【ニュース】 <歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級

2018年04月04日 17:52

752 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/04(水) 15:06:01.88 ID:2/N52Qoq
<歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180404-00000029-mai-soci.view-000

徳川家康が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣(1614年)、夏の陣(15年)の詳細な陣形を記録した
最古級、最大級の陣図が見つかった、と広島県立歴史博物館(福山市)が4日、発表した。
大阪歴史博物館(大阪市中央区)は「主戦場だった城外の部隊配置まで詳しく示された陣図は過去に例がなく、
戦いの様子を知る重要な史料といえる」としている。


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753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/04(水) 18:49:19.67 ID:yipZGTqw
この調子で関ヶ原も頼む
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正しく、素直でなければ、

2018年02月02日 18:13

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/02(金) 05:18:59.84 ID:4rWMnih/
本多忠勝が、北条家の朝倉兼也を招いて武義の物語をしたことがあった。
兼也帰って後、忠勝は言った

「朝倉兼也はなかなかの人物だと聞いていたが、武義の上の詮索、真に然らざるものであった。
何故かと言えば、彼は一度も遅れを取ったことはないと物語った。
名将と言えども、初めは万事落ち度無きとは行かないものだ。いわんや兼也程度の侍であれば、
善と悪が半々であっても、人々は盛んに褒め称えるものだ。

正しく、素直でなければ、武士の意地とは言わぬのだ。」

そう批判したという。

(士談)



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/02(金) 19:26:35.01 ID:7I1QUZnP
家康「そやそや」

時移り世変じて

2018年01月20日 18:02

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 22:03:19.61 ID:o+2SsETU
高木主水正正次は殊なる勇士であり、元は水野下野守(信元)の家臣として、戦功隠れ無かった。
また同じく水野の家臣であった神谷金七も、家中において高木と並び称される勇士であった。

水野信元が謀殺された後、その家臣は散り散りとなったが、高木、神谷は勇士の聞こえあり、
徳川家康より召し出したいとの通知があった。

高木はこれに応じ家康の家臣となった。
しかし神谷はこれを断り、織田信雄に仕えた。その頃は織田信長が天下の権を握っており、
その息子で北畠を継いだ信雄には、天下の士は皆、これに仕えることを望んだものであった。

その後、時移り世変じて、徳川家康は遂に天下の主となり、織田信雄は次第次第に漂泊した。
神谷金七はそんな漂泊した信雄家にて没し、その子の左馬助は、かつて父が家康より召された
由緒により、徳川に仕えることになった。

(士談)

ちなみに高木正次は、元和九年に一万石ながら大名になっていますね。


小田原城中に入りたいのです

2018年01月11日 19:01

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:19:16.21 ID:b5taQZdQ
小田原の役でのこと。
徳川家康重臣・榊原康政の家臣である伊藤顔助は、大磯の切通の近辺に出て、小田原城に
出入りしようとするものを防いでいたが、下総国住人・山岸主税介という者、籠城に
参加しようと出てきたのを、伊藤が発見し追い詰め戦っていた所、味方の武士も続いて、
遂に生け捕った。

山岸は家康の意向の元、豊臣秀吉の元に遣わされた。
秀吉は彼から詳しく関東のことなどを尋ねると、そのまま家康に返還された。

家康は山岸に言った
「お前の命を助ける。今後我らの味方に属すように。」
しかし山岸は、伊藤顔助を通してこう申し上げた

「大変な御恩だと思います。しかし私は、やはり小田原城中に入りたいのです。」

この望みを聞いて家康は
「今、一人が新たに入城したとして、何ほどの事もない。」
そう言って、山岸が小田原城に入ることを許した。

しかし家康の陣所を出た山岸が小田原城に入ると、城中の者達は彼が体の数カ所に
傷を被っているのを不審とし、敵に誑かされたのではないかと、彼を牢に入れた。

北条氏直が降伏し、小田原城が開城すると、榊原康政が城を請け取り、掟を出して
混乱を防いだ。この時、牢の中に山岸主税介が居ることを知り、彼を獄より出すと、
自らの配下として二百石を与えた。

山岸が小田原城に入った事は、高い志有る話として評判となり、後に三河黄門(結城)秀康が
彼を千石の録を以って招いたが、山岸はこれを受けなかった。
彼は二度にわたる恩に感じ、一生小知のまま、榊原家にて全うしたという。

(士談)


浅井の御娘は秀忠に

2018年01月07日 18:01

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/07(日) 17:13:42.85 ID:I2+XP7nd
浅井の御娘は秀忠に


良正院殿智光慶安大禅定尼 ふう姫君様は権現様(家康)の姫君で
台徳院様(秀忠)の御姉、御母は西郡殿。初めは北条氏直に嫁がれたが
(氏直と死別した後)秀吉が権現様に
「池田三左衛門輝政が無妻になっているので、淀殿の妹(お江)と
 縁組するのがよいだろうか」
と御相談したところ、権現様が
「願わくば浅井の御娘は秀忠に御縁組されるように、三左衛門輝政には
 私の娘を嫁がせますから」
と仰せられたので秀吉はもっともに存じ、その段を輝政公に申し渡され
文禄三年八月十五日、姫君様が参州吉田に御入輿になられたという。


――『因州鳥取慶安寺略記』


慶長14年元日<甲申>、毎年の如し

2018年01月01日 15:59

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 02:47:36.61 ID:tVmQDz8f
慶長14年元日<甲申>、駿河・江戸の士が出仕。毎年の如し。

美濃国や伊勢国の先方衆は、駿河で越年しなかったので、
大御所(徳川家康)は無興しなさった。

同日、江戸品川町で火事。

4日、江戸本町で火事。5町ほどが焼失。石川玄蕃(康長)の
家もこの内にあった。<時に信州府中の城主なり>

7日<庚寅>、大御所が鷹狩りをされる。遠江に御出になられ、
そのうえ尾張まで御出になるとのことだったという

――『当代記』



古びて見苦しいからと言って、

2017年12月29日 16:42

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:10:25.04 ID:/1erROHT
大津の代官である小野半之助が、酒井讃岐守忠勝に申し上げた。
「勢多は海道往来の橋であり、殊に古代よりの名橋でありますが、現在では殊の外古く、見苦しく
なっております。ここ2,3年のうちに架け変えられるべきであると考えます。」

忠勝はこれを聞くと
「その橋が破損して、往来の人々が怪我や事故の危険があるのなら、どうして2,3年など待とうか、
早速に架け直すべきである。しかし修復によって持ち怺えられるのならば、修復で済ませるべきだ。

総じて橋というものは、『御代静謐久しく、この橋は何代にわたって伝わっている。』などと
言われるものであってこそ、兵乱の無い、天下静謐の印となる。

古びて見苦しいからと言って、改め造るべきではない。」

(武野燭談)



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:28:05.56 ID:/LKuYwzf
>>544
毎年年度末になると大して痛んでもない道路を舗装して予算を消費する現代の政治家に見習って欲しい。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:30:41.94 ID:LnqXQjAm
政治家はドカタのバイトでもしてるのか?

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:43:31.79 ID:QiWPbY9p
>>545
それは舗装が目的じゃなくて水道、ガス、下水などのメンテだ。

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 17:58:27.71 ID:hSRdluK6
>>545
電線を埋める工事もやってるぞ

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 21:05:12.09 ID:aDvRL7jL
勢多の橋というと織部の擬宝珠の話が思い出される

第一の善政

2017年12月28日 11:09

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 09:43:56.19 ID:SVRKQu46
品川・川崎の間を流れる川を六郷といい、その上流は玉川であり、江戸の南第一の大河である。
また江戸と本所との間に流れる川は隅田川の末にして、これも又城東の大河である。
みな要害第一の設と見える。であるが、この両川の往来、渡し船を待つ旅人、行客の
難儀を計り、酒井讃岐守忠勝は推して申し上げ、大橋を架けた。

「御用心向き如何か」
そう言う人があったのを、讃岐守は笑った

「天下の将軍は、人を以って城とし、人を以って垣とする。
その人を難儀させてしまっては、城にも垣にもならず、何の用にも立たない。
そもそも川を以って敵を防ぐような政道に成り下っては、江城は一日も守れないであろう。
ただ諸人が迷惑しないように仰せ付けられるこそ、第一の善政である。」

(武野燭談)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 11:16:09.20 ID:TGrYJby2
大井川はいいのか?

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 16:14:17.67 ID:iZWLj2wC
江戸川も

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 00:44:05.29 ID:rMgdWzCk
大井川に架橋って防衛目的もあったろうけど、技術的に大変そう
蓬莱橋なんか平成に入ってからも何度もぶっ壊れてるし

武臣たる者の実義は汝にある

2017年12月26日 18:20

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/26(火) 17:42:20.57 ID:0CHlz54H
榊原式部大輔康政は、尾州小牧山御陣の節、豊臣秀吉の不義を誹謗し、所々に高札を立てた

『秀吉は織田家取立の臣でありながら、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を亡ぼし、
今度は北畠(信雄)殿に敵した。誠に八逆罪の者であり、これに与する者に、どうして
天罰が無いだろうか。』

これに秀吉は大いに怒り
「榊原小平太を生け捕った者は、卑賤凡下を問わず、千戸侯を以ってこれを賞する」
そう諸将に伝えた。

その後、秀吉は関白なって京に在り、信雄を通して家康と和睦し、妹を送って縁を結ぶとの
事で、その準備が整うと、「三河殿より結納を遣わされたい。その使者に榊原小平太を
遣わされるように。」と所望した。
家康がこれを伝えると、康政は畏まって受け、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉は彼の旅館を訪れてこう言った
「今度私が汝を名指しして呼んだのは他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札を立てた憎さよ。私は汝の頸を一目でも見ることを願ったものだ。

しかし今、徳川家と縁を結びに至って、私は其方の忠誠を一入感じ入った。誠に武臣たる者の
実義は汝にある。私はこの事を直接言いたいがために汝を呼び寄せたのだ。
ただし、我が妹を遣わす結納持参の使者が無冠では如何かと思う。」

それから奏達あって、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて、この頃の徳川家諸将の
官名の多くは僭称であったが、この時康政が初めて式部大輔の位記口宣等を受領した。

秀吉より饗応もなされたが、相伴にと、先に徳川家を出奔した石川数正が、十二万石の大名として
秀吉によってあえて呼ばれた。しかし康政は終始数正と言葉をかわさず、その後御暇申し上げ
三河へと帰国した。人々は康政の節操に感じ入ったという。

(武野燭談)


教え方というものがある

2017年12月25日 16:31

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 09:42:05.44 ID:kXd3M8g5
三河において、壁書の条々を定められた時。百姓どもはこれを一向に用いなかった。
「如何したものか。」各々が対策を話し合った時、作左衛門重次はこのように言った

「土民はいろはですら、しっかりと知らない所に、硬い文言に古い言葉使いで高札を
立てたのだから、何を言われているのか解らないのだ。
教え方というものがある。私に任せられよ。」

そしていかにもまめに、いろはにて『何々のこと』と書き、『これを背くと作左が叱る』と
書き加えて出した。これ以降、国中の者達は法令を背かなくなったという。

(武野燭談)



537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 10:12:44.36 ID:fy+bl4gg
内容についてはこちらを参照
作左三カ条(まとめの7735)

別バージョン
本多作左衛門重次、しかる・いい話(まとめの59)

そういえば昔「さ」「く」「ざ」「が」「し」「か」「る」「ぞ」
をみんなが一文字ずつ書いて完成
してたな

ホワイトな社風です。

2017年12月23日 10:39

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 19:13:54.68 ID:CKRcIiGB
徳川家康が上杉征伐のため小山まで出陣の時、御供の小身衆の内に、妻女が患ったとの
知らせが届いた。そしてその話は家康まで聞こえた。
家康はその者に「早々に罷り帰るように。」と命じた。
この時家康は

「小身者の妻子が患っては、その家滅亡の端である。しかし合戦は今に限ることではない。」

そう伝えたという。

(士談)

徳川家は家族の看護休暇も奨励するホワイトな社風です。



529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 23:17:27.69 ID:gForfx/V
変な話、他全員も「ウチも奥さんが病気なんです。帰らせて下さい」って言い出したら家康ははたして「いいよ」と言っただろうか

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 23:53:05.73 ID:/EONut+W
申告が事実かどうか確かめるくらいはするだろ

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/23(土) 10:36:41.81 ID:juvFA36B
神君様のことであるから上杉征伐は合戦にはいたらないと見切っての余裕の処遇であったのである

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/23(土) 14:06:23.06 ID:jQhcW3Gv
合戦こそ今に限る話だろうに、この場合は消化試合に近い余裕かね

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 15:41:46.13 ID:5U6+iqs7
普通に石田を誘うための高度な戦略でええやん

人になれ人 人になせ人

2017年12月17日 12:26

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 11:33:38.32 ID:ucE4xaRX
将軍徳川家光が、久世大和守広之を、嫡子である家綱に付けるという時、家光は
久世を召して、この事を仰せ付けたものの、久世は一切お請け申し上げなかった。
家光の傍にあった堀田加賀守正盛は「早々御請あるべし」と勧めたが、久世は堀田に目を向け
「御辺の知る所に非ず!」と睨みつけた。その表情が普段と異なるのを、家光は見抜き、
不意に立ち上がった。
お傍の人々は「あわやご機嫌を損じたか」と驚き慌てたが、家光は筆を執ると短冊にこう書いた。

『人多き 人の中にも人はなし 人になれ人 人になせ人』

これは大神君(家康)の詠んだ歌であり、これを久世に与えた。
久世は「これならば」と、上意骨髄に徹し、有難く畏まって申し請けた。

(武野燭談)


大須賀康高には度量があり

2017年12月11日 16:59

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 15:57:56.91 ID:I55SSOBF
大須賀五郎左衛門尉(康高)は、自分で手を下して功を立てることは無く、常に家来や
小姓の中から器量あるものを選んで取り立て、彼らを以って功を立てさせた。

武田勝頼が高天神城に兵を入れて遠州を窺う時、家康は横須賀城を建設し、大須賀にここを任せた。
横須賀は重要拠点のため名のある者が多く集められ、中でも久世三四郎、坂部三十郎、渥美源吾、
丹波弥三、駒岡太郎右衛門、曽根兵衛左衛門、丹羽金十郎、これを七人衆と言った。

大須賀には度量があり、こう言った人々をよく従え、つもりを外すこと無く、傍に仕立てた
者達も皆武功があったという。

また長久手の合戦において、先手が敗北した時、大須賀は「味方の長追いは必ず敗軍の相である」と
考え、あらかじめ準備をし、小高い場所に馬を立て纏を置いて敵の攻撃を踏みこたえた。
このため大きな敗北にならなかったという。

(士談)


この夫婦の仲の良き事は、人間の世界にこれほどは

2017年11月22日 16:45

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 16:10:22.18 ID:l+yNUGUe
いい夫婦の日ということで
慶長十年~同十八年のものとされる、前田利家室・まつ(芳春院)が七女・千世に宛てた消息より


(第一紙欠)
はんふんはんふんにて候、をかしく候、おりへ事、よくそ御きも入候、りくつたて申候ハヽ、御しかり候て、よきやうに御きもいり候へく候、
天下さまハ七つましのミたいさまにて、なかのよき事、人けんにかやうの事ハ見きゝたる事もなく候、かしく、
(後略)

(――増補改訂 図録 芳春院まつの書状)


内容は、まつが従弟の養子で利家の実子とされる篠原長次(おりへ/織部)に嫁を世話するよう千世に頼んだところ、年上の女しか心当たりがないがどう思うか、という問い合わせが来たことへの返信と推測できるもの。
将軍・徳川秀忠(天下さま)は七つ年上のお江(ミたいさま/御台様)を娶っているが、この夫婦の仲の良き事は、人間の世界にこれほどは見たことも聞いたこともないくらいである、と例を挙げて、心配せずに縁談を進めるよう答えている。

よく恐妻家などと揶揄されているけど、人の目から見てこんな風に評されるいい夫婦の話



もしこの時取り乱せば、

2017年11月20日 12:56

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 09:51:24.57 ID:QuxzyNGx
水野下野守(信元)が、織田信長との間に事あって、三河刈谷から下城し大樹寺にて蟄居した。
信長から密かに、徳川家康へ水野を殺害するよう依頼があり、久松佐渡守(俊勝)を使いとして
水野を招いた。

水野は何の疑いもなく、その上久松が来たのだからと、彼を伴い岡崎へ至ったところ、
平岩七之助(親吉)に命じて水野を殺害させた。

この時、久松はこのような事に成るとは聊かも知らなかった。そのため日々の勤めが薄ければ
必ず取り乱したであろうが、彼は少しも動揺した様子はなく、由々しく見えたという。

しかしながら、久松は自分が人質のように遣わされたにも関わらず、この事について一言の
仰せも無かったため、もしこの時取り乱せば、一生のおくれとなったと、内心遺恨に思い、
以後、御前に出仕せず、死去するまで安居の領地に引き籠もったという。

(士談)



330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 11:03:09.52 ID:VzGyCTru
既に出てるな、出典無しだが。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3749.html

かかるお情け深き主君のためには

2017年11月12日 16:37

400 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/12(日) 16:26:23.36 ID:ROgrEiQQ
松平広忠エピが少なかったので投稿してみます。

ある年の田植えの頃、近藤某という譜代の士が貧乏だったため、自ら田植えをしていた。
松平広忠は鷹狩りの道すがら見とがめ、近臣に命じた。
「あれは誰か。見覚えがあるが連れて参れ。」

近臣たちは近藤が朋輩のため赤面していたが、命令であるので仕方なくこのことを近藤に告げた。

近藤は泥まみれのまま、真っ黒な顔で広忠の前に出た。
近臣達は近藤は成敗されるに違いないと心配していた。

広忠は涙を浮かべてこう言った。
「譜代の士なればこそ、このような暮らしにも堪え忍び、いざ鎌倉という折に身命や妻子を投げ捨てて、代々の主君のために忠孝を励んでくれるのだ。なんじらもおそらく、この近藤と同じことをこの広忠に隠しておるに相違あるまい。早く家郷に帰り、田を植えよ。」

これを聴いていたものはみな涙を流し、
「かかるお情け深き主君のためには一命はもとより、妻子をも顧みず奉公の誠を尽くそう」
と誓い合ったとのことである。



401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 16:31:11.88 ID:pu3bL6ey
できれば出典を…

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 19:34:15.73 ID:IZ4Go9pO
そして年貢を納めろか

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 20:43:18.40 ID:yuwsjLhx
松平家の家臣の忠義って個人的な美談じゃなくて、他国より中央集権的だったからなのかな

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/12(日) 20:43:39.39 ID:xEfHF25d
>>402
考え様によっちや休みも副業して働け
忠勤に努めよ


って事か… これはブラック三河武士

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 21:05:55.71 ID:VvYToCE8
側仕えはいいから野良仕事してこいやろ

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 21:39:06.14 ID:NInLM6wR
松平は野良仕事で済んでいる分まだマシ。宇喜多直家さんのところとか貧乏すぎて家臣一同定期的に「絶食の日」を作ったくらいだからな。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 04:02:56.43 ID:RuCFRyFm
>>406
横だけどソレ知らなかったわ、備前て貧乏イメージ無かったから。

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 05:09:25.65 ID:By1ObXnd
>>407
元々は家が滅んで放浪の末に戻って来て、一家臣になった時の話みたいだから
初心を忘れないように大名になっても続けてたみたいだけど

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 07:19:55.36 ID:GscqnKpT
それどころか盗賊働きもしてた話があったような

勝海舟「陸軍歴史」巻28より『寛永御前試合』

2017年10月24日 17:00

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/23(月) 21:58:16.58 ID:htmCXMy7
まとめの9741「講談、寛永御前試合では」でも触れられてるけど
勝海舟「陸軍歴史」巻28から抜粋

三代将軍家光公御代寛永十一甲戌年九月廿二日於吹上上覧所剣道立合之面々左之通り

   井場泉水軒・下谷御徒町住人

負  浅山一伝齋

鎧勝負
   初鹿野伝右衛門

負  朝比奈弥太郎

   竹内加賀之助・播州住人

負  由井直人・仙台藩

   仙台黄門政宗

負  秋元但馬守

   堀尾山城守

負  菅沼新八郎

   柳生市之丞・和州柳生の住人

負  石川又四郎

   佐川蟠龍齋・芝高輪住人

負  関口弥太郎・紀州郷士

   石川軍東齋・江戸小石川

負  松前帯刀・御取立の御旗本

鎧勝負
   大久保彦左衛門

負  加賀爪甲斐守

   樋口十郎兵衛・上州の郷士

討  中条五兵衛・甲州中郷士

   荒木又右衛門

討  宮本八五郎・豊前小倉藩

   芳賀一心齋・備中の郷士

討  難波一刀齋・遠州の郷士

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/23(月) 22:02:20.36 ID:htmCXMy7
荒木又右衛門、宮本八五郎(伊織)の名前が見えるのはご愛嬌として、
編者の勝海舟は大久保彦左衛門や伊達政宗の名前が出てくることに疑問はなかったのだろうか
しかもこの「陸軍歴史」って陸軍省が勝海舟に依頼している真面目な本のはずなのに



182 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/24(火) 17:38:14.80 ID:f/6URLZ0
>>180
これは魔界転生やってますわ

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/24(火) 23:07:06.45 ID:skh5btLk
>>181
海舟は政治家だから歴史が正確かどうかには興味なかったのでは

冥加無く生き残り

2017年09月29日 22:14

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/29(金) 08:24:08.37 ID:SOu1LN08
寛永島原一揆が落居の後、幕府評定所において、井伊直孝、保科肥後守、酒井讃岐守、堀田伊賀守、
松平信綱、並びに老中列座して、石谷貞清を召して、上意の旨を以って御詮議の事があった。
石谷貞清は討ち死にした最初の幕府上使・板倉重昌の副使だったのである。
やるべきではない合戦をして人を多く討たせたことは、板倉・石谷が焦って討って出た故である、との
詮議であった。

石谷は申し上げた
「聊かも焦って仕った事などありません。『松平伊豆守、戸田左門が後の仕置のため使わされる』との
御奉書到来の上は、なんとかして年内に埒を明けておくべきでしたが、その甲斐もなく、
ならば元旦に押し寄せ城を乗っ取り、『後の御仕置』が出来るようにしたい、との心得にて、元旦を
総攻めと決めたのです。
仮に『我々両人が仕る所悪しきにより、重ねて伊豆・左門を下す』という事であったなら、焦って
致すということも有ったかもしれません。

そういった事でありますが、内膳(板倉重昌)は冥加にかなって元旦に死を遂げ、御奉公の一通を立て、
この御詮議にも逢いませんでした。
私は冥加無く、只今まで生き残り、このような御詮議をも承ることになりました。」

この言葉にその座の何れも黙り込んだという。

(士談)

武士って厄介な連中だな



157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/29(金) 16:59:04.01 ID:lC8w7Akb
戦争が政治や外交の延長だってことを考えないとそう見えるかも

願うところの幸いに候

2017年09月28日 19:04

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/28(木) 18:02:08.18 ID:hprxhZ3H
大阪夏の陣の折、青山伯耆守(忠俊)の備えは敵を真向に受け非常な激戦を繰り広げたが、
伯耆守は青山組の侍に向かって叫んだ

「願うところの幸いに候!何れも悪びれたりするな、誰も誰も、今日を討ち死にと思い定めよ!」

しかし、これを聞いた野一色頼母が言い返した

「これは仰せとも思えない!他は知らないが、私は江戸を出る時から既に討ち死にと思い定めて
いるのだから、今日を限りの討ち死になどと存ずるまでもない!」

この一言に人々は勇気を励まし

「そうだ!頼母の言うとおりだ!」

と一同して勇んだ。野一色はその日、討ち死にを遂げた。

(士談)



此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも

2017年09月20日 18:56

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 13:56:29.58 ID:OF8oWH05
幕末、坂下門外の変で老中の安藤信正が襲撃された際、
背中に刀傷を受け武士として恥ずかしい行為と罷免されたけど、

部下を身代わりにしたうえ、ウンコ漏らして逃走した権現様の前で
それ言えんのかと思う

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 15:01:59.92 ID:ITKlOKd1
馬場美濃が「首が我々武田に向かっていた死体はすべてうつ伏せ
浜松に向かっていた死体はすべて仰向けでした」
と家康の家臣が家康を逃がすために懸命に戦ったことを
讃えた逸話が有名なのにそんなツッコミ入れても

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 16:31:59.01 ID:2vMxxcGJ
そもそも脱糞は捏造だし

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 17:16:14.53 ID:EHDp9M22
>>120
ただのマウンティングだから
気の弱そうな奴とか自分が気に食わない奴にしか言わない

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:25:47.93 ID:+sb4bRcX
江戸末期と戦国時代じゃ価値観が違いすぎる

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:41:21.22 ID:VB9ybVN6
背中の傷は恥って背後から襲われたらアウトじゃんww

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:51:23.18 ID:ln2oHHsQ
>>125
そう
前後から挟み撃ちにされてるってことだから生き延びてるわけがない、てこと

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:01:10.23 ID:jyl/7Fs3
理屈じゃないんだよなぁそういうのって

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:42:32.81 ID:im4tbZsM
つうか、安藤の話は政敵を追い落とすためのこじつけだし。
安藤は不意打ちで怪我したけど、襲ってきた敵を殲滅して、怪我の痛みに耐えて公務を行った。
これで士道不覚悟とか、ありえないだろ。

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:47:07.84 ID:j0qCClEO
戊辰の頃になるとそういう実戦とは無関係の机上の観念論は力を失ったけど、
それまでは妄想しまくった童貞のようにわけわからんこと言っていたからなぁ…

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 01:03:22.99 ID:um2u10wi
>>121
の話がまとめサイト見たらまだ出てなかったようなので「徳川実紀」元亀三年の箇所より抜粋
(家康の伝記の多くに取り上げられてるから有名だけど)
十二月二十二日三方が原の戦い御味方利を失い、御家の軍勢名のある者どもあまた討たれぬ。
入道(信玄)勝ちにのり諸手をはげましておそい奉れば、夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに
かろうじて浜松に帰りいらせたまう。
(夏目が永禄時代に一向宗門徒に与していたが救われたため)この日御恩に報いんとて○○(家康への欠字)
君敵中に引き返したまうを見て、手に持ちたる槍の柄をもて御馬の尻を叩き立て、御馬を浜松の方へおしむけ、
その身は敵中に向かい討ち死にせしとぞ。
その時敵ははや城近く押し寄せ立てれば早く門を閉めて防がんと上下ひしめきしに
○○君きこしめし必ず城門を閉めることあるべからず。後より追々帰る兵ども城に入るたよりを失うべし。
また敵大軍なりとも我籠もる所の城へおしいる事かなうべからずとて、門の内外に大篝火を設けしめ、
その後奥へわたらせたまい御湯漬けを三椀までめしあがられ、やがて御枕をめして御寝ありしが
御高鼾の声、殿外まで聞こえしとぞ。近く侍う男も女も感驚しぬ。
敵も城の体いぶかしくやおもいけん。猶予するところに鳥居、植村、天野、渡辺等の御家人突いていで追い払う。
その夜大久保七郎右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより穴山梅雪が陣に鉄砲撃ちかけしかば、
その手の人馬が機?に陥り踏み殺さるるものすくなからず。
入道(信玄)もこの体を見て大いに驚き、勝ちてもおそるるべきは浜松の敵なりと驚嘆せしとぞ。
また武田が家の侍大将馬場美濃守信房というもの入道に向かいて
「あわれ日の本に越後の上杉入道と○○徳川殿ほどの弓取りいまだ侍らじ。
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも戦わざるは一人もなかるべし。
その屍こなたにむかいたるはうつぶし、浜松の方にふしたるはのけざまなり。
一年駿河を襲いたまいし時、遠江の国をまったく○○徳川殿にまいらせ、御ちなみをむすばれて先手をたのみ
たまいなば、このごろは中国九国までも手に立つひとなく、やがて六十余州も大方事行きて候わんものを」
といいけるとぞ。勝戦してだにかくおもいし程なれば、入道つづきて城を囲まんとせざりしもことわりなるべし。