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「朝野雑載」から八丈島の話

2022年02月27日 12:21

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 22:17:47.71 ID:C/KFd0uw
朝野雑載」から八丈島の話

豆州の住人、朝比奈六郎知明という者、軍兵を集め、大船を催し、数年用意して、下田より船を出し、八丈島に着き、島中を従え、
今後より日本伊豆国の内なるべしと定め帰り、北条早雲へ申し、氏直まで五代領知し、日本の内となれり。下田より未申にあたる。
島の風俗、家主は女にて、男は入り婿なり。
女は髪長く、色白く、容艶にして、日本人にさしてかわることなし。
女は多く、男は少なし、女をうめば悦び、男をうめば捨てもののように思う。
知明渡海の頃は永正の初めなり。

おそらく「北条五代記」の記事をまとめたものと思われる。
「北条五代記」ではこのあと板部岡江雪斎の八丈島報告が書かれているが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3820.html
板部岡江雪と「八丈島」
で出ていたのでそちらを参照

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 22:21:19.29 ID:C/KFd0uw
ついでに択捉島に立っていたロシアの十字架を倒して「大日本恵土呂府」の標識を立てて日本の領有権を主張した事で有名な、
近藤重蔵の息子である近藤富蔵は殺傷事件を起こし、八丈島に流され「八丈実記」を記しているが、その中の話で「綜嶼噺話」という書物を引用し、
「大津波が起きて妊婦一人だけが助かり、男子を生み、母子が交わって子孫を作った」
という、小松左京「日本沈没」でも言及されていることで有名な「丹那婆伝説」について書いているが、
実は引用元の「綜嶼噺話」には「妊婦は女子を産んだ、これが女護島のゆえんである」と書かれている。
本来は上の話にもあるように、女性中心の神秘的な島の始祖伝説のはずだったのに母子相姦の始祖伝説にされるとは



72 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/26(土) 22:58:28.36 ID:9qpY0v6i
>>70
現時点で史実とされる経緯とは大分相違している。

八丈島は山内上杉の所領だった。
朝比奈は三浦の被官で、山内方或いは扇谷方の奥山という者と共に八丈島の支配に当たっていた。
後に伊勢宗瑞方で下田に拠る御簾という者の強襲を受けて争った結果、敗北して下田に抑留された。
伊勢が対上杉宣戦に踏み切る伏線を成す在地抗争の一つとみられている。

『北條五代記』では論じても詮方無いが…。
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主人の勝頼は図らずも信長のために自害して

2022年01月04日 16:13

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/04(火) 03:12:50.87 ID:AEphEda+
(天正9年、笠原政晴の謀反の時)

小田原の老臣である松田尾張守(憲秀)の子息・松田新六郎はその頃は笠原の養子で
笠原新六郎(政晴。政尭の名で知られる)と申し、600騎の大将であったが去年より戸倉の城に在城した。

その頃の駿河国は甲州の領地なので、伊豆の堺目沼津の城に勝頼衆の高坂源五郎(春日昌元か)が200余騎で籠もった。
笠原新六郎も手勢180余騎で戸倉に在城し、互いに近所なので苅田をさせ、夜駆けの足軽競り合いが度々あった。

この新六郎は若輩の頃より武勇の道は無器用にして、欲深きことは並びなき人であった。
そのため高名もなくして官禄を望み、功なくして忠賞を願い、折にふれて不忠ばかり多いため、
小田原でも氏政と氏直(北条氏政・氏直)はさほど御馳走なく、新六郎は内々不足に思い、
「時機が良ければ謀反も起こすというのに」と躊躇っていた。

そんなところに沼津の城主・高坂源五郎は、三島の心経寺という僧をもって勝頼の御意だとして
色々新六郎を謀り、「伊豆一国の守護になされ新六郎を勝頼の婿になさるので、こちらへ降参して忠功なされてしかるべし」
と語らった。笠原は元来大欲深き男で、そのうえ内々小田原に不足もあり時機良しと存じて甲州方になって勝頼へ内通し、
甲州勢・海野組の衆200余騎にて戸倉の城へ籠もった。

(中略。政晴は北条方を攻めて笠原照重を討ち、玉縄の北条氏勝が政晴討伐に出陣)

同3月中旬、戸倉・大平の間の手白山という所まで出張ると戸倉城から出家1人がやって来て
左衛門太夫(北条氏勝)の前に畏まって申すには、

「私は笠原新六郎の使いでございます。今日の御出勢には罷り向かって一矢仕るべきですが、
主人の勝頼は図らずも信長のために自害して滅びなさったと只今告げ来たりました。それでは戦も無益であります。
ただ城を渡しましょう。御勢を向けられてしかるべし」

これを聞き左衛門太夫は「もっともだ。しかしその是非は小田原へ申してこそである」と飛脚でこれを小田原へ申し上げた。
氏政は聞こし召し、評定なされて御出馬あり。笠原新六郎不忠の逆儀は申すに及ばざる次第ながら、父尾張守の度々の忠功に
思し召し替えられて命を御許しになった。そして新六郎は出家入道して罷り出るように、また城を受け取り、
甲州勢をなんとかして討ち取ってしかるべしとの御下知であった。

左衛門太夫は承り、新六郎に出家させ城を受け取らせるようにと申し、甲州からの加勢衆にも早々に城を開けて退きなされ
との使者を遣わした。甲州勢は「是非ともこの城を枕に仕るべし!とても帰るわけにはいかない!」と申した。
左衛門太夫は重ねて申し「沼津の城も五三日以前に開けて皆々退きなされた。各々も何が苦しかろう、ただ御退きしかるべし」

すると甲州勢は「では笠原新六郎殿を人質に賜りたい。それならば退去しよう」と言う。ならば人質を参らせようと、
新六郎の名代として御宿又太郎という笠原が身を離さぬ小姓で、まことに容顔比類なき児で16歳の者を、
“またらかけ”という名馬に乗せて、「何事かあれば乗り抜けよ」と密かに申し聞かせて人質に出した。

しかしながら甲州方でも心得ており、その馬には乗せずに小荷駄に乗せて、ことさら中に取り囲んだ。
2,3町も過ぎると前後から敵が取り巻く様子となって人質をも討ち果たし、甲州衆200余人は一所に皆討たれたのである。

――『異本小田原記』

笠原新六郎は後に小田原征伐で父・松田憲秀とともに豊臣方に内通しようとして北条方に殺害される
黒田官兵衛の聞き間違いのふりで処刑された逸話でも有名かな




ついにそれより女人を禁制なさり

2021年12月09日 17:31

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/08(水) 23:24:21.09 ID:5Z9jxIQx
氏照(北条氏照)と申すは、氏政(北条氏政)の弟の中でも武勇に優れ、特に大名であった。

上杉(山内上杉氏)の老臣に大石源左衛門定久という人がいた。
この人は木曽左馬頭義仲12代の末葉である。代々武蔵の守護代だったが上杉滅んで後に氏康へ降参し、
後に男子なくして氏康二男の氏照を婿にとり名跡を継がせ、氏照は“由井源三”と称した。

(中略)

ところで、氏照は先年の三増合戦(三増峠の戦い)で打ち負けて逃れ難い時があったが、
この時に山上で飯縄神へ祈念し、10ヶ年の間の女人禁制を立願なされた。

帰還した氏照はその時の祈念を果たそうと、ついに御前の方へ御入りにならず数年が経った。
かの女性はこれを夢にも知らず、氏照は自分を疎んで仇があると恨み、ついに思い沈み早世したのだという。

死後に書き置いた文言を見て氏照は後悔されたが叶わず、氏照もこれを本意なく思いなされて
ついにそれより女人を禁制なさり、その一世はただ出家の行儀と同じであった。

さてまた、大石には因もあるからと本姓になり返り、北条陸奥守氏照と申した。
また瀧山の城(大石氏の居城)は名城ながら瀧には“落ちる”という事があるから
城の名には禁忌だとして八王子に移ったのであるが、天正18年、ついに運尽きて落城した。

――『異本小田原記

氏照正室というと八王子落城に因んだ悲劇で知られるが、この記事はまったく違う内容を伝えている
もっともこっちも悲劇なんだが



「名残常盤記」続き

2021年12月04日 16:36

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/03(金) 23:13:02.08 ID:pSaRneIZ
名残常盤記」続き
(常盤は頼康の寵愛を受け懐妊するが、ほかの側室たちに妬まれた。
また、世田谷吉良家譜代の内海掃部という美男の侍は、風紀の乱れを注意したことで玉の井の婢女(はしため)の恨みを買っていた。
頼康が主君かつ親族(頼康の正妻は北条氏康の姉妹とされる)の北条氏康の見舞いのため小田原に出向いた際、
途中の藤沢の宿において、掃部のたもとから常盤の手跡の恋文が挟まれた袱紗(ふくさ)がでてきた。
目をかけていた家臣と常盤との密通に激怒した頼康は内海一族を成敗し、常盤の殺害も命じた。
頼康の姉の淀殿は常盤の潔白を信じ「せめて子が産まれるまでは」と止めるが頼康が聞き入れないため、ひそかに常盤を逃そうとした。
しかし夜道を逃げる常盤に頼康の追手がおいついたため常盤は自害。享年十九、胎内の子は八ヶ月であった。)

さても御所には一旦憤り深く思し召し、情けなくも計らいたまえども、妹背の契り、かれこれ朝夕のおゆかしく思い給いて、ひたすら鬱々として、おものをも仰せられず。
人目忍び入り、御涙せきあえたまわず、御所しずまりかえり、さびしきおりから、文月九日の朝より、不思議や御殿震動することおびただしく、
山崎の辺より白鷺むらがり、なきさけぶことかまびすしく、そもおそろし。
御所にも御驚きましまして、諸山の貴僧高僧を集めて、さまざまお祈りありけるところ、
ふしぎや玉の井の婢女、にわかに狂乱馳せめぐり、しばらくありて口走る。
「我はこれ鷺の宮の神霊なり。汝ら三寸の舌をもって、あやりなき人を殺し、殊に若君を失いたてまつること、天の咎め逃れ難し。
常盤の方にはつゆいささか、曇りなき身を袱紗より、事発端し内海父子を滅ぼせしは不届きとやいわん。
(以下、側室と玉の井の婢女が共謀し、常盤に仕えていた右筆をだまして恋文を書かせ、藤沢宿の遊女をしていた婢女の妹に命じ、内海掃部が居眠りした隙に袖の中に袱紗を忍ばせたことをあばき)
汝らいちいち責め殺さで置くべきか」とはしりめぐりてどうとふし、
また起き上がり、掃部が声にてお恨み数々申し上ぐ。書きたるものを取り出し、御所様へ投げつけたてまつる。
出仕の銘々、魂きえ寄り添い、介抱してければ、物の怪去って静かなり。書きたるものを御覧ずれば
「おしおきは いろはのうちの下の文字」この心は、とがなくてしす、という事なるべし。
御所にもこのころの、奇怪さまざまなり。うち、物の怪の申したる事恐ろしく、御憤りに引きかえて、人々の思惑、淀殿の毎度の御異見おもちいなく、罪なき人を死罪せし、
我が身ひとつにふるなみだ、御機嫌あしく、近習外様、御叱りを、こうむらざる人もなし。

(その後、頼康は内海掃部と常盤の親族に詫びをし、事件に関わった女房たち十三人を水責めにして全てを白状させ、若林村で残らず成敗した。
胎児のまま死亡した若君のために一社を建立し、馬引沢中郷神戸(ごうど)若宮八幡として崇めたてまつり、
常盤の供養として法華経千部を書写し弁財天を勧請した)

さても修行者の空山(物語の聞き手)は、夢うつつとも幻に、ながなが由来を上臈(語り手、仙女と見紛う美女)の、御物語を聞きおりしが、
遠寺の鐘の告げわたり、日も西山に傾きて、黄昏しらす鳥の声。
上臈見ればましまさず、いかにいかにと我ながら不思議に覚え、
「おもかげは 程なく消えて 跡にただ 田の面に残る 草の葉の露」
と古歌を吟じて、行方は諸国修行の道と。
「とやかくと 書集めたる もしお草 いつわりばかり 世には残して」

名残常盤記 終

(鈴木堅次郎「世田谷城 名残常盤記」から鈴木氏が四写本を用いてまとめたものから抜粋・要約)

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/04(土) 00:04:07.31 ID:O9A6HOPb
なお常盤が殺された理由については
頼康の正室が北条氏のため、跡取りになるような男児が産まれるのを防ぐため、という説も
(黒田基樹「北条氏康の家臣団」によれば、
頼康には太郎・次郎・辰房丸という男児がいて、太郎と次郎は北条氏が嫁いだ時にはすでに生まれていたようだから成り立たないが)
結局のところ男児が全員死んだか、北条の血を引く辰房丸だけ死んだかで適当な後継がいなかったため
頼康は北条氏康の指定した氏朝(遠江今川嫡流の堀越六郎の子で母親は氏康妹の山木大方、正室は北条玄庵の娘)を養子に迎え、翌年病死。
この氏朝の代で小田原征伐が起き世田谷城から退去、その後は家康に従う。
https://i.imgur.com/SkH8d9K.jpg
「へうげもの」にも氏朝は少し出てくる



ただちに名付けて「鷺草」と

2021年12月03日 16:45

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/02(木) 21:16:21.72 ID:WukBVQQP
Yahooニュースで数日前に世田谷の常盤姫のことが出ていたので
「名残常盤記」から常盤姫が世田谷吉良氏の吉良頼康に呼ばるまでの伝説を

頼康卿しばらく遊猟を好ませ給い、折節冬の時雨空、深雪積もりし曙に、御鷹野狩を催され、
深沢、野良田、等々力の辺、駒にまかせてあわしける所に、奥沢の深田にして、早くも御拳離されて、一羽の鷺をあわせたまう。
大平出羽守が境より出羽が屋敷へ御鷹は、鷺をつかんで落ちたりけり。
御よろこびの余り、大樹(頼康)みずからこれをおさえられ、えたる鷺を御覧あるに、短尺(たんざく)つけてあざやかに
「狩人の けふはゆるさん 白鷺の しらじらし夜の 雪のあけぼの」
とありければ、頼康卿さらに御不審たまわず、かの短尺をとくと御覧ずるに、いとあでやかなる筆の跡、いずちにいかなるものの婦の、書きしものと御心深う思い入る。
まことに絵にかける女に御心まどわし、おもいこがれておわします。
御近習に候うしたる橋本天王丸を密かに召して、こころを語り、
「近在をめぐりて、鷺につけたる短尺の、この筆主をたずねよ」と、仰せありければ、
天王丸かしこまり、「君言汗の如し」と古語を思いつつ、これよりもすぐに、行方定めぬ雪の朝、名を白鷺の跡をしたうて、天王丸が身の難儀なり。
(天王丸が鷺に短尺をつけた人物を探し、松原、経堂、北沢、船橋、八幡山、曾子我谷(祖師谷)、喜多見、用賀、鎌田、玉川、諏訪神社を、かけ言葉を使って尋ねていく描写あり)
(諏訪明神のご利益が)上野毛(かみのけ)たちておそろしく、むねはとどろく等々力の、村に流るる小川あり。
いずかたよりして若侍、会釈もなしにかけ来たり。
「我ら主君の秘蔵せし一羽の鷺、雪の旦(あした)に籠抜けして、行方しれず」とたずねける。
(天王丸が主君の頼康が鷺の持ち主を探していることを若侍に話し、二人で互いに喜び合う。
天王丸は頼康の元に戻り、短尺を書いた人物が大平出羽守の娘の常盤であると告げる)
頼康「鷺をこぶしにてとらせしときのかの一首、何ゆえ鷺へ付けてありけるぞ」
天王丸「父出羽、この姫を、あまりにいたわりいとおしみ、数多の鳥を飼い置きしに、
おりふし夜雪つもり、強くいためるその気色、自ら籠を押しひらき、かの短尺を結びつけ、放したまうと承る」
(頼康は年来思い焦がれていた常盤が短尺の筆者と知ったため、頼康の姉の淀殿を大平出羽守のところにつかわし宮仕をすすめ、
出羽守もよろこんで娘常盤を頼康の元に送り出した)
さてもこの度、常盤の君、御入殿なりしおこりこそ、ひとえに雪の白鷺の、わたせる橋の縁とて、折々ごとの御酒宴にも、
頼康「一羽の鷺を得しよりも、その因縁にその方を、宮仕うは我も満足、せめてその鷺とどめられしあとを、見まくほしや」
とのたまえば、ころしも水無月十五日
頼康「先頃鷹を合わせ、鷺をとどめし方はここらぞ」と、御馬を立たせ御覧ずるに、かしこもここも野も芝原、
さもうつくしく皆白妙に咲く花の、草花なれども見事さは、何にたとてん初深雪、
御所をはじめ、侍従まで、不思議と見る目、花のなりは、そのままに鷺の舞い立ちし、形に寸分違わねば、
ただちに名付けて「鷺草」と、末の世までも呼ばわりて、奥沢の野にありとかや。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1121.html
世田谷の鷺草・哀しい話

※PDF注意
https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/sumai/010/002/002/d00026703_d/fil/26703_2.pdf
世田谷区が紹介する「サギソウ伝説」


のように世田谷の鷺草伝説はいろいろありますが、この伝説も有名らしいので



幽霊夢中に人に告げて僧を請ずる事

2021年11月17日 17:44

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/16(火) 21:52:39.66 ID:O09aI1NL
江戸初期の三河武士で、出家後に職業倫理を説いたためウェーバーのプロテスタント論と比較されることでも有名な
鈴木正三の仏教説話集「因果物語」から「幽霊夢中に人に告げて僧を請ずる事」

小田原氏直の乙名某、或る時主君氏直公の三十三年忌を弔わんと欲する時、夢中に氏直来たり。
彼の乙名に向かって「汝が心替わり故に我亡びたり。汝の逆心の恨みはいうはかりなし。
さりながら我が忌日を弔わんと思うこと祝着なり。
しからば、ただ湯の沢の山居僧を供養すべし。
其の仔細は彼和尚、毎朝ねんごろに法界を憐れみ、生飯(さば、自分の食事から仏のために取り分けた少量の飯)を取りたまう。
それが届き毎朝食するゆえに、ついに餓鬼の苦を免がれているなり。
これになんとも御礼申すべきようもなし。
然る間、此の和尚をねんごろに馳走してくれよ」と。
乙名夢覚め、則ち彼の忌日に山居の和尚を慇懃に供養せしと。
是、久しき物語なれどもたしかなることなり。

北条氏直が死後に飢えてるところを生飯でしのげたため
かつて自分を裏切った部下に「自分を供養するなら日頃生飯を取り分けてくれる僧に回向してもらってくれ」と夢で告げた話。

奥多摩銘菓へそまんじう由来記

2021年11月05日 17:03

139 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 14:13:12.16 ID:7TzE4MpB
奥多摩銘菓へそまんじう由来記

古来へそは大切なものながら世人之れを茶目でユーモアな存在としているが、体の中央に悠然と構へ、その形も千差万別で、満月型あり、月見型あり、谷見型、藪にらみ型、稀には出臍等愉快なのがあれ共、フックラとした月見型を最も可とすると古書に見えたり。
心のひねくれしを臍曲りと例え、可笑しきときは臍が茶を沸すとか臍の宿替とか申し、又、昔漢の項羽が山をも抜く力も、へそごまをとりて力忽ち衰へたりといふ。ゆめゆめへそごまはとるべからず。
抑々弊舗特選のへそまんじうは、その昔永禄6年、当地より程近き辛垣城に構える三田弾正綱秀を小田原の北条左京太夫氏康と其の子滝山城主北条陸奥守氏照父子が昼夜を分たず攻め立てしが、中々落城せず偶々折柄の大雷雨中を隣峰その名寄しらむ雷電山口より攻め込んだ豪勇無双の十勇士により、さすが難攻不落の辛垣城も陥落したるが、この十勇士が当時この附近の茶店で購った兵糧のまんじうを腹巻に包んでおいた所、不思議や全部このまんじうの型に変り大雷雨に臍も取られず、然も勇猛果敢な働きに澤山の恩賞を授けられしとか。
依ってこのへそまんじうを常に賞味し、臍下丹田に力を入れて世に處するなら必ずその成功疑ふ可からず。

秩父多摩国立神代吊橋畔 登録商標へそまんじう本舗 主人敬白



140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 14:21:03.44 ID:POVyYTYg
「まんぢゅう」「まんぢう」ではないのか

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 14:23:37.85 ID:/7F8548Y
北条の十勇士って誰だったんだろ

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 16:38:47.09 ID:510z2f6l
多田満仲「嘘つけ、ただのまんじゅうだろ」

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 18:40:55.37 ID:sEJuZ4sA
和田まんじゅうなら知っとるが

144 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 19:21:18.43 ID:7TzE4MpB
>>140
https://i.imgur.com/jrvmx0n.jpg
https://i.imgur.com/7bB4BiK.jpg
jrvmx0n.jpg
7bB4BiK.jpg


145 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 19:42:38.45 ID:7TzE4MpB
>>142
審議中AA略。

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/06(土) 03:31:54.37 ID:gvVzScEM
タダノマンジュウダッテ ヒソヒソ
    ∧,,∧  ∧,,∧す
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U (  ´・) (・`  ) と ノ
 u-u (l    ) (   ノu-u
     `u-u'. `u-u'

氏康は奇兵を好んでいる

2021年08月18日 19:09

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/18(水) 17:13:23.35 ID:KOvlo7hq
天文二十二年九月下旬に、小田原への間諜が越後に帰り、上杉謙信に言上して曰く

「北条家の群臣には武功有る者多い中でも、松田尾張守(盛秀)は智計深遠にして、軍用の具を
常に蓄え、欠乏させる事がありません。その上常に士卒を調練し、湧進の志を励ましています。
故に北条氏康も、軍事に於いてはこの尾張守と諸事評議されているそうです。

最近も、松田は諸方の寺より撞鐘を取り寄せて、毎日これを鋳鎔して鉄砲の弾としました。
ところが、鎌倉のある小寺より鐘を取ろうとしたところ、その住僧は甚だこれを嘆き惜しみましたが
力及ばず、かの僧は別れを惜しみ、鐘を抱いて涙を流し

「私は年来、二六時中これに手を触れないという事はなかった。今から以降は再び手で触る事が
出来ない、私はこの鐘に於いては残念が盡きない!」
と言って、声を上げて泣く泣く立ち分かれました。

そして奇妙なことが有りました。この鐘が小田原に至って、これを鋳鎔しようとした所、鐘より
水煙が吹き出して炭火が皆消えたのです。それから数度にわたってこれを鋳鎔そうとしましたが、
毎回水煙を吹き出して遂に鎔かす事ができませんでした。人々は皆、これを見て、かの住僧の
怨念である、と言いました。

しかしこれについて、老鋳師が言いました
「古にもこのような例が有った。牛馬の糞を炭火の中に入れた時は止む。」

これによって牛馬の糞を入れた所、炭火は盛んに燃え、鐘はたちまち熔けました。

又、盲目で情が強く、意地を立てる異相の者がありました。氏康はこれを聞いて喜んで呼び出し、
彼を咄の者としました。ところがかの盲目の者は、話と違い和順であり、意地が強いという異体は
ありませんでした。これに氏康は

「汝が意地強く異相であると聞いて召し出したのだが、然るに今その方が人に対して和順であるのは
どうしてなのか。」

と尋ねると、盲目は答えて曰く
「君は意地強き異相を好んでいます。しかし、そこで能く和順である事は、この異相の意地にあらずや。」

氏康は甚だこれを喜んだと聞いています。」

謙信はこの一々を聞かれて曰く
「氏康は奇兵を好んでいる。私はこれを撃つに必ず正兵を以て戦わん。」と言われた。

春日山日記



440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/18(水) 17:56:07.68 ID:sK+P/PXf
鐘と不思議なお話と奇兵正兵の話の繋がりが判らないのだが…
不識庵様の話術は凡人には難し過ぎる

岡野紅雪という人が有り

2021年05月06日 19:02

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 15:12:03.47 ID:3pTNnCr4
岡野紅雪(板部岡江雪斎)という人が有り、彼は現在の、岡野孫九郎の先祖である。
この江雪斎は小田原北条家の旗下であり、小田原落城の時、彼は生け捕り縛められ、
秀吉公の御陣に連行された。

これを聞いて秀吉公は仰せになった、「真田御陣の時(名胡桃城事件の事か)、この岡野は
表裏第一の不届き者であった。磔にも致したい者である。様子、委細を尋ねよ。」

そこで使いを以て尋ねると、江雪斎は
「この事は人伝えではなかなか申し上げられる事ではない。直に申し上げる。」
と、縄を取って引き立てるよう要求した。
この事を秀吉公はお聞きに成り、「苦からず」と、彼を御前に召し出した。
そして一々にお尋ねになったが、江雪斎はそれら一々に申し訳を仕り、そのため一命は
お助けと成り、秀吉公の御咄衆と成った。

ある時、京都に於いて能の御興行の時、秀吉公に家康公が仰せに成った。
「小田原北条は、関八州の大将なれども、久しく城で堪える事が出来ず、わずか百日ばかりにて
落城し降参しました。本来ならこのような時の御物語の相手にも成るべき者であったのに、
籠城したにもかかわらず、不甲斐なく百日ばかりにて落城したのは、非常に残り多きことです。」

この時、かの江雪斎がその末座に有り、罷り出て申した
「天下の人数を引き受け、北条であればこそ、百日も持ちこたえたのです。その上あの時は、
北条が第一に頼みにしていた家康公にも見放されており、そうであった以上、仕様も無かったのです。」
と申した。

これに秀吉公からの返答もなく、家康公も言葉もなかった、という。

烈公間話



151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 18:22:57.84 ID:e/D2hHJL
うわぁこいつくうきよめよ

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 20:42:16.07 ID:K6sXGfC5
いかにも弁舌の人

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/07(金) 10:55:01.07 ID:a2A2XpA5
信長の野望でなんか名前長くて政治に使える人だ

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/07(金) 14:25:21.65 ID:s81hAZ4r
豊臣徳川側の史料ばかり残るから
家康は巻き込まれてはたまらんと必死に氏政・氏直上洛交渉してたように見えるけど
交渉の過程では北条(江雪)側に、家康は結構ムシのいいこといってのかもしれんな
「第一に頼みにしてたんだけど土壇場で見放された」とわざわざ一言言いたくなるぐらいには

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/07(金) 15:12:10.04 ID:C4fPMGID
これだけ骨のある人は口説の徒とは呼べないな

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/08(土) 01:05:46.45 ID:9hD7S84G
「秀吉に直接言うわ」って返答に対し、秀吉が激怒して江雪を詰問、
江雪はあくまで主君氏直を辱めない返答をして感心された
って流れの本もあるしな

「北条雑魚でしたね」って家康の話の振り方がまずい
こうなると江雪としては黙っちゃいられない

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/08(土) 15:07:58.15 ID:xqDxwrce
見放したって言うけど散々上洛を勧めたのに応ぜず面目を失わせた雑魚が悪い

その趣きを、私は記すのである

2021年03月25日 17:58

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/25(木) 13:52:15.72 ID:aTzJ8sRQ
聞きしはむかし、伊勢新九郎氏茂という侍が遠国より来て、伊豆国を切り取ったという事が
言い伝わっているのであるが、多説あって何れが正しいのか知り難い。

新九郎は京都より駿河に下り、今川氏親を頼み、牢人分であったが、武略の侍と船にて渡海し、
伊豆国を切り取ったよしを、老人が物語した。しかしこの説は覚束ない。

どういう事かと言えば、例えば私が江戸に在って、近辺の町人の噂話などを今日聞き、あくる日に
その実否を問うと、虚言ばかり多い事がわかる。江戸中の事ですらそうなのである。その上年月を過ぎ、
境を隔てている事について、言いたいように語るのは、世の常の習いであり、しかしそれを聞く人は誠と思い、
筆にて記し置くために、後世の人はこれを治定としてしまう。
兎にも角にもそら事の多き世なのである。

だからといって、今更世の噂を云うわけではない。右の新九郎は、名を得た達人であり、古き文に
一言づつ、数多に書き残されているのを愚老が近年見つけ出し、その趣きを、私は記すのである。

北条五代記

北条五代記の冒頭部分



「豆相記」の小田原城攻めの場面

2021年02月20日 18:08

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/20(土) 17:44:58.68 ID:tJgxCgXM
豆相記」の小田原城攻めの場面

長享の乱で争ったあと、山内上杉氏が扇谷上杉氏と和睦した際
「もともと両上杉が不和になったのは、自分のところの家老の長尾伊玄(景春)とそちらの宿老の太田道灌が互いに奢侈を極め、威を争ったためである。
こちらは景春を殺すのでそちらも道灌を殺してくれ」
と扇谷上杉に言ったため、
扇谷上杉はその言葉に乗せられて太田道灌を殺してしまった。
しかしこれは山内上杉の計略であり、山内が景春を殺すことはなかった。
こうして両上杉の和睦が破れた。
これを聞いた氏盛(早雲)は箱根山に材木を取ると偽り、日中に大嶋の牛を山の頂上に上らせて
夜になると牛の角に柴薪をつけ、火をつけ、壮士によって浜辺へと追わせた。
千万の勇士が鐘と太鼓を鳴らしながら攻めてくるようであり、まさに田単の火牛計そのままであった。
小田原城守の大森氏は大いに驚き、撃退するために兵卒を海辺にむかわせると
氏盛は反対側の山の方から自ら兵を率い、大森を襲ったため、大森は益々あわて、兵は潰えてしまった。
こうして早雲は小田原城を奪った。

敵陣に突撃させた田単とは違って、陽動に使っただけだから
ハンニバルのカリクラ峠での火牛計の方が近いかもしれない



北条五代の軍記物「豆相記」冒頭

2021年02月18日 16:52

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/18(木) 00:28:33.19 ID:dAvrlu3W
北条五代の軍記物「豆相記」冒頭

北条家中興、伊豆の早雲、俗名は伊勢新九郎氏盛、後に長氏と改む。
姓は平氏は北条、いわゆる桓武天皇第五王子、葛原親王三代の孫、平将軍貞盛の曾裔なり。
元弘三年五月二十二日、相模入道高時自殺の時(新田義貞による鎌倉幕府滅亡時)、高時の舎弟四郎左近大夫入道の謀にて
諏訪三郎盛高(諏訪頼重と同一人物説あり)、高時の次男亀寿丸を誘いて、
負うて甲冑の上に戴き、ひそかに扇谷を出て信州に犇く。
諏訪の祝(ほうり)に依劉して三軍の師を申し起こし、相模二郎時行と号す(中先代の乱)。
その後、吉野の先帝(後醍醐天皇)の勅許を奉りて、奥州国司(北畠顕家)に従いて上洛す。
(顕家が戦死した)阿倍野の役の後は先帝に従う。
(「佐野本系図」によれば時行も摂津国阿倍野合戦に参加していたとされる)
延元二年九月、結城入道(宗広)の謀で、先帝の第八王子(第七皇子の後村上天皇?)関東下向時、時行扈従す。
兵船五百余艘、伊勢国大湊より出て船渡海の時、遠州天龍灘に於いて逆風に遇い、伊勢国に吹きよせらる。
故に宮は吉野に還行するも、時行は勢州に寓居す。
兵人散じ、力尽きて義旌を挙ぐるあたわず。
ついに微服潜行し隠居し呑炭漆身(予穣が主君・智伯君の仇を討つために姿を変えた故事)の風で名字を改め、伊勢次郎時行と号す。
時行行氏を生み、行氏時盛を生み、時盛行長を生み、行長氏盛を生み、氏盛にいたるまでいまだ伊勢氏を改めず。
伊勢新九郎と号する所以なり。行年七十にて出家し、法名を早雲寺宗瑞と号す。

後北条氏を執権北条氏の末裔にしたいもんだから、高時の遺児で中先代の乱を起こした北条時行が南朝帰順後、
後村上天皇(義良親王)と一緒に暴風にあい、伊勢に漂着し隠居して伊勢氏を名乗った、という設定にしたようだ。
実際、時行は伊勢で暴風に遭い一時消息不明になったようだけど
その二年後には信濃で諏訪頼継(頼重の孫)と一緒に小笠原貞宗相手に戦い、
その後も新田義宗(義貞の息子)らと協同して鎌倉を奪還しているのだけど。




585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/18(木) 00:38:08.65 ID:S0L8loM5
後北条氏は女系説と言うのがあったな
執権北条氏の末裔から嫁を取ったからなんだで

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/18(木) 06:56:00.71 ID:ODEcPW8f
そんな旧南朝方で地下人設定の伊勢氏だが
幕府の名門今川氏の縁戚って史実も堅持してるな
豆相記に真面目な校閲がいたら怒られる話の展開

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/18(木) 12:21:15.38 ID:ut9ycPXj
相撲でマメ取りした話か

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/18(木) 17:20:51.34 ID:dAvrlu3W
いっしょに難破した宗良親王が遠州に漂着した後、井伊谷に滞在している一、二年間に
井伊道政の娘との間に尹良親王を産ませたとされてるから
(「参考太平記」だと時行も宗良親王とともに井伊谷にいたとされる)
時行も伊勢滞在の間に産ませたとすればいいのに
1333年夏の鎌倉幕府滅亡時点で兄の邦時(8歳6ヶ月)より年下のため、年齢的には少し厳しい気もするが

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/19(金) 10:43:54.13 ID:BBbixgPB
まあそれ言い出したら徳川なんかも明らかにウソ系譜だし

鰹とシビ

2021年02月16日 16:57

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/16(火) 15:46:41.77 ID:2T8xyAzp
小田原北条家の時代、関東では弓矢有って毎日戦い止むことがなかった。
その頃、鰹は「勝負に勝つ魚」といって、古き文にも記され、先例ありとして、侍衆の門出の
酒肴には、鰹を専ら用いられた。

一方でシビ(魚編に黄、キハダマグロ)は、味よろしからずとして、地下の者も食わず、侍衆は見ようとも
しなかった。
その上「シビ」という言葉の響きが、「死日」と聞こえて不吉であるとして、祝儀などでは用いなかった。

そのようであったので、漁師はシビを釣ると、塩引きにして束ねて置いていたが、この魚は肉が深いため、
やがて虫が湧き出た。その虫は自らの肉を食い、肉を食い尽くして後は死に、かたまってまた元の肉となった。
異臭があたりを深く漂った。

このシビという魚を、信濃、上野、下野の山国に、商人は持っていって売買した。これらの国の人、
これを他にないほど賞翫する。

されば、シビ釣ると古歌に多く詠まれている。藤江の浦。藤井の浦。紀の海で詠ぜられる。
これらの国の浦里(漁村)の人たちも、シビ賞翫と知られている。

慶長見聞集



574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/16(火) 23:02:29.59 ID:pniDL8WI
キハダのほうがカツオより美味いと思うんだが昔の人は嫌ってたのか

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/16(火) 23:14:25.03 ID:rWIT8iyq
キハダの方が腐りやすいのかな

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/16(火) 23:42:55.16 ID:hXuW2umK
マグロとか脂の多い魚は足が速い
だから冷蔵技術が発達するまではマカジキとか脂で食わせる必要の無い魚やアンモニアが多くて腐りにくいサメなんかが貴重だったりしたそうな

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/17(水) 00:41:05.11 ID:JH33SJMl
>>576
あと、生きたまま運べる鱧

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/17(水) 01:29:24.38 ID:lypbqfLi
江戸で重宝された初ガツオも脂のノリが薄くてさっぱりしてるが、その分腐りにくいからこの時期が旬とされたわけかー

キハダもカツオも同じサバ科だけど、回遊する場所の違いで脂のノリが違うのかな

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/17(水) 09:29:46.28 ID:rSDJG5sJ
今でも山梨や群馬ってマグロ消費量が多いんだよな

590 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/20(土) 12:32:35.88 ID:w3vXrchw
>>575
原文にも肉が深いって書いてあるけど、分厚いから芯まで塩気が通らないんだろう
結果的に身が傷むよね

さても命は捨てえざる者也

2021年01月24日 17:10

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/24(日) 11:49:37.83 ID:lxwHAmf+
さても命は捨てえざる者也

北条氏が小田原合戦で敗戦し氏政・氏照が切腹したのは、天正18年7月11日のことであった。
その翌日には氏直の高野山行きが決定し、北条家臣団の他家への再仕官がすすめられたあと
残った一門衆・家臣の上下合わせて三百ほどの氏直一行が、小田原から出発したのは21日のことであった。

先行していた氏規が8月7日に大和の興福寺に着いたときの様子を、多聞院英俊
「哀れなる在り様也、さても命は捨てえざる者也、恥をさらし此くの如し、あさましあさまし」
と評しており、切腹しなかったことへの風当たりは強かったようだ。

翌年の2月7日には氏直赦免の内意が秀吉から家康へ伝えられ、氏直は堺に移ったあと大坂に移動した。
家康の陸奥九戸一揆出陣のため、一時的に交渉は滞ったが8月19日に大名として復帰している。
復帰した氏直は借財の整理をすすめていたが、10月29日までに疱瘡を患い11月4日に死去した。享年30。



天正17年12月9日、北条氏直の動員令による編成の一部

2020年09月29日 18:26

373 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/29(火) 17:23:21.63 ID:SwKC5vvu
日本戦史 小田原役 参謀本部編 元真社(大正3)

天正17年(1589)12月9日、北条氏直の動員令による編成の一部である

物主は領地の多寡に応じて賦役を負担し部隊長となる
旗手は1丈5尺の大旗を保持、指物手は物主の背識を保持、持槍手は物主の持槍を保持、
馬廻歩卒は物主の左右に従う、雑卒は副馬の馬卒及び雑用
馬数は物主と騎士に同じ
銃弓槍の数は兵卒の数に同じだが、物主と騎士はもちろん槍を持っている

145人賦
物主1 騎士26(士分27)弓卒20 銃卒20 槍卒40(兵卒80)(戦闘員107)
旗手10 指物手1 持槍手10 馬廻歩卒10 雑卒7(非戦闘員38)

30人賦
物主1 騎士6(士分7)弓卒2 銃卒2 槍卒10(兵卒14)(戦闘員21)
旗手2 指物手1 持槍手2 馬廻歩卒4 (非戦闘員9)

20人賦
物主1 騎士3(士分4)弓卒2 銃卒2 槍卒5(兵卒9)(戦闘員13)
旗手1 指物手1 持槍手2 馬廻歩卒3 (非戦闘員7)

6人賦
物主1(士分1)銃卒1 槍卒2(兵卒3)(戦闘員4)
旗手1 指物手1(非戦闘員2)

5人賦
物主1(士分1)槍卒2(兵卒2)(戦闘員3)
旗手1 指物手1(非戦闘員2)

2人賦
物主1(士分1)槍卒1(兵卒1)(戦闘員2)

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 17:27:45.33 ID:SwKC5vvu
日本戦史は国会図書館デジタル版で閲覧できます
スマホでもOKだからまあ見てみましょうよ

というか補伝という逸話集が山ほど大量にあって、このスレと近しいとこがあんですね
補伝も出典先が明記されております



長氏はその虚を窺い

2020年06月18日 18:13

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/18(木) 12:37:29.89 ID:s7L3jsJD
北条長氏(伊勢宗瑞)既に小田原を取り、その威は遠近に奮った。相模の豪傑は皆来て降ったが、
独り三浦陸奥守義同、同荒次郎義意は戦を挑むこと連年に及び、雌雄を決することなかった。
毎年六、七月に三浦より小田原の攻め入り、退き去る時は必ず馬入川にて遊泳し、汗馬を水に入れて
帰ること、数度に及んだ。しかし長氏は外に柔弱を示して共に争わなかったため、三浦の兵には
徐々に怠りが見えた。

明年、三浦の兵攻め来たり、民屋を放火し田圃を荒らしたが、長氏は兵を出さなかった。
故に三浦の兵は益々侮り、かの川辺にて酒宴を催した。長氏はその虚を窺い、これを襲った。
三浦の兵は驚き慌て、弓矢矛戟を捨てて四方に壊乱した。これより三浦の兵は濫りに小田原を
攻めなく成ったという。

名将言行録



暇を取らせた隙を考え

2020年06月17日 18:36

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/17(水) 17:03:07.84 ID:IBSnElbG
北条長氏(伊勢宗瑞)が妻田八郎を攻めた時、逆に追い崩され引き下がったが、今一返しせねば叶わずと励み、
酒肴を諸卒に与えてこれを鼓舞し、引き返して八郎を討ち取った。臘月(十二月)の末であり、八郎は
「戦には勝ちたり。皆々在所へ帰りて越年せよ」
と暇を取らせた隙を考え、長氏は還攻したのである。

名将言行録

これは武田信玄の初陣の、海ノ口城攻めの改変ですかね



松田左馬介忠義の説

2020年04月20日 22:13

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 03:29:16.96 ID:9QHsESdp
松田左馬介忠義の説

 秀吉公が北条氏政・氏直を攻められた時のことである。秀吉公は北条の家臣松田尾張守(憲秀)の方へ書を遣わして説得を試みられた。
尾張守はこれに同心し、嫡子新六郎(笠原政晴)・次男左馬介(直秀)・三男弾三郎を呼んでこのことを語った。
しかし、左馬介はこれに与せず氏政・氏直に告げたので尾張守を殺されたという。
その後氏政・氏照・氏直が降参すると、氏政・氏照は切腹させられたが氏直は命を助けられ高野山に入り、松田左馬介も彼の供となった。
 世ではこの事を挙げて左馬介の忠義を称美している。


 今このことを考えてみるために、『通鑑綱目』の話を引用する。
 昔朱泚という者が唐の徳宗を囲んだ時、徳宗の臣であった李懐光に朱泚を防がせた。しかし、懐光は反逆の心があり軍を進ませなかった。李懐光の子の李?はこれを徳宗に告げた。懐光は死ぬこととなり?もまた自殺した。
また楚の康王が臣の子南を殺そうと思っていた。当時子南の子の棄疾という者は王の御士であった。
 康王は棄疾を見るごとに涙を流した。棄疾が「どうして泣かれるのか?」と尋ねると、王は「お前の父、子南は無道なので討とうと思っている。討った後でもお前は留まって居てくるだろうか?」と返した。
棄疾は「死刑にされた父を持つ子を君はどうして用いなさるでしょうか。ただし、王の命令を洩らして自分の刑を重くするようなことは臣であります私は行いません。」と答えた。
王はついに子南を殺した。棄疾は父の屍を請うて葬り、
「父を棄てて、仇に仕えることに私は忍ばない」と言って首をくくって死んだ。

 これらの話を受けて思うと、左馬介は父の逆意を君に告げる事は李?に同じといえども、李?は父が死んだ時に自殺し、左馬介は父が殺された時に死ななかった。
棄疾は父を棄てて仇に仕えるのを忌みて死んだが、左馬介は父を棄てて仇に仕えても恥じるところなかった。
 古語に”忠臣を求むるは必ず孝子の門においてす”、
とあるように左馬介を忠臣とするのは義にかなわない。この事を考え知るべきだ。

(広益俗説弁)

なんか“忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず”のような話だ



北条氏所縁の娘、香沼姫

2020年02月29日 17:14

香沼姫   
705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 17:03:14.81 ID:boR2oEzY
北条氏所縁の娘、香沼姫


小田原城郭の百姓曲輪跡の西に、地元では"おみともさん"と呼ばれる墓がある。

『新編相模国風土記稿』によると、北条氏綱の娘香沼姫の邸跡であり、終身処女で暮らしていた。
香沼姫は氏直の内室(家康の娘、督姫)と親しく、いつも和歌の贈答などがあった。
北条氏の没落後、香沼姫が(藤原)定家の真蹟歌集を持っていることを家康が知って
督姫から旧好のよしみとして御所望があったので、(香沼姫はその歌集を)献上した。
その褒章として化粧田を賜うようにとの命があったが(香沼姫は)固辞し、居邸の地の
永代の諸役免除を願ったので免許され、家康から直筆の御消息が下されたという。

元和三年四月二十日香沼姫が亡くなったので、その遺言により居邸を山本外記の屋敷とし
その山上に葬られた。そのことを示す石碑が今もある。
山本外記は、元は渡邊外記といって北条氏の命令で傅役となっていたが、香沼姫の側仕えをしていた
山本氏の娘(香沼姫の母方の親戚)が外記に嫁したので、山本姓を名乗ったという。



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 23:57:58.83 ID:zFSGFA/Q
なんだか性格が優しい感じが伺えるね

小田原開城後の北条氏直の事

2019年12月06日 16:15

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/06(金) 09:25:49.12 ID:brHVrkeT
天正十八年七月十二日、豊臣秀吉公の命により、北条氏直は紀州高野山へ蟄居することと成った。
彼の北の方(督姫)は徳川家康公の姫君にて、過ぎし天正十一年七月、小田原にお輿入れ成されたが、
いまや別離の御暇乞いにおよび、紅涙に沈まれていた。その心痛わしい中、氏直は肌につけていた
お守りを取り出し北の方に見せた

「これは高祖(伊勢宗瑞)よりの守護であるとして、当家相伝の重宝である。初代早雲庵が
伊豆国より起こって、明応四年九月十三日、湯坂の城に大森不二庵(藤頼ヵ)を追い落とされた時、
夕方に出陣の身固めをされ食事を取り、勝栗を半分食し、半分を鎧の引合に押し入れて出御されたが、
その夜、難なく本望を遂げられた事により、吉例の物であるとして、この勝栗の方辺を綿襴の袋に入れ、
以後氏綱、氏康、氏政、そして私まで、五代の間持ち伝え秘蔵してきた。

私は今、浪客となった。よってこれはあなたに渡して置く。もしまた、この後一門の中から
世に出て家を継ぐ者が有ったなら、その者に渡してほしい。」

そう言ってこれを渡した。北の方は涙に咽びながらこれを受け取り、以降肌身より離さず所持して
いたが、氏直死去の後、彼女が家康公の仰せによって池田三郎左衛門輝政と再婚する事に成った時、
彼女より北条美濃守氏親へ譲られたという。

またこの時、北条左衛門太夫氏勝も高野山に氏直の供をすると、その準備を調えていたのだが、
家康公より殿下に申し入れがあった
「氏勝は最前に麾下に入り、関東諸城への案内をなし、軍功を励みました。これを無下に高野山へ
遣わされるのは理屈が通りません。そのような事をすれば、今後一体何者が我々に帰降して返忠を
成すでしょうか。枉げて本領を宛行われるべきでしょう。」
秀吉公はこれを聞かれると
「忙しさのあまり気が付かなかった。私の誤りである。」
として、氏勝を留め置き相州玉縄の旧領を与えた。

斯くして同月二十日、氏直は小田原を発った。随行する人々は、太田十郎氏房、北条安房守氏邦、
美濃守氏規、左衛門佐氏忠、右衛門佐氏堯、松田左馬助、内藤左近太夫、福島伊賀入道、堀和佐兵衛尉、
依田大膳亮、山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門、大道寺孫九郎、菊地七兵衛、以下三十人、
そして雑兵は三百人であった。家康公よりお見送りとして、榊原康政が差し添えられた。
秀吉公は温情を施され、旅中の差し障りが無いようにと、警護の士、駅路の伝馬、道中の賄いを
充分に宛行われ、高野山に至ると二万人(二百人ヵ)の扶持料を賜り、その他雑用、調度についても
要望どおりに準備させた。そして高野山の山上は寒冷が殊に甚だしいと殿下は聞き及ばれ、
これを労り、翌年十一月十日にこの面々を天野の地に移し、衣服、酒茶の類までも豊かに贈られた。

天正十九年の春、氏直は泉南の興応寺に来て半年ばかり滞在し、その間に秀吉公は
彼を大阪城に招き対面して、北畠(織田)信雄の旧宅に入れ白米三千俵を与え、その後来春には
西国中国の内に一国を宛行う事を約束したのだが、氏直は俄に痘瘡を病んで回復すること無く、
十一月四日、三十歳にて逝去された。あれほどの豪家であり、また家康公の聟君であり、
殿下にも慈悲を加えられていたというのに、誠に是非無き次第である。
舎弟の太田十郎氏房も翌年四月二十日、肥前国唐津の陣中に於いてこれもまた痘瘡を患い、
不孝短命にして二十八歳にて卒去した。ここにおいて、北条家の正統は断絶したのである。

(関八州古戦録)

小田原開城後の北条氏直について



644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/06(金) 10:08:01.62 ID:yzluYGCw
氏康「もっと子作りしとけや」

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/06(金) 10:39:05.02 ID:LVehz+Z0
>>643
都合良くどんどん死んだな
玉縄って北条綱成の築いた巨城でしょう?そんなとこの旧領を北条氏勝に与えて良かったのかしら?

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 04:32:43.45 ID:mZxo5fAk
後詰めもないのに勝てるわきゃねえじゃんヴァーカ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:55:03.01 ID:AzvJW3Lj
なお、この24年後