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武田信玄公は、軍法を新しくなされた事について

2023年03月22日 19:32

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 22:17:10.16 ID:x6CQOMpB
甲州において、武田法性院大僧正信玄公は、軍法を新しくなされた事について、このような古歌を索かれ説明された

・しなてるや かた岡山のいひにうへて ふせる旅人あはれ親なし   聖徳太子
・いかるかや とみのおがはのたえばこそ 我大君のみなはわすれめ  達磨大師

『この歌は昔、聖徳太子と達磨大師が対面した折の歌である。達磨大師も日本国に渡られて、大和国の片岡山に、
乞食のようにして住まわれていた。臨済の録に、片岡山下老野狐とあるが、その通りであったのだろう。

凡人はゆめにもこれを存じなかったが、聖徳太子、達磨大師は何れも三世を悟る佛同士の寄り合いであり、
互いにそれを知っているからこそ、先の歌の上に『達磨は唐土に帰ると定めていたが、それは日本の仏心宗が、
その頃は時季相応ではないという故であった。事長し。あらゝゝ』と云ったとある。

件の歌は聖徳のものも達磨のものも本来ずっと長かったのだが、これでは人は会得できないとして、藤原定家卿が
短く歌二首に詠んで、人が会得できるようにされたのだと聞いている。

さて又、いやしくも信玄は分別・才覚の真似を以て、工夫・思案して唐国の諸葛孔明が陣をとりしぎ、備を
設けて城を構えられた儀を尋ねてこれに習い、陣取りを大小二つにして、その他人数、備、三つの構え、数の
働きようを仕り、自分の子孫ばかりではなく、誰人であるといえども、扶桑(日本)戦国の中において、
数万の衆を率いて合戦を行う場合の、疑いを定められまいらせんがための、信玄の軍法は斯くの如しである。』

と宣われたのである。

甲陽軍鑑

信玄の軍法は誰であっても合戦の疑問に答えられるように作った、という事なのでしょうね。



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利根にて利発にて、しかも利口なる人

2023年03月15日 19:29

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/14(火) 21:11:06.83 ID:r3YEvImd
土屋右衛門尉(昌続)が、山県三郎兵衛(昌景)に聞いた

「いつぞや、穴山(信君)殿が、馬場美濃(信春)殿に問われた、遠州浜松の徳川家康についての噂について、
馬場美濃殿は、『藝能はやく請取る人を利根者、座配良き人を利発者、武辺の勝れて仕る人を利口者』と、
美濃殿は教えられたと聞き及んでます。さて、では(武田家中の)諸侍の中に、利根にて利発にて、しかも
利口なる人は有るでしょうか?」

山県曰く
「信玄公の御家には、侍大将としては内藤修理正(昌豊)、足軽大将としては横田十郎兵衛(康景)と、
この二人が居ります。この他侍大将の中で、若手では小山田弥三郎(信茂ヵ)なども居ります。
そういった人物の中でも、川中島合戦の時討死なされた故典厩(武田信繁)様などは、物事相整った、
まさしく副将軍と言うべき人物でした。」

山県三郎兵衛はそのように申された。

https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1630338432/702
このお話の続きですね

甲陽軍鑑



造作も御座無き御宗旨かな

2023年03月12日 16:06

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 15:33:30.91 ID:fYuFhMfr
内藤修理正(昌豊)の内方(奥方)の母が死去したが、この隠居は一向宗であったので、甲州の家の
とどろきと云う寺の一向坊主が尽くその葬儀に来た。

そのような中、他宗の葬儀の折のように、死者への膳wをいかにも見事にするよう内藤が申し付けたところ、
一向宗の出家たちが申すには
「我が宗の習いにて、御阿弥陀様へ能く食を進上申せば、他には要らぬことです。」
そのように申して亡者に食膳を向けなかった。

内藤修理は尋ねた、「それは一体どうして、阿弥陀に対してはそのように法外に立派にするのか」
上人はこれに
「阿弥陀こそ肝要なのです。他に食を備えるというのは迷いの心であり、一向宗から見れば他宗の方を
おかしく存じます。」と言われた

内藤修理は申した
「亡者が飢えればどうするのか」
上人答えて
「阿弥陀様にさえ食を備えれば、それが尽くの衆生への施しと成るのです。」

これを聞いた内藤は手を合わせて「さても殊勝である。他宗と違い造作も御座無き御宗旨かな。
一尊への施しが万人に渡るとは珍しき、先ず重宝なる一向宗かな」と褒めると、上人は悦んで
「去る程に、我が宗ほど殊勝なるものはありません。」と上人は自賛した。

すると内藤修理は、自身で上人の膳を据え、残り百人余りの坊主たちへは一切膳を据えなかった。
「これはどういう事か」と坊主たちは抗議して膳を乞うた所、そこで内藤修理は

「おや、御口の違う事ではないか。上人にさえ膳を参らせれば、脇々の坊主たちも腹一杯に
なるかと存じでこのようにしたのだが。」

そのように申すと、その後は坊主たち詫び言して亡者にも膳を据え、みなの坊主も他宗のように
執り行った。これは内藤修理の理屈のために、一向宗が恥をかいたのである。

甲陽軍鑑



710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:53:43.99 ID:u4UaIy7F
イイハナシダナー

武士が武士を褒める作法

2023年03月01日 19:45

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 22:50:36.52 ID:gOxpirZ4
穴山伊豆守(信君)殿が又、馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「では、三河の徳川家康は人に優れて利根なる仁か」

馬場美濃守
「穴山殿は信玄公の御従弟であり、しかも惣領聟であられますが、失礼ながらそのような御言葉を他国の
家中の者に聞かれては、笑われてしまうでしょう。武士が武士を褒める場合、作法が定まっております。

第一に、謡、舞、或いは物を読んで受け取りの早い人を、利根と云います。また、所作の様子、又は品の良い
人を器用と申し、さらに性発とも才知とも名付けられます。

第二に、座配良く大身小身と打ち合わせや取りなしに困りあぐねる事も無く、軽薄でも無く、術でもなく、
いかにも見事に仕合せする者を、利発人、公界者と申します。

第三に、芸つきも無く、器用に座配をすることも出来ないが、武辺の方にかしこい場合は、利口者と申します。
またこの者を、心懸者、すね者、仕さう成者と名付けて呼びます。

大身、小身共に斯くの如くであり、このように分けてそれぞれに名付けて言わなければ、報告を受けた
国持大将が合点出来ません。

(中略)

このように、三河一国を持ち遠州まで手をかけた家康の事を利根と呼ぶのは愚かです。利口と褒めるのも、
その術を知らぬ仰せられようです。家康については、『日本に若手の甚だしき弓取り』と申すべきでしょう。
必ず穴山殿、御心得なされよ。」

そのように馬場美濃守が申すと、穴山伊豆守は謝り「卒爾に問うてしまった。宥し給え馬場美濃殿」と言うと、
その後どっと笑って、互いに座敷を立たれた。

甲陽軍鑑



南部殿は改易され

2023年02月22日 19:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 21:32:02.19 ID:MJ0bmBdm
南部下総(宗秀)殿は甘利備前(虎泰)、板垣駿河(信方)、小山田備中(虎満)、飯富兵部少輔(虎昌)の
四人の衆に続く地位でであり、少しは武辺の覚えも有るといっても、浮気にて常に無穿鑿なる事ばかり言い、
遠慮も無く明け暮れ過言を申され、嘘をつかれた。

無分別人であり、彼は山本勘介を憎んだ。そして国郡を持たぬ者の城取、陣取などと批判し、
また外科の医者も深い傷はないと思っているのに(外科医者もふかき事あるましきと思ふに)、勘介が負傷
することを「まして兵法使いのくせに手を負いたる」などと言って、山本勘介に対して尽く悪口した。

この事を目付衆、横目衆はすぐに御耳に入れた。武田信玄公はこれを聞かれると、長坂長閑、石黒豊前、
ごみ(五味)新右衛門を御使とされ、即ち書立を以て仰せ下された。その書立の内容は

『南部下野が、山本勘介という大剛のつわものを悪口の事、無穿鑿なる儀である

一、山本勘介という小身の者の城取、陣取りがまことらしからぬ、と言ったというが、これは物を知らぬ
申されようである。唐国(中国)周の文王が崇敬した太公望は、大身ではなかった。

一、兵法使いのくせに負傷した、などと申したことは一層武士道不案内である。兵法というものは、
負傷しないという事ではない。負傷しても相手を仕留める事こそ、本当の兵法である。
殊更、其の方の被官であった石井藤三郎が白刃でかかってきたのを棒にて向かい。組み倒したというのは、
例えこの時勘介が死んだとしても、屍の上まで誉れある事なのに、それを嫉むのは無穿鑿なる事だ。

一、其の方南部の手柄というのは、実際には家臣である笠井と春日の二人して仕ったものであったのに、
あたかも自分の手柄のように申していると聞き及んでいる。

この三ヶ状を以て成敗仕るべきなのだが、そのようにすれば、却って山本勘介も迷惑に思うだろう。
ここを勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ。』

このようにあり、南部殿は改易され、奥州の会津へ行った事で、彼は誅殺を免れた。彼の支配下に有った
七十騎の足軽、旗本、その他が方々に分けられた。後の春日左衛門、笠井備後はこの南部殿の二人の家老の
子である。

甲陽軍鑑



山本勘助と申す大剛の兵は

2023年02月17日 18:45

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/17(金) 15:22:56.61 ID:JlT8fkiM
武田信玄公が二十八歳の時の事。

山本勘介と申す大剛の兵(つわもの)は、武道の手柄ばかりではなく兵法上手であった。
ある時、信州諏訪に於いて南部(宗秀)殿の内の者であった石井藤三郎という男を南部殿が
成敗しようとしたが、失敗しこの者は斬り回り逃げようとした。

その頃、山本勘介はこの南部殿の元へ来ており、彼が近くに居た座敷に、この藤三郎が
斬り押し込んできた。

これに勘介は刀を取り合わさず、そこに棒があったのを取ると、向かい受けて組みころばし、
縄をかけて南部殿へ渡した。この時少しばかり、三ヶ所を負傷したが、負傷と申すほどのものでもなかった。
何故なら三十日の内にすべて平癒したからである。

惣別、勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度において少しずつ負傷し、八十六ヶ所の疵があった。
その事を先の南部殿は悪しく沙汰していたのだが、この時は何も言われなかった。

甲陽軍鑑



武田信玄公の人を召し使い方は

2023年02月15日 19:06

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/14(火) 20:42:38.59 ID:UZkk1VwY
ある時、馬場美濃守(信春)がこのように申した。

武田信玄公の人を召し使い方は、何とも私の分別に及ばない。どういう事かと言えば、
例えば職(裁判官)を用いての公事(裁判)沙汰などの裁きようは、物を読み物を知って、いかにも慈悲
やわらかなる人の技であると思えるのだが、或る年には原美濃守(虎胤)という大剛強のあら(荒)人に
職を仰せ付けられた。こういった事が不思議だと申したのは私ばかりではなく、各々が取り沙汰したのだが、
結果としてこの原美濃守の抜擢は、なんとも良き仕置であった。

そうではあったが、この原美濃守が公事にかかりきりになると、諸々の境目(国境)における武士道の御用が
困難になるとして奉行を上げられたが、その後しばらく、二,三ヵ月も後任の職が定まらなかった事、
また原美濃守殿ほど公事に理屈、批判を用いる裁判官は無いと言われたことは、信玄公の御工夫が
浅くなかったからこそである。

そのようであったからこそ、信玄公が何処へ御馬を向けられ、しかも敵国深くでの働きが有る時も、
諸々の武士、大小共に侍衆の事は申すに及ばず、誠に雑人まで「定めてこれは勝つだろう」と思い、
少しも撤退すべきなどとは考えなかった。これは信玄公の智略賢くまします故である。」

甲陽軍鑑



669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/15(水) 17:10:30.83 ID:7xbgD4U9
その割に政治力低いのな

朝に志し、夕べに思うほどに

2023年02月11日 14:54

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/11(土) 11:59:15.16 ID:Jx7Icl4Q
ある時武田信玄公はこのように言われた

「世の中の人は色々である。既に分別が有っても才覚のない人が有り、才覚が有っても慈悲のない人が居る。
慈悲が有っても人を見知らぬ者もある。

人を見知らぬ者は大身の場合、彼をとりまいている者共はその十人の内八人ほどに、役に立たない者が多い。
小身の場合、彼が親しく付き合う朋輩の、悪しき友人に近づく。
このように、人は色々様々に変わって見えるが、要はただ、分別の至らぬ心のゆえである。

分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても能く
行うものだ。そのように、人間は「分別」の二文字を諸色の元であると認識し、朝に志し、夕べに思うほどに
分別をよくせよ。」

そのように信玄公は仰っしゃられたのである。

甲陽軍鑑



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/11(土) 12:21:33.73 ID:x/H7JQan
甲陽軍鑑の武田褒めは空々しくて寒々しい

これはみな虚言である

2023年02月08日 19:11

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 20:59:36.20 ID:uH6/DNEA
天正元年正月七日に、武田信玄公は遠州刑部をお立ちに成って、同月十一日、三河野田城へ取り詰められた。
この時、徳川家康より織田信長へ、小栗大六という者を使いとして、野田城救援のための後詰の
有るように、と頼み申されたが、信長は軍勢を出さず、二度目の使いでも信長が出馬することはなかった為に、
野田城を守備していた菅沼新八郎(定盈)は降参し、城を明け渡し、山県三郎兵衛(昌景)に
菅沼新八郎の身柄は預けられた。

新八郎方より家康に申し越し、奥平美作守(定能)の人質が家康の元に有ったが、これを菅沼新八郎の身柄と
取り替える事となり、奥平の人質は信玄公に家康より進上され、菅沼新八郎は家康に渡された。
その取引は三州長篠の馬場において行われた。二月十五日の事であった。

その後、信玄公は御煩いが悪化し、二月十六日に御馬入された。
この時、家康家中、信長家中諸人は、信玄公が野田城攻めの最中、鉄砲に当たって死んだのだと沙汰した。
これはみな虚言である。惣別、武士の取合いにおいては、弱い方が必ず嘘を申すものだ。
武田家と越後輝虎との御取合においては、敵味方共に嘘を申す沙汰は終に無かった。
例え信玄公が鉄砲に当たったとしても、それが弓箭の瑕になる事は無い。

甲陽軍鑑

野田城の戦いについて



信玄公、人の御使いなされよう

2023年02月03日 18:50

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 18:42:25.15 ID:G38mHENW
信玄公、人の御使いなされよう

信玄公は第一に、後ろ暗さが無いようにとされた。諸人が後ろ暗くなるのは、御恩を下す際、
上中下の詮索もなく、忠節、忠功の走り廻りも無い人々に所領を下すような事をすれば、
手柄のない人々は必ず軽薄を以て、功を繕って立身する故に、実際に忠節、忠功を成した人を嫉み、
悪口して逆に己の党の者を褒める。そういった者たちの奥意は主君への御為も思わず、
意地を貪って、へつらいまわる心である。故に、後ろ暗くなるのである。

信玄公は忠節、武功の武士には大身、小身によらす、尊卑にもよらず、その身の手柄次第に感状、また
御恩も下された。故に人が贔屓を執り成す事も、少しも叶わなかった。そのため、諸人の後ろ暗い事も
少なくなったのである。

甲陽軍鑑



遠州御発向の御備定は

2023年01月24日 19:00

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 16:37:30.54 ID:Uf3aPfmT
長尾輝虎は十年以前の辛酉に、信州川中島において大きく負け(永禄四年の第四次川中島合戦か)、
三千あまりも討たれた後は、此の方(武田方)より押し詰め、この頃では信玄自身が出馬するに及ばず、
高坂弾正が越後の内で働いても、さほど危ういことも無い。

北条氏康は当年(元亀二年)十月に他界した。去る巳の年(永禄十二年)の最中度々押し詰め、すでに
小田原に日帰にした。足柄、深澤まで信玄が攻め取り、関東は氏康に掠められていたが、その氏康を
信玄が掠め取ったのである。

また佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東までもに、輝虎が押し出したが、その輝虎も先のように押し詰めた。

この上信長、家康の二人に信玄が勝てば、西国までも弓箭において心もとないことは無い。何故ならば、
四国、九州は安芸の毛利によって仕詰められていた所、信長が都に発向して、天下を持っていた三好を絶やし、
中国の毛利をも、父(正確には祖父)元就の死後とは言いながら、早くも少しずつ掠め取っているとの
沙汰が有るからだ。

東海一番の家康、五畿内、四国、中国、九州まで響き渡る信長、彼らを一つにして信玄一方を以て
勝利を得るならば、日本国中は沙汰にも及ばぬ義である。
当時は唐国までも、武田法性院信玄に並ぶ弓取りは有るまじく候と言われていた。

遠州御発向の御備定は、午年(元亀元年)の冬中に高坂弾正の所で七重に定まり、書き付けて信玄公の
御目にかけた。

仍って件の如し

甲陽軍鑑

武田信玄が西上を決断した際の、外部情勢についての認識について。



御助けなされ忝なし

2023年01月18日 19:34

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/17(火) 22:04:46.04 ID:jYCDJFyo
元亀元年霜月下旬に、諸角助七郎と原甚四郎(盛胤)とが、御城(躑躅ヶ崎館)において喧嘩を仕り、
双方二ヶ所づつ負傷したが、相番の衆が彼らを引き離し、討ち果たすことは無かった。

御前狼藉の故に武田信玄公は大変御立腹されたが、原甚四郎は父である原美濃が度々の御用に立つこと
三十度に及んだ者であったので、それに免じて陣より国に帰らされ、父の武功の御奉公に免じられ、命を
御助けなされた。

諸角の父である豊後も度々の忠功ある侍大将で、その上川中島合戦の時討ち死にを仕った。
この父・豊後に免じて、諸角助七郎も命を御助けなされた。
これらは典厩(武田信豊)、四郎殿(勝頼)御両人を以て仰せ付けになられた。

しかしながら御前の狼藉であり、諸人への見せしめのためにも、原甚四郎も諸角助七郎も、知行同心を
召し上げられ、諸角同心の五十騎は一条右衛門太夫殿へ預けられ、原甚四郎の同心は今福丹波に預けられた。
また原甚四郎の家屋敷共に土屋に下され、この両人は外様のように成ってしまった。

しかし少給、少扶持にて堪忍仕り、物哀れなる体なりと言えども、御成敗有るべき所を、父の武勇、御奉公に
免じられて、御助けなされ忝なしと存じ奉ったのである。

甲陽軍鑑

いわゆる喧嘩両成敗の実態について



千兵は得やすいが一将求め難い

2023年01月17日 19:07

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/16(月) 20:49:29.60 ID:PJyhHbaY
永禄十二年十二月、駿府の今川殿館に岡部次郎右衛門(正綱)と申す三百貫の知行取りは、今川家の
近習、小身の侍達を数多の人数集めて立て籠もった。
これを武田信玄は暫く攻めたが、「次郎右衛門が小身にてこれほどの抵抗をするとは、如何様只者ではない」
と思し召された

「千兵は得やすいが一将求め難い。この次郎右衛門を助け置き、取り立てて我が先鋒をさせれば然るべし。」
として講和され、岡部次郎右衛門は信玄公の御被官衆となった。そして古主である今川殿からは
持たされることのなかった人数を五十騎、次郎右衛門に下され、また三百貫を三千貫になされ、
その時より岡部次郎右衛門を侍大将と成された。

甲陽軍鑑



高坂弾正の分別立ては、

2023年01月11日 19:17

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/10(火) 23:45:44.82 ID:L1ZwVHoT
永禄十二年八月下旬に、武田信玄公は甲府を御立ちなされ関東へ御発向あり、北条氏康・氏政父子の
領分を大方焼き払い、小田原へ押し詰め、侍宿地下町も少しも残らず放火するよう仰せ付けになり、
その上、同年十月八日に相州三増峠において、信玄公は勝利を得られた。

都合四十四日の御働きで北条家を鎮め、信玄公は駿河を治められた。それを妨げていた氏康が
これに手を出せなくする防戦を遂げられ、甲府に御帰陣となった。

この時信玄公は、高坂弾正を召されて仰せになった
「小田原表における、この信玄の勝利をどのように見たか」

高坂は申した
「御勝ちなされて、御怪我でありました。その仔細は、例えて言いますが、仮に数万の人数が
甲州に侵入した場合、当方の御運がよくよく尽きて五十、六十の人数に成ってしまえば
是非にも及びませんが、五百、千ほどの人数もあれば、御館である躑躅ヶ崎まで来る敵を、
間違いなく撤退させることが出来るでしょう。

この例えを用いて分別すると、今回小田原城には松田尾張を始め、その他人数八千あまり在りながら、
二万を少し越えたほどの武田勢に蓮池まで押し込まれ、さらに何事もなく引き取らせ、その上
三増峠においてあのように戦勝を得られました。
弱敵に勝たれて、大いなる御不覚かと存じ奉ります。

近年、若き者である三河岡崎の家康は今川氏真公を掛川に押し詰め、氏真公の衆、歴々の覚えの者を
競り合いのたびに討ち取り、終に氏真を関東へ押し払いました。若者であるとは言え、かの家康に
北条氏康御父子の人数のうち三分の一も預けたならば、よほど敵として御手に立ったでしょう。
また信州侍衆に対して我々は、相手が百騎、二百騎の人数であってさえ、五、六年づつ御手間を
とらされました。」

これを聞いて信玄公は
「高坂弾正は小田原陣の前に申ごとく、今に諍を怖く申し候」
(高坂弾正は小田原への出陣の前にもそう言ったが、今もこのように恐ろしい諫言をする)
と、御笑いなされたという。
若き衆は「高坂弾正の分別立ては、今に始まったことではない。」と沙汰した。

甲陽軍鑑



武田信玄は剣を回して甲府に

2023年01月04日 19:06

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/03(火) 20:33:31.63 ID:dH72IYYe
永禄十二年の駿河における武田と北条の対陣は、正月十八日から同年四月二十日までの九十三日であった。
日夜のせり合いにおいては、武田方の跡部大炊介が一度松田尾張に追われたこと以外は、みな小田原北条衆が
武田に遅れた。
然し乍らあまりの長陣故に、信玄公は家老衆を召し出し、それぞれの意見を聞いた。

内藤修理(昌豊)は、
「薬師は眼の養生に、すねの三里に灸をおろします。」
馬場美濃(信春)は
「けらつつき(キツツキ)が虫を食べるに、他の鳥と違って穴の後ろを突き、口に出てくるのを取ります。」
と申した。

信玄公「さては各々の分別、いずれも同意である。」と、山西の抑えである山縣三郎兵衛(昌景)を駿府より
召寄せ、北条方の陣城を一つ押し散らさせ、山縣の同心である、みしな、広瀬、小菅、その他手柄の者たちに
御証文を下され、二日目の夜は馬場、山縣両大将に仰せ付け、由井の源三郎といって、氏康公の二番めの
子息で武蔵八王子の城主(氏照)の陣屋の前に柵をふり、筵にて囲った。柵が幾つも焼かれたのを
尽く踏み破らせた、

四月二十七日に信玄公より仰せ出があり、次の日の二十八日には信玄公は陣を払い、駿河庵原の山を越えて、
道も無い所を原隼人助(昌胤)の工夫に任せ、終に甲府へと帰還した。
北条家ではこの事について「武田信玄は剣を回して甲府に逃げ込まれた」と申したという。

甲陽軍鑑

武田軍の駿河からの撤退について



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/04(水) 07:13:17.97 ID:1ewKKFZE
つまり大敗だったんですね

信玄公の賢き御智略の故である

2023年01月01日 18:01

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/01(日) 16:17:46.70 ID:lFI7BjNp
永禄十二年正月十八日、小田原の北条氏康・子息氏政は、四万五千の人数を以て、(武田軍の侵攻のため
駿府より逃亡した)今川氏真を駿河へ帰国させるため出陣し、先手衆は薩?山、八幡平、由井、蒲原まで取り続いた。
武田信玄公は使いの甫庵を伊豆の北条のもとに送ったが、彼は牢へと入れられた。

信玄公は氏康の後詰を聞かれると山縣三郎兵衛(昌景)の、千五百の備を山西抑えのために駿府へと残し置き、
一万八千あまりの人数にて興津河原へ打ち出て、北条親子四万の人数と、信玄公一万八千余りの軍勢とで
御対陣となった。

この時期は正月中旬も末の事でもあり、浜風が強く吹いて、敵味方共に寒き嵐に陣を張り難かった。
信玄公は御中間頭の衆に仰せ付けられ、駿府の酒を買い、陣衆の道作り千人に持たせて興津へと取り寄せ、
在の釜を幾口も集めてこの酒を沸かし、信玄公も一つこれを飲み、「家中の大身、小身、上下の区別なく
この酒をを振る舞うように」と仰せ出された。このため、武田の諸勢はみなこの酒を飲んだ。

この時信玄公は尋ねられた
「各々この酒を飲んだが、寒くはないか?」
諸人は、「寒くありません。」と申す者もあり、「これを飲んでも寒いです。」と申す者もあった。
そこで、信玄公は仰せになられた

「平地において酒を飲んでさえ寒いというのに、況や山の上に有る氏康の衆は、酒も飲まずに高所に
陣屋を掛けたといっても、人は山の麓に下りているだろう。
氏康衆の武辺について、彼らは輝虎(上杉謙信)と十八年にわたり取り合いをしているが、輝虎の本国
越後と小田原は遠く隔たっており、一年に一度づつ出会い、五日、十日ばかり戦って、さほど長く
氏康と謙信が対陣する事はない。であるから、上杉は大敵といいながら、大将であった上杉憲政は弱く、
武道不案内故に、氏康に武略を成功させたに過ぎない。

氏康衆は今まで甚だしい敵に遭う事が無かったために、油断しているだろう。たった今飲んだ酒が醒めない内に、
北条家の先衆の掛けた陣屋を破り、あぶなげもなく敵に一入付けよ!」

そう仰せ付けられ、甲州勢先衆は薩?山へ攻め上がった所、実際に陣屋には一、二人ほどしか居らず、
本来居るべき者たちは皆麓へと下りていたため、即座に安々と陣屋を破り、その上小田原先衆の武具、馬具、
鑓などの結構な代物を甲州武田方が取った。これは信玄公の賢き御智略の故である。

甲陽軍鑑



522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/01(日) 17:15:31.77 ID:fw7z4nFs
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1665.html
真田昌幸「GIANT KILLING」三話・いい話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5356.html
信玄と戦略眼

真田昌幸が言ったという話もあるようだ

足軽大将の横田十郎兵衛が

2022年12月14日 19:02

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/13(火) 20:40:53.15 ID:d5lZzaHf
永禄九年(1566)七月、越国の上杉輝虎は上野国和田城へ取り詰め、既に落城と見える所に、
武田信玄公の旗本で、足軽大将の横田十郎兵衛(康景)がこの加勢に籠もっており、彼は
自分の同心、足軽については言うに及ばず、和田の者共も十郎兵衛が良く下知した。

輝虎は一万三千の人数を以て攻めたが、城は落ちなかった。これは先ず大筋目として、城の持ちこたえ方、
手配りが良かった事がある。そして十郎兵衛は櫓へ上がり、日頃習い得た鉄砲を以て、輝虎の旗本たちが
寄せてくる所を見定め、良き武者を多く撃ち落とした。
その中で輝虎の御座を成す侍を撃ち殺し、さらに十郎兵衛の撃つ鉄砲に寄って輝虎自身も危うく見えた。
それ故に輝虎は早々に包囲を解いて、越後勢は退散した。

和田城が堅固に持ち定めることが出来たのは、横田十郎兵衛が大剛強で、しかも弓矢に能く功者の故であった。
この横田十郎兵衛は四十二歳だが、十六歳より走り廻り、二十七年の間に数度の武辺を仕り、優れて手を砕いた
働きがあったために、和田城を任された。これについて人々は褒め称えたが、横田自信はさほど手柄とは
考えていなかった。

『甲陽軍鑑』



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/14(水) 02:31:04.59 ID:N5ONe28H
1566年の時点で甲斐にそんな鉄砲の名手がいたのかー

武田の家があらん限りは

2022年12月01日 19:07

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/30(水) 19:50:13.49 ID:9cUq6Z2A
寅(1566)の六月二十四日に、武田信虎公より同年五月五日の日付にて、信玄公へ書状が使わされた。
その内容は、

『去る甲子(1564)三月、公方光源院殿(足利義輝)へ信虎が御礼申し上げ罷り帰る所、
公方様は広縁まで私をお見送りになった。そのためこの信虎は、頭を地に付けて申し上げた。

「武田の家があらん限りは、広縁まで公方が御送りある。我が家の系図是成。」

しかしながら三好が道なき故に、光源院殿の御妹の聟となる御恩を抛ち、去年乙丑(1565)、
義輝様を討ち奉る。(永禄の変)
そのような事があっても、侍という存在が有る限りは、公方が絶え給う事は無い。
その心得有るべし。」

このように折々、信玄公へ信虎公より仰せ越された。かの強くまします信虎公も、御父子の間なれば、
信玄公御吉事の義を折々仰せに成ると、武田の家老たちも涙を流した。

甲陽軍鑑

武田信虎から見た将軍義輝や永禄の変について



487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/01(木) 03:25:54.83 ID:8YHKCnPj
>>486



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/01(木) 08:25:51.64 ID:nEsIqGw1
>>486
家康「おう俺も公方だぞ伏して拝めや信玄坊主」

飯富兵部少輔が御成敗なされたその仔細は

2022年11月13日 17:28

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/13(日) 09:44:17.19 ID:Oc4r4gLe
永禄八年正月、飯富兵部少輔(虎昌)が武田信玄公によって御成敗なされたその仔細は、以下の様なものであった。

一、信玄公の若き時分より、兵部を呼ばれることがあっても、彼は御返事をすぐに申し上げなかった。

一、弓矢の儀においても、信玄公も退去するように諸傍輩のいる中で申した。
  勿論彼は老功の家老なのだから、諌め申し上げたことを御承知されないという事は無いのだが、
  諸人の面前において家老共がそのような態度なら、諸軍が信玄を軽んずると思し召され、
  以降、良き事であっても飯富兵部が申し上げたことは取り上げられなくなった。

一、大将たる者は大敵、強敵、弱敵、破敵、随敵という五つの敵に、それぞれの対応が有るのだが、
  越後の上杉謙信は強敵でしかも破敵であり、信玄公は種々の武略、工夫をされて勝利を得ようとの
  分別を、信玄が弱いかのように申されたが、それは元々、飯富兵部一人の口から出た事であった。

一、越後の謙信に対し、信玄公の武略の分別が良かったからこそ、五年前の九月十日の川中島合戦に
  おいて(永禄四年の第四次川中島合戦)謙信は遅れを取り、十月には越後との境である
  長沼まで備えを出し、一日逗留し草創に引き上げた。その後謙信は五年ほど信濃に出て来なかったが、
  信玄公の味方は四年以降は境目を越えて、越後国内で焼き働きを仕った。
  これは高坂弾正一人の覚悟にて働いたのだが、信玄公の御力を借りずにそのような事が出来たのは、
  信玄公の弓矢が輝虎より弱くては不可能なことであった。

一、義信公が若気故に、恨みのない信玄公に対して逆心を企てさせた談合相手の棟梁に飯富兵部は成った。

この五ヶ条の御書立を以て飯富兵部は御成敗と成った。

『甲陽軍鑑』

飯富虎昌粛清について



信玄公秘蔵の足軽大将衆は

2022年11月11日 16:45

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/10(木) 23:08:20.44 ID:4PQ/d/mg
大功の足軽大将である原美濃守入道(虎胤)は病死した(永禄七年一月二八日)。
その遺言には、酉の年(永禄四年)に病死した小幡山城入道(虎盛)のように金言があった。
川中島合戦の時に山本勘介入道道鬼も討ち死にした。多田淡路(三八郎)も、去年亥年(永禄六年)極月(十二月)
に病死した。

武田信玄公秘蔵の足軽大将衆は、酉の年より子の年までの四年の間に四人死亡し、皆若死にだったのだが、
その子息どもは、戦場で場を引くような誉れが五度、十度づつもあり、弓矢でも、考えつもりにも功の
入った人々多く、そのために跡が空くような事はなかった。

信玄公の若い頃は、毎年のように大合戦が、年中に二度ほどもあった。しかし今では、三、四年経っても
大合戦など無い。たとえあったとしても、今より末は、御旗本にて合戦が有ることも稀であり、
故に実戦の場数も踏むことが出来ない。

昔の、度々合戦が有る中での十度の誉れよりも、現在は一度の誉れを顕す方が少ないほどだ。
しかしだからといって各々は、武士の一道を全く疎略にすべきではない。

甲陽軍鑑