FC2ブログ

現在刀脇差を差すのは

2019年03月22日 12:45

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/22(金) 09:01:12.17 ID:OztkscXW
天文年中に、武田信玄が武器制作のことを諸臣に命じて、その議論を記録した『武具要説』(高坂彈正の
著とされる)という書がある。
その中に刀脇差について、長短得失の論が有る。信玄の頃より刀は大小を差すようになったものと考えられる。
現在刀脇差を差すのは、戦国の風俗が、今に伝わったものである。

(安斉随筆)



740 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/22(金) 10:50:26.30 ID:tK1z/NHF
二本差しって調べたら大小腰にさすだけじゃなくって違う意味もあるのね
スポンサーサイト

勝頼が兵を用いることの意味を

2019年03月15日 21:08

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 19:35:17.78 ID:NtugCGIo
勝頼の代に至って、武田の威が衰えたのは、勝頼が兵を用いることの意味を理解していなかったためである。
勝頼は下條越前(信氏もしくは信正の事か)に信濃飯田城を守らせていた。士卒合わせて4,500人の
頭であった。

織田信忠がこれを攻めるという時、勝頼は小幡因幡(信定か)に命じてその加勢とした、因幡は小幡尾張(信貞)
の嗣子にて、五百騎の将である。この加勢の時も、二百騎あまり、総軍二千ばかりの人数であった。
そして小幡因幡は大身であるがゆえに下條越前の下知を受けず、下條越前は本城の守将である故に
小幡因幡の指図を用いず、互いに不和にして。因幡は自分の従兵を引いて遂に城を出たため、その騒動により
守備は崩壊し、士卒は半ば戦う前に離散して、飯田の城は陥ちたという。

(武将感状記)



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 21:38:17.40 ID:/7It3Fsz
>>788
実際は保科正直ってのが逃亡したらしいけど

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 17:06:50.69 ID:PU3Ax35N
さすが逃げ弾正w

791 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/15(金) 23:01:53.64 ID:Rrpezbrm
>>790
高坂昌信「え?もう亡きお屋形様の所逝ってるんですけど?」

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/17(日) 18:01:12.52 ID:5akfMxjR
槍を合わせずに逃げてる弾正さん

793 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/18(月) 09:51:18.67 ID:eWwD9w/z
お屋形様の槍を貰いにあの世へ逃げ弾正

その鳩を鉄砲を以て撃ち落とし

2019年03月13日 19:14

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 18:14:59.38 ID:e+3JSm8n
武田信玄が信濃に発向する時、鳩一羽が庭の前の樹上に来た。人々はこれを見て、口々にささやいて
喜ぶ色があった。信玄がその故を問うと

「鳩がこの樹の上に来る時、合戦大勝にあらざる事はありません。これは御吉例です」

これを聞くや信玄は、その鳩を鉄砲を以て撃ち落とし、衆の惑いを解いた。
鳩がもし来ない時は、人々に結果に対して疑いくじける心が生まれ、戦が危うくなることを
慮ったのである。

(武将感状記)



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 20:05:54.14 ID:/4hQLrGf
>>717
文章だと一行で終わらせてるが、話聞いてから鉄砲一式持ってこさせて発射するまでどれくらいかかるんだ?

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 20:14:20.74 ID:ZvDr02Zm
「これは吉例です」「今日は凶日です」と言われたら、それを敢えて否定しにかかるエピソードは明智光秀や羽柴秀吉にもあったね

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:28:50.52 ID:VWiLU7G0
>>717
太閤「鳩が来ないなら来させてみせよう」
権現「鳩が来ないなら来るまで待とう」
ノブ「やっぱり鳩が来ないなら○す」

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 10:26:52.61 ID:FIxJ6/9L
ノブは桶狭間の時わざと神社で鳥放たせて吉兆扱いにしたんでは

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 10:46:03.82 ID:fpOp7GYF
上洛した時サクラ使ってる以上ありえん話ではないが
ノッブくらいになると咄嗟に何か見つけてアドリブで周囲を納得させられるだろう

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 17:09:20.79 ID:PU3Ax35N
鳩殺して負けたら神の使い殺してバチ当たったと言われそう
そんな逸話何処にでも転がってるよな

永禄12年、武田軍駿河撤退と武田重代の家宝・八幡大菩薩の旗

2019年01月06日 19:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:31:56.44 ID:1kKF9x1m
今川氏真の掛川開城の頃までも、山県三郎兵衛昌景は武田信玄の命を守り、駿府の焼け跡に仮の柵を付けて舎宅を営み
守っていた。神君(徳川家康)は駿河に打ち入って駿府城へ押し寄せなさるが、山県は僅かの柵だけでは防戦叶わずと
知り、城を捨てて甲斐へと逃げ帰った。

神君は小倉内蔵助(資久)をもって、北条氏康父子へ信玄とは永く誼を断ち給う由を仰せ遣わされ、それより氏康父子
と示し合わせて今川氏真を駿府へ帰還させなさる由を懇ろに沙汰された。しかし駿府の城郭は先に信玄のために焼亡し、
住居できる場所もないので、氏真は戸倉城にあって小倉内蔵助・森川日向守に命じ、城郭を修築せしめた。その功が半
ば成就したので、まず岡部次郎右衛門正綱とその弟治部右衛門、安部大蔵元真らに駿府を守らせて、もっぱら作事を営
ませた。(原注:『武徳大成記』『家忠日記』)

武田信玄はこれを聞いて大いに憤り、1万8千の軍勢を催して再び駿府を奪い取らんと、6月12日に甲府を打ち立ち、
富士山中の金王を通り、大宮に出て神田屋敷・蒲原・善徳寺・三枚橋・興国寺の城々には押勢を残し、1万2千の人数
で韮山口まで押し入り、17日に三島社内を侵して近辺を放火する。それから人数を進め、河鳴島に陣を張らんとした。

この時、原隼人(昌胤)は「この場所では水害があるかもしれません」と諫めたのだが、信玄はこれをまったく用いず、
河鳴島に陣を取った。北条氏康もこれを聞き、3万7千余兵を引率して出馬し、信玄と対陣して互いに兵を見繕って戦
いは未だ始まらず。

そんな折の19日夕方より雨が降り続き、夜に入った後に大風が激しくなり、雨はますます篠を突くが如し。甲斐勢は
雨革や渋紙、桐油などで陣屋を囲もうとする間に風はいっそう激しくなり、雨はなおも車軸を流し、本篝と末篝をとも
に一度に吹き消した。視線も定まらぬ暗夜に火打ちと付竹を取り出し、灯を立てようとしても陣屋陣屋の間は野原なの
で風が吹き入れて灯は移らない。とやかくと苦辛してようやく陣屋を囲めば、子刻ほどになっていた。将卒どもは疲れ
果て、甲冑を枕にしばし休息した。まして歩卒どもは宵の普請に労疲し、高いびきして前後も知らず伏していた。

この時、北条方が蒲原・興国寺・三枚橋の城々から信玄の旗本へ入れ置いた忍びの者どもは、密かに陣々の馬の絆綱を
切って捨てた。かねてより示し合わせていた事なので、その城々からの屈強の勇士3百余人は、その頃は世上でも稀な
“雨松明”(原注:一本は“水松明”と書く)というものを手々に持ち、筒の火で吹き付けて陣屋に火を掛け、三方か
ら鬨の声を揚げた。

甲斐勢はこの声に驚き「ああっ夜討が入ったぞ! 1人も漏らすな!」と言うも、すでに洪水が押し来たり、陣営は皆
水となった。「弓よ、鉄砲長刀よ!」とひしめくが、篝火も灯火も皆消えてまったく暗く、兵具の置き場所も分からず、
「敵味方を弁えかねて同士討ちするな!」と呼び喚き取り鎮めようとするところに、河からはしきりに洪水が溢れ出て
陣屋陣屋に流れ入り、しばらくの内に腰丈まで浸れば、諸将卒ともに慌てふためき高い所へ登ろうと騒ぎ立った。

陣々にあった弓・鉄砲・槍・長刀・武具・旌旗・兵糧まで津波に取られて押し流され、諸将卒は逆巻く水を凌いでよう
やく興国寺の峰へと押し登った。退き遅れて水に溺死する者も若干であった。信玄はしばしも滞留することができずに、
早々に大宮まで引き退き、もと来た道を経て甲斐へと帰陣した。この時、甚だ狼狽したものか、武田重代の家宝である
八幡大菩薩の旗を取り落とし、北条方に拾い取られたのである。

――『改正三河後風土記』


569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:32:29.35 ID:1kKF9x1m
さる程に、永禄12年(1569)6月17日、信玄は御坂越に人数を出して、御厨通りを桃苑という所まで出張した。
先手の者どもは三島へ乱暴して明神の社壇を打ち破り、戸帳を盗み取る。社殿の中を見ると神鏡だけで本尊がなかった。

諸勢どもは「甲斐国は小国だが、どんな小社でもすべて本尊神体がある。これは甲州は神道が正しいからだ。三島は海
道に聞こえる大社であるのに、どうして本尊がないのだろう。なんだか分からぬ石のようなものがあるが、これが明神
の神体であるのか、その他には何もない。ただ宮ばかりで、尊きこともないではないか。このような神もなき宮に何の
罰があろうか。宝蔵をも打ち破り取ってしまえ」と申した。

その頃、吉田の某は浪人して甲斐国へ下り、信玄の手書をしていた。某はこれを余りに不届きに覚え、信玄へ進み出て、
「そもそも神道は陰陽の根元にして易道の本地であり、形もなく影もないところに神秘があるのです。これは皆神秘で
すから、凡人の及ぶところではありません。浅ましい狼藉でありましょう」と、制止したのだという。

信玄は韮山口まで働き、鳴島辺りに陣を取ったと氏康は聞きなさり、3万7千余騎を引率して駿河に発向した。信玄も
2万5千余騎を引率してしばらく対陣した。19日の晩景より雨が降り出し、箱根山の方から黒雲一叢が立ち来たり、
夜に入ると風は激しく篠を束ねて、降る雨はさながら流れ込むが如し。にわかに大水が起こって陣屋に込み入り、しば
らくの内に腰丈まで浸かり、甲斐勢は我先にと高みに登った。

物音はまったく聞こえず、長いこと震動があった。「これは只事であるはずがない。何れにしても三島明神の御咎めな
のではないか」と心ある者は思ったのだという。

その頃、高国寺城の勢が少ないとして、加勢のために福島治部大輔・山角紀伊守・太田大膳ら数百騎が蓑笠を着て松明
をともし高国寺城へ入った。これを甲斐勢の夜廻りの者が「敵が夜討に寄せて来る!」と告げるや、甲斐勢は騒ぎ立ち、
小屋は倒れて兵糧・雑具・兵具まで流し、甚だ取り乱したのだろう、余りに慌てふためいて武田重代の八幡大菩薩の旗
を波に取られてしまった。

その旗は北条家に取られ、氏康に献上された。「誠に信玄一代の不覚」とぞ聞こえける。その旗を九島伊賀守(福島伊
賀守)に賜り、伊賀守家の奇宝とした。

水は次第に増し、逆巻く水に向かってようやく命を助かり、夜もすがら信玄は甲府に引き返された。氏康も小田原へと
帰陣なさった。

――『小田原北条記』


572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 00:30:39.58 ID:aCvm3RMw
永禄12年(1569)6月19日、武田信玄は河鳴島に陣を取り、北条氏康の軍勢と対峙したが、
洪水にみまわれて敗走し、よほど狼狽したのか武田重代の八幡大菩薩の旗を取り落として、北条方
に拾い取られてしまった。(>>568)

氏康は蒲原城に善徳寺曲輪という大郭を築き、その他に大宮・神田屋敷・興国寺・三枚橋・戸倉・
韮山・新庄・山中・深沢・鷹巣・獅子浜などの城塞に援兵3万余人を配分して籠め置き、自身は小
田原へ帰陣した。かくて北条方では、

「流石の信玄も今回はよほど狼狽したと見えて、重代の旗指物を取り落としてしまった!」

と嘲った。これに信玄方では、

「重代の重器であっても、津波のために流れたものをどうして恥としようか! 津波に流れた兵具を
拾い取って、武功手柄のように高言する笑止さよ! 旗が欲しくば、いくらでも製作して授けるぞ!
武略の優劣は戦場の勝負にあり。天変を頼みにして物を拾うを武功と思う浅ましさよ!」

と誹謗した。北条方はまたこれを聞いて、

「信玄が例の巧言曲辞をもって、その過誤を飾るとは片腹痛い! さる永禄6年2月の上野箕輪城
攻めで、信玄の家人の大熊備前(朝秀)は自分の指物を敵に取られたことを恥じ、敵中に馳せ入っ
てその指物を取り返した。その時に信玄は大いに感心して、『無双の高名比類なし』と感状を与え、
その時から大熊を取り立てて騎馬30騎・足軽75人を預けたのだと聞いている。

しかしながら、家人が指物を取られたのを恥じて取り返したことを賞美して、その家重代の重宝で
ある八幡大菩薩の旗は敵が取っても恥ならずと言うなら、大熊に授けた感状は今からは反故となる。
信玄の虚偽はさらさら証しにはできないな!」

と、双方嘲り罵ってやまなかった。その頃、老練の人々はこれを聞いて、

「信玄が洪水のために重代の重宝を流して敵に拾われたことは、天変であるから信玄の罪にあらず。
『河鳴島が卑湿の地で水害があるだろう』と原隼人(昌胤)が諫めたのを用いずに、その地に駐屯
してこの難にあった事こそ、一方ならぬ不覚である」

と誹謗したのだという。

――『改正三河後風土記』



570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 20:16:27.89 ID:VzBE3OlO
>>568>>569
>3万7千
どっちも共通してるんだな、少しぐらい盛りそうなもんだけど。

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 12:10:41.04 ID:8AG8nNZJ
武田に勝つには倍以上ないと心許ない

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 14:28:39.05 ID:eQrzQF2I
>>572
レスバトルかな?

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 08:45:56.18 ID:0LSUZlgm
見事なレスバトルやな

すべて信玄の作謀

2018年12月29日 17:14

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 19:44:13.74 ID:pBe2OoRD
永禄12年(1569)5月下旬には、遠江一円が神君(徳川家康)に帰順した。かねがね大井川を限りに西は尽く
御領地となさる旨を武田信玄とは堅く盟約されたので、御領地の境を御巡見のため僅かな御供5,6百騎を召し連れ
なさって、榛原郡に赴かれた。

その時、信玄の侍大将・山県三郎兵衛昌景も3千余騎を連れて駿府よりこの辺りに来たり、金谷にて思いがけず行き
違った。昌景は礼をなしてその場を過ぎようとしたが、神君の御供が少ないのを見ると、喧嘩に事を寄せてたちまち
打って掛からんとした。これは内々信玄の密旨を受けており、かねてより虎狼の心を抱いていたからである。神君は
この様子を御覧になって、

「山県は味方が小勢であるのを見て時節よしと思い、かねての約を変じてにわかに備を立て直し、味方を襲い討たん
としている。去年に秋山伯耆守(虎繁)が約を背いて我が国境を犯そうとしたのも、今日の山県の狼藉も、いずれに
しても信玄の偽謀に疑いない。しかしながら味方は僅かの小勢、しかも地の利を得ず。少し引き退いて地利に拠って
戦うべし!」

と仰せになると、兵を5,6町引き退け険路に備えて待ち受けなさった。山県は徳川勢が逃げると思い勝ちに乗じて
暇なく追っ掛けたところ、本多平八郎忠勝が一番に小返りして奮戦した。その手に属する三浦竹蔵・原田弥之助・
桜井庄之助・梶金平(勝忠)・柴田五郎右衛門・大原作之右衛門・木村三七・渡辺半兵衛(真綱)・多門越中・荒川
甚太郎・本多甚六・河合又五郎は同じく進んで槍を入れる。

二番に大須賀五郎左衛門康高と榊原小平太康政が婿舅一手になり、槍を振るい決戦した。両将の手に属す坂部又十郎
(正家)・筧龍之助・久世三四郎(広宣)・筧助太夫(正重)・渥美源五郎(勝吉)・伊藤雁助・清水久三郎・鈴木
角太夫・加藤平次郎も劣るまいと争い進めば、

三番に大久保七郎右衛門忠世・弟の治右衛門忠佐が、また御旗本からは渡辺半蔵(守綱)・服部半蔵(正成)・菅沼
新八郎(定盈)・石川又四郎が馳せ出て槍を合わせ、敵7,8騎をたちまちに突き落とせば、山県はこの戦いに利は
あるまいと知って早々に人数を引き纏め、駿府目指して逃げ去った。

神君は秋山・山県らの狼藉はすべて信玄の姦謀であると御知りになって、これより永く信玄とは誼を断ちなさった。
信玄もこの頃に世上では信玄の姦謀を批難したのでこれを憂い、一旦山県を蟄居させ、その後程なく馬場・小山田ら
が愁訴するからとして山県を許したのであった。これはすべて信玄の作謀の致すところである。

越後の謙信もこれを聞いて「この度、信玄が徳川殿と盟約を変じ、山県をもってその虚に乗じ討たんと計ったことは、
武田家の瑕瑾(名折れ)である」と評したのであった。

(原注:按ずるに応仁以来、諸国割拠の英雄豪傑は少なからず。その中でも、越後の謙信と甲斐の信玄の2人は殊更
胸に六韜三略を明らめ、手に常蛇を制す。兵を用い陣を敷き、城を攻め敵を計る。尽く孫呉と機を同じくせずという
ことなし。天下後世が規則として仰ぐこと泰山北斗の如し。

しかしながら信玄のなすところは、すでに父を追って国を奪い甥を倒して地を掠み、天倫の道は絶えてしまったので
隣国の盟約を背く如きは論ずるに足らず。されどもこの度、盟約は未だ数ヶ月も経ずして山県に密かに計略を含め、
兵の少なきを窺って襲い討たんと計った偽詐姦邪はおのずと国々へ言い伝えて、これより大いに人望を失ったという
のは、そのようになってもっともな事である)

――『改正三河後風土記(武徳大成記・東遷基業)』


薩た峠の戦い

2018年12月09日 19:09

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:37:48.91 ID:wtlDa408
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

頃は正月末つかた、余寒激しく山々の雪は未だ消えやらず、浜風はいたく吹き立てた。軍勢が堪え凌ぎかねて
いるその様を見て、武田信玄は駿府から多くの酒を取り寄せて諸軍に飲ませれば、諸軍勢はこれを飲んで寒気
を忘れ、大いに喜び勇んだ。

その酔心で気力を得て、「いざや一夜討して敵の眠りを覚まさん!」と2千余人が申し合わせ、各々その用意
をして山上に登ってみると、北条勢は寒気に耐えかねて、陣営ごとに焼火で寒気を凌いで座眠りしている者も
いれば、麓に集まりうずくまって縮み伏している者もおり、いずれも油断の有様なれば、武田勢は「これこそ
天の与えなれ!」と喜び、どっと喚き叫んで陣屋陣屋を蹴破り、弓鉄砲その他武具を分捕り、軽く纏めて引き
返した。

北条勢はその声に驚いて「ああっ夜討の入りたるぞ! 太刀よ、物具よ!」と、ひしめく間に寄手は軽く引き
取れば、北条方の将卒どもは、「余りの寒さに油断して大盗人にあった!」と後悔すれども、その甲斐なし。

この後は相互に夜討の用心をして、昼は両陣より50騎か百騎ずつが出て迫り合うのみとなったが、ある日、
武田方より跡部大炊介勝資が、地黄に紺筋の旗1流をさっと差し上げて、その勢3百余人が撞鐘の馬印を押し
立て乗り出した。北条方よりも松田尾張守憲秀が、白地に山道を黒く染め付けている旗を、これも1流を浜風
に翻して、その勢8百余人が打って出た。

互いに掛け合わせて始めの頃は弓鉄砲で射合い撃ち合ったが、後には双方騎兵を入り交ぜて突き合い切り合う
と見えたところで、武田方は小勢のために掛け立てられて2町余り敗走した。

北条方の松田尾張守が士卒に命じて敗走する敵勢を食い止めんと進んで来れば、跡部大炊介は取って返さんと
すれども、備が乱れ立って士卒の足並みはしどろもどろになり返せず、逃げようとすれば松田勢が近くに追っ
掛けて来て、跡部はどうしようもなく見えたところに、武田方より馬場美濃守氏勝(信房)が2百余騎で掛け
向かい、ひしひしと折敷の姿勢を取り、槍衾を作って一面に備えた。松田はこれを見て「今やこれまでぞ!」
と軍士を招いて引き返した。

この時、馬場の属兵・鴟大弐という者は紀州根来の生まれで大剛の兵のため、信玄は常にこれを寵した。この
大弐はこの日衆に抜きんで先頭に進み出て、松田勢を食い止めんと働いたのだが、鉄砲で腰を撃たれて倒れた
のを見た松田勢20騎ほどが、その首を取らんと馳せ集まった。それをこれも馬場の属兵である金丸弥右衛門
(弥左衛門)が、これを見るなり馳せ寄り大身の槍を取り伸べて、近寄る敵7,8人を突き倒し、大弐を引き
立てて味方の陣へ帰ったのである。

大弐は甲斐へ帰国の後に様々に治療し、腰は少し引いたけれども勝頼の時代まで生き長らえて、長篠の戦いで
勇戦した。その時に飯寄惣兵衛と名乗って討死したのは、この大弐であったのだという。

かくて北条と武田は90余日対陣し、4月28日に信玄はついに軍を帰し大地山を越えて甲斐に入った。北条
父子は駿河に入り、ここかしこに隠れていた今川の侍どもを招き集め、その他に小田原勢1万8千人を駿河の
蒲原・三枚橋(原注:今沼津と言う)・興国時・善徳寺・深沢・新庄、また伊豆の戸倉・泉頭・山中・鷹巣・
湯浅などの城々に籠め置いて、小田原へと帰陣した。

――『改正三河後風土記』


550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:45:15.64 ID:wtlDa408
甲斐勢の跡部・栗原(伊豆守か)は3百余騎で押し出すが、松田・富永(政家)の8百余騎に掛け立てられて
立つ足もなく敗北し、薩た山の下へ海際まで追い打ちにされた。剰え松田勢に食い止められ、取って返さんと
すれば備は乱れてしどろもどろとなり、引き退かんとすれば敵が押し掛けて追い詰めた。

跡部・栗原勢は一人も残らず討ち取られると見えたので、馬場美濃守は2百余騎で掛け向かうと、ひたひたと
折り敷いて一面に備えれば、松田勢が妨げられて挫けたところへ、内藤修理(昌豊)が横合に鉄砲を撃ち立て、
松田・富永も叶わず引き返した。

美濃守の同心・鴟大弐という者は大剛の兵で、深く働いて打ち合うも腿を鉄砲で撃ち抜かれて伏してしまった
ところを小田原勢が首を取らんと集まった。それをこれも美濃守の同心・金丸弥左衛門が走り寄って槍で突き
払い、大弐を引き立てて味方の陣に帰った。

しばらくあって敵味方は押し寄せ戦い、引き分かれてはまた寄せ合わせ、火が出るほど戦って両陣は相引きに
引き退いた。その後、信玄は如何に思われたのか、人数を出さず対陣して百騎2百騎の迫り合いのみで虚しく
春を過ごした。

甲斐は隣国ではあるが、大山を越えて通路は難儀なので数月の対陣で兵糧は尽き、4月28日に信玄は高野山
の麓、橘の小島を廻って終夜引き退いた。これによって、氏康父子も帰陣せられた。信玄がすでに今川を追い
落としたにも関わらず、氏康が(駿府を)手に入れたことは、犬の押さえし鶉を鷹に取られ、猟師の網にかか
りし兎を狼に食われたるが如し。

氏真の館を信玄はことごとく焼き払ったので(氏康父子は)久野弾正(宗政)・森川日向守・岡部次郎右衛門
(正綱)・河部大蔵らに御館の普請を言い付け、蒲原の城・大宮・善徳寺・高国寺・三枚橋・戸倉・志師浜・
泉頭に小田原勢を籠められた。

――『小田原北条記』



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/09(日) 16:01:40.91 ID:mbIVt329
>>549-550
両方の記述が一致してると信憑性高くて面白い。専門家はこういう作業ずっとやってるんだろうな。

久能山城

2018年12月03日 21:01

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/03(月) 07:03:54.33 ID:cI3SPXlp
武田信玄は駿府を焼き払わせ自身は久能に在陣した。そのため今川家を亡命した将士どもは降人に出て人質を
献ずる者は日々夜々に絶間なし。信玄は奥津の横山という所に要害を構え、穴山陸奥守信忠入道梅雪をここに
置いて守らせた。奥津に続いている山下という地は梅雪の所領なので、便宜のためにそう定めたのである。

ここにまた今川家の家士に庵原弥兵衛といって小身の者ではあるが、数度の高名比類なき剛の者がいた。特に
山本勘助入道道鬼の第一の弟子である。信玄は弥兵衛を召し出して「小勢で立て籠もり、大敵を引き受けての
防戦が容易な地形はあるか」と尋ねたところ、弥兵衛が申したことには、

「この久能山と申す場所は後ろは山の尾が長く引いて深山に続き、三方は岩石高くそびえて谷深く、そのうえ
用水も乏しくはありません。その中に1つの細道があって羊腸を踏んで雁歯に沿う難路です。秦の函谷、蜀の
剣閣もこれ以上とは覚えませぬ。実に一夫が怒れば三軍の士でさえ押して向かうことはできません。もっとも
要害の名地であります。

この山に城を築いて兵糧を多く蓄え置き、10人の勇士が心を合わせて弓鉄砲を掛け置けば、日本60余州の
総軍勢が残らず押し寄せようとも、容易く落城することはありますまい。

前述のことは先年、山本勘助が浪人して当国(駿河)にいた時に語ったものです」

と弥兵衛が申すと、信玄は大いに喜んで「それならば日を置かずにこの地に城を築かん!」と縄張り地祭りを
執り行い、土木の功が成就すると兵糧や馬の飼料までつぶさに点検して、今福常閑(長閑斎友清)とその子・
丹波(虎孝)に与力40騎を差し添えて、都合3百7十余人をここに籠め置いて守らせ、信玄は一先ず甲斐へ
帰陣したのであった。

また神君(徳川家康)は先年、御異父同母の御弟・松平源三郎康俊と酒井左衛門尉忠次の娘を今川家へ人質に
出されていたが、氏真はかねてよりその家人・三浦与一に預け置いていた。ところがこの度の駿府没落により、
与一も信玄に降参したため、与一は何かしら勤功にしようと思って氏真がかねがね預け置いていた人質を伴い、
甲府へと連れて行った。

これによって信玄は大いに喜び「この人質を我が方に留めて置けば、徳川殿も後々には私めの幕下に属される
ことは必定である!」とその人質を受け取り、甲府で番人に厳重に申し付けて守護させたのである。

――『改正三河後風土記』


甲斐もなき大僧正の官賊が 欲に駿河を追倒す見よ

2018年12月02日 17:56

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 19:16:47.19 ID:OplMdQS/
今川氏真の駿府退去後)

今川氏真の無二の寵臣・三浦右衛門佐(義鎮)は、氏真を伴い砥城の山家に忍んでいたが、朝比奈泰能(泰朝
の誤り)が使者を立てて氏真を遠江掛川城に迎え入れるに及び、右衛門佐も氏真に付き添って掛川へ参らねば
叶い難き身ではあるが、この年来に右衛門佐は氏真の寵に誇って古老武功の輩に無礼を振舞ったため、朝比奈
は右衛門佐を甚だ憎んでいたので、右衛門佐は大いに恐れて氏真と別れて、父・小原肥前守(鎮実)が守って
いる花沢城に入り、父子一緒に武田勢と一戦せんと立て籠った。

長谷川次郎右衛門(正長)は一族21人軍兵3百余人が藤枝の城(徳之一色城)に籠り、他に由比・浅原・
斎藤などの輩も伊具山に備えて一防せんと控えていた。故に信玄は容易には駿府へも入り難く、先手の山県
三郎兵衛(昌景)・馬場美濃守(信房)・小山田右兵衛尉(信成)・小幡上総介(信貞)・真田源太左衛門
(信綱)・同兵部少輔(昌輝)・内藤修理亮(昌豊)などを遣わして、駿府の城を焼かしめた。

折しも烈風が吹いて櫓やその他楼閣は一円に燃え上がり、黒煙は天地をかすめた。今川家数代の間に富貴奢侈
を極めて積み蓄えた財宝・珍器・名物は尽く焼亡し、金銀を散りばめた大廈高楼が一夕の灰燼となった有様は、
姑蘇城一夜の煙や咸陽宮三月の火もこうであったのか、呉越秦楚の古も思いやられて哀れというのも愚かなり。

(原注:『烈祖成積』『東遷基業』などには、信玄が賄賂で招くと留守を預かっている岡部次郎右衛門正綱は
信玄に降参して安部大蔵元真は退去し、後に神君に帰順した。その後に信玄は駿府の城を焼いたとある。

しかしながら翌年5月に神君が氏真と御和睦の後、氏真を駿府に帰任なさしめんと駿府の城を経営された時に、
岡部正綱兄弟にその事を命じられた。岡部がもし信玄に降参したなら、何故氏真のために築き給う城を岡部に
命じられようか。

まったく岡部はこの時までは信玄へ降参せず、氏真の味方であった故にこの普請を仰せ付けられたのであろう。
12年の11月より信玄は駿河に攻め入り、12月再び駿府を攻めた時に岡部はついに信玄に降ったのである。
安部もその時に退去したのであろう。よってここは成積・基業の説を取らない)

信玄は山県三郎兵衛に駿府を守らせ、自身は久能山に陣を取った。如何なる滑稽の者の仕業であろうか、翌月
駿府の焼き跡に一首の狂歌を大札に書いて立てたのである。

「甲斐もなき大僧正の官職を 慾に駿河の甥倒し見よ」
(欲のままに甥から駿河を奪わんとする大僧正の徳の無さを見よ)

信玄と氏真は舅甥の仲であるから、たとえ救援することは無いとしても、信玄は姦謀を巧みにして氏真の家人
どもを貨財をもって誘い、ついに国郡を奪い取ったことを憎まぬ者はいなかった故、このように誹謗したので
あろう。信玄は武門にあって何の故にか比叡山明応院に賄賂を送って大僧正の僧綱に任じ、今また甲斐を領し
ながら駿河を奪って甥・氏真の所領を失わしめた故、諸人はその無道を謗り憎むのも道理と知られたり。

これのみならず信玄が無道というのは、父・信虎を追い出して家国を押領し、罪なき嫡子・太郎義信を殺害し、
諏訪刑部大輔頼重と和睦し、頼重を甲斐へ招き寄せて偽り殺してその国郡を奪い、そのうえ頼重の娘を妾とし、
その腹に勝頼を設けた。

このような暴悪の所行は挙げて数え難し。今川家の重宝である京極黄門定家卿真蹟の古今集を借りて、ついに
返さず、国中の盲人を召し集めて焼き殺すといった類は物の数ではない。老算妙謀古今に比類なく、軍法戦術
は孫呉を彷彿させるといえども、子孫の繁盛は覚束ないと思わぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記』

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 01:14:12.53 ID:7oc/IBR2
武田先手の山県三郎兵衛・馬場美濃守・小山田・小幡・内藤の3千5百余騎は江尻・宇和原まで押し来たる。

駿府の地下町人は申すに及ばず、城中の男女は慌てふためき徒歩裸足で走り出て、どことも知らず迷い行く
のを、情けも知らぬ下部どもがここかしこに乱れ散って衣装を剥ぎ、手に持っている物を奪い取れば、喚き
叫んで悲しむ有様は、哀れというだけでは言い尽くせない。

そうして信玄の手に触る者もなく武田の軍兵は城中へ乱れ入り、今川の館を焼き払った。さしも長年作り磨か
れた大廈の構えが一時に灰燼となってしまったのは、何とも酷いものであった。

翌日に如何なる滑稽の者がしたものか、御館の焼け跡に、

「甲斐もなき大僧正の官賊が 欲に駿河を追(甥)倒す見よ」

と書き立てたのである。末代といえども氏真は信玄の甥であるから、親しき誼を疎んで捨てるまでは良いと
しても、押し倒して国を奪い取ることは無道至極であると眉を顰める人が多かった。

信玄は駿河衆を手に入れ、その人質を取って甲斐へ遣わされた。駿河花沢の城主・小原肥前、同藤枝の城主・
長谷川次郎左衛門、遠江掛川の城主・朝比奈備中守、その他に戸久・一色の城代らは無二の忠臣で、まず氏真
を掛川の城へ迎え入れて、その勢7千余騎は城を堅固に持ち堅め、用心は厳しく見えた。

この度、忠義を忘れて敵に与し、譜代重恩の主君を押し倒す輩はまさに人皮畜生と言えよう。

――『小田原北条記』


氏真はこの事を夢にも知らず

2018年11月26日 17:46

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/25(日) 18:14:09.89 ID:ZB80nPSy
(薩た峠の戦いの時)

永禄11年(1568)11月6日、信玄は3万5千余人を引き連れて甲府を出軍し、下山通を経て由井八幡坂を左に
見なし、長坂を越え宇津総というところへ日数7日で押し付けて松野に陣を取った。信玄にかねがね内通する今川方の

諸将へ「いよいよ忠勤を励むべし。恩賞は望みのままであろう」と申し送った。氏真はこの事を夢にも知らず、信玄が
出軍したと聞き「さらば出向かい蹴散らさん!」と人数を催した。先陣の庵原左馬進忠宗と同安芸守忠胤は2千余騎で

薩た峠を前にして陣を取った。2陣は岡部忠兵衛長宗(土屋貞綱)・小倉内蔵助直次(資久)が7千余騎で八幡に陣を
取る。総大将・今川氏真は2万5千余騎で清見寺に備えていた。今川家一族や旧好の宿将老臣かれこれ21頭は

総じてその勢3万4千余。「股肱金鉄の勇士どもも今日を大事と兜の星を輝かし、具足の袖を連ねて雲霞の如く列して
いるから、今川と武田の雌雄を決する大合戦、さぞやいかめしき事であろう」と敵も味方も固唾を飲んで今日を最期と

思っていた。そこへ信玄方先手の旗の手が見えると、そのまま後陣に備えている今川方の朝比奈兵衛太夫秀盛(信置)
は早々に陣を払い駿府へ逃げ帰った。これを見て瀬名陸奥守親隆(氏俊)とその子・中務大輔氏範(信輝)や三浦与一
義高・葛山備中守氏信(氏元)、ならびに武田陸奥守信虎が駿府で設けた上野介信隆(信友)らを始めとしてかねがね

信玄に内通する侍大将21人の輩が同じく評議したことには「氏真の暗愚ではとても駿河・遠江領国を長く守ることは
できない。ついには織田・徳川両家のために切り取られるよりも、かねがね信玄が所望の如く信玄に授けて、その功を
もって我らは恩賞に郡邑を数多申し受けよう。これこそ家名を失わずに富貴を得る妙計である」と評議一決して各々

駿府へ逃げ入った。数代恩顧の老臣がすでにこの如くなれば、前後に隙間なく居並んでいる諸軍勢は氏真を顧みもせず、
しばらくの間に我も我もと逃げ帰り近辺に人ありとも見えざりけり。先陣の庵原左馬進と同安芸守が後ろを振り返って

見ると、後陣はにわかに群れ立って引き退くかと見えたので「これはいかがしたことぞ! 八幡辺りに控えている味方は
堪えているか見て来い!」と使者を遣わすと、やがて馳せ帰って「この近辺にいた味方の勢は1人も見えません!」と

言った。庵原は聞いて「それではこの勢だけでは武田との合戦は叶わない! ひとまずは駿府へ引き返し、重ねて軍議を
定めて合戦する!」と申し、21人の老臣どもを召し集めたところ各々別心を企てたのかもしくは武田勢に恐れたのか、
一言も存慮を申し出す者もなく途方に暮れた有様であった。

――『改正三河後風土記』



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/25(日) 20:24:40.17 ID:542rKWP7
信玄視点だとまさに戦わずして勝つを体現したいい話かな
氏真視点だと眼も当てられないが

それをくびきる今福浄閑にも

2018年11月23日 21:19

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 23:56:06.49 ID:gS7QotLX
甲州武田家の譜代衆で高位の侍であった今福浄閑は、若い頃より試しものを良く斬る人で、しかも上手であり、
据え物を斬ってその頸が落ちる時、脇差で傷口を貫き、地面に落ちる途中ですくい上げるほどの手練であった。
ためし物の上手であったため、武田家中の侍衆は大身、小身共に浄閑にこれを頼まぬ者はなく、其のようであったので
47,8歳までに千人も斬ったと噂されが、実際にも百人から二百人は斬っただろう。

ところがこの人はどうしたわけか、その子供が幾人も病死していた。しかしながらこの今福浄閑は参学などして
心も才知勝れた人物であったので、下劣な批判に取り合わず、子供が死ぬのも不昧因果(因果をくらまさない)と申し
少しも取り合わなかった。

ある時、信州岩村の法興和尚が来られた時、今村浄閑も彼の元を訪問した。法興和尚は浄閑へこう言った
「そなたは良い歳であるのに、ためし物の罪作りをしているのは勿体無い。」
浄閑は申した
「私が斬っているのは、囚人の科が斬らせているのです。」

法興も「それは尤もである。」と答え、暫く間をおいてこのような事を頼んだ「今福入道よ、この囲炉裏へ
炭を入れてくれないだろうか?」

「畏まって候」そう浄閑が炭を持ってきて囲炉裏へ入れようとすると、和尚は言った
「大きな炭を火箸で入れるのはどうだろうか?名にし負う武田幕下歴々の今福入道なのだから、指で持って
炭を入れてほしい。」

この浄閑と言う人は又、興のある人物で諸芸に達し、能などする時、古保庄太夫などと立ち会っても浄閑の方が
上手であるという程の人であったため、炭をいかにも面白く囲炉裏へ入れた。

そうして彼が立ち退く時、その手を拭った。これを見た和尚が言った「今福入道は、どうして手を拭うのか?」

「今の炭にて汚れたのです。」

「その炭を焼いた炭焼の手も汚れていただろう。」

「炭焼は炭を作り取り出すのですから汚れるのは当然です。今は炭を取った手が汚れたのです。」

これを聞いて法興和尚は
「では先刻、その方のためし物となる人間には科があると言ったが、それをくびきる今福浄閑にも罪があるのではないか?」

この教えにより、今福浄閑はその後、ためし物を斬ることは無くなったという。

(甲陽軍鑑)



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 05:35:26.28 ID:Kw2DX8n0
家に帰ったらまず手洗いうがいの始まりか

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 15:28:47.65 ID:cAkTgeNM
>>523
良い説法だ

快く信玄に遠江を賜るべし。

2018年11月23日 21:19

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 02:56:40.72 ID:/Iaku1z0
義昭将軍が帰洛されたために畿内はようやく静謐の如くなったものの、諸国はますます擾乱して一日片時も静かならず。
その中でも甲斐に武田信玄、越後には長尾謙信、相模に北条氏政、駿河に今川など互いに険要の地に割拠し、各々国境

を争って干戈はまったく止む時なし。今川氏真は昏愚闇弱といえども父・義元の武威は残り、譜代の被官や武功の輩は
多いため駿河・遠江両国を失わず。武田信玄は父の信虎を追い出して家国を奪ったほどの無道人なれば父子の大倫さえ
知らず、ましてや舅甥の情をどうして弁えることだろうか、甥の氏真の家国をも侵略せんと年来謀計を巡らせた。

そこへ父・信虎が駿府を逐電し京都へ赴くとして掛川の満福寺より内通し「今川氏真は昏弱にして譜代古老の輩は怨み
を含み、二心を抱く者がいる」と告げてきた。信玄は大いに喜び、氏真の老臣である瀬名陸奥守(信輝)・葛山備中守

(氏元)・朝比奈兵衛太夫(信置)などといった随一の侍大将どもへ賄賂を贈り交わりを厚くして語らった。その内に
利を求めて欲に耽る輩は甲斐へ内通する者数多あり。その後、信玄は初鹿野伝右衛門(信昌)を駿河へ遣わし氏真方に

申し送ったことには「三河の徳川は父の広忠の時より今川殿の幕下に属して代々恩義を蒙ったが、いつしか大恩を打ち
忘れて尾張の信長に属するのみならず、今川殿所属の城々ここかしこを攻め取って今は遠江へ手を出さんとする形勢

である。その勇威に恐れて、今川家重恩の被官どもは徳川に降参する者も少なからず。只今の如くならば、近年の内に
遠江を徳川に攻め取られるのは眼前である。さりとて、いまの今川殿の弓矢をもって徳川に敵することも覚束ない。

座しながら徳川に遠江を取られて他家の所領とされるよりは、快く信玄に遠江を賜るべし。そうすれば信玄は遠江を
手に入れて日を置かずに大軍を発し、三河を攻め取って今川殿の怨みを報じよう」とのことであった。氏真は聞いて

大いに憤り、使者の伝右衛門を呼び出すと「信玄の遠江所望はまったく心得られず! その身は奸智貪欲にして、甥の
氏真の所領を奪わんがために巧言をもって欺くとは親戚の道に背いている! 遠江を徳川に渡すことはかねがね氏真が

覚悟するところだ! 信玄の奸計など無駄である! 汝は帰ってこの旨よくよく入道に申し伝えよ!」と返答して、
早々に伝右衛門を追い返した。信玄はこの返答を聞いて大いに怒って「氏真のような乳臭の小児が、なんと無礼の

甚だしいことか! それならば徳川と和睦し、後ろを心安くして駿府を攻め取らん!」と、やがて山県三郎兵衛昌景を
岡崎に遣わし「今より後は両家長く誼を通じて大井川を境とし、遠江は徳川殿の御手柄次第に切り取り給うべし」と
申し送った。神君も、もっともであると御同意の御返答をされた。

――『改正三河後風土記』



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 10:09:32.49 ID:GJCxuqZg
氏真の低評価ぶりが酷い

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 15:26:00.44 ID:cAkTgeNM
>>463
>徳川に遠江を取られて他家の所領とされるよりは、快く信玄に遠江を賜るべし
無茶苦茶な要求過ぎて草

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 15:42:23.83 ID:UlX5qNJK
領土野心ないならいい条件だと思うけどな
徳川からの防波堤になってくれる申し出
断るのはアホでしょ

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/24(土) 01:26:15.31 ID:3nUGGM6I
どうみても遠江だけでは済みません本当に(ry
まぁ戦国時代なんて力の強い奴は無茶な要求してくる訳で
それが嫌なら力を持つか降参するかって話だな

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/24(土) 11:57:34.49 ID:p8OrvtZN
信玄「わしは海が見たかっただけなんじゃ…」

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/24(土) 12:39:41.80 ID:g58iGVCm
>>463
ハルノブ・ノート

武田総敗軍

2018年11月05日 17:39

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 00:55:12.56 ID:xOwWXg/m
(長篠の戦いの時)

徳川勢先隊の大須賀五郎左衛門(康高)・榊原小平太(康政)・本多平八郎(忠勝)・平岩七之助
(親吉)・鳥居彦右衛門(元忠)・石川伯耆守(数正)の諸将は自身で槍を振るって竹広の方より
まっしぐらに諸勢に抜きん出て突いて掛かる。武田方も和田・安中以下がこれを迎えて突戦する。

勝頼も本陣を進めれば、前備の望月右近・後備の武田左衛門信光も今日を最期と思い切って働き、
ここで本多作左衛門重次は7ヶ所まで手傷を蒙って右の眼を切られた。本多甚九郎・土屋次左衛門

を始め討死の味方も数多なり。敵も味方も討ちつ討たれつ手負い死人数を知らず。大須賀の属兵の
久世三四郎(広宣)・坂部又十郎・筧助太夫・同龍之助・伊藤雁助・浅井九郎左衛門・鷲田伝八・
柘植又十郎・鈴木角太夫・浅原孫七郎・松平助左衛門、その中でも渥美源五郎勝吉は生年19歳の

初陣なり。父に劣らぬ剛勇で敵の首若干を討ち取る。後々も高名を挙げて数え難し。“首取源五”
と異名を取ったのはこの勝吉のことなりけり。榊原の属兵では村上弥右衛門・富田三右衛門・伊藤
弥三・伊奈源左衛門・榊原仁兵衛・鈴木半兵衛も同じく奮戦して伊奈は討死した。

典厩(武田信豊)の勢1千余は返し合わせ返し合わせ突戦すれど、ついに徳川勢に切り立てられて
引き退いた。この時、信長卿の下知あって総軍一同に鬨を揚げて勇み進み追討すれば、勝頼もどう
しようもなく武田勢は総敗軍となり、鳳来寺の方へ敗走した。橋辺という所に至り大軍に追い掛け

られ、滝川に落ちて溺死する者もまた多し。真田源太左衛門信綱は渡辺半十郎政綱に討たれ、典厩
の弟・望月甚八郎信益(信永)は鳥居彦右衛門の同心・永田蘇父助に討たれた。

望月右近は永田澄之助に討たれて、堀無手右衛門は渡辺忠右衛門と小栗又一(忠政)両人がともに
討ち、興津十郎兵衛は高力権左衛門(政長)が討ち取った。その他に河窪兵庫助信実・下曽根源六

政利と弟の源七政秋・同弥右衛門政基・横田十郎兵衛忠重・油川宮内顕則・同左馬允顕重・高坂
又八郎助宣・甘利藤蔵吉利・杉原日向正之・土屋備前直親・高林恵光寺・岩手左馬助胤秀・原隼人

胤長(昌胤)・小山田五郎兵衛昌晟・高力源五郎昌宣・根津甚平伊広・真田兵部幸連(昌輝)・
安中左近広隆(景繁)・馬場彦五郎勝行・米倉丹後正継らは思い思いに奮戦して討死した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』


山県さんによると、鉄砲は

2018年11月05日 16:44

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 09:10:20.96 ID:oem912mZ
武田家臣の山県(昌景)の言葉に

「武芸の四門とは、弓、鉄砲、兵法、馬の事である。大身小身によらず、この四つを習い
自余の事を稽古すれば、物を読み、物をよく書き習い、その後乱舞など習うのも尤もである。

而してこの四つの内、先馬、ニ兵法、三弓、四鉄砲とする。
馬は代わりを立てて人を頼むことは出来ない。
剣術、斬り合いも代わりの立てられぬ技である。

弓は古来より武士の家に備わっているもので、系図侍(代々の由緒ある武士)の如く、
出仕の侍(新規召し抱えの武士)は鉄砲である。

ただし鉄砲は、甚だしくわざありと雖も、魔がその焔を恐れおののくことは少ない。
弓は鉄砲に比べて激しくはないが、狐に憑かれた者、一切の不審ある事に、鳴弦などという事があり、
武士の奥意は弓の腕前が噂になることだ。」

と云ったという。

(士談)

山県さんによると、鉄砲は弓に比べて退魔などのマジックアイテムとしていまいち。



472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 10:26:43.04 ID:qKLJ14SM
畿内と違って運用方法を見出せなかった山侍の性

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 12:39:05.35 ID:g89IJWyC
性といえば宣教師驚愕の運用をしていた熊さん

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:09:59.19 ID:o4eMMqdY
くまモンさいつよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:13:18.61 ID:tFQzX33S
乱舞を習うのか…

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:54:44.04 ID:ozHexokv
>>471
面白い視点だ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 17:32:54.51 ID:24fLrZPo
単純に弾と火薬が手に入らなくて滅多なことじゃ使えないってだけだろ

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 17:59:08.81 ID:5qavs+R5
米倉さんと比べて古い頭よのぉ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 19:44:18.41 ID:pvjqcEwo
島津流弓霊術「つるがね」

さすが信玄の遺烈かな

2018年11月02日 20:26

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 14:41:24.53 ID:9OUQeKKj
(長篠の戦い敗戦後)

ここに越後の押さえとして信玄時代より信濃海津城を守っている高坂弾正昌信(原注:一説に虎綱)は
さる老剛の宿将なり。3年以前に信玄が死去した時から勝頼は血気の勇にはやり必ずこのような大敗を

引き出すだろうと推察し、青貝の持槍に小熊の垂れの槍印20本、亀甲の槍2本、槍持の陣羽織までも
緞子で作って用意していた。高坂は長篠大敗の風説を聞くと等しく城には雨宮・小諸・寺尾・小田切・

屋代らを残し置いて自身は手勢8千余騎を従えて、かねてより用意していた長柄の槍などを引き具して
駒場(原注:一説に小満場)まで出迎えて勝頼を警衛し、見苦しくないように旗本備を取り繕った。
そうして勝頼を甲斐へ帰陣させた高坂の老功は「さすが信玄の遺烈かな」と感心しない者はいなかった。

今回、武田家で鬼神の如く呼ばれた老功武勇の将卒は馬場・山県・内藤・土屋・原・真田を始めとして
数を尽くして討死したため、これより武田家の武威は大いに劣ってしまった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』




442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 17:16:34.46 ID:UO7P84D4
このあと古者がいなくなったから若者を起用して見事な再編成をやってのけるんだっけ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 18:11:39.40 ID:/0+6zNZ4
若いイメージがあったけど、真田の兄弟も30代か

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:02:18.33 ID:Fv7735ki
>>443
嫡男いたのに、なぜか養子に出ていた武藤喜兵衛が出戻って家督を継ぐことに

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:08:01.35 ID:9eOVVS3q
流石にまだ家督継いでバリバリ活動するには早いし…
平時ならともかく情勢が厳しい武田家では真田家が活動力低下するのは困るし
もともと昌幸の器量が傑出してたから腐らせないように別家を立てた訳で
真田家を継ぐならそれはそれで武田家としては問題無いし

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:16:33.91 ID:x5p+lKo9
>>442
徳川に合流した旧武田家臣は強かったの?

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:24:26.53 ID:TNsgMF27
>>444
娘以外全員幼少だったんだよ、きっと…

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 22:44:08.25 ID:lOaOtw/w
>>446
信玄の眼といわれた曽根内匠がいる

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:46:38.44 ID:HhKi4wnv
>>446
依田、城、庵原、曲淵あたりかな活躍したのは

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 05:35:24.91 ID:IcnH0ZmW
依田さんもちっと長生きしてればな

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 10:10:51.44 ID:VYjY1n+E
>>444
御屋形様の命ですが?

内藤昌豊の討死

2018年10月28日 17:57

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 13:41:07.22 ID:NONzLHXT
(長篠の戦いの時)

山県昌景の進軍を契機に続々進軍した武田勢であったが、いずれも織田・徳川両勢に柵内から鉄砲を
撃ち掛けられ多くの死傷者を出し苦戦した。勝頼本陣中軍の先手・内藤修理昌豊の1千余騎は先駆け

し、逍遙軒信綱(武田信廉)らも続いたが皆鉄砲に当たって引き退いた。この勢いに乗じ柵外に出た
佐久間信盛と滝川一益だったが、佐久間は手勢を立て直した馬場信房によって柵内に追いやられた。

白地に黒い山道の旗を押し立てる内藤はその後へ引き返し、滝川の3千余騎の勢の中へ突いて入り、
滝川勢は散々に突き立てられて、柵内へ逃げ入った。この様子を御覧になった信長卿は柴田修理亮

(勝家)・丹羽五郎左衛門(長秀)・木下藤吉郎(羽柴秀吉)に命じられ、この3人が千5百余騎で
森長村の方から横に打って掛かった。内藤はこれを見て馬の鼻を立て直し、白地に胴赤の旗と御幣の
馬印を真っ先に進めて打って掛かった。

(中略。山県昌景が柴田らを撃退するも討死)

勝頼も歯噛みをなして命じ、勢を進めて掛かったが激しい戦闘となり、典厩(武田信豊)・逍遙軒を
始めとして原隼人(昌胤)・小幡上総・小山田兵衛・望月甚八郎・安中左近・甘利三郎五郎らが諸軍
を進めて打って掛かった。こちらでは織田方において佐々内蔵助(成政)が、「内藤修理の備は浮き
立って見えます。一攻めに攻めては如何でしょう?」と申した。信長卿は「もっともだ」と許し給う。

(中略。その時、早くも徳川勢と武田勢が激突し互いに死傷者を出す。武田信豊が切り立てられ引き
退くと、信長は総攻撃を命じて武田勢総敗軍となり勝頼は敗走、武田諸将討死)

内藤は「今や討死の時至れり」と残兵百余人を選りすぐって半途より引き返し、徳川家御本陣目掛け
打って掛かった。これは御大将(家康)と直の勝負を決せんとする心と察した本多平八郎忠勝が

蜻蛉切の槍を振るって内藤と御本陣を懸け隔てて戦えば、榊原小平太康政・大須賀五郎左衛門康高も
中を破られまいと弓鉄砲の足軽を先に立て、射立て撃ち立て決戦した。内藤は手勢を皆討たれ自身も

鎧に立つ矢は蓑毛の如く。「流石は信玄の家で随一の勇士」と呼ばれた内藤が死狂い獅子奮迅の怒り
をなせば近寄り難く見えたところに、流れ矢1つが飛んで来た。内藤はこれに当たり馬からたまらず

落ちたものの、また起き上がって槍を押っ取り敵を突こうとするところを、朝比奈弥太郎泰勝が槍を
付けてその首を取った。泰勝はこの高名により徳川家の御家来に召し加えられたという。

(原注:泰勝は今川氏真の臣で、氏真より御見舞いの使者に来たり御陣にいたともいい、または元は
今川の家人で、この頃は小田原の北条家に仕えており、北条氏政から御見舞いの使者に来たともいう。
また氏真もこの時、信長とともにここに来た事が手記に見えているともいう)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



私は武田家の古老、馬場美濃なるぞ

2018年10月28日 17:56

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/28(日) 02:59:35.21 ID:jQCsznEq
(長篠の戦いの時)

山県昌景の先頭に続き武田勢は攻め掛かるが、鉄砲の激しさに堪えかね引き退く。武田右備の先手・
馬場美濃守信房の一隊は魚鱗に備えて金鼓を鳴らし、寒防山の麓より信長卿の本陣に押し寄せ、

喚き叫んで柵二重まで破らんとした。織田方は少しも取り合わず佐々内蔵助(成政)・前田又左衛門
(利家)・福富平左衛門(秀勝)・野々村三十郎(正成)らが命じ3千挺の鉄砲で段々に撃ち立て、
寄手の走り寄る者は撃ち倒され撃ち落とされ、ここでも人塚を築いた。

(中略。武田勢苦戦。土屋昌続討死、武田信廉・跡部勝資勢裏崩れして敗走)

この勢いに乗じて織田方の滝川左近将監(一益)と佐久間右衛門(信盛)は柵外に出張した。神君は
これを御覧になって「かねがねの軍令の如く早々に柵内へ引き入るべし!」と御使者を遣わされたが、
両人はこれを用いず、信長卿からも使者を立てられてこれを制し給う。その間に馬場は敗れた手勢を
立て直し、佐久間勢を追い崩して40余人の首を切り、佐久間勢を柵内へ追い入れた。

(中略。織田・徳川勢の総攻撃により武田勢総敗軍。内藤昌豊ら諸将討死)

ここにおいて小幡上総信貞・小幡備前貞員・河窪備前・小山田十郎兵衛国次らは、皆勝頼を落ち延ば
さんがため踏み止まり踏み止まり、勇猛の働きをして死んだ。穴山梅雪の一隊は後をも見ず寒防ヶ嶺

を目指して逃げ行くと、一条(信龍)の一隊も散々に打ちなされて敗走した。三河・遠江の勢は勝頼
を討ち止めて高名にせんと喚き叫んで追っ掛ける。馬場美濃は討ち残された手勢20騎ほどをまとめ、

勝頼本陣の大文字の小旗の影が見えなくなったので馬を引き直して、長篠の城際まで取って返した。
馬場のその日の出で立ちは卯花威の具足に錆色の星兜に鍬形を打ったものを着なし、

朱に染まった(血まみれになった)月毛の馬には白覆輪の黒鞍が置かれていた。これに乗って白旄を
胸板の鐶に差し、槍は馬の平首に持ち添え敵に向かって「私は武田家の古老、馬場美濃なるぞ!

各々は私を討ち取って高名にせよ!」と大声で呼ばわり、槍を振るって敵4,5騎を突き落とした。
その後は刀に手もかけずに、塙九郎左衛門直政(原田直政)の郎等・川井三十郎のために自身の首を
授けた。時に62歳。馬場が勝頼に今回の合戦御無用なりと諫めた時、跡部・長坂の両人に向かって

「合戦を勧められる方々は逃げられようとも、諫める某は討死する」と申した言葉を守って、退けば
退けたものをこのように踏み止まって討死せるこそ哀れなれと惜しまぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



あれこそ山県である

2018年10月26日 17:22

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 13:28:58.92 ID:gqs82Hyy
(長篠の戦いの時)

大久保兄弟(忠世・忠佐)はこの輩(成瀬正一ら)と一同に柵より外に進み出て、武田の先手・侍大将の
山県三郎兵衛昌景の備に向かい鉄砲を撃ち掛ける。山県も始めの頃は軽卒を出し足軽迫り合いをしていた

が、次第に欺き引かれて堪えかね「あの柵を尽く押し破って進め!」と3千の赤備が一同に押し掛かった。
大久保兄弟は命じて思うままに山県勢を引き寄せ、3百余挺の鉄砲を隙間なく撃たせれば、先頭に進んだ

山県勢は散々に撃ち立てられた。その時、大久保兄弟・渡辺半十郎政綱・同弥之助・光池水之助らは山県
の属兵の広瀬郷右衛門昌房・小菅五郎兵衛元成・三科伝右衛門形幸といった名を知られた者どもと挑み

戦う。広瀬・小菅・三科も言葉を掛けて姓名を名乗り、馬上で突き戦8,9度に及び手負いて引き退けば
半十郎や水之助らは高名をなした。山県はそれには目もくれず3千余騎を手に付けて筋違いに織田勢・

佐久間右衛門信盛の柵を駆け破らんと押し掛かる。そこで信長卿は命じられて柵中より鉄砲を激しく撃ち
立てれば、山県勢はここに人塚を作る程に撃ち殺されたので、山県も堪えかねて引き退いた。

(中略。武田勢は鉄砲に苦戦するも、馬場信房・内藤昌豊が佐久間信盛・滝川一益を柵内に追い、信長は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉に命じて横から武田勢を攻撃させ、内藤がこれを迎撃する)

この時、山県は小山田・甘利らとともに撃ち残された勢を立て直して、柴田・丹羽・木下の勢を横合から
まっしぐらに打って掛かれば、柴田・丹羽・木下の人数は散々に突き立てられて敗走した。山県はこれを

追い打ちするかと見えたが、そうはせずにたちまち備を立て直して、徳川家の御本陣に打って掛かった。
御陣からは鉄砲を激しく撃ち立てれば、山県勢はまた撃ち殺される者若干なり。山県は白糸威の具足に

金の大鍬形を打った兜を身に着け、味方が討たれるのをものともせず、なおなお馬を進めたところ、本多
平八郎(忠勝)が「あれこそ山県である!」と命ずれば、筒先は山県に向かって放たれた。その弾が

飛んで来て山県の緩い糸の間から当たったため、山県は持っている采配を口に咥えて両手で鞍の前輪を
抑えてしばらく堪えていたのだが、ついにたまらず馬から真っ逆様に落ちた。味方がその首を取らんと
駆け集まるのを山県の従兵・志村又右衛門が敵に首を渡すまじと駆け寄り、その首を切って引き返した。

(原注:山県を撃ったのは大坂新助という者であると『勇士一言集』に見える)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:06:25.04 ID:8I+DB0d/
>>365
敵に首を渡したくないから切腹した後に…ってのは解るが、戦場で戦闘の真っ最中にもやるのか(困惑

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 00:18:52.69 ID:5EgtKHTm
>>368
討ち死にした大将の首を敵に渡せば敵の手柄となり、士気を挙げる材料とされる。
+ 首だけでも持って帰って供養しなければならない。

戦国時代どころか、戊辰戦争までやってた、当然のこと。

名高き兜を敵に取られては如何なものか

2018年10月25日 21:27

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 21:31:02.64 ID:64ZiG2JZ
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は自分の名が記されている武田信豊の母衣絹を初鹿野伝右衛門信昌に取って来させ、小松ヶ瀬で
馬を止めて待っていた。初鹿野が戻ったところで三河・遠江勢はこれを大将と見て雲霞の如く追い掛かる。

勝頼は引き退こうとすれども、馬は疲れて進めない。笠井肥後守高利(原注:四戦紀聞では河西肥後守
満秀とする)がこれを見て馳せ付け馬から飛び降り、勝頼に「これに御乗り下され!」と申せば、

勝頼は「それでは其の方は討たれる!」と申した。その時、肥後守は「命は義によって軽し! 私は主君
に代わって討死します!」と勝頼を自分の馬に乗せ、自身は勝頼の馬の手綱を取って押し戴くと、

その疲れ馬に乗って轡を引き返し、「元弘建武の乱で新田義貞の命に代わって討死した小山田太郎高家が
12代の子孫、笠井肥後守高利! 今日先祖の跡を穢さず主君に代わり討死するぞ!」と追い来る敵を

2騎突き落とし、3騎目にあたる敵と引き組み刺し違えて討死した。これより後は、追う兵も少なくなく
なったので勝頼は静かに落ちて行ったところで、1日の暑気に倦み疲れて信玄より譲られた

『諏訪法性上下大明神』と前立に記してある秘蔵の兜を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせたが、伝右衛門も
疲れたので殆ど持ちあぐね、勝頼に断ってその兜を道に捨てた。ところが、その後から来た小山田弥助が

これを見て「名高き兜を敵に取られては如何なものか」と拾い来たり、勝頼に追い付いて捧げた。勝頼は
大いに喜び再びこれを着け菅沼刑部(定忠)の居城に立ち寄り、しばし梅酸で渇きを休めまた乗り出した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 10:14:04.87 ID:vu86f/YA
名乗り上げちゃったら身代わりの意味ねえな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 11:14:01.47 ID:Vl28NzIX
身代わりじゃなくって殿でしょ?

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 13:18:13.39 ID:9d1JBdE/
>>360
秘蔵の兜を捨てるほど疲れるってのがもう

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 00:09:24.10 ID:/rskxWzu
まぁ兜も結構重いからな
信玄より譲られた秘蔵の兜って言うからには結構古そうで
当世具足みたいに軽量化とかあまり意識されてなさそうだし
逃走中って事は兜の一部なり結び緒なりつかんで持ってたんじゃ
なおさら重く感じて捨てたくなるのも判らんでもない

「流石に猛将かな」

2018年10月24日 18:18

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 04:42:32.22 ID:9BSVOAEC
(長篠の戦いの時)

また典厩信豊(武田信豊)は度々敵と決戦し勇を振るったが、味方は総敗軍となったので手の者どもも
あるいは討たれあるいは落ち失せて相従う者はわずかに3騎となった。典厩は小桜を黄に染め直した

鎧に龍頭の兜を身に着け、紺地に金泥で経文を書いた母衣を掛けていた。この母衣は信玄の遺言で勝頼
から典厩に譲ったものである。勝頼は土屋惣藏昌恒・初鹿野伝右衛門信昌のただ2騎を従え長篠を落ち

延び三河黒瀬の小松ヶ瀬を渡ろうと思い馬を抑えると、伝右衛門を呼んで「私が典厩に譲った母衣絹の
裏書には『四郎勝頼』という名を記しておいた。もしやこの母衣が敵のために奪われては勝頼の恥辱と

思うのである。汝は後を引き返し典厩にこの事を告げて、母衣を受け取って戻れ」とのことであった。
伝右衛門は「畏まり候」と申して引き返し、典厩に会ってこの事を申した。典厩はこれを聞いて

「某も左様に存じたので先刻母衣を押したたみ、青木尾張守信時に渡しておいた」と申してやがて青木
を呼んだ。その母衣の絹を取って、初鹿野へ渡そうとした典厩の言い様は、「信豊の父・左馬助信繁は

信濃川中島の戦いで信玄のために御身代わりとして忠死した。信豊も出来る限り父・信繁に劣るまいと
数年の干戈の間に粉骨砕身するところをいつの頃にか勝頼に見落とされ、信玄の御遺言で賜った母衣を

戦場で取り返されるとは身の恥、家の恥。口惜しく存ずる」と申した。初鹿野が馳せ戻り云々と申すと、
勝頼は典厩の言葉も耳に入らない様子で、その母衣を取って腰に挟んだ。初鹿野が往来する間に、

勝頼がゆるゆると馬を止めて待っていたのは、「流石に猛将かな」と敵味方ともにこれを感心した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 06:57:36.06 ID:pvYF8ZJA
お坊ちゃんの戯言はスルーの勝頼くん

多田新蔵のこと(改正三河後風土記ver)

2018年10月23日 17:17

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 05:08:14.63 ID:eTfwBn7W
(長篠の戦いの時)

本多平八郎(忠勝)は猶も厳しく武田勝頼を追って行くと、岡の辺りの松を盾に取って矢を放つ
敵がいた。本多の郎等・多門伝十郎と蜂須賀彦助は馳せ向かったが、彦助は敵を1人討ち取って

討死し、伝十郎は手傷を負って敵を追い散らした。また味方の軽卒らが1人の敵を生け捕ったが、
雑人かと思って着ている衣類を剥ぎ取って見れば、緋緞子の下帯を身に着けていた。さては只者

ではないなと姓名を問うと多田淡路守満頼の子・三八(新蔵か)であった。信長卿はこれを聞き
なさって、「それでは伯父の葬送の時に火車を切った勇士であるな。私が召し仕おう」と仰り、

長谷川竹丸(秀一)に命じその縄を解かれると、三八はその縄を引き切って近辺にいる者の槍を
押っ取りその辺りに群居する者4,5人を突き殺した。よって竹丸は槍を取って三八を突き倒し、

その首を取って信長卿の御覧に備えた。およそ今日の合戦は卯の刻の始めに押し出し、午の刻の
終わりに武田方は総敗軍とぞなりにける。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 14:38:18.02 ID:+GgA7et2
>>354
この時のぶな画を討ち取ってれば…。