敵を射伏ば自軍の利。後まで苦しめるは不仁の業

2017年03月22日 10:39

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 03:35:29.81 ID:OMqm+fgI
同じ頃(甲斐領地直後)、東照宮(徳川家康)が武田家の士・横田甚右衛門(尹松)らを
召して、信玄の事を物語りさせて聞きなさった時、

「御坊の時は火縄はどのようにしたのか」と、御尋ねになった。

すると、「柿の渋に石灰を入れて火縄を染めますと、年を経ても使えます」と答え申した。
東照宮は横田、または城意庵などに信玄のことを“御坊”と仰せになったという。

また、武田家において鏃をゆるく詰めたのは、敵の肉の中に鏃を残すためであると申す
のを聞きなさり、東照宮は、

「士がいくさに臨むのは皆その主君のためであるのだよ。敵を射伏せば自軍の利となる
であろう。けれども、後まで人を苦しめるのは不仁の業である。今日から我が家の士は
鏃を堅く詰めよ」

と、仰せ出したのであった。

――『常山紀談』



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 07:03:58.34 ID:95mxgnAJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1963.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5892.html
前にも出てたけど出典はなかったか
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サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで

2017年03月21日 21:06

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 12:45:26.50 ID:ajCmN+xp
家光が最後に上洛した時の事かな
http://i.imgur.com/8N6tupL.jpg
8N6tupL.jpg

サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで迷惑だなw



685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 18:42:19.69 ID:ccqVKeS4
>>684
示威とはいえ、かなりの金がかかったんだろうなあ

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 23:36:41.03 ID:Xngeiluy
鎌倉もそうだが遠国に本拠地があると天皇権威が復活するよね

用来の用、不用の用、明勝の用

2017年03月18日 18:33

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 18:13:18.57 ID:L9oFZyyh
東照宮の上意に
「天下国家を治めるのに、用来の用、不用の用、明勝の用といって、3つの用事がある。

用来の用というのは、我が家は姓は源にて、氏は新田、別名は徳川である。
従臣には、酒井、大久保、井伊、本多、榊原、安部、奥平、大須賀、水野、平岩、鳥居、菅沼、石川、
安藤、内藤、大井、土井、青山、高力、天野、板倉、阿部、牧野、西尾、久松、
その他一統一統の氏があり、この氏人の子孫、従類は、皆当家の譜代随一である。

そこで、彼らの子孫の内、親たちより生まれつき優れているのは言うまでもなく、親に等しくその用を
勤めるのを、用来の用と言う。

また、その家、その子が、親たちの器量からは殊の外劣っていても、家督を相違なく立て置くのを、
不用の用と言う。
これについて、その家の太郎(嫡男)は用いるに足らずといえども、その家名は捨て難いものであり、
賢くない者の子に、能き者の生まれるのは、和漢ともにその例多い。
我が家の得失というものは、自分自身では計り難いものであるから、賢臣と事を取り計らなければならない。

また明勝(時来の意)の用というのは、来用の用の内にあり、その職責を任せられる人物の無い時は、
埋もれている小身の内なりとも、抽り出して、その者の器量の備わっているのを見て、大身に取り立て、
これを用いることを言う。

ただし、自己を高ぶらず、人を侮らず、一人で威を振るわず、能き事を同役へ譲り、末を考えて、
偽り飾ることをせず、諸人をむらなく愛してこそ、誠に天下・国家の家老というべきである。

家の惣領の子に付けるような者は、別してこの心得第一に選ぶべきである。
惣領の子であっても、その家の風紀に無理に当てはめようとしては、なかなか育てられるものではない。
慈仁を第一にして、それ以外は時に応じ、その器に従って教育していけば、自ずから根の強い、
能き人になるものだ。」

そう仰ったという。

(武野燭談)


733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 20:58:25.89 ID:NOKRHnIw
長安事件がなければ
酒井、榊原、井伊、本多、大久保
で徳川四天王だったのかな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 21:16:05.47 ID:/96KH+RV
>>733
森武蔵が呼んどるで

明主の賢慮は推量し難い

2017年03月17日 07:47

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 23:45:21.45 ID:vrpWz8g8
徳川家康がある時仰せに成った
「右兵衛督(徳川義直)、常陸介(徳川頼宣)の両人に、近日武具着初めをさせるので、
あらかじめ準備しておくように。」

御武具方はこれを承り。黒糸縅の甲冑、ならびに弓矢、陣太刀、鞭、采配、軍配扇など、
注文通りに揃えた。

その頃、この武具着初めについて下々からは
「現在、右兵衛督殿の御爺などと称せられている平岩主計頭親吉は、それほど高名は聞こえないが、
上の御覚え他に異なり、また常陸介殿に付けられている安藤帯刀は、武勇冥加の侍であるから、
きっと両殿の御武具は、この両人が召させるのであろう。

尤も平岩は戦場に勇ある人物ではあるが、安藤と比べては、なかなか同日に論ずることができる者ではない。
そもそも公達などの御武具御召初めは、勇功あって武の冥加ある侍にあやからせ給うようにと、
専らそういう人を選ぶものだ。安藤は一日の内に二人の大将の首を獲た武勇の人であるから、言うに及ばず。
一方の平岩は、上意ではあったが、かつて一家の主親たる水野下野らを討ち、また三郎信康殿の
御母堂築山殿御生害の事を取り計らうなど、あまり吉兆のある人ではない。そういう人に若君などの
御武具召させ初めるというのは、いかがなものか。」

そのように言い合っていたが、当日に至ると、義直、頼宣の武具を、父である徳川家康が自ら
召させるとの上意にて、兄弟は同日御前にて召させられた。下々の予想は全く間違えていたのである。

しかし岡崎三郎殿以降の公達は数多居たと言うのに、家康自ら武具を召させる事は無かった。
それが今度このように計られた神慮は計り難い。兎にも角にも、優れて御愛子ということだろうか。
何れにしても、明主の賢慮を下々は推量し難いということだ。

(武野燭談)


「法度は改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」

2017年03月17日 07:46

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 02:42:53.78 ID:cTLi9xmA
勝頼滅んで後、東照宮(徳川家康)は甲斐を治めなさると、

「法度は信玄より用いるところを改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」

と、仰せ出しなさったので、百姓は大いに喜びあった。小田原(後北条氏)
滅んで後、その地を治めなさる時も、また同じであった。

諸民は大いに喜び、数百年の恩義が相結ばれるに同じであった。

――『常山紀談』



722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 03:09:38.35 ID:QiuwIqqf
百年にわたり善政を行い民百姓との結びつきが強いと言われた後北条氏だが民は年貢を多少割り引いて貰っただけで敵側だった徳川わっしょいになるなんて、所詮はその程度のものだった
穿った見方をすると悪い話し

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 07:44:17.53 ID:wCCIMaLG
>>722
真面目に言うと、家康は関東に入ってすぐに、水路の整備など、農村の改良事業といった、
戦乱のため北条が「やりたくても出来なかったこと」を大々的に行ってる。

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 08:40:17.24 ID:nnSE9C2g
>>722
ついでに言うと北条家の家臣はほぼ登用しておりあまり法律とかやり方を変えてないしな。住む方にとってはありがたい。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 12:03:48.43 ID:ZFO1X/J/
盗賊にまで落ちた風魔がいたね

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 12:33:44.27 ID:SiKtZsUe
>>724
実はあまり登用していなかったんじゃなかったっけ。
ただ農工商いずれに渡っても領民と徳川の中に入っていって
色々スムーズにしていったとか聞いたことある。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 20:38:45.25 ID:bg166cIu
家康は小牧長久手の戦役で15歳から60歳までの男子を総動員している。
農繁期にこれをやっちゃったので、秋の収穫は酷い事になってるんだけどね。
甲斐では家康が統治してからも検地反対の一揆などが頻発してて、民が喜んだなんて嘘っぱちなんだけどなあ。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 22:56:50.30 ID:gv6zUOc6
>>727
いつどの辺りで起きたの?
首謀者は百姓なの?
それとも武田の旧臣?

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 23:57:35.83 ID:bg166cIu
当時においては百姓と武士の違いなどあいまいだ。区別はできないな。
そもそも当時の百姓は甲冑槍弓で武装し、場合によっては火縄などまでもってる。

時期は家康が五か国総検地をやった時。
その前も小牧長久手の後遺症で領内が大飢饉に陥っていたけどね。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 09:30:45.43 ID:e23UI1NM
妄想?それとも何か文献あるんだろうか。

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 13:01:10.66 ID:mqYEINS8
龍門寺拠実記によると小牧長久手の戦いで男でがとられて、領内は荒廃して飢饉になり、
老人は口減らしで死んでいた事が記されているよ。

今は、天下創業の御政務である。

2017年03月15日 19:17

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 17:53:08.67 ID:FwIHOceO
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正信も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx
>>667
いい話じゃない?

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd
正純の父が正純
※訂正済みです
670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー

大人・公子の御身として、幽霊女の真似など

2017年03月14日 17:39

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)


666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

讃岐守の子は油断できない

2017年03月11日 09:19

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 22:28:02.88 ID:so4sl6CD
寛永年中、島原表での一揆の折、諸手へ旗本より軍場御目付を遣わされるにおいて、人々は
大阪にて戦功あるものが仰せ付けられると思っていた所、思いの外、脇の人々の中より選考された。
これに居並ぶ老功の勇士たちが嘲笑っている中、何某とか言う若輩の人物も、御目付として選ばれた。
その人物には、幕府重臣・酒井備後守忠朝よりその旨申し渡され、彼も面目を施し、
お請け申しているその半ばに、控えの間より大久保彦左衛門が声高に言った

「世も末になったものだ!若輩の者共が軍奉行だ御目付だと言って戦場に向かう。
どれほどの功が立てられるものか!
座敷の上の軍場とは違い、料理を食うようにはいかないのだぞ!」

その嘲りの声殊の外高く、かの何某はこれを聞いて、控えの間に戻るとそのまま彦左衛門の居る
席に向かい、彼と言い合いを初めた。

この一座の者達も、みな痴れ者ばかりであったので(一座の輩、何もしれものの集りなれば)、
口論を止めようともせず、あわや事に及ぼうとする時、酒井備後守忠朝が聞きつけ
この部屋の障子を押し開くと、この何某を呼びつけ

「其方が左様な不覚悟とは誰も知らなかった。だから今度の選考に推薦したのだ!
大事の御使を承りながら、彦左衛門などと口論するなど、甚だ以て不届きである。
早々に支度して、罷り立てられよ!」

そう荒々しく言いつけると、何某もすぐに退出し、島原へと向かった。

その後酒井は彦左衛門に向かい
「其方はその老功や御役柄で、人が許すからと言いたいばかりを申される。
若き者は、何の功で武辺を得たかなど、誰のことであっても耳にかけようとするが、
貴殿からは鳶ヶ巣城の一番乗りの自賛を、毎度承っている。
その頃は16歳の初陣の高名と申されたのを、私も覚えている。

であるのに、その貴殿が今の若者に、彼らが若年にて高名できないなどという批判は心得がたい。」

そう、言葉穏やかに言うと、さすがの彦左衛門も閉口し。酒井は奥に戻っていった。

この後彦左衛門は同僚に向かって
「讃岐守(酒井忠勝 )の子(忠朝)は油断できないな。若いが理屈をする。恐ろしい恐ろしい。」
そう、賞美したとか。

(武野燭談)


三州山中八幡の事

2017年03月11日 09:17

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/11(土) 06:45:08.19 ID:c4YBRzER
三州山中八幡の事

 三河国額田郡に山中八幡宮という社がある。
御朱印高百五十石である〔この社は文武天皇三年秋九月九日影向したという〕。
親氏君、広忠君が信仰されて宮を造立された。その時の神職を竹尾二郎左衛門尉という。
神君御誕生のときには御代参として本多平八郎が詣でられたという。
〔本多系図に、忠勝の父、祖父も皆平八郎と称す。この二人のどちらであろう〕

 本願寺一揆のとき白鳩二羽舞い上がった。
これから舞木というのを改められ舞上八幡と称し、
その山を御身隠山と称することという上意があった。
 神主数代は三河州の所々で御戦に随従し、代々に武功戦死の者も出し、今も御感状数通を持ち伝えている。
関東御入国の後は専ら神職を勤めるよう命ぜられ、当代は竹尾但馬と称している。
ただし任官はせず代々無位で武士であるという。
このことを癸未(1823年)の春に、隣宅の但馬が来て語ったのを記した。
(甲子夜話)


山口さんお疲れ様です。

2017年03月09日 20:37

711 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/09(木) 11:04:36.36 ID:f+pfhTIu
慶長十七年(1612年)八月、島津忠恒は駿府の大御所徳川家康の歓心を買おうとしたのか、
琉球の草花を献上した。献上された草花のリストは
・仏桑花(ハイビスカス)一本
・山丹花(三段花、イクソラ)四本
・千年草(ドラセナ、幸福の木)一もと
・アダンの木二本
・からすの花三もと
・しろゆり根三十
・よなふ木(ガジュマル?)一本
(『鹿児島県史料 旧記雑録後編四』九四三号)

初めて見る亜熱帯植物に、家康はとても喜んだようで、
側近の山口直友から忠恒に礼状が届いた。
(『鹿児島県史料 旧記雑録後編四』九六九号)
「先度お上せいただいた三丹花(山丹花)や仏桑花を(伏見から)駿府に送ったところ
(家康が)一段とご機嫌」だったとあった。
家康も大いに満足し、来春もさらに気に入った草花数種を送って欲しいと所望している。
面白いのは、続けて「お上せの間に(草花が)枯れかかったので、私の手もとに置いてよく育てました」
とあることです。
ハイビスカスや山丹花が一時枯れかかったのを、山口直友が懸命に手当てして回復させたらしい。
(その時の時期は初冬の頃)
山口さんお疲れ様です。

※山口さんがどんな手当てをしたかというと、部屋に置いたハイビスカスや山丹花の周りに火鉢を
いっぱい周りに囲んで暖めたそうです。
(参考 さつま人国誌、全国都市緑化かごしまフェア 花かごしま2011での展示史料より)


御当家からの御恩賞

2017年03月04日 18:25

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 19:14:23.15 ID:thma4rS3
出雲少将・京極若狭守忠高が死去した時、実子がなければ領国を改易するのがその当時の決まりで
あったため、忠高の領地は召し上げられるという事となったが、かの京極家は数代の名家であったため、
将軍家光も惜しく思われ、忠高の甥である刑部大輔高知にかの家を相続させ、京極家の本領である
大津六万石を所領させるように、との沙汰があった。

これについての評議の場で、幕府重臣たる井伊掃部頭直孝は反対した
「京極家と鳥居家は、双方慶長五年の関ヶ原にて籠城した人々です。その上で一人は城を守って
討ち死にし、一人は城を開いて立ち退きました。

そして、京極家は百年を重ねた名家であるからと、その子孫には出雲・隠岐二十四万石を与えられました。
鳥居家は当家御譜代であり、その節死もあり、それら忠義を思し召し、元和八年羽州最上にて、
二十四万石を与えられました。

ところが、鳥居伊賀守忠恒が早世して子無き故に、去る寛永十三年でしたか、その苗字ばかりを残され、
忠恒の弟である主膳正忠春に三万二千石を下されました。
それなのに、京極刑部に六万石は多すぎるのではありませんか!?」

人々、直孝の理に納得したが、これを聞いた酒井讃岐守忠勝は
「掃部頭の申される通り、大津・伏見の籠城の功、鳥居が討ち死にしたのも、京極が城を開き
渡したのも、その功に勝劣はない。何故ならば、京極が大津城に立て籠もったために、上方勢2万余りが
関ヶ原に向かうことが出来なかった。すなわち二万の敵を京極高次一人が支えていたのだ。

また、それぞれの家について吟味するなら、鳥居は三河侍譜代、京極は御当家同列の大名であった。
我々のような譜代は、子孫が如何様に召し使われ、領地残らず召し上げられ、御扶持米で
召し使われることと成っても、どうして不満を申し上げるであろうか?
そのような異議を申し上げない所が、御譜代の第一の慎みである。

また将軍家も、父祖の功を思し召されたが故に、鳥居彦右衛門(元忠)の本領(下総国矢作領)と
同程度の石高を与えられたのだ。

京極家も一旦御味方申して、終始志を翻さなかった。
これらから考えれば、大津の禄六万石はかの家の本領であり、御当家の御恩ではない。
しかし本領と同程度の石高を以って京極家を存立させるのは、御当家からの御恩賞となる。
御譜代と諸侯との違いを、誰が批判するであろうか。」

これに、人々はまた尤もであると評議一同して、上達の上にて讃岐守が言ったように
京極高知には六万石が与えられ、大津ではなく播州龍野の領主に仰せ付けられた。
その後彼は、萬治年中に讃州丸亀に転封した。

(武野燭談)



690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 20:44:08.53 ID:Au4U/eJZ
>>689
名裁き!

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22:00:26.04 ID:x2xTiC3w
>>689
そういえば関ヶ原は近江勢vs尾張勢の戦いとかいう話があるけど
近江守護だった京極氏の京極高次籠る大津城の戦いと、
尾張守護代だった織田氏の織田秀信籠る岐阜城の戦いが
大勢を決した、と言ってもいいかも
問題はそれぞれどっち側で戦ったか、だけど

加賀爪忠澄の名裁き

2017年03月04日 18:24

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 08:19:32.54 ID:qIIAjkDN
加賀爪忠澄の名裁き

伊達政宗との拳と拳の語り合い(?)でも知られる旗本・加賀爪忠澄が南町奉行を務めていたときのこと。

一人の男が、キリシタンの存在を訴え出た。
被告は男の兄であった。名は梶原伝九郎といい、甲斐の浪人であった。

当時はキリシタンを訴え出ると、賞金をもらうことができた。
一見すると、兄弟仲が悪く、また賞金目当てのように見える。

さて、忠澄が評定所で二人を対決させると、伝九郎は罪を認めたため入牢させられることになった。
賞金をもらえることになった弟はさぞ大喜びかと思いきや、なんと涙を流しているではないか。

不審に思った忠澄が調査したところ、梶原家は甲斐武田家に仕えていたが、その滅亡後は貧窮に陥り、伝九郎兄弟は父母を養うことができなくなり、ついに自分を訴え出て、その賞金によって父母を養うことを図ったことがわかった。

その孝心に心を打たれた忠澄は将軍・家光に報告。家光もまた感心し、伝九郎に金を与えることとなった。

そして家光の弟であり、武田家と縁もある会津藩主・保科正之もまたその心がけを高く評価し、伝九郎は会津藩士として召し抱えられることとなった(家世実記)。


孝心がしかるべき人に評価されて報われたお話でした。


中村明彦「乱世の名将 治世の名臣」



693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 11:34:43.10 ID:qY2hJ9Hx
伝九郎は棄教したってことだよね?

岡本大八事件を受けての処罰と処置

2017年03月04日 18:23

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 02:29:30.81 ID:CyHrUAAx
3月11日(慶長17年)、小笠原権之丞榊原加兵衛以下、御旗本の輩
5,6人を改易なさった。伴天連の宗門に帰依している族である。

原主水正(胤信)も同罪の者であったが、逐電して行方知れずになった。

この時、大神君(徳川家康)の上意あって、今後旗本の面々は各10人組
とし、相互に吟味を遂げて、もし、その中にかの宗の徒がいれば、言上す
べしとの旨を、仰せ渡しなさったという。

――『関難間記』


岡本大八事件を受けての処罰と処置という話。


見物の群衆があちこちにできたところを、入れ替わりに

2017年03月01日 10:06

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/28(火) 21:57:04.37 ID:8MYd/WuV
 大阪御帰陣の時に、御道筋を船場までと仰せられました。
その後、玉造口までと仰せ出され、また船場口へと仰せ出されました。
小荷駄などはこの道筋をつかうようにと御下知があったので、
見物の群衆があちこちにできたところを、
入れ替わりに堀際をお通りになられたという。
御深意の程ありがたいことです。

『武士としては』


山下金之助

2017年02月28日 08:10

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 12:11:55.34 ID:KKvYoxvy
山下金之助

 幕府旗本の人々はいずれも旗本となった由縁がある
広く聞いたらさぞ名家が多いのだろう。

 林子(林述斎)は近頃、山下金之助と女子の結婚を仰せつけられた。
その家を林子に問うと、
その家の家紋は三頭の左巴、または井桁を用いる。
井桁の家紋は神祖から拝領して、殊に重用しているという。
 そのわけは、神祖が駿府にございました時、
御狩の御供をしていると、大猪が出てきて皆狼狽した。
そこへ山下は刀を持って猪に対面し、井桁に押し付けて仕留めた。
その後継を間近でご覧になられて、
御感賞のあまり着られていた紫縮緬御紋付の御陣羽織を脱がれて手ずから贈られ、
かつこの後に井桁を家紋とせよとの上意があったのでこれを用いたという。
その御陣羽織は今も家に秘蔵しているという。

元祖は綱義。弥蔵、または文十郎と称し、広忠公に奉仕し、安城で討ち死。
二代は義勝。弥蔵、または庄大夫と称し、神祖に奉仕し、関ケ原、大阪両陣をお供した。
三大は周勝。弥蔵と称し、父とともに両陣をお供した。
その後、駿府の御狩にお供した人である。
このひとから金之助は七世の孫という。

(甲子夜話)



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 12:50:10.89 ID:SjJ0ReA5
井桁の家紋か
いいかもん
いいかもん

685 名前:人間七七四年[sagr] 投稿日:2017/02/27(月) 20:01:18.80 ID:B7XqD9oS
今じゃ!
>>684の頭上に熱々の糞尿をぶっ掛けるのじゃ!

松平家信「若輩とは十二、三歳の事」

2017年02月26日 11:24

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 10:10:07.86 ID:78MbwluU
 家康公と秀吉の御合戦の時のことです。
秀吉方から天正十二年四月に三河へ攻め込もううとしていたので、
家康公は急いで小幡へ赴かれました。
この時松平紀伊守家忠もお供されていて、
彼の嫡子の七郎家信(後に紀伊守と号す)も、父に従って出陣したいと言った。
しかし、

「今、お前は若輩である。
三河が空くので、留守をよくせよ。」

と言ってお供は許さなかった。

「若輩とは十二、三歳の事です。
勇士の子が十六歳になっても軍役を勤めないのは古法に遅れています。
是非お供させてください。」

と願うが父は許さず留守に置きました。
 しかし家信は家来を二人を召し連れて後から出て家康公の御陣所へ行き、
本多弥八郎正信(後に佐渡守と号す)を頼って始終の事を言い上げました。
その話に正信は感じられてすぐに御前へ召し出されることなりました。

「武具を持っているか?」

と御尋ねがあると、

「ようやっと家来二人を召し連れまして体で、
その上父の家忠が深く制されましたので、
所領の形原を逃げ出しましたが武具は持っていません。」

と申し上げ、朱塗りの御鎧を下されたそうです。

 その後、既に先陣にいた大須賀康高の陣脇から家信が抜け駆けして名乗り、
秀次の物頭野呂孫太夫の大剛の兵に槍で突いて首を取り、
采配に添えて、家康公へ実検に入れました。
家康公はこの武勲に甚だ厚くて感じられ、家信は御感状をもらったそうです。


『武士としては』


羽織についての事

2017年02月26日 11:23

612 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/25(土) 22:54:33.58 ID:ORS48Def
山名禅高があるとき、所々破れたいかにも古い、黒き羽織を着て御所に出たのを、大御所徳川家康が見て
「禅高、その羽織は?」と尋ねられた。禅高は袖をかき合わせて
「これは満松院殿(足利)義晴公より拝領したものです。」と申し上げた。
家康はこれを聞くと
「流石は山名殿である。返す返すも殊勝なり。」
そう御感賞された。

これは岩淵夜話に有る話であるが、有る人が言うには、羽織はことさら近年のものである。
初めは中元以上の者達が、ばさら事の伊達に、稀に着たものであったという。
それがこの頃に至っては、上下ともに礼服のように揃って着るように成り、公の場においての
時服拝領などでも、羽織が添えられるようになったが、それはここ百年ほどの事であるそうだ。

613 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/25(土) 22:54:53.32 ID:ORS48Def
私の記憶では、七十余年以前の私が幼かった頃までは、武家において子供に羽織を着せることはなかった。
ただし町家などでは振り袖の羽織を着せていて、私もこれを羨ましく思い、親にせがんだ所
「士の子は袴だけでよろしい」と、古風であった私の父母は、どちらもこれを許さなかった。

その当時の老人たちはこう言っていた
「我らの若き時分までは、羽織を持っている人は稀でれあったし、普段から着ている人もおらず、
花見遊山と言った時に着ていただけであった。今のように成ったのは常憲院殿(徳川綱吉)の御代よりの
風俗である。」

このように見ていけば、羽織という物が世に現れたのは全く近年のことと見えるが、またこの逸話の内容が
真実であると見た場合、二百余年以前より羽織という服は存在したが、民間には広まっていなかった、
そう考えるべきであろうか。

(翁草)

言外にすげー言いたいことを感じる翁草の記事



614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 00:15:40.67 ID:Lr6URigv
翁草の作者って割とこういう分析コメント好きだよな

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 04:34:54.64 ID:5ya2q+nv
褌みたいなもんか

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 08:11:04.60 ID:yHclo49x
庶民なんか普段は褌してなかったりするからな

居間に有る屏風を取り寄せよ

2017年02月25日 11:36

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/24(金) 20:59:10.07 ID:qLdh8+pc
 駿府城の東北横内町御目付巡見場所、
御朱印二十一石余りの浄土宗来光寺(来迎院英長寺?)の庭には、
神祖自ら接ぎ換えた桃が有る。

 また宝物として神祖から拝領した屏風が有る。
絵は唐児遊、極採色は土佐の筆という。
これは昔神祖が御入のときに、碁を打たれていたが、
折りしも寒気が甚だしかったので、屏風を立てよとの御意見された。
しかし屏風が無いとのことを聞かれると、
すぐに御居間に有る屏風を取り寄せよと仰せられたという。
それから今でも待ち伝わっているのだとか。

(甲子夜話)


森川重俊の殉死、それに纏る事ども

2017年02月22日 21:32

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/21(火) 21:11:47.83 ID:CscOQyRT
森川出羽守重俊が、徳川秀忠の薨去に付き殉死する時、息子伊賀守重友以下、親類を招き集めて
庭訓した

「弓矢の臆れは少しでも大事になってしまうものだ。先年、大相国(秀忠)が独座されていた時、
ため息をされたのを御次の間にて承り、「これは天下の大事でも起こったのか」と胸騒ぎしたが、
その後御機嫌を伺った所、先のため息について「真田表のことは…」と仰られた。
あれ式の事さえ、相国様は御身の臆れのように思われていたのだ。

汝ら、構えて自余の事は愚かであっても、武士道の規範を外れ、軍法を破ることなどは、殊に
不忠の第一であるぞ!」

そう遺言して、秀忠の御供をした、

この時、徳川家光は側の者達に「出羽守はどうした?」と尋ねた。殉死した旨を申し上げると
「とても生きては居ないだろう。もし存えていればいいのだが。」と言った。

これを承った人々「これは興味深い御言葉である。どういう理由であのように言われたのだろう?」
そう不思議に思っていると、古くから仕える人が言った

「その事だが、かの出羽守は昔、新将軍(家光)が未だ幼少の頃、いたずら遊ばされた時に、
拳で殴りつけたことがあったのだ(拳の障りし事ありし)。その時家光公は
『これを覚えていろよ!』とのお言葉を発せられた。それは御幼少ながら甚だ鋭いものであった。
もしかすると、その事について言われたのではないだろうか。」
そう推測した。

(武野燭談)


喜多見殿はいつから鼻付を

2017年02月21日 15:34

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/20(月) 20:44:21.16 ID:irJFtKFm
煙草というものは、我朝には文禄の末頃渡ってきたという。これは火を使ってこれを吸うので、
火を玩ぶこと常である。煙草を好む者は火の元をも忘れがちなことを嫌われ、営中においては
これを禁じられ、その法度を犯す者は必ず罰せられる事となった。

さて、幕府老中であった堀田加賀守正盛が殿中を通る時、その後には彼の妹婿であり、当時目付けであった
喜多見久太夫(重勝)も同じように廊下を渡っていた。
ところが途中、御茶部屋において煙草を吸っている様子があった。

御茶部屋の者達は二人が近づくのに感づくと、慌てて戸を閉めたが、非常に煙らせた匂い、疑いなく
煙草の香りである。

喜多見久太夫は匂いをかいで、「これは正しく煙草である!」とつぶやき、それから堀田に聞かせるように、
繰り返し繰り返し「御法度の煙草の香り、心得がたし!」と言った。

御茶部屋をしばらく行き過ぎてから、堀田は振り返ると
「喜多見殿はいつから鼻付を仰せ付けられたのか?御目付とは、目を用いる御役ではないのですか?」
そう言って先に進んだという。

(武野燭談)



665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/21(火) 09:32:13.71 ID:bZgvvneZ
堀田正盛もsmokerだったか?