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信長一味の家康が遠き輝虎を

2019年10月29日 16:52

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 00:31:24.89 ID:DgcMBnn4
元亀三年正月二十八日、越中の椎名肥前守(康胤)方より(武田信玄へ)注進があった。その内容は、

『去年三月、徳川家康が越後の上杉輝虎(謙信)に二人の使いを以て起請を頼み入れ、謙信もこれを喜び、
家康に対し無沙汰あるまじと誓言したと言うことを確かに承った。家康より謙信への進物は唐の頭一頭、
輝虎は御返礼に月毛馬一疋を進呈した。

この事について長尾家の衆はこのように言っている。今回のこと、定めて家康が味方が信長だけでは頼り少ないと
考えた故であり、輝虎にとって喜ばしいのは、家康を旗下にするという事で、北国は言うに及ばず、都までの
信長の威光が振るわれている国々に於いても、謙信の弓箭が強いからこそ信長一味の家康が遠き輝虎を
頼んだのだと評判に成るであろう、と。

そういう事であるので、今年は謙信が信州に出てくることは無いであろう。』

という注進であった。

(甲陽軍鑑)

武田家に報告された上杉徳川同盟についての情報



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 06:46:32.36 ID:MTRMYDbr
「唐の頭に本多平八」ってやつやな
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かくして輝虎は行きがけの駄賃であると

2019年10月06日 15:58

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 12:51:03.20 ID:XoVewkF3
群馬郡高崎の城主、和田兵衛太夫の弟である和田喜兵衛は、昔の名を小膳といって、若い頃より
上杉輝虎に仕えていたが、ある時彼より、兄・兵衛太夫が甲府の武田信玄に内応して、深谷、倉加野、
高山などと語らって不意に箕輪を乗っ取ろうと企てていると、密使を以て輝虎の近習で、朋輩でも
あった小野伝助に知らせた。そして
「このような状況であるので、人数を少々向けて頂きたい。あとは自分が手引して、謀反人は
追い出します。」と伝えた。

上杉輝虎は小勢で箕輪に向かっていたが、この事を知るとその足で高崎城へと向かった。
ところがその途中で、これを知らせ、高崎城に居るはずの和田喜兵衛に出会った。
彼は輝虎に謝罪した

「謀反のことは自分の聞き違いであり、それで使いを出してしまったが、そのことが露見して
城にも居られず逃亡してきました。」

そうしてこの鳥川で輝虎に出会ったのだという。この旨を伝えられると、輝虎は以ての外の
怒り様で

「このような未熟な内通で出馬を促すとな何事だ!」

と、同行した小野伝助もろとも、和田喜兵衛を切り捨てた。
しかし輝虎は

「この上は、聞き間違いであったと言って厩橋に戻るのも後日の笑い草と成る。まんざら
火のない所に煙が立つわけでもあるまい。小勢ではあるが、いっそこのまま高崎城を
一攻めに攻めてそれから考えることとしよう。」
と考え、まっしぐらに高崎城へ向かった。

到着すると輝虎は自身鑓を取って大手門へ突っ込み、続く直江実継、大関親益、永井尚光と
いった家来たちも負けじと駆け込んだ。
高崎城の人々は訳が解らずも迎え撃ったが、一つ二つと城門を破られた。
城主和田兵衛太夫も剛の者であったから、自ら鑓を取って暴れまわった。
そのうちに輝虎は、「今日のところは無勢でもあり、兵も将も疲れ果てているから」と
引き上げを命じた。

かくして輝虎は行きがけの駄賃であると、郭外に放火し、早々と厩橋へ帰っていった。

(関八州古戦録)

さすが軍神である。



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 14:33:53.95 ID:BXDj4gj9
こんなのに毎年のように荒らされまくったのに、確実に領土を広げていった北条はすごいな…

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 16:59:34.48 ID:mFgpvsYZ
>>487
キチガイすぎるw

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 17:31:41.42 ID:P8JqbZOT
>>488
むしろ上杉内で争いが絶えなかったから北条は領土を広げられたのでは?

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 17:45:15.24 ID:sptkHPlz
>>487
今日はこのぐらいにしといたる

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 20:21:42.73 ID:nRmofFnC
>>491
いやー実在するんですねw

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 07:31:52.16 ID:3tpm9qeb
>>487
いや小野さんは斬る必要なくない?

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 17:48:45.46 ID:R+Bv9ZF6
>>493
そこら辺の理不尽さも含めて北斗の拳ライクで良い

身の毛がよだつほど輝虎を恐ろしいと

2019年10月04日 17:34

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/04(金) 10:52:23.96 ID:YX5u5dct
永禄7年(1564)、北関東の佐竹、宇都宮に合わせて、多賀谷、益子、真壁、笠間、小宅、茂木、久下田の
諸将は連署を以て上杉輝虎(謙信)に、「この際小田氏治讃岐入道天庵を討つべし」との申し入れがあった。
小田天庵は、先に黒子表で大敗した後、小田原の北条氏康と合体し、府中の多気守国、水戸の江戸道房、
総州の千葉利胤、守谷の相馬治胤と組んで旗を上げようとしていた。
小田家の武力は衰えたとは言え、右大将頼朝以来の名家であり、兵法に長け家人に剛勇な者が多く、
まだ油断できない故、今のうちに叩くべきだというのである。

輝虎は先に言ったように闊達な武士であり、すぐにこれを引き受けて、長尾一党の新発田、柿崎、山本寺、
色部、中条などの面々と八千騎を率いて越山し、夜を日についで、4月27日には小田天庵の領分、
真壁郡山王堂に到着した。ここは山が高く、崖下に南北四町ほどの深田があり、その小川を隔てて
東に四方三十町ほどの広野がある、そこを最適と見て輝虎は陣を敷いた。そして土地の国侍を招いて
尋ねた

「この辺りに名うての侍があるか。」

「この先、北に十四町ばかり行った所に三浦党の末裔という一団がおります。」と答えた、
それが平塚山城入道自省で、小田天庵旗下の平塚、菅谷、飯塚、久松と言った四天王に並ぶ者であった。

「随分と頑固な侍で、もし夜討ちでもされたら危なく、御用心が必要です。」

そう忠告されると、輝虎はからからと笑い
「その男なら四年前、氏康と不和に成った所を、結城、佐竹の手合に攻められ、きたなくも黒子表の
大崩と言われた負け戦の張本人であるぞ。

むしろこちらから朝駆けして焼き討ちをし、首を取ってもいいし、今夜でも向こうが夜討ちをかけるなら、
それこそ天の助け、迎え撃って一人も残さずなで斬りにして死人の山を築いてやろう。」

そう豪語したので、国侍達は呆れて物が言えないどころか、身の毛がよだつほど輝虎を恐ろしいと思った。

(関八州古戦録)



249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 11:41:01.69 ID:McdmRo5l
謙信が力量を認める人ってあまり居なそう

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 11:50:12.14 ID:qu2SVqsq
>>249
臼井城で白井胤治にこっぴどく負けたときは、白井胤治を評価するのではなく、
戦いの記録自体を抹消するような人だからなぁ。

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 12:29:27.70 ID:G98VYBxx
そんな人おったんやな
なんていうか謙信て信玄といい勝負やな、昔とは違った意味で色々とw

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 15:31:54.55 ID:RQ1NmQev
>>250
蓑輪諒「最低の軍師」のモデルか
臼井と白井でややこしい

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 03:42:28.50 ID:uGdeufcI
>>250
いや臼井城攻めは北条側の史料も戦死者数などが過大で捏造の疑いあるとされてるし、上杉側も上田衆を中心に感状を出しているため一定の戦果はあったと認識している。また直接被害を被ったのは先手の房州勢。
上杉軍は撤退したわけだから北条軍の勝利となるだろうけど、よく言われるような最強の軍師が謙信に圧勝!みたいなのは如何にも江戸時代の軍記ものっぽくて実像と少し違うと思う。
だから研究家もまだ臼井城の戦いに関してはまだ検討の余地があるとしている

籠沢采女の出奔と帰還

2019年10月03日 16:35

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 13:33:39.89 ID:EPkCNTiA
弘治三年五月七日、長尾景虎は川中島での武田信玄との対峙より兵を納め(第三次川中島合戦)、
高井郡小菅山の元隆寺へ引き上げ、鳥居峠を超えて平井城へ入った。

そのころ北条氏康は武州岩槻の城を取り囲んでいたが、城主太田美濃入道資正が良く防いで
一歩も近づけず、氏康は諦めて兵を退き、帰途、東上野の沼田城、厩橋城を小当りすると、
そのまま小田原に帰った。

景虎はその機を待っていたように又しても金山、桐生筋を攻めんと利根川の東へ進出した。
この辺りは路が険しく駆け引きが自由にできず、その攻略に二度も三度も失敗していた。
景虎は先ず自身で数騎を引き連れ物見に出かけた。しかし坂道を六、七里行った所で桐生の
城兵に発見された、城兵は彼等を鉄砲で仕留めようと、選り抜きの射手を物陰に伏せさせ
待った。

景虎は何も知らず、例の半首(はんつぶり)の兜に連銭葦毛の馬に乗り、一騎当千の武者である
鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、宇野左馬之介、織部入道の主従五騎で静々と打たせてきたが、
くだんの伏兵が居るところから5、六町の所まで来た時に、突然一人の武者が横道より走って来て
景虎の前に平伏した。

はっと気がついて景虎が馬を引き止めて見ると、越後普代の家人、籠沢采女正景次であった。
彼は景虎に向かい

「この辺りは足場が悪く、不案内な者が動ける所ではありません。殿の敵を恐れぬ度胸は昔から
見上げたものだと思っていましたが、このような事は百害あって一利なしと思い、不詳籠沢采女正景次、
まかり出ました。」

そう断ってから、自身のこれまでの行状を語った。それによると、彼は三年前自ら降人となって
桐生の城中へ入った。しかし今日の城中の謀議を伺ったところ、鉄砲を以て殿を打ち取る相談が
まとまり、現にこの七、八町先にその伏兵が待ち構えていると話し、

「今日はじめて、降人として恥を忍んでいたかいが有りました。こんな嬉しいことはありません。」
そう、涙で袖を濡らしながら語った。これを聞いて景虎も感涙にむせびつつ、すぐに指揮して
三人の伏兵を討ち取った。

そもそもこの籠沢采女正は若年より景虎の膝下に仕え、律儀で機敏な若者であった。またその先祖は
治承の頃越後国鳥坂城で勇猛をうたわれた長尾太郎資永の家来・籠沢左衛門尉景俊の末で、二心を
抱くような武士ではなかったのだが、景虎が関東へ出陣した折に逐電した。何故そのような事をしたのか
理由がわからずに居たのだが、今日はじめてその謎が解けたのである。

ただし、これまで景虎は、采女正は生まれついての忠義者で、何か仔細があるのだろうと思っていた。
それが証明されたのであり、まことに景虎が情に厚く、人を見る目の確かなことが解った。

(関八州古戦録)



245 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/03(木) 22:01:33.57 ID:GTNKmASQ
この先行ってはならぬで打ち取っちゃうのは景虎らしいよな

一度引き返して軍を率いたとなれば、伏兵が引き上げてるだろうとも思えたし

まあ間違った推理かな

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 22:59:43.91 ID:vRMi2KoX
天才だから、なのかな

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/04(金) 00:51:07.48 ID:ZQ9PeFTA
とんでもない
ヨーロッパの騎士とかでもこういう向こう見ずなのは居る

直江も腰をかヽめ候迄の由

2019年07月19日 14:59

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 19:31:33.07 ID:wMVJRuAB
外桜田南通の石垣は上杉景勝に仰せ付けられ、権現様(徳川家康)も度々御見分ならせ
られて御指図遊ばされた。

上杉家の家老・直江山城(兼続)が罷り出て御挨拶申し上げれば、権現様は直に肩を御
押し遊ばされて、かれこれと仰せがあった。直江も腰を屈めるだけであったという。

(権現様直に肩を御押被遊彼是上意有之直江も腰をかヽめ候迄の由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ

2019年06月14日 16:24

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 12:52:11.46 ID:IX8PHLFL
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

【参考】

『直江重光(兼続)書翰留』

(上略)あなたが近日、かぶきを御調査されていることに関して、旦斎が御子息の新二郎殿を御
気遣いなさっているとのことです。実否はどうなのかと御心許ないのです。(中略)

(其元近日かぶき御穿鑿ニ付而、旦斎御子息新二郎殿御気遣之由、実否如何無御心元候事、)

     8月13日

         千坂伊豆守殿(高信。上杉家江戸家老)


(上略)旦斎より御知らせが届きました。御子息の新二郎殿の様子について未だ解決していない
とのことは、全くもって気の毒です。その事について旦斎へ書状を進め置きました。(中略)

(旦斎より御報相届候、御息新二郎殿様子未相済候由、笑止千万候、右之儀ニ付而旦斎ヘ書状進
置候事、)

     9月14日

         千坂伊豆守殿


すぐに御知らせを示し下されましたことを忝く存じます。そして御子息の新二郎殿を御気遣いな
さっている様子を承り、御心許ないものと存じます。きっとその他の御気遣いはないものと推し
量っております。なお、追って御意を得られることでしょう。恐惶謹言。

(乍御報示被下、忝令存候、然者、御息新二郎殿御気遣之様子承、無御心許令存候、定而不可有
異儀候由、推量仕候、猶追而可得御意候、恐惶謹言、)

     9月14日

         小旦斎様
             人々御中

――『大日本史料』



上杉家ノ喫煙ニ関スル令

2019年06月07日 16:27

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 15:24:46.72 ID:RXHWoMb5
  上杉家ノ喫煙ニ関スル令

『上杉年譜』

  掟

 (上略)

一、煙草を吸うことは病人と老人は構わない。下々の寄り集まる所でみだりに吸うことは無用
  とせよ。たとえ老人や病人であっても、海道、あるいは主人の供を仕っての門庭において
  吸うことは一切止めること。
 (タバコ、病者老人ハ不苦、下々寄合猥呑候儀、用捨アルベシ、縦老人病者タリトモ、海道、
  或主人ノ供仕、門庭ニ於テ呑事、一切停止之事)
 (中略)


    慶長17年(1612)8月13日

(原注:全文は8月13日に景勝が法令を家臣に分配した条に収められている)


 『直江重光(兼続)書翰留』

  このところ乏しい時分に一段の煙草90枚を御意に懸けられましたことで、とりわけての
  祝着をされました。この類は気にかかることなので、もしもその辺り重ねての到来もあれ
  ば御意に懸けられますように。それではまたの機会に。恐々謹言。
 (爰元払底之時分、一段之たはこ九十枚、被懸御意、別而令祝著候、此類気合ニ相当候条、
  自然其辺重而も到来候者、可被懸御意候、猶期後音候、恐々謹言)

    7月26日

       須右様 まいる

 (原注:本文は略す)

  追って煙草その他御法度の様子を、懇ろに尋ねて申し付けるように。
 (追而、たはこ其外御法度之様子、懇ニ相尋可申付事)
  
    9月14日

       千坂伊豆守殿
  
――『大日本史料』

※7日前→一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條


故に良将はかならず軍を監督し

2019年03月10日 21:33

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/10(日) 09:15:15.13 ID:7JNEY6op
上杉謙信が自ら兵一万余りを率いて越中に入り、柿崎和泉(景家)に命じて、別将を副えて
辺塞を攻めさせた。ここから引き取る時、敵将が出てきたためこれと戦った。
この時柿崎の従兵である大川十郎は、左の腕を射抜かれたその矢も抜かず、取った頸を掲げて
柿崎の前に来た。ところがこの時、柿崎は大川を怒鳴りつけた

「お前は元より頸一つを取りかねるような者ではない!どうしてこの程度のことを誉れとするのか。
お前はまた、矢一筋くらいで弱るような者ではない。どうしてそんな事を勇だと思っているのか!?
一歩でも進むべきところを、知らないのか!」

そう辱めた。このためこの戦で士卒頸は斬捨てとなり、柿崎の軍は大いに苦戦した。

首級を置いて闘撃を先とする時は、功名の先後が転倒してしまう恐れがある。これは武士が怨みを
含む端緒となる。だからといって、ただこの恐れを無いようにした場合は、戦いに集中すべき場所を
引いて闘撃を止め、首級を貪ろうとする場合もある。こちらは兵勢が挫かれる基となる。

これ故に、良将はかならず軍を監督しこれを正すのである。

(武将感状記)



「敵に塩を送る」異説

2019年03月08日 16:01

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 08:55:46.57 ID:fDyNMKVL
北条と今川は相計って、遠州、武州の塩商人を留め、甲斐信濃に塩を入れず、これを以て
武田信玄の兵を苦しめんとした。

上杉謙信はこれを聞いて、領国の駅路に命じて、塩を信玄の元に運ばせ、
「我は兵を以って戦いを決せん。塩を以って敵を窮せしむることをせじ。」
そう言い送り、信玄はこれを受け取った。

これは上杉謙信の義にして、かつ勇なる所であると雖も、必ず深慮遠謀があったと見るべきだろう。
信玄は謙信より先輩であり、北条、今川の地を掠め奪う者は先ず信玄であった。
これ故に、信玄を仇とすること、六国の秦に対する如きものであった。

信玄がもし危機に至れば、その次は必ず謙信である。信玄が諸牧と戦って兵が久しく解けなければ、
その間に北国を一円に撃ち従えて勢い盛大となれば、東海の国々がたとえ力を合わせ志を一つにしたとしても
恐るるに足りない。謙信はそう考えたのだと言えるだろう。

(武将感状記)



775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 18:11:03.52 ID:YVaPWxdX
>>772
でも謙信は関東で遊び疲れてから
北陸でも勢力伸ばそうとしたよね
ちょっと遅かったよね

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 08:25:30.39 ID:SrppcBwW
柴田みてもわかるように北國勢は冬は領国に籠るから春夏に掠奪が出来なければジリ貧だよ

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 11:25:04.75 ID:Y8BGkzOR
>>776
冬に領国へ籠るとは限らないでしょ
謙信なんか通行できるうちに越山して夏に越後へ戻るし

【雑談】それにしても上杉景勝って

2018年09月12日 22:04

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 10:52:54.88 ID:8Kk8cxb6
それにしても、上杉景勝って先代を意識しすぎてつまらない武将になったよな。
無口で笑わない、アレどっかの奥方も似た人いたな

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 11:21:01.69 ID:2tH6ChET
むしろ笑わない、喋らないが景勝の個性では

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 15:11:08.10 ID:76TCJBE1
武田に煽てられてちーと浮かれただけで直江が軒猿放ってきて謀殺だもんな
そらあんな仮面みたいな顔になるわ

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 20:39:37.54 ID:OVJRMD8l
景勝ってなにが凄いのか良くわからんよな。
上杉の家督取ったのはまあ、凄いけど、それ以降の活躍がさっぱり。関ヶ原の逸話も直江関係ばかりだし。
毛利輝元は凡庸とされてたのが、最近見直されたり、と動きはあるが、景勝については特に毀誉褒貶もなく、
実体がよくわからん。

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 20:49:10.45 ID:wTVa8PRY
謙信以来の武張った上杉家のイメージを貫き通した事じゃないかな
まず極めて無口ってだけじゃなく家臣の前で笑ったの1回って時点で
尋常じゃない精神力の持ち主
関ヶ原で負けて家康に降伏したとはいえ夏の陣で家康に評価されてたり
本人は先代コンプレックスで必死に虚勢張っただけなのかも知れないが
結果的には家のイメージを保って一目置かれた訳だし

謙信は唯鬼神にて候

2018年08月20日 11:09

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 20:26:30.58 ID:/lrM7d7Z
その合戦(八幡原の戦い)は時を移し、そのうちに晴信(武田信玄)の命で犀川に大綱を幾筋も
張り渡し、武田本陣の大勢はその綱に取り付いて向かいの岸に上がり、大野の蘆萩の茂る中の

細道より旗・指物を伏せて忍び出て、謙信(上杉謙信)の本陣へと鬨の声を上げて切り入った。
このため越後勢の謙信本陣は一度にどっと敗軍したので、武田方は勝ちに乗って追い打ちした。

晴信が勇み喜んで旗を進められたところに、大塚村に備を立て申していた越後勢の宇佐美駿河守
定行2千ほどの勢が横槍に突き掛かり、晴信本陣を御幣川へ追い入れた。

そこへ越後の侍・渡部越中守翔5百余勢が馳せ付けて晴信本陣へ切って掛かり、宇佐美駿河守と
揉み合い信玄本陣を立ち挟んで討ち取り申した。武田の人馬は河水に流れる輩、または討たれる
者と数知れず。謙信本陣勢も取って返し、晴信本陣を討ち取り申した。

越後方の上条弥五郎義春・長尾七郎・元井日向守・沼掃部・小田切治部・北条丹後守・山本寺
宮千代・青川十郎・安田掃部以下も政虎(謙信)同様に御幣川へ乗り込み、槍を合わせて

太刀打ち・高名をなした。その他手柄の侍は多く、また討死の者も多かった。信玄も30騎ほど
で川を渡り引き退いたところを、謙信は川中へ乗り込んで信玄を二太刀切り付け申した。

信玄も太刀を合わせて戦い申されたところで、近習の武田の侍たちが謙信を中に取り込めたが、
謙信は切り払って中々近付くこともできない様子であった。

そのうちに信玄と謙信は間切れ致して押し隔てられた。その時、謙信へ掛かった武田近習の侍
19人が切り付けられた。

謙信は人間の挙動ではなく、まさに鬼神であったという。
(謙信は、人間の挙動にてなく、唯鬼神にて候と申候。)

その折はまさか謙信とは知らず、甲州方では越後侍の荒川伊豆守(長実)であると取り沙汰され
ていた。後に政虎と分かり「討ち止めるべきものを、なんとも残念だ」と皆々が申したという。

信玄は御幣川を渡って生萱山土口を目指し、先陣と後陣がひとつになって敗軍した。甲州勢は
塩崎の方へ逃げる者もあり、また海津の城へ逃げ入る者もいた。

中条越前(藤資)は小荷駄を警固していたところへ、塩崎の百姓数千人がくり出して小荷駄を
奪うため、中条はこれを切り払い散々に戦った。

この時、上杉・武田の両軍は入り乱れて散々に戦ったので、敵・味方の手負い・死人は数知れず。
信玄は敗軍して土口と申す山へ退き申され、上杉勢は追い詰めて土口で甲州方数百人が討たれた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

「あいつ人間じゃねえ!」と言わしめた上杉謙信の武勇


為景は歌人でもあり

2018年08月18日 21:09

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 09:28:06.28 ID:Pkf2Ft4G
為景(長尾為景)は16歳の頃に父・能景に従って関東に出陣し、これを戦の始めとして
信濃・越中・越後において戦功はもっとも多かった。

特に寺泊・椎谷の一戦では大いに勝利を得られ、積年の戦功によって天文4年(1535)
6月13日、後奈良院(後奈良天皇)より綸旨ならびに御旗を賜った。

およそ為景は一生の間に諸国所々において百回余りの合戦を行い、他に類を聞かずという。
この時の御旗は今に至って上杉家の重宝として相伝わる。

為景は歌人でもあり、後奈良院に一巻を奏覧した。その中に次の一首あり。

「蒼海の 有とはしらて 苗代の 水の底にも 蛙なくなり」

後奈良院はこの一首に叡感なされたという。

――『北越太平記』


「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」

2018年08月16日 20:12

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 02:06:10.22 ID:6gnDplDs
謙信(上杉謙信)は後奈良院の享禄3年(1530)庚寅正月21日、府内で誕生した。

はじめ謙信の御母君は受胎の折に夢幻ともなく、この際に8尺ほどの男が金色の甲冑を
帯びて矛を付き、光明光り輝く珠を持って現れた。男は曰く、

「我は毘沙門天王なり。この珠は明星なり」と仰せになって、母君の懐に珠を投げ入れ
なさった。これを見てより母君は懐妊したのである。

それから10ヶ月の間に様々な奇異の瑞相が多く、筮者が占うと甚だ吉だった。本卦は
天沢履の六三に当たった。その文に曰く、

「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」
(過信から虎の尾を踏み虎に食われる。よって凶なり。卑しき武人が高貴な大君になる
ようなものである)

これに因んで幼名を“虎千代”と号した。虎千代殿はやがて成長して大きな志を持った。
見識と度量は世に優れ、孝行慈愛は寛大にして自然と仁心を備えた。

特に父母に孝行であったので、世の人はこぞって「凡人ではない」と言った。

――『北越太平記』



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 10:18:46.81 ID:wruV9DLp
甲斐の虎 v.s. 越後の虎

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 18:38:27.90 ID:E6cH8wWy
戦国は鬼とか虎とか人外多すぎ問題

謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね?

2018年07月10日 21:05

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 03:42:58.66 ID:o+BV0MVC
上杉謙信の家臣団といえば上杉二十五将などとも言われ著名な武将が多い。
そんな上杉家臣団を見ていて気付くことがないだろうか。

…あれ、謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね?

そこで有名どころの生年と第四次川中島の時の年齢を上げてみる。

柿崎景家 1513年(48歳)
宇佐美定満 1489年(71歳)
色部勝長 1493年(68歳)
北条高広 1517年(44歳)
本庄実乃 1511年(50歳)
中条藤資 不明だが1494年には家督を継いでいた(70歳以上)
安田長秀 1516年(45歳)
直江景綱 1509年(52歳)

参考までに主な武田家臣の生年と年齢も。
山県昌景 1529年(32歳)
高坂虎綱 1527年(34歳)
内藤昌秀 1522年(39歳)
馬場信春 1515年(46歳)
山本勘助 1493年(68歳)
真田幸綱 1513年(48歳)
原虎胤 1497年(64歳)
小山田信茂 1539年(22歳)

またその子供も随分歳が離れているのが多い。長子と思しき人物との生年と年齢差も書いてみる。

色部勝長 ー 色部顕長 1549年(56歳)
安田長秀 ー 安田堅親 1557年(41歳)
中条藤資 ー 中条景資 1532年(40歳以上)
直江景綱 ー お船 1557年(48歳)

また柿崎景家の子柿崎晴家は生年不明だが1570年に人質に出された記録があり、この頃はまだ未成年だったとすると景家40歳頃の子供となる。



914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 14:31:47.68 ID:dSxs4i6+
安田長秀の末裔が言うには有重という子がいたらしい
親子ともに治部少輔を自称、母は長尾政景の妹、妹に安田堅親の室
因みに堅親は河田からの養子で有重の跡を継ぐ、兄が長親
他の者も親子同じ官名を自称して実名が表記されてないから混同されてんじゃね?

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 14:54:53.90 ID:dSxs4i6+
柿崎晴家は次子
長子祐家は天正元年越中朝日城攻めに名が見える
のち親子ともども誅殺されたのか討死、病死かは不明

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 15:12:04.41 ID:dSxs4i6+
大昔って大した娯楽がないから毎晩セックス三昧っていう暮らしだと勝手に想像しているんだが
子が生まれても女子だったり寒さで流産したりと跡継ぎが出来にくい土地柄だったのかしら

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 15:50:00.59 ID:oaqH4q4O
織田家部将の子どもの少なさ考えたら少なくとも身分ある武士がセックス三昧とはとても

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 19:23:27.63 ID:wjkq+BjH
戦国武将って、あちこち出張しているから、ゆっくり致す暇もなさそう。
特に、信長以降の天下人の部下は東奔西走しているからなあ。

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 21:42:18.89 ID:+Sn4NBhJ
あの時代は危険日(冷静に考えると変な言葉)とかわかってなかったんだろうし、それこそ運任せだったんじゃね。
戦があれば何ヶ月も帰ってこれないし、そら側室たくさんいても子供簡単にできないわな。

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 22:06:22.67 ID:2jNQiVdt
>>913
謙信の場合、一応父親と兄の代の家臣団をそのまま引き継いでいるので年齢高めなのは仕方ないかも。
家督継ぐ前に自分の家臣団を形成したような感じもないし、若手を大量抜擢とかもしてないようだし。
長子との年齢差はよく分らんが、、、謙信が遠征に引っ張りまわしすぎて作る暇もなかった?

越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事

2018年02月19日 17:52

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 19:10:30.83 ID:Z9pD70Ir
越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事



永禄7年(1564年)5月下旬より6月半ばに至り、本庄繁長柿崎景家を魁首として、
上杉謙信公は越中国に在馬した。

この折節、魚津の海上において貝の城が出来たのを見るといって、
浜辺には市のように多くの老若男女が集まり垣根を巡らしたようであった。

暑熱の時に属して、蛤がたむろして靄気を立てていた。
中華の書物で言われている蜃気楼とはこれであろう。

故老の説に曰く、

「蜃(シャコ貝の一種)は蛤の大きいやつだ。よく気を吐いて楼台を作る。南北海に多い。
 支那登州の海濤は、春夏の間に水面を遠くから眺めると、これ気がある。
 人馬の往来が絶え間ない城郭や市を彷彿とさせる。地元では海市と呼んでいる。
 西域でもこれに似た事があると伝え聞く。

 朝日が出始める時、紅輝天に映して楼門宮闕を現して、ちかく官人の出入りを見る。
 日が高く昇ると消滅する。しかしながら、肉眼の及ぼす幻みたいなもので実在はしない。
 これを乾達婆城と名づく。全て乾坤の間象を含む者、
 陰陽の二気を感じて変化の成行を計り知ることは出来ないという」


平野甚右衛門の墓の土

2017年12月14日 11:18

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/14(木) 09:46:09.88 ID:20Bp96OO
平野甚右衛門というのは津島小法師の事で、織田信長の時代の勇士であった。

彼が死んで後、その墓の土を取って飲ませれば瘡疾必ず癒えると沙汰され、人々はみな
これを取って用いた。
ここに、平野の生前、いい交わした朋友が居たのだが、彼が平野の墓へ行くとこのようにつぶやいた

「かつて、あれほど名高き勇者であった其方が、百姓下々の洗米濁酒を墓に受けて、なんという
見苦しき有様になっているのか。」

それ意向、墓の土を用いても瘡疾が落ちるという事はなくなったという。
勇猛の士というものは、死しても性根が強いものだと言うべきなのだろう。

(士談)

この逸話の人ですね
→ちょっぽり甚右衛門


上杉景勝の厳格

2017年10月14日 17:08

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/14(土) 17:04:08.52 ID:s8Qod1gV
上杉景勝という人は、豪邁肝大の大将にて、その軍陣に臨むや、先陣において既に交戦し、
矢弾雨のごとく降り喚声天地を振動するばかりであっても、身は幕中に有りて普段と変わらず睡眠
を取り、雷の如きいびきを上げるのを常としたという。

彼が豊臣秀吉に臣従し上洛した時、数百人の一行は完全に黙し咳の声すら聞こえず、只人馬の足音を
聞くのみであった。
その折、富士川を渡る際、船が小さく人多く、中流に至ってほとんど沈没せんとした。
この時景勝怒り、舷頭に立って鞭を挙げて一揮すれば、衆皆躍り上がるように水に飛び込み泳ぎ、
よって無難に渡ることを得たという。

景勝の厳格なることかくの如きなれば、彼の生涯において、只一度の外その喜悦の色を見たことが
無いという。
ある時、上杉家に一匹の猿があり、たまたま景勝が脱いでおいていた巾帽をかぶって逃げ、庭の木に
上り景勝に向かって3度頷いた。
彼はこれを見てにっこりと微笑んだ。
これ実に、左右の近臣達ですら、始めとも終わりとも、景勝の笑顔を見た一生の内ただ一度の事であったという。

(今古雅談)



罪一等を減刑し、

2017年10月09日 21:19

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/08(日) 23:15:16.48 ID:vtU+lYlX
上杉謙信が刑罰を設けた時、第一に奪刀、第二に死罪、第三に所領没収、第四に侍身分の剥奪、
第五(不明)、第六に禁錮の六種類とした。

ある時、謙信配下の長尾右衛門佐という者が、その所行悪しきとして処罰を加えられ、
所領没収の刑を申し渡された。またこれにより、終身帯刀を禁じられた。
右衛門佐の親族はこの処分に大いに驚き哀訴した。
これを請けて謙信も、彼の先代に忠功有るを以って、罪一等を減刑し、特に双刀を許して
切腹を命じた。

(今古雅談)



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/08(日) 23:56:00.51 ID:hCwvv1Sg
なんとなくだが当時の人にとっては奪刀の方が死罪よりキツい気がする

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 14:13:02.70 ID:5R3wNeTf
命より名誉…。

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 15:02:34.20 ID:tHmmBpae
名誉が無くなったら大抵の場合暮らしてけなくなって命もなくなるからな
だったら命を無くしてでも名誉くらい残しておこうという簡単な話

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 15:47:17.05 ID:gmnkmarz
>>294
Mine honor is my life; both grow in one.
Take honor from me, and my life is done.

って奴だ

今よりここは我が城

2017年09月06日 19:22

203 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/06(水) 16:25:33.95 ID:IJXRMizk
永禄6年上杉謙信は越中の隠尾城を落とすべく軍を進めていた。
城を守る南部尚吉は徹底抗戦の意志を固めていたが尚吉の娘婿である
新開右衛門尉以下主だった者たちは謙信にはとても敵わじと尚吉に開城を勧める。
右衛門尉は妻を遣わしてまで説得するが、尚吉の決意は変わらなかったため
謙信に内通の使者が送られることになった。使者が携えていた書状には

「城を取り囲んで3日目の夜に城門の閂を外しておくので粛々と先頭は小勢にて攻め込まれよ」

と記してあった。これを披見した謙信は

「さしたる要害でもないのだから落とすに謀は要らぬ。また不義の者たちに与するものまた不義である。
しかも尚吉の扱いを如何するか記されていないのは不審である」

として使者を追い返そうとした。しかし近習の者が

「小敵と侮って思いがけぬ戦いになった例は古今数知れず。勝ち易きに勝つを選ぶは軍兵のためでもある」

と諌めたところ謙信も承知した。
しばらくして手筈通りの夜襲によって城は混乱に陥った。尚吉は館に籠って奮戦し
十人ばかり討ち取るも最期は上杉兵によって討ち取られた。
右衛門尉は

「今よりここは我が城。本意を遂げたり」

と大笑し謙信に会うため馬に乗ろうとした。
ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉はそのまま息を引き取った。
これを知った右衛門尉の妻は悲嘆して自害しようとしたが制止され、後に仏門に入った。
これを聞いた謙信は

「天命ほど恐ろしいものはない。少しでも行いを誤れば大きな報いを
受けることになり見通すことも難しいものである」

と自戒した。

204 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/06(水) 16:27:06.94 ID:IJXRMizk
(越中古城並雑書記)より



205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 19:23:52.22 ID:0Z+k4yXe
何を誤ったのかが全然分からないのだが

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 19:51:57.20 ID:lZpFGl/I
右衛門尉が舅を裏切ったことじゃないの
で謙信の理屈だと自分から唆した訳ではないとはいえ不義に味方するのも不義ということなので
いつ自分に報いが返ってくるかわからないから気をつけようということでは

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 22:28:32.01 ID:L8yC5R5O
>>「今よりここは我が城。本意を遂げたり」

あー、これですわ

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 23:42:50.79 ID:tXZXKWik
基本的にこの時代の武士なんて>>207みたいのばっかだと思うんだが

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 00:09:13.41 ID:RBdQCurE
???「今より我は毘沙門天。本意を遂げたり」

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 13:29:38.50 ID:Jr2Nz9xv
>>208
でも妻の父親だし、本意を遂げたってことは前から狙ってたっぽいしなぁ。

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 23:40:11.58 ID:h8hsbPLy
>>203
> ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉はそのまま息を引き取った。

十河「えっ」
ホウ統「なにそれこわい」

我に組み付くほどの者は有るべからず

2017年09月01日 17:14

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 15:44:00.98 ID:Bz4Hb9x8
徳川家康が落馬した時、馬の手綱が手にかかったままであったのを、供奉の侍の内、素早く気づいた
者が居て、走りより抜き打ちに手綱を切った。これは馬が駆け出して家康を引きずるのを防ぐためである。
家康は彼に「状況に応じた的確な判断であった」と褒美を与えた。

上杉謙信が馬で川を越す時、中ほどにて落馬したが、供のものがこれを抱きとめた。
謙信は岸に上がると、この者を即座に成敗した。

「我に組み付くほどの者は有るべからずと思っていたのに、このような事、甚だ憎き次第なり。」

そう言ったという。

(士談)



90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 16:11:50.62 ID:kbfuy3yN
女謙信

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 16:35:22.46 ID:gCjqVHM7
ほっとけばよかったんか?

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 16:49:17.56 ID:RBdXbDLf
>>89
女性説に信憑性が出てしまう逸話だ。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 19:30:33.94 ID:MY8HDl+b
つうかさ
近仕の侍を手打ちにできる女性って芳我台さんや古の巴さんみたいな人か?