○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

2017年08月14日 16:42

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 14:19:58.49 ID:O+XKGCMe
○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

吉村源斎の居た址で、木曽川の碧潭に臨んでいる。

天然の巌窟をなし、方9尺余り、その後方に更に一大の巖が河上に突出している。
そこは平坦で方5間余りある。現今もなお、焼米および陶器の破片等を掘り出す。

伝えに曰く、源斎は初めの名を吉村太郎左衛門氏勝といい、智謀優れ、かつ頗る
剛力の人であった。源斎はこの地に住んで付近の原野を開拓し、糧食を蓄えて
ひとえに時世を窺っていた。

武田信玄はその名を聞いて源斎を招いたが、源斎は応じなかった。そこで信玄は
兵を寄こしてその居を焼き、源斎を殺したという。

――『恵那郡史』


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妻子を引き取る

2017年07月31日 12:09

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:23:38.85 ID:zeMg4GZe
穴山梅雪は駿河国江尻に、曽根内匠と共に番手にあり、徳川家康に対し内通を申し出ていたが、
梅雪の妻子は人質として甲府にあり、これを引き払うことは難しく、殊にその頃は武田勝頼も梅雪を疑い始めていた。

そこで梅雪は密かに、徳川家康に内通を打診して、『返り忠仕るべし』との書状を持つ使節が来たのを、たちまちに誅殺した。
そしてその書状、並びにその頸を勝頼に見せた。
勝頼はこの計略に謀れ、梅雪を疑う心を和らげた。これにより梅雪は、妻子を引き取ることが可能になったという。

(士談)



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:27:55.27 ID:kaq0+LQg
妻子のために家康の使者を殺しておきながら家康に降るのか
のちに梅雪だけ死ぬのも仕方ないな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:54:53.00 ID:RR+3UwN9
曽根内匠といえば信玄の両眼の1人だけど
こっちは内通してなかったんだろうか

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 11:02:37.61 ID:9PztAVDP
>>26
義信派だったらしいし徳川に無抵抗で降りてるから内通あったっぽい

武士の作法

2017年07月30日 19:08

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/30(日) 16:42:29.39 ID:GEqodZar
武田信玄の時代、武田家の武士の常々の慣習として、、道において、一人は騎馬、もしくは足駄(雨天用の
高下駄)履いていて、もう一人が歩行で行き会う場合、その両人がたとえ仲が悪くても、歩行の者が
物陰に隠れるのが当然とされた。そして騎馬、もしくは足駄の者は遠くで地面に降りて時候の挨拶をする。

先に歩行の者が物陰に隠れたのは、馬から降ろないでおこうという思いやりであり、武士としての
礼儀である。このように人が礼をしたというのに、これに挨拶を返さないのは非義というものである。
また用心のためにも、騎馬のものは降り足駄を履いていれば脱ぐのは、良き武士の作法である。

しかし馬に乗ったまま通るのなら、降ろすことは無用である。それは相手が武士の作法を知らぬ女侍なのだ。
逆に徒歩の者が傲慢で「降りよ!」などと言い掛けて来るのなら、それは降りる必要はない。
降りるくらいなら相手を討ち果たすべきだ。

もし又、親兄弟の敵のある者が徒歩で通る時、狙われる人が騎馬で行き会った場合、
狙われている者は「御使に参る!御免候へ!」と、嘘を慇懃に言って乗り通れ。
こうすれば狙う人も討たないことが不覚にならず、騎馬のまま退けば追いつかれることもない。

(士談)



『天上天下唯我独尊』の旗

2017年07月20日 21:25

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 23:02:45.18 ID:UmjAh2kJ
武田信玄の軍旗は6つあり、その一つに書して曰く

『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』

この旗は川中島の戦いの時に初めて用いられたと言われる。
後に、三方ヶ原の戦いで大勝を得、新たに加えられた旗には

『天上天下唯我独尊』

の八文字が描かれたという。
凡その物、未だ満ちて欠けない物はない。これは聖人の明戒である。
信玄が加えたこの八文字は、満もまた極まっている、これ覆亡の兆しならずや。
天正元年3月、さらにこの旗を立てて野田城を攻め、たまたま銃弾に傷つき、4月、ついに没した。

(随意録)


信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に

2017年07月20日 21:24

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 11:40:47.67 ID:K/Okvhdd
>>6
信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、
都のキリシタンがはなはだ懸念しているように我らは今後の迫害に備えておく必要がある。
ただ、もしデウスが我らに見方し給うならば、
神の恩寵と御助力によりこの悪魔の怒りがほとばしるのを予期するのはたやすいことであろう。
信玄が遠江と三河の国に来襲する前、面白い事があった。
それは彼が信長に書状をしたためた時、まったくの傲慢さから己の名を高めようと、書状の封筒に己が名を次のように記したことであった。
すなわち、テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と。
これは天台宗の教えの家の最高位者にして修道者なる信玄を意味する。
これに対して信長は、ダイロク・テンノマオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、すなわち諸宗派に反対する悪魔の王と答えた。
というのも、ダイバ(提婆)が釈迦の宣教を妨げたように、信長もまた今まで日本の全ての偶像に対する崇敬を妨げたからである。
それ故、私は彼が我らの主なるデウスの正義の鞭のように当地の諸宗派の悪しき迷信を罰するため、
かつての繁栄を取り戻すことを神の御慈悲において信じている。
しかして今や異教徒たちは、彼の勝利がこの度かくも急転したのは
比叡山や観音に捧げられた寺院を焼き払うという無謀な所行に対する神仏の罰以外の何ものでもないと言ってはばからない。
だが、信長はこれをことごとく一笑に付し、日本においては彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている。


1573年4月20日付ルイス・フロイス書簡より



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 17:38:21.91 ID:raQOLju8
提婆達多の提婆(デーヴァ、神)と
ゾロアスター教の悪神ダエーワと
ラテン語のデウスは同語源
デウスが提婆達多と同様、仏教打倒という魔の所業をしても不思議ではないな

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 19:23:30.87 ID:XOH91jah
にしても、信玄はやっぱり上洛の意図があり、実現の可能性は高いと思われていたのか。

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 19:51:10.51 ID:e2dWouAG
>>9
そう宣伝してたってこととそういう噂が流れてたってことは事実だろうね
ただしこの時フロイスが記した包囲網側侵攻の噂は義昭以外全部ハッタリだったけど

花澤城の鯨波の声

2017年07月10日 17:40

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/10(月) 13:41:31.93 ID:FFhxfwX+
永禄13年、駿河花澤城を武田信玄が攻めた時、武田方の落合治部が討ち死にした。
その頸を敵は取ろうとし、一方治部の弟である左平次は兄の死骸を戦場から退けようとして、
このため敵味方入り乱れての競り合いとなった。

この時、信玄の旗本衆は高台よりこの様子を見て、旗本の総攻めのように、一斉に鯨波の声を上げた。
これを聞いて敵の兵は皆、旗本衆の攻撃があると考え城に入り、左平次は無事、兄の死骸を
退けたという。

(士談)



89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 19:44:28.37 ID:3R43EUyZ
>>87
前にも「鬨の声と言えば」ていうので出典不明で出ていた

ついでにこの漫画ではなぜか上杉との戦いってことになってる
ttp://i.imgur.com/yLfJKkM.jpg
yLfJKkM.jpg

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:10:38.34 ID:3vZPBYkw
>>89
この頃の民明書房の真実味は異常

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:23:03.03 ID:/jTE09E/
真田信幸も岩櫃城に家族と避難するときに鬨の声をあげて
盗賊や乱波たちを追っ払ってたっけ
加沢記だから信憑性怪しいだろうけど

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:29:38.91 ID:oXS0/r1j
信長は稲生で林の手勢に囲まれたときに、大声でわめいて相手を追い散らしたね

「武田の弓矢は今、頂上に登った」

2017年05月15日 12:09

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 09:52:56.00 ID:LUvPc2Sq
武田信玄が北条と、駿河国薩タ山で対陣した。
正月18日より4月20日までの、93日間の対陣であり、その間日夜競り合いがあった。

武田軍は一番より十番まで、一手切りに足軽を配備していたが、跡部大炊介(勝資)がこの番に
当たっていた日、北条軍の松田の兵に押し立てられ、二町ばかり敗北し、さらにその場に押し留まった。

このため武田信玄は馬場美濃(信春)に対処を命じた。
しかしこの時、馬場の兵は僅かに百騎あまりであり、跡部の三百ばかりの救援には如何かとあって、
彼はこの役割を内藤修理亮(昌豊)に譲ろうとした。しかし内藤は
「あのように気負った敵に対するのは、馬場ならではである」
そう言って辞退したため、結局馬場がこれを請けて現場へと向かった。

現場に向かうに先立って、馬場は「大炊介は早々に引き取るように命じてください」と望み、
信玄は百足の指物の衆を出して、その通りに申し渡した。

馬場は己の兵を3つに分けると、一手は敵に向かい、足早に撤退する跡部の軍に付いてくる敵軍を、
跡部と交代して引き受けた。
一手は脇より横筋から弓鉄砲にて懸った。これにて松田の軍2500は悉く崩れた。
最後の一手は後備えにて、この場所の武田の備えを回復し、さらに敵の二の木戸まで押し込み、
引き上げた。馬場一大の深入りであった。

「面白さに我を忘れてしまったよ。」
これは合戦の後、馬場が内藤に語った言葉である。
信玄は馬場の戦いを、「武田の弓矢は今、頂上に登った」と評した。

(士談)



903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 10:14:54.19 ID:wjrkMz9Q
頂上に達したら下るだけ、と突っ込みたくなった

法性院阿闍梨

2017年05月09日 21:31

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/09(火) 00:23:38.79 ID:fJ31A3/a
また信玄(武田信玄)は、後には10年に及んで精進潔斎し、叡山より
袈裟衣を下され申し、“法性院阿闍梨”と号して常に看経三昧だった。

それ故であろうか、その頃所々の陣中において不思議な瑞兆もあった
とかいうことである。

――『当代記』


「甲乱記」では勝頼の新府城からの逃亡を

2017年03月05日 18:34

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 21:22:06.58 ID:x2xTiC3w
まとめサイトの管理人さんオススメの平山優「武田氏滅亡」の甲州征伐の箇所読んでたら
「甲乱記」では
飯田城の武田方は、馬糞が燃えているのを織田軍の鉄砲の火だと思い夜間に一目散に逃げ出した
まるで富士川の合戦で水鳥の音に逃げ出した平家のようだ
(平山優によれば、実際は浅間山が48年ぶりに噴火したのを見た武田方が戦意を無くしたからかも、としている)

と書かれてるとか、

勝頼の新府城からの逃亡を木曽義仲の没落や平家の都落ちになぞらえている、

そうだ。
富士川の合戦の大将が武田信義で
自称木曽義仲の子孫の木曽義昌がいち早く裏切ったことを考えると歴史の皮肉というかなんというか


長坂源五郎の事

2017年02月12日 09:25

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:11:19.37 ID:1YM6JH+R
長坂源五郎の事

武田信玄長坂源五郎の心気を試そうと、
度々美女を源五郎の方へ御用を申し付けて使いに出されました。
すると、度々の事なので後になっていくと、
源五郎は嗜みが緩みその女に戯れた言葉をかけてしまった。
その様子を御側の者から聞かれると、信玄は実際にその様子を御覧になられ、
とうとう源五郎を見限られたといいます。

かりそめにも美童美女等に、たとえ遠くから見る人聞く人がいなくても、
少しも戯れた様子で詞をかけてはならないということです。
嗜むべきなのは『色の道は金銀の事』と
堅く守らなければならないということです。


『武士としては』



596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:39:21.28 ID:rnvBOGUA
ハニートラップしかけて浮気調査

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:40:36.37 ID:vQNGMvww
モニタリング?

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 06:17:26.53 ID:vMpwbjHL
嫌なやつだなw

「孕石の一番槍を見たぞ!」

2017年02月10日 14:08

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 02:48:01.57 ID:2I4GYOmF
○ 浜松にて、鳥居金次郎成瀬藤蔵は口論し、果たし合いをしようと約束した。

ところが、成瀬が「いや、明日の合戦で先を争って死ぬことこそしかるべきだ!」
と言い、三方ヶ原で両人は討死した。

この金次郎の子も金次郎といい、長久手で討死した。

○ 山県三郎兵衛(昌景)の与力・孕石源右衛門は小瘡<ほりめがさとも云>
を煩い、行歩は不自由で、殊のほか痛んだ。

三方ヶ原合戦の時、孕石は馬から下りることができず、下人に負われ槍場まで
参り、ひたと這い出て人より先へ行き、一番槍を合わせて、名乗りをあげた。

三郎兵衛はこれを見て乗り来ると、「孕石の一番槍を見たぞ!」と、言った。

その相手は小栗某と取り沙汰し仕ったが、成瀬藤蔵鳥居金次郎の両人の内、
どちらかであるという。

――『武功雑記』



予め慎む心得のある人は

2016年12月31日 20:35

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/31(土) 14:18:50.97 ID:LohlZohC
一、往来はなおさらのこと、在宿であっても、咎人が行き過ぎる時に
目を見合わせてはならない。

罪人は死刑に迷って正気転変するので、「あれこそ、知り合いの人だ!
罪科の次第を知っている!」などと、妄語することがある。

その時は、役人も捨て置かずに糾明する。もちろん言い逃れたとしても、
見聞人の口は塞ぎ難い。

主人のいる者は、これによって疑いを蒙るのである。これは妻子や下人
にも、よく言い含めておくべきことである。

およそ災難に遭うのを“時節到来”とは、はなはだ僻事である。予め慎む
心得のある人は、不慮の災難を受けることはない。

――『山本道鬼入道百目録聞書』



480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/31(土) 15:57:49.61 ID:CTZiu4gC
>>479
>、役人も捨て置かずに糾明する。
いい迷惑だけど偉いなw

甲州伝目つぶし之法?活薬

2016年11月16日 21:56

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 23:04:18.80 ID:02+9kijt
甲州伝目つぶし之法?活薬


 会談で、小幡勘兵衛景憲かた伝わる目つぶしの法として聞いた。

『蛍火 山蔭のたにし 青とかげ ムカデ 馬の目〔馬の目をほりとったもの〕
各等分にして卵の中皮?に入れる』

 これは大いに験がある。投げて胸や四肢に当たればそのところはたちまちしびれて、
手は揺らすことができず、胸は気が塞がって身を動かせない。
また鼻口に当ればすぐに絶倒するという。

聞いた話だが、これも甲州の伝で基本信玄から出たものだという。
信玄は毒矢を用いたことはこれと似ている。
またこれに遭った者のための活薬がある。

『塩 ひき茶』

この二物をといてその当った所に塗れば、すぐにその毒気が散って動揺が生じる。
また絶倒したら湯を加えて服させたら回復するという。
(甲子夜話)


信玄がなぜ塩を断たれたら困るのかが分かりますね~





302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 08:38:58.73 ID:GV3HsWUU
気持ち悪いものを投げて当たったら塩と茶を塗れとか
小学生かっ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 11:16:58.83 ID:LWmC7QHM
        ::::::::::::::::∧口∧   そうやってなんでも
        ::::::::: ( ::;;;;;;;;:)      信玄の発明にしてりゃいいさ…
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''――'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"        
    ,,, ''  ,,,    ::;;;;;;;;;::: ,,  '''''  ,,,,  

主君に不意に召された時、

2016年11月04日 00:12

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 02:12:04.73 ID:SO4PLe6Q
主君に不意に召された時、慌てて出てはならない。

まずは御召しの御答えをして、次の間で胸からへその下(丹田)へ心気を静めて、
2,3度撫で下ろし、しとやかに罷り出よ。

自分の思いもよらぬことを主君がお尋ねになる時、胸を突かれてうろたえるものだ。

主君の内心に“慌て者”と見限られれば、自身の立身の差し障りとなるものである。

――『山本道鬼入道百目録聞書』



かかる心を 武田とや云

2016年10月30日 20:57

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 01:47:03.42 ID:jR8hTmlP
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。

その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。

さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。

「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」

――『当代記』



264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 02:33:47.44 ID:+J0gnCcp
猛だってこと?

子の善悪邪正は、親たる者のしつけによるもの

2016年10月12日 14:10

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 03:39:37.53 ID:xxCUF+E/
一、子の善悪邪正は、親たる者のしつけによるものである。

3歳以後は言語を教え、5歳以上は起居動静を指南し、7歳からは手習いを
勧め、8歳からは読書を習わせ、10歳に至っては身の行いを第一とし、

主に忠、親に孝、他人であっても老を敬うこと、兄弟の差別はもちろんのこと、
子を慈しんでよく教え、人の応対・送迎・式礼を合点させるのだ。

貴賎ともに教導がしつけの第一だ。年頃になり、生物知りになっては時後れ
(“時すでに遅し”か)である。

――『山本道鬼入道百目録聞書』




村松芳休の笛

2016年09月16日 14:55

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 00:06:48.75 ID:SRMLoQW2
武田信玄に攻められていた三河野田城に籠城する者の中に、村松芳休(一節に法休)という者があった。
彼は伊勢国山田の出身で、笛の名人(異名を小笛芳休といった)であった。

この者、武田軍に包囲された野田城にあって、毎夜櫓に上って笛を吹いた。寄せ手の諸将も
これを聞いて、大いに感じ入ったと云う。
ある夜、芳休が例のごとく笛を吹き、その妙を極めた。この時武田信玄が陣廻りをしていて
この笛の音を聞き

「優しくも、明日を限りと覚悟して吹いているように感じる。しかし当世の笛の上手の中で、
これに過ぎる者があろうか。」

そう語ると、矢文を城中に射込ませた。その上書きには『笛の殿へ参る』と書かれていた。
その内容はどのようなものであったか、今に伝わっていない。きっと笛の妙技を賞美したのであろう。

菅沼家譜によると、この村松芳休が毎夜笛を吹き、敵もこれに聞き入る中、2月9日、竹を立て
紙を張り巡らせた中で堀端にて笛を聞く者が居た。これを鳥居三左衛門が訝り、この竹を目印にして
鉄砲を仕掛けおいた。

その夜、芳休がまた笛を吹くと、あの竹のあたりに人声が聞こえた。鳥居は敵が笛の音を聞きに
現れたことを知って、矢場より鉄砲を撃った。目当ての竹のあたりで、「大将が撃たれた!」と
叫ぶ声が上がり、敵陣は暫くの間驚動した。この時の鉄砲は、信玄に当たったのだと言い伝わる。

(野田戦記)



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 10:12:01.06 ID:NIv0BKyK
尼子政久「無粋なやつめ」

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 11:09:41.21 ID:BKFh2dMD
三村家親「まったくだぜ」

信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を

2016年08月17日 12:37

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 10:00:01.01 ID:DrAt9iHp
大将というものは、大きなことも小さなことも、小人の善悪をよく見知って置かなければ、
何の意味も有りません。
召し使う侍たちであっても、義心直道の者も、軽薄佞人のたぐいも同じように見られ、悪しき士に
家権を取らせてしまえば、軍合戦するまでもなく、平穏な世の中でもその家は破滅してしまうでしょう。
老若によらず、心のしれた親しい者を御取立すべきではありません。
第一、佞人は人を妬み、心中賤しく人をたばかり、諸事に付け悪口を申すものです。

武田信玄が甲州にあった頃、三河牢人の山本勘助と申す片端者が、軍の道をよく知っている者ということで、
信玄はこれを召し抱えました。この新参者に対し、家中では悪口に、彼の体を見て、山本を「半体」と呼び、
城中においても後ろ指を指して笑い草にしました。

この事は目付けが、信玄に報告しました。
信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を、その一門まで追放したのです。

(松のさかへ)


井伊直政への重臣たちからの諫言書より、武田信玄が、山本勘助の障害を笑った者を追放したというエピソード。



997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 10:38:51.88 ID:IEKNGEwp
山縣についてはふれてないな
顔より体つきが重んじられてたのか

武田勝頼父子の遺体は

2016年08月14日 17:24

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/14(日) 02:25:15.53 ID:bkrryuWC
武田勝頼父子の遺体は田野にあったけれども、織田信長を恐れて恵林寺
の僧をはじめとして収める人はいなかった。

しかし、田野の西北4里ほどの中山というところの曹洞宗の禅僧・広厳院
やって来て、勝頼夫婦や信勝以下の遺体を収め葬った。

その後、徳川家康が甲斐を治め、一寺を建立して“景徳院”と名付け、田地
を寄付した。また、小宮山内膳友信の弟が僧であったのを、家康は同寺の
住職の僧にしたのであった。

――『常山紀談』



その書は『人国記』と名付けられ

2016年08月10日 08:00

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/09(火) 23:46:39.88 ID:btdLeMF6
国により、人の善悪に生まれつきがあると言われます。仕置のため、諸士の本国を聞かれることもあるでしょう。
武田信玄の或夜の話に

「他国の大将について、その国の上下の人々の心を見ず、聞かずに知ることが出来るだろうか?」

そう尋ねられたことが有ります。伺候の面々「どうすれば知ることが出来るでしょうか?」と言うと、
信玄は言われました

「よくよく考えた結果、十に八、九は、その国の人々の作法とその国主の作法は違わないと私は思っている。
日本の内にて、山城、播磨、近江、伊勢、越前、これら五ヶ国の人々は心定まっていない。その他は
国主の作法から考えればだいたい当たる。

私は常々、国々に人を置いて観察しているが、先の五ヶ国の人の心、その他日本国の人の心を、
西明寺殿(北条時頼)が記された秘書を、羽州の家に伝わっていたのを所望して見てみると、その趣
斜めならず。その書は『人国記』と名付けられ、その後羽州は国々を廻り、貞治元年(1362)の頃、
これを見合わせるようにと書き留められたのだ。

さて、古から今にいたる変化は、末世となるほど悪しきことはあるが、善事はなかなか無い。
この話をするため、先ほど質問をしたのだ。

これは西明寺殿が書かれた書の抜き書きである。これを見よ。」

そう仰せに成り、腰から扇を抜き出して見せられました。その扇には、先の五ヶ国の人の心の善悪が
記されていました。

「西明寺殿の書面にも、関東武者勇なり、京武士は風流なりと書かれている。また、我が甲信の者の心は
真っ直ぐではなく、食料に昼夜心を労するとある。総じて大将は、その国の人々の心から免れない。

諸士の目利きは第一に大切なことだ。義理と非理を知らぬほど恐ろしいことはない。
欲深き士と佞人が交われば、国の乱となる。ただ、恥を知る人を用いなければならない。」


(松のさかへ)

武田信玄が人国記について語った事についての証言である。



966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 03:06:52.40 ID:AlG4uG7A
武田信玄「秘密のケンミンSHOW面白いな」