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この者達の忠孝を認めぬと言うのなら

2019年09月20日 15:25

198 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/19(木) 19:18:26.41 ID:/7Fim3py
「それは、長束大蔵大輔の仕掛けた事だ。」の後日談

関ヶ原の戦いで斬首された長束正家
当主が死んで路頭に迷った長束家の家臣達を召抱えたのは他ならぬ伊奈忠次であった

家康は「逆賊として斬首された者の家臣を召し抱えるなど、他の者に不興を買う。おぬしの為にならぬぞ。」とたしなめた

しかし忠次はこう反論した
「確かに長束正家は逆賊かもしれませぬ。ですがその家臣は正家に最後まで尽くして逃げ出さなかった忠臣であります。
この者達の忠孝を認めぬと言うのなら
私は腹を斬ってこの者達に報いねばなりますまい。」
と家康に詰め寄りこれを認めさせた

こうして長束正家の家臣とその家族達は伊奈忠次に救われ
かろうじて生き残った長束の子孫はやがて徳川家光と手紙のやり取りをする程の関係にまで快復するのであった



199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/19(木) 21:08:41.28 ID:bQC3nvG5
旧豊臣の奉行衆には実務的な優秀な部下も多かったろうからなぁ

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/22(日) 12:33:41.67 ID:gTVfXKay
武田の旧臣を幕下に加えてたくせによく言う

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/22(日) 20:44:34.93 ID:7bj0T1un
武田の部下は俺のもの
長束の部下も俺のもの

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/22(日) 21:13:09.23 ID:5Wnbhz7y
北条の家臣も多く召し抱えとる

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/23(月) 01:26:19.01 ID:Jl+ho/kN
北条は別に秀吉から召し抱えるなとか言われてないだろ?

204 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/23(月) 08:09:57.82 ID:2hnkMw8k
>>198
伊奈忠次「うちの父親も殿に弓引いた逆賊なんすけどね。信康様の件で私も再び出て行きましたけど」
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かの一類を成敗すべし

2019年09月06日 17:42

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/06(金) 16:22:11.74 ID:xfBoafGR
(前略。大鳥逸平事件の記事)さて京都に下知あり。大坂・堺その他の国々でかの一類(かぶき者)
を成敗すべしとのことであった。これにより、この頃は無縁の者には宿を貸すことがなく、旅人は
このために迷惑した。

かのいつ兵衛(大鳥逸平)は相撲をも良く取り兵法をも使うので、(幕府の)若衆はかぶきとは知
らずに近付いたところを、罪科が行われて国々に遣わされた。

穂坂長四郎は越後衆の村上周防(忠勝)に預けられる。坂部金太夫は同越後衆の溝口伯耆(宣勝)
に預けられる。岡部藤次は奥州の南部に預けられる。米津勘十郎(北町奉行・米津田政の子)は同
奥州の津軽に預けられる。佐平次は佐渡に流された。

かのかぶきどもの傍輩で(かぶき者の)従者とは知らずにとりわけて近付いた者がいて、かぶき者
の中で去る5月に喧嘩して死んだ者を葬ろうとなおざりにしなかった。

その事とは傍輩に言わず「無縁の者が死んだので、結縁のために代物を少々合力してくれ」と様々
言ったので、何気なく代物を少し出したのをその一類と称して成敗され、この者どもは罪無くして
死を蒙った。迷惑なりし事共なり。

――『当代記』

当世に奴風といってバサラを好む人は、親に掛かる部屋住の若輩をよろしからぬ風俗に引き込むの
である。

例えばその若輩が弓を好むかまたは馬数寄ならば、すなわち「馬を見せ申そう」と招待し馬具など
を奇麗に伊達にして、あるいは馬取や中間に至るまですねふり奴を出して、奴を見習わせて真似を
したい心を付ける。その後に料理を出して酒になり、諸々のよろしからぬ風俗を教え奴の友に引き
込むのである。

「油断仕ってはならぬ」との(池田光政の)御物語りである。馬に限らず兵法や詩文の学、歌学の
友も慎むべきことである。

――『烈公間話』



只今石田を殺したならば

2019年08月28日 15:51

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 14:17:08.67 ID:9gs3r0Od
秀吉公御卒去の折、諸大名五奉行は大坂に参会した。この時、伏見で石田(三成)をこのついでに諸将は
殺すべく評議した。これに神君(徳川家康)は、密かに石田を御助けして御落としなされた。寄り合った
諸将は石田を重々憎み、殺したく思いなさった。しかしながら、家康公に従い奉るべしとは思わなかった
のだという。

この時に石田を御囲いなされたことは、本多佐渡(正信)の申し上げ故である。佐渡が申すには、

「只今石田を殺したならば諸将は皆公に背き申しましょう。今は石田を憎んで皆公に組しています。石田
の様子は、この分際でいるような者ではありません。大いに催して打ち出ることでしょう。その時に討ち
果たしなさるべきなのです。これ当理の謀なり」

案の如く石田は関ヶ原で大勢を語らい打ち出た。これ皆佐渡の智謀なり。後々年に至り、公が佐渡の申す
ことに御同心無き時に「何ぞ杉戸の際で申したことを御失念なされましたか」と度々申し上げられたのは
この事である。

黒田甲斐守(長政。原注:如水軒)が申されるには、「あの折に伏見で治部少輔を重々殺したく思った。
しかしながら、家康公に従い奉るとは思わなかった」と後々申されたのだという。(原注:右は如水軒が
光政公へ御直談申したのを(光政が)仰せられたと覚え申すものである)

――『烈公間話』




165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 13:01:27.64 ID:bI7TkIMY
石田三成がいなくても、宇喜多秀家の動き次第では…。

166 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/29(木) 16:35:08.65 ID:lniIquuh
その時は金吾が総大将だな

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 19:35:06.83 ID:BCVHUVku
それは無いな。宇喜多は内紛でそれどころじゃないし小早川秀秋は家康と争う理由が無い

その一言は大きな誉れである

2019年08月24日 16:15

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/24(土) 02:46:52.12 ID:vjfU7B8l
同青木民部(一重)が真柄を討ち取り申されたこと以上に存じられるのは、牢人して今川家に武者修
行の士は多く、甲州勢が出ると聞き民部は一同に30人ばかりで掛け出て、新坂の道辺にある銀杏の
木の見えるところまで行った。その時、山上へ大物見の如く3百人ばかりが出た。

「何とぞ引き取るべき!」といずれも申したが、民部は曰く「引き色を見せれば、猶更敵は募ること
だろう」と。十死一生の戦を持ち戦う内に、民部は大きな男と組んで山の下へこけ落ちた。銀杏の木
の際へ落ち付いた時、民部は上になって首を取った。また、他の者も2人で敵1人を一緒に討った。
その内に味方の加勢が来て、敵は引き取ったのである。もっとも、初め同時に来た味方の内にも討死
は多かったのだという。

今川家よりその褒美として民部に金子1枚を賜り、一緒に敵を討った士には金の龍の口蓋を2人に1
本ずつ賜ったのだという。

民部はいつも武辺の話を致さぬ人であったという。また小兵で痩せた人だという。この人は青木先甲
斐守入道丹山(重兼)の父であるが、実はその伯父である。実父(青木可直)は輝政公(池田輝政)
の御家中におられたという。

前述の時に諸人は「引き取るべき!」と言ったが、青木1人は申され「引き取れば追い付かれて1人
も残らず討たれることだろう。堪えて戦おう!」と申した。その一言は大きな誉れである。その上で
功名があった故、ますます手柄となったのである。

――『烈公間話』



赤絵の茶碗

2019年08月19日 18:07

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/19(月) 11:35:25.33 ID:RGdWfBRM
安藤治右衛門家によると、先祖の治右衛門(正武)が大阪御陣の時深手を負った折、家康公が赤絵の茶碗に
薬湯を入れ、御手自ら賜ったという。この茶碗は朝鮮王より太閤秀吉に贈られた三つの品の内の一つで、
その後太閤より家康公へ進ぜられたのだという。その銘に曰く(赤絵染付なり)

 十年窓下無人問 一挙成名知天下

これは治右衛門家が重器として持ち伝えている。虫干しの時に見た人が語った。


(耳嚢)



水中で首を取り申した

2019年08月18日 14:11

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 20:50:59.04 ID:S3TnxfWQ
長篠で勝頼敗軍の時、青木(一重)の人数は舟に乗り、川を越えて敵船に交じり乗ったのを
敵は(青木を)見知っていて船から突き落としたが、川中を潜って折々首を出し、船に遅れ
ずに付いて行った。

向こうの岸際で浮き上がると、かの突き落とした兵を見掛けて浮き上がり取って引き落とし、
水中で首を取り申したという。

――『烈公間話』



カスウの大兵

2019年08月17日 17:00

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 16:26:55.11 ID:a03B31HY
姉川合戦の時、家康公に従い奉った青木民部(一重)は真柄(直隆)という兵の首を取った。

さる人(原注:能勢小十郎(頼隆)である)は民部に尋ねて「真柄を討ちなさったとも申す
し、または真柄の子(隆基)であったとも申しますが、どうなのですか」と問うた。

青木は答えて「カスウ(糟斑か。馬の毛色)なる大男と競り合った後、片岸で大男が後ろへ
落ちて行くのを押し付けて取った。カスウの大兵なので、人の子とは申し難き者だった」と
申されたのだという。(原注:子か親かは分からないが、子とは言い難い者だったと申され
たのだということである)

真柄という者は隠れ無き大兵で功の者という。

――『烈公間話』



大久保彦左衛門は名誉の一徹者である

2019年08月16日 17:03

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/16(金) 16:29:02.21 ID:R+/a7XHr
大久保彦左衛門(忠教)は名誉の一徹者である。大坂御一戦の時は御槍奉行であるが、後に
御旗奉行となった。

ある時、牢人の某がやって来て申すには「このように御静謐の御代ならば、何も得るところ
なく病死仕ることだろう。天晴にも具足を肩に掛けて討死仕りたい」と、彦左が気に入って
「愛い奴」と言われようと思って申したのである。

彦左は曰く「まことに左様に存ずるのか」と申されて、某は「実に左様の心底」と申した。
その時に彦左は曰く、

「それが本当ならば日本一の不届き者なり!

何故かと言えば、この御静謐の御代に其の方などが具足を着るということは、まず乱国で
なければありえないことである! 代乱れるは一揆か逆心か、左様なことがあって其の方が
具足を着るような如何程の功名があろうとも、(その恩賞は)3百石か5百石である!

其の方は自分1人が5百石の立身を仕りたいがために天下の乱れを好んでいる! 公方様に
難しきことを願い申す心底、さてさて不届き千万なり! 左様に本当に存ずるならば只今腹
を切れ! 是非とも切れ!」

と白眼付けて(怒った目で睨み付けて)言われ、某はコソコソと逃尻仕ったのだという。

――『烈公間話』



安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


阿茶の局

2019年08月09日 17:44

阿茶局   
136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/09(金) 01:21:41.59 ID:7qMAvHNA
阿茶の局は飯田筑後(直政)といった者の娘で、今川の家人・神尾孫兵衛忠重の妻である。

天正5年(1577)7月、忠重に先立たれて同7年に東照宮(徳川家康)に仕え奉り、阿茶の局
という。その子の五兵衛は僅か6歳であったのを長丸君(徳川秀忠)の扈従になさった。(原注:
寛永の家譜には、五兵衛守世は天正11年(1583)に初めて見参して15歳であると記す。家
の伝えに誤りがあるか)

この局は殊に出世した人で(家康が)大方御陣中にも召し連れなさる程のことだった。慶長19年
(1614)の冬、大坂の御陣でも常高院殿(初)に連れ添って城中に入り、御調停の事を(家康
の)思召すままにやり遂げ、この局の才覚の程が知られた。

東照宮が神去りませし(逝去した)後、江戸に参ったので竹橋の内に宅地を賜り、また中野村に3
百石の地を宛て行わられた(原注:寛永の系図に清水門の内に『一位様』と記しているのは、この
女房のことである)。

 元和7年(1621)の6月、台徳院御所(秀忠)の姫君(和子)を内裏に参らせなさる時、
 忝くも御母代に参って都に上り、従一位に叙されたので世では“神尾一位”と申した。されど寛
 永の系図にはこの事が見えず、ただ『一位と号す』と記している。

寛永9年(1632)に台徳院が御逝去なされて後、局は出家して“霊光院”という。これより先の
慶長6年(1601)の頃、東照宮の御許しを得て、神田の伯楽町に一寺を営んで“龍徳山光厳教寺
雲光院”と名付けたので、今自らの号をこのように言ったのだろう(原注:この寺は明暦の火の後、
神田田所岩井町に移され、天和3年(1683)に再び深川に移された)。

かくて年は積って83歳、寛永14年(1637)の正月に病重篤に及ぶと(徳川家光は)聞こし
召し、酒井讃岐守忠勝朝臣をもって見舞いなされ「望むことあらば申すべし」とあれば、「雲光院
に寺領を賜りたい」と望み申したので、それならばと50石の地を寄せられたのである。この月2
2日に亡くなった。それから雲光院で後の法要があって御弔いに白金千両を賜われた。

五兵衛守世もしきりに登用なされて、従五位下の刑部少輔になる。母のお陰といいながら、自身も
器量のあった人であるという。弟の内記元勝というのは尼公(阿茶)の養子で、真は松平周防守康
親の家人・岡田竹右衛門(元次)の子であったのを、尼公が布施兵庫の娘に合わせ子になされたの
である。これもしきりに出世して寛永15年(1638)の5月、町奉行の職に補せられ叙爵して
備前守に任ず。寛文元年(1661)に致仕し、同2年に入道して宗休と号す。世に“三老人”と言
われた1人であるという。守世と元勝の子孫は多い。

――『以貴小伝』



小姓衆まで裸で御給仕致した

2019年07月28日 16:22

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 15:59:23.97 ID:+FGMiur9
忠秋公(阿部忠秋)は御若年の時には御大酒をなされ、御心安き御客がいらっしゃった時は、
大島の伊達な御衣類に鮫鞘の大御脇差をなされた。

あるいは御謡の後には小歌をなされ、御風呂を振る舞いの時は御上がり場で御酒盛をなさり、
小姓衆まで裸で御給仕致した(御あかり場にて御酒盛小性衆迄[身果]にて御給仕いたし候)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

そんなお洒落さんを茶化したらキレるよなっていう>>266



大久保忠隣改易

2019年07月22日 15:51

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 19:06:48.78 ID:ARl2F+J7
一、翌年2月4日(1614)、大久保相模守(忠隣)江戸発足。上方筋で切支丹が起こったので
  仕置きのために上京。宗門の者どもを成敗して後、板倉伊賀守(勝重)をもって相模守の改易
  を仰せ付けられ、井伊掃部頭(直孝)に御預けなされた。

  この節、里見安房守(忠義)と佐野修理大夫(信吉)に改易を仰せ付けられた。ただ大久保相
  州の縁者たるによってこの如し。

  一族家来まで御咎めあり。相模守の子供の大久保右京(教隆)・同主膳(幸信)・同内記(石
  川成堯)、いずれも津軽・南部へ御預けなされた。大久保加賀守(忠常)はそれ以前に相果て
  られた故、孫(大久保忠職)が家督を致していたが、これは家康様の御息女・加納様(亀姫)
  と申す方の御婿である故、江戸の屋敷に閉門致した。

  森川内膳(重俊)は相模守の姪婿なので、酒井左衛門尉(家次)に御預けなされた。日下部河
  内守(正冬)、これは茂助(村越直吉。道伴の父)の娘を相模守の娘分に致して婿に致し、こ
  れによって館林の榊原遠江守(康勝)に御預けなされた。山口但馬守(重政)は縁者たるによ
  り御改易。

  谷六右衛門は相模守が取り分けて目を掛けられた故、松平将監に御預けなされた。石川主殿頭
  (忠総)は相模守の次男であるが、他名を継いだので知行の大垣に閉門致した。その他に摂津
  半兵衛は、その時は江戸奉行だったが当座の出仕を留め申した。

一、富田信濃守(信高)に改易を仰せ付けられた。もっとも罪科は相州とは別罪である。家康様は
  常々、御慈悲をもっぱら要に遊ばされたところ、御老年に及び厳しく御仕置きを仰せ出された
  と、世人は唱え奉ったという(家康様常々御慈悲を専要に遊ばされ候所、御老年に及び稠しく
  御仕置仰出され候と、世人之を唱ひ奉り候由)。

――『村越道伴物語留書』



玉ノ跡七ツト哉ラン有之由

2019年07月16日 15:51

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 01:34:51.74 ID:Y8qQMC2y
同戦記(『難波戦記』)に本多出雲殿(忠朝)戦死の事がある。

自分の手勢の者を先手に残らず掛からせ、自身も掛け出なさったという。横から撃たれた
鉄砲に当たり、馬から撃ち落とされたという。弾の跡は7つあったとかいうことである。
(玉ノ跡七ツト哉ラン有之由)

先の本多能登守殿(忠義。忠朝の兄・忠政の三男)が御物語りなされたとのことである。

――『烈公間話』



263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 07:49:46.14 ID:PycxYtRW
>>262
随分と鉄砲の精度が上がったんだな。

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 10:26:56.94 ID:Df4sL/wN
散弾だろ
甲冑に当たると弾けるようになってる

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 14:56:32.28 ID:gRFLGpaC
前日談の
家康から「お前の父親の忠勝は勇猛果敢だったのにお前ときたら」
と言われた話の方は特にコメントなしか

敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!

2019年07月12日 16:47

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:30:11.98 ID:NXcn6hNJ
御四男の左馬助忠吉公(阿部忠吉。正勝の子、忠秋の父)は、慶長19寅年(1614)の
大坂御陣(冬の陣)の折は御知行2千5百石の御従頭で、駿河に御詰めなされた。江戸の御
屋敷は西丸大手際で、後に三枝摂津守がおられた屋敷である。

翌卯年の大坂御陣(夏の陣)で前将軍・家康公の御先を御勤めになり、大坂から毛利豊前守
(勝永)が打ち出た時に、東兵は敗走する。

味方が崩れ掛かるのを忠吉公は御覧になり、道を要意してとある在家の後ろを回って御組中
ならびに御家臣を引き連れ、小高き所に鳥毛の三階笠の馬印を押し立てると、槍衾を作って
「敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!」と、膝を敷いて待ち受けた。

御旗本が足を乱して敗北(敗走)する中でも踏み留まった面々は、忠吉公の言葉を聞いたこ
とを後の証拠とした。将軍家(徳川秀忠)は、忠吉公は御眼前で天晴な御振る舞いであると
の由を仰せであった。

正勝公よりの附人は河野半右衛門・加藤半次郎。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



まったく家康は只者ではない

2019年07月02日 17:36

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 01:55:04.11 ID:epDKg5+D
ある時、長遠寺の所へもてなしに、馬場美濃守(信春)・内藤修理正(昌豊)・高坂弾正・山県三郎兵衛
(昌景)・原隼人佐(昌胤)・小山田弥三郎、その他各々大身衆が寄り合って1日の雑談があった。

その内、山県三郎兵衛は駿河江尻の城代なので、遠州浜松の家康の噂をよく聞いていて申された。「内藤
殿は関東・安房・佐竹・会津までのことを語りなされ。小山田殿は小田原の近所なので北条家のことを語
りなされ。高坂殿と馬場美濃殿は越後・越中までのことを語りなされよ」とあって、山県は申される。

「さて、家康は義元公討死より以降10年の間、内外の国持ちであるが、駿河の盛りの作法を幼くして見
聞きしたことであろう。信玄公の奉行衆が公事を裁く、その様子に少し似ているようだ。

何であっても公事の落着は目新しいことを聞かないが、それは昨今の家康が国持ちである故で、各々の感
心なさることはまだ10年過ぎてもないことだろう。あの若き家康が申し付けた3人の奉行は、三様の形
儀を言い付けられたと見えて、“仏かうりき・鬼作左・どちへんなしの天野三兵”と浜松で落書が立てられ
たと聞く。

さてまた、ひととせ私めどもが30歳ばかりの時分、信州更科の出家の公事で、武蔵殿と櫻井殿が若き時、
今井殿ばかりが家老で今福浄閑(友清)が中老であったが、4人は歳も形儀も異なっていたのを、奉行に
信玄公は仰せ付けられた。その様子に、これ程の家康が少しずつ似ているのは不思議である」

と山県三郎兵衛が語れば、馬場美濃・内藤・高坂各々は申されて「まったく家康は只者ではない」と言わ
れた。その中で馬場美濃が申されるには、(後略。>>52)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん

2019年06月30日 15:09

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 14:09:52.24 ID:sks/4Xkg
一、信玄公の御仕置で、諸々の境目の侍大将衆へ近国・他国の大将の行儀・作法・仕形を聞き出して、
  その次第・善悪ともに一書にして言上致せとのことに付き、ある年に遠州犬居の天野宮内右衛門と
  申す侍大将の所より進上仕った書き付けによると、

  「美濃岐阜の織田信長へ周り1尺の桃3つがなったのを枝折りに仕り、霜月中の10日に上げると、
  信長は差し引きの冴えた名大将で、表面は事を破っても内心では時によって一段と練ったことの多
  き武士でいらっしゃった。

  そのため、桃の大きさに心祝いして1つは信長が召し上がり、また1つは嫡子の城之助信忠へ参ら
  せられ、3つ目を遠州浜松の徳川家康公へ送りなさった。家康は『世の常ならずかたじけない』と
  の返事をなされ、その桃を隠して捨てて家康が食う給うことはなかった」

  この事を天野宮内右衛門は書き付けて上げた。一書の多い中でこれは左程の事ではないと存じてこ
  そ、末にいかにも粗相に書いてあるのを信玄公は御覧になった。その書き付けを御手に取りなさり、
  しばらく目を瞑りなさって後に御目を開いて宣うには、

  「家康は今年きっと30歳ばかりであろう。40歳に及ぶ殊に大身の信長に、五位も増して締まり
  所のある分別だ。

  流石に武士の心遣いなき者ならば、『歳相応に似合わぬ』とも申すだろうが、三河国を治めようと
  19歳から26歳まで8年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れ形の如くなれば海道一番の武士と申し
  ながら、日本国にもあまり多くはあるまい。

  丹波の赤井(直正)・江北の浅井備前守(長政)・四国の長宗我部(元親)・会津の盛氏(蘆名盛
  氏)、若手にはこの家康であろう。

  さて時過ぎたる(旬の過ぎた)この桃を捨てた分別は、出世を考えてこうしたのだ。その出世とは
  年明かば吉事なり。この意味は馬場美濃(信春)・内藤修理(昌豊)・高坂(弾正)はきっと合点
  仕るだろう」

  と宣ったのである。

一、(前略)その中で馬場美濃が申されるには、「家康の身の上について私めは見及んでいる事がある。
  美濃の命を今20年生きて、この考えが当たるか試したい。20年生きれば80に今少しだ。鉄の
  鎖で繋いでも成らぬことを願うている」と言って笑いなさった。

  高坂弾正は申して「家康の身の上を何と馬場殿は考え給うぞ」と問えば、美濃は申されて「流石の
  弾正殿ならば、私めより早く考えがあるだろうに」と言った。すると小山田弥三郎は手を合わせて、
  「御両所の考えを願わくば聞きたい」と頻りに所望した。

  高坂は申して「美濃殿の考えを承りたさに、私めが下座から申そう」と、弾正はすなわち言う。

  「家康は今信長と二世までの入魂により両方が加勢を助け合い、それ故2人は堅固なれども信長の
  敵は上方14ヶ国の間で、信長に国を取られないことを基本として、信長の国へ取り掛けようと存
  ずる武士は1人もなき故に、この如く次第に大身となった。家康はいつまでも三河一国と遠州の3
  分の1なので、ついには家康は信長の被官のようになって、後に祝言は致した(終には家康信長被
  官のやうになりて後祝言は申しつ)。

  信玄公が明日にも目を塞ぎなされば(明日にでも死ねば)信長は安堵して、(かつて)今こそ嫡子
  の城介殿と同じに思うと3つの桃を1つ(家康に)送ったけれども、強敵にして大敵の難しき信玄
  公がおられねば、家康を信長は殺すことだろう(強敵大敵の六ヶ敷信玄公御座なくば家康を信長こ
  ろし候はん)。

  それで大事ないのならば、家康の果報は少々の藪神とは考えなりかねよう」

  と高坂が言えば、馬場美濃は大誓文を立てて「私めもそれなり」と言う。内藤修理も同じく誓文し
  てその通りであった。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 18:12:33.34 ID:jSCm0gOK
まあ家康の腹のうちは分かるとして
藪神ってなんだろ

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 21:32:26.64 ID:lN9ljRxX
>>52
傷んだ桃食べたら命に関わるから食べなかっただけじゃないのん?
それは石田三成の逸話か

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 21:53:44.71 ID:sSNhz914
柿じゃねぇんけ?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 22:16:13.98 ID:jK95gmra
TERUから秀吉に贈った桃を旬じゃないからって送り返した逸話があった気がする

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 22:39:53.21 ID:SUOfy+Yz
甘いもの好きなノブが桃を貰って捨てるわけがない

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/01(月) 00:20:46.00 ID:fSFnRT/t
森忠政「桃で人死なねーだろJK」

江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス

2019年06月29日 17:47

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 01:57:08.33 ID:vUiZFcjS
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

『駿府記』

7月7日、水野監物(忠元)が江戸より御使のために参着。(注釈:中略。七夕賀のことに係る)こ
れについて上意を得られたという。

江戸御番衆中の柴山権左(注釈:右)衛門は去る月25日、その小姓に科あってこれを殺した。する
とかの小姓の傍輩が側にいて抜刀し、権左衛門を刺し殺して逐電した。幕府はこれを聞こし召し、方
々へ追い掛けさせ給い、ついにかの者を虜にしてきた。

かの者が語って言うには、日頃約束して曰く「たとえ主人といえども理不尽のことがあれば、その仇
を報いるべし」との由で、連署して徒党を結んだのでこのようになったという。よって拷問して尋問
なさると、その党類を一々に白状した。その族は世に言うところの“哥部妓者(かぶき者)”である。

下鬢髪を切って狂紋所を染め、大刀長柄(原注:その刀には戯言を刻んだ)を帯びてその容貌は尋常
ならず。件の輩はかの白状を聞いて逃げ散ったが、これを捜索してゆうに70余人を搦め捕らえなさ
る。その他に逃げ去った者は5,60人。この如き者は、面々の家中に1人2人はいた。

さて穂坂長四郎など若年の数十人を拘束し、これをもってその所領を離されて、その番頭にその身を
預け置かせなさるという。

(徳川家康の)仰せに曰く、悪党を禁じ召されることは政道の肝心であり、すなわち駿府においては
この如き類はあってはならず、御糾明なさるものであるという。(注釈:『武徳編年集成』には「糾
明すべしとの旨を、町司の彦坂光正に命じられた」とある)

『慶長年録』

大鳥井逸兵衛(大鳥逸平)と申すかぶき者がいて召し捕らえられた。これは2,3年以来、江戸中の
若き衆、並びに威張る下々までが皆一味同心して“逸兵衛組”と称し、一同の思いをなして互いに血判
の起請文を書いた。

その趣は、「この組中はどのような事があろうとも、互いに身命を捨てて見馴染むべし。たとえ親類
父主でも思い替え、兄弟よりも頼もしくあるべし」と申し合わせた。

大将分は大風嵐之助天狗摩(魔)右衛門・風吹は散右衛門(藪右衛門)、下の組頭は大橋摺右衛門
と申す者で、江戸中に充満して(注釈:『慶長見聞書』に7,8百とある)所々で辻斬りは絶えず。
その喧嘩は数度に及んだので、御法度に仰せ付けられ、「下々で左様の者は召し捕らえて断罪を仰せ
付ける」との由を仰せ出された。

ここに柴山孫作と申す者の家来はその組の小頭であった。孫作は聞いて大いに驚き、他所からの訴人
もいない中で「成敗してしかるべし!」と25日、権左衛門(孫作)は家来の者2,3人に申し付け
置いてかの者を呼び出し「手討ちに仕るべし!」と用意した。すると残る家来どもは皆かの者の組に
なり、「主にも替えてはならない!」と申し合わせて誓紙を書くと、家来は寄り合わせて主の権左衛
門を打ち切って出奔仕った。

これよりなおもって御法度は強くなり、方々の路次に関をそえて在々所々まで御穿鑿なされた。6月
の末に神田の町において夜五つ過ぎ、月夜に笠を着て通る者がいた。不思議であると申して町よりこ
れを捕らえて引いて来て見れ、ばかの主を殺した者である。すなわち宿を尋ねて道具を取り寄せ穿鑿
したところ、一味の悪党の名を書いた帳があった。その類5百人余りなり。

大将の大鳥井逸兵衛を御調べなさればその宿は八王子にあり、すなわち召し捕らえに遣したのである。
逸兵衛は高幡という所の不動堂に相撲見物に行っていたので、大久保石見(長安)家中の町奉行・内
藤平左衛門という者が高幡へ行き、謀って逸兵衛を召し捕らえた。

平左衛門も大力で逸兵衛も相撲の達者、互いに取り合い上下へ返すのを、逸兵衛は大勢より縄を受け
て江戸へ引いて参る。青山権之助(成国)の所に逸兵衛を召し置き、色々と御穿鑿し、水火の責めに
及ぶも逸兵衛は同類を1人も白状申さず。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 01:58:56.39 ID:9XrjuxYh
この逸兵衛は元来は本多百助(信勝)の小者で、勘解由と申していたずらな倅である。さる慶長の初
めに秀忠公御上洛の御時、百助が御供に参った時に伏見で小者どもが毎晩御殿の近所の辻で、草履の
詰め開き、馬の受け取り渡しを稽古致し、あまりにうとうとしたので、後に御法度になった。その大
将を召し捕らえ、百助の小者も大将で出奔致して佐渡へ逃げ入った。

それから大久保石見の家中で辻喧嘩など一両度首尾の良いことがあり、大久保石見守の目代・大久保
信濃と申す者が逸兵衛を侍に取り立てて召し使った。さて天性この者は利根で弓を上手に撃ち習い、
鉄砲も達者、兵法は槍、総じて侍の嗜みを残さず稽古致した。そのため中小姓に取り上げたうえ、馬
なども乗ることを許された。

その後、本多百助方より構い申すので大久保信濃はすなわち故主へと戻し、逸兵衛が百助方へ帰った
時、逸兵衛は下々4,5人を連れ、弓盾を持たせて犬を引かせ、乗り掛けてやって来た。百助もこの
体を見て「召し使っても詮なし」と衣服などを取らせ、4,5日過ぎると信濃方へ送った。その後、
討ち者などを首尾良く致し、さて信濃に暇を受けて江戸へ来ると、かぶき者の組を立てて棟梁となり、
ついにはこの如くとなった。

(注釈:『武徳編年集成』に「歌舞妓組の棟梁となり、八王子の下原康重作の刀に『生過二十五』と
いう文字を彫った物という。これを使って闘諍辻斬を好んだが、その刀はまことに下作ながら骨の切
れることはその類無し。逸平はこの年25歳なり」とある)

本多佐渡守(正信)・土屋権右衛門・米津勘兵衛(田政。初代江戸北町奉行)方において色々取り調
べたが「一度も申すまい!」との由を申し、何程強く御責めになるとも「同類は申すまい!」と全く
申さず、水責めの又者が脛をひしいでも申さぬ故、米津勘兵衛は「あまりに申しかねるならば、尿水
をくれて問え!」と申し付けた。

逸兵衛は大いに怒って「侍たる者に左様の拷問とは前代未聞なり! いかに罪科の重き者であるとも、
『官人の尸(屍)は平土の上に置かず』と聞く。これにより官人は尸の号あり(武士は死を称えられ
るということ?)。侍はまた侍の法による拷問の作法がある。

なんとまあ、物を知らぬ奉行かな! 左様の問い様をするならば、其の方の子息・勘十郎も私めと同
類だ! 勘十郎にも尿水をくれて問え!」と申して、その後は口を閉ざした。聞く人は「さてさて、
この逸兵衛は只者にあらず」と皆舌を巻いた。

(注釈:『慶長見聞書』には「御馬廻衆の御歴々7,8人を白状致す。その後、方々より白状あって
以上百人ばかりが出奔し申したのを召し出し、切腹、改易、追放なされた」とある)

7月7日、水野監物をもって駿河へこの由を仰せ上げられ、その後逸兵衛は江戸中を引き渡して機物
にかかり(磔にされて)同類は皆成敗。3百人ばかりが切られ、この内無体に死に申した者もいた。

これは当5月に同類が辻喧嘩を致し、相果て申した者がいて、これはこの組の中の牢人である。その
ため同類にあらずといえど、知人と寄り合って代物を用意致し、寺へ送って弔い仏事を致した。その
帳を寺から出したので、帳に付き代物を致した者は罪なくして切られ申す。後日にこの事は知られ、
「奉行衆の誤りではないか」と人は申した。

9月、江戸で今回逸兵衛の同類になった衆で方々に御預けとなった衆は、

米津勘十郎。勘兵衛の子。津軽へ。
岡部藤次。奥州南部。
井上左平次。半九郎(井上正就)の兄。佐渡へ。
保坂長四郎。金右衛門(大坂夏の陣の旗奉行)の子。越後村上へ。村上周防(忠勝)に御預け。
坂部金大夫。越後柴田(新発田)へ。溝口伯耆(宣勝)に御預け。

(注釈:『慶長見聞書』には以上の他に内藤小伝次、大久保源之丞の2人を加える。また『武徳編年
集成』には逸平を梟首したこと、及びその党を斬戮したことを7月に係けている)

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 01:59:33.88 ID:9XrjuxYh
『津軽旧記』

慶長16年(注釈:17年)、柄木田勘十郎(米津勘十郎)御預け。これは公儀御町奉行・柄木田勘
兵衛(米津田政)の子息なり。大取市兵衛と申すも(者の?)御穿鑿に付き、御預けの旨。後に元和
3年、御許しによって罷り上り申す。

(注釈:これより先に煙草の事に因り、悪徒が組を成して京都にいたこと、並びに茨組のことは14
年7月の煙草禁止の条に見える。

この後、寛永6年10月18日、幕府は京中に令して町人が長刀を帯びることを禁じ、ついで慶安元
年2月22日にはその長刀を帯びてかぶきの体を為すことを禁じ、5年正月20日に至り、さらに大
いにかぶき者を逮捕した。かぶき者・町奴・男伊達・侠客などの事がまたその条に見える。

ついで同年2月3日には町人がかぶきに扮することを禁じ、また幡随院長兵衛が殺されたことは明暦
3年7月18日に。任侠の徒を禁ずることは同月22日に。水野成之を刑したことは寛文4年3月2
7日に。さらに男伊達の徒を禁ずることは寛文5年6月に。平井権八を磔にしたことは延宝7年11
月3日に。男伊達の者らが町家に強請することを禁ずることは宝永7年4月に、各々条あり。参照す
べし)

【参考】(>>169)

――『大日本史料』



214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 06:49:03.76 ID:ziUySTGo
男伊達に草生える

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 08:59:39.43 ID:/SeNJM5V
>>211-213
かぶき者の勢力がすごいことになっとるwこういうの放置してるとそのうちヤクザの組になるんだろうなー

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 11:04:07.74 ID:00Yqoxvp
警察官とヤクザは人間的には同類っていわれてますし

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 20:55:20.66 ID:2+Bij+Sw
まとめの8778
「豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)について
の「豊国祭礼図屏風」の太刀の鞘に
「生きすぎたりや廿三」と書かれているように
かぶき者の間ではかなりの流行語だったようで

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 21:38:24.11 ID:giT/Oas0
隆慶一郎の小説でよくあるあれだ

この吟味を三四郎に仰せつけられたのは

2019年06月28日 18:52

48 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/28(金) 18:19:00.29 ID:dyezkOlD
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8784.html
これの若干異なるバージョン

(酒井)忠勝様から伊達政宗様へ送られた書状を右筆が封じ違えており、他へ送る書状であったため政宗様は添え書きをなされお返しになった。
忠勝様は立腹され、役人を召し「すぐに吟味するように。右筆の糾明は北条三四郎に申し付けるように」とお命じになり、この書状を居間に置かれてご登城になった。
三四郎は筆跡を吟味する体を装いこの書状を焼却した。
ご退出の後忠勝様は吟味の様子をお尋ねになった。
三四郎は「筆跡の吟味をすれば筆者が誰か分かるでしょうが、(右筆のミスは)誤ってのことなので無益の吟味だと思い、書状は焼却しました」と申し上げた。
忠勝様は「軽率なことだ。しかしあの書状がないのなら吟味する手がかりもない」と仰って事が済んだ。
この筆跡の吟味を三四郎に仰せつけられたのはお考えがあってのことに違いないとご家中は感心した。

(仰景録)



世上で金銀がたくさんとなったのは

2019年06月25日 15:44

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 00:35:13.79 ID:Qzaauj/K
世上で金銀がたくさんとなったのは、今から50年以来のことである。

台徳院殿(徳川秀忠)の時、作馬不閑(不干斎。佐久間信栄)という者が所持する“雲山”と
いう茶入を金森法印(長近)が黄金百錠で求めた。これが台徳院殿の御聴に達し「その価を
与えよう」と宣った。

折しも金30錠はあったが70錠は不足していたという。今の世と甚だ相違している。

南都東大寺の奉加で頼朝(源頼朝)は「金50両を寄進する」と言われたけれども、その年
は干ばつで調わなかったいうことが『東鑑』に見える。

――『老人雑話』



45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 08:35:45.23 ID:ZgS036DP
太田牛一「秀吉公が出世ののち日本国中に金銀山野に湧き出で」

形の好みから武士道に入れ

2019年06月19日 15:12

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 19:54:49.11 ID:XHJKzrW+
「侍は首は取らずとも手柄をせずともそれを言わず、事の難に至っても退かず、主君と枕を並べて討死を遂
げ忠節を守ることを指して、侍と申すのである。

義理・恥を知らぬ輩は物の吟味をしないために、幾度の機会があったとしても1つも関心を抱かない。禄を
もって招く時は、譜代の主君を捨てて二君に仕える輩がいる。そもそも心は物に触れて移りやすいものだか
ら、仮初にも侍道の他は見聞きせずに、朝夕身を慣わしとして武芸を心掛け、たとえ学問をするとしても忠
義と大功を聞き、冑の緒を締めて槍・長柄・太刀を揚げ、天下の難儀を救わんと志すことが侍の役目である。

世間の武士道の教えでは、形はどうであれ「好みはあってもどのような事をもせよ。武士は只々志さえ正道
で武芸を嗜み、勇猛であれば良き武士である」と教えている。これも悪いことではあるまい。しかしながら、
某の家人へ教えることは違っている。某の家人などは、形の好みから武士の正道に入れ。形の好みを見れば、
その人の心根も見える。それは心で好んでいることが外に表れるからだ。言葉もそのようなものである。

例えば烏帽子・狩衣を着ている心持ちと、具足・兜を身に着けている心持ちは皆相違することである。髪の
結い様や衣類の着様、刀脇差の差し様まで手軽く健に嗜み、器物などをあるがままに任せ、諸事を軽くして
激しいことをもって、某の家人の教えとする。合印なくとも某の家人と見えるように嗜むべし。

公家殿や上人の玩びを必ず真似してはならない。大いに禁制とする。武道が甚だ弱くなるものである。それ
よりは三味線に歌は構わないだろう。出家と深く出会えば愚痴になるものである。町人と出会えば利欲にな
るものである。(それらの人々と)密事を語るものではない」

以上の教えに背く家人はすぐに扶持を放し、また首をも刎ねて仕置きを見せるものである。その家中の者ど
もは形の好みから武士道に入れというのが、忠勝(本多忠勝)の常の教えである。

――『鈴林扈言』