あなたも相手に塩を

2017年08月20日 12:01

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/20(日) 10:20:48.38 ID:1Gif5vGX
大阪の陣でのこと。堀尾山城守(忠晴)の寄口に、幕府使番渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)が訪れ
尋ねた

「この仕寄場より堀際まで如何程の距離があるか?将軍家よりお尋ねの時のため記しおきたい。」

しかし堀尾
「存じません。それを知りたければどうぞここから縄を打って測ってください。」

そこで渡辺は寄口より出て距離を測った。」

この話を横田尹松が聞いて、彼にこう言った
「失礼ながら御辺は今少し不巧者であるな。そういう時は、堀尾山城守も一緒に連れて出るものだ。
こちらに塩をつけるのなら、あなたも相手に塩を付けて良いのだ。」

(士談)


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彼は既に死人同然

2017年08月19日 21:02

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/19(土) 21:00:53.48 ID:vEh+t7Iu
大阪夏の陣の5月7日、大阪城より「秀頼生害の事、御免あるように」との使いに、大野修理(治長)が出て
本多上野介(正純)にこの旨を伝えていた時、田代大膳という者が側に居たが、彼は大野が地に座って
発言している時、後ろで刀のこじりを上げていた。

これに気がついていた正純は、後で田代に「なんと荒気な事を」と戒めたが、田代は

「彼(大野)は既に死人同然なのです。聊かも油断すべきではありません。」

と申したという。
彼は後に駿河大納言(徳川忠長)に仕えた人物であり、この事は、ある人が語ったものである。

(士談)


ともかくも仰せには

2017年08月11日 17:29

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/11(金) 08:04:22.14 ID:NJal55J9
大坂御陣の時分、石川主殿頭(忠総)は大久保相州(忠隣)の子なので
閉門でおられ、冬陣に御供することを佐渡殿(本多正信)に願われたが

叶わず、駿河にて上野介殿(本多正純)を頼られたがこれも叶わなかった
ので「この上は御成敗を仰せ付けられようとも、ままよ!」と、大坂へ上り、

隙あらばと心掛けなさった。さて、伯楽ヶ淵(博労淵)で本多雲州(忠朝)
討死の時、主殿頭は比類なき働きをなした。

されども御所様(徳川家康)は、(無断での従軍について?)ともかくも
仰せにはならなかったという。

――『武功雑記』


秀忠、江戸城内に孫の遊び部屋を作る

2017年08月04日 13:14

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 11:17:39.14 ID:UKPuWRly
秀忠、江戸城内に孫の遊び部屋を作る


元和7(1621)年、越前藩主松平忠直は病を理由に江戸の参勤を止め
自身は北庄に帰り、代わりに嫡男で7才の仙千代(光長)を参勤させた。

忠直は秀忠の娘婿で、庶兄の結城秀康の嫡男でもあったが
家中の騒動や本人の不行跡などが重なり、元和9(1623)年には配流される。
秀忠はそのとき既に思うところがあったのか
十月に叔父の松平直政と共に登城してきた仙千代を、殿中で養育することにした。

公(光長)はいまだ中剃がなかったので、将軍(秀忠)が自分の手でこれを剃り
夫人(お江)が髪を結われ、その間土井大炊頭(利勝)が(光長を)抱えていたという。
また、仙千代の為に遊ノ間を造らせ、柱などは(光長が怪我をしないよう)
悉く天鵞絨(ビロード)で包んだ。
――『美作津山松平家譜』

孫が可愛い秀忠の話。



123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 11:41:44.44 ID:JM7Qhewf
葵徳川だともし家光に嫡男が出来なかったら光長を家光の養子にと秀忠が考えてたという設定だったけど、この辺の話がネタ元なのかな

飛びあがり飛びあがりいたされ候

2017年08月04日 09:30

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 04:47:25.63 ID:++S31VTs
大久保玄蕃頭(脚注:玄蕃頭忠成)は小田原陣の時に13歳。権現様(徳川家康
に直訴して小田原へ御供し、御馬の側にいた。玄蕃頭は大筒の鳴る音を聞いて、

驚いて頭を下へ下げられたため、権現様は御覧になられ「侍の子はその様には
せぬものよ」と仰せになった。そのため玄蕃頭は、

それからは鉄砲の鳴る中を通るたびごとに、飛び上がり飛び上がり致された。
(それより鉄炮のなり通る度ごとに。飛びあがり飛びあがりいたされ候。)

――『武功雑記』



120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 06:35:41.31 ID:BUqreTBj
>>119
余計にびっくりしてるような

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 09:05:23.56 ID:YjmFAJXA
>>120
うんw

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/05(土) 02:19:32.10 ID:ijKyoav/
>>119
鉄砲の音にビビって、恥じて切腹未遂したパターンがあったな
超絶有能だけど、息子の汁かけ飯にケチを付けたことになってる人
鉄砲伝来以前だから、何を見たのかは結構気になるが

○ 重箱獅子舞(三郷町野井)

2017年08月02日 19:09

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/02(水) 01:15:04.30 ID:qWCCf7Sp
○ 重箱獅子舞(三郷町野井)

口碑によれば徳川家康が武田氏と戦い、利なくして逃れて野井に来た時、

たまたま村民らは村社武並の祭典に集い、神前で酒を酌み、興に乗じて
重箱を戴き袱紗を被り舞っていた。

家康は、「ちょうど良い」とその群れに入り、ついに敵の危難から救われた。
家康は天下統一の後、この武並社の祭礼を重んじ、

“重箱獅子の舞”を奨励した。毎年の例祭には岩村藩主に使臣を遣させて
獅子舞を臨検させ、野井祭の名が高かったという。

今なお、重箱獅子の舞を伝えている。

――『恵那郡史』



117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/02(水) 01:17:29.09 ID:DdYy0X2r
なんでもかんでも三方ヶ原のせいにすればいいと思うなよw

乍去十五年おそく候

2017年07月28日 16:09

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 03:42:04.31 ID:GkcDtqOG
大坂より御帰陣の時のこと、権現様(徳川家康)は、その日は三嶋に御一宿の
はずが、ただちに小田原へ御越しになられ、大久保五郎左衛門(康忠か)を

召し出されて今回の御軍功を御吹聴なされた。大久保は御答えして「殿はよき
御巡り合せでしたね。でも15年遅かったですね」と申し上げた。

(殿は能御仕合にて候。乍去十五年おそく候と申上候。)

権現様は御勝軍に御喜びのあまりに、「その方にも2万石を取らせようぞ!」と
仰せ遊ばされた。すると大久保は御答えして、「殿は唐までも欲しいのですね。
私は2万石でも嫌です、欲しくないです」と、達て辞退申し上げたという。

(大久保御請に。殿は唐迄もほしく候べし。私は弐万石もいやにて候とて。)

だが実は不足の心であったという。五郎右衛門は七郎右衛門の兄の子である。
また新八(康任か)の祖父である。

――『武功雑記』



21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 03:35:02.37 ID:3N0XHs1a
>>19
権現様は後にこれを聞き、「不足なのはもちろん知っていた。だが大久保の者は面倒くさい故、
あえて取らせなかったのだ」と語った。

――『俺の想像』

人を見立てる時は

2017年07月27日 10:37

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/27(木) 00:26:25.47 ID:FnnnmptH
ある時、徳川家康公の上意にこのようなものがあった

「人を見立てる時、自分を基準にするべきではない。自分のかしましい心を曲尺と定めて
人を選ぶ時、自分より勝る人間を選んで薦めるだろうか?

また、その自分にまさる良き者は、自分に対して追従をすることはないだろう。
自分に付き従う輩にばかり、目をつけるのは不忠というものだ。」

(武野燭談.)


右馬允の意見

2017年07月26日 23:00

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/25(火) 23:39:11.79 ID:4l9ckoea
小田原征伐において山中城が陥落した時、こぼれ者共(牢人たちか)は多く松平周防守(康重)の手に
加わっており、彼らは頸百四、五十を得た。彼らはこれらの頸を道にかけて通ろうと思い、周防守はこれを
牧野右馬允(康成)に相談した。しかし牧野は

「はかばかしい頸を取ったわけでもない。雑人に頸をかけ置くなどというのは要らぬことだ。
結果的に見苦しくもなるだろう。ただ頸の数だけど書き付けて披露するのが良いだろう。」

周防守はこの意見に従った。

ところが、後で周防守の家来たちは
「右馬允にだしぬかれた!頸を一つづつ道にかけておけば、太閤秀吉が通った折、大いに御感にも
あっただろうし、諸軍勢の勇にもなっただろう。全く要らぬことを意見しおって!」
そう、牧野の意見を批判したという。

しかし牧野は彼らを偽ったわけではない。ただその時の状況の判断が薄かったので、
このような批判を受けたのであろう。

(士談)


歯を白く、髪も美しく

2017年07月07日 17:40

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 17:09:42.14 ID:ssyeJvnd
神君(徳川家康)は、

「武道を嗜む士は、戦場へ赴くからには必ず死を遂げるという心掛けが
なければ叶わない。白歯の者は、歯が黄色にならないように心掛けて、
髪も香りを留めるのが良い」

と仰せられたということである。

上田主水入道宗古(宗箇)と申す武士は、

「討死の首になった時のことを心掛けるべきである。されば月代が後ろ
下がりでは首になった時に詫び言顔になって見苦しい。

それゆえ、後ろ高(後ろ上がり)に剃るのが良い。その前日には月代を
剃って首を綺麗に致す心掛けが第一である」

と申した。

――『明良洪範』



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 23:31:50.02 ID:ORWkGDa9
白歯のものってなんつうか初めて聞いたな

御留守に任じて

2017年07月02日 21:15

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 22:30:01.06 ID:or08M729
大阪冬の陣勃発の時、黒田長政福島正則も大阪攻めの御供を望んだ。
その頃は未だ太閤秀吉取り立ての大名が多かったが、その中でもこの両名はとりわけ武功の勇将で
あったため、人々も様々に気遣いしていた。

そこで本多佐渡守(正信)が両将を茶の湯に事寄せ饗応し、談じた

「まことの事かどうか知りませんが、今度の大阪のことで、御供の望みがあると承りました。
これが本当であるとすれば、心得がたい事です。
何故なら、あなた方が秀吉卿莫大の恩顧・御取り立ての身であると言っても、当家において関ヶ原の時分、
まさしく御忠節を申し上げた故に、大国を下され、以降誠に二心無く御奉公の御志をなされていると
見ています。

さりながら、大阪の城には秀頼が立て籠もられております。先主秀吉の息男が在城しているのを、時に従う
習いであるからと寄せ手に加わり攻められても、人は良いようには思わないでしょう。
また、だからといって寄せ手に加わりながら成すこともなく居るのも後ろめたいではありませんか。

ここを以て察するに、今度の御供の願い、非常に愚案であると言えるでしょう。
しかし各々に、特別なご存分もあるのでしょうか?」

この言葉に両人屈服し
「さあれば、御辺を以って、御留守に任じて頂けるよう申し上げていただきたい」
そう申したという。

(士談)



924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 06:40:34.79 ID:EcUAn0qX
「心得がたい」ってのはどう解釈すべきか

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:12:03.53 ID:PA608L7X
心得が鯛

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:43:58.18 ID:OVzA0S6z
納得しかねる、みたいな

こんなことを言わずに謀叛すればいい

2017年06月20日 16:47

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 01:38:54.99 ID:Xbr5DYuZ
こんなことを言わずに謀叛すればいい


家康が諸大名を集めて名古屋城を築かせたときの話。

皆々が寄り合いしていたとき、福島正則池田輝政にささやいて
「近ごろ江戸や駿府の築城続きで人夫もみな苦労して働いた。しかしながら
 天下の押さえとなる城なのでみな苦労と思う者はいなかった。
 今度は子の居城を築くようにと命じられる為ではないのだ。
 貴殿は大御所の親戚である、我一人の為に言上しろという訳ではない」
と申せば輝政は答えなかったが、加藤清正が奮然として正則を戒めて
「ああ粗忽なことをのたまう人だな、貴殿が普請に苦労することが
 不興ならばこんなことを言わずに謀叛すればいい。謀叛が
 出来ないのなら、命を違え斯様なことを申すべきではなかったな」
と荒々しく言ったので、正則はそれを恥じて何も言わなかった。
輝政は笑って戯言ということにした。

その後神君(家康)がお聞きになってみなの心を推察し
ある日輝政を呼ばれ諸大名に対して
「お前たちが普請を頼まれたくないと言うのを度々聞くが、それならば
 国に帰り城を堅く堀を深くして私が行くのを待つがいい」
と仰せがあったので、輝政がこれを諸大名へ申せばみな大いに恐れ
急に人夫を雇って名古屋城の石垣を築き、土地を四面に開いて
二十万人の人夫でもって西海南海の大名共を伊勢三河の大船で運送し
石垣を築き堀を掘れば不日の間に名古屋の城普請は成就した。


――『武徳大成記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 07:31:40.10 ID:DKMfXt+W
これ、面白いな。
有名な福島と加藤だけのバージョンを元にこれができたのか、これを簡略化したのが有名なバージョンなのか、気になる。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:39:34.42 ID:kl2FAQ/4
イライラ清正

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:23:17.42 ID:w64DAeEm
>>896
これで名古屋城に立て篭もれば面白いのに

罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこに

2017年06月18日 16:12

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 01:15:39.27 ID:G1R0oyIu
村越茂助は家康の家臣でしたが、ふとしたことから勘気にふれ、目通りの叶わぬ身分となりました。
茂助は心中不平でなりませんでした。一にも徳川、二にも権現様と主家大切に働いて来たのに、
身に覚えの無い理由で遠ざけられるということは憤懣にすら値するものでありました。彼は門を閉じました。
戸外へ出ません、出たところで見るもの聞くもの、ことごとく癪に障ることばかり、いい加減なおべんちゃら武士が、
大手を振って歩き、正義の士はすべて不遇にいるように見えて、腹が立ってたまらないのでありました。
ほど経て、家康の方から茂助を呼び出しましたが、茂助は応じません。
「拙者は御勘気にふれた身の上でござる。お目通りはおそれ多い。」
嫌味と鬱憤とを言って、決して伺候しませんでした。ところがそこへ伏見の大地震が起こりました。
人畜の死傷も数多く、建物の倒れたものは枚挙にいとまありません。世間は物情騒然として、流言は日に盛んです。
こうなると根が忠義一徹な茂助ですから、家康の安否が気になってたまりません。
「権現様はいかがなされましたか。」
まず本多正信まで問い合わせました。
「その方、それほど心配になるか。」
正信はにっこり笑って言いました。
「よい機、と言っては悪いが、今こそお詫び申し上げる時ではないか。のう、すぐ参れ、参ってお見舞申し上げい。」
しかし、茂助は頭を横に振ったのでした。
「拙者は御勘気にふれた身でござる。押し付けがましく参上するのは如何かと存じまする。」
「それがいかぬと言うものじゃ。」
正信は言葉を尽くして説き聞かせた上、家族の者をそれぞれ知人にあずけて、ただ一人伏見へやることになりました。
もし家康の気持ちが元通りであれば、その場で討たれる覚悟をしていたのです。まことに悲壮な見舞い人と言わなければなりません。
伏見の家康の住居は、地震のためにひどく破損し、見るからに酷い有様になっておりました。
しかし隆々たる家康の声望は、そうしたうちにも無言の威力を示しました。
諸国の大名はこぞって見舞いにやってきます。家康は家康でこの機を逃さず、大名の心をつかむ工作を怠りませんでした。
彼は自ら握り飯を握って、見舞いの大名にそれを接待していたのです。村越茂助は、そうした家康の前に進んで、
村越茂助にござりまする。」
こう言って、言葉のかかるのを待ちました。一言、言葉があったなら、すぐその場の仕事を手伝おうと思ったのです。
ところが、家康は横目でじろりと見たきり、ついに一言の言葉も与えませんでした。
茂助の失望といったらありません。彼はすごすごと立ち戻りましたが、途中から再び引き返して、
「茂助でございます。殿、茂助でございます。」
ほとんど泣くばかりに言いました。が、これも白い目で黙殺されてしまったのでした。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 01:17:02.93 ID:G1R0oyIu
駄目だ!絶望のあまり、茂助はよろよろと立ち上がって戻りかけました。その時です。
いたわるような声が耳元でしたのでした。それは阿部正勝です。茂助はすがりつかんばかり、それまでのことを話しました。
「わかった、が誠意じゃ。誠意が通るまでの辛抱、よいか。」
「はっ。」
再び、茂助はとって返しました。が、もう物を言う元気もなく、黙って家康の前にうずくまったのでした。
しばらくして、家康は、茂助の居るのに気づきました。二人の目がはたと会いました。
滲むような柔い人情が、お互いの目の中に光りました。
「茂助。」
「殿。」
茂助の目先は、ぼうと霞んできたのでした。嬉しさのあまり、罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこに開けたのです。
「いかが致した。」

『明良洪範』(良将言行録)



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 07:00:26.50 ID:OqsrfH6f
>>41
身に覚えがないんだろ
折れるな茂助!

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:03:34.38 ID:oqc2RtC1
>>41
笑った

つまるところ、武士は詞が大事である。

2017年06月18日 16:09

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 20:23:17.59 ID:5HyAQoSz
中山勘解由

後藤又兵衛が”大軍”で籠城しています」

と申し上げると、権現様は

「”大軍”と言うことはふさわしくない。
城中が残らず出てきてもおよそ七万ほどであろう。
そのような考えでは将軍の使番はつとまらん。」

と言われたという。

 味方より多勢であることを指して、”大軍”と言うべきとのことだ。
つまるところ、武士は詞が大事である。


『武士としては』



882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 22:30:12.13 ID:egWO6U9Y
北条遺臣の中山兄弟の兄
鬼勘解由の祖父

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 02:55:43.38 ID:FU0BLAHt
>>881
家康も家康で面倒くせーな
事務的な報告なんだから素直に聞いとけ

利勝の知慮は衆人の及ばぬところ

2017年06月17日 09:58

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 04:08:56.99 ID:bAhFoq+C
土井大炊頭利勝は土井小左衛門利昌の養子である。実は水野下野守信元の次男なり。
一説には神君(徳川家康)の御落胤であるという。

ある人が殿中で利勝の髭を見て、「貴殿の髭は神君の御髭によく似ている」と、言った。
利勝は、翌日に髭を剃り落として登城した。この頃までは、髭を立てて置くのが風俗で
あったが、利勝が剃り落としたのを見て人々は追々髭を剃り落としたのだということだ。

この利勝は衆人よりも智謀に優れた人だった。先年、関白秀次が太閤の御不審を蒙り、
一大事となるという時、利勝の智謀によって秀次の謀の罪に陥らず、台徳公(徳川秀忠
と御同道で太閤の御前へ出なされば、太閤は殊の外喜びなさり、

「さすが新田殿の子孫である」と賞美なさった。神君も御上京なさり、利勝の智謀の計らい
を御賞美なさった。その時、利勝は17歳であった。

後年、執権であった時、密事を評議することがあった。しかるに、これまでは密事を評議
するには茶室などのような狭い所でその周辺の障子襖などを皆仕切って評議したが、

この度は利勝が大広間の真ん中に座り、その周辺の障子襖を残らず取り払って評議衆
のみ一座し、他は人払いして評議したため、余人が忍び聞きすることはなかったので、

これ迄のように密談が漏れる事は少しもなかったのである。利勝の知慮は衆人の及ばぬ
ところと、将軍家(徳川秀忠)も深く賞美なさった。

また本多正純が罰せられた時、ある人が言ったことには、「正純は不届きとはいえ、正信
以来旧功の家であるのに、此度の御仕置きは余りに厳重すぎである」とのことだった。

利勝はこれを聞いて、「いまは天下創業の時なれば、賞罰などは厳重でなければ平天下
長久ならず。それにはまず御譜代を厳重に罰しておくことが天下への示しである。正信が
どうして泉下において、恨み申すことであろうか」と、申したということである。

――『明良洪範』


その節諸事に御軽きこと

2017年06月14日 19:00

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 18:16:53.47 ID:i+cO2s5n
中根宗閑と内藤善斎がある時の話で申し上げなさった事には、

台徳院様(徳川秀忠)が、ある時に御鷹野をなさり、田の畦に
御腰を御かけ遊ばされて、御膳を召し上がりなさった。

その時、御湯がなかったので、「向かいの在所に参って湯を
沸かさせ申すように」との旨を仰せにつき、

百姓の家より御湯を御取り寄せ遊ばして召し上がりなさった。

その節などは、このように諸事に御軽きことであったとの由を
(宗閑らは)申し上げなさった。

その旨、戊戌閏10月21日に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』


御鷹の鶴の胆(マル)を上げらるるときの咒文

2017年06月12日 19:11

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 22:05:45.74 ID:5UlT2XLV
公方様、御鷹の鶴の胆(マル)を上げらるるときの咒文

  ある人がひそかに話してくれた。
公方将軍様が御鷹狩に鶴を獲られて丸肝をあげられたときは、
御上と御小納戸頭取がお供のものと心中で唱えさせる呪文があるという。

「業尽きるの衆生は、放つといえども生ぜず。
故に人仲に宿して、得らるるを以って善果とす。」

これは、禽類でも鶴は大鳥でかつ寿命を保つものなので、
これを害するのは殺生の中でも罪が深いに違いないからとの事である。
きっとこの呪文も確かにあるのだろう。
基本、神祖から受け継がれていたのであろうか、
御代々唱えられている事だと聞いた。

 秘かに神祖の御知遇を考えてみた。
この呪文を生み出したのは大樹寺の登誉上人であろうか。
この人は神祖が天下を取られたころにはもう亡くなられている。
また天海僧正だと、神祖とはちょっとの間にしか会っておらず、
力が盛んだった時期の多くは台猷の二世(秀忠・家光)の頃であった。
ならば増上寺の観智国師であろう。相応の時の人である。
きっとこの国師が神君に差し上げたのであろう。

 しかしこの呪文は仏経の何によるのであろうか、出所はまださだかでない。


(甲子夜話三篇)



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 05:34:25.20 ID:Y/zvUrtP
心の中でしか唱えてないのになんて知ってるのw

釣り髭であった

2017年06月09日 18:41

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 17:07:05.10 ID:jMN9vXWl
台徳院殿秀忠公は御釣り髭であられたという。井伊掃部頭殿(直孝)も釣り髭であった。
(台徳院殿秀忠公には御つりひげ御座候由。井伊掃部頭殿にもつりひげ有之候。)

――『松雲公御夜話』


東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

2017年06月03日 14:21

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 01:38:20.51 ID:I0x5Dvyw
東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

東照宮の仰せに、

「物具が美麗なのは無益な事である。また重くするのも無益である。
井伊兵部(直政)は力もあって重い物具を着ているが度々手負いしている。
本多中務(忠勝)はそうではないが、手負いになった事がない。
ただ戦いやすいようにと心がけるべきである。
下級には薄い鉄の笠を着せるのが良い。急な時は飯も炊ける。」

とのものがあったそうだ。
 鉄の笠は甲州でも下級が着ていたという。
畿内の方ではそうではなかったが、丹州亀山の小野木縫殿助(重勝)が
足軽以下の者に鉄の笠を被せたので、その頃は小野木笠と言ったそうだ。

(常山紀談)



977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 11:24:26.85 ID:4Ghf+TWg
家康の着てた鎧がどんなのかって江戸時代はあまり知られてなかったのかな

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 12:36:01.54 ID:dYQCQZul
本多忠勝

「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道にはいるべし」

武具も実用より見た目重視だから

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 13:12:34.08 ID:Mg9NhrRV
>>978
それは「まず形から」って話かと

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 13:15:57.43 ID:Lh7C7hE7
そう言う忠勝が練習だとヘタだけど実戦ではめちゃくちゃ強いタイプだったりする

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 14:15:54.11 ID:Ljz3XT3y
平八は本気を出すと人を殺しちゃいそう

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 19:11:33.78 ID:R/r5VpoW
テラフォーマーかよ

都ははるのこしきなりけり

2017年06月02日 17:24

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 20:24:36.85 ID:Kx/wuCSQ
秀忠公が禁中を御作事された時に、
国々の人夫共が築地廻りの植木の枝に面桶をびっしりとかけおいてあるのを、
柳原殿は御覧になられ

見わたせは柳さくらにこきかけて 都ははるのこしきなりけり
「見渡せば柳さくらをこきまぜて みやこぞ春の錦なりけり」(古今和歌集)の本歌取り

(※面桶は人夫の弁当箱。後に乞食の持つもののことも指し、御器ともいった)

(昨日は今日の物語)