姜沆の上杉景勝評

2017年06月18日 16:08

884 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/18(日) 10:39:22.75 ID:tmlaj5Mn
 [上杉]景勝なる者がいる。今は、越後[中]納言と称している。代々、越前・[越]中・[越]後の三州の地に居[城]した。
賊魁(秀吉)が信長に代わるに及び、景勝は、戦いに敗れ、服従を請うた。
秀吉は、出羽、佐渡に景勝を移して[その地を]授け、越後の地を奪って掘里久太郎(堀久太郎)に与えた。
景勝の心は平らかではあり得ず、越後の民もやはり景勝が主であることを望んだ。
 家康が秀吉に代わるに及んで、肥前守(前田利長)と家康が不仲になった。
景勝は、勝手に自分の領地に帰り、肥前守と兵を連ね越後の地を攻奪しようとした。
久太郎は大いに懼れ、数(しばしば)家康に報告した。
家康も根本[の関東]を景勝が襲うかと気にし、数手紙を送って京にもどるように勧めたが、景勝は従わなかった。

<倭人は、みなこう言ったという。
「景勝が、本当に肥前守と兵を連ねて、直ちに家康の根本を擣くとしよう。
家康が戻って[根本である関東を]救援しようとすれば、多分、清正等がいっせいに立ち上がるであろうから、
西京(である大坂)は、自分の所有では無くなるであろう。帰って救わなければ根本がまず敗れ、腹背に敵を受けることになろう。
景勝らが動けば成功しないはずはないが、惜しいかな、景勝らは[愚]鈍・懦[劣]である。必ずや、自ら奮発しようとしないであろう」>
(看羊録)

姜沆(カンハン、きょうこう)の上杉景勝


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勇者の思い

2017年06月17日 10:00

岡左内   
37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 20:39:16.21 ID:5Rqe2+am
関ヶ原の役の時、奥州において上杉景勝伊達政宗取合の時分、景勝勢は福島より二里出て
政宗と戦った。

この時。北川図書という者、元は蒲生氏郷に仕えていたが、氏郷没後は景勝に属し、
景勝より桑折の地を与えられ、その頃郡図書と名乗っていた。

図書はこの合戦で討ち死にを覚悟し、朋輩である岡左内に頼んだ。
「私の陣羽織を息子の久兵衛に遺したいので、討ち死にの際にはこれを遣わしてほしい。」

左内は受け取り、後に図書の子・久兵衛にこれを渡した。図書は討ち死にしたのだ。

この事について、後の人は様々に評した。
ある人
「同じく戦場に臨んで、我も人も必死をこそ旨とすべきなのに、どうして自分が必ず生き残ると思い、
人の形見を請け取るなど有るべきだろうか?」

これに対して、傍らに居た人が言った
「そうではない。互いに言い交わし話し交わした心友の間で、その人を見込んでこう言っているのに、
請け取らないということが有るだろうか?
自分が必ず生き残るから、受け取って渡す、と言っているのではない。彼の形見を我が預かり、
我が形見を彼に預けるというのは、勇者の思いを込めた行為というべきではないだろうか。」

この岡左内という人物は、後に越後と称し、類まれなる勇士で、数度の戦功を成した。
この時の戦でも、川中で伊達政宗と太刀打ちして、自分の猩々皮の羽織に、政宗の太刀傷二ヶ所まで
受けたと言われている。
彼も蒲生氏郷に属して、後に景勝に仕え、その経歴もあって北川図書と親しんでいたとか。

北川図書の子孫は、今も加賀太守(前田家)の家中にあるという。

(士談)


英雄の掘った井戸である故

2017年06月12日 19:10

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 18:37:21.30 ID:xZqoEU9p
井伊掃部様の御屋敷前、坂中の北に仰々しい井戸がある。それは
汲みもしないのに立派な釣瓶縄を備えていた。

それは昔“鱗屋敷”といって、直江山城守が住んでいた時に掘った
井戸だという。これをトウ庵先生(古賀トウ庵)に聞くと曰く、

「直江は天下の英雄なり。英雄の掘った井戸である故、井伊家では
用いないけれども代々大切にこれを保存しているのである」

とのことである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 01:49:44.51 ID:qTIEz3oo
>>21
大河で井伊の先祖は井戸から出てきたとか言ってたし、井戸を特別視してたのかも

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:59:57.31 ID:oqc2RtC1
>>21
憲政記念館の所に現存しているよな。この井戸

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:09:14.48 ID:qFtwVh1m
兼続の屋敷跡が
「憲政」記念館になったとは、
御館の乱の因縁があるようなないような

重任は威が無ければなしえない

2017年06月02日 17:23

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 05:27:47.46 ID:lIWQQcsK
直江兼続が伏見城御普請の頭取だった時、杉原親憲と事を論じたが合わず、
兼続は拳で親憲を打った。親憲は大いに怒ったが、国の患いを起こすのを

恐れて我慢して帰った。しかし、不平の勢いは一向に収まらず、「明日赴いて
共に死んでやろう!」と決心し、まず本庄繁長を訪問して別れを告げた。

すると繁長は親憲を諭し、共に兼続のもとに参った。 兼続が迎えて申すには、
「私めは早く行って多罪を謝罪する心得であったが、折りしも繁務のために

出ることができず、再び貴殿に罪を犯した。私めが先に思ったのは、重任は
威が無ければなしえないということだ。威がなければ事は行われず、

事が行われなければ国家の利にあらず。貴殿は天下に聞こえる豪傑の士だ。
貴殿さえ怒ることができないならば、誰か号令に背く者がいようか。

罪を犯したのはこのためである。貴殿が幸いにも私めの多罪を許しなさって、
貴殿の足を我が頭に加えなされば、少しばかりは多罪をあがなえよう」

とのことだったので親憲はさしもの怒りも解け、十分に楽しんで宿所に帰った
のだという。

――『直江兼続伝(鶴城叢談)』



814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 08:10:41.27 ID:OX53w4Zl
「徳のある政治は恐怖がないと無力である」
とフランス革命の指導者の1人も言ってたな

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 18:36:43.58 ID:dMULztp1
水戸黄門も格さんと助さんがぶん殴って黙らせてから印籠持ち出すわけだ

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/02(金) 19:01:41.01 ID:pPSEnR4W
Shock and Aweですねわかります

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 20:18:31.72 ID:/I3q2Y2i
北斗神拳もモヒカンがいないと無意味なわけだな

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 21:44:12.63 ID:aKCPlR46
>>815
どちらかというと徳川八万騎+親藩+徳川寄り諸藩連合に勝てるかって話じゃね?

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 23:06:55.47 ID:geu/lSHb
>>818
長州藩「旗本八万騎www」

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 01:49:54.44 ID:10fH6c15
偽官軍だってw

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 11:25:08.35 ID:4Ghf+TWg
奥州十万騎

遺物は武具と書籍のみ

2017年05月22日 17:59

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 05:54:36.32 ID:Pj7Ed7SX
直江兼続の最愛の一子・平八景明が、本多正信の媒酌で近江国膳所城主・戸田氏鉄
<今の戸田伯爵家>の娘と江戸で婚儀を挙げる時、

戸田家より朱塗の膳椀に金蒔絵の道具が着いたので、直江家の役人たちが、「これに
相応する道具を準備するべきでしょうか?」と、兼続に尋ねたところ、

兼続は、「それはもってのほかである。もし、対等の膳椀でなければ婚礼させられぬと
あらば早速破約する。武士の魂である刀や槍に錆がなければ、何の恥ずべきところが
あろうか。朱塗の膳椀が何だというのか」と、言ったという。(『我郷の先哲』)

兼続はこの如く倹約であったが、社会に有益な事業には多額の私財を投じて惜しまな
かった。慶長11年には文選60巻を刊行して文化に貢献し、その他にも論語などをも
出版したとのことである。

また元和4年には禅林寺<後の法泉寺>を建立して、学僧・九山を招き開祖となしたが、
これは寺子屋式に子弟を教育し、また藩学の興隆を図ったのである。

この如くして、上杉家の大元老の遺物は武具と書籍のみであったといわれている。

――『直江兼続伝』



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:00:16.06 ID:rKmpoToj
こういうの見ても直江兼続に対するバショクや趙括的なイメージが拭いきれないんだよね

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:12:03.24 ID:qz+Ugzga
大河や漫画やらでそんなイメージはないなw

直江兼続の衣食住は

2017年05月21日 15:12

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 02:49:51.97 ID:ReHkwYuF
直江兼続の衣食住は非常に倹素であり、食事の如きも山椒3粒で済ませた。

中条越前守が蓼漬と蛮椒(唐辛子)を用いたのを兼続は見咎めて、「どれか
一品になさるのが良いであろう」と、忠告したとある(『愛日漫録』)が、実際、
余程粗末のものであったと見える。

また色部修理のところへであろうか、招かれた時に雁の吸い物を差し出した
として亭主に断り、「奢りである」と言って、その汁を食べなかった。かつその
用人を追放させたとのことである。(『鶴城叢書』)

衣服も頗る質素で、今上杉家に保存されている兼続が着用した浅黄綾子の
羽織を照らし合わせると、これは彼の衣服でも最上等のものであるが、裏は
黄金色の練らない絹で、細かい継ぎ切れを縫い合わせたものである。
(『我郷の先哲』)

――『直江兼続伝』



923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 05:50:16.60 ID:7S0zCOK5
山椒って高いよね

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 06:44:56.33 ID:BtCnM7UP
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1419.html?sp&sp
こっちでは「おかずに蓼は贅沢!塩だけで十分!」

蓼か唐辛子かどちらかにしていても文句言ったようだ

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 07:43:47.93 ID:epP0gEsi
倹約して貯めた金はどこに消えたんだ?

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 09:05:52.09 ID:C40FsJar
誰のせいでこうなった!

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 10:18:35.12 ID:9hLRGUoc
大酒呑みの基地外だろうね

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 10:55:42.70 ID:k0AZsbIn
戦国時代は香辛料をおかずにご飯を食べるのが普通だったのか?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 12:15:20.27 ID:3gTOYsOw
>>928
まあ遠回しに「そのくらい美食を遠ざけ倹約してたんだよ!」って言っているんだよ

直江兼続は断じて反対し

2017年05月20日 16:21

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/20(土) 02:31:20.56 ID:WjJkd30J
上杉家が30万石に減封させられた時、老臣の中には、「この際、30万石の丈に
見合った家臣の数に減らすべき」とのことを提案した者もいたが、

直江兼続は断じて反対し、「この如き際には、人ほど大切なものはない。一同が
協力して復興を計るべきである」として、

新季奉公の牢人たちで去る者は追わなかったが、旧来の家臣は1人も去ることを
許さなかったということである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


誠の忠臣と言うものは

2017年04月30日 21:04

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 21:30:59.16 ID:D4Uk5VwP
上杉謙信が小姓より引き立てた侍の内、河田豊前守長親という人物は、元近江国守山の、地侍の子であった。
永禄四年三月、謙信は上洛し将軍足利義輝に謁見したが、この時清水において、この河田が、当時14歳であったが
これを召し連れ越後に帰国し、後には四十万石の知行を与えた。
これは男色の寵が類無かった故である。

ある時、謙信は河田を叱責し、刀を抜いて今にも成敗せんとしたが、河田はその場を退かなかった。
謙信は刀をおさめて言った

「私が河田をこれ程秘蔵に思っているのに、これを成敗すると言い出せば、『私が身代わりに成ります!』と
言って出て来る者があるべきなのに、誠の忠臣と言うものは居ないものだ。」

そこに一人出て「某を誅されよ!」と、頸を差し出して出た。謙信はこれを赦免したという。

(士談)


759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 10:30:34.60 ID:baWek3vu
実際にはどれ位の知行だったんだろ河田?

768 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/10(水) 14:50:03.20 ID:JI8gJ8Gs
>>758
謙信が女犯を退けて男色を愛したのは、全き美談なれど、
後から忠信面をして頸を差し出す家来の話は嫌らしいな。
よって、ここに入れられたのか。
して『士談』の何巻に此の話は入っているのぢやろう?
包まづ教えて下さらぬかのう。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/10(水) 15:13:07.23 ID:Cwe02d0j
貞観政要 巻五 誠信第十七
貞観の初め、太宗(李世民)にある者が「佞臣を見分ける方法をお教えします」と上申してきた。
太宗「朕が任命しているものは皆賢臣と思い任じているのだが、お前は誰が佞臣かわかるのか?」
ある者「陛下がわざとお怒りになった時、あえて直言・諫言してくるものがあればそれは賢臣で、
阿諛追従するものがあれば佞人です」
太宗は側近に「君主が自ら偽れば臣下もそのようにするだろう、源泉が濁れば下流の水も濁る、道理に合わない。
朕はかねてから魏武(曹操)を詭弁の多い者だと嫌っている」と話し、
「朕は天下に信頼が行き渡ることを望み詭弁は行わない、お前の言葉は善といえども実行することはできぬ」と書いて送った。

謙信も李世民を見習うべき

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/10(水) 15:26:15.88 ID:JI8gJ8Gs
謙信は敢えて作り怒りを演じたのでは無かろうて。

疎漏なる言は相成らぬぞよ。

よいな。

上杉謙信自画併辞世詩

2017年01月09日 17:45

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/08(日) 23:33:24.59 ID:OigyhAof
上杉謙信自画併辞世詩

ある人が語った。
先年越後総持寺の僧が、謙信自筆自像という一幅を持ち出していた。
これは上杉侯〔米沢〕の請願があったためだという。
この像は謙信が没しようとする二三日前に自ら図を描き、人に示しゆだねて

「これは我が遺像である。これで我が身を後に見るようにせよ」

と言ったそうだ。

 幅上に黒雲がある。中には金色の五鈷竪(五鈷杵?)が四方に黄耀霊光を放っていた。
雲下に一つの大朱杯があって酒が満ちている。
また辞世の語としたものが添えていた。

『四十余年一夢裡 一用事業一杯酒』

この句は謙信卒去の後に病床の下から出た物だという。
謙信は不犯の人で嗣子がなく、一生の間素食していたという。
しかしこの語を見れば一人の酒徒ではあったのだろう。

 白石の『藩翰譜』には、
この年二月の半ばから何となく体の具合が悪くなり、
同じく三月十三日、年四十九歳にして卒したという。
 註の『夏目か記』に葬送のことを執り行おうと枕の下を見れば、
辞世の詞とみえる

『我一期栄一杯酒、四十九年一酔間、生不知死亦不死、歳月只是如夢中』

ということを自ら書いて押し入れて置かれていたという。

(甲子夜話)

この絵、見たいですね



しかし上杉謙信は天主の称を憎んで

2016年08月03日 17:54

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 04:44:07.30 ID:J5G5X7Nr
天守とは以前は天主と書いて、櫓の上層に天帝を祭ることであったとか。
しかし上杉謙信は天主の称を憎んで、これを改めて天守とし、
須弥の天守は毘沙門であるとして、この神を祭ったことから、今は皆天守と書いてきていると。
(甲子夜話)

謙信が天主を憎んだというのは、バテレンの事ですかね
天守は南蛮の影響?



931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 06:55:06.85 ID:vkcP4WKm
井上章一「南蛮幻想」だと
江戸時代から明治にかけて「安土城はキリスト教の大聖堂だった」
という説がかなり信じられていて、「天守閣」は「天主(デウス)」を祀っていたと思われていたとか。

上杉謙信の武勇

2016年06月01日 18:23

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 20:44:57.83 ID:feHDenPf
伝わることによると、昔上杉謙信織田信長が、越前府中において合戦あるという時、越後の諸将は
謙信をこう諌めた

「信長は大身故に、軍勢は味方の5倍有ります(この時謙信は僅かに6千、信長は3万であった)、平場で
戦うのはいかがかと思います。殊に敵は鉄砲数千挺を装備し、味方は僅かです。
君は長篠の合戦の事をお聞きになっていないのでしょうか?織田家は鉄砲三千挺を以って武田の堅陣を破り、
勝頼は譜代の臣を失い、信玄以来経験したことのない敗北をいたしました。よくよくご思慮を巡らせるべきです。」

しかし謙信はカラカラと笑い
「長篠の合戦は徳川勢の働きが優れていたこその勝利であったのだ。信長は信玄の一代は武田家へ向かって
顔を出すことも出来なかった。勝頼の代に至って、織田徳川の両家を以って若き勝頼に、しかも鉄砲ずくめにて
勝ったからといって、それは実の勝利ではない。

あのような戦いで勝頼は利を失ったとしても、この謙信は巧者であるぞ。
見ておけ、一戦に織田勢を蹴散らし、上方において毛雪踏を履いている公家侍どもに、輝虎の武勇を
見せてやろう。」

謙信の陣に潜んでいた織田家の細作はこれを聞くや走り帰り、この事を報告した。
すると信長はどう思ったのか、その夜の内に府中の陣を引き払い十余里後退した。
謙信は翌日押し寄せて敵が引いたのを見るや、打ち笑って
「さてさて逃げ足の早い巧者である。その仕方はこれが織田軍法と言うべきか。」
そう大いに嘲笑した。

上杉謙信の武勇は天下の許す所であったが、この一言によって敵を退かせたというのも、また奇なる
事であろう。

(慶元記)

閻魔状

2016年05月16日 15:30

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 04:46:55.42 ID:/09Z0TN3
慶長3年、上杉景勝が会津へ移ることになる折、横田式部という者が召使いの茶坊主を斬罪にした。
そもそも誤りのないことだったので、坊主の親類が大勢決起し、国改めに京都より、前田玄以
石田三成が下向した。親類らはこの両人へと訴えた。

これに玄以と三成は「その事は直江の方へ申せ」と指図したので、訴訟人らは直江兼続のところへ
詰め掛けた。兼続は対面し、「皆々の申し分はもっともである。それならば、主人の横田式部に、
詫び言のために銀50枚を出させるので堪忍せよ」と、仲裁した。

だが、訴訟人たちはますます怒って帰り、再び玄以と三成に訴えたが取り合ってもらえなかった。
そこでまた兼続のところへ詰め掛けると、兼続は「それならば銀70枚を出させよう」と仲裁した。

しかし、訴訟人たちは、「70枚でも700枚でも、死んだ人が帰るであろうか。とても道理に合わぬ
ことを御申しになる!」と、難癖を付けた。すると兼続は札を1枚取り寄せ、一筆書いてじかに持って
出ると、「訴訟人たちのうち、張本人は幾人いるのか?」と、尋ねた。

これに、「その坊主の兄と伯父がこれに」と、両人が出て来ると、兼続は「何と仲裁しても汝らどもは
承知しない。とかくこの上は、かの坊主を再び今生へ呼び還さなくては、汝らの心には叶うまい。
さりながら、誰も呼びに遣わす使いがおらぬので、その者の兄と伯父と2人で迎えに遣わすとする。
この高札を持って早々に地獄へ参り、閻魔主にこれを見せて、かの坊主を召し連れて帰るがよい。
すなわち、その文を聞け」と言い、高札を読んだ。

 『いまだ御目にかかってはおりませんが、一筆申し入れます。さて、横田式部の召使いの
 茶道坊主を親類どもが呼び戻し申したいと達て申しますので、こうして親類2人を迎えに
 寄越し申しました。きっと御返進してくださいませ。恐々謹言。

  二月十日     直江山城守兼続

  閻魔大主殿 参』

以上の書付を読み聞かせると、兼続はかの張本人2人をその場で斬罪にし、その高札を前に立てて、
2人の首を獄門にかけた。そのため、徒党は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、国中強訴は1人も
なく、静謐と相成った。

――『北越太平記』

関連
直江兼続と閻魔大王への手紙・悪い話


629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 12:11:11.17 ID:O2Ebagvq
>>627
村上さんで脳内再生された。

それに比べて、豊守は

2016年02月15日 13:50

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 12:00:49.33 ID:bOA+vfct
上杉謙信が越中に出陣していた頃、春日山城は留守役として甥の景勝(この頃はまだ喜平次顕景と名乗っていた)に守らせ
謙信の筆頭家老山吉豊守を年若い甥っ子に補佐役として付けていた。
しかし武田信玄が謙信の留守中に信濃から春日山に攻めいるつもりであると噂を聞いた謙信は酷く心配し
春日山城へ書状を何度もしたためた。

「喜平次へ
心のこもった再報が届いてとても嬉しかったです。
細かな気遣いが本当に心に染み入りました。
それに比べて、豊守は私がこんなに心配しているというのに、一度も手紙を寄越さないんですよ。
喜平次は何度も連絡をくれるので、本当にありがたく思います」

この書状を見た喜平次は慌てて豊守に書状を書かせたらしく
この後謙信から「喜平次のおかげで豊守から手紙が来たよ!ありがとう!」という書状が届いている。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 14:12:22.47 ID:CF6lY/QG
上杉謙信オカン説がはかどるな

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 14:55:44.45 ID:ff+fCwcY
>>152
かわいいw

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 15:20:22.31 ID:8kGl8Ch8
軍神謙信返信に安心

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 15:30:29.28 ID:ByMwmBOM
恋文かよ

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 16:01:54.84 ID:2IrJApji
言い難い事は子供を使って言わせる。まさにどっかのオカン

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 20:48:23.95 ID:jVA8ZplL
謙信のいい話やん。ほっこりした。

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 00:34:21.48 ID:lkeFR4n3
補佐役で喜平次と一緒に在城してるのに
謙信に喜平次宛で愚痴を書かれた山吉豊守の決まりの悪い話かな思って

狩野秀治の事

2016年02月07日 19:17

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 11:37:11.36 ID:uIIEMHG4
逸話というか書状ネタ

上杉家の家臣、狩野新介秀治。
元々は尼子勝久の家臣だったといい、何がどう流れてきたのか越中神保氏の家臣狩野氏の養子となり、謙信に仕えたらしい。
御館の乱では謙信の馬廻り衆として景勝とともに春日山籠城組の一人だったらしいのだが
この時何をしたのか分からないが景勝に超気に入られる。
謙信時代の重臣達や景勝の直臣衆である上田衆すらも差し置いて万事取り次ぎを任される執政扱いになった。
秀治は景勝より20歳ばかり年上だったということだが清貧で控えめな人となりだったらしく、
なかなか重臣達が言うこと聞かなくて苦労していた青年当主景勝はそんなところが気に入っていたのかもしれない。
兼続が直江の跡取り娘お船の入り婿になると上杉家は秀治と兼続の二大執政状態になる。
秀治はしかし、根なし草である自分が景勝様に大層気に入られ重用されている事態を憂い、嫉妬を呼ぶだろうと考え
春日山に粗末な庵を結んで質素に暮らした。
景勝が秀治には内政も外交も重要な仕事をたくさん任せているので、秀治がそのような粗末な姿では上杉の面子に関わる、
屋敷を受け取れ、せめて兼続と同禄受け取れと再三命じても固辞し続け、ボロ小屋に住み続けた。
上杉家の筆頭家老なのにボロ屋住み(兼続は後輩なので秀治の方が順位上)
ある日、春日山に嵐が来た。
他のきちんと普請された屋敷はなんともなかったようだがお粗末な庵の狩野宅には被害が出たらしく
景勝から「一昨日風にて其元家損し候て、時分と云、造作笑止に候」と書状が届いた。
景勝は他にも秀治に「お前の家マジ狭い」とネタにしているのでもうちょっとマトモな家に住めよ!ということだろう。

なお生活環境悪かったのかはたまた過労かしばらく後に秀治は病死し、景勝は二度と秀治の代わりとなる者を作らなかった。



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 13:10:44.24 ID:K/Hk/8cI
景勝が「笑止に候」と出しても想像できない

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 13:14:55.43 ID:WI66Vt05
三条の大面城を貰ってるみたいだね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 13:34:46.02 ID:Kd2+emmN
当時の「笑止」って気の毒に思うってことやで

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 14:40:36.45 ID:K/Hk/8cI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6891.html
そうだったのか、前にも自分と同じ勘違いしてた人がいたようだ
確かに「笑いが止まる」だから字面的には気の毒の意味になるな

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 17:36:57.83 ID:a4eBAu+p
昨日風であなたの家が壊れたと聞いたんだけどほんと酷い家ですねぐらいの意味に読んだ

>>106
秀治はほぼ春日山城詰めだったと思われるので
城貰ってもそこでは殆ど暮らしてないかと

すると謙信は機嫌が直り

2016年02月05日 12:41

266 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/04(木) 22:14:55.41 ID:3DvQj37O
新発田尾張守長敦の弟である新発田因幡守治時(重家?)は剛強第一の兵にして、多くの武功をあげた。
謙信が小田原城を攻めた時のこと、明日ここを引き払うとしてそのための備えを示した。
するとまだ十六歳だった因幡守はこれを見て「この備えはよろしくない」言った。
謙信はことのほか不快に思い、散々に叱り飛ばした。
しかし因幡守は少しも屈せず、「であれば私にお暇をくだされ。そうしたら小田原に入り、
北条氏康に兵を借りて越後勢を追撃しましょう。この備えであれば打ち勝つことができ、
酒匂川の辺りでお屋形様を打ち取れるでしょう」と言った。
すると謙信は機嫌が直り、因幡守の言うとおりに備えを直した。

「上杉諸士書上」より



上杉謙信「我が国の武徳も衰えたものだ!」

2016年01月19日 18:18

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/19(火) 09:41:28.27 ID:sbbHpyFn
上杉輝虎が、石坂検校に平家物語を語らせこれを聞いていた時、鵺の段にてしきりと落涙した。

側に居た者達が不思議に思うと、輝虎はこのように言った

「我が国の武徳も衰えたものだ!
昔、鳥羽院の時代、禁中に妖怪があったが、八幡太郎義家が弦を鳴らして『鎮守府将軍源義家!』と
名乗っただけで、妖怪はたちまち消えたという。
その後源頼政は、鵺を射てもなお死なず、伊野隼人が刺し殺して止めを刺したと聞く。

義家が鳴弦したのは天仁元年のことだ。鵺の出たのは近衛院の仁平3年であるから、この間
僅か46年だというのに、武徳は既にこれほどまでに落ちている。

現在は頼政の時代から450年。私自身も頼政の武徳からはるか遠く劣っておる。なので、思わず涙を
流したのだ。」

(常山紀談)



992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/19(火) 11:15:01.83 ID:lo0+gfwY
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6549.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5189.html
一応既出、出典が違うけど

生活の状態が悪いのでこのようなのである。ああ。

2016年01月16日 17:57

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/15(金) 21:54:51.20 ID:CiWguw9k
 殿下秀吉公、上杉中納言景勝と御和談が調い、中納言は一万騎で上洛された。
もっとも御和談のうえであるので常の行列であるとはいえど、ことのほか厳重でありましたところ、殿下は密に粟田口まで御覧なされ、
ひどく上杉家の行列の備えを誉められました。分けても景勝の乗り物が多人数で取り巻きなさる勢いは誠に鉄城のようだと、
かえずがえす上杉家の軍法に大いに興味を持ちなされました。

 それにひきかえ、いかに治世であるといっても、大小名方は日雇いの人数を行列に遣わすのは余りのことである。
これというも大小名方は前と違って、生活の状態が悪いのでこのようなのである。ああ。
(本阿弥行状記)

大名行列って日雇いばっかだったんですけど、戦国以前では全員軍人だったのですかね



217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 10:33:30.17 ID:1LtlXlv+
>>192
景勝の馬廻り衆が8000人だから(秀吉時代だからもうちょっと増えてるかも)
それに直江の馬廻りとか奉行衆の連れてる家臣とか足したら日雇い無しで普通に一万じゃね
米沢時代になったら大分減るかもしれんけど景勝の馬廻衆は譜代(謙信の分と実父の分含む)だからなあ

すると猿松が

2016年01月12日 18:22

179 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/11(月) 22:09:57.64 ID:iWayTfBO
長尾為景の治めていた府内の城外では、盗賊が出て人々を脅かしていた。
そこで為景はその盗賊を斬って首を獄門にかけた。

そんなある夜、為景が近侍のものに「あの盗賊を首を取ってこい」と命じたが、
皆恐れをなして取りにいこうとはしなかった。
すると猿松(謙信)が「自分が行こう」と言い出した。
為景は猿松に小刀を与えたが、彼は傘だけさして雨夜の中盗賊の首を取って、
(複数いたのか)その髪をつなぎ合わせて引き摺り引き摺り府内へ帰ったそうだ。



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 13:08:11.73 ID:TjaJYsFf
>>179
水戸光圀の伝記で同じような話を見たが
(刑場から父の命令で幼少の頃夜に罪人の首を持ってくる)
度胸試しとしてありふれてたのか、それともどっちかがもう一つの逸話をもとにしたのか

和泉は大食いのじいさんだなぁ

2016年01月12日 18:21

180 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/11(月) 22:21:43.79 ID:iWayTfBO
柿崎和泉守景家は非凡の猛将であった。

ある時、部下の老兵が「小蛇を土中に埋めた祟りだ」と発狂しだしたので、
景家は出陣の途中老兵の家に立ち寄って、蛇を掘り出して、
老兵の面前でムシャムシャこれを食べてしまった。
そして「このような珍味を土中に埋めておいたのではもったいないではないか。」と平気でいった。
それを見たものは皆、舌をまいた。
伝え聞いた謙信も「和泉は大食いのじいさんだなぁ」と大笑いしたそうだ。




183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 23:55:22.13 ID:ys1zp3di
>>180
ヘビは寄生虫の塊みたいなもんだから生食はダメ。素手で触るのも宜しくない。触ったら念入りに手洗い。
ナマで食って平気なのは鬼武蔵くらいだからな。

敵よりは景勝を恐れたのである

2016年01月06日 12:48

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 23:38:20.91 ID:LZRsqKCk
大坂陣の時、信貴野口にて、先手の仕寄を見物しようと上杉景勝の近習で
非番の同輩らが忍んでやって来た。

その後で、景勝が巡見のために一騎でそこにやって来た。これを見た近習らは
咎められるかもしれないと恐れて、鉄砲の玉が降るほど飛んでくる竹盾の外へ
出て、景勝から身を隠した。

敵よりは景勝を恐れたのである。

――『北越太平記』



878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 23:50:05.53 ID:nMWthXiW
当たらなければどうという事もない

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 01:22:18.84 ID:L/qhRbOX
上杉にとっては大坂の陣など子供の石合戦に等しいとかなんとか

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:35:19.60 ID:UJPgkuoq
当時の火縄銃の有効射程かなり短いよね50mだったかな。
多分あたっても小さな石が当たったくらいかなと。

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:46:16.52 ID:WlNmolV7
口径によってだが現代の9mmパラからショットガン並みの威力があったわけで球形弾だからといってそこまで威力減衰はしない

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 23:17:14.56 ID:XM3CD45w
>>883
狙って当てられる距離と殺傷力を保つ距離は違いますので
50メートルってのは狙って当たる距離でしょうね