FC2ブログ

信玄の最期

2019年06月18日 16:53

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』



スポンサーサイト

内藤修理は元来工藤なり

2019年06月10日 14:29

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 02:24:57.23 ID:2hX+mQxB
内藤修理(昌豊)は元来工藤なり(工藤源左衛門)。これも信玄公御代に“内藤”になされた。

信虎公・信玄公両代で首数9つあり。人並みのしるし故、御証文は1つもなし。弓矢功者で、
思案・工夫の分別は馬場美濃(信春)に劣らぬ人であり、人数の扱いを良くする人なり。

――『甲陽軍鑑』



“奥の源四郎”

2019年06月09日 09:29

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 01:26:21.11 ID:cxXeu6pY
山県三郎兵衛(昌景)は元来“奥の源四郎”と申した御方なり。

源四郎と申す時、信濃猿ヶ馬場という所で越後の謙信衆と互いに物見に出て、しかも采配を
手にかけた武者と馬上から組み落ち、その敵の武者を討って高名故、信玄公の御証文1つ。

また飛騨国において、山道の狭い所故に自分の同心被官も通り過ぎることができず、山県は
1人で、敵は2人で槍を合わせた。この時に信玄公の御証文1つが下された。

合わせて2つの御感を取って持つ。その他の首数5つは並みのしるしなり。

兄の飯富兵部(虎昌)は逆心の侍故、弟は名字を変えさせなさり“山県三郎兵衛”になさった。
同心は板垣衆を付け下された。この三郎兵衛は人数の扱いを良く仕る武者なり。

――『甲陽軍鑑』



不死美濃鬼美濃

2019年06月08日 10:17

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 03:41:29.58 ID:/WthnPTS
馬場美濃守(信春)は信虎公の御代に18歳より初陣仕り、25歳から信玄公に召し使われた。
信虎公・信玄公・勝頼公まで三代に召し使われ、一昨年の長篠合戦にて62歳で討死仕られる。

信虎公・信玄公二代の間に武辺数度の走り回りを致す中で、自分の一備で優れた事が21度。
よって御父子の御証文21を取って持つ。その内で、しかも諸軍よりも優れたという事が9つ
あり。これ程の手柄をあらわし申されたが、62歳まで手傷を1ヵ所も受けなかった御方なり。

30歳余りから信玄公が取り立てなさり、人数を下されて“馬場”になさった。

――『甲陽軍鑑』



991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 07:08:59.51 ID:tW2qfkw5
不死美濃鬼美濃

山本勘介と申す大剛の武士と聞く

2019年06月06日 15:40

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 19:43:17.74 ID:q6z+kKQZ
一、天文12年(1543)正月3日に武田の家老衆は打ち寄り、その年中の晴信公(武田信玄)御備へ談合
  致す。諏訪郡、あるいは佐久・小県の敵味方の境に味方の城などを取りなされ、城構えを良く致して1千
  の人数で持城を3百持つのは、城の取り様や縄張りに大事の奥義ある故なり。

  その城取りをよく存じている剛の者が駿河の義元公の御一家である庵原殿の亭衆になっていた。今川殿の
  御家を望めども、義元は召し抱えなさらず。この者は三河牛窪の侍であるが、四国・九国・中国・関東ま
  でも歩き回った侍で、山本勘介と申す大剛の武士と聞く。

  この勘介を「召し寄せて御抱えあれ」と板垣信形(信方)が晴信公へ申し上げられたことにつき、知行百
  貫の約束でその年3月に駿河から勘介を召し寄せられた。御礼を受けなさりその場で晴信公は仰せられ、

  「勘介は一眼で手傷を数ヶ所負っているので、手足もちと不自由と見える。色黒いこれほどの無男(醜男)
  でありながら名高く聞こえるのは、よくよく誉れ多き侍と思われる。これほどの武士に百貫は少分なり」

  とのことにより2百貫を下された。さてまた、その年の暮れ霜月中旬に信濃へ御出馬あり。下旬より12
  月15日の間に城は9つ落ちて晴信公の御手に入ったことは、ひとえにこの山本勘介の武略の故なり。晴
  信公22歳の御時なり。

一、(前略)ひととせ前代、駿河において今川義元公の時、山本勘介は三河国牛窪より今川殿へ奉公の望みに
  参るも、かの山本勘介は散々の夫男(醜男)で、そのうえ一眼にして指も叶わず、足もちんばなり。

  しかしながら大剛の者なので、義元公へ召し置かれるようにと庵原が勘介の宿になった故、大人の朝比奈
  兵衛尉(信置)をもって申し上げるには、「かの山本勘介は大剛の者なり。ことさら城取り陣取り一切の
  軍法を良く鍛錬致し、京流の兵法も上手なり。軍配をも存知仕る者であります」と申せども、義元公は抱
  えなさらなかった。

  駿河での諸人の取り沙汰には「かの山本勘介は第一片輪者。城取り陣取りの軍法とはいうが、自身の城を
  ついに持たず、人数も持たずしてどうして左様な事を存じているだろうか。今川殿へ奉公に出たいと虚言
  を言っておるのだ」と各々申すことにより、勘介は9年駿河にいたけれども、今川殿は抱え給わず。
  
  9年の内に兵法で手柄を2,3度仕るも、「新当流の兵法こそ基本の事である」との皆人の沙汰であった。
  とりわけ勘介は牢人で草履取りさえ1人も連れていないので、謗る人こそ多くとも良く申し立てる人はい
  なかった。

  これは今川殿御家において万事を執り失い、御家は末となり武士の道は無案内故、山本勘介の身上の批判
  は散々悪しき沙汰となったのであろう。(後略)

――『甲陽軍鑑』


  山本勘助噂五ヶ條の事

一、山本勘介入道道鬼斎。本国三河牛窪の者なり。

二、26歳で本国を出て武者修行、あるいは行流の兵法などを教えて日本国を歩くことまさに10年の間なり。
  明応9年庚申(1500)の生まれなり。

三、11年目より駿河へ参り、今川義元公の御家老・庵原殿と申す侍大将の介抱を受け、9年間駿河にいたが
  義元の御抱えなき故、甲斐の信玄公へ召し寄せられた。

四、勘介は甲斐へ44歳で参る。その時分の信玄公は23歳なり。

五、信玄公31歳で御法体の時、勘介52歳で法体仕り“道鬼”に罷りなり候。62歳の時、川中島合戦で討死
  仕るなり。甲斐において、城取りその他の軍法はすべて山本勘助の流なり。

――『甲陽軍鑑末書』



「信玄公は御在世なり」

2019年06月05日 18:05

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:57:10.59 ID:cSFIfsi/
小田原の北条氏政より、信玄公御他界かとのことをよく見届け申すべく、いたひえ岡江雪を差し遣しな
された。武田の家老各々は謀をもって江雪をしばらく留め申す様を仕り、その後の夜に入り逍遙軒(武
田信廉)を信玄公と申して御対面なされ、八百枚に据え置き給う。

御判の中でいかにも御判の不出来なものを選び、御返事を書いて江雪に渡すと、流石に賢き江雪も真と
仕って小田原へ帰り「信玄公は御在世なり」と氏政へ申し上げた故、御他界の取り沙汰しは無かったの
である。以上。

――『甲陽軍鑑』


信玄ついに逝去の時、遺言あってかの死去を隠し、ただ御病気とばかりの風説であった。これは四方皆
が敵であり、御逝去と聞けば小田原との御無事も破れることを迷惑して、このように計らったのである。

されども、その事は大方風聞したので、その実否を知るために小田原から板部岡江雪が御使者に参った。
これは信玄の病気について御心許なしとのことである。

甲州侍は殊の外迷惑し、色々の計りをなす。信玄の舎弟・逍遙軒はよく兄に似ておられたので、夜に入
ると逍遙軒を屏風の中に寝かせた。さて江雪を近い所に召し寄せ、逍遙軒は寝ながら返事をなされた。

流石の江雪も夜のことではあり、そのうえ逍遙軒はほうほうとしておられたので見違え、信玄と思って
帰り、「正しく信玄は御存生にて候。ただ御病気でいらっしゃいます。私は対面仕りました」とのこと
であった。

これにより小田原では「信玄が死に給うというのは誤りなり。存生である」とばかり存じたのである。

――『北条記』



114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 19:05:59.16 ID:7kLGMBrD
>>113
写真もない時代だし、数年前に一度あったきりだろうしそりゃここまでされたらわからんな。

深く慎め慎め。件の如し。

2019年06月01日 17:13

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 18:36:38.03 ID:lX7j0Ovy
『偽のなき世なりせば世の間に たが誠をもうれしからまし(『いつわりのなき世なりせばいかばかり
人の言の葉うれしからまし』の派生)』という歌を人に習って、高坂弾正がここに記し申すのは、

この書き置きがもし落ちて人々が見給うとしても、盛んな家において奉公衆の大小上下ともに心入った
武士が御覧になれば大いに笑いなさるであろう。しかし、これはまたそのような良き人へは深く、この
ようにして衰える家の無穿鑿な奉公衆へは心付け参らせるためで、いかにも愚痴な書物である。以上。

高坂弾正が申す。まことに私めは文盲第一でまったく一文字を引くこともできないが、傍輩の中で深く
分別に達した大剛の名人に親しく雑談を常に聞き、百に一ばかりは覚えていて少しは心付いてもいる故
か、また余の傍輩衆で良き程の人々が申されたことまで聞き書き仕り、只今紙面に表したのは、

今年長篠で勝頼公が後れを取りなされた故に、良き武士百人は98人が討死した。その人々は皆生まれ
変わるので、そのために書き置き参らせる(よき武士百人は九十八人うち死して、みな生れかはりにて
候間、其為にかき置まいらする)。

長坂長閑・跡部大炊助殿は必ず人に見せなさるな。もしまたは見せなさるとも、当御家に二代も奉公致
す子供数多の人には見せなさるとしても、牢人衆に見せなさっては中々高坂にとって現世来世までもの
恥であり、かつまた御家の傷になる。深く慎め慎め。件の如し。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』



91 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/01(土) 08:34:42.68 ID:tqmeloYc
>>89
さすがは元百姓、譜代の重鎮に向かって何たる言い草
まさに分別違い、その上老害ときたか

信玄公御旗及び御はた本備押の作法十五条の事

2019年05月30日 19:10

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 17:51:20.59 ID:jxVT/vJG
信玄公御旗

一、赤地に八幡大菩薩の旗2本。
一、赤地に将軍地蔵大菩薩の旗2本。
一、武田27代までの御旗1本。

一、其疾如風 一、其静如林 一、侵掠如火 一、不動如山。
これは黒地に金をもって、この4つの語を書きなさった。旗は四方(正方形)なり。この旗
とともに以上の6本である。川中島合戦からこの旗を使いなされた。

また三方ヶ原で家康・信長に勝って、殊に信長と手切りになられて東美濃発向の時、次の語
を前述の旗に入れなさった。一、天上天下 一、唯我独尊。

前述の故事を入れて旗の仕様は、
一、其疾如風 一、其静如林 一、侵掠如火 一、不動如山 一、天上天下 一、唯我独尊。

このような御旗は天正元年酉(1573)の3月に持たせ初めなされ、同4月12日に(信
玄公は)御他界なり。この6本の御旗奉行が1人、惣旗奉行が1人、よって2人なり。

この6本の御旗の中では尊師(孫子)の旗が肝要なり。口伝。

――『甲陽軍鑑』



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 19:22:30.91 ID:apZtFxeX
孫子「天上天下、唯我独尊
なんて原典に無いのを入れるくらいなら
難知如陰、動如雷霆
まで書けよ」



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 20:04:01.86 ID:jxVT/vJG
御はた本備押の作法十五条の事 八

御旗12本は黒地に、上に日の丸を朱で書き、下に朱の筋、その下に朱で竹菱。これは御家に伝わるところ
の新羅三郎義光公の御旗の写しである。これが一の御先。

次に八幡大菩薩の御旗3本を白地に墨で書き、次に勝軍地蔵の御旗2本。次に諏訪上下大明神の御旗5本。
いずれも三のかけなり。ただしある時は地黒に朱で書いたこともあった。

とりわけ御他界なさる天正元年の3月、東美濃御陣の時、黒地に金で5つの古語を遊ばされた。その語は、

一、其疾如風 二、其徐如林 三、侵掠如火 四、不動如山 五、天上天下唯我独尊。

これはその御陣で初めて御持たせなさったのである。この旗を合わせて12本。その旗奉行は今井刑部左衛
門、子息・新左衛門なり。父は信玄公の御感状11、子息は7つで武功の武士である。御旗の後先に乗り、
当番が先、あけ番が後、これも各番なり。

――『甲陽軍鑑末書』




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 20:57:31.27 ID:lsv+hvPP
>>955-957
天上天下唯我独尊は仏教用語
フロイスのこの記述とも合致する

>信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 10:35:47.67 ID:iXW+Hetr
旗の色、赤は平氏、白は源氏

信玄公軍法、4人のままになり給う事

2019年05月24日 14:43

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 01:04:29.85 ID:W72lPDZB
一、馬場美濃(信春)は戦のなされようを申し上げる。

一、山県三郎兵衛(昌景)は「御働きなされて良いかと」と勧め申し上げる。

一、内藤修理(昌豊)は「どこどこへ御働きなされよ」と、指図申し上げる。その様子は北条家を掠め給う
  場合でも伊豆か相模か鉢形か。関東ならば新田・足利か。家康ならば遠州か三河か。信長の東美濃か。
  さては越後かと、様子を推測して内藤が申し上げた。

一、高坂弾正はこのうえなく敵国へ深く働き、あるいは「御一戦は必ず御延引」と計り申し上げる。良く隠
  密することにより、働きは前に知れず。ただし侍大将衆は存じているのである。

一、信玄公軍法の事、馬場美濃守・内藤修理・高坂弾正・山県三郎兵衛4人のままになり給う事、口伝あり。

――『甲陽軍鑑』

hr size="1" />
937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 01:09:09.84 ID:+ueqcqA2
何言ってんだか良く分かんない



武田の家のあらん限りは

2019年05月23日 17:11

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/22(水) 20:54:19.06 ID:/jjf8gGf
寅の6月24日(永禄9年(丙寅)。1565年)に、信虎公(武田信虎)より同年5月5日の日付で
信玄公へ御書を遣しなされた。その趣きは、

「去る甲子3月に公方光源院殿(足利義輝)へ信虎は御礼申し上げて帰るところで、広縁まで
光源院殿が御送りになられたので、信虎は頭を地に付けて申し上げた。

『武田の家のあらん限りは公方が広縁まで御送りになられる。我が家の系図これなり』

と申し上げ候。しかれば三好は道無き故、光源院殿の御妹婿になった御恩を投げ打ち、去る年
乙丑に、義輝公を討ち奉った。そうであっても、侍のある内は公方の絶えなさることはない。
その心得あるべく候」

と折々信玄公へ信虎公より仰せ越しなされた。「かの強くいらっしゃる信虎公も、御父子の間
だから信玄公に御吉事のことを折々仰せられるのだ」と武田の家老各々は涙を流したのである。

以上。

――『甲陽軍鑑』



本当の合戦両度ながら、信玄公御勝利なり。

2019年05月19日 12:30

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 17:20:23.05 ID:WLVYKXLa
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

北条氏康公は河越で上杉管領8万余りの大軍に8千で勝ち給うといえども(河越城の戦い)夜軍であるから
敵は油断した故である。そうでなければ8万余りの人数に8千の北条家がどうして争って負け申すだろうか。

下総国府台で氏康公は安房の義広(里見義弘)に勝ち給えども(第二次国府台の戦い)、義広は初めは打ち
勝ち油断したところへ、氏康が掛かって利運になされたのである。

このように出し抜き、あるいは二股(節操がない)で小身な敵に勝ち、あるいは堀を掘って柵を付け打ち、
自分が逆心をし、または旗下の侍が合戦で突然裏返って敵となり、無理な勝ちを負けたとしても、負けとは
あまり心に意地を張るのをやめないのである。世間でも本当の勝負と批判はしないのである。

国持ち達が敵味方ともに2,3万の人数で白昼に合戦参るべしと、両方ともに他国の加勢はあるとしても、
大将が1人ずついて川も柵も裏切りも無く打ち合い、手勢ごとに槍を合わせ勝負をして実否を付けたのを、
本当の合戦と申すのである。これをどれかと分別で見申すと、川中島合戦と三方ヶ原合戦になるのである。
両度ながら、信玄公御勝利なり。

敵味方ともに2千,3千での勝負は諸国にそれこそいかほどもあるだろうが、それは大合戦とは申さない。
大合戦ではないから世間で取沙汰されないのである。信玄公が御勝利された相州みませ合戦(三増峠の戦い)
も氏康公・氏政公父子が到着されない以前に、北条家の先衆ばかり切り崩しなされたので、本当の合戦とは
申しがたい。

北条陸奥守(氏照)・阿波守助五郎(北条氏邦)の各々一類衆がいらしたといえども、大将の氏康父子は到
着なさらなかった。その以前、馬場美濃(信春)方へ向かった武士の中で金の制札と金の提灯を指物にした
2人の武士がいて、これもまた権を争い稼ぐところを、治部と市之尉が見て治部は金の制札を、市之尉は金
の提灯をと目標に致し「討ち申す!」と申して、その如く治部も市之尉もその武士を討って高名仕った。

指物を添えて自分の備の侍大将である馬場美濃守には見せずに、市之尉は治部を訪ね治部は市之尉を訪ねて、
互いに大口を叩くようであった。これは古今でもさほど無き働きである。

(後略。>>926

――『甲陽軍鑑』



信虎公はこの刀で50人余りを

2019年05月17日 17:38

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 04:23:46.41 ID:w2OiBgOR
(天正2年(1574)。遠江浜松への侵攻後)

勝頼公(武田勝頼)は平山を越え信州伊奈へ御馬を入れた。それから伊奈にて信虎公(武田信虎)は81歳
で勝頼公に御対面なさる。

勝頼公が「甲州へ信虎公を入れ参らせよ」と仰せられたところ、長坂長閑(光堅)が分別致して申されて、

「信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。その
うえ、逍遙軒(武田信廉)・一条殿(一条信龍)・兵庫殿(河窪信実)・典厩(武田信豊)・穴山殿(穴山
梅雪)、その他御親類衆は多いため、(御親類衆が)御逆心なさるかも分かりません」

との由を申すことにより、信州伊奈での御対面となったのである。

長閑が申したように勝頼公と御対面の座で、信虎公は「勝頼は母方は誰ぞ」と尋ね給う。これを長閑が承り、
「諏訪の頼茂(諏訪頼重)の娘子でいらっしゃいます」と申す。信虎公は少し御機嫌を損ねられて「勝頼は
今年いくつぞ」と御尋ねになった。これを長閑が承り「29歳でございます」と申した。

その後、信虎公は各々侍大将衆を御尋ねになった。昔の親の名字を名乗る者は1人もいなかった。工藤源左
衛門を内藤修理(昌豊)と申し、教来石民部を馬場美濃守(信春)と申し、飯富兵部(虎昌)の弟を山県三
郎兵衛(昌景)と申した。信虎公は高坂弾正のことを御尋ねなされ、「伊沢の春日大隅の息子」と申した。
信虎公は聞こし召して、「百姓を大身にするとは信玄の分別違いである」と仰せられた。

ところで、この機会に武田の御重代(家宝)左文字の御腰物を押板の上に立て置きなさったのは、信虎公が
45歳で甲州を御出になってから37年、81歳の時に御帰参なされて、孫でいらっしゃる勝頼公に御対面
なさるということで武田の重代を御座敷に置きなさったわけで、もっともなことである。

そんなところで信虎公はこの御腰物を抜き給う。信虎公はこの刀で50人余りを御手討ちになさったのだが、
「中でも内藤修理と名乗る奴の兄を袈裟懸けに切ったのだ」と、仰せられた。

その後、信虎公は勝頼公の御顔を御覧なされ、左文字の腰物を御抜き持ちながら「このように!(切った)」
となされた。座中はことごとく凍りつき、目も当てられぬ模様であった。

そんな中で小笠原慶庵は心の剛なる人である故、「このようなついでに聞き及んでいる武田の御重代を拝み
申したい」と申されて、信虎公の御側へ参った。そして勝頼公の間へ入って御腰物を無理に奪い取り、鞘に
納め戴いて長閑に渡した。

信玄公は御相手に小笠原慶庵を頼もしく思し召し、御話相手になされた。大勢の中で慶庵を大事のところへ
と召し連れなされたのは、このような人と慶庵を御目利なされたからである。信玄公を諸人が尊び奉るのは
もっともなことである。

その後、やがて勝頼公は甲府へ御帰りになったが、信虎公は伊奈に差し置きなされたのは長坂長閑の分別が
良き故なり。そして信虎公はやがて御他界なされたのである。

――『甲陽軍鑑』



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 07:41:32.52 ID:EMUiFFNb
>>34
信虎がやばすぎて草、そら追放されますわ

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 09:29:42.79 ID:tI1C2xsG
(誰だよこんなの呼び戻してきた奴・・・)

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 09:54:21.30 ID:vPXWVMD0
てか信虎長生きだな

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 10:35:18.75 ID:nH85bSJc
(だからやばいって言ったやん・・・)

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 10:35:53.50 ID:3JPX1a4D
「内藤修理の兄貴をこの刀で袈裟がけに斬ったんじゃ~」というのは、80過ぎてボケていたからと思いたい…。

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 13:58:13.33 ID:viLJ6jis
>>39
ボケてるんならそういう雰囲気にならなきゃそんな事するわけないし、それでも当主の勝頼に向けてやるはずがない

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 23:29:12.88 ID:LonsrQcf
こりゃ牛馬畜類まで愁悩しますわ

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 05:45:56.56 ID:GNN10F73
甲州軍鑑でも、こういうところでは創作しないで当時あった逸話を拾ってきているだろうしなぁ…
そりゃ、一族重臣総出で追放するわな。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 07:56:39.50 ID:4ffkuKZb
>>34
>信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。
しっかり想定されててしかもその通りなのが凄いw

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 15:03:48.62 ID:kgdWSgPA
完全にサイコパス
しかも殺しまくりのヤバい方
正体を隠そうともしないし

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 10:14:54.39 ID:hDnie7Gp
>>34
珍しく長閑を褒めてるね

信玄公御時代諸大将之事

2019年05月12日 16:48

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:21:19.83 ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね



現在刀脇差を差すのは

2019年03月22日 12:45

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/22(金) 09:01:12.17 ID:OztkscXW
天文年中に、武田信玄が武器制作のことを諸臣に命じて、その議論を記録した『武具要説』(高坂彈正の
著とされる)という書がある。
その中に刀脇差について、長短得失の論が有る。信玄の頃より刀は大小を差すようになったものと考えられる。
現在刀脇差を差すのは、戦国の風俗が、今に伝わったものである。

(安斉随筆)



740 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/22(金) 10:50:26.30 ID:tK1z/NHF
二本差しって調べたら大小腰にさすだけじゃなくって違う意味もあるのね

勝頼が兵を用いることの意味を

2019年03月15日 21:08

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 19:35:17.78 ID:NtugCGIo
勝頼の代に至って、武田の威が衰えたのは、勝頼が兵を用いることの意味を理解していなかったためである。
勝頼は下條越前(信氏もしくは信正の事か)に信濃飯田城を守らせていた。士卒合わせて4,500人の
頭であった。

織田信忠がこれを攻めるという時、勝頼は小幡因幡(信定か)に命じてその加勢とした、因幡は小幡尾張(信貞)
の嗣子にて、五百騎の将である。この加勢の時も、二百騎あまり、総軍二千ばかりの人数であった。
そして小幡因幡は大身であるがゆえに下條越前の下知を受けず、下條越前は本城の守将である故に
小幡因幡の指図を用いず、互いに不和にして。因幡は自分の従兵を引いて遂に城を出たため、その騒動により
守備は崩壊し、士卒は半ば戦う前に離散して、飯田の城は陥ちたという。

(武将感状記)



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 21:38:17.40 ID:/7It3Fsz
>>788
実際は保科正直ってのが逃亡したらしいけど

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 17:06:50.69 ID:PU3Ax35N
さすが逃げ弾正w

791 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/15(金) 23:01:53.64 ID:Rrpezbrm
>>790
高坂昌信「え?もう亡きお屋形様の所逝ってるんですけど?」

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/17(日) 18:01:12.52 ID:5akfMxjR
槍を合わせずに逃げてる弾正さん

793 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/18(月) 09:51:18.67 ID:eWwD9w/z
お屋形様の槍を貰いにあの世へ逃げ弾正

その鳩を鉄砲を以て撃ち落とし

2019年03月13日 19:14

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 18:14:59.38 ID:e+3JSm8n
武田信玄が信濃に発向する時、鳩一羽が庭の前の樹上に来た。人々はこれを見て、口々にささやいて
喜ぶ色があった。信玄がその故を問うと

「鳩がこの樹の上に来る時、合戦大勝にあらざる事はありません。これは御吉例です」

これを聞くや信玄は、その鳩を鉄砲を以て撃ち落とし、衆の惑いを解いた。
鳩がもし来ない時は、人々に結果に対して疑いくじける心が生まれ、戦が危うくなることを
慮ったのである。

(武将感状記)



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 20:05:54.14 ID:/4hQLrGf
>>717
文章だと一行で終わらせてるが、話聞いてから鉄砲一式持ってこさせて発射するまでどれくらいかかるんだ?

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 20:14:20.74 ID:ZvDr02Zm
「これは吉例です」「今日は凶日です」と言われたら、それを敢えて否定しにかかるエピソードは明智光秀や羽柴秀吉にもあったね

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:28:50.52 ID:VWiLU7G0
>>717
太閤「鳩が来ないなら来させてみせよう」
権現「鳩が来ないなら来るまで待とう」
ノブ「やっぱり鳩が来ないなら○す」

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 10:26:52.61 ID:FIxJ6/9L
ノブは桶狭間の時わざと神社で鳥放たせて吉兆扱いにしたんでは

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 10:46:03.82 ID:fpOp7GYF
上洛した時サクラ使ってる以上ありえん話ではないが
ノッブくらいになると咄嗟に何か見つけてアドリブで周囲を納得させられるだろう

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 17:09:20.79 ID:PU3Ax35N
鳩殺して負けたら神の使い殺してバチ当たったと言われそう
そんな逸話何処にでも転がってるよな

永禄12年、武田軍駿河撤退と武田重代の家宝・八幡大菩薩の旗

2019年01月06日 19:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:31:56.44 ID:1kKF9x1m
今川氏真の掛川開城の頃までも、山県三郎兵衛昌景は武田信玄の命を守り、駿府の焼け跡に仮の柵を付けて舎宅を営み
守っていた。神君(徳川家康)は駿河に打ち入って駿府城へ押し寄せなさるが、山県は僅かの柵だけでは防戦叶わずと
知り、城を捨てて甲斐へと逃げ帰った。

神君は小倉内蔵助(資久)をもって、北条氏康父子へ信玄とは永く誼を断ち給う由を仰せ遣わされ、それより氏康父子
と示し合わせて今川氏真を駿府へ帰還させなさる由を懇ろに沙汰された。しかし駿府の城郭は先に信玄のために焼亡し、
住居できる場所もないので、氏真は戸倉城にあって小倉内蔵助・森川日向守に命じ、城郭を修築せしめた。その功が半
ば成就したので、まず岡部次郎右衛門正綱とその弟治部右衛門、安部大蔵元真らに駿府を守らせて、もっぱら作事を営
ませた。(原注:『武徳大成記』『家忠日記』)

武田信玄はこれを聞いて大いに憤り、1万8千の軍勢を催して再び駿府を奪い取らんと、6月12日に甲府を打ち立ち、
富士山中の金王を通り、大宮に出て神田屋敷・蒲原・善徳寺・三枚橋・興国寺の城々には押勢を残し、1万2千の人数
で韮山口まで押し入り、17日に三島社内を侵して近辺を放火する。それから人数を進め、河鳴島に陣を張らんとした。

この時、原隼人(昌胤)は「この場所では水害があるかもしれません」と諫めたのだが、信玄はこれをまったく用いず、
河鳴島に陣を取った。北条氏康もこれを聞き、3万7千余兵を引率して出馬し、信玄と対陣して互いに兵を見繕って戦
いは未だ始まらず。

そんな折の19日夕方より雨が降り続き、夜に入った後に大風が激しくなり、雨はますます篠を突くが如し。甲斐勢は
雨革や渋紙、桐油などで陣屋を囲もうとする間に風はいっそう激しくなり、雨はなおも車軸を流し、本篝と末篝をとも
に一度に吹き消した。視線も定まらぬ暗夜に火打ちと付竹を取り出し、灯を立てようとしても陣屋陣屋の間は野原なの
で風が吹き入れて灯は移らない。とやかくと苦辛してようやく陣屋を囲めば、子刻ほどになっていた。将卒どもは疲れ
果て、甲冑を枕にしばし休息した。まして歩卒どもは宵の普請に労疲し、高いびきして前後も知らず伏していた。

この時、北条方が蒲原・興国寺・三枚橋の城々から信玄の旗本へ入れ置いた忍びの者どもは、密かに陣々の馬の絆綱を
切って捨てた。かねてより示し合わせていた事なので、その城々からの屈強の勇士3百余人は、その頃は世上でも稀な
“雨松明”(原注:一本は“水松明”と書く)というものを手々に持ち、筒の火で吹き付けて陣屋に火を掛け、三方か
ら鬨の声を揚げた。

甲斐勢はこの声に驚き「ああっ夜討が入ったぞ! 1人も漏らすな!」と言うも、すでに洪水が押し来たり、陣営は皆
水となった。「弓よ、鉄砲長刀よ!」とひしめくが、篝火も灯火も皆消えてまったく暗く、兵具の置き場所も分からず、
「敵味方を弁えかねて同士討ちするな!」と呼び喚き取り鎮めようとするところに、河からはしきりに洪水が溢れ出て
陣屋陣屋に流れ入り、しばらくの内に腰丈まで浸れば、諸将卒ともに慌てふためき高い所へ登ろうと騒ぎ立った。

陣々にあった弓・鉄砲・槍・長刀・武具・旌旗・兵糧まで津波に取られて押し流され、諸将卒は逆巻く水を凌いでよう
やく興国寺の峰へと押し登った。退き遅れて水に溺死する者も若干であった。信玄はしばしも滞留することができずに、
早々に大宮まで引き退き、もと来た道を経て甲斐へと帰陣した。この時、甚だ狼狽したものか、武田重代の家宝である
八幡大菩薩の旗を取り落とし、北条方に拾い取られたのである。

――『改正三河後風土記』


569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:32:29.35 ID:1kKF9x1m
さる程に、永禄12年(1569)6月17日、信玄は御坂越に人数を出して、御厨通りを桃苑という所まで出張した。
先手の者どもは三島へ乱暴して明神の社壇を打ち破り、戸帳を盗み取る。社殿の中を見ると神鏡だけで本尊がなかった。

諸勢どもは「甲斐国は小国だが、どんな小社でもすべて本尊神体がある。これは甲州は神道が正しいからだ。三島は海
道に聞こえる大社であるのに、どうして本尊がないのだろう。なんだか分からぬ石のようなものがあるが、これが明神
の神体であるのか、その他には何もない。ただ宮ばかりで、尊きこともないではないか。このような神もなき宮に何の
罰があろうか。宝蔵をも打ち破り取ってしまえ」と申した。

その頃、吉田の某は浪人して甲斐国へ下り、信玄の手書をしていた。某はこれを余りに不届きに覚え、信玄へ進み出て、
「そもそも神道は陰陽の根元にして易道の本地であり、形もなく影もないところに神秘があるのです。これは皆神秘で
すから、凡人の及ぶところではありません。浅ましい狼藉でありましょう」と、制止したのだという。

信玄は韮山口まで働き、鳴島辺りに陣を取ったと氏康は聞きなさり、3万7千余騎を引率して駿河に発向した。信玄も
2万5千余騎を引率してしばらく対陣した。19日の晩景より雨が降り出し、箱根山の方から黒雲一叢が立ち来たり、
夜に入ると風は激しく篠を束ねて、降る雨はさながら流れ込むが如し。にわかに大水が起こって陣屋に込み入り、しば
らくの内に腰丈まで浸かり、甲斐勢は我先にと高みに登った。

物音はまったく聞こえず、長いこと震動があった。「これは只事であるはずがない。何れにしても三島明神の御咎めな
のではないか」と心ある者は思ったのだという。

その頃、高国寺城の勢が少ないとして、加勢のために福島治部大輔・山角紀伊守・太田大膳ら数百騎が蓑笠を着て松明
をともし高国寺城へ入った。これを甲斐勢の夜廻りの者が「敵が夜討に寄せて来る!」と告げるや、甲斐勢は騒ぎ立ち、
小屋は倒れて兵糧・雑具・兵具まで流し、甚だ取り乱したのだろう、余りに慌てふためいて武田重代の八幡大菩薩の旗
を波に取られてしまった。

その旗は北条家に取られ、氏康に献上された。「誠に信玄一代の不覚」とぞ聞こえける。その旗を九島伊賀守(福島伊
賀守)に賜り、伊賀守家の奇宝とした。

水は次第に増し、逆巻く水に向かってようやく命を助かり、夜もすがら信玄は甲府に引き返された。氏康も小田原へと
帰陣なさった。

――『小田原北条記』


572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 00:30:39.58 ID:aCvm3RMw
永禄12年(1569)6月19日、武田信玄は河鳴島に陣を取り、北条氏康の軍勢と対峙したが、
洪水にみまわれて敗走し、よほど狼狽したのか武田重代の八幡大菩薩の旗を取り落として、北条方
に拾い取られてしまった。(>>568)

氏康は蒲原城に善徳寺曲輪という大郭を築き、その他に大宮・神田屋敷・興国寺・三枚橋・戸倉・
韮山・新庄・山中・深沢・鷹巣・獅子浜などの城塞に援兵3万余人を配分して籠め置き、自身は小
田原へ帰陣した。かくて北条方では、

「流石の信玄も今回はよほど狼狽したと見えて、重代の旗指物を取り落としてしまった!」

と嘲った。これに信玄方では、

「重代の重器であっても、津波のために流れたものをどうして恥としようか! 津波に流れた兵具を
拾い取って、武功手柄のように高言する笑止さよ! 旗が欲しくば、いくらでも製作して授けるぞ!
武略の優劣は戦場の勝負にあり。天変を頼みにして物を拾うを武功と思う浅ましさよ!」

と誹謗した。北条方はまたこれを聞いて、

「信玄が例の巧言曲辞をもって、その過誤を飾るとは片腹痛い! さる永禄6年2月の上野箕輪城
攻めで、信玄の家人の大熊備前(朝秀)は自分の指物を敵に取られたことを恥じ、敵中に馳せ入っ
てその指物を取り返した。その時に信玄は大いに感心して、『無双の高名比類なし』と感状を与え、
その時から大熊を取り立てて騎馬30騎・足軽75人を預けたのだと聞いている。

しかしながら、家人が指物を取られたのを恥じて取り返したことを賞美して、その家重代の重宝で
ある八幡大菩薩の旗は敵が取っても恥ならずと言うなら、大熊に授けた感状は今からは反故となる。
信玄の虚偽はさらさら証しにはできないな!」

と、双方嘲り罵ってやまなかった。その頃、老練の人々はこれを聞いて、

「信玄が洪水のために重代の重宝を流して敵に拾われたことは、天変であるから信玄の罪にあらず。
『河鳴島が卑湿の地で水害があるだろう』と原隼人(昌胤)が諫めたのを用いずに、その地に駐屯
してこの難にあった事こそ、一方ならぬ不覚である」

と誹謗したのだという。

――『改正三河後風土記』



570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 20:16:27.89 ID:VzBE3OlO
>>568>>569
>3万7千
どっちも共通してるんだな、少しぐらい盛りそうなもんだけど。

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 12:10:41.04 ID:8AG8nNZJ
武田に勝つには倍以上ないと心許ない

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 14:28:39.05 ID:eQrzQF2I
>>572
レスバトルかな?

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 08:45:56.18 ID:0LSUZlgm
見事なレスバトルやな

すべて信玄の作謀

2018年12月29日 17:14

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 19:44:13.74 ID:pBe2OoRD
永禄12年(1569)5月下旬には、遠江一円が神君(徳川家康)に帰順した。かねがね大井川を限りに西は尽く
御領地となさる旨を武田信玄とは堅く盟約されたので、御領地の境を御巡見のため僅かな御供5,6百騎を召し連れ
なさって、榛原郡に赴かれた。

その時、信玄の侍大将・山県三郎兵衛昌景も3千余騎を連れて駿府よりこの辺りに来たり、金谷にて思いがけず行き
違った。昌景は礼をなしてその場を過ぎようとしたが、神君の御供が少ないのを見ると、喧嘩に事を寄せてたちまち
打って掛からんとした。これは内々信玄の密旨を受けており、かねてより虎狼の心を抱いていたからである。神君は
この様子を御覧になって、

「山県は味方が小勢であるのを見て時節よしと思い、かねての約を変じてにわかに備を立て直し、味方を襲い討たん
としている。去年に秋山伯耆守(虎繁)が約を背いて我が国境を犯そうとしたのも、今日の山県の狼藉も、いずれに
しても信玄の偽謀に疑いない。しかしながら味方は僅かの小勢、しかも地の利を得ず。少し引き退いて地利に拠って
戦うべし!」

と仰せになると、兵を5,6町引き退け険路に備えて待ち受けなさった。山県は徳川勢が逃げると思い勝ちに乗じて
暇なく追っ掛けたところ、本多平八郎忠勝が一番に小返りして奮戦した。その手に属する三浦竹蔵・原田弥之助・
桜井庄之助・梶金平(勝忠)・柴田五郎右衛門・大原作之右衛門・木村三七・渡辺半兵衛(真綱)・多門越中・荒川
甚太郎・本多甚六・河合又五郎は同じく進んで槍を入れる。

二番に大須賀五郎左衛門康高と榊原小平太康政が婿舅一手になり、槍を振るい決戦した。両将の手に属す坂部又十郎
(正家)・筧龍之助・久世三四郎(広宣)・筧助太夫(正重)・渥美源五郎(勝吉)・伊藤雁助・清水久三郎・鈴木
角太夫・加藤平次郎も劣るまいと争い進めば、

三番に大久保七郎右衛門忠世・弟の治右衛門忠佐が、また御旗本からは渡辺半蔵(守綱)・服部半蔵(正成)・菅沼
新八郎(定盈)・石川又四郎が馳せ出て槍を合わせ、敵7,8騎をたちまちに突き落とせば、山県はこの戦いに利は
あるまいと知って早々に人数を引き纏め、駿府目指して逃げ去った。

神君は秋山・山県らの狼藉はすべて信玄の姦謀であると御知りになって、これより永く信玄とは誼を断ちなさった。
信玄もこの頃に世上では信玄の姦謀を批難したのでこれを憂い、一旦山県を蟄居させ、その後程なく馬場・小山田ら
が愁訴するからとして山県を許したのであった。これはすべて信玄の作謀の致すところである。

越後の謙信もこれを聞いて「この度、信玄が徳川殿と盟約を変じ、山県をもってその虚に乗じ討たんと計ったことは、
武田家の瑕瑾(名折れ)である」と評したのであった。

(原注:按ずるに応仁以来、諸国割拠の英雄豪傑は少なからず。その中でも、越後の謙信と甲斐の信玄の2人は殊更
胸に六韜三略を明らめ、手に常蛇を制す。兵を用い陣を敷き、城を攻め敵を計る。尽く孫呉と機を同じくせずという
ことなし。天下後世が規則として仰ぐこと泰山北斗の如し。

しかしながら信玄のなすところは、すでに父を追って国を奪い甥を倒して地を掠み、天倫の道は絶えてしまったので
隣国の盟約を背く如きは論ずるに足らず。されどもこの度、盟約は未だ数ヶ月も経ずして山県に密かに計略を含め、
兵の少なきを窺って襲い討たんと計った偽詐姦邪はおのずと国々へ言い伝えて、これより大いに人望を失ったという
のは、そのようになってもっともな事である)

――『改正三河後風土記(武徳大成記・東遷基業)』


薩た峠の戦い

2018年12月09日 19:09

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:37:48.91 ID:wtlDa408
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

頃は正月末つかた、余寒激しく山々の雪は未だ消えやらず、浜風はいたく吹き立てた。軍勢が堪え凌ぎかねて
いるその様を見て、武田信玄は駿府から多くの酒を取り寄せて諸軍に飲ませれば、諸軍勢はこれを飲んで寒気
を忘れ、大いに喜び勇んだ。

その酔心で気力を得て、「いざや一夜討して敵の眠りを覚まさん!」と2千余人が申し合わせ、各々その用意
をして山上に登ってみると、北条勢は寒気に耐えかねて、陣営ごとに焼火で寒気を凌いで座眠りしている者も
いれば、麓に集まりうずくまって縮み伏している者もおり、いずれも油断の有様なれば、武田勢は「これこそ
天の与えなれ!」と喜び、どっと喚き叫んで陣屋陣屋を蹴破り、弓鉄砲その他武具を分捕り、軽く纏めて引き
返した。

北条勢はその声に驚いて「ああっ夜討の入りたるぞ! 太刀よ、物具よ!」と、ひしめく間に寄手は軽く引き
取れば、北条方の将卒どもは、「余りの寒さに油断して大盗人にあった!」と後悔すれども、その甲斐なし。

この後は相互に夜討の用心をして、昼は両陣より50騎か百騎ずつが出て迫り合うのみとなったが、ある日、
武田方より跡部大炊介勝資が、地黄に紺筋の旗1流をさっと差し上げて、その勢3百余人が撞鐘の馬印を押し
立て乗り出した。北条方よりも松田尾張守憲秀が、白地に山道を黒く染め付けている旗を、これも1流を浜風
に翻して、その勢8百余人が打って出た。

互いに掛け合わせて始めの頃は弓鉄砲で射合い撃ち合ったが、後には双方騎兵を入り交ぜて突き合い切り合う
と見えたところで、武田方は小勢のために掛け立てられて2町余り敗走した。

北条方の松田尾張守が士卒に命じて敗走する敵勢を食い止めんと進んで来れば、跡部大炊介は取って返さんと
すれども、備が乱れ立って士卒の足並みはしどろもどろになり返せず、逃げようとすれば松田勢が近くに追っ
掛けて来て、跡部はどうしようもなく見えたところに、武田方より馬場美濃守氏勝(信房)が2百余騎で掛け
向かい、ひしひしと折敷の姿勢を取り、槍衾を作って一面に備えた。松田はこれを見て「今やこれまでぞ!」
と軍士を招いて引き返した。

この時、馬場の属兵・鴟大弐という者は紀州根来の生まれで大剛の兵のため、信玄は常にこれを寵した。この
大弐はこの日衆に抜きんで先頭に進み出て、松田勢を食い止めんと働いたのだが、鉄砲で腰を撃たれて倒れた
のを見た松田勢20騎ほどが、その首を取らんと馳せ集まった。それをこれも馬場の属兵である金丸弥右衛門
(弥左衛門)が、これを見るなり馳せ寄り大身の槍を取り伸べて、近寄る敵7,8人を突き倒し、大弐を引き
立てて味方の陣へ帰ったのである。

大弐は甲斐へ帰国の後に様々に治療し、腰は少し引いたけれども勝頼の時代まで生き長らえて、長篠の戦いで
勇戦した。その時に飯寄惣兵衛と名乗って討死したのは、この大弐であったのだという。

かくて北条と武田は90余日対陣し、4月28日に信玄はついに軍を帰し大地山を越えて甲斐に入った。北条
父子は駿河に入り、ここかしこに隠れていた今川の侍どもを招き集め、その他に小田原勢1万8千人を駿河の
蒲原・三枚橋(原注:今沼津と言う)・興国時・善徳寺・深沢・新庄、また伊豆の戸倉・泉頭・山中・鷹巣・
湯浅などの城々に籠め置いて、小田原へと帰陣した。

――『改正三河後風土記』


550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:45:15.64 ID:wtlDa408
甲斐勢の跡部・栗原(伊豆守か)は3百余騎で押し出すが、松田・富永(政家)の8百余騎に掛け立てられて
立つ足もなく敗北し、薩た山の下へ海際まで追い打ちにされた。剰え松田勢に食い止められ、取って返さんと
すれば備は乱れてしどろもどろとなり、引き退かんとすれば敵が押し掛けて追い詰めた。

跡部・栗原勢は一人も残らず討ち取られると見えたので、馬場美濃守は2百余騎で掛け向かうと、ひたひたと
折り敷いて一面に備えれば、松田勢が妨げられて挫けたところへ、内藤修理(昌豊)が横合に鉄砲を撃ち立て、
松田・富永も叶わず引き返した。

美濃守の同心・鴟大弐という者は大剛の兵で、深く働いて打ち合うも腿を鉄砲で撃ち抜かれて伏してしまった
ところを小田原勢が首を取らんと集まった。それをこれも美濃守の同心・金丸弥左衛門が走り寄って槍で突き
払い、大弐を引き立てて味方の陣に帰った。

しばらくあって敵味方は押し寄せ戦い、引き分かれてはまた寄せ合わせ、火が出るほど戦って両陣は相引きに
引き退いた。その後、信玄は如何に思われたのか、人数を出さず対陣して百騎2百騎の迫り合いのみで虚しく
春を過ごした。

甲斐は隣国ではあるが、大山を越えて通路は難儀なので数月の対陣で兵糧は尽き、4月28日に信玄は高野山
の麓、橘の小島を廻って終夜引き退いた。これによって、氏康父子も帰陣せられた。信玄がすでに今川を追い
落としたにも関わらず、氏康が(駿府を)手に入れたことは、犬の押さえし鶉を鷹に取られ、猟師の網にかか
りし兎を狼に食われたるが如し。

氏真の館を信玄はことごとく焼き払ったので(氏康父子は)久野弾正(宗政)・森川日向守・岡部次郎右衛門
(正綱)・河部大蔵らに御館の普請を言い付け、蒲原の城・大宮・善徳寺・高国寺・三枚橋・戸倉・志師浜・
泉頭に小田原勢を籠められた。

――『小田原北条記』



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/09(日) 16:01:40.91 ID:mbIVt329
>>549-550
両方の記述が一致してると信憑性高くて面白い。専門家はこういう作業ずっとやってるんだろうな。

久能山城

2018年12月03日 21:01

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/03(月) 07:03:54.33 ID:cI3SPXlp
武田信玄は駿府を焼き払わせ自身は久能に在陣した。そのため今川家を亡命した将士どもは降人に出て人質を
献ずる者は日々夜々に絶間なし。信玄は奥津の横山という所に要害を構え、穴山陸奥守信忠入道梅雪をここに
置いて守らせた。奥津に続いている山下という地は梅雪の所領なので、便宜のためにそう定めたのである。

ここにまた今川家の家士に庵原弥兵衛といって小身の者ではあるが、数度の高名比類なき剛の者がいた。特に
山本勘助入道道鬼の第一の弟子である。信玄は弥兵衛を召し出して「小勢で立て籠もり、大敵を引き受けての
防戦が容易な地形はあるか」と尋ねたところ、弥兵衛が申したことには、

「この久能山と申す場所は後ろは山の尾が長く引いて深山に続き、三方は岩石高くそびえて谷深く、そのうえ
用水も乏しくはありません。その中に1つの細道があって羊腸を踏んで雁歯に沿う難路です。秦の函谷、蜀の
剣閣もこれ以上とは覚えませぬ。実に一夫が怒れば三軍の士でさえ押して向かうことはできません。もっとも
要害の名地であります。

この山に城を築いて兵糧を多く蓄え置き、10人の勇士が心を合わせて弓鉄砲を掛け置けば、日本60余州の
総軍勢が残らず押し寄せようとも、容易く落城することはありますまい。

前述のことは先年、山本勘助が浪人して当国(駿河)にいた時に語ったものです」

と弥兵衛が申すと、信玄は大いに喜んで「それならば日を置かずにこの地に城を築かん!」と縄張り地祭りを
執り行い、土木の功が成就すると兵糧や馬の飼料までつぶさに点検して、今福常閑(長閑斎友清)とその子・
丹波(虎孝)に与力40騎を差し添えて、都合3百7十余人をここに籠め置いて守らせ、信玄は一先ず甲斐へ
帰陣したのであった。

また神君(徳川家康)は先年、御異父同母の御弟・松平源三郎康俊と酒井左衛門尉忠次の娘を今川家へ人質に
出されていたが、氏真はかねてよりその家人・三浦与一に預け置いていた。ところがこの度の駿府没落により、
与一も信玄に降参したため、与一は何かしら勤功にしようと思って氏真がかねがね預け置いていた人質を伴い、
甲府へと連れて行った。

これによって信玄は大いに喜び「この人質を我が方に留めて置けば、徳川殿も後々には私めの幕下に属される
ことは必定である!」とその人質を受け取り、甲府で番人に厳重に申し付けて守護させたのである。

――『改正三河後風土記』