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梅雪様の申しようはごもっともです

2020年08月20日 17:17

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 21:23:05.13 ID:9dfXvoM4
長篠合戦記』より
珍しくかっこいい穴山梅雪

(長篠の合戦が敗勢になり)勝頼は「討ち死にすべし」と言って、少しも退却するそぶりを見せなかった。そんなところに穴山梅雪がやってきて、「早く退却されてください」と進言した。
勝頼はまったく聞き入れなかった。すると梅雪は大いに腹を立て、「日頃からわがままで、家老の言うことを聞き入れないが為に、いまこのような状況になっているのです。この上でも聞き届けないなら、覚悟のないことだ」と言って刀に手をかけたが、それでも勝頼は聞く耳を持たなかった。
そこで初鹿野伝右衛門が両人の間に入って刀に手をかけ、梅雪に悪口を吐いた。
梅雪が話すには「伝右衛門はそういうが、なんとしても勝頼様を退却させたいからこそ申しているのだ。早く馬にお乗せしろ!」
さすがに伝右衛門もかしこまり、「梅雪様の申しようはごもっともです。いまのご無礼はお許しください」と言って、「小姓ども、それそれ!」と言い、馬に勝頼を抱いて乗せた。
勝頼は「そうであれば仕方ない、力のないことだ。馬に乗ろう」と話し、それより押し太鼓を鳴らし、整然と退却していった。


いろんな角度から史実とはとうてい思えない話でもありました。
ちなみに前段では家康使者の小栗大六が「信長が助けてくれないならしらないよ。上野を勝頼にあげる代わりに尾張もらうから。家康が先陣で尾張を攻めたら信長困るでしょ」と放言し、それを立ち聞きした信長が改心するストーリー。



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合戦を遂げることこそ尤もです

2020年07月02日 17:59

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/01(水) 21:58:08.56 ID:spB6JqFb
長篠の合戦の時、武田勝頼は「是非とも一戦を遂げ、討ち死にすべしと思い定めている」と語った。
これに対して武田家重臣の馬場美濃守、内藤修理、山縣三郎兵衛、武田左衛門大夫、同左馬頭は申し上げた

「敵軍は四万、我軍は一万です。この度は引き上げ、信長の帰陣した上で、来秋出張をし、所々残らず
放火し、その上苅田を申し付けられれば、三河は亡国と成りますから、一両年中に存分と成るでしょう」

という旨をたって諫言したが、勝頼は承引せず、殊に長坂長閑斎が「合戦を遂げることこそ尤もです。」と
言上したため、いよいよその儀に相定まったのだという。

この長閑斎は工夫に長けた人であったために、信玄も大細を談合した者であり、殊に弁舌明らかであった。
この時六十三歳であったという。

当代記



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/01(水) 22:03:21.53 ID:dkvDgPFT
当代記の時点で勝頼は老臣の話聞かない思慮の浅い武者、長閑斎は佞臣
みたいなテンプレが出来上がってるのね

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 02:51:07.33 ID:1ucQJuvg
>>159
甲陽軍鑑の影響でしょう
近年、再評価されているのは面白い

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 10:32:46.38 ID:SJFjnxtY
大将が討ち死にすべしってだダメだろ

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 01:26:32.35 ID:wNBo2v6N
>>161
信長だって「知恵の鏡が曇るとは」といわれたし
勝頼みたいに退路絶たれて突撃はしないと思うけど

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 02:42:17.31 ID:/iNLXb8k
父信玄に劣らない立派な2代目にするって事で臣下が犠牲を顧みず奮起して高天神を落としたのに
勝頼「コイツらやれば出来るのになんで何時も怠けてんだよ、何時も死ぬ気でやらんかい!」
だから設楽原で老臣たちの慎重論を怠けとして全軍突撃を命じたんだよなあ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 10:08:11.60 ID:yt6Qik+O
退路を断たれてしまった以上前方の敵をせめてある程度ひるませないと、退くにしても追撃でとんでもない被害出るし

そこまでおかしな行動とは思えないかなぁ、平山氏曰く織田勢は兵の数が過小に見えるように動いてたようだし

だからそもそもこの当代記の武田勢が織田勢の兵数を完璧に把握できてる状況ってのがすでにフィクションっぽい

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 15:12:49.38 ID:9dv9wt1q
>>164
「敵かたへ見えざる様に段々に御人数三万ばかり」ってやつね
しかし、仮に威嚇のためだったとして、何回も突撃して壊滅し、追撃戦を含めて錚々たる面子を失ってるからね

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 21:12:12.25 ID:yt6Qik+O
威嚇じゃなくある程度の撃滅が目的じゃね
そもそも目算が間違って死地に赴いてしまったのが問題であって、そのあとの収拾の方法は問題ないと思う
そもそもが大失敗しててそれを取り返しようがない状況だから

そのまま追撃受けたら壊滅して、錚々たるメンツが死んでたのには代わりないんで

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 13:20:01.29 ID:90/ImzUl
>>164

要するに一撃講話論ですね

かかる心を武田とや云

2020年06月27日 17:42

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/27(土) 14:46:03.49 ID:dwJriU8b
先年、武田信玄の嫡男である武田太郎幸信(原文ママ。義信)が生害され給わった。
その故は、義信が父を討ち取り家督を取るという陰謀について、これが信玄の耳に入り、たちまち
義信を幽閉し、終には鴆毒を以てあい果てた。

然れば、信玄は父を追い出し子を殺し、甥の今川氏真の国を奪い取った。これを大悪行であると
思った故か、何者の仕業か、落書があった

『子を殺し 親に添てぞ追出す かかる心を武田とや云』

当代記



151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/27(土) 21:02:49.55 ID:VWMlXOBe
武田の御曹司としての自覚もかなり強かったみたいだし、義信が家中をまとめて勝頼が先陣を切る武田家ってのも見てみたかったなあ
義信は勝頼をだいぶ目にかけていたって話が過去に書かれていたから案外うまくいったんじゃないかと思うけど

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/28(日) 22:36:37.28 ID:V2ZQMWZW
>>151
義信-勝頼間の感情が悪くないとしても、重臣や国衆がどう反応するか。
下手をすれば義信派と対立するor対立した国衆に担がれた勝頼が諏訪で挙兵とか、なりかねん。

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/29(月) 03:15:49.45 ID:WHFvIAdA
そうなるには義信の治世が最悪じゃないとな

人数多勢無勢出立の事、

2020年05月12日 18:52

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 05:35:16.13 ID:iLI6DruS
人数多勢無勢出立の事、

一、大軍は少旗、小軍は大旗。口伝あり。

味方が夜軍をする時、

一、あつくうってうすく出る。口伝あり。
一、険難をよく見る。これについては、素破の入る所である。ただしそれは前のこと。口伝。
一、上着・胴・肩衣・白。口伝。
一、控え軍が肝要である。
一、時を合わせることが肝要である。
一、伏せ屈りには風が大事。口伝。屈りの物見は“かきもの聞き”という。

――『甲陽軍鑑(品第四二 軍法之巻)』




169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 10:38:25.76 ID:eZMewPxk
おまえ口伝ばっかじゃねえか(呆れ)

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 10:53:52.80 ID:9V4qoNAn
秘伝の巻物を奪っても口伝ばっかりだから参考にならない
てのはよくあるツッコミ

四郎殿の御沙汰は何とも

2020年05月09日 18:47

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/09(土) 15:37:33.73 ID:pj8HJK61
(三増峠の戦いの時)

右の翌日に三増峠で馬場美濃殿(信春)は小勢故に敵と揉み合い勝負がつかなかったところを、勝頼公
武田勝頼)が自身で槍を取って横槍に入り崩しなさったのは、信玄公(武田信玄)の御眼前であった。

その翌日に反畑で馬場美濃と内藤(昌秀)はこの事を沙汰して信玄公の御前で四郎殿を誉め奉り、感涙
を流した。すると信玄公はとかくの御返事もなく仰せられ「“壮夫の涙”といって猛き武士はいずれも涙
もろい。大唐の韓信や樊カイは物を感じてすぐに涙を流した。また我が家でも昔、荻原常陸(昌勝)は
涙もろかったと聞く。方々も同様だ」と御意なされ、四郎殿の御沙汰は何とも仰せられなかった。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』



雑人陣にて煩ひの時

2020年05月07日 18:24

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/07(木) 15:02:17.05 ID:RnSax87m
雑人陣にて煩ひの時

一、虫には曹洞宗の百貫草。水一盃の半分を一盃に煎じて飲ませる。手に1つも握る。口伝。
一、おこり(マラリア)には亀1つを黒焼きにする。水でこれを飲ませる。
一、熱気には拾五気の木。手1束に右の煎じ様で。口伝。

――『甲陽軍鑑



“勝千代殿”

2020年05月05日 16:53

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 02:24:52.45 ID:iO/doWIk
一、それ、信玄公幼き時の御名を勝千代殿と申す。子細は御父の信虎公28歳の時、駿河のくしま
  (福島)という武士は今川殿を軽視し、結果甲州を取って己の国に仕らんと遠駿の人数を引き
  連れ甲州飯田河原まで来たり、しかも65日余り陣を張っていた。

  その時、甲州御一家の衆はことごとく身構えをして、「武田の御家はもはや滅却するだろう」
  と仕るところに、信虎公の家老・荻原常陸守(常陸介昌勝)と申す大剛の武士の武略をもって、
  信虎公は勝利を得給う。

  敵の大将のくしまを討ち取りなさったその日のその時に誕生なさった故、“勝千代殿”と信玄
  公に幼名を付け申す。すなわちその時の合戦は勝千代殿の合戦である。武田信虎公の家老の沙
  汰なり。勝千代殿誕生前に諸々の不思議が信州諏訪明神より告げ来たるという。

一、荻原常陸守は信虎公御幼少の時に弓矢の指南申し、信玄公御幼稚の時分も弓矢の物語りを申し
  上げられた。信玄公12,3歳の御時分に常陸守は70余歳で死去なり。

――『甲陽軍鑑



ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより

2020年04月29日 17:38

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 20:36:36.02 ID:WPub7+sJ
信虎公(武田信虎)の御代には軍法も信玄公の十分の一でしかなかった。

ことさら信虎公28歳の御時のくしま(福島)合戦(飯田河原の合戦)の折、譜代衆は大方が在所へ引き
籠り見物仕る。右のくしまに勝ち給いて、その時より甲州一国の衆を8年の間にことごとく絶やし給うに
付き、2百・3百あるいは5百が立て籠もった城どもを攻め取りなさることによって、矢傷・槍傷・刀傷
をたくさん手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公が家中において、譜代衆・牢人衆中で健壮なる武士を75人選び出しなさった侍衆は、
信玄公の御代に大方討死して、年寄るまで長らえたのは横田備中(高松)・多田淡路・安満(あんま)・
鎌田織部・原美濃(虎胤)・小幡山城、この6人である。

ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより、武辺かせぐ衆はひとしお討死多し。鉄砲は大永6年(1
526)に井上新左衛門という西国牢人が信虎公へ奉公申し、この侍が鉄砲を持ち来たり教えたと申し伝
える。しかしながら、稀であったと聞く。

その後、信玄公の御若き時は、かち路大膳・同又作と申す牢人親子がいた。この侍が各々に教えた。近年
は佐藤一甫斎と申す牢人が来て教えているのである。今は侍衆皆が鉄砲を良く上手に撃っている中で、横
田十郎兵衛(康景)・日向藤九郎の両人は鉄砲を用に立てている。

――『甲陽軍鑑



128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 22:44:35.38 ID:2ocCnCTT
撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけ

だから死ぬんだよ

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 07:38:57.06 ID:8oiWljdW
>>127
一番槍なんて鉄砲のいい的だろうしなぁ

千徳丸の供養墓石

2020年04月25日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 20:03:13.81 ID:POivbMZQ
喧嘩ばかりしててもアレなんで地元の話を市のHPから一つ。

瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。
天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて
瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。
長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、
寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。
なお、瓦曽根村に潜居した信藤は、家康に仕え小金領(現在の松戸市)1,000石を知行した長男虎康の子昌秀のもとに
引き取られましたが、この昌秀の妹が家康の愛妾「おつまの方」です。おつまの方は家康の5男、
水戸15万石に封ぜられた武田信吉の生母でしたが、天正19年(1591)24歳の小金で病没しました。
また、武田信吉も慶長8年(1603)嗣子をなくして水戸で病没し、この家は断絶しました。
千徳丸の供養墓石は、これら戦国期のさまざまな由緒を秘めた史跡の一つともいえます。

出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」

よくある落人伝説の類ではあろうが、照蓮院の敷地には幼稚園が建っていて今も子供たちを支えている。



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 21:38:46.01 ID:FAijYLAj
勝頼の子に千徳丸なんて子いたのか

武田信玄は曾我時致が再生といふ説

2020年04月11日 14:47

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 03:19:39.86 ID:ONtCAS+0
武田信玄曾我時致が再生といふ説

 武田晴信入道信玄は曽我五郎時致の生まれ変わりであるという俗説がある。
その理由は、ある僧が富士野を通った時、曽我十郎祐成の幽霊が現れた。
「私の弟の時致は生前『法華経』を読経するという功により、甲斐国の領主武田大膳大夫晴信入道信玄として生まれ変わったのだ。
しかし私は女色に愛着していたので、今は六道に沈淪している。
どうかこの旨を信玄に告げて彼に私の弔いをさせて頂けないか?」
と頼んできたという。

 この俗説を考えてみるとしよう。
まず、そもそも再生輪廻の事は理にない事である。
これだけでなく他の理由も今しばらく俗談から検討したいと思う。
 曽我五郎時致は淫奔放蕩の謗りがあるといえど、工藤祐経を討って父の仇に復讐した。
取り所がない者ではない。
武田入道信玄は彼とは異なっている。その罪悪が際立っているものに、父信虎を追放して甲州を領した事が挙げられる。
「不得乎親 不可以為人」という言い伝えもある通り、人に非ざるのなら禽獣である。
ただし虎狼に父子の親しみあり、セキレイに兄弟の情ありという。禽獣にもしかずと言えるだろうか。
ところが物は類を以て集まるというのが世の習いである。
その臣の高坂弾正は主の不孝不義を諫めないだけでなく、信玄が父を追い出したという事実を断りながらも「一生『論語』を手に取られなかった」と『甲陽軍鑑』に記している。
晩年になっても『論語』を手に触れていたら、不孝を悔い旧悪を改める心も有ったのだと思うとひどく恨めしい。
これだけではない。降った諏訪の大祝頼重を誅して所領を奪い、その娘を頂き妾とした。
この妾の讒言により太郎義信飯富兵部を殺害し、欲にふけって親しきを忘れ甥の今川氏真を押し倒して駿州を奪った。
取り所のある人ではない。

(広益俗説弁 続編)

信玄が曽我五郎の生まれ変わりだったという説話があった事も驚きだけど、信玄の人格を否定することで俗説を批判しているのも面白い。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 16:07:42.88 ID:uo9+JVjf
>>969
ボロカスに言われとるな
異論はないけど

気遣いは分別のいろは

2019年11月11日 18:23

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 10:49:53.46 ID:h1wOUAM7
ある時武田信玄公がこのように仰られた

「世の中にはいろいろな人がある。分別が充分に有っても才覚のない人もある。才覚が有っても
慈悲のない人もある。慈悲が有っても人を解っていない人も有る。

人が解らない者の場合、大身だと、その者が尊敬している人物というのは十人の内八人は役に立たない
という事が多い、小身の場合は、その親交深い傍輩の悪しき知り合いに近づいてしまう。

このように色々様々に変わって見えるが、結局はただ分別が至らぬということだ。
分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても
良く成すものだ。このように人間にとって分別の二文字こそあらゆる事の基礎であると知り、
朝に志し、ゆうべに思うようにして、分別を良くするべきだ」と言われた。

内藤修理正(昌豊)曰く、「信玄公御錠に、人は分別肝要と仰られた。これは尤もな事である。
それについて、分別と言うことも、学んでその知恵がつくものだ。」

そう申したところ、小山田彌三郎(信有)が「願わくばその方法を教えて頂きたい。」と
しきりに問うてきた。そこで内藤修理は

「気遣いという気持ちがあれば、分別にも近寄るであろう、この気遣いから全ての事に心付て、
自分の至らぬ部分を分別ある人に習い、何事を成す場合でもこの心構えをその度に重ねれば、
自分の心得も出来、猶以て工夫、分別、広才の智のある人に近づく事だろう。
そこを考えれば、気遣いというものは分別のいろはでは無いだろうか。」

そう内藤は小山田に教えた。

(甲陽軍鑑)

分別の基は人に対する気遣い、つまり良い判断に必要なのは思いやりである、という所でしょうか。
現代でも通用しそうな考え方ですね。



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 17:59:45.43 ID:ypIcKaTN
小山田の名前を見るだけで警戒してしまうが、この人は26歳で早逝してるんだな

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 20:57:34.10 ID:3AMDOqwh
信玄公って部下教育にも長けてたんだろうなあ

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 22:04:34.10 ID:j9tC0zm8
息子は失敗したけどな

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 22:36:51.09 ID:eLkJFcq7
>>325
その辺も家康は信玄を見習ったなw

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 23:34:19.74 ID:2wX/tis6
武田は奥近習だっけ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 15:07:26.89 ID:AkKEwVuC
小山田は信有だらけなの、どうにかして…

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 16:39:27.95 ID:W5wF8sv2
先代とは意地でも同名を避けるつう命名基準から外れてるし理由を知りたい

相手にすると恐ろしい者

2019年11月10日 17:00

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/10(日) 09:01:59.88 ID:oWdch8EX
ある時武田信玄公が御噺衆に尋ねられた
「奉公人の中の大身、小身は言うに及ばず、下々の者まで相手にすると恐ろしい者がある。
それはどういう者だと思うか。」

御噺衆は誰も答えられなかった。そこで信玄公はこう言われた

「それは無分別な者だ。何故ならこの無分別な人物は、後先を考えず、口に任せ手に任せ、
考えもしないようなことを仕出かす。そういった人物は合戦の鍔迫り合いに成れば遅れ逃げるものだ。
ところが良き分別のある人物は、普段から詮索をよく致すために、逃げる無分別者を発見すれば
逃さず、勝負をつけようとする。こうして良き分別者が悪しき分別者と相手をし、徒に身を果たす
ような事になるとしたら、これをよく思案してみよ、分別なき者は恐ろしい人ではないか。」

そう仰られたのである。

(甲陽軍鑑)

有能な人物がバカに殺されてはかなわん、という話でしょうかね。



562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 03:40:53.26 ID:mGN8Rjs4
無能な味方は敵より厄介

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 20:54:31.95 ID:3AMDOqwh
平凡でも良いから実直であって欲しい
ということも言いたいのかも

無能は不要とかだったら部下のストレスはんぱない

564 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/11(月) 21:53:10.65 ID:l/raO2w7
臆病者でも使い方次第という岩間大蔵左衛門の話も甲陽軍鑑だったっけ。

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 23:53:28.42 ID:ypIcKaTN
無能というかアスペや嫌なクズって感じ
これに真面目な人材が殺されたらたまらん

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 12:41:18.32 ID:l9uYArUl
窮鼠猫を噛む

侮って死んだ分別者w

信玄公御一代敵合の作法三ヶ条

2019年11月07日 16:44

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 10:27:11.88 ID:0KJaQ8DD
信玄公御一代敵合の作法三ヶ条

一、敵の強き弱きについて分析し、またその国の大河、大坂、あるいは分限の模様、その家中諸人の
  行儀、作法、剛の武士、大身、小身、それらの多少のことであっても、味方の物頭衆によくその
  様子を知らせなければならない。

一、信玄公の仰せには、弓矢の儀、勝負の事について、十分の内六、七分の勝ちこそが十分の勝ちであると
  御定めになった。中でも大合戦は殊更そのようにするのが肝要である。その理由は、八分の勝ちは
  危うく、九分十分の勝ちは味方大敗の下地作りであるからだという。

一、信玄公の仰せには、弓矢の儀、取り様のこと、四十歳以前ならば勝つように戦い、四十歳以後は
  負けぬように戦うべきであるという。ただし二十歳前後でも、自分より小身の敵に対しては、
  負けないように対処し、勝ちすぎてはならない。大敵には猶以て右のとおりであり、おしなべて、
  よく思案、工夫を以て、位詰めにし、心を長く持って後途の勝を得ることを肝要に仕るべきである、との
  儀であった。

(甲陽軍鑑)


甲陽軍鑑より、武田信玄の敵への対処のありかた三ヶ条



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 21:04:09.27 ID:UyfXPO7g
信玄って油断することあったのかな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 23:36:49.16 ID:7WI7bWrx
油断して浮気がばれたために、誓詞を書く羽目に

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/08(金) 13:21:30.71 ID:cIUGsmSB
貧乏国の形態から父親追放の継承で実際重圧凄かったろうな

翌年の四月十二日になって思い当たった

2019年10月27日 16:53

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/27(日) 14:07:37.07 ID:lugWOShB
元亀三年の正月二十一日に、武田信玄公は法華宗身延山へ御使を遣わされた。その子細は、
去年織田信長が叡山を焼いた事により、身延を新たな叡山になさろうと考えられ、身延山を
御所望になられた。そしてその代わりとりて長野に寺を建て、今の身延より大きく御普請仰せ付けられ、
それを相渡すとの仰せであった。

身延山の各出家は御返事に、「日蓮聖人の御影の前で鬮を取った上で結論を申し上げる。」と、
鬮を三度、五度、七度まで取ったものの、合点の鬮を得ることはなかった。
その上山が変わらない祈念として、壱萬部の法華経を読んだ。また不思議なことに日蓮聖人の
御告げが多く有ったと沙汰された。

しかしそのような事を信玄公は知らず。是非身延を東の叡山にするべきであると内心定められていた。
「出家に悪く当たらぬ物」と言うが、これは翌年の四月十二日になって思い当たったものである。
武田信玄は元亀四年四月十二日に病没した)

(甲陽軍鑑)



皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:06:09.16 ID:A+Lsgv+W
>>520
このあとすぐに本能寺の変が起きるんだから皮肉というか面白いというか

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:29:00.86 ID:YAAZcgX4
文章から信長の絶頂点を感じる
強すぎて誰もかなわない感覚

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 11:23:30.95 ID:meTP904Y
5万3万7万で15万か
絶望しか無いな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:26:36.49 ID:gY8uFqPv
「お前の父親は京入りが念願だったそうだから、お前に父親の願いを叶えてやろう」
と言った話も。なんて優しい信長

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:39:26.70 ID:Dc3TRckH
>>520
これだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 14:11:28.28 ID:rHW680I5
そういえば、平清盛の絶頂期だった安徳天皇の即位から平氏滅亡も早かったよなぁ。
都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。

それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 09:16:13.25 ID:OKDUeII+
江戸幕府に比べるとスカスカの体制でよくあれだけ保ったなと
石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 19:17:00.09 ID:CFGmSaJm
秀吉存命中に力を見せつけたおかげで、豊臣による秩序が生まれたから。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:14:52.67 ID:nRo1POF0
石田三成に人望さえあれば…

膳城素肌攻め

2019年10月17日 18:09

518 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:21:19.72 ID:HO4sb0ij
天正八年九月下旬、武田勝頼は上野国厩橋城へ出陣した。今回は東上野の先方衆に、西上野の兵を加えて
大胡、山上、伊勢崎などの城を攻め落とすつもりであった。また自身でその周辺も見て廻り、翌日には
膳城の様子を窺おうと、一条右衛門太夫信連、原隼人佐昌勝、真田安房守昌幸、土屋宗蔵昌恒以下を
引き連れ、持小旗だけの軽装で、総勢、武具も付けずに出発した。

当時膳城は、先年に金山の由良信濃守国繁の持城と成り、地勢をよく知っている大胡民部左衛門を主将、
渋皮主膳正を副将として守らせていた。

さて、この時城中では秋の月見の宴が開かれており、皆は気散じの酒盛りをしていた。ところがその席で
思いがけなく、玉村五郎兵衛という侍が渋皮主膳正と口論を始め、それに那波、伊勢崎、片岡と言った者達も
加わり、あまつさえ双方の家人小者たちまでもを巻き込んで、二手に分かれて収拾のつかぬ混乱となった。

この有様に大胡民部左衛門は怒り大声で叱咤した
「このような時に強敵である武田勝頼が攻めてくればどうするのか!勝頼は隣の厩橋城に来ているのだぞ。
そのための防備こそ急がねばならないのに、酒を食らって喧嘩をするとは何事だ!恥を知れ!」

しかし誰の耳のも入らず乱闘を続けていた。

そんな最中、この膳城に武田衆が到着した。
勝頼も城の中がなんとなく普通でないと察したが、自分たちは武器も持たず素手のままであるので
手を出すわけにもいかず、一旦取って帰ろうとした。

膳城の門番は武田衆に気がつくと驚いて城中に注進した。しかし混乱の中下知するものもおおらず、雑兵達は
勝手勝手に柄道具を手に取り出撃し、まず武田方の倉賀淡路守秀景に襲いかかった。
武田方ではこれを見て西上野衆が取って返し、雑兵たちを取り押さえようとしたところ、これに釣られ
武田衆は総勢がどっと引き返してきた。雑兵達はうろたえ城中に逃げ込んだが、武田衆もこれを追いかけ
虜にしようと堀際まで押し寄せた。

この時勝頼は、故信玄より不用意な城攻めを固く戒められていた事を思い出し、皆に引き返すように
下知したのだが、時既に遅く、土屋宗蔵の手の者である脇又市郎という若者が木戸を押し破り廓の一部に
押し入った。続いて同じ手の者の一宮佐太夫も押し入り、城兵六人と渡り合っていた。一宮はかなわじと見て
引き返そうとしたが、脇又市郎だ「死しても退くべからず」り声をかけて踏みこたえ戦った。

この間に武田方では一条信連の組より浅見治部太夫、堀喜右衛門、中根七右衛門などの歴戦の者共が
駆けつけ、平服のまま切り込んで敵を廓内に追い込んだ。
しかし寄せ手は素手のままであるし、城兵は仲間喧嘩の真っ最中で、双方とも不用意の戦となった
わけである。

それでも城中には腕に覚えの有る侍たちも居て、勝頼の家臣でかつて遠州高天神城の戦いでも
高名をはせた、小笠原民部の家来である林平六郎が討ち死にした。また原隼人佐昌勝も攻め入って
敵七人に取り囲まれて戦っているうちに、小溝に足を踏み入れ、立ち直ろうとする所を真っ向から
眉間に切りつけられて倒れた。曲渕勝左衛門が彼を肩に担いで城外に連れ出し、原の付き人に渡したが、
後に甲府に戻ってから死んだ。

脇又市郎は最後まで戦いよく首も取った。彼は甲府の足軽大将・本郷八郎左衛門の甥で、駿州の先鋒である
脇善兵衛の養子となり、かつて三州長篠合戦に於いて二ヶ所の傷を負いながらも功名を上げた侍である。
この時二十五歳であった。

このような中、皆に心すべしと説いていた主将の大胡民部左衛門も寄せ手の浅見治部太夫に討たれ、
残兵悉く撤退して城は落ちた。

519 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:23:30.93 ID:HO4sb0ij
これに勝頼は大いに喜んだ。父である信玄も多くの城を落としたが、勝頼のように防具も付けす
素手のままで城を落とした事はない。宿老の勝八太郎などは、これまで勝頼を少しでも早く成長させ、
采配を渡したら自身は剃髪して介添と成り、先陣を仕ろうと思っていたが、勝頼がこれほど潔く
育ったからには、おそらく敵の三重の柵はおろか、十重の柵も踏み破って戦っても負けることはないだろうと
気を強くした。

このように褒めるものも居たが、批判するものも居た。

「今もし、敵の中に楠正成のような智謀の良将がいて、偽って同士討ちの体に見せかけ、これを見て
好機と思い素手で城攻めすれば、寄せ手は片端から生け捕られ、生きて帰る者は一人も居なかったであろう。
勝頼公は血気盛んで猪武者だったからこそ、五年前長篠の戦いであのような大敗を喫したのではないか。
あの時敵の三重の柵を破ることが出来ず、信玄公以来の名だたる名将を数多く討ち死にさせてしまった
ではないか。」

そのように嘆くものもあり、事実今度の戦いで死んだ原隼人佐は、その長篠の戦いで生き残った
数少ない勇将であったが、跡部、長坂という勝頼の佞奸どもに家法、軍法が歪められていくのを見るより、
いっそ討ち死にしたほうが良いと思って、今度の戦いに自ら身を投げ出し戦死したのだろう、などと
言われたのである。

(関八州古戦録)

武田勝頼の有名な「膳城素肌攻め」についてのお話



原美濃甲府へ帰る

2019年10月02日 15:10

原虎胤   
236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 12:04:07.12 ID:Xsl4MlKj
善徳寺での(相甲駿三国同盟の)会談の時、武田晴信が北条氏康にこのような話をした

「貴殿の所に居る原美濃守(虎胤)は、昔それがしの所に居た男で、ある不届きな事が有って
追放したのだが、現在貴殿の膝窩に有って、この度も出陣し戦功を経てている。
原はその父とともに二代にわたって仕えた者ゆえ不憫でもあり、こちらへお返し願いたい。」

そう申し出たため、氏康もこの武士を快く返した。

そもそもこの原美濃守の父・豊後守光胤は、房州の千葉介胤親の息子で、下総の原村の
生まれ、文正元年(1466)、その三男能登守友胤は生実の御所(小弓公方)義明に仕えたが、
その死後離散し、甲府へ来て晴信の父。信虎に仕えたのである。その子が今の虎胤で、信虎より
虎の一字を頂いているほどであった。

去る年、甲府に於いて浄土宗と日蓮宗の法論を戦わせた時、晴信は虎胤を近くに招き
「汝が帰依する法華宗では、念仏は阿鼻無間の相なりとて、大事な名号を禁止していると聞くが、
これからは汝も我が宗門に入り、南無阿弥陀仏を唱えぬか。」

しかし虎胤は「その義ばかりは御免被ります」と答えた、晴信はなおも改宗を進めたが、これに
虎胤は色をなし

「御屋形様もご存知のように、もともと手前は無学文盲の一徒輩であったのを、法華を信仰するように
なって一人前に人間と成ることが出来ました。およそ宗旨というものの大本は釈迦牟尼如来より
出たもので、それが八宗にも九宗にも分かれて今日に至っています。そしてどの宗派もそれぞれ
開祖があり、その流儀を守っているので、どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
御屋形様の命であっても、南無妙法蓮華経を南無阿弥陀仏び変えることは出来ません。
それは丁度、武士の道を背き義理を欠くことと同じでございます。

例え一命を召されようとも、高祖の禁を破り他宗の念仏を唱えることは出来ません。」

そう言い切ると座を立った。これに立腹した晴信が彼を甲府から追放し、故に美濃守も仕方なく
小田原へ来て氏康に仕えるように成ったのである。
氏康はその美濃守を召し出して今度の晴信の言葉を伝え、こんこんと説得して甲府へと返した。

永禄七年(1564)、原美濃守虎胤は甲府で死去した。

(関八州古戦録)



237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 13:07:48.37 ID:7HHBXqIw
>>236
>どの宗派もそれぞれ
>開祖があり、その流儀を守っているので、どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
今でも使えるなこれ、面倒な親戚に絡まれたらこれで切り返そう

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 13:11:10.09 ID:Wh4HjWre
宗教はいつになったら統一されるのか…

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 19:51:16.98 ID:eX+Eyt2p
人類が全部ニュータイプにでもならないと無理

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 22:07:46.04 ID:ukdoQvMj
ニュータイプって殺し合いばっかしてる気が

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 22:18:27.16 ID:Ycs1ZVgX
キリストも大日如来と同じようなモンっていう理解に通じるな

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 05:56:31.83 ID:quZvIdWy
ララァが導いてくれる

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/03(木) 06:27:35.23 ID:YrNckMr7
>>242
いや、アイツ、私は永遠にあなたたちの間にいたいのとか言ってシャアとアムロもて遊ぶ悪霊じゃん
https://youtu.be/76mJeV77e9U
後、こんな映像見せ付けて人類は永遠に破壊と再生産を繰り返してガンプラ買えば良いと暗に言ってくるバンダイの手先

信玄の国柄の兜

2019年08月10日 15:47

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/10(土) 02:10:43.98 ID:Q8jcWQdG
武田信玄の国柄の兜として、高二百石で大御番を勤める渡辺左次郎(英(さかえ))の家に伝わっているものを
見た人の語った所によるとmそれは頭形三枚錣(錣が三枚になった兜)にて、一見した所粗末に見えるが、
この錣の裏に切金(金銀の薄板を模様に切り貼り付けたもの)が入っていた。国柄唐草の蒔絵であり、
間庇には信玄の自筆にて歌が認められていた

 いかにせん くずの裏吹く秋風に 下葉の露の残りなき身を
 (葛の葉裏を見せるように吹く秋風によって消える露のように消え去るこの身をいかにするのか)

上州白井の明珍信家による作であるという。甲州の武士であった下條伊豆守が戦国に浪々して、
その倅が渡辺家に養われた故に、今かの家がこれを持ち伝えているのだという。

(耳嚢)



信玄公の御使

2019年08月02日 18:03

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/02(金) 01:49:42.15 ID:br8PQdXr
信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

日向源藤斎(玄東斎。宗立)は、関東・安房国・結城・多賀谷・宇都宮・越前・比叡山への御使である。

雨宮存哲は近江の浅井備前(長政)と四国の長宗我部への御使である。

長遠寺(長延寺。実了師慶)は伊勢の長島や河内国大坂、総じて一向宗の盛んな所へ参られた。ただし
越後の謙信へも1,2度長遠寺が参られると、謙信は誉めて「流石は信玄が気に入ったのも道理かな」
と、信玄公と無事に仕えよと謙信が申されたこと2度であったが、2度とも「まずは長遠寺を遣しなさ
れ」と、輝虎より申し遣されたのである。よって件の如し。

――『甲陽軍鑑』



四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである

2019年07月31日 18:54

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 18:17:56.42 ID:Yj3Qypa8
永禄8年乙丑(1565)9月9日に、尾州織田信長公より織田掃部(忠寛)という侍を甲府へ御使に
遣しなさり、信玄公へ仰せられるには、

「恐れ多い申し事ですが、去る申の年に駿河義元公が信長を踏み潰しなさろうとして尾州へ発向なされ、
勝利を失って殊に討死なさり、その勢いをもって我が本国は夏秋中に信長に従い、その暮れより美濃国
へ取り掛かって今年まで6年ですから、大方今年か来年の間には、美濃国も信長が支配仕るでしょう。

そこで信玄公が御持ちの木曽郡と隣続きになりますので、所々の往来も互いに申す事がないように伊那
の四郎勝頼公へ信長の養子の娘(龍勝院)を進上したいのです。

この女子については、信長の父・弾正忠(織田信秀)存生の時に、美濃国の苗木勘太郎(遠山直廉)と
いう侍を婿に仕り、すなわち信長にとっては妹婿でして、昔より美濃国苗木の城に居住しております。

かの者(直廉)の娘を幼少から信長は養い置き、姪女と申せども実子よりは労わっています。信長には
息女もおりますが、私めは今年32歳なので惣領の男子でさえ10歳程で、20歳になられる四郎殿の
内方になるべき息女を持ち申しておりません」

と諸々の信長の申されようあって、乙丑霜月13日、苗木殿の娘で姪女と信長は養親になって伊那の高
遠へ御輿入れし、四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである。

また御使を仕る織田掃部は信玄公に11年召し使われ、5年前の辛酉11月に信長が呼び返しなさった
尾州侍で、しかも信長譜代の侍であるが、信長18歳の時に気に違えて11年甲府に罷りおり、信長2
8歳の時に召し返された。

信長公より信玄公へ御使の人は織田掃部・赤沢七郎左衛門・佐々権左衛門(長穐)。この3人は正月・
3月・5月・7月・8月・9月・極月の7ヶ月に樽肴・巻物・袷帷子を贈り、殊に信玄公の御召し料に
と御小袖1重ずつを格別に武田菱を大きく蒔絵した。この紅で緒をしめたものに、御頭巾1つ・御綿帽
子2つの合い3色を、これも小さい蒔絵をした箱に入れて、甲府へ信長は御音信申されたのである。

信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

――『甲陽軍鑑』



125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 20:31:38.19 ID:zlGD2hC1
さすが信長