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皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:06:09.16 ID:A+Lsgv+W
>>520
このあとすぐに本能寺の変が起きるんだから皮肉というか面白いというか

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:29:00.86 ID:YAAZcgX4
文章から信長の絶頂点を感じる
強すぎて誰もかなわない感覚

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 11:23:30.95 ID:meTP904Y
5万3万7万で15万か
絶望しか無いな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:26:36.49 ID:gY8uFqPv
「お前の父親は京入りが念願だったそうだから、お前に父親の願いを叶えてやろう」
と言った話も。なんて優しい信長

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:39:26.70 ID:Dc3TRckH
>>520
これだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 14:11:28.28 ID:rHW680I5
そういえば、平清盛の絶頂期だった安徳天皇の即位から平氏滅亡も早かったよなぁ。
都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。

それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 09:16:13.25 ID:OKDUeII+
江戸幕府に比べるとスカスカの体制でよくあれだけ保ったなと
石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 19:17:00.09 ID:CFGmSaJm
秀吉存命中に力を見せつけたおかげで、豊臣による秩序が生まれたから。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:14:52.67 ID:nRo1POF0
石田三成に人望さえあれば…
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膳城素肌攻め

2019年10月17日 18:09

518 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:21:19.72 ID:HO4sb0ij
天正八年九月下旬、武田勝頼は上野国厩橋城へ出陣した。今回は東上野の先方衆に、西上野の兵を加えて
大胡、山上、伊勢崎などの城を攻め落とすつもりであった。また自身でその周辺も見て廻り、翌日には
膳城の様子を窺おうと、一条右衛門太夫信連、原隼人佐昌勝、真田安房守昌幸、土屋宗蔵昌恒以下を
引き連れ、持小旗だけの軽装で、総勢、武具も付けずに出発した。

当時膳城は、先年に金山の由良信濃守国繁の持城と成り、地勢をよく知っている大胡民部左衛門を主将、
渋皮主膳正を副将として守らせていた。

さて、この時城中では秋の月見の宴が開かれており、皆は気散じの酒盛りをしていた。ところがその席で
思いがけなく、玉村五郎兵衛という侍が渋皮主膳正と口論を始め、それに那波、伊勢崎、片岡と言った者達も
加わり、あまつさえ双方の家人小者たちまでもを巻き込んで、二手に分かれて収拾のつかぬ混乱となった。

この有様に大胡民部左衛門は怒り大声で叱咤した
「このような時に強敵である武田勝頼が攻めてくればどうするのか!勝頼は隣の厩橋城に来ているのだぞ。
そのための防備こそ急がねばならないのに、酒を食らって喧嘩をするとは何事だ!恥を知れ!」

しかし誰の耳のも入らず乱闘を続けていた。

そんな最中、この膳城に武田衆が到着した。
勝頼も城の中がなんとなく普通でないと察したが、自分たちは武器も持たず素手のままであるので
手を出すわけにもいかず、一旦取って帰ろうとした。

膳城の門番は武田衆に気がつくと驚いて城中に注進した。しかし混乱の中下知するものもおおらず、雑兵達は
勝手勝手に柄道具を手に取り出撃し、まず武田方の倉賀淡路守秀景に襲いかかった。
武田方ではこれを見て西上野衆が取って返し、雑兵たちを取り押さえようとしたところ、これに釣られ
武田衆は総勢がどっと引き返してきた。雑兵達はうろたえ城中に逃げ込んだが、武田衆もこれを追いかけ
虜にしようと堀際まで押し寄せた。

この時勝頼は、故信玄より不用意な城攻めを固く戒められていた事を思い出し、皆に引き返すように
下知したのだが、時既に遅く、土屋宗蔵の手の者である脇又市郎という若者が木戸を押し破り廓の一部に
押し入った。続いて同じ手の者の一宮佐太夫も押し入り、城兵六人と渡り合っていた。一宮はかなわじと見て
引き返そうとしたが、脇又市郎だ「死しても退くべからず」り声をかけて踏みこたえ戦った。

この間に武田方では一条信連の組より浅見治部太夫、堀喜右衛門、中根七右衛門などの歴戦の者共が
駆けつけ、平服のまま切り込んで敵を廓内に追い込んだ。
しかし寄せ手は素手のままであるし、城兵は仲間喧嘩の真っ最中で、双方とも不用意の戦となった
わけである。

それでも城中には腕に覚えの有る侍たちも居て、勝頼の家臣でかつて遠州高天神城の戦いでも
高名をはせた、小笠原民部の家来である林平六郎が討ち死にした。また原隼人佐昌勝も攻め入って
敵七人に取り囲まれて戦っているうちに、小溝に足を踏み入れ、立ち直ろうとする所を真っ向から
眉間に切りつけられて倒れた。曲渕勝左衛門が彼を肩に担いで城外に連れ出し、原の付き人に渡したが、
後に甲府に戻ってから死んだ。

脇又市郎は最後まで戦いよく首も取った。彼は甲府の足軽大将・本郷八郎左衛門の甥で、駿州の先鋒である
脇善兵衛の養子となり、かつて三州長篠合戦に於いて二ヶ所の傷を負いながらも功名を上げた侍である。
この時二十五歳であった。

このような中、皆に心すべしと説いていた主将の大胡民部左衛門も寄せ手の浅見治部太夫に討たれ、
残兵悉く撤退して城は落ちた。

519 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:23:30.93 ID:HO4sb0ij
これに勝頼は大いに喜んだ。父である信玄も多くの城を落としたが、勝頼のように防具も付けす
素手のままで城を落とした事はない。宿老の勝八太郎などは、これまで勝頼を少しでも早く成長させ、
采配を渡したら自身は剃髪して介添と成り、先陣を仕ろうと思っていたが、勝頼がこれほど潔く
育ったからには、おそらく敵の三重の柵はおろか、十重の柵も踏み破って戦っても負けることはないだろうと
気を強くした。

このように褒めるものも居たが、批判するものも居た。

「今もし、敵の中に楠正成のような智謀の良将がいて、偽って同士討ちの体に見せかけ、これを見て
好機と思い素手で城攻めすれば、寄せ手は片端から生け捕られ、生きて帰る者は一人も居なかったであろう。
勝頼公は血気盛んで猪武者だったからこそ、五年前長篠の戦いであのような大敗を喫したのではないか。
あの時敵の三重の柵を破ることが出来ず、信玄公以来の名だたる名将を数多く討ち死にさせてしまった
ではないか。」

そのように嘆くものもあり、事実今度の戦いで死んだ原隼人佐は、その長篠の戦いで生き残った
数少ない勇将であったが、跡部、長坂という勝頼の佞奸どもに家法、軍法が歪められていくのを見るより、
いっそ討ち死にしたほうが良いと思って、今度の戦いに自ら身を投げ出し戦死したのだろう、などと
言われたのである。

(関八州古戦録)

武田勝頼の有名な「膳城素肌攻め」についてのお話



原美濃甲府へ帰る

2019年10月02日 15:10

原虎胤   
236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 12:04:07.12 ID:Xsl4MlKj
善徳寺での(相甲駿三国同盟の)会談の時、武田晴信が北条氏康にこのような話をした

「貴殿の所に居る原美濃守(虎胤)は、昔それがしの所に居た男で、ある不届きな事が有って
追放したのだが、現在貴殿の膝窩に有って、この度も出陣し戦功を経てている。
原はその父とともに二代にわたって仕えた者ゆえ不憫でもあり、こちらへお返し願いたい。」

そう申し出たため、氏康もこの武士を快く返した。

そもそもこの原美濃守の父・豊後守光胤は、房州の千葉介胤親の息子で、下総の原村の
生まれ、文正元年(1466)、その三男能登守友胤は生実の御所(小弓公方)義明に仕えたが、
その死後離散し、甲府へ来て晴信の父。信虎に仕えたのである。その子が今の虎胤で、信虎より
虎の一字を頂いているほどであった。

去る年、甲府に於いて浄土宗と日蓮宗の法論を戦わせた時、晴信は虎胤を近くに招き
「汝が帰依する法華宗では、念仏は阿鼻無間の相なりとて、大事な名号を禁止していると聞くが、
これからは汝も我が宗門に入り、南無阿弥陀仏を唱えぬか。」

しかし虎胤は「その義ばかりは御免被ります」と答えた、晴信はなおも改宗を進めたが、これに
虎胤は色をなし

「御屋形様もご存知のように、もともと手前は無学文盲の一徒輩であったのを、法華を信仰するように
なって一人前に人間と成ることが出来ました。およそ宗旨というものの大本は釈迦牟尼如来より
出たもので、それが八宗にも九宗にも分かれて今日に至っています。そしてどの宗派もそれぞれ
開祖があり、その流儀を守っているので、どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
御屋形様の命であっても、南無妙法蓮華経を南無阿弥陀仏び変えることは出来ません。
それは丁度、武士の道を背き義理を欠くことと同じでございます。

例え一命を召されようとも、高祖の禁を破り他宗の念仏を唱えることは出来ません。」

そう言い切ると座を立った。これに立腹した晴信が彼を甲府から追放し、故に美濃守も仕方なく
小田原へ来て氏康に仕えるように成ったのである。
氏康はその美濃守を召し出して今度の晴信の言葉を伝え、こんこんと説得して甲府へと返した。

永禄七年(1564)、原美濃守虎胤は甲府で死去した。

(関八州古戦録)



237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 13:07:48.37 ID:7HHBXqIw
>>236
>どの宗派もそれぞれ
>開祖があり、その流儀を守っているので、どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
今でも使えるなこれ、面倒な親戚に絡まれたらこれで切り返そう

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 13:11:10.09 ID:Wh4HjWre
宗教はいつになったら統一されるのか…

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 19:51:16.98 ID:eX+Eyt2p
人類が全部ニュータイプにでもならないと無理

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 22:07:46.04 ID:ukdoQvMj
ニュータイプって殺し合いばっかしてる気が

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 22:18:27.16 ID:Ycs1ZVgX
キリストも大日如来と同じようなモンっていう理解に通じるな

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 05:56:31.83 ID:quZvIdWy
ララァが導いてくれる

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/03(木) 06:27:35.23 ID:YrNckMr7
>>242
いや、アイツ、私は永遠にあなたたちの間にいたいのとか言ってシャアとアムロもて遊ぶ悪霊じゃん
https://youtu.be/76mJeV77e9U
後、こんな映像見せ付けて人類は永遠に破壊と再生産を繰り返してガンプラ買えば良いと暗に言ってくるバンダイの手先

信玄の国柄の兜

2019年08月10日 15:47

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/10(土) 02:10:43.98 ID:Q8jcWQdG
武田信玄の国柄の兜として、高二百石で大御番を勤める渡辺左次郎(英(さかえ))の家に伝わっているものを
見た人の語った所によるとmそれは頭形三枚錣(錣が三枚になった兜)にて、一見した所粗末に見えるが、
この錣の裏に切金(金銀の薄板を模様に切り貼り付けたもの)が入っていた。国柄唐草の蒔絵であり、
間庇には信玄の自筆にて歌が認められていた

 いかにせん くずの裏吹く秋風に 下葉の露の残りなき身を
 (葛の葉裏を見せるように吹く秋風によって消える露のように消え去るこの身をいかにするのか)

上州白井の明珍信家による作であるという。甲州の武士であった下條伊豆守が戦国に浪々して、
その倅が渡辺家に養われた故に、今かの家がこれを持ち伝えているのだという。

(耳嚢)



信玄公の御使

2019年08月02日 18:03

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/02(金) 01:49:42.15 ID:br8PQdXr
信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

日向源藤斎(玄東斎。宗立)は、関東・安房国・結城・多賀谷・宇都宮・越前・比叡山への御使である。

雨宮存哲は近江の浅井備前(長政)と四国の長宗我部への御使である。

長遠寺(長延寺。実了師慶)は伊勢の長島や河内国大坂、総じて一向宗の盛んな所へ参られた。ただし
越後の謙信へも1,2度長遠寺が参られると、謙信は誉めて「流石は信玄が気に入ったのも道理かな」
と、信玄公と無事に仕えよと謙信が申されたこと2度であったが、2度とも「まずは長遠寺を遣しなさ
れ」と、輝虎より申し遣されたのである。よって件の如し。

――『甲陽軍鑑』



四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである

2019年07月31日 18:54

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 18:17:56.42 ID:Yj3Qypa8
永禄8年乙丑(1565)9月9日に、尾州織田信長公より織田掃部(忠寛)という侍を甲府へ御使に
遣しなさり、信玄公へ仰せられるには、

「恐れ多い申し事ですが、去る申の年に駿河義元公が信長を踏み潰しなさろうとして尾州へ発向なされ、
勝利を失って殊に討死なさり、その勢いをもって我が本国は夏秋中に信長に従い、その暮れより美濃国
へ取り掛かって今年まで6年ですから、大方今年か来年の間には、美濃国も信長が支配仕るでしょう。

そこで信玄公が御持ちの木曽郡と隣続きになりますので、所々の往来も互いに申す事がないように伊那
の四郎勝頼公へ信長の養子の娘(龍勝院)を進上したいのです。

この女子については、信長の父・弾正忠(織田信秀)存生の時に、美濃国の苗木勘太郎(遠山直廉)と
いう侍を婿に仕り、すなわち信長にとっては妹婿でして、昔より美濃国苗木の城に居住しております。

かの者(直廉)の娘を幼少から信長は養い置き、姪女と申せども実子よりは労わっています。信長には
息女もおりますが、私めは今年32歳なので惣領の男子でさえ10歳程で、20歳になられる四郎殿の
内方になるべき息女を持ち申しておりません」

と諸々の信長の申されようあって、乙丑霜月13日、苗木殿の娘で姪女と信長は養親になって伊那の高
遠へ御輿入れし、四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである。

また御使を仕る織田掃部は信玄公に11年召し使われ、5年前の辛酉11月に信長が呼び返しなさった
尾州侍で、しかも信長譜代の侍であるが、信長18歳の時に気に違えて11年甲府に罷りおり、信長2
8歳の時に召し返された。

信長公より信玄公へ御使の人は織田掃部・赤沢七郎左衛門・佐々権左衛門(長穐)。この3人は正月・
3月・5月・7月・8月・9月・極月の7ヶ月に樽肴・巻物・袷帷子を贈り、殊に信玄公の御召し料に
と御小袖1重ずつを格別に武田菱を大きく蒔絵した。この紅で緒をしめたものに、御頭巾1つ・御綿帽
子2つの合い3色を、これも小さい蒔絵をした箱に入れて、甲府へ信長は御音信申されたのである。

信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

――『甲陽軍鑑』



125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 20:31:38.19 ID:zlGD2hC1
さすが信長

太郎信勝の良き生まれ付きも

2019年07月05日 18:26

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/05(金) 01:56:33.78 ID:mC5kOoJC
(前略)しかればその太郎信勝公(武田信勝)11歳の時、小姓衆多き中にて近習である友野形部の
息子の又一郎と、日向源藤斎の息子の伝次とで「扇切りを致せ」と太郎殿は仰せになった。

その時、友野又一郎は腰に差している扇を抜く。日向伝次は手に持っている扇を腰に差して、指を立
てて向かう。その時に信勝は「はや見えたるぞ、置け。せぬ扇切りに伝次は勝ったこと、逸物の心で
ある」と褒めなさり、日向に褒美を遊ばす。

これを高坂弾正は聞いて曰く、

「この御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆、安芸の元就・北条氏康・北越の輝虎(上杉謙信)・尾
州信長・三州の家康・祖父信玄公の幼い頃に似ている。そのような信勝でおありならば…」

と、只今武田の家は万事政事みだりになり、一昨年長篠にて勝頼公は御分別相違なされた故、長坂長
閑(光堅)・跡部大炊助(勝資)両人の諫めをもって信玄公取り立ての衆は尽く討死して、なお家風
は悪しくなった。そうしてついに武田が滅却してしまえば、太郎信勝の良き生まれ付きも要らず、空
しく相果てなさるだろうと、涙を流すばかりであった。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/05(金) 18:08:57.65 ID:SJY8LEsO
>>228
戦わずして勝った?それとも逃げるが勝ちっていう精神勝利法を意味してるの?
確かに長篠では決戦せずに退却していればよかったんだろうけどさ、家康と信長を同時に討てるチャンスはこれ逃したらもう無かったろ
解説お願いします。

就中信虎御隠居分事

2019年07月02日 17:35

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 00:24:13.86 ID:bhPTTZ/Z
内々以使者可令申之処、惣印軒可参之由承候際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節、
被勘易巫可有御越之由尤候、於此方も可申付候、旁以天道被相定候者、本望候、就中信虎御隠居分事、
去六月雪斎并岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒気候、毎事御不弁御心痛候、一日も早被仰付、
員数等具承候者、彼御方へ可有御心得之旨、可申届候、猶惣印軒口上申候、恐々謹言、


(内々に使者を出して申し述べるべき所ですが、安星惣印軒がこちらに参ったことを承りましたので、彼に
伝えました。(武田)信虎殿の世話をする女中についての事ですが、10月に入った頃に、占いなども鑑みて
遣わされるとの事、尤もだと思います。こちらに於いてもそのように申し付けておきます。
あまねく天道によって相定める事は、本望でしょう。

なかんずく信虎殿の駿府での生活費についての事ですが、去る6月にこちらから(太原)雪斎と岡部美濃守(久綱)
を遣わしたおりに合意した事であり、だんだん寒気も増してきて、何事にも御不便され、御心痛されています。
一日も早く仰せ付けられ、その生活費を承った者を信虎殿の元へ遣わされるべき旨を心得られるようにと
申し届けました。なおこの事については惣印軒より口上にて申し上げるでしょう。恐々謹言。)

     九月廿三日    義元(花押)
    甲府江参

(天文十年九月二十三日付、武田信玄宛て今川義元書状)

今川義元より武田信玄へ、「信虎さん困ってるから仕送り早く届けろ」という書状である。



223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 19:52:44.70 ID:ixlhX9sa
>>221
義元さんも困るわなそれは
ただでさえ厄介な人押し付けられてるのに

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 20:17:55.08 ID:AsuUgu9e
>>221
生活費自分で稼がせれば…いや下手に定期収入得ると怖いなこのおっさんはw

奥州会津へ行って南部下野は

2019年06月28日 18:02

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 01:15:39.49 ID:Or38vN5M
信玄公は書立をもって仰せ下され、その御書の趣は「南部下野(宗秀)が山本勘介という大剛の兵を
悪口したのは無穿鑿である」とのことである。(>>205

一、山本勘介のような小身の者の城取・陣取はまことらしからぬとの事は、物を知らぬ申されよう
  である。唐国周の文王が崇敬した太公望も大身ではあるまじき事。

一、兵法使いが手傷を負っているというのは、一入武士道無案内である。兵法とは手傷を負わぬと
  いうことではあるまい。手傷を負って相手を仕ほすのが本当の兵法である。ことさら其の方の
  被官・石井藤三郎が白刃のところへ、棒で向かって組倒したのならば、たとえ勘介が死んでも
  屍の上まで誉れであろうに、それを嫉むのは無穿鑿である事。

一、其の方南部の手柄は、家中の者である笠井と春日が両人で仕ったのを、自分の手柄のように申
  されたと聞き及んでいる事。

「この3ヶ条をもって成敗仕るべきであるが、それでは山本勘介もきっと迷惑に思うだろう。ここを
勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ」との仰せで改易致され、奥州会津へ行って南部下野は
飢え死になされたのである。

(南部宗秀の)70騎・足軽・旗本・その他は方々へ分かつ。春日左衛門・笠井備後は前述の南部両
おとな(老臣。3ヶ条中の春日・笠井)の子である。以上。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』







南部下野殿改易は

2019年06月27日 16:42

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/27(木) 16:33:56.02 ID:s44NIbyz
南部下野殿(宗秀)改易は信玄公28歳の時。山本勘介と申す大剛の兵は、武道の手柄ばかりでは
なく兵法上手であった。ある時に信州諏訪において南部殿家中の者・石井藤三郎という男を南部殿
が成敗致し、切り損なって藤三郎は逃げ回った。

折しも勘介はその近所に居当たり、勘介のいる座敷へ藤三郎が切って押し込んだ。勘介は刀を取り
合わせず、そこにあった薪雑棒を取り向かい受けて組転ばし、藤三郎に縄を掛けて南部殿へ渡した。
少しずつ手傷3ヶ所を負ったが、手傷と申す程のことでもない。子細は30日の内に平癒したから
である。とりわけ勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度少しずつ手負い、86ヶ所の傷跡があった。

それを南部殿は悪しく沙汰なされるも勘介は何も言われなかった。この南部下野殿も甘利備前(虎
泰)・板垣駿河(信方)・小山田備中に続いて、少しは武辺の覚えもあるといえど噂で常に無穿鑿
なことばかり言い、遠慮もなく明け暮れ過言を申され、嘘をつきなさる。

無分別で山本勘介を憎み、「国郡を持たぬ者の城取・陣取。外科医者も大したことはないものだと
思うが、ましてや兵法使いが手傷を負っている」(国郡をもたぬ者の城取陣取、又外科医者もふか
き事あるまじきと思ふに、まして兵法つかひにて手を負たる)などと言って山本勘介を尽く悪口な
された。

目付衆・横目衆はやがてこれを御耳に立てた。信玄公は聞こし召し長坂長閑(光堅)・石黒豊前・
五味新右衛門を御使になされ、すなわち書立をもって仰せ下された。その御書の趣は「南部下野が
山本勘介という大剛の兵を悪口したのは無穿鑿である」とのことである。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』


山本勘介は一代で手傷を蒙ること63ヶ所なり。この内20ヶ所は信玄公の御家においてである。
子息(二代山本菅助)も若いながら2,3度良き事があった。一昨年に長篠において討死なり。

――『甲陽軍鑑(品第四十三 軍法之巻)』



206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/27(木) 23:54:43.76 ID:vCWOOG6J
>>205
先祖の話だわ
これだけは今の時代まで親族から伝え続けてるわ
肥後守がまともな人で良かったと感謝もしてる

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 00:11:30.82 ID:DTOY7Kmh
>>206
肥後守って南部宗秀の息子の河西肥後守満秀か

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 00:48:38.43 ID:f3R5LZ75
>>207
そそ、肥後守が先祖なので自動的に下野守も先祖なんだわ

唐国諸葛孔明八陣図

2019年06月21日 16:31

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 13:14:15.51 ID:f5pcw5Wk
唐国諸葛孔明八陣図

        八      レ
●魚鱗 ●鶴翼(の) ●長蛇(シ ) ●偃月(半月の図) ●鋒矢(个)

●方ヨウ(“向”の口が山)(〇) ●衡軛 ●井鴈行
                    〇
●春は北に向かう ●秋は南に向かうなり(□)これをもって相を取る口伝あり。
                    △

以上を良く信玄公は伝授なさって、その後工夫をなされて新軍法その他諸法度の仕置きを遊ばし
給う事、これは皆、信玄公と合わせて四大将(上杉謙信・北条氏康・織田信長)いずれもが取り
合いをした故である。

そのため、軍法はまず当代の四大将より始まる。昔はあったとはいえども、尊氏公の四代目の御
時分から連々取り失ったと見える。軍法の儀は(軍法といえば)信玄公・謙信公の両君なれども、
これも3分の2は信玄公より濫觴(起源)する。

当代日本の四大将は御歳増す次第の先に書く。

一、伊豆国平氏大聖院北条氏康公、56歳にて元亀元年10月3日に他界。病死。
一、甲州源氏法性院大僧正武田信玄公、53歳にて天正元年4月12日他界。病死。
一、越国管領入道上杉謙信輝虎公、49歳にて天正6年3月13日に他界。病死。
一、尾州平氏織田右大臣信長公ばかり存生。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 13:18:25.83 ID:N0sMwCEt
この陣形のそれぞれがどういう用途で使われるのか解説をきいたことがない

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 17:53:48.61 ID:fa+hDu+v
乃至政彦「戦国の陣形」読むと
甲陽軍鑑で山本勘助は

「軍林宝鑑」という本にある「諸葛孔明八陣の図」として魚鱗 ・鶴翼 ・長蛇 ・偃月 ・鋒矢 ・方 ・衡軛 ・井雁行

を紹介しているが出典とされる「軍林宝鑑」には八陣として
https://i.imgur.com/HpOEclY.jpg
こんな図があるだけで、魚鱗の名前も鶴翼の名前も見えない
単に大将以外の部隊が八つ並んでいるから八陣とされているだけである
もともと「八陣」には
1.上記の諸葛亮による八陣
2.唐代の知識人李善「雑兵書」に書かれている八陣
「一曰方陣 、二曰円陣 、三曰牝陣 、四曰牡陣 、五曰衝陣 、六曰輪陣 、七曰浮沮陣 、八曰雁行陣 」
3.張良が編み出したとされる日本で口伝で伝わっていた八陣
「魚鱗 ・鶴翼 ・長蛇 ・偃月等の陣 」
があり、甲陽軍鑑で山本勘助が言ったとされるのはこの三者の折衷である。
甲陽軍鑑によれば山本勘助は信玄から「お前は書物を四、五冊も読んだのか?」と聞かれた際「一冊も読んでません」と答えていることから
耳学問の知識を適当に言ったのだと考えるべきだろう。
実戦の際は部隊長にそれぞれの陣形の形をあらかじめ頭に入れさせておいて
「飯富殿は○○の陣形を、小山田殿は○○の陣形を…」と指図してすぐに陣形を取れるようにした

のように書かれていて、のちに村上義清が編み出した?兵種別の陣形を謙信も採用し、それが諸国に広がったと、書かれてるから
この八陣が使われていたとしても、山本勘助が諸葛亮が考えたものとして献策したのを信玄が一時的に使っただけ
江戸時代に甲州軍学で八陣うんぬんが基礎知識となっただけだから
どういう用途で使われたか、てのはあまり意味がないかと

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 17:56:45.55 ID:fa+hDu+v
ついでにその甲州軍学でも徳川後期となると八陣の知識は忘れ去られた、とあ?

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 21:01:07.53 ID:M9YcI+sb
日本の狭い平地では役に立たなかったのかしら

これが馬場美濃の小山田弥三郎への返事である。

2019年06月21日 16:29

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 14:36:04.55 ID:f5pcw5Wk
ある時、馬場美濃守(信春)のところへ振る舞いに内藤修理(昌豊)・山県三郎兵衛(昌景)・土屋右衛門尉
(昌続)・小山田弥三郎・高坂弾正・真田源太左衛門(信綱)・小幡上総、この衆が参られ、よろずの雑談の
中で小山田弥三郎が申すには、

「各々聞き給え。世間で物の分かりを言って人に教えることが学問者の業である。しかれば学問者の中に物知
りは多い。智者は少ないものであろうが、一文字を引けない人にも智者はいよう。山本勘介などは智者という
者であると信玄公は仰せであったから、さて物知らずであってもまた智者と言って別なのである」

と言えば、そこで馬場美濃が申される。

「小山田殿が宣う如く、松木桂琳は学問をして物を良く読むので、唐の諸葛孔明のことを某が尋ねたところ、

諸葛は百姓なれども大将(劉備)がこれを抱えなさりたいがために、いかにも慇懃な出で立ちで諸葛の宿へ大
将自身がいらっしゃった。けれども2度は留守として押し返し、3度目にかの諸葛は竹を耡っているところへ
大将が行き当たり、何程も慇懃になされたのでここでは諸葛は鍬を投げ捨て、今の大将を守護して軍法を仕り、
戦にその大将が勝ちなさった。

その事を本に向かって申している時は『松木桂琳は物知りかな』と存じた。その時に甘利の同心・春原惣左衛
門が私めの方へ見舞いした。かの惣左衛門は真田殿の家中で武辺・智恵・才覚・弁舌すべてが備わった武士で、
信州村上殿へ武略として真田一徳斎(幸隆)が差し遣し、村上頼平公(義清。頼平は父)を信玄公が押し倒し
て勝利を得なさった。

それは春原が賢き智計の武士なる故で、某は大剛の誉れを感じ、互いの冥加のために春原を一入慇懃にもてな
した。それを松木桂琳が見て、春原が座を立ち帰った後に私めに申すには、『人の同心足軽で殊更小身な者に、
どうして馬場殿ほどの人が殊の外慇懃になされる』と不審がった。

それ故、そこにおいて私めが存じたのは、諸葛は賤しき百姓なれども大きな大将が慇懃になされた談義を言い
ながら、これを不思議と疑うのは、松木桂琳の口と心は合わぬと存じた。そういうわけで、物の本に向かって
談義するのは物知り、本に向かって読む術を知らずとも、心の至っている人を智者とこそ申すのであろう」

これが馬場美濃の小山田弥三郎への返事である。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 14:43:58.60 ID:QGNI5dtj
>>182
まさに頭でっかち…

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 20:51:41.49 ID:M9YcI+sb
>>183
でも現代でもありがちなことだわ

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 20:52:28.59 ID:M9YcI+sb
と言うか小山田さんと馬場さんの良い話のような

信玄の最期

2019年06月18日 16:53

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 12:22:42.43 ID:Er11dkC4
>>175
たんに長閑を悪く言いたいだけ

内藤修理は元来工藤なり

2019年06月10日 14:29

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 02:24:57.23 ID:2hX+mQxB
内藤修理(昌豊)は元来工藤なり(工藤源左衛門)。これも信玄公御代に“内藤”になされた。

信虎公・信玄公両代で首数9つあり。人並みのしるし故、御証文は1つもなし。弓矢功者で、
思案・工夫の分別は馬場美濃(信春)に劣らぬ人であり、人数の扱いを良くする人なり。

――『甲陽軍鑑』



“奥の源四郎”

2019年06月09日 09:29

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 01:26:21.11 ID:cxXeu6pY
山県三郎兵衛(昌景)は元来“奥の源四郎”と申した御方なり。

源四郎と申す時、信濃猿ヶ馬場という所で越後の謙信衆と互いに物見に出て、しかも采配を
手にかけた武者と馬上から組み落ち、その敵の武者を討って高名故、信玄公の御証文1つ。

また飛騨国において、山道の狭い所故に自分の同心被官も通り過ぎることができず、山県は
1人で、敵は2人で槍を合わせた。この時に信玄公の御証文1つが下された。

合わせて2つの御感を取って持つ。その他の首数5つは並みのしるしなり。

兄の飯富兵部(虎昌)は逆心の侍故、弟は名字を変えさせなさり“山県三郎兵衛”になさった。
同心は板垣衆を付け下された。この三郎兵衛は人数の扱いを良く仕る武者なり。

――『甲陽軍鑑』



不死美濃鬼美濃

2019年06月08日 10:17

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 03:41:29.58 ID:/WthnPTS
馬場美濃守(信春)は信虎公の御代に18歳より初陣仕り、25歳から信玄公に召し使われた。
信虎公・信玄公・勝頼公まで三代に召し使われ、一昨年の長篠合戦にて62歳で討死仕られる。

信虎公・信玄公二代の間に武辺数度の走り回りを致す中で、自分の一備で優れた事が21度。
よって御父子の御証文21を取って持つ。その内で、しかも諸軍よりも優れたという事が9つ
あり。これ程の手柄をあらわし申されたが、62歳まで手傷を1ヵ所も受けなかった御方なり。

30歳余りから信玄公が取り立てなさり、人数を下されて“馬場”になさった。

――『甲陽軍鑑』



991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 07:08:59.51 ID:tW2qfkw5
不死美濃鬼美濃

山本勘介と申す大剛の武士と聞く

2019年06月06日 15:40

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 19:43:17.74 ID:q6z+kKQZ
一、天文12年(1543)正月3日に武田の家老衆は打ち寄り、その年中の晴信公(武田信玄)御備へ談合
  致す。諏訪郡、あるいは佐久・小県の敵味方の境に味方の城などを取りなされ、城構えを良く致して1千
  の人数で持城を3百持つのは、城の取り様や縄張りに大事の奥義ある故なり。

  その城取りをよく存じている剛の者が駿河の義元公の御一家である庵原殿の亭衆になっていた。今川殿の
  御家を望めども、義元は召し抱えなさらず。この者は三河牛窪の侍であるが、四国・九国・中国・関東ま
  でも歩き回った侍で、山本勘介と申す大剛の武士と聞く。

  この勘介を「召し寄せて御抱えあれ」と板垣信形(信方)が晴信公へ申し上げられたことにつき、知行百
  貫の約束でその年3月に駿河から勘介を召し寄せられた。御礼を受けなさりその場で晴信公は仰せられ、

  「勘介は一眼で手傷を数ヶ所負っているので、手足もちと不自由と見える。色黒いこれほどの無男(醜男)
  でありながら名高く聞こえるのは、よくよく誉れ多き侍と思われる。これほどの武士に百貫は少分なり」

  とのことにより2百貫を下された。さてまた、その年の暮れ霜月中旬に信濃へ御出馬あり。下旬より12
  月15日の間に城は9つ落ちて晴信公の御手に入ったことは、ひとえにこの山本勘介の武略の故なり。晴
  信公22歳の御時なり。

一、(前略)ひととせ前代、駿河において今川義元公の時、山本勘介は三河国牛窪より今川殿へ奉公の望みに
  参るも、かの山本勘介は散々の夫男(醜男)で、そのうえ一眼にして指も叶わず、足もちんばなり。

  しかしながら大剛の者なので、義元公へ召し置かれるようにと庵原が勘介の宿になった故、大人の朝比奈
  兵衛尉(信置)をもって申し上げるには、「かの山本勘介は大剛の者なり。ことさら城取り陣取り一切の
  軍法を良く鍛錬致し、京流の兵法も上手なり。軍配をも存知仕る者であります」と申せども、義元公は抱
  えなさらなかった。

  駿河での諸人の取り沙汰には「かの山本勘介は第一片輪者。城取り陣取りの軍法とはいうが、自身の城を
  ついに持たず、人数も持たずしてどうして左様な事を存じているだろうか。今川殿へ奉公に出たいと虚言
  を言っておるのだ」と各々申すことにより、勘介は9年駿河にいたけれども、今川殿は抱え給わず。
  
  9年の内に兵法で手柄を2,3度仕るも、「新当流の兵法こそ基本の事である」との皆人の沙汰であった。
  とりわけ勘介は牢人で草履取りさえ1人も連れていないので、謗る人こそ多くとも良く申し立てる人はい
  なかった。

  これは今川殿御家において万事を執り失い、御家は末となり武士の道は無案内故、山本勘介の身上の批判
  は散々悪しき沙汰となったのであろう。(後略)

――『甲陽軍鑑』


  山本勘助噂五ヶ條の事

一、山本勘介入道道鬼斎。本国三河牛窪の者なり。

二、26歳で本国を出て武者修行、あるいは行流の兵法などを教えて日本国を歩くことまさに10年の間なり。
  明応9年庚申(1500)の生まれなり。

三、11年目より駿河へ参り、今川義元公の御家老・庵原殿と申す侍大将の介抱を受け、9年間駿河にいたが
  義元の御抱えなき故、甲斐の信玄公へ召し寄せられた。

四、勘介は甲斐へ44歳で参る。その時分の信玄公は23歳なり。

五、信玄公31歳で御法体の時、勘介52歳で法体仕り“道鬼”に罷りなり候。62歳の時、川中島合戦で討死
  仕るなり。甲斐において、城取りその他の軍法はすべて山本勘助の流なり。

――『甲陽軍鑑末書』



「信玄公は御在世なり」

2019年06月05日 18:05

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:57:10.59 ID:cSFIfsi/
小田原の北条氏政より、信玄公御他界かとのことをよく見届け申すべく、いたひえ岡江雪を差し遣しな
された。武田の家老各々は謀をもって江雪をしばらく留め申す様を仕り、その後の夜に入り逍遙軒(武
田信廉)を信玄公と申して御対面なされ、八百枚に据え置き給う。

御判の中でいかにも御判の不出来なものを選び、御返事を書いて江雪に渡すと、流石に賢き江雪も真と
仕って小田原へ帰り「信玄公は御在世なり」と氏政へ申し上げた故、御他界の取り沙汰しは無かったの
である。以上。

――『甲陽軍鑑』


信玄ついに逝去の時、遺言あってかの死去を隠し、ただ御病気とばかりの風説であった。これは四方皆
が敵であり、御逝去と聞けば小田原との御無事も破れることを迷惑して、このように計らったのである。

されども、その事は大方風聞したので、その実否を知るために小田原から板部岡江雪が御使者に参った。
これは信玄の病気について御心許なしとのことである。

甲州侍は殊の外迷惑し、色々の計りをなす。信玄の舎弟・逍遙軒はよく兄に似ておられたので、夜に入
ると逍遙軒を屏風の中に寝かせた。さて江雪を近い所に召し寄せ、逍遙軒は寝ながら返事をなされた。

流石の江雪も夜のことではあり、そのうえ逍遙軒はほうほうとしておられたので見違え、信玄と思って
帰り、「正しく信玄は御存生にて候。ただ御病気でいらっしゃいます。私は対面仕りました」とのこと
であった。

これにより小田原では「信玄が死に給うというのは誤りなり。存生である」とばかり存じたのである。

――『北条記』



114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 19:05:59.16 ID:7kLGMBrD
>>113
写真もない時代だし、数年前に一度あったきりだろうしそりゃここまでされたらわからんな。

深く慎め慎め。件の如し。

2019年06月01日 17:13

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 18:36:38.03 ID:lX7j0Ovy
『偽のなき世なりせば世の間に たが誠をもうれしからまし(『いつわりのなき世なりせばいかばかり
人の言の葉うれしからまし』の派生)』という歌を人に習って、高坂弾正がここに記し申すのは、

この書き置きがもし落ちて人々が見給うとしても、盛んな家において奉公衆の大小上下ともに心入った
武士が御覧になれば大いに笑いなさるであろう。しかし、これはまたそのような良き人へは深く、この
ようにして衰える家の無穿鑿な奉公衆へは心付け参らせるためで、いかにも愚痴な書物である。以上。

高坂弾正が申す。まことに私めは文盲第一でまったく一文字を引くこともできないが、傍輩の中で深く
分別に達した大剛の名人に親しく雑談を常に聞き、百に一ばかりは覚えていて少しは心付いてもいる故
か、また余の傍輩衆で良き程の人々が申されたことまで聞き書き仕り、只今紙面に表したのは、

今年長篠で勝頼公が後れを取りなされた故に、良き武士百人は98人が討死した。その人々は皆生まれ
変わるので、そのために書き置き参らせる(よき武士百人は九十八人うち死して、みな生れかはりにて
候間、其為にかき置まいらする)。

長坂長閑・跡部大炊助殿は必ず人に見せなさるな。もしまたは見せなさるとも、当御家に二代も奉公致
す子供数多の人には見せなさるとしても、牢人衆に見せなさっては中々高坂にとって現世来世までもの
恥であり、かつまた御家の傷になる。深く慎め慎め。件の如し。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』



91 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/01(土) 08:34:42.68 ID:tqmeloYc
>>89
さすがは元百姓、譜代の重鎮に向かって何たる言い草
まさに分別違い、その上老害ときたか

信玄公御旗及び御はた本備押の作法十五条の事

2019年05月30日 19:10

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 17:51:20.59 ID:jxVT/vJG
信玄公御旗

一、赤地に八幡大菩薩の旗2本。
一、赤地に将軍地蔵大菩薩の旗2本。
一、武田27代までの御旗1本。

一、其疾如風 一、其静如林 一、侵掠如火 一、不動如山。
これは黒地に金をもって、この4つの語を書きなさった。旗は四方(正方形)なり。この旗
とともに以上の6本である。川中島合戦からこの旗を使いなされた。

また三方ヶ原で家康・信長に勝って、殊に信長と手切りになられて東美濃発向の時、次の語
を前述の旗に入れなさった。一、天上天下 一、唯我独尊。

前述の故事を入れて旗の仕様は、
一、其疾如風 一、其静如林 一、侵掠如火 一、不動如山 一、天上天下 一、唯我独尊。

このような御旗は天正元年酉(1573)の3月に持たせ初めなされ、同4月12日に(信
玄公は)御他界なり。この6本の御旗奉行が1人、惣旗奉行が1人、よって2人なり。

この6本の御旗の中では尊師(孫子)の旗が肝要なり。口伝。

――『甲陽軍鑑』



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 19:22:30.91 ID:apZtFxeX
孫子「天上天下、唯我独尊
なんて原典に無いのを入れるくらいなら
難知如陰、動如雷霆
まで書けよ」



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 20:04:01.86 ID:jxVT/vJG
御はた本備押の作法十五条の事 八

御旗12本は黒地に、上に日の丸を朱で書き、下に朱の筋、その下に朱で竹菱。これは御家に伝わるところ
の新羅三郎義光公の御旗の写しである。これが一の御先。

次に八幡大菩薩の御旗3本を白地に墨で書き、次に勝軍地蔵の御旗2本。次に諏訪上下大明神の御旗5本。
いずれも三のかけなり。ただしある時は地黒に朱で書いたこともあった。

とりわけ御他界なさる天正元年の3月、東美濃御陣の時、黒地に金で5つの古語を遊ばされた。その語は、

一、其疾如風 二、其徐如林 三、侵掠如火 四、不動如山 五、天上天下唯我独尊。

これはその御陣で初めて御持たせなさったのである。この旗を合わせて12本。その旗奉行は今井刑部左衛
門、子息・新左衛門なり。父は信玄公の御感状11、子息は7つで武功の武士である。御旗の後先に乗り、
当番が先、あけ番が後、これも各番なり。

――『甲陽軍鑑末書』




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 20:57:31.27 ID:lsv+hvPP
>>955-957
天上天下唯我独尊は仏教用語
フロイスのこの記述とも合致する

>信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 10:35:47.67 ID:iXW+Hetr
旗の色、赤は平氏、白は源氏