FC2ブログ

雑談『松隣夜話』について

2020年02月23日 15:18

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 22:24:39.90 ID:hdagg7Kr
松隣夜話が作られた時代には織田・豊臣関係は資料が豊富そう
他の大名家はホントに縁がないと資料当たるの難しそう

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 04:47:02.37 ID:CvAbB6Xc
おおかた上杉綱憲の御用学者が書いたんだろ


676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 16:26:46.06 ID:Se+Xrkr1
>>674
松燐夜話は、原文読むと解るが、基礎的な年代の間違いや文字の当て字がやたら多く、御用だろうが「学者」の書く文章ではない。


677 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/22(土) 21:48:18.77 ID:UAGwNXpj
松隣夜話の作者と目されるひと
宇佐美勝興
1590-1647 江戸時代前期の兵法家。
天正(てんしょう)18年生まれ。越後流(えちごりゅう)軍学の祖といわれる宇佐美定満の孫。
尾張(おわり)名古屋藩,常陸(ひたち)水戸藩をへて,寛永19年紀伊(きい)和歌山藩主徳川頼宣(よりのぶ)につかえた。
正保(しょうほ)4年11月死去。58歳。
名は別に良賢。通称は造酒介(みきのすけ),神徳左馬助。著作に「武経要略」。

678 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/22(土) 21:52:24.28 ID:UAGwNXpj
石高半減で意気消沈の上杉家が士気向上のために手を組んだのは勝興の子の定佑
綱憲はまだ幼少の時期なんで実際に動いたのは親族の畠山や吉良

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 22:09:53.31 ID:8PWSc/4Q
WIKIみただけだと宇佐美定満の子孫というのがまず嘘っぽい?
甲陽軍鑑に対して上杉方の主張として支持得たのかな

680 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/23(日) 11:14:07.60 ID:Cyp6b3ac
ウィキペディアのコピペ

定行の活躍を伝える『北越軍記』の作者は、紀州藩初代藩主徳川頼宣に仕え、越後流軍学を講じた軍学者宇佐美定祐と考えられる[27]。
そして定祐の父・宇佐美造酒助勝興は、宇佐美家に伝わる系譜類によれば、定行の孫つまり勝行の子とされる人物である。
勝興は駿河を経て、尾張藩主徳川義直に仕官したが、喧嘩の仲裁結果が義直の意に沿わなかったため尾張を出た。
その後、水戸藩主徳川頼房に400石で召し抱えられたが、讒言によって水戸を去り、徳川頼宣の許に
至ったと系譜類は伝える[要出典]。

681 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/23(日) 11:15:42.32 ID:Cyp6b3ac
一方、小幡景憲門下の軍学者小早川能久の記した『翁物語後集』によると、宇佐美三木之助(造酒助勝興)は
稲垣重綱に仕えた料理人の子であり、のちに重綱の右筆となって、当時編集作業中であった『甲陽軍鑑』の筆写を任されるが、
無断で作成した副本を持ち出して出奔。
駿河を経て、徳川義直の許にいたが、足軽の女房に手を出したのを咎められて尾張を逃げ出し、その後、
水戸を立ち退いてからは行方知れずになった、とする。
水戸を去った経緯については、頼房への仕官の話を聞きつけた上杉景勝が旧臣の家系を抱えることを望み、確認のため
かつて謙信に仕えていた畠山義春に問い合わせたところ、定満は子を残さず没したことが判明。
まとまりかけていた仕官の話は立ち消えとなり、勝興は紀州へと去った、とする記録もある。
また、代々宇佐美家には、定行あるいは勝行の数々の軍功に対して出された上杉謙信・豊臣秀吉・小早川隆景ら
著名な大名による感状が伝えられてきたが、これら書状群は偽文書の可能性が高い[要出典]。

これらの点から、宇佐美家とは血縁の無い勝興・定祐の父子は、系譜・書状の偽作や『北越軍記』等の
軍記物の執筆によって、名軍師宇佐美定行を創出するとともに、その定行を祖とする越後流軍学を引き継ぐ
宇佐美家の子孫という由緒を手に入れ、紀州藩お抱えの軍学者になったと推測される[要出典]。

Wikipedia宇佐美定満
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%BE%8E%E5%AE%9A%E6%BA%80


682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 01:49:01.73 ID:JOhHi9yw
地元の藩は江戸時代の主流は甲州流でしたけど、役にたたんといって幕末に戦国時代の軍法とかを元に再編、更に西洋式に移行しましたけど
それより後に成立した軍学はやっぱり怪しい臭いがしてきますね

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 02:22:24.80 ID:ootvZVAh
歴とした戦国武将で関ヶ原、大坂の陣にも参戦し、
大身の旗本になった小幡景憲の甲州流軍学さえ怪しいもんなんだから、
江戸時代に成立した越後流、楠流といった軍学はちょっとねえ…
スポンサーサイト



謙信公の御在世が、長久有るまじきように

2020年02月23日 15:12

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/23(日) 13:39:09.80 ID:sdz3uCRa
ある時、河田豊前守(長親)の所に、北條丹後守(高広)、同伊豆守、直江山城守(大和守景綱の間違い)、
甘糟近江、長尾小四郎、本庄清七、以下数人料理の参会があった。饗膳事終わり茶話の時、直江がこのように
申した

「各々も定めて同志でありましょうが、今日、日本国に於いて大身小身、名将劣将、これ数多あり、
その内選んで主人に仕るという時には、東国の太田三楽と、我が君たる謙信公に如くは無しと、他家よりも
そのように沙汰されるそうだ。惜しきかな太田三楽は、翻胃という悪病に罹り、今日明日を知れぬと
承っており、あなた方も、は非常に無念に存じられ、痛ましいことだと思われるでしょうが、これについて
私はこの頃、寝食も快からぬほど、思っていることがあります。それが何かと言えば、謙信公の御在世が、
長久有るまじきように了見しているからです。

勿論私は凡夫でありますから、どうして未来を知ることが出来ようかと思っていますが、近頃不祥に見える
ものが一方成りません。一つには、謙信公は去年より御病気にも成られていないのに、日を追って体のお肉が
落ちてきています。二つには、御自身が、御自世を短く思し召されています。三つには、我が君である
謙信公が持たれている善悪を鑑みるに、勇鋭であり、無欲であり、聡明であり、正直であり、義理が有り、
慈悲が有り、智恵が有り、明敏であり、小国である日本は言うに及ばず、おおよそ大唐天竺までこのような
大将はおられません。
その悪を申す時は只一つ、お怒りが常々強く、不仁を憎み給う事が甚だしい、という事計りです。これについて
各々も私も、御前において聊か申しました。ところがこの一両年、お怒りに成るということが殆ど無く、不祥の
者であっても猶以て御恵を加えられます。そのようであれば、誠にいわゆる円満徳の名将とも、この人を
申さずしては古往今来誰を申すべきでしょうか。

しかし承り及んでいる所では、天地造化の理は、完全というものを与えず、完全に成ろうと欲する時は、
天必ずこれを欠くという、聖人の言葉があるそうですが、恐れても余りあるのはこの一言です。

甲斐の信玄が末期の時、このように言われました。「信長家康には果報が有る。彼らが必ず天下の主と
成るためには、法性院(信玄)が先に死んで、謙信も死ぬ必要がある。この二人のうち、もし一人残って、
あと五年生存すれば、信長家康は滅びるだろう。しかし謙信も五年以内に必ず死ぬだろう。」
この事も思い合わし、心に掛かっております。

各々の存念、もしこの意見と違い、そうではないという道理が有るという事ならば、その一言を頂いて
私の所存を晴らしたいのです。」

こう語った所、甘糟近江、河田豊前、長尾小四郎は同音に申したことには
「これは如何なる凶事であろうか、我々も大和守の御所存と相違わず、かねてより考えていたところで、
参会するたびに三人で世を危ぶんでおりました。しかし大和守殿も同じご了見であるとは。これについて、
丹州、豆州はいかに思し召すか?」

こう問われ、北條丹後、同伊豆、本庄清七、以下四、五人の諸将は一言の反論にも及ばず、ただ今にも
そのように成るかのように、愁傷されたことこそ不思議である。

松隣夜話

「謙信公、最近怒らなく成ったからもう長くないんじゃないか。」というのもある意味生々しいと言うか。



866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/23(日) 13:56:57.46 ID:n44l1s/h
太田資正の評価がものすごく高いのね

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 12:52:49.78 ID:W47loJzA
直江山城の言なら圧があるが大和だしな
山城持ち上げたいばかりにエピソード創作したんだろう

必ず天下の主となるでしょう

2020年02月22日 14:54

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 03:07:15.27 ID:r7zQrgd2
(天正五年の事)
関東小田原の北条家家老衆は各々協議した
「越後の上杉謙信が来春上洛の為、武田勝頼を旗下とすると言います。両旗の人数おおよそ六万騎、勝頼は
三州濃州に働き、越後勢は越前より江州へ直に押し通り、都を志して上洛するという話が聞こえる事大です。

この話の通りであれば、信長家康に謙信勝頼の鑓を支えることは難しく、彼らは謙信の旗下と成るか
そうでなければ切腹すること疑い無い。近年、謙信公はいよいよ軍の鍛錬を重ね、軍を上手にされており、
その威勢強き事言葉にも及ばない。必ず天下の主となるでしょう。その果報でしょうか、去年より謙信の
敵と成るものは疫病を受けて死ぬと聞きます。

勝頼も信玄ほどの工夫が無いため、長篠にて不慮の遅れを取り、信玄取り立ての名人が悉く討ち死にしたため
威勢衰えると言いながらも、猶以て能き者数多残り、鑓向の強きことは前代に劣らず、それを謙信が指図して
備を出すのであれば、この両旗に対し敵する者は、首を切られないと言うことは無いでしょう。

氏政公は謙信に対しても勝頼に対しても、現在は御縁者であります。それに、信長が滅亡した後になって
祝儀を仰せに成っても宜しくないでしょう。来春、謙信と同様に、此の方からも御馬を出し、武田と牒を
合わせ、家康を追い立て尾州江州までも御発向無くては叶わぬ道理であります。

長きものには巻かれよと申す諺に相任せ、謙信に兎にも角にも異見を任せ給えば、行末目出度いでしょう。
武田も高坂弾正という家老が勝頼に能く異見をして、謙信幕下に属すると言います、油断すべきではありません。」

このように北条氏政へ異見した所、氏政は同意し、北条幻庵、多馬左近両人が先ず前橋へ行き、氏政は
三郎殿(上杉景虎)へ合力のため、来春三月十六日に三万五千にて遠三尾濃へ働き、謙信公御下知を
相待つという事を北條伊豆守を以てこれを申し、甲州にもまた使者を送った所、武田の諸勢は長篠の遺恨を
この時に至って一時に散らさんと、各々大変に勇み喜んだのである。

(松隣夜話)

上杉謙信の「上洛」についてのお話。この中に出てくる高坂弾正は、甲陽軍鑑の中では勝頼に、北条家の
旗下に成るよう諫言しているわけですが、ここでは謙信の旗下になるよう諫言しているのですね。



手取川の戦い

2020年02月20日 17:53

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 14:34:54.30 ID:9EoSOrI+
天正四年五月朔日、上杉謙信の軍勢は長(続連)の城に押し寄せた。二万の軍勢を二手に分け、河田豊前(長親)、
柴田掃部(新発田長敦ヵ)、直江山城(大和守景綱の間違い)、北條丹後(高広)、荒尾一角、上村党一万にて
城を攻め、中條五郎右衛門(景泰ヵ)、甘糟近江(景持)、北條伊豆、竹股、色部、白屋、土岐等を御旗本に
加えて一万余の兵が松任に備えた。これは城の落ちない内に織田信長の加勢が来た場合に、戦を決するためで
あった。

謙信は甘糟近江に「汝のすっぱ(忍)を越前筋の五里を限りとして入置いておくように。信長勢の者共は
何れも陣所に柵の木を結んでいると聞いているが。」と密かに申し付けると、近くの者ばかりを召し連れ
諸手を乗り回し下知をなされ、大変念入りになされた。

織田信長へは長(続連)より、謙信が越中に御着陣されたその日より使者が立て続けに送られた。
『今回、もし首尾御違いに於いては、我等は輝虎旗下となり、先手を致して越前をその日の内に押し破る
でしょう。』
このように申し越したため、信長より後詰として差し越された人々は、柴田修理(勝家)、佐久間玄蕃(盛政)、
丹羽五郎左衛門(長秀)、長谷川於竹(秀一)、前田又左衛門(利家)、木下藤吉(秀吉)、徳山五兵衛(則秀)、
氏家卜全(直元)、滝川伊予守(一益)の大将九人、都合四万八千を松任の南大聖寺ヶ原へ差し越し、謙信の
陣所とその間二里であった。

しかし上方勢は恐れて河を越えようとせず、一方の越後勢は彼らを物ともせず、旗本一万は松任に備え、後詰の
受手を心がけ、先衆一万にてくり盾を突きにわか攻めにして、ただ一日に乗っ取り、長筑前守兄弟を初めとして
上下男女二千六百余人を撫で斬りとした後、直ぐに大聖寺後詰の陣へ謙信は使いを立てた

『明日卯の刻(午前六時ころ)、その方に謙信参り一戦を遂げる。』

そう申し越され、二万の人数を一所に集め、前後左右の手配りを丈夫にされ、一の鐘にて緒軍準備をし、
二の鐘にて武具を構え、三の鐘にて討ち立つ擬勢を見せた。

これを信長衆聞くと、前日に「河を越えて木下藤吉、佐久間玄蕃を先鋒として有無の一戦」と決した時の
気色は既にうち替わり、前田又左衛門、丹羽五郎左衛門が一番に崩れ河を引き返した。これを見て織田軍は
諸手騒ぎ、暁天に敗軍して、大聖寺河を急いで越えようとしたため歩騎数百人が流死したが、それにも拘らず
我先にと、跡も見ずにまだ夜も明けきっていない内に越前まで引き取った。

謙信は夜が明けて卯の刻、大聖寺に押し寄せ見てみれば、武具、馬具、兵糧所々に捨て置かれ人は一人も
無かった。謙信は大いに笑われ
「今まで堪忍出来かねず、蹴散らして河へ切り込んでやろうと思っていたのに、そこをよく察して
夜逃げするとは、然しながら聞くに違わぬ、信長家中の名人共である。」

と、却って褒められた。

松隣夜話

いわゆる手取川合戦についてのお話。どうでもいいけど松隣夜話、上杉家中の受領名や仮名は適当なのに、
信長家中についてはやたら正確なのは何なんですかね。



672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 20:18:38.55 ID:ESupygtZ
越後から会津に移封なったりそのあと米沢にまた移封なったりで記録散逸したのかねー

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 22:24:39.90 ID:hdagg7Kr
松隣夜話が作られた時代には織田・豊臣関係は資料が豊富そう
他の大名家はホントに縁がないと資料当たるの難しそう

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 04:47:02.37 ID:CvAbB6Xc
おおかた上杉綱憲の御用学者が書いたんだろ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 15:37:24.41 ID:/J8VZAUW
貝原益軒は黒田藩の御用学者

と書いたら貝原益軒を中傷していることになるのだろうか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 16:26:46.06 ID:Se+Xrkr1
>>674
松燐夜話は、原文読むと解るが、基礎的な年代の間違いや文字の当て字がやたら多く、御用だろうが「学者」の書く文章ではない。

我が心を証人とする

2020年02月18日 18:44

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/18(火) 14:54:43.28 ID:tlsEyySc
甲州浪人の落合彦介上杉謙信公の御下へ参り、度々走り廻り心ばせある働きを仕ったとして賞禄を給わり、
御側二十八人の内に加えられた。

ある時、謙信公が槍間において彦介を御覧になり、このように言われた
武田勝頼の小姓である阿部加賀が、十余年以前に川中島にて汝を討ったとして、武田信玄はこれを悦び、
加賀に褒美を与えたという旨を、武笠という者が語ったのだが、これは阿部加賀守が見間違えたのか、
また余りにそう有ってほしいと、無い事を作って言ったのか、どちらにしても武田家中にてこれに過ぎる
大いなる弱みはない。

『三人行則有吾師其不善者而改之』という。我が配下の者達も、深くこれを思い相嗜むべきである。」
(論語・述而第七より「三人行、必有我師焉。択其善者而従之、其不善者而改之」(三人で同行すれば、
必ず自分にとっての師となる人がいる。善き人を選んでこれに従い、不善である人については、これを
反面教師として自身を改めよう。))

そのように若き者達に、彦介、武笠を例として御異見を加えられ、またこのようにも仰せになった

「一切のこと、その中でも武辺については、有体にして我が心を証人とするより外は無い。
心を証とせずして取り囃し、言い成したる事は、必ず弱き事である。
結構なる働きをしたにもかかわらず其の名隠れ埋もれたとしても、心を証としていれば恨は無い。
君子は独りを慎むものだと聞いている。」

松隣夜話



席次の公事

2020年02月16日 16:09

651 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 14:19:53.32 ID:9kZo4FPV
越後衆である森出雲という侍と、佐渡先方の槇伊賀という武辺が公事(訴訟)を致し、目安を捧いだ。
これに対し、両人とも大身の侍であり、殊に武道の出入り(度々武功を成した人物)であるので、
奉行衆も遠慮を成し、上杉謙信公の御前に後披露をした。

その訴訟の内容は、これは越後の風にて、侍大将の采弊を下された場合を除き、それ以外の侍が
私に参会する時は、老若高下を問わず、先代の長尾為景以来の後感状を多く持った侍を以て上座としていた。
感状を同数持っていた場合は領地加恩の多少で選び、さらに領地も同分の場合は年齢によって
崇敬する定めであった。

折しも春日山蓮華宝院にて、近辺の侍数名に振舞が出された事があった。
ここの一の上座は侍大将の柴田内膳、その次は同じく侍大将の長尾小四郎、三番以降は感状の数によって
座を定められた。
越後の侍である森出雲守は年齢六十余にて、感状を二十三まで取って持ちたる覚えの侍であり、彼が
侍大将の次に座った。

その所に、佐渡庄内衆の槇伊賀という侍が後から走り来て座席を見廻して後、はるか下座に座った。
彼も覚えの侍にて人に知られた者であったため、その場の各々彼に向かって「伊賀殿はそのような場所に座す
人ではない、雲州殿の次に座られよ。」と申した。こうして些か挨拶有って後、伊賀守は申した

「雲州殿は故為景公、当代謙信公両殿の御感を二十三までお取りになったと聞き承っております。
尤も冥加の覚え美々しき御事であります。

さりながら、それがしも近年謙信公の元に罷り出て、所々の御陣に御供いたし、ここ十六年来、御感状を
二十一戴いております。その中でも越前衆との御取合の時には、一日の内に十三度の競合いがあった中で、
私は十一度の一番鑓を仕り、甲冑を帯びた侍を九人討って首を得、謙信公自ら『天下無双』とお書きになられた
御感状一つ取り申しております。

御当家の御座席は手柄次第だそうなので申しますが、その感状の数を言えば、私は雲州殿に二つ遅れております。
しかし手柄について言うなら、私のほうが増しているのではないでしょうか?
先ず以て、天下無双の四文字が書かれた御感状は、おおよそ常の御感状五つ六つにも替えがたいものです。
その上、雲州殿御所持の御感状は、過半が御父たる為景公より御頂戴したものだと承ります。
私は全て当代の謙信公より戴いたものであり、同じ事とは申しながら、謙信公より御感状を戴くことは稀であり、
それが貴重であることは、自ずから百重千倍であります。
謙信公は知行俸禄を惜しまれることはありませんが、御墨付を下されるのは常々には無いからです。

但し、これは先ず自分の主張に過ぎません。雲州殿にも、如何様なる大切の御感状が有るのかも私は存じません。
雲州殿は長尾譜代であり、私は先方にて十六年来の者でありますから、それを以て式対を仕るという事であれば、
私は一口も愚意を申しません。」
そう、礼を厚く申した。

森出雲守はこれを聞くと
「伊賀殿の事は兼ねてから承っていましたが、是程委細に聞いたのは只今が初めてです。さてもそのように
稀なる御感状を帯られているとは。
先ず以て、十三度の競合いで十一度まで一番鑓を合わせられたという事ですが、まことに天下無双と言うべき
御覚えでしょう。何故ならば、おおよそ取合の時、相手が弱兵であればどう考えても毎回の一番鑓は成し難い
ものです。敵が弱兵であれば味方の中から進む者も多くなり、一人に一番鑓の功を渡さないためです。
一方、相手が剛強で、少しでも出ればそのまま命を取られるほどに強く見える時は味方は進みかね、抜け出る
者もありません。この場合は、心がけ次第で幾度も一番鑓を一人にて仕る事が出来ます。
これらから判断すると、越前の御敵はなかなかの剛敵であったのでしょう。

652 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 14:21:00.27 ID:9kZo4FPV
その頃私は前橋に居りましたから、越前衆と手を合わせたことがなく、実際を存じませんが、しかしながら
謙信公御一将の御感状を二十一まで、十六年の間に御頂戴された上は何を争いましょうか。
強敵あり弱敵あり、危うき場あり安き場あり、武辺は時の仕合でありますから、後日の褒貶というものは
当たりかねるものです。感状において私も申そうと思えば、少しは意見を持ち合わせていますが、
大体において私の存ずる所はそういう物ではなく、孟子には及ばずながら、些かも誇らぬ意智こそ貴いと
思っております。これは先ず当座の戯言ですが、座席の事は、様々に稀なる御感状を御持ちなのですから、
どうぞこちらにお座り直して下さい。その他の御方にも、武辺を申すなら私など申し及ぶ御方は無いでしょうが、
私は皆以前よりの旧例にて、御上座に罷り有るだけですから、式対には及びません。伊賀殿の御次に
移りましょう。」

そう言って座を立ち伊賀に「どうぞこちらへ」と促した。伊賀守は大いに恥じ入り
「さては年寄りに不覚の義を申し出してしまい、御座敷の妨げとも成ってしまいました。
御譜代でもあり、事に御感状の数も二つまで多く所持しておられるのです。先程の慮外は是非とも御免なさって
下さい。私はどうかこの座席に差し置かれて下さい。」

そう断りを申したが、これに対し出雲は全く承引せず、伊賀に強いて上座を請うた。この応酬は止まず、
その座にあった侍大将の柴田、長尾も扱いかねて、後日謙信公への御披露に及んだのである。

謙信公は余事と異なり、武辺の出入りに関しては深く評議を遂げ、御入念を以てされていたので、
これをお聞き召されると、先ず七組衆、十一人衆、二十一人衆を召され審議の上で、このように仰せになった

「森出雲は感状多く、殊に譜代覚えの者であり、下座に着く謂れはない。
また槇伊賀は感状の数は劣っていても、一日の内に十一度まで一番鑓を合わせ九人の侍を討ち天下無双という
感状を取った事、これは名誉であるからこれも下座に着き難い。
よって両者別れ、対座有るべし。

その上で、今回双方が口説(口論)に及ばず、謙譲を第一にして強みある論談をなし、その中でも
出雲は最初からの応対における慇懃の様子、考えうるに非常に結構な式対であった。」

こうして両人同座に召され、森出雲には信國の刀、槇伊賀には大原實守の脇差を賜った。
この時謙信公は

「両腰とも、この謙信が度々手づから人を斬った刀であり、金良きものである。」との御言葉があった。
(乍両腰謙信度々手つから人を切り刀金よしとの御言葉あり)

(松隣夜話)

上杉家における席座についての公事のお話



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 15:54:31.54 ID:a9448HmF
>>651
いつ斬られるかとハラハラした

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 19:13:54.19 ID:qg6vK/89
>>652
面倒くさい、ただただ、面倒くさい

これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。

2020年02月13日 17:35

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/13(木) 01:38:39.52 ID:iFHOP/rW
天正元年四月に武田信玄が死去したとの報が、同年九月、あたかありの阿達山より書付を以て注進された。
上杉謙信公は大いに惜しまれ

「子期去て伯牙留琴、吾天下に無千音」(鍾子期が去ってしまったというのに、伯牙である私は琴を留めている、
私は天下に知音を無くしてしまった。)(『断琴』『知音』の故事)

と、御涙を流された。そして荒尾一角、河田豊前を召され

「信玄は天下の英雄であった。今日より三日の間、府中の侍の家々は、音楽を禁じる。農民、商家はその沙汰に及ばず。
これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。
侍所より触れ渡すというのはあまりに大げさであるから、両人より縁々に物語して申し聞かせよ。」

と仰せになった。

松隣夜話



越相一和と長尾政景誅殺

2020年02月12日 17:21

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/12(水) 01:56:21.40 ID:4qsmf9PP
永禄十三年正月より、北条氏康公は越後の止観という僧と、小田原海岸寺も住持を中人として、
上杉謙信公と無事(和睦)を成し、御末子三郎殿を越後へなりとも前橋になりとも、差し越す旨を、
北條丹後(高広)、同伊豆守方まで仰せになった。
北條は直ぐに越後へ戻り、諸老方と相談の上、謙信公へ申し上げると、無事和睦は整った。

この時謙信は
「さしもの氏康の御息この方に申し請けるのに、人質というのは然るべからず。」と有り、養子と
される事に定まった。

先ず前橋まで罷り越し、彼の地に於いて対面をなされた。両家の侍各々会集し、慇懃の儀式であった。
この時北条家側は、氏康が病中であり、嫡子の氏政、および源蔵(氏照)が罷り越して在った。

北条三郎殿が養子になった事について、上田の長尾政景とその家門の者達は悦ばなかった。
この政景という人物は、上杉景勝公の実父であり、去々年以来その景勝が謙信の養子になっている故であった。

景勝は若年と言えども謙信の気持ちをよく察し、三郎との関係も好かった。
しかし謙信公は、政景が内々随わない事について奇怪に思われ、殿中に召し出すと長尾小四郎(景直)に命じて
成敗させた。そして政景の親族家臣、上下二百余人が政景の館に立て籠もって戦い、死んだ。
この討ち手もまた長尾小四郎であった。

松隣夜話

ここでは長尾政景が謙信に誅殺されているのですね。一族ごと。



849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/12(水) 16:04:06.97 ID:VCnzYYiH
>>848
後継指名しない悪い話だな

一等を被免許、切腹なり

2020年02月11日 12:37

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/10(月) 20:25:48.82 ID:UwI2qVT+
越後における科人の御仕置において、最も思い懲罰は、刀脇差を召し取り、一代の間身に帯びさせないという
物であった。(侍以外はまた別である)
二番目が死罪、三番目が追放、四番に所領没収、五番が与力同心を召し放ちにすること、六番が蟄居する事、
等であった。

長尾右衛門佐という侍大将が、聊か無沙汰の行跡が有ったために、上杉謙信公はこれを大いに咎められ、
彼の与力同心を召し放ち、所領を取り上げ、その上で「両腰を帯びぬように」と仰せ付けになった。

これに対し、右衛門佐の親である庵原之介より、「右衛門佐は御家に対し戦忠これ有る」旨の申し立てがあり、
「どうか生害を申し付けて頂きたい。」との詫び言を申し上げたため、罪一等を免じて両腰を給わり
切腹した(一等を被免許、両腰を玉はり切腹なり)。

当時はこう言った事が多かった(前後此類多し)。

松隣夜話



637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/10(月) 20:56:22.20 ID:WIdY78mZ
死罪って言ってるから若干ややこしいけど切腹な訳か
確かに武家のシンボルすら奪われて生き恥&当時の治安的に武器なしで生きるのほぼ不可能なのと、武家として少なくとも一族が残る切腹なら切腹のが軽いか

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 01:14:10.95 ID:EQ3NaCZQ
後継いたらそれはそれで隠居しちゃう侍も出てきそうだけど

謙信等の、諸将と自己についての評

2020年02月08日 16:56

611 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:52:53.84 ID:HS1E561+
(惜しきかなこの巻は二十片虫の害があり判読できず、現在に伝わらない。その末の一両(2ページ)ほど
僅かに残ったのが、以下のものである。)

三宝寺曰く「これは些か虚気たる申し事ではありますが、この御座敷でそのように慎む必要はないと
思い、お聞きするのですが、現在、日本には高名なる大将がその数多くおります。その中でも先ず上げられるのは、
北條(氏康)殿、織田(信長)殿、甲州の(武田)信玄、吾等の主人(上杉謙信)、又は安芸の毛利(元就)と
海道の(徳川)家康、このような所でしょうか。その中において、何れの家が終には天下を掌握して
全うするとお考えでしょうか。
現在は信長殿が畿内を仕配していますが、武田、北条あり、また謙信もこのように居られますから、
畢竟定まってはおりません。御了見の程を御次いでに承りたく思います。」と太田三楽に尋ねた。

太田三楽曰く
「そのような義は誰にとっても天命でありますから、人の予想を以て申すのは難しいものだと思います。
ですがそういった事は差し置いて私も申してみたいと思います。
先ず、私は毛利家については遠国であり詳細に承っていません。ですので何か申すべき了見がありません。
そうである以上私が語れるのは、御屋形(上杉謙信)と信玄と、北条と織田と徳川となります。

そのうち、北条家が天下を取るという義は絶えて無いでしょう。何故ならば、もはや北条氏康には
余命少なく、その上近年病者になり、久しくはないと見えます。またその子の氏政は、天下の義は置いて、
只今の四ヶ国すら人に奪われてしまうでしょう。かく申すわたしも、氏康より長く生きる事が出来れば、
現在の北条領から一郡一里であっても望みたいと思っています。

また武田信玄と御当家とは龍虎の争いとなり、どちらであっても一方が廃れない間は、双方月日を手間取って
他の方面への働きが出来ません。
信玄は当年四十八歳、御屋形は三十九歳、老少不定と申しますが、一般的には先ず歳上の方から先立つものです。
そう予想すれば、信玄の果報短くして近年にも死去すれば、たとえ信長家康を味方にしたとしても
上杉家に対して防戦することは出来ないでしょう。

しかしそうならず御当家と信玄が争い続ける状況が続けば、信長はいよいよ切り太り、終に四国中国までも
仕配するでしょう。何故なら上方筋の侍は軽率であり、一城落ちれば前後皆敵を見ずしても、開城し
退くからです。ましてや一、二度遭遇して手痛き目を見ては、後途の鑓にも及びません。

これに対し東国北国では、一度、二度、五度、六度まで攻め詰めようとも、まったく草臥れる事無く、
猶以てそれを餌にして、「命さえ有れば追い返さん」とのみいたします。このため、たとえ小敵であっても、
東国北国では、国郡を取るのに手間がかかります。徳川家康なども、現在は武田北条に接しており、
今後は切り取れる国郡も多くはないでしょうから、これもこの先暫くの間は、信長に対し手を出すことは
出来ないでしょう。

武将の器量を申すなら、徳川家康は抜群に優れていると思います。彼は凌ぎ難き場面を度々見事に
切り抜けています。但し、底意がいささかひねくれており、賤しき弓取りとも見えますが、それも
現在が末世の世でありますから、結果として良き事なのでしょう。
(家康抜群勝れ被申て候。凌き難き處をハ度々見ことに被仕て候。底意に些ひねくりて賤き弓取と見へ
候へとも、夫は今時末の世にて結句能ことにて候。)

信長は大気無欲であるだけで、それ以外はせわしない武将であるので、大身に成れば成るほど、慎み薄く、
無行跡なるあまり、命を全うすること定まらずと見ております。
信長が廃れれば、その後は家康以外には無いでしょう。
ではありますが、これらは皆定まったことではなく、世間に於いて命ある者の穿鑿に過ぎませんので、
二五十(2×5=10ということで、当たり前のこと)、又は二五七(意味は不明)を心得るべきでしょう。」

612 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:54:51.68 ID:HS1E561+
これに対し謙信公はこのように仰せになった
「実に言われる通りである。それについて、私はかねてから天下国家に望みはない。また軍の勝負にも
さほどには相構わない。ただ差し当たって致すべき図りから逃げないようにと嗜んでいる。その上で
死なば死ね、生きれば生きよと言っても、侍として生まれた者のうち、誰が生きるために引き下がる
だろうか。
差し当たりの図りという品々も、心得あるべき事だろう。悪く弁ずれば無理非道に落ちてしまう。

細かく申せば、各々ご存知であるので、この謙信の事は申すに及ばずないが、甲州の信玄などの守る所は
全く右のようでは無い。彼はただ仮初にも怪我が無いようにと嗜んでいるように見える。それに従い、
信玄ほど軍を締めて仕る人物は、古今例のないものである。但し、信玄が今まで軍に大きな過ちが
終に無かったのは、人を能く見る将であるからで、侍大将、足軽大将、或いは馬場美濃、真田弾正、
山縣源四郎、春日弾正、内藤修理、小幡山城、甘利備前、飯富兵部、原美濃守、その他勝れて能き者共
多くある故である。それも最も信玄の眼力が強き故であり、合戦に際して自身で下知し手配りをすることは
さほど無い。この者共を左右に置き、相談をして弓箭を締めて丈夫に行う故にあの如くであり、であれば
信玄一代の間は何処であってもきたなき負けは絶えて無いだろう。

信玄の内の者は誰であっても、人を能く遣うものだと思った事は、先年川中島にて、私は信玄の方便を
推量して、彼の意図を手に取るように理解し、この度は手に手を取り組み、雌雄を決しようと思った故に、
荒勝負を心得た者達を多く従えて、信玄旗本の先手である、武田義信の陣に切って入り押し立ったのだが、
この時武田軍の侍は言うに及ばず、雑人下部まで、敵に掛らずに崩れるような者は居なかったのだ。

通常、誰の下であっても一番鑓二番鑓までは持ち堪えても、三番まで耐えられる者は稀であり、四番に至っては
絶えて居ない。これは侍十人のうち五人六人は、敵に押し立てられて敵合いを成さずに崩れるためである。
しかし武田軍はこのようであり、よって何処との戦であっても甲州勢の大崩は有るまじき事なのだ。
味方が崩れなければ結果として敵は崩れ、信玄は軍において怪我をしない。

また北条氏康の家臣の者共の中に名高き侍大将は数多は居らず、彼は武田信玄に比べて人数の取廻しは
抜群に劣る。但し氏康は大度にてせわしくなく、士を慰撫して人を和らげ、大廻しの遠慮を能くしている。
これによって、彼もまた一廉の良将と言うべきである。

この謙信はこれらの名将と、さらに加賀越中衆まで相手に持ちながら、私が他の境は切り取っても、尺地として
我が領地を他より切り取られた事が無い。これは不思議では有るが、又その中に一理ある。

私は、貴坊もご存知のように疎略な人間であり、慎みを知らず、その上愚案短才である。だが果報いみじき
故だろうか、能き人を持った故に、隣国によって侵される事が無い。軍は一弧の業ではなく、人を以て
肝要とする。我が侍、いまここに有る十四人を加え、小身押込以上の四十余人の者達は、恐らく
武田北条家康信長の家臣たちを合わせてその中より勝れた者を選び出したとしても、我が四十余人より
勝れた者は多くはないと思う。尤も、彼らはただ軍陣だけで活躍し、他のことには思慮が浅い、という者達
ではない。氏康や信玄に私が劣っている分、また家来の侍たちに能き者が多いことで、双方の力が引き合い、
今まで彼らと相対することが出来たのだ。

しかし、謙信の人を見る眼力が強いからこのように仕立てることが出来たという訳ではない。私は
気儘な者にて、気の合った者ばかり手元に召し仕ってしまう。故に人物に対する穿鑿も大形である。
だが七人の者共(旗本七手組)は、念を入れて人を選んだ。如何様であれ、心に誠が有れば大外れは
無いものなのだろう。かくの如くである。」そう語られた。
松隣夜話

謙信等の、諸将についての評などについて



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 05:17:32.84 ID:ilyao2vw
他家の将来について熱く語る前に自分の跡継ぎを決めておこうな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 06:19:58.64 ID:WzA3eSgy
また斬られるかと思った

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:01:08.70 ID:POWo705j
この時期の記述でもすでに大名は天下取りレースしてて、それに対して謙信は天下取る気がないよって認識が出来上がってるんですね

この辺りはやっぱり二天が併存し得る訳がないとして、当然のように天下を狙い合ってる中華の認識が影響してるんですかね
実際は大名のほぼ皆が天下なんて面倒臭いもの誰も取りたくなかったろうに

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:17:32.61 ID:0RmwJlhl
今の自民次期総理候補と呼ばれている人たちが総理になりたがらないようなものか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:21:33.36 ID:V6+QV004
>>611-612
概ねあたってるのが面白いな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 10:04:30.11 ID:i9AdP1+r
まあ基本的には戦国大名は地方政権確立した人らで
中央政権には干渉されず勢力拡大したい

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 10:51:35.18 ID:FBTlD/sc
松隣夜話』は越後流軍学の宇佐見勝興の作とされていますが、勝興の経歴の怪しさもよく知られたところです。
世間一般的にこういう認識が広まっていた、広めたネタ元の一つだとでも考えときましょうよ。

十の内八は大賢人、残る二つは大悪人

2020年02月07日 17:30

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 14:31:37.94 ID:zDEfqtYs
上州佐保と申す侍の娘、若年の女性であったのを、上杉謙信公が近年召され、常に寝殿より離さなかった。

その彼女がある時、故郷の見廻りのためとして御暇を申し上げ罷り帰った。この時謙信公は取次の
女房に、「三月二十日の前後、日限を違わず故郷より戻り出仕すること。」と、堅く申し聞かせた。
彼女はいつも故郷を懐かしみ、また謙信の申し付けを聞かない事があったという。取次の女房はこれを承ると、
くどくどしいほど申し付けた上で帰郷させた。
しかし、三月二十日が過ぎてもこの娘は出仕せず、四月上旬になっても故郷に逗留していた。取次の女房は
気遣いの余り飛脚を仕立て指し寄こし、彼女を呼び出した。

四、五日経て後、謙信公は彼女が戻ったことをお聞きに成ると、御不斷所に召し出し「人や候」と
仰せに成ると、御小々姓の荒尾助九郎という者が罷り出た。謙信公は彼にこう仰せになった

「この女、去る仔細あり。只今ここで成敗仕れ。女なる故に私が直にはせぬ。」

荒尾はこれを承ると『少しでも遅々仕るにおいては、我が身が全う出来ない。』と思い、御声が下されたと
同時に脇差を抜き、彼女が小首を傾ける前に討ち落とした。

総じて謙信公御家中にては、死罪の者は他を十とすると二、三のみであった。
ただし死罪に及んだ者は、事によって侍であれば、半分は御前に召し出され、御坪の内などにて
三十五人衆(謙信に仕えた主な武将の総称)に仰せ付けて処刑させ、稀には自身で遊ばされた。

太田三楽はこの事を後日承ると、北條丹後にこのように語った
「貴方の主人である謙信公は、御武勇の義はさて置き、それ以外の御気質を総じて見奉る所、
十の内八は大賢人、残る二つは大悪人であろう。つまり生まれつき、怒りやすくその感情のまま
致す事が多いという癖がある。それ以外は、或いは猛く勇み、無欲清浄にて器量大きく、廉直にして
隠すことはなく、明敏にして下を察し士を憐憫して慈しみ、忠諫を好んで容れられる。
このように、末世の現代に於いて有難き名将であり、故に八つは賢人と訓し申したのだ。」
そう談笑して去った。

松隣夜話

女色を絶ったと言われる上杉謙信にも、こんな側女(?)についての逸話があるのですね。



838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 16:05:08.31 ID:hMqyTt4h
前半を読みながら、ああこの女性だけでなく取り次ぎの女房まで斬られちゃうんだなあ…と思ったけどさすがにそこまで鬼畜ではなかった

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 16:22:35.91 ID:ho3rY9kO
他の家中のが死罪のひと多かったって書いてあるってことでええんよね?これ
あと謙信の場合は侍相手なら召しだしてからそれなりにえらいやつとか自分で切るって書いてあるけど
他の家中だとこれも異質ってことかね?

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 20:19:23.39 ID:mdwM2iW9
謙信以外で近くにいた人皆殺しかとガクブルした
取次の女房さん、荒尾さん、良かったね

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 20:29:32.95 ID:G1IjvwLA
俺が取り次ぎの立場だったら故郷に帰す時に人を付けるか、期日の2週間前に呼びに行かすけどな

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 21:34:34.53 ID:b2xkCiqJ
ご自身で遊ぶというパワータイプ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 22:25:01.87 ID:gCvMx7Sm
>>837
これ、他所はもっと悪いと書いてあるけどほんとかな
ちょっと信じられないけど

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 12:10:07.73 ID:BWjBwiP7
>>842
ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」
によれば上杉謙信は経済的争いではなく剣を持って戦うという、遊びへの規律に忠実な人間だとか

今日は汝と相討ちした

2020年02月06日 17:14

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 01:36:38.86 ID:wiW6qKyX
永禄九年、越府において、七組衆を初め諸侍は上杉謙信より正月の配膳を給わった。
御儀式は慣例通りに執り行われ、これが終わった後、御座間に於いて賞禄を給わった。
各々、名字を詳らかにせず加恩、与力を与えられ、御機嫌に預かる侍は、百二十余人に上った。

深淵金太夫という尾州浪人は、十年以来御家中にあった。この者が謙信の御座所の次の間において、
仙可という若年の童坊と些細な事で口論となり、金太夫は仙可を捕えて上に乗りかかり床に押さえつけた。

この事に気がついた謙信は、御腰から放さない貞宗の脇差にて、片手討ちに二人を重ねて一刀で、
四つに斬り放した。

仙可の親、内記という者は側でこれを見て憤激した
「金太夫はここでの儀を怖れぬ狼藉者でしたから、こうされるのも仕方ありません。ですが仙可は未だ
童の身であり、金太夫から遁れることが出来なかっただけで、科はありませんでした。それを同罪に
なされるとは、是非に及ばぬ!」

怒りの余り脇差を抜き、謙信公へ斬り掛かった。これに謙信公はあやまたず踏み掛かって、二刀で斬り
伏せられた。謙信公の最初の太刀は、内記もよく合わせこれを避けて身に当たらなかったが、後の太刀にて
右の腕を、手首から二寸ばかり残して斬り落とされた。それでも内記は左手に脇差を持って、猶も斬り合おうと
したが、これに謙信公の御小々姓である上村伊勢松が走り寄り、内記の高股を斬って討ち伏せ仕留めた。

謙信公は伊勢松に「今日は汝と相討ち(二人で相手を討つ事)した。」と、大いに笑われた。

松隣夜話



823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 08:45:51.62 ID:zg2W6YPH
>>822
笑う要素どこ…w?

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 08:58:16.92 ID:nO95//2p
片手で二人を重ねて一刀とは原哲夫の世界だな。

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 10:00:16.23 ID:NeGRkwvU
笑止の沙汰だ

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 12:54:53.45 ID:+wvKkEem
親なら斬りかからないとどっちにしろ詰みだな
こんな場で喧嘩するって酒入ってたんだろうな

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 21:26:57.16 ID:+MBBoFkl
この性格の人間が家臣言う事聞いてくんないもういい出家する!
ってやるのかー

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 21:56:12.30 ID:E9GYgRkG
>>822
内記もぐずぐず喋っていないで無言で刺せば仇をとれたのにな

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 23:00:28.75 ID:nTcMQh8p
>>827
おまえらが引き留めたんだから好きなようにやらせて貰う!になったんじゃない?

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 23:29:58.29 ID:PE7MHHeN
どうせ死ぬし言いたい事言ってから派手に散るべし
武士の口上は戦闘力と同等に大事

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 00:58:18.23 ID:ho3rY9kO
派手な口上かました挙句爺さんの額に切り傷つけただけの浅野内匠頭は
仕留めるために充分に準備してた稲葉正休って例があんのにだっさいわー
みたいなこと言われてたはずなんで、やっぱ口上よか本懐遂げるのが重要かも?

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 06:33:08.17 ID:uaynckgV
4つにするの好きね

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 07:09:16.88 ID:RkOdVTm7
>>824
花の慶次を読んだ時は盛りすぎだろwと思ったもんだが
謙信は漫画より奇なりだったでござる

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 09:49:33.76 ID:knDHv29+
突発事態な上に斬りかかる相手が家臣でなく大名というか謙信

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 10:06:27.59 ID:rWSfBsWj
バーサーカー謙信

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 13:14:39.06 ID:xFe63+7P
称号:謙信

青沼新九郎の事

2020年02月05日 17:06

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 02:36:08.02 ID:NZ2w9/rT
永禄八年七月、上杉謙信配下の柿崎和泉、北條丹後は上州下分にて働き毛作を刈り取り、そこから和田へ
取り詰め巡見をした所、武田衆が堅く守っていたため早々に引き取った。この時、青沼新九郎という
上杉謙信寵愛の小姓が遠筒(鉄砲の流れ弾か)に当たって疵を蒙り、翌日前橋に於いて死去した。
この青沼新九郎は、北條丹後の与力・青沼勘兵衛の三男で、久しく越後へ相詰め、休暇として六月より
父の在所に在った。

謙信公は佐渡より御帰城なされ、この新九郎の死を知らされると、彼が御暇を申さず忍んで父の在所へ
罷り帰り、剰え多日逗留した事は是非にも及ばぬと激怒された。そして既に掘り埋めてあった彼の屍を
引き出させ、これの首を斬り獄門にかけ、父子兄弟悉く追放された。

また、いかなる密事をお聞きに成ったのか、北條丹後の甥である伊豆守の末の弟・水右衛門という者、
その年二十二、三歳の、若く清気なる侍であったが、彼を飛脚を以て召し出した。
そして普段過ごされる部屋に彼を呼んで御言葉をかけ、例の國吉二尺九寸の刀にて袈裟斬りに斬り捨てられた。

松隣夜話

残虐な逸話の残っている武将というのは多く在るけれども、自身で人を手にかけるという描写がこんなに
多いのは謙信くらいでしょうね。



794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 03:53:57.45 ID:IgwN6hfh
わけのわからないところで激怒するのが本当に怖いな…

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 07:47:21.68 ID:CBM3uDpN
酒を飲んだら人が変わる

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 07:51:23.83 ID:IcG/PCM6
>>793
なんで斬ったのかだれか解説してくれ

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 08:06:05.81 ID:LXVG1nRp
青沼新九郎
 越後に詰めていなければならないのに、無断で実家に帰って、
 戦死するまで3ヶ月も自分の役目に戻らなかった
 一族も新九郎を役目に戻るように計らわなかったので追放

北条高広の甥・水右衛門
 何かしらの密謀に関わってた(と謙信が判断した)ためお手討ち

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 09:08:46.43 ID:JdBizlSl
さすが謙信台風
落馬しかけたときに助けようとした家臣を怒鳴りつけて殺した逸話があるらしいけど、松隣夜話が出典かな?

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 10:24:14.44 ID:InAPMqiN
謙信公の名を貶めるようなことばかり書くとはまるで中韓アレルギーのネトウヨが如き作者ですね

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:17:49.48 ID:5OMCCWI9
そういえば信長も無断外出した女房達を処罰してたな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:49:01.96 ID:JdBizlSl
信長って安土に移った頃ですら馬廻りや弓衆に命令を聞かない連中がいて処罰してるよね

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:02:25.48 ID:1+5PdDNQ
信長の言う事聞かない家臣結構多いですよね
秀吉も手取川前だかに無断で帰ってるし

勝家宛だかの書状でも陰口叩くなよワシの方に足向けるなよみたいな内容出してる辺り
陰口叩いたり足向けるような連中である事認識してたわけだし

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:08:21.59 ID:OD3qETlT
火事があって引っ越してないのがバレてさらに燃やされたんだっけ?

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:32:39.88 ID:LXVG1nRp
>>797
6月に家に帰って7月に戦死だから
3ヶ月→1ヶ月(しかも最長で)
だった、赤っ恥

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:41:09.38 ID:ytodUhRl
>>800
天正9年の桑実寺事件は同時代的にも異様なものだったらしく、
毛利へ「信長が取り乱している」と報告されてるな(石見吉川家文書)

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:27:34.45 ID:/N2UOQXO
信長居ない時のフリーダム感すげえだろうなっては思う

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:28:04.42 ID:ClW7PRNL
馬廻りは家族ごと安土に引っ越せって言われてたんだけど
家族を岐阜に置いてきてた人の家から火事が出て調べたら同じような奴がたくさんいて
岐阜の家を焼いて家族を強制引っ越し
罰として道路工事もさせた

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 16:57:49.65 ID:yuA3pMt6
そう考えると織田ですら大名集権化にかなり手間取ってたんだなーって、というか出来てないからド油断したのを抜け目なくやられたと言うべきか
大名はあくまでも権利の保証者であって一挙手一投足まで指図される謂れもないわって考えもありそうだし
戦国大名から近世大名化失敗しまくる大名が星の数程いたのもむべなるかな

穴山梅雪の使い

2020年02月04日 18:09

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 04:33:50.85 ID:dDz2W3gf
甲州の穴山梅雪が越後の上杉謙信に対して、越後北の庄龍峰寺まで、空庵という僧を指し寄こした。
彼はこのようなことを伝えた

「いささか故あって、武田信玄は近来、総領の太郎義信を押し下し、庶子である伊奈四郎(勝頼)を
後継として立てようとしています。そのいざこざが猶も止まず、内戦に至らんとする機が既に顕れています。
そういう事であるので、謙信公が義信を養子としてお取り立てに成って頂ければ、梅雪が彼を連れて越後へ
罷り越します。信玄の家中にも四、五名が義信を支持しております。ですので更科より侵入されれば、
信州は大方、謙信公のお手に入るでしょう。これによって多年の御願望である、村上義清を本領に帰還
させる計策も成すことが出来るでしょう。」

この口上を聞いた謙信公の近習である諸角喜介、本郷八左衛門は、次の間に控えていた先手七組の諸老に
相談した。七組の衆は
「これは大吉の事である。甲州を謀る術の便りなのだから、早々に謙信公へ御披露すべきである。」
との意見であったので、諸角、本郷両人は謙信公の御前に罷り出て委細報告した。

謙信公はこれを聞くと「その僧をここに召し出すように。直答するべし。」との仰せであったので、
それに従い間もなく空庵は御前に参り謁見した。謙信公は空庵にこのように言った

「御坊、よく聞いて梅雪に伝えるように。
義信の使いを以て信州を取れとの義、この謙信には合点できぬ。どうしてもそれが必要なら、私は
人手を借りることはない。義信はまだ若いので仕方がないが、梅雪は何故にこれほどうつけたる言葉を
出すのか。身を寄せる所がないからそのような事を頼み入るという話であれば、この謙信としては何とも
慮外であると言わざるを得ない。

御坊、その黒衣に免じて、今回は無事に帰す。すぐに立ち去れ。(御坊黒衣に対して今度は無事に帰すとく去れ)」
そう、きつと白眼で睨むと、空庵は色を失って走り去った。

松隣夜話

義信事件に関して、こんなお話もあったのですね。



604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:11:35.13 ID:T1G3qkQP
>>602
信玄の謀略くさいね

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 15:14:53.67 ID:u69+w5aj
>>602
上手く行けば儲けもの、失敗しても義信処分って感じ

永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦

2020年02月03日 16:31

783 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:03:13.60 ID:JYHGVG8w
>>776の続き
上杉謙信は再び太田三楽を呼び出すとこのように言った
「私がここまで遥々出てきた以上、敵と手を合わせずに帰ることは出来ない。しかし利根川の北条・武田の
陣に掛かれば、信玄は工夫の深い人物でもあり、また手を詰めたような合戦に成り難しい。
そこでこの近辺に、氏康の要害は無いか?」

そう尋ねられたのを三楽承り
「山根城と申す所が、奥へ下道を四里の場所にあります。これは氏康秘蔵の要害であり、ここには忍の
成田の弟である小田助三郎、長野対馬守を置かれています。

ただし悪いことに、そこに行くには武田北条の両陣の前を遥々と奥へ通らねばなりません。
またそこを突破し要害を攻めることが出来たとしても、この城主は氏康奥筋の先手を任された
老功の者であり、千五百の人数が堅くこれを守っています。
前には城堅くして雌雄が決せられない内に、武田北条両旗にて押し懸られては甚だ危うい御軍となって
しまいます。
さらに、仮にこの城が手に入ったとしても、遠国の事でありますから保持は諦め乗り捨てにするより他に
道はなく、このような無益の場所の攻略に、腹心に等しい配下の大功の武士達を損ずるというのは、
御手違いであると存じ奉ります。これについて直江殿、宇佐美殿は如何お計らいに成るでしょうか?」

そう申した所、謙信はまた気色を損じられ、諸老の異見も窺われず
「謙信が守る所はそれではない!」
と、直ぐに須田という者を野根川の北条武田の両陣に使いに立て、このように伝えた

『輝虎は松山後詰めのため、ここまで罷り出てきたのであるが、早速に落城していた上は是非に及ばず、
あなた方も定めて、たぎらぬ振る舞いであると思し召しになっているだろう。恥じ入るばかりであり、
このままで罷り帰るというのは、両御旗に対し弓箭の無礼であると存じる。
そこで、氏康公秘蔵の要害と承る山根を明日押し破るつもりである。
その事無用と思し召すならば、両旗にて如何様にもこれを妨げられるように。』

そして利根川の品木の渡しに船橋を掛けさせ、押し渡って後に綱を切って船橋を流し、越後勢に太田三楽勢が
加わりその勢一万余騎にて武田北条陣の前、九町ばかりの傍を押し通り、山根城へと攻め寄せた。
この時太田三楽は内々に、『今度の戦いは他に譲ることは出来ない。』と考え、謙信に対したって先陣を乞い、
自身の軍勢二千に対し「我らの内一人でも生きている間は、越後衆に太刀を抜かせてはならない!」と
手の者達を励まし下知した。

この時の謙信の備にて定められた城攻め先鋒の面々は、西の手に大田三楽二千、南は柿崎和泉守、北條丹後
二千六百、東は直江山城守、河田豊前あわせて二千、御旗本は甘粕近江、長尾小四郎、中條五郎右衛門、
竹股勘解由、赤輪新介等であった。

謙信は諸将に会し「今度は無理に各々の一命をこの輝虎が所望申す。城攻めの方法は、私が下知を加えるに
及ばない。ただ荒攻めに仕るように。私はこれよりそれを見物する。もし武田北条による後詰めの有った時は、
本陣の合図に従ってこのように備を立てるように。」
そう言うと絵図を出した。

一方の山根城中はそのような事を全く知らず、矢倉にいた侍が小田助三郎の役所に来て「利根川の方より
馬煙夥しく見え、それが次第に近づいています。氏康公が奥筋に御手使されるのでしょうか?」と報告した。
これを聞いて小田助三郎も覚束なく、長野対馬守を伴って矢倉に上がりこれを見た。しかし両将としては、

「利根川に陣している軍門の前を押し通り、敵が通るはずもない。近国には上杉輝虎と太田三楽以外に
敵は無い。そして輝虎と三楽は松山城の後詰めのため昨日より前橋に到着したと聞いたが、松山城が
落ちた以上今日には定めて帰陣するはずである。
もし又、謙信が誤って奥筋に手勢を使わしたとしても、両将があのように居られるのだから、どうして
一戦もなく通るだろうか。

ではあるが又、味方であるとも見えない。大物見をかけよう。」

そして小田小四郎及び与力同心五十騎を引き連れ、自ら物見に出て七、八町西にあたる円山峠に乗り上げた所で、
太田三楽の先手である渋谷の一手が三百ばかりにて、険しい山の峰をつらぬいて攻め寄せてきた所に行き逢った。
双方は衝突し鑓を合わせ、一足も退かず各々の敵に当たり、そして物見の兵士は一人も残らずこの丸山にて
討ち死にし果てた。小田は太田の家来、深川修理という者に討たれ首を与えた。

784 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:03:50.11 ID:JYHGVG8w
長野対馬守は小田の便りを今か今かと待っていた所に、丸山の辺りに鉄砲の音が聞こえ、誰かは解らぬが
その勢二千ばかりが攻め懸けて小田の配下の者達を追い来たる、急いで対処せねばと判断した所に、
また南の山手より、銀の吹き流し矢筈の指物数多指した一備、馬煙を挙げて近づいてきた。長野は大いに
驚き手分けをして各持ち口に馳せ合わせようとしたが。混乱し騒動したため下知も届かず、長野対馬守
歯噛みをして「口惜しや!利根川の腰抜けたる味方を頼りとし不覚の死を遂げるものかな!」と言い捨て、
西の門を破って敵勢に乱入し、太田勢に馳せ向かうと、与力同心一四、五人共々暫く戦い、東を顧みると
北條・柿崎両手の馬印が早くも本丸に迫っていた。河田組、直江組もそれに続いて攻め入り、その中でも
太田勢は西の川の手より険しい山を一息に攻め上り外郭を破り、二の曲輪の門際まで切り行ったが、
長野対馬守が隙無く防戦したことで本丸への侵入を許さなかった。しかしながら城兵たちは敵より
あまりに強く攻められたために足を立てることも出来ず、明いていた北の方向に推しなだれた。

これを見て長野対馬守は同心の由良五六を近づけ、「御辺は早々に本丸へ入り、小田と我が妻子たちを
下知してよきに計らってほしい。郎従たちも残っているはずなので、きっと未だ事を果たすこと出来ると
推量している。どうか、頼み入り候。」

そう伝えると五六も委細相心得、「御心安く御戦死遊ばし候へ、それがしは御子息たちの御供を仕り、
直ぐに追いつき参るでしょう。」と申して立ち別れ、主従四人にて本丸役所へ入り、長野と小田の
妻子に自害をさせると、五六自身もその場で自害した。
長野対馬守は「この城を辛労してどうにか守っているが、一体いつまで保てるものか。この上は
心ゆくまで打ち合おう。」と、三楽の旗本に斬って掛かり、比類なき働きをして。父子主従、
十七人が一所にて討ち死にした。

こうして、直江山城、河田豊前、柿崎和泉、北條丹後、太田三楽ら三方より同時に乗り入れ、謙信公の
下知に任せ、老若男女、僧俗を分けず当たるを幸いに突き伏せ斬り倒した。
こうして謙信公の諸勢は過半が城に乗り入れた。この時御旗本より、竹股勘解由、本庄清七の組、合わせて
六百ばかりを別けて北の方に廻し鉄砲を以て逃げ出す者を撃った。このため助かる者は、百人のうち
一、二も有ること稀であった。

城中に籠もった者達は北条家に於いて度々武辺仕る、戦いに馴れたる勇士たちであったのだが、鉄砲を二打と
快く放つ者も無いほど、三方の寄手が急に攻めて刹那の間に乗り入れたのである。

謙信公は丸山よりこの様子を終始見られ、「侍は勿論の事、雑人下部まで一様に身命を塵とも思わぬ
働き、見事である。」と、度々称賛された。

辰の刻(午前8時ころ)に取り合い始まり、午の刻(午後12時ころ)に乗っ取った。今回、山根城において
死んだ者は、上下、男女、僧俗、童、おおよそ二千六百であった。
寄手で死んだ者は三百七十五人、手負い五百人であった。

事終わって直ぐに諸手を丸山に引き入れ、腰兵糧を使わせて人馬を休ませ、城は乗り捨てにして
また元の道を帰り、利根川下の瀬の渡り前橋へ入った。
永禄五年二月十三日、山根城合戦とは、これのことである。

松隣夜話



785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:10:21.16 ID:77IM5cvd
このキャラ付けが何がどうなって義のひとに味付けされたんだろ

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 02:36:28.59 ID:/IgTbzXx
撫で斬りから3文字脱落したんだろう

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 08:30:00.80 ID:S5bz4vh3
>>784
ここまでやったのに
>城は乗り捨てにしてまた元の道を帰り
災害かな?

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 14:19:52.48 ID:4Cy1SCXO
松隣夜話だからといえばそれまでだけど
直江景綱の官途名混同してるな

>>787
松山城後詰に失敗した意趣晴らし100%の城攻めだから
武威を示すために残虐になるし
災害以外の何者でも無いわな

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 19:17:18.00 ID:HwF5Po/z
城攻めなのに寄せ手の被害のほうが圧倒的に少ないのは、流石というかなんというか。

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 22:05:21.49 ID:TG2SWWxN
信長「謙信って残虐だよな」

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 22:17:06.28 ID:/IgTbzXx
史実かはともかく、上杉謙信なるものがこういう人だと考えられてたわけだよな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:03:52.95 ID:T1G3qkQP
人質の童子を寝所に連れてって夜伽をさせるのかと思ったら処刑かよ
きっと兄弟ともにブサイクだったんだな

虎口に死を免れた心地にて

2020年02月02日 16:04

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 04:00:17.37 ID:3/dAnLfC
永禄五年正月、北条氏康武田信玄へ使者を以て依頼をした。

『武州松山の城は以前より氏康持分の所であるが、それを去年、太田三楽(資正)が越後の柿崎と合わさって、
量らずもこれを乗っ取られてしまった。松山は東国の固めであるため、それ以降奥筋近国の手使が心のままに
叶わなくなった。であるので、この氏康は近日人数を出してかの城を取り返しいたいと考えている。
そういう事なので、三楽は必ず越後に後詰めを頼り、上杉謙信を引き出す事疑いない。今回は必ずかの城を
奪回するつもりなので、信玄公には氏康の警護をしていただきたい。松山城を取り返し、武州を押さえ
治めることが出来れば、以前の如く節々の御不祥の義を申し入れるような事は無くなるであろう。』

武田信玄はこれを了承し、甲州並びに信州に陣触れされ、二月下旬に信玄、嫡子義信一万八千余騎にて
武州に発向された。北条は氏康、嫡子氏政、その弟源蔵(氏照)の二万八千余騎、両家合わせてその勢
四万六千余騎が松山城を取り囲み、昼夜をいとわず攻めた。武田勢の内、甘利左衛門の与力・米倉丹後が、
竹束と言うものを用意して城に寄せた。諸手攻め近づいたため、城内からの火砲による抵抗もさほど威力を
発揮せず、籠城の兵士たちも気力を失った。城代の上杉友貞(上杉憲勝)も軍卒も、粉骨を尽くし難く、
武田北条は五万に及ぶ大軍で間断なく攻めたため、防戦の術も尽きて二月十日、上杉憲勝は降伏し、
城を明け渡した。

太田三楽はこれ以前に、越後に使いを出して、上杉謙信が出陣する旨の返答を得ていた。これによって
後三日も城が持ちこたえれば難なく寄せ手を追い払うこと疑いなしと思っていた所に、存外の急な落城であり、
臍を噛んで前橋まで出向き、謙信の到着を待った。

北条氏康武田信玄は、謙信が出陣してくることを上杉憲勝が白状したため、これを聞いて両軍山を
後ろにし、利根川を前に立てて鳥雲の陣を成した。

謙信はそれから二日して、八千騎にて前橋に到着し、太田三楽に対面すると激怒した
「これほどの不覚人に要害を預け、この謙信を引き出し手間を取らせ恥をかかせたこと、甚だ奇怪である!
こんな事ならば三楽を討ち果たす!」
と、刀に手をかけ、その場で三楽を手打ちにしようとする様子であった。これに三楽は騒がず、静かに
申し上げた

「仰せ、誠に尤もであります。しかしながら上杉(憲政)殿御浪人以来、それがし程の小身にて氏康の
大身の持分に挟まれ、今まで滅びること無く居られたのは、全く他でもなく、偏に謙信公の弓箭のお陰です。
ですので今回に限らず、何時であっても氏康信玄の大軍に仕掛けられてしまっては、それがしの二千三千の
兵では、たとえ呉氏孫氏の術を得ていたとしても手に及ばぬ事であり、何度でもお助けを待ち奉るしか方法は
ありません。
である以上、この三楽がたとえ禽獣であったとしても、どうして川の流れを酌んで、その水源を枯らすような
事をするでしょうか?

上杉憲勝は多年私の手について、武蔵上野所々の働きを任せてきましたが、終に不覚を取ったことは
ありませんでした。また三楽の重恩を以て全う仕る者でありました。ですのでこのような事が有り得るとは
考えなかったのです。それはそれがしの愚昧の成す所なのでしょう。是非に及びません。

籠城にあたって弓箭、鉄砲、弾薬、兵粮等は、ともかくも半年は不足の無いよう覚悟を仕っていました。
また今回のあまりの事態に、人質に取っていた、上杉憲勝の弟と実子をここに召し連れてきています。
これらをどうぞご覧になってください。」
そう言って兵粮弾薬の注文表と、上杉憲勝の子弟を御目にかけた。

謙信は立ち上がると、二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、一つ召すと、これを三楽に指し与えた。
三楽は『少しでも躊躇しては良くない』と思い、差し寄って一つ傾け、その上で側より引き取り、虎口に
死を免れた心地にて息をついだという。

松隣夜話

続き
永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦


777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 12:07:25.19 ID:aJsksDuw
野蛮にも程がある

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 12:18:51.87 ID:JORXOmS3
>>776
>二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
>一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、
漫画のラスボスかよw

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 14:19:38.57 ID:v9fR+9K+
ヴィンランド・サガの初期にありそうな展開

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 17:10:21.74 ID:TaRyTcHC
岩明均の「雪の峠」にそのまま出てくる話だな

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 17:29:37.77 ID:aroExui4
歴史漫画に便乗して
センゴクのプーチン謙信なら普通にやりそう、だと思った

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 22:49:38.55 ID:bEQuBdMs
イスラム国の処刑人でも真似できないだろ?

伝左衛門に小荷駄を預けたのは、某一代の不覚

2020年02月01日 16:35

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 01:13:51.72 ID:7C4kLm0Z
(最初の越山の小田原包囲の後)近衛(前久)殿は小田原より鎌倉へ御輿を寄せられ、鶴岡に御社参され、
謙信公はこれを守護された。これに対し宇佐美駿河守(定満)は、「事終われば速やかに去るべきだと
申し伝えられています。この度の御社参は参るべきではありません。」と申し上げた。然しながら謙信公は
「何程の事が有るものか。」とこの意見を用いられなかった。

鎌倉に於いて半日人馬を休め、瀧山という閑道にかかり、その世は関山の広野に御宿陣された。諸軍は
小田原より平井へ帰され、御供には加治内匠、柴田大学、宇佐美駿河、直江山城、本庄清七、河田豊前、
長尾小四郎、中條五郎右衛門、大田三楽、かれこれ八千に過ぎなかった。これに対し三月末の二日間に
夜半ころより敵が幾重ともなく取り巻き、その松明は峰の形に光り、晴れた夜の星よりも繁く鉄砲を
放ち掛け、襲おうとした。

さて、この鎌倉八幡宮にて東国の諸将は近衛公方へ御礼を遂げる時、忍の成田長康(泰)という者が
酒に酔い、言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。この遺恨によって、成田長泰は一門家族を催し、武州の千葉・清党(清原氏)を語らい、
謙信公が幸いにも小勢の折節であるのを覗い、足軽をけしかけ夜軍にして討って恨みを報ぜんと企てた。

しかし謙信公はこれを察知した。「成田めが野伏を仕掛けるとは。しかし暗夜でもあり切所でもあり、
これより彼らを追い詰め討ち果たすのは叶いがたし。太田殿と直江は公方(近衛前久)を警護されよ、
中條は戦場を見計らって宇佐美と策をめぐらせ敵を近づけ一戦を遂げ、少しであっても打ち取るように。
本庄清七、加治内匠は後陣に下がり、小四郎と協力して小荷駄を守護仕れ。」と下知を成し、自身は
柴田大学と河田豊前を前後として、平塚という小さき尾に陣を張り、夜を明かされた。

敵は次第に近づき、矢石を雨のごとく飛ばしてきた。中條五郎右衛門、宇佐美駿河は足並みを見せ
敵を広野へおびき出し、伏兵を起こして鑓を入れて追い崩し、敵四十余人を討ち取った。

しかし後陣に付けておいた小荷駄両陣の内、長尾小四郎はこれを守ることが出来ず、同名伝左衛門は
敗軍に及んだ。これによって小荷駄は残らず奪われた。

これに対して謙信は大いに怒り、翌日早朝に長尾伝左衛門の首を切り関山に掛けさせ、そうして家来たち
二十四人、歴々の者達と一所にて残る敵を一人も残さず討ち捨てにした。その敵の中でも特に働きの有った
兵士を、自ら鑓を以て突き伏せられた。

夜既に暁天に及び、敵は残らず引き退いたため、日が出て後軍を発し、古路にかかり、大田三楽が先陣を打ち、
直江山城が後陣へ下り、九里の山中も難なく押し通り、その夜には葛見に宿した。そこで酒飯を備え危軍を
労り、三楽を客位に請し物語暁天に及んだ。ここで謙信は諸士に語った

「関東諸州の面々、皆弱兵であると思い侮って、伝左衛門に昨日小荷駄を預けたのは、某一代の不覚であった。
そうでなければ、どうして成田長泰ごときの敵にこれを奪われるだろうか。私は常々、甲州の武田信玄には
私が及ばない長所があると思っているが、それはこの事なのだ。あの法師は、弱敵と見ても猶弓矢を大事に
取り、このような卒爾の無い人物である。大事の場であると思えば誰であっても迂闊なことはしないものだ。
しかしそう考えない場所では、動くときも慎みが無く敵に対して疎略な対応をしてしまう。
信州更科の村上義清などは、軍の場にいどみ相対する時は、武き事も賢き事も、信玄に勝りこそすれ
劣るものではない。しかし愚に正直なる男であるので、常々細かい配慮がなく、そのため度々遅れを取るのだ。」
と申された。

松隣夜話

例の鶴岡八幡宮での謙信と成田長泰のお話ですが、こちらは退去どころか即座に謙信に夜討をしかけるという
アグレッシブな話になってますね。



774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 21:03:01.30 ID:2CcDwnar
>>768
>言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。

成田「おこなの?(´・ω・`)」
謙信「o(`ω´*)o」
小四郎&伝左衛門「小荷駄を任されたぞ!」

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 00:30:47.35 ID:ZMW/EJLp
謙信、結構短気な逸話多い気が
いやまぁ実際書状でとにかく馬鹿って言葉使いまくる人だから切れやすいかもしれないけども
短気で悪口のボキャ貧な謙信公が腹筋に候なんてパワーワード生んだのが面白い

将至って剛きは則ち士必ず応じず

2020年01月31日 17:01

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 03:24:15.61 ID:97HhbuUN
永禄三年三月上旬、越後の管領・輝虎入道謙信公は。近衛公(近衛前久)を大将とし、一万六千にて
北越を御進発され、北条氏康の旗下となっていた上州平井へ御馬を進められた。
上杉勢の先方は、荻谷太郎左衛門の木澤城を押さえ、小幡日向守の居城である高津に取り詰め、
一日の内に攻め破り、女童まで一人も残らず、千余人を斬り捨てにした。その足で直ぐに木澤城に
押し寄せ攻めようとすると、この勢いに堪らず、荻谷太郎左衛門は降参し人質を出して幕下となった。

太田三楽は三千余騎にて武州より駆け付け、先陣を給わり、上州の要害あるいは居城のうち、
味方に参らない者達を、一城も残さず三日の内に攻め破り、当年に生まれた幼児まで斬り捨てにした。
これによって、その聞こえは甚だしく、龍のように天に響き、関八州は申すに及ばず、北国、南海、
京上方までその勇鋭に怖れない者は無かった。

その威に伏し、小幡、大石、見田、白倉、忍、荻谷、藤田、長尾、三浦、岡崎、宗龍寺、那須、清黨の
上杉家の諸侯馳せ集まったため、二日の内に軍勢は七万余騎となった。これにより軍勢は平井の陣所から
あふれ、唐坂口まで充満した。

翌日より総軍を進め、太田三楽を魁首として小田原へ押し詰め、蓮池まで乱入した。そのような中、
所々で取り合いが有ったが、謙信は毎回二の手より駆け出し、初対面となる東国武士の心も知らず、
諸手へ乗り入れ兜も被らず、白き布にて頭を包み、朱の采幣を取って下知を成し、その人を虫とも思わぬ
振り廻しを見て、諸将は大いに恐れをなした。

「たとえ彼がいかなる良将であったとしても、この人を主と頼んでは、自分たちの首の斬られる事疑いない。」
(假令如何なる良将にてもおわせ此人を主と頼なハ首の切れん事無疑)

そう思って困り果てない者は居なかった。『将至って剛きは則ち士必ず応じず』という兵法の言葉は
この事なのであろう。

(松隣夜話)

上杉謙信が怖すぎて、関東武士のみなさん、却って謙信の下に付きたく無くなってしまったというお話。



763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 07:50:57.04 ID:2p182VAP
成田長泰が下馬しなかったから烏帽子打ち落とした話までは書いてないか

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 22:38:35.43 ID:LRiK7arZ
そもそも不識庵が義の武将なんて嘘のイメージを作ったの誰なんだろうな

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 23:48:48.17 ID:Q1L6WlMm
>>764
比較対象が信玄なら、謙信ですら義将になるってことかも…

【雑談】上杉謙信妻帯説

2020年01月08日 16:55

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 19:41:06.40 ID:CrTJX3LW
最近の説では上杉謙信に嫁が居たらしいね。

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 22:16:56.95 ID:8bUjbvfN
>>480
にわかには信じられんが何処の娘かとか分かるのかな

482 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/04(土) 22:30:22.93 ID:RBhA7eLc
年末に黒田氏がTVで発言してたがよくわからん
糞ブログが役に立たない記事書いてるが誰もわかってない

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 23:33:46.35 ID:a9lZdG+q
謙信公童貞説×謙信公女性説×

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/07(火) 23:24:05.90 ID:ID8WEcUH
>>480
謙信が城代に御新造(正室)を呼ぶのを躊躇ったって記録があるとか、越後の死者名簿に謙信の正室らしき記録があるとか。ついでに信憑性は低いが兄・晴景の娘を娶ったって記録がある。エビデンスはないけど上杉憲政の娘とかだったら違和感ないなー



※管理人注
こちらの元ネタ(?)は、今福匡先生の『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』と思われます。上杉謙信という
戦国大名の実態を知る上でも非常に良い本だと思いますので、謙信妻帯説の内容をお知りになりたい方ともども、
興味の有る方は是非ご一読を。

上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩
https://www.seikaisha.co.jp/information/2018/10/23-post-uesugi.html

信長一味の家康が遠き輝虎を

2019年10月29日 16:52

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 00:31:24.89 ID:DgcMBnn4
元亀三年正月二十八日、越中の椎名肥前守(康胤)方より(武田信玄へ)注進があった。その内容は、

『去年三月、徳川家康が越後の上杉輝虎(謙信)に二人の使いを以て起請を頼み入れ、謙信もこれを喜び、
家康に対し無沙汰あるまじと誓言したと言うことを確かに承った。家康より謙信への進物は唐の頭一頭、
輝虎は御返礼に月毛馬一疋を進呈した。

この事について長尾家の衆はこのように言っている。今回のこと、定めて家康が味方が信長だけでは頼り少ないと
考えた故であり、輝虎にとって喜ばしいのは、家康を旗下にするという事で、北国は言うに及ばず、都までの
信長の威光が振るわれている国々に於いても、謙信の弓箭が強いからこそ信長一味の家康が遠き輝虎を
頼んだのだと評判に成るであろう、と。

そういう事であるので、今年は謙信が信州に出てくることは無いであろう。』

という注進であった。

(甲陽軍鑑)

武田家に報告された上杉徳川同盟についての情報



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 06:46:32.36 ID:MTRMYDbr
「唐の頭に本多平八」ってやつやな