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武田信玄が永禄十三年十一月九日に書いた起請文より

2022年04月18日 16:05

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/17(日) 19:41:45.90 ID:F3beJKik
ベジタリアン?武田信玄が永禄十三年十一月九日に書いた起請文より抜粋

一、今度向于駿州出陣、則蒲原落城、興国寺岡前、駿州
円令静謐、達信玄本意者、従来庚午歳(永禄十四年)可学天台之化行
之事、
付、従己巳(永禄十三年)十一月禁肉食、(つけたり、己巳十一月より肉食を禁ず)

注目は最後で、信玄はこの月から肉食を絶っていた模様
駿河攻略という心願が成就すれば翌年から行うとした天台宗の修行に備え、身を清めていたんでしょうか
ほうとうには猪肉とかを入れたそうで、これもダメだし鯛も鶴もダメ
動物に優しい元肉食、信玄のちょっといい話



128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/17(日) 20:17:49.52 ID:l6UsOGHj
信玄「ただし二脚羊は除く」

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/17(日) 20:22:58.65 ID:l6UsOGHj
ん?待って永禄13年は4月まで。永禄12年or元亀1年11月の間違い?

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/17(日) 20:28:59.43 ID:wytywmt5
己巳=永禄十二年のようだ
二脚羊が猿だとすると天台宗の守護神の山王の御使いだからもちろんだめだろう
蒲原駿河で猿はお似合いな気もするけど

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/17(日) 20:29:45.53 ID:F3beJKik
>>129
そこは所蔵者の上里町の年次に準拠した
確かに己巳年は検索すると永禄十二年なんだよね
迷ったけど東国独自の暦を反映してるとかあるかもしれないし、永禄十三年という比定基準で注釈入れた
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苗字についての本に載ってた話

2022年04月02日 17:54

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/01(金) 21:39:57.44 ID:o1Yg8yHS
苗字についての本に載ってた話

ある時、武田信玄は病にかかっていたが秘密にし、袋に薬を忍ばせ隠れて服用していた。
あるとき薬袋を落としてしまったが、百姓が届けにきた。
信玄は百姓に「この中身を見たか?」と尋ねたが
百姓は「見ませんでした」と答えた。
そこで信玄は百姓に薬袋であることをあかし、褒美に百姓に「薬袋」という苗字を授けた。
なお「薬袋」の読み方は、百姓が中身を見なかったため「みない」とした、こうして「薬袋(みない)」という珍苗字ができたという。

ネットで調べたら名医の永田徳本が当時甲斐にいたから、薬袋などいらない=みない、という説も紹介されてたけど
どちらも創作だろう



山本勘助の神之峰攻略

2022年02月10日 15:31

330 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/09(水) 20:48:55.87 ID:Dw9mTBTQ
山本勘助の神之峰攻略

>>323の続き

ジタジタ松、またはジタジタ峠にて知久氏らの籠る神ノ峰の難攻不落の堅牢さ、あるいは城兵の余裕の態度に
ジタジタを踏んだ勘助であったが、彼とて一軍の指揮を任される軍師である。このままで終わるわけにはいかない。

そんな勘助が如何様にこの城を落としたか?幾つかの話が伝わっている。

1.大鹿のおばあさんの案内。

勘助は家来を薬売りに化けさせると上久堅大鹿の民家を訪ねさせた。薬売りに化けた家来に言わせた口上はこうである。

( ゜Д゚)「私は薬売りだが知久の兵に頼まれて薬を届けに来たのだが、武田軍が城を囲んで城に入ることが出来なくて困っている。どこか城に入る道は無いものか?」

その言葉にある民家の老婆がこう答えた。

(*´∀`)「あの城は3方は険しくなっているが、東の方から行くと楽に行けるよ。」

( ゜Д゚)「婆さんありがとうね。」

城は落ちた。


2.久七の案内。

勘助ら武田軍は久七という名の老人を捕えて尋問したところこのように答えた。

(;´Д`)「あの城は西、北、南は急な道しかなく登るのが大変だが東側は平な尾根がありますだ」

城は落ちた。

現代の特殊詐欺もかくやという感じの話である。今も昔も御老人というのは人が好いというかなんというか・・・。

飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html



331 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/09(水) 21:03:22.07 ID:BYb0sKEV
>>330
> 今も昔も御老人というのは人が好い

老人は親切にも、勘助に道を教える為に右手で絵図を描いた。
描きながら左手は掌を上に向けて人差し指と親指で意味有り気に輪っかを作りつつ勘助の鼻先に突き出していた。
老人が後に黒田如水と名乗ったのはまた別の物語である。


333 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/10(木) 08:20:36.16 ID:8EfNC8Nv
>>330
尋問された老人はともかく

_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 若い男に道を尋ねられたら素直に答えるしかないじゃない <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

https://i.imgur.com/RUwZ5Op.jpg

山本勘助物見の松 異聞と提灯づるね

2022年02月10日 15:30

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/09(水) 21:13:26.24 ID:Dw9mTBTQ
山本勘助物見の松 異聞と提灯づるね

山本勘助物見の松より南西の方向、下久堅虎岩と接する尾根筋一帯に提灯づるねとか提灯ずるねと呼ばれる公園がある。
勘助は物見の松に上って神ノ峰城の様子を偵察すると夜襲をしかけて城に火を放って一気に攻略したという。

この時、城の西側に位置するこの場所に沢山の提灯をつるして大軍が居るように見せかけて、敵の注意をこちらに引きつけ、城の東側から
攻め込んだともいわれている。

余談ではあるが同じような逸話が毛利元就にもある。

謀神の佐東銀山城攻め
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8468.html


こちらも、毛利元就が1541年に安芸武田氏が支配する堅牢な佐東銀山城を攻めるのに搦手に位置する長楽寺(広島市安佐南区)を調略したのち、
城の大手門側に位置する太田川へ地元住民に油に浸した千足の草鞋を作らせて夜に火をつけて流し、城兵の注意を大手門側に引き付けたのち、
搦手から攻め上って城を落としたというものである。
ただの偶然なのか後世にどちらかを参考に作られた逸話なのか?

面白いのは元就が作らせた千足の草鞋から来る千足、勘助が提灯を吊るさせたづるね(ずるね=尾根を意味する)
いずれも現代に地名として残っているのである。

飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html



山本勘助物見の松(またはジタジタ松)

2022年02月09日 18:19

323 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/08(火) 20:31:57.01 ID:Br8S5Cy5
山本勘助物見の松(またはジタジタ松)

天文22年(1553年)、村上義清ら北信濃国人衆の要請を受けた長尾景虎が川中島へ攻め入った。
信濃先方衆として下伊那の支配を任されていた秋山信友が高遠城を離れた隙に下伊那の知久頼元と座光氏は
知久氏の居城である神ノ峰に兵を集め武田方に反旗を翻した。

翌天文23年(1554年)、下伊那に戻った秋山の説得を断固拒否した反武田勢と武田軍で戦端が開かれ、敗れた反武田勢は
知久氏の居城である神ノ峰に籠城。この攻略を任された一人である山本勘助であったが、彼は城を一望できる松の木によじ登って
城の様子を伺ったが守るに易く攻めるに難い城の様子を見て彼は悔しがって松の上でジタジタを踏んだという。

このことからこの松は山本勘助物見の松とかジタジタ松と呼ばれることとなった。

この松は第二次大戦中の昭和19年に地震で倒壊し、根本は松根油として供出されたが敗戦で役に立たず、現在そこに立つ松は3代目の松であるという。
別にジタジタ峠(飯田市上久堅下平)という場所もあり、そこにも山本勘助が神ノ峰を攻略する際の似たような伝承が残っているが、
この松はまた違う場所(飯田市上久堅柏原)に生えている。

飯田市ホームページより
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html



325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 21:30:09.24 ID:EhFZQJMw
>>323
ここにも白米城伝説があるのか

329 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/09(水) 05:45:50.53 ID:Dw9mTBTQ
>>325
確かに白米城伝説はこの城にもあるんだけど、前にジタジタ峠の逸話を投稿した際に飯田市のホームページを見たら城内には御手洗池と天気池と言う湧水もあるし、
飲料水には苦労しそうにない感じもあるのよね。普通は山城の山頂付近に戦時以外は人が住むようなことは無いらしいけど、城主の知久氏が山頂付近に居住してた極めて珍しい山城とも書かれてるし。

富士の影の山

2021年12月01日 17:24

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/01(水) 00:02:11.43 ID:5gnMyZOH
元禄に出版された怪談浮世草子
金玉ねぢぶくさ」から巻四の一 富士の影の山

天文のころ、さる公家の青侍二人、兄弟のちぎりをむすび、世の盛衰無常なるを嘆じ
一蓮托生とて髪をそり、一人は名を春知と改め、今一人は春忍と呼びて修行し、まず東国を見巡ろうと富士にいたる。
道に迷い、求むべきやどもなきところに家影あり。
二人の法師よろこび、あみ戸を押しあげて一夜の宿を求めんとすると
二十ばかりの女房一人、灯のもとで草紙を広げながめいるありさま、世にたぐいなく
遊仙窟の仙女なるべし、鄙の山中に、か程の美女のすむかはとて
春知「是は鬼神、女となりて道心をさまたげ愛欲の心をおこさば其を窺うてわれわれを害せんとかまえたるものなるべし
いざや立ちのき、この害をのがれん」
春忍「いやいやかかるところに来たって、元よりかれが変化なればたとえ逃げたりとも、のがれはせじ。修行の種なれば正体を見届けん」
と二人ともに書院のさきへ立ちより
「我々は諸国修行の沙門なり。富士の道にまよい、日くれ、外に求むべき宿もなし。
ねがわくばあわれをくれて一夜の宿をかしたまえ」
女はおどろきたるけしきもなく
「誠に諸国修行の御僧なれば結縁の為に宿参らせ侍れども、こよいあるじ遠く出て夜ふけて帰り候うゆえ、
留守に御宿参らせんこともいかがなれば、かないがたし」
二人の道心、気をうばわれて
「たとえまよい化生の者にせよ、おしむべき命にあらず。ようすを見届けてふしんを晴らさん」と
あるじの御帰りをこれにて待ち請け申したるよし望まば
女「あるじも情けしれる人にて、わけて旅人をいたわり侍りぬ。殊に御僧に御宿参らせ候事、るすにてもこなたはくるしからず。
さ程におぼしめせば、こなたへ御入り候へ」
とて一間なる座敷へ請じ、百合のふすまを立て切りてそれに御やすみ候えとて
また見台に向かい草紙に読み入りぬ。
そのあたりを見れば調度に至るまでみやびかなる事々、人間の類にあらず。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/01(水) 00:03:54.00 ID:5gnMyZOH
うしみつを過ぐるころに至りて、いずくともなく轡の音りんりんと聞こえ、二人あやしみ
「さればこそ山中へ騎馬の来るべき謂れなし。これも変化のわざなるべし」
と気をつめて窺いければ、かの轡の音近くきこえ、庵のまえにて鳴りやみぬ。
馬上の人、馬よりおるると覚えて草ずりの音がらがらときこゆ。
さては亭主の帰りたるならんと、ふすまの影より望めば齢壮年の男、白く器量さかんなるが紅の銚巻をしめ、白糸おどしの紅ひたたれに、白枝のなぎなたを携えあみ戸をあけて内へ入りぬ。
かのおんな立出で「今日の首尾ばいかが」と問えば「ああ無念こよいもかなわず」とて涙をながしぬ。
さて踏石に草鞋二足あるを見て、そのよしをとえば、
女房「されば今日、旅の修行者とて御僧二人わたらせたまうを結縁のため宿し参らせてそうろう」といえば
男「それはいずくに渡せたまう?」というをきいて二人の法師、ふすまを引あけ
「我々にて候。御るすにて候いしかども道にまよい日もくれ一夜の宿を申しうけ、旅の疲れをはらしゆるりと休息、かたじけなき」よし申せば
男、二人のはなしを聞て
「さてさてうらやましきおのおのの境涯。誠に我ら御僧一宿の結縁によって罪障を滅し、苦患をまぬかるべしとありがたく覚へ候」とてさまざまにもてなしければ、
二人の道心「さるにても君にはいかなる御方の閑居にてかようの所には住せ給うぞや、御名をばなのらせ給えといえば、
夫婦ともに涙をうずめ「もうすにつけてはずかしけれど、それがしはいにしえの曽我の十郎祐成、これなる者は大磯のとら。
二人がからだは裾野が原の露ときえしかど、魂魄は数百歳の瞋恚・邪淫の罪に引れてかく修羅道のくるしみを受侍るなり。
さるにても我が弟の五郎時致は幼少より箱根にすんで毎日法華講読の功力に引かれ、今人の世に立帰り甲州信州二ケ国のあるじ、武田晴信入道信玄となれり。
然れども隔生即亡のことわりによって前生の事をしらず。
願くば御僧此事を伝えて追善をなし、我跡をとわせ成仏を得せしめたまえ」
と則ちしるし(証拠)に金の目貫をわたすを、二人の僧にあたえて、
「もはや夜もいたく更けねれば暫くまどろみつかれをはらしおわしませ」と
四人一敷にうたたねして、松ふく風の音におどろき枕をもたげてあたりを見れば四阿屋作りのやかたと見えしは枯野に残るすすきとなり、あるじの姿と思いしは苔累々たる石塔のまえ。

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/01(水) 00:09:08.79 ID:5gnMyZOH
二人忙然とおき上りて富士山よりの下向道に直に甲州へ立越え、しるしの目貫をもって右の通り申しければ、信玄すなわち対面ありて
懐中より目貫の片し(かけら)取出し今の片しに合て見れば、金も模様も一具(一致)して寸毫も違わざれば、信玄なみだをながして幽霊の追善の為、
千部の経を書写して千僧を以て供養し、其後かの二人の僧をさまざまもてなし都へおくり返されぬ。
されば信玄程の物に動じぬ大将の何とて目貫の一具したればとて、世に類おおき証拠をもってかくまで信ぜられしぞと、その因縁を尋れば
此人誕生のおりふし左の手をにぎり、いろいろ開けども終に其ゆび延びず。漸く七月目に至ておのずとひらけ、内に此片しの目貫をにぎり居給えり。
何とぞ子細あるべしとて深く此のさたを世に秘し給いしが、今の目貫と一具せし故うたがいもなく証拠に用い給いしと。

今日は西暦だと武田信玄公が誕生してちょうど五百年目ということで
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12434.html
武田信玄は曾我時致が再生といふ説

ここにも短く語られている、曽我五郎時致、信玄に転生という再生譚の詳しいバージョンというか膨らませたバージョンを。
上でも突っ込まれているように「父の仇討ちをするような孝行息子の曽我五郎が転生後に父親を追放するとかおかしいだろ」
という気はするが



834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/01(水) 09:54:39.50 ID:m+4jFp9Q
未だに晴信が邪心によって父を追放して家督相続したなんて信じてるやついるんだな
大河ドラマ見過ぎで虚構と現実の区別がつかんらしい

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/01(水) 10:25:20.77 ID:5gnMyZOH
別に邪心から、とは書いてないが
平山優は、信虎の甲斐統一や異常気象による大飢饉によって国内が疲弊し代替わり徳政が求められていたのをうまく利用した
としている
理由はどうあれ父親を追放し、少なくとも信玄が死ぬまでは帰さなかった以上は(勝頼の代で帰還の話は出たが頓挫)孝行息子とは言えないだろう。

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/01(水) 11:36:14.87 ID:5wjl4O3Y
家臣が反対してたら帰還できないよ
そもそも家臣に擁立された当主なんだし何でも思い通りに出来た人とは違う
主権強化目論んで追放された能登畠山氏とどこか似てる

勝沼と徳本

2021年11月23日 16:37

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/23(火) 12:48:42.61 ID:HYh4coue
小松帯刀編「永田徳本翁伝」より

甲斐の峡中、勝沼郷なるものは古よりもっとも葡萄栽培を以って天下に名あり。
いわゆる勝沼葡萄なるものこれなり。
元和元年某月、翁は祝村に来たり。
豪農雨宮作左衛門の祖先某と謀り、葡萄の性質を精査し遂に棚造りの方法等を按出し、
栽培上の面目を更新するを得たりとぞ。
けだし徳本の栽培法を研究してあまねくこれを説示したるの余沢によりて今日の名産たるを得たるか。
ゆえに土俗その遺勲を遺つるに忍びず、寛文七年、甲斐徳本の祈念碑を雨宮作左衛門の所有地なる葡萄園の字茶畑に建設せり。

まとめサイトのコメント欄で徳本がブドウ栽培を奨励したことが出ていたので、ぶどう郷として名高い勝沼と徳本の話を。
1597年に来日したフランチェスコ・カルレッティによれば
日本では葡萄をpergola(つる棚、藤棚の仲間)に使用しているとか書いてるから、棚栽培に際してそこからヒントを得たのかもしれない。



823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/23(火) 18:42:33.43 ID:yZAj44mN
そういえば、勝沼のワインって魚介類にも合うんだっけか

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/23(火) 21:41:02.22 ID:4aNdqNHw
そんな昔から葡萄作ってたのか!

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/23(火) 22:57:06.58 ID:Mq7PFTiK
そらもう平安初期作の葡萄を持った薬師如来を祀る寺があるんだからな、勝沼。
少なくとも平安初期には既に勝沼と葡萄は所縁深い。

姥捨山神医の清談

2021年11月21日 16:01

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/20(土) 20:05:01.02 ID:SFSJQDUZ
1902年出版、小松帯刀編「永田徳本翁伝」(永田徳本を顕彰した本)より「姥捨山神医の清談」
小松帯刀といっても薩摩家老ではなく(そちらは明治初めに死んでるし)代々信州の漢方医の家系らしい
この話自体は「寛永宮本武蔵伝」のような講談の一部のようだが信州では伝説扱いされていたようなので投稿
(なお「世界人物逸話大事典」でも永田徳本の逸話として紹介されている)

寛永年間に当代の英傑、松井民次郎平茂仲が兄の仇討ちをしようと諸国を経めぐる中で、ふと信州姥捨山の名月を見ようと思い立ち登山。
そこへ出羽で以前見かけた大猿が来たため、なんだろうと大猿の案内する跡をつけると庵があり、中から七十くらい
(徳本は武田信虎に仕えたとされるためこの頃は100歳以上。なお享年118で信州で没したとされる。)の老翁が現れた。
老翁「あなたは羽州の松井民次郎殿ですね。羽州の仙女からあなたがこの山に来ると聞いたので、この猿に案内させました。
私は甲斐の永田徳本という者で、先年江戸で将軍様の御病を治しましたが栄達を好まないためこうして深山に籠っております。」
民次郎「かの神医と呼ばれる徳本先生ですか、しかしせっかくの医術をこのような山奥に埋もれさせるのはもったいない。
せめて弟子などを育て後世に伝えていくべきではありませんか?」
徳本「扁鵲・華佗といった名医もその技術は伝えられずじまいです。
わたしも今まで医術のあらましは伝えてまいりましたが、微細なことは口では伝えることができませんでした。
東漢(張仲景「傷寒論」など)以来、医書が汗牛充棟と溢れてるにも関わらず、良医より藪医者の方が多いのもこのためです。」

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/20(土) 20:06:32.78 ID:SFSJQDUZ
民次郎「しかし何のために私をお呼びになったので?」
徳本「御不審はごもっともです。近来この山奥にヒヒに似た異獣が棲みついており、時たま里に出ては人を喰らうため難儀しております。
百人力の英雄であるあなたであれば退治してくれるだろうと思い、こうしてお願いするしだいです。」
民次郎「暴虎馮河は戒めとしておりましたが人々に害をなす異獣となれば命を尽くしましょう。」
徳本は大いに喜び、民次郎を粥で饗応し
徳本「かの怪獣はいつも暁天にこの大岩の上に現れます」と案内。
民次郎が岩のそばの木の上で待っていると、夜が白みだしたころ、
一丈余りの、熊のように体が黒く、頭の毛は緋のように赤く、顔は獅子のようで、
左右の手の爪は竜のようで、古狼を瓜のように割いて喰らう異形のものが現れた。
民次郎がかつて羽州の仙女より授けられし手裏剣を怪獣の襟元に突き立てたところ、怪獣は暴れだし、周囲を見渡し、木の上の民次郎を見つけ、襲ってきた。
民次郎はもう一本の手裏剣を怪獣に投げ、胸板から背中まで突き通し、怪獣はのたうち回って突っ伏した。
民次郎が木を降り、怪獣の様子を見ようと近寄ると、怪獣はまだ息絶えておらず、起き上がり民次郎を襲ったため、民次郎は慌てず怪獣を蹴り倒し、そのまま首を打ち落とした。
すると山中の獣すべてが歓びの鳴き声を上げ、怪物の死骸にとりつき、首を残して、あっという間に四肢を食い尽くしてしまった。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/20(土) 20:08:29.53 ID:SFSJQDUZ
そこに徳本が杖をつきつつ飄然として現れ
徳本「あなたのような壮士の英武に頼らなければこのような悪獣を滅ぼすことはできなかったでしょう。
一国の人民の悦び、これ以上のものはありません」
民次郎「なんの匹夫の勇、称賛するほどのことでもありますまい」
微笑みながら徳本「いやいや多くの人民を害した悪獣を滅ぼし、国家の害を取り除いたのです。なにが匹夫の勇でしょうか」
とそのまま獣の首を庵の庭まで運んだあと、一巻の書を取り出し
徳本「これは養生の書ですが、凡庸の者が読んでもさきほど申しましたように役に立ちません。
あなたのような異才の方が熟読してこそ、百歳、二百歳の長命が得られ、国家の至宝として活躍できることでしょう。
今日の謝礼のため、いささかなものですがどうかお受け取りください」
すでに辰の刻近くとなったため、民次郎はねんごろに暇を告げて庵を後にし、徳本は名残を惜しみ庵の外まで民次郎を見送った。

とほとんど仙人扱いされた永田徳本の話でした



烈士秋山六郎碑

2021年11月21日 16:00

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/20(土) 20:27:17.21 ID:b2yFIyIC
烈士秋山六郎碑

足山田城(現在の城山)は、武田方の秋山新九郎の守る城であったが、信玄没後、徳川家康に攻められ落城した。
その時、新九郎の家臣秋山六郎はのがれて長山村にかくれ住んでいたが(城山くずれと呼ばれていた)
天正三年(一五七五)五月、長篠合戦にむかう徳川、織田軍と宝川で戦い、壮烈な死を遂げた。
この事は伝えられ、同情をよせた村人は、正徳三年(一七一三)になって、彼が住んでいたあたりに菩提供養の墓を建てた。
さらに後になって彼の生きがいをあらわした「一屋銕心」の戎名が追贈された。
このあたりの地名を「六郎辻」という。

平成八年五月 豊川市教育委員会



甲斐の徳本一服十六銭

2021年11月18日 18:41

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/18(木) 18:24:01.44 ID:Iw0YGaJa
明治大正の国学者、宮地厳夫による「本朝神仙記伝」から「甲斐徳本」
甲斐徳本は、永田氏なり、その父母及び生国を知らず。
伊豆、武蔵の間を行きめぐひ、薬籠を負いて、甲斐の徳本一服十六銭と呼びて薬を売り歩く。
江戸に在りける時、徳川大樹(秀忠)病あり。
典薬の諸医手を尽くせども、験(しるし)なかりけるに、誰が申しけむ、徳本を召して治療をなさしむ。
不日にして平癒したり。是に於いて大樹の喜悦ひとかたならず。
賞を遣わすべしとて、種々の物を与えられけれども、敢えて受けず。
ただ例の十六文に限る。薬料をのみ申し下したりければ、人皆その精白を称しあえり。
されば大樹にも此よしをや聞かれけむ。何にまれ願う事あらば、申し出よとの命しきりに下したりければ、
されば我が友のうちに、家なきを悲しむものあり。これに家を賜らば、なお吾に賜るがごとくにならむと申しし程に、
即ち甲斐国山梨郡の地に、金を添えて賜りぬ。
やがて其の者を呼びてとらせ、その身はまた薬を売りて行方知らずなりしとなむ。
この老翁の著述、「梅花無尽蔵」と題する書あり。
上梓して世に伝えられたり、薬方古によらずすこぶる奇なり。
薬名もまた一家の隠名を用う。けだし仙人の化身なるべしといえり。

秀忠の病気を治療しても十六文しか受け取ろうとせず
秀忠がもっと褒美を出したい、と言ったところ、友人のために家をもらい自分は去っていった清廉な名医・永田徳本の話。
中里介山「大菩薩峠」には十八文しか受け取らない道庵先生といえ名医が出てくるが、そのモデルかも。




797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/18(木) 20:32:27.34 ID:9NtCvpnO
>>796
著名な話ではあるが原文で読むと味わい深いね
16文はざるそばの価格

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/18(木) 22:11:30.14 ID:c0Qw0QiZ
トクホンの由来である

ジタジタ峠

2021年08月28日 15:37

986 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/28(土) 10:07:39.68 ID:c9ZQ43xS
ジタジタ峠

またはジダジダ峠。ジタジタというと鹿児島弁でじめじめ。じとじと。湿気のあるさま。を指すというが今回は
南信濃のお話。

天文11年(1542年)に諏訪頼重が武田信玄に滅ぼされたのち、武田家の軍門に下って従属した下伊那郡の
諸領主であったが天文22年(1553年)に村上義清ら北信濃国人衆の要請を受けて長尾景虎が川中島へ攻め入ったことで
信濃先方衆として当地の支配を任されていた秋山信友が高遠城を離れた隙に下伊那の知久頼元と座光氏は
知久氏の居城である神ノ峰に兵を集め武田方に反旗を翻した。

天文23年(1554年)4月、秋山信友は川中島から戻って知久氏らの説得にあたったものの使者が斬られるに至り遂に
武田と知久氏・座光寺氏らによる戦いとなった。秋山信友率いる三千の武田軍は鈴岡城の小笠原信定を破り、
知久氏もよく戦ったものの頼元の嫡男・頼康が討ち取られ、居城の神ノ峰城へ籠城することとなる。

この時、神ノ峰城の攻略を任されたのは山本勘助であった。勘助は神ノ峰城と玉川を挟んだ対岸の峠に立って城の様子を
伺った。
( ゚Дメ)「この城を力攻めするのは良くないなぁ」
( ゚Д゚)「そうっすね」

( ゚Дメ)「水を断って城内を干上がらせるために城から玉川へ降りてくる道に兵を伏せ、城兵が水を汲みに来たら討ち取るのだ」
( ゚Д゚)「そうっすね」

それから5~6日、何事もなく日々が過ぎるのみだった。

( ゚Дメ)「城の奴らは全く川に出て来ないのか?」
( ゚Д゚)「そうっすね」         

( ゚Дメ)「どういうことだ?」
( ゚Д゚)「知らんがな」

奇異に思い峠に立って城の様子を伺う勘助であったが、その時峠から見える神ノ峰城の出丸にある篝岩では城兵が集まって馬を洗う姿が勘助の目に映った。
城兵達は勘助が玉川に兵を置いていることはお見通しだったのである。また、この時馬を洗っているように見せたのは白米を流してその様に見せかけていたのであるが・・・

     (`Дメ ∩ < う わ ぁ あ あ あ あ あ ん!!!城内水いっぱい有るじゃねーか!時間無駄にしちゃったー!!!
     ⊂   (
       ヽ∩ つ  ジタジタ
         〃〃

と、勘助はジダジダ(地団駄)を踏んで悔しがり、そこにはそれ以降草木が生えなくなったという。
このためこの場所をジダジダ峠と呼ぶようになった。

参考サイト
飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html
南信州お散歩日和
https://blog.nagano-ken.jp/shimoina/culture/50.html
城の記2.0 ジタジタ峠(当地の看板の文書あり)
https://blog.goo.ne.jp/yuukatan/e/ee59adb20120c70bdae3e30c6ce372fd

山本勘助の神ノ峰城攻略についてはまたその内・・・
今宵はこれまでにしとうございます。

988 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/28(土) 13:15:28.76 ID:c9ZQ43xS
>>986追記
城内の頂上から少し降ったところにある上久堅郷土歴史資料館の近くには御手洗池(みたらしいけ)があり、この池は干魃でも水が枯れないと言われ今も清水がこんこんと湧いていると言う。

白米城伝説は残っているけど、実際には水にあまり困ってはいなかったかも知れない。



川中島合戦諸説

2021年06月22日 18:09

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/22(火) 15:05:34.29 ID:CX1S4mN5
武田典厩(信繁)は、上杉謙信と太刀打ちし、川中に切り落とされ、屍骸が川に流れたのを、
越後方の梅津宗三という者が引き上げ、典厩の首を取ったが、典厩の家人である山寺伊右衛門、
樋口宗三郎、橋爪出羽という者達三人が懸かり合い、梅津宗三を討ち取り、典厩の首を取り返した、
という説がある

また謙信と信玄の太刀打ちの時、信玄が団(軍配)にて請けられた、との説があるが、
慈眼大師(天海)がその時信玄方に居られ、山の上より直に見られ、信玄も太刀にて
謙信と勝負していたと、南麻主計に度々物語された。

畠山入庵(義春)も、その勝負を眼前に見られたといい、彼の物語に、信玄も太刀にて
謙信と勝負されたという。

慈眼大師は永正七年の生まれにて、遷化の時、百三十八歳であったと云われる。又一説には、
天文十年の生まれにて、遷化の時、百七歳であったとも云う。
百三十八歳が正しければ、初めの川中島合戦は四十五歳であり、百七歳にて遷化されたのであれば、
その合戦当時は十四歳に当たる。

川中島年月考

信玄と謙信の太刀打ちというと、第四次川中島合戦だけど、これが永禄四年だから、天海はともかく
畠山入庵はまだ生まれていないな(永禄六年生まれ)



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/24(木) 17:19:43.29 ID:7SGd52Fe
天海の年齢はどこで狂ってるんだろ。隋風時代に詐称あっても100歳こえるよね?

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/24(木) 21:29:07.89 ID:cctjc1VX
>>822
年齢的に無理があるから、結構前の上条政繁みたく同一人物扱いの別人って説が出てきたりして

江戸期の武田信玄への評価について

2021年05月20日 16:55

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/20(木) 13:30:02.90 ID:/pV1gHPB
武田信玄は父・信虎を追出して自立したり、悖戻(はいれい)不義、言語道断の不孝者なりと論難されて居た。

中井積善(竹山:江戸時代中期の儒学者)の逸史には、信玄悖戻にして権謀を好むと断じ、
室鳩巣(江戸時代中期の儒学者)は、悖戻不義と罵り、水戸の安積老牛(澹泊:江戸中期の儒学者、
『水戸黄門』の渥美格之進のモデルとされる)も、信玄は不孝の人なり、終身論語を手にせざるは、
自ら愧ずるところある故なりと論じている。頼山陽(江戸後期の歴史家、『日本外史』作者)も
同じ筆法で悖戻を攻撃している。

史家みな、斯く信玄を悖戻不義と罵り、中に飯田忠彦(幕末の国学者・歴史家、『大日本野史』作者)
のみは、よく事実を調べしと見えて、野史の信玄の賛には悖戻だの不義だのとは言わず

 国人信虎の凶暴を厭ふ、信形、虎泰、飫富虎昌等今川義元と通じ信虎をして駿河へ赴かしめ
 還るを得ざらしむ。信虎如何とも能わず。

と記したは公平なる書法である。

伝説研究・歴史之謎

江戸期の武田信玄への評価について



『是非死に候へ』と思し召されているのに

2020年12月01日 16:58

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/01(火) 12:01:01.12 ID:YV3sJxZy
武田方に於いては、信長・家康が両旗にて長篠に後詰することを勝頼が聞き家老中を呼び、明日の軍評議が
あった。勝頼はここで、このように仰せになった
「明日は我々より押し懸けて、一戦を仕るべし。」
これに馬場美濃、内藤、山縣らは目を見合わせ、申し上げた。

「明日の御合戦については、御尤とは申し上げられません。何故ならば、敵は両旗にて殊に大軍です。
その上、我々は他国に踏み越えており、一つとして味方勝利を見つけられません。
今度、ここでおくれを取れば、弓矢の御損多く有るでしょう。ですので今回は馬を返されるべきです。
そうすれば、信長・家康の両人も馬を返すでしょうし、その上で又少しの間を置いて勢を出されれば、
信長も手前の上方の用などが有るので、度々はこちらに出陣することは出来ないでしょう。
その時は、長篠は思し召しのままに御手に入ります。」

勝頼はこれに「武田の家に、合戦を回避して、敵に後ろを見せたことはない。その上信長・家康が
大軍で我らを追撃してくれば、家の疵でも有り、また敵に勢いを付けることにも成る。」と仰せになった。
これに対して馬場は申し上げた
「我らを追撃して押し入るのならば、猶以て願うところです。彼等を信州伊那に引き入れて防戦をすれば、
地元での戦いでも有り、勝利疑い有りません。」

しかし勝頼は、全くお聞き入れにならなかった。そこで馬場、山縣、内藤が申し上げた
「そういう事でしたら、明日、長篠城を力攻めにすれば、人数千ばかりは損ずるでしょうが、即時に攻め落とす
事ができるでしょう。そして門城の掃除をし、屋形様を入れ置き、我らはその前の山に出張って防戦を仕ります。
そのようにしては如何でしょうか?」

勝頼はこれに「武田の家にて籠城を仕ったことこれ無し。今私は籠城など思いも寄らない。」と仰せになった。

そこで内藤が申し上げた
「それでしたら、長篠には押さえに二千を置き、屋形様はこの上の山に御陣城をお構えになり、先手の者共は、
あの山に備え、敵を引き受け合戦仕るべし。」

しかし勝頼は「我々から押しかけ合戦有れば、勝利すると思っている。異なことを申す。」と仰せになられた。
この時、長坂長閑斎が申した。「憚りながら、私もそのように存じます。法性院様(信玄)の時分であれば、
何れもこのような反論を申さなかったでしょう。」

これを聞いて内藤は立腹し、長坂と口論に及んだ。これに勝頼は「いやいや、口論はいらない。
旗楯無も上覧、明日の合戦は回避しない!」と仰せに成った。
そこで家老衆も、この誓言の上は料簡を申し上げること出来ず、「下々へも、明日の合戦を申し触れます」と、
その場を立った。
この時、馬場は長坂長閑斎に申した
「御異見申すが、我々は明日の合戦で討ち死に仕る。各々は、我々の討ち死にを見てから甲州に帰り、その事を
物語されるように。」

そして罷り立ち、皆々との別れ際に
「さてさて、法性院様御在世の時は、あはれ討ち死にを仕って御奉公したいと心がけていたのだが、終に
討ち死には出来ず、今まで存命してしまった。
そして、当屋形様には『是非死に候へ』と思し召されているのに、命が惜しいとは。大将の心入とは
このように有るものか。」と、からからと笑って立ち別れた。

(長篠合戰物語)

長篠の戦い前日の、武田方での軍議について



梅雪様の申しようはごもっともです

2020年08月20日 17:17

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 21:23:05.13 ID:9dfXvoM4
長篠合戦記』より
珍しくかっこいい穴山梅雪

(長篠の合戦が敗勢になり)勝頼は「討ち死にすべし」と言って、少しも退却するそぶりを見せなかった。そんなところに穴山梅雪がやってきて、「早く退却されてください」と進言した。
勝頼はまったく聞き入れなかった。すると梅雪は大いに腹を立て、「日頃からわがままで、家老の言うことを聞き入れないが為に、いまこのような状況になっているのです。この上でも聞き届けないなら、覚悟のないことだ」と言って刀に手をかけたが、それでも勝頼は聞く耳を持たなかった。
そこで初鹿野伝右衛門が両人の間に入って刀に手をかけ、梅雪に悪口を吐いた。
梅雪が話すには「伝右衛門はそういうが、なんとしても勝頼様を退却させたいからこそ申しているのだ。早く馬にお乗せしろ!」
さすがに伝右衛門もかしこまり、「梅雪様の申しようはごもっともです。いまのご無礼はお許しください」と言って、「小姓ども、それそれ!」と言い、馬に勝頼を抱いて乗せた。
勝頼は「そうであれば仕方ない、力のないことだ。馬に乗ろう」と話し、それより押し太鼓を鳴らし、整然と退却していった。


いろんな角度から史実とはとうてい思えない話でもありました。
ちなみに前段では家康使者の小栗大六が「信長が助けてくれないならしらないよ。上野を勝頼にあげる代わりに尾張もらうから。家康が先陣で尾張を攻めたら信長困るでしょ」と放言し、それを立ち聞きした信長が改心するストーリー。



合戦を遂げることこそ尤もです

2020年07月02日 17:59

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/01(水) 21:58:08.56 ID:spB6JqFb
長篠の合戦の時、武田勝頼は「是非とも一戦を遂げ、討ち死にすべしと思い定めている」と語った。
これに対して武田家重臣の馬場美濃守、内藤修理、山縣三郎兵衛、武田左衛門大夫、同左馬頭は申し上げた

「敵軍は四万、我軍は一万です。この度は引き上げ、信長の帰陣した上で、来秋出張をし、所々残らず
放火し、その上苅田を申し付けられれば、三河は亡国と成りますから、一両年中に存分と成るでしょう」

という旨をたって諫言したが、勝頼は承引せず、殊に長坂長閑斎が「合戦を遂げることこそ尤もです。」と
言上したため、いよいよその儀に相定まったのだという。

この長閑斎は工夫に長けた人であったために、信玄も大細を談合した者であり、殊に弁舌明らかであった。
この時六十三歳であったという。

当代記



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/01(水) 22:03:21.53 ID:dkvDgPFT
当代記の時点で勝頼は老臣の話聞かない思慮の浅い武者、長閑斎は佞臣
みたいなテンプレが出来上がってるのね

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 02:51:07.33 ID:1ucQJuvg
>>159
甲陽軍鑑の影響でしょう
近年、再評価されているのは面白い

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 10:32:46.38 ID:SJFjnxtY
大将が討ち死にすべしってだダメだろ

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 01:26:32.35 ID:wNBo2v6N
>>161
信長だって「知恵の鏡が曇るとは」といわれたし
勝頼みたいに退路絶たれて突撃はしないと思うけど

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 02:42:17.31 ID:/iNLXb8k
父信玄に劣らない立派な2代目にするって事で臣下が犠牲を顧みず奮起して高天神を落としたのに
勝頼「コイツらやれば出来るのになんで何時も怠けてんだよ、何時も死ぬ気でやらんかい!」
だから設楽原で老臣たちの慎重論を怠けとして全軍突撃を命じたんだよなあ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 10:08:11.60 ID:yt6Qik+O
退路を断たれてしまった以上前方の敵をせめてある程度ひるませないと、退くにしても追撃でとんでもない被害出るし

そこまでおかしな行動とは思えないかなぁ、平山氏曰く織田勢は兵の数が過小に見えるように動いてたようだし

だからそもそもこの当代記の武田勢が織田勢の兵数を完璧に把握できてる状況ってのがすでにフィクションっぽい

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 15:12:49.38 ID:9dv9wt1q
>>164
「敵かたへ見えざる様に段々に御人数三万ばかり」ってやつね
しかし、仮に威嚇のためだったとして、何回も突撃して壊滅し、追撃戦を含めて錚々たる面子を失ってるからね

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 21:12:12.25 ID:yt6Qik+O
威嚇じゃなくある程度の撃滅が目的じゃね
そもそも目算が間違って死地に赴いてしまったのが問題であって、そのあとの収拾の方法は問題ないと思う
そもそもが大失敗しててそれを取り返しようがない状況だから

そのまま追撃受けたら壊滅して、錚々たるメンツが死んでたのには代わりないんで

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 13:20:01.29 ID:90/ImzUl
>>164

要するに一撃講話論ですね

かかる心を武田とや云

2020年06月27日 17:42

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/27(土) 14:46:03.49 ID:dwJriU8b
先年、武田信玄の嫡男である武田太郎幸信(原文ママ。義信)が生害され給わった。
その故は、義信が父を討ち取り家督を取るという陰謀について、これが信玄の耳に入り、たちまち
義信を幽閉し、終には鴆毒を以てあい果てた。

然れば、信玄は父を追い出し子を殺し、甥の今川氏真の国を奪い取った。これを大悪行であると
思った故か、何者の仕業か、落書があった

『子を殺し 親に添てぞ追出す かかる心を武田とや云』

当代記



151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/27(土) 21:02:49.55 ID:VWMlXOBe
武田の御曹司としての自覚もかなり強かったみたいだし、義信が家中をまとめて勝頼が先陣を切る武田家ってのも見てみたかったなあ
義信は勝頼をだいぶ目にかけていたって話が過去に書かれていたから案外うまくいったんじゃないかと思うけど

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/28(日) 22:36:37.28 ID:V2ZQMWZW
>>151
義信-勝頼間の感情が悪くないとしても、重臣や国衆がどう反応するか。
下手をすれば義信派と対立するor対立した国衆に担がれた勝頼が諏訪で挙兵とか、なりかねん。

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/29(月) 03:15:49.45 ID:WHFvIAdA
そうなるには義信の治世が最悪じゃないとな

人数多勢無勢出立の事、

2020年05月12日 18:52

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 05:35:16.13 ID:iLI6DruS
人数多勢無勢出立の事、

一、大軍は少旗、小軍は大旗。口伝あり。

味方が夜軍をする時、

一、あつくうってうすく出る。口伝あり。
一、険難をよく見る。これについては、素破の入る所である。ただしそれは前のこと。口伝。
一、上着・胴・肩衣・白。口伝。
一、控え軍が肝要である。
一、時を合わせることが肝要である。
一、伏せ屈りには風が大事。口伝。屈りの物見は“かきもの聞き”という。

――『甲陽軍鑑(品第四二 軍法之巻)』




169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 10:38:25.76 ID:eZMewPxk
おまえ口伝ばっかじゃねえか(呆れ)

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 10:53:52.80 ID:9V4qoNAn
秘伝の巻物を奪っても口伝ばっかりだから参考にならない
てのはよくあるツッコミ

四郎殿の御沙汰は何とも

2020年05月09日 18:47

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/09(土) 15:37:33.73 ID:pj8HJK61
(三増峠の戦いの時)

右の翌日に三増峠で馬場美濃殿(信春)は小勢故に敵と揉み合い勝負がつかなかったところを、勝頼公
武田勝頼)が自身で槍を取って横槍に入り崩しなさったのは、信玄公(武田信玄)の御眼前であった。

その翌日に反畑で馬場美濃と内藤(昌秀)はこの事を沙汰して信玄公の御前で四郎殿を誉め奉り、感涙
を流した。すると信玄公はとかくの御返事もなく仰せられ「“壮夫の涙”といって猛き武士はいずれも涙
もろい。大唐の韓信や樊カイは物を感じてすぐに涙を流した。また我が家でも昔、荻原常陸(昌勝)は
涙もろかったと聞く。方々も同様だ」と御意なされ、四郎殿の御沙汰は何とも仰せられなかった。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』



雑人陣にて煩ひの時

2020年05月07日 18:24

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/07(木) 15:02:17.05 ID:RnSax87m
雑人陣にて煩ひの時

一、虫には曹洞宗の百貫草。水一盃の半分を一盃に煎じて飲ませる。手に1つも握る。口伝。
一、おこり(マラリア)には亀1つを黒焼きにする。水でこれを飲ませる。
一、熱気には拾五気の木。手1束に右の煎じ様で。口伝。

――『甲陽軍鑑