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異形な僧体の正体は

2018年05月03日 17:40

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 15:10:58.53 ID:TwZnZBzO
天文の乱とその後の燻りが集結し混沌としていた伊達家が落ち着きを取り戻した天文21年、伊達家当主伊達晴宗は、弟の亘理元宗に対し上洛を命じた。
将軍足利義輝への拝謁、晴宗の家督相続後の報告、愛宕詣などを終えた元宗は当時二十一歳の若者。
文武両道に優れ後世からは伊達家三代の重鎮と称された元宗だが、流石に大任を終えた達成感から人心地ついていた。

そんな元宗の下へ、急な来訪者が現れる。慌てて面会をしてみれば、相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。
おまけに左右に屈強な供の者を従えており、元宗もこの訪問者をただならぬ人物と見抜いた。

「失礼ながら、どなたでありましょうか」

「こちらこそ急な面会御無礼いたす。某は先の甲斐守護、武田無人斎と申す」

なんと異形な僧体の正体は、約十年前に嫡男晴信によって甲斐を追放された武田信虎であった。
甲斐を去って西国に赴き、後に駿河に住まわっていた信虎であったが、その後も度々京や高野山、奈良の諸山を遊訪し、時には将軍家に対し奉公していたらしい。
驚く元宗に対して信虎は悠然と諸国の時勢を尋ね語らい、いつの間にやら二人はすっかり意気投合してしまった。
しかし元宗もいつまでも京に長居をするわけにもいかない。国へ戻らねばならぬ旨を信虎に伝えると、信虎は名残惜しそうな顔を若者に向けた。

「そなたの様な文武に通じた若者と会えることは人生の何よりの楽しみである。この度の語らいは実に愉快であった」

そう言って、自らの腰から佩刀を抜き元宗に手渡した。

「これは相州の業物、綱広の作である。是非受け取ってほしい」

元宗は感激し、恭しくその刀を拝領した。
そして信虎とその供の者達に丁重に礼を述べると、陸奥への帰路に立ったのであった。

信虎が甲斐を離れた際、嫡男晴信は二十歳であった。
もしかしたら信虎は才気煥発な若き武士に、かつての我が子の姿を重ねたのかも知れない。



845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:06:21.19 ID:m/bWX0G2
我が子の姿を重ねたらそんな接し方しないだろw

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:45:10.59 ID:C+6Oo2ju
>>845
確かにw
でも、早くこっちにおいでよって手紙書いてるし

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 19:22:44.85 ID:GiUzTZdE
「嫡男晴信は二十歳」
の後に
「、次男信繁は十六歳」
と加えれば何とか

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 20:40:37.87 ID:XqUwDBpF
>>844 これこそ良い話だ
>>845
信虎は今川領にいても晴信とやりとりしてたから憎しみだけではないのではないかな知らんけど

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:17:45.38 ID:RcMzVUiV
なんで信虎はいきなり訪問してきたんだろ
上洛する諸大名の関係者に会いまくってたのかな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:56:54.58 ID:oCGv9hVP
>>844
これ出展は何でしょうか?
祖父物語?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 22:36:26.38 ID:Mb6IjGto
なんで伊達と武田の話が祖父物語に出てくると思うのか

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 00:21:37.24 ID:obnNlYmh
伊達政宗の祖父の弟の話だから祖父物語とでも思ったんじゃね

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:16:44.09 ID:vUy0oAOP
伊達も親子で争って親を幽閉して子が継いだ
親近感を抱いたのは想像に難くない
従って晴宗の股肱元宗の中に兄思いの息子信繁の姿を見たのだろう

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:23:12.07 ID:pSLxbVzv
>>857
若武者の逞しさを羨ましく感じていたんじゃないかと思った
大河で追放後でも晴信を叱咤していたイメージが強いからかな

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:44:28.98 ID:vUy0oAOP
大河は創作、好き嫌いっていうより方向性の違いでしょ
前の支配者を貶めるのは誰もがやってる事
ウソを見抜けない人はネットでもバカを晒す

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 08:49:18.10 ID:rklRNSKj
信虎さんて、甲斐を追放された後も

>相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。

なんて書かれたり各地を転々として回ってたり、息子より長生きしたり…
乱破でもしてたんだろうか?老いてなお盛んだなぁ…

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 09:16:17.33 ID:mE2l5ksp
甲賀の六角残党と連携して義昭の挙兵に呼応した近江侵攻も目論んでたらしいし、成功してたら信虎・信玄による武田親子夢の信長挟み撃ちが見れたかも知れないあたりに面白さを感じる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 10:39:41.61 ID:CB9h8h4v
武田信虎のwikiには在京中に南部信長と交流があったとされている
まとめにありましたが、どうやら南部但馬守信長が国元の七戸氏に送った手紙に信虎の名が
ただし年代が不明、南部信長は将軍足利義政に出仕して但馬守を拝任したらしい
南部但馬守でググると丹羽長秀の小説がw
言継卿記にも名前が出てくる、知行の件で相談したいんだとか
南部信長のwikiを見ると八戸信長と久慈治義のことを指すんだとか
久慈家は代々備前守と摂津守を名乗ってて一族に昆但馬高光という人がいたようだ
久慈治義は備前守、南部信長との関係は不明

何が言いたいのかというと南部但馬は在京中に子供を作って代々将軍に仕えさせてたんじゃないかってこと

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 11:48:31.64 ID:pSLxbVzv
>>863
一族が在京する家はそれなりにあるんじゃないの?
隣国だけど近江の六角なんかはそうだったよね
まあ伝承のなかの人物がいたりもするけど
あとは伊勢みたいに当主は在京して一族に領地を任せておくとか

武田の場合、信虎の前に敗走した信長が在京してたけど、若狭武田の伝手とかなんかな?

865 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 12:03:40.36 ID:rklRNSKj
>>863
確かに足利義政に仕えた人物だと、とんでもないことになるしね…
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枉げて勝頼の下知を了承し

2018年04月22日 21:19

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 20:29:37.55 ID:ou08Zeez
 (1582年3月3日)新府城から郡内(小山田領)へ退避するために新府城にある物資や妻女たちを運ぶため、
夫馬300疋、人夫500人を新府城まで出すようにと国中に触れたが、
甲斐の地下人たちは山野に隠れてしまい、国中は織田方の侵攻と武田の敗戦を知り騒然としていた。
夫馬も人夫もなかなか姿を見せず、勝頼夫人の輿を担ぐ輿かきすら逃げうせてしまっていた。
家来たちが手分けして、夫馬一疋をようやく探し出し、これに草鞍を敷いて北条夫人を乗せた。
 勝頼は新府城を退去するにあたって、ここまで同行してきた信豊を呼び寄せた。
「信濃国を譲渡する。小諸城は要害堅固の城であるから、
ここを足場に舅である小幡上総介信真(小幡信貞)らを頼み、真田昌幸、内藤昌月らと協力して
上野、信濃の軍勢を集めて信長らが甲斐に侵攻してきたら後詰をして欲しい」と頼んだ

これに対し信豊は
 「信濃を譲られたことは誠に光栄であり、今生の思い出としたい。
だが譲られたとしても私に対し、上野、信濃の国衆が強力をしてくれなければ、
結局それは徒労に終わるほかない。ならば、どこまでも最後まで勝頼様と行動を共にしたい」
と勝頼が何度も頼んでもなかなか応じなかったが、勝頼もそれを承諾はしなかった。

勝頼は
「気持ちはありがたいが、一門が同じ場所に落ち行くならば、それは計略は無きに等しい。
枉げて勝頼の下知を了承し、後詰めの作戦を実行して欲しい」と頼んだ

ついには信豊が折れて佐久郡や上野衆をつけたうえで新府城を去り、勝頼と別れた
(甲乱記)

因みに勝沼で織田を防ぎ、信豊が織田軍を封鎖するというのは
天正壬午の時の北条に対して徳川がやったことと同じような作戦をやろうとしてたんではないかと

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 20:42:14.11 ID:ou08Zeez
あと書き忘れたけど
武田信豊は軍鑑では密室政治だと批判の対象の1人である
だから彼の最後は見限って本領(小諸)に帰ったとしている。(※小諸は信豊の本領ではない)

一方で甲乱記の信豊は
信豊と勝頼とは幼年期から仲が良く、勝頼が家督を相続してからは、特に信豊を重用していたので
信豊の意思は勝頼の意思であると武田領内の人々はそう認識していた

信豊も最後は小諸城主下曾根浄喜に裏切られ自害するわけだけど
少なくとも甲乱記の勝頼との最後は№2として悪い話じゃないと思って>>782書いた



784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 00:08:54.64 ID:PU1Wd8To
No.2としては親父の足元にもおよばないのな、信豊

諏訪併呑

2018年03月09日 10:59

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 06:39:05.96 ID:54OcSnrL
小笠原長時公は諏訪頼重を味方として、甲斐国内および柳と申すところまで度々御働きになった。
そんなところに晴信(武田信玄)が典厩(武田信繁)をもって頼重へ仰せられたことには、

「武田の味方となりましたら晴信の妹を人質ながら妻子に遣わしましょう。その上で信濃が治まり
ましたら、諏訪に村上郡を添えて遣わしましょう」と色々無事を作り仰せられ、

それに付き、頼重は同心致されたのである。頼重は長時公の家老・小見と申す者の婿でおられた。
小見の娘を追い出して晴信の妹の婿になり、甲斐上原城で祝言されて頼重の息女は甲斐へ人質に
越され申した。これは頼重の先腹の息女である。それより頼重は晴信の味方になったのである。

長時公が仰せられたことには、「晴信が諏訪頼重と縁組して諏訪を甲斐へ引き付けたのは、伊那・
林へ取り掛かろうという知略のためである。しからば、晴信の旗下になった諏訪頼重を踏み崩し、
晴信へ取り掛かって一戦をなすべし」と仰せられ、伊那衆と仁科衆がひとつになって長時公は

諏訪へ御働き遊ばし、頼重の持ち分を焼き払って上野原へ取り掛かった。4,5日攻めると頼重の
者たちを討ち取り、本城ばかりに攻め寄せていたところに、晴信は後詰に蔦木まで御出馬された。

先手は板垣(信方)、飯富兵部(虎昌)、浅利が諏訪の青柳まで参られた。長時公方は伊那衆の
小笠原民部少信貞、下条、箕輪頼親(藤沢頼親)、万西でこの衆が先手となって、長時公の本陣
より攻め掛かって板垣と飯富兵部を切り崩し、首百100ほどを討ち取った。

長時公は実検なさって勝鬨を作り、諏訪頼重は降参して人質を出し、長時公の旗下になられたに
付き、長時公は林へ御入馬されて、伊那衆も帰陣仕った。その後もまた頼重は晴信方になった。

伊那衆の内、箕輪と申すところは6千貫で箕輪殿の領地であった。福与城(箕輪城)に在城の
ところに諏訪頼重は晴信の先手を仕り、3月上旬福与城へ取り掛かり、60日ほど取り巻き攻め
申した。福与城に籠った箕輪頼親の侍衆・松島、大出、長岡、小河内、福島、木下の衆は箕輪殿の
家中で大身の武士である。その他に野口寺や澤々の者が100余騎、雑兵1500で籠っていた。

右の衆が城際で日夜取り合い申し、その時に箕輪殿の内に藤沢織部と大泉上総といって強弓の
射手がいた。福与城の大手でこの者たちの矢先に当たり、晴信の者たちが多く死んだ。2人の
武士は移って箕輪殿に供仕り、中塔城に籠り申した。伊那衆はことごとく残らず後詰仕り、

箕輪福与の近辺の三日町と申すところに陣を取った。天竜川を隔てて足軽合戦があり、長時公も
後詰に上伊那の内の籠ヶ崎と申すところを御本陣にされ、先手は北大手に陣を取り申した。

その時、それがし(著者・二木重吉)は万太郎と申し、生年庚寅年15歳で初めて具足を着仕り、
御供仕った。天文13年(1544)甲辰のことである。

下伊那の内の小笠原信貞より多科惣蔵を使者として籠ヶ崎へ参った趣は「御馬を福与城の根古屋
へ寄せられて、是非一戦仕るべし」との由を申して来た。ところが伊那衆に対して御憤りに思し
召すことがあったために御馬を御寄せにならなかったのは、御一代の御分別違いであった。

それに付き、伊那衆は引き取り申した。箕輪殿の城は無事になり、権次郎と申す弟を晴信へ人質
に出して箕輪殿は牢人となった。そのため長時公も林へ御引き取りになられた。

諏訪頼重が晴信公の妹に若子が出来申して心安く存じ、甲斐へ参られたところ、甲斐柳町と申す
ところで晴信より頼重を生害した。それがしが16歳の正月末のことである。それに付き諏訪衆
と晴信とが合戦し、その年中に諏訪と甲斐は治まり、晴信は城代に板垣を置かれ申した。

――『二木寿斎記(二木家記)』


それ故に、士気は常に十倍

2017年11月30日 12:35

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 10:57:46.87 ID:q79QVBiF
武田信玄が大敵と戦う前には、度々配下の軍勢の心合いを抑え、「おそらく合戦は無いだろう」
などと言って、彼らの中に、必ず合戦をするという気を励ました。

彼らは「是非御一戦あるべし!」としきりに戦を好むのを、信玄は尚抑えてその気を養い、
その上で戦わせるのだ。それ故に、士卒の士気は常に十倍したという。

(士談)



468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 18:19:16.28 ID:74SVy9wm
どうかんがえても逆効果

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 18:40:21.74 ID:FEsNPFXR
信玄の話が何でも美談にされちゃうのはやっぱり権現様の力なのかね

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 19:18:58.23 ID:OVNfo8Ez
>>467
ダチョウ倶楽部かよw

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 14:17:46.20 ID:ARHJJxpy
分かってないなー
殺戮と強姦と掠奪に飢えた兵士を焦らすためにやってんだよ
ペットにメシやるとき必ず待てをさせるだろ
あれと一緒

家康は利根か

2017年09月22日 19:09

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 15:43:53.29 ID:SmL/qRqe
ある時、穴山梅雪が馬場美濃(信春)の向かって聞いた

徳川家康というのは、人に優れて利根な人物か?」

これに馬場美濃
「なんという不案内なお尋ねか。

謡、舞、或いは物を読んでその理解が早いことを利根といい、
その所作がらが良いのを器用とも利発とも言います。

座配や時宜についての仕様が良く、大身とも小身とも、付き合って一つも軽薄な所がないのを
利発者、あるいは公界者と言います。

芸の理解が良くなく、座配なども良くないが、武義について勝れた者、放し打ちの一度も二度も
致したような者を利口者、
槍脇を勤め首尾の良きこと2,3度有れば甲斐甲斐しき者と言います。
そしてそのような働きが重なれば兵者(つわもの)とも、覚えの者とも言い、
その覚えが重なると、大剛の者、
その人物に、さらに分別工夫が有ればそれを名人と言います。

徳川家康は三河一国から遠江まで手をかけ、日本の弓矢取りの中でも若手の代表格と言えるでしょう。
そういった人物に対し、利根かどうかと尋ねるのは、いかがなものでしょうか?」

この話の内容から考えるに、利根、利発、利口、覚えの者、大剛の者などという区別であるが、
馬場の言っている理屈も正しいとは言い難い。これはその当時の、世俗における理屈を伝えている
だけなのだろう。

ただし、何事でもその道々に定まった言葉というものがあり、その弁えなく使ってしまっては、
その言葉の持つ意味が消えてしまう。
そういった意味で、例えば同じ学問僧を指す言葉であるが、教家においては所化と呼び、
洞下においては江湖と呼び、開山派では衆寮と呼ぶように、その品によってその言が変わるのだと
心に付けて、言葉に気をつけてその説を詳しく説明すれば、みだりな言葉の出ることは無い。

そういった中、「武辺者」という言葉を定まったものとして使う向きがあるが、この意味合いも
東西都鄙によって別であり、家によっても変化する。その文字の字義、理えお正し、言葉をみだりに
致さないこと、これも君子の戒めの一つである。

(士談)

言葉を使う時はその意味や定義をきちんと押さえておかないといかんよ、というお話



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 16:45:29.09 ID:j6deZQvo
いちいち呼び変えるのって大ふへんだなぁ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 17:38:47.63 ID:OQHDg4wR
なるほど、儒者の書きそうな書物だ

人はただ、学ぶべきである

2017年09月15日 18:05

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/15(金) 17:36:03.52 ID:Uz3vy/o7
ある時、武田信玄はこのように言った

「人はただ、学ぶべきである。
学ぶと言っても読物ばかりではない。何事であっても習うことにより学ぶというのだ。
殊更弓矢の家に生まれた者は、心がけて一日一つ良き事を聞けば、十日には十聴き習い、
工夫分別して物の理に徹するならば、一文不通の人であっても、智者と呼ばれるであろう。

今川氏真は我が聟であり(原文ママ)、北条氏政はまさしく氏康の子である。
何れも物をよく書き、よく読み、短冊色紙に詩歌を記し、自作の文章もよくこなす。
しかし彼らは、当年既に二十五にして、弓矢のこと、武義の備えについて、何であっても
人の口に上る程度の話もないのは、最も文盲な者にも劣るといえる。

こういうことから考えるに、人々は学びというものに心得違いがあり、学ぶべきことを学ばず、
要らぬことを熱心に成し、結果家を失いなお下すに至るわけで、人々はそうならぬよう、慎むべきであろう。

(士談)

信玄が言うと色々複雑な気持ちになりますね。


岩村落城の伝説

2017年08月18日 13:55

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 05:15:48.04 ID:OmakkWrJ
○ 大将塚(旧岩村町)

伝に曰く、織田信忠が秋山晴近(虎繁)夫妻及び大島・座光寺らをここで磔にしたという。

その後、城主はあるいは難に遇いあるいは夭折した。時の人はこれをもって、その霊の
祟りと見なした。丹羽氏が城主になると寺を建て5人の魂を祭り、その名を東照山五仏寺
といった。(『巖邑府誌』)

なおこれに関して信濃の地はまた面白い伝説を持っている。すなわち掲げて参考とする。
ひとつは駒ヶ根村の姫淵の伝説、ひとつは諏訪のおまん殿の伝説である。

○ 姫ヶ淵(木曽旧駒ヶ根村)

天正3年4月、信長は武田氏を長篠に破り、大兵で岩村を囲んだ。11月、城中の兵糧は
尽きて城を出て降伏した。織田の兵はこれら2千人を殺し、城主の秋山を長良川で磔にし、
信長自らその姑<おば>を斬った。

姑の侍臣らは驚いて遠山氏の少女を拉して逃れ去った。やがて亡命の遺臣らは主家の
遺児を奉じて木曽に入り、小川村に隠れた。小川の民が織田と称するのは、この因縁に
基づくという。

同地方倉本立町荻原東野などの口碑によれば、少女らは美濃路より来て立町で木曽川
を越え、諸原小野谷を経て小川村に入ったという。

やがて少女は成長して見目麗しくなり、山家には似合わぬ美しく気品ある姿であったから、
宿の妻にと望む者が多かった。中でも諸原某という郷侍は、

「我こそ婿になる」と、日夜言い寄った。遠山氏の娘は厭わしさに、遂に水に身を投げて
死んだ。それより、諸原の辺りでは年々疫病が流行し、土民は恐れて祠を建てて、斎き
祀ったという。(『西筑摩郡誌』)

○ おまん殿(信州諏訪地方)

諏訪の昔話に曰く、天正10年のこと、織田信長は信州に侵入し、法華寺というところで
兵糧を使っているところへ、色々の小袖を着た女房が1人入って来た。

この女房は信長の前へ出ると、懐中していた錦の袋から茶入を出して、信長に見せた。
すると信長はにわかに激高して刀を抜き、この女房を一打ちに斬って捨てた。

この女房はすなわちおまん殿(おつやの方)で、もとは岩村の城主・遠山氏の妻、信長の
伯母である。岩村城が武田氏の手に帰するや、その将・秋山伯耆(虎繁)が入り守った。

遠山氏の後家・おまん殿は秋山の妻となり恥じる色も無く仕えていたから、信長は怒りに
堪えずこの始末に及んだのであった。

されば、おまん殿の恨みが消えないで遊魂は今でも彷徨って、夜な夜な小袖姿で茶入を
捧げて諏訪明神に詣でるのだという。(中里介山『大菩薩峠』)

――『恵那郡史』



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 21:13:59.79 ID:eiHQW3Ef
>小川の民が織田と称するのは、この因縁に基づくという。

スケーターは本当はこういうところの子孫だったりするんじゃないかな
系図を買ったんじゃなければだけど

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 21:55:39.37 ID:iAs5+xUD
戦国時代の日本人がいい加減に系図作ってたのに
現代の日本人がそれを信じつつも現代日本人の系図にケチをつけるのは興味深い現象だ

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:07:18.91 ID:eiHQW3Ef
つうかさ
俺は買ったって言ってもいいと思うけどね
ぶっちゃけ系図なんてそんなもんでしょ?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:32:55.08 ID:QTgOSbH6
家康みたいに系図買えなかったので、怪しげな伝説捏造して源氏になった例も

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:37:30.90 ID:hBePV6uS
家康の安城松平に関しては、少なくとも祖父清康の時代から、おそらくは初代親忠の時代から新田源氏を名乗っていた模様

○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

2017年08月14日 16:42

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 14:19:58.49 ID:O+XKGCMe
○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

吉村源斎の居た址で、木曽川の碧潭に臨んでいる。

天然の巌窟をなし、方9尺余り、その後方に更に一大の巖が河上に突出している。
そこは平坦で方5間余りある。現今もなお、焼米および陶器の破片等を掘り出す。

伝えに曰く、源斎は初めの名を吉村太郎左衛門氏勝といい、智謀優れ、かつ頗る
剛力の人であった。源斎はこの地に住んで付近の原野を開拓し、糧食を蓄えて
ひとえに時世を窺っていた。

武田信玄はその名を聞いて源斎を招いたが、源斎は応じなかった。そこで信玄は
兵を寄こしてその居を焼き、源斎を殺したという。

――『恵那郡史』


妻子を引き取る

2017年07月31日 12:09

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:23:38.85 ID:zeMg4GZe
穴山梅雪は駿河国江尻に、曽根内匠と共に番手にあり、徳川家康に対し内通を申し出ていたが、
梅雪の妻子は人質として甲府にあり、これを引き払うことは難しく、殊にその頃は武田勝頼も梅雪を疑い始めていた。

そこで梅雪は密かに、徳川家康に内通を打診して、『返り忠仕るべし』との書状を持つ使節が来たのを、たちまちに誅殺した。
そしてその書状、並びにその頸を勝頼に見せた。
勝頼はこの計略に謀れ、梅雪を疑う心を和らげた。これにより梅雪は、妻子を引き取ることが可能になったという。

(士談)



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:27:55.27 ID:kaq0+LQg
妻子のために家康の使者を殺しておきながら家康に降るのか
のちに梅雪だけ死ぬのも仕方ないな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:54:53.00 ID:RR+3UwN9
曽根内匠といえば信玄の両眼の1人だけど
こっちは内通してなかったんだろうか

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 11:02:37.61 ID:9PztAVDP
>>26
義信派だったらしいし徳川に無抵抗で降りてるから内通あったっぽい

武士の作法

2017年07月30日 19:08

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/30(日) 16:42:29.39 ID:GEqodZar
武田信玄の時代、武田家の武士の常々の慣習として、、道において、一人は騎馬、もしくは足駄(雨天用の
高下駄)履いていて、もう一人が歩行で行き会う場合、その両人がたとえ仲が悪くても、歩行の者が
物陰に隠れるのが当然とされた。そして騎馬、もしくは足駄の者は遠くで地面に降りて時候の挨拶をする。

先に歩行の者が物陰に隠れたのは、馬から降ろないでおこうという思いやりであり、武士としての
礼儀である。このように人が礼をしたというのに、これに挨拶を返さないのは非義というものである。
また用心のためにも、騎馬のものは降り足駄を履いていれば脱ぐのは、良き武士の作法である。

しかし馬に乗ったまま通るのなら、降ろすことは無用である。それは相手が武士の作法を知らぬ女侍なのだ。
逆に徒歩の者が傲慢で「降りよ!」などと言い掛けて来るのなら、それは降りる必要はない。
降りるくらいなら相手を討ち果たすべきだ。

もし又、親兄弟の敵のある者が徒歩で通る時、狙われる人が騎馬で行き会った場合、
狙われている者は「御使に参る!御免候へ!」と、嘘を慇懃に言って乗り通れ。
こうすれば狙う人も討たないことが不覚にならず、騎馬のまま退けば追いつかれることもない。

(士談)



『天上天下唯我独尊』の旗

2017年07月20日 21:25

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 23:02:45.18 ID:UmjAh2kJ
武田信玄の軍旗は6つあり、その一つに書して曰く

『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』

この旗は川中島の戦いの時に初めて用いられたと言われる。
後に、三方ヶ原の戦いで大勝を得、新たに加えられた旗には

『天上天下唯我独尊』

の八文字が描かれたという。
凡その物、未だ満ちて欠けない物はない。これは聖人の明戒である。
信玄が加えたこの八文字は、満もまた極まっている、これ覆亡の兆しならずや。
天正元年3月、さらにこの旗を立てて野田城を攻め、たまたま銃弾に傷つき、4月、ついに没した。

(随意録)


信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に

2017年07月20日 21:24

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 11:40:47.67 ID:K/Okvhdd
>>6
信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、
都のキリシタンがはなはだ懸念しているように我らは今後の迫害に備えておく必要がある。
ただ、もしデウスが我らに見方し給うならば、
神の恩寵と御助力によりこの悪魔の怒りがほとばしるのを予期するのはたやすいことであろう。
信玄が遠江と三河の国に来襲する前、面白い事があった。
それは彼が信長に書状をしたためた時、まったくの傲慢さから己の名を高めようと、書状の封筒に己が名を次のように記したことであった。
すなわち、テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と。
これは天台宗の教えの家の最高位者にして修道者なる信玄を意味する。
これに対して信長は、ダイロク・テンノマオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、すなわち諸宗派に反対する悪魔の王と答えた。
というのも、ダイバ(提婆)が釈迦の宣教を妨げたように、信長もまた今まで日本の全ての偶像に対する崇敬を妨げたからである。
それ故、私は彼が我らの主なるデウスの正義の鞭のように当地の諸宗派の悪しき迷信を罰するため、
かつての繁栄を取り戻すことを神の御慈悲において信じている。
しかして今や異教徒たちは、彼の勝利がこの度かくも急転したのは
比叡山や観音に捧げられた寺院を焼き払うという無謀な所行に対する神仏の罰以外の何ものでもないと言ってはばからない。
だが、信長はこれをことごとく一笑に付し、日本においては彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている。


1573年4月20日付ルイス・フロイス書簡より



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 17:38:21.91 ID:raQOLju8
提婆達多の提婆(デーヴァ、神)と
ゾロアスター教の悪神ダエーワと
ラテン語のデウスは同語源
デウスが提婆達多と同様、仏教打倒という魔の所業をしても不思議ではないな

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 19:23:30.87 ID:XOH91jah
にしても、信玄はやっぱり上洛の意図があり、実現の可能性は高いと思われていたのか。

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 19:51:10.51 ID:e2dWouAG
>>9
そう宣伝してたってこととそういう噂が流れてたってことは事実だろうね
ただしこの時フロイスが記した包囲網側侵攻の噂は義昭以外全部ハッタリだったけど

花澤城の鯨波の声

2017年07月10日 17:40

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/10(月) 13:41:31.93 ID:FFhxfwX+
永禄13年、駿河花澤城を武田信玄が攻めた時、武田方の落合治部が討ち死にした。
その頸を敵は取ろうとし、一方治部の弟である左平次は兄の死骸を戦場から退けようとして、
このため敵味方入り乱れての競り合いとなった。

この時、信玄の旗本衆は高台よりこの様子を見て、旗本の総攻めのように、一斉に鯨波の声を上げた。
これを聞いて敵の兵は皆、旗本衆の攻撃があると考え城に入り、左平次は無事、兄の死骸を
退けたという。

(士談)



89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 19:44:28.37 ID:3R43EUyZ
>>87
前にも「鬨の声と言えば」ていうので出典不明で出ていた

ついでにこの漫画ではなぜか上杉との戦いってことになってる
ttp://i.imgur.com/yLfJKkM.jpg
yLfJKkM.jpg

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:10:38.34 ID:3vZPBYkw
>>89
この頃の民明書房の真実味は異常

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:23:03.03 ID:/jTE09E/
真田信幸も岩櫃城に家族と避難するときに鬨の声をあげて
盗賊や乱波たちを追っ払ってたっけ
加沢記だから信憑性怪しいだろうけど

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:29:38.91 ID:oXS0/r1j
信長は稲生で林の手勢に囲まれたときに、大声でわめいて相手を追い散らしたね

「武田の弓矢は今、頂上に登った」

2017年05月15日 12:09

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 09:52:56.00 ID:LUvPc2Sq
武田信玄が北条と、駿河国薩タ山で対陣した。
正月18日より4月20日までの、93日間の対陣であり、その間日夜競り合いがあった。

武田軍は一番より十番まで、一手切りに足軽を配備していたが、跡部大炊介(勝資)がこの番に
当たっていた日、北条軍の松田の兵に押し立てられ、二町ばかり敗北し、さらにその場に押し留まった。

このため武田信玄は馬場美濃(信春)に対処を命じた。
しかしこの時、馬場の兵は僅かに百騎あまりであり、跡部の三百ばかりの救援には如何かとあって、
彼はこの役割を内藤修理亮(昌豊)に譲ろうとした。しかし内藤は
「あのように気負った敵に対するのは、馬場ならではである」
そう言って辞退したため、結局馬場がこれを請けて現場へと向かった。

現場に向かうに先立って、馬場は「大炊介は早々に引き取るように命じてください」と望み、
信玄は百足の指物の衆を出して、その通りに申し渡した。

馬場は己の兵を3つに分けると、一手は敵に向かい、足早に撤退する跡部の軍に付いてくる敵軍を、
跡部と交代して引き受けた。
一手は脇より横筋から弓鉄砲にて懸った。これにて松田の軍2500は悉く崩れた。
最後の一手は後備えにて、この場所の武田の備えを回復し、さらに敵の二の木戸まで押し込み、
引き上げた。馬場一大の深入りであった。

「面白さに我を忘れてしまったよ。」
これは合戦の後、馬場が内藤に語った言葉である。
信玄は馬場の戦いを、「武田の弓矢は今、頂上に登った」と評した。

(士談)



903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 10:14:54.19 ID:wjrkMz9Q
頂上に達したら下るだけ、と突っ込みたくなった

法性院阿闍梨

2017年05月09日 21:31

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/09(火) 00:23:38.79 ID:fJ31A3/a
また信玄(武田信玄)は、後には10年に及んで精進潔斎し、叡山より
袈裟衣を下され申し、“法性院阿闍梨”と号して常に看経三昧だった。

それ故であろうか、その頃所々の陣中において不思議な瑞兆もあった
とかいうことである。

――『当代記』


「甲乱記」では勝頼の新府城からの逃亡を

2017年03月05日 18:34

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 21:22:06.58 ID:x2xTiC3w
まとめサイトの管理人さんオススメの平山優「武田氏滅亡」の甲州征伐の箇所読んでたら
「甲乱記」では
飯田城の武田方は、馬糞が燃えているのを織田軍の鉄砲の火だと思い夜間に一目散に逃げ出した
まるで富士川の合戦で水鳥の音に逃げ出した平家のようだ
(平山優によれば、実際は浅間山が48年ぶりに噴火したのを見た武田方が戦意を無くしたからかも、としている)

と書かれてるとか、

勝頼の新府城からの逃亡を木曽義仲の没落や平家の都落ちになぞらえている、

そうだ。
富士川の合戦の大将が武田信義で
自称木曽義仲の子孫の木曽義昌がいち早く裏切ったことを考えると歴史の皮肉というかなんというか


長坂源五郎の事

2017年02月12日 09:25

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:11:19.37 ID:1YM6JH+R
長坂源五郎の事

武田信玄長坂源五郎の心気を試そうと、
度々美女を源五郎の方へ御用を申し付けて使いに出されました。
すると、度々の事なので後になっていくと、
源五郎は嗜みが緩みその女に戯れた言葉をかけてしまった。
その様子を御側の者から聞かれると、信玄は実際にその様子を御覧になられ、
とうとう源五郎を見限られたといいます。

かりそめにも美童美女等に、たとえ遠くから見る人聞く人がいなくても、
少しも戯れた様子で詞をかけてはならないということです。
嗜むべきなのは『色の道は金銀の事』と
堅く守らなければならないということです。


『武士としては』



596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:39:21.28 ID:rnvBOGUA
ハニートラップしかけて浮気調査

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:40:36.37 ID:vQNGMvww
モニタリング?

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 06:17:26.53 ID:vMpwbjHL
嫌なやつだなw

「孕石の一番槍を見たぞ!」

2017年02月10日 14:08

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 02:48:01.57 ID:2I4GYOmF
○ 浜松にて、鳥居金次郎成瀬藤蔵は口論し、果たし合いをしようと約束した。

ところが、成瀬が「いや、明日の合戦で先を争って死ぬことこそしかるべきだ!」
と言い、三方ヶ原で両人は討死した。

この金次郎の子も金次郎といい、長久手で討死した。

○ 山県三郎兵衛(昌景)の与力・孕石源右衛門は小瘡<ほりめがさとも云>
を煩い、行歩は不自由で、殊のほか痛んだ。

三方ヶ原合戦の時、孕石は馬から下りることができず、下人に負われ槍場まで
参り、ひたと這い出て人より先へ行き、一番槍を合わせて、名乗りをあげた。

三郎兵衛はこれを見て乗り来ると、「孕石の一番槍を見たぞ!」と、言った。

その相手は小栗某と取り沙汰し仕ったが、成瀬藤蔵鳥居金次郎の両人の内、
どちらかであるという。

――『武功雑記』



予め慎む心得のある人は

2016年12月31日 20:35

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/31(土) 14:18:50.97 ID:LohlZohC
一、往来はなおさらのこと、在宿であっても、咎人が行き過ぎる時に
目を見合わせてはならない。

罪人は死刑に迷って正気転変するので、「あれこそ、知り合いの人だ!
罪科の次第を知っている!」などと、妄語することがある。

その時は、役人も捨て置かずに糾明する。もちろん言い逃れたとしても、
見聞人の口は塞ぎ難い。

主人のいる者は、これによって疑いを蒙るのである。これは妻子や下人
にも、よく言い含めておくべきことである。

およそ災難に遭うのを“時節到来”とは、はなはだ僻事である。予め慎む
心得のある人は、不慮の災難を受けることはない。

――『山本道鬼入道百目録聞書』



480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/31(土) 15:57:49.61 ID:CTZiu4gC
>>479
>、役人も捨て置かずに糾明する。
いい迷惑だけど偉いなw

甲州伝目つぶし之法?活薬

2016年11月16日 21:56

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 23:04:18.80 ID:02+9kijt
甲州伝目つぶし之法?活薬


 会談で、小幡勘兵衛景憲かた伝わる目つぶしの法として聞いた。

『蛍火 山蔭のたにし 青とかげ ムカデ 馬の目〔馬の目をほりとったもの〕
各等分にして卵の中皮?に入れる』

 これは大いに験がある。投げて胸や四肢に当たればそのところはたちまちしびれて、
手は揺らすことができず、胸は気が塞がって身を動かせない。
また鼻口に当ればすぐに絶倒するという。

聞いた話だが、これも甲州の伝で基本信玄から出たものだという。
信玄は毒矢を用いたことはこれと似ている。
またこれに遭った者のための活薬がある。

『塩 ひき茶』

この二物をといてその当った所に塗れば、すぐにその毒気が散って動揺が生じる。
また絶倒したら湯を加えて服させたら回復するという。
(甲子夜話)


信玄がなぜ塩を断たれたら困るのかが分かりますね~





302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 08:38:58.73 ID:GV3HsWUU
気持ち悪いものを投げて当たったら塩と茶を塗れとか
小学生かっ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 11:16:58.83 ID:LWmC7QHM
        ::::::::::::::::∧口∧   そうやってなんでも
        ::::::::: ( ::;;;;;;;;:)      信玄の発明にしてりゃいいさ…
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''――'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"        
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