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人々の腰に指す刀脇差は、一代一度の用のために

2021年04月17日 17:29

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/17(土) 13:03:15.82 ID:3ZdxbqK5
ある人が、豆州(松平信綱)に疑問を述べた
「大名は国を拝領し、常に安楽のみを致しているのに、彼らの参勤の時も将軍家より上使など遣わされ、
御暇を申し付けられた時も、時服、金銀等に至るまで下されます。
一方で御旗本は常に御奉公により頻繁に労苦をも致しております。又何事かあったとしても、
御用に立つのは御旗本に過ぎるものは有りません。

然るに大名への御馳走強く、御旗本へはさほどでもないというのは、これは逆ではないかと思うのです。
どうしてこのような事になっているのでしょうか。」

そのように戯言を申すと、豆州は取り敢えずこのように答えた

「そうであるからこそ、大名に成ることを人は殊に願うのだろう。
さりながら、大名衆をあのように常に御懇に成されているのも、その代に大きな役が当てられ、
或いは御普請の労力など殊の外の御使となり、又御軍があれば、これも誰であっても一口に大きな
御用が仰せ付けられる。そういう事であるから、普段大名衆は御馳走されているのだ。
ただ、人の幸不幸というものであろう。人には生まれつき、こう言ったものが有ると思っている。

身の回りに例えると、人々の腰に指す刀脇差は、一代一度の用のために指しているのであるが、
十人の内九人は、その用無く過ぎていく。しかれどもそれらを秘蔵する事大方成らず。
また、小刀は日夜の用に立つが、あえてそれを馳走する事はない。それと同じものであろう。」

このように申された、兎角仮初の事にも理屈で人に負けられない人であると、諸人舌を震わせたという。

信綱記



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さすが才知有る御老中

2021年04月15日 18:36

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 15:04:01.21 ID:0RxHiCDI
天草一揆の時、松平伊豆守(信綱)を上使として遣わされた。寛永十五年二月二十七日、
一揆勢が籠城した原城は落城した。
これにより江戸に早飛脚を下されたのだが、その文箱の中の書状の上書のすみに、石筆にて
『落城申し候』と伊豆守が書き、これを差し上げた。

江戸の将軍家光は文箱を開くとこれを御覧になり、そのまま御機嫌残る所無かったという。
さすが才知有る御老中であり、頼朝の時代の梶原平三景時であってもこれ程は有るまじき、と言われた。

信綱記



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 16:13:56.75 ID:7irQv36e
梶原景時にたとえる、て褒めてるんだよな

家康の伏見城入城

2021年04月13日 17:50

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/13(火) 13:29:09.18 ID:XJHU+raM
(慶長四年二月、徳川家康石田三成等による伏見の家康屋敷襲撃の風聞などにより、伏見城の支城である
向島城へと移ったが)
「向島に御座されるのは如何か、伏見の城を明けるのでお移り然るべし」と、三奉行(長束正家
増田長盛前田玄以)が頻りに申してきた。大谷刑部少輔(吉継)が内々の使いとして肝煎と成り、
雅楽頭(酒井忠世)、帯刀(安藤直次)、式部少輔(榊原康政)が表の使いとしてこれに合意し、
四月六日、伏見城にお移りと成った。(創業記に閏三月十三日午の刻伏見の城お移りとあり)

鑓五十本持たせ、御先の小姓、その他の詰衆五十余輩が歩行にて御供をした。御乗物、鑓二本、
長刀一、挟箱二、御跡に三河守殿(結城秀康)が馬に御乗りになり、白き袷袴にて、供の衆二十人ばかり
お連れに成った。御家人については、いつであっても罷り出て御目に掛かるべしとの事で、
この日は上記の人々のみで、他には誰も御供には罷り出なかった。

慶長年中卜齋記

家康の伏見城入城について



島津龍伯と、家康公は知人に成りたいと

2021年04月09日 19:05

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/09(金) 16:28:12.47 ID:OUsGcfDn
慶長四年の冬、島津龍伯(義久)と、家康公は知人に成りたいと思し召されていたが、その頃は
大名附合というものがなく、法度で決まっていたわけではないが、自ずから通法であった。

江戸の御扶持人に流竿という目薬師があった。彼は元々薩摩の者であり、お召になってこの流竿に
お尋ねに成られた

「龍伯とは知人であるか。」
「未だ一礼を申したこともありません。」
「伊集院幸侃(忠棟)といって、島津の家老大名が有る。これは知人か。」
「知人であります。」
「では使いに参れ」

そう仰せ付けられ、樽に白鳥、小袖を添えて遣わした。

それより直ぐに、龍伯も御礼に参り、進物として無量(無量寿経カ)十巻、朝鮮馬一疋(ブチ)。
家康公は路地の外まで迎えに出て、御同道して数寄屋へ御連れ立ち、半時(約一時間)ばかり
お話された。菓子も薄茶も出ず、御家中衆、小姓すら御次に参らせなかった。
龍伯が帰る時も又、家康公は路地の外まで送られた。初めての御対面であったが、進物の披露も無かった。

龍伯は祐乗坊と申す薬師を御門まで同道していた。家康公が龍伯を迎えに出られた時、この祐乗坊も
御覧になったが、兎角の御意も無かったため、門外より祐乗坊は帰った、

龍伯が進上した馬は島津駮と言って御秘蔵され、関ヶ原へも召され、駿府までも、十年余召されていた。

慶長年中卜齋記



「幕は持ってきていないのか」との御意も

2021年04月07日 18:17

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/07(水) 16:44:36.71 ID:8ngeigSu
家康公は御陣の時、小道具を御持たせする事無く、また幕も御持たせ無かったのだが、急に必要になることも
あるのではないかと、(同朋衆の)全阿弥が隠して持ち、幕串も菰に包み、馬一疋に付けて、万一にも
御覧にならぬようにと、念を入れて奉行を仕った。

家康公には、幕奉行と申す者は一人も居られなかったので、御意を得ての事では無かったが、もし
必要に成った時に、「幕は持ってきていないのか」との御意も有るのではないか、という心掛けであった。

慶長年中卜齋記



「あの者を改めるように」

2021年04月06日 18:31

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/06(火) 13:44:38.70 ID:jCsjrP9j
関ヶ原の合戦後の九月十九日、行軍のさなか、何方の人であろうか、見た目は然るべき武者で、兜は着けず、
黒き具足で鹿毛の馬に乗り、金箔を押した才槌の指物にて、御先に参る衆と前後うち交わり通った。

先へ参る衆は、「先手の大名衆の使番だろうか。」と心を付ける人も無かったが、家康公は乗物の内から、
その間が二十町(約2000メートル)も有ったのだが、金色の才槌が光るのを御覧になり、
「あの者を改めるように」との御意あり、よってこの者を改めた所、彼は西軍方の落人であった。
「成敗するように。」との御意にて、道の側にて討ち捨てた。

慶長年中卜齋記



武士の子を用心して何に歟可成

2021年04月05日 18:17

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/05(月) 16:19:20.32 ID:EqjkTLHT
(関ヶ原の合戦の折)下野殿(松平忠吉)は逸り駆け出そうとしたが、周りの者達が馬の口に取り付き
放さなかった。そして兵部(井伊直政)に、「殿はあまりにも急かされいる、如何すべきでしょうか」
と問うた所、兵部は

「武士の子が用心して何に成るというのか。放って討ち死にならばそれまでよ。」
(武士の子を用心して何に歟可成 放候て討死ならバ其分よ)

と申された故に、馬の口を放したところ、ご自身の御働きで高名をあそばし、その身も少し手を負われた。

下野殿は兵部の聟である。この時下野殿は二十一歳であった。

慶長年中卜齋記



92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/05(月) 19:01:56.78 ID:nNHHcZNY
徳川の血に潜む水野の狂気と舅の濃すぎる個性が化学反応を起こしておる

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/05(月) 21:18:53.41 ID:k16HKON0
武士の子を用心して何に歟
可成「放候て討死ならバ其分よ」
と読んじゃうと、長可がヒャッハーしそう

中務は小姓共ばかりにて

2021年04月03日 17:49

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/03(土) 15:55:34.81 ID:4Y2Pco0n
関ヶ原の合戦の時、本多中務大輔(忠勝)は、馬に鉄砲があたり、下り立って石に腰を掛けて
いたところ、兵部(井伊直政)家来の木俣清左衛門と申す者が馬にて通った。ここでは馬を
お貸しするべきだったのに、貸さなかったという。

中務は押合いのための雑兵も、四百に足らぬ人数であったという。
本多家の能き者共は美濃守(本多忠政)に付けられ、秀忠公のお供に参っていたため、中務は
小姓共ばかりにて天下分け目の御合戦の先駆けを致されたという。

慶長年中卜齋記



慶長四年九月、家康暗殺未遂事件

2021年04月01日 18:33

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/01(木) 16:55:24.02 ID:orCSFoA9
慶長四年九月七日、家康公は大阪の秀頼に、九月九日の重陽の礼に伏見より御下りになられた。
大阪における宿舎は備前島であった。

家康公が九日に御出仕の所を討ち取るという企みがあり、打手の太刀取りは土方河内守(雄久)と
決定しており、これに大野修理(治長)、その他番頭共が加担しているとの沙汰があった。
これは増田右衛門尉(長盛)が内々に申し上げた内容である。

御出仕しても討たれることの無いように、伏見に召し置いてあった人数を召し連れ下る、との御意にて、
平岩主計頭(親吉)が伏見の御城へと罷り下った。
御留守には三河守殿があり、騒動のために、城中には西の丸に鑓二百本、鉄砲二百人、大手に高屋左近、
舟入の方口に水谷右京、松の丸には物頭衆、舟入にも物頭を遣わし、即座に城を堅めた。
馬は三疋のうち、一疋は鞍を置き、一疋は鞍を置き泥障(あおり)をささず、一疋は轡ばかりの
裸背であった。

大阪においては、備前島の御座所は如何と申し、増田右衛門尉の屋敷に仮に移られ、十二日が過ぎて
大阪城中に石田木工頭(正澄)が家を立ち退き、その身は堺へ参った(元来堺奉行)。
木工頭は一万石の身上であったが、当座御座あるには狭くはなかった。

程なく、二十日ばかりの内に、政所(高台院)が「木工頭家は用心も如何か」として、大阪から京に
御上がりになった。政所御家は禁中の南、秀吉公が京へ御上る時の御家であった。
誰も申さないが、政所のお計らいであり、家康公は政所の御座所へお移りになった。
西の丸と申す曲輪であった。
木工頭家には平岩主計頭が移った。

(慶長年中卜齋記)

慶長四年九月の、家康暗殺未遂事件について



徳川秀忠の正妻・崇源院について

2021年03月17日 18:05

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/17(水) 16:48:19.52 ID:aThDU7wJ
御所(徳川秀忠)の御台所は贈中納言藤原の長政卿(浅井備前守殿の御事なり)の御娘にて、御諱は
達子と申す。御母は織田右府(信長)の御妹である。(諸書に記す所、みな妹としているが、渓心院という
女房の消息を見ると、信長のいとこであるとしている。もしくは、いとこであるのを妹として披露して
長政卿に嫁がせたのであろうか。)(筆者注:『渓心院文』の事か)

御兄右府のはからいにて長政卿に嫁ぎ、姫君三人をもうけ給う。長政卿越前の朝倉を助けて
織田殿に背かれたが、ついに近江国小谷の城にて滅び給う。正妻であった小谷の方(お市の方)は
織田殿の元に帰り給い、家人の柴田修理亮勝家に賜り、姫君たちを伴って越前国北ノ庄に移られた。

天正十一年の夏、勝家は羽柴筑前守秀吉のために、近江国賤ヶ岳で戦い負けて、北ノ庄に逃げ帰り、
腹切って失せた、この時、小谷の方は息女と共に落ちたまえと、勝家はひたすらに諌めたのであるが、
さらに聞き入れずして共に空しくなられた。
子供たちのことは、「筑前守の元に渡されるべし。織田殿の厚恩を受けた人であるのだから、まさか
悪しくはしないでしょう。」と、自ら文を書いて、姫君三人を輿一つに召させて、女房たちも残らず
添えて、城より出されると、敵の兵たちは中を開けて確認した上で通した。
秀吉は息女たちを迎え取ってよく労り、大切に養い育てた。

その後、時移り世改まって、姉君は豊臣太閤(秀吉)の思者となられた。淀殿と申されている人が
これである。
次女は京極宰相高次の室となり、後に常高院殿と申す。
御末は御台所にておはします。太閤は彼女を大切に養い育て、文禄四年の九月、御所にあわせ参らせた。
後に大御台所と申し奉る。大猷院御所(家光)をはじめ奉りて、若君姫君、あまたもうけさ給えり。

一説に、大御台所ははじめ、尾張国大野の城主・佐治与九郎一成に嫁いだが、一成太閤の心に
違うことが有ったため、室を奪い取り丹波の中納言(羽柴)秀勝に娶せ。姫君が一人産まれられた。
その後朝鮮の戦起こって、秀勝も大将を承って押し渡ったが、文禄二年に彼の国にて失せにければ、
内室やもめとなりし給いしを、台徳院御所に参らせたのだという。この時、(秀勝との間にもうけた)
姫君も御所の養女とされて、九条関白殿(幸家)の政所となられた。摂政殿(九条道房)の御母である。

また佐治一成が太閤の不興を得たのは、天正十二年、小牧山の戦いが終わり、東照宮(家康)が浜松に
帰られる時に、佐屋の渡りにおいて、一成己が船を以て渡らせ参らせた事によって所領を失ったのだという。
然れども、この年大御台所はわずかに十二歳にておはしませば、一成の妻と成ったというのは覚束ない。

以貴小伝

徳川秀忠の正妻・崇源院について。なにげにお市の方の信長の実妹否定論の根拠も入ってますね。



茶阿局は筋目定かならず

2021年03月16日 18:51

茶阿局   
630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/16(火) 16:35:55.93 ID:hXgy7t7u
徳川家康の側室である)茶阿局は筋目定かならず。
ある説に、遠江国金谷村という所の、賤しき者の妻であったという(八と呼ばれていたという)

この所の代官某が、茶阿局が見目よき女性であったので心に懸けて、我が者にせんと思い、
彼女の夫に非法をかぶせて殺し、茶阿を奪い取ろうとした。

しかし茶阿はこれに従わず、三つになる娘を抱いて密かに逃れ出て、浜松の城に走り入り、
御前に参って訴え嘆くと、やがて代官が召され糾明され、罪科が行われた。
そして茶阿は身内に召し置かれ、使わせ給わったという、

彼女は(家康の)第六の御子辰千代殿、第七の御子松千代殿をお産みになった。しかし松千代殿は
夭折された(一説には双子であったという)。

辰千代殿は成長され、上総介忠輝卿と申された。四位の少将にて越後国高田を賜った(七十五万石、
或いは五十五万石という)。

これより先、花井庄九郎という者が介殿の御心にかない、出頭して後には御家老の数に入れられ、
受領して遠江守となった。彼は茶阿局の娘を娶され、権勢肩を並べる者も無かった。
その子である主水正義雄も近くで仕えた。しかし元和元年、介殿が罪を被られた時、主水も
誅せられた。
その子で左京亮義虎と言う者は、介殿の御娘と結婚し、配所までも従って仕えたという。

茶阿局は東照宮(徳川家康)が隠れ給いし後、朝覚院殿と云った。
元和七年六月十二日に亡くなられた。小石川吉永の宗慶寺に葬られた。また伝通院にも印が立てられた。

以貴小伝

茶阿局について

※本スレで訂正があったので直しました


631 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/03/16(火) 16:48:12.32 ID:QbGWLllc
茶阿なのか阿茶なのか

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/16(火) 17:06:30.67 ID:IaycZrii
隆慶一郎で知った

於万の方について

2021年03月15日 18:58

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/15(月) 14:43:03.76 ID:dvp4Eblt
徳川家康の側室である)小督局、名は於万の方。永見志摩守貞英の娘にて、第二の御子、結城(秀康)殿の
御母上である。

一説に、永見志摩守は三河国池鯉鮒の人であり、於万の方は、幼い頃より徳川殿の北の方・築山殿に
宮仕えされていたのだが、君の御愛くしみを受け身重くなり、これを築山殿が知られ、ある夜於万殿を
赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てられた。
その折、本多作左衛門重次が宿直をしており、女の泣く声を訝って捜した所、この有様を見て、急ぎ
縛めを解き、事の故を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱し、その後、君にこれこれと申し上げると、
いかに宣われたのだろうか、重次はそのまま自宅で於万の方を保護し、天正二年の二月、浜松の城外、
富見村という所で御子を産まれた。これ即ち於義丸殿(秀康)にておわす。
このような事であったので、御対面も無く、重次がよろず育みまいらせた。

また一説には、於万の方は身が重くなったため、北の方に漏れ聞こえて憂き目を見ることを恐れ、
密かに忍び出て、本多豊後守(広孝)の家の重臣である本多半右衛門の家に走り入り、云々の事なりと
云うと、半右衛門は本多作左衛門に告げ、作左衛門は密かに君に申して、己が元に迎え取り、
介抱したという。何れがまことであろうか。

結城(秀康)殿が越前を賜られると、局も越前におわしけるが、慶長十二年の四月八日、結城殿は
先に逝かれまいらし、悲観に耐えずたちまちにして落飾された事も悲しいことである。
法号を長勝院殿という。
元和五年の十二月六日、福井にて亡くなられた。七十三歳であったという。敦賀の孝顕寺に葬られた。

彼女の実家である永見の家も越前家に仕え、忠直朝臣の時に家は亡んだ。
その後、忠直は豊後の配所にて産まれた子を永見と名乗らせ、その家を立てられた。
しかしこれも、光長朝臣(松平光長・秀康の孫)が(越後騒動により)流罪となった時に罪をかぶって
終に家は絶えた。

以貴小伝



於大の方について

2021年03月12日 17:50

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/12(金) 14:40:37.96 ID:UigjWT+2
東照宮(徳川家康)の御母上で、大方殿と申された方は、水野右衛門太夫忠政の御娘であった。
岡崎贈大納言家(松平広忠)に嫁がれて、天分十一年の十二月二十六日に若君をもうけられた。
これを竹千代殿と申し、即ち東照宮の御事である。
その後、また姫君が一人産まれられ、これは始め松平与一郎忠政に嫁いだ後に、保科越前守正光の
妻となられた。

大方殿は御父水野忠政が亡くなった後、御兄である下野守信元が尾州の織田に志を通じられ、
その時岡崎殿は無二の今川方であられたため、筋を通して北の方を下野守の元に送り帰された。
これによって、尾張国知多郡阿古居の領主、久松佐渡守俊勝に再婚され、そこで男子三人、女子三人を
もうけられた。

永禄三年三月、東照宮は初めて阿古居の館に渡られ、御母上に見参され、継いで三人の子息を御弟に
なされて松平の御家号を許された。
兄は三郎太郎康元、後に因幡守。次は源三郎康俊、末は三郎四郎定勝、後に隠岐守という。
父の佐渡守俊勝も岡崎に祗候したため、三河国西郡の城を給わった。

下野守信元も御外舅であるので、隔てなくおられたのであるが、ある年、織田殿(信長)の不興を得て、
東照宮も力及ばず、岡崎に招いて失い給う。然れども所領の地は、事故無く弟であった水野藤十郎忠重に
織田殿より給わった。これは当家(徳川家)と御由縁がある故であったという。(これは織田家に、
佐久間信盛が讒言したためであり、その所領の地も佐久間が申し賜って横領したのであるが、その後
佐久間は罪を得て改易された後、下野守の旧領をその弟である水野忠重に織田殿より与えられた。)

佐渡守俊勝は天正十五年の三月十三日に失せた。尾張国知多郡のうち、坂部村洞雲院に葬られたという。

大方殿に対して、当家においては非常に尊重され、慶長七年の六月、都に上られた。
これは名所古跡などを御遊覧されるためであると言われている。そして八月九日、伏見城にて
おかくれになった。御年七十五歳であったという。(或いは七十七歳ともいう。七十五歳であれば
東照宮の産まれ給いし時大方殿わずかに十五歳にて、あまりに若くおわします。七十七歳と言うに
従うべきであろうか。また水野家譜にも七十七歳と見える。)

以貴小伝

家康の母、於大の方(大方殿)について



最初から御深慮が

2021年03月07日 22:11

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/07(日) 18:26:42.39 ID:QcSgVdJW
権現様(徳川家康)と北条の一戦(天正壬午の乱)の時、北条は人数を三枚橋まで出し、和談と成って
両将対顔の折、北条(氏政か)は床几に腰掛けており、権現様は御手を着くわけにも行かず、
御腰をかがめられて後挨拶あそばされた。
その姿を酒井左衛門尉(忠次)が見て、このように申した

「中々口惜しき後座配であります。北条は奢っている体であったのに、殿の為された礼は、
あまりに相手を敬いすぎておりました。このような事は、味方の志を弱くし、かつ又、
帰服する者も無くなります。」

そう諌めたところ、権現様は手を合わせて
「御免あれ御免あれ。この返事は、やがて申し入れるだろう。」と仰せになった。

その後直ぐに、信長公(秀吉の間違いであろう)より権現様に、後一味となるようにとの御状が
寄越されたのを見て、「北条に対し慇懃の礼にて帰服したのは、これを取るためだったのだ。」
との御意であった。そして酒井左衛門尉が御前に出た折、彼はその御状を見て感心した、

これは謙信(景勝のことであろう)、北条、信長(秀吉)はその頃の名大将であり、互いに権現様を
味方にしたいと考え、争っていた。これによって、北条と話談したと聞こえると、早速
信長公(秀吉)より一味を願う事を申し来たのである。権現様の行為は、最初から御深慮が
あった故なのである。(平野権平殿咄)

武功雑記



960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/07(日) 23:20:36.23 ID:gKywnyv/
>>959
>そう諌めたところ、権現様は手を合わせて
>「御免あれ御免あれ。この返事は、やがて申し入れるだろう。」と仰せになった。

(*>ω<)人「めんごめんご!理由は後で説明するからさ」

昔といっても心がけの無い者は

2021年03月06日 18:55

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/06(土) 16:42:02.44 ID:3DU6FgfK
大久保彦左衛門(忠教)が、堀田加賀守(正盛)殿の元にに見廻りとして行き、様々古今の物語をした。
或いは武道について、或いは三河においての人の武功の事などを語った。

加賀守殿、その時彦左衛門に
「聞き候へ。今、昔のように合戦など有るなら、むしろ昔より現代の方が、心ばせの有る人もいくらも
有るだろう。あまりに昔と言っても、現代と大して変わるところはあるまい。すこし話を盛って
おられるのではないだろうか。」

このように言われ、彦左衛門はすこし気に当てられたのか
「たしかに、左様にこそあるべきです。却って昔より今の人の心のほうが猛々しいとも見えます。
さりながら、現代であっても心がけ次第でしょう。貴殿の親父である勘左衛門(正吉)殿は六十余りまで、
別に御心がけを設けられず、イナゴの首一つ取られたという事も聞きません。されば、昔といっても
心がけの無い者は、十人並みと思し召されよ。」と言った。

加賀守殿気色変わり、その座にあった人々は「彦左はおかしき事を申すものかな。」などと、
なんのかのと言いつつ、挨拶をして座は空いていったという。
誰が云うともなく、この事は語り伝えられた。

彦左殿は後先もなく物を言う人であるそうなので、さもあるのだろう。

備前老人物語



そう、容赦もなく言うと

2021年03月05日 17:03

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/05(金) 15:44:26.80 ID:7aTXAXEA
江戸城西丸御殿の普請奉行は佐久間将監(実勝)であった。
普請が大方出来た頃、大猷院様(徳川家光)が御覧のために出御あり、将監も御供の中にあった。
そこにどういうわけか、大久保彦左衛門(忠教)が居合い、大猷院様より「普請を見よ」と
仰せ下された。これに彦左衛門「誠に結構なる御普請の次第に候。」と申した後に、将監の方を見て

「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るという。ここは、その方の家の如くに御殿の普請も申し付けたのか?
勿論、この城にとって必要のない事ではあるのだろうが、合戦のための作法は、少しは有るべきである。

この鴨居などは兜の立物、又は鑓などを張り上げ申すこと成りかねる。また雪隠なども見たが、身一つ
ですら入りかねる。忙しき時は具足を着ながら脇差指し、肱をいからせても入るものである。
それぞれ、確かに有る習いなるぞ。」

そう、容赦もなく言うと、上様はどう思し召されたのか、何の御返事も無くそろそろと奥へ
行ってしまわれたという。

この話を誰が聞き伝えたのだろうか。世の中では、人が語ることを聞き伝えている。

備前老人物語



上様は毛嫌いを

2021年02月25日 18:43

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 16:55:00.29 ID:J/vuJaWh
慶長六年九月十五日の昼過ぎて、家康公は表に出御された。御機嫌良く、色々様々の御咄があった。
堀尾帯刀(吉晴)、大島雲八入道、猪子内匠、船越五郎右衛門が御前にあり、船越がこう申し上げた
「去年の今日、御合戦(関ヶ原の戦い)の日もあめが降りましたが、今日も雨降りです。」
これに家康公は御機嫌良く、お笑いに成った。

猪子内匠が申し上げた
「田中(吉政)の人衆は敵に遭い、三町余り敗軍しましたが、誰かが『返し候へ!』と下知した
ようにも見えなかったのに、引き返し敵を追い崩しました。田中の軍勢の働きは、見事でございました。」
そう申した所、家康公は仰せに成った

「あの時田中勢の間近くに、金森法印(長近)が吹貫を立て備えを成していた。しかしこれを敵と心得て
田中勢は馬を寄せなかった。法印の手勢と知っていれば、先へ押し出し、法印の居た所に馬を寄せて
いただろう。そうであったなら、敵を一人も洩らすこと無かったのに、法印の備えを知らなかった故に、
そのように苦戦したのである。」

総じて、家康公は弓矢の御咄などは、あえてなさらぬ人であった。相手によって、弓矢噺となった場合も、
脇からその事について存じている者が話し出すとそれにまかせ、御咄も止められた。
それを御小姓衆は、「上様は毛嫌いを遊ばされている。」と言っていた。
鶏を合わせた時、向かいの鶏を見て一方の鶏が退く場合、その事を下々では(相手の毛並みによって
好き嫌いをする、という事から)『毛嫌い』(これという理由もなく、わけもなく嫌うこと)と申していた。

慶長年中卜齋記



権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

2021年02月12日 17:45

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 00:57:21.20 ID:GC8RmT/X
権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

細川忠興が徳川家光の弟・忠長の乱行と処分について述べた条を抜粋して意訳。

一、駿河大納言殿(忠長)はこのごろ御手討ちが重くなり、小浜民部(光隆)の子を御成敗し、その後
  御伽の坊主も御成敗したとのことです。きっと並大抵でない曲事があったのかもしれませんが
  民部は西国の船頭に仰せ付けられているのに、あまりにひどいことです。これ以前に御年寄衆から
  固く意見を申されて(手討ちを)しない約束をしたのに、こんなことになっています。その上
  切った者を(切ったことを覚えておらず)次の日に呼ぶこともあるらしく、言語に絶します。
  この分だと一白殿(松平忠直)のような御身上になるのではないかと上下で取り沙汰されているので
  相国殿(秀忠)は何とも御沙汰をしにくいのではないかと思います。しかしながら、権現様が
  上総殿(松平忠輝)になされたこと(対面禁止処分)を御覧になっているので、不安です。
  他の例は置いておいて、(きちんと)罰せられるようにと思います。

――『細川家史料 細川忠興文書 八六四号』

忠興の危惧した通り、秀忠が生きている間は重い処分が下ることはなかった。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 14:53:28.33 ID:7LaluMsR
忠興にここまで言われるって狂うにも程があるだろ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 17:41:28.60 ID:RJrUUo6C
秀忠も家老の朝倉宣正の力不足ということで一件落着させようとしたが
忠長が宣正は無関係って訴え出たということで本人の蟄居処分だからなぁ

単なる発狂と切って捨てるには色々事情がありそうだったりする

これが江戸瓦葺きの始めである

2021年02月11日 17:34

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/11(木) 14:46:00.13 ID:i3xmU3oN
当君(徳川家康)の江戸御打ち入りよりこの方、江戸の町は繁盛し、家居多く出来た。
しかしながら皆草葺であり、頻繁に焼亡した。

そのような中、慶長六年霜月(十一月)二日の巳の刻(午前10時ころ)、駿河町の職人の家より
火が出た。この時の大焼亡で、江戸の町家は一宇も残らなかった。

この時、御奉行の仰せに
「町中草葺であった故に、家事が絶えない。これを幸いとして、このついでに皆板葺きにすべし」
と言う由の御触れがあったため、町は尽く板葺きにて再建した。

そういった所に、瀧山彌次兵衛という者、諸人に秀でた家を作ろうと工み、街道の表の棟を
半分瓦にて葺き、後ろ半分を板で葺いた、人々が沙汰したことには
「本町二丁目の瀧山彌次兵衛は家を半分、瓦で葺いた、さても珍しき奇特である。」
そう褒め称えて、彼を『半瓦彌次兵衛』という異名で呼んだ。これが江戸瓦葺きの始めである。

古歌に「瓦の松」「軒の瓦」「瓦の屋」などと詠じている。瓦屋を「心かはらや」と、心の変わるに
寄せて詠んだ歌もある。件の彌次兵衛が人に「心かはら屋」した事、古今異ならない。

(以下瓦の歴史の解説が続くため中略)

然れば、家康公が興された江戸城の殿主は五重、鉛瓦にて葺き給われた。
それは富士山に並び、雪の峰に聳え、夏も雪かと見えて面白い。

今は江戸町は栄え、皆瓦葺きと成った。よろず広大に有って美麗なること前代未聞。
明け暮れに、人々皆見ることであるので、記すに及ばず。

慶長見聞集

江戸の瓦葺きについて



935 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/11(木) 20:29:56.99 ID:kTxHvqDA
江戸の町家は一宇も残らなかった。

これもう滅びてるじゃん

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/11(木) 23:27:28.73 ID:NT+lrpGI
>明け暮れに、人々皆見ることであるので、記すに及ばず。

今じゃ摩天楼だらけだから、記しておいて欲しかったなあ

以前TVで幕末の江戸パノラマ写真をカラー再現していたっけ?

Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋

2021年02月10日 18:25

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/10(水) 00:35:27.60 ID:dCK4U9vQ
Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%A7%80%E6%94%BF


慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を
与えられて計4,010石余の大身旗本となった[1]。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。
細川忠興に持ち去られた「安国寺肩衝」(現:五島美術館蔵)は、寛永3年(1626
年)の旱魃の際に細川忠利から金1,800枚で庄内藩主・酒井忠勝に売却され、領民救済の資金となったと伝わる。

参考
細川忠興と『有明の茶入』