FC2ブログ

その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かった

2019年08月21日 16:16

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 15:08:53.88 ID:j7HsFu40
岡野紅雪(板部岡江雪斎)という人あり。これは現在の岡野孫九郎(貞明)の先祖である。こ
の紅雪は小田原北条の旗下であった。小田原落居の時に紅雪は生け捕りで縛められ、秀吉公の
御陣にいた。

秀吉公は仰せられて「そもそも真田御陣の時、この岡野は表裏第一にして不届き者であった!
磔にも致したい者である!(真田御陣の時の)様子委細を尋ねよ!」と、御使をもって尋ねな
さった。紅雪は曰く「この事は人伝では中々申されぬことです。直に申し上げたい」とのこと
で、縄を取って引き立てた。

これを秀吉公は聞こし召され、「苦しからず」と御前へ召し出されて一々を御尋ねなさると、
一々を申し開き仕ったので命を御助けなさり、御咄衆になっておられたという。

ある時に京都において能を御興行の時、家康公が秀吉公へ仰せられて、

「小田原の北条は関八州の大将ですが、長く城も持ち堪えられず幾百日ばかりで落城しました。
降参していればこのような時に御物語りの相手にもなるだろうに、不甲斐なく百日ばかりで落
城したのは心残りの多いことです」

と仰せであった。その時に紅雪は末座にいたのだが罷り出て申し、

「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

と申した。その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かったのだという。

――『烈公間話』

太閤能『北条』の時の話だったりして



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 17:09:24.18 ID:Xyh7xlrF
>「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
>存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

まったくの事実だが、家康も秀吉も黙らされた話って珍しいなw

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 18:29:25.10 ID:Nl8+tmX0
どこまで名前かわからない人か

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 19:18:26.99 ID:KUwKnP2Z
>>330
痛快だなw

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:41:05.20 ID:aOfLDkKJ
えらい胆力のある人だね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 09:07:29.18 ID:sq2PUUTe
>>332
すぐ近くに別の雪斎がいたからなw
スポンサーサイト



「能ある鷹は爪を隠す」は「北条氏直時分諺留」が元

2019年07月03日 15:53

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 19:02:50.69 ID:Clh68Acw
そういやツイッターで、「能ある鷹は爪を隠す」とかのことわざは「北条氏直時分諺留」が元らしいがなんで北条なのか、
なんて書き込みを見つけたのだが、詳細は国会図書館デジタルコレクションで『諺の研究』(藤井乙男、昭和4年)の
229ページと238ページを参照のことだね。

『諺の研究』藤井乙男 著より「北條氏直時代諺留」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453442/123

↓画像



[ 続きを読む ]

正月2日の夜、宗雲が夢を見なさったことには

2019年06月13日 15:49

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 19:42:57.37 ID:h/jQFdtC
(前略。>>11)翌年正月2日の夜、宗雲(北条早雲)が夢を見なさったことには、2本ある大杉を鼠
1つが出て食い折った。その後、かの鼠が猪になった夢を見て、その夢は覚めた。

その如く両上杉の仲が悪くなるのを聞き、宗雲は是非とも時刻を見合わせて関東へ発向の工夫をされ
ることは二六時中暇なし。ある時、扇谷の上杉家は末となったのであろう、邪臣の諫めを崇敬して家
老の太田道官(道灌)を誅しなさった。その後、上杉殿の家老は尽く身構えをして騒ぎ立った。

この時、宗雲公は出て小田原を乗っ取り、相模の過半を手に入れて子息・氏縄公(北条氏綱)の代に
相模を皆治めなされば、いよいよ氏康公の代に伊豆・相模二ヶ国となり1万の人数の内2千を所々の
境目に差し置き、8千の軍兵をもって両上杉家と取り合いなされた。(後略)

――『甲陽軍鑑』



伊豆の宗雲が出て小田原を乗っ取った事は

2019年06月13日 15:48

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 20:16:00.45 ID:h/jQFdtC
一、(前略)この時節、伊豆の宗雲(北条早雲)が出て小田原を乗っ取った事は、明応4年(1495)
  乙卯の歳と承り及んでいる。前代の事であり、しかも他国の事を人の雑談で書き記しているので、
  きっと相違な事ばかり多いのは必定ではあるが、ただこの理究(原注:リクツ)を取って今勝頼公
  御代の比較になさるべし。(中略)

  まことに北条家は弓矢巳の時(盛りの時)と輝き、万事政事よろしいので上杉家の功者どもは「さ
  て危なし」と呟く。しかしながら管領則政公(上杉憲政)には、両出頭人の菅野大膳・上原兵庫が
  これを聞いて申すには、

  「北条宗雲は元来伊豆のいかにも小さき所から出たのであり、その族の氏康が何の深きことがあろ
  うか。伊豆・相模両国を持っても、北条2,3人を合わせた程の大身衆は越後・関東・奥両国(奥
  羽)へかけては、則政公の御旗下に5,6人もおります。

  上杉家に伝わる衆(譜代)にも北条程の者はいそうもないので、蔓延っている以上は則政公が旗を
  出されて、ただ一陣で北条家を誅罰しなされ!」

  との菅野・上原両人の口により、(後略)

一、北条宗雲は古来、伊勢国より乞食を致して(伊勢国より乞食をいたし)駿河今川殿の被官となり、
  今川殿の恩恵をもって伊豆へ移りただ今この如くであるから、元来伊豆の狭き所から出た宗雲の子
  孫は、少しも深き事なく候。

  宗雲の子・北条氏縄(氏綱)は甲斐の武田信虎に大いに争い負け申した。これは駿河あしたか山の
  下、東さほの原での事。その気勢をもって氏縄の手に入れた富士川の北は尽く信虎に取られた。

  この時、興国寺の城主・青池飛騨(青沼飛騨守)は人より先に信虎の被官となるに付き、青池の息
  子・与十郎と申す者を、信虎家中の足軽大将・小幡(小畠)入道日浄と申す侍の婿に、信虎の下知
  をもって仕る。ただ今は駿河の今川義元が信虎の婿になる故、息女の化粧田として信虎より今川殿
  へ渡す。

  これでさえも、父・宗雲が今川の恩恵をもって小田原までも発向したその恩を、子息・氏縄の代に
  なって忘れ、替り目を見合わせて今川の持つものを取ったけれども、氏縄が義理違い申すに付き、
  珍しく回ってこの場所が今川へ帰ったのは、天道より北条家を憎んだのである。(後略)

――『甲陽軍鑑』

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 20:23:10.63 ID:h/jQFdtC
>>164
北条宗雲は古来~は上杉憲政に家臣が申し上げた五ヶ条からの抜粋です



宗雲公などはきっと一仏一社の化身であったのだろう

2019年06月12日 14:59

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 20:04:18.34 ID:VUOAqq9u
(前略)宗雲公(北条早雲)などはきっと一仏一社の化身であったのだろう。

子細は、伊勢より7人が言い合せ、荒木・山中・多米・荒川・有竹・大道寺・宗雲ともに7人が武者
修行すると談合された。駿河の今川義元公の祖父子の御代に、牢人の身分で今川殿のもとで堪え忍ば
れた(牢人分にて、今川殿に堪忍有り)。

才覚をもって駿河屋形の縁者となり給い、すなわち駿河の内かたの郷という所にしばらくおられ、義
元公御親父の代に今川殿の威勢を借りて伊豆へ移り、大場北条辺りの百姓どもに物を貸しなさると、
後には伊豆半国の侍・百姓どもが宗雲公へ出入りを仕り、物を借りたので朔日・15日に礼に参った。

その間にもしばしば参る者には貸銭を差し置きなさったことにより、我ましに(我先に?)宗雲公の
御屋敷の辺りに家を作って皆被官となり、前述の6人の荒木・山中・多米・荒川・有竹・大道寺も宗
雲の被官になった。

この衆を首として宗雲公ともに7手に作り、伊豆一国を治めなさって、絶えて久しき北条を継ごうと、
三島明神へ願を立てなさった。(後略)

――『甲陽軍鑑』



北条家の弓矢は敵の油断を肝要に

2019年05月30日 15:28

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 01:06:35.63 ID:w6dJrsKv
  此比の大将衆弓矢取様之事

一、北条氏康公は名大将で度々の戦に勝利を得給う。その中で夜軍において管領上杉の大敵に
  一入つけ、ついに則政(上杉憲政)に切り勝って追い失い、関東を切り従えなされた。

  そのため、北条家の弓矢は敵の油断を肝要に目を付けるのである。

――『甲陽軍鑑』



關八州に鉄炮はしまる事

2019年05月14日 19:24

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 19:16:58.68 ID:Sf64um2C
關八州に鉄炮はしまる事

これを見たのは昔のことである。相模小田原に玉瀧坊(順愛。松原神社別当職)という年寄りの山伏がいた。
愚老(著者。三浦浄心)が若き頃にその山伏が物語りなされたことには、

「私は関東から毎年大峰へ登った。享禄が始まる年(1528)に和泉の堺へ下ったところ、荒々しい様子で
鳴る物の音がする。これは何事ぞやと問えば、『鉄砲という物が唐国から永正7年(1510)に初めて(日
本に)渡ったのだ』と言って、目当として撃って見せた。

私はこれを見て、さても不思議、奇特な物だと思い、この鉄砲を1挺買って関東へ持って下り、屋形の氏綱公
北条氏綱)へ進上した。氏綱公はこの鉄砲を放たせて御覧になり、『関東に類なき宝である』と秘蔵なされ
ると、近国他国の弓矢に携わる侍はこの由を聞いて、

『これは武家の宝なり。昔、鎮西八郎為朝(源為朝)は大矢束を引いた日本無双の精兵であった。

弓の勢いを試みるために鎧3領を重ねて木の枝に掛け、6重を射通した強弓である。保元の合戦で新院の味方
に八郎1人がいたが、八郎はたちまち多くの者を射殺した。数万騎で攻めたといえども、この矢を恐れて院の
御門を破ることは叶わなかったとかいう話だ。

今も弓はあっても、良き鎧を身に付ければ恐れるに足らず。ところがましてや、かの鉄砲は八郎の弓にも勝る
ことであろう。所帯(財産)に代えても1挺欲しいものだ』

と願われたが、氏康(北条氏康)の時代に堺から国康という鉄砲張りの名人を呼び下しなさった。さてまた、
根来法師の杉坊・二王坊・岸和田などという者が下って関東を駆け回り鉄砲を教えたのだが、今見れば人々は
それぞれ鉄砲を持っているものだ」

と申された。しからばある年に北条氏直公が小田原籠城の時節、敵は堀際まで取り寄り、海上は波間も無く舟
を掛け置き、秀吉公は西に当たる場所に山城を興し、小田原の城を目の下に見て仰せられたことには、

「秀吉は数度の合戦で城攻めをしたといえども、これ程の軍勢を揃えて鉄砲を用意したことは幸いなるかな。
時刻を定めて一同に鉄砲を放たせ、敵味方の鉄砲の程度を御覧ぜん!」

とのことで、敵方(豊臣方)より呼ばわったことには「来たる5月18日の夜、数万挺の鉄砲で総攻めにして
盾も矢倉も残りなく撃ち崩す!」と言った。氏直も関八州の鉄砲をかねてより用意し籠めておいたので、「敵
にも劣るまい。鉄砲比べせん!」と矢狭間1つに鉄砲を3挺ずつ、その間々に大鉄砲を掛け置き、浜手の衆は
舟に向かって海際へ出ると、日が暮れるのを遅しと待った。

そのようなところで18日の暮れ方より鉄砲を放ち始め、敵も味方も一夜の間鉄砲を放てば、天地震動し月の
光も煙に埋もれてただただ暗闇となる。しかしながら、その火の光はあらわれて限りなく見えること万天の星
の如し。氏直は高矢倉に上がりこれを遠見なされて、狂歌を口ずさみなさる。

「地にくだる星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄炮の火を」

御前に伺候する人々は申して曰く「御詠吟の如く、敵は堀辺の草むらに蛍火が見え隠れしているかのようです。
城中の鉄砲の光はさながら星月夜に異ならず」と申せば、氏直は格別に微笑みなさった(氏直ゑみをふくませ
給う事なヽめならず)。

まことにその夜の鉄砲に敵味方が耳目を驚かせたことは前代未聞なり。愚老は相模の住人で小田原に籠城した
ので、その節を今のことのように思い出されるのである。

しからば鉄砲が唐国から永正7年に渡ってそれから流行し、慶長19年(1614)までは105年である。
さてまた関八州で鉄砲を放ち始めたことは、享禄元年から今年までの87年以来と聞こえたり。

――『北条五代記』

>>894に関連して北条五代記より鉄砲の記事



氏康は鉄砲の音に驚き給う。

2019年05月06日 21:12

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 19:20:45.36 ID:pa5vvLAa
北条氏康12歳の時、その頃は鉄砲は珍しいと諸侍は尽く撃ち習った。その時、氏康は鉄砲の音に
驚き給う。諸人は目を引いて笑い申した。氏康が口惜しく思し召して小刀で自害しようとし給う時、
各々がその小刀を取り奉ったので、氏康は涙を流し給う。これに御傅の清水(吉政)の申しようは、

「猛き武士が物に驚くことは昔より申し伝えています。その謂れは、馬も勘の良いものは鼠鳴きに
かかり、人に賞翫されるのです。物に驚くのを誉めたことに致す(物に驚くをばほめた事に致す)」

と言えば、氏康はその時に鎮まり給う。これ氏康公12の御歳なり。このように恥を知り給う猛き
大将でいらっしゃればこそ、その後に氏康公24歳の時の河越の夜軍において、敵は両管領人数8
万ばかり、氏康は人数8千で打ち勝ちなされた。これに付けて諸々の謀あり。

この合戦と信長と義元の合戦(桶狭間の戦い)は近代に希なる戦いなり。

――『甲陽軍鑑』



895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 19:42:47.02 ID:AX7XRnhO
当時って中世ないしは近世だけど、当時は当時なりの「近代」ってのがあったのかな

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 19:44:58.83 ID:6wWdZ48M
>>894
やらかして切腹するのは権現様の十八番ではなかったのか。

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 22:28:56.32 ID:T0r+wnKW
1520年代なら鉄砲も珍しいな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/06(月) 02:32:09.15 ID:e/hR13Pp
>>895
当時が現代になるだろうからね

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/06(月) 02:32:09.15 ID:e/hR13Pp
>>895
当時が現代になるだろうからね

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 13:29:13.13 ID:PseRbTtz
>>895
戦国時代に大鎧着てくるだけで良くも悪くも一目置かれる
よほど偉いか時代錯誤の田舎者か、その両方かだけど
戦国風だと当世具足って言うぐらいだし

今後関東にては永楽一銭を使うべし

2019年03月16日 21:13

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 22:13:16.43 ID:hR8PXiGa
年の寄った人の言うことによると、近年まで関東ではびた銭と永楽銭をとりまぜて、同じ程に使っていたが、
在々所々にてその善悪を争う事止まなかった。その頃関東八ヶ国の守護であった北条氏康公の仰せに、
『銭は品々ありといえども、永楽以上のものはない。今後関東にては永楽一銭を使うべし』と、
天文十九年(1549)に高札を立てた。これにより関東の市町にては永楽銭を用いた。この事によって、
近国他国でもびた銭の中から永楽銭を撰り出し用いた。故にびた銭はいつとなく上方へ流れ、関西にて
使われ、永楽銭は関東に留まり用いられた。

然るに天下一統の世になると、永楽銭とびた銭の二種類を使うように成ったが、永楽一銭がびた四、五銭と
され、これにより銭の善悪を争い選び、万民安からざる故を上は聞き召し、
『びた一銭を用いるべし。永楽禁制』
と慶長十一年(1606)江戸日本橋に高札が立てられた。それより天下において永楽銭の使用が廃れた。

(安斉随筆)

江戸期からみた撰銭に対する認識を顕した記事



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 22:54:38.93 ID:KvrDsm0D
ググってみたら慶長通宝とか元和通宝なんてものがあるんだな

天狗の仕業に疑いなし

2019年01月01日 19:31

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 19:05:56.83 ID:+OVb+YgT
この年(1560)8月、氏康公(北条氏康)は足柄城を修造されるために巡見に出られて、関本の最乗寺に
参詣された。

この寺の開山の了庵和尚は、曹洞の開基である道元五代の法孫なり。この場所に山居があったが、大森寄栖庵
が常に信じて、この寺を建立した。そして関東奥羽までこの和尚の法孫として末寺が尽く当寺の住職を勤めて、
1年替わりで輪番した。七堂伽藍の建立なり。

開山の了庵和尚の弟子に道流という者がおり、我慢邪知にして大力の悪僧であったが、「私は生きながら天狗
となって、末世永々までこの山を守護せん」という誓願を起こして毎日荒修行を致し、道流は果たして天狗と
なって山中に住んだ。

「今も悪知識の者がいる時には、必ずやって来て障害をなすこと必定なり」と寺僧が仰々しく語ると、氏康の
供の人々は大いに疑って、「末世にもそんな不思議があるだろうか。その天狗とやらは鳥か獣じゃないのか」
などと言ってささやいた。

するとにわかに大風が吹き落ちて樹木を吹き倒し、寺の門戸を破って震動雷電すれば、「只今天狗に攫われて
いくのか!」と皆人は舌を振って驚き恐れた。こうして「まことに晴れていた空がたちまちこのようになった
のは、天狗の仕業に疑いなし」と氏康も信仰されて、この寺を再興なさった。

――『小田原北条記』



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 23:08:02.71 ID:rE7ObUZk
天狗よ!天狗の仕業よ!

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 14:49:39.46 ID:N7a8tba2
>>558
リアル天狗の仕業でワロタw

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 17:18:54.23 ID:bPx3K1wo
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

南北合体

2018年12月23日 18:13

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 20:55:48.33 ID:0jUAonEO
南北合体

北条五色備の一人、北条綱高は妻を娶った。その相手は南条重長の妹である。
ここに北条と南条の奇跡の合体が成し遂げられた。
そうして生まれた男は初め南条元高と名乗り、後に北条康種と名乗った。北条であり南条でもある男の誕生である。
この男は長じて柿崎景家を破るなどの活躍もすることになるのであった。



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 01:11:55.55 ID:LCQGBw7J
>>544
高橋でもある

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 11:31:12.57 ID:aDntaSHQ
北条五色備の赤を率いている時点で南が入ってるような

氏康が何ぞ悪法師めの油口に誑かされんや

2018年12月07日 13:14

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 05:52:50.75 ID:nH7hfDGG
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

信玄は駿河久能に城を築いた。一夫が怒って関を塞げば三軍の帥も通ることを得難きほどの名地である。今福
浄閑父子(長閑斎友清・虎孝)に同心40騎・雑兵3百7十余人を属しここに籠め置いた。小田原では甲斐勢
を追い散らして氏真を救わんと軍勢を催す。

信玄が思われたのは「氏政は我が婿であるから差し障りはあるまいが、氏真は氏康の婿だから底心は心許ない」
と思われ、寺島甫庵という弁舌者を使者にして小田原へ申されたことには、

「氏真は近年政道悪しきゆえ、家康公に国を取られること疑いなし。そこで家老どもと談合致して氏真を追い
出し候」

と言葉を尽くして謝し申したが、氏康父子は聞き入れなさらずに激怒して寺島甫庵を牢舎させ、同12年正月
18日に小田原を出馬し、三島新経寺に本陣を据えられた。

松田尾張守(憲秀)・同肥後守・同右兵衛大夫(康長)・北条新三郎(氏信)・同常陸守(北条氏繁)・同
治部少輔(北条氏秀)・狩野入道・九島伊賀守・大道寺駿河守(政繁)・多目(多米)周防守・荒川豊後守・
橋本次郎右衛門尉・成田下総守(氏長)・千葉介国胤(千葉邦胤)・原式部大輔(胤栄)・同大蔵丞・大石
信濃守(照基)・内藤大和守(綱秀)を先手として、都合その勢4万5千余騎が三島より蒲原まで段々に陣を
取った。

また三崎の城より北条美濃守(氏規)・大道寺孫九郎(直繁)、伊豆の妻良こうらと沼津三枚橋より鈴木・
渡部・富永(政家)・太田・安藤・梶原三河守・間宮新左衛門(康信)などが3百余艘の兵船を揃え三保崎
へ漕ぎ寄せた。その勢5千余騎。

信玄は久能の城に陣を取り、山県三郎兵衛を1千5百余騎で府中に残して山西の押さえとして、武田左馬助
(典厩信豊)を大将として興津清見寺へ出勢する。同25日、氏康・氏政が清見寺表、薩た山へ出張された。
信玄も久能より清見寺へ出張して興津川原で辰刻より未刻まで3ヶ度の合戦があった。

――『小田原北条記』


508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 05:53:33.40 ID:nH7hfDGG
その頃また武田信玄は寺島甫庵という者を使者として相模小田原へ遣わし、北条氏康・氏政父子のもとへ申し
送ったことには、

今川氏真は信玄の甥であるが、昏弱にして佞奸の三浦右衛門佐(義鎮)の言葉のみ信用し、一族家人は非道
の政務を疎んで古老譜代の者どもは恨みを含み、軍卒国民は虐政に苦しんだ。そのうえ乱舞酒宴に耽って武備
を怠廃するゆえ、幕下被官ども皆徳川へ内通し、遠江の城々は大半が徳川のために攻め取られた。やがて駿河
をもかの家の所有となるは必定なり。他人のために取られてしまうよりは、信玄の手に預かり置くべきと存じ、
氏真を追放致し候。

このうえは富士郡の川原を境として川より東は北条家で管領なさるべし。川より西は信玄の所属として治め候
べし。このように約束を定めたうえは、両家はますます親睦して互いに患難を相救い申すべし」

信玄がこのように懇ろに申し送ると、北条父子は聞いて激怒し、

「姦賊が例の邪智巧言で欺くとも、氏康が何ぞ悪法師めの油口に誑かされんや! その使者坊主めを帰すな!」

と甫庵を搦め捕って獄屋に繋ぎ置き、甫庵の従者どもにこれを見せて、

「汝らが甲斐に帰って言うべきは『来春は氏康が早々に出馬して駿河に留め置かれた甲斐の将卒は一々に首を
刎ねる! その用意をして待つべし!』と、信玄に申し聞かせ!」

と申し含めて追い返せば、従者どもは怖気おののき早々に逃げ去った。

北条氏康・氏政父子は永禄12年(1569)己巳正月に4万5千余(原注:一説に5万)の軍勢を引き連れ
て駿河へ発向するとして、まず武田信玄より使者に遣わされた寺島甫庵を三島の三枚橋で磔に掛けて、信玄の
無道と甥・今川氏真の家国を奪った罪を鳴らし、その18日には軍勢を進めて三島の心経寺に在陣し、先手の
諸軍を薩た山八幡平より由井・蒲原まで進ませた。

信玄方でもこれが聞こえて、山県三郎兵衛昌景に2千5百人を属し鞠子に砦を構え、花沢・藤枝・伊久美山の
敵を押さえさせて江尻・井上の両砦にも人数を加え、信玄の旗本は久能山に駐屯し駿河の人質どもをかの山中
に入れ置き、今福浄閑に馬兵40騎・歩卒3百5十人を添えて守護させた。先手は典厩信豊を大将に1万8千
の軍勢を興津河原に押し出し、北条勢と日々足軽迫り合いをさせた。けれどもその間には険阻の切所があった
ため、未だ互いに大合戦には至らずに日数を送った。

――『改正三河後風土記』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 19:40:50.33 ID:WB/8Ev/K
>>507-508
北条視点と徳川視点か、みくらべると面白いね
信玄の酷さは共通してるw

後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」

2018年10月11日 13:12

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:56:08.17 ID:6aO+yd8d
後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」



現在サントリー美術館に収蔵されている重要文化財「酒伝童子絵巻」は
江戸時代は鳥取池田家に伝来していたが、元は後北条氏の家宝であった。

北条氏綱は京文化への造詣が深く「酒伝童子絵巻」を作るにあたって
絵を狩野元信、詞書を前関白の近衛尚通、定法寺公助、青蓮院尊鎮ら
奧書を三条西実隆と当代を代表する絵師や能書家に依頼した。
特に尚通とは格別の交流があったらしく、正室・養珠院に先立たれた氏綱は
継室に尚通の娘・北の藤(勝光院)を迎えた程であった。

その後は家宝として伝わっていたが、天正19年(1591年)に北条氏直が病死し
後家となった督姫が、池田輝政に再嫁する際に引出物として持ち込んだという。

池田家伝来のものでは、同じく重文の「後三年合戦絵巻」(現:東京国立博物館)や
北条高時の執事長崎為基の佩刀で、『太平記』に出てくる来太郎の太刀「面影」*
なども、元は後北条氏の家宝で督姫を経由して伝来したものとされる。


――『小田原市史』『池田家履歴略記』など

* 為基の後は、小弓公方・足利義明が敗死したとき佩いていたという。(『後鑑』)
 鳥取城にあったが享保5年に火災で焼身になり、再度の火災で焼失した。


神流川の戦い一日目

2018年10月11日 13:08

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 03:10:10.73 ID:CX/7Sqex
小田原では北条氏政父子が織田殿横死と聞いて大いに喜び、天運時至れりと大軍を催した。大手の大将・
新九郎氏直は富田・石神の方から軍を進め本庄に旗を立てた。御陣は左京大夫氏政3万余騎が松山筋より

武蔵吉見山・冑山辺りを本陣として先手は神奈川(神流川)・烏川辺りに軍を進める。父子は大手・搦手
に向かって総勢5万余騎が6月18日、本庄に着陣す。氏政の弟の武蔵小衾郡鉢形城主・北条安房守氏邦

は血気の若者であった。氏邦は「滝川勢は信長父子が横死して上方騒動の沙汰を聞き将卒とも心は臆して
はかばかしい合戦はできまい。上野・武蔵の輩は余儀なく滝川に一味するといえど真実身命にかえて働く

はずはない。一益は鬼神であるとも頼むところは手勢だけで何程のものか! 今追い討ちして高名せん!」
とその勢5千騎ほどが陣列を離れ馬を馳せたのだった。滝川一益は滝川彦四郎法忠(忠征)に2百余人を

添え厩橋城を守らせ、津田小平次長興・稲田九蔵に8千余兵を添え松枝城を守らせ、自身は1万8千余兵
を連れて武蔵・上野の境の神奈川・烏川の辺り金窪の台に陣を張る。上野衆の小幡・内藤・和田・由良・
安中・深谷・成田・上田・高山・木部・長尾・真田らが所望して先陣に進んだところ、北条方は氏邦が

血気にはやり敵を大いに見侮った。前後を見定めず鬨を揚げ打って掛かるが、上野衆は武田信玄・勝頼に
属して軍旅に老練した者共どもである。少しも騒がず馬の鼻先を魚鱗に並べ敵が来るのを待ち受けた。

半町ほどに軽卒どもを先に立て、矢砲を激しく放って先駆けの北条勢数十人を打ち倒し、馬の足がしどろ
もどろになるのを見澄まして、大風の発するが如く馳せ掛かり突き立てた。頃は天正10年(1582)

6月19日、草木も動かぬ炎天に具足を着て息を揉み馳せ合ったために、流れる汗は目口に入って太刀の
打ち所も定かならず。北条方は石田大学・保坂大炊助を始め屈強の者ども2百余人が討死し、上野衆も

佐伯伊賀守を始め180人ほどが討死し、互いに多くの手負いを出した。北条方はほうほうで八幡山の方
へ引き取ったので、上野衆も烏川の水辺に集まり暑気を凌いで馬の足を冷やしていた。北条方は先手の

敗軍を見て新九郎が大いに怒って命じ、二陣の松田・大道寺を始め雲霞の如く深谷の方から打ち出でた。
一益がこれを見て、「今度は一益が一戦して雌雄を決する! 上野衆は後より続かれよ!」と先に進めば、

滝川儀太夫(益氏)・津田治右衛門・同八郎五郎・同修理・稲生対馬・富田喜太郎・牧野伝蔵(成里)・
谷崎忠右衛門・粟田金右衛門・日置文右衛門・岩田市右衛門・同平蔵・太田五右衛門以下逞兵3千余人が
神奈川を後ろにあてて玉村の方に向かって座備を設け敵を待った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い二日目
神流川の戦い、戦後


名胡桃城について、北条氏直の言い分

2018年10月08日 17:01

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 02:48:46.60 ID:bp/PQxUM
名胡桃城について、北条氏直の言い分


天正15年11月に、北条家臣が名胡桃城を占拠する事件が発生した。
以下は同年に、北条氏直が秀吉の検使にあてた書状の意訳。

     条目
一、老父の上洛が延びたことで御立腹され、沼津に下向されるとのこと。
  六日の手紙は思いがけないことでした。そもそも夏に妙音院、一鴎軒(宗虎)が
  下向した際に、截流斎(氏政)の上洛はもちろんさせますが、今年は無理がある。
  でも来年の春夏の間になら出来ますよ。という話を筋道立てて説明したのに
  しきりにそれでは済みませんよと言ってきました。それで公儀の事は了簡に
  及ばないので、今月中に半ばまで行き正月中には京に着く予定にしました。
  先年家康が上洛した際には骨肉を結ばれて(秀吉の妹の朝日と家康の結婚のこと)
  大政所を三河にまで移されたとお聞きしたのに、名胡桃のことで御立腹されて
  いるので、ずっと留め置かれたり国替になるかもと方々から声が上がっています。
  一度(そっちに行ったら)帰国は出来ないんじゃないかと截流斎も申しています。
  (私たち)父子の国のこともお察しして下さい。だから妙音院、一鴎軒を招いて
  たとえこのまま在京になるとしても心中晴れやかに心やすく上洛するでしょうと
  申したのです。他の意味はありません。

一、今度の祝儀で上洛させようとした石巻(康敬)の待遇で、面目を失いましたのに
  更に私に対しての扱いもおかしいのはどういうことなんでしょうか。御両所に
  恨み入ります。四日に妙音院をこちらに招いたのは、石巻の待遇の理由がよく
  分からないので内々に尋ねるためだったのです。そうしたら途中で捕まった
  ことを聞かされたので、それは書付にて申し述べることとします。

一、こんなことになっていますが、疑心を持たずに扱ってくれるなら上洛すると
  截流斎は申しています。御両所の御分別に期待します。

一、名胡桃のことは一切存じません。城主の中山が出してきた書付によると
  既に真田がこちらへ渡していたものなので取り合いにはなっておらず
  越後衆が半ばあたりまでやってきて信州川中島と知行替えと申していると
  沼田から連絡があったので加勢したとのことです。越後のことは昔からの
  敵なのでやってきたら一日たりとも沼田は安泰にならないでしょう。まぁ
  彼が申すことが本当かどうかは知りません。家康にもこれを伝えましたから
  徹底的に調べて、二、三日中には報告することが出来るでしょう。決して表裏
  ではないですよ。名胡桃に下向されたとき、百姓屋敷を見分されたでしょうに。

一、以前給わった吾妻領は真田のせいで百姓が一人もいなくなりました。加えて
  中条という地では、人は以前のところに詰めていて渡ってきません。こういう
  些事は申すことではないので打ち捨てて下さい。なんといっても名胡桃のことで
  対決する上は何事もお任せします。以上。

  十二月七日     氏直
    富田左近将監殿
    津田隼人正殿


――『武家事紀 巻第三十三』



283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 09:38:17.76 ID:w62eEAoQ
名胡桃城といえば考古学的調査で名胡桃城事件の頃の遺物はほとんど出土せず、
火災の痕跡も若干のみで、とても戦闘で落城したとは考えられず、平和裏に開城したのではないか、
という話が武井英文先生の『戦国の城の一生』に出てた。

北条一門の歌

2018年09月18日 18:13

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 01:12:50.18 ID:3a6RWHwE
「見恋」 いかにせむ心ひとつに月日へて つゐにあはての浦のみるめを 氏政
「蚊遣火」 ながめるつる月日のひかりに影そへて 草の庵りに蚊遣たくらむ 氏直
世の中にあらぬ草木を求めても 法のみちにふみもまよはじ 氏規
「契空恋」 知らせばや契し事ももしほ草 そをだに絶て思ふ心を 氏堯
逢坂のせきのひかしに武の 名やはかくるゝ十五の駒 氏照
色ゝのさかなはあれど今夜しも わきてさゞいのめづらしきかな 氏光
都路をかけていた鳴駒の音 新月夜にや今や別らむ 氏忠
月もはやさ夜ふけがたになりぬれば かれヽになるむしの声かな 氏邦
「月前雲」 やまかぜの吹よはるより久方の 月のな□□の秋のうき雲 氏能
「通書恋」 かばかりやさきの世くやし玉章の むすぶちぎりはあはじ物かな 氏親
冬のうみの時雨るゝ波のはげしきに 身もはづかしのさゞいなるらん 氏冬
見ぬ花やおもふばかりにかきつばた ふかき色香を面影にして 範冬

(喜連川文書)
足利義氏、北条氏康とともに当時の北条一門が読んだ和歌を氏照が記したとされている
また、範冬とは今川範以のこととされている
問題は現在北条関係で発見されている史料において唯一の所見になる氏能、氏親、氏冬とは誰のことなのか

悪い話というか北条研究で未だ解決されない謎の1つ



155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 08:16:59.64 ID:SFBIDdSW
夭逝した氏政の兄貴が氏親とかいわれてなかったっけ?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 10:16:28.04 ID:kAdBeT5C
早死したんなら和歌が読めない年齢のはず
母親の身分が低過ぎて虫けら扱いだったんだろうな

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 12:59:53.16 ID:d3+CY0nG
>>155
読んだ順番ではなく一門でも家格順じゃないかなあこれ
氏政が上の時点で氏政が家督継承したか次期家督継承者になってるんじゃないかなあ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 17:15:20.78 ID:rWqd47zb
今川範以だって?妄言も大概にしろ
可能性があるとしたら氏真だろうな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:04:26.15 ID:J62I4Vu1
崩し過ぎて読めなくなったんかな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:05:50.75 ID:HApGphN1
>>156
いや最近の黒田基樹先生あたりの北条研究の本を読めよ。「北条氏親」は氏康の嫡男で
しかも氏康の正妻である瑞渓院(今川氏親娘)の子であり、氏政の同母兄だ。夭折と言っても
氏親の名乗りからも解るように既に元服していて、16歳で亡くなったと考えられているので、
このくらいの歌は詠める。

貧乏の時によく仏神の心に叶う

2018年08月16日 20:13

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 15:23:07.36 ID:FW+EssqZ
弘治2年(1556)、相模小田原の北条氏康は切り誇り、武徳をもって足利左馬頭晴氏の
子・義氏を取り立てて葛西谷に移し、奏聞を経て左馬頭に任じさせ“鎌倉公方”と号した。

伝え聞くところによると氏康の先祖は常に絵島明神を祈ったということであった。

浅井久政は曰く「人は必ず貧乏の時によく仏神の心に叶う。神もまたこれを憐れむのである。
富貴の時でも貧を忘れてはならない」と言ったということである。

――『浅井日記』


新九郎は大いに喜んだ。

2018年08月05日 18:05

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/05(日) 09:00:37.54 ID:dcTjLiP3
新九郎(北条早雲)の住国をあるいは山城国の宇治といい、あるいは大和国の在原と申すのは異説である。

さてさて、この伊勢平氏の先祖を申せば桓武天皇第五の皇子・一品葛原の親王第二の御子・高見王の子息・
上総介高望王が初めて平の姓を賜り、子孫は平氏として武家に下る。清盛の一門がすなわちこれなり。

(中略)

尊氏公愁嘆の時節、尊氏公はある夜に、当家の先祖がことごとく平家を滅ぼしなさったゆえにその報いが
たちまち来たりて子孫長命ならず。されば、世に名のある平氏を召し寄せて国家の政事を執り行わせれば、
子息長命なるべし、との夢を見て目を覚ました。

尊氏公は喜びなさり天下の平氏を尋ねられ、伊勢守盛継に優る者なしとして盛継を近臣とされた。その後、
若君誕生の時に盛継は蟇目の役を勤められ、それより若君の繁昌があったとして御名付親とされた。以来、
公方代々はかの例に任せて、御子誕生の時は必ず伊勢守の家より御名を付けたということである。

(中略)

されば伊勢守の家は管領家にも劣らず出世し奉った。

さて、尊氏将軍より八代の孫を義政将軍といって慈照院東山殿と号した。初め御子のいらっしゃらぬ時に
御弟・浄土寺の義尋を還俗せしめて養子として左馬頭義視と名を改めて今出川殿と号し、天下を譲るとの

契約あって細川勝元を義視の執事となされた。その後、義政の御台所(日野富子)が男子を産みなさり、
公方相続の旨を山名宗全に仰せ付けられた。これにより細川と山名は大いに異論が起きて天下は乱れた。

世に“応仁の乱”というのはこれである。その頃、伊勢守貞親は政事を執行していた。貞親の弟・伊勢
備中守貞藤はかの乱の時に山名入道と深い知音であったゆえ、細川右京大夫勝元は貞藤を憎み公方へ

讒言したため、貞藤はひそかに花の御所を忍び出て伊勢国へ下った。義視公も御身の上を気がかりに思し
召して北畠の中納言教具を御頼みになって伊勢へ御下向された。この時に貞藤の子息・新九郎長氏も、

もとより今出川殿が御還俗の以前より御馴染みであったゆえにかの地へ参り、今出川殿へ見参したのだが、
あくまで御旅亭であるから、むやみにいつまでそこにいるべきかとなった。伊豆国には義政公の御弟・

政知公がいらっしゃった。そのうえ親族もいたから新九郎は関東へ下ろうと思い立ち伊勢大神宮へ参って
弓矢の冥加を祈念したところ不思議の霊夢を蒙った。そしてひとつの神符を求めたところ、

「諸願成就、子孫繁昌疑いなし」とあったので新九郎は大いに喜んだ。

――『北条五代記』

北条五代記もやっぱり早雲は伊勢氏出身としていますね。


伊勢新九郎盛時という者があった

2018年07月20日 12:31

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 22:04:00.97 ID:VToEx01u
その頃、駿州興国寺の城主に伊勢新九郎盛時という者があった。後には北条氏長と改名し、剃髪した後は
早雲寺宗瑞居士と言った。

彼は文武二道に達し、才知抜群の士であった。京都にあった伊勢貞国の外叔父の甥にあたる。
彼の先祖である伊勢伊賀守盛綱は、建武年中等持院殿(足利尊氏)による天下草創の時手越河原の戦いで
討ち死にした。以来代々、京都公方家の御供衆であり、また一族であったので代々伊勢守家伊勢氏と
相親しんでいた。

新九郎盛時は先年、今出川殿(足利義視)のお供をし伊勢に下ったのだが、関東兵乱の久しきを鑑みて、
時運に乗じて我家を興起せんと思ったのか、京には帰らず、駿河国府中の城主である今川義忠という人が、
駿河一国の守護にて盛時の姉聟であったので、これを頼んで新九郎は駿州へ下った。

その頃、隣国との合戦があって義忠は討ち死にし、その家督である五郎氏親はようやく7歳の幼児であり、
国政に関われるはずもなく一族老臣たちが我意に任せ威を争い、様々に分かれて合戦に及んだ。
このような中、新九郎は氏親を助け様々に和議を以てこの騒乱を集収し、終には駿河を平和に治め氏親の
世と成した。氏親はこの忠義に感じ入り、同国興国寺の城に富士郡を副えて新九郎に与えたのである。

(應仁後記)

現在の研究に照らし合わせて、「盛時」の諱なども含めて、相当正しく伊勢新九郎盛時の履歴を描いている應仁後記の記事。


伊勢新九郎の伊豆討ち入り

2018年02月07日 19:38

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/07(水) 19:03:12.81 ID:p0mpqMFF
その頃、関東は上野を本拠とする山内上杉と、相模を本拠とする扇谷上杉の間が不和となり合戦に及び、
このため山内上杉の勢力下にあった伊豆の侍たちは皆、上野へと馳せ参じた。

この状況を察知した伊勢新九郎は、「願うに幸いである。これ天の与える所時を得たり」と、
自領の百姓どもを招き、この内武の用に立つべき者共を近づけて言った

「相模、上野両国に弓矢起こって、伊豆の侍たちは皆上野に参っており、今や百姓ばかりである。
私は、伊豆の国を切って取る。我に同心合力せよ。
その時はお前たちの忠恩に、必ず報いるであろう。」

百姓たちはこれを聞くと
「累年の御憐れみを忘れることは出来ません。御扶持人(在村給人)も我らも同意します。
我々は地頭殿を、一国の主に成し申さんと願い、たとえ命を捨てるとも微塵も惜しくはありません。
どうぞ、決断し実行されませ。」
そう、衆口一同に返答した。
新九郎はおおいに喜悦し、その上近隣他郷の者までも、この事を聞いて、新九郎殿に与力せんと参集した。

伊豆国北條には、堀越の御所成就院(足利茶々丸)という名高き人があった。
新九郎は「軍のはじめに、先ずこれを討ち滅ぼす!」と、延徳年中の秋、百姓たちを引き連れ夜中に
北條に押し寄せ御所の館を取り巻き鬨の声を上げ家屋へ火をかけ焼きたてた。御所は肝を消し、
防ぎ戦うべき事を忘れ、火炎を逃れ落ち行く所を追撃され、郎従共に皆討亡した。

新九郎が北條に旗を立てると、伊豆国の百姓たちはこれを見て「駿河の大将軍として、伊勢新九郎が
攻めてきた!」と、避難のため山嶺に逃げたが、新九郎はこのような高札を立てた

『伊豆国中の侍・百姓は、皆以って味方すべし。本知行は相違なく保護する。
ただし、もし出てこない場合は、作物を尽く刈り散らし、在家を放火する。』

これを見て百姓たちは我先にと馳せ来て「私はどこそこの百姓」「どこどこの郷の長」などと
申し上げると、彼らの地所相違なしとの印判を取らせ、皆々安堵した。

また、佐藤四郎兵衛という侍が一人、降人と成って新九郎の前に出た。
新九郎は「伊豆国中田方郡大見郷は、佐藤四郎兵衛先祖相伝の地であり、最初に味方したこと
神妙である。今度改めて地頭職を申し付ける。子々孫々永代に渡り、地の妨げは無い。
百姓らもこれを承知すべきで、あえて違失あるべからず。」
と、印判を出した。

上州に参じていた伊豆の侍たちはこのことを聞くと、急ぎ馳せ帰って降人となって出た。新九郎は、
本地皆領納すべき旨の印判を出した。そのため、伊豆の侍は一人残らず新九郎の被官となり、
30日の内に伊豆一国が治まった。

(北條五代記)

伊勢新九郎の伊豆討ち入りについて



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/08(木) 10:55:16.87 ID:ygpHBN7f
>>622
上野と伊豆が同心なら相模を挟めるのに上野に出向くとは阿呆の極み