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朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え

2018年12月05日 16:18

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 14:57:37.13 ID:8cGYkPYR
去るほどに、栄える者は必ず衰え、生まれる者は必ず滅するの理の通り、朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え、
近年(朝倉義景の時代)多くの一族や被官が、或いは病死し或いは討ち死にし、家運の危うさは言うまでもなかった。

先ず右兵衛尉景高の嫡子次男が、一年の内に二人ながら死去し、その後景高も死去して末子孫三郎一人残命した。

九郎左衛門景紀の嫡男四郎左衛門景ミツは、加賀へ出陣した折、大将であった景高と相論して自害し、
その舎弟中務大輔景恒も死去したが、父景紀も程なく卒去した。

堀江左衛門三郎景忠は、朝倉義景の勘気をこうむって能登国に立忍び、伊勢左衛門太郎景茂は、
過酒して不慮に酔死したため、国の防衛も薄く心もとない状況になり、人々は只薄氷を踏む心地であった。

その外、玄蕃助景連、同次郎左衛門景高、前波藤右衛門景定、小林備中守、窪出九郎右衛門、黒坂備中守といった、
千騎二千騎の軍勢を引廻すほとの者共も悉く死亡して、その後に義景は少数の、若輩の佞人たちだけに世を任したため、
功のある者には恩賞無く、罪の有る者は誅伐されず、彼らは奢りを極め欲を縦にし、己を強くし君を弱めて、終に
国の禍を招いたのだ。
(朝倉始末記)

老巧の者たちが多く死んだ事が朝倉の衰運を引き寄せた、と言う朝倉始末記の記事。



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 15:38:02.15 ID:GC/GK0DC
救世主の登場まであともう少し
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勇士・真柄十郎左衛門直隆父子

2018年11月16日 17:54

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/16(金) 01:00:27.56 ID:d9pkbY3b
(姉川の戦いの時)

“北国無双”と聞こえし勇士・真柄十郎左衛門直隆父子は、両人とも衆人に抜きん出て働いた。十郎左衛門は
向坂式部と渡り合い、草摺の外れを一槍付かれながらも式部の兜の吹返を打ち砕き、あまる太刀で槍を打ち

落とした。式部の弟・五郎次郎が助けに来たが十郎左衛門はその太刀を打ち落とし、あまる太刀で五郎次郎の
弓手の股を薙ぎ据えた。その弟・六郎五郎吉政が進んで来る。六郎五郎の従者・山田宗六が、我が主人を討た
せぬと進むと、十郎左衛門は宗六を手の下に切り伏せた。その間に六郎五郎は十郎左衛門を掛け倒して

首を取った。十郎左衛門の嫡子・十郎三郎直基(隆基)は青木加賀右衛門(重直)の子・所右衛門一重と戦う。
所右衛門の郎等1人が掛け塞がったところを、十郎三郎は郎等が太刀を上げるよりも早く首を打ち落としたが、
所右衛門は鎌槍で十郎三郎の馬手の肘を薙ぎ落とした。

その間に朝倉孫三郎(景健)は危うき命を助かり、虎御前山まで引き取ったのである。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』



448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/16(金) 10:44:39.78 ID:pzw7m1wd
匂坂だと思ったら向坂とも書くのか

ついに富田長繁がピックアップされた小説が

2018年02月14日 18:27

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 23:52:31.83 ID:cTUphLAD
https://booklog.jp/users/kobunsha-bungei/archives/1/4334912087
ついに富田長繁がピックアップされた小説が出るぞ…主人公は射殺した小林吉隆
SnapCrab_No-0359.jpg



539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 11:00:59.59 ID:fxCgwsxT
>>538
タイトルがぴったりじゃねーか! w

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 16:18:21.46 ID:G4VisRUK
なかなかマニアックなとこを題材にする作家だな

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/15(木) 08:13:13.66 ID:Wykk0Was
くるい咲き(直球)

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/15(木) 20:58:54.90 ID:ZutmD3mi
主君義景公や御三家の景鏡、景健、景恒なんかはどう描かれているのかな?

此輪の内になしと知れ君

2018年01月02日 20:59

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 21:34:22.11 ID:DaFU5Q93
越前への織田信長の侵攻により、朝倉義景が一乗谷を棄てて大野に退く時、義景は
福岡石見守に二人の子を預けた。そして
「一人は女であるが、髪を下ろし、後々比丘尼として出家させよ。もう一人の喝食は
大阪(本願寺)との契約であるので、大阪に遣わすように。」

しかし福岡は
「私が二人の女子を預かり申すこと如何でしょうか?私はただお供つかまつり、
死ぬことを一途に決めているのです。」
と反論したが、たって命じられたため力なく、彼は急ぎ二人の女児を連れて宿所は帰り、
妻女にも告げず、一首の歌を書き付けて涙とともに出立した

『今日出て 廻りあはずば小車の 此輪の内になしと知れ君』

二人の息女を馬に乗せ、中間二三人計りにて豊原寺を目指して進んだが、野伏たちが
集まり押し留めた。
福原は目的をありのままに伝えた。
野伏たちは聞いてきた「殿は何者か?」
「私は福岡である。」

これを聞くや野伏たち
「ならば通せない!先年鳴鹿の村と公事(裁判)の時、そなたは彼らの奏者をして、
我が村は負けとなった。今参り会った事こそ幸いである、その時の返報申さん!」
たちまち村々より軍勢が出てきた。福岡は今は叶わぬと思い、下人に持たせた薙刀を取って
大いに戦い、討ち死にした。

その後、二人の息女は方々流浪し、喝食は後に本願寺門跡の妻と成ったという。

(士談)



428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 11:55:26.17 ID:jyp6Z660
娘たちには手を出さなかったんか
殺して身ぐるみ剥ぐのかと思ったわ

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 18:49:33.17 ID:isK3qbhd
だなぁ。女はそうそう殺さない気が。

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 19:04:58.13 ID:isK3qbhd
一揆衆根切りのときは女子供も殺すけど、基本は奴隷として売り飛ばす

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 19:14:46.22 ID:jyp6Z660
娘だったかどうかは覚えてないけど姉小路のところは殺されてたはず
殺した連中だったかが、寺に着物とかを納めてる

速やかに誅し賜るべし

2017年12月30日 18:04

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/30(土) 17:41:51.16 ID:EhiSMOPN
元亀四年八月、織田信長は越前を退治し、朝倉尽く敗北、朝倉配下の屈強の者共は、
討ち死にするか、あるいは生け捕られた。信長は朝倉より寝返った前波吉継、富田長繁を
召し出して、そういった人々の名字を尋ねた

この時、牧弥六左衛門が生け捕られ連れてこられた。
信長が「彼は何者か?」と聞いた。前波が「彼は牧と申す者です。」と答えると
「牧といえば聞き及びたる者ではないか。それほどの者がどのようにして捕えられたのか?」

これに牧が答えた
「御家臣の前田又左衛門(利家)、佐々内蔵助(成政)と名乗り懸り、刀禰山まで追い詰め、
勝負決しようという所で、膝口を強かに突かれ、進退窮まりて生け捕られました。」
そう聊かも気後れ無く語る姿に、信長は

「彼は勇姿である!死罪を宥して、今後は味方に参り、忠戦を尽くすように。」

牧はこれを承るも
「先程からの御恩言、忝なく存じます。しかしながら、私は譜代として朝倉の家に奉公の
身であり、ことに国中に奉行として知られた者でありますから、何の面目があって命を
生き長らえるでしょうか。ただ、速やかに誅し賜るべし。」

前波吉継はこれを聞くと
「信長様のお言葉に偽りはない。本領も更に別義なく安堵される。畏まって忝ないと申す
べきだ。」

牧は目を見開いて前波を睨みつけ、言った
「和殿は朝倉普代の者にて義景の厚恩を蒙りながら、己が不義だけでなく、人まで汚す気か!?
ただすぐに頸を刎ねられよ!」

信長も力及ばず、彼を河原に引き出して頸を刎ねた。
この時牧は、「侍品の者、打ち捨てにすることがある。だから先に腹を斬ろう。」
そう言って、脇差を乞うて腹を斬ったという。

(士談)



若き人がそう望むのは

2017年11月18日 16:24

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 23:32:55.32 ID:KP3+s06l
越前朝倉義景滅亡の後、富田長繁は府中に在城していたが、龍門寺と云う者が密かに隠れていたのを、
使者を以て招き、『信長に申し上げ、本領安堵のことを才覚申そう』と伝えた。
龍門寺は大変喜び、府中を訪れて長繁を頼んだ。

しかし長繁は、龍門寺を討って信長への忠とするつもりであった。

彼は富田宗八という小姓を呼び、これを打ち手と定めた。そうして龍門寺を様々にもてなし、そのうちに
このように言った

「朝倉家代々秘蔵の中村太刀いうものを、大野郡より入手したのだが、茶の後にでも見てみないか?」

龍門寺も「それは是非見たいものです」との事であったので、長繁はそれを取り出し龍門寺に渡した。
彼は剣相を眺め、鞘に収めようとした時、この場に居た宗八がまかり出て言った

「一世の思い出に、私にもぜひ拝見させていただけないでしょうか?」

長繁は叱りつけた
「汝若輩の身でありながら、憚るべきことを!」

しかし龍門寺
「若き人がそう望むのは尤もなことです」と、その刀をそのまま宗八に渡した。
宗八はこれを受け取り見る体から、龍門寺を討ち取った。

(士談)



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 06:58:22.68 ID:BfKpxo4p
逸物で死ねるとは果報者

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 10:45:11.66 ID:Llxz6Lsp
坊主なんかな

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 23:51:33.48 ID:buP+yy+6
長繁意外と頭がいい

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 00:24:51.81 ID:ghJqJv0d
もっと狂人っぽいイメージ持ってたんだが

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 00:32:07.78 ID:QyfyQpxj
誇張されたイメージだろう

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 00:35:03.69 ID:J8ES+cU0
>>326
狂人は頭も悪いという思い込みw
性格と知能は別

犬畜生と呼ばれるのは良いが嘘つきは

2017年11月17日 13:50

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:10:38.13 ID:KP3+s06l
朝倉宗滴の言葉にこういうものがある。
『仁不肖によらず、武を心がける者は、第一に嘘をつかず、聊かもうろんな事なく、
不断に実儀を立て、総じて恥を知る事が、その基本である。

その故は、一度大事の用に立つ時、普段嘘をつきうろんな人物は、どれほど実儀を申したとしても
「例の嘘つきだ」と指をさされ、敵味方ともに信用してもらえない。
普段からの嗜みこそ、人として肝要なのだ。』

(士談)

犬畜生と呼ばれるのは良いが嘘つきは駄目らしい。



427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:22:49.48 ID:zTBmePbl
そら人を動かせないからな
嘘をつくならバレないように、じゃねw

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:34:34.80 ID:agrzQCkt
本人だけバレてないつもりでもバレバレなんてことはざらにあるし
やはりついてはいかんのだよ

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:39:41.86 ID:zTBmePbl
その理屈じゃなんもできなくなるw

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 01:14:05.73 ID:agrzQCkt
お前も影で嘘つきって言われてるぞ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 01:59:43.94 ID:T7bbYKd2
謀略は誠なり

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 07:37:14.11 ID:soPTu9TR
武士の嘘は武略なり

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 07:51:09.39 ID:ZwhB1xgF
宗滴さまは狼少年を読んで思うところがあったんやな(違

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 08:30:26.01 ID:Itwasr9p
朝倉宗滴さまの頃はまだイソップ物語は日本に入ってきてないな
伊曾保物語の前進となる「イソポノハブラス」ローマ字刊行は1593年らしいし
とあえてつっこんでみる

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 10:00:34.58 ID:MyYwJHbm
>>426>>428>>430
こういう事言ってる奴こそが裏では一番嘘つきだからな

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 10:55:37.82 ID:enORPDeU
最も利口な人たちは、
自分が何かの大事に際して
何か大きな利益のために詭計を用いることができるように、
生涯ずっと詭計を非難するふりをし続ける。

ヴォルテール

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 11:23:31.10 ID:1DNQFh/2
その点、「友人が殺人鬼に追われていて自分の家に駆け込んだ。
そのあと殺人鬼が来て『お前のところにあいつが逃げ込まなかったか?』と尋ねてきた場合、
殺人鬼に『駆け込まなかった』と嘘をつくのは罪である」
と言ったカントは偉大

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 23:13:35.73 ID:ps8BgnHl
>>437
あれ?
その場合は嘘をついて良いんじゃなかったっけ

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 00:51:37.10 ID:PE1a2IgP
カントによればそれでも嘘をついたらダメ
さすがにこれはあんまりだとして後世の人々がカントの理論から嘘をついてもいいように
いろいろと理論を組み立て

仏教で妄語戒があるのに法華経で三車火宅という例を持ち出して
人を救うためなら嘘を方便として使ってもいい、
と主張するみたいな

「朝倉義景ノ勇将 鰐淵将監吉広書状」

2017年11月03日 21:00

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/03(金) 11:07:35.51 ID:lnNhTAaJ
他の人にはどうということもないのだろうけれど、某さんの記した一言が妙に心に残るので書きます。

越前の戦国大名朝倉氏の最後の当主朝倉義景の家臣に鰐淵将監吉広という者がいた。
鰐淵氏は元々、西国の生まれであるといい、いつの頃か越前に根を下ろし朝倉氏に仕えるようになった。
吉広の代には譜代の臣といってよい家柄となっており、その証拠に「吉」の字を入れた名乗りとなっている。
(他には山崎吉家、前波吉継、河合吉統など)
事実、義景には信頼されていて、加賀一向一揆勢の侵攻に備えて整備された九頭竜川沿いの軍用道路に吉広を
配置した他、お膝元の一乗谷にも居を構えさせ、近辺に置いて謀に加えさせていた。「朝倉始末記」などにも
加賀攻めの一員として「鰐淵将監」の名前がしばしば登場する。要地を守り、主君近くに控え謀議に参加し、
戦の最前線に立つ、まさに義景の重臣と言ってよい存在である。

そんな吉広だが、その為人がはっきりしない。滅亡した大名の家臣ということだからか、その人がどう考え、
生きたか、を知る逸話が残っていないのである。だが、唯一残された書状から吉広の人物が朧気ながら推察
できるかもしれない。

元亀2年(1571年)と推察されている9月5日の日付が記されたこの書状、天台座主庁務に宛てたものであり、
護符を授かった御礼方々、北近江の戦況を報告した内容となっている。この年8月半ばより、織田軍の攻勢に
合った浅井長政救援のため、朝倉軍は北近江に出陣した。義景の本軍は敦賀に留まり各浦から船を徴発する
など準備に追われていたが吉広は先駈けとして小谷城に入城したらしい。そこで織田方との戦闘が起こり、
損害が出た味方は山上に籠もり睨み合っている最中で、そんな折に護符が届いて誠にありがたい、必ずこちら
から打って出て勝利する、と述べている。吉広の書状の日付から一週間後の9月12日、護符を授けた当の延暦寺は
焼き討ちされ、多くの僧俗が殺害された。延暦寺の燃え上がる炎は琵琶湖対岸の小谷城からも見えた筈で、
吉広が蒙った精神的打撃はいかばかりであったろうか。

話を書状に戻して。
この書状には誰が墨したのであろうか、次のような貼紙がされている。

「朝倉義景ノ勇将鰐淵将監吉広書状」

勇将。名将ではない。勇将である。
吉広は主家の滅亡を喰い止めることはできなかった。滅んだ国の重臣。確かに名将とは言えないだろう。
だが、確かに勇将ではあったのだ。

天正元年(1573年)8月、退却途中を織田軍に追撃され、大混乱に陥った朝倉軍のうち、主君義景を越前に
落ち延びさせるため、その場に踏みとどまった玉砕した朝倉の精鋭三千、戦死者を伝える諸記録の中に
我々は「鰐淵将監吉広」の名前を見出すことができる。

勇将「鰐淵将監吉広」、その最期の働きが評価されたのか、子孫は福井藩士の身分を得ることができたという。
雪に閉ざされる前に、一乗谷の鰐淵将監館跡、浄法寺の鰐淵将監館跡に行って手を合わせて拝んでみようかな。


380 名前:379[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 08:52:13.49 ID:SaI54eoM

正確には、将監の息子は父親と一緒に討死。
将監の孫は丸岡城主青山宗勝(関ヶ原の戦いで西軍につき改易)に仕え、
将監の曾孫が福井藩士となりました。




心得の上手、下手

2017年10月01日 19:19

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/30(土) 23:59:42.15 ID:D1E7tGqL
朝倉宗滴いわく
「音信として、秘蔵の馬、その他重宝を人に遣わす時、それに付けた書状の書式が慮外であれば、その
遣わした珍物も尽く無となり、かえって遣わさないよりも劣ることが有る。
心得の上手、下手にはこれほど相違の有るものである。よくよく分別有るべし。

(士談)



268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/02(月) 13:46:53.74 ID:dP9+ENkW
仰々しくしラッピングした方がありがたみが出る、
みたいな話?

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/02(月) 22:13:13.31 ID:brJ4Rm+G
>>268
たとえ贈り物が素晴らしくても書状で礼を失すれば全てが台無しにするという話し。

武家は面目が大事だから書札礼を守らないと、それだけで争いのタネになる。

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/02(月) 22:37:43.24 ID:YTBNVBv4
中公新書の桜井英治「贈与の歴史学」って本だと
室町時代では貨幣経済が育たなかった分、贈与がその埋め合わせとなり、贈り物自身の価値というよりは
贈与によるコミュニケーションが主な目的となっていたようで
(贈り物はたらい回しにされるのが当たり前、数日前にあるところに出した贈り物が巡り巡って戻ってくることもあったとか)
書式が慮外ならそもそもの目的のコミュニケーションも果たせないな

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/02(月) 22:46:50.47 ID:29W7x5RH
フロイスも「贈り物がないことには話すら聞いてもらえない」みたいな事書いてたな

272 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/03(火) 03:11:36.71 ID:o3oJm9vk
足利尊氏が貰った贈り物人にあげてたら全部なくなっちゃった話とか割りと普通のことだったのかな

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 08:00:43.94 ID:lHax47KH
あれは違うみたいだが

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 12:49:33.40 ID:N9tcduy+
田中角栄が相手の予想より少ない額だと馬鹿にされたり恨まれるからやらないほうがマシって言ってたな

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 14:00:44.69 ID:8y/Y6Xjj
角栄が言っても説得力がない

『並ぶ者はあるが、増す者はいない』が良い

2017年09月27日 09:17

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 23:40:04.01 ID:MoqyhZHA
越前朝倉英林(孝景)が言ったことに
「武者の雑談で出てくる、いかにも巧者の言葉を信仰し、能く聞くこと肝要である。
ただし若い頃から、合戦において巧者のように振る舞えば、却って悪名を得る事もある。
武者の事において人を褒める場合、『あれほど成る者は有るまじき』とは言わぬものである。
『並ぶ者はあるが、増す者はいない』と褒めるのが良い。」

(士談)

英林公の、人の褒め方についてのお話



宗滴ラボ

2016年07月08日 16:34

917 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 10:50:57.03 ID:EVmJZMdL
宗滴ラボ

戦国大名朝倉氏の初代・孝景(英林)は「朝倉英林壁書」の中でこう述べている。

【第六条】
侍の務めだからと言って、伊達・白川へ使者を派遣して良い馬・鷹を購入しては
ならない。余所から贈られたものであれば問題はない。しかし、贈られたもので
あっても三年経ったならば他家へやってしまうこと。
長い間、手元にとどめておくと必ず後悔することが起きるものだ。


この言い付けを忠実に守ったものがいた。孝景の末子、教景こと朝倉宗滴である。

名産地だからと言って、奥州から取り寄せるには手間暇も金がかかる。ならば、
自分の手で育ててみればいいではないか。早速、自宅の庭に鷹の巣を作らせて、
数年間努力した結果、卵を産ませることに成功。さらに孵った雛を手塩にかけて
育てて、大小二羽の優秀な鷹に成長させた。そして、大きな雌の方は主君である
四代・朝倉孝景(宗淳)へ、小さい雄の方は時の管領・細川高国へ献上した。
大永三年(1523年)のことであるという。ちょうどその頃、宗滴のもとに滞在して
いた連歌師の宗長は、このことにいたく感銘を受けたらしく、翌年上京した折に
建仁寺の月舟寿桂に依頼して、宗滴のために事の顛末を記した文章、その名も
『養鷹記』を著わしてもらっている。

鷹だけで終わらない。

『加越闘諍記』という書物によれば、宗滴は鮭の卵を取ると水槽に入れ、お湯を
入れるなどして水温を調節した結果、人工ふ化にも成功したらしい。


戦だけでなく、諸事全般にわたり興味を持ち工夫を重ねる人だったのですね。
脱帽です。



敵も八幡大菩薩、味方も八幡大菩薩

2016年07月07日 17:21

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/07(木) 07:43:03.82 ID:kmCuUSy0
越前と加賀の一向宗が取り合いをしていた時、朝倉殿がある会下僧に向かって
「敵も八幡大菩薩、味方も八幡大菩薩と念じている。
その一念は同じでも、御利益はどうであろうか?」
と問うと、僧は
「味方は現世安穏、敵は後生善処と守りましょう」
と答えた。
(醒睡笑)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 00:12:31.15 ID:oBNrbXic
本願寺は阿弥陀如来だろと思ったけど、
八幡大菩薩の本地仏が阿弥陀如来なのか

一体誰が詠んだ歌?

2016年06月25日 14:07

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/24(金) 18:26:00.32 ID:AODPDf4a
一体誰が詠んだ歌?

数年前に新聞にも載ったから北陸地方の人は知ってると思うお話しです。


越前と若狭の国境近くにある国吉城。その城主粟屋勝久は若狭武田家の重臣であったが、
主家の内紛に乗じて同じく武田家重臣の逸見氏と結んで叛乱を起こす。独力で鎮圧できない
と見た武田家では、縁戚である朝倉義景に助力を要請した。朝倉軍は永禄6年(1563年)から
元亀4年(1573年)まで足かけ10年にわたり国吉城に籠る勝久を攻撃したが、遂に落城させる
ことはできず、勝久と国吉城の名を世に知らしめる結果となってしまった。

その3回目の籠城戦の時のこと。永禄8年(1565年)8月、朝倉勢は若狭に侵入し、中山という
所に付城を築き国吉城下を荒らしまわった。この頃になると、朝倉方では直接城を攻める
よりは収穫期を狙って侵攻し、略奪を繰り返すことで相手の力を徐々に削ぐという戦法に
変えてきたようである。領内を荒らされた勝久は、逆に相手の付城を襲い奪われた穀物を
奪い返すことを計画、夜討ちを仕掛けて見事これを成功させる。付城に残された兵糧や武器
を国吉城に運ぶとき、次のように書かれた一枚の短冊が見つかった。

「武士の 鎧の袖を 片敷きて 枕に近き 初雁の声 9月2日 朝倉太郎左衛門

敵の主将朝倉太郎左衛門の詠んだ歌だった。勝久も歌の嗜みがあったので「朝倉殿も武勇
ばかりでなく歌道にも通じておったか…」としばし瞑想したという。



と、籠城戦を記した『国吉籠城記』に書かれ、福井県ではこの歌は朝倉氏の詠んだ歌と
思われていたのでした。ところが、時代はくだって平成21年(2009年)、若狭国吉城歴史
資料館の職員さんが富山県の魚津城跡を訪れた際、城跡に建てられた碑に朝倉氏が詠んだ
とされる歌と全く同じ歌が刻まれているのを発見。傍らの説明文には天正元年(1573年)、
上杉謙信が魚津城に陣した際に詠んだ歌と記されておりました。この職員さんが更に
調べたところ、謙信が信濃に出陣した際に戦勝祈願のため詠んだ歌にもほぼ同内容の歌
(「武士の 鎧の袖を かきたして 枕に近き 初雁の声」 ―長野市豊野町川谷日影に
伝わる民話「陣場山」より)があることが判明。同じ北陸でありながら福井・富山両県
とも、更には長野県も加え、一つの歌にそれぞれ異なる伝承があることを知らなかった
ということがわかりました。発見した職員さんに感謝敬礼!


さて、この歌の作者は一体誰が詠んだのでしょうか?残念ながら現段階では誰かわからず
もやもやしますので悪い話に投稿します。個人的には朝倉太郎左衛門が誰かということにも
興味あります。



768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 18:36:41.16 ID:Ks3dfeuz
>>767
無名だから気づかれてないだけで全国に同じようなことありそうだなぁ。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 18:49:17.75 ID:6TIcVgos
季語を変えるだけで割と応用が利きそうな歌だし何らかのテンプレが存在したとか
紛争地域の武士にはよくありそうなシチュだから、みんな詩想が似ていたとかかね

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 02:07:24.24 ID:t+feyNi7
>>767
朝倉太郎左衛門は宗滴だけど没した後だし、
養子の景紀は九郎左衛門なんだし、
その息子で長男の景みつの可能性が「太郎」だから
高いと言えるけど前年に切腹しちゃってるし、


と考えると消去法で景恒かなと思う。
太郎左衛門と名乗ったかどうか確実じゃないけど。

英林塚の鳴動

2016年02月19日 14:49

175 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/19(金) 01:32:13.30 ID:nyJqeplz
英林塚の鳴動

越前朝倉氏が栄華を誇った夢の跡である一乗谷朝倉氏遺跡。代々の当主の住居であった
朝倉氏館跡の南東の高台に一つの塚がある。人呼んで「英林塚」、戦国大名朝倉氏の祖で
ある朝倉孝景の墓である。英林塚とは孝景の戒名「一乗寺殿英林宗雄居士」に由来する。

この塚は、昔から越前国に災いが起きる前触れに不気味に鳴動するという言い伝えがあった。
あたかも雷鳴、あるいは大砲の轟くような音がしたという。
現在では、「夜、塚の近くに行くと、『おぉ~…』って男の叫ぶ声が聞こえるんですぅ」なんて言う
怪談話も登場している。言い伝えが進化・変化を遂げたものだろう。

ところが、朝倉義景治世下の永禄12年(1569年)に記されたとされる『朝倉家伝記』では、
まるで上田秋成の「吉備津の釜」(雨月物語)じゃないが、「英林塚が鳴動したら国家安泰!」
と現代まで残る言い伝えとまるっきり逆のことが書かれている。御家が滅びるとこんなことになるのか。

時代により吉凶がまるで逆となってしまう英林孝景さんのお墓の悪いお話。


(きっと、義景さん切腹、ヒャッハー大暴れ、一揆皆殺しの頃、毎日鳴ってたんだよ、それで…)




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 08:53:39.29 ID:7LoAwQos
>>175
そういや初代孝景と義景の墓はちゃんとあるのに、中3代の墓ってどこにあるのか知らんなあ。

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 12:06:46.75 ID:tq5yGm1d
名前が同じ人の墓は1つで間に合わせているとか

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 15:58:41.47 ID:wkcWwOeQ
助けて!えーりん!

真柄氏の顛末

2015年08月13日 18:40

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 14:48:15.16 ID:pZnZRH1B
越前・朝倉氏の配下国人衆で猛将として近隣諸国にまで名が知れ渡っていた武将に
真柄十郎左衛門直隆”という人物が存在した
彼は2.2m、250kgの巨躯を誇り、5尺三寸(約175cm)の大太刀を自在に操る豪傑であった

そんな武勇の誉れ高い彼も姉川の合戦において自軍の敗走を助けるために敵陣深く切り込み
同じく豪傑の弟・直澄や嫡男・隆基共々、徳川家康配下の向坂三兄弟に討ち取られてしまう
一族の重鎮を軒並み失ってしまった真柄一族ではあったが越前・真柄庄において
その後も朝倉氏の配下として細々とではあるが存続していた

1573年に織田氏配下となっていた朝倉旧臣達の主導権争いに端を発した越前一向一揆において
真柄庄に大挙押し寄せた一揆勢達によって真柄一族は長く治めた真柄庄から追放されてしまう
名高き武勇の前当主達不在の真柄一族では越前国内を席巻する一向宗を食い止める力は既になかったのだ
一族はそれぞれ各地へと散り散りに逃れここに真柄の名は歴史の中から消えていったのだった

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 14:50:11.41 ID:pZnZRH1B
その後の戦国史からは消え去ったかのように見えた真柄氏の名前ではあったが越前国から遠く離れた地で
武勇とはかけ離れた功績で実はその名を残していたのであった
直隆の次男といわれている真柄家最後の当主・隆重は浪人として流れ着いた越後・柄目木(がらめき)で
越後・真柄家を再興し新津油田(現在の新潟市新津地区)という日本の歴史上最大の油田を開発している
この新津油田はその後、平成8年まで採掘が続けられ現在は「日本の地質百選」に選ばれているほどである


さらに遠く離れた筑後・溝口では全国行脚中であった越前・今立生まれの日源上人の指導のもとに
恵まれた水源や豊富に採れるコウゾ等を活かして上質な手すき和紙の製造が始められていた
この日源上人こそ猛将・真柄直隆の実弟であり入仏以前の俗名を直基といった
越前追放の憂き目にあっていた直隆の子息達(直基にとっては甥)を呼び寄せ
姓も矢箇部(矢加部)と改めさせた後、その和紙制作の技術を藩変え等もあって
久留米・唐尾村、八代・宮地村等にまで広めていったのだった
これらの和紙は筑後手漉き和紙等と呼ばれ現在もこれらの地の特産品としてそれぞれ受け継がれている

一見、歴史の狭間へと消えかかっていた一族が実は日本各地で成功をおさめ、花開いていたイイ話

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 15:00:17.18 ID:pZnZRH1B
小学校時代に住んでいた福井で一学年下にいたいつも鼻を垂らしていた
ガキ大将の真柄君の事を思い出しながら書き込んでみました



557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/14(金) 16:21:15.58 ID:Ksr4TGqt
>>544-545
新潟方面には、先祖は朝倉の落ち武者、と名乗る伝承が多い。
日本海交易の影響なんだろうけど、どれもまぁ本気で相手したらダメ。

真柄氏の領地の真柄荘と越前和紙の今立大滝は少し距離があり、
ましてや武門の一族がその技術持ってたってのも考え難い。
上記と一緒。

江戸以降のブームに乗っかったんでしょうな。

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 19:33:20.84 ID:x5cVvJ67
>>558
真柄一族が居住していた真柄館跡から
越前和紙生産の中心地となる五箇地域(不老・岩本・大滝・新在家・定友)まで
現代の舗装された道路で全ての地区に徒歩30~40分で到達できる距離なのにこれって遠いうちに入るかな?
水田と川しかないあの土地なら当時でも全ての地区に行くのに現代の1.5~2倍もあれば十分着くんじゃないの

真柄氏健在の頃は佐々成政の居城の小丸城もまだ建つ前なので
あの近隣には鞍谷氏が存在してたぐらいだから(鞍谷臣下の池田氏は山一つ向こうの地域だし)
当然、あの近辺の産業の保護育成、奨励には関係してきてるんじゃないかな
真柄氏は朝倉氏が越前に土着する前からいる勢力なんだし
1000年以上前から伝わる地場産業に通じてないはずはないと思うけどな

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 19:34:26.29 ID:x5cVvJ67
ごめん>>557だった

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 20:24:07.34 ID:5bRlChHp
上方方面には逃れるの難しいから新潟方面に行ったのかな。

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 08:07:38.44 ID:GNU7YZqN
真柄の末裔だけでなく富田長繁に越前を追われた魚住一族の末裔も新潟・阿賀野在住だったような
真実かウソかは別として新潟に並んで長野も朝倉家所縁の自称末裔多い地域だね
朝倉氏の末裔を騙る芸能人といえばマイク真木・真木蔵人親子とか島倉千代子

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 20:20:30.65 ID:t/hO8BD6
>>545
真柄の子の矢箇部新左衛門が、支援してくれた立花宗茂を慕って肥後の八代や
柳川の唐尾に移住して紙漉き技術を広めていったって結構凄い話だよな

武者に聞き逃れは苦しからず候

2015年07月23日 15:43

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/22(水) 19:41:08.81 ID:6FzOzcwY
>>430の耳臆病目剛胆つながりで


武者に聞き逃れは苦しからず候 見逃れは悪しき候 悉く討たれ候では叶わぬ物に候
聞き逃れは行にて候間更に逃げたるにてはあるまじき候
総じて大事の退口には込め懸かり候わでは逃れざる物に候
故に古今より申し伝え候「耳は臆病目は健気なるが本にて候」故に申し習わし候事

 『朝倉宗滴話記』より


情報で敵を避けるのは兵法、いざ目にしたら腹をくくれということですかね




家中の武士どもの中に、

2014年05月17日 18:55

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 10:34:45.74 ID:XWf9Iihi
家中の武士どもの中に、能力に劣る者や、何をやらせても下手な者がいても、
その気持ちにおいて真心で仕えているのならば、とくに目をかけてやり愛憐の心で扱ってやらねばならぬ。
また勇気に乏しく、か弱い者であっても、威儀を正して仕えようとするならば、
これもまた真心があり、いずれ何かの役に立つ侍であるから、人並みに扱ってやるべきであろう。
ところが、悪い点だけで、どこにも良い点のない者は、
目をかけていたわっても、或いは人並みに平等に扱ってやったとしても、到底、無駄と言うしかない
(朝倉敏景十七箇条)




ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐は

2014年04月16日 18:54

996 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2014/04/16(水) 17:13:05.69 ID:3O1NE2n/
敗軍の大将が、士卒からはぐれて、どれほど落ちぶれていても生捕るべきではない。
何故ならば大将が生捕りになるのは、その人のためにならない。
第二には生捕ったと言うよりは、首を取ったと言うほうが聞こえが良い。
稲葉良通の家来、稲葉土佐朝倉義景の首を取って天下に名を知られた。しかし田中吉政の家来、田中伝兵衛は
石田三成を生捕ったが稲葉土佐ほど名を高めなかった。
ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐朝倉義景の首を朝倉景鏡から受け取ったらしい。

武功雑記より。本当なら朝倉景鏡稲葉土佐の、ちょっとどころでは無い悪い話。




997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 17:58:07.62 ID:yt/GKHlU
西尾久作「くたびれた所を討ち取ったけど手柄にならなかったお。」

吉日だろうと悪日だろうと

2014年03月17日 19:08

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/16(日) 18:55:45.74 ID:3d41eKx2
後がなく勝つしかない合戦や、落とすしかない状況で城を攻めるとき、
吉日を占い選んだり、縁起のよい方角を考えることに時間を費やすのは、
はなはだ無駄なことで、不満足であると言わざるをえない。
吉日だからと台風の日に船を出したり、吉日だからと多勢にひとりで突撃するのは、
いかに吉日だからと、それが無益であるのは火を見るよりも明らかである。
たとえ悪い方角に向かおうとも、仏滅の日であろうとも、
情勢をしっかりと洞察して、なにが虚か、なにが実かを考察し、
臨機応変に武士どもを動かして、敵に知られぬよう武略を敷くならば、
吉日だろうと悪日だろうと必ず勝利を招くものである

『朝倉敏景十七箇条』





元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

2014年01月21日 19:03

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:40:41.34 ID:CDx03HwY
元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

元亀三年(1572年)七月、織田信長は北近江小谷城の浅井長政を本格的に攻めるため、
最前線の砦を固め、諸国の軍勢を動員し、まず浅井方に属する琵琶湖の浦々を放火した。

これを受けて浅井長政は越前の朝倉義景へ急使を遣わし越前勢の出陣を求めた。義景は
これを了承、七月中旬に一族の景鏡が先陣として兵五千を率いて小谷城に着陣、続いて
一万ほどの越前勢が先手として到着、七月二十日に信長が横山城に現れると、いよいよ
総大将義景の登場である。一族衆及び直臣からなる本体を率いて、二十八日に柳ヶ瀬に
押し寄せ、八月三日には小谷城最高峰である大嶽に陣を構えた。朝倉家総力を挙げての
出陣である。織田方も浅井・朝倉方も連日鬨の声をあげ、いまにも大合戦が起こるかの
ようであった。朝倉勢の中には決死の覚悟を示すため、小さな墓石を楯にして只一騎で
押し進み、信長を射倒そうとする者も現れた。越前勢の士気は決して低くは無かった。


だが、その兵を指揮する部将たちが既に調略されてしまっていたのだ。


八月八日、義景の奉行人を務める前波吉継とその子が前線へと進み出た。
前波は義景に無礼を働いてしまい、義景から未だ赦しがなかったため、一手柄立てて
赦免してもらうのだろうと皆が考えていたのだが、、、、

あれよあれよという間に敵方の虎御前山城に入っていってしまった。
白昼堂々衆人環視の中の寝返りである。朝倉陣中に衝撃が走った。


裏切りは止まらない。前波の寝返りの四、五日後、今度は「あの」富田長繁が毛屋猪介・
増井甚内らとともに織田方へ走った。朝倉軍首脳部は動揺を隠せない。次は誰か?
皆、疑心暗鬼となった。

九月に入り、第三の裏切りが生じる。外様衆の池田景久が内通しようとしたのである。
だが、今回は池田の家臣が内通を義景に訴え出たため未遂に終わった。激怒した義景は
越前本国にいた池田の二人の息子を呼び寄せ、父親と共に斬首、綱紀粛正を図った。

しかし、一度灯された疑念は簡単に消せるものではない。加えて寝返り先陣の前波は
義景奉行人であるだけに朝倉軍の内情をよく知っている。下手にこちらから動けば
手酷い反撃を受けるのではないか?こうして越前勢は行動の自由を奪われた。

(つづく)

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:46:13.67 ID:CDx03HwY
対陣して二ヶ月半経った十月半ば。朝倉出雲守の家臣、竹内三郎と上村内蔵助が相談し
「大軍を催しても睨み合うばかりでつまらぬ。ここは一つ自分たちが働いて現状を打破
しようではないか」ということになった。その夜、二人は風雨に紛れ敵陣に忍び込むと
小屋に火を放った。風にあおられたためか、大火事となり織田方の陣屋七百が焼け落ちた。
混乱に乗じて二人は脱出、夜討ちをかけられたと思った織田方は大騒ぎとなった。
織田勢が鬨の声をあげると、それに反応し浅井・朝倉方も鬨の声をあげる。いよいよ
本格的な夜戦となるかと思われたが、それで終わってしまった。やはり疑心暗鬼に
縛られていたのであろう。敵方混乱を見ながら兵力投入に至らず、夜は明けてしまった。
得意顔で帰還した二人にも、さして褒美は出なかった。上官に連絡せず、独断で行った
ことが評価に値しないと看做されたのだろうか。

陣所を焼かれた織田方では小屋を作り直すことをせず、横山城と虎御前山城の間に
連絡路を造り、その道の小谷城側に高さ一丈(およそ3m)の塀を築き、兵の移動が
見えないようにした。同じ頃、信長自身は美濃に帰国、大将が退いたら追撃しようと
考えていた越前勢だったが、塀のため退陣のことも分からず、ただ妙な物音がすると
思っていただけであった。

十一月に入り、目障りな塀を取り壊そうと行動を開始した浅井・朝倉方だったが、
留守居役の木下藤吉郎、寝返り組の前波・富田らに防がれてしまい失敗に終わる。
その後、一月の間、なおも様子を見ていた義景だったが、降雪により本国との連絡が
途絶することを恐れ、十二月三日(現在の一月半ばにあたる)、遂に越前へ兵を返す
こととなった。


小谷城を守るという目的は一応果たしたものの、寝返りは相次ぐわ、雌雄を決する戦は
できないわ(もっとも義景はそんなもの望んでいなかっただろうが)、結果的に味方の
士気を萎えさせ、疲労を蓄積しただけの長陣だった。

更に帰国後は武田信玄から信長包囲網の足並みを乱したと責められ、踏んだり蹴ったりの
義景さん、この後は滅亡への道をひた走るのであった('A`)('A`)('A`)。





353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:15:29.32 ID:pwuJT5WU
義昭に尽くすでもなく
信長に味方するでもなく
まともに戦うでもなく
滅んでいった義景さん

凡人の鑑

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:31:47.39 ID:TQpS+d1D
親近感が湧くな

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:36:50.88 ID:GFeUwr/2
凡人からしたら、自ら戦場に出た上に小谷城を守ったんだから、
むしろ何で褒めてくれないの?って思っちゃいそう。

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:20:12.64 ID:MVuGoiUp
義景「戦らしい戦もしていないのに将兵が減った
   解せぬ」

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:26:10.91 ID:k52j1PeO
越前へのお帰りにはきっつい追撃が待ってるというおまけ付き

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 20:21:25.94 ID:P5Kl50oq
決戦もせずに、とみんな責めるけどそれはそれでいいんだよ。
大局的に見りゃ敵を足止めにして他の戦線で有利な状況を作り出したからね。

問題はぼろぼろ寝返りを出した統率力の無さか。
でもこれは義景個人の力量のせいでなく、朝倉家の構造的欠陥に起因すると思うんだが…。


それにしても、あの辺りの冬の厳しさを知っている自者からしたら
半年間よく頑張ったと思うよ。
信玄の責めるのもわかるが、状況考えりゃ酷だと思う。

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 06:37:35.59 ID:y85MqroD
>>352
朝倉軍の総大将は景健か景鏡なイメージ
余が珍しく出陣したらこれだよ!