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武田総敗軍

2018年11月05日 17:39

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 00:55:12.56 ID:xOwWXg/m
(長篠の戦いの時)

徳川勢先隊の大須賀五郎左衛門(康高)・榊原小平太(康政)・本多平八郎(忠勝)・平岩七之助
(親吉)・鳥居彦右衛門(元忠)・石川伯耆守(数正)の諸将は自身で槍を振るって竹広の方より
まっしぐらに諸勢に抜きん出て突いて掛かる。武田方も和田・安中以下がこれを迎えて突戦する。

勝頼も本陣を進めれば、前備の望月右近・後備の武田左衛門信光も今日を最期と思い切って働き、
ここで本多作左衛門重次は7ヶ所まで手傷を蒙って右の眼を切られた。本多甚九郎・土屋次左衛門

を始め討死の味方も数多なり。敵も味方も討ちつ討たれつ手負い死人数を知らず。大須賀の属兵の
久世三四郎(広宣)・坂部又十郎・筧助太夫・同龍之助・伊藤雁助・浅井九郎左衛門・鷲田伝八・
柘植又十郎・鈴木角太夫・浅原孫七郎・松平助左衛門、その中でも渥美源五郎勝吉は生年19歳の

初陣なり。父に劣らぬ剛勇で敵の首若干を討ち取る。後々も高名を挙げて数え難し。“首取源五”
と異名を取ったのはこの勝吉のことなりけり。榊原の属兵では村上弥右衛門・富田三右衛門・伊藤
弥三・伊奈源左衛門・榊原仁兵衛・鈴木半兵衛も同じく奮戦して伊奈は討死した。

典厩(武田信豊)の勢1千余は返し合わせ返し合わせ突戦すれど、ついに徳川勢に切り立てられて
引き退いた。この時、信長卿の下知あって総軍一同に鬨を揚げて勇み進み追討すれば、勝頼もどう
しようもなく武田勢は総敗軍となり、鳳来寺の方へ敗走した。橋辺という所に至り大軍に追い掛け

られ、滝川に落ちて溺死する者もまた多し。真田源太左衛門信綱は渡辺半十郎政綱に討たれ、典厩
の弟・望月甚八郎信益(信永)は鳥居彦右衛門の同心・永田蘇父助に討たれた。

望月右近は永田澄之助に討たれて、堀無手右衛門は渡辺忠右衛門と小栗又一(忠政)両人がともに
討ち、興津十郎兵衛は高力権左衛門(政長)が討ち取った。その他に河窪兵庫助信実・下曽根源六

政利と弟の源七政秋・同弥右衛門政基・横田十郎兵衛忠重・油川宮内顕則・同左馬允顕重・高坂
又八郎助宣・甘利藤蔵吉利・杉原日向正之・土屋備前直親・高林恵光寺・岩手左馬助胤秀・原隼人

胤長(昌胤)・小山田五郎兵衛昌晟・高力源五郎昌宣・根津甚平伊広・真田兵部幸連(昌輝)・
安中左近広隆(景繁)・馬場彦五郎勝行・米倉丹後正継らは思い思いに奮戦して討死した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』


山県さんによると、鉄砲は

2018年11月05日 16:44

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 09:10:20.96 ID:oem912mZ
武田家臣の山県(昌景)の言葉に

「武芸の四門とは、弓、鉄砲、兵法、馬の事である。大身小身によらず、この四つを習い
自余の事を稽古すれば、物を読み、物をよく書き習い、その後乱舞など習うのも尤もである。

而してこの四つの内、先馬、ニ兵法、三弓、四鉄砲とする。
馬は代わりを立てて人を頼むことは出来ない。
剣術、斬り合いも代わりの立てられぬ技である。

弓は古来より武士の家に備わっているもので、系図侍(代々の由緒ある武士)の如く、
出仕の侍(新規召し抱えの武士)は鉄砲である。

ただし鉄砲は、甚だしくわざありと雖も、魔がその焔を恐れおののくことは少ない。
弓は鉄砲に比べて激しくはないが、狐に憑かれた者、一切の不審ある事に、鳴弦などという事があり、
武士の奥意は弓の腕前が噂になることだ。」

と云ったという。

(士談)

山県さんによると、鉄砲は弓に比べて退魔などのマジックアイテムとしていまいち。



472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 10:26:43.04 ID:qKLJ14SM
畿内と違って運用方法を見出せなかった山侍の性

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 12:39:05.35 ID:g89IJWyC
性といえば宣教師驚愕の運用をしていた熊さん

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:09:59.19 ID:o4eMMqdY
くまモンさいつよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:13:18.61 ID:tFQzX33S
乱舞を習うのか…

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:54:44.04 ID:ozHexokv
>>471
面白い視点だ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 17:32:54.51 ID:24fLrZPo
単純に弾と火薬が手に入らなくて滅多なことじゃ使えないってだけだろ

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 17:59:08.81 ID:5qavs+R5
米倉さんと比べて古い頭よのぉ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 19:44:18.41 ID:pvjqcEwo
島津流弓霊術「つるがね」

さすが信玄の遺烈かな

2018年11月02日 20:26

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 14:41:24.53 ID:9OUQeKKj
(長篠の戦い敗戦後)

ここに越後の押さえとして信玄時代より信濃海津城を守っている高坂弾正昌信(原注:一説に虎綱)は
さる老剛の宿将なり。3年以前に信玄が死去した時から勝頼は血気の勇にはやり必ずこのような大敗を

引き出すだろうと推察し、青貝の持槍に小熊の垂れの槍印20本、亀甲の槍2本、槍持の陣羽織までも
緞子で作って用意していた。高坂は長篠大敗の風説を聞くと等しく城には雨宮・小諸・寺尾・小田切・

屋代らを残し置いて自身は手勢8千余騎を従えて、かねてより用意していた長柄の槍などを引き具して
駒場(原注:一説に小満場)まで出迎えて勝頼を警衛し、見苦しくないように旗本備を取り繕った。
そうして勝頼を甲斐へ帰陣させた高坂の老功は「さすが信玄の遺烈かな」と感心しない者はいなかった。

今回、武田家で鬼神の如く呼ばれた老功武勇の将卒は馬場・山県・内藤・土屋・原・真田を始めとして
数を尽くして討死したため、これより武田家の武威は大いに劣ってしまった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』




442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 17:16:34.46 ID:UO7P84D4
このあと古者がいなくなったから若者を起用して見事な再編成をやってのけるんだっけ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 18:11:39.40 ID:/0+6zNZ4
若いイメージがあったけど、真田の兄弟も30代か

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:02:18.33 ID:Fv7735ki
>>443
嫡男いたのに、なぜか養子に出ていた武藤喜兵衛が出戻って家督を継ぐことに

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:08:01.35 ID:9eOVVS3q
流石にまだ家督継いでバリバリ活動するには早いし…
平時ならともかく情勢が厳しい武田家では真田家が活動力低下するのは困るし
もともと昌幸の器量が傑出してたから腐らせないように別家を立てた訳で
真田家を継ぐならそれはそれで武田家としては問題無いし

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:16:33.91 ID:x5p+lKo9
>>442
徳川に合流した旧武田家臣は強かったの?

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:24:26.53 ID:TNsgMF27
>>444
娘以外全員幼少だったんだよ、きっと…

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 22:44:08.25 ID:lOaOtw/w
>>446
信玄の眼といわれた曽根内匠がいる

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:46:38.44 ID:HhKi4wnv
>>446
依田、城、庵原、曲淵あたりかな活躍したのは

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 05:35:24.91 ID:IcnH0ZmW
依田さんもちっと長生きしてればな

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 10:10:51.44 ID:VYjY1n+E
>>444
御屋形様の命ですが?

内藤昌豊の討死

2018年10月28日 17:57

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 13:41:07.22 ID:NONzLHXT
(長篠の戦いの時)

山県昌景の進軍を契機に続々進軍した武田勢であったが、いずれも織田・徳川両勢に柵内から鉄砲を
撃ち掛けられ多くの死傷者を出し苦戦した。勝頼本陣中軍の先手・内藤修理昌豊の1千余騎は先駆け

し、逍遙軒信綱(武田信廉)らも続いたが皆鉄砲に当たって引き退いた。この勢いに乗じ柵外に出た
佐久間信盛と滝川一益だったが、佐久間は手勢を立て直した馬場信房によって柵内に追いやられた。

白地に黒い山道の旗を押し立てる内藤はその後へ引き返し、滝川の3千余騎の勢の中へ突いて入り、
滝川勢は散々に突き立てられて、柵内へ逃げ入った。この様子を御覧になった信長卿は柴田修理亮

(勝家)・丹羽五郎左衛門(長秀)・木下藤吉郎(羽柴秀吉)に命じられ、この3人が千5百余騎で
森長村の方から横に打って掛かった。内藤はこれを見て馬の鼻を立て直し、白地に胴赤の旗と御幣の
馬印を真っ先に進めて打って掛かった。

(中略。山県昌景が柴田らを撃退するも討死)

勝頼も歯噛みをなして命じ、勢を進めて掛かったが激しい戦闘となり、典厩(武田信豊)・逍遙軒を
始めとして原隼人(昌胤)・小幡上総・小山田兵衛・望月甚八郎・安中左近・甘利三郎五郎らが諸軍
を進めて打って掛かった。こちらでは織田方において佐々内蔵助(成政)が、「内藤修理の備は浮き
立って見えます。一攻めに攻めては如何でしょう?」と申した。信長卿は「もっともだ」と許し給う。

(中略。その時、早くも徳川勢と武田勢が激突し互いに死傷者を出す。武田信豊が切り立てられ引き
退くと、信長は総攻撃を命じて武田勢総敗軍となり勝頼は敗走、武田諸将討死)

内藤は「今や討死の時至れり」と残兵百余人を選りすぐって半途より引き返し、徳川家御本陣目掛け
打って掛かった。これは御大将(家康)と直の勝負を決せんとする心と察した本多平八郎忠勝が

蜻蛉切の槍を振るって内藤と御本陣を懸け隔てて戦えば、榊原小平太康政・大須賀五郎左衛門康高も
中を破られまいと弓鉄砲の足軽を先に立て、射立て撃ち立て決戦した。内藤は手勢を皆討たれ自身も

鎧に立つ矢は蓑毛の如く。「流石は信玄の家で随一の勇士」と呼ばれた内藤が死狂い獅子奮迅の怒り
をなせば近寄り難く見えたところに、流れ矢1つが飛んで来た。内藤はこれに当たり馬からたまらず

落ちたものの、また起き上がって槍を押っ取り敵を突こうとするところを、朝比奈弥太郎泰勝が槍を
付けてその首を取った。泰勝はこの高名により徳川家の御家来に召し加えられたという。

(原注:泰勝は今川氏真の臣で、氏真より御見舞いの使者に来たり御陣にいたともいい、または元は
今川の家人で、この頃は小田原の北条家に仕えており、北条氏政から御見舞いの使者に来たともいう。
また氏真もこの時、信長とともにここに来た事が手記に見えているともいう)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



私は武田家の古老、馬場美濃なるぞ

2018年10月28日 17:56

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/28(日) 02:59:35.21 ID:jQCsznEq
(長篠の戦いの時)

山県昌景の先頭に続き武田勢は攻め掛かるが、鉄砲の激しさに堪えかね引き退く。武田右備の先手・
馬場美濃守信房の一隊は魚鱗に備えて金鼓を鳴らし、寒防山の麓より信長卿の本陣に押し寄せ、

喚き叫んで柵二重まで破らんとした。織田方は少しも取り合わず佐々内蔵助(成政)・前田又左衛門
(利家)・福富平左衛門(秀勝)・野々村三十郎(正成)らが命じ3千挺の鉄砲で段々に撃ち立て、
寄手の走り寄る者は撃ち倒され撃ち落とされ、ここでも人塚を築いた。

(中略。武田勢苦戦。土屋昌続討死、武田信廉・跡部勝資勢裏崩れして敗走)

この勢いに乗じて織田方の滝川左近将監(一益)と佐久間右衛門(信盛)は柵外に出張した。神君は
これを御覧になって「かねがねの軍令の如く早々に柵内へ引き入るべし!」と御使者を遣わされたが、
両人はこれを用いず、信長卿からも使者を立てられてこれを制し給う。その間に馬場は敗れた手勢を
立て直し、佐久間勢を追い崩して40余人の首を切り、佐久間勢を柵内へ追い入れた。

(中略。織田・徳川勢の総攻撃により武田勢総敗軍。内藤昌豊ら諸将討死)

ここにおいて小幡上総信貞・小幡備前貞員・河窪備前・小山田十郎兵衛国次らは、皆勝頼を落ち延ば
さんがため踏み止まり踏み止まり、勇猛の働きをして死んだ。穴山梅雪の一隊は後をも見ず寒防ヶ嶺

を目指して逃げ行くと、一条(信龍)の一隊も散々に打ちなされて敗走した。三河・遠江の勢は勝頼
を討ち止めて高名にせんと喚き叫んで追っ掛ける。馬場美濃は討ち残された手勢20騎ほどをまとめ、

勝頼本陣の大文字の小旗の影が見えなくなったので馬を引き直して、長篠の城際まで取って返した。
馬場のその日の出で立ちは卯花威の具足に錆色の星兜に鍬形を打ったものを着なし、

朱に染まった(血まみれになった)月毛の馬には白覆輪の黒鞍が置かれていた。これに乗って白旄を
胸板の鐶に差し、槍は馬の平首に持ち添え敵に向かって「私は武田家の古老、馬場美濃なるぞ!

各々は私を討ち取って高名にせよ!」と大声で呼ばわり、槍を振るって敵4,5騎を突き落とした。
その後は刀に手もかけずに、塙九郎左衛門直政(原田直政)の郎等・川井三十郎のために自身の首を
授けた。時に62歳。馬場が勝頼に今回の合戦御無用なりと諫めた時、跡部・長坂の両人に向かって

「合戦を勧められる方々は逃げられようとも、諫める某は討死する」と申した言葉を守って、退けば
退けたものをこのように踏み止まって討死せるこそ哀れなれと惜しまぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



あれこそ山県である

2018年10月26日 17:22

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 13:28:58.92 ID:gqs82Hyy
(長篠の戦いの時)

大久保兄弟(忠世・忠佐)はこの輩(成瀬正一ら)と一同に柵より外に進み出て、武田の先手・侍大将の
山県三郎兵衛昌景の備に向かい鉄砲を撃ち掛ける。山県も始めの頃は軽卒を出し足軽迫り合いをしていた

が、次第に欺き引かれて堪えかね「あの柵を尽く押し破って進め!」と3千の赤備が一同に押し掛かった。
大久保兄弟は命じて思うままに山県勢を引き寄せ、3百余挺の鉄砲を隙間なく撃たせれば、先頭に進んだ

山県勢は散々に撃ち立てられた。その時、大久保兄弟・渡辺半十郎政綱・同弥之助・光池水之助らは山県
の属兵の広瀬郷右衛門昌房・小菅五郎兵衛元成・三科伝右衛門形幸といった名を知られた者どもと挑み

戦う。広瀬・小菅・三科も言葉を掛けて姓名を名乗り、馬上で突き戦8,9度に及び手負いて引き退けば
半十郎や水之助らは高名をなした。山県はそれには目もくれず3千余騎を手に付けて筋違いに織田勢・

佐久間右衛門信盛の柵を駆け破らんと押し掛かる。そこで信長卿は命じられて柵中より鉄砲を激しく撃ち
立てれば、山県勢はここに人塚を作る程に撃ち殺されたので、山県も堪えかねて引き退いた。

(中略。武田勢は鉄砲に苦戦するも、馬場信房・内藤昌豊が佐久間信盛・滝川一益を柵内に追い、信長は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉に命じて横から武田勢を攻撃させ、内藤がこれを迎撃する)

この時、山県は小山田・甘利らとともに撃ち残された勢を立て直して、柴田・丹羽・木下の勢を横合から
まっしぐらに打って掛かれば、柴田・丹羽・木下の人数は散々に突き立てられて敗走した。山県はこれを

追い打ちするかと見えたが、そうはせずにたちまち備を立て直して、徳川家の御本陣に打って掛かった。
御陣からは鉄砲を激しく撃ち立てれば、山県勢はまた撃ち殺される者若干なり。山県は白糸威の具足に

金の大鍬形を打った兜を身に着け、味方が討たれるのをものともせず、なおなお馬を進めたところ、本多
平八郎(忠勝)が「あれこそ山県である!」と命ずれば、筒先は山県に向かって放たれた。その弾が

飛んで来て山県の緩い糸の間から当たったため、山県は持っている采配を口に咥えて両手で鞍の前輪を
抑えてしばらく堪えていたのだが、ついにたまらず馬から真っ逆様に落ちた。味方がその首を取らんと
駆け集まるのを山県の従兵・志村又右衛門が敵に首を渡すまじと駆け寄り、その首を切って引き返した。

(原注:山県を撃ったのは大坂新助という者であると『勇士一言集』に見える)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:06:25.04 ID:8I+DB0d/
>>365
敵に首を渡したくないから切腹した後に…ってのは解るが、戦場で戦闘の真っ最中にもやるのか(困惑

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 00:18:52.69 ID:5EgtKHTm
>>368
討ち死にした大将の首を敵に渡せば敵の手柄となり、士気を挙げる材料とされる。
+ 首だけでも持って帰って供養しなければならない。

戦国時代どころか、戊辰戦争までやってた、当然のこと。

名高き兜を敵に取られては如何なものか

2018年10月25日 21:27

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 21:31:02.64 ID:64ZiG2JZ
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は自分の名が記されている武田信豊の母衣絹を初鹿野伝右衛門信昌に取って来させ、小松ヶ瀬で
馬を止めて待っていた。初鹿野が戻ったところで三河・遠江勢はこれを大将と見て雲霞の如く追い掛かる。

勝頼は引き退こうとすれども、馬は疲れて進めない。笠井肥後守高利(原注:四戦紀聞では河西肥後守
満秀とする)がこれを見て馳せ付け馬から飛び降り、勝頼に「これに御乗り下され!」と申せば、

勝頼は「それでは其の方は討たれる!」と申した。その時、肥後守は「命は義によって軽し! 私は主君
に代わって討死します!」と勝頼を自分の馬に乗せ、自身は勝頼の馬の手綱を取って押し戴くと、

その疲れ馬に乗って轡を引き返し、「元弘建武の乱で新田義貞の命に代わって討死した小山田太郎高家が
12代の子孫、笠井肥後守高利! 今日先祖の跡を穢さず主君に代わり討死するぞ!」と追い来る敵を

2騎突き落とし、3騎目にあたる敵と引き組み刺し違えて討死した。これより後は、追う兵も少なくなく
なったので勝頼は静かに落ちて行ったところで、1日の暑気に倦み疲れて信玄より譲られた

『諏訪法性上下大明神』と前立に記してある秘蔵の兜を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせたが、伝右衛門も
疲れたので殆ど持ちあぐね、勝頼に断ってその兜を道に捨てた。ところが、その後から来た小山田弥助が

これを見て「名高き兜を敵に取られては如何なものか」と拾い来たり、勝頼に追い付いて捧げた。勝頼は
大いに喜び再びこれを着け菅沼刑部(定忠)の居城に立ち寄り、しばし梅酸で渇きを休めまた乗り出した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 10:14:04.87 ID:vu86f/YA
名乗り上げちゃったら身代わりの意味ねえな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 11:14:01.47 ID:Vl28NzIX
身代わりじゃなくって殿でしょ?

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 13:18:13.39 ID:9d1JBdE/
>>360
秘蔵の兜を捨てるほど疲れるってのがもう

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 00:09:24.10 ID:/rskxWzu
まぁ兜も結構重いからな
信玄より譲られた秘蔵の兜って言うからには結構古そうで
当世具足みたいに軽量化とかあまり意識されてなさそうだし
逃走中って事は兜の一部なり結び緒なりつかんで持ってたんじゃ
なおさら重く感じて捨てたくなるのも判らんでもない

「流石に猛将かな」

2018年10月24日 18:18

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 04:42:32.22 ID:9BSVOAEC
(長篠の戦いの時)

また典厩信豊(武田信豊)は度々敵と決戦し勇を振るったが、味方は総敗軍となったので手の者どもも
あるいは討たれあるいは落ち失せて相従う者はわずかに3騎となった。典厩は小桜を黄に染め直した

鎧に龍頭の兜を身に着け、紺地に金泥で経文を書いた母衣を掛けていた。この母衣は信玄の遺言で勝頼
から典厩に譲ったものである。勝頼は土屋惣藏昌恒・初鹿野伝右衛門信昌のただ2騎を従え長篠を落ち

延び三河黒瀬の小松ヶ瀬を渡ろうと思い馬を抑えると、伝右衛門を呼んで「私が典厩に譲った母衣絹の
裏書には『四郎勝頼』という名を記しておいた。もしやこの母衣が敵のために奪われては勝頼の恥辱と

思うのである。汝は後を引き返し典厩にこの事を告げて、母衣を受け取って戻れ」とのことであった。
伝右衛門は「畏まり候」と申して引き返し、典厩に会ってこの事を申した。典厩はこれを聞いて

「某も左様に存じたので先刻母衣を押したたみ、青木尾張守信時に渡しておいた」と申してやがて青木
を呼んだ。その母衣の絹を取って、初鹿野へ渡そうとした典厩の言い様は、「信豊の父・左馬助信繁は

信濃川中島の戦いで信玄のために御身代わりとして忠死した。信豊も出来る限り父・信繁に劣るまいと
数年の干戈の間に粉骨砕身するところをいつの頃にか勝頼に見落とされ、信玄の御遺言で賜った母衣を

戦場で取り返されるとは身の恥、家の恥。口惜しく存ずる」と申した。初鹿野が馳せ戻り云々と申すと、
勝頼は典厩の言葉も耳に入らない様子で、その母衣を取って腰に挟んだ。初鹿野が往来する間に、

勝頼がゆるゆると馬を止めて待っていたのは、「流石に猛将かな」と敵味方ともにこれを感心した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 06:57:36.06 ID:pvYF8ZJA
お坊ちゃんの戯言はスルーの勝頼くん

多田新蔵のこと(改正三河後風土記ver)

2018年10月23日 17:17

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 05:08:14.63 ID:eTfwBn7W
(長篠の戦いの時)

本多平八郎(忠勝)は猶も厳しく武田勝頼を追って行くと、岡の辺りの松を盾に取って矢を放つ
敵がいた。本多の郎等・多門伝十郎と蜂須賀彦助は馳せ向かったが、彦助は敵を1人討ち取って

討死し、伝十郎は手傷を負って敵を追い散らした。また味方の軽卒らが1人の敵を生け捕ったが、
雑人かと思って着ている衣類を剥ぎ取って見れば、緋緞子の下帯を身に着けていた。さては只者

ではないなと姓名を問うと多田淡路守満頼の子・三八(新蔵か)であった。信長卿はこれを聞き
なさって、「それでは伯父の葬送の時に火車を切った勇士であるな。私が召し仕おう」と仰り、

長谷川竹丸(秀一)に命じその縄を解かれると、三八はその縄を引き切って近辺にいる者の槍を
押っ取りその辺りに群居する者4,5人を突き殺した。よって竹丸は槍を取って三八を突き倒し、

その首を取って信長卿の御覧に備えた。およそ今日の合戦は卯の刻の始めに押し出し、午の刻の
終わりに武田方は総敗軍とぞなりにける。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 14:38:18.02 ID:+GgA7et2
>>354
この時のぶな画を討ち取ってれば…。

この中でも信友は、

2018年10月22日 17:29

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 16:18:02.48 ID:wL/yqqre
この戦い(長篠の戦い)も未だ半ばであるのに、勝頼の右備の穴山梅雪、本陣の後備の
武田左衛門信光(信堯)ならびに上野介信友(武田信友)らは勝頼を捨てて甲斐

目指して逃げて行く。この中でも信友は、信玄入道の父・信虎が我が子・信玄のために
本国甲斐を追い出されて婿の今川義元を頼み駿府に寓居した頃、かのところで設けた子

である。信友は駿河で成長し、父・信虎と謀を合わせ信玄に内通して今川家の諸功臣を
仲間に引き入れ、ついに氏真を追い出して信玄に駿河を奪わせた。

その功により、今は勝頼の方に扶持されていたところであったが、近年は癩病を患って
面相は変わり人の交わりも叶わず。よって甲斐勢は、「今回は是非幸いと目を驚かす

働きをして花々しく討死することだろうよ!」と頼もしく思ったが、人よりも先に逃げ
出したために諸軍は興さめてぞ覚えける。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



穴山梅雪の計略

2018年10月12日 18:59

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 18:33:44.02 ID:b1m9QGCZ
穴山梅雪は曽根内匠と共に駿河江尻城の番手であったが、徳川家康へ内通せんとした。
しかし梅雪の妻子は人質として甲府に有ったため江尻を引き払うことは難しく、しかもその頃は
武田勝頼が梅雪のことを疑っていた。

そこで梅雪は密かに家康に内通を打診した。そして徳川方より『返忠可被仕』との書状を携えた
使節が来たのを忽ちに殺し、その書状およびその頸を勝頼へ送った。
勝頼はこの計略に偽られて、梅雪を疑う心が和らいだため、彼は妻子を引き取ることが出来た。

(士談)



うちの実家に伝わる本当かどうか微妙な話

2018年10月09日 17:26

285 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/08(月) 23:36:26.88 ID:dZDk1bmh
うちの実家に伝わる本当かどうか微妙な話を一つ

我が家の祖先は元は甲斐の豪族にて武田家に仕えていたそうな。
ところが高天神城に詰めていた息子が討ち死に、徳川を敵と誓う。
しかし木曾が謀反を起こし、その征伐に向かっている間に、穴山が裏切りあっけなく武田家は滅ぼされた。
そこでどこをどうしたか分からないが、ご先祖様は親戚筋を頼って当時徳川(織田)と敵対していた毛利家に出仕。
今度こそ徳川都の戦をと意気込むも、毛利は徳川と和睦してしまう。
その後ご先祖様は風邪をひいてそのまま昇天、かたき討ちは子孫に引き継がれることとなる。
でもって、孫の代になって関ケ原が発生、すわ伯父のかたき討ちと意気込んで出陣したら吉川の裏切りで戦うことすらできず。
さらに山口に封じられて、毛利家はリストラの嵐。うちの一族は帰農する羽目になった。
時は経って幕末、うちの一族は農民になっても代々徳川討つべしと伝えられていたため、奇兵隊が結成されるとすぐさま長男が募集に応じ、長州征伐の幕府軍と交戦その戦いで討ち死にしたそうな。
(うちは八男の家系)
以上、どこまでいっても徳川への恨みを晴らせなかったうちの一族の物語でした。



286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 00:32:46.70 ID:VBumKs8/
今からでも徳川への恨みを晴らそうぜ!

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 08:02:42.46 ID:hx8dv+Kn
新撰組だと長男の入隊は土方が認めていなかったと伝わってるようだけど、さすがに奇兵隊は違ったか

勝頼は飢え疲れておられ

2018年09月30日 19:42

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/30(日) 15:01:00.39 ID:3tpAPdKz
按ずるに本文(武田勝頼討死の記事)はかの家に伝わる甲陽軍鑑の説に拠って記したものである。
大久保の物語(三河物語)には勝頼夫婦は田野の河原の草むらに敷皮を敷いて休んでいたところ、

早くも敵が押し寄せてきた。跡部(勝資)がこの時に逃げ去らんとするのを土屋惣藏(昌恒)が
射殺したとある。柏崎物語には勝頼は具足櫃に腰をかけておられたが、滝川義太夫(益氏)が

付け込んで土屋惣藏を討ち取り、伊藤伊右衛門永光が横合より勝頼を討ち取ったと見える。また、
武家閑談には伊藤伊右衛門の話として津田幸庵が物語り、「近年の書物を見るに勝頼切腹と

書くものもあり、また仰々しく戦って討死されたように書いているものもあるが、私はその頃は
小平次といって滝川方におり、伊藤伊右衛門とは同輩だったので目の当たりに見たのだが、

左様ではなかった。勝頼は鎧の櫃に腰を掛けて太刀で防戦されるといえども、飢え疲れておられ
何の働きもなく伊右衛門が討ち取った」と板倉周防守(重宗)宅で物語ったと見える。

これなどは実事と思われるのでここに付して一致に備える。

――『改正三河後風土記』


淡路守の倅

2018年09月02日 13:16

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 10:07:52.81 ID:QJT0qNQx
長篠の合戦の時、徳川家康勢が多田新蔵を生け捕った。下帯が赤地の唐錦であったため、
「お主は只者ではないな、名を名乗るべし」と問うたが名乗らず、
「ならば雑人の手にかけ殺す。名を名乗るならば切腹を許す。」
そう申した所

「父は若き時分は多田三八郎、この頃では淡路守と云う者の倅である。」

と、答えた。これは只者ではないとのことで、身柄を織田信長の元へと遣わせた。
信長は彼を直に召し出し

「淡路守の子に久蔵新蔵という両人があると聞いた。汝は何れぞ」

「新蔵也」

「名のある武士であるから命を助ける」

「既に縄目の恥の及び候へば、ただ速やかに頸を刎ねられることこそ辱し」

しかし信長は「縄を解け」と、信長の前で小手から縄を切り落とした。

新蔵はそのまま門の外に出たが、そこに長柄の鑓が立てかけてあったのを取ると、
そのあたりの雑人二人ばかりを突き殺し、これによって近くに居た兵士たちが集まり
取り囲んで、新蔵を斬り殺した。

信長はこれを聞くと
「惜しき事をした。そのまま雑人を4,5人も突き殺させておけばよかったのだ。
あたら侍をおのれらが不功者故に失ってしまった」と言ったという。

多田淡路守は信玄の時75人の足軽を預かり、足軽大将の内では、「小幡山城・多田淡路・山本菅助」と
並び称されたという。

久蔵は武田滅亡の折、勝頼に従い田野にて討ち死にした。

(士談)



78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 12:56:20.72 ID:YioYpOEF
>>77
主家が滅んでる以上どうしようもなかったろうな…。巻き添えの雑人カワイソス(´・ω・`)

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 13:03:08.47 ID:MbPSOSiK
>>77
花の慶次にこんな場面あったな

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 18:41:25.70 ID:qGog6piQ
>>77
山本菅助は原文ママ?

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 21:45:03.64 ID:lJxe7x5m
>新蔵はそのまま門の外に出たが、そこに長柄の鑓が立てかけてあったのを取ると、
>そのあたりの雑人二人ばかりを突き殺し、

雑人って門番かな?

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/03(月) 01:12:39.68 ID:FdLkwMdD
いきなり下帯ってことは捕まった時に全部脱いでたんだな

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/03(月) 11:32:09.16 ID:r4ov/e1/
>そのまま雑人を4,5人も突き殺させておけばよかったのだ。


雑人の命軽すぎて泣いた

汚れなく弓馬を取って

2018年08月29日 18:59

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 21:57:29.52 ID:0kRQSIZY
武田信玄に曰く、
「国を多く取ることは果報次第である。殊に天下を取って、日本国中を残らず皆治めることは、
源頼朝、北条数代、その後源尊氏、皆果報いみじく、公方にそなわり将軍になりて、武家の大望はこれに尽きる。

しかし彼らも果報の時刻に当たる以前には、どれほど艱難のことが有っただろうか。
また源義経は弓馬の誉れ、身の勤め共に有ったが、僅か伊予一国にて終わった。

このように、果報とは人間にはどうにもならない物であり、ひとまず差し置いて、末代までも弓馬の上に
汚れ無き如くに慎むべきなのだ。汚れなく弓馬を取って命長ければ、果報に任せて大国も天下も
自分の前に降りてくるものなのだ。

例えば四季を急ごうとしても、春から秋へは飛び越せないものだ。こういった理に昏いために、果報も
知らず大国大録を望み、自分に恩を与えている主君に逆意を企て不義を成すこと多い。
しかしそういった者達は、当分はそれをやりおおせても、時が至っていないため大体は
非法の死をなす事、古今にその試し多い。以て戒めとすべきである。

(士談)

いいこと言ってるけど信玄の言葉だと思うとすごい複雑な気分になるな。



235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 23:38:08.74 ID:MRF/OVJX
>>232
>例えば四季を急ごうとしても、春から秋へは飛び越せないものだ。

森さん「近年、夏が終わったと思ったらもう冬なんですよ…」

とかく高坂のことを讒言し妨げたので

2018年08月27日 18:34

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 18:32:10.13 ID:23LKJVS7
天正も5年(1577)丁丑にうつり、織田信長卿は去年の11月に大納言より内大臣に登られ、
威勢はますます盛んとなった。このため甲斐武田方では、いよいよ北条を頼まんと、

一昨年の結縁の後、常々小田原に使者を送り氏政を尊敬することは大方ならず、とにかく妹君と
一日も早く婚儀を行うことを急いだ。氏政も縁組のことを約束しながら織田家を憚ったのか、

今年まで延滞していたのだが武田方よりしきりに催促もしがたく、今年正月下旬に至って小田原
より輿入れとなった。早野内匠助・清水又八郎・剣持与左衛門が輿添として参った。

勝頼は婚儀を滞りなく行い、両家合体の盟約は定まったため甲斐でも相模でも喜ぶこと限りなし。

その中でも高坂弾正(昌信)は「長篠より3年この方、今夜初めて心安く寝入ったのは小田原より
御輿入りとなったゆえぞ」と喜んだ。弾正は「とにかく武田家の長久を思えば、このうえは謙信

とも和睦して御入魂あらば、いよいよ頼もしく安心でありましょう」と諫めたのだが、勝頼は血気
の猛将で人に遜順することを好まず、長坂・跡部両奸臣は弾正の諫めが行われれば我々の身の上が

危ういと思い、とかく高坂のことを讒言し妨げたので高坂の忠言も空しく用いられなかった。国中
の士民は一同に長坂・跡部を憎まぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 19:32:21.87 ID:Z2N5Ltql
軍鑑は嘘っぱちだからなあ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 01:35:48.43 ID:J6YW16a4
大上段に嘘っぱちと切り捨てるのももはや古い見方だけどな
とはいえ勝頼跡部長坂辺りの事績は大概信用度低い記述だけど

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 18:26:37.59 ID:FERgEUgq
甲陽軍鑑の史料としての評価について詳しく出ているので読んでおくといい

創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
第2回 見直された『甲陽軍鑑』
http://kaze.shinshomap.info/series/kansuke/02.html


60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 19:15:57.07 ID:R3lRzHIU
>>59
>『甲陽軍鑑』同士の比較検討が重要となるのだが、信頼できないという色眼鏡が存在したために、
>このような地道で手間のかかる作業には手がつけられていなかった。
ほー、まだまだ研究の余地がありそうだな、国がやってくれれば…ってそんな金はないか。

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 07:01:04.62 ID:GowozpsS
じゃあお前が独りでやっとけよ

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 08:09:16.13 ID:8OTbo6hr
なにをすねてるんだ?

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 10:12:49.07 ID:67sGtWik
>>62
色眼鏡おつ

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 13:59:54.23 ID:JVmjndk4
袋叩きから再評価は歴史学のお約束
目立ちたい学者や作家が無責任に変なこと言い出すのが困る

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:10:45.17 ID:xpYgg4E/
なので武功夜話が一級資料に返り咲く日も近いわけだ

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:17:44.99 ID:AIzY42hF
>>65
ありゃ明らかな創作やん…。

まあ、世の中には東日流外三郡誌を真書と認めないと迫害した史学会の重鎮とか
いたりしたから、あからさまな偽書・創作でも評価する輩は出るけどさ。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 20:28:08.07 ID:fWfpQ1LT
甲陽軍鑑は創作だこれって10年前にいい悪いスレで見たぞ

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 20:53:07.73 ID:ItPA1KAf
>>67
その10年間で研究が進んだ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 21:26:13.55 ID:vtjT338y
評価してもいい部分もあるんじゃってのが近年の流れだっけ?

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 23:45:46.02 ID:3ekIDmZ7
信頼できる史料だからとすべて信用するのが間違い
逆もまた然り

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 00:35:09.34 ID:uGdurO6l
江源武鑑「せやせや」

信繁も一騎で勝負

2018年08月23日 17:56

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 15:28:47.99 ID:9WnDNqbg
信玄の弟・武田左馬助信繁は70騎で後詰の陣より馳せ来たり、信玄が手負い申されたと聞いて
その仇を討ち止め申すべしと、仇を探された。

その時、謙信は川の向こう岸へ着かれ、左馬助は大音を揚げて「そこへ引き取り申されるのは
大将・政虎(謙信)と見受けた! 私は武田左馬助である! 兄の当の敵なので勝負なされよ!」

と申された。謙信は乗り戻すと「私は政虎の郎等・甘粕近江守(景持)と申す者である! 貴殿の
敵には不足であろう!」と申し捨てて、川岸に乗り上がった。

左馬助は主従11騎で打ち濡れて川を渡り申した。謙信は川岸に馬を立てて待ち受けた。

左馬助は左右を睨み「敵は一騎であるので信繁も一騎で勝負する! 皆々後ろへ下がるように!」
と命じて真っ先に渡ったところを、政虎は河へ馬を乗り入れて左馬助と切り結んだ。

左馬助は運尽きて左の高股を打ち落とされ、川へ逆様に落ち入った。

謙信は向こう岸に乗り上がり、宇佐美駿河守(定行)が7百余勢で備える中へ馳せ入り申された。

(原注:一説に武田左馬助信繁を討ち取ったのは村上義清であるという。上杉家では謙信が直に
左馬助を討ち取ったと申し伝えている)

――『川中島五箇度合戦之次第』



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 16:45:33.30 ID:kogqW73A
>>47
>私は政虎の郎等・甘粕近江守(景持)と申す者である! 貴殿の
>敵には不足であろう!
ず、ずるい…wまあ兵法にずるいも何もないけど。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 20:59:44.46 ID:lVWyYuvh
>>47
あの上杉謙信が私は別人の下郎ですよとかしれっと虚言で誤魔化そうとするとか
話として面白すぎる
まぁ11対1を1対1に持ち込んだ上に勝って悠々退却したといえば武略ではあるのだが
…あるのだが草生える

異形な僧体の正体は

2018年05月03日 17:40

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 15:10:58.53 ID:TwZnZBzO
天文の乱とその後の燻りが集結し混沌としていた伊達家が落ち着きを取り戻した天文21年、伊達家当主伊達晴宗は、弟の亘理元宗に対し上洛を命じた。
将軍足利義輝への拝謁、晴宗の家督相続後の報告、愛宕詣などを終えた元宗は当時二十一歳の若者。
文武両道に優れ後世からは伊達家三代の重鎮と称された元宗だが、流石に大任を終えた達成感から人心地ついていた。

そんな元宗の下へ、急な来訪者が現れる。慌てて面会をしてみれば、相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。
おまけに左右に屈強な供の者を従えており、元宗もこの訪問者をただならぬ人物と見抜いた。

「失礼ながら、どなたでありましょうか」

「こちらこそ急な面会御無礼いたす。某は先の甲斐守護、武田無人斎と申す」

なんと異形な僧体の正体は、約十年前に嫡男晴信によって甲斐を追放された武田信虎であった。
甲斐を去って西国に赴き、後に駿河に住まわっていた信虎であったが、その後も度々京や高野山、奈良の諸山を遊訪し、時には将軍家に対し奉公していたらしい。
驚く元宗に対して信虎は悠然と諸国の時勢を尋ね語らい、いつの間にやら二人はすっかり意気投合してしまった。
しかし元宗もいつまでも京に長居をするわけにもいかない。国へ戻らねばならぬ旨を信虎に伝えると、信虎は名残惜しそうな顔を若者に向けた。

「そなたの様な文武に通じた若者と会えることは人生の何よりの楽しみである。この度の語らいは実に愉快であった」

そう言って、自らの腰から佩刀を抜き元宗に手渡した。

「これは相州の業物、綱広の作である。是非受け取ってほしい」

元宗は感激し、恭しくその刀を拝領した。
そして信虎とその供の者達に丁重に礼を述べると、陸奥への帰路に立ったのであった。

信虎が甲斐を離れた際、嫡男晴信は二十歳であった。
もしかしたら信虎は才気煥発な若き武士に、かつての我が子の姿を重ねたのかも知れない。



845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:06:21.19 ID:m/bWX0G2
我が子の姿を重ねたらそんな接し方しないだろw

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:45:10.59 ID:C+6Oo2ju
>>845
確かにw
でも、早くこっちにおいでよって手紙書いてるし

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 19:22:44.85 ID:GiUzTZdE
「嫡男晴信は二十歳」
の後に
「、次男信繁は十六歳」
と加えれば何とか

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 20:40:37.87 ID:XqUwDBpF
>>844 これこそ良い話だ
>>845
信虎は今川領にいても晴信とやりとりしてたから憎しみだけではないのではないかな知らんけど

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:17:45.38 ID:RcMzVUiV
なんで信虎はいきなり訪問してきたんだろ
上洛する諸大名の関係者に会いまくってたのかな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:56:54.58 ID:oCGv9hVP
>>844
これ出展は何でしょうか?
祖父物語?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 22:36:26.38 ID:Mb6IjGto
なんで伊達と武田の話が祖父物語に出てくると思うのか

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 00:21:37.24 ID:obnNlYmh
伊達政宗の祖父の弟の話だから祖父物語とでも思ったんじゃね

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:16:44.09 ID:vUy0oAOP
伊達も親子で争って親を幽閉して子が継いだ
親近感を抱いたのは想像に難くない
従って晴宗の股肱元宗の中に兄思いの息子信繁の姿を見たのだろう

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:23:12.07 ID:pSLxbVzv
>>857
若武者の逞しさを羨ましく感じていたんじゃないかと思った
大河で追放後でも晴信を叱咤していたイメージが強いからかな

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:44:28.98 ID:vUy0oAOP
大河は創作、好き嫌いっていうより方向性の違いでしょ
前の支配者を貶めるのは誰もがやってる事
ウソを見抜けない人はネットでもバカを晒す

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 08:49:18.10 ID:rklRNSKj
信虎さんて、甲斐を追放された後も

>相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。

なんて書かれたり各地を転々として回ってたり、息子より長生きしたり…
乱破でもしてたんだろうか?老いてなお盛んだなぁ…

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 09:16:17.33 ID:mE2l5ksp
甲賀の六角残党と連携して義昭の挙兵に呼応した近江侵攻も目論んでたらしいし、成功してたら信虎・信玄による武田親子夢の信長挟み撃ちが見れたかも知れないあたりに面白さを感じる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 10:39:41.61 ID:CB9h8h4v
武田信虎のwikiには在京中に南部信長と交流があったとされている
まとめにありましたが、どうやら南部但馬守信長が国元の七戸氏に送った手紙に信虎の名が
ただし年代が不明、南部信長は将軍足利義政に出仕して但馬守を拝任したらしい
南部但馬守でググると丹羽長秀の小説がw
言継卿記にも名前が出てくる、知行の件で相談したいんだとか
南部信長のwikiを見ると八戸信長と久慈治義のことを指すんだとか
久慈家は代々備前守と摂津守を名乗ってて一族に昆但馬高光という人がいたようだ
久慈治義は備前守、南部信長との関係は不明

何が言いたいのかというと南部但馬は在京中に子供を作って代々将軍に仕えさせてたんじゃないかってこと

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 11:48:31.64 ID:pSLxbVzv
>>863
一族が在京する家はそれなりにあるんじゃないの?
隣国だけど近江の六角なんかはそうだったよね
まあ伝承のなかの人物がいたりもするけど
あとは伊勢みたいに当主は在京して一族に領地を任せておくとか

武田の場合、信虎の前に敗走した信長が在京してたけど、若狭武田の伝手とかなんかな?

865 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 12:03:40.36 ID:rklRNSKj
>>863
確かに足利義政に仕えた人物だと、とんでもないことになるしね…

枉げて勝頼の下知を了承し

2018年04月22日 21:19

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 20:29:37.55 ID:ou08Zeez
 (1582年3月3日)新府城から郡内(小山田領)へ退避するために新府城にある物資や妻女たちを運ぶため、
夫馬300疋、人夫500人を新府城まで出すようにと国中に触れたが、
甲斐の地下人たちは山野に隠れてしまい、国中は織田方の侵攻と武田の敗戦を知り騒然としていた。
夫馬も人夫もなかなか姿を見せず、勝頼夫人の輿を担ぐ輿かきすら逃げうせてしまっていた。
家来たちが手分けして、夫馬一疋をようやく探し出し、これに草鞍を敷いて北条夫人を乗せた。
 勝頼は新府城を退去するにあたって、ここまで同行してきた信豊を呼び寄せた。
「信濃国を譲渡する。小諸城は要害堅固の城であるから、
ここを足場に舅である小幡上総介信真(小幡信貞)らを頼み、真田昌幸、内藤昌月らと協力して
上野、信濃の軍勢を集めて信長らが甲斐に侵攻してきたら後詰をして欲しい」と頼んだ

これに対し信豊は
 「信濃を譲られたことは誠に光栄であり、今生の思い出としたい。
だが譲られたとしても私に対し、上野、信濃の国衆が強力をしてくれなければ、
結局それは徒労に終わるほかない。ならば、どこまでも最後まで勝頼様と行動を共にしたい」
と勝頼が何度も頼んでもなかなか応じなかったが、勝頼もそれを承諾はしなかった。

勝頼は
「気持ちはありがたいが、一門が同じ場所に落ち行くならば、それは計略は無きに等しい。
枉げて勝頼の下知を了承し、後詰めの作戦を実行して欲しい」と頼んだ

ついには信豊が折れて佐久郡や上野衆をつけたうえで新府城を去り、勝頼と別れた
(甲乱記)

因みに勝沼で織田を防ぎ、信豊が織田軍を封鎖するというのは
天正壬午の時の北条に対して徳川がやったことと同じような作戦をやろうとしてたんではないかと

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 20:42:14.11 ID:ou08Zeez
あと書き忘れたけど
武田信豊は軍鑑では密室政治だと批判の対象の1人である
だから彼の最後は見限って本領(小諸)に帰ったとしている。(※小諸は信豊の本領ではない)

一方で甲乱記の信豊は
信豊と勝頼とは幼年期から仲が良く、勝頼が家督を相続してからは、特に信豊を重用していたので
信豊の意思は勝頼の意思であると武田領内の人々はそう認識していた

信豊も最後は小諸城主下曾根浄喜に裏切られ自害するわけだけど
少なくとも甲乱記の勝頼との最後は№2として悪い話じゃないと思って>>782書いた



784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 00:08:54.64 ID:PU1Wd8To
No.2としては親父の足元にもおよばないのな、信豊

諏訪併呑

2018年03月09日 10:59

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 06:39:05.96 ID:54OcSnrL
小笠原長時公は諏訪頼重を味方として、甲斐国内および柳と申すところまで度々御働きになった。
そんなところに晴信(武田信玄)が典厩(武田信繁)をもって頼重へ仰せられたことには、

「武田の味方となりましたら晴信の妹を人質ながら妻子に遣わしましょう。その上で信濃が治まり
ましたら、諏訪に村上郡を添えて遣わしましょう」と色々無事を作り仰せられ、

それに付き、頼重は同心致されたのである。頼重は長時公の家老・小見と申す者の婿でおられた。
小見の娘を追い出して晴信の妹の婿になり、甲斐上原城で祝言されて頼重の息女は甲斐へ人質に
越され申した。これは頼重の先腹の息女である。それより頼重は晴信の味方になったのである。

長時公が仰せられたことには、「晴信が諏訪頼重と縁組して諏訪を甲斐へ引き付けたのは、伊那・
林へ取り掛かろうという知略のためである。しからば、晴信の旗下になった諏訪頼重を踏み崩し、
晴信へ取り掛かって一戦をなすべし」と仰せられ、伊那衆と仁科衆がひとつになって長時公は

諏訪へ御働き遊ばし、頼重の持ち分を焼き払って上野原へ取り掛かった。4,5日攻めると頼重の
者たちを討ち取り、本城ばかりに攻め寄せていたところに、晴信は後詰に蔦木まで御出馬された。

先手は板垣(信方)、飯富兵部(虎昌)、浅利が諏訪の青柳まで参られた。長時公方は伊那衆の
小笠原民部少信貞、下条、箕輪頼親(藤沢頼親)、万西でこの衆が先手となって、長時公の本陣
より攻め掛かって板垣と飯富兵部を切り崩し、首百100ほどを討ち取った。

長時公は実検なさって勝鬨を作り、諏訪頼重は降参して人質を出し、長時公の旗下になられたに
付き、長時公は林へ御入馬されて、伊那衆も帰陣仕った。その後もまた頼重は晴信方になった。

伊那衆の内、箕輪と申すところは6千貫で箕輪殿の領地であった。福与城(箕輪城)に在城の
ところに諏訪頼重は晴信の先手を仕り、3月上旬福与城へ取り掛かり、60日ほど取り巻き攻め
申した。福与城に籠った箕輪頼親の侍衆・松島、大出、長岡、小河内、福島、木下の衆は箕輪殿の
家中で大身の武士である。その他に野口寺や澤々の者が100余騎、雑兵1500で籠っていた。

右の衆が城際で日夜取り合い申し、その時に箕輪殿の内に藤沢織部と大泉上総といって強弓の
射手がいた。福与城の大手でこの者たちの矢先に当たり、晴信の者たちが多く死んだ。2人の
武士は移って箕輪殿に供仕り、中塔城に籠り申した。伊那衆はことごとく残らず後詰仕り、

箕輪福与の近辺の三日町と申すところに陣を取った。天竜川を隔てて足軽合戦があり、長時公も
後詰に上伊那の内の籠ヶ崎と申すところを御本陣にされ、先手は北大手に陣を取り申した。

その時、それがし(著者・二木重吉)は万太郎と申し、生年庚寅年15歳で初めて具足を着仕り、
御供仕った。天文13年(1544)甲辰のことである。

下伊那の内の小笠原信貞より多科惣蔵を使者として籠ヶ崎へ参った趣は「御馬を福与城の根古屋
へ寄せられて、是非一戦仕るべし」との由を申して来た。ところが伊那衆に対して御憤りに思し
召すことがあったために御馬を御寄せにならなかったのは、御一代の御分別違いであった。

それに付き、伊那衆は引き取り申した。箕輪殿の城は無事になり、権次郎と申す弟を晴信へ人質
に出して箕輪殿は牢人となった。そのため長時公も林へ御引き取りになられた。

諏訪頼重が晴信公の妹に若子が出来申して心安く存じ、甲斐へ参られたところ、甲斐柳町と申す
ところで晴信より頼重を生害した。それがしが16歳の正月末のことである。それに付き諏訪衆
と晴信とが合戦し、その年中に諏訪と甲斐は治まり、晴信は城代に板垣を置かれ申した。

――『二木寿斎記(二木家記)』