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悪口の罪軽からず

2020年09月19日 17:58

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/18(金) 21:18:26.35 ID:E9wTxwXD
慶長十七年七月十三日、彦坂九郎兵衛の申す所によると、一昨夜、飯田伝吉朝比奈甚太郎松野勘介
(共に中将殿(徳川頼宣)御小姓)が駿府の町中に於いて喧嘩に及んだ。これは甚太郎、勘介が伝吉に対し
悪口を吐き、剰え刀を抜いてかかり向かった事が原因であった。

その時伝吉は堪忍能わず、散々に切り合い、その場において松野勘介とその郎党を殺し、朝比奈甚太郎
二、三箇所の疵によって倒れ臥した。

伝吉はその場から逐電したが、大御所(徳川家康)はこの事件を聞き召されると
「飯田は手柄を顕した。」と御感になり、これを召し返した。
また生き残った朝比奈甚太郎に対しては「悪口の罪軽からず、殺害されるべし」と仰せになった。

駿府記



『岡田竹右衛門覚書』より、中編

2020年09月18日 18:17

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/17(木) 23:50:47.78 ID:dTEGrb0q
岡田竹右衛門覚書』より、中編

・上も下も面倒な三河武士
遠江、見附の原にいろいろと砦をもうけ、掛川へ軍事行動をしたのは本多豊後守(広孝)、鳥居彦右衛門(元忠)、松平左近(注、竹右衛門の主人)などであって、そのとき石川新兵衛という者が功名を挙げて乗り来たり、竹右衛門、星野角右衛門、左右田弥五八の3人に向かい、「竹右衛門、これを見よ」と馬上より首を見せてきた。
竹右衛門はこれを聞き、「私に対してこれを見よという言葉は不似合いである」と返した。
すぐに(竹右衛門は)角右衛門と弥五八に向かい、「おまえらはここで待っていろ。私は功名を挙げてくる」と言い、城下(敵の掛川城)に帰って功名を挙げてきた。
その間に諸軍勢は引き上げたが、その2人は竹右衛門を待っていたところ、竹右衛門は帰ってきて、「おのおの、神妙である。ただいままで待っていてくれたことはかたじけない」。
さて、左近は竹右衛門を呼んだがいなかったので、本多豊後守は「もしかしたら竹右衛門は討ち死にしたのではないか。心許ない。その様子を見届けていないので、今晩浜松において、家康様から今日の経緯を聞かれたとき、申し上げることがない。とにかく竹右衛門を呼び出すべきだ」。
左近は答えていわく、「もし竹右衛門が討ち死にしようとも、気にすることはない。先に帰陣してください」。
それでも豊後守は旗を立て、よくよく待っていたところ、竹右衛門が功名を挙げ、角右衛門、弥五八が配下を引き連れ一緒に帰ってきた。
左近はその様子を見て、「角右衛門、弥五八は5騎、10騎の侍を持っている身なのだから、左近の名前が立つのだ。なぜ、私のところにおらず、竹右衛門のところに残ったのだ」と「しかり」つけた。
これを聞くと竹右衛門は腹を立て、取った首を川へ投げ捨てた。
豊後守は竹右衛門を陰に呼び、「左近殿が角右衛門、弥五八を褒めた(その2人を発言で引き立てた)のは、その方を褒めている内意がある。その件を理解して、決して腹を立てるでない。我慢しなさい」と達し、見附へ召し連れて帰った。
そのとき、浜松より竹右衛門を呼んでこいと命令があり、左近はいろいろと言葉を尽くしたが、腹が立っていたのでまかり出でなかった。
豊後守が竹右衛門の陣所に出向き、いろいろと意見を言ったので、竹右衛門衆は浜松へ赴いた。
家康は諸大名より先に竹右衛門を御前に呼び、この日の詳細を聞いたところ、豊後守が前に出て、竹右衛門の功名の子細を述べた上で、「深入りした」と左近が叱ったので、腹が立ったので討ち取った首をおのおのに見せた上で川に投げ捨てたという経緯を詳細に語った。
家康は聞き届け、「竹右衛門は『いつてつもの(一徹者)』なので、その通りにしたのだろう」と深く感じ入った。
その後、左近に対し、豊後守が言うには「竹右衛門を召し連れないのは家康様のご機嫌が悪くなっただろう。であるから、私がなだめて家康様の前に召し連れていき、首尾良くいった」。

※やはり、三河武士は面倒くさいですね



557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 16:10:41.30 ID:2yVsSzV0
覚書のいいところは誇張や勘違い、間違いはあるんだろうけど戦国の気風が感じられるところと、細かい史実が描かれているところ

『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編

2020年09月17日 18:24

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 23:25:16.98 ID:n0r3Rbm9
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
(松平康親(左近、周防守)家臣の語ったことで、その覚えていることを記した記録。まとめにあるものは省いています)

・剛毅で鳴らした竹右衛門の初陣
永禄年中、三河東条の近所、横須賀というところに敵が屋敷を構えていた。竹右衛門が押し入ったところ、障子をあけた場所に木戸をつくり、侍2人が差し向かって弓で防いでいた。
竹右衛門が召し使っていた者1人がそこに走り入り、脇差しを抜いて木戸を押し破り、主従で踏み込み、弓を持った武者1人を竹右衛門が切り伏せ、首を取った。
竹右衛門は17歳、まだ権平次と名乗っていたときで、初陣の働きだった。

・姉川での手柄と秀吉
元亀元年夏、織田信長に越前衆が敵対し、近江において合戦があった。
家康が加勢し、松平左近もお供した。その陣で竹右衛門の弟、五味右衛門が馬上の敵と組み合ったとき、ともに馬から落ちた。
五味は若年だったので(落ちた地面で)下に組み敷かれてしまった。そこに竹右衛門は乗り寄せ、馬より飛び降り、上に乗っていた敵を引き破って下に組みふし、五味に世話をして討たせた。
そのとき竹右衛門は葦毛の馬に乗っていた。
太閤はそのとき藤吉郎秀吉と名乗っていたが、馬上30騎ほどで控えており、竹右衛門の働きを見ていた。
秀吉は使いをやって「あなたはどこの侍ですか」と尋ねてきたので、「家康麾下の松平左近家臣です」と答えた。
その後、帰陣し、秀吉が「上方」(山の上の寺の意か)で、「姉川合戦において葦毛の馬に乗って働いていた武者は名乗り出なさい。必ず召し抱える」と言い出した。
帰陣した家康は、竹右衛門が寺に登るべきかと尋ねると、父の伊賀守がこれを聞き、「譜代の主人を捨て、いかに大身になろうとも本意にあらず」と腹を立て、この申し出を受けなかった。
(上方はそのままの意味かもしれませんが、前後のつながりが不明)

・弟の死と倍返し
遠江浜松での合戦で、竹右衛門の弟、五味が討ち死にした。
その日、竹右衛門は同所におらず、この顛末を無念に思い、「この敵を討たなければ、二度と三河に帰らない」旨を仲間に堅く申し置き、ただ1騎にて久野前に出陣した。
すると、武田信玄方の武者が1騎、物見と思えたが、乗り出してきた。
竹右衛門はすぐに掛かり合い、敵を討ち、「五味のかたきを討った」と喜んで浜松に帰陣した。
「まれな働きである」と左近から褒美をいただいた。

・先にもありますが、やっぱりこの時代は騎馬で戦っていた
駿河へ家康が出陣したとき、先手を左近が命じられた。
安倍川の中程にて竹右衛門は敵に乗り向き、馬上より切り落とした。
その武者は切られて川下へ流されていったところ、服部小十郎という者に「その首を取りなさい」と言った。
小十郎に功名を取らせ、そのまま田中八幡山へ同道し、家康にお目見えした。



近年にない陰謀の露呈であり

2020年09月10日 18:08

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 12:52:42.94 ID:6re4dyIE
慶長十九年四月
この近年、大御所近習の女房衆が駿河に於いて金銀を貸し付ける商売をしており、この使いは
神子(巫女)であったが、甲斐甲斐しく才覚して、本利を相調え毎回献上していた。

去る頃、池田備後(荒木久左衛門子)も借用していたが、この借銀を神子に催促されたため、
備後の用人(若衆立て)が、中に銀が入っている由を含んで皮袋を渡した。
これはそれまでも度々の事であったので、符を見切るまでもなく請取、両替町に出て商人に渡す時
これを見ると、その中には石が多く詰められていたのである。

神子は大いに驚き、皮袋を持ち帰って先の備後の小姓(用人)に申した所、彼は
「全くそのようなことは知らない。」と申し、神子のやったことだとした。
この時神子は「汝は私を媒として、備後の妻を犯したではないか!」と申した。
近年にない陰謀の露呈であり、すぐにかの者を押し籠めた。

この事は大御所にも聞こえ給わったが、かようの儀は町奉行である彦坂久兵衛に相図るべしと言われた。

池田備後の借りた金銀は過分であり、返済は難しく、その上外聞も失った以上、彼の身上は
如何成るかと噂された。この借銀は千貫目にまで膨れ上がっていたという。
また備後に限らず歴々の衆も借用しており、今速やかに返済するのは難しいと云々。

当代記



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 14:29:47.35 ID:vSQ/4NGC
長すぎる。二行でまとめてくれ

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:19:57.00 ID:xTSgtrAh
借金を部下に返させたら銀の換わりに石詰め込まれてて抗議され、部下がしらばっくれたら借金取りに妻NTR(部下が上司の)バラされ笑い者、家康もあきれ顔

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/11(金) 23:59:40.62 ID:gy3Glw8l
>>328
荒木久左衛門(池田知正 1555-1608)の子じゃなくて、弟の光重だな
この件が原因で改易されて、大坂の陣で復帰を目指すも果たせず病死

ヲランダ国よりの進上

2020年09月07日 18:09

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/07(月) 11:58:40.11 ID:F033BR/c
慶長十七年八月
この度来朝の唐船どもの内、ヲランダ国より来る仁、鳩ほどの大きさの鳥が一羽、大鳥一羽、
何れも生鳥を駿府、江戸に進上すべきとて、京都まで上がった。
右の小鳥は人の言うことを聞いて、その言葉のとおりに言い、大鳥は頭は鶴に似ていて、
背の毛は猪の背の毛に似ていた。

当代記

小さい鳥の方はオウムなんでしょうかね



徒者取締の事

2020年09月06日 17:26

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/06(日) 13:40:20.72 ID:J6DlKxxS
慶長十七年、江戸に於いて徒者たちが集まり、人を斬るという事が絶えなかった。
六月二十八日、柴山孫八(上口奉公の人也)が、そういった者共の一人を成敗した所、
彼の党類がその柴山の所にも奉公しており、「我が類を斬った」として、主人である
孫八を斬り殺した。

江戸中にもこういった徒者が、三百ほど有ると云われた。諸国で奉公しているこの類の者たちは、
合計で三千人とも云われた。

このような中、江戸中で穿鑿が行われ、九十人ほどが搦め捕られ、牢に入れられた。
かの柴山孫八を斬った者は、彼の小者であったのを取り立て、侍にして懇切にしていたのに、
その重恩を忘れ主の頭を斬るなど、是非に及ばぬ次第である。

かの者を生け捕り、類を尋ねた所、大将分は大鳥居一兵衛、大風嵐の介、大橋すりの介、
風吹はちり右衛門、天狗郷右衛門、などという名であった。
その白状に任せて捜索し、悉く搦め捕って成敗が行われた。

そうして京都に下知があり、大阪、堺、その他の国々に於いてかの一類を成敗有るべしとの事であった。
しかしこれによって、この頃無縁の者たちに対し宿を貸さなくなり、旅人はこのため迷惑した。

江戸の大将分であった大鳥居一兵衛は相撲を能く取り、兵法も能く使ったため、彼が若衆かぶきとは
知らずに近づいてきた者たちに、罪科を行わせ国々に遣わしたという。

当代記



『当代記』より、岡本大八事件について

2020年09月01日 17:48

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/01(火) 12:59:56.15 ID:xeG/Ao3Q
慶長十七年三月二十三日、岡本大八という者、親は江戸に在住していた。
この大八は九州長崎の有馬修理(晴信)を駿府に於いて取り持つ物であった。

彼は有馬修理に、修理方より金銀を差し越され、これを各年寄衆、并びに女房衆に彼の取成しを以て
遣わせば、九州鍋島の知行地のうち三ヶ所を申し請けることが出来ると有馬修理に対して偽りの報告をし、
有馬はこれを真と心得、金銀を大八方に渡した。
しかし素より偽りの謀であり、何の沙汰にも及ばなかった。

有馬修理が、大八が金銀を得て私に領した事を言上すると、この二十三日に安倍川原において
火炙りと成った。

(中略)

大八罪過の砌、大八は
「大御所に従い、長崎で唐船の糸やかれこれについての使いとして遣わされていた長谷川左兵衛(藤広)を、
有馬修理は闇討ちしようとした。」と白状した。

このため有馬修理は大久保石見守(長安)に預け置かれ、その後甲斐国郡内に遣わされた。
彼の子息である左兵衛(直純)は、この科に関係がないとして、有馬家の本領は安堵され
前々のごとく長崎に居住した。

五月七日
有馬修理(九州長崎主)は去る月より甲斐国都留郡に置かれていたが、「殺害に至るべし」と
大御所よりの命が下った。

当代記

岡本大八事件について



安南国からの進物

2020年08月29日 17:55

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/28(金) 22:21:06.74 ID:xoyZfXyb
慶長十五年、安南国(天竺内と云々)が日本への音信のため、船を薩摩浦に去る頃着岸した。
彼らからの進物は、

一、沈香の木の柱十二本(但し一本に付き四人持ち)
一、沈香の粉柱一本
一、糖水十壺
一、沈香十斤(これは上沈也)
一、象牙二
一、鸚鵡一つ
一、孔雀一つ
一、リンケイ一つ(これも鳥也)
一、モンノ絹二疋

右の通り書立を以て注進し、近日駿府に運送されるという。
これは今後商船を寄越すためのものである。
惣別、日本に銀が多いという事が、近年唐南蛮で沙汰されているのだという。

当代記



ノビスバンとの交易

2020年08月25日 18:18

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/25(火) 18:12:08.81 ID:3Qis6dnE
慶長十五年の五月頃、京都の町人である米屋のりうせいという者、大御所(徳川家康)の御意を以て
ノビスバン(メキシコ)に渡海し、心に任せて売買し帰朝した。
猩々緋を多数持ち帰ったが、ただし彼の地に金銀は聞きしに及んだ程ではなかった。
しかしながら他の国他の島よりは多かった。

重ねて日本人が渡海することは無用であると、ノビスバンの者たちは堅く日本人に示したという。

当代記



大事な油道服を着ていても、それではねえ

2020年08月19日 16:57

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/18(火) 23:57:58.91 ID:rP7c6Hcr
脱糞に近い権現様の失態

利家夜話
太閤秀吉が坂本の古城跡へ鷹狩りに赴いた。家康や利家はじめ、大名が軒並み参加した。
そのとき、平塚という者が鳥を手づかみにして、秀吉はたいそう機嫌がよかった。
すると、にわかに雨が降り出し、坂本に移動した。
みなが馬でお供したが、家康は「(水をはじく仕様の)油道服」を着ていたが、風で服がばたばたして音がにぎやかに立ったため、馬が驚いて落馬したようだった。
その夜のお話で、秀吉は「家康に似合わぬ濡れようである。大事な油道服を着ていても、それではねえ」と仰せられた。
利家は合羽を着ていたが、何事も問題はなかった。



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 17:00:46.01 ID:7HYm4Hbx
>>279
利家夜話って前田利家の家康への対抗心が異様に書かれてるよね

『駿府記』から権現様の老いてなお元気な話や怪奇話、珍しい贈答品の話(悪い話を含む)

2020年08月18日 18:42

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/18(火) 18:23:32.60 ID:rP7c6Hcr
駿府記』から権現様の老いてなお元気な話や怪奇話、珍しい贈答品の話(悪い話を含む)
慶長16年
8月13日、朝、御浅間に出られ、鉄砲を放たれた。的を2町より遠くに置かれ、的に5度も当たった。近侍の者はみな、当たらなかった。
午刻に前殿の櫓の上に鳶が止まっていた。鉄砲を放たれ、3発とも当たった。鳶2羽を撃ち落とし、1羽は足を撃たれて飛び去っていった。距離は50間だったという
(江戸在府中の)9月19日、海上に白鳥が多いことを大御所が聞こし召され、鉄砲の上手な家臣を数人召し連れ出御されたが、風波が悪く、お船が揺れ動き、照準が定まらないので還御された
慶長17年
2月3日、遠州堺川にて鹿狩り。およそ5、6千人を引き連れ、大御所は鉄砲の巧みな者数十人を供にして撃たせた。イノシシ2、30頭を捕獲した。大雨が降ってきたので狩りを中止し、浜松に到着した
12月20日、「寒食」(古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと)として麺料理を出したところ、お気に召さなかった。与安法印が策を練り、ショウガ汁を多くして麺を柔らかくしたところ、ご機嫌が直った
同月26日、藤堂高虎細川忠利がお目見え、島津忠恒は「焼酒(アハモリ、琉球酒)」2壺と砂糖5桶を献上した
慶長18年11月18日、鷹狩り。路地において百姓が目安を差し出したので、代官深津八九郎と百姓を御前において対決させ(遂対決)、直に訴えを聞いた。すこぶる代官に私曲があったのですぐに代官の職を召し上げた(24日にも目安あり)
慶長19年4月5日、駿府面前の浜で亀に似た肴が引き揚げられた。漁師が20人あまりで担いで持ってきた。背中は黒く亀甲のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三つ叉になっており、大きなひれがあり、腹の色はぶちだった。諸人がこれを見た

12月、このたび、平野の御殿を阿部正次が普請したところ、小壺1個が出土した。壺の中には黄金30両、「金具」9塊、南鐐(美しい銀)100両が入っていた。伊丹康勝が持ってきて語るには「5、60年前に埋めたものではないでしょうか」。発掘された金は阿部が賜った

慶長20年11月10日、大御所は越谷に渡御されたが、お鷹場に水が溜まっており、鷹狩りはなされなかった。このため代官が勘気を被った
12月9日、引き続き中原に逗留。御小人頭の稲垣権右衛門を誅殺した。鷹狩りのときに御鷹を損じたからである



450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 11:45:50.55 ID:SM/T+GPd
>背中は黒く亀甲のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三つ叉になっており、大きなひれがあり
マンボウか何かだったのかな

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 12:57:48.29 ID:ChT2jncQ
家康は大将は自ら戦うものではないとか言ってたと思うが、鉄砲が上手かったというのはほんとなのかね?
とこで学んだんだ?

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 00:06:44.13 ID:gTXp9QmS
>>451
一揆の頃は自らノリノリで戦ってたよ。人手不足だったんだろうけど
鬼武蔵を打ち取る鉄砲の名人もいるし
教える人はごろごろいたんだろ。

中に人が在った

2020年08月17日 17:58

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/17(月) 13:45:51.36 ID:0v9Fzqga
慶長十四年正月十五日、近日大御所(徳川家康)が清須に到着されるとのことで、清州城の掃除が行われた所、
殿主上の段の戸が開かず、無理に押し開けた所、中に人が在った。
この者はかきの手に輪違の紋を付けたものを着、鑓を二つ研いでいた。この者を糾問した所、尾州内の
さなけの者と申した。盗人というわけでも無いので、しばらく成敗もなかったが。それから十四、五日で
死んだ。

当代記



275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/17(月) 17:08:37.57 ID:t/O/HVhh
>>274
なんだこれ
猿投の人

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/18(火) 07:33:13.17 ID:P04Wn4jn
信長の遺児か

分明の争論に及ばぬ

2020年08月10日 18:22

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/10(月) 16:52:26.08 ID:RK9l63yj
慶長十一年六月、この頃、京の町人たちが北野、賀茂あたりに行くと、かぶき(当世異相をこう云う)衆と
呼ばれる者たちが出てきて戯れ、これに町人たちは悩まされた。その上彼らは女色に浸り、覚えの外の事が
多かった。

大御所(徳川家康)はこれを聞かれると以ての外の逆鱗で、この事について虚言であると、申し分の旨を
言おうとした者たちにも

「分明の争論に及ばぬ。」

として、津田長門守、稲葉甲斐守、天野周防守、澤半左衛門、苑田久六、等が改易と成った。
その後また、大島雲八、阿部右京、矢部善七郎、野間猪介、浮田才壽が改易と成った。
それでも、未だ同類が甚だ存在していると云われたが、重ねて町人たちが迷惑に及ぶような沙汰は無くなった。

当代記



明朝の衆を相返し

2020年08月05日 18:09

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/05(水) 15:29:32.80 ID:fc52C7bB
慶長九年の夏、高麗からの使いとして浄雲大師という僧が来た。彼は家康公が関東へ下向された後に
京に到着し、そのため翌年の春まで在京した。そして家康公の意向を得て、高麗へ帰朝した。

かの使いによると、先年秀吉公が軍勢を渡らせたことで、明朝より高麗に防衛のための軍勢を置いたが、
この番手の衆が大変に狼藉を働き、このため大いに迷惑しているのだという。
日本より再出兵の事がないと極まれば、明朝の衆を相返し、前々の如くしたいという事である。

当代記



241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/06(木) 15:47:27.36 ID:C4BZS9Kg
自分から防衛力を削減したいからと仮想敵国にお伺いを立てる、て間抜けな話だと思うが
家康に再出兵の意思がなかったからよかったものの

毎年石見守は

2020年08月03日 18:51

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/02(日) 23:58:01.75 ID:UuWTnIX6
慶長七年の頃より、佐渡国で掘り出される銀が倍増し、一万貫目余りが幕府に納められた。
前に越後の上杉景勝が彼の地を領納していた時は、銀の産出も僅かであったという。
また石見国の金山も産出が倍増して四、五千貫目が納められた。これも前の森(毛利)輝元の
時代は僅かな産出であったという。家康公の分国となってから、このように成ったのである。

この両国は大久保石見守(長安)が拝領していたが、ただし金山については代官として携わっていた。
銀は幕府に先のように納め、毎年石見守は、三月には佐渡に下り、八月には伏見に上り、九月十月は
石見国に下り、金山を相改め、銀をいよいよ多分に納めた。

当代記

大久保長安は忙しかったんですね



三人目は事の外きらひ申事の由

2020年08月02日 18:15

千姫   
239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 18:43:07.48 ID:M3sPawsy
三人目は事の外きらひ申事の由


豊臣秀頼の正室であった千姫徳川秀忠の長女)は、大坂の陣の後本多忠刻に再嫁した。
しかし寛永3年(1626年)に忠刻も亡くして、また寡婦となってしまった。
ところが三年後の寛永6年(1629年)、前田利常との縁談の噂が持ち上がった。【細川忠興文書 七五一号】
利常は千姫の妹の珠姫と結婚し嫡男もいたが、元和8年(1622年)に死別していた。
実際は千姫本人や利常の母である寿福院が嫌がって再婚することはなかったが
その理由について細川忠利が忠興あての書状に書き留めている。【細川家史料 細川忠利文書 三三一号】

一、加賀筑州(前田利常)へ播磨の御姫様(千姫)がおましになる話(縁談)は、筑前殿御母儀(寿福院)が
  事の外迷惑がっています。子細は秀頼様・中書殿(本多忠刻)が亡くなられてしまったので
  三人目になってしまうのをとりわけ嫌がっていて[原文:三人目は事の外きらひ申事の由]
  それが並大抵ではないためまだ済んでいません。その上御姫様も迷惑がっています。

忠興は「迷惑がるのはしょうがないが、嫌と申すような事ではない。もっとも筑州の母だから申し上げた
のかなと嘲笑されるようなことだ」と返書で反応している。【細川忠興文書 七六七号】
千姫は翌年にもいとこの松平忠昌と再婚する噂が出たが、続報はなかった。
この二つの縁談は恐らく、寛永9年(1632年)に亡くなる父・秀忠の意向だったのだろう。



この蘭奢待というものは

2020年08月01日 17:13

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 01:16:07.85 ID:5HHCEv4P
慶長七年、六月朔日より伏見の普請があり、上方の諸大名が伏見に在した。
同月十日頃、南都(奈良)の蘭奢待について、内府公(徳川家康)が、使者を以て見たいと伝えた。
またこの頃勅使が遣わされ、かの蘭奢待を切りたいという旨の内意がしきりに伝えられたのだが、
これを切れば余命が幾ばくも無くなるという言い伝えによってこれは止んだ。

この蘭奢待というものは、”をふらん”という沈香である。蘭奢待というのは、本来そう言う名前ではなく。
言い習わしたものである。この”をふらん”と併せて、紅塵(紅沈香)という沈香がある。これらは
何れも勅封蔵に有る。

当代記

蘭奢待を切ったら余命幾ばくもないというのは、信長が前例に成ったんですかね。



238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 08:18:36.60 ID:6CYBmUaK
沈香を愛でることを「をふらんす」といい沈香国フランスの語源となった

これはイギリスという島の船で

2020年07月31日 18:09

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/31(金) 16:55:58.77 ID:dQVhJZiJ
慶長五年の春、或る船が堺浦に寄った。これはイギリスという島の船で、黒船(スペイン・ポルトガル船)の
敵であるという、そのため船中には具足、大鉄砲が数多あった。具足は腰より上ばかりであった。

内府公(徳川家康)はこれを見物され、船内の上下を見聞された後、猩々緋以下の売買を問題なく許し、
また帰国も許した。

かの船は唐船の敵であるのだから、誅伐をすべきであるのにと、人々は皆云ったという。

当代記



さかりなる 都の花は散りはてて

2020年07月30日 18:08

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/30(木) 16:09:11.36 ID:Y1GqvNF1
慶長元年の頃、江戸に住む米津清右衛門(家康公近習)の妻女が夢想の中で次のような歌を詠んだ

 さかりなる 都の花は散りはてて 東の主が世をは次へし

この女は歌道を聊かも弁えていない人物で、奇特なことだと言われた

当代記



秀吉との関係はいよいよ入魂となった

2020年07月22日 19:22

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 01:30:15.54 ID:bZEQKy47
天正十四年十月、徳川家康公が御上洛された。この時「もし上洛出来ないのであれば、秀吉の妹(朝日姫)を
返した上で、干戈に及ぶ。」と一途に宣わり、殊に秀吉公は御袋(大政所)を岡崎まで下向されたため、
疑心無く上洛され、秀吉との関係はいよいよ入魂となった。これによって、家康公北の方(朝日姫)は
浜松より岡崎にお出でになり、御袋と対面し、悦ばれた。秀吉公も家康公の上洛を快悦され、刀脇差、
並びに数寄道具(何れも値千金の物也)を進ぜられたと云う。
家康公が下向されると、大政所も帰洛された。

秀吉家康が入魂した事に、小田原の北条氏政父子は心底不快であったと云われる。

当代記