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重ねて問うことがあるか

2022年05月04日 18:05

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/04(水) 17:34:58.60 ID:Rtv2PDY4
慶長二十年五月十一日、高力摂津守忠房は命ぜられて、和泉国に入って大阪の残党を捜索した。
高木筑後守正次、山田十太夫重利を監使として、和州の諸将である桑山、別所、松倉等が相共に探った。

大阪の城兵であった山川帯刀賢信、北川治郎兵衛宣勝は、八幡の瀧本坊に忍んでいたが、
同十二日、かの山に落人が隠れているという風聞ががあったため、秋元但馬守泰朝に命じて尋ね捜させた。
この時、山本、北側の両人は、瀧本坊の法印に申した
「御詮議が有った場合、これに言い訳することも出来ないでしょう。なので我ら両人は罷り出で、切腹仕ります。」

これに対して法印は
「もし幕府からのお尋ねが在れば、『一宿は致させましたが、その後は何処へ参ったのか存じません。』と
申し上げます。その上でのお計らい次第にすべきであり、返す返すも両人とも、切腹のことは思い止まって下さい。」

そう申したため、山川、北川らはすぐに逐電した。しかしこれによって幕府方は瀧本坊を捕え、
板倉伊賀守(勝重)の元に召し籠められた

或る本に、同十七日、山川帯刀、北川治郎兵衛は本能寺へ来て、
「我ら両人は大阪の落人であり、先に瀧本坊の所に隠れ居たのだが、かの僧が京都に生け捕られたと承った。
願わくば我ら両人が死刑に遭い、瀧本坊の赦免を乞い奉る!」

そのように言い、この旨は本能寺より京都所司代へ訴えられた。

この時、本多上野介(正純)が大御所(徳川家康)に対し、「訴え出てきた落人を、何方へか召し預ける
べきでしょうか」と窺った所、仰せに
「義を知って出てきた者に、何ぞ事あらんや。」
と、そのまま本能寺に差し置かれた。

その後、大御所は「両人の者共は、大阪にて良い茶を呑みつけただろうから、寺で出される質の悪い茶には
迷惑するであろう。この茶を取らせよ。」と仰せられ、手づから正純へ遣わされた。正純はこの茶を
御使の何某に渡し、何某は受取ってかの寺へ行って、山川、北川の両人に
「すぐに切腹が仰せ付けられるだろう。その心得あるべし。」と、上意の趣を言い渡したが、
その後、大阪の様子、並びに国大名、大身小身に寄らず、心を通じた者は無かったかと尋ねたが、両人は

「それがしは外様者故、何も存じません。」

と答えた。
そのため使いの者は、「左様に申し上げたい事だが、上様にそのような返答は罷りならない。
一ヶ条であっても申し上げられるべし。」と言ったが、両人は重ねて
「されど存ぜぬことは、申されません。」と言った。

上使は又言った「両人の事をそれがしが能きように執り成すので、私の言う通り申し上げられよ。」

これに山川帯刀は立腹して「豊臣家滅亡の上は、頼り入りたい事はこれ無し!然るを、
人も頼まぬことを取り持ちたがる人、私はその方を頼む人を取り持ってやろう!」
そう言って様々に悪口したため、上使も大いに怒り、「さらばその通りを言上すべし!」と申し、
立ち返って大御所へ一々に申し上げ、散々に悪く言った。

ところが家康公は聞かぬ御顔にて、
「彼ら両人は、大阪に於いて勇者と呼ばれた者達だ。一度知らぬと申し出たのを、重ねて問うことがあるか!」
と、使いの者を強く叱りつけた。

かの両人には切腹を仰せ付けられるべしとの御沙汰であったのだが、如何なる事か、八月三日、還御の時に
御赦免あって、両人共に京都に住んだが、翌年、大御所が薨去されると、同年八月、京都の浪人払のため、
山川帯刀は平戸に、北川治郎兵衛は大村へ遣わされたという。

新東鑑



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【ニュース】徳川家康の甲冑の金物~漆黒の謎に迫る彫金師~

2022年04月22日 17:30

139 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/04/22(金) 06:15:31.88 ID:uQZkWR+e
NHKニュース|NHK NEWS WEB
WEB特集

徳川家康の甲冑(かっちゅう)の金物~漆黒の謎に迫る彫金師~
2022年4月21日 19時37分

徳川家康の甲冑(かっちゅう)の金物~漆黒の謎に迫る彫金師~
来年放送される大河ドラマ「どうする家康」に合わせて、静岡市に新たな歴史博物館がオープンします。
最大の呼び物は、当時の材料や技法を使って新たに制作が進められている国の重要文化財で、徳川家康が関ヶ原の戦いで身につけたとされる甲冑(かっちゅう)「歯朶具足(しだぐそく)」。その金物は当時の技術では困難だったとされる漆黒で出来ています。
金物はどのようにして作られたのか、甲府市の彫金師によってその謎が明らかになりました。(甲府放送局記者 飯田章彦)

※管理人注
以下の内容は、↓のURL先の記事でお読みください

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220421/k10013589711000.html



141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 08:32:52.58 ID:PcKV0DTx
なんで結論が海外になるんだよ
奈良の漢國神社にも納めたんだしいうてそれほど貴重でもなかったんだろ
その後その技術が廃れただけ

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 10:31:05.46 ID:0WRzKbEH
弟子のみに伝えたか一子相伝か、職人の技能って必ず廃れるね

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 11:56:50.04 ID:PcKV0DTx
現に新々刀で掘り起こしたときも古の鍛刀術が廃れてたしね

「鑓」について

2022年04月17日 17:07

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/17(日) 16:54:42.08 ID:sJ6g5wvU
或る本に、大阪夏の陣、五月七日の合戦で、徳川秀忠公の御先鋒・青山伯耆守(忠俊)の組の
土方宇右衛門、花房又七郎が先駆けして鑓を合わせた時、味方二人が突き伏せられ、さらに敵兵が
掛かってきたところを、土方、花房はその手負いの味方を肩に掛けて退いた。
この事を人々は「両人とも鑓を突いた」と申したが、家康公がこれを聞かれ、
「七日の合戦、総て鑓は無し。両人の者、鑓を突きたるにはあらず」
と仰せになられたが、各々に千石の加増があった。

古には弓箭にて戦ったが、楠木正成が異朝の鉾戦を模して、鑓を用い始めたのだが、猶弓箭についての
評価はしても、鑓についての評価はなかった。
武田信玄の時代より、専ら鑓についての穿鑿がされるようになった。

凡そ、敵味方が備を立ち寄せ、弓鉄砲にて迫り合い、その後戦いが激しくなってなって弓鉄砲も放ち難き時は
鉾矢形(ほうしぎょう)となる。その時進んで鑓を入れるのを「一番鑓」と名付けた。
それより二番鑓、或いは太刀鉄砲にて一番鑓の脇を結ぶのを「鑓脇」といい、またその時首を取ったのを、
鑓下の功名と言う。
又、この場で負傷した味方を肩にかけて退くことを、「場中に高名」と言い習わした。
又、敗軍の時、敵が小返しして働くのを突き伏せて首を取ることは「印」と言い、鑓とは言わなかった。
何れにおいても、強き働きのことを「鑓」と名付けたのである。

されば天文十一年八月、今川駿河守義元と、織田備後守信秀の合戦の時、三州小豆坂に於いて合戦があったが、
今川勢の四万騎が、一度に咄と討って掛かった所、織田勢の四千騎、乱れ立って敗北したが、
信秀の先陣である織田孫三郎引き返し討って向かった。続いて織田造酒之丞、下方左近、岡田左近、
岡田助右衛門尉、佐々隼人正、同孫助の七騎進んで敵を突き立てた、故に「七本鑓」と名付けられた。

又天正十一年四月、秀吉公と柴田勝家の合戦で「賤ヶ岳の七本鑓」と言うのも、敵兵が崩れて色づいた時の、
総懸かりの鑓である。

また未森城攻めで、前田利家卿の家人・山崎六左衛門は小太刀、山崎彦右衛門、野村巳下は鑓で戦ったが
(これは天正十二年、敵は佐々内蔵助(成政)である)、六左衛門が一番に首を取った事で、
利家卿より一番鑓の感状、並びに一万石の加増があった。
この時彦右衛門が「それがしこそ一番鑓なり」と争ったが、利家卿は御許容なく
「太刀は鑓よりも短い、故に先に進んでいたこと分明である」
と批判された。

また、垣越、狭間越、投突は「犬鑓」と言って弱き鑓とされているのだが、狭間より鉄砲を撃ち出す時に、
鑓にて狭間を閉じるに於いては「鑓」とすべき。又垣越もその時の状況によって判断される。
又投突も、合渡川の戦いの時杉江勘兵衛は踏み止まり、激しい戦いの場であったので投突にしたが、
これは犬鑓とは言い難いとされた。

さて、家康公が五月七日の戦いに「鑓は無し」と宣われたのは、仮にも秀頼公は主君である故の
ご思慮であったと言える。それは冬夏両度の御陣を、「相手は淀殿」と仰せになっていた事からも
思い量るべきである。名将の御一言は表向きの事ではなく、深い御智計があるものだと云われている。

新東鑑

「鑓」についてのお話



「鑓合わせ」について

2022年04月16日 18:53

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/16(土) 15:32:47.72 ID:zIGJ4adC
或る本に、大阪夏の陣での大阪落城の時、細川玄蕃頭興元が、鑓を合わせたという事を
家康公が聞き召され、仰せになられた

「鑓を合わすという事は、再々に有るような事ではない。
かつて、この茶臼山の北に見える勝曼院の山に、佐久間不干(信栄)、筒井順慶、荒木村重が籠もって、
大阪の門跡が攻めてきた時、鑓を合わせたと聞いた。
その他に上方において、鑓を合わせたという話は聞き及んでいない。」

この時、佐久間備前守(安政)が罷り出て言った

「上意の如くに御座候。その日は、私は同姓不干の手に付き、両度の鑓がありました。
天正六年五月三日の事です。
朝は茶臼山の西に見える、難波の貝塚での合戦において。不干の与力の、佐久間久右衛門、同葵之助、
梶川弥三郎、水野源太夫、永岡小三郎、この六人(本文ママ)が鑓を合わせ、その晩、勝曼院の山において、
不干家中の志水天市、江原弥助、浮貝藤助、長瀬弥五右衛門の四本、鑓を合わせました。
長瀬は、只今は小右衛門と申し、加賀に居ります。」

と、申し上げたという。

新東鑑


然らば止めるべし

2021年12月28日 18:20

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/28(火) 13:55:24.70 ID:ZP7pgeZ4
異本に、大阪冬の陣の最中、千賀孫兵衛の言上に、「穢多村の葦島に敵が重なっているようで、
ひたすらに鉄砲を打ち出しています。早々に御攻めあって然るべし。」と報告があった。
これによって大御所(徳川家康)は、明(十一月)二十八日に御巡見あるべしとして、
本多上野介(正純)、菅沼左近(定芳)、山岡主計(景以)、その外船奉行衆に仰せ付けられた。

実は真田幸村(信繁)は、予てよりこの葦島に足軽を出し、折々鉄砲を打たせれば、きっと両御所(家康・秀忠)
の御巡見があるだろうと謀り、もし御出あらばその時、鉄砲の手利きの者を以て打ち奉らんと思い、
御本陣の辺りに間者を置いて両御所の様子を探らせていたのであるが、この者が明日、大御所が福島、新家
辺りまで御巡見されると聞き、走り帰ってその旨を告げた。そこで真田は翌二十八日、鉄砲の上手百人、
小銃の上手五十人を選んで小舟に乗せ、葦間葦間に深く隠し、大御所の御船を今や遅しと待ち懸けた。

一方大御所は、そろそろ御出あるべしと御供の面々、各奉行が用意をして待っていた所に、本多上野介が
南光坊(天海)を伴って御前に出て、今日は不吉の由を言上した。(或る説に、これは大阪方からの
内通によってであると云う)
家康公はこれを聞き召されて「然らば止めるべし。然れども諸軍勢はこの急な中止を疑うのではないか。」
と仰せになった。正純は思い廻らせ、「明二十九日に勅使が下向されることになり、このため巡見は
御延引となった、と触れるべきでしょう。」と申し上げた。そして正純を以て葦島の巡見を仰せ付けられた。

これによって真田の謀は空しくなったという。

新東鑑

大阪冬の陣で家康が真田信繁の謀略を避けたというお話。



『厭離穢土欣求浄土』の御旗は

2021年12月05日 18:53

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/05(日) 15:43:02.88 ID:k5YE3OPJ
徳川家の『厭離穢土欣求浄土』の御旗は、永禄五年の秋、三州一向宗の佐々木上宮寺、針崎正満寺、
野寺本称寺らが一揆を起こし、この時徳川家御譜代の面々も大勢、宗門のために数代の主君を捨てて
一揆に与し、家康公へ弓を引き、同七年九月に至るまで合戦止む時無かった。
また今川家によって三州に城を構えた勢力も、一向宗に一味した故に、徳川家の軍勢は大いに危うかった。

家康公は御菩提寺である三州浄土宗。大樹寺の住職である登誉上人に加勢の事を御頼みあった。
和尚は畏まって、浄土宗の寺院にも相触れ、その結果檀那の中の武士たるものは申すに及ばず、百姓町人に
至るまで馳せ集まり、その勢は千人余りに及んだ。

この時、和尚は自筆にて徳川家の旗に『厭離穢土欣求浄土』と書かれた。
この旗を真っ先に押し立てて一揆の中に攻め入り、死を軽んじて戦うと、一向宗は敗北し
徳川家の勝利と成った。

この文は生を軽んじ、死を幸いにする事を示す内容である。これはその始め、一向宗一揆の時に、
上宮寺の住持、吾檀那の輩が兜の真ん中に『進足極楽浄土 退足無間地獄』と書いたということより、
浄土宗の者達に対しても、この句を書いて死を勧めたものなのだという。

新東鑑



家康公を呪詛し奉るという事を

2021年12月02日 16:19

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/02(木) 14:58:05.53 ID:K46OWYnc
或る記に、大阪冬の陣、十一月六日の朝、大御所(徳川家康)に中井大和守(正清)が言上した所によると、
三井寺照光院御門主、並びに三井寺の僧侶七人が大阪の密旨を得て、家康公を呪詛し奉るという事を、
三井寺の本覚坊が訴えたという。

この事は板倉伊賀守(勝重)に御吟味が仰せ付けられ、三井寺の宝泉院、光浄院両所の僧が召喚された。
かの両僧の申す所によると

「本覚坊は不義の僧であったため、僧中で詮議して一山より追放致しました。そこで最近は大徳寺の辺りを
徘徊していたと申す者も有ります。そして彼は追放されたことを意趣として、照光院、並びに三井寺の
僧中を憎み、このように偽って申し上げたのでしょう。
その上照光院と三井寺僧中はそもそも不和であり、調伏を一緒になって行うような事はありえません。」

そう重ねて申し上げたため、板倉より、かの本覚坊を召し捉え、三井寺に差し出すべき旨を申し渡した。

別記に、照光院と三井寺僧中が不和に成った起こりは従来、聖護院、実相院、圓満院の三御門主にて
三井寺を御支配していた所が、秀吉公以来、聖護院だけがこれを支配するようになり、それ故に
照光院などと関係が悪化したのだという。
また一説に、関東調伏の事は金地院(崇伝)を以て御尋ねが有ったとも言う。

新東鑑

三井寺内部の紛争が大阪冬の陣で変な所に飛び火したお話



一体何を咎めようか

2021年11月02日 16:55

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/02(火) 16:04:13.21 ID:/RPr+y+8
大阪夏の陣で大阪落城の後、岩佐右近、赤座内膳等、その他豊臣家の近臣十人ばかりが上京したが、
ここに木下右京の子が妙心寺海山和尚の會下にある故、彼等は妙心寺に来て一喝を得、各々姓名を
記して検使を乞い、自殺すべき旨を幕府の執事の許へ申し遣わした所、大御所(家康)はこれを聞かれ

「先年石田に与し(関ヶ原の結果)浪人と成った者共の中で、去年以来大阪城に籠城した者達は、
再犯の罪であるから宥すことは出来ない。しかし最初から大阪に仕えていた諸士にとって、忠を励むのは
臣たるの道であり、一体何を咎めようか。
私が大野(治長)・渡辺(糺)を憎むのは、秀頼に逆謀を勧めた故である。その他の者達に対しては
聊かも罪とすべき謂れはない。早々にどの地であっても退くべし。」

と仰せに成ったという。

新東鑑

大阪城に籠城した者のうち、豊臣家の譜代・直臣と大坂の陣が始まってから入城した浪人衆への
対応を分けたというお話。



家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ

2021年09月18日 18:39

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 14:39:37.22 ID:csadipqG
本願寺一揆(三河一向一揆)の時、賀茂郡下江知村の四至屋平太郎という者が家康公に御味方
申した。針崎表一戦で公は打ち負けて六所の宮へ入られ、敵は岡崎の城へ押し入らんとした。

この時、平太郎は公の御装束を着て、城の大手で寄せている敵に向かうと、「家康こそ、ここ
にて立ち腹しているぞ。見よ!(家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ)」と大声で腹を十文字に掻き切り、
敵はこれを見て事実と覚え、引いていった。

その後、家康公は関ヶ原より御帰陣の時に矢作へ出向かい、(平太郎の)居り申す所を御尋ね
になった。(平太郎の後家は)殿様に御不足(不満)を存じ奉り、「私こそが四至屋平太郎
後家です」と申し上げた。

公は「そうであったか」と仰せられて、手作と70石を下された。その末裔を中根喜蔵と申す。
本多九平衛の話の覚書。

――『三河東泉記



人口の妨げによって不慮の生害

2021年07月26日 17:39

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/25(日) 18:15:49.22 ID:KBEvxZkh
天正7年己卯、家康公38の御歳、また山西へ麦苅り捨ての御働きをなさる。

その年、信康(松平信康)は家康公の御気に背きなさった。その子細は万事(信康の)
御心のままにして御行跡は法に過ぎたものであった。家康公の御意見をも御用いなく
御気随に行わせ給い、家老衆の諫言をなおもって御取り上げなさらなかった。

このため衆の讒言あって、勝頼(武田勝頼)と御内通あって逆心の由を申し上げられ
たことにより、家康公の御立腹は世の常ならず。

「子の身でありながら父に弓を扱う事、前代未聞の次第なり!」と岡崎の城を出し給
い、大浜へ移して堀江の城へ御越しになる。それより二股の城へ移らせ給い服部半蔵、
天方山城の両人に仰せ付けられて御生害となった。

信康が宣うには「父に弓を扱うというのは全くの偽りである。年寄どもの讒言なれば、
この上はとかく申し分には及ばず」と、2人の御女子の御事と御菩提は大樹寺を頼む
と仰せ置かれ、大久保一類とその他に御親身申す者どもの方へ御形見を送らせ給う。

念仏を御唱えになって腹を十文字に掻き切り「服部介錯申せ」と宣えば、三代相恩の
御事なれば半蔵も刀を捨て落涙する。「早く早く!」と宣うも力及ばず、遠州の住人
の天方山城が泣く泣く御介錯し奉る。惜しむべし、惜しかるべし。その年8月15日、
行年21にて生害し給うなり。

家康公も「人口の妨げによって不慮の生害」と御後悔の御言葉がたびたびあったとか。

――『岡崎記



広忠公御死去之事

2021年07月24日 16:34

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/24(土) 15:01:48.78 ID:dZYeMb47
広忠公御死去之事

天文己酉歳3月6日に広忠公(松平広忠)25歳で御死去なされた。そういうわけで
岡崎でも頼るべき方なく、そこで一門中家老の面々は差し集まって評談を行った。

石川伯耆守、本多肥後守(忠真)、天野甚右衛門(景隆)、この3人は申して「織田
備後守(信秀)方へ申し寄せ、尾張と一味して竹千代殿(徳川家康)を相違なく岡崎
へ帰城させ、守り立て申すべきだ」と言った。

石川安芸守(清兼)、酒井雅楽介(正親)が申すには「今川義元はすでに領内3ヶ国
で4万余騎の大将なので、この力をもって本意をさせ申すべきだ」と言った。

さて上村出羽守(植村氏明)、鳥居伊賀守(忠吉)、その他の残る面々が言うには、

「尾張と一味ならば早速本意となろう。さりながら、駿河と手切れとなれば3ヶ国の
軍勢をもって取り詰められることになって、たちまち難儀に及ぶであろう。

しかしながら、戦の勝ち負けは多少にはよらず。先年の小豆坂の合戦で駿河勢は3万
余騎の着到であったが織田備後守は3千余騎をもって馳せ向かい、五分の三つは味方
が利を失った。

尾張と一味ならば早速帰城たるべし。義元が3ヶ国の軍勢を催すならば御本意は違い
申すべし」と言って、ついに評議は落着致さず。

そんなところに、広忠公御死去の由を義元卿は聞こし召し、駿府より岡崎の城へ在番
を入れられたのである。朝比奈備中守(泰能)、岡部次郎兵衛、鵜殿長門守(長持)
を頭とし、義元卿の近習衆3百余騎が籠め置かれたことで、それより是非なく岡崎は
駿府を守って居り申した。

――『伊束法師物語



大殿は三方ヶ原の御合戦から、

2021年07月23日 18:46

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 18:06:47.41 ID:m6Tr4+SX
天正5年丁丑、家康公36の御歳8月、勝頼(武田勝頼)は2万ばかりの人数で
横須賀南とかりの尾さきまで働き、浜辺に陣取った。家康公御父子ともに横須賀
の城より4町ばかり北の丸山に御旗を立て、諸勢は浜辺へ押し出して備えた。

敵との間は3町ばかり隔てて、その中には入り江があったので互いに鉄砲を撃ち
合うばかりであった。信康は鈴木長兵衛という者1人を召し連れ給いて、勝頼の
旗の立つ所から2町ばかり近くに乗りよせ物見をなさり、家康公へ御合戦あって
御もっともと仰せ上げられた。

家康公宣うには、「敵は大軍で味方は小勢であるのに、切所をも構えず変わる
手段もなくして大敵と掛け合いの戦をしても勝利はない」として、御合戦無し。

各々切れ者の衆が申されるには「大殿は三方ヶ原の御合戦から、良く御切れ者に
成らせ給う」と感じ申したのであった。

――『岡崎記



340 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 18:27:47.03 ID:jrtBMp+W
各々切れ者の衆が申されるには「大殿は三方ヶ原の御合戦から、良く御切れ者に
成らせ給う」

家康「そ、その前は…」

341 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 18:39:20.52 ID:b6PXRtd+
>>340
大久某さん「キレが悪かったですよね。何がとは言いませぬが。」

343 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 20:34:05.81 ID:vEtcmxrj
三方ヶ原で出したモノがデカすぎてガバガバになっちゃったのかな
戻らないっていうしねアレ

御家中親子方迚、家康公ハ信長方、信康公ハ勝頼方也

2021年07月18日 17:47

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/18(日) 15:58:49.02 ID:JzsDNW3T
若宮(岡崎投町)ならびに観音の由来。元禄6年に再興これあり。ならびに鳥居は北向に成立、
昔はこの所を根石原という。すなわち観音堂あり。

天正7年頃、岡崎三郎信康公、同御母築山殿の御生害につき、信長公家康公より御吟味あり。
御家中親子方として、家康公は信長方、信康公は勝頼方なり。

(御家中親子方迚、家康公ハ信長方、信康公ハ勝頼方也)

御家中は勝頼方へ逆心無き旨を身血にて起請文を書き申すとして、投村は当時は大塚村といい、
この観音の前で書きけり。今の東の方田の所、その頃は野であったこの所で書いた。

その後、三郎信康公、同御袋築山の亡魂による御城への色々のケザシあり。諸寺院にて御祈念
御弔があったが鎮まらなかった。この時、観音堂の森の内に若宮八幡の勧請を申し達し、御袋
様には40間北に神明を勧請申し奉ったところ、ついに収まった。

これ以後、若宮八幡とも、また起請宮ともいう。神明は岡崎城主水野監物殿の御代、正保時代
に欠山に移し奉る。

――『三河東泉記



三郎殿、築山様の事

2021年07月17日 18:18

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 14:01:10.78 ID:g/7Ali2z
一、築山様は関口刑部殿(親永)の御息女、御娵子様は信長公の御息女(徳姫)でかねてより
  御仲も良くなかった。
  
  信康公がヨウシ(「楊枝」か)を落とさせ給いし時、御前様に御取り給われと御申しにな
  るが御返事もなくおられた。信康公は局を大いに御叱りになり、「諸事仕るに付け悪しき
  によりこの如し!」と仰せられた。

  (徳姫は)その事をふくれて、信康公の御事ナケ状を書いて信長公へ遣わした。信長公は
  驚かせ給いて、家康公の御家老へ申し来たり、御袋築山様と御一味の事が顕れて信康公は
  遠州二俣清立寺で、天山山城守が介錯して切腹なされた。

  大久保七郎右衛門(忠世)、二俣の城主平岩七之助(親吉)、この両人が検使、(その他
  に)成瀬吉蔵、服部中務などである。そのため、大久保七郎右衛門と平岩主斗両人ともこ
  の報いにて、相模守(大久保忠隣)と申して小田原にて落居、主斗は跡絶えけり。

  築山様は野中三五郎(今ハ水戸ニ有)、酒井図書(今水戸ニ有)に仰せ付けられ自殺なり。

一、小河城主の石川修理亮、子の豊前守一同に切腹を仰せ付けられ候。  

一、天正3年、参州岡崎にて大岡弥四郎(大賀弥四郎)逆心の事。

一、天正3年の秋、家康公御父子の御仲不和にならせられ、服部半蔵岡崎に仰せて岡崎を退か
  せ給う。年号相違なり。勝頼(武田勝頼)も期日を極めて足助まで来たが、この事を聞き
  付けて甲州に引く。

  三郎殿の御前は信長の御娘にて、京の本多下屋敷にて80に及び死去なり。

  ――『三河東泉記



848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 14:20:30.15 ID:eZj1fNgG
信長がこんなことで切腹させるわけないよなぁ
部下の家庭環境にまで気を配るのに格下とはいえ同盟相手にそんな命令出すはずない
秀忠が春に産まれてその秋に腹切らせてるんだから、そもそも後継者として考えてなかった信康が血統的にも邪魔になったから家康が始末したんだろ

これ以後は境を酒井に改め

2021年07月04日 19:15

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/04(日) 16:19:13.21 ID:Fb48wao+
一、碧海郡東境村の田中に酒井与左衛門の屋敷が今もある。

  ただし酒井は改め申す事。境の屋敷に泉あり。その水は甘美にして酒の如し。
  この時、親氏公(松平親氏)は境を改め酒井姓を給うと伝え申し候なり。

一、文明の頃か、信光公(松平信光)は酒井を召され、鳴野へ御鷹野をなされて
  御帰りに藤上の清水にて御顔と御手を洗い、御両人足を御冷やし「清けつな
  る清水」と御褒めになった。

  「これ以後は境を酒井に改め、すなわち紋に井桁を付けられよ」との御意に
  て、この時に酒井に改めたと酒井彦助と申す者がたしかに申し伝えたという。

  ――『三河東泉記



松平家紋は代々立葵で

2021年07月03日 17:33

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/03(土) 15:55:34.95 ID:tU+WSq5A
一、松平家紋は代々立葵で、清康公御代の天文4年まで立葵にて、随念寺の清康公
  の御影(肖像画)の御紋は立葵である。

  家康公御代、岩堀に名物の葵があって毎年上げられた。また岩堀に珍しい葵が
  あって丸い鉢に葵の葉を3葉敷き、菱を据えて差し上げ申したのを御覧遊ばさ
  れ、「これ以後は立葵をやめて丸の内に三葉蔓葵にせん」との御意にて変えた。

  80歳で相果てた本多茂兵衛と申す者が、たしかに伝えたと申す話である。

一、葵の御紋は有原成平(在原業平)の紋にて、太郎左衛門家有原信重(松平信重)
  という。この家督を御継ぎ遊ばされた故、松平家御紋は葵なのだと大樹寺(松
  平氏代々の菩提寺)にて承り候。

  ――『三河東泉記



三河高橋氏のこと

2021年07月01日 17:00

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/30(水) 21:29:58.73 ID:0dIfNDlW
一、崇福寺(中島)の住持・東岸和尚は、家康公帰依の僧で吉良赤羽根の城主・高橋氏の
  子なので、家康公は常に「高橋坊主」と御意なされた。

  寺院の中にテリサンゴウの法門を御聞き遊ばされ、御機嫌に預かる。

一、吉良赤羽根の城主・高橋与助と申す侍は、家康公へ逆心あって、家康公がサクノ嶋へ
  御出のところを害し奉る企みを致した。

  しかし、家康公へ告げる者あって聞こし召され、赤羽根の高橋を召し寄され磔に仰せ
  付けられた。

  その弟は禅宗坊主にて、ヒマカ(日間賀か)にあって1才の男子を抱いて、禅宗坊主
  の方へ逃げて命を助かった。

  その男子にまた二男あってその末裔がいると、村の古老の話を覚え書きした。
  
  ――『三河東泉記



「城取りへ参る」

2021年06月27日 19:28

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/26(土) 18:27:39.21 ID:qSNahjgy
家康公が長篠へ御出陣の時、御油を御通りになった。

その時、鍬を担いだ百姓1人が通ったので、田中五郎右衛門に仰せ付けられて
「どこの者だ」と尋ねられると「某は国母の者」と答えた。「どこへ参る」と
御尋ねになれば、「城取りへ参る」と申し上げた。

家康公は御機嫌にて“平松”という御名字を下されて、屋敷まで拝領仕ったが、
後に御油畷で討たれたとカタケリ(「語りけり」か)。分明知らず。

――『三河東泉記



遠見山(展望ツツジ園)の云われ

2021年06月24日 18:17

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/23(水) 22:00:16.24 ID:NIW8S4Pp
遠見山(展望ツツジ園)の云われ

徳川家康公の臣、林孫八郎が東三河の先手であった時、この地に遠見の者を配置しました。
敵が攻めてきたときに、岡崎城までの間に釣るした九つの鐘を鳴らして知らせ、何度も勝利を収めたと古書に書いてあります。
それから遠見山という名前がついたという、いい伝えです。

出典「三河国宝飯郡誌 早川彦右衛門 著」

(東三河ふるさと公園の展望ツツジ園の看板より)



蔵人元康は岡崎へ御帰城、諸人喜ぶ

2021年06月12日 18:00

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 16:45:03.01 ID:B6TEFUdv
後奈良院の頃、将軍は義晴、管領は細川高国入道常桓なり。今川義元は三州、遠州、駿州を御従え、
近国に威を振るった。織田弾正(信秀)も義元公に属す(織田弾正モ属義元公)。

天文23年2月、小田原の氏康と義元が取り合い、尾州の織田弾正忠、同三郎五郎(信広)父子が
三州に出張して安祥を乗っ取ったので、吉良が働き渡利・下渡利・和田の本陣が小豆坂へ押し出す
(小豆坂の戦い)。義元は戦い、ついに西勢は負けて安祥に引き、大勢追い討ちして東勢は藤川に
引いた。年号は天文22年と書いてある。

また東勢は安祥へ明くる夜中に取り掛かり、三郎五郎を生け捕った。戸部新左衛門(政直)が詫び
言、竹千代と人替えとある。相違なり。

永禄元年、竹千代17才の御年、駿河にて御年を重ね、蔵人元康は岡崎へ御帰城、諸人喜ぶ。

永禄8年5月、義元は駿・遠・三2万4千の勢にて尾州退治せんと発向(二万四千ノ勢尾州退治セ
んと発向)、元康公24才、尾州・三州の境の泉田に陣取、桶狭にて討死。相違なり。

元康公は大高の城より品野村へ掛かり猿投山の北後へ出て、梅ヶ坪へ掛かり筈利へ打ち越し、大川
を下り岡崎へ入られた。

今川氏真は23歳で父義元は討死し、弔い合戦の心掛けもなく二浦庄を立ち花月の遊興ばかりなり。

――『三河東泉記