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「越後野史」の畠山義春について

2023年06月02日 20:55

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/02(金) 16:52:39.65 ID:F9+RQESR
越後野史」の畠山義春について
畠山義春は能登守畠山義忠(畠山義続?)の末子で質として越後に来たが、人となりが武勇にして聡明なために謙信侯の寵愛を受け、幼少時からそばにおかれた。
常に謙信侯の軍略を見聞して十四歳の時から一軍の大将となり戦功を何度も立てた。
景勝と景虎の争いは二年続いたが景勝に味方し、鮫が尾城にて景虎を自殺せしめた。
また二本木駅において森武蔵守長可を破り、軍略をもって新発田重家を攻め、功績がすぐれていた。
景勝卿の妹婿ときて海津城主となり上条上杉氏を継いだが、直江兼続の讒言により上杉家を退転した。

>>772で宇佐美定満がでてきたり、畠山義春直江兼続に讒言されたり、と書かれているので「越後野史」は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12369.html
雑談『松隣夜話』について
でも語られている、自称宇佐美定行(宇佐美定満)の子孫の宇佐美定祐の捏造の影響を受けてそうだ。
鬼武蔵のwiki見るとたしかに鬼武蔵が二本木まで攻め込んで上条景春を破った、と書かれているけど、これも宇佐美定祐「北越軍記」が出典扱いされてるし、どこまで本当なのやら。



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「越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

2023年05月31日 19:18

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/27(土) 20:29:51.25 ID:0JPugDAC
文化十二年(1815年)成立の越後の地誌である
越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

本庄繁長は幼少の時に父房長が没し、十三歳の時に一族の小川・鮎川が反逆したため討ち平らげた。
天文二十三年(1554年)八月十八日、信州川中島合戦において十九歳で謙信侯の先陣となり、武田信玄侯の軍を大いに破った。
また反逆者誅伐にも戦功が大いにあり、元亀天正年間では本庄繁長・新発田治長(新発田重家)は鬼神のように恐怖された。
永禄四年(1561年)九月十日、川中島合戦で謙信侯が甲州兵を破り休まれていた。
そこへ武田義信が兵八百ほどを率い、旗を伏せ、腰差しを隠し、草むらに潜んでいたのが来襲した。
謙信侯の旗本の軍は不意をうたれ、防ごうとしたが過半数が敗走した。
謙信侯も手に家宝の鍔槍をとって防戦された。
老臣である志駄義時、大川高重が戦死し、軍が乱れようとした。
そこへ色部長実が五百人を、宇佐美定満が千余騎を率い、武田義信を挟み討ちにし、広瀬まで追い落とした。
このとき繁長も自ら太刀打ちして人の目を驚かせた。
しかし二十六歳の血気盛りであったため、
「謙信侯の軍略が未熟なために武田義信にしばらく劣勢となったのだ」と謙信侯をそしってしまった。
謙信侯が怒り、事に及ぼうとしたのを察知した本庄繁長は、永禄十一年の秋に本庄城に引きこもり叛いた。
謙信侯は上条義春(畠山義春)をもって攻めさせた。
義春は軍略により繁長の軍を破り、繁長はついに剃髪して降伏した。
謙信侯も絶世の勇士であるため繁長を許し、厚く用いた。
景勝・景虎の二君が争った時(御館の乱)には景勝君に属した。
景虎君に属した上杉十郎憲景(上杉景信、本庄繁長の舅)が戦死したのち封禄の地を与えられたが、上杉の名は継がず家紋だけを用いて今日にいたる。
そののち次男の千勝丸を出羽の庄内の大宝寺義興に与え後継とさせ、ひそかに謀って義興を討ち、千勝丸を大宝寺義勝と改名して、秀吉公の了承を得た。
(このあとは最上軍との戦いの話だけど省略)



上杉謙信による席次争いの裁定

2023年01月15日 16:08

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 00:04:03.76 ID:wbs1odIZ
武家閑談」より上杉謙信による席次争いの裁定

永禄三年三月(永禄四年閏三月?)、上杉謙信輝虎公が鶴岡八幡宮の神前で管領に任じられた。
関白近衛前久公が下向され、公方義輝よりは大和兵部少輔が上使であった。
その時、関東八州の大名・小名が列座した時に、千葉国胤(千葉邦胤は当時は幼児。父親の千葉胤富)と小山政種(小山政種は生まれる前。祖父の小山高朝)が席次争いした。
これを聞いた謙信公が
「千葉殿は関東八州諸士の上であるべきである。
また小山殿は関東八州諸士の下になるべきではない。」
と裁判したところ、事は静まった。
謙信は当意即妙の才知である、と天下の誉れとなった。



556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 02:02:07.90 ID:9vgYVuhb
つまり…どう座ったの?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 08:10:46.60 ID:bAsuNukx
隣に並ばせたんじゃね

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 08:38:50.88 ID:FKjG8Ito
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/小山高朝
永禄4年(1561年)、小田原城の戦いでは上杉謙信に味方し、上杉軍の一員として包囲戦に参じている。
しかし、謙信の関東管領就任式の際に千葉胤富に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われており、直後に北条氏康と手を結んだために謙信の怒りを買い、
翌永禄5年(1562年)に再度関東入りした謙信に攻められて高朝は降伏した。

単に謙信が関東から出たら北条になびいただけかもしれないけど

減刑を命ず

2022年12月03日 16:18

490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/02(金) 19:51:15.04 ID:JTYTDe7c
減刑を命ず(『上杉謙信言行録』より)

謙信公が家来を従えて漁に行った時のこと。
人が集まっていたので何事かと思い、公が傍らにいた梅津左京に問いただした。すると「あれは佐渡で酒を盗んだ4人の者が今死刑になろうとしているところです」と答えた。
公は静かに頷き、「たしかに役人は法に基づいて処刑しようとしている。しかし少し考えるところがあるので、もし執行を延ばせるなら延ばしてやれ」と梅津を使者として処刑を一旦止めさせた。

公は館へ帰ると老臣たちを集め、「生あるものの最も大きな災いは死である。それを今まで私は無視してきた。誠に無念である。
どうか今後は盗人に寛大にしてやりたい。殺さずにすむのならこの上ない。私は才無く政治に暗いため、判断はそなたたちの考えに任す」
とそれとなく赦免してやれとの意を仄めかした。

老臣たちは熟議し、結果的に4人のうち1人は死罪にし、残り3人は手首を2本ずつ切って国を追放したとのこと。



491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/02(金) 22:25:14.45 ID:cjHriNtb
法をねじ曲げて自己満足する馬鹿な主君に苦労した老臣の苦心が見えるな

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/03(土) 08:49:55.77 ID:giIWnroe
国を盗んだ者が言う事だからなあ

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/03(土) 12:34:10.43 ID:0ZMCCLVr
打ち首の方がましな気がする

494 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/03(土) 15:02:53.62 ID:f13TQAwz
手首2本づつってもしかして両手切り落とされてる?

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/05(月) 00:16:57.95 ID:c4fe6fH1
>>490
伊勢宗瑞が馬盗人を放免してやる噺と通底するものを感じる。
何かオリジナルがあって各国各将に設定を替えて広く流布されたんじゃないか。
巷談俗説の類にはよくあるパターン。
 
497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/05(月) 08:19:09.91 ID:RH68z/I1
>>495
そしてコピーされるうちにオリジナルの大事なところが欠落して、この話みたいに単なるアホ主君の話にされるのもよくあるな

【ニュース】「愛」の兜の展示スタート

2022年08月06日 18:41

324 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/08/06(土) 16:33:25.99 ID:AvbsJgaH
>>242
https://twitter.com/Gunma_Rekihaku/status/1554260038104928256
https://pbs.twimg.com/media/FZHXKKOUYAEIHl-?format=jpg
FZHXKKOUYAEIHl-.jpg

群馬県立歴史博物館
@Gunma_Rekihaku
【愛の兜登場?】
みなさん、お待たせしました??本日(8/2)より、いよいよ #直江兼続 (なおえかねつぐ)のいわゆる「愛」の兜の展示スタートです??
所蔵する上杉神社以外で展示されるのが今回が初めですので、この貴重な機会にぜひ実物を間近でご覧下さい??
#戦国上州の刀剣と甲冑
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9:17 AM ・ Aug 2, 2022


ちょっと以上に旅行、外出が差し控えられるご時世ですが、400年ぶりの里帰りでありますので可能な方はお気をつけいただいた上でぜひご訪問ください。



なお兜だけで胴体の鎧がないのは、これはまあ理由が・・・

関連
【ニュース】本庄兜も同時展示です 群馬県立歴史博物館「戦国上州の刀剣と甲冑」


329 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/08/08(月) 17:15:20.67 ID:7WahujQv
>>324
これ大事な点は、上杉神社宝物殿の展示ケースは壁際にあるので、結果的に真正面からしか見ることができないの
今回のように中央に展示ケースがあって真後ろからも見学できる機会は二度とないってことです

上杉謙信の愛刀

2022年06月12日 14:06

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/11(土) 20:33:27.11 ID:E6KPR8lH
朝野雑載」から上杉謙信の愛刀

上杉謙信の太刀は小豆粥(鎌倉行光三尺一寸。川中島にて信玄と立ち合った時の太刀である)、
谷切(来国俊作)、竹股兼光という、当代のすぐれもの三腰があった。
竹股兼光は、元来越後老津の百姓の刀であったが、不思議の霊剣ということで秘蔵して持っていたのを、竹股三河守(竹俣慶綱)が所望して家宝とした。
やがて謙信の耳に入り、謙信は乞い取って指料とした。
弘治二年(1556年)三月二十五日夜、二度目の川中島合戦のとき、信玄の家人・輪形目平太夫というものが一匁筒の鉄砲を構えていたところに、謙信が来て斬りかかり、かの竹股兼光で切り伏せた。
首は宇佐美駿河守定行の郎党・塚内が討ち取った。
夜が明けて甲州衆が輪形目の死骸を見たところ、持っていた一匁筒の二の目当の上を切断して真っ二つにしていた。
「いったい何を使って切ったのだろう?」と皆怪しんだ。
夜中のため、見た人もいなかったが、定めて謙信がお切りなさったのだろうと言い合った。
この刀、景勝の代に京都へのぼらせこしらえたところ、一年ほどへてようやくこしらえができ、越後に戻ってきた。
景勝の家老、直江・本庄をはじめ、そのほか宿老どもを呼び寄せ、その刀を見せなさった。
「さすが都の水で磨いただけあって、見事にできたものだ。まるで新刀のようだ」とおのおのは誉めそやした。

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/11(土) 20:35:15.85 ID:E6KPR8lH
しかし元の持ち主の竹股三河守はじっくりと見て、
「これは御当家の兼光ではございません。定めて取り替えたものでしょう」と言った。
景勝「その目利きはどういうことだ?」
三河守「かの御刀ははばき元より一寸五分上、しのぎに馬の毛一筋とおすほどの穴があり、
指表から指裏に通っていました。
それがしでなければ知る人もいないでしょう」
そこで三河守を早速京都にのぼらせて、三河守はしばらく京に滞在し、備前兼光の一尺八寸から三尺の売刀を求めたところ、はたして清水の南坂より持って来る者がいた。
そこでこれこそが竹股兼光の正真のものである、と三河守はこの趣を石田治部少輔に訴えたところ、偽物を出した罪人十三人をからめとり、日野岡峠に磔にかけた。
のちに正真の兼光を三河守は越後に持ち帰り、景勝の前でしのぎの穴に馬の毛を一筋引き通して見せ申した。
景勝をはじめ諸人は「奇妙の刀」だと感じた。
このことが秀吉公の上聞に達し、ほどなく景勝に御所望が下り、秀吉公に指し上らせた。
大坂落城のとき、城中に籠っていた浪人はこれを取って和泉・河内の間に落ちていったと噂が立ったため、
将軍家からもさまざまに御詮索があったが、とうとうそのありかはわからなかったという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-546.html
上杉謙信と「竹俣兼光」・悪い話

以前に出たのとは微妙に違う話
「宇佐美定行」の名前が出ているので話半分でよろしくお願いします。



240 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/11(土) 21:17:11.88 ID:q+6P8a6t
こっちの沖縄の話にもありましたが、往時の京の刀剣業者ろくでもないw


戦国時代の空手マスターの話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4462.html

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/12(日) 10:58:32.97 ID:oljx+cCd
竹俣で元女流棋士でフジテレビアナウンサーの竹俣紅を思い出したら
この竹俣慶綱の子孫だった

この書は偽書である

2022年06月03日 18:22

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 10:24:22.25 ID:sDLB/S+3
寛永十二年の頃、或る人が甲陽軍鑑を畠山入庵(義春)の所に持ち来たりて、慰めに読み聞かせた所、
入庵曰く

「この書、大いに相違している。第一に上杉謙信が梶原景時の裔とあるが、謙信は元々長尾であり、
村岡勝軍忠通の三男・鎌倉四郎兵衛の孫、治郎景弘が始めて長尾を氏とし、兄弟が分かれたのであり、
別流である。

また「長尾義景」と書かれているのは、私の舅である政景の事であり、義景ではない。

また、天正三年の記録に、公方霊陽院義昭公と書き載せられているが、義昭公は秀吉公後他界の
前年まで後在世であり、慶長二年八月二十八日に薨ぜられたのを、その二十年前、天正六年に死んだ
高坂弾正が諡号を書くこと、不審である。

また天正五年十月に切腹した松永弾正の事を、天正三年六月の記事の中に書いている、松永の滅亡を
三年前に知って載せている。

また天文十六年二月十五日、武田晴信(信玄)が甲府八幡に詣で、山本勘介(勘助)を呼んで西国の事を
尋ねると、勘助はその座に於いて、大内義隆を家臣・陶尾張守晴賢が討ち滅ぼした事を語るとある。
義隆は天文二十年九月、長州深川村大寧寺に於いて生害している。これは晴信へ勘助が談じた年月から
四年後のことである。

また川越夜軍を、北条氏康が上杉と戦ったとある。川越の夜軍は氏康の父氏綱と、上杉五郎朝定との
戦いであり、天文六年七月十五日の夜である。
また両上杉に北条氏康が討ち勝った戦は九年後、天文十五年四月二十日の昼である。
(筆者注:こちらが一般的に言われる河越夜戦)
これら二つの戦いを一度に記するのは誤りである。

また十巻目の下に、松山の城主・上杉友定とある。松山城主は上杉左衛門大輔憲勝である。
憲勝は山内上杉・民部太夫憲顕より六代の孫である。また友定という人は、上杉一門の中には居ない。
朝定の事であろう。但し朝定はその一五年前、天文十五年四月二十日に討ち死にしている。

この書は偽書である。その上で謙信の時代のことは、私が直に見た事である。」

そう言われたという。

新東鑑

畠山義春による甲陽軍鑑へのダメ出し



488 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/03(金) 10:44:29.98 ID:aZoX+ODJ
日記じゃないし、昔のこと思い出して書いてるから年月日は自信ありませんと甲陽軍鑑に断りとして書いてあるのは読めてなかったのかな?

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 11:04:33.63 ID:XcW5W4tO
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3542.html
畠山義春さん、甲陽軍監を聞いて


出典がないのは前に出ていた
こちらのは新東鑑が参考にした書が出典だろうと思うけど

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 18:29:51.57 ID:IglZJe0y
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7423.html
畠山義春の出奔


甲陽軍鑑に畠山義春がダメだしをした、て話は怪しいとか前に出てたな
宇佐美定祐が甲州軍学より自分の上杉軍学の方が優れていると言うために
甲陽軍鑑の誤りを畠山義春の名前を借りて指摘したとか

次第に土俵を掛け来たれ!

2022年05月30日 19:04

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/30(月) 19:02:33.60 ID:tH4eb+3+
大阪冬の陣、鴨野口にて丹羽五郎左衛門長重卿は仕寄を付けられた時、上杉景勝卿も出られ、
「我等も仕寄を付け申すべし」とて、家来に先立ち、「これなる溝に橋を丈夫に掛けよ」と
申し付けて引き込んだ。

始めは皆(仕寄ではなく橋を掛ける事に)「手緩き人かな」と思う気色にて、まったく橋を掛けて
いなかったのだが、そこに景勝卿出て「何とて橋を掛けざるぞ」と申されたため、西条治部が
「只今にも橋は掛け申すべく候。」と即時に掛けた所、景勝卿はこれを見て、元の仕寄場を差し置き、
脇に土俵を置き、鉄砲を掛け法螺を立て、「次第に土俵を掛け来たれ!」と下知した。

大阪方は、上杉勢の動きに初めは用心していたものの、溝に橋を掛けようとする様子を見て、
「上杉は軍の術を知らぬか、はかばかしき事はなし。」と引き入ってしまっていた。
また上杉の家臣たちすら、下知を請けざる気色であった。
それ故に、景勝卿は敵の油断を計り、法螺を立てたため、即座に仕寄場に土俵をひたひたと持ち寄せて、
仕寄を付けたのだ。

先に土俵を置いた場所は仕寄道となり、翌日城兵は仕寄の防ぎに出て、これを見て肝を消したという。

新東鑑



222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 07:15:37.64 ID:W1yvV688
>>218
西条(西條)氏は信濃の国人領主出身で、武田上杉を渡り歩いたよくある経歴の家
米沢藩での屋敷に天神さまを祀り、跡地が現在は米沢市の西條天満公園として整備されています
ご子孫は東京在住です
https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/1810.html

223 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 09:40:20.63 ID:d3csJQJL
読みは「にしじょう」
上杉家中の場合、東西南北それぞれの条さんは、信越の地名の読み由来からか
きたじょう、ひがしじょう、みなみじょう、ですね

224 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 09:57:18.29 ID:d3csJQJL
そして上下の条さんはどうかとなると、こっちはじょうじょう、げじょうなんですね

225 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 10:04:25.96 ID:d3csJQJL
明治大正期の画壇の大物に下條桂谷(げじょうけいこく)というひとがいますが、米沢出身です

大関盛憲という人物がいた

2022年05月16日 18:09

186 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/15(日) 18:59:32.65 ID:Davxrel8
越後の大関城主に大関盛憲という人物がいた。

盛憲が青年の頃、深夜荒れ野を歩いていたところ、火葬場の荼毘の中からものを拾っては口に入れている女がいた。
髪を振り乱し、歯は黒く、鬼女かと思った盛憲が近寄ろうとしたところ、女は突然逃げ出した。
女を捕まえた盛憲が「なぜ人骨を食べるのか!」と尋ねたところ、女は「けして怪しいものではありません。荼毘の火で鉄奨(お歯黒)を温めると剥げなくなると聞いてこうしているのです」と火中からお歯黒を入れた小壺を取り出してみせた。
盛憲はその豪胆さに感じて、女を妻とした。

そして二人の間に生まれた息子を弥七と名付けた。
後の水原壱岐守親憲である。


その方の分際にて、景勝の武辺の事を申すは

2022年01月30日 16:33

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 18:24:12.00 ID:vPZ3C4pH
或る本に、大阪冬の陣・鴫野の戦いの時、幕府の御使番である小栗又市は合戦が終わって
本陣のある住吉に帰り、今日の合戦の次第を言上した後、御次の間に於いて各々に向い

「今日はよき討ち所があったので、上杉にその事を申したのだが、日暮れだからと言って
承引しなかった。さてさて残念であった。」

と申した。しかしこれを大御所(徳川家康)がお聞きになって

「その方の分際にて、景勝の武辺の事を申すは推参なり!」

と仰せに成り、お叱りになったという。

新東鑑

大阪冬の陣で小栗又市さんが叱られたお話



296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 21:19:27.86 ID:oklvys1c
推参って「差し出がましい」と言う意味もあるんだな。
いまググって知った。

杉原常陸介を此の方に給われ

2021年12月23日 16:38

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/23(木) 14:41:39.94 ID:dDjxcVds
別記に、上杉家家臣の杉原常陸介(水原親憲)は武功の者であった。

上杉景勝卿がある年、江戸より米沢へ帰城された時、常陸介を始めその他大身の輩が皆迎えに出た。
景勝卿はそれぞれに詞をかけ、常陸介の居た所を二、三十間過ぎた時、常陸介が忽ちに頓死した。
(意識不明になったということだろう)
人々は薬を与えて呼び返したがその甲斐もなく。景勝卿も早く帰って保養するよう下知したのだが、
遂に死んだ。

この知らせに景勝卿は涙を流し
「前夜の夢の中に、不識院殿(上杉謙信)が枕にお立ちに成り、『杉原常陸介を此の方に給われ。』と
宣われた。夢覚めて近習の者達に此の事を語り聞かせ、常陸が死すべき兆を夢に見たと言ったのだが、
その如く只今相果ててしまった。」
と、甚だ惜しまれたという。

新東鑑



景勝譜代の主にて候間、御免下され

2021年09月22日 17:26

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 16:32:06.60 ID:ENFxkodI
上杉景勝の家において、荻田主馬(長繁)が武者奉行であった。
荻田が上杉家を立ち退いて(豊臣秀吉が上杉景勝の屋敷に御成になった時、秀吉に白湯を献ずる
役目を仰せつかった荻田の嫡男がその碗を落としてしまい「豊臣の天下に水(湯)を差した」と批判され、
激怒した景勝により父子共追放された)以降、蓼沼日向守(友重)、三股九兵衛が武者奉行と
なった。何れも大剛の覚えの侍であった、

そんな彼らに対して、越前黄門(結城)秀康卿より様々に接触が有り、蓼沼日向守に対しても
三股九兵衛に対しても、一万五千石宛にて自分に仕えるよう御呼ばれたのであるが、

「景勝譜代の主にて候間、御免下され」

として参らなかった。この二人について秀康卿は、大御所様(家康)より能く聞き召されて
いたのだという。

杉原彦左衛門覚書条々



566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 21:54:19.20 ID:L9m3N/kA
大胆と言えば大胆かも知れないが
主君の景勝の頭越しに直接大領やるからうちに来いよとか
些か無礼に過ぎる話なんじゃないか…?
蓼沼三股両名の忠義の良い話かも知れんが
秀康の悪い話でもあるような…

左内は隠れなき福人であり

2021年09月21日 17:46

岡左内   
555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 16:48:46.83 ID:JPhrziS0
岡野左内(岡左内)は上杉家に於いて一万石を取り、松川合戦にて伊達政宗と太刀打ちし、彼の猩々緋の
羽織に、政宗方の太刀痕を、肩に一つ、腰に一つが出来たが、それを縫い合わせつつ、金のより糸を以て
切り目に縫い含めたものを着けて、景勝の御免にて上洛された時に先乗りをした。
彼は岡野越前守と号した。蒲生秀行に奉公し、会津猪苗代の城主であった。

(中略)

左内は隠れなき福人(金持ち)であり、金銀を夥しく持ち、国に蔵屋敷が有った。会津にては
黄金を、書院と次の間に敷きつめて、その上に在って金子を見て楽しむこと度々であった。
これについて諸朋友の取り沙汰に、「左内は金を弄物にしている、人々からも、ただ町人のような
者だと悪しく言われている。何事か有れば金銀に心引かれて臆病をするだろう。」と笑いあった。

ある時、先のように黄金を広間一杯に積み並べて楽しんでいる所に、「我が組の侍、喧嘩仕出かしたり!」
と告げ来た。左内はそれを聞くと同時に、貞宗の刀を差し、秘蔵の鹿毛の馬に打ち乗り、一散に駆け付け、
そこに一日二夜居て、色々と仲裁し事態を済ませた。その時、先に広間に広げ並べていた黄金は
打ち捨て、その二夜一日の間に黄金のことを家人にも申し付けず、何も気にかけていないような
顔であった故に、「さては左内は、武用のため計りに貯えたものであり、金欲は無いのだ。」とl
諸人誉め、はじめは嘲笑っていた傍輩たちも、却って感じ入った。

また彼は、陣触れがある度に役者を呼んで、我が子の左衛門に能をさせ、出陣まで毎日、快く見物した。
その頃傍輩は皆、馬、物具、弓、鉄砲の支度で騒動していた。
左内はこのように申した

「私は常々武道を嗜んでいる故に、出陣といってもなにか特別に支度をすることはない。
他の人々は、常には能、囃子、連歌などにて遊んでいて、陣触れの時になって俄に忙しくなる。
私も能や乱舞が好きなのだが、普段は皆が方々に役者を呼ぶため、隙きがなく参ってくれない。
陣触れがあると皆々出陣の支度をするため、能も行わず役者が暇になるため、ここぞと能を致すのだ。
明日討死とも知れないのであるから、心を慰めるのだ。」
と笑ったという。

関ヶ原陣の前後も、会津に御発向とある時に、掛硯に金銀の貸し出しの帳があったのだが、家人に
「私が討ち死にすれば焼き捨てよ」と申し付け、また永楽銭一万貫(黄金万両なり)を上杉景勝に進上し、
「金銭のことについては欠けてはいないでしょうが、私は明日にも討死してしまえば、これは必要
ありませんので」と差し上げ、傍輩中にも金銀を配り、陣用意をさせた。

蒲生宰相殿(忠郷)の代に、左内が病死する砌、遺物として黄金三万両、正宗の太刀一腰を、忠郷へ
差し上げた。傍輩にも夫々に遺物を遣わし、それまでに貸し出した金銀についての手形を入れた箱が
一つあったのを、焼き捨てたという。

杉原彦左衛門覚書条々



556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 17:07:30.52 ID:Hqvo/QYX
岡左内は間違いをおかさない
それはそうとここだと金子並べてその上に裸で昼寝する話はないのね

557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/21(火) 17:51:44.85 ID:63xw1gfu
岡左内が岡野と書かれるのは、そもそも上杉家中に別人の岡野左内さんがいたことがあるから混同したって説もあったね。

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 17:07:30.52 ID:Hqvo/QYX
岡左内は間違いをおかさない
それはそうとここだと金子並べてその上に裸で昼寝する話はないのね

557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/21(火) 17:51:44.85 ID:63xw1gfu
岡左内が岡野と書かれるのは、そもそも上杉家中に別人の岡野左内さんがいたことがあるから混同したって説もあったね。

558 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/21(火) 18:12:38.96 ID:d/h5HaWW
山田く~ん>>556さんの
座布団全部持っていって~~

  ∧ ∧
 ( ゚Д )   ∬
pく>yく_)旦
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
TTTTTTTTTTTTTTTTTTTT

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 18:15:26.71 ID:6GQoXp0k
岡といえば全裸黄金浴の人だから
素っ裸で現場に駆け付けた話かと

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 18:33:50.39 ID:FVoNhTFc
股間の金も隠さぬ岡殿

北条丹後の指物

2021年09月19日 18:59

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 17:57:38.33 ID:+x+mbxvS
上杉輝虎(謙信)の時代の、家老・北条丹後守(景広)は大剛の侍であった。
ある時、一尺ばかりの白練の小四半(6センチ四方とも)に、黒蟻一疋を書いて、指物にした。
あまりに小さい指物であったため、謙信も見咎め、丹後を呼んでその指物の訳を尋ねた。
丹後答えて曰く

「皆人は三幅懸、四幅懸に下猪、登龍、その他大紋を付けて指すのは、敵方に良く見えるようにという
事です。その大指物より私の小四半は良く見えます。何故なら何時の軍にも、間近く乘りこみますから。」

そう申し上げると、輝虎も機嫌直ったという。
この丹後は謙信の死後に、三郎(景虎)と景勝の闘争の時、荻田與惣兵衛に鑓を付けられた。
この時は乘り抜けたが、その手疵にて相果てた、三郎方もそのまま敗軍したという。

(杉原彦左衛門覚書条々)



552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 18:03:47.19 ID:KN/X7LVv
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5838.html
前に出典なしで出てたけど今日の話の方が詳しいな

左様のうつけたる同類に

2021年09月10日 18:08

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 16:24:19.47 ID:Y2Q3SaZT
堀久太郎(秀治)が越前から越後へ入部した折り、家老の堀監物(直政)より国中に触れ渡し、
当年の年貢を納め取ろうとした、
この時百姓たちは言った

「時分は既に冬になっています。年貢の半分は既に、転封された上杉殿に納めていますので、
その分を納めることは罷りなりません。」

そこで監物方より上杉家の直江山城守(兼続)へ申し遣わし
『納め取られた越後の当年貢半分を、こちらに返されますように。』
と伝えた。直江はこの返答に

「久太郎殿が越前を出られる砌に、越前の当年貢半分を納め取っておくべきでした。
会津領においても、前の地頭である蒲生秀行は当年貢半分を納め取った上で宇都宮へと移られた。
そのため(上杉)景勝も会津に移って、その残り半分を納めました。
越後に於いて納めた半分を、返納するいわれはない。」

そう言って堀監物の要求に肯かなかった。
しかし監物は重ねて使者を以て、

『越前の当年貢は残しておいて蔵に納め置き、公儀へと差し上げたのです。
ですので越後半分を戻されますように。』

と乞うたのだが、直江は笑って

「越前の年貢半分を納め取らなかったのは、監物の誤りである。
左様なうつけ者の同類に、我々が成る事はない!」
(左様のうつけたる同類に、此方には罷りならず)

そう嘲り愚弄した。そのため、堀監物はこれを根深く遺恨に思ったという。

近世軍記

そういえば堀家が移った後の越前北ノ庄城には、当初小早川秀秋が入る予定だったな。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 18:04:38.61 ID:21GKIKTf
そういう決まりがあったならともかく、公儀へ年貢渡す前に上杉と調整してなかった堀のミスだな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 20:14:16.94 ID:0w+T8jRj
年貢については通例で国替えの時はそうするってなってた筈
ただ黒田と細川も同じ事で揉めてるし(黒田が持ち逃げ)
その時に細川から提訴受けた家康は裁定しなかったので
法で決まってた訳ではない模様

ちなみに黒田が移る先の小早川も持ち逃げしてたので
黒田が持ち逃げしてなければ黒田も困ってた
細川や堀の脇が甘いといえば甘いか

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 23:02:29.70 ID:KX7wPrkn
黒田細川堀と、ガメツもといしっかりしてそうな家が被害者側なのがなんか面白いな

33 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 23:45:05.05 ID:z9qVs5NZ
まぁ堀家は名人Q太郎じゃなくて若年の二代目Q太郎だし舐められてたのかも知らん

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 10:57:35.23 ID:jXOTE7+0
この話し一年分持ち去ってたのかと思ってた

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 13:18:11.10 ID:7XTJHesh
正直年貢持ってかれたどうこうよりも、秀吉に朱印状で全員会津へ連れてくよう言われた上杉家臣が残ってる事のがよほど堀からしたら問題よね
実際乱になった際に上杉が煽って一揆起こしてたし

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:50:23.87 ID:jWvq4BOh
農民は一切連れて行くなだから帰農されるとどうしようもないし

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:58:15.14 ID:9KDPLPok
いやー、家臣全員連れてくよう言われたんですけどーたまたま家臣たちが一斉に帰農しましたー
ってさすがに無理があるくない?

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:31:52.06 ID:YwIdib8P
上杉の遺民一気ってだいたい越後風土記が元の記述?
堀毛の家譜とかにも載っている?

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:34:40.46 ID:YwIdib8P
地元が蜂起に参加していたらしい記述見かけたんだけど
該当箇所が見当たらない

40 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 20:55:43.02 ID:hllB7l4p
( ●Д`)y━・~~ 旧臣使って一揆の煽動とか酷い奴も居たもんだな

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:03:35.30 ID:u236VH5d
輝元「どこのどいつだよ」

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:31:43.99 ID:WBGVVljn
>>40
お前はネズミ汁でも喰ってろ

43 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:11:53.00 ID:MGyRhaXZ
上杉謙信・山内忠義・島津義弘・福島正則「イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!(エンドレス)」

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:16:41.44 ID:hllB7l4p
>>43
母里太兵衛「ウェーイ!」

仙桃院の演説

2021年09月04日 17:01

仙桃院   
504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/04(土) 16:22:11.04 ID:JMOsLn/Z
上杉謙信死去後、越後に於いて養子である上杉景勝上杉景虎の闘争は激しくなり、
双方手切れとなって既に合戦が始まろうとした時、景勝の母である仙桃院は、上田より早々に
春日山城に来ると、一族家臣、末々の侍共まで春日山の本城水門へ呼び、簾を高く巻かせ、
直に対面して申された

「景勝は越前守殿(長尾政景)の子であるが、謙信の猶子である。
先祖である長尾左衛門尉景忠より、謙信に至るまで八代、年数は二百十余年、越後の執権として
貴賤共に、そのよしみは浅からず。一体誰がその旧功を忘れるだろうか。

殊更、かつて紋竹庵主(長尾為景)が越中千檀野にて討ち死にされ、国中大乱に及んだのを、
謙信が十四歳より謀を巡らし、十五歳の春に宿敵である長尾平六を討ち滅ぼし、それより
八年間の間に、越後国中の凶賊を討ち平らげ、上下枕を泰山の安きに置けたのも、皆謙信の恩である。
何れも心を一つにして、味方(景勝方)の義戦をたすけ、中興の謀を巡らすべきである。
構えて卑怯の振る舞い、二心をはさみ、又は戦場において強いて戦わせることを敵に見せるなどは
口惜しきことである。

何れも頼み入ります。謙信の遺跡を、景勝に知らせ候へ」

そして家老から末々の軍兵まで残らず盃を与えられると、上下の者達は皆、この女ながらの勇気に
励まされ、感涙を流して畏まった。忠功を励む所、更に疎むべからずと、一同に頷いた。

太祖一代軍記

御館の乱において、景勝方が仙桃院の演説によって戦意を高めたというお話。
この演説のモデルは北条政子のやつかな?



柿崎景家誅殺

2021年08月30日 18:37

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/30(月) 16:48:24.64 ID:c3/hkbdL
天正五年十一月七日、柿崎和泉守景家父子四人が上杉謙信公によって誅殺された。
これは三年前に、良馬を京都へ売りに家臣を遣わした折、これを知った織田信長公は手を打って
大いに悦び、「上杉君臣を離間する手段これに有り」と、則ち馬代を十層倍で買い取り、
さらに信長公は自筆を以て

『今度差し上げた馬は近頃まれに見る俊足にて、大悦これに過ぎる事は無い。
ところで伝え聞くに、北国には鷹の逸物が有るという。そこで巣鷹を所望したいと思っており、
必ずこれを調えてほしい。』

との書翰が柿崎に届いた。彼はこれを真と思い、度々に鷹を買い調えて信長へ進上した。
しかしこの事が顕れると、信長と内通し逆心するのではないかという事で、謙信公は
平賀宗右衛門、吉江中牟、本庄越前守の勢七千にて柿崎の屋敷を取り巻いた。

これに柿崎和泉守、並びに男子三人、手の者七百ばかりが切って出て、二時あまり戦い
屋敷へ引き籠もった。打ち手は数十人が討たれ、手負いの者は数知れなかった。
その後、遂に寄せ手は屋敷に乱入し、柿崎父子四人は討たれた。

柿崎は越後の国侍で、久しき家であった。

太祖一代軍記)

史実としては柿崎景家は天正二年十一月二十二日に病死していて、その息子の柿崎晴家
が天正五年に、織田へ内通したとして謙信に誅殺されたという話があるので、これが混同
されたのでしょうね。



994 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/30(月) 17:01:08.97 ID:6Q5xQ9CT
ちなみに柿崎氏についてはこういうのが

旧上杉家臣は明治以後に屯田兵他で北海道移住した家があり、現在でも北海道に子孫が残り
自家に伝わる古文書を守っておられる例も多いとか

山本勘助の件で有名な市河家も同様ですね


上越市公式サイト2016年8月23日
https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/koubunsho/kakizakikemonzyo.html
柿崎家文書について

上杉謙信の重臣柿崎景家の家に伝えられた古文書80点あまりが、北海道在住のご子孫から上越市へ寄贈されました。

慶長3年(1598年)に柿崎家が上越を離れて以来、約400年ぶりの里帰りです。

柿崎家は、戦国時代に上越市柿崎区一帯を支配していた国衆柿崎氏の末裔です。上杉景勝の会津移封に従って上越を離れたのち、
子孫は江戸時代を通じて米沢藩士として過ごし幕末を迎えます。明治時代には北海道開拓のため厚岸へ移住し現在に至ります。

柿崎家に伝えられた古文書の総数は約200点。そのうち戦国時代から江戸時代までの80点あまりが上越市に寄贈されました。
戦国時代の文書10点は、実際に柿崎家が上越で受け取った上越ゆかりの貴重な古文書です。

今後は永く公文書センターで保存し、後世へ伝えていきます

洛中洛外の図の屏風一双

2021年08月27日 16:58

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/27(金) 15:55:22.08 ID:2w20CCI8
天正二年三月、上杉謙信公に対し、織田信長公より両使を以て、洛中洛外の図の屏風一双、
源氏物語の屏風一双、何れも狩野永徳の筆にて、極彩色であり、これを謙信に進上した。
殊の外の懇志であった。

然れども謙信は、信長が色々な手立てを以て上杉領内に手遣いがあることに対し、書礼を遣わし、
信長が表裏ある事を責めて、手切れの旨を申し遣わした。
これに信長は、何者かの讒言によってこのようなことになったのだと様々に陳謝したが、謙信は
用いなかった。

太祖一代軍記

洛中洛外図屏風(上杉本)についてのお話



信玄逝去

2021年08月26日 16:24

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 15:00:57.75 ID:e31HGtJg
天正元年二月、徳川家康公より植村與三郎を使者として、上杉謙信公に仰せ寄越された内容は、
去る冬の極月(十二月)二十二日、遠州口三方ヶ原での合戦で勝利無きに付き、武田信玄
勝ちに乗って東三河に発向してきたため、謙信は信州へ働き、甲州までも攻め入って頂きたい、
との事であり、その書状、並びに備前守家の刀が進上された。その刀の異名は徳用と号した。
謙信よりも音物が贈答された。
信玄が三州岡崎の城に攻め詰めれば、謙信は信州より甲州へ取り掛かるという旨の約諾が有った。

その頃信玄は東三河へ攻め入り、菅沼新八郎定盈、松平與一郎忠正が籠もる野田城を攻め落とし、
両大将を生け捕った。しかしその砌、城方の鉄砲烈しく、信玄は大事の所に鉄砲によって負傷し
(信玄大事の所に鉄砲手を負ひ)、その疵が腫物となって気分次第に快からず、四月十二日に
三州・信州の境である浪合にて逝去した。武田はこれを秘して喪を発せず、病気であるとして
死骸を守護して、甲州勢は残らず退散した。

その夏五月七日に、小田原北条氏政より山中兵部を使者として、信玄が死去したと越府に注進があった。

伝に曰く、この氏政の口上を本庄清七郎取次にて披露した時、謙信は膳に向かって飲食していた。
信玄死去の情報を聞くと、箸を捨てて手を打ち、

「合戦の能き相手を失い、さてもさても力を落とした。その上信玄は世に稀なる英雄名将であった。
残り多く、情けなきことである。」

そう言って数行の落涙をしたという。

太祖一代軍記

武田信玄の死去について。ここでは野田城攻めの時銃創を受けたため、という説なのですね。



983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 17:58:22.35 ID:j/dhOPJq
天正元年六月の長尾憲景宛書状では
信玄が死んだため、信長・家康は駿河に進むだろうし
関東平定も実現の見通しがつき、越中も思うがままになってきたと
喜んでいるそうだが

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 21:47:04.64 ID:EKAhKpsG
長年の宿敵と踏んでたし人柄的にも信玄って謙信が嫌いそうなタイプだし
訃報を聞いた時は喜んだってのが事実じゃないかとも思う
でも信玄ほど歯ごたえがあって正面から闘ってくれる相手もいないから
後々になって信玄の死を惜しんだとかはありそう

公方義輝公を弑し奉った事について

2021年08月23日 16:27

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/23(月) 14:51:42.36 ID:X36Q9D4/
永禄八年五月十九日、京都に於いて三好左京大夫義継、松永右衛門佐久通らが逆心し、公方義輝公が
御生害された。これにより畿内は大いに乱れ、公方の御弟である一乗院覚慶は南都を落ちて江州矢島に
至り、公方家再興のために還俗、義昭と号した。

七月、上杉謙信は二万の軍勢で越府を立ち越中へ入り、そのまま直に進んで加賀国へ攻め入り、
若林長門守、蕪木右衛門尉、石黒、宮崎、南保、高楯、入善等を攻められた。
この後、長尾兵部尉景盛、島山因幡守両使を江州矢島へ遣わし、義昭公へ御兄公方光源院殿と
御弔いを申し上げられた。

この時三好義継が逆心にて、公方義輝公を弑し奉った事について、その七ヵ年以前、永禄二年の夏に
謙信が上洛して十月に至った頃、三好長慶を始めその一門、並びに松永、岩成、松山党などの
驕り甚だしく、公方を蔑ろに致している様子を謙信は見届け、いずれ三好逆心の相有りと察した。
そこで京を立ち越後へ帰る砌、御暇乞を申し上げ、密々に言上したことには、

「三好一家無礼にして終には反逆の相が御座候。もしそういった様子が見られたときは、早々に
私に仰せ下されますように。馳せ上がり退治いたします。」

という旨を申し置かれたが、これに公方義輝公は御喜悦斜め成らなず、御手づから藤林という名物の
國綱の御太刀を下され、必ず御頼りあるべき旨を、懇ろに御堅約された。

去る年、子七月四日、三好修理太夫長慶が病死した。三好一門、家人はこれを秘して喪礼を致さず、
病中と申す沙汰を致したのだが、これが密々に公方の上聴に達し、不審に思われている内に、反逆の
様子が徐々に顕れた故に、公方は大和兵部少輔を御使として越後に下され、早々に謙信が上洛するよう、
密々に御内書を下された。しかしこれを三好が聞きつけ、
「謙信が上洛すれば中々叶うべからず。その前に取り掛かるべし。」
と、俄に思い立ち逆心し、公方を弑し奉ったのだと云われた。

太祖一代軍記