

金屋町では、毎年利長の命日とその前夜2日間に渡って”御印祭”を行っている。
元々は鋳物師七人衆が利長に報恩するため、御印地をもらったことを示す文書を
拝んだことが始まりのもので、前夜祭では、鋳物師の作業唄である民謡弥栄節に
振り付けて、千人ほどが踊るにぎやかな祭りとなっている。



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 17:29:13.90 ID:BVEYNKqg
それでオナベの聖地になってるのか

南坊が最初に総門を固めたのは

2018年09月13日 21:13

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 14:10:04.47 ID:Lb9DTZ1/
(山崎の戦いの時)

明智勢総軍1万4千余人は淀を出て狐川まで打ち立った。先手は川より向こうの方へ出張、
光秀は川より東に陣取った。明けて6月13日寅の刻、池田父子(恒興・元助)が

山崎表へ進んで見れば、高山南坊(右近重友)は総門を差し固め他の兵は1人も通行させ
なかった。池田父子はこれを見て、「高山は異心か! 油断するな!」と言いながら、

川に沿って細道より山崎の東総構の外を巡り、明智勢に打って掛からんと馬を速めて急ぎ
行く。南坊はその間に総門より打ち出て池田勢より遥かに先に進んでいた。

かくて南坊が最初に総門を固めたのは他の勢を入り交えずして先陣せんと心掛けた武辺の
嗜み、素晴らしくもまた殊勝なことよと敵味方ともに感じ入った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


備の場にて馬を

2017年11月08日 20:28

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 12:43:43.33 ID:twusLRGw
備の場にて馬を取り放してしまっては、必ず味方の破れにつながるので、聊かも疎かにしてはならない。

賤ヶ岳の合戦で、柴田方であった前田利家の備が敵と交戦する前に崩れたのは、前田の家臣であった
三吉左吉という者が馬を取り放してしまい、それゆえに備が乱れ。佐久間玄蕃同時に崩れたのだ。

この時、前田の旗奉行である横山半喜(長隆)という者が討ち死にした。これはあの横山山城(長知)の
父である。旗の立てよう、見事であったという。

また関ヶ原の時、近江大津城攻めは9月15日に行うと決定していたが、13日に毛利方の吉川家の者が
陣屋において馬を取り放し、殊の外なる騒ぎとなったのを、共に大津城攻めに参加していた立花家の者達が

「さては中国衆は、我々を出し抜いて城を攻めるのか!」

そう勘違いをし、柳川衆はそうはさせるかと攻め掛かり、二、三の郭を乗っ取った。
柳川衆のこのような行為を見て、中国衆もまた攻め掛かった。

これらは、みな馬を取り放してしまったために起こったことである。故に、陣屋、備の場ともに、
馬を取り放さない心得がなくてはならないのだ。

(士談)



利太(前田慶次)は浴場で入浴した。

2017年10月04日 19:07

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 22:38:23.77 ID:k5xzbSsL
ある日、利太(前田慶次)は浴場で入浴した。

この時の利太は巾で顔を覆い、褌に合口(短刀)を帯びて入った。
浴槽にいる者は驚いて出て、皆が刀を帯びて浴槽に入った。

そのうち利太は浴槽から出て合口を抜くと、その合口で垢を落とし
始めた。戻って来て入浴する者がこれをよく見ると、

それは合口ではなく竹べらであった。ここで初めてたぶらかされた
と分かり、人々は大いに恥じた。

――『加賀藩史稿』



160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 22:54:05.10 ID:W4EWc78u
お決まりのアレね

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 23:03:17.56 ID:KBj7WAN5
まとめサイトの547(リンク貼ろうとしたら弾かれた)の
前田慶次の、かぶき者の入浴・悪い話
ていう翁草の話と少しちがうな

本多安房守は色々御話を申し上げた

2017年09月21日 18:46

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/21(木) 03:22:10.82 ID:bTnaNMaE
一、本多安房守(政重)は大献院様(徳川家光)の御代に、毎度御前で色々
と御話を申し上げた。これがあまりに御話申し上げ過ぎているとして、

酒井讃岐守殿(忠勝)などは御笑止(気の毒に思うこと)に思いなさったとの
由、岡田豊前殿(善政)が相公様(前田綱紀)に申し上げられた。

一方で申し過ぎることは、微妙院様(前田利常)や陽広院様(前田光高)の
御為によろしきことも多くあったとの由である。

これは右の記事と同じ時(享保5年8月12日夜)に仰せになった。


一、本多大夢が安房守と申した時、大献院様の御代に参府し、何れの時か
御目見えした折、大献院様の仰せがあると、何やら色々申し上げたという。

その後に岡田豊前殿が申されたことには、松平伊豆守殿(信綱)が御申しに
なったそうで、安房守は何やら御前で申し過ぎたとの由を御申しになられた
との旨の噂があったとのことである。

これは前述の豊前殿の物語りを聞こし召されたとの由を、右の記事と同じ時
(享保8壬卯年5月25日)に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



その者を前に抱えて立ち退き

2017年09月19日 14:38

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 05:07:13.57 ID:bkfnltZI
中黒道随は毎度御前へ召され、古戦の物語をも聞こし召された。
ある時に道随は申し上げて、

「大坂において傍輩の中に手負いの者がいて引き退く時、その者
を背負って退くと、手負いの者を盾に致しているように見え申すか
と存じましたので、その者を前に抱えて立ち退きました」

との旨を申し上げた。道随の嫡子・太左衛門は黒田家に罷り在り
物頭であったが、道随は相願って暇を乞い、

御家(前田家)へ罷り越した。すなわち、その太左衛門へ家督を
仰せ付けられた。その子は六左衛門、二男は八右衛門と申した。

太左衛門の代までは2千石であったが、太左衛門が相果てると
六左衛門に千5百石、八右衛門に5百石が下されたとの旨、

同年(享保5年)4月27日の夜に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



禄が重くなれば安堵致して、

2017年09月16日 21:53

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 02:09:29.56 ID:whL2ywNF
越後の謙信が一揆を退治しに加賀へ発向した時、たいへんに寒気が強く、
太田村へ人数を入れて、火を焼いてあたって居申した。

そこへ加賀の一揆の大将で、何とかの能登とか申す者が、にわかに攻め
掛かり、謙信はやり様もなく打ち負けて敗軍した。

これを大納言様(前田利家)は聞こし召され及んで、能登を召し出された。
それ以後、度々の合戦に能登は参加したが、1度の高名も無かった。

凡そ奉公人は禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬものであるとの由、
享保5庚子年6月5日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 06:53:07.43 ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:11:44.64 ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:43:44.23 ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 10:35:41.22 ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 11:34:35.22 ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 18:33:26.75 ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

私と刺し違えるのは、

2017年09月11日 17:00

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/11(月) 14:55:59.26 ID:NI9S8d5p
大阪の陣の時、前田家家臣の平野弥次右衛門に、味方の武士が楼門より出て攻撃してきた。
弥次右衛門は味方と知らず、これと戦うため鎌槍にて駆け寄ったが見れば加賀前田家の相印であり、
顔は見えなかったが兜と指物を見て

「何者か!?味方打ちであるぞ!」

そう大声で罵しり槍を引き、さらに罵った。

合戦の後、この罵られた者、堪忍ならざるによって弥次右衛門と刺し違えようと、彼のもとに
やって来た。弥次右衛門は彼の来訪を知ると、郎党中言たちそれぞれに棒を持たせ、自身も
木刀を持って彼の前に出た

「其方は私と刺し違えると聞きたる仔細有るによって、このような用心をした。」

彼は来訪した趣を述べ、それを聞いた弥次右衛門

「その事で来られたとは知らなかった。私はその時断ったように、顔は見えておらず甲冑だけは見えた。
其方と知って言ったのではない。である以上、悪口を言っても仕方がないではないか。
あの時罵った相手がその方であるのなら、私と刺し違えるのは、大いなる誤りである。」

そう言い、押しすくめて帰らせた。
彼の者止むを得ずして、その夜、駆け落ちをした。

(士談)