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毎年石見守は

2020年08月03日 18:51

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/02(日) 23:58:01.75 ID:UuWTnIX6
慶長七年の頃より、佐渡国で掘り出される銀が倍増し、一万貫目余りが幕府に納められた。
前に越後の上杉景勝が彼の地を領納していた時は、銀の産出も僅かであったという。
また石見国の金山も産出が倍増して四、五千貫目が納められた。これも前の森(毛利)輝元の
時代は僅かな産出であったという。家康公の分国となってから、このように成ったのである。

この両国は大久保石見守(長安)が拝領していたが、ただし金山については代官として携わっていた。
銀は幕府に先のように納め、毎年石見守は、三月には佐渡に下り、八月には伏見に上り、九月十月は
石見国に下り、金山を相改め、銀をいよいよ多分に納めた。

当代記

大久保長安は忙しかったんですね



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三人目は事の外きらひ申事の由

2020年08月02日 18:15

千姫   
239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 18:43:07.48 ID:M3sPawsy
三人目は事の外きらひ申事の由


豊臣秀頼の正室であった千姫徳川秀忠の長女)は、大坂の陣の後本多忠刻に再嫁した。
しかし寛永3年(1626年)に忠刻も亡くして、また寡婦となってしまった。
ところが三年後の寛永6年(1629年)、前田利常との縁談の噂が持ち上がった。【細川忠興文書 七五一号】
利常は千姫の妹の珠姫と結婚し嫡男もいたが、元和8年(1622年)に死別していた。
実際は千姫本人や利常の母である寿福院が嫌がって再婚することはなかったが
その理由について細川忠利が忠興あての書状に書き留めている。【細川家史料 細川忠利文書 三三一号】

一、加賀筑州(前田利常)へ播磨の御姫様(千姫)がおましになる話(縁談)は、筑前殿御母儀(寿福院)が
  事の外迷惑がっています。子細は秀頼様・中書殿(本多忠刻)が亡くなられてしまったので
  三人目になってしまうのをとりわけ嫌がっていて[原文:三人目は事の外きらひ申事の由]
  それが並大抵ではないためまだ済んでいません。その上御姫様も迷惑がっています。

忠興は「迷惑がるのはしょうがないが、嫌と申すような事ではない。もっとも筑州の母だから申し上げた
のかなと嘲笑されるようなことだ」と返書で反応している。【細川忠興文書 七六七号】
千姫は翌年にもいとこの松平忠昌と再婚する噂が出たが、続報はなかった。
この二つの縁談は恐らく、寛永9年(1632年)に亡くなる父・秀忠の意向だったのだろう。



この蘭奢待というものは

2020年08月01日 17:13

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 01:16:07.85 ID:5HHCEv4P
慶長七年、六月朔日より伏見の普請があり、上方の諸大名が伏見に在した。
同月十日頃、南都(奈良)の蘭奢待について、内府公(徳川家康)が、使者を以て見たいと伝えた。
またこの頃勅使が遣わされ、かの蘭奢待を切りたいという旨の内意がしきりに伝えられたのだが、
これを切れば余命が幾ばくも無くなるという言い伝えによってこれは止んだ。

この蘭奢待というものは、”をふらん”という沈香である。蘭奢待というのは、本来そう言う名前ではなく。
言い習わしたものである。この”をふらん”と併せて、紅塵(紅沈香)という沈香がある。これらは
何れも勅封蔵に有る。

当代記

蘭奢待を切ったら余命幾ばくもないというのは、信長が前例に成ったんですかね。



238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 08:18:36.60 ID:6CYBmUaK
沈香を愛でることを「をふらんす」といい沈香国フランスの語源となった

これはイギリスという島の船で

2020年07月31日 18:09

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/31(金) 16:55:58.77 ID:dQVhJZiJ
慶長五年の春、或る船が堺浦に寄った。これはイギリスという島の船で、黒船(スペイン・ポルトガル船)の
敵であるという、そのため船中には具足、大鉄砲が数多あった。具足は腰より上ばかりであった。

内府公(徳川家康)はこれを見物され、船内の上下を見聞された後、猩々緋以下の売買を問題なく許し、
また帰国も許した。

かの船は唐船の敵であるのだから、誅伐をすべきであるのにと、人々は皆云ったという。

当代記



さかりなる 都の花は散りはてて

2020年07月30日 18:08

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/30(木) 16:09:11.36 ID:Y1GqvNF1
慶長元年の頃、江戸に住む米津清右衛門(家康公近習)の妻女が夢想の中で次のような歌を詠んだ

 さかりなる 都の花は散りはてて 東の主が世をは次へし

この女は歌道を聊かも弁えていない人物で、奇特なことだと言われた

当代記



秀吉との関係はいよいよ入魂となった

2020年07月22日 19:22

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 01:30:15.54 ID:bZEQKy47
天正十四年十月、徳川家康公が御上洛された。この時「もし上洛出来ないのであれば、秀吉の妹(朝日姫)を
返した上で、干戈に及ぶ。」と一途に宣わり、殊に秀吉公は御袋(大政所)を岡崎まで下向されたため、
疑心無く上洛され、秀吉との関係はいよいよ入魂となった。これによって、家康公北の方(朝日姫)は
浜松より岡崎にお出でになり、御袋と対面し、悦ばれた。秀吉公も家康公の上洛を快悦され、刀脇差、
並びに数寄道具(何れも値千金の物也)を進ぜられたと云う。
家康公が下向されると、大政所も帰洛された。

秀吉家康が入魂した事に、小田原の北条氏政父子は心底不快であったと云われる。

当代記



本能寺の変後、顛末

2020年07月19日 17:50

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/19(日) 13:25:42.92 ID:my2u+8BH
徳川家康は堺において本能寺の変の事を聞くと、大和路へ懸かり、高田の城に寄って、城主に刀、並びに
金二千両を下し、その日に出立して、六月四日、三河国大浜に船にて下着され、明智を討つための軍勢を
催し、先ず鳴海まで出陣した。

この頃、羽柴秀吉は美作国高倉(実際には備中国高松)に於いて、森輝元(原文ママ。毛利輝元)と対陣
していた所、信長が没したと告げられ、先ず隠密に森と一和し、摂州表に打ち出て、山崎宝寺上の高山へ
人数を上げた所、明智がかの表に押し出し、六月十三日に合戦した。
明智は敗北し、坂本城に引き上げようと考えていたのか、山科まで逃げ来た所を、百姓等に打ち殺された。
歳六十七であった。

この時、安土に置かれていた明智左馬介はこの事を聞くと、坂本に駆けつけ、明智光秀の男児である十五郎と
一所に火を懸け切腹した。

斎藤内蔵助(利三)は虜となり、京都へ引かれ大路を引き回され六条河原にて斬首された。首は獄門に掛けられた。
この内蔵助は信長勘当の者であったのを、近年明智が隠して抱え置いていたのだという。

家康公は鳴海に居陣していた所、秀吉よりこの様体が委細注進されたため、則ち帰馬され、六月二十八日、
甲州に出馬された。

当代記



菅沼新三郎とその妻

2020年07月14日 18:28

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/14(火) 18:05:53.04 ID:I+miO3Td
三河国の菅沼伊豆守父子(菅沼満直・新兵衛尉)、同菅沼新三郎(定忠)は、去る元亀三年より家康から
寝返り武田信玄に属し、天正三年の長篠合戦以降は信州に在国していたが、今度の甲州征伐にて降参し、
河尻肥前守(秀隆)を頼ってかの陣中に居たのを、家康が信長に言上し、則ち生害となった。

諏訪の祝女はこの菅沼新三郎の妻であったが、この事を聞くとすぐに、自分の子供たちを刺殺し、自身も
自害した。この女房は普段から大力であり、その伯母も、かつてこの高遠で比類なき働きをして死んだとの
事で、相似たる女であると、人々は皆語った。

当代記



194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 07:25:50.27 ID:KpZDFIsf
祝女って何でしょうか?

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 10:47:27.59 ID:m0kw6D0r
>>194
検索してみたら沖縄の女性神職者だそうだけど
なぜここで沖縄の神職者の呼称が登場するんだろ?

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:06:26.59 ID:XljmzuPv
>>194
>>195
祝女は「はふりめ」といって、中世の言葉では神社の神職の女性のこと。
まあ一般的に巫女の事だね。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:09:07.90 ID:KpZDFIsf
ほうりでググったら出てきた、さんくす。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:20:29.82 ID:tYNj3Jm7
祝は神職の1つだから、祝女は巫女と同じなんじゃない?
ちなみに諏訪氏は諏上社の大祝を務める家柄

信康事件について

2020年07月08日 17:45

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 13:20:09.92 ID:sYb4nnxC
天正七年、岡崎三郎(松平)信康(家康公一男)が牢人された。これは信長の婿であると言えども、父家康の
命を常々違背し、信長公をも軽んじ奉り、被官以下に情けをかけず、行いが非道であったため、その旨を
去月酒井左衛門尉(忠次)を以て信長に内証を得た所、「左様に父、臣下に見限られている上は是非に及ばず、
家康の存分次第にせよ。」と返答された。

家康は岡崎にお越しになると、信康を大浜に退き下らせ、岡崎城へは本多作左衛門を移した。信康はこの措置を
当座の事と心得られていた。家康公は西尾の城に移られ、信康は遠州堀江に移され、さらに二股に移られた。
九月十五日、彼の地に於いて生害された。信康の母公も浜松に於いて生害された。

当代記

信康事件について。ここだと酒井忠次は家康の指示で信長の意向を尋ねたという事になっていますね。



甚五郎の欠落ち

2020年07月04日 16:53

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 01:08:33.52 ID:K1RlApYW
天正四年九月、さはせ(鯖瀬ヵ)甚五郎という者が有り、彼は元来三河で岡崎三郎(松平)信康の
小姓であったが、朋輩の金作りの刀大小を盗み取ったことが露見したため欠落ちし、この二、三年は
甲州に在住していた。そして鯖瀬は彼の国の住人である甘利三郎次郎を小山の陣中に於いて殺害し、
家康公の陣中に来た。

彼は甘利と日頃より知音にて、別して懇志の間柄であり、些かも隔心が無かったが、甘利が寝入った所を
刺殺した。この時自分の刀を捨てて、甘利の大小を取ってこれを差して来た。
この鯖瀬は年来、甘利と前代未聞に恋慕芳契しており、物取りをしたのではないのだという。

家康公は彼を再び出仕させたが、乍去さして挙用しなかった。三郎信康は彼のことを悪まれた。
そのため一両年の間に他国へまた欠落ちした。

この甘利は十七歳、武田の家老で人数三百余人を備えていたという。

当代記



岡崎領内渡利村の一揆が生害なし奉る

2020年06月14日 17:24

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/14(日) 16:11:55.68 ID:vlrl08jF
広忠公(松平広忠)は天分18年(1549)3月の鷹狩の折、岡崎領内渡利村の一揆が
生害なし奉る。尾州の織田弾正忠(信秀)の武略により、渡利村の一揆どもに過分に褒美
を与えるとの由。御印(首級)を持って一揆どもは矢作川堤を上り急いだ。

その節、岡崎大将衆3人が岩津の信光明寺にいたが、件の由を告げ来たりその内2人が岡
崎目指して急いだ。1人上将(ママ)出羽守は渡利村を目指し、岩津大川を堤を下り急ぐ。

件の一揆どもに行き合い、御印を見て1人も逃すまいと3人を切り伏せて残りは逃れ、御
印を持って光明寺に納めた。2度覚えがあり、右の内を抜き書いたものである。

――『三河東泉記



狐の嫁入り 宇宙稲荷ver

2020年05月26日 17:58

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/25(月) 23:06:27.65 ID:trmhf7vv
狐の嫁入り 宇宙稲荷ver

乾坤院境内のお稲荷さんは、もと緒川城にまつられていたもの。
徳川家康の母、於大は、緒川城で生まれこのお稲荷さんのもとで育ち、
六歳の時刈谷城へ移り、そこから岡崎城主、松平広忠のもとへお嫁入りすることになった。

お嫁入り当日、両家の縁組に反対する者が途中の道で待ち伏せしていることを知り、
お稲荷さんのおふだを持って、行列は少し回り道して安全な野道を行くことにした。

さて、こちらは岡崎に入る道。反対派の一団が花嫁行列を待ち伏せている。
雲もなく晴れわたっているというのに急に雨が降り始めた。
そこへ花嫁の行列が現れ、一団の侍が飛び出したところ、あら不思議。
行列が消えてしまった。
その騒ぎをよそに、野道を行った於大の行列は無事に岡崎城へ入ることができた。

このことから、天気がいいのに雨が降ると「狐の嫁入りがある」と人々はうわさするようになった。

ひがしうらの民謡



223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/25(月) 23:15:41.95 ID:1QEjTTSm
宇宙だの乾坤だの壮大な名前だ

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 01:26:06.66 ID:CpRwLa8R
侯景「板違いの向こうから呼ばれた気がした」

三組坂

2020年05月03日 15:39

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 22:20:22.07 ID:Nsgx4uuo
三組坂

 元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」
の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあ
たり一帯を駿河町と呼んだ。
 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組
町」と改めた。
 この町内の坂であることから「三組坂」名づけられた。
 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島三丁目となった。

文京区教育委員会 平成19年3月



不覚者、兵家に用無し

2020年04月23日 18:19

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/23(木) 01:19:38.08 ID:a5yXEBU0
大阪御陣の時、上総様(松平忠輝)は軍功を挙げられず、そのため大阪落城後「御謀叛をなされるか」と
色々御詮議あり、その議論し難かったが、水野日向守殿(勝成)御前に罷り出て申し上げた

「上総殿には、毛頭御逆心などありません。ただ少し御不覚であったのです。」

これによって、上意に「不覚者、兵家に用無し」とて、信州へ御改易と成ったのである。

これを世上に、上総様は伊達政宗の御聟たるによって、内談して御謀叛と云うが、それは全て推量である。
何故なら、御謀叛であるなら、御不憫の御子を御流しになり、他人の政宗をどうして許すだろうか。
ただ不覚は、兵家の大悪なのである。

松永道齋聞書



猶々御忠節仕るべき

2020年04月19日 15:47

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 02:48:39.97 ID:/eXYOJJ0
永禄五年、三州一向宗の一揆が起こった時、本多広孝は土井の城に罷り在った。その近辺の、土呂、羽根崎、
岩松、大学、浦部、八面、佐々、木野寺、櫻井、この村々は皆御敵であり、かの土井城はその中にあり、
最も敵に挟まれてその中にあった。広孝は朝夕取り合い、御忠節を仕った。

三州の諸士は、一向宗ではない輩も御敵に罷り成ったが、広孝は「猶々御忠節仕るべき」と申し上げ、
当時九歳になる嫡子を人質として岡崎に差し上げた。権現様(徳川家康)はお悦びに思し召し、この嫡子の
元服を仰せ付けられ、「康」の御字を下され、「彦次郎康重と名乗るように」との上意であった。
さらに御召しの御馬を下された。

『本多越前守利長家之覺書』

やっぱり一向宗以外にも広がった反乱だったのか



狼煙を上げ、直ぐに御一戦があった

2020年04月15日 18:17

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/15(水) 12:08:07.67 ID:DKMCvcRx
天正三年夏、武田勝頼が三州長篠の城を囲んだ時、権現様(徳川家康)は出陣し、信長が御加勢なされた。
この時権現様と信長、御密談にて夜中、鳶巣山に御人数を廻し、城を攻め落とし勝頼の後ろを取り切って
御合戦なされるべきとの事で、酒井左衛門尉(忠次)、本多豊後守殿(広孝)、松平左近殿、並びに信長衆
相添え差し遣わされた。この時
「出来るだけ忍んで越え、鳶巣山へ登り着いたら狼煙を上げるように。その合図によって合戦を始める。」
と仰せ含まれた。

かの山において竹右衛門(この覚書の作者:岡田竹右衛門)が仰せ付けられ狼煙を上げ、直ぐに御一戦があった。
鳶巣の城は即座に乗取った、この時竹右衛門は高名を仕った。また妹婿の中根新八と申す者、若年にて初陣として
罷り在ったが、この新八にも竹右衛門が指導した。
この竹右衛門が走り廻ったことに対して、権現様より御感の旨を仰せに成られた。

岡田竹右衛門覺書

この覚書だと鳶巣砦攻撃に関して、酒井忠次が進言した話を信長が外に漏れないように激怒した云々、
という話は無いのですね。



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/15(水) 15:36:56.91 ID:jv7TOCdb
進言ありました、いつ誰が聞いてるのかもわからないから激怒してカムフラージュって
あまりにもお話として出来すぎ感がある

佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様

2020年04月14日 18:14

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 00:34:32.23 ID:UAOt+l7t
元亀三年十二月二十二日、遠州三方ヶ原合戦が有った。
これは、足利義昭公が信長の救いを以て武将(征夷大将軍)に備え給わったと雖も、
信長公は自己の繁栄を先とし守禦の忠、日を逐って衰えたため、義昭公は信長を誅せんと、
密かに武田信玄を招き給うた。信玄は喜び、この年十月軍勢三万を率い遠州へ出、二俣城を攻めた。

この事態に、家康公より信長公へ加勢を請われたため、佐久間右衛門尉(信盛)を大将と成し、
七頭(佐久間信盛に付けられた七ヵ国の寄騎)を差し越させた。

そのような中、信玄は二俣城を攻め落とし、十二月二十二日、三方ヶ原へと進出した。
家康公は浜松を出た。この付近に城が有り、家康公の御備はサイカカケ(犀ヶ崖)に付いて右に有り、
佐久間信盛は七頭を従えその左の備であった。

信玄は大勢で以て信盛の備を手厚く押さえ、家康公の御勢に向かって合戦した。御家勢は終に敗北し、
家康公は犀ヶ崖より引き入れ東の御門より入った。甲州兵はその跡を追い掛かったが、犀ヶ崖へ落ち
人馬重なり死んだ。その間に家康公は浜松の本城に入り、御旗を立てられた。家康公の軍士たちは
浜松へ馳せ入り城を固めた。佐久間信盛、同久六安政も、手廻りばかりにて城中に籠もった。
信玄は城の堅固を見て攻め入らず、二十四日に兵を引き取ると云々。

佐久間軍記

佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 01:44:59.17 ID:stkZ0XZE
あ、ちゃんと城を固めたって話になってるんすね
空城の計使ったみたいな話は何が初出なんだろ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 01:52:57.03 ID:j+0zRzqo
佐久間軍記は大坂の陣の後の、割と早い段階で成立したらしいね。

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:27:50.35 ID:RcQtnd87
信玄がここできっちり徳川にトドメを刺す方向へ決断してたら、後の日本史は大きく変わったに違いない。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:47:50.96 ID:wKITc2tn
陣没する場所が浜松になっただけ

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:52:14.17 ID:Jf7xcUU/
家康が死んでりゃ、毛利幕府が成立したかもしれないだろ

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 10:18:30.10 ID:0xdSiPIL
鞆幕府で毛利が義昭に養子を取らせて
その後京都に復帰
形式上は足利幕府存続だったり

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 13:07:49.42 ID:jIv+KTSX
鞆幕府臣の槙島昭光なんか、義昭、秀吉、秀頼、細川忠興をわたり歩いてるくらいだか、象徴のような人がいれば誰でも良かったんじゃない。

稲富一夢が事

2020年03月22日 15:34

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 09:49:41.35 ID:+xP3v1b/
稲富一夢が事

稲富一夢(祐直)、初めの名は伊賀である、丹波国の住人にて、一色五郎満信(義定)の家臣であったが、
義定が滅んだ後、細川忠興の侍と成った。
この度、大阪屋敷の留守として忠興が置かれた所に、主人の用に立たず、剰えその行方も知られなかったため、
忠興は深くこれを憎み、何としてもこの者を捜し出し火あぶりにせんと捜索された。

しかし、「稲富が大阪城中に罷り在って、主君の役に立たなかったのは是非無き次第であった。」とも聞こえ、
その故いかにとなれば、稲富伊賀は鉄砲の名人ゆえ、大阪衆の歴々に、弟子である人多かった。故に稲富が
滅びることを惜しみ、鉄砲稽古に事寄せて、予め城中に呼び入れた。この時は未だ敵味方の分色も無い時であったので、
鉄砲の稽古もすぐに済むことだと心得て、稲富が城中へ参ったのも仕方のない事では無いだろうか。

この稲富という者は、奇妙稀代なる鉄砲の上手であった。その妙を語っても、未だ見ぬ人で、「信じられない」と
思わぬ人は居なかった。
稲富が常に用いる鉄砲は、玉目一両より八匁までを限りとし、その町間も八町(約870メートル)以上を好まなかった。
八町以内であれば、火蓋を切って中らずという事無かった。
或いは暗夜に孤狼の声を聞き据えて、闇中に撃ち留める事も、ただ箱の中のものを拾うようなものであった。

稲富は二十五歳の時、橋立大明神に一七日断食して、目くら打という工夫をしたと聞こえる。
十能十藝、古より手練の者は多いが、離切りたる飛び道具を、稲富ほど精緻に扱う者は未だ聞いたことがない。

関ヶ原の戦いが鎮まった後、畏くも権現様(徳川家康)が御直に越中守(忠興)に御詫言あそばされ、頭剃らせて
一夢と号し、世上の師となされた。

丹州三家物語

稲富祐直についてのお話



鎧淵由来

2020年02月15日 13:56

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 00:52:53.38 ID:7kNkFxgR
天正壬午の乱の折

北条に与していた大村伊賀守は徳川軍を相手に大野の砦に籠もっていた
しかし、奮戦の甲斐無く砦を落とされ、大村伊賀守は自分が着ていた鎧を笛吹川に投げ捨て自刃した

後日、大村伊賀守が自刃した場所に家康自ら巡検に来たところ、その大村伊賀守が捨てた鎧は沈んでおらず、不思議と川に浮いて留まっているのを見つけ、家康はそこの淵を「鎧淵」と名付けた

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 00:55:46.41 ID:7kNkFxgR
出典は中牧合戦録の写本を現代語訳した『中牧城と大野の砦』です



858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 00:24:08.49 ID:mq716C2i
後継者にならない秀康にお義、後継者になる秀忠にお長とか
いい話の大蔵って盗賊切ったからその刀大蔵って名前でどうとかもそうだけど
名付け方そのまんますぎるやろ家康

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 16:56:11.46 ID:ePEqh7qg
ヒント:母親の身分

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 12:06:22.09 ID:Cr1Ny+sS
家康さんは三河の武骨ものなんで仕方ないです

本多忠信・正盛の不幸

2020年02月10日 18:51

846 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/10(月) 11:20:50.70 ID:a2Lko6Se
本多忠信・正盛の不幸

本多忠信は本多百助信俊(忠政)の弟。九鬼氏の娘を母として誕生しており、内藤正成の息子を養子としていた。 

さて忠信は家康に仕える旗本であったが、関ヶ原の合戦の際、親族にあたる縁から九鬼嘉隆への御使として派遣された。ところが嘉隆はすでに石田三成方に心寄せており伊勢国朝熊において忠信を殺害したという。 

忠信の横死後は正盛が跡を継いだ。時は流れて家康の死後、この正盛は東宮社造営の副奉行という大任を賜った。 

ところが同輩の山城宮内と口論となり、挙げ句の果てに激昂した正盛は山城を刀の鞘で打ち据えるという暴行を働いたと言う。山城はこの狼藉が原因で切腹してしまった。

正盛は重要な時期に騒動を起こした責任を追及され、東宮社完成と同じ月に松平成重にお預けの上、自刃を命じられた。日光市の福生寺に現在も墓が残っている。