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大関盛憲という人物がいた

2022年05月16日 18:09

186 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/15(日) 18:59:32.65 ID:Davxrel8
越後の大関城主に大関盛憲という人物がいた。

盛憲が青年の頃、深夜荒れ野を歩いていたところ、火葬場の荼毘の中からものを拾っては口に入れている女がいた。
髪を振り乱し、歯は黒く、鬼女かと思った盛憲が近寄ろうとしたところ、女は突然逃げ出した。
女を捕まえた盛憲が「なぜ人骨を食べるのか!」と尋ねたところ、女は「けして怪しいものではありません。荼毘の火で鉄奨(お歯黒)を温めると剥げなくなると聞いてこうしているのです」と火中からお歯黒を入れた小壺を取り出してみせた。
盛憲はその豪胆さに感じて、女を妻とした。

そして二人の間に生まれた息子を弥七と名付けた。
後の水原壱岐守親憲である。


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その方の分際にて、景勝の武辺の事を申すは

2022年01月30日 16:33

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 18:24:12.00 ID:vPZ3C4pH
或る本に、大阪冬の陣・鴫野の戦いの時、幕府の御使番である小栗又市は合戦が終わって
本陣のある住吉に帰り、今日の合戦の次第を言上した後、御次の間に於いて各々に向い

「今日はよき討ち所があったので、上杉にその事を申したのだが、日暮れだからと言って
承引しなかった。さてさて残念であった。」

と申した。しかしこれを大御所(徳川家康)がお聞きになって

「その方の分際にて、景勝の武辺の事を申すは推参なり!」

と仰せに成り、お叱りになったという。

新東鑑

大阪冬の陣で小栗又市さんが叱られたお話



296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 21:19:27.86 ID:oklvys1c
推参って「差し出がましい」と言う意味もあるんだな。
いまググって知った。

杉原常陸介を此の方に給われ

2021年12月23日 16:38

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/23(木) 14:41:39.94 ID:dDjxcVds
別記に、上杉家家臣の杉原常陸介(水原親憲)は武功の者であった。

上杉景勝卿がある年、江戸より米沢へ帰城された時、常陸介を始めその他大身の輩が皆迎えに出た。
景勝卿はそれぞれに詞をかけ、常陸介の居た所を二、三十間過ぎた時、常陸介が忽ちに頓死した。
(意識不明になったということだろう)
人々は薬を与えて呼び返したがその甲斐もなく。景勝卿も早く帰って保養するよう下知したのだが、
遂に死んだ。

この知らせに景勝卿は涙を流し
「前夜の夢の中に、不識院殿(上杉謙信)が枕にお立ちに成り、『杉原常陸介を此の方に給われ。』と
宣われた。夢覚めて近習の者達に此の事を語り聞かせ、常陸が死すべき兆を夢に見たと言ったのだが、
その如く只今相果ててしまった。」
と、甚だ惜しまれたという。

新東鑑



景勝譜代の主にて候間、御免下され

2021年09月22日 17:26

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 16:32:06.60 ID:ENFxkodI
上杉景勝の家において、荻田主馬(長繁)が武者奉行であった。
荻田が上杉家を立ち退いて(豊臣秀吉が上杉景勝の屋敷に御成になった時、秀吉に白湯を献ずる
役目を仰せつかった荻田の嫡男がその碗を落としてしまい「豊臣の天下に水(湯)を差した」と批判され、
激怒した景勝により父子共追放された)以降、蓼沼日向守(友重)、三股九兵衛が武者奉行と
なった。何れも大剛の覚えの侍であった、

そんな彼らに対して、越前黄門(結城)秀康卿より様々に接触が有り、蓼沼日向守に対しても
三股九兵衛に対しても、一万五千石宛にて自分に仕えるよう御呼ばれたのであるが、

「景勝譜代の主にて候間、御免下され」

として参らなかった。この二人について秀康卿は、大御所様(家康)より能く聞き召されて
いたのだという。

杉原彦左衛門覚書条々



566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 21:54:19.20 ID:L9m3N/kA
大胆と言えば大胆かも知れないが
主君の景勝の頭越しに直接大領やるからうちに来いよとか
些か無礼に過ぎる話なんじゃないか…?
蓼沼三股両名の忠義の良い話かも知れんが
秀康の悪い話でもあるような…

左内は隠れなき福人であり

2021年09月21日 17:46

岡左内   
555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 16:48:46.83 ID:JPhrziS0
岡野左内(岡左内)は上杉家に於いて一万石を取り、松川合戦にて伊達政宗と太刀打ちし、彼の猩々緋の
羽織に、政宗方の太刀痕を、肩に一つ、腰に一つが出来たが、それを縫い合わせつつ、金のより糸を以て
切り目に縫い含めたものを着けて、景勝の御免にて上洛された時に先乗りをした。
彼は岡野越前守と号した。蒲生秀行に奉公し、会津猪苗代の城主であった。

(中略)

左内は隠れなき福人(金持ち)であり、金銀を夥しく持ち、国に蔵屋敷が有った。会津にては
黄金を、書院と次の間に敷きつめて、その上に在って金子を見て楽しむこと度々であった。
これについて諸朋友の取り沙汰に、「左内は金を弄物にしている、人々からも、ただ町人のような
者だと悪しく言われている。何事か有れば金銀に心引かれて臆病をするだろう。」と笑いあった。

ある時、先のように黄金を広間一杯に積み並べて楽しんでいる所に、「我が組の侍、喧嘩仕出かしたり!」
と告げ来た。左内はそれを聞くと同時に、貞宗の刀を差し、秘蔵の鹿毛の馬に打ち乗り、一散に駆け付け、
そこに一日二夜居て、色々と仲裁し事態を済ませた。その時、先に広間に広げ並べていた黄金は
打ち捨て、その二夜一日の間に黄金のことを家人にも申し付けず、何も気にかけていないような
顔であった故に、「さては左内は、武用のため計りに貯えたものであり、金欲は無いのだ。」とl
諸人誉め、はじめは嘲笑っていた傍輩たちも、却って感じ入った。

また彼は、陣触れがある度に役者を呼んで、我が子の左衛門に能をさせ、出陣まで毎日、快く見物した。
その頃傍輩は皆、馬、物具、弓、鉄砲の支度で騒動していた。
左内はこのように申した

「私は常々武道を嗜んでいる故に、出陣といってもなにか特別に支度をすることはない。
他の人々は、常には能、囃子、連歌などにて遊んでいて、陣触れの時になって俄に忙しくなる。
私も能や乱舞が好きなのだが、普段は皆が方々に役者を呼ぶため、隙きがなく参ってくれない。
陣触れがあると皆々出陣の支度をするため、能も行わず役者が暇になるため、ここぞと能を致すのだ。
明日討死とも知れないのであるから、心を慰めるのだ。」
と笑ったという。

関ヶ原陣の前後も、会津に御発向とある時に、掛硯に金銀の貸し出しの帳があったのだが、家人に
「私が討ち死にすれば焼き捨てよ」と申し付け、また永楽銭一万貫(黄金万両なり)を上杉景勝に進上し、
「金銭のことについては欠けてはいないでしょうが、私は明日にも討死してしまえば、これは必要
ありませんので」と差し上げ、傍輩中にも金銀を配り、陣用意をさせた。

蒲生宰相殿(忠郷)の代に、左内が病死する砌、遺物として黄金三万両、正宗の太刀一腰を、忠郷へ
差し上げた。傍輩にも夫々に遺物を遣わし、それまでに貸し出した金銀についての手形を入れた箱が
一つあったのを、焼き捨てたという。

杉原彦左衛門覚書条々



556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 17:07:30.52 ID:Hqvo/QYX
岡左内は間違いをおかさない
それはそうとここだと金子並べてその上に裸で昼寝する話はないのね

557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/21(火) 17:51:44.85 ID:63xw1gfu
岡左内が岡野と書かれるのは、そもそも上杉家中に別人の岡野左内さんがいたことがあるから混同したって説もあったね。

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 17:07:30.52 ID:Hqvo/QYX
岡左内は間違いをおかさない
それはそうとここだと金子並べてその上に裸で昼寝する話はないのね

557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/21(火) 17:51:44.85 ID:63xw1gfu
岡左内が岡野と書かれるのは、そもそも上杉家中に別人の岡野左内さんがいたことがあるから混同したって説もあったね。

558 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/21(火) 18:12:38.96 ID:d/h5HaWW
山田く~ん>>556さんの
座布団全部持っていって~~

  ∧ ∧
 ( ゚Д )   ∬
pく>yく_)旦
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
TTTTTTTTTTTTTTTTTTTT

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 18:15:26.71 ID:6GQoXp0k
岡といえば全裸黄金浴の人だから
素っ裸で現場に駆け付けた話かと

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 18:33:50.39 ID:FVoNhTFc
股間の金も隠さぬ岡殿

北条丹後の指物

2021年09月19日 18:59

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 17:57:38.33 ID:+x+mbxvS
上杉輝虎(謙信)の時代の、家老・北条丹後守(景広)は大剛の侍であった。
ある時、一尺ばかりの白練の小四半(6センチ四方とも)に、黒蟻一疋を書いて、指物にした。
あまりに小さい指物であったため、謙信も見咎め、丹後を呼んでその指物の訳を尋ねた。
丹後答えて曰く

「皆人は三幅懸、四幅懸に下猪、登龍、その他大紋を付けて指すのは、敵方に良く見えるようにという
事です。その大指物より私の小四半は良く見えます。何故なら何時の軍にも、間近く乘りこみますから。」

そう申し上げると、輝虎も機嫌直ったという。
この丹後は謙信の死後に、三郎(景虎)と景勝の闘争の時、荻田與惣兵衛に鑓を付けられた。
この時は乘り抜けたが、その手疵にて相果てた、三郎方もそのまま敗軍したという。

(杉原彦左衛門覚書条々)



552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 18:03:47.19 ID:KN/X7LVv
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5838.html
前に出典なしで出てたけど今日の話の方が詳しいな

左様のうつけたる同類に

2021年09月10日 18:08

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 16:24:19.47 ID:Y2Q3SaZT
堀久太郎(秀治)が越前から越後へ入部した折り、家老の堀監物(直政)より国中に触れ渡し、
当年の年貢を納め取ろうとした、
この時百姓たちは言った

「時分は既に冬になっています。年貢の半分は既に、転封された上杉殿に納めていますので、
その分を納めることは罷りなりません。」

そこで監物方より上杉家の直江山城守(兼続)へ申し遣わし
『納め取られた越後の当年貢半分を、こちらに返されますように。』
と伝えた。直江はこの返答に

「久太郎殿が越前を出られる砌に、越前の当年貢半分を納め取っておくべきでした。
会津領においても、前の地頭である蒲生秀行は当年貢半分を納め取った上で宇都宮へと移られた。
そのため(上杉)景勝も会津に移って、その残り半分を納めました。
越後に於いて納めた半分を、返納するいわれはない。」

そう言って堀監物の要求に肯かなかった。
しかし監物は重ねて使者を以て、

『越前の当年貢は残しておいて蔵に納め置き、公儀へと差し上げたのです。
ですので越後半分を戻されますように。』

と乞うたのだが、直江は笑って

「越前の年貢半分を納め取らなかったのは、監物の誤りである。
左様なうつけ者の同類に、我々が成る事はない!」
(左様のうつけたる同類に、此方には罷りならず)

そう嘲り愚弄した。そのため、堀監物はこれを根深く遺恨に思ったという。

近世軍記

そういえば堀家が移った後の越前北ノ庄城には、当初小早川秀秋が入る予定だったな。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 18:04:38.61 ID:21GKIKTf
そういう決まりがあったならともかく、公儀へ年貢渡す前に上杉と調整してなかった堀のミスだな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 20:14:16.94 ID:0w+T8jRj
年貢については通例で国替えの時はそうするってなってた筈
ただ黒田と細川も同じ事で揉めてるし(黒田が持ち逃げ)
その時に細川から提訴受けた家康は裁定しなかったので
法で決まってた訳ではない模様

ちなみに黒田が移る先の小早川も持ち逃げしてたので
黒田が持ち逃げしてなければ黒田も困ってた
細川や堀の脇が甘いといえば甘いか

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 23:02:29.70 ID:KX7wPrkn
黒田細川堀と、ガメツもといしっかりしてそうな家が被害者側なのがなんか面白いな

33 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 23:45:05.05 ID:z9qVs5NZ
まぁ堀家は名人Q太郎じゃなくて若年の二代目Q太郎だし舐められてたのかも知らん

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 10:57:35.23 ID:jXOTE7+0
この話し一年分持ち去ってたのかと思ってた

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 13:18:11.10 ID:7XTJHesh
正直年貢持ってかれたどうこうよりも、秀吉に朱印状で全員会津へ連れてくよう言われた上杉家臣が残ってる事のがよほど堀からしたら問題よね
実際乱になった際に上杉が煽って一揆起こしてたし

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:50:23.87 ID:jWvq4BOh
農民は一切連れて行くなだから帰農されるとどうしようもないし

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:58:15.14 ID:9KDPLPok
いやー、家臣全員連れてくよう言われたんですけどーたまたま家臣たちが一斉に帰農しましたー
ってさすがに無理があるくない?

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:31:52.06 ID:YwIdib8P
上杉の遺民一気ってだいたい越後風土記が元の記述?
堀毛の家譜とかにも載っている?

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:34:40.46 ID:YwIdib8P
地元が蜂起に参加していたらしい記述見かけたんだけど
該当箇所が見当たらない

40 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 20:55:43.02 ID:hllB7l4p
( ●Д`)y━・~~ 旧臣使って一揆の煽動とか酷い奴も居たもんだな

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:03:35.30 ID:u236VH5d
輝元「どこのどいつだよ」

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:31:43.99 ID:WBGVVljn
>>40
お前はネズミ汁でも喰ってろ

43 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:11:53.00 ID:MGyRhaXZ
上杉謙信・山内忠義・島津義弘・福島正則「イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!(エンドレス)」

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:16:41.44 ID:hllB7l4p
>>43
母里太兵衛「ウェーイ!」

仙桃院の演説

2021年09月04日 17:01

仙桃院   
504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/04(土) 16:22:11.04 ID:JMOsLn/Z
上杉謙信死去後、越後に於いて養子である上杉景勝上杉景虎の闘争は激しくなり、
双方手切れとなって既に合戦が始まろうとした時、景勝の母である仙桃院は、上田より早々に
春日山城に来ると、一族家臣、末々の侍共まで春日山の本城水門へ呼び、簾を高く巻かせ、
直に対面して申された

「景勝は越前守殿(長尾政景)の子であるが、謙信の猶子である。
先祖である長尾左衛門尉景忠より、謙信に至るまで八代、年数は二百十余年、越後の執権として
貴賤共に、そのよしみは浅からず。一体誰がその旧功を忘れるだろうか。

殊更、かつて紋竹庵主(長尾為景)が越中千檀野にて討ち死にされ、国中大乱に及んだのを、
謙信が十四歳より謀を巡らし、十五歳の春に宿敵である長尾平六を討ち滅ぼし、それより
八年間の間に、越後国中の凶賊を討ち平らげ、上下枕を泰山の安きに置けたのも、皆謙信の恩である。
何れも心を一つにして、味方(景勝方)の義戦をたすけ、中興の謀を巡らすべきである。
構えて卑怯の振る舞い、二心をはさみ、又は戦場において強いて戦わせることを敵に見せるなどは
口惜しきことである。

何れも頼み入ります。謙信の遺跡を、景勝に知らせ候へ」

そして家老から末々の軍兵まで残らず盃を与えられると、上下の者達は皆、この女ながらの勇気に
励まされ、感涙を流して畏まった。忠功を励む所、更に疎むべからずと、一同に頷いた。

太祖一代軍記

御館の乱において、景勝方が仙桃院の演説によって戦意を高めたというお話。
この演説のモデルは北条政子のやつかな?



柿崎景家誅殺

2021年08月30日 18:37

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/30(月) 16:48:24.64 ID:c3/hkbdL
天正五年十一月七日、柿崎和泉守景家父子四人が上杉謙信公によって誅殺された。
これは三年前に、良馬を京都へ売りに家臣を遣わした折、これを知った織田信長公は手を打って
大いに悦び、「上杉君臣を離間する手段これに有り」と、則ち馬代を十層倍で買い取り、
さらに信長公は自筆を以て

『今度差し上げた馬は近頃まれに見る俊足にて、大悦これに過ぎる事は無い。
ところで伝え聞くに、北国には鷹の逸物が有るという。そこで巣鷹を所望したいと思っており、
必ずこれを調えてほしい。』

との書翰が柿崎に届いた。彼はこれを真と思い、度々に鷹を買い調えて信長へ進上した。
しかしこの事が顕れると、信長と内通し逆心するのではないかという事で、謙信公は
平賀宗右衛門、吉江中牟、本庄越前守の勢七千にて柿崎の屋敷を取り巻いた。

これに柿崎和泉守、並びに男子三人、手の者七百ばかりが切って出て、二時あまり戦い
屋敷へ引き籠もった。打ち手は数十人が討たれ、手負いの者は数知れなかった。
その後、遂に寄せ手は屋敷に乱入し、柿崎父子四人は討たれた。

柿崎は越後の国侍で、久しき家であった。

太祖一代軍記)

史実としては柿崎景家は天正二年十一月二十二日に病死していて、その息子の柿崎晴家
が天正五年に、織田へ内通したとして謙信に誅殺されたという話があるので、これが混同
されたのでしょうね。



994 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/30(月) 17:01:08.97 ID:6Q5xQ9CT
ちなみに柿崎氏についてはこういうのが

旧上杉家臣は明治以後に屯田兵他で北海道移住した家があり、現在でも北海道に子孫が残り
自家に伝わる古文書を守っておられる例も多いとか

山本勘助の件で有名な市河家も同様ですね


上越市公式サイト2016年8月23日
https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/koubunsho/kakizakikemonzyo.html
柿崎家文書について

上杉謙信の重臣柿崎景家の家に伝えられた古文書80点あまりが、北海道在住のご子孫から上越市へ寄贈されました。

慶長3年(1598年)に柿崎家が上越を離れて以来、約400年ぶりの里帰りです。

柿崎家は、戦国時代に上越市柿崎区一帯を支配していた国衆柿崎氏の末裔です。上杉景勝の会津移封に従って上越を離れたのち、
子孫は江戸時代を通じて米沢藩士として過ごし幕末を迎えます。明治時代には北海道開拓のため厚岸へ移住し現在に至ります。

柿崎家に伝えられた古文書の総数は約200点。そのうち戦国時代から江戸時代までの80点あまりが上越市に寄贈されました。
戦国時代の文書10点は、実際に柿崎家が上越で受け取った上越ゆかりの貴重な古文書です。

今後は永く公文書センターで保存し、後世へ伝えていきます

洛中洛外の図の屏風一双

2021年08月27日 16:58

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/27(金) 15:55:22.08 ID:2w20CCI8
天正二年三月、上杉謙信公に対し、織田信長公より両使を以て、洛中洛外の図の屏風一双、
源氏物語の屏風一双、何れも狩野永徳の筆にて、極彩色であり、これを謙信に進上した。
殊の外の懇志であった。

然れども謙信は、信長が色々な手立てを以て上杉領内に手遣いがあることに対し、書礼を遣わし、
信長が表裏ある事を責めて、手切れの旨を申し遣わした。
これに信長は、何者かの讒言によってこのようなことになったのだと様々に陳謝したが、謙信は
用いなかった。

太祖一代軍記

洛中洛外図屏風(上杉本)についてのお話



信玄逝去

2021年08月26日 16:24

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 15:00:57.75 ID:e31HGtJg
天正元年二月、徳川家康公より植村與三郎を使者として、上杉謙信公に仰せ寄越された内容は、
去る冬の極月(十二月)二十二日、遠州口三方ヶ原での合戦で勝利無きに付き、武田信玄
勝ちに乗って東三河に発向してきたため、謙信は信州へ働き、甲州までも攻め入って頂きたい、
との事であり、その書状、並びに備前守家の刀が進上された。その刀の異名は徳用と号した。
謙信よりも音物が贈答された。
信玄が三州岡崎の城に攻め詰めれば、謙信は信州より甲州へ取り掛かるという旨の約諾が有った。

その頃信玄は東三河へ攻め入り、菅沼新八郎定盈、松平與一郎忠正が籠もる野田城を攻め落とし、
両大将を生け捕った。しかしその砌、城方の鉄砲烈しく、信玄は大事の所に鉄砲によって負傷し
(信玄大事の所に鉄砲手を負ひ)、その疵が腫物となって気分次第に快からず、四月十二日に
三州・信州の境である浪合にて逝去した。武田はこれを秘して喪を発せず、病気であるとして
死骸を守護して、甲州勢は残らず退散した。

その夏五月七日に、小田原北条氏政より山中兵部を使者として、信玄が死去したと越府に注進があった。

伝に曰く、この氏政の口上を本庄清七郎取次にて披露した時、謙信は膳に向かって飲食していた。
信玄死去の情報を聞くと、箸を捨てて手を打ち、

「合戦の能き相手を失い、さてもさても力を落とした。その上信玄は世に稀なる英雄名将であった。
残り多く、情けなきことである。」

そう言って数行の落涙をしたという。

太祖一代軍記

武田信玄の死去について。ここでは野田城攻めの時銃創を受けたため、という説なのですね。



983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 17:58:22.35 ID:j/dhOPJq
天正元年六月の長尾憲景宛書状では
信玄が死んだため、信長・家康は駿河に進むだろうし
関東平定も実現の見通しがつき、越中も思うがままになってきたと
喜んでいるそうだが

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 21:47:04.64 ID:EKAhKpsG
長年の宿敵と踏んでたし人柄的にも信玄って謙信が嫌いそうなタイプだし
訃報を聞いた時は喜んだってのが事実じゃないかとも思う
でも信玄ほど歯ごたえがあって正面から闘ってくれる相手もいないから
後々になって信玄の死を惜しんだとかはありそう

公方義輝公を弑し奉った事について

2021年08月23日 16:27

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/23(月) 14:51:42.36 ID:X36Q9D4/
永禄八年五月十九日、京都に於いて三好左京大夫義継、松永右衛門佐久通らが逆心し、公方義輝公が
御生害された。これにより畿内は大いに乱れ、公方の御弟である一乗院覚慶は南都を落ちて江州矢島に
至り、公方家再興のために還俗、義昭と号した。

七月、上杉謙信は二万の軍勢で越府を立ち越中へ入り、そのまま直に進んで加賀国へ攻め入り、
若林長門守、蕪木右衛門尉、石黒、宮崎、南保、高楯、入善等を攻められた。
この後、長尾兵部尉景盛、島山因幡守両使を江州矢島へ遣わし、義昭公へ御兄公方光源院殿と
御弔いを申し上げられた。

この時三好義継が逆心にて、公方義輝公を弑し奉った事について、その七ヵ年以前、永禄二年の夏に
謙信が上洛して十月に至った頃、三好長慶を始めその一門、並びに松永、岩成、松山党などの
驕り甚だしく、公方を蔑ろに致している様子を謙信は見届け、いずれ三好逆心の相有りと察した。
そこで京を立ち越後へ帰る砌、御暇乞を申し上げ、密々に言上したことには、

「三好一家無礼にして終には反逆の相が御座候。もしそういった様子が見られたときは、早々に
私に仰せ下されますように。馳せ上がり退治いたします。」

という旨を申し置かれたが、これに公方義輝公は御喜悦斜め成らなず、御手づから藤林という名物の
國綱の御太刀を下され、必ず御頼りあるべき旨を、懇ろに御堅約された。

去る年、子七月四日、三好修理太夫長慶が病死した。三好一門、家人はこれを秘して喪礼を致さず、
病中と申す沙汰を致したのだが、これが密々に公方の上聴に達し、不審に思われている内に、反逆の
様子が徐々に顕れた故に、公方は大和兵部少輔を御使として越後に下され、早々に謙信が上洛するよう、
密々に御内書を下された。しかしこれを三好が聞きつけ、
「謙信が上洛すれば中々叶うべからず。その前に取り掛かるべし。」
と、俄に思い立ち逆心し、公方を弑し奉ったのだと云われた。

太祖一代軍記



輝虎は斯くの如くの

2021年08月21日 17:56

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 16:43:19.91 ID:cQDwS0uU
永禄二年の四月上旬、上杉景虎は二度目の上洛をした。

(中略)

同月二十六日に、上使大館左衛門佐輝氏が御内書持参にて、景虎の文の裏書き、並びに
塗輿、朱柄傘を御免になり、屋形号、並びに「輝」の字を下され、斯波、細川、畠山の三管領に
準ずると云々。景虎はこれを拝受した。その御礼として宿舎より京に入った。これより景虎を改め、
輝虎と号した。

その御礼に向かう途中において、三好の家来の士と松永弾正少弼久秀の家人が馬上にて行き合い、
無礼であったために輝虎は怒り従士に下知して、たちまち討ち捨て頭を刎ねた。
近年三好、松永の威勢強く、これに並び立てるような者も無かったのだが、輝虎は斯くの如くの
対応をし、これに貴賤上下、輝虎を恐れること斜め成らずであった。
そして三好、松永はこれに一言も云うことが出来なかった。

(中略)

世に伝わる話に、堺に宿泊した折、旅宿の主人が草足袋を履いて見目に出たことに、輝虎は
「その体無礼なり」と怒り、その主人を手討ちにした。これに堺の者達千人ほどが怒って輝虎の
旅宿を囲んだ。そこで輝虎はその家に火を懸け切って出て彼らを追い散らした後、静かに京へと
帰った。輝虎の懸けた火は延焼し、堺において数千軒が焼失した。

太祖一代軍記

二度目の上洛でいろいろ大暴れしたらしい謙信公



謙信と猛猿

2021年08月20日 16:52

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 16:04:56.65 ID:R9Sq4sPr
天文二十二年、二十四歳、閏二月、長尾景虎は上洛した。

伝に云う、この時将軍である足利義輝公は宣われた
「景虎は若年より弓箭を取って、その武名は世に知らないものは居ない。
ちょうど今、土佐の長宗我部元親が献上してきた猛き猿がある。これは世に稀な猛獣であり、
檻に入れ、鉄でその檻を包んでいるほどだ。そこで景虎出仕の際、これを檻より出して路次に
繋ぎ置き、景虎の勇を試みよう。」

この猿は行き交う人を見ては必ず牙を鳴らして躍り上がり、叫声も凄まじいものであった。
この猿を以て景虎を試すという事は洛中に聞こえ、世の人は皆、景虎出仕の日を待って見物した。

景虎は洛中に間諜を置いていたので、この事を素早く聞きつけ、近習の士である鬼小島弥太郎という
大力の兵に下知して、巡礼の姿をさせて猿の餌食を持たせ、かの檻の方へ遣わした。

鬼小島は往来の人に交わり、番所に近づくと番士に話しかけ、件の猿に近づくと、猿は鬼小島を見つけ、
牙を鳴らし喚き叫んだ。そこで鬼小島は餌食を出しこれを与えると、猿は喜んでこれを食うこと三度にして
猿も殊の外静まった。この時、鬼小島はまた餌食を、今度は檻の外に置いた。

猿はこれを見て格子より手を出して取ろうとしたが、鬼小島は無双の大力であり、去る年、
越府往下の橋を修理した時、三十人持の大木を軽々と持ち上げた。これ故に世の人は彼を「鬼小島」
と呼んだのである。このような大力故に、猿の手をむずと捕らえ、格子の角木に押し当てて、
しばらく押し付けると、大力に痛めつけられ猿は涙を流して苦悩した。鬼小島は手を離さず、
半時ばかり痛めつけると、猿は弱って地に伏して啼いた。そして鬼小島は旅宿に還った。

翌日、景虎出仕の時、鬼小島も側に供した。洛中の貴賤は景虎が猿に遭った時の剛臆を見ようと
群衆した。公方家の諸士も景虎の出仕の様子、また猿の有様を見ようと皆々伺候した。
景虎は猿の前を洋々と通るが、猿は側に在る鬼小島を見知っていたため、恐怖した様子で
地に伏した。鬼小島は猿を睨んで通ったが、猿は頭を垂れ平伏した。

これを見た公方も管領も三好一門も奇特の思いを成し、御前首尾よく退出して帰られたが、
公方を初め奉り、細川右京太夫氏綱、三好筑前守長慶以下も
「景虎は若年より弓馬のみに心を寄せ、礼儀など知らないと思っていたが、出仕の礼神妙であった」
と褒め称えたと云われる。

太祖一代軍記

猛猿のお話の上杉謙信バージョン。長宗我部元親は天文八年生まれなのでこの時十四歳ですね。
家督もまだ継いでないので足利義輝に猿を贈るのはちょっと難しいかな。




445 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 21:22:23.14 ID:QWEeROo3
>>444
> 猛猿のお話の上杉謙信バージョン

やいこの縮緬坊主エテ公一匹躾けンのに子分の手ェ借りるたァ臍が茶ァ沸かすぜ若僧それっくれェも手前ェで出来ねえくせに軍神様が聞いて呆れらァ第一(でーいち)手前ェァ不敗だ何だ豪傑風ェ吹かしてやがるが本当(ふんと)ァ何遍も負けてベソかいて逃げてやがんの知ってんだぞこの童貞野郎こちとらァ本物の生涯(しょうげー)負け無しだあんな猿なんざ自分(てめえ)で四つに畳んで座布団に敷いちまわァ手前ェみてぇな張子の蛇のお兄ィさんたァお兄ィさんが違うんでぃ解ったか篦棒奴解ったら一昨日出直して来やがれっ。

※太田道灌は江戸者なので一切噛まず一息で二秒以内にこの啖呵を切ります。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 23:05:45.08 ID:46XUOyEh
その太田道灌、山吹の歌を家来に聞かされたら
「なな屁、や屁?なんだかくさそうな感じだなあ」
とか言いそうだ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 23:23:43.09 ID:BUA5xDqI
>>445
そのセリフ読んでたら森山未來が出てきた

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 23:34:44.65 ID:ewp9KiJx
>>446
おいおい、坂東武者は土蜘蛛や蝦夷の類じゃないんだぜ。

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 07:22:08.67 ID:unjCq8w5
>>444
猛猿注意
https://i.imgur.com/ZaqmVog.jpg
ZaqmVog.jpg


451 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 13:17:17.10 ID:2oZ3rl14
>>447
> 森山未來

何者だ其奴ぁ?と思って調べたら関西者じゃねえか。
口跡が薄汚く粘る関西弁じゃこの啖呵ァ切れやしねェよ。

453 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 17:36:18.57 ID:unjCq8w5
>>451
烏にゃ越えられぬ、富士より向こうのお国言葉は大層威勢が良いですね。人が沢山下って
合い集まる東国ならではの江戸っ子気質に溢れチャキチャキの威勢に満ちた、大
衆文化の新境地。鎌倉から戦国期に戊辰戦争、数々の大戦を経て育まれた土地ならではですね。

その言葉を忘れ給うな

2021年08月17日 17:51

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/17(火) 16:56:24.58 ID:rvMo7SwV
天文六年、八歳にして長尾景虎は勇猛にして兄三人を凌いでおり、その頃下越後の領主、
加地安芸守春綱に実子が無かったため、景虎を養子と定めた。そして景虎に、この家督を継ぐべき旨を
為景が直に申し聞かされたのだが、景虎はこれを悦ばず了承しなかったため、為景は怒って
屋形である上杉定実に訴えて諸老臣と談じ、景虎を下越後へと追い下した。

これにより景虎は府内を出て、米山を越した。傅役の金津新兵衛を始め四、五人が供であった。
この米山は上り四里下り四里で、峠に薬師堂があり、米山寺といった。この堂より見下ろすと、
越後の国中が眼下に見えた。この堂の縁で休み、景虎にも破子(弁当)を進めた。
景虎は八歳であったが、年頃よりは少し大人びていた。堂の縁を遊び廻り、金津新兵衛に向かって言った

「この度の無念を晴らし本望を達するには、この山が能き陣所であるから、この筋にて合戦をすべし。
頸城、古志、府内の城を眼下に見下ろす、能き陣場である。」

これを聞いた新兵衛は涙を流し、
「その言葉を忘れ給うな。頼もしく候。」
と悦んだ。果たして十一年後の天文十六年五月、景虎は兄晴景と一戦し、大利を得られ、越後を
切り取られたが、その時この米山が合戦場であった。

太祖一代軍記



436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/17(火) 18:10:18.04 ID:I/VKUdaS
>>435
こういうのがあるからたまに謙信がなろう系転生者の小説主人公になるんだよな

神童繋がりで、転生したら厩戸王子だったというのもあってもいいな

晴信の戦術は例えば

2021年08月13日 17:02

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/13(金) 14:43:58.43 ID:upLtH4SS
長尾景虎は越後へと亡命した村上義清に対して尋ねた。

「私は多年に渡り、甲州に限らず諸方に間者を遣わし置き、国々の風俗、国政の善悪、
軍事の勝劣を聞いている。村上殿は武田晴信と多年、数度戦っておられる。
そこで彼の戦術の法の詳細を、私に聞かせていただきたい。詳しくこれを聞きたいのだ。」

義清が答えて曰く
「晴信の戦術は例えば、水の漏れる船に乗って、風雨を凌ぐ如きものです。
戒め慎んで、軽率に戦を欲しません。」

景虎はこれを聞くと
「晴信は正兵である。私がこれに向かうには、必ず奇兵を以て、倫強にして進み懸かって、
これを討つに如くはない、」
と言われた。

春日山日記



416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/13(金) 15:07:30.31 ID:L6mwb0mW
>>415
謙信、人をして北條氏を諜せしむ。
氏康戦ふ毎に奇を用ふと聞いて、曰く「彼は奇を用ふ。吾は正を用ふるなり」と。
(日本外史)

相手によって態度を変える軍神様。
臨機応変変幻自在と云やぁ聞こえは良いが、結局北條にも武田にも負けてんだから世話ァ無ぇ。

上杉景勝覚書七箇条

2021年08月12日 17:22

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/11(水) 20:56:14.44 ID:8II8o6Wu
天正18年の秀吉による小田原征伐、ついで奥州平定、天正19年の陸奥征伐、九戸政実族誅の後には海内
初めて一統し、人心もやや安定した。

そのため天正19年10月、上杉景勝は覚書七箇条を発布して、地頭の正邪はただちに農民に反映するもの
なので、いささかも怠慢があってはならないと論示し、苛斂誅求、徴税吏の粗暴を戒め、常に忠孝貞節の道
を教訓させた。

また百姓は国の宝として務めて寛政を行うべきであるも、いやしくも土地に関して不法を申し募るようなら
斬に処するも差し支えなしとした。およそ訟事は決して片言をもって獄を断じ、または依怙の沙汰があって
はならないと上杉氏の治民方針を示した。(『竹俣文書』)

「覚

一、地頭の正邪により、百姓は善悪に移るものである。いささかたりとも油断あるまじき事。

一、年貢諸掛かり等は、なるべく勘弁いたして、悪作の年は前年より小分たるべき事。

一、何事も古法を守り、利欲のために新法を立てて、百姓を苦しませ申すまじき事。

一、忠孝の道理を常々教訓いたすべき事。女たちへは貞節の道理が自ずから分かるよう、肝要にする事。

一、年貢諸の等(ママ)を取り集めに行かせた役人たちが百姓へ対して粗暴の事がないように申し付ける事。

一、百姓は国の宝であるから、なるべく堪忍いたすように(百姓は國のたからに候間、なる程堪忍可致候)。
いよいよ不法を申し募って、ちめんに拘るならば討ち捨て申すべき事。

一、訴訟は双方共によくよく聞糺して沙汰するように。必ず依怙贔屓いたすまじき事。

右の条々を堅く守り申すように。以上。


天正19年辛卯10月 日 景勝花押

地頭大名中へ」

――『直江兼続伝竹俣文書)』



406 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/12(木) 03:31:08.58 ID:lTFxnUYn
直山「依怙贔屓なく審議を尽くした結果、3名様ほど閻魔大王への使いに出すことにしました。」



まぁ後世の創作くさいらしいけど

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 04:07:33.59 ID:NFSu9+hw
直山って誰だよ
閻魔送りの件はまんま
一、百姓は国の宝であるから、なるべく堪忍いたすように(百姓は國のたからに候間、なる程堪忍可致候)。
いよいよ不法を申し募って、ちめんに拘るならば討ち捨て申すべき事。
に当たる判定なんだろう

408 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/12(木) 04:27:00.01 ID:lTFxnUYn
>>407
直江山城の略

親しい大名同士だとよく名前と冠位やら略してくだけて書くことがあるからそれ風にしてみたんだ。

まぁ、あの逸話は再三の譲歩にも関わらず、和解せず退かぬ媚びぬ省みぬして、人集めて騒いだ遺族側が悪いと思うわ。

「私は伊豆箱根の者である。」

2021年08月10日 17:35

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/10(火) 13:02:03.40 ID:L7JNtLpE
長尾為景の次男とは、後に長尾弾正少弼景虎、後年剃髪して権大僧都謙信と呼ばれた人物である。
享禄三年に誕生され、童名を猿松丸と言った。しかしながら幼年の頃。戯翫に異様であるのを好み、
長するに及んで膽気剛腹にして、老臣の諫言をも用いず、その行跡は尋常の人ではなかった。
故に老臣たちは彼を悪み、疎み捨てたという。

異説に曰く、為景の内室が不思議な夢を見た。その夢は、年齢二十歳ばかりの客僧が、内室の枕上に立って
このように言った

「私にしばらくの間、その方の胎内を貸されよ」

内室は夢の中で返答した、「たしかに客僧の仰せに任せ、私の胎内をお貸しするのは安きこととは言え、
夫の下知を受けなければ叶い難いものです。」

「さあらば、為景に語られよ。為景同心に於いては重ねて来るべし。」

その言葉も言い終わらぬ内に、夢はたちまち覚めた。早朝に起きて、内室はこの夢の模様を
為景に語った。為景は夢の様子を詳しく聞かれ

「これはただ事ではない。天の加護によって、英雄の男子を授与され給うと覚えたり。
重ねて夢の中に彼の人が来れば同心するように。」
と、心に祝い、重々に沙汰された。

その夜、また内室の夢ともなく現ともなく、先夜の僧が来て枕に立ち寄り、
「過ぎし夜に約した事、為景に語られたか」
と尋ねられると、内室は返答に
「夫に語り聞かせた所、いと安き御事であると言われました。ところで御僧は何方より
来られたのでしょうか」
そう問うと、僧は打ち笑って

「私は伊豆箱根の者である。」

と言い終わらぬ内に、内室の左の懐中に入ると感じ、たちまち夢は覚めた。
それより程なく懐妊あり、享禄三年、男子が誕生した。これが即ち景虎である。
この事は世間にあまねく隠れなく、世間では彼が箱根大権現の化身であると
語り合ったという。

春日山日記

毘沙門天だけではなく箱根権現の化身とも言われたりしていたんですね、謙信公



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/10(火) 13:31:38.84 ID:1sued4HW
どうせなら関東管領になる、まで予言したことにすれば

直江兼続と鉄砲

2021年08月08日 18:02

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/07(土) 18:22:17.81 ID:6p8TSKjR
兼続(直江兼続)は当時にあって最も精鋭の武器である鉄砲の鋳造、及び射撃の錬磨を奨励した。

慶長9年(1604)、かねて伏見にいた時、景勝(上杉景勝)に従って所々歴覧の折、盟約ある良工
和泉国堺の和泉屋松右衛門、近江国住友村の吉川総兵衛を米沢に召致、工場を関村高湯に設置して、
鉄砲を鋳造させて各禄2百石を給し、その従弟と共に城市に居住させた。今の鍛冶町である。
火薬・軍器を調製させ不慮に備えた。

「一、鉄砲は張者の江州の者総兵衛、堺の者松右衛門と申す者、彼ら両人が大工にて鉄砲を張り申した。
   鍛冶は10人ばかりいて鍛冶町と申す所に罷りあったが、彼らも年々、10匁筒、15匁筒、
   20匁筒、30匁筒と御用次第に張り立て申した。
   右の両人は知行2百石ずつ下された。残りの者どもは御扶持ばかりで、役鉄砲の他は何挺張り
   申しても、作料米を下された。
   また金具は白金や御免町という所にあったが、受け取ってそれぞれに御作事次第であった。

一、鉄砲の玉薬ならびに塩硝は白河・岩城・相馬より年々に買い集められた。鉛は越国筋方々より買い調え、
  また当国でも掘っては買い置きなされた。

  さて薬は慶長9の頃より夏夕の嫌いなく御足軽20人で、からうす(唐臼)で踏ませられた。
  奉行は鳥山修理と申す仁である。夏の土用には薬を踏みきり拵えた。
  すなわち三の丸に薬蔵3間張りで20間に作らせ、薬をは大こかいくつ共なくゆわせ入れ、
  しかと詰め入れ置き申した。実にこれまでの20余年々合わせ申した。

一、武具・馬具・鉄砲・弓矢、万事諸道具の細工人は20人ばかりで、慶長9年頃より年々細工仕った。
  右の細工人衆へも二人扶持、三人扶持ずつに切米を下された。毎日罷り出て御細工仕った。
  この奉行は高橋清左衛門と申す仁である。これも二の丸に細工所としてあった」

  と、当時の武器製造の事が『景勝卿記』に記載せられてある。

  ――『直江兼続伝景勝卿記)』

390 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/08(日) 18:06:52.08 ID:A90kfpZO
鉄砲鍛冶工場を置いた関村高湯とは、現在の米沢市白布温泉(白布高湯)のこと。
市街地から南へ登った山上の関町集落から、車で更に20分の山奥にあり、さすがに大坂の陣終了後は撤収した模様。

この関町(立石)は伊達時代に支倉常長が誕生した地でもあります。


白布温泉
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B8%83%E6%B8%A9%E6%B3%89



392 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 07:32:55.42 ID:0Q6lNaf4
>>389-390
https://i.imgur.com/5I2CHNi.jpg
https://i.imgur.com/syATkuG.jpg
syATkuG.jpg

5I2CHNi.jpg

パチ○コで恐縮だが、花の慶次の○チンコで直江兼続が直江大大筒と言う超兵器使ってるんだけど、それを思い出して馬鹿げたことだと調べたら、当然そんな大砲は当時無いけど、>>389にも書かれてる通り、米沢藩の銃は10〜30匁で大坂の陣では上杉の雷筒と呼ばれて他家に恐れられる程の代物だったんだね…

https://www.miyasakakoukokan.com/hinawaju.html

https://i.imgur.com/SyU2huK.jpg
https://i.imgur.com/rItTWUI.jpg
SyU2huK.jpg

rItTWUI.jpg

確かに他所の銃と比べたら太いわ…

http://www.日本の武器兵器.jp/legacy/hinawajyu3/page/020.html

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:07:04.50 ID:zqhEdkjg
上杉家の大口径火縄銃は戊辰戦争でも使用され、家屋の壁の破壊などでも活用された話があります

394 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:24:18.45 ID:zqhEdkjg
館山城 (出羽国)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A8%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%9B%BD)
米沢市の館山城は会津への街道入り口にあり、近年の発掘調査で国指定史跡となりました
伊達時代の城そのままを確認するつもりの調査が、実は上杉家が建設し破棄したものとわかった経緯があって
本城である米沢城は東日本系の土塁なのに、西の技術の石垣が構築されていたりします
それで直江の書状の一部で理由がわからなかった「例の城の始末よろしく」の文面が理解できたということだそうです

関ヶ原後、元和までの各家はそういう準備を怠らなかったし、終わったら終わったで何食わぬ顔で始末してたわけですな

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:25:34.99 ID:wtwlFdzc
家屋の破壊より薩人マシーンの破壊に使えよと。
いかに後退のネジを外された奴らと言えど、20〜30匁の弾でぶち抜きゃ活動停止するだろうに…


と思ったけど戊辰戦争の頃じゃあ、洋製の新式銃にゃあ射程やら何やらの点で太刀打ち出来なかったのかね?

396 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:37:10.65 ID:zqhEdkjg
なお石垣については、上杉家の直前に西出身の蒲生家の領地になってますが
やはり上杉で間違いないという報告ですね

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/09(月) 11:27:51.15 ID:W8r3Z/Qm
>>395
アームストロング砲と比較するとなあ。

398 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 11:35:25.44 ID:wtwlFdzc
>>397
やっぱ時代はコレだよね
https://i.imgur.com/0hOfmvK.jpg
0hOfmvK.jpg

399 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 11:37:04.41 ID:wtwlFdzc
>>397
ていうかアームストロングぶっぱしたら市街地ヤバない?

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/09(月) 21:10:10.55 ID:W8r3Z/Qm
>>399
当時炸裂弾(たしか)じゃないから。上野戦争はアームストロング砲で薩長が勝ったなんて言われてる。

直江の誤りと見るのが正道である。

2021年08月06日 18:08

下秀久   
903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/06(金) 15:18:04.32 ID:JIwzFV+j
長谷堂城の戦いから、直江兼続軍の撤退の時、最上領谷地の城に下次右衛門(秀久)が残し置かれており、
周辺の仕置を申し付けられていたが、彼は石田三成が滅亡した以上、行く末上杉家頼りなしと思い、
最上に従い、最上衆を庄内に引き入れ切り取らせた。
そうなれば、直江さえ会津に呼び返される程であったので、庄内に置かれた城持ち衆も留守居を
少々残して皆会津に召喚されており、そのためやすやすと、何の手間取ることもなく庄内三郡は
最上義光の手に入った。

この次右衛門は謙信公の下男であったのを、御眼力を以て御取り立てになり、騎馬の列になさて、
その御推察の如く数度武功を顕したことで次第に立身した。この者は隠れなき算術の上手であった。

景勝公の御代に、四人御領分として、勘定奉行の下次右衛門は庄内を、川村彦左衛門は佐渡国、
窪田源右衛門は信州川中島、山田喜右衛門は越後国旗本に有り、その様子、御仕置の作法は
武道の助けとされた。

今度、最上へ直江が出陣した折、谷地、寒川江の領城を乗っ取れたのは、この下次右衛門の分別
宜しき故であった。しかし武道は良しと雖も、元来下臈であるため義理を知らぬため逆心した。
然れば、その原因は直江が谷地城に次右衛門を残し置いた為であり、直江の誤りと見るのが
正道である。

(管窺武鑑)

実際には下秀久は直江から撤退を知らされておらず取り残される形になっていたとか。



905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/07(土) 03:36:42.47 ID:arSrnCGw
管窺武鑑が執拗に藤田age直江sageしてんなと思って
どういう書物かと調べてみたらああ…納得ってなったわ