上杉謙信自画併辞世詩

2017年01月09日 17:45

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/08(日) 23:33:24.59 ID:OigyhAof
上杉謙信自画併辞世詩

ある人が語った。
先年越後総持寺の僧が、謙信自筆自像という一幅を持ち出していた。
これは上杉侯〔米沢〕の請願があったためだという。
この像は謙信が没しようとする二三日前に自ら図を描き、人に示しゆだねて

「これは我が遺像である。これで我が身を後に見るようにせよ」

と言ったそうだ。

 幅上に黒雲がある。中には金色の五鈷竪(五鈷杵?)が四方に黄耀霊光を放っていた。
雲下に一つの大朱杯があって酒が満ちている。
また辞世の語としたものが添えていた。

『四十余年一夢裡 一用事業一杯酒』

この句は謙信卒去の後に病床の下から出た物だという。
謙信は不犯の人で嗣子がなく、一生の間素食していたという。
しかしこの語を見れば一人の酒徒ではあったのだろう。

 白石の『藩翰譜』には、
この年二月の半ばから何となく体の具合が悪くなり、
同じく三月十三日、年四十九歳にして卒したという。
 註の『夏目か記』に葬送のことを執り行おうと枕の下を見れば、
辞世の詞とみえる

『我一期栄一杯酒、四十九年一酔間、生不知死亦不死、歳月只是如夢中』

ということを自ら書いて押し入れて置かれていたという。

(甲子夜話)

この絵、見たいですね



スポンサーサイト

しかし上杉謙信は天主の称を憎んで

2016年08月03日 17:54

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 04:44:07.30 ID:J5G5X7Nr
天守とは以前は天主と書いて、櫓の上層に天帝を祭ることであったとか。
しかし上杉謙信は天主の称を憎んで、これを改めて天守とし、
須弥の天守は毘沙門であるとして、この神を祭ったことから、今は皆天守と書いてきていると。
(甲子夜話)

謙信が天主を憎んだというのは、バテレンの事ですかね
天守は南蛮の影響?



931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 06:55:06.85 ID:vkcP4WKm
井上章一「南蛮幻想」だと
江戸時代から明治にかけて「安土城はキリスト教の大聖堂だった」
という説がかなり信じられていて、「天守閣」は「天主(デウス)」を祀っていたと思われていたとか。

上杉謙信の武勇

2016年06月01日 18:23

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 20:44:57.83 ID:feHDenPf
伝わることによると、昔上杉謙信織田信長が、越前府中において合戦あるという時、越後の諸将は
謙信をこう諌めた

「信長は大身故に、軍勢は味方の5倍有ります(この時謙信は僅かに6千、信長は3万であった)、平場で
戦うのはいかがかと思います。殊に敵は鉄砲数千挺を装備し、味方は僅かです。
君は長篠の合戦の事をお聞きになっていないのでしょうか?織田家は鉄砲三千挺を以って武田の堅陣を破り、
勝頼は譜代の臣を失い、信玄以来経験したことのない敗北をいたしました。よくよくご思慮を巡らせるべきです。」

しかし謙信はカラカラと笑い
「長篠の合戦は徳川勢の働きが優れていたこその勝利であったのだ。信長は信玄の一代は武田家へ向かって
顔を出すことも出来なかった。勝頼の代に至って、織田徳川の両家を以って若き勝頼に、しかも鉄砲ずくめにて
勝ったからといって、それは実の勝利ではない。

あのような戦いで勝頼は利を失ったとしても、この謙信は巧者であるぞ。
見ておけ、一戦に織田勢を蹴散らし、上方において毛雪踏を履いている公家侍どもに、輝虎の武勇を
見せてやろう。」

謙信の陣に潜んでいた織田家の細作はこれを聞くや走り帰り、この事を報告した。
すると信長はどう思ったのか、その夜の内に府中の陣を引き払い十余里後退した。
謙信は翌日押し寄せて敵が引いたのを見るや、打ち笑って
「さてさて逃げ足の早い巧者である。その仕方はこれが織田軍法と言うべきか。」
そう大いに嘲笑した。

上杉謙信の武勇は天下の許す所であったが、この一言によって敵を退かせたというのも、また奇なる
事であろう。

(慶元記)

閻魔状

2016年05月16日 15:30

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 04:46:55.42 ID:/09Z0TN3
慶長3年、上杉景勝が会津へ移ることになる折、横田式部という者が召使いの茶坊主を斬罪にした。
そもそも誤りのないことだったので、坊主の親類が大勢決起し、国改めに京都より、前田玄以
石田三成が下向した。親類らはこの両人へと訴えた。

これに玄以と三成は「その事は直江の方へ申せ」と指図したので、訴訟人らは直江兼続のところへ
詰め掛けた。兼続は対面し、「皆々の申し分はもっともである。それならば、主人の横田式部に、
詫び言のために銀50枚を出させるので堪忍せよ」と、仲裁した。

だが、訴訟人たちはますます怒って帰り、再び玄以と三成に訴えたが取り合ってもらえなかった。
そこでまた兼続のところへ詰め掛けると、兼続は「それならば銀70枚を出させよう」と仲裁した。

しかし、訴訟人たちは、「70枚でも700枚でも、死んだ人が帰るであろうか。とても道理に合わぬ
ことを御申しになる!」と、難癖を付けた。すると兼続は札を1枚取り寄せ、一筆書いてじかに持って
出ると、「訴訟人たちのうち、張本人は幾人いるのか?」と、尋ねた。

これに、「その坊主の兄と伯父がこれに」と、両人が出て来ると、兼続は「何と仲裁しても汝らどもは
承知しない。とかくこの上は、かの坊主を再び今生へ呼び還さなくては、汝らの心には叶うまい。
さりながら、誰も呼びに遣わす使いがおらぬので、その者の兄と伯父と2人で迎えに遣わすとする。
この高札を持って早々に地獄へ参り、閻魔主にこれを見せて、かの坊主を召し連れて帰るがよい。
すなわち、その文を聞け」と言い、高札を読んだ。

 『いまだ御目にかかってはおりませんが、一筆申し入れます。さて、横田式部の召使いの
 茶道坊主を親類どもが呼び戻し申したいと達て申しますので、こうして親類2人を迎えに
 寄越し申しました。きっと御返進してくださいませ。恐々謹言。

  二月十日     直江山城守兼続

  閻魔大主殿 参』

以上の書付を読み聞かせると、兼続はかの張本人2人をその場で斬罪にし、その高札を前に立てて、
2人の首を獄門にかけた。そのため、徒党は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、国中強訴は1人も
なく、静謐と相成った。

――『北越太平記』

関連
直江兼続と閻魔大王への手紙・悪い話


629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 12:11:11.17 ID:O2Ebagvq
>>627
村上さんで脳内再生された。

それに比べて、豊守は

2016年02月15日 13:50

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 12:00:49.33 ID:bOA+vfct
上杉謙信が越中に出陣していた頃、春日山城は留守役として甥の景勝(この頃はまだ喜平次顕景と名乗っていた)に守らせ
謙信の筆頭家老山吉豊守を年若い甥っ子に補佐役として付けていた。
しかし武田信玄が謙信の留守中に信濃から春日山に攻めいるつもりであると噂を聞いた謙信は酷く心配し
春日山城へ書状を何度もしたためた。

「喜平次へ
心のこもった再報が届いてとても嬉しかったです。
細かな気遣いが本当に心に染み入りました。
それに比べて、豊守は私がこんなに心配しているというのに、一度も手紙を寄越さないんですよ。
喜平次は何度も連絡をくれるので、本当にありがたく思います」

この書状を見た喜平次は慌てて豊守に書状を書かせたらしく
この後謙信から「喜平次のおかげで豊守から手紙が来たよ!ありがとう!」という書状が届いている。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 14:12:22.47 ID:CF6lY/QG
上杉謙信オカン説がはかどるな

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 14:55:44.45 ID:ff+fCwcY
>>152
かわいいw

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 15:20:22.31 ID:8kGl8Ch8
軍神謙信返信に安心

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 15:30:29.28 ID:ByMwmBOM
恋文かよ

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 16:01:54.84 ID:2IrJApji
言い難い事は子供を使って言わせる。まさにどっかのオカン

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 20:48:23.95 ID:jVA8ZplL
謙信のいい話やん。ほっこりした。

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 00:34:21.48 ID:lkeFR4n3
補佐役で喜平次と一緒に在城してるのに
謙信に喜平次宛で愚痴を書かれた山吉豊守の決まりの悪い話かな思って

狩野秀治の事

2016年02月07日 19:17

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 11:37:11.36 ID:uIIEMHG4
逸話というか書状ネタ

上杉家の家臣、狩野新介秀治。
元々は尼子勝久の家臣だったといい、何がどう流れてきたのか越中神保氏の家臣狩野氏の養子となり、謙信に仕えたらしい。
御館の乱では謙信の馬廻り衆として景勝とともに春日山籠城組の一人だったらしいのだが
この時何をしたのか分からないが景勝に超気に入られる。
謙信時代の重臣達や景勝の直臣衆である上田衆すらも差し置いて万事取り次ぎを任される執政扱いになった。
秀治は景勝より20歳ばかり年上だったということだが清貧で控えめな人となりだったらしく、
なかなか重臣達が言うこと聞かなくて苦労していた青年当主景勝はそんなところが気に入っていたのかもしれない。
兼続が直江の跡取り娘お船の入り婿になると上杉家は秀治と兼続の二大執政状態になる。
秀治はしかし、根なし草である自分が景勝様に大層気に入られ重用されている事態を憂い、嫉妬を呼ぶだろうと考え
春日山に粗末な庵を結んで質素に暮らした。
景勝が秀治には内政も外交も重要な仕事をたくさん任せているので、秀治がそのような粗末な姿では上杉の面子に関わる、
屋敷を受け取れ、せめて兼続と同禄受け取れと再三命じても固辞し続け、ボロ小屋に住み続けた。
上杉家の筆頭家老なのにボロ屋住み(兼続は後輩なので秀治の方が順位上)
ある日、春日山に嵐が来た。
他のきちんと普請された屋敷はなんともなかったようだがお粗末な庵の狩野宅には被害が出たらしく
景勝から「一昨日風にて其元家損し候て、時分と云、造作笑止に候」と書状が届いた。
景勝は他にも秀治に「お前の家マジ狭い」とネタにしているのでもうちょっとマトモな家に住めよ!ということだろう。

なお生活環境悪かったのかはたまた過労かしばらく後に秀治は病死し、景勝は二度と秀治の代わりとなる者を作らなかった。



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 13:10:44.24 ID:K/Hk/8cI
景勝が「笑止に候」と出しても想像できない

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 13:14:55.43 ID:WI66Vt05
三条の大面城を貰ってるみたいだね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 13:34:46.02 ID:Kd2+emmN
当時の「笑止」って気の毒に思うってことやで

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 14:40:36.45 ID:K/Hk/8cI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6891.html
そうだったのか、前にも自分と同じ勘違いしてた人がいたようだ
確かに「笑いが止まる」だから字面的には気の毒の意味になるな

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 17:36:57.83 ID:a4eBAu+p
昨日風であなたの家が壊れたと聞いたんだけどほんと酷い家ですねぐらいの意味に読んだ

>>106
秀治はほぼ春日山城詰めだったと思われるので
城貰ってもそこでは殆ど暮らしてないかと

すると謙信は機嫌が直り

2016年02月05日 12:41

266 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/04(木) 22:14:55.41 ID:3DvQj37O
新発田尾張守長敦の弟である新発田因幡守治時(重家?)は剛強第一の兵にして、多くの武功をあげた。
謙信が小田原城を攻めた時のこと、明日ここを引き払うとしてそのための備えを示した。
するとまだ十六歳だった因幡守はこれを見て「この備えはよろしくない」言った。
謙信はことのほか不快に思い、散々に叱り飛ばした。
しかし因幡守は少しも屈せず、「であれば私にお暇をくだされ。そうしたら小田原に入り、
北条氏康に兵を借りて越後勢を追撃しましょう。この備えであれば打ち勝つことができ、
酒匂川の辺りでお屋形様を打ち取れるでしょう」と言った。
すると謙信は機嫌が直り、因幡守の言うとおりに備えを直した。

「上杉諸士書上」より



上杉謙信「我が国の武徳も衰えたものだ!」

2016年01月19日 18:18

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/19(火) 09:41:28.27 ID:sbbHpyFn
上杉輝虎が、石坂検校に平家物語を語らせこれを聞いていた時、鵺の段にてしきりと落涙した。

側に居た者達が不思議に思うと、輝虎はこのように言った

「我が国の武徳も衰えたものだ!
昔、鳥羽院の時代、禁中に妖怪があったが、八幡太郎義家が弦を鳴らして『鎮守府将軍源義家!』と
名乗っただけで、妖怪はたちまち消えたという。
その後源頼政は、鵺を射てもなお死なず、伊野隼人が刺し殺して止めを刺したと聞く。

義家が鳴弦したのは天仁元年のことだ。鵺の出たのは近衛院の仁平3年であるから、この間
僅か46年だというのに、武徳は既にこれほどまでに落ちている。

現在は頼政の時代から450年。私自身も頼政の武徳からはるか遠く劣っておる。なので、思わず涙を
流したのだ。」

(常山紀談)



992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/19(火) 11:15:01.83 ID:lo0+gfwY
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6549.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5189.html
一応既出、出典が違うけど

生活の状態が悪いのでこのようなのである。ああ。

2016年01月16日 17:57

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/15(金) 21:54:51.20 ID:CiWguw9k
 殿下秀吉公、上杉中納言景勝と御和談が調い、中納言は一万騎で上洛された。
もっとも御和談のうえであるので常の行列であるとはいえど、ことのほか厳重でありましたところ、殿下は密に粟田口まで御覧なされ、
ひどく上杉家の行列の備えを誉められました。分けても景勝の乗り物が多人数で取り巻きなさる勢いは誠に鉄城のようだと、
かえずがえす上杉家の軍法に大いに興味を持ちなされました。

 それにひきかえ、いかに治世であるといっても、大小名方は日雇いの人数を行列に遣わすのは余りのことである。
これというも大小名方は前と違って、生活の状態が悪いのでこのようなのである。ああ。
(本阿弥行状記)

大名行列って日雇いばっかだったんですけど、戦国以前では全員軍人だったのですかね



217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 10:33:30.17 ID:1LtlXlv+
>>192
景勝の馬廻り衆が8000人だから(秀吉時代だからもうちょっと増えてるかも)
それに直江の馬廻りとか奉行衆の連れてる家臣とか足したら日雇い無しで普通に一万じゃね
米沢時代になったら大分減るかもしれんけど景勝の馬廻衆は譜代(謙信の分と実父の分含む)だからなあ

すると猿松が

2016年01月12日 18:22

179 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/11(月) 22:09:57.64 ID:iWayTfBO
長尾為景の治めていた府内の城外では、盗賊が出て人々を脅かしていた。
そこで為景はその盗賊を斬って首を獄門にかけた。

そんなある夜、為景が近侍のものに「あの盗賊を首を取ってこい」と命じたが、
皆恐れをなして取りにいこうとはしなかった。
すると猿松(謙信)が「自分が行こう」と言い出した。
為景は猿松に小刀を与えたが、彼は傘だけさして雨夜の中盗賊の首を取って、
(複数いたのか)その髪をつなぎ合わせて引き摺り引き摺り府内へ帰ったそうだ。



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 13:08:11.73 ID:TjaJYsFf
>>179
水戸光圀の伝記で同じような話を見たが
(刑場から父の命令で幼少の頃夜に罪人の首を持ってくる)
度胸試しとしてありふれてたのか、それともどっちかがもう一つの逸話をもとにしたのか

和泉は大食いのじいさんだなぁ

2016年01月12日 18:21

180 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/11(月) 22:21:43.79 ID:iWayTfBO
柿崎和泉守景家は非凡の猛将であった。

ある時、部下の老兵が「小蛇を土中に埋めた祟りだ」と発狂しだしたので、
景家は出陣の途中老兵の家に立ち寄って、蛇を掘り出して、
老兵の面前でムシャムシャこれを食べてしまった。
そして「このような珍味を土中に埋めておいたのではもったいないではないか。」と平気でいった。
それを見たものは皆、舌をまいた。
伝え聞いた謙信も「和泉は大食いのじいさんだなぁ」と大笑いしたそうだ。




183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 23:55:22.13 ID:ys1zp3di
>>180
ヘビは寄生虫の塊みたいなもんだから生食はダメ。素手で触るのも宜しくない。触ったら念入りに手洗い。
ナマで食って平気なのは鬼武蔵くらいだからな。

敵よりは景勝を恐れたのである

2016年01月06日 12:48

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 23:38:20.91 ID:LZRsqKCk
大坂陣の時、信貴野口にて、先手の仕寄を見物しようと上杉景勝の近習で
非番の同輩らが忍んでやって来た。

その後で、景勝が巡見のために一騎でそこにやって来た。これを見た近習らは
咎められるかもしれないと恐れて、鉄砲の玉が降るほど飛んでくる竹盾の外へ
出て、景勝から身を隠した。

敵よりは景勝を恐れたのである。

――『北越太平記』



878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 23:50:05.53 ID:nMWthXiW
当たらなければどうという事もない

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 01:22:18.84 ID:L/qhRbOX
上杉にとっては大坂の陣など子供の石合戦に等しいとかなんとか

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:35:19.60 ID:UJPgkuoq
当時の火縄銃の有効射程かなり短いよね50mだったかな。
多分あたっても小さな石が当たったくらいかなと。

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:46:16.52 ID:WlNmolV7
口径によってだが現代の9mmパラからショットガン並みの威力があったわけで球形弾だからといってそこまで威力減衰はしない

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 23:17:14.56 ID:XM3CD45w
>>883
狙って当てられる距離と殺傷力を保つ距離は違いますので
50メートルってのは狙って当たる距離でしょうね

士卒たちが景勝を恐れる勢いは

2015年12月31日 20:23

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 19:42:28.73 ID:r+hYBIID
上杉景勝が富士川を船で渡った時、供の者たちが乗りすぎたせいで、
川の中央で船が沈みそうになった。

この時、景勝が怒って杖を振り上げると、それと同時に皆々が川に
飛び込んで、泳ぎ渡った。このため、船は沈まずに無事であった。

士卒たちが景勝を恐れる勢いは、この類だったのである。

――『北越太平記』



831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 21:16:18.82 ID:cS0Z8B2g
ともに泳ごうという武将は誰がいるんだろ

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 21:38:00.72 ID:ZnahLR22
長尾政景「よし、父であるわしが」

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 22:05:41.41 ID:7X/69COl
この後、寂しくなった景勝もドボンして一緒に泳いだという。
上杉主従の固い絆の前には不粋な船など無用の物でしかなかったのである。

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 22:10:33.13 ID:LSRfg72C
兼続「船は無粋だから不要と申したか」

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 00:07:08.08 ID:iHgA7DWx
鞭声シクシク兵河を渡る

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 01:22:14.48 ID:bTASrGu+
>>833
ワロタ
日本人には「みんな飛び込みましたよ」って伝えるジョーク思い出した

しかしこの宇佐美の説は信用出来ない

2015年12月13日 12:34

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/12(土) 17:53:38.04 ID:4J3NGZ8K
宇佐美定祐(越後流軍学者)の記した『北越軍記』によると、上杉謙信は兄の六郎を討った後、
「兄を殺して国を得れば嫡を奪うようなものだ。私は国に望みはない」そう言って出家し、宗心と
号して高野山に赴こうとしたが、家臣たちに諌められ止められた。そこで
「兄を殺してその世嗣を絶った以上、わたしも世嗣を絶つべき!」と堅く誓い、また兄を殺した罪を
懺悔して、肉と色を絶ち、一生持戒し、後に謙信と改めるとある。
(中略)

しかしこの宇佐美の説は信用出来ない。兄を殺してそのまま出家した、というのもいかがなものか。
輝虎は初め弾正大弼に任じられ、従四位下に叙し、天文20年、管領職に補任されたあと、入道して
謙信と号し、権大僧正の位に任じられている。

また肉と色を絶った事は、夏目定房の記録(上杉記)の中には
『謙信常に持戒して潅頂を行うことおおよそ4度。或いは護摩を修し、或いは参禅して
肉と色を絶ったため、子無し。』
と書かれている。ここからは家を簒奪したという疑いを避けてそのようにしたとは見えない。

私が考えるに、弓矢の冥助を祈ってこのような外法を行うのは、昔の人にはよくあった
習俗である。それに謙信の遺言、葬る有様、また、現在の上杉家において、謙信の像に
仕える儀範を聞けば、彼が罪障懺悔のために持戒したなどとはとても思えない。
あまりにも弓矢の冥助を深く思いいれて、あのような行法をしたのだと推定される。

そうであるのに、兄を殺したためだなどと言われるのは、不幸な事だと言うべきであろうか。

(藩翰譜)

新井白石先生、上杉謙信にまつわる俗説を斬る。




越後の長尾為景は、敵に欺かれ

2015年11月21日 15:58

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 06:30:42.45 ID:2Y1Dfm7p
天文11年、越後の長尾為景は加賀国に攻め込んだが、敵に欺かれ、梅壇野という場所で闇々と討たれ死んだ。

この時為景は、一向宗の一揆を平らげようと加賀国に向かったのであるが、敵は欺いて降参して案内し、
道に落とし穴を所々に拵えた場所へと為景の軍勢を導き、悉く陥れて殺したのだという。

(藩翰譜)
落とし穴にやられた為景公



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 08:17:54.18 ID:wn/bYGO4
アトロパテネ会戦の元ネタがここにあったのか
いや、あの人が知るわけないか

いまでは越後で病死か横死したことになってるみたいだけど、なんで親父と混ざってしまったんだろ?

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 09:55:32.03 ID:R4jm39uY
あれ?落とし穴殺人事件ってあったけど、あれも石川県だったよな?

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 13:58:08.44 ID:Jh5tEOYI
梅じゃなくて栴檀(せんだん)だね、細かいことだけど

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 14:12:49.61 ID:tsx5EEJ/
義元の号も梅岳承芳か栴岳承芳かわかりにくい
泉岳寺だから後者だろうけど

念のための作法

2015年11月12日 14:14

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 08:31:09.89 ID:SFiCjdnq
上杉謙信の元にあった人質一人を、密かに脱出させる密謀があった。
この時、家来の侍二人に口論をさせ、そのまま刺し違えさせ、検死を乞うて死骸ふたつを見せ
「今夜この死骸を番所から出す」と約束した。

そうして死骸のうち1つを密かに埋め隠し、人質になっていた者を死骸のように包み、
今一つの死骸とともに都合2つ分にして、夜に入って番所を出ようとした。

この時番兵が言った
「今日のことは全て見ていたので、疑う事も無いのだが、大事の番を仕っている以上、
念のための作法として、今一度確認してから通す。」

そこで運び役の者達は、死骸に付いていたものをいろいろ見せた。
これに番兵は納得し、最後にこう言った

「よろしい。では死骸を上から二槍ずつ突いてここから出そう。」

(武功雑記)



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 09:37:15.78 ID:V5/AoWjG
北斗の拳でこんな場面あったな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 09:49:17.24 ID:mn5fUPnF
そうして死骸を突いた後、その上で屈伸運動を…

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 09:56:11.98 ID:fp/ojzzc
それ…突いたん…?

629 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/12(木) 14:36:20.49 ID:l9LZ3qQm
>>628さん
同じ話が、
上杉謙信の下から脱出!・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/1711-1d593d9c

にありますが、記録にないそうです。

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 15:14:16.84 ID:PZKUBCOV
人質一人助けるのに二人犠牲にするなんてな、残酷だわ
番兵が刺すときってすごくゆっくりと刺すんだろうな、拷問のように

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 16:05:28.19 ID:fp/ojzzc
番兵張り倒して逃げてるとええな
何か勝手に人質側に感情移入してるけどw

河津作兵衛はいつもこう言っていた

2015年08月20日 16:11

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/20(木) 11:51:19.55 ID:D164uGun
上杉景勝の家臣に、河津作兵衛という者があった。
彼は相撲を好み、家中の若侍などに多くの弟子を持っていたが、彼は力量があるだけではなく、
書を読み琴を弾き、普段はまるで柔弱な人のように見えた。

彼は門人に対し、いつもこう言っていた
「何事も、人は心を広く持たねばならない。学ぶときは何事も、無用のことは無いものである。
自分の気力が盛んだからといって、人の気力が弱いのを侮り、また自分が発明だからといって、
人が愚かなのを見下すなどというのは、拙い心であり、藝の至極には至らぬものである。

たとえば、人の賢愚というのは、人の背丈の高い低いのように目に見えるものならば恥ずかしさも
あるだろうに、師とも呼ばれ、また上などと言われては、己を高ぶり、終いには身の程を忘れて
大きな不覚を取るものである。この事をよくよくわきまえて、何事も修行しなければならない。」

(明良洪範)




587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/20(木) 13:06:11.78 ID:Hav+ORCQ
>>586
ありがたきお言葉いただいた

雑談・上杉兵が

2015年08月03日 18:41

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 06:11:29.53 ID:zkAscLCz
上杉兵が

「上杉兵が 来た 奪った 焼いた そして 去った」
「下野の昔話」

「来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」
(モンゴル軍)

字面からは大差が無い様な…

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 07:31:41.60 ID:jhniYpaG
謙信だけじゃないけど、話や記録が残ってる連中はよほど酷かったんだろうな
犬ちゃんとか



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 08:01:19.74 ID:8cuYQDrS
>>148
遊牧民が冬場の出稼ぎに農耕民族を襲うのと原理的に同じだし

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 11:35:26.08 ID:laUmkp4o
モンゴルと違って同じとこで略奪するから
焼きはするけど復興できない徹底的な破壊はしないんだな

庄内騒乱

2015年07月27日 17:51

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 17:16:15.25 ID:YljOYMaG
庄内騒乱

天正年間の事、人民に過役や重税を掛け「義氏繁昌士民陣労」「悪屋形」と言われた大宝寺義氏が由利の支配を目指す秋田愛季と義氏排除の目的で合致した最上義光の結託と策略により、家臣の前森蔵人の謀叛によって倒れた

義氏は領民だけに留まらず、家臣たちからも疎まれ自害といった形で消されたが、その後を義氏の実弟の丸岡義高(大宝寺義興)が継いだ

しかし先に大宝寺義氏を倒し庄内の治権を手中にしようとしていた前森蔵人は酒田の地を押さえ東禅寺義長を名乗り、対抗勢力である義興を排除するために山形の最上義光に後援を頼んだ

一方義興は義長を倒すには力不足を感じ、越後村上の本庄繁長の子・千勝丸(大宝寺義勝)を養子に迎え、ここに庄内を二分する争いが起きた

「大泉叢話」

庄内の国人たちも東禅寺派と大宝寺派と分かれたが、「山向こうの山形の風下に立つのは嫌だ」「上杉の傀儡に好き勝手をされるのは好まない」「郷土は地元の人間が治めるべきだ」といった様々な思惑が
この後も禍根を引きずる原因となった




直江兼続「東根城は」

2015年07月21日 13:02

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 00:34:43.32 ID:2FhXIjUV
直江兼続「東根城は」

直江兼続はある話に曰く、「最上陣(1600年の山形攻め)ではまず、山形盆地に押し寄せ山形城を攻め落とす
そして最上義光を降した後に、そのまま北上して北の東根城を奪取する
この東根城を整備し、ここに籠城したならば、例え徳川家康が率いる天下の連合軍を相手にしても十分に渡り合える」

『名将言行録』

-東根城は窪地や沼沢に囲まれた要害とは言え、実際の地理を見てみるとちょっと買い被りの様な気が…

※東根城…1588年に本庄繁長が攻めるも最上勢からの手痛い反撃を受け撤退する。また1600年に志駄義秀が攻めるも、また落とす事は出来なかった。