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稲富一夢が事

2020年03月22日 15:34

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 09:49:41.35 ID:+xP3v1b/
稲富一夢が事

稲富一夢(祐直)、初めの名は伊賀である、丹波国の住人にて、一色五郎満信(義定)の家臣であったが、
義定が滅んだ後、細川忠興の侍と成った。
この度、大阪屋敷の留守として忠興が置かれた所に、主人の用に立たず、剰えその行方も知られなかったため、
忠興は深くこれを憎み、何としてもこの者を捜し出し火あぶりにせんと捜索された。

しかし、「稲富が大阪城中に罷り在って、主君の役に立たなかったのは是非無き次第であった。」とも聞こえ、
その故いかにとなれば、稲富伊賀は鉄砲の名人ゆえ、大阪衆の歴々に、弟子である人多かった。故に稲富が
滅びることを惜しみ、鉄砲稽古に事寄せて、予め城中に呼び入れた。この時は未だ敵味方の分色も無い時であったので、
鉄砲の稽古もすぐに済むことだと心得て、稲富が城中へ参ったのも仕方のない事では無いだろうか。

この稲富という者は、奇妙稀代なる鉄砲の上手であった。その妙を語っても、未だ見ぬ人で、「信じられない」と
思わぬ人は居なかった。
稲富が常に用いる鉄砲は、玉目一両より八匁までを限りとし、その町間も八町(約870メートル)以上を好まなかった。
八町以内であれば、火蓋を切って中らずという事無かった。
或いは暗夜に孤狼の声を聞き据えて、闇中に撃ち留める事も、ただ箱の中のものを拾うようなものであった。

稲富は二十五歳の時、橋立大明神に一七日断食して、目くら打という工夫をしたと聞こえる。
十能十藝、古より手練の者は多いが、離切りたる飛び道具を、稲富ほど精緻に扱う者は未だ聞いたことがない。

関ヶ原の戦いが鎮まった後、畏くも権現様(徳川家康)が御直に越中守(忠興)に御詫言あそばされ、頭剃らせて
一夢と号し、世上の師となされた。

丹州三家物語

稲富祐直についてのお話



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鎧淵由来

2020年02月15日 13:56

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 00:52:53.38 ID:7kNkFxgR
天正壬午の乱の折

北条に与していた大村伊賀守は徳川軍を相手に大野の砦に籠もっていた
しかし、奮戦の甲斐無く砦を落とされ、大村伊賀守は自分が着ていた鎧を笛吹川に投げ捨て自刃した

後日、大村伊賀守が自刃した場所に家康自ら巡検に来たところ、その大村伊賀守が捨てた鎧は沈んでおらず、不思議と川に浮いて留まっているのを見つけ、家康はそこの淵を「鎧淵」と名付けた

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 00:55:46.41 ID:7kNkFxgR
出典は中牧合戦録の写本を現代語訳した『中牧城と大野の砦』です



858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 00:24:08.49 ID:mq716C2i
後継者にならない秀康にお義、後継者になる秀忠にお長とか
いい話の大蔵って盗賊切ったからその刀大蔵って名前でどうとかもそうだけど
名付け方そのまんますぎるやろ家康

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 16:56:11.46 ID:ePEqh7qg
ヒント:母親の身分

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 12:06:22.09 ID:Cr1Ny+sS
家康さんは三河の武骨ものなんで仕方ないです

本多忠信・正盛の不幸

2020年02月10日 18:51

846 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/10(月) 11:20:50.70 ID:a2Lko6Se
本多忠信・正盛の不幸

本多忠信は本多百助信俊(忠政)の弟。九鬼氏の娘を母として誕生しており、内藤正成の息子を養子としていた。 

さて忠信は家康に仕える旗本であったが、関ヶ原の合戦の際、親族にあたる縁から九鬼嘉隆への御使として派遣された。ところが嘉隆はすでに石田三成方に心寄せており伊勢国朝熊において忠信を殺害したという。 

忠信の横死後は正盛が跡を継いだ。時は流れて家康の死後、この正盛は東宮社造営の副奉行という大任を賜った。 

ところが同輩の山城宮内と口論となり、挙げ句の果てに激昂した正盛は山城を刀の鞘で打ち据えるという暴行を働いたと言う。山城はこの狼藉が原因で切腹してしまった。

正盛は重要な時期に騒動を起こした責任を追及され、東宮社完成と同じ月に松平成重にお預けの上、自刃を命じられた。日光市の福生寺に現在も墓が残っている。



伊奈(イナ)忠次の話

2020年02月09日 15:16

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 19:43:41.88 ID:ezwVO2sv
「イナバウアーがイナ→荒川→羽生」と継承された、ていう記事を読んで、
羽生で始まり荒川西遷が行われた、利根川東遷事業を思い浮かべたので伊奈(イナ)忠次の話を

小田原城落城の際、城内の蔵に貯蔵されている米穀の数量調査を家康に命じられた忠次だったが、
膨大な量であるにも関わらず数日のうちに家康に報告した。
家康から「なぜそのように早くできたのか?」と聞かれた忠次は
「不正を防ぐために、すべての蔵に封印をし、村長に命じて北条に納めた租税の量を書き上げさせました」
と答えた。
もし蔵ごとに確かめていたら時間がかかる上に、ちょろまかす人間も出たと思われる。
そのため家康はその機敏さを褒めた。

甲州の地で家康が鷹狩りをしていると、近くの村で騒ぎが起きた。
忠次が家来を連れて見に行ったところ、野盗が荒らした後だった。
そこで忠次は野党の首領の住処を探し出し、大蔵という首領を一刀のもとに斬り殺した。
これを聞いた家康は「勇敢ではあるが自ら討ち取るとは血気盛んすぎる」と諭した。
しかし賊を斬った刀に大蔵と名付け、家宝とするように告げた。
(「世界 人物逸話大事典」の「伊奈忠次」の項から、本間清利「関東郡代」の孫引き)



632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 20:48:59.18 ID:oWA1ySTR
あだ名がわかりやすいのは権現様のセンスなのか

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 21:59:06.93 ID:V6+QV004
>>631
賊のお頭の名前の家宝の太刀ってやだなぁw

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 22:00:43.60 ID:POWo705j
大蔵切なんちゃらって名前ならまだワンチャン

両名共上手である

2019年12月26日 16:40

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 00:02:03.79 ID:MjkcHwi4
秀忠公は剣術を柳生但馬守と小野次郎右衛門の両名から習っていた。
秀忠は次郎右衛門との稽古で、柳生に習った太刀を以て次郎右衛門に撃ちこんだがついに当たらず、また柳生との稽古では次郎右衛門に習った太刀で柳生に撃ち込んだがついに当たらず、両名共上手であると常々我々に仰られていた。

秀忠の近習だった永井直重が残した覚書『元和寛永小説』の中の逸話



444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 01:16:26.92 ID:Ea5Ja01t
>>443
ここで「どちらの教えも役に立たない」とキレないのがいかにも秀忠らしいな。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 04:18:30.60 ID:NaeV5kyq
二人を戦わせて勝った方に教わるんじゃ駄目なのか

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/26(木) 06:24:31.77 ID:qAsgelBv
>>446
師を競わせて教わる相手を絞るより複数の達人から教わる方が、色々気付きが有ったりして良いんじゃないですかね?

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 16:56:36.07 ID:HJrn4SsC
>>443
どっちも立てるのがいかにも秀忠っぽいな
この噂を聞いた柳生と小野もいい気分になれるだろうし
非の打ち所がない。

唐の頭に本多平八

2019年11月06日 17:21

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 07:09:48.92 ID:gResndio
元亀三年十月中旬に、武田信玄の将・山縣三郎兵衛(昌景)は信州伊那へ打越、そこから東三河に出て、
武田信玄の遠州表への出陣についての準備をし、また現地の徳川勢との競り合いなどがあった。

信玄が十月中旬に甲府を立つと、遠州のたたら、飯田の両城たちまち落ちて御仕置があった。
乾の天野宮内右衛門に遠州定番の事、良きように申し付け、久野の城を御見回りの時、徳川家康
主要な侍大将たちが三ヶ野で太田川を渡って、四千の人数で打ち出てきた。

信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ」と仰せになったが、徳川勢はこれが信玄の軍勢と知ると
引き上げ始めた。甲州武田勢は撤退を許さぬとこれを食い止めようとした。徳川勢に武田軍が迫ろうと
した時、家康の侍大将である内藤三左衛門(信成)はこのように言った

「家康様の八千の総人数の内五千がここまで出ている。そしてこのまま、武田信玄という名大将の、
しかも三万余の大軍と、家康様が出てこないうちに戦ってしまえば、敗北は必定である。
そしてここで負けこの軍勢が討ち取られてしまえば、家康様御手前のみの勢にてどうやって信玄と
合戦するというのか。ここは先ずもって引き取り浜松へ帰り、重ねて一戦を遂げたなら、その時はまた
信長様の御加勢もあるだろうから、それを付けて三河武者八千を以て無二の防戦を遂げる事が出来るだろう。」

しかしながら徳川勢の撤退については、既に武田勢が接近しすぎており、三左衛門の言うようにするのは
無理であると皆は申した。

ここで本多平八郎(忠勝)、この時二十五歳であったが、彼は家康の下で度々の誉れがあり、内々に
武田家でも名の聞こえりようになった武士であった。

平八郎は兜に黒い鹿の角を立て身命を惜しまず敵味方の間に乗り入れて、無事徳川勢を引き上げさせたので
ある。その様子は甲州にて昔の足軽大将、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(三八郎)、山本勘助、これら五人以来武田家に於いても多く見ることは出来ないものであり、
家康の小身の家に似合わぬ平八郎であった。

その上三河武者は、十人の内七、八人は唐の頭をかけて出ていた。これも過ぎたるものであると、
小杉右近助という信玄公旗本の近習が歌に詠み坂にこれを立てた、その歌は

『家康に 過ぎたる物は二ツある 唐の頭に本多平八』

(甲陽軍鑑)



316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 12:54:26.21 ID:AkN9Xad1
なるほど唐の頭の平八郎ではなかったのか

この者達の忠孝を認めぬと言うのなら

2019年09月20日 15:25

198 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/19(木) 19:18:26.41 ID:/7Fim3py
「それは、長束大蔵大輔の仕掛けた事だ。」の後日談

関ヶ原の戦いで斬首された長束正家
当主が死んで路頭に迷った長束家の家臣達を召抱えたのは他ならぬ伊奈忠次であった

家康は「逆賊として斬首された者の家臣を召し抱えるなど、他の者に不興を買う。おぬしの為にならぬぞ。」とたしなめた

しかし忠次はこう反論した
「確かに長束正家は逆賊かもしれませぬ。ですがその家臣は正家に最後まで尽くして逃げ出さなかった忠臣であります。
この者達の忠孝を認めぬと言うのなら
私は腹を斬ってこの者達に報いねばなりますまい。」
と家康に詰め寄りこれを認めさせた

こうして長束正家の家臣とその家族達は伊奈忠次に救われ
かろうじて生き残った長束の子孫はやがて徳川家光と手紙のやり取りをする程の関係にまで快復するのであった



199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/19(木) 21:08:41.28 ID:bQC3nvG5
旧豊臣の奉行衆には実務的な優秀な部下も多かったろうからなぁ

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/22(日) 12:33:41.67 ID:gTVfXKay
武田の旧臣を幕下に加えてたくせによく言う

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/22(日) 20:44:34.93 ID:7bj0T1un
武田の部下は俺のもの
長束の部下も俺のもの

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/22(日) 21:13:09.23 ID:5Wnbhz7y
北条の家臣も多く召し抱えとる

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/23(月) 01:26:19.01 ID:Jl+ho/kN
北条は別に秀吉から召し抱えるなとか言われてないだろ?

204 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/23(月) 08:09:57.82 ID:2hnkMw8k
>>198
伊奈忠次「うちの父親も殿に弓引いた逆賊なんすけどね。信康様の件で私も再び出て行きましたけど」

かの一類を成敗すべし

2019年09月06日 17:42

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/06(金) 16:22:11.74 ID:xfBoafGR
(前略。大鳥逸平事件の記事)さて京都に下知あり。大坂・堺その他の国々でかの一類(かぶき者)
を成敗すべしとのことであった。これにより、この頃は無縁の者には宿を貸すことがなく、旅人は
このために迷惑した。

かのいつ兵衛(大鳥逸平)は相撲をも良く取り兵法をも使うので、(幕府の)若衆はかぶきとは知
らずに近付いたところを、罪科が行われて国々に遣わされた。

穂坂長四郎は越後衆の村上周防(忠勝)に預けられる。坂部金太夫は同越後衆の溝口伯耆(宣勝)
に預けられる。岡部藤次は奥州の南部に預けられる。米津勘十郎(北町奉行・米津田政の子)は同
奥州の津軽に預けられる。佐平次は佐渡に流された。

かのかぶきどもの傍輩で(かぶき者の)従者とは知らずにとりわけて近付いた者がいて、かぶき者
の中で去る5月に喧嘩して死んだ者を葬ろうとなおざりにしなかった。

その事とは傍輩に言わず「無縁の者が死んだので、結縁のために代物を少々合力してくれ」と様々
言ったので、何気なく代物を少し出したのをその一類と称して成敗され、この者どもは罪無くして
死を蒙った。迷惑なりし事共なり。

――『当代記』

当世に奴風といってバサラを好む人は、親に掛かる部屋住の若輩をよろしからぬ風俗に引き込むの
である。

例えばその若輩が弓を好むかまたは馬数寄ならば、すなわち「馬を見せ申そう」と招待し馬具など
を奇麗に伊達にして、あるいは馬取や中間に至るまですねふり奴を出して、奴を見習わせて真似を
したい心を付ける。その後に料理を出して酒になり、諸々のよろしからぬ風俗を教え奴の友に引き
込むのである。

「油断仕ってはならぬ」との(池田光政の)御物語りである。馬に限らず兵法や詩文の学、歌学の
友も慎むべきことである。

――『烈公間話』



只今石田を殺したならば

2019年08月28日 15:51

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 14:17:08.67 ID:9gs3r0Od
秀吉公御卒去の折、諸大名五奉行は大坂に参会した。この時、伏見で石田(三成)をこのついでに諸将は
殺すべく評議した。これに神君(徳川家康)は、密かに石田を御助けして御落としなされた。寄り合った
諸将は石田を重々憎み、殺したく思いなさった。しかしながら、家康公に従い奉るべしとは思わなかった
のだという。

この時に石田を御囲いなされたことは、本多佐渡(正信)の申し上げ故である。佐渡が申すには、

「只今石田を殺したならば諸将は皆公に背き申しましょう。今は石田を憎んで皆公に組しています。石田
の様子は、この分際でいるような者ではありません。大いに催して打ち出ることでしょう。その時に討ち
果たしなさるべきなのです。これ当理の謀なり」

案の如く石田は関ヶ原で大勢を語らい打ち出た。これ皆佐渡の智謀なり。後々年に至り、公が佐渡の申す
ことに御同心無き時に「何ぞ杉戸の際で申したことを御失念なされましたか」と度々申し上げられたのは
この事である。

黒田甲斐守(長政。原注:如水軒)が申されるには、「あの折に伏見で治部少輔を重々殺したく思った。
しかしながら、家康公に従い奉るとは思わなかった」と後々申されたのだという。(原注:右は如水軒が
光政公へ御直談申したのを(光政が)仰せられたと覚え申すものである)

――『烈公間話』




165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 13:01:27.64 ID:bI7TkIMY
石田三成がいなくても、宇喜多秀家の動き次第では…。

166 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/29(木) 16:35:08.65 ID:lniIquuh
その時は金吾が総大将だな

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 19:35:06.83 ID:BCVHUVku
それは無いな。宇喜多は内紛でそれどころじゃないし小早川秀秋は家康と争う理由が無い

その一言は大きな誉れである

2019年08月24日 16:15

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/24(土) 02:46:52.12 ID:vjfU7B8l
同青木民部(一重)が真柄を討ち取り申されたこと以上に存じられるのは、牢人して今川家に武者修
行の士は多く、甲州勢が出ると聞き民部は一同に30人ばかりで掛け出て、新坂の道辺にある銀杏の
木の見えるところまで行った。その時、山上へ大物見の如く3百人ばかりが出た。

「何とぞ引き取るべき!」といずれも申したが、民部は曰く「引き色を見せれば、猶更敵は募ること
だろう」と。十死一生の戦を持ち戦う内に、民部は大きな男と組んで山の下へこけ落ちた。銀杏の木
の際へ落ち付いた時、民部は上になって首を取った。また、他の者も2人で敵1人を一緒に討った。
その内に味方の加勢が来て、敵は引き取ったのである。もっとも、初め同時に来た味方の内にも討死
は多かったのだという。

今川家よりその褒美として民部に金子1枚を賜り、一緒に敵を討った士には金の龍の口蓋を2人に1
本ずつ賜ったのだという。

民部はいつも武辺の話を致さぬ人であったという。また小兵で痩せた人だという。この人は青木先甲
斐守入道丹山(重兼)の父であるが、実はその伯父である。実父(青木可直)は輝政公(池田輝政)
の御家中におられたという。

前述の時に諸人は「引き取るべき!」と言ったが、青木1人は申され「引き取れば追い付かれて1人
も残らず討たれることだろう。堪えて戦おう!」と申した。その一言は大きな誉れである。その上で
功名があった故、ますます手柄となったのである。

――『烈公間話』



赤絵の茶碗

2019年08月19日 18:07

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/19(月) 11:35:25.33 ID:RGdWfBRM
安藤治右衛門家によると、先祖の治右衛門(正武)が大阪御陣の時深手を負った折、家康公が赤絵の茶碗に
薬湯を入れ、御手自ら賜ったという。この茶碗は朝鮮王より太閤秀吉に贈られた三つの品の内の一つで、
その後太閤より家康公へ進ぜられたのだという。その銘に曰く(赤絵染付なり)

 十年窓下無人問 一挙成名知天下

これは治右衛門家が重器として持ち伝えている。虫干しの時に見た人が語った。


(耳嚢)



水中で首を取り申した

2019年08月18日 14:11

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 20:50:59.04 ID:S3TnxfWQ
長篠で勝頼敗軍の時、青木(一重)の人数は舟に乗り、川を越えて敵船に交じり乗ったのを
敵は(青木を)見知っていて船から突き落としたが、川中を潜って折々首を出し、船に遅れ
ずに付いて行った。

向こうの岸際で浮き上がると、かの突き落とした兵を見掛けて浮き上がり取って引き落とし、
水中で首を取り申したという。

――『烈公間話』



カスウの大兵

2019年08月17日 17:00

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 16:26:55.11 ID:a03B31HY
姉川合戦の時、家康公に従い奉った青木民部(一重)は真柄(直隆)という兵の首を取った。

さる人(原注:能勢小十郎(頼隆)である)は民部に尋ねて「真柄を討ちなさったとも申す
し、または真柄の子(隆基)であったとも申しますが、どうなのですか」と問うた。

青木は答えて「カスウ(糟斑か。馬の毛色)なる大男と競り合った後、片岸で大男が後ろへ
落ちて行くのを押し付けて取った。カスウの大兵なので、人の子とは申し難き者だった」と
申されたのだという。(原注:子か親かは分からないが、子とは言い難い者だったと申され
たのだということである)

真柄という者は隠れ無き大兵で功の者という。

――『烈公間話』



大久保彦左衛門は名誉の一徹者である

2019年08月16日 17:03

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/16(金) 16:29:02.21 ID:R+/a7XHr
大久保彦左衛門(忠教)は名誉の一徹者である。大坂御一戦の時は御槍奉行であるが、後に
御旗奉行となった。

ある時、牢人の某がやって来て申すには「このように御静謐の御代ならば、何も得るところ
なく病死仕ることだろう。天晴にも具足を肩に掛けて討死仕りたい」と、彦左が気に入って
「愛い奴」と言われようと思って申したのである。

彦左は曰く「まことに左様に存ずるのか」と申されて、某は「実に左様の心底」と申した。
その時に彦左は曰く、

「それが本当ならば日本一の不届き者なり!

何故かと言えば、この御静謐の御代に其の方などが具足を着るということは、まず乱国で
なければありえないことである! 代乱れるは一揆か逆心か、左様なことがあって其の方が
具足を着るような如何程の功名があろうとも、(その恩賞は)3百石か5百石である!

其の方は自分1人が5百石の立身を仕りたいがために天下の乱れを好んでいる! 公方様に
難しきことを願い申す心底、さてさて不届き千万なり! 左様に本当に存ずるならば只今腹
を切れ! 是非とも切れ!」

と白眼付けて(怒った目で睨み付けて)言われ、某はコソコソと逃尻仕ったのだという。

――『烈公間話』



安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


阿茶の局

2019年08月09日 17:44

阿茶局   
136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/09(金) 01:21:41.59 ID:7qMAvHNA
阿茶の局は飯田筑後(直政)といった者の娘で、今川の家人・神尾孫兵衛忠重の妻である。

天正5年(1577)7月、忠重に先立たれて同7年に東照宮(徳川家康)に仕え奉り、阿茶の局
という。その子の五兵衛は僅か6歳であったのを長丸君(徳川秀忠)の扈従になさった。(原注:
寛永の家譜には、五兵衛守世は天正11年(1583)に初めて見参して15歳であると記す。家
の伝えに誤りがあるか)

この局は殊に出世した人で(家康が)大方御陣中にも召し連れなさる程のことだった。慶長19年
(1614)の冬、大坂の御陣でも常高院殿(初)に連れ添って城中に入り、御調停の事を(家康
の)思召すままにやり遂げ、この局の才覚の程が知られた。

東照宮が神去りませし(逝去した)後、江戸に参ったので竹橋の内に宅地を賜り、また中野村に3
百石の地を宛て行わられた(原注:寛永の系図に清水門の内に『一位様』と記しているのは、この
女房のことである)。

 元和7年(1621)の6月、台徳院御所(秀忠)の姫君(和子)を内裏に参らせなさる時、
 忝くも御母代に参って都に上り、従一位に叙されたので世では“神尾一位”と申した。されど寛
 永の系図にはこの事が見えず、ただ『一位と号す』と記している。

寛永9年(1632)に台徳院が御逝去なされて後、局は出家して“霊光院”という。これより先の
慶長6年(1601)の頃、東照宮の御許しを得て、神田の伯楽町に一寺を営んで“龍徳山光厳教寺
雲光院”と名付けたので、今自らの号をこのように言ったのだろう(原注:この寺は明暦の火の後、
神田田所岩井町に移され、天和3年(1683)に再び深川に移された)。

かくて年は積って83歳、寛永14年(1637)の正月に病重篤に及ぶと(徳川家光は)聞こし
召し、酒井讃岐守忠勝朝臣をもって見舞いなされ「望むことあらば申すべし」とあれば、「雲光院
に寺領を賜りたい」と望み申したので、それならばと50石の地を寄せられたのである。この月2
2日に亡くなった。それから雲光院で後の法要があって御弔いに白金千両を賜われた。

五兵衛守世もしきりに登用なされて、従五位下の刑部少輔になる。母のお陰といいながら、自身も
器量のあった人であるという。弟の内記元勝というのは尼公(阿茶)の養子で、真は松平周防守康
親の家人・岡田竹右衛門(元次)の子であったのを、尼公が布施兵庫の娘に合わせ子になされたの
である。これもしきりに出世して寛永15年(1638)の5月、町奉行の職に補せられ叙爵して
備前守に任ず。寛文元年(1661)に致仕し、同2年に入道して宗休と号す。世に“三老人”と言
われた1人であるという。守世と元勝の子孫は多い。

――『以貴小伝』



小姓衆まで裸で御給仕致した

2019年07月28日 16:22

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 15:59:23.97 ID:+FGMiur9
忠秋公(阿部忠秋)は御若年の時には御大酒をなされ、御心安き御客がいらっしゃった時は、
大島の伊達な御衣類に鮫鞘の大御脇差をなされた。

あるいは御謡の後には小歌をなされ、御風呂を振る舞いの時は御上がり場で御酒盛をなさり、
小姓衆まで裸で御給仕致した(御あかり場にて御酒盛小性衆迄[身果]にて御給仕いたし候)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

そんなお洒落さんを茶化したらキレるよなっていう>>266



大久保忠隣改易

2019年07月22日 15:51

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 19:06:48.78 ID:ARl2F+J7
一、翌年2月4日(1614)、大久保相模守(忠隣)江戸発足。上方筋で切支丹が起こったので
  仕置きのために上京。宗門の者どもを成敗して後、板倉伊賀守(勝重)をもって相模守の改易
  を仰せ付けられ、井伊掃部頭(直孝)に御預けなされた。

  この節、里見安房守(忠義)と佐野修理大夫(信吉)に改易を仰せ付けられた。ただ大久保相
  州の縁者たるによってこの如し。

  一族家来まで御咎めあり。相模守の子供の大久保右京(教隆)・同主膳(幸信)・同内記(石
  川成堯)、いずれも津軽・南部へ御預けなされた。大久保加賀守(忠常)はそれ以前に相果て
  られた故、孫(大久保忠職)が家督を致していたが、これは家康様の御息女・加納様(亀姫)
  と申す方の御婿である故、江戸の屋敷に閉門致した。

  森川内膳(重俊)は相模守の姪婿なので、酒井左衛門尉(家次)に御預けなされた。日下部河
  内守(正冬)、これは茂助(村越直吉。道伴の父)の娘を相模守の娘分に致して婿に致し、こ
  れによって館林の榊原遠江守(康勝)に御預けなされた。山口但馬守(重政)は縁者たるによ
  り御改易。

  谷六右衛門は相模守が取り分けて目を掛けられた故、松平将監に御預けなされた。石川主殿頭
  (忠総)は相模守の次男であるが、他名を継いだので知行の大垣に閉門致した。その他に摂津
  半兵衛は、その時は江戸奉行だったが当座の出仕を留め申した。

一、富田信濃守(信高)に改易を仰せ付けられた。もっとも罪科は相州とは別罪である。家康様は
  常々、御慈悲をもっぱら要に遊ばされたところ、御老年に及び厳しく御仕置きを仰せ出された
  と、世人は唱え奉ったという(家康様常々御慈悲を専要に遊ばされ候所、御老年に及び稠しく
  御仕置仰出され候と、世人之を唱ひ奉り候由)。

――『村越道伴物語留書』



玉ノ跡七ツト哉ラン有之由

2019年07月16日 15:51

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 01:34:51.74 ID:Y8qQMC2y
同戦記(『難波戦記』)に本多出雲殿(忠朝)戦死の事がある。

自分の手勢の者を先手に残らず掛からせ、自身も掛け出なさったという。横から撃たれた
鉄砲に当たり、馬から撃ち落とされたという。弾の跡は7つあったとかいうことである。
(玉ノ跡七ツト哉ラン有之由)

先の本多能登守殿(忠義。忠朝の兄・忠政の三男)が御物語りなされたとのことである。

――『烈公間話』



263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 07:49:46.14 ID:PycxYtRW
>>262
随分と鉄砲の精度が上がったんだな。

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 10:26:56.94 ID:Df4sL/wN
散弾だろ
甲冑に当たると弾けるようになってる

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 14:56:32.28 ID:gRFLGpaC
前日談の
家康から「お前の父親の忠勝は勇猛果敢だったのにお前ときたら」
と言われた話の方は特にコメントなしか

敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!

2019年07月12日 16:47

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:30:11.98 ID:NXcn6hNJ
御四男の左馬助忠吉公(阿部忠吉。正勝の子、忠秋の父)は、慶長19寅年(1614)の
大坂御陣(冬の陣)の折は御知行2千5百石の御従頭で、駿河に御詰めなされた。江戸の御
屋敷は西丸大手際で、後に三枝摂津守がおられた屋敷である。

翌卯年の大坂御陣(夏の陣)で前将軍・家康公の御先を御勤めになり、大坂から毛利豊前守
(勝永)が打ち出た時に、東兵は敗走する。

味方が崩れ掛かるのを忠吉公は御覧になり、道を要意してとある在家の後ろを回って御組中
ならびに御家臣を引き連れ、小高き所に鳥毛の三階笠の馬印を押し立てると、槍衾を作って
「敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!」と、膝を敷いて待ち受けた。

御旗本が足を乱して敗北(敗走)する中でも踏み留まった面々は、忠吉公の言葉を聞いたこ
とを後の証拠とした。将軍家(徳川秀忠)は、忠吉公は御眼前で天晴な御振る舞いであると
の由を仰せであった。

正勝公よりの附人は河野半右衛門・加藤半次郎。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』