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「続武家閑談」から本多正信について

2023年03月16日 19:47

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/15(水) 21:05:54.17 ID:ffNL6Pnx
続武家閑談」から本多正信について

本多佐渡守正信の人傑については世の人が知ることである、筆を尽くしても語り切れない。
権現様より四歳年上で、上京の際に松永久秀は
「家康の家臣たちは皆武勇を好むが、本多弥八郎正信のみは不剛不柔不飾でほとんど凡人ではない」と言ったという。
太閤秀吉も正信のことを聞き及んで権現様に告げて召しだした。
すぐに正信は江戸から伏見に出て、御目見えをとげ、ひそかに御旨を伺った。
夕方には増田長盛のところに行き、数刻にわたり密談して暇を告げて、翌朝江戸に帰った。
増田が何とかとりなしたのか、秀吉はあえて咎めなかった。
また権現様は諫言を好んでいた。
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
徳川家康、家臣の諫言を「聞く」いい話


正信は大いに感心し、宿所で息子の上野介正純にこのことを申し聞かせた。
正純は「その人は誰なのですか?」と問うたので
正信は大いに怒り
「公が平生おっしゃられることには、
「天下を安泰にさせるうえで大事なことは、為政者の人となりが善であるためではない。
大本がなっていなかったとしても、よく諫めを入れて言語をふさがず、家臣を用いるために天下はよく治まる」
ということで諫言を好まれるのだ。
今の話の諫言をした者は智恵が不足しているため、申すところにも道理はないが、それでも大殿はその心を賞しなさった。
お前がその者の名を聞いて足りないところをあざわらおうという心であれば若殿の執事にはなるべきではない」
正信は常に権現様を「大殿」、台徳公(秀忠)を「若殿」と言っていたが、これは権現様の寵愛が深く「友のごとし」とされていたためである。質朴さが感じられる。
権現様は武蔵・相模で狩をなさっていた。
正信は江戸で台徳公の執政であったが、権現様の猟に昼夜伺候した。
権現様の仰せには「遊猟の趣向は第一に部を忘れないこと、次に民間のことを問うためである」ということであった。
ところどころに御留場(将軍家の猟場)があり、権現様の注意は厳しいものであったため、台徳公は謹んで整えさせたという。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/15(水) 21:08:51.53 ID:ffNL6Pnx
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5962.html
本多正信、家康の怒りを

の話だけど微妙に違うので一応書いておく。

ある朝、権現様が御覧になると、御留場に罠ととりもちがしかけられていた。
誰のものか調べたところ青山忠成と内藤清成によるものであった。
権現様は「将軍はこのことを存じているのか」とお怒りになられた。
台徳公は「もってのほかの御迷惑でありましょうが、私は知りません。
両人を誅して御憤りをなだめるべきではありますが、両人は我にお付けなさった傅役でありますし、殺すに忍びません。
しばらく出仕をやめさせましょう」
と阿茶局を介しておっしゃったが、権現様は御容赦されなかった。
そこで正信は「このままでは大殿の悪が諸子に越えてしまう。
若殿に国家を捨てさせ匹夫に落とすこともおできになるのに、まして内藤・青山などは」
まずは申し上げようということで権現様の御放鷹に伺候し
「君が若殿に命じて内藤・青山両人の切腹をなされようとしていることをうかがいました。
まことに不憫のいたりで、それがしなど数日仕えただけで、もし営中で少しでも失敗をいたせばたちまち罪科をこうむるでしょう。
江戸所住の出仕をやめて大殿のところで天命の死に進みましょう」と申すと、権現様のお心もとけて、阿茶局に
「将軍もこのように申しておるのだから、友人を殺さぬよう申し遣わす」と命じられた。
台徳公はこれを聞し召し、大いに悦び、両人をゆるして家に帰らせたという。
正信の才覚の妙であった。
しかも高い録を辞して、わずか二万石を領した。関ケ原の前後、大坂の陣での謀略についてはほとんど人口に膾炙している。
正信は権現様御他界から五十日すぎた元和二年(1616年)六月七日に七十九歳で死んだ。



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 00:11:03.96 ID:tg45pgpv
お父ちゃんは引き際をわきまえていたのに息子は

719 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/16(木) 12:47:37.77 ID:1Yy0JpW0
>>716
徳川譜代は四天王クラスで10〜20万石程度だからなあ。
2万石で十分としないと、やっかまれる。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 15:53:31.21 ID:hV6MjIDN
秀吉みたいに子飼いに高禄を与えてたら次の代でぬっ殺されるからなあ

721 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/16(木) 17:02:32.71 ID:1Yy0JpW0
信長は親藩と譜代が強力で、外様といえるのは家康くらいか。国持大名ばっかりで小藩がない印象。
秀吉は親藩が弱く、譜代(子飼い)がまずまず、外様が強力。
家康は親藩と外様が大藩で、譜代は弱い。
まあ、江戸幕府で外様が大藩になったのは関ヶ原の経緯から仕方ない面はある。でも、本多忠勝くらいには一国やったってよかったのにな。

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 18:32:22.63 ID:fKzTrDzf
秀次みたいな産ませる機械を壊したのが失策
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「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

2023年03月06日 19:44

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 12:43:20.98 ID:Y3zjxpvb
武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

天正十八年(1590年)三月二十八日、太閤秀吉公が三枚橋に御着陣されたため、先手の諸大将が浮島が原までまかり出た。
織田信雄公、権現様も同じく御辺に出られた。
秀吉公は金小札糸緋威の鎧、唐冠の兜、金の大熨斗付きの太刀二振を帯し、金の土俵空穂の上に征矢一筋を付け、作りひげをつけなさっていた。
仙石権兵衛が進上した朱滋の弓をお持ちになり、金の瓔珞の馬鎧をかけた七寸の馬に乗られていた。
供の面々は異類異形の出立ちで、千利休は金の茶筅のついた七節のえつるを指物とし、極の口(樋口?)石見は鼓の筒の指物、狂言師の番内は三番三(三番叟)の装束で、その他さまざまな出立ちであった。
権現様、信雄公はお進みなさり、ことに信雄公は秀吉公の主筋であるため乗り打ちはどうしようかと思しめした。
その上、両大将とも小田原との内通の雑説もあるため、礼儀とはいえ御両将の前で秀吉公は馬からひらりとお降りになり、太刀を御手にかけ
「信雄、家康逆心と承る。立ち上がられよ、一太刀参るぞ」とおっしゃった。
信雄公は赤面して言葉が言えなかった。
権現様は諸人に向かい
「御陣初めに太刀に御手をかけられるとはめでたいことです。何もかもめでたい」
と高らかにおっしゃると、秀吉公は何も言わずに御馬に乗り、お通りになった。
諸軍は権現様の御智勇に感心した。



702 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/10(金) 13:19:38.82 ID:AqPhcBaW
>>699
こういう掛け合いができるから、秀吉も家康を信頼したんだろうな。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 15:19:04.75 ID:w0q880jL
馬鹿だなあ 無能だったら潰しやすいのに
有能ゆえに扱いに困るんだわ

松平信康処刑時の半蔵の落涙

2023年02月28日 19:55

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/27(月) 20:05:01.88 ID:Am4WQ7/T
17世紀後半に成立したと思われる「浜松御在城記」から「松平信康処刑時の半蔵の落涙」について

天正七年(1579年)九月十五日 三郎様(松平信康)、二股にて御生害(御年二十一)、御討手は渡辺半蔵(渡辺守綱)・天方山城守(天方通興)に仰付けらる。
渡辺は落涙し斬ることを得ずして、天方山城守討ち奉る。

△三郎様御傅役は平岩七ノ助親吉であり、権現様に諫言を申し上げた。
権現様も悲しまれたが信長公の心に背いては大敵勝頼に対抗できないと思し召し、是非なく御生害を仰せつけられたという。
説あり。害せざるとも存じ奉る。
この平岩親吉は後に薩摩守忠吉様の御傅役となったため(実際は尾張徳川家の徳川義直)、附家老として尾張犬山城に居住した。

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/27(月) 21:08:02.84 ID:Am4WQ7/T
訂正
介錯したのは天方通興の息子の天方通綱
「三河物語」では天方山城と服部半蔵に命じたことになってるから渡辺半蔵ではないはず。
ついでに享保に書かれた「柏崎物語」では
「服部鬼半蔵正成とは馴染み深かったため、三郎様も古馴染故に物語をし御伝言をなさった。
半蔵は涙に沈み頭を上げられず、三郎様が御腹を召しても半蔵は頭を上げられず嘆きいった。
そこで天方は検使であったが、御苦痛を取り除くために自分の刀で御介錯つかまつった。」
と服部半蔵も涙に沈んだとあるので「浜松御在城記」が半蔵違いをしただけ。



703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/02(木) 16:47:03.26 ID:SwTQ5Dg8
国立公文書館デジタルアーカイブの「柏崎物語」では
>>701のように服部半蔵がもともと介錯することになっていたけど
大正4年刊の日本国史研究会「東照宮御実紀附録 第1」の「柏崎物語」出典の話では

「三郎殿、二股にて御生害ありし時、検使として渡辺半蔵守綱・天方山城守通興を遣さる、
二人帰りきて、三郎殿終に臨み御遺託ありし事共、なくなく言上しければ、君何と宣ふ旨もなく、御前伺公の輩は、いづれも涙を流して居し内に、本多忠勝・榊原康政の両人はこらへかねて、声を上げて泣き出せしとぞ、
其後山城守へ、今度二股にて御介錯申せし脇差は、たれが作なりと尋給へば、千子村正と申す、
君聞召し、さてあやしき事もあるもの哉、其かみ尾州森山にて、安部弥七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり、
われ幼年の比、駿河宮が崎にて、小刃もて手に疵付けしも村正なり、
こたび山城が差添も同作といふ、いかにして此作の当家にささはる事かな、
此後は御差料の内に、村正の作あらば、皆取捨てよと仰付けられしとぞ、初半蔵は三郎殿御自裁の様見奉りて、おぼえず振ひ出でて太刀とる事能はず、山城見かねて御側より介錯し奉る、
後年君御雑話の折に、半蔵は兼ねて剛強の者なるが、さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを、
山城守承り伝へて、ひそかに思ふやうは、半蔵が仕兼ねしを、この山城が手にかけて打奉りしといふは、君の御心中いかならむと思ひすごして、
これより世の中何となくものうくやなりけむ、当家を立去り、高野山に入りて、遁世の身となりしとぞ、(柏崎物語)」

となっているので、渡辺半蔵が討ち手のバージョンの「柏崎物語」もあるようだ。
村正については家康の代では気にしてなかったようだけど。

「続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」

2023年02月27日 19:32

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/26(日) 22:46:16.88 ID:EAgpXPFs
続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」

大御所様が岡崎に御居城あそばされた時、信長公へ六条門跡(本願寺、ただし六条門跡は堀川六条に西本願寺ができてからの呼称)が逆心したということで、宗旨の者どもも国々で一揆を起こした。
三河一国の宗旨の者もことごとく一揆をおこし、一揆勢には家中の歴々の武士も多かった。
これは当時、大御所様が信長公に御味方してらっしゃったためである。
一揆の者どもを御退治なさるべく評定を行い、明日御合戦をなさるとお決めになった。
青見藤六はその夜まで大御所様の近くにおり、御手立ての様子の委細を承知していたが、その夜に一揆勢方に加わり、一揆の大将となってしまった。
大御所様はこれをお知りになり小姓どもにお触れをなし
「今日の合戦でわしが討ち死にするようなことがあれば、忠義のものは石川新七と藤六の首をとってわが前に持って手向けをするように。
さすれば二世までの忠節と思おうぞ」とおっしゃった。
さて合戦で藤六と石川新七は先に進み、新七は水野和泉(水野忠重)に突きかかってきた。
新七は「和泉殿は日ごろは一家の主とあがめていたが、今日は敵となったからには一槍つかまつろう」と言って和泉と槍を合わせ、討ち死にした。
青見藤六は太郎作(水野正重)と出会い、太郎作は逃がすまいと進むと
藤六は「小せがれめ、射殺してくれるわ」と大弓を引いた。
こうして太郎作は槍、藤六は弓を引いたまま、互いににらみあった。
するとどこからかしらぬが流れ矢が藤六の肘に突き立った。
藤六は弓を捨て矢をかなぐり捨てたため、太郎作は「うれしや」と一槍突いたけれども、良い具足であったため槍がはしって藤六と鼻合わせになってしまった。
藤六は刀を抜き、太郎作の兜の鉢から斬ったものの、兜はよい兜であったため斬れなかった。
太郎作は槍を捨て、刀を抜いて一打ちすると、藤六は倒れながら「小せがれにやられるとは無念の次第」と言い、念仏を唱え「早く首をとれ」と申した。
こうして石川新七と青見藤六が討たれたため、一揆勢も討ちに討たれて敗北した。
その後、太郎作が藤六の首を持参すると大御所様は
「藤六を討ったのはその方か。まことに満足でなににたとえようか。
太郎作一世の奉公と思うことにする」と重々おっしゃられたそうだ。
これについては拙者よりも渡辺図書(渡辺半蔵の三男の子孫?)がつぶさに存じられている。
なおこの時、太郎作は二十歳だったという。

信長と本願寺との対立はもっとあとのはず。
また「三河物語」では水野忠重が討った一揆勢として石河新九郎、佐橋甚五郎、大見藤六郎を挙げている。



「武家閑談」から黒田彦左衛門

2023年02月25日 18:18

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/24(金) 23:06:25.68 ID:b2jcO/M3
武家閑談」から黒田彦左衛門

大坂城落城の時、大坂方の赤母衣衆を榊原康勝家臣の黒田彦左衛門が討ち、首を取ろうとした。
そこへ同輩の三枝勘兵衛がやってきて
「彦左衛門よ、その首はともに討ったことにしよう」と言うと彦左衛門は首を打ち捨て、先に行った。
勘兵衛は恥じ「この首は彦左衛門が取った首だ」と声をかけたが彦左衛門は振り向かなかった。
論功行賞の時、三枝勘兵衛は「この首は黒田彦左衛門が取った首です」とことのあらましを言ったため
黒田彦左衛門を呼んで首のことを尋ねたが、彦左衛門は「まったく覚えのないことです」と答えた。
勘兵衛は事情をつぶさに述べて、彦左衛門に何度も認めさせようとしたが彦左衛門は「覚えがない」としか答えなかった。
このことが両御所(家康と秀忠)の上聞に達し、まことに感心なされたということだ。
孟之反が殿軍をしても「進んで殿軍をしたのではなく、馬が進まなかったからだ」と語り(「論語」に見える)、
馮異が光武帝の元で度々手柄を立てたにも関わらず功を誇らなかったようなものだ。



「武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

2023年02月21日 19:09

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/20(月) 20:17:28.56 ID:XEaRtdGo
武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

大坂の陣での五月七日の合戦前に秀忠公は味方の軍勢を巡見なさった。
黒田長政加藤嘉明については独立した部隊ではなく本多忠純(本多正信の三男)の部隊に属していた。
七日の昼前、大軍が備えているところに誰からともなく「将軍様御成」と言い出したため、長政と嘉明はお目見えのために通路へ出た。
秀忠公は一騎で黒い鎧、山鳥の尾の羽織兜をめされ、桜野という七寸三分の馬に孔雀の尾の鐙をかけて召されていた。
武具は十文字の長刀、そのほか徒歩の士二十人ほどがお供していた。
黒田長政加藤嘉明をご覧になり両人の方へ乗りかけられたため、両人は馬の左右の口についた。
秀忠公は「敵を打ちもらし城へ引かれたのは残念だ」とおっしゃったが
両人が「そのうち敵はまた人数を出すので、冥利にお叶いになるでしょう。思いのままの御一戦となりましょう」
と言うとご機嫌もよくなった。
長政・嘉明に「もう戻ってよいぞ」とおっしゃられたため、両人は備えに戻った。
途中、本多正信が具足も兜もつけず、団扇で蝿を払いながら乗物に乗って通った。
黒田長政が「将軍様はいつもと違い軽い様子だな」と申すと
加藤嘉明は「いかにもいかにも、このように軽いのは御家の癖だろう」と答えた。
長政は深く感心し「秀忠公は常々御行儀正しいが、軍法においては万事軽く行うということか」
と賞賛したという。



「続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」

2023年02月19日 17:41

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/18(土) 19:22:49.71 ID:PgV/ljYw
続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」

榊原康政が上洛させられると、秀吉が密かにその旅宿に御来臨され、忠臣であると賞され
「さて明日謁見の時は、昔頼朝が青狩衣に立烏帽子でなさったようにしたら面白いだろう。そのように心得られよ」
と熟意を尽くしなさった。
翌日登城なされた時、果たして右の狩衣と烏帽子で対面なされたという。

秀吉と家康との和睦の時、まず榊原康政が使者として上洛した時の話のようだが、タイトルには家康と書かれている。
家康との対面の前夜に宿に訪ねて行った逸話との混同だろうか。



上ノ郷城攻めについて

2023年02月18日 19:16

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/17(金) 19:32:35.76 ID:GAjjKB9U
平山先生が上ノ郷城攻めについてツイートしているので
先生が言及している木村高敦による家康一代記「武徳編年集成」から該当部分を書いておく。多羅尾光俊の関与についても書かれてるし。
(木村高敦は「武家閑談」「続武家閑談」の著者でもある)

右衛門忠勝、松井左近忠次を以て上ノ郷城を囲ませらる。
この時忠次が従士石原芳心が子、三郎左衛門は江州甲賀の謀者伴中務盛景、同太郎左衛門、同与七郎と議して
兼ねて彼の国の多羅尾四郎兵衛光敏が忍の士十八人召よせ其組としけるが
今夜不意に城中へ入て焼立ければ、鵜殿父子三人逃走る所を伴与七郎伏兵としめ城外に待受。
三郎四郎氏長、其弟藤三郎氏次を虜とす。
父藤太郎は駿州へ奔る。
既上ノ郷の城陥りければ当城を神君より久松佐渡守俊勝に賜う。







「続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」

2023年02月13日 19:16

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/12(日) 18:48:58.34 ID:8AdD7kWK
続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」

平岩主計頭親吉の弟の平右衛門が榊原小平太康政と喧嘩し、平右衛門が負傷したところで皆で引き離した。
その時、平岩親吉は御家人の宿老で榊原康政は小身で若年であった。
親吉が申されるには「小平太はその身の才智勇において匹敵するものがなく、上の御用にきっと立つべき人材である。
一方でわが弟はさほどの者ではなく、御用に立つようにも思われない、弟を逼塞させよう」と追い込んだ。
はたして榊原康政は天下の三傑と称せられ古今の英将となった。
平岩親吉の心根に智勇がなかったならば、諸人のあざけりを恥じて康政を罰したであろう。
「東国三十三ヶ国の間、徳川上杉武田の家中にも十人もいないであろう強勇の将である」
と聞く人はみな涙を流し、親吉を嘲る者は一人もいなかった。

「名将言行録」にも同じような話があるようで
親吉の弟の平右衛門は平岩康長のことらしい



「続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」

2023年02月10日 19:37

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/09(木) 19:21:30.30 ID:7bZBp8YZ
続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」

天正十年(1582年)春、葛原親王二十八代の末裔、伊賀の国の士、柘植三之丞(柘植清広)が浜松にきて伊賀の士が家康公に属したいむね言上した。
伊賀はいったんは信長に従い本領安堵を得たが、そののち背いたため、その年信長により城郭を屠られ追い払われ、あるいは山林に逃れ、あるいは先祖伝来の地を失っていた。
この年信長は甲州征伐し凱旋したので、権現様は慶祝のため安土城にいたった。
信長は御奔走し、徳川家の歴々衆の永井直勝などにも別席で饗膳を出し、信長自ら箸で肴を配膳された。
家康公は御上京なさり、堺の津を遊覧されたところに、京本能寺で信長生害の知らせが届いた。
このため堺をお立ちになり、御家人の諫言に従い、長谷川竹丸(長谷川秀一)を案内人として伊賀・伊勢を経て岡崎へ御帰還ということになり、宇治川にいたった。
瀬を渡るに際し、酒井忠次が小船一艘を求め得て権現様を乗らせ奉った。
船人が運賃を乞うたため、御腰の笄を下賜した。
御家人たちは酒井忠次はじめみな馬で宇治川を渡った。
御船が岸に着くと鷹匠の神谷小作が船人から笄を取り戻したため、権現様から神谷に笄が下された。
山岡景隆(明智軍を妨害するために瀬田橋を落とした)の弟・山岡景佐は瀬田からこの地に来て道案内をした。
宇治田原の者どもが蜂起しているため、この地にある呉服(くれはとり)大明神の社に入れば別当の服部貞信が案内するだろうと御判断された。
この別当が家人を連れて山中を道案内すると、野武士らはみな別当と親しかったため、ことごとく服した。

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/09(木) 19:24:15.75 ID:7bZBp8YZ
服部貞信は江州信楽まで案内した。
この地は代々多羅尾が治める地なので多羅尾光俊と旧交のある長谷川竹が権現様の御難儀について光俊に告げ、光俊はすぐに自分の屋敷に入れ奉った。
権現様は服部貞信の忠義をお感じになり、当座の御褒美として来国次の御刀を下賜された。
のちに服部貞信は浜松に参り百六十石取りの御家人となった。現在、服部久右衛門・服部采女がこの御腰物を伝来していると聞く。
権現様は多羅尾の宿に御一泊され、多羅尾の案内で伊賀の柘植にいらっしゃった。
この地の柘植清広(前述)の一族は信長に攻め滅ぼされたために民間に潜んでいたのであった。
柘植らは人質を出し、途中の一揆勢を追い払い、お供仕って鹿伏兎(かぶと、加太)まで権現様を送った。
これにより権現様は柘植たちを御感あさからずお思いになった。
ただほかの二百人の伊賀浪人は中途までだったため、御家人とはならなかった。
多羅尾父子は伊勢の関まで送り奉ったため、多羅尾の本領も安堵して御家人とした。
同国白子まで到着なさると、角倉七郎次郎(角屋秀持)というものが自分の船を貸し奉ったため、そののち今に至るまで子孫繁盛している。
伊賀の柘植・百地などはここで御暇を賜った。
三河の大浜に権現様が到着されると長田重元が迎え奉って君臣ともに饗応した。長田重元は永井直勝の父である。
こうして権現様の御体もつつがないということで万歳を称し、同年明智退治のために尾張へ御進軍したところ伊賀の諸士はことごとく参陣し御家人となった。
ただ柘植・百地をはじめとした鹿伏兎までお供をした者はみな御直参として御馬廻りとなったが、中途までで帰った二百人は徒歩・同心の格として召し抱えられた。
この二百人が今の伊賀衆の先祖である。



久松家家宝・(雨冠に龍)蛇頭(りょうじゃとう)

2023年02月10日 19:36

636 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/02/10(金) 10:46:03.47 ID:GWEK21bA
>>585

徳川家康の異母弟・松平康俊(勝俊)は、今川氏への人質に出されたり、その次は武田氏の元に、さらにそこを脱出してと
波乱の人生を過ごしたひとでしたが、早くに亡くなりました。
娘が一人しかいなかったので水野家から従兄弟にあたる松平勝政が婿養子となって入り、子孫は交代寄合の大身旗本として続き、
江戸中期の加増で多古藩(千葉県香取郡多古町)の大名となっています。

歴史のさと多古を歩く
https://www.town.tako.chiba.jp/docs/2018013100486/file_contents/11_TakoKanko_A4_p2229m.pdf

さて、康俊の娘(もしくは勝政)は伝承では天正14年(1586)伯父の家康から雨乞いの神通力がある龍頭「?蛇頭(りょうじゃとう)」を授かり、
代々の家宝として伝え、現在はご子孫から多古町に寄贈されています。
その?蛇頭はリンク先の町誌に写真があるんですが、どう見てもミイラ化したワニ頭骨。ヨウスコウワニ?
唐の頭も含めて、家康は早い時期から舶来品好きですよね。

638 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/02/10(金) 15:03:07.54 ID:GWEK21bA
久松家家宝・?蛇頭(りょうじゃとう)
https://adeac.jp/tako-town/texthtml/d100010/mp000010-100010/images/1-kuchie007-2.jpg
1-kuchie007-2.jpg

天正十四年(一五八六)康俊の女に家康から?蛇頭(りょうじゃとう)(口絵参照)を賜っている。松平家では代々これを伝え、現在は
同家から多古町に寄贈され町役場で保管している。それにまつわる伝承が口述書として付けられており、それによれば、「この竜頭は
その昔京都御所に夜な夜な怪物が出現し、そのため御所内で病魔が絶えなかった。それで当家(久松)の先祖がこれを弓で射落とした。
その為に病魔が絶えたとの由、それを記念し久松家に下し賜ったものである。また明治の初期に旱魃(かんばつ)が続き、農民が
困っている時に、この竜頭にお供えをし酒をかけてやり雨乞いをしたら大雨が降り農民に大いに喜ばれたとの由」(昭和五十三年十月六日書)とある。
https://adeac.jp/tako-town/text-list/d100010/ht000720

こちらは多古町史の該当部分



640 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/02/11(土) 10:36:28.10 ID:V7PRnp0X
>>636
ああ、異母弟じゃないや、久松は異父弟ですねw

「続武家閑談」より「伊賀の諸士軍功の事」

2023年02月10日 19:30

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/10(金) 18:32:27.56 ID:9CUTqSK9
>>634の続き
続武家閑談」より「伊賀の諸士軍功の事」

伊賀の歴々侍の中にも以前から伊賀を出て今川や権現様に仕えていた者がいた。
服部半蔵正成は度々の武功があり鬼半蔵と呼ばれ、同市郎右衛門(服部保英、正成の長兄の息子)は姉川にて奮戦し、同源兵衛(服部保正、正成の兄)は三方ヶ原で討ち死に、同中保正(服部中こと服部保正、源兵衛とは別人)は度々の勲功があり恩録が厚かった。
右の二百人の伊賀者は服部半蔵組となった。
服部半蔵は俗姓の家柄であるとはいえ今川義元の頃から夜討ち朝駆けの働きで高名を得、御家人の中でも武勇を知られていた。
そのため伊賀者の頭となってからは二百人の伊賀者は自然に家来のようになってしまった。
伊賀者は無念ながらも命に従い、その年(1582年)伊豆韮山の押さえとして天神殿という掻き揚げ城に籠った。
九月八日、敵が大勢籠っている伊豆の佐野小屋という砦の偵察を松平周防守康親に命じられ、伊賀士二人が忍び入り砦を監視するための「忍びかま」という越道をつくりことごとく内情を探った。
同十五日に命に従い伊賀の者どもは夜更けに砦を乗っ取った。
こうして信玄・勝頼親子二代が陥せなかった北条の砦を陥とし伊賀衆は高名を得た。
同年、甲斐のえくさ(江草、獅子吼城)という砦を伊賀衆は攻め取り、翌年未年(1583年)には服部中は岩城殿(岩殿城)、服部半蔵は谷村城を伊賀衆二百人を従えて八月から十二月まで守った。

伊賀者由緒書」を参考にしているようだ



「続武家閑談」より伊賀組訴状のこと

2023年02月06日 19:59

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/05(日) 21:49:48.55 ID:48hh7H58
「続武家閑談」より伊賀組訴状のこと

伊賀同心の働きは莫大である上に、天正十四年に真田を攻めた時には先手に加わり、千塚というところに陣を張った。
同十八年には小田原の陣にお供し、翌年の奥州の陣の時には高館表の衣川にまでお供した。
屋敷分として一人当たり永楽銭九貫文が知行として宛てられ、きっと吟味の上に取り立てて下さると言われていた。
名護屋の陣にもお供し、関ケ原のみぎりには大田原で城を守り、上杉景勝への備えをした。
「武徳安民記」に見えるようにのちには半蔵跡目石見守(服部正就)の組となった。
石見守は三千石を領し、松平隠岐守(久松松平初代の松平定勝)の婿となり威勢をほしいままとし、昔のことを気にかけず、一向に憐憫の情がなく、家僕同然に伊賀同心をこき使った。
同心どもは「たしかに伊賀の末裔の服部であるが、御家名の武辺場数をへて大身となられたのもわれらの働きがあったからなのに、下人被官のようにされるのは奇怪である」
と書状を石見守に差し出したが石見守はたいそう立腹し、同心どもを呼んで自分の屋敷の普請の手伝いをさせ、断れば扶持を没収した。
そのため二百人の者どもは妻子を片付け、奉行所に目安を差し出し、近くの寺に弓鉄砲を持って立てこもり「訴えをかなえねば討ち死にする」と抗議に及んだ。
このよしが上聞に及び「石見守不届きなり」ということで、石見守から同心が召しあげられた。
二百人の者どもはよろこび、四組に分けられ、大久保甚右衛門(大久保忠直)、服部仲(服部保正)、加藤勘右衛門(加藤正次)、久永源兵衛(久永重勝)に預けられた。
しかし石見守の願いにより二百人のうち十人を成敗することとなった。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/05(日) 21:51:38.56 ID:48hh7H58
切腹しなかった者もあり、妻子を質にとられたため切腹した者もあり、十人中八人が死んで二人が逐電した。
石見守は人を回して逃げた二人を狙っていたが、あるとき自邸の門前を通ると聞いて馳せつけ斬ったところ、同心ではなく、伊奈備前守(伊奈忠次)の家来が使いにきたのであった。
しかたなく陳謝したが、そのころ江戸中に辻斬りがあり、公儀から黄金の懸賞金をかけて詮議の最中であったため、これまでの辻斬りも石見守のせいであろうということで改易された。
時に慶長十年極月二日であった。人々が石見守の不仁を憎んだことは言うまでもない。
戦国の頃は永楽何貫文として宛行されていたが、天正の末にようやく国がおさまり、石高制になった。
伊賀同心も九貫文の宛行で天正の末から元和元年まで三十二年の間、戦場での奉公をおこたらず努めた。
しかし公儀からは「いずれは取り立てる」と恩賞が延引するうちに権現様が薨去された。
そして奥方御奉公に召し使われ、禄の沙汰を取り次ぐものもいず、無念ながら少ない扶持で奴僕の列に入り、女中などの使われ者となってしまった。
こうして秀忠公の御時には武辺者の伊賀侍もみな死ぬか失せてしまったいう。



遠州から立ち退くことは有るまじき

2023年02月01日 19:46

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/31(火) 21:26:19.84 ID:kyUmYcqb
元亀二年辛未年七月、武田家は再び家康と御取合が始まったが、信長はいつもの如くの、武田に対する
御入魂ぶりであった。
そのようであったので、家康に対して信長よりの異見は、「家康は三河の吉田まで撤退し、遠州浜松には
家老を差し置くように。」とあった。

しかしこれに対して家康は、
「浜松城を立ち退くほどならば、刀を踏み折り、武辺を捨てるという事である。
どうであっても、武士を立てる以上、遠州から立ち退くことは有るまじき。」
そう内談を定め、信長に対しての返事には
「いかさま御意次第に仕りますが、先ずは一日であってもここに在りたいと思います。」
と伝え、その上で浜松から引き下がらないということを、遠州・三河の侍衆に伝えた。

未の九月、山縣三郎兵衛(昌景)が、信州伊那より四千の人数を引き連れ西三河・東三河の仕置に罷り出でた。
これは山縣の手元の衆に加え、信州諏訪。伊那の山縣三郎兵衛同心組衆を率いての事であった。

甲陽軍鑑

武田信玄の「西進」が始まった時の、信長と家康の対応について。



「武家閑談」から第二次上田合戦

2023年01月31日 19:23

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/30(月) 19:59:21.02 ID:r6sM9i9Y
>>576の続き
武家閑談」から第二次上田合戦

本多正信からの下知により攻め手を引き、牧野康成も中の手に向かって下がっていたところ
真田昌幸は信賀(原註:真田幸村)ら八十騎と、物見をおびき寄せに出てきた。
牧野康成とその子、牧野忠成はこれを追いかけた。
真田兵の湯田又右衛門ら十余人がしんがりをして退いた。
牧野康成の兵の雨尾又六、辻茂左衛門、今泉次郎作、福島九太夫らがなおも追いかけた。
この時、二町ばかり先で真田父子と真田兵八十ばかりが手鼓を打って高砂を謡った。
榊原康政はこれを見て「さても悪しき仕方である。こちらを屑(もののかす)とも思っておらぬ」
と馬を引いて手勢二千余で真田の跡を切り取らんと駆け、渡辺重綱は道筋に鉄砲を撃ち込んだ。
真田父子・侍は色めきだち松沢五左衛門に榊原康政軍への備えをさせ次々と城内に退いた。
こうして真田に高砂を途中で切り上げさせて城中に追い払ったところで、再度引き取るようにという下知があった。
榊原康政、牧野康成も引き取り、軍評定があって関ヶ原への進軍が決まった。
こうして森右近大夫(森忠政)、日根野筑後守(日根野吉重)、石川玄蕃頭(石川康長)を真田表に残し、秀忠公は美濃へお急ぎになられた。
木曽へは本多正信隊は和田峠を避け回り道し、榊原康政の一手の二千騎は旗を押し立てて和田峠を越えた。
こうして真田の策は天の与えと伝えられているが、一人も欠けることなくことごとく秀忠公に奉侍した。

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/30(月) 20:15:34.60 ID:r6sM9i9Y
というわけで巷間伝えられている第二次上田合戦と比べると地味な感じではある。
秀忠軍が大敗北したとしても書けないだろうけど、徳川方の上田七本槍の活躍も盛られてなさそうだ。
ついでに上田七本槍の中山照守の父親は>>530の中山家範で中山照守も八条流馬術の名手(将軍家指南役?)
小野忠明は小野流一刀流の開祖で秀忠の剣術指南役



「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)

2023年01月23日 19:34

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 21:45:38.06 ID:vbYgp9gn
>>571の続き
武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)

また後の真田陣(第二次上田合戦)は慶長五年(1600)年九月六日であった。
台徳院秀忠公が御発向し、真田昌幸をお攻めになられた時、城の北の門は根津長衛門が受け持っていた。
御旗本の浅見藤兵衛が一人で夜に堀の深さを測っていたところ、城中から鉄砲玉が雨のごとく降り注いで撃たれた。
朱の十二引の指物もずたずたになり、浅見は地に伏せた。
そんな所に御味方の小栗治右衛門もつづいてやってくると、城門から真田の甲兵二十余が門を開いて浅見・小栗両人に鉄砲を打ちつけ、鉄砲煙がはれたところで槍を突き立ててきた。
浅見の小者の虎若が刀を抜き槍下をくぐって二人の元に行ったところ、小栗は胸三箇所を撃たれて討ち死にしていた。
浅見も胸を撃たれて地に伏していたのを、虎若は浅見の両足をとって引き出した。
浅見は「兄の小栗を退けよ」と命じたが、虎若は腹を立てて「主人を捨てて他人を退ける者がおりましょうか」と背負って退却した。
虎若から指物について問われた浅見は
「槍合わせの時に落とされたと見えるが、取り戻すわけにもいくまいな」と言うと
虎若は「退却時に落としたのであれば武官の落ち度となりましょうが、槍合わせの時に落としたのであれば問題はないでしょう」と引き下がった。

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 21:48:58.23 ID:vbYgp9gn
城方は手始めに相手方の二人を殺し、負傷させた、ということで真田兵の山本清右衛門と依田兵部がただ二人で追い打ちをかけにきた。
両人が二町ばかり離れた堤の上に立って偵察したところ、台徳公(徳川秀忠)の御旗本の武者、二、三十騎が騎馬の鼻を並べてやってきた。
山本・依田を見た旗本衆は、「今、槍を持ってこっちに来る真田方の斎藤左大夫とその弟子二人だ、逃すな」とかかっていった。
なかでも小野次郎右衛門(小野忠明)、辻太郎助(辻久吉)がひと足先に駆け寄ってきたため、斎藤左大夫は城に逃げ帰った。
小野と辻はそこで堤際へ行き、依田・山本を相手にすることにした。
こうして堤の上と下でそれぞれ槍を突き合わせた。
そこへ朝倉藤十郎(朝倉宣正)、中山助六(中山照守)、戸田半平(戸田光正)、鎮目一左衛門(鎮目惟明)、太田甚四郎、斎藤久右衛門(斎藤信吉)が続いて槍を合わせた。
(太田甚四郎以外の五人と小野・辻が上田七本槍)
こうして依田兵部は朱具足で奮戦したが倒れ伏した。
小野と辻が依田の首を取ろうとしたところ、山本清右衛門が二人を打ち払い、依田を肩に担いで城中に引き返した。
入れ違いに城中から駆け出してきた真田兵三十余人に対し、太田甚四郎は鉄砲を脇より撃ちかけた。
さすがの真田もひるんだところを、中山・朝倉・小野・辻・鎮目・戸田・斎藤が槍を持って追撃しようとしたため、真田はことごとく城に引き返した。
そこで本多正信は城を攻めても寄せ手の被害が生じるだけだと下知した。
(このあとは第二次上田合戦についての記述)



「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍とは別)

2023年01月21日 18:25

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/21(土) 00:18:13.57 ID:pg+Ii9kW
「武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍とは別)

「赤小豆坂七本槍」は信長記に、「賤ヶ岳の七本槍」は太閤記にある。
「真田七本槍」は何とか記には載っていないが、いつでも語って聞かせようとある老人が言ったので
ある時、三井寺の高観音の舞番へ上り、毛氈を敷き、湖を見ながら老人の話を聞いたのでここに書きつける。
初めの真田陣(上田合戦)は天正十三年(1585年)閏八月のことであった。
二日の合戦で、鳥居元忠の色?の小見孫七が槍を合せた。(「信州上田軍記」によれば戦死)
同二十日丸山(丸子)の城下へ岡部内膳正長盛の一手がよく働き、家人の小鹿又五郎が一番槍、そのほか奥山新六所藤内近藤平太内藤久五郎勾山久内、笛吹小助がよく働いた。
権現様より岡部内膳ばかりか家人七人にも御感状がくだされた。
その内、所藤内は槍下の高名とされた。
小鹿又五郎は「一番槍を合わせること、千万一身の覚悟、諸事に抜きん出ている」といった御感状であった。
この小鹿又五郎は駿河衆であり、今川範忠の御二男、小鹿強五郎範季?の後胤という。



572 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/01/22(日) 09:37:27.78 ID:5cYmx69V
負け戦の七本槍とか・・・・・

玉虫次郎九郎の物見について

2023年01月19日 19:11

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/18(水) 20:25:40.76 ID:/Jl3ViJy
武家閑談」から玉虫次郎九郎の物見について

権現様がおっしゃるには
玉虫次郎九郎は空気(うつけ)ではあるが戦場では眼が八つあるほどの働きをする。
天正十三年(1585年)の上田の城攻めの時、酒井左衛門尉(酒井忠次)が物見をした。
次郎九郎の兄の城和泉(城昌茂)が「軽々しい振る舞いだ」とそしったところ、
次郎九郎は「あの上杉謙信ですら物見をなさった。
また謙信や酒井のような大身であれば物見ではなく見分と言うべきだろう。
内藤四郎左衛門(内藤正成)や我らがなすのがまことの物見である。」
と言ったそうだ。申すべき格言である。



徳川家康、贔屓について語る

2023年01月18日 19:35

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/17(火) 22:06:13.58 ID:an6A5pJj
武家閑談」から「徳川家康、贔屓について語る」

権現様の御言葉によれば
「侍の贔屓強さといえば、今時のものは偽である。
まことの贔屓というのは佐竹義宣が石田治部(石田三成)を贔屓したようなのをいうのだ。
治部が結城少将(結城秀康)を証人として佐和山に送られる時、佐竹は
「道中で治部を討とうという者がいれば我らが相手となる」
と言って人数を出して待機していたいう」

「駿河土産」には「佐竹義宣は律儀なるもの」としてほぼ同じ話があるが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11433.html
律儀なる佐竹義宣

「律儀」とはちがい「贔屓」だと特定の人物に対してだけ、となって意味が異なる気がする



569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/18(水) 20:24:02.20 ID:/Jl3ViJy
武家閑談」には、上の贔屓の話の前に秀忠の律儀の話に家康が正信を通じて苦言を呈した話もあった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4879.html
徳川秀忠「内府様の嘘、自分の嘘」
(昔出ていたこの話では「嘘」とされてるが「武家閑談」では「何事を言っても」となっている)

松平の御家御相続繁盛となる事

2023年01月17日 19:07

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/16(月) 21:41:09.28 ID:Dz3TdecJ
武家閑談」の初めの話「松平の御家御相続繁盛となる事」

権現様は天文十八(十一)壬寅年十二月二十六日、岡崎の城にて御誕生。御胎内十二ヶ月という。
御童名は竹千代と称されたが、天文十三年三月の夜に御父・松平広忠卿の夢で
「神々は 永き浮世を まもるかな 薮のこころは 千代竹の宿」
という歌を金の短冊に書き、松につけたところで目が覚めたという。
広忠卿は不思議に思い、三河の大浜の称名寺十五世の住職・其阿弥に夢の話をしたところ、上人も同じ夢を見ていた。
そこでこれは竹千代殿が御繁盛するという吉夢だろうということで、御祝いの連歌興行をなされた。

また慶長三年(1598年)正月、伏見で権現様は吉夢を見られたため、二日に石清水八幡宮に詣でられたという。
すると正月十四日に、江戸の酒井忠則から使者があり、それによれば
米津清右衛門(米津正勝)の妻が元日の夜見た夢に、権現様が八幡宮に御参詣された。
そして烏帽子の神人が枝に短冊をつけて権現様に差し出して歌を詠んだという。
「盛んなる 都の花を 敬はで 東の松の 世をば継がるる」
この時から三年のうちに関ヶ原の合戦で天下を御手にされた。
また天正十年(1582年)五月二十八日、明智光秀が謀叛の企てをこめて開いた愛宕百韻の十一句と十二句にも当家繁盛の吉兆があるという。
「立ちつづく 松の梢や しげるらん」御子孫繁盛の吉兆
「浪にまがひの 入海の里」江戸繁盛の兆