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汝はどうして、他の者と共に行かなかったのか

2021年01月22日 17:53

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/22(金) 13:37:59.34 ID:5jChY7Bo
徳川家康公が有る時ふと、広間に御出に成られたが、この時広間には、番衆がただ一人しか居なかった。

「どうして番の者共は広間に詰めぬのか!?」

そう仰せに成り、御機嫌もよろしく無かった。
かの一人だけ在った者が申し上げた

「たった今までここに詰めていたのですが、皆相撲見物に出てしまったのです。」

これを聞くと家康公は
「汝はどうして、他の者と共に行かなかったのか。」
と仰せに成り、奥へと入られた。深きお考えの有る言葉であったという。

(備前老人物語)



860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/22(金) 23:25:58.77 ID:yPt2QclP
>>857
予定外の時間に出てくんなってことだな
社長がふらっと予告なしで一般社員のフロアに出てきたらちょっと迷惑だしな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 17:34:28.59 ID:Fh3YuJ7t
>>860
最近の研究で出てきた人の良い家康さん像だと
最初の発言は「勤務中に役割を疎かにするとはけしからん!仕事に励むべきでは!?」と取れるし
その後の発言は「え!?相撲見物なら仕方ないね!そういうときは君も同僚に付き合った方がいいよ!(本当に必要なら小姓に探しに行かせるし)」みたいな発言とも取れる。

あるいは「たった今まで」という発言を「同僚を庇った」と解釈して「そういうときは君も行っていいんだよ(=同僚を私は責めない)」と言ったようにも取れる。
そうじゃないと三河者は責任者クラスがすーぐ腹を切ってお詫びしちゃうので。

というか本当に深い考えあったのか?
無理に持ち上げてない?

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 17:53:25.11 ID:WKvEYzad
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1502.html
番衆が城内で相撲取ってどったんばったんしてるとこに出くわした家康が
「相撲を取るときには畳を裏返すのだぞ」
と諭した話も出てたっけ

863 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/23(土) 17:53:49.45 ID:VockI350
いつもどおりの気持ち悪い神君持ち上げ
言論の自由なんてものがない江戸時代に
生殺与奪権を握られてる人を正確に評価できるわけがない

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 23:58:03.41 ID:LnvKmP+G
>三河者は責任者クラスがすーぐ腹を切ってお詫びしちゃうので。
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一里づかつき給ふ事

2021年01月20日 17:29

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/20(水) 14:34:13.11 ID:shinWrHe
一里づかつき給ふ事

今は国が収まり、土民までも安楽である。世は澆季(末世)に及ぶと言えども、君は順徳を施し給われ、
仏法王法共に繁盛する、有難き御時代である。

然れば日本の五畿七道は、人王三十二代、用明天皇の御宇に定まった。六十六ヶ国に分けられた事は、
四十二代文武天皇の御宇である。道については四十五代聖武天皇の御宇に、行基菩薩が六町一里として、
王城よりみちのく東濱に到って、三千五百八十七里に極め、また長門西濱に到って千五百七十八里と、
くわしく図書に記し置かれたが、その境は定かではなく、これによって当君の御時代に、一里塚を
作るべきよしを仰せだされた。

日本橋は慶長八年、江戸町割の時節に新しく出来た橋である、この橋の名を、人間は名付けておらず、
天より降ってきたのか地より出てきたのか、諸人一同にこれを「日本橋」と呼ぶようになったのは
稀代の不思議とされた。そして、武蔵国はおおよそ日本東西の中間の国に当たるとの御諚があり、
江城日本橋を一里塚の起点と定め、三十六町を道一里として、これより東の果て、西の果て、五畿七道
残る所無く一里塚を築かせられた。

日本は年久しく治まらず、諸国乱れて辺土遠境の道は狭くなり、また曲がっていたが、そういう所を
見計らい、直線にし道を広げ、牛馬の蹄が労せないように、石を除き大道の両辺に松杉を植え、
小河には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間往復のたよりに備えられた。
これは慶長九年の事である。
万民喜悦の思いを含み、万歳を願いあった。
このような将軍国王の深恩に、末代までもどうしてこれを疎かに出来るだろうか。

見聞集



語るに飾り無く

2021年01月07日 18:21

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/07(木) 17:15:47.53 ID:VGqIU3AW
ある時、古田大膳(重治)が青木民部少輔(一重)に向かって言った
「あなたは越前の真柄(隆基)を討ち取られたと聞きます。その時の様子を語って頂けないでしょうか。
私はそれを承りたく思います。」

これに対し青木は
「真柄という人物は、大剛大力の者であり、本来私などに討たれるような人物では有りませんでした。
しかし折ふしの仕合良くて、真柄が手負い、くたびれていた所に行き掛かって討ち取ったのです。
何の、様子と言うほどのこともありませんでした。」
と答えた。

これに、「語るに飾り無く仰られることだ」と、古田大膳を初め聞く人たちは皆感じ入ったという。

備前老人物語



髪結職分は「一銭職」と唱えるべし

2020年12月15日 18:50

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/15(火) 12:49:16.88 ID:Q4CyFfTC
北小路藤七郎は正長年中より元亀の頃、美濃国金華山岐阜に流浪した。
遠州三方ヶ原において、東照宮(徳川家康)が甲駿の武田大膳大夫晴信と御一戦あそばした頃は、
元亀三年十月十二日(実際には十二月二十二日)の事であったが、東照宮が東海道見附宿の袋井腋、さつ原へ
御帰城の際、大風雨にて天竜川は満水に及び、舟で渡ることも叶い難く、御難儀の所、丁度北小路藤七郎
行きかかり、川を見て浅瀬の瀬踏みをし、御案内したことで、恙無く川を越えられた。
御喜悦浅からず、これによって浜松城にお入りに成った。この時、殿を勤められたのは本多平八郎忠勝殿であった。

御引き揚げが済み、北小路藤七郎は三州原村までお供をし、そこで東照宮の御髪を揚げた事に対し、
御褒美として金銭が一銭、笄一対が榊原小平太康政殿を以て頂戴仕った。これによって、以後髪結職分は
「一銭職」と唱えるべし、という旨の台命を蒙った。そしてすぐにお暇を下され置き、それ以来、
一銭職の者たちは、諸国の関所、川々に至るまで、相違なく通過出来るようになった。

また慶長八年に江戸に御入国された時に、北小路藤七郎をお召に成り、「先年の御褒美」として、
青銅千疋を、伊那熊蔵殿を以て拝領した。

髮結職由緖之事

権現様、三方ヶ原では髪結にまでピンチを救われていたとは。
実際に髪結は江戸時代「一銭職」とも呼ばれていたようで。




763 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/16(水) 16:56:20.08 ID:JZwQXhxJ
一銭職にはこういう言われもあるわけで・・・

世界大百科事典
「髪結」
髪結にはまた一銭職(いつせんしよく)という異称があった。これは享保年間(1716‐36)に
髪結仲間が公儀に差し出した《壱銭職由緒之事》によると,三方原(みかたがはら)の戦のさい
髪結職の北小路藤七郎なる者が徳川家康の危急を救って賞されたことに由来するとしている。
しかし実際は,髪結発祥期に路傍に床を置き,通行人の求めにより月代をそり,髪を結ったときの
賃銭が1文で,一文ぞりと呼ばれたことに起因し,それから一銭ぞり,一銭職となったものと考えられる。

wikipedia
藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき、1335年(建武2年)4月17日[1]または7月17日[2]または10月17日[3]没)は、
日本における理美容業の祖といわれる。昭和のはじめ頃まで全国の理美容業者は采女亮の命日である17日を毎月の休みとした[2]。
功績により従五位[1]。

采女亮の子孫は代々髪結を業としていた。徳川家康が武田信玄の勢に押され敗退の際、17代目北小路藤七郎が天竜川を渡る
手助けをしたことから褒美と銀銭一銭を賜り一銭職と呼ばれるようになった(なお理美容業の定休日が17日だったのは
家康の命日が4月17日であるためという説もある[2])。その後「御用髪結」を務め、21代幸次郎の時に江戸髪結株仲間(組合)を
申請した[6]。史料は亀山天皇時代の出来事から書き始められ、吉宗や大岡越前も登場する[書 3]。



なお北小路家本家は維新後華族となったとのこと。

腰抜の吹は鳴らぬ物ぞ

2020年11月20日 16:42

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/20(金) 11:53:31.97 ID:iz2k0goG
本多三弥(正重)は、隠れ無き剛直の武士で、元は本多美濃守の家臣であり、後に蒲生氏郷に属した。

蒲生氏郷が九州の役で、筑紫の岩石の城を攻められた時、氏郷が貝を吹こうとされたがが、この時三弥は氏郷に
「腰抜けが吹いても鳴らぬものだ!(腰抜の吹は鳴らぬ物ぞ)」
と云って、引き奪って音高く吹いた。

帰陣の後、氏郷はこれを意趣に思い、ある時、三弥が禁所にて鳥を打った事を理由として、三弥の屋敷を
取り囲んでこれを誅殺しようとした。

この時、都筑惣左衛門と云って、東照宮(徳川家康)旗下の武士が通り合わせ、その故を問うた。
しかじかと理由を聞くと、彼は三弥の大知音であったので、鑓一本を持って三弥宅へ駆け入った。
攻める者達はこの事態を氏郷に注進し、「この者、共に討ち取るべきでしょうか?」と尋ねた所、
どういうわけか「二人ともに逃がすように」と云われた。これによって、遂に命を全うした。

この都筑は面相が生まれつき、猿に似た人であった。現在も幕府の旗下にその子孫がある。

老人雑話



『本多越前守利長家之覚書』にみる合戦討ち死に、負傷記録

2020年10月08日 17:23

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/07(水) 23:48:58.33 ID:GcERk3uE
『本多越前守利長家之覚書』にみる合戦討ち死に、負傷記録

・本多広孝、永禄6年東三河の戦い(首50余を挙げる)
広孝家人、雑兵30人討ち死に
・同、永禄12年今川氏真による掛川籠城戦(首8を挙げる)
畔柳又八が討ち死に
・元亀元年姉川の戦い(広孝は鑓で突かれたが、具足に当たって肌に傷はなし)
家人、長坂次郎太郎、尾崎彦五郎が討ち死に
・天正元年、遠州森の戦い(殿として武田軍と応戦)
家人、雑兵32人討ち死に
・本多康重、天正3年長篠の戦い
(鳶の巣砦攻防で)3人討ち取るも、自身は手傷を2カ所に負い、左のまたに当たった鉄砲玉は死ぬまでとどまることに
・天正6年遠州諏訪原城の戦い
敵の鉄砲が当たったが、さして痛くはなく、じきに平癒した
・天正12年長久手の戦い(羽柴秀次、堀秀政勢と交戦。敵を組み討つも手傷7カ所を負う)
家人、大久保久右衛門、平井善五郎、長坂外記はじめ計36人戦死
・康紀、元和元年大坂夏の陣(鉄砲が兜の真ん中に当たり、鉄砲玉がひしげたが無傷だった)
長坂勘三郎、阿部半左衛門、9人が手負い、そのほか足軽少々が討ち死に



徳川家康の鷹狩のスケジュール

2020年10月06日 18:06

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/06(火) 16:16:17.61 ID:KnRn4aXP
慶長十七年正月

七日、今日より三河国吉良で御鷹野を成されるため駿府を出発された。この日は田中まで進まれた。
八日、相良でお止まり宿された
九日、横須賀に到着された
十日、中泉に到着された。この晩、織田有楽が江戸から帰る途中、ここに於いて家康公に御目見得し、
   鷹狩で得た鶴を賜った。また上洛することを仰せに成ったという
十一日、当所で御鷹場のため御逗留
十二日、浜名に到着
十三日、吉田に到着、城主松平玄蕃頭に銀百枚を賜る
十四日、吉良に到着(中略)

十六日、御放鷹。今日青山図書助が御使いのために来た。これは御鷹野の御見回りと云々。
    京極若狭守忠高、同丹後守が使者を以て御服并びに嘉肴を献じたという。
十七日、御鷹野。今日、鷹の捕らえた鶴を仙洞御所(上皇)に進上、また伝奏の広橋兼勝、勧修寺光豊には
    鷹の捕らえた雁を各3羽ずつ遣わしたという
十八日、御鷹野。鷹の捕らえた鶴を秀頼公に贈るという
十九日、御鷹野。今日成瀬隼人正、竹腰山城守に、駿府に参るよう仰せに成った。これは名古屋の
    御普請についての仰せ付けと云々

二十日、岡崎着。城主本多豊後守に銀子百枚賜ると云々

二十一日、御鷹野。松平摂津守御前に出ると云々
二十二日、御鷹野にて得た鶴を主上(天皇)に進ずると云々
二十三日、御鷹野。成瀬隼人正、竹腰山城守が参ったと云々
二十四日、御放鷹。松平筑前守利光(前田利常)、御服二十領を献ずる。そして家康公の御鷹の捕らえた鶴が
     遣わされたと云々
二十五日、御鷹野。羽柴右近(森)忠政、緞子御袴を献上したと云々。
二十六日、大樹寺に御参詣。これは御祖父の菩提所であり、銀子五十枚を住持の僧に賜った。
     また正應寺(松應寺カ)にも参った。これは故大納言殿(松平広忠)の墳墓の所である。
     銀五十枚を院主が賜ったという。
二十七日、名古屋到着。

駿府記

駿府記より、慶長十七年一月、豊臣家との関係も割と安定していた頃の徳川家康の鷹狩のスケジュール。



『諸士軍談』より老いた家康②

2020年10月05日 17:46

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 23:18:52.57 ID:I2yHnBnf
諸士軍談』より老いた家康②
※『』内は原文です

・ぬるい攻め
6日には(家康が)「軍法を守りすぎでぬるい」と中山勘解由を使い番として本多忠政の元に派遣した。
(中山が)「『なせにかからぬ』」というと、(本多は)「軍法に背く」。
中山は「さてさて、その方は忠勝の子ではないのか?。どこに軍法の入り込む余地があるのだ?」
別所孫治は馬を乗り回し、「『やれかかれ、やれかかれ』。かようの時に懸からぬということがあるか。敵の手強いところに懸かってこそ侍ではないか。筑紫合戦のとき、尾藤甚右衛門は懸かるべきときに軍法を守りすぎ、攻めかからなかった。これを未練がましいと太閤は勘当された」。こう申した。
孫治は「馬1匹われ1人だけ(だから無理だ)と思っていては役に立たぬ」と言い放ち、馬を乗り回して味方を前進させようとしたが、一向に攻めかからなかったそうだ。
家康は「6日に岡山まで進軍して攻めかかったら6日に城は落ちたのに、あまりにぬるいので城が落ちなかった」と「しかり」つけた。

・「親を殺して何の役に立つのか」
6日の晩、家康は秀忠に近藤石見を使いにやり、「日が暮れてもかまわず、1日中、平押しに押し寄せろ」と命じた。
家康は干し田から行列もつくらず平押しに押し寄せ、秀忠の備えの後ろまで追いついた。
「やれ、おれの後ろについて攻めに攻めまくれ」と家康は秀忠の備えを割って前進しようとした。
秀忠の小姓組番頭、成瀬豊前は「大御所様は格別だが、お供の衆は通さない」と申したが、家康はかまわずに押し通った。
本多正純は「『親を殺して何の役に立か』」といってお供の衆も通した。
秀忠の備え(の中心部)は割らず、少し道を空け、横道を(家康勢は)押し通った。

・ぬるい攻めとの矛盾
家康がいうには「何度、軍法を話しても覚えられるものではない。ただただ、合戦は勢い次第である。それならば、秀頼と組み合い、上になった方が勝ちである」。これよりほかに軍法を申しつけることはなかった。

・無差別通り魔事件
大坂の陣の前には怪事はなかったが、駿府で女が髪を切られる事案が発生した。無差別に11人切られたという。
(世間では)「大久保長安のところにいた欠所女(死後、お家断絶)の犯行か」と噂されている内に、よき上臈まで切られたので家康に報告すると、「『おれか髪を切るまい切るまい。おれか髪か立(断つ)ものハ有之まし』」との上意だった。


『諸士軍談』より、老いた家康のはちゃめちゃ①


398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/05(月) 12:46:21.41 ID:X2O9MJfU
軍法守れば怒られて、守らず突進すれば抜け駆けと責め立てられる
難儀な商売だな

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/05(月) 15:57:42.58 ID:2ECRWgfm
中山勘解由は第二次上田合戦で軍法破って抜け駆けして逼塞させられていて、
上田城攻め従軍していた忠政にはよくよくご存知の人物
別所孫次郎は兄の信範が秀頼に仕えて大坂城内におり、
是が非でも戦って見せねばならない立場

「軍法破っても突っかけろよ」って督戦役としてもってこい
こんな負い目のある奴らに来られても忠政も困るわな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/05(月) 20:52:48.79 ID:gFjyZTi6
豊臣家滅ぼす戦いで太閤の例出されてもな

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/06(火) 14:35:13.96 ID:3Muezd83
いくさの世はもう終わり
最後にもう踏ん張りして加増を求める者と、そうでない者との温度差ってやつよ

『諸士軍談』より、老いた家康のはちゃめちゃ①

2020年10月02日 18:10

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 22:49:30.15 ID:knvDGzGe
諸士軍談』より、老いた家康のはちゃめちゃ①
(有名な話もありますが…)

・大坂の陣に燃え、意気盛んな家康
(慶長19年)11月15日、権現様(家康)は京をたって、大和路を進んだ。秀忠も同日に(京を)出立し、本道を進んだ。
家康は木津に至って「茶釜の湯で湯漬けを出しなさい」と命じた。
すると本多正純は「御膳で食べるのがよきかと」と進言したところ、「『タワケ』なことを。なぜ御膳を食べろなどというのか」と湯漬けを立って食べた。
「奈良へ出ろ」と命じ、そのまま立っていた。いずれの者もここで一泊すると思っていたが、ふと出立したので「やうやう」30騎ばかりしかお供衆はいなかった。
家康の旗印は翌日追いついた。(御旗が追いついた日は)雨が降っていたので「奈良に逗留する」と話していたが、にわかに出発し、宝蔵寺に宿泊。
翌17日に住吉へ着陣した。

・支離滅裂な家康
茶臼山の普請ができていなかったので、住吉に陣を置いていたが、ようやくできあがり、12月4日に移るはずだった。
ところが、その日は霧が深かったので6日に陣を移した。
このときの霧で井伊直孝と藤堂高虎は大坂城に乗りいるはずだったが、乗り込み損なった。
秀忠は立腹したが、家康はご機嫌に話をしていた。

・憎きやつじゃ
(家康は)「鬨の声を1日に2度、竹束の裏から揚げよ。夜の九つ(午前0時頃)に揚げよ」と命じたが、いまだ空が明るいうちに鬨の声を揚げてしまった。
城内からも鬨の声が揚がり、同時にたいまつを投げつけてきたので「火事の様にみえ」た。
(家康は)機嫌が悪くなり、「どうも城方に内通している者がいるようだ。『にくきやつしや』」と言った。
案のごとく、秀忠使い番の青山石見が城方へ「帰忠」すると内通していたことが露見し、陣のあとに成敗した。
鬨の声は夜の八つに揚げ、城からも鬨の声に合わせて鉄砲を撃ちかけた。

・言行不一致な家康
(夏の陣で)秀忠は4月22、23日ころだろうか、夜を日に継いで上洛し、道中では上杉景勝や佐竹義宣、伊達政宗なども追い抜いた。
家康は機嫌が悪くなり、2日間にわたって秀忠と対面せず、「『たわけなる事じや。軍勢を跡におゐて主一人来ては何の役に立申か』」との上意だった。
秀忠は関ヶ原の時、真田に隙をとり、家康に面会できなかったことを無念に思っていた。
今回、家康が上洛したので、「私が行くまで待っていてください」と秀忠はお願いし、心得ていたが、「敵が出てきては待てない」とも。
これに秀忠は慌て、急いだのだという。
※半年前に自分は御旗衆までまいたことを忘れている権現様


『諸士軍談』より老いた家康②


汝は福島左衛門大夫正則の友人であるので

2020年09月26日 17:53

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/26(土) 17:01:50.27 ID:rnApk812
慶長十九年十月八日、今日、竹中伊豆守(重利)が御普請の隙が明き、江戸への参府のため
大御所(家康)に御目見した。この時大御所の仰せに

「汝は福島左衛門大夫正則の友人であるので、彼のもとに使いをしてもらいたい。その内容は、
今度秀頼が野心の巧を起こしたが、これは秀頼が行ったことではない。織田有楽、大野修理、
木村長門、渡辺権兵衛、その他若輩の者達が秀頼に悪逆を進めたのだろう。

正則は太閤に好まれていたことで、秀頼とも疎遠ではない。しかしながら今度の秀頼の別心について
どのように考えているかという事について、彼が我等父子に対して逆心など有るはずもないが、下々は
狐疑を作るものである。
であるので、手元より人数を国元に下し、息男である備後守(忠勝)を添えて、大阪表の攻め口に加勢し、
正則は江戸に在るように。」

と仰せになり、江戸に遣わしたという。

駿府記

正則をむしろ気遣っているっぽい



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/26(土) 17:58:21.29 ID:FUSAutg7
そりゃあ広島49万石がトチ狂って大坂方に付かれたら大変だからな、気も遣うだろ

589 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/26(土) 19:04:56.47 ID:NnWHuGt1
有楽が野心の側近連中に加えられてるのね
まぁ息子がバリバリの過激派だしそれ掣肘してないしそうも見えるか

『駿府記』より、大阪冬の陣の勃発について

2020年09月24日 18:35

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 17:28:03.64 ID:tQa17/WK
慶長十九年
九月二十五日、今日大阪の片桐市正(且元)より駿府に飛脚が参着した。その状に云わく、
去る十八日駿河より大阪に帰り、御意の旨を申し上げ、末々将軍家と不和に成るのは如何かとして、
秀頼が江戸に在府するか、御母(淀殿)が江戸に在府するか、そうでなければ大坂城より退き、
御国替えが然るべしとの旨を申し上げたところ、これを秀頼并びに御母は不快に思われ、
市正を殺害するとの内存があると知らせてきた者が有ったため、出仕を止め引き籠もった、
という内容を上野介(本多正純)が上聞に入れた。大御所(家康)はいよいよご立腹なされた。

十月朔日、京都より伊賀守(板倉勝重)の飛脚が到来した。その状に云わく、去る二十五日、
大阪において大野修理、青木民部少、石川伊豆、薄田隼人正、渡辺右衛門佐、木村長門守、
織田左門、その他十余輩が、秀頼の仰せによって市正を殺そうとしたが、市正はこれを知って
私邸に引き籠もっているという旨を、本多上野介、板倉内膳正(重昌)が大御所に言上した。

これに対してご立腹甚だしく、大阪へ御出馬する事を、近江、伊勢、美濃、尾張、三河、遠江へ
仰せ触れられた。また江戸の幕下(秀忠)にも仰せ遣わされた。

また伊賀守より飛脚が到来し、その書状に云わく、市正が駿府に下向したなら。秀頼をも城から出して、
織田常真(信雄)を大坂城に入れ、彼を大将として籠城するとの旨を、織田左門その他が談合していると云う。

六日、京都の伊賀守より飛脚到来。織田有楽が伊賀守方へ一通の書状を遣わした。その書状に云わく、
今度の大阪の雑説について、市正の駿河への御使いの内容が悪しき故に、秀頼公が御折檻に及んだ所、
市正とその弟の主膳が摂津棘木(茨木・市正領)へ立ち退き、これによって大阪は以ての外の騒動と
なったが、我等は全く両御所(家康・秀忠)に対して野心は存ぜず、という旨が宣われているという。

七日、今日、片桐市正・主膳の使者である小島勝兵衛、梅津忠介が来て、大阪より茨木へ立ち退いた
事について、本多上野介を通して言上した。両使は召し出され、御服、御羽織を拝領した。
また御書が遣わされ、その内容は『今度佞人達が様々に申した事により、茨木まで立ち退いたとの事、
神妙に思う。なお本多上野介に報告するように。』というものだという。

駿府記

大阪冬の陣の勃発について。



352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 23:54:48.52 ID:T4NDgTeu
織田左門は頼長か、こいつ織田の血筋使って悪さしようとしてんなぁ
親父の有楽はさすがに状況のやばさ理解してすぐに書状送ってるのね

『駿府記』より、方広寺鐘銘事件について

2020年09月23日 18:41

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:18:37.90 ID:Nl3xNW4I
慶長十九年
七月二十一日、大御所が源氏物語の講釈を受けられた。飛鳥井(雅庸)が講読し、御数寄屋次之間にて
行われた。その後近習四、五輩、および伝長老、板倉内膳(重昌)の両人が召された。仰せに曰く
「(方広寺)大仏の鐘銘に関東不吉の語があり、また上棟の日も吉日ではない。」
とお腹立ちだったという。

二十六日、今日、片桐市正(且元)より一通の書状、并びに板倉伊賀守(勝重)の書状が駿府に
到来した。その内容は、

『方広寺大仏の供養を来月三日、開眼を十八日に成す予定であるが、その十八日には豊国臨時祭が有るため、
三日の早朝に開眼を行い、その後供養を行いたいのだと、秀頼が仰せに成っている』という。

大御所は「今度の大仏供養については、棟札といい鐘の銘といい、遺憾で不快である。
また往時源頼朝の時代も、開眼と堂供養の間は十年を隔てている。先例を考え、諸事後難無きように。」
と仰せ遣わし、本多上野介(正純)、伝長老がこれを奉った。

八月二日、方広寺大仏殿の鐘銘の正確な写しが駿府に到来した。中井大和守(正清)がこれを捧げた。
件の鐘銘は東福寺の韓長老がこれを書いたが、『国家安康』の語が不快であり、その他にも文章の中に
所々不快の語があった。一通を写し、これを江戸に遣わした。林道春がこれを奉った。

四日、大仏殿の棟札の写しが駿府に到来した。中井大和守がこれを奉った。照高院道勝法親王がこれを
書かれたのだが、大御所の御意に叶わず、ご不快にて、仰せに曰く
「鐘銘については、奈良大仏の鐘銘に准ずるべき旨を云っていたのだが、相違え、また秀頼より、
彼が出京するために、供奉の者たちを諸大夫に任じたいと云ってきたため、諸大夫に任官させたのだが、
その秀頼の出京は中止に成ったという。頗る不審である。」

五日、今日、大仏の鐘銘と棟札の内容を、大阪より片桐市正が大御所に捧げ、御前において、金地院崇伝が
これを読み、中井大和守が差し上げた。その内容はそれまでに報告されていた書付の内容と相違無く、
件の鐘銘の善悪について、五山衆に評価させ、それを書き記して提出するようにと仰せに成った。
この御使いとして、板倉内膳正が京都に赴くようにと仰せに成られた。

駿府記

方広寺鐘銘事件について。実は棟札の問題とセットだったんですね。



347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:52:42.97 ID:XZPd+AJg
丸島氏が言っていたと思うけど
豊臣家が何個もやらかしててそのうちの1個が鐘銘ってだけなのよね、しかも鐘銘に関しては確認とって西国じゃそういうのもあるんだろうぐらいで落ち着いてるようで
出兵の決定打は取次の片桐の追放とのことみたいね

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:03:18.16 ID:aMwBT9L+
追放じゃなくて退転じゃないの
関東にとっては同じことだろうけど

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:54:08.28 ID:FN2WPn7a
>>348
片桐且元・織田信雄が暗殺されかねない危険な状況だったのだし、
同時期に多数の重臣が退去しているのだから、より酷いわな。

徳川が腹黒いとか言われる方広寺鐘銘事件とか福島・加藤など豊臣恩顧の大名の改易とかは、
調べれば調べるほど、こりゃ当然そうなるわな…という感じ。

もちろん、大久保長安事件とか宇都宮城釣天井事件とか、
徳川内部での騒動だとアレだけど。

駿府の浜に揚がった謎の巨大生物

2020年09月22日 18:13

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/21(月) 19:50:19.72 ID:W/E8RYZN
慶長十九年四月五日
今日駿府の前の浜において、亀に似た魚が網によって引き揚げられた、漁師たちはこれを城に運んできたが、
二十余人で運ぶほどの大きさであった。

背は黒く、亀の甲羅のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三股に分かれていて大鱗が有り、腹の色は斑であった。
諸人はこれを見て様々に噂し合ったという。

駿府記

駿府の浜に揚がった謎の巨大生物について



562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 21:49:32.28 ID:BWWDYY4m
う~マンボウ!でござる

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 00:58:04.17 ID:YyyVtWjH
北条氏康も大きな亀が捕れて喜んだ逸話があった気がする

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 10:40:03.20 ID:9hWHoZeS
鱗があるなら魚だろう
サメだなたぶん

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 19:10:00.52 ID:mX0GhiAu
ヤリマンボウらしいけど、ヤリマンボウちゅう名前だけでおなかいっぱいだよ

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 20:00:21.66 ID:8wpI9iGO
ヤリマンに棒が生えたのか、ヤリマンのための棒なのか…

『秀頼』と焼き印を

2020年09月20日 17:48

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 12:03:46.31 ID:u8VnV0o8
慶長十九年十一月二十五日

(大阪冬の陣の最中)城中の下臈の者が、浅野但馬守(長晟)の手に走り入った。
この者を大御所(徳川家康)が御前に召され、参上すると彼に城中の様子を問われた。
かの者は申して曰く

「藤堂和泉守(高虎)、浅野但馬守以下、各々秀頼に音信を致している。」

これに対し家康は「偽を申している。」として、彼の額に『秀頼』と焼き印をして城中に追い返した。

当代記



悪口の罪軽からず

2020年09月19日 17:58

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/18(金) 21:18:26.35 ID:E9wTxwXD
慶長十七年七月十三日、彦坂九郎兵衛の申す所によると、一昨夜、飯田伝吉朝比奈甚太郎松野勘介
(共に中将殿(徳川頼宣)御小姓)が駿府の町中に於いて喧嘩に及んだ。これは甚太郎、勘介が伝吉に対し
悪口を吐き、剰え刀を抜いてかかり向かった事が原因であった。

その時伝吉は堪忍能わず、散々に切り合い、その場において松野勘介とその郎党を殺し、朝比奈甚太郎
二、三箇所の疵によって倒れ臥した。

伝吉はその場から逐電したが、大御所(徳川家康)はこの事件を聞き召されると
「飯田は手柄を顕した。」と御感になり、これを召し返した。
また生き残った朝比奈甚太郎に対しては「悪口の罪軽からず、殺害されるべし」と仰せになった。

駿府記



『岡田竹右衛門覚書』より、中編

2020年09月18日 18:17

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/17(木) 23:50:47.78 ID:dTEGrb0q
岡田竹右衛門覚書』より、中編

・上も下も面倒な三河武士
遠江、見附の原にいろいろと砦をもうけ、掛川へ軍事行動をしたのは本多豊後守(広孝)、鳥居彦右衛門(元忠)、松平左近(注、竹右衛門の主人)などであって、そのとき石川新兵衛という者が功名を挙げて乗り来たり、竹右衛門、星野角右衛門、左右田弥五八の3人に向かい、「竹右衛門、これを見よ」と馬上より首を見せてきた。
竹右衛門はこれを聞き、「私に対してこれを見よという言葉は不似合いである」と返した。
すぐに(竹右衛門は)角右衛門と弥五八に向かい、「おまえらはここで待っていろ。私は功名を挙げてくる」と言い、城下(敵の掛川城)に帰って功名を挙げてきた。
その間に諸軍勢は引き上げたが、その2人は竹右衛門を待っていたところ、竹右衛門は帰ってきて、「おのおの、神妙である。ただいままで待っていてくれたことはかたじけない」。
さて、左近は竹右衛門を呼んだがいなかったので、本多豊後守は「もしかしたら竹右衛門は討ち死にしたのではないか。心許ない。その様子を見届けていないので、今晩浜松において、家康様から今日の経緯を聞かれたとき、申し上げることがない。とにかく竹右衛門を呼び出すべきだ」。
左近は答えていわく、「もし竹右衛門が討ち死にしようとも、気にすることはない。先に帰陣してください」。
それでも豊後守は旗を立て、よくよく待っていたところ、竹右衛門が功名を挙げ、角右衛門、弥五八が配下を引き連れ一緒に帰ってきた。
左近はその様子を見て、「角右衛門、弥五八は5騎、10騎の侍を持っている身なのだから、左近の名前が立つのだ。なぜ、私のところにおらず、竹右衛門のところに残ったのだ」と「しかり」つけた。
これを聞くと竹右衛門は腹を立て、取った首を川へ投げ捨てた。
豊後守は竹右衛門を陰に呼び、「左近殿が角右衛門、弥五八を褒めた(その2人を発言で引き立てた)のは、その方を褒めている内意がある。その件を理解して、決して腹を立てるでない。我慢しなさい」と達し、見附へ召し連れて帰った。
そのとき、浜松より竹右衛門を呼んでこいと命令があり、左近はいろいろと言葉を尽くしたが、腹が立っていたのでまかり出でなかった。
豊後守が竹右衛門の陣所に出向き、いろいろと意見を言ったので、竹右衛門衆は浜松へ赴いた。
家康は諸大名より先に竹右衛門を御前に呼び、この日の詳細を聞いたところ、豊後守が前に出て、竹右衛門の功名の子細を述べた上で、「深入りした」と左近が叱ったので、腹が立ったので討ち取った首をおのおのに見せた上で川に投げ捨てたという経緯を詳細に語った。
家康は聞き届け、「竹右衛門は『いつてつもの(一徹者)』なので、その通りにしたのだろう」と深く感じ入った。
その後、左近に対し、豊後守が言うには「竹右衛門を召し連れないのは家康様のご機嫌が悪くなっただろう。であるから、私がなだめて家康様の前に召し連れていき、首尾良くいった」。

※やはり、三河武士は面倒くさいですね



557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 16:10:41.30 ID:2yVsSzV0
覚書のいいところは誇張や勘違い、間違いはあるんだろうけど戦国の気風が感じられるところと、細かい史実が描かれているところ

『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編

2020年09月17日 18:24

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 23:25:16.98 ID:n0r3Rbm9
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
(松平康親(左近、周防守)家臣の語ったことで、その覚えていることを記した記録。まとめにあるものは省いています)

・剛毅で鳴らした竹右衛門の初陣
永禄年中、三河東条の近所、横須賀というところに敵が屋敷を構えていた。竹右衛門が押し入ったところ、障子をあけた場所に木戸をつくり、侍2人が差し向かって弓で防いでいた。
竹右衛門が召し使っていた者1人がそこに走り入り、脇差しを抜いて木戸を押し破り、主従で踏み込み、弓を持った武者1人を竹右衛門が切り伏せ、首を取った。
竹右衛門は17歳、まだ権平次と名乗っていたときで、初陣の働きだった。

・姉川での手柄と秀吉
元亀元年夏、織田信長に越前衆が敵対し、近江において合戦があった。
家康が加勢し、松平左近もお供した。その陣で竹右衛門の弟、五味右衛門が馬上の敵と組み合ったとき、ともに馬から落ちた。
五味は若年だったので(落ちた地面で)下に組み敷かれてしまった。そこに竹右衛門は乗り寄せ、馬より飛び降り、上に乗っていた敵を引き破って下に組みふし、五味に世話をして討たせた。
そのとき竹右衛門は葦毛の馬に乗っていた。
太閤はそのとき藤吉郎秀吉と名乗っていたが、馬上30騎ほどで控えており、竹右衛門の働きを見ていた。
秀吉は使いをやって「あなたはどこの侍ですか」と尋ねてきたので、「家康麾下の松平左近家臣です」と答えた。
その後、帰陣し、秀吉が「上方」(山の上の寺の意か)で、「姉川合戦において葦毛の馬に乗って働いていた武者は名乗り出なさい。必ず召し抱える」と言い出した。
帰陣した家康は、竹右衛門が寺に登るべきかと尋ねると、父の伊賀守がこれを聞き、「譜代の主人を捨て、いかに大身になろうとも本意にあらず」と腹を立て、この申し出を受けなかった。
(上方はそのままの意味かもしれませんが、前後のつながりが不明)

・弟の死と倍返し
遠江浜松での合戦で、竹右衛門の弟、五味が討ち死にした。
その日、竹右衛門は同所におらず、この顛末を無念に思い、「この敵を討たなければ、二度と三河に帰らない」旨を仲間に堅く申し置き、ただ1騎にて久野前に出陣した。
すると、武田信玄方の武者が1騎、物見と思えたが、乗り出してきた。
竹右衛門はすぐに掛かり合い、敵を討ち、「五味のかたきを討った」と喜んで浜松に帰陣した。
「まれな働きである」と左近から褒美をいただいた。

・先にもありますが、やっぱりこの時代は騎馬で戦っていた
駿河へ家康が出陣したとき、先手を左近が命じられた。
安倍川の中程にて竹右衛門は敵に乗り向き、馬上より切り落とした。
その武者は切られて川下へ流されていったところ、服部小十郎という者に「その首を取りなさい」と言った。
小十郎に功名を取らせ、そのまま田中八幡山へ同道し、家康にお目見えした。



近年にない陰謀の露呈であり

2020年09月10日 18:08

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 12:52:42.94 ID:6re4dyIE
慶長十九年四月
この近年、大御所近習の女房衆が駿河に於いて金銀を貸し付ける商売をしており、この使いは
神子(巫女)であったが、甲斐甲斐しく才覚して、本利を相調え毎回献上していた。

去る頃、池田備後(荒木久左衛門子)も借用していたが、この借銀を神子に催促されたため、
備後の用人(若衆立て)が、中に銀が入っている由を含んで皮袋を渡した。
これはそれまでも度々の事であったので、符を見切るまでもなく請取、両替町に出て商人に渡す時
これを見ると、その中には石が多く詰められていたのである。

神子は大いに驚き、皮袋を持ち帰って先の備後の小姓(用人)に申した所、彼は
「全くそのようなことは知らない。」と申し、神子のやったことだとした。
この時神子は「汝は私を媒として、備後の妻を犯したではないか!」と申した。
近年にない陰謀の露呈であり、すぐにかの者を押し籠めた。

この事は大御所にも聞こえ給わったが、かようの儀は町奉行である彦坂久兵衛に相図るべしと言われた。

池田備後の借りた金銀は過分であり、返済は難しく、その上外聞も失った以上、彼の身上は
如何成るかと噂された。この借銀は千貫目にまで膨れ上がっていたという。
また備後に限らず歴々の衆も借用しており、今速やかに返済するのは難しいと云々。

当代記



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 14:29:47.35 ID:vSQ/4NGC
長すぎる。二行でまとめてくれ

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:19:57.00 ID:xTSgtrAh
借金を部下に返させたら銀の換わりに石詰め込まれてて抗議され、部下がしらばっくれたら借金取りに妻NTR(部下が上司の)バラされ笑い者、家康もあきれ顔

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/11(金) 23:59:40.62 ID:gy3Glw8l
>>328
荒木久左衛門(池田知正 1555-1608)の子じゃなくて、弟の光重だな
この件が原因で改易されて、大坂の陣で復帰を目指すも果たせず病死

ヲランダ国よりの進上

2020年09月07日 18:09

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/07(月) 11:58:40.11 ID:F033BR/c
慶長十七年八月
この度来朝の唐船どもの内、ヲランダ国より来る仁、鳩ほどの大きさの鳥が一羽、大鳥一羽、
何れも生鳥を駿府、江戸に進上すべきとて、京都まで上がった。
右の小鳥は人の言うことを聞いて、その言葉のとおりに言い、大鳥は頭は鶴に似ていて、
背の毛は猪の背の毛に似ていた。

当代記

小さい鳥の方はオウムなんでしょうかね



徒者取締の事

2020年09月06日 17:26

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/06(日) 13:40:20.72 ID:J6DlKxxS
慶長十七年、江戸に於いて徒者たちが集まり、人を斬るという事が絶えなかった。
六月二十八日、柴山孫八(上口奉公の人也)が、そういった者共の一人を成敗した所、
彼の党類がその柴山の所にも奉公しており、「我が類を斬った」として、主人である
孫八を斬り殺した。

江戸中にもこういった徒者が、三百ほど有ると云われた。諸国で奉公しているこの類の者たちは、
合計で三千人とも云われた。

このような中、江戸中で穿鑿が行われ、九十人ほどが搦め捕られ、牢に入れられた。
かの柴山孫八を斬った者は、彼の小者であったのを取り立て、侍にして懇切にしていたのに、
その重恩を忘れ主の頭を斬るなど、是非に及ばぬ次第である。

かの者を生け捕り、類を尋ねた所、大将分は大鳥居一兵衛、大風嵐の介、大橋すりの介、
風吹はちり右衛門、天狗郷右衛門、などという名であった。
その白状に任せて捜索し、悉く搦め捕って成敗が行われた。

そうして京都に下知があり、大阪、堺、その他の国々に於いてかの一類を成敗有るべしとの事であった。
しかしこれによって、この頃無縁の者たちに対し宿を貸さなくなり、旅人はこのため迷惑した。

江戸の大将分であった大鳥居一兵衛は相撲を能く取り、兵法も能く使ったため、彼が若衆かぶきとは
知らずに近づいてきた者たちに、罪科を行わせ国々に遣わしたという。

当代記