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前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事

2023年05月22日 20:36

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/22(月) 17:50:40.97 ID:B5XhHAMH
続武家閑談」から「前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事」

関連話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13431.html
かかる太平の世に逢候事ハなりかたき事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3779.html
利長が輿をかつぐ者達を見ると

前田利長夫婦(当時数えで利長21歳、永姫(信長の娘)9歳)が同伴で京見物のために北国から上京しようと、まず安土城にいたった。
天正十年(1582年)六月二日、安土から勢田までおもむいたところ、向うから信長の奴僕がまっしぐらに来て「本能寺で信長公が弑せられました」と言った。
供のものどもは色を失った。
利長が言うには「父利家の領地である越前府中はここから遠く、一足とびには帰られないだろう。
まずは尾張にいる一族前田与十郎(前田長定)のところに妻女を預けよう」
すると六人の供が皆もとどりを切って
「尾張への御供はいたしません」とはっきり申した。
利長はこれを聞いて
「我らが妻女をおもうのも、汝らが越前にある妻子を心配に思うのも、心は同じである。
おのおの帰ってよいぞ」とことごとく帰した。
そして内室(永姫)に大小をささせ、馬に乗らせた。
恒川監物と奥村茂右衛門(奥村助右衛門永福?)が馬の口をとり、尾張へおもむいた。
一方、利長はまず安土の屋敷に入り、そこから越前に帰ろうとした。
このとき新参の武士は残らずいなくなり、譜代のみが供をしたという。
人心は今も昔も変わらぬはずだが、新参者は世上に有縁のものがあるために身を片づけやすく、
譜代はなかなか他家には縁がすくなく、また母や妻子が皆主人の領内にあり、逃れる手だてがなかったためであろうか。



762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/22(月) 21:57:13.34 ID:xQCLqfeC
>>761
ちょっと良い話でもある
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この徳山五兵衛の分別のために

2022年12月12日 19:09

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/11(日) 22:31:18.66 ID:cJv5e76e
慶長二年酉の年、太閤様の御代であったが、その四月の頃、(伊達)政宗殿が洛外において花見の遊山をされたそうだ。
建仁寺の藤を一日中、一両日を過ごし、藤の森の入江の花見を、いかにも密かに、遊び者などを召し連れて遊山の所に、洛中のスリ共がこれを聞き出し、政宗一項をひしひしと取り巻いて

「我々は飢えており、金銀を頂きたいのです。」と申し掛けた所、

「安き程の義である。しかしここには金銀を持ってきていない。」そのように断ったが、

「ならば御腰の物、御供の衆迄のものを下さりますように。」
と申し上げた。これに対して「刀、脇差は如何であろうか。」と屋敷へ人を使わして金を取り寄せ、彼らに取らせてようやくそこから退くことが出来た。

悪事千里と言うが、五日のうちにこの話は京伏見に広まり、世間では「政宗殿が両腰の物まで奪い取られた、との風聞が専ら取り沙汰された。

このような所に、その頃加賀大納言(前田利家)殿と政宗とは、関係があまり良くなかったのだが、大納言殿はこの事を聞きつけられ、使番の北村という若者にこう言い含められた

「政宗殿の所へ参り、『最近承った事には、藤の森にてスリにお逢いに成ったとのこと。笑止(気の毒)に思います。』と伝えるように。」

この時、大納言殿の側廻りに居た徳山五兵衛(則秀)はこれを聞くとこのように考えた

『以ての外の大事なる事を仰せ使わされるつもりだろうか?その使いに対し、定めて政宗殿からは『懇ろなる使、忝なく存じます。そして(我々がスリに遭ったという)証拠を下さりますように。』
と言って来るだろう。そう言われた場合、我々に確かな証拠は無い。となれば伊達家との関係が大事になる事は必定である』

そのように分別し、『そのような使いは御無用にて候』と申すべきだと胸中には思っていたが、大納言殿の癖として、一旦腹(一度言い出したことは反論を聞かない)なる人であるから、
そんな事を言えば猶以て早々に使いを出しかねないと案じ、あえて反対をせず「使いには私が参りましょう。」と申し上げた。
「ならば五兵衛が参るように」と仰せになられると、この使いの事を五兵衛は留めて、二、三日が過ぎた。
大納言殿より「五兵衛、政宗殿の汚き事についてはどうなったのか」と尋ねられたが、これに対し「これは大事の御使であります。伊達家より証拠を求められた時はいかがすべきでしょうか。」
と申し上げた。しかし「スリに遭った事は必定である。五兵衛が参らぬのなら他の者を遣わす」と仰せになった。そこで「ならば私が参ります。」との事に成った。

徳山五兵衛は政宗殿の元に参り、大納言殿の言った通りに申し渡すと、案の定、政宗殿は自身で出てきて書院において対面し、その返事には

「そのような事を能く聞かれ届けられました。願わくばその証拠を出し、我々に下さりますように。」

との事であった。五兵衛は挨拶仕り、「この事は、先に申し上げたように世間がそう取り沙汰している事です。
大納言に対し、証拠を出すようにとの御返事でありますが、そのようば御返事では、私は罷り帰ることが出来ません。使いが不調法であった、という事に成るからです。である以上、慮外ではありますが、
御椽を汚し申します。(椽側で切腹するということ)

五兵衛の覚悟が強く見えたのを、政宗殿はとっさにその気色を悟り、
「そういう事であるのなら、世間の取り沙汰もあるのだろうか、仰せを聞き置こう。それは世間の悪口でもあるのだろうが、御心安く思って頂きたい。そのような事は身に覚えが無い。
御内証、忝なく存じ奉り候」

と、直に返事をされた。徳山五兵衛は分別し、この返事を聞いても証拠が無いと考え、「今暫く、申し上げたい事があります。」と言ってその座を立ち、政宗殿の屋敷に近い、
糟屋内膳殿、土方勘兵衛へ使いを立て『これへ早々御出下さりますように、急用のこと御座候』と申し遣わした所、この両人が参り「このような使いのため、大納言の所より参りました。」と
説明し、この両人を先に立て、再び政宗殿に逢い、

「最前の御返事はあのようでしたが、その後に御言葉が有れば、後の両家の申し事に成ってしまいます。証拠のために、この両人を御前に在られて、御返事の内容を承ります。」
と申し上げた。

この後に取り沙汰されたことには、この徳山五兵衛の分別のために、政宗殿と大納言殿との間に物言いが起こらなかった。これは偏に臣下の徳山のおかげであると、この話を聞く者たちは
五兵衛に感じ入ったと聞こえている。

(川角太閤記)



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 14:01:29.35 ID:r1ZE6v21
ロリコンさぁ

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 17:23:24.85 ID:AEhmbMhj
五兵衛さんのいい話であり
利家の悪い話でもある

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 18:46:55.40 ID:GZ/44Pjx
>>509
つまらん頭してるな

老いたりとも槍の又左

2022年09月29日 15:54

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 21:56:23.61 ID:TRfck96B
利家夜話』より
老いたりとも槍の又左、というお話
長いので要約、かぎかっこ内のみ読み下し

秀次事件で連座しそうになった浅野長政親子
石田治部と増田右衛門と仲が悪く密告され、左京(幸長)は舅の利家を頼った
利家はさっそく、秀吉と北政所を密かに訪ねようとした
すると、伏見城の城門外には抜き身の槍がわざとたくさん並んでおり、奉行が左京を挑発しているようだった
それを見た利家は乗り物から下りて、激怒する

「おのれら何事ぞや。今は日本の侍は申すに及ばず、唐まで従ひ中、浅野弾正(長政)父子程の者、自然不届の事に極り御成敗なられ候とも御門際に抜身を仕まつること、さてもさても沙汰の限りなり。左様の事をば奉行の奴原知るまじ。算用の事や人の口にて痛き申す事などは存ずべし」と音声高らかに叱った
「おのれらめ。その槍の鞘はめましき(お飾りくらいの意か)か」と怒ると、御威光を恐れて奉行衆は櫓の中で小声になり、「さやはめ候へさやはめ候へ」と申したので、さっと鞘をはめた
お供していたものは、かように気味のよいことは見聞きしたこともない、初めて見たと話した

なお、前後に磯貝なる者が「似せ判」をしたとあるんですが、これはなんなんでしょうか



421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/29(木) 17:35:41.44 ID:GnixVJCR
>>419
幸長の舅って利家でした?と思ったけど婚約だけしてたんだね

城攻めのリアルな実相

2022年09月29日 15:53

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 23:51:02.35 ID:TRfck96B
利家夜話』より
城攻めのリアルな実相
※近江の金が森城(一向宗、加えて佐々木残党がたびたび籠ったとも考えられる、いわゆる村の城)攻め

江州金が森の城を信長公が攻められたとき、村井豊後(長頼)は夢で「時分もいいから必ず左の道に進みなさい」と山伏によって枕元で確かにお告げがあった
目覚めると、日頃から愛宕山を信仰していたからだとありがたく思い、水垢離をして具足を着て利家の陣所に向かったが、いまだ「鳥前」(鶏が鳴く前=夜明け前)のようで、(利家は)「もうちょっと待て」ということだった
そこで小屋に帰って「いねぶり」(居眠り)をしていると、またお告げで「左につけ」とあった
さてまた、信長公の本陣で一番貝が吹かれ、前田勢は城に寄せるとき、左右に道があったがみな右を進んだ
豊後(が属した部隊も)右を進んだが、「いやいやくっきりと愛宕山のお告げがあった」と一人道を引き返し、左の道を進んで堀の「柴折」(逆茂木)に刀をかけた
ふと見ると四、五人の影があり、「敵か味方か」と寄っていくと、「馬にも乗らずにここに来たのは誰だ。私は柴田修理(勝家)の甥の佐久間玄蕃(盛政)である」と名乗った
そのとき豊後が「前田家中の村井又兵衛(のちの豊後守)である」と言うと、玄蕃は「又左衛門(利家)家中で名前は内々聞いている。合戦場で初めて会えてとても喜ばしい。夜明けには逆茂木を切ろう」と申し合わせ、そのうちにあとから味方が寄せてきた
そのとき、豊後と玄蕃は声を掛け合い、逆茂木を切って槍を取って(乗り込み)すぐに首を取った
利家は信長本陣にいて、その首を持っていったところ信長公のお目にかけられた
信長公はまた又兵衛が手柄を立てたと近くにあった吊るし柿5つを手ずから与えたほか、いつもの働きの証であるとして南蛮笠を与えた



422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/30(金) 08:45:18.01 ID:w5gbckYT
>>420
夢枕で左に行った人と鬼才で左に行った人との違いか
これで義兄弟にもなってたら良い話なんだが

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/30(金) 12:03:12.99 ID:fHVJ/jqd
信長の甘い物好きがw

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/30(金) 12:23:08.23 ID:v2jg3NyM
近隣の百姓から徴発したんだろ
まあ蚊帳なんてないし虫がたかって中に卵が入ってる柿
吐くわ

不仲の内蔵介に寝転がりながら

2022年09月27日 19:13

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/26(月) 23:23:57.94 ID:ESVq42kt
利家夜話』より
権六と又左、不仲の内蔵介に寝転がりながら意地悪する話

越前の国を柴田修理(勝家)が拝領(した頃の話)
さて、大納言様(前田利家)と佐々内蔵介(成政)、不破河内(光治)の三人が府中にいたとき、柴田は北之庄から、佐々は五部市から、不破も(前田邸に)やってきて一日一夜、振る舞いをしたことがあった
柴田はことのほか機嫌がよく、「匍匐」(腹ばい)になって寝転がりながら上方の話や信長の手柄話を語った
柴田が言うには「又左(利家)よく聞け。最近、表裏者の明智光秀が出世してきた。(信長が)指を折って数えられたように、俺の手柄で26度まで勝利を得、信長公よりお礼を賜っている。誰が出世してきても恐ろしくはないわ。お前も指を折ってみろ」
すると利家は「『親仁』(寄親=勝家、オヤジと呼んでいたのか?)は家来が多いから先手でたびたび勝利を得ましたが、(勝家も)端武者のごとくたびたび槍を振るったのは今の世で並ぶものはいないでしょう。では、私も指を折ってみましょう」と指を折り、あちこちでの18度の手柄の話をした
柴田はいっそう機嫌がよくなり、なんやかやと色々話をし、「世間ではたまたま二、三度手柄を挙げるものは多いが、心が猛くとも合戦がなければどうしようもない。今の世は武勇を挙げたければいくらでも機会がある。俺や又左は信長公にも同僚にも恥ずかしいところはない」と笑った
柴田と利家は佐々と仲が悪かったので、柴田は佐々への当て付けで話したのだろうと(利家は家臣に)語った
佐々は涙を流して何も話さなかった
柴田と利家はさらに「繰返繰返」同じようなことを話し続けた

古織と有楽にも寝転がってしゃべった逸話がありますが、そんなほのぼの感はまったくない話



603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/27(火) 01:43:25.44 ID:ulOgv5iB
勝家派閥でも嫌われてるとか、佐々は仲良い相手いないのか?

604 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/27(火) 10:37:42.00 ID:thuJaFyX
ならなんで遊びに行ったんだろう

605 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/27(火) 19:51:33.44 ID:X6fAHDOq
成政も実戦経験豊富だったよね?
称賛された手柄も結構あったような

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 22:19:39.72 ID:TRfck96B
>>605
利家は夜話の中で「俺は19度槍を合わせた、佐々は3度だけだ」とか散々佐々をディスってるんですが、越中攻めのときは「佐々もさすがの武将だから」みたいなことを言って、二筋ある攻め口の佐々正面側の攻撃をやめさせたりしてます
そもそも不仲になった原因は、利家が切った茶坊主(このせいで利家は浪人に)と佐々が仲良しだったから
別に佐々が信長に訴えたりしたわけでもなく、茶坊主は信長とも懇意だったので、信長自身が激怒して「犬(利家)を成敗せよ」とか口走ってるんですけどね

一方で、勝家とは関係性がよく見えます
しかし武将の評価としては「勝家は戦場で、鉄砲が飛んできても立っていて、弾なんぞに当たるわけがないから立っておけと家臣に叫ぶ。森可成と坂井政尚は当たるときは当たるんだから伏せておけ。敵陣に懸かるときになったら開き直って遮二無二突っ込めと言う。一軍を率いる大将とは後者であるべきだ」という趣旨の話もしていたようです

何と射たものか、名誉の事である

2022年06月08日 19:14

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/08(水) 15:28:40.64 ID:75f8/pZz
加州(前田家)の家臣・吉田大蔵は、大阪一乱の時に左の指を半ば射切られ、拇指と食指(人差し指)のみ
全うであったが、弓は猶妙手を得ていた。

前田利常がある日、放鷹に出たのだが、愛玩の鷹を大緒(鷹の足革に結びつける大きな組糸の緒)と共に
取り放ってしまい、辺りの森に入り、木の枝に止まったが、大緒が絡まって、鷹は逆さまに縋っていた。

利常は吉田大蔵を呼び、「どうにかして、鷹を損なわぬように射取れ」と命じた。
大蔵は一旦は辞退したものの、令重く「承り候」と承諾し、雁股を番い、鷹の真ん中を射たように見えたが、
そのまま飛び去ったのを、鷹もその跡を慕って飛び上った。

利常は大蔵に「何と射たものか、名誉の事である!」と称賛した所、大蔵は
「木に絡まった大緒は、射ても解くことは出来ません。そのため旋子(もとおし・大緒に用いる八の字型の金具)
を射割ったのです。またこういった時、矢に鷲の羽を用いるのは嫌われます。羽が擦れて鷹にあたった時に
非常に痛いからです。故に柔らかい羽を用いて射ることが、故実でもあります。」
と申したという

新東鑑



232 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/08(水) 19:38:04.31 ID:1fky5inv
故実でもありますって前にもやった人がいるんか…

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/09(木) 14:17:59.05 ID:dZuFsclC
ゴルゴ13みたいな侍だな

「朝野雑載」から前田利常の乳母の話

2022年03月25日 19:33

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/25(金) 18:57:36.74 ID:HfPN5Ga9
朝野雑載」から前田利常の乳母の話

加賀中納言利長の弟の猿千代(継嗣となった1601年以降の幼名は犬千代)は幼少時、啞(おし)であった。
猿千代の舌は腮(あご、ここでは口腔内だろう)に着いていたが、乳母が切り離したところ、言語が明瞭となった。
のちに利長の跡を継いで利常と号した。



94 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/26(土) 15:32:39.77 ID:k/biLpZ5
その逸話は何らかの医学的な手術を反映しているのかな?

前田利長家臣、太田但馬守について

2022年03月16日 18:45

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/16(水) 18:28:18.85 ID:W5QHGRnF
「朝野雑載」から前田利長家臣、太田但馬守について

太田但馬守(長知)は土方勘兵衛(雄久)の弟であり、前田利長卿の家臣として高禄をうけ、山口宗永の大聖寺の城攻めには一方の侍大将もして活躍し、
丹羽長重との浅井縄手の合戦でも比類なき下知をくだし前田軍を指揮した。
あるとき、但馬は狐の子を捕らえてなぶり殺しにしたところ、母狐が但馬の部下に取り憑き
「但馬はとがなき我が子をなぶり殺しにする。
この怨念、いずかたへかゆくべき。近日かくのごとくにむくうべし」と言った。
利長卿がある夜、寵妾のもとへ通ったところ、忍んでいる男の影があり、みると太田但馬の姿であった。
利長卿はこの時以来但馬を憎んでいたところ、またある夜、寵妾のところに向かったところ但馬があらわれ、姿を消した。
そのためただちに横山山城守(長知)に命じて但馬を斬り殺させた。
なお但馬はその夜饗応に招かれ、酒宴に出席していたため寵妾のところに通えるはずもなく、
その上、深閨との間には番所も多くあり、その夜に人が通った形跡はなかったということだ。
後日よくよく尋ねたところ、かの母狐の仕業だということになった。
この但馬は性格が我儘で人をそしり、偏狭でおのが功績を人に自慢し、自己の利益を欲し、人の恨みを買うような人物であったけれども
知行二万五千石で第一の老臣だったために、表立って非難する人もいなかった。
結局のところ、不善の家には必ず餘殃があるという言葉の通り、最終的には不慮の災難に遭ったと言えよう。

青地礼幹「可観小説」にもある話らしい

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/16(水) 18:38:17.36 ID:W5QHGRnF
https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/kakan/kakan_70.pdf
金沢海みらい図書館のサイトで「可観小説」を確認したらほぼ同じ話だった
※管理人注 PDF注意


徳山則秀と徳山英行

2021年11月19日 17:31

800 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/19(金) 02:35:02.72 ID:kcCwIa2J
徳山則秀と徳山英行
 
賤ヶ岳の敗戦後、徳山則秀がひそかに養育した人物が鬼玄蕃こと佐久間盛政の息子である徳山英行です。
賤ヶ岳で則秀とともに戦った佐久間盛政は刑死し則秀は悲運に死んだ戦友の遺児を引き取り成長後は徳山英行と名乗らせて娘婿に迎えています。
1606年に則秀が亡くなった後、家督を継いだ嫡男である直政は若年のため姉婿である英行に2千石を与えて後見役とし(則秀の事前指名か?)、直政は3千石(のち3,243石)を相続しました。しかし英行は後見役を辞退し2千石は幕府に没収されてしまいました。
なぜ後見役を辞退したかは三つの説があります。
・僧となる志があって逐電したという説
・養父則秀への追慕と感謝の気持ちがあったからという説
・義弟直政に憚ったという説
があります。



801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 08:29:54.35 ID:73lL6Gjh
徳山則秀って勝家の養女を娶った事で柴田家中から重用されたけど
実際の徳山氏の嫡流は則秀がいた時代でも他にちゃんといて健在だったのに
どうしてその中から則秀が娘婿として抜擢されたんだろう?


21

802 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/19(金) 10:17:56.88 ID:Afz+aD5S
>>801
兄貴が病弱だったからとか、勝家に気に入られたとかかな...わからないけど

806 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/19(金) 10:49:47.65 ID:kcCwIa2J
>>800
則秀と盛政の関係性が少しわかったかもな

809 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/19(金) 12:04:07.45 ID:Afz+aD5S
>>800
気遣いで辞退したつもりなら幕府に没収されちゃったから裏目に出てしまったな...

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 14:06:55.12 ID:tqj7QyJe
なぜか壊れかけのレディオが頭の中で流れる

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 15:00:33.95 ID:a3sY0J16
>>809
五千石だから、若年の当主じゃ不安で後見人つけろって言ったのに、無しにするって言われたから削ったのかな
この場合、幕府が後見人として英行を指名したことになるが
見方によったら義兄が五千石中、ニ千石握ってる状態だと、色々問題が起こるから却って良かったのかも

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 17:00:44.81 ID:73lL6Gjh
徳山氏にも武田家と今川家の間で起こったような塩留めの逸話があるんだな
今更ながら南北朝時代の敵対関係の話掘り起こされて主家の土岐家から塩留めされてしまった
朝倉氏に泣きついて越前府中の塩が売買されている市の側に領地貰って一時的に家臣となった
朝倉氏の美濃侵攻の手先となって何度か土岐・斎藤陣営と敵対してる

813 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/19(金) 17:01:11.61 ID:Afz+aD5S
>>811
本人たちにその気がなくても軋轢生みかねないしな

私の主には景勝より他には無し

2021年09月17日 18:24

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 17:20:26.10 ID:A57wqFIW
前田慶次郎は、関ヶ原後の減知転封の折に、上杉景勝より暇を出されたが、
「そのまま召し仕り下され」
とて、五百石にて米沢に共をした。方々より七千石、八千石にて、抱えたいと招かれたのだが、
慶次郎は関ヶ原陣にて、諸大名を見限ったのだ。

「治部(石田三成)が負けると等しく降参し、追従軽薄、させさて男は一人も無し。
景勝ばかり、始めより終わりまで、弓矢を取り腕を張った事、まさしく武士なり。
私の主には景勝より他には無し。」

そう言って在郷へ蟄居し、弾正(上杉定勝)代に病死した。


杉原彦左衛門覚書条々



545 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 17:39:17.09 ID:MGyRhaXZ
        だ

        が
   そ

   れ

   が

   い

   い

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 08:20:40.17 ID:UccZ4pjD
前だけイジろう

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 09:35:17.25 ID:0SpbPWgs
はなのけ いじろう
とか
はなのけ いじろう とします
だったら漫画も人気でなかっただろうな

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 10:09:36.61 ID:3ZGurbSa
まえだけ いじろう とします

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 21:54:47.63 ID:iwDTxuAA
おだの豚だ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 12:23:53.13 ID:Ky3syVjQ
得がワイ、え~安っ!

前田利益(慶次郎)の嫡子は正虎。利長・利常に使えた

2021年06月18日 19:06

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 00:34:16.86 ID:UuqCrrWX
前田利益(慶次郎)の嫡子は正虎。利長・利常に使えた。書家として知られ、『前田家之記』の編纂にも加わったそうだ。
父が出奔して、その所領を受け継ぎ、多分肩身狭かったんじゃなかろうか。

豊太閤の関東攻めのおり、北条氏邦は武蔵鉢形城にこもるが衆寡敵せず、開城して降伏。
氏邦は前田家預かりとなったが、のち許されて家臣になる。
氏邦が死去したのち、京で出家していた氏邦の末子を呼んで北条庄三郎として名跡を継がせ、前田利益の娘をめあわせた。

特にいい話でも悪い話でもないが、ヒャッハーオヤジの出奔後も粗略にはされなかったことがわかる。あと別の地の英雄の子供同士が縁を結んでいたりするとなんかほっとするよね


賤が植うる 田歌の聲も都かな

2021年06月08日 17:10

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 12:48:59.84 ID:bZSdvN0k
慶長三年、会津に上杉景勝が入部した時、蒲生家の浪人数百名を召し出した。栗生美濃守、外池甚五左衛門、
岡野左内、布施次郎右衛門、北川図所、高力図所、青木新兵衛、安田勘助、小田切所左衛門、
横田大学、正木大膳、長井善左衛門、佐野源太、堀源助、等である。
この時関東浪人には、山上道及、上泉主水、車丹波守、等数十人、
上方者には、水野藤兵衛、前田慶次郎、宇佐美弥五左衛門など数十人が召し抱えられた。

このうち前田慶次(利益)は、加賀(前田)利家卿の従弟である(実際には甥)。
彼が初めて景勝に礼を申し上げたときは、穀蔵院ひよつと斎と名乗った。
その夏頃であったか、高宮の二幅袖の帷子褊綴を着し、非常に異形なる体であった。
また、彼は詩歌の達者であった。直江山城守兼続も学者であった故に仲良く、
直江宅にて慶次は論語の講釈をいたし、又は源氏物語の講釈をした。

慶長五年九月、景勝の名代として、直江山城守が四万余にて最上に出陣した砌、慶次は黒具足に猩々緋の羽織、
金のいらたか念珠(修験者の用いる角のある108の珠を用いた数珠)を頭に懸けたが、念珠の房には
金の瓢箪が付けられ、背に下るようにかけられた。
河原毛の野髪、大しだの馬に、金の兜巾を冠らせて打ち乗り、三寸計りの黒の馬に、緞子の袋に
干し味噌、乾飯を入れ鞍壺に置き、種子島ニ挺付けて、乗り換えとして引かせた。

最上からの上杉勢の退き口の時、敵勢と槍を合わせて、その高名は耳目を驚かせた。
水野藤兵衛、藤田森右衛門、溝口左馬助、韮塚理右衛門、宇佐美弥五左衛門と慶次と、以上五人が、
一所にて槍をした。

この時、最上義光は伊達政宗よりの加勢を一手に合わせて、上杉勢の退き口を追撃したため、
中々大事に及び、杉原常陸介、溝口左馬助らが種子島八百挺にて防ぎ戦ったが、最上勢は激しく
攻撃してきた。これに直江山城守は怒り出し

「味方が押し立てられて足を乱し、追い打ちに遭うのはもはや間もなくの事だろう。さても口惜しい。
腹を切らん!」

と言い出したところを、前田慶次が押し止め

「言語道断!左様に心弱くて大将が出来るでしょうか。私におまかせ候へ!」

と言うと取って返し、先の通り、水野、韮塚、藤田、宇佐美と、この慶次の五人にて槍を合わせ、
最上勢を突き返し、能く引き払い、何事もなく引き取った。

関ヶ原御陣過ぎて、景勝が米沢に移封された時、慶次を諸方より欲しがり、高い知行にて呼んだが、
「我が主は景勝より他は無し」とて、一生妻子も持たず、寺に住居しているかのように生活し、
在郷に引き込んで、弾正定勝の代に病死した。

慶次は連歌を嗜み、紹巴が評価した句も数多あるが、その中より覚えているものを記す

『賤が植うる 田歌の聲も都かな』

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 14:53:36.83 ID:KzHVeQpO
花の慶次の名場面だったな

私の小唄は高直なる唄である

2021年05月14日 17:51

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/14(金) 16:02:37.63 ID:mTE2p1tD
呉服所の大森三郎兵衛は、平九流の小唄の上手であると(前田利常が)お聞き召され、彼が
小松に参った時分に、御聞きに成りたい旨を内々にお尋ねになられたところ、彼は近年は年も寄り、
唄うことも無くなっていたのだが、御意故に年寄ながら唄った。

これに利常公はご満足遊ばされ、
「この頃はそのように年も寄っているのだから、茶湯なども立て慰みとするように。」
と、定家の文の、見事なる御掛物を下された。これは現在も大森家が所持している。
三郎兵衛は大変に有難がり、「私の小唄は高直なる唄である」と言って自慢したという。

当代の大森三郎兵衛よりこの咄を承った。

(微妙公御夜話)



169 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/14(金) 18:35:31.47 ID:yCyt20/p
利常の戒名、微妙院殿から微妙公ですが、「みみょうこう」なんでご注意ください

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/14(金) 19:47:53.30 ID:DINF7vmf
まあ武将、藩主としての評価も微妙だもんな


171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/14(金) 19:56:10.36 ID:KjqNR5qp
従兄弟:慶次郎利益
鼻毛を伸ばした微妙公:毛いじろうとしません

173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/15(土) 03:45:08.86 ID:HUfxYiBs
>>169
こんな魔物居たよね

  _____
 / ̄ /三/ ̄ /⌒i
 L__LO_L_L/|
 |二二二二二|/|
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なんと、 宝箱はハゲだった!!
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   彡 ⌒ ミ \|
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みなみな無になってしまったのに

2020年11月26日 17:09

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/26(木) 16:47:46.99 ID:Jq8EZIPS
みなみな無になってしまったのに

前田利家の次男・利政は関ヶ原合戦の折に改易され、その後は京に隠棲した。
一時は本多佐渡から兄の利長に「(利政を)国の端にでも置くように」と家康の仰せがあったと伝えられ
母のまつ(芳春院)も利政の放免を喜んでいたが、実現することはなかった。
年次不詳だが、利政の処遇についてまつが嘆く書状が残されている。(前田土佐守家資料館蔵)


本当に度々人を遣わして下さるので嬉しく思っています。孫四郎(利政)のことは
初めはするするとしたお返事を(家康が)申されたのですが、今は色々なことがあり
勢いがありません。側で人がどれだけ力を入れても許されなかったので、好機は済んだのでしょう。
大御所さま(家康)は御口が上手いので、(自分の)死んだ後のことまで申されるそうですが
太閤さま(秀吉)が日本の衆に政治をさせ、どれほどの多くのことを仰せられていても
みなみな無になってしまったのに、おかしなことだと思います。
こんなことを申すのは、我が身の因果の程(報い)を感じるようになり、仏心にも見放されたと
思っているからです。九月より喉のあたりが腫れてきて、胸も痛く”けんかん”の薬を飲みました。
合間合間に飲んでいるからか、腫れてはいますが物はよく食べることが出来ているので、安心して下さい。
めでたくかしく

十月六日 より
おちよ御返事 参 ちま はう(芳)
申給へ



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/26(木) 19:08:52.41 ID:ydaJNGMI
親子共にケチだから分家つくるの嫌がったのかね?

つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて

2019年05月19日 12:29

45 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/18(土) 17:52:01.62 ID:Wwgww9Qv
漫画『花の慶次』での有名な場面として、秀吉に謁見した前田慶次が、虎皮の裃や奇矯な袴にわざと横向きにに結った髷で、
顔を横向きに頭を下げて意地を示し、その直後に装束を改めて見事な武士っぷりを見せるというシーン。
作中でも屈指の名場面ですが

「今度は成程くすみたる程に古代に作り、髪をも常に結直し、上下衣服等迄平生に改め・・」

と『可観小説』の一文が引用されていますのはご存知の方も多いかと思います。

ですが実は可観小説にこのような個所は存在しません。

では捏造か?というとそんな訳ではなく、大正時代に前田家が編纂した『加賀藩史料』が原作者・隆慶一郎の元ネタです。
加賀藩史料は古文書や書籍からの引用文を掲載し国史体で編纂されており、慶長10年11月の個所で慶次の略伝として様々な
書籍資料から引用紹介されていますが、このエピソードは加賀藩家老今枝直方の著作『重輯雑談』からのものなんですね。
つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて、それがそのまま漫画に掲載されて世に広まってしまったと。

自戒として、こういうスレに限らず元ネタと引用先は気をつけねばなりませんね。
加賀藩史料は国会図書館デジタルアーカイブでウェブ閲覧できますのでぜひご覧ください。

ちなみに可観小説の著者、加賀藩の儒者青地礼幹は直江兼続の養女(姪)の子孫です。



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 13:44:26.48 ID:eIFVPv4q
週刊ジャンプであの連載で大人気って、今思うと凄いな

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 16:08:18.65 ID:6vZU7cQO
>>45
可観小説に書かれたエピソードは、利家を水風呂に入れる話だね。

412 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/22(火) 18:52:37.48 ID:9LYGOP2z
つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11941.html

まとめ過去で「可観小説」関連だと、「花の慶次」のこれですかw
近年だと竹島一件についての伝聞も注目されてるとか。


戦国関連だと、青地礼幹は家老本多家の一族ですね。
本多政重と直江兼続養女(大国実頼娘)の間に生まれた長男政次は母方の樋口姓を名乗り京に住まいしていたそうですが、
本多家を継ぐのに直江本家断絶後で後ろ盾がなくなった遠慮のようなものがあったのではないかとの推測があるとのこと。
子の樋口朝政は祖父に似た豪胆な人物だったそうですが、その子の定政が青地家に養子入りし、礼幹兄弟の父です。

土佐日記(定家筆本)

2019年03月27日 18:38

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/26(火) 17:15:05.86 ID:2ysR5WPg
貫之(紀貫之)自筆の『土佐日記』は蓮華王院の仕物であった。それを定家卿(藤原定家)が写した本が、
連歌師の玄的(里村玄的)のところにあった。今は加賀(前田家)の家蔵となっている。

定家の写本はすべて自分の筆力で写し、末の2,3葉は貫之自筆の本の大きさのまま、字の形をも模して
書かれている。これは後の世に貫之の書法を知らない者が、これを法とできるようにするためとして後書
きに書いた。これをもって見れば貫之の自筆は定家の時代でさえ至って稀であったと見える。今時は往々
にして人の家に貫之の真跡として所持しているものもあるが、笑うべきことなり。

定家の時代までは貫之自筆の本があったと見えて、その本の大きさをも図しているのである。貫之の本は
今は絶えてしまった。定家の本は老人(江村専斎)が度々見ていたのだが、貫之の書法は変わった字様な
り。今時の偽物とは似たものにあらず。定家の本は今は加賀より八条殿(八条宮家)へ進ぜられたという。

――『老人雑話』

※現在、前田育徳会尊経閣文庫蔵のこの定家筆本土佐日記は、国宝とされています


決しかねる二つのこと

2019年02月25日 21:29

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 19:56:05.69 ID:kCbdXMQS
山崎の合戦の時、高山右近は自陣にて薙刀の鞘を外し、床几に腰を掛け、未だ合戦に至らないところに、
高山の家臣の甘利という者、彼は高山に寵遇されず、末座にしか居なかったが、高山の前に進み出て、
跪いてこう尋ねた

「私には今ここに、二つのうちどちらを選ぶべきか決しかねていることがあります。恐れながら
殿にその判断を承りたいのです。」

「それは一体何事か」

甘利は言った
「勇智の名のある者は、遠国、他家にあっても伝を求めて家に招き、高知を賜って恩顧薄くありません。
いわんや元よりこの高山家の家臣たちは、殿にとっての干城になるべき人材だとご覧になれば、人並みの
御言葉をもかけられます。

であれば、私が人数成らぬ体にて捨て置かれているのは、そのような御用に立たない者と思し召されて
いるからでしょう。

今、私が敵を斬り陣を破れば、それは殿のお眼鏡が違っていた事となり、これは不忠と言うべきでしょう。
だからといって、攻めかかるのに遅れ、退却することに先立てば、武士の名を失い、父祖を汚し、これは
不孝となってしまいます。

不忠の罪と不孝の罪、いずれが重いのかと、案じわずらっているのです。」

高山は甘利をじっと見ていたが、一言も答えなかった。
そうしている内に、敵すでに近くなると、甘利は

「たとえ不忠の罪であったとしても、拾い頸をし、敵の行く手を遮るくらいであれば、そのように悪しく
捉えられる事も無いでしょう。そして怯弱不孝の罪は重ねて補い難いものですから、あちらを捨てこちらを
取りましょう。」

そう言うと味方に先んじて攻め入り、高山家の一番槍を合わせ、兜首を獲った。
また明智光秀の軍が敗北し逃走を始めると、これを追って光秀の甥である明石義太夫を討ち取った。

直諫すべき時でなければ、みだりに主君の非を言うべきではない。
甘利の言葉はまことに無礼である。しかしその無礼を聞き届け、自ら反省することが出来なければ
暗君と言うべきである。

(武将感状記)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 20:44:44.21 ID:Z+5elnds
こんなめんどくさい事ばかり考えてなきゃいかんのかと思うと絶対武士とかに生まれたくないな
もっとも平民に生まれたらもっと悲惨な人生なんだろうけど

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 09:52:51.69 ID:WuMV8JSF
>>761
これは単純に嫌味を言っただけかと

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 11:29:34.76 ID:YGzEIqam
>>761
多分こんなに面倒な奴だから厚遇されなかったんだろうね

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 19:46:02.19 ID:eCED7ohD
高山は松永、和田、荒木、明智、全ての主家を裏切ってる
こんな変節漢にいい家臣がいるわけがない
結局大名より宗教を選び家臣を路頭に迷わせたクズ

如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候

2019年01月27日 17:55

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/26(土) 20:19:07.24 ID:jQx+upVJ
(賤ヶ岳の戦いの時)

20日の夜に入り、秀吉は賤ヶ岳山の麓に夜に紛れて御入りになった。その隣の百姓どもを呼び出され、
この頃の陣取りの事なので、百姓どもに敵の陣取りの次第を御尋ねになられると、一々にこうであると
申し上げた。

「それならば汝は案内をよく知っているだろう。筑前守の者を汝に付けよう。頼む」と秀吉は仰せられ、
金1枚を遣された。「難無く戻ればまた2枚を遣しましょうぞ。この者を連れなさって前田又左衛門殿
(利家)の陣へ紛れ入りなされよ」と仰せになれば、その百姓は「大形山をつたって参りましょう」と
御受けし、秀吉は申状を御書きになり、前田又左衛門殿へ遣しなさった。

「夜に紛れてここまで参着しました。敵の人数を残さず引き付けた時には、篝火を数を尽くして燃やし
ます。火が多く見えたならば、明日の合戦と思し召されよ。合戦を結んだ時には裏切りを願い奉りたく
存ずるが、かねてよりの御心中は存じておるので、はっきりと裏切りにはなられますまい。

合戦に御構いなさらぬことは裏切り同様でござるので(合戦に御かまひなき事裏切同前に御座候間)、
そのように御心得なされたい」

このように仰せ遣わしなさると、又左衛門殿からは、

「それでは茅野まで夜に紛れて御着きになられたか。篝火のことは心得申した。仰せのように裏切りは
御容赦なさって頂きたい。外聞は如何なものかと存じます(如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候)。
明日の御合戦では、御指図のように双方ともに構いますまい」

との御返事であったと相聞こえ申し候事。

(中略)

前田又左衛門殿は、自城の越前の府中に難無く父子ともに入りなさった。この城は柴田殿(勝家)の家
城から道を5里隔てた近江の入り口である。又左衛門殿は「秀吉は早々にここへ気負いして攻め掛かり
なさるものであろう」と思案された。

裏切りを確かにしてこうと見えればこそ、秀吉も御満足と思し召されようが、そうではなかった(裏切
をも慥かにして角と見えはこそ秀吉も御満足とは可被思召に其儀はなし)。

身の上も危うく思いなさったということなのか、又左衛門殿は「まずは城の総構えに鉄砲を配置せよ!」
と子息の孫四郎殿(前田利長)を出され、あちこちに鉄砲を配置し今か今かと御待ちになったのである。

――『川角太閤記』


「狼を退治した狛犬」

2019年01月09日 16:56

627 名前:人間七七四年[sag] 投稿日:2019/01/08(火) 23:46:27.62 ID:bnGBQAK8
この時代、狛犬が門番として
実際に人食いニホンオオカミと戦った民話が金沢にあり、アニメ化された

加賀藩の伝燈寺が舞台の「狼を退治した狛犬」より

※三河(みかわ)神社
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/chubu/shrine/mikawa/mikawa.html
  慶長5年、関ヶ原の合戦の年、
  この地に狼の群れが出没し、人々を襲うようになりました。

  ある日、子供達が遊んでいると狼の群れが現れました。
  一人の子供が逃げ遅れ、地蔵堂の中に逃げ込むと、狼の群れはお堂の周りを囲みます。
  すると、地蔵堂の前に鎮座していた狛犬が動きだし、
  狼の群れに戦いを挑み一匹残らず退治してしまったそうです。

↓アニメ化↓
※TBS:マンガ日本昔ばなし「不思議なコマ犬」
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=439

  小さな孫が「こまいぬさま~~~!」と叫んだ。
  その時、狛犬に積もっていた雪が崩れ落ち、
  狛犬が獅子のごとくオオカミの群れに飛び込み、次々に噛み殺していった。



628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 10:24:30.65 ID:E7AumqXT
戦国期だったら狼くらい狩って喰ってそうなイメージがあるがw

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 14:35:33.20 ID:SW6hirNY
>>627
>関ヶ原の合戦の年
死体がいっぱいあって人の味覚えたのかな…。

630 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/11(金) 22:30:44.65 ID:KzwFYReg
それ以来、金沢の狛犬は今にも飛び掛からんとする姿に彫られるようになったという

前田利長と七人の鋳物師

2018年10月24日 18:20

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 11:24:10.42 ID:OKsi2wXl
前田利長と七人の鋳物師


慶長14年、前田利長は居城としていた富山城が燃えたため、幕府に許可を取り
同国の関野に城を築くことにし、その周辺を高岡と名付けた。
慶長16年に、利長は近郊の西部金屋から鋳物師七人を招き、免税などの特権と
東西五十間南北百間からなる御印地を与え、鋳物づくりを行わせた。
この御印地が現在重伝建に指定されている高岡市金屋町である。

一国一城令で高岡城は廃城となり城下町ではなくなったが、金屋町は繁栄した。
当初は日用品である鍋や釜、鍬といった鉄器を作り、百姓に貸し付けていたが
仏具の需要が高まってきたことから、天保・弘化の頃に銅器も作るようになった。
現在の高岡は銅器のまちとして知られ、日本における銅器の生産額シェアの
約95%が高岡で作られたものである。

金屋町では、毎年利長の命日とその前夜2日間に渡って”御印祭”を行っている。
元々は鋳物師七人衆が利長に報恩するため、御印地をもらったことを示す文書を
拝んだことが始まりのもので、前夜祭では、鋳物師の作業唄である民謡弥栄節に
振り付けて、千人ほどが踊るにぎやかな祭りとなっている。



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 17:29:13.90 ID:BVEYNKqg
それでオナベの聖地になってるのか