若き人がそう望むのは

2017年11月18日 16:24

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 23:32:55.32 ID:KP3+s06l
越前朝倉義景滅亡の後、富田長繁は府中に在城していたが、龍門寺と云う者が密かに隠れていたのを、
使者を以て招き、『信長に申し上げ、本領安堵のことを才覚申そう』と伝えた。
龍門寺は大変喜び、府中を訪れて長繁を頼んだ。

しかし長繁は、龍門寺を討って信長への忠とするつもりであった。

彼は富田宗八という小姓を呼び、これを打ち手と定めた。そうして龍門寺を様々にもてなし、そのうちに
このように言った

「朝倉家代々秘蔵の中村太刀いうものを、大野郡より入手したのだが、茶の後にでも見てみないか?」

龍門寺も「それは是非見たいものです」との事であったので、長繁はそれを取り出し龍門寺に渡した。
彼は剣相を眺め、鞘に収めようとした時、この場に居た宗八がまかり出て言った

「一世の思い出に、私にもぜひ拝見させていただけないでしょうか?」

長繁は叱りつけた
「汝若輩の身でありながら、憚るべきことを!」

しかし龍門寺
「若き人がそう望むのは尤もなことです」と、その刀をそのまま宗八に渡した。
宗八はこれを受け取り見る体から、龍門寺を討ち取った。

(士談)



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 06:58:22.68 ID:BfKpxo4p
逸物で死ねるとは果報者

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 10:45:11.66 ID:Llxz6Lsp
坊主なんかな

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 23:51:33.48 ID:buP+yy+6
長繁意外と頭がいい

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 00:24:51.81 ID:ghJqJv0d
もっと狂人っぽいイメージ持ってたんだが

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 00:32:07.78 ID:QyfyQpxj
誇張されたイメージだろう

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 00:35:03.69 ID:J8ES+cU0
>>326
狂人は頭も悪いという思い込みw
性格と知能は別
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犬畜生と呼ばれるのは良いが嘘つきは

2017年11月17日 13:50

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:10:38.13 ID:KP3+s06l
朝倉宗滴の言葉にこういうものがある。
『仁不肖によらず、武を心がける者は、第一に嘘をつかず、聊かもうろんな事なく、
不断に実儀を立て、総じて恥を知る事が、その基本である。

その故は、一度大事の用に立つ時、普段嘘をつきうろんな人物は、どれほど実儀を申したとしても
「例の嘘つきだ」と指をさされ、敵味方ともに信用してもらえない。
普段からの嗜みこそ、人として肝要なのだ。』

(士談)

犬畜生と呼ばれるのは良いが嘘つきは駄目らしい。



427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:22:49.48 ID:zTBmePbl
そら人を動かせないからな
嘘をつくならバレないように、じゃねw

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:34:34.80 ID:agrzQCkt
本人だけバレてないつもりでもバレバレなんてことはざらにあるし
やはりついてはいかんのだよ

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:39:41.86 ID:zTBmePbl
その理屈じゃなんもできなくなるw

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 01:14:05.73 ID:agrzQCkt
お前も影で嘘つきって言われてるぞ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 01:59:43.94 ID:T7bbYKd2
謀略は誠なり

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 07:37:14.11 ID:soPTu9TR
武士の嘘は武略なり

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 07:51:09.39 ID:ZwhB1xgF
宗滴さまは狼少年を読んで思うところがあったんやな(違

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 08:30:26.01 ID:Itwasr9p
朝倉宗滴さまの頃はまだイソップ物語は日本に入ってきてないな
伊曾保物語の前進となる「イソポノハブラス」ローマ字刊行は1593年らしいし
とあえてつっこんでみる

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 10:00:34.58 ID:MyYwJHbm
>>426>>428>>430
こういう事言ってる奴こそが裏では一番嘘つきだからな

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 10:55:37.82 ID:enORPDeU
最も利口な人たちは、
自分が何かの大事に際して
何か大きな利益のために詭計を用いることができるように、
生涯ずっと詭計を非難するふりをし続ける。

ヴォルテール

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 11:23:31.10 ID:1DNQFh/2
その点、「友人が殺人鬼に追われていて自分の家に駆け込んだ。
そのあと殺人鬼が来て『お前のところにあいつが逃げ込まなかったか?』と尋ねてきた場合、
殺人鬼に『駆け込まなかった』と嘘をつくのは罪である」
と言ったカントは偉大

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 23:13:35.73 ID:ps8BgnHl
>>437
あれ?
その場合は嘘をついて良いんじゃなかったっけ

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 00:51:37.10 ID:PE1a2IgP
カントによればそれでも嘘をついたらダメ
さすがにこれはあんまりだとして後世の人々がカントの理論から嘘をついてもいいように
いろいろと理論を組み立て

仏教で妄語戒があるのに法華経で三車火宅という例を持ち出して
人を救うためなら嘘を方便として使ってもいい、
と主張するみたいな

「朝倉義景ノ勇将 鰐淵将監吉広書状」

2017年11月03日 21:00

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/03(金) 11:07:35.51 ID:lnNhTAaJ
他の人にはどうということもないのだろうけれど、某さんの記した一言が妙に心に残るので書きます。

越前の戦国大名朝倉氏の最後の当主朝倉義景の家臣に鰐淵将監吉広という者がいた。
鰐淵氏は元々、西国の生まれであるといい、いつの頃か越前に根を下ろし朝倉氏に仕えるようになった。
吉広の代には譜代の臣といってよい家柄となっており、その証拠に「吉」の字を入れた名乗りとなっている。
(他には山崎吉家、前波吉継、河合吉統など)
事実、義景には信頼されていて、加賀一向一揆勢の侵攻に備えて整備された九頭竜川沿いの軍用道路に吉広を
配置した他、お膝元の一乗谷にも居を構えさせ、近辺に置いて謀に加えさせていた。「朝倉始末記」などにも
加賀攻めの一員として「鰐淵将監」の名前がしばしば登場する。要地を守り、主君近くに控え謀議に参加し、
戦の最前線に立つ、まさに義景の重臣と言ってよい存在である。

そんな吉広だが、その為人がはっきりしない。滅亡した大名の家臣ということだからか、その人がどう考え、
生きたか、を知る逸話が残っていないのである。だが、唯一残された書状から吉広の人物が朧気ながら推察
できるかもしれない。

元亀2年(1571年)と推察されている9月5日の日付が記されたこの書状、天台座主庁務に宛てたものであり、
護符を授かった御礼方々、北近江の戦況を報告した内容となっている。この年8月半ばより、織田軍の攻勢に
合った浅井長政救援のため、朝倉軍は北近江に出陣した。義景の本軍は敦賀に留まり各浦から船を徴発する
など準備に追われていたが吉広は先駈けとして小谷城に入城したらしい。そこで織田方との戦闘が起こり、
損害が出た味方は山上に籠もり睨み合っている最中で、そんな折に護符が届いて誠にありがたい、必ずこちら
から打って出て勝利する、と述べている。吉広の書状の日付から一週間後の9月12日、護符を授けた当の延暦寺は
焼き討ちされ、多くの僧俗が殺害された。延暦寺の燃え上がる炎は琵琶湖対岸の小谷城からも見えた筈で、
吉広が蒙った精神的打撃はいかばかりであったろうか。

話を書状に戻して。
この書状には誰が墨したのであろうか、次のような貼紙がされている。

「朝倉義景ノ勇将鰐淵将監吉広書状」

勇将。名将ではない。勇将である。
吉広は主家の滅亡を喰い止めることはできなかった。滅んだ国の重臣。確かに名将とは言えないだろう。
だが、確かに勇将ではあったのだ。

天正元年(1573年)8月、退却途中を織田軍に追撃され、大混乱に陥った朝倉軍のうち、主君義景を越前に
落ち延びさせるため、その場に踏みとどまった玉砕した朝倉の精鋭三千、戦死者を伝える諸記録の中に
我々は「鰐淵将監吉広」の名前を見出すことができる。

勇将「鰐淵将監吉広」、その最期の働きが評価されたのか、子孫は福井藩士の身分を得ることができたという。
雪に閉ざされる前に、一乗谷の鰐淵将監館跡、浄法寺の鰐淵将監館跡に行って手を合わせて拝んでみようかな。


380 名前:379[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 08:52:13.49 ID:SaI54eoM

正確には、将監の息子は父親と一緒に討死。
将監の孫は丸岡城主青山宗勝(関ヶ原の戦いで西軍につき改易)に仕え、
将監の曾孫が福井藩士となりました。




心得の上手、下手

2017年10月01日 19:19

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/30(土) 23:59:42.15 ID:D1E7tGqL
朝倉宗滴いわく
「音信として、秘蔵の馬、その他重宝を人に遣わす時、それに付けた書状の書式が慮外であれば、その
遣わした珍物も尽く無となり、かえって遣わさないよりも劣ることが有る。
心得の上手、下手にはこれほど相違の有るものである。よくよく分別有るべし。

(士談)



268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/02(月) 13:46:53.74 ID:dP9+ENkW
仰々しくしラッピングした方がありがたみが出る、
みたいな話?

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/02(月) 22:13:13.31 ID:brJ4Rm+G
>>268
たとえ贈り物が素晴らしくても書状で礼を失すれば全てが台無しにするという話し。

武家は面目が大事だから書札礼を守らないと、それだけで争いのタネになる。

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/02(月) 22:37:43.24 ID:YTBNVBv4
中公新書の桜井英治「贈与の歴史学」って本だと
室町時代では貨幣経済が育たなかった分、贈与がその埋め合わせとなり、贈り物自身の価値というよりは
贈与によるコミュニケーションが主な目的となっていたようで
(贈り物はたらい回しにされるのが当たり前、数日前にあるところに出した贈り物が巡り巡って戻ってくることもあったとか)
書式が慮外ならそもそもの目的のコミュニケーションも果たせないな

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/02(月) 22:46:50.47 ID:29W7x5RH
フロイスも「贈り物がないことには話すら聞いてもらえない」みたいな事書いてたな

272 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/03(火) 03:11:36.71 ID:o3oJm9vk
足利尊氏が貰った贈り物人にあげてたら全部なくなっちゃった話とか割りと普通のことだったのかな

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 08:00:43.94 ID:lHax47KH
あれは違うみたいだが

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 12:49:33.40 ID:N9tcduy+
田中角栄が相手の予想より少ない額だと馬鹿にされたり恨まれるからやらないほうがマシって言ってたな

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 14:00:44.69 ID:8y/Y6Xjj
角栄が言っても説得力がない

『並ぶ者はあるが、増す者はいない』が良い

2017年09月27日 09:17

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 23:40:04.01 ID:MoqyhZHA
越前朝倉英林(孝景)が言ったことに
「武者の雑談で出てくる、いかにも巧者の言葉を信仰し、能く聞くこと肝要である。
ただし若い頃から、合戦において巧者のように振る舞えば、却って悪名を得る事もある。
武者の事において人を褒める場合、『あれほど成る者は有るまじき』とは言わぬものである。
『並ぶ者はあるが、増す者はいない』と褒めるのが良い。」

(士談)

英林公の、人の褒め方についてのお話



宗滴ラボ

2016年07月08日 16:34

917 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 10:50:57.03 ID:EVmJZMdL
宗滴ラボ

戦国大名朝倉氏の初代・孝景(英林)は「朝倉英林壁書」の中でこう述べている。

【第六条】
侍の務めだからと言って、伊達・白川へ使者を派遣して良い馬・鷹を購入しては
ならない。余所から贈られたものであれば問題はない。しかし、贈られたもので
あっても三年経ったならば他家へやってしまうこと。
長い間、手元にとどめておくと必ず後悔することが起きるものだ。


この言い付けを忠実に守ったものがいた。孝景の末子、教景こと朝倉宗滴である。

名産地だからと言って、奥州から取り寄せるには手間暇も金がかかる。ならば、
自分の手で育ててみればいいではないか。早速、自宅の庭に鷹の巣を作らせて、
数年間努力した結果、卵を産ませることに成功。さらに孵った雛を手塩にかけて
育てて、大小二羽の優秀な鷹に成長させた。そして、大きな雌の方は主君である
四代・朝倉孝景(宗淳)へ、小さい雄の方は時の管領・細川高国へ献上した。
大永三年(1523年)のことであるという。ちょうどその頃、宗滴のもとに滞在して
いた連歌師の宗長は、このことにいたく感銘を受けたらしく、翌年上京した折に
建仁寺の月舟寿桂に依頼して、宗滴のために事の顛末を記した文章、その名も
『養鷹記』を著わしてもらっている。

鷹だけで終わらない。

『加越闘諍記』という書物によれば、宗滴は鮭の卵を取ると水槽に入れ、お湯を
入れるなどして水温を調節した結果、人工ふ化にも成功したらしい。


戦だけでなく、諸事全般にわたり興味を持ち工夫を重ねる人だったのですね。
脱帽です。



敵も八幡大菩薩、味方も八幡大菩薩

2016年07月07日 17:21

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/07(木) 07:43:03.82 ID:kmCuUSy0
越前と加賀の一向宗が取り合いをしていた時、朝倉殿がある会下僧に向かって
「敵も八幡大菩薩、味方も八幡大菩薩と念じている。
その一念は同じでも、御利益はどうであろうか?」
と問うと、僧は
「味方は現世安穏、敵は後生善処と守りましょう」
と答えた。
(醒睡笑)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 00:12:31.15 ID:oBNrbXic
本願寺は阿弥陀如来だろと思ったけど、
八幡大菩薩の本地仏が阿弥陀如来なのか

一体誰が詠んだ歌?

2016年06月25日 14:07

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/24(金) 18:26:00.32 ID:AODPDf4a
一体誰が詠んだ歌?

数年前に新聞にも載ったから北陸地方の人は知ってると思うお話しです。


越前と若狭の国境近くにある国吉城。その城主粟屋勝久は若狭武田家の重臣であったが、
主家の内紛に乗じて同じく武田家重臣の逸見氏と結んで叛乱を起こす。独力で鎮圧できない
と見た武田家では、縁戚である朝倉義景に助力を要請した。朝倉軍は永禄6年(1563年)から
元亀4年(1573年)まで足かけ10年にわたり国吉城に籠る勝久を攻撃したが、遂に落城させる
ことはできず、勝久と国吉城の名を世に知らしめる結果となってしまった。

その3回目の籠城戦の時のこと。永禄8年(1565年)8月、朝倉勢は若狭に侵入し、中山という
所に付城を築き国吉城下を荒らしまわった。この頃になると、朝倉方では直接城を攻める
よりは収穫期を狙って侵攻し、略奪を繰り返すことで相手の力を徐々に削ぐという戦法に
変えてきたようである。領内を荒らされた勝久は、逆に相手の付城を襲い奪われた穀物を
奪い返すことを計画、夜討ちを仕掛けて見事これを成功させる。付城に残された兵糧や武器
を国吉城に運ぶとき、次のように書かれた一枚の短冊が見つかった。

「武士の 鎧の袖を 片敷きて 枕に近き 初雁の声 9月2日 朝倉太郎左衛門

敵の主将朝倉太郎左衛門の詠んだ歌だった。勝久も歌の嗜みがあったので「朝倉殿も武勇
ばかりでなく歌道にも通じておったか…」としばし瞑想したという。



と、籠城戦を記した『国吉籠城記』に書かれ、福井県ではこの歌は朝倉氏の詠んだ歌と
思われていたのでした。ところが、時代はくだって平成21年(2009年)、若狭国吉城歴史
資料館の職員さんが富山県の魚津城跡を訪れた際、城跡に建てられた碑に朝倉氏が詠んだ
とされる歌と全く同じ歌が刻まれているのを発見。傍らの説明文には天正元年(1573年)、
上杉謙信が魚津城に陣した際に詠んだ歌と記されておりました。この職員さんが更に
調べたところ、謙信が信濃に出陣した際に戦勝祈願のため詠んだ歌にもほぼ同内容の歌
(「武士の 鎧の袖を かきたして 枕に近き 初雁の声」 ―長野市豊野町川谷日影に
伝わる民話「陣場山」より)があることが判明。同じ北陸でありながら福井・富山両県
とも、更には長野県も加え、一つの歌にそれぞれ異なる伝承があることを知らなかった
ということがわかりました。発見した職員さんに感謝敬礼!


さて、この歌の作者は一体誰が詠んだのでしょうか?残念ながら現段階では誰かわからず
もやもやしますので悪い話に投稿します。個人的には朝倉太郎左衛門が誰かということにも
興味あります。



768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 18:36:41.16 ID:Ks3dfeuz
>>767
無名だから気づかれてないだけで全国に同じようなことありそうだなぁ。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 18:49:17.75 ID:6TIcVgos
季語を変えるだけで割と応用が利きそうな歌だし何らかのテンプレが存在したとか
紛争地域の武士にはよくありそうなシチュだから、みんな詩想が似ていたとかかね

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 02:07:24.24 ID:t+feyNi7
>>767
朝倉太郎左衛門は宗滴だけど没した後だし、
養子の景紀は九郎左衛門なんだし、
その息子で長男の景みつの可能性が「太郎」だから
高いと言えるけど前年に切腹しちゃってるし、


と考えると消去法で景恒かなと思う。
太郎左衛門と名乗ったかどうか確実じゃないけど。

英林塚の鳴動

2016年02月19日 14:49

175 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/19(金) 01:32:13.30 ID:nyJqeplz
英林塚の鳴動

越前朝倉氏が栄華を誇った夢の跡である一乗谷朝倉氏遺跡。代々の当主の住居であった
朝倉氏館跡の南東の高台に一つの塚がある。人呼んで「英林塚」、戦国大名朝倉氏の祖で
ある朝倉孝景の墓である。英林塚とは孝景の戒名「一乗寺殿英林宗雄居士」に由来する。

この塚は、昔から越前国に災いが起きる前触れに不気味に鳴動するという言い伝えがあった。
あたかも雷鳴、あるいは大砲の轟くような音がしたという。
現在では、「夜、塚の近くに行くと、『おぉ~…』って男の叫ぶ声が聞こえるんですぅ」なんて言う
怪談話も登場している。言い伝えが進化・変化を遂げたものだろう。

ところが、朝倉義景治世下の永禄12年(1569年)に記されたとされる『朝倉家伝記』では、
まるで上田秋成の「吉備津の釜」(雨月物語)じゃないが、「英林塚が鳴動したら国家安泰!」
と現代まで残る言い伝えとまるっきり逆のことが書かれている。御家が滅びるとこんなことになるのか。

時代により吉凶がまるで逆となってしまう英林孝景さんのお墓の悪いお話。


(きっと、義景さん切腹、ヒャッハー大暴れ、一揆皆殺しの頃、毎日鳴ってたんだよ、それで…)




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 08:53:39.29 ID:7LoAwQos
>>175
そういや初代孝景と義景の墓はちゃんとあるのに、中3代の墓ってどこにあるのか知らんなあ。

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 12:06:46.75 ID:tq5yGm1d
名前が同じ人の墓は1つで間に合わせているとか

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 15:58:41.47 ID:wkcWwOeQ
助けて!えーりん!

真柄氏の顛末

2015年08月13日 18:40

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 14:48:15.16 ID:pZnZRH1B
越前・朝倉氏の配下国人衆で猛将として近隣諸国にまで名が知れ渡っていた武将に
真柄十郎左衛門直隆”という人物が存在した
彼は2.2m、250kgの巨躯を誇り、5尺三寸(約175cm)の大太刀を自在に操る豪傑であった

そんな武勇の誉れ高い彼も姉川の合戦において自軍の敗走を助けるために敵陣深く切り込み
同じく豪傑の弟・直澄や嫡男・隆基共々、徳川家康配下の向坂三兄弟に討ち取られてしまう
一族の重鎮を軒並み失ってしまった真柄一族ではあったが越前・真柄庄において
その後も朝倉氏の配下として細々とではあるが存続していた

1573年に織田氏配下となっていた朝倉旧臣達の主導権争いに端を発した越前一向一揆において
真柄庄に大挙押し寄せた一揆勢達によって真柄一族は長く治めた真柄庄から追放されてしまう
名高き武勇の前当主達不在の真柄一族では越前国内を席巻する一向宗を食い止める力は既になかったのだ
一族はそれぞれ各地へと散り散りに逃れここに真柄の名は歴史の中から消えていったのだった

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 14:50:11.41 ID:pZnZRH1B
その後の戦国史からは消え去ったかのように見えた真柄氏の名前ではあったが越前国から遠く離れた地で
武勇とはかけ離れた功績で実はその名を残していたのであった
直隆の次男といわれている真柄家最後の当主・隆重は浪人として流れ着いた越後・柄目木(がらめき)で
越後・真柄家を再興し新津油田(現在の新潟市新津地区)という日本の歴史上最大の油田を開発している
この新津油田はその後、平成8年まで採掘が続けられ現在は「日本の地質百選」に選ばれているほどである


さらに遠く離れた筑後・溝口では全国行脚中であった越前・今立生まれの日源上人の指導のもとに
恵まれた水源や豊富に採れるコウゾ等を活かして上質な手すき和紙の製造が始められていた
この日源上人こそ猛将・真柄直隆の実弟であり入仏以前の俗名を直基といった
越前追放の憂き目にあっていた直隆の子息達(直基にとっては甥)を呼び寄せ
姓も矢箇部(矢加部)と改めさせた後、その和紙制作の技術を藩変え等もあって
久留米・唐尾村、八代・宮地村等にまで広めていったのだった
これらの和紙は筑後手漉き和紙等と呼ばれ現在もこれらの地の特産品としてそれぞれ受け継がれている

一見、歴史の狭間へと消えかかっていた一族が実は日本各地で成功をおさめ、花開いていたイイ話

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 15:00:17.18 ID:pZnZRH1B
小学校時代に住んでいた福井で一学年下にいたいつも鼻を垂らしていた
ガキ大将の真柄君の事を思い出しながら書き込んでみました



557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/14(金) 16:21:15.58 ID:Ksr4TGqt
>>544-545
新潟方面には、先祖は朝倉の落ち武者、と名乗る伝承が多い。
日本海交易の影響なんだろうけど、どれもまぁ本気で相手したらダメ。

真柄氏の領地の真柄荘と越前和紙の今立大滝は少し距離があり、
ましてや武門の一族がその技術持ってたってのも考え難い。
上記と一緒。

江戸以降のブームに乗っかったんでしょうな。

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 19:33:20.84 ID:x5cVvJ67
>>558
真柄一族が居住していた真柄館跡から
越前和紙生産の中心地となる五箇地域(不老・岩本・大滝・新在家・定友)まで
現代の舗装された道路で全ての地区に徒歩30~40分で到達できる距離なのにこれって遠いうちに入るかな?
水田と川しかないあの土地なら当時でも全ての地区に行くのに現代の1.5~2倍もあれば十分着くんじゃないの

真柄氏健在の頃は佐々成政の居城の小丸城もまだ建つ前なので
あの近隣には鞍谷氏が存在してたぐらいだから(鞍谷臣下の池田氏は山一つ向こうの地域だし)
当然、あの近辺の産業の保護育成、奨励には関係してきてるんじゃないかな
真柄氏は朝倉氏が越前に土着する前からいる勢力なんだし
1000年以上前から伝わる地場産業に通じてないはずはないと思うけどな

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 19:34:26.29 ID:x5cVvJ67
ごめん>>557だった

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 20:24:07.34 ID:5bRlChHp
上方方面には逃れるの難しいから新潟方面に行ったのかな。

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 08:07:38.44 ID:GNU7YZqN
真柄の末裔だけでなく富田長繁に越前を追われた魚住一族の末裔も新潟・阿賀野在住だったような
真実かウソかは別として新潟に並んで長野も朝倉家所縁の自称末裔多い地域だね
朝倉氏の末裔を騙る芸能人といえばマイク真木・真木蔵人親子とか島倉千代子

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 20:20:30.65 ID:t/hO8BD6
>>545
真柄の子の矢箇部新左衛門が、支援してくれた立花宗茂を慕って肥後の八代や
柳川の唐尾に移住して紙漉き技術を広めていったって結構凄い話だよな

武者に聞き逃れは苦しからず候

2015年07月23日 15:43

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/22(水) 19:41:08.81 ID:6FzOzcwY
>>430の耳臆病目剛胆つながりで


武者に聞き逃れは苦しからず候 見逃れは悪しき候 悉く討たれ候では叶わぬ物に候
聞き逃れは行にて候間更に逃げたるにてはあるまじき候
総じて大事の退口には込め懸かり候わでは逃れざる物に候
故に古今より申し伝え候「耳は臆病目は健気なるが本にて候」故に申し習わし候事

 『朝倉宗滴話記』より


情報で敵を避けるのは兵法、いざ目にしたら腹をくくれということですかね




家中の武士どもの中に、

2014年05月17日 18:55

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 10:34:45.74 ID:XWf9Iihi
家中の武士どもの中に、能力に劣る者や、何をやらせても下手な者がいても、
その気持ちにおいて真心で仕えているのならば、とくに目をかけてやり愛憐の心で扱ってやらねばならぬ。
また勇気に乏しく、か弱い者であっても、威儀を正して仕えようとするならば、
これもまた真心があり、いずれ何かの役に立つ侍であるから、人並みに扱ってやるべきであろう。
ところが、悪い点だけで、どこにも良い点のない者は、
目をかけていたわっても、或いは人並みに平等に扱ってやったとしても、到底、無駄と言うしかない
(朝倉敏景十七箇条)




ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐は

2014年04月16日 18:54

996 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2014/04/16(水) 17:13:05.69 ID:3O1NE2n/
敗軍の大将が、士卒からはぐれて、どれほど落ちぶれていても生捕るべきではない。
何故ならば大将が生捕りになるのは、その人のためにならない。
第二には生捕ったと言うよりは、首を取ったと言うほうが聞こえが良い。
稲葉良通の家来、稲葉土佐朝倉義景の首を取って天下に名を知られた。しかし田中吉政の家来、田中伝兵衛は
石田三成を生捕ったが稲葉土佐ほど名を高めなかった。
ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐朝倉義景の首を朝倉景鏡から受け取ったらしい。

武功雑記より。本当なら朝倉景鏡稲葉土佐の、ちょっとどころでは無い悪い話。




997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 17:58:07.62 ID:yt/GKHlU
西尾久作「くたびれた所を討ち取ったけど手柄にならなかったお。」

吉日だろうと悪日だろうと

2014年03月17日 19:08

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/16(日) 18:55:45.74 ID:3d41eKx2
後がなく勝つしかない合戦や、落とすしかない状況で城を攻めるとき、
吉日を占い選んだり、縁起のよい方角を考えることに時間を費やすのは、
はなはだ無駄なことで、不満足であると言わざるをえない。
吉日だからと台風の日に船を出したり、吉日だからと多勢にひとりで突撃するのは、
いかに吉日だからと、それが無益であるのは火を見るよりも明らかである。
たとえ悪い方角に向かおうとも、仏滅の日であろうとも、
情勢をしっかりと洞察して、なにが虚か、なにが実かを考察し、
臨機応変に武士どもを動かして、敵に知られぬよう武略を敷くならば、
吉日だろうと悪日だろうと必ず勝利を招くものである

『朝倉敏景十七箇条』





元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

2014年01月21日 19:03

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:40:41.34 ID:CDx03HwY
元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

元亀三年(1572年)七月、織田信長は北近江小谷城の浅井長政を本格的に攻めるため、
最前線の砦を固め、諸国の軍勢を動員し、まず浅井方に属する琵琶湖の浦々を放火した。

これを受けて浅井長政は越前の朝倉義景へ急使を遣わし越前勢の出陣を求めた。義景は
これを了承、七月中旬に一族の景鏡が先陣として兵五千を率いて小谷城に着陣、続いて
一万ほどの越前勢が先手として到着、七月二十日に信長が横山城に現れると、いよいよ
総大将義景の登場である。一族衆及び直臣からなる本体を率いて、二十八日に柳ヶ瀬に
押し寄せ、八月三日には小谷城最高峰である大嶽に陣を構えた。朝倉家総力を挙げての
出陣である。織田方も浅井・朝倉方も連日鬨の声をあげ、いまにも大合戦が起こるかの
ようであった。朝倉勢の中には決死の覚悟を示すため、小さな墓石を楯にして只一騎で
押し進み、信長を射倒そうとする者も現れた。越前勢の士気は決して低くは無かった。


だが、その兵を指揮する部将たちが既に調略されてしまっていたのだ。


八月八日、義景の奉行人を務める前波吉継とその子が前線へと進み出た。
前波は義景に無礼を働いてしまい、義景から未だ赦しがなかったため、一手柄立てて
赦免してもらうのだろうと皆が考えていたのだが、、、、

あれよあれよという間に敵方の虎御前山城に入っていってしまった。
白昼堂々衆人環視の中の寝返りである。朝倉陣中に衝撃が走った。


裏切りは止まらない。前波の寝返りの四、五日後、今度は「あの」富田長繁が毛屋猪介・
増井甚内らとともに織田方へ走った。朝倉軍首脳部は動揺を隠せない。次は誰か?
皆、疑心暗鬼となった。

九月に入り、第三の裏切りが生じる。外様衆の池田景久が内通しようとしたのである。
だが、今回は池田の家臣が内通を義景に訴え出たため未遂に終わった。激怒した義景は
越前本国にいた池田の二人の息子を呼び寄せ、父親と共に斬首、綱紀粛正を図った。

しかし、一度灯された疑念は簡単に消せるものではない。加えて寝返り先陣の前波は
義景奉行人であるだけに朝倉軍の内情をよく知っている。下手にこちらから動けば
手酷い反撃を受けるのではないか?こうして越前勢は行動の自由を奪われた。

(つづく)

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:46:13.67 ID:CDx03HwY
対陣して二ヶ月半経った十月半ば。朝倉出雲守の家臣、竹内三郎と上村内蔵助が相談し
「大軍を催しても睨み合うばかりでつまらぬ。ここは一つ自分たちが働いて現状を打破
しようではないか」ということになった。その夜、二人は風雨に紛れ敵陣に忍び込むと
小屋に火を放った。風にあおられたためか、大火事となり織田方の陣屋七百が焼け落ちた。
混乱に乗じて二人は脱出、夜討ちをかけられたと思った織田方は大騒ぎとなった。
織田勢が鬨の声をあげると、それに反応し浅井・朝倉方も鬨の声をあげる。いよいよ
本格的な夜戦となるかと思われたが、それで終わってしまった。やはり疑心暗鬼に
縛られていたのであろう。敵方混乱を見ながら兵力投入に至らず、夜は明けてしまった。
得意顔で帰還した二人にも、さして褒美は出なかった。上官に連絡せず、独断で行った
ことが評価に値しないと看做されたのだろうか。

陣所を焼かれた織田方では小屋を作り直すことをせず、横山城と虎御前山城の間に
連絡路を造り、その道の小谷城側に高さ一丈(およそ3m)の塀を築き、兵の移動が
見えないようにした。同じ頃、信長自身は美濃に帰国、大将が退いたら追撃しようと
考えていた越前勢だったが、塀のため退陣のことも分からず、ただ妙な物音がすると
思っていただけであった。

十一月に入り、目障りな塀を取り壊そうと行動を開始した浅井・朝倉方だったが、
留守居役の木下藤吉郎、寝返り組の前波・富田らに防がれてしまい失敗に終わる。
その後、一月の間、なおも様子を見ていた義景だったが、降雪により本国との連絡が
途絶することを恐れ、十二月三日(現在の一月半ばにあたる)、遂に越前へ兵を返す
こととなった。


小谷城を守るという目的は一応果たしたものの、寝返りは相次ぐわ、雌雄を決する戦は
できないわ(もっとも義景はそんなもの望んでいなかっただろうが)、結果的に味方の
士気を萎えさせ、疲労を蓄積しただけの長陣だった。

更に帰国後は武田信玄から信長包囲網の足並みを乱したと責められ、踏んだり蹴ったりの
義景さん、この後は滅亡への道をひた走るのであった('A`)('A`)('A`)。





353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:15:29.32 ID:pwuJT5WU
義昭に尽くすでもなく
信長に味方するでもなく
まともに戦うでもなく
滅んでいった義景さん

凡人の鑑

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:31:47.39 ID:TQpS+d1D
親近感が湧くな

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:36:50.88 ID:GFeUwr/2
凡人からしたら、自ら戦場に出た上に小谷城を守ったんだから、
むしろ何で褒めてくれないの?って思っちゃいそう。

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:20:12.64 ID:MVuGoiUp
義景「戦らしい戦もしていないのに将兵が減った
   解せぬ」

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:26:10.91 ID:k52j1PeO
越前へのお帰りにはきっつい追撃が待ってるというおまけ付き

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 20:21:25.94 ID:P5Kl50oq
決戦もせずに、とみんな責めるけどそれはそれでいいんだよ。
大局的に見りゃ敵を足止めにして他の戦線で有利な状況を作り出したからね。

問題はぼろぼろ寝返りを出した統率力の無さか。
でもこれは義景個人の力量のせいでなく、朝倉家の構造的欠陥に起因すると思うんだが…。


それにしても、あの辺りの冬の厳しさを知っている自者からしたら
半年間よく頑張ったと思うよ。
信玄の責めるのもわかるが、状況考えりゃ酷だと思う。

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 06:37:35.59 ID:y85MqroD
>>352
朝倉軍の総大将は景健か景鏡なイメージ
余が珍しく出陣したらこれだよ!

英林公の分国法

2013年01月17日 19:50

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 00:13:06.88 ID:xQWti9FN
戦国時代の分国法というのも、集めてみると現代にも通ずるものがあると思うので、
分国法の一つ・朝倉孝景条々(朝倉英林壁書・朝倉敏景十七箇条とも)をちょっと紹介してみます。

下克上第一人者こと朝倉英林孝景(敏景は斯波義敏麾下時代の名乗り)の定めた分国法……
まあ、国内法というよりは朝倉家の家訓集。ただし、全部が全部孝景が書いたものではなく
後々で氏景・貞景・宗滴といった後継者達が条文を加筆する事で現存する形になったものと思います。

以下、原文(といっても幾通りか残っているものの一つ)、口語訳、ついでに寸評を少し。
口語訳中の( )は、自分が文書を通して裏読みしてみた補足的なモノw


一 朝倉之家に於いて宿老を定むべからず、其身の器用忠節によるべく候。

「朝倉の家においては、重臣は固定させてはならない。家臣の能力や働きぶりで選ぶように。
 (重臣層が固定化すると、当主の足かせになる事がある。重臣であっても任免権を手放すな)」


二 代々持来候などとて、無器用の人に団扇並びに奉行職を預けられましく候。

「代々その役に就いてきたからって、ボンクラに部将や奉行をやらせちゃいけない」


※現代人からすれば何を今さらと言いたくなる、人事面の総則。
 しかし裏を返せば、当時の幕府や守護大名はこういう当たり前の事ができていなかったのかも知れない。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 00:19:51.11 ID:xQWti9FN
>>112続き

三 天下静謐たりといふとも、遠近の国に目付けをおきて、其国のていたらくを聞候ハん事専一候。

「平穏な時期であっても、諸国に調査員を派遣して、各地の情報を逐一つかんでおくように」

※たぶん忍者がどうのという話ではない。商工業の取引なんかも、情報収集の一環だと思う。


四 名作の刀、さのみ好まれまじく候。
  其ゆへは、万匹の太刀を持ちたりとも、百匹の槍百丁には勝たれまじく候。
  万匹をもつて百匹の槍を百丁求め、百人にもたせ候はば、一方は防ぐべく候。

「高価な名刀を買い漁ったりするのはやめておけ。
 そもそも、銭100貫の名刀を買うぐらいなら、その100貫文で1貫文の槍100本を買って
 100人の槍隊を編成すれば、合戦場で戦線の一つを受け持たせる事ができるだろ」

※英林殿はどうやらコストパフォーマンス志向だったらしい。
 なお、その100人の兵士への手当がどうのと考えるのは現代人の発想であるw


五 京都より四座の猿楽細々呼下し、見物このまれまじく候。
  其の値を国の猿楽のうちの器用ならんを上らせ、仕舞をも習はせられ候はば、後代まて然るべくか。
  城内において夜能かなふまじく候。

「都から売れっ子の猿楽師を何度も呼びつけて興行させるのは、金がもったいないぜ。
 そんな金があるなら、地元の猿楽師の研修や育成に投資した方が、よほど後世の役に立つ。
 城内で夜遅くまで能楽? 論外。(周りの迷惑だし、日中の仕事に差し支えるだろうが)」

※英林殿は地産地消志向でもあったらしい。おかげで曾孫玄孫の代には文化芸能が大いに振興したわけだがw

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 00:26:58.76 ID:xQWti9FN
>>112-113続き

六 侍いの役なるとて、伊達・白川へ使者をたてよき馬鷹もとめられまじく候。
  自然他所より到来候はば尤に候、それも三ケ年すきは、他家へつかわせられべく候、長もちすれは後悔出来に候。

「馬や鷹が武士のたしなみだからと言って、陸奥伊達郡・白河郡といった遠隔の名産地にまで買い求めるのはよせ。
 他所からそういう馬や鷹を貰ったのなら使えばいいが、3年ぐらいたったらスッパリ手放してしまうといい。
 (3年も働かせていればくたびれるはずだから)長々と惜しんでいると後で痛い目を見るぞ」

※基本、ブランド品に金かけるのを戒める条文が多い。戦国乱世は実用品第一!という事か。


七 朝倉名字中をはしめ、おのおの年始の出仕の時上着布子なるべく候。
  並びに各の同名定紋をつけさせられべく候。
  分限のあるとて、衣装を結構せられ候はば、国の端々のさふらい色を好み、
  ふきそゝきたる所へ此ていにて出にくきなどとて、
  嘘病をかまへ、一年出す二年出仕いたさすば、後々は朝倉の前へ伺候のものすくなかるへく候。

「朝倉一門衆にしろ家臣にしろ、年始の出仕の時は布子(麻製の普通の布地)の上着で来い。
 あとそれぞれの家の家紋をつけろ。(家紋でどこの家か分かるようにしないと、普段顔を突き合わせない連中が困る)
 裕福な家柄だからって豪華な絹服で出仕すると、家格の低い連中がそいつ等の派手な服の間に並ぶのを嫌がって
 仮病を使ってだんだん出仕しなくなるだろ? そんな事を繰り返してたら家臣が減っちまうだろうが」

※安物のスーツ姿で成人式に出たりしたら、すっごい居心地悪くなった人には身につまされる話かもw


八 其身のなり見にくゝ候とも、健気ならんものには情可有之候。
  又臆病なれともゆふ儀をしたてよきは、供使いの用にたち候。
  両方かけたらんは所領たうなに候か。

「風采が上がらなくても勇敢で真面目に働く奴は、きちっと評価して目をかけてやれ。
 逆にヘタレだが人当たりのいい奴なんかは、供侍みたいな補佐役系の役目に向いている。
 見栄えも勇気もダメな奴? それって俸禄の無駄遣いじゃね?」

※人材活用の心得その1。適材適所、評価すべき点は評価、役立たずには辛く。

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 00:32:47.42 ID:xQWti9FN
>>112-114さらに続き

九 無奉公のものと奉公のともから、おなしくあひしらはれ候ては、奉公の人いかていさみあるへく候。

「仕事しない奴とキチッと仕事する奴を一緒くたに扱うなよ。真面目な奴のやる気が萎えるからな」

※人材活用の心得その2。人事評価する方も楽じゃない。


十 さのみ事かけ候はすは、他国の牢人なとに祐筆させられましく候。

「よほどの緊急時でも無い限り、他国の牢人に文書係をさせるなよ。
 (機密文書は信頼の置ける奴に扱わせる、これ大切)」

※裏を返すと、祐筆(秘書みたいなもん)が機密を漏洩する事はよく起きたんだろうなあ。


十一 僧俗ともに能芸一手あらんもの他家へこされましく候。
   但身の能をのみ本として、無奉公ならんともからは曲なかるべく候。

「僧侶にせよ俗人にせよ、一芸に秀でた人材を他家に引き抜かれないように気をつけろ。
 ただし自分の才能を鼻にかけて反感買ってる奴とか、ろくすっぽ働かない奴はこの限りじゃない」

※明智光秀って、まさかこの但し書き部分に引っかかってスルーされたんじゃないだろうなw


十二 勝べき合戦とるべき城攻め等の時、吉日をえらひ方角をしらべ時日を逃す事口惜候。
   如何によき日なるとて大風に舟を出し、大勢にひとりむかはば、其曲あるべからす候。
   あく日あく方なりとも見合により、しよ神しよ仏・八幡・まりし天に別してせいせひをいたし、
   信心をもつて戦われ候はば、勝利をゑられべく候。

「勝てそうな戦、攻め落とせそうな城を目の前にして、日が悪いだの方角が悪いだのと言って
 好機を逃すのはアホの所行だ。逆に、吉日や吉方だからって嵐の日に船を出したり
 寡兵で敵の大軍にカチ込むのもパープリンのやる事。たとえゲンの悪い日や方角であっても
 神様仏様のご加護を信じて機会を捉えれば、八幡様や摩利支天様が勝たせてくれるってもんさ」

※現代人には想像しにくい、中世人ならではの験担ぎへの警鐘。
 いや、現代人だって判断に迷った時は縁起のいい方をつい選んじゃうもんだし・・・

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 00:41:00.79 ID:xQWti9FN
>>112-115と続いているがあと一息です

十三 年中に三ケ度ばかり器用正直ならんものに申付、国をめくらせ、土民百姓の唱えを聞き、
   其さたを改められべく候。少々かたちを引かへ、自身もしかるべく候。

「有能かつ嘘のない家臣を選んで、年に3回ばかり領内を巡察させて、庶民の様子を見させ声を聞かせ、
 その報告を元に政務を見直しするといい。自分がお忍びで実際に見て回るのもアリだ」

※戦国大名の走りらしい、地域密着思想。朝倉始末記とかだと、気さくな人だったらしい。


十四 朝倉か館の外、国のうちに城郭をかまへさせまじく候。
   惣別分限あらんもの一乗の谷へこされ、其郷其村には代官百姓等はかり置かれべく候。

「朝倉家に属するものではない城や砦を、越前国内に築城させないように。
 (国人や土豪が独自に城を構えだすのは、反乱や一揆の温床になる恐れがあるからな)
 特に、重臣クラスは一乗谷に館を構えて常駐させ、所領には代官を派遣して統治させるように」

※前半の城云々は、百年後に秀吉や家康の出した一国一城令とは、意味合いが違うと思う。
 これは多分、築城計画の一元化による集権統治への試みの一環じゃないかと。


十五 伽藍仏閣並びに町屋等通られん時は、少々馬をとどめ、
   見にくきをば見にくさと云、よきをばよきといはれ候はば、
   いたらぬ者なとは御ことばをかかりたるなとゝて、悪しきをば直し、よきをば猶たしなむべく候、
   さうさをいれす、国を見事にもちなすも心ひとつによるへく候。

「神社仏閣や町屋を見て回った時は、(毎回でなくてもいいが)時には馬を止めて
 汚れや破損があったら注意し、綺麗にしてあれば誉めてやるといい。
 殿様が直々に評価してくれたとあれば、庶民もキチッと受け止めてくれるからな。
 ま、こういう無造作な声かけも、国を統治するための心配りって奴だな」

※英林殿の地域密着思想その2。こういう条文は後代の加筆ではなく、初代孝景のオリジナルだと思う。

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 00:48:53.48 ID:xQWti9FN
>>112-116続き、これで最後

十六 諸沙汰直奏の時、理非すこしもまげられましく候。
   若役人わたくしをいたすのよし聞およはれ候はば、同とかにかたく申付られべく候。
   諸事うつろをきんこうにさたいたし候へば、他国のあくとう等いかやうにあつかいたるも苦しからず候。
   みたりかはしき所としられ候へは、他家よりてをいるゝものにて候。

「裁判や決裁をする時に、物の道理に合わない裁きを下しちゃいけねえ。
 もし汚職や依怙の沙汰をする役人がいたら、敗訴した奴と同じだけの罰を下してやれ。
 政治や司法が公明正大に運営されていれば、他国の敵勢力だって付け入っては来られない。
 他国に越前を侵されるとしたら、お前達の政治に悪評が立っているせいだと思え」

※これ読んでるとガチで心配になる、本当に大丈夫か現代ニッポン?


 (この後第十六条は当主の心構えが長々続くがどうにも抽象的な話なので割愛)

(末文)
十七 この条々大方におもわれては益なく候。
   入道一孤半身にて不思議に国をとるより以来、昼夜目をつなかすくふういたし、
   ある時は諸国の名人をあつめ、其かたるを耳にはさみ、いまにかくのことくに候。
   あいかまへて子孫において此条々書をまもられ、まりし天・八まんの御おしへとおもはれ候はば、
   かつくも朝倉の名字あひつづくべく候、末々において我がままにふるまはれ候はば、たしかにこうくわい可有之者也

「これまでに俺が挙げた家訓をおろそかにしても、あんましいい事無いぜ。
 俺は親を早くに亡くした身ながら運良く越前一国を手中に収めて、今こうして国を治める事ができたが、
 そいつは昼も夜も目を曇らせずに創意工夫し、諸国の名人智者の話を聞いて参考にしてきたからだと思う。
 お前達も子供や孫に俺の残した教訓を守らせ、神様仏様と同じぐらいに大事に守ってくれれば
 朝倉家は今後も続いてくれるだろう。
 将来アホンダラの子孫が我が儘なことをしだしたら、ぜってー後悔すっからな」

※「義景がアホだから」の一点張りに朝倉家滅亡の責を帰す気にはなれないけどね。


以上、福井県民による朝倉家のPRじみたネタでした。現代人の参考になりそうな教訓、あったかなあ……orz






119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 01:25:49.09 ID:baYWWs4p
まぁ戦は数の暴力でだいたい勝てるてのは今の日本人にゃよく分かるだろうて

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 04:45:22.08 ID:xq3kLk4g
この朝倉孝景条々に書かれてる内容って戦争関連の記述に関しては英林孝景本人(又は2代氏景)が
書いていて
家内統制、領国運営みたいな項目に関しては3代貞景、宗淳孝景、宗滴が加筆していったっていう
見方がされているね
初代と2代目当主の頃は国内に敵残存勢力もまだまだ多くて越前国内でも毎年戦があって
国内統治もままならなかったが
3代、4代の頃に書状の発給量や寺社の建設数が飛躍的に伸びているのが残された
日付等から窺い知れるそうだ

朝倉宗滴の考える名将の条件

2013年01月16日 20:07

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/15(火) 21:05:01.96 ID:cPvN4JSj
「金吾利口書・朝倉宗滴話記」から引用する、宗滴の考える名将の条件。

 ――巧者の大将と申は一度大事の負(おくれ)に合たるを可申哉
    吾々は一世の間勝合戦計にて終に負に不合候間年寄候へ共
    巧者にては有間敷事――

 (現代語訳:名将というのは一度でかい敗戦に遭って、それを乗り越えた奴を指して言うべきだ。
        そこ行くと、私はこれまでの生涯勝ち戦ばかりで、ついぞ大負けすることなく
        この年になってしまったから、とても名将なんて言えないな)

『大負けした事がないから名将じゃねえ』というのは自慢なのか謙遜なのか。
意外に口の悪い金吾宗滴殿であったw




168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/15(火) 21:34:10.56 ID:3dp2Hi6v
天庵様に謝って下さい

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/15(火) 22:02:47.72 ID:DRNd85Fx
家康「そうそう。そのためにわざと大敗したんだよ。」
仙石秀久「まったくそのとおり。」



170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/15(火) 22:05:36.85 ID:cPvN4JSj
>>168
勝率が低すぎるのもいかがなものかと思います


上記の「金吾利口書」の名将論の少し後、具体的な人物例

――当代日本に国持の無器用人使下手の手本と可申仁は土岐殿、大内殿、細川晴元三人
   又、日本に国持人使の上手よき手本と可申仁は今川殿、甲斐武田殿、三好修理太夫殿、
   長尾殿、安芸毛利、織田上総介方、関東正木大膳亮方、此等の事――

(現代語訳:今日び日本でダメな大名の例に挙げるなら、土岐頼芸殿、大内義隆殿、細川晴元の3人。
       逆に、いい大名の例としては今川義元殿、甲斐の武田晴信殿、三好修理太夫長慶殿、
       長尾景虎殿、安芸の毛利元就、織田上総介信長、関東の正木大膳亮時茂たちだ)

ちなみに、宗滴が直接関わっているのは土岐頼芸・細川晴元・三好長慶。
大永7(1527)年に足利義晴・細川高国を支援して細川晴元・三好長慶とやり合っているし、
土岐家は朝倉本家と縁戚ということもあって何度か内乱に介入している。

ダメ大名3人のうち細川晴元だけ呼び捨てしているのは含むところがあったのか。
信長に目をつけていたのは、親父の信秀と組んで斎藤道三と合戦した縁からかも。

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/15(火) 22:33:23.42 ID:cPvN4JSj
もうちっとだけ続けます「金吾利口書」、上記に一文挟んで(意味がよく分からんかったので割愛)主君評。

――義景様御器用は英林様已來有間敷候、其故は我等八十歳に及候を加州武者奉行に被遣候事
   大丈夫成御心中難計候、但自今以後御器用に候間如何可有旨常々被仰候事――

(現代語訳:義景様の手腕だが、親父(朝倉英林孝景)に比べたらまだまだダメだ。
       だいたい俺は八十も近いのに加賀方面の総大将に任命するなんて、何考えてんだか。
       まあ、『これから先上手にやって行くにはどうしたらいいか』ってよく聞いてくるから見込み無しではないな)

兄の曾孫とはいえ主君に堂々とダメ出しをする金吾入道殿、やはり口が悪い。


ちなみに朝倉家は、現代でいう背広組と制服組のトップを並立させている少し変わった体制を取っていた時期が長いです。
背広組としての当主が朝倉本家で、制服組の総大将は宗滴なんですが、
宗滴死後、この総司令官ポストが実質空席。

朝倉氏の一門衆って安居家(英林の次弟・経景流)・大野郡司家(義景の叔父・景高流)・
敦賀郡司家(宗滴の養子・景紀流)の3家が重臣格なんですが、この3家は仲が良くない。

序列争いが激しいので、出兵時の総大将なんかは3家の持ち回りになってる様子があります。
かの元亀元年の合戦の際は、最初の防衛指揮は敦賀郡司の朝倉景恒、
信長撤退後の追撃は大野郡司の朝倉景鏡、次の浅井救援(姉川の合戦)は安居家の朝倉景健という回し方。
……そりゃ、自分の当番は無難に済ませようとして中途半端な結果になりがちだよね。

そもそも、宗滴が自分のポストを若い世代に移譲していれば、80間際で総大将になる事も無かったわけで。
金吾宗滴殿は後継者人事の問題を考えていなかったらしいという、タチの悪い話でした。



178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 08:28:53.75 ID:qZF6u4Ag
>>171>金吾宗滴殿は後継者人事の問題を考えていなかったらしいという、タチの悪い話でした。

宗滴は朝倉家中や敦賀郡司家の事をかなり計画的に考えてるタイプだよ
宗滴自身が26歳で郡司職を引き継いでるので同様に養子の景紀が26歳、宗滴が54歳の時に郡司職を譲っている
その宗滴の教えに従って景紀も又54歳で郡司職を嫡男へと譲っている
自身が担った軍奉行の役職も晩年は譜代家臣の山崎吉家に任せる事もあった

光玖ー宗滴と続いた一族の重鎮ポジションに就くには景紀や景隆では経歴的にやや役不足な感もあったので宗滴頼みになるのもいたしかたない部分もある

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 09:14:17.75 ID:WbnAYkiJ
>>170
大内義隆が健在のころは毛利元就はまだ安芸の一国人に過ぎないんだが

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 07:20:26.07 ID:I/8YvJiB
>>179
信長も家督をついでないころだしなぁ

富田長繁の首

2012年10月08日 20:26

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 15:10:12.61 ID:9XAlQrLh
富田長繁の首


天正2年(1574年)2月18日、越前を混乱の渦に巻き込んだ富田長繁は越前一向一揆と戦う中で味方であったはずの
小林吉隆の裏切りによって背後から射たれ、落馬した所を小林に首を刎ねられ死亡した。

その長繁の首は2月19日に一揆方の大将の一人である杉浦玄当が陣を張る竜沢寺に持ち込まれて首実検が実施されたが、
杉浦は寡兵で大いに自軍を苦しめた大剛の士である長繁の首が怪しげな籠に入れられて持ち込まれた様を
敵ながら哀れに想い、涙を流したという。
(朝倉始末記)





824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 15:24:16.27 ID:ZSg3eexB
泣くほどヒドイ籠ってどんなだよ

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 16:33:33.18 ID:pRn0c3wm
誉れある人物の首を芋かなんかの籠で持ってこられたら、もうちょっと敬意はらってやれよって思うだろ

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 16:51:00.40 ID:HH1ODFgK
そういや首桶に行器が用いられたりもしてたけど今で言えばランチジャーに首入れてる様なのが何とも…

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 20:14:31.71 ID:XVcAgnk2
さしずめスーパーのビニール袋だろ

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 20:40:14.81 ID:8FoPvamC
袋だと潰れるからだろうな

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 21:30:38.99 ID:ew/eeaoK
敵将の首が収穫された南瓜のように籠に入って届いたのなら、
そりゃあ哀れなあまり涙も零れ落ちるて

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 21:36:03.55 ID:9B7fZFeA
敵将の首など野菜同然という武勇のほどを示してるんだよ!

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 21:49:40.24 ID:y4s9Q7IG
北斗の拳に例えるなら、死んだラオウが雑兵に首をヒャッハーされて、100均で売ってるポリバケツか
何かに入れて運ばれる様な物か・・・

うん、想像すると何だか切なくなってきた

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 21:59:02.87 ID:Y6abUE+g
「大将首は丁重に扱いなさい」って三斎様も言ってた!

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 22:58:54.45 ID:oezG5xZ/
吉田東洋の首は那須信吾の褌だぞ

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 23:24:28.81 ID:lnkGfLvg
籠に入れられて本陣まで配達されるのと、馬印みたく槍に刺されるのと
どっちがマシなんだろうか

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 23:35:21.48 ID:IiltXzCR
籠といえば、吉良義央の首は途中でとられたらいけないからって、
行進するときは魚籠を首の代わりに掲げてたとかいう話が
魚籠(びく)と首(くび)だけに逆さまに掲げたんだろうな

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 17:48:37.50 ID:6GR13FF1
>>833

たぶんそのあたりが龍馬暗殺の真相だろ。

大将は合戦の際、絶えず前方にいるべきだ

2012年08月16日 20:52

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/16(木) 01:51:08.53 ID:gWlFiXHT
武者奉行である大将は合戦の際、絶えず前方にいるべきだ。
敵の首を取った者、怪我した者、そういう知らせが大将のもとに来る。大将が前におれば、それだけ
前面の備えは厚くなって強くなる。
もし大将が後方にいた場合、先陣の兵も知らぬ間に後方に集まり、ちょっと敵に攻められると、
おじけついて、我先にと逃げてしまうものだ。

朝倉宗滴話記』より


あなただからできるんだと思うんですが…





101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/16(木) 06:27:26.90 ID:IOF/2KPf
レオン&ダミアン「ほら見ろ、やっぱり大将は前方にいるべきなんだよ!」

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/16(木) 10:10:01.86 ID:EuixgF7S
レオン&ダミアンっていうと向こうの殺し屋か傭兵みたいになっちゃうなw
どんな二つ名がつくんだろうw

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/16(木) 11:02:14.54 ID:0AEbxoW1
直情径行のダミアン
直進行軍のレオン

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/16(木) 11:14:40.15 ID:MmqyQt1U
>>96
それを体現したのが道雪のお神輿です
大将がどんどん進めば家臣たちも前にいかざるをえない
能力のない大将がやると沖田畷みたいに大敗する諸刃の剣だが

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/16(木) 13:50:27.74 ID:kf0LG2l8
「我が軍の大将は鉄砲より怖いので大将が本陣にいるとみんな前に出ますよw」

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/16(木) 14:16:46.28 ID:IOF/2KPf
>>104
>能力のない大将がやると

>>77の山県の話もそれなんだね
自分が進みたくても相手だって負けたくないわけだから
互いに押し合い圧し合いなかなか思うようにいかないもの
鍋島茂賢が初めて必死の槍働きをした際に感じた不思議な距離感
その中でもやはり名将は討ちかかるべき相手や場所や頃合を見定めていく
しかも家康相手に常に五~六間というのだから九州まで音に聞こえる訳だ

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/16(木) 22:14:18.21 ID:ujcjoGNt
>>104
道雪の合戦での輿はともかく、普段はどうしてたのかね。
屋敷内での移動とか、勘を忘れないための鍛錬とか、下の世話とか、褥創防止とか


108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/17(金) 00:09:22.62 ID:1W5Q48/b
じゃあ先方100人討ち取ればそのなかにいそうだな。工場長とか鮭様とかだと。真田パパンなら全員討ち取ってもいそうにないけどw

富田長繁の子孫のお話

2012年03月02日 21:50

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 22:33:10.44 ID:Je+vkUy9
天保八年(1837年)、ある山腹に建つ古寺に一人の男が訪ねてきた。
男  「和尚、実は我が先祖が昔この寺であった戦において討ち死にを遂げておる。
    是非とも供養塔を建てたいのだが如何なものか?」
和尚 「そうでしたか。それでは早速、手筈を整える事と致しましょう。」
そうして建てられた石塚にはこのような碑文が掘られていた。

(意訳)富田長秀、享年二十四才、天正二年二月十四日、中道院に死す。法名「盛雄」。

この寺を訪ねてきた男とは某掲示板に於いて狂犬呼ばわりされている男から数えて
丁度、十代後の子孫を名乗る富田延美という人物、その人であった。
朝倉氏滅亡後、府中を有して越前の統治にあたった富田長繁が陣没してから264年後になって
長泉寺山の山腹に建てられた「富田の首塚」といわれるモノである。

だがこの碑文、色々とおかしな点が多い。まず長秀という名前であるが、
現存の古文書には何れも長繁と明記されており、先祖の名前が違うといったようにいきなりの怪しさ全開っぷり。
更に、長繁が亡くなった日は正確には天正二年二月十八日であり、中道院の堂内や境内で亡くなったのではなく、
長泉寺山頂に陣を構えようとして登頂の最中に配下の小林三郎次郎吉隆の手によって射殺されたのである。
それに加えて、事前に在ってしかるべき筈の法名を名付けたのはこの天保の時代の現住職・秀運であるといういい加減さ。

実はこの時代の系譜製作は出自を盛るのは当たり前、その土地のかっての有力者の子孫を自称する者も多く、
この富田延美という男もそういった類の人物ではなかったのではないかと郷土史研究家は見ているようだ。
勇猛果敢であり、若いながらも領民に慈愛を注ぎ、越前一国を手中に収めようとする野心家として
地元では名高い勇将にあやかろうとした男のちょっと悪い(怪しい)話。

PS.実は富田長繁の子孫の話がもう一つある。こちらの方は富田一族の本来の所領地であった越前坂井郡の兵庫村出身で
現在、福井市に於いて富田病院を経営しておられる子孫の方々である。この家に伝わるボロボロの過去帳には

府中龍門寺城主 當家元祖富田彌六朗長繁 龍閣寺殿圓月中正大居士

といった風に一国一城の主たる者に与えられる法名としては相応しいものが明記されているそうである。




218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 22:57:56.23 ID:nPAQ7sAB
鬼武蔵「やっぱ医者がいいよな」

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 23:16:05.59 ID:8RFg18Pz
子孫僭称が出てくるほどの人物とは
富田さんを見直し…やっぱいいか

220 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/01(木) 23:22:54.25 ID:wS4HIYG8
ふむ。

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 23:34:40.10 ID:/Hb4Gsdi
ヒャッハーお手々を消毒だぁ~

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 23:37:43.09 ID:GheMC7JU
なんでや!子孫はヒャッハーちゃうやろ!

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 23:50:08.72 ID:GzdtWAoW
あんなの200年以上がろくに供養されてなかったのは良くないことが有りそう

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 23:56:22.92 ID:Je+vkUy9
越前のマッド・ドッグの子孫に相応しいニックネームなら
クレイジー・ドクターかドクター・デスってところだな

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 06:32:47.98 ID:Hg2kjPhG
富田さんの死ぬ前の戦いは窮鼠猫を噛み殺すって感じ。

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 12:52:43.56 ID:TH/q56Sp
>>224 生死観のほうを受け継いでいれば怖いけど、
刀剣の技のほうを受け継いでいれば、「神のメス」とか地元では評判の医者かもしれないよ。

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 12:58:04.24 ID:90UfSsXL
患部の裏まで突き抜けるメスとかか

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 13:57:47.62 ID:qRXfO627
いまも営業してるんだろ?
さすがにそれ以上はやめておこうぜ


229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 15:11:27.96 ID:2mcsdl/m
太く短い人生を送ったえちぜの狂犬さん
一族の生き残りって事は信長の下にいた弟の子孫なのか?

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 15:15:25.64 ID:Ettz4vE6
>>228
この逸話と子孫の話は第二次世界大戦前に書かれた資料から引っ張り出してきたものなので
おそらくもう子孫の方が経営されてた病院はどうやら無くなっている模様(名称が変わっているのかも)
地元民じゃないんだが朝倉・若狭武田氏に興味があって調べていた中で見つけてきた話です


231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 15:39:22.43 ID:Ettz4vE6
>>229
富田家は1970年の信長に対する金ヶ崎追撃戦において
織田追討軍の第三陣に一千騎を率いて(追討軍総数は二万強程)
出陣するぐらいの武将だったみたいなので
越前国内にそれなりに一族はいたのではないかと思う
(朝倉一門を除けば家中第四番目ぐらいの陣容)
富田長繁に関しては朝倉家臣時代の事跡が不明すぎる

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 16:04:31.60 ID:fd6kDmRk
そりゃ若いからな、家督を継ぐ前の事績は残りにくい

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 16:04:35.66 ID:F8VxE6Os
富田は朝倉にとって黒歴史

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 18:31:45.98 ID:H+reGMuY
>>231
1970年って最近過ぎワロタ

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 19:14:31.84 ID:hJ6q94Zt
>>234
ベトナム戦争だったのか

236 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/02(金) 20:29:05.42 ID:JFo9OOPD
福井市に富田病院は無い


237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 21:36:24.61 ID:9ZBdD6yC
>>236
今はないみたいだけどこんなの見つけたよ

ttp://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%8D%83%E4%BB%A3

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/03(土) 06:16:11.30 ID:HXmG+Ion
>>231

へぇ~まだ生まれてないや~