FC2ブログ

直江も腰をかヽめ候迄の由

2019年07月19日 14:59

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 19:31:33.07 ID:wMVJRuAB
外桜田南通の石垣は上杉景勝に仰せ付けられ、権現様(徳川家康)も度々御見分ならせ
られて御指図遊ばされた。

上杉家の家老・直江山城(兼続)が罷り出て御挨拶申し上げれば、権現様は直に肩を御
押し遊ばされて、かれこれと仰せがあった。直江も腰を屈めるだけであったという。

(権現様直に肩を御押被遊彼是上意有之直江も腰をかヽめ候迄の由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



スポンサーサイト

江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ

2019年06月14日 16:24

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 12:52:11.46 ID:IX8PHLFL
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

【参考】

『直江重光(兼続)書翰留』

(上略)あなたが近日、かぶきを御調査されていることに関して、旦斎が御子息の新二郎殿を御
気遣いなさっているとのことです。実否はどうなのかと御心許ないのです。(中略)

(其元近日かぶき御穿鑿ニ付而、旦斎御子息新二郎殿御気遣之由、実否如何無御心元候事、)

     8月13日

         千坂伊豆守殿(高信。上杉家江戸家老)


(上略)旦斎より御知らせが届きました。御子息の新二郎殿の様子について未だ解決していない
とのことは、全くもって気の毒です。その事について旦斎へ書状を進め置きました。(中略)

(旦斎より御報相届候、御息新二郎殿様子未相済候由、笑止千万候、右之儀ニ付而旦斎ヘ書状進
置候事、)

     9月14日

         千坂伊豆守殿


すぐに御知らせを示し下されましたことを忝く存じます。そして御子息の新二郎殿を御気遣いな
さっている様子を承り、御心許ないものと存じます。きっとその他の御気遣いはないものと推し
量っております。なお、追って御意を得られることでしょう。恐惶謹言。

(乍御報示被下、忝令存候、然者、御息新二郎殿御気遣之様子承、無御心許令存候、定而不可有
異儀候由、推量仕候、猶追而可得御意候、恐惶謹言、)

     9月14日

         小旦斎様
             人々御中

――『大日本史料』



上杉家ノ喫煙ニ関スル令

2019年06月07日 16:27

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 15:24:46.72 ID:RXHWoMb5
  上杉家ノ喫煙ニ関スル令

『上杉年譜』

  掟

 (上略)

一、煙草を吸うことは病人と老人は構わない。下々の寄り集まる所でみだりに吸うことは無用
  とせよ。たとえ老人や病人であっても、海道、あるいは主人の供を仕っての門庭において
  吸うことは一切止めること。
 (タバコ、病者老人ハ不苦、下々寄合猥呑候儀、用捨アルベシ、縦老人病者タリトモ、海道、
  或主人ノ供仕、門庭ニ於テ呑事、一切停止之事)
 (中略)


    慶長17年(1612)8月13日

(原注:全文は8月13日に景勝が法令を家臣に分配した条に収められている)


 『直江重光(兼続)書翰留』

  このところ乏しい時分に一段の煙草90枚を御意に懸けられましたことで、とりわけての
  祝着をされました。この類は気にかかることなので、もしもその辺り重ねての到来もあれ
  ば御意に懸けられますように。それではまたの機会に。恐々謹言。
 (爰元払底之時分、一段之たはこ九十枚、被懸御意、別而令祝著候、此類気合ニ相当候条、
  自然其辺重而も到来候者、可被懸御意候、猶期後音候、恐々謹言)

    7月26日

       須右様 まいる

 (原注:本文は略す)

  追って煙草その他御法度の様子を、懇ろに尋ねて申し付けるように。
 (追而、たはこ其外御法度之様子、懇ニ相尋可申付事)
  
    9月14日

       千坂伊豆守殿
  
――『大日本史料』

※7日前→一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條


故に良将はかならず軍を監督し

2019年03月10日 21:33

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/10(日) 09:15:15.13 ID:7JNEY6op
上杉謙信が自ら兵一万余りを率いて越中に入り、柿崎和泉(景家)に命じて、別将を副えて
辺塞を攻めさせた。ここから引き取る時、敵将が出てきたためこれと戦った。
この時柿崎の従兵である大川十郎は、左の腕を射抜かれたその矢も抜かず、取った頸を掲げて
柿崎の前に来た。ところがこの時、柿崎は大川を怒鳴りつけた

「お前は元より頸一つを取りかねるような者ではない!どうしてこの程度のことを誉れとするのか。
お前はまた、矢一筋くらいで弱るような者ではない。どうしてそんな事を勇だと思っているのか!?
一歩でも進むべきところを、知らないのか!」

そう辱めた。このためこの戦で士卒頸は斬捨てとなり、柿崎の軍は大いに苦戦した。

首級を置いて闘撃を先とする時は、功名の先後が転倒してしまう恐れがある。これは武士が怨みを
含む端緒となる。だからといって、ただこの恐れを無いようにした場合は、戦いに集中すべき場所を
引いて闘撃を止め、首級を貪ろうとする場合もある。こちらは兵勢が挫かれる基となる。

これ故に、良将はかならず軍を監督しこれを正すのである。

(武将感状記)



「敵に塩を送る」異説

2019年03月08日 16:01

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 08:55:46.57 ID:fDyNMKVL
北条と今川は相計って、遠州、武州の塩商人を留め、甲斐信濃に塩を入れず、これを以て
武田信玄の兵を苦しめんとした。

上杉謙信はこれを聞いて、領国の駅路に命じて、塩を信玄の元に運ばせ、
「我は兵を以って戦いを決せん。塩を以って敵を窮せしむることをせじ。」
そう言い送り、信玄はこれを受け取った。

これは上杉謙信の義にして、かつ勇なる所であると雖も、必ず深慮遠謀があったと見るべきだろう。
信玄は謙信より先輩であり、北条、今川の地を掠め奪う者は先ず信玄であった。
これ故に、信玄を仇とすること、六国の秦に対する如きものであった。

信玄がもし危機に至れば、その次は必ず謙信である。信玄が諸牧と戦って兵が久しく解けなければ、
その間に北国を一円に撃ち従えて勢い盛大となれば、東海の国々がたとえ力を合わせ志を一つにしたとしても
恐るるに足りない。謙信はそう考えたのだと言えるだろう。

(武将感状記)



775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 18:11:03.52 ID:YVaPWxdX
>>772
でも謙信は関東で遊び疲れてから
北陸でも勢力伸ばそうとしたよね
ちょっと遅かったよね

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 08:25:30.39 ID:SrppcBwW
柴田みてもわかるように北國勢は冬は領国に籠るから春夏に掠奪が出来なければジリ貧だよ

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 11:25:04.75 ID:Y8BGkzOR
>>776
冬に領国へ籠るとは限らないでしょ
謙信なんか通行できるうちに越山して夏に越後へ戻るし

【雑談】それにしても上杉景勝って

2018年09月12日 22:04

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 10:52:54.88 ID:8Kk8cxb6
それにしても、上杉景勝って先代を意識しすぎてつまらない武将になったよな。
無口で笑わない、アレどっかの奥方も似た人いたな

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 11:21:01.69 ID:2tH6ChET
むしろ笑わない、喋らないが景勝の個性では

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 15:11:08.10 ID:76TCJBE1
武田に煽てられてちーと浮かれただけで直江が軒猿放ってきて謀殺だもんな
そらあんな仮面みたいな顔になるわ

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 20:39:37.54 ID:OVJRMD8l
景勝ってなにが凄いのか良くわからんよな。
上杉の家督取ったのはまあ、凄いけど、それ以降の活躍がさっぱり。関ヶ原の逸話も直江関係ばかりだし。
毛利輝元は凡庸とされてたのが、最近見直されたり、と動きはあるが、景勝については特に毀誉褒貶もなく、
実体がよくわからん。

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 20:49:10.45 ID:wTVa8PRY
謙信以来の武張った上杉家のイメージを貫き通した事じゃないかな
まず極めて無口ってだけじゃなく家臣の前で笑ったの1回って時点で
尋常じゃない精神力の持ち主
関ヶ原で負けて家康に降伏したとはいえ夏の陣で家康に評価されてたり
本人は先代コンプレックスで必死に虚勢張っただけなのかも知れないが
結果的には家のイメージを保って一目置かれた訳だし

謙信は唯鬼神にて候

2018年08月20日 11:09

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 20:26:30.58 ID:/lrM7d7Z
その合戦(八幡原の戦い)は時を移し、そのうちに晴信(武田信玄)の命で犀川に大綱を幾筋も
張り渡し、武田本陣の大勢はその綱に取り付いて向かいの岸に上がり、大野の蘆萩の茂る中の

細道より旗・指物を伏せて忍び出て、謙信(上杉謙信)の本陣へと鬨の声を上げて切り入った。
このため越後勢の謙信本陣は一度にどっと敗軍したので、武田方は勝ちに乗って追い打ちした。

晴信が勇み喜んで旗を進められたところに、大塚村に備を立て申していた越後勢の宇佐美駿河守
定行2千ほどの勢が横槍に突き掛かり、晴信本陣を御幣川へ追い入れた。

そこへ越後の侍・渡部越中守翔5百余勢が馳せ付けて晴信本陣へ切って掛かり、宇佐美駿河守と
揉み合い信玄本陣を立ち挟んで討ち取り申した。武田の人馬は河水に流れる輩、または討たれる
者と数知れず。謙信本陣勢も取って返し、晴信本陣を討ち取り申した。

越後方の上条弥五郎義春・長尾七郎・元井日向守・沼掃部・小田切治部・北条丹後守・山本寺
宮千代・青川十郎・安田掃部以下も政虎(謙信)同様に御幣川へ乗り込み、槍を合わせて

太刀打ち・高名をなした。その他手柄の侍は多く、また討死の者も多かった。信玄も30騎ほど
で川を渡り引き退いたところを、謙信は川中へ乗り込んで信玄を二太刀切り付け申した。

信玄も太刀を合わせて戦い申されたところで、近習の武田の侍たちが謙信を中に取り込めたが、
謙信は切り払って中々近付くこともできない様子であった。

そのうちに信玄と謙信は間切れ致して押し隔てられた。その時、謙信へ掛かった武田近習の侍
19人が切り付けられた。

謙信は人間の挙動ではなく、まさに鬼神であったという。
(謙信は、人間の挙動にてなく、唯鬼神にて候と申候。)

その折はまさか謙信とは知らず、甲州方では越後侍の荒川伊豆守(長実)であると取り沙汰され
ていた。後に政虎と分かり「討ち止めるべきものを、なんとも残念だ」と皆々が申したという。

信玄は御幣川を渡って生萱山土口を目指し、先陣と後陣がひとつになって敗軍した。甲州勢は
塩崎の方へ逃げる者もあり、また海津の城へ逃げ入る者もいた。

中条越前(藤資)は小荷駄を警固していたところへ、塩崎の百姓数千人がくり出して小荷駄を
奪うため、中条はこれを切り払い散々に戦った。

この時、上杉・武田の両軍は入り乱れて散々に戦ったので、敵・味方の手負い・死人は数知れず。
信玄は敗軍して土口と申す山へ退き申され、上杉勢は追い詰めて土口で甲州方数百人が討たれた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

「あいつ人間じゃねえ!」と言わしめた上杉謙信の武勇


為景は歌人でもあり

2018年08月18日 21:09

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 09:28:06.28 ID:Pkf2Ft4G
為景(長尾為景)は16歳の頃に父・能景に従って関東に出陣し、これを戦の始めとして
信濃・越中・越後において戦功はもっとも多かった。

特に寺泊・椎谷の一戦では大いに勝利を得られ、積年の戦功によって天文4年(1535)
6月13日、後奈良院(後奈良天皇)より綸旨ならびに御旗を賜った。

およそ為景は一生の間に諸国所々において百回余りの合戦を行い、他に類を聞かずという。
この時の御旗は今に至って上杉家の重宝として相伝わる。

為景は歌人でもあり、後奈良院に一巻を奏覧した。その中に次の一首あり。

「蒼海の 有とはしらて 苗代の 水の底にも 蛙なくなり」

後奈良院はこの一首に叡感なされたという。

――『北越太平記』


「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」

2018年08月16日 20:12

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 02:06:10.22 ID:6gnDplDs
謙信(上杉謙信)は後奈良院の享禄3年(1530)庚寅正月21日、府内で誕生した。

はじめ謙信の御母君は受胎の折に夢幻ともなく、この際に8尺ほどの男が金色の甲冑を
帯びて矛を付き、光明光り輝く珠を持って現れた。男は曰く、

「我は毘沙門天王なり。この珠は明星なり」と仰せになって、母君の懐に珠を投げ入れ
なさった。これを見てより母君は懐妊したのである。

それから10ヶ月の間に様々な奇異の瑞相が多く、筮者が占うと甚だ吉だった。本卦は
天沢履の六三に当たった。その文に曰く、

「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」
(過信から虎の尾を踏み虎に食われる。よって凶なり。卑しき武人が高貴な大君になる
ようなものである)

これに因んで幼名を“虎千代”と号した。虎千代殿はやがて成長して大きな志を持った。
見識と度量は世に優れ、孝行慈愛は寛大にして自然と仁心を備えた。

特に父母に孝行であったので、世の人はこぞって「凡人ではない」と言った。

――『北越太平記』



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 10:18:46.81 ID:wruV9DLp
甲斐の虎 v.s. 越後の虎

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 18:38:27.90 ID:E6cH8wWy
戦国は鬼とか虎とか人外多すぎ問題

謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね?

2018年07月10日 21:05

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 03:42:58.66 ID:o+BV0MVC
上杉謙信の家臣団といえば上杉二十五将などとも言われ著名な武将が多い。
そんな上杉家臣団を見ていて気付くことがないだろうか。

…あれ、謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね?

そこで有名どころの生年と第四次川中島の時の年齢を上げてみる。

柿崎景家 1513年(48歳)
宇佐美定満 1489年(71歳)
色部勝長 1493年(68歳)
北条高広 1517年(44歳)
本庄実乃 1511年(50歳)
中条藤資 不明だが1494年には家督を継いでいた(70歳以上)
安田長秀 1516年(45歳)
直江景綱 1509年(52歳)

参考までに主な武田家臣の生年と年齢も。
山県昌景 1529年(32歳)
高坂虎綱 1527年(34歳)
内藤昌秀 1522年(39歳)
馬場信春 1515年(46歳)
山本勘助 1493年(68歳)
真田幸綱 1513年(48歳)
原虎胤 1497年(64歳)
小山田信茂 1539年(22歳)

またその子供も随分歳が離れているのが多い。長子と思しき人物との生年と年齢差も書いてみる。

色部勝長 ー 色部顕長 1549年(56歳)
安田長秀 ー 安田堅親 1557年(41歳)
中条藤資 ー 中条景資 1532年(40歳以上)
直江景綱 ー お船 1557年(48歳)

また柿崎景家の子柿崎晴家は生年不明だが1570年に人質に出された記録があり、この頃はまだ未成年だったとすると景家40歳頃の子供となる。



914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 14:31:47.68 ID:dSxs4i6+
安田長秀の末裔が言うには有重という子がいたらしい
親子ともに治部少輔を自称、母は長尾政景の妹、妹に安田堅親の室
因みに堅親は河田からの養子で有重の跡を継ぐ、兄が長親
他の者も親子同じ官名を自称して実名が表記されてないから混同されてんじゃね?

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 14:54:53.90 ID:dSxs4i6+
柿崎晴家は次子
長子祐家は天正元年越中朝日城攻めに名が見える
のち親子ともども誅殺されたのか討死、病死かは不明

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 15:12:04.41 ID:dSxs4i6+
大昔って大した娯楽がないから毎晩セックス三昧っていう暮らしだと勝手に想像しているんだが
子が生まれても女子だったり寒さで流産したりと跡継ぎが出来にくい土地柄だったのかしら

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 15:50:00.59 ID:oaqH4q4O
織田家部将の子どもの少なさ考えたら少なくとも身分ある武士がセックス三昧とはとても

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 19:23:27.63 ID:wjkq+BjH
戦国武将って、あちこち出張しているから、ゆっくり致す暇もなさそう。
特に、信長以降の天下人の部下は東奔西走しているからなあ。

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 21:42:18.89 ID:+Sn4NBhJ
あの時代は危険日(冷静に考えると変な言葉)とかわかってなかったんだろうし、それこそ運任せだったんじゃね。
戦があれば何ヶ月も帰ってこれないし、そら側室たくさんいても子供簡単にできないわな。

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 22:06:22.67 ID:2jNQiVdt
>>913
謙信の場合、一応父親と兄の代の家臣団をそのまま引き継いでいるので年齢高めなのは仕方ないかも。
家督継ぐ前に自分の家臣団を形成したような感じもないし、若手を大量抜擢とかもしてないようだし。
長子との年齢差はよく分らんが、、、謙信が遠征に引っ張りまわしすぎて作る暇もなかった?

越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事

2018年02月19日 17:52

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 19:10:30.83 ID:Z9pD70Ir
越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事



永禄7年(1564年)5月下旬より6月半ばに至り、本庄繁長柿崎景家を魁首として、
上杉謙信公は越中国に在馬した。

この折節、魚津の海上において貝の城が出来たのを見るといって、
浜辺には市のように多くの老若男女が集まり垣根を巡らしたようであった。

暑熱の時に属して、蛤がたむろして靄気を立てていた。
中華の書物で言われている蜃気楼とはこれであろう。

故老の説に曰く、

「蜃(シャコ貝の一種)は蛤の大きいやつだ。よく気を吐いて楼台を作る。南北海に多い。
 支那登州の海濤は、春夏の間に水面を遠くから眺めると、これ気がある。
 人馬の往来が絶え間ない城郭や市を彷彿とさせる。地元では海市と呼んでいる。
 西域でもこれに似た事があると伝え聞く。

 朝日が出始める時、紅輝天に映して楼門宮闕を現して、ちかく官人の出入りを見る。
 日が高く昇ると消滅する。しかしながら、肉眼の及ぼす幻みたいなもので実在はしない。
 これを乾達婆城と名づく。全て乾坤の間象を含む者、
 陰陽の二気を感じて変化の成行を計り知ることは出来ないという」


平野甚右衛門の墓の土

2017年12月14日 11:18

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/14(木) 09:46:09.88 ID:20Bp96OO
平野甚右衛門というのは津島小法師の事で、織田信長の時代の勇士であった。

彼が死んで後、その墓の土を取って飲ませれば瘡疾必ず癒えると沙汰され、人々はみな
これを取って用いた。
ここに、平野の生前、いい交わした朋友が居たのだが、彼が平野の墓へ行くとこのようにつぶやいた

「かつて、あれほど名高き勇者であった其方が、百姓下々の洗米濁酒を墓に受けて、なんという
見苦しき有様になっているのか。」

それ意向、墓の土を用いても瘡疾が落ちるという事はなくなったという。
勇猛の士というものは、死しても性根が強いものだと言うべきなのだろう。

(士談)

この逸話の人ですね
→ちょっぽり甚右衛門


上杉景勝の厳格

2017年10月14日 17:08

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/14(土) 17:04:08.52 ID:s8Qod1gV
上杉景勝という人は、豪邁肝大の大将にて、その軍陣に臨むや、先陣において既に交戦し、
矢弾雨のごとく降り喚声天地を振動するばかりであっても、身は幕中に有りて普段と変わらず睡眠
を取り、雷の如きいびきを上げるのを常としたという。

彼が豊臣秀吉に臣従し上洛した時、数百人の一行は完全に黙し咳の声すら聞こえず、只人馬の足音を
聞くのみであった。
その折、富士川を渡る際、船が小さく人多く、中流に至ってほとんど沈没せんとした。
この時景勝怒り、舷頭に立って鞭を挙げて一揮すれば、衆皆躍り上がるように水に飛び込み泳ぎ、
よって無難に渡ることを得たという。

景勝の厳格なることかくの如きなれば、彼の生涯において、只一度の外その喜悦の色を見たことが
無いという。
ある時、上杉家に一匹の猿があり、たまたま景勝が脱いでおいていた巾帽をかぶって逃げ、庭の木に
上り景勝に向かって3度頷いた。
彼はこれを見てにっこりと微笑んだ。
これ実に、左右の近臣達ですら、始めとも終わりとも、景勝の笑顔を見た一生の内ただ一度の事であったという。

(今古雅談)



罪一等を減刑し、

2017年10月09日 21:19

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/08(日) 23:15:16.48 ID:vtU+lYlX
上杉謙信が刑罰を設けた時、第一に奪刀、第二に死罪、第三に所領没収、第四に侍身分の剥奪、
第五(不明)、第六に禁錮の六種類とした。

ある時、謙信配下の長尾右衛門佐という者が、その所行悪しきとして処罰を加えられ、
所領没収の刑を申し渡された。またこれにより、終身帯刀を禁じられた。
右衛門佐の親族はこの処分に大いに驚き哀訴した。
これを請けて謙信も、彼の先代に忠功有るを以って、罪一等を減刑し、特に双刀を許して
切腹を命じた。

(今古雅談)



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/08(日) 23:56:00.51 ID:hCwvv1Sg
なんとなくだが当時の人にとっては奪刀の方が死罪よりキツい気がする

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 14:13:02.70 ID:5R3wNeTf
命より名誉…。

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 15:02:34.20 ID:tHmmBpae
名誉が無くなったら大抵の場合暮らしてけなくなって命もなくなるからな
だったら命を無くしてでも名誉くらい残しておこうという簡単な話

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 15:47:17.05 ID:gmnkmarz
>>294
Mine honor is my life; both grow in one.
Take honor from me, and my life is done.

って奴だ

今よりここは我が城

2017年09月06日 19:22

203 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/06(水) 16:25:33.95 ID:IJXRMizk
永禄6年上杉謙信は越中の隠尾城を落とすべく軍を進めていた。
城を守る南部尚吉は徹底抗戦の意志を固めていたが尚吉の娘婿である
新開右衛門尉以下主だった者たちは謙信にはとても敵わじと尚吉に開城を勧める。
右衛門尉は妻を遣わしてまで説得するが、尚吉の決意は変わらなかったため
謙信に内通の使者が送られることになった。使者が携えていた書状には

「城を取り囲んで3日目の夜に城門の閂を外しておくので粛々と先頭は小勢にて攻め込まれよ」

と記してあった。これを披見した謙信は

「さしたる要害でもないのだから落とすに謀は要らぬ。また不義の者たちに与するものまた不義である。
しかも尚吉の扱いを如何するか記されていないのは不審である」

として使者を追い返そうとした。しかし近習の者が

「小敵と侮って思いがけぬ戦いになった例は古今数知れず。勝ち易きに勝つを選ぶは軍兵のためでもある」

と諌めたところ謙信も承知した。
しばらくして手筈通りの夜襲によって城は混乱に陥った。尚吉は館に籠って奮戦し
十人ばかり討ち取るも最期は上杉兵によって討ち取られた。
右衛門尉は

「今よりここは我が城。本意を遂げたり」

と大笑し謙信に会うため馬に乗ろうとした。
ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉はそのまま息を引き取った。
これを知った右衛門尉の妻は悲嘆して自害しようとしたが制止され、後に仏門に入った。
これを聞いた謙信は

「天命ほど恐ろしいものはない。少しでも行いを誤れば大きな報いを
受けることになり見通すことも難しいものである」

と自戒した。

204 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/06(水) 16:27:06.94 ID:IJXRMizk
(越中古城並雑書記)より



205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 19:23:52.22 ID:0Z+k4yXe
何を誤ったのかが全然分からないのだが

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 19:51:57.20 ID:lZpFGl/I
右衛門尉が舅を裏切ったことじゃないの
で謙信の理屈だと自分から唆した訳ではないとはいえ不義に味方するのも不義ということなので
いつ自分に報いが返ってくるかわからないから気をつけようということでは

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 22:28:32.01 ID:L8yC5R5O
>>「今よりここは我が城。本意を遂げたり」

あー、これですわ

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 23:42:50.79 ID:tXZXKWik
基本的にこの時代の武士なんて>>207みたいのばっかだと思うんだが

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 00:09:13.41 ID:RBdQCurE
???「今より我は毘沙門天。本意を遂げたり」

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 13:29:38.50 ID:Jr2Nz9xv
>>208
でも妻の父親だし、本意を遂げたってことは前から狙ってたっぽいしなぁ。

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 23:40:11.58 ID:h8hsbPLy
>>203
> ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉はそのまま息を引き取った。

十河「えっ」
ホウ統「なにそれこわい」

我に組み付くほどの者は有るべからず

2017年09月01日 17:14

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 15:44:00.98 ID:Bz4Hb9x8
徳川家康が落馬した時、馬の手綱が手にかかったままであったのを、供奉の侍の内、素早く気づいた
者が居て、走りより抜き打ちに手綱を切った。これは馬が駆け出して家康を引きずるのを防ぐためである。
家康は彼に「状況に応じた的確な判断であった」と褒美を与えた。

上杉謙信が馬で川を越す時、中ほどにて落馬したが、供のものがこれを抱きとめた。
謙信は岸に上がると、この者を即座に成敗した。

「我に組み付くほどの者は有るべからずと思っていたのに、このような事、甚だ憎き次第なり。」

そう言ったという。

(士談)



90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 16:11:50.62 ID:kbfuy3yN
女謙信

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 16:35:22.46 ID:gCjqVHM7
ほっとけばよかったんか?

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 16:49:17.56 ID:RBdXbDLf
>>89
女性説に信憑性が出てしまう逸話だ。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 19:30:33.94 ID:MY8HDl+b
つうかさ
近仕の侍を手打ちにできる女性って芳我台さんや古の巴さんみたいな人か?

こんな道の付け方が

2017年08月14日 16:44

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/13(日) 23:30:22.10 ID:xXH2oUX+
大阪の陣において、堀尾山城守(忠晴)の寄せ口の備えを、上杉景勝の家臣である杉原常陸介(水原親憲)が
見て

「堀尾の備えは後ろから崩れるだろう。裏崩れというやつだ。」

そう言ったが、果たしで後ろのほうが騒ぎ立てた。
これは、杉原が堀尾の備えにおいて、馬を近くに引き付けていたのを見て、もし馬に鉄砲が当たれば
馬は必ず跳ね合う事から、これで騒ぎが広がり裏崩れに成る、と見て摂ったのである。

その後、堀尾の持ち口を上杉景勝に渡して陣替えをするように、との将軍からの命があった。
この時、景勝方より軍使を以て、堀尾方に「道を作って陣地を渡すように」との申し入れがあった。
これによって堀尾方は道を作って陣地を明け渡したが、景勝の軍勢はこれを見て罵倒した

「上方衆は、弓矢の事に巧無き者達だ!こんな道の付け方があるものか!」

そう声高に言い放ったが、堀尾の衆にこれについて返答をするものは居なかった。
これは、堀尾の者たちは通常のように、往来しやすいよう道を作ったのであるが、
景勝方の人々にとってこの場合の道とは、敵の攻撃から身を守り、負傷者が出ないように
作られるもの、だったからである。

(士談)



42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 01:04:03.19 ID:vlaYX3eR
家康も嘆いていたけど、たった15年戦がなかっただけで
その辺のノウハウはボロボロになるもんなんだなぁ…

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/08/14(月) 21:02:50.32 ID:TDVqvO2W
>>41
我ら上方の者に取って織田家に仕えし頃より道は攻め、武功を挙げるために造る物でござる。
謙信公の頃より武門の誉れ高き上杉家において道は敵やその矢弾より身を守り命を惜しむ為に造る物であったとは知りませなんだ。
此度は越後の軍法を学ぶ良い勉強になり申した。子々孫々までこの軍法の違いを伝え奉らん。


位言い返せる古参の兵は居らんかったのかね…

姜沆の上杉景勝評

2017年06月18日 16:08

884 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/18(日) 10:39:22.75 ID:tmlaj5Mn
 [上杉]景勝なる者がいる。今は、越後[中]納言と称している。代々、越前・[越]中・[越]後の三州の地に居[城]した。
賊魁(秀吉)が信長に代わるに及び、景勝は、戦いに敗れ、服従を請うた。
秀吉は、出羽、佐渡に景勝を移して[その地を]授け、越後の地を奪って掘里久太郎(堀久太郎)に与えた。
景勝の心は平らかではあり得ず、越後の民もやはり景勝が主であることを望んだ。
 家康が秀吉に代わるに及んで、肥前守(前田利長)と家康が不仲になった。
景勝は、勝手に自分の領地に帰り、肥前守と兵を連ね越後の地を攻奪しようとした。
久太郎は大いに懼れ、数(しばしば)家康に報告した。
家康も根本[の関東]を景勝が襲うかと気にし、数手紙を送って京にもどるように勧めたが、景勝は従わなかった。

<倭人は、みなこう言ったという。
「景勝が、本当に肥前守と兵を連ねて、直ちに家康の根本を擣くとしよう。
家康が戻って[根本である関東を]救援しようとすれば、多分、清正等がいっせいに立ち上がるであろうから、
西京(である大坂)は、自分の所有では無くなるであろう。帰って救わなければ根本がまず敗れ、腹背に敵を受けることになろう。
景勝らが動けば成功しないはずはないが、惜しいかな、景勝らは[愚]鈍・懦[劣]である。必ずや、自ら奮発しようとしないであろう」>
(看羊録)

姜沆(カンハン、きょうこう)の上杉景勝


勇者の思い

2017年06月17日 10:00

岡左内   
37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 20:39:16.21 ID:5Rqe2+am
関ヶ原の役の時、奥州において上杉景勝伊達政宗取合の時分、景勝勢は福島より二里出て
政宗と戦った。

この時。北川図書という者、元は蒲生氏郷に仕えていたが、氏郷没後は景勝に属し、
景勝より桑折の地を与えられ、その頃郡図書と名乗っていた。

図書はこの合戦で討ち死にを覚悟し、朋輩である岡左内に頼んだ。
「私の陣羽織を息子の久兵衛に遺したいので、討ち死にの際にはこれを遣わしてほしい。」

左内は受け取り、後に図書の子・久兵衛にこれを渡した。図書は討ち死にしたのだ。

この事について、後の人は様々に評した。
ある人
「同じく戦場に臨んで、我も人も必死をこそ旨とすべきなのに、どうして自分が必ず生き残ると思い、
人の形見を請け取るなど有るべきだろうか?」

これに対して、傍らに居た人が言った
「そうではない。互いに言い交わし話し交わした心友の間で、その人を見込んでこう言っているのに、
請け取らないということが有るだろうか?
自分が必ず生き残るから、受け取って渡す、と言っているのではない。彼の形見を我が預かり、
我が形見を彼に預けるというのは、勇者の思いを込めた行為というべきではないだろうか。」

この岡左内という人物は、後に越後と称し、類まれなる勇士で、数度の戦功を成した。
この時の戦でも、川中で伊達政宗と太刀打ちして、自分の猩々皮の羽織に、政宗の太刀傷二ヶ所まで
受けたと言われている。
彼も蒲生氏郷に属して、後に景勝に仕え、その経歴もあって北川図書と親しんでいたとか。

北川図書の子孫は、今も加賀太守(前田家)の家中にあるという。

(士談)


英雄の掘った井戸である故

2017年06月12日 19:10

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 18:37:21.30 ID:xZqoEU9p
井伊掃部様の御屋敷前、坂中の北に仰々しい井戸がある。それは
汲みもしないのに立派な釣瓶縄を備えていた。

それは昔“鱗屋敷”といって、直江山城守が住んでいた時に掘った
井戸だという。これをトウ庵先生(古賀トウ庵)に聞くと曰く、

「直江は天下の英雄なり。英雄の掘った井戸である故、井伊家では
用いないけれども代々大切にこれを保存しているのである」

とのことである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 01:49:44.51 ID:qTIEz3oo
>>21
大河で井伊の先祖は井戸から出てきたとか言ってたし、井戸を特別視してたのかも

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:59:57.31 ID:oqc2RtC1
>>21
憲政記念館の所に現存しているよな。この井戸

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:09:14.48 ID:qFtwVh1m
兼続の屋敷跡が
「憲政」記念館になったとは、
御館の乱の因縁があるようなないような