自分の手で頸をもたげ

2017年04月13日 11:21

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 08:32:23.85 ID:WJZIhrj7
北条家の馬屋の預かりであった諏訪部という者は、度々善き働きがあった。

豊臣秀頼の小田原陣の時、諏訪部と勝田八左衛門という両人が物見に出た所、急に敵に接近され、
二人は早々に引き取った。
この時、諏訪部は馬屋の別当であったために善き馬を持っており、この敵の急追を振り切って
帰ることが出来た。
しかし勝田は良馬を持っていなかったため、敵を振り切ることが出来ず、立ち止まってこれと戦った。
勝田が後に残ったと聞いて、北条軍の人々はこれを救出するため馳せ参る間に、勝田は敵に討ち伏せられ
頸を半ば過ぎまで切られていた。

敵は勝田の救援が来たのを見て引き取った。しかし助けに来た味方も
「勝田は深手を負っているから連れ帰っても死ぬだろう」とこれを棄て帰ろうとした。

ところが、勝田もさすがの勇者であった。彼は自分の手で頸をもたげ、
「未だ生きているのに、各々は棄てて帰るか!?」
と喚いた。

味方はこれを聞きつけ、彼を連れて帰った。

この時、諏訪部は良馬を持っていたが故に却って遅れを取り、勝田は危うい命助かり、勇を表した。
そう、その頃の人々は沙汰したという。

勝田八左衛門は吊り鏡の指物を差していた。後に漂泊し、松平右衛門太夫(正綱)の所で身罷ったそうである。

(士談)

なんというか色々凄まじいお話



807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 11:04:17.58 ID:5tXU3jKh
デュラハンかよ....

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 11:22:59.31 ID:KM5oiyGV
関東武士はいろいろとオカシイ

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 14:31:47.16 ID:wGmclQZB
>>806
助かったのかよw!
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”八幡大菩薩”の大旗を差しかざし

2017年01月21日 10:29

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/20(金) 22:32:00.52 ID:KtL+lcuT
天正10(1582)年、伊豆方面で武田氏に対していた北条方では、戸倉城主・笠原政堯の寝返りや
笠原平左衛門(照重)の討ち死にもあって士気の低下が著しく
小田原での評定により、最前線である大平城の守備を玉縄城主・北条氏勝と交替させる事になった。


氏勝の軍勢が箱根を越えた頃、大平城から使者が来て
「おのおの方が城番としてやってくる事を敵が聞きつけ、三島の辺りに伏兵を潜ませたとの風聞があります
ここは軍勢を迂回させて城に入るのがよろしいでしょう。このまま進んでもし不意の合戦になっては交替もできなくなってしまいます」
と伝えた。

それを聞いた氏勝は
「もっともではあるが、敵をも見ずに迂回して城に入るようでは、戦う前からすでに相手は弱いと敵に知らせるようなものだ。
たとえ武田方が軍勢を配して待ち伏せしていたとしても、蹴散らして通るまでだ」
と答えて、”八幡大菩薩”と書いた大旗を差しかざしてまっすぐ大平城に向かい、やすやすと城兵の交替を済ませてしまった。

(小田原北条記)より


実際に伏兵がいたのかはさておき、兵書に言うところの
「正々の旗は邀(むか)うることなく、堂々の陣を撃つことなし」という感じの話



士は終わる所に強い意地が

2016年12月26日 16:02

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 13:14:43.95 ID:1WIkHi0K
 小田原陣の仲立ちとして、北条新九郎氏直から伊豆韮山の城主北条美濃守氏規へ自筆の書状を送った。
そこには『しかたがないが城を渡すべし』との事が書いてあった。
「しかしながらただ今まで、城に向かって矢玉を打ってきた人へはっきりとした理由無く
城を渡すのは本意ではない。家康公の家人を遣わされましたら渡しましょう。」
との趣旨を申された。
秀吉もその志が強く意地が爽やかなのを感じて、家康公から内藤三左衛門(信成)を遣わされて韮山の城を受取られた。
 とにかく士は終わる所に強い意地がありたいことである。
(武士としては)

やもめ女とやもめ男

2016年09月02日 19:56

142 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/02(金) 04:57:31.31 ID:Esn9Ugfg
やもめ女とやもめ男

ある日、上野の国の吉村の男が女に頭を棒で殴られ血を流したと訴えてきた。

男は「それがしは男やもめであり、この女もやもめであります。私達二人は同じ里の近所に住んでいて、
この女の家に夜な夜な通って情を交わしておりましたが、この女は別の男ともつきあい、
それがしを嫌い始めて泥棒呼ばわりして棒で頭を叩いてきました。
しかしそれがしは決して泥棒ではありませんから、無実を訴えに来たのです」と言った

女は「男と会ったことは無く、この男が夜中に家の戸を破って入ったので泥棒に間違いありません」と言った。

男はこれを聞いてもさしたる変化も無く、目もすわっていて受け答えもよどみがない。

結局どちらが正しいのかはっきりしないでいた。

そこで奉行の板部岡江雪斎が「やもめの男女を裁くのは珍しい事だ。両人とも証拠を示せ」と言った

すると女が「私は三年前に夫を亡くして、その時から理由の分からない腫れ物が出来ています。
医者曰く、これは「開茸」と呼ぶそうでなかなか治りません。
これを他人に見せるのは恥ずかしいので、それ以来男と付き合うなどと思った事がありません」と答えた

男は「しかし、女に腫れ物があっても寝起きは容易にしています」と返すと女は大笑いして

「私の体には腫れ物なんてありません!わざと嘘を言ったのです」と言った。

そのとたんに男は顔色を変え返答できなくなってしまったので、男を縄にかけて女は家に帰した。

盗人もうまく嘘をついたが、女の知恵には敵わなかった。それにしても
「開茸」の嘘は良く思いついたものだと、ここに訴訟を記しておく。

「北条五代実記」

見た事あったような気がするけど、まとめ探しても無かったので




143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 16:18:11.74 ID:aSA/depL
>>142
ありがちだけどそれだけに実際あってもおかしくなさそうで好き

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 16:51:40.99 ID:2JRig5Tm
豆泥棒だったのか

【雑談】北条家が生き残るのは

2016年02月25日 19:04

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 20:56:52.37 ID:xvX4Nzda
氏政と黄梅院の話とか、夫に尽くす早川殿、北条夫人をみると
北条家が戦国時代を生き残るのは難しかった気がする

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 22:31:33.07 ID:4Krux0rQ
早いうちに同盟を結び後々臣従すれば生き残れただろう
しかしながらどこの大大名も猿ごときなどと侮って過小評価してるからなw
魔王くらいインパクトないと畏怖しないんだね

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:03:12.07 ID:GZz9U8JJ
ぶっちゃけ東国組で速攻秀吉と手を結んだのは
勝家との確執って理由があった(勝家の対抗馬なら誰でも良かった)上杉くらいですし

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:43:00.97 ID:GDc0Jsbf
上杉毛利は勝ち組、徳川についた奴は負け組

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:43:57.09 ID:OZ8/vebl
西国だってそうだわ。毛利は秀吉と勝家を両天秤にかけてて、賤ヶ岳合戦のあと秀吉から糾弾されてる。

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:59:32.29 ID:lg3xEMyk
北条まで本領安堵なんかしちゃったら与える土地が全く無くなるからな
北条が生き残るには秀吉が西より東から統一してなきゃ無理だな

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 14:22:15.78 ID:GDc0Jsbf
そもそも抵抗してる時点で詰んでるよ
本拠地を攻められて降服じゃあ相模伊豆安堵も危うい
やるなら野戦して降服しないと

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 18:25:33.36 ID:yQOMArRR
小牧長久手の時にラスボスと同盟結んで背後から徳川を攻撃する事以外、
北条が生き残る道は無かった
それ以外にラスボスに恩売るタイミング無かったし

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 19:54:52.15 ID:6Blzu3C3
北条は大領で本領安堵は難しいという説はよく聞くが、実際どうかな?
状況は違うが家康は5か国安堵してもらっているし、毛利・上杉もそう。
家康入府以前に関東なんて大して開けてないし、九州征伐前後の時期、
北条から腰を折って来たら秀吉も受け入れたのでは?

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:26:16.51 ID:kmCFO9Qi
かろうじて河内狭山藩主として残ってるからま、多少はね?

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/25(木) 17:47:51.90 ID:O9n+VizP
>>228
その時は受け入れるが、後々徳川と両天秤に掛けられてどちらかが潰されてた気はする
そうなるとより大身で色々と火種を抱えやすいほうが・・・

氏政公が飯へ汁を二度かけて

2016年02月23日 17:32

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:17:26.49 ID:pY+DLWFU
 北条三代目の氏康公は御子の氏政公と御昼食の時、氏政公が飯へ汁を二度かけて召し上げられたのを氏康公はご覧名さなれ、
 「後に関八州は氏政が世で亡ぶだろう。わずか飯椀の中に汁を入れるということさえ、一度だけで行う加減がわかっていない。
そのようなひととなりではどうやって八ヶ国の人々の目利きをすることができようか」
と御落涙したという。
 その言葉の通り氏政公の御代で滅びました。厳密にいうと氏政公は滅びなさったときは御隠居で、氏政公の御子氏直公の御代で亡びましたということだが、
彼はひどいうつけ者であり、氏政公はその愚昧の氏直公へ御相続させられましたことから、汁かけ飯での氏康公のお目利きは神のごとしだと思われます。

 冷泉家は北条執権のころ無二の懇情でしたが、その後君の御憎しみがつよく遠流となられ、
程経て帰洛の後に、家の掟で武家と縁組等を無くし、今でもその通りであります。
先代の掟をこのように守りなされることは甚だ感心します。
 その他の公家方は時節につれてなされたように思われます。
心ある堂上方はこのことを恥と申されたという。清貧と申す事はとかくならぬ事と思われます。
(本阿弥行状記)



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:27:17.81 ID:+ttG42F8
本阿弥光悦の時にこの話が広まっていたとは驚き

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 01:45:53.87 ID:nRXKJORI
氏政暗愚説っていうか、まぁ時流を読み間違えたのはそうなんだろけど

だからって汁かけ飯ごときで暗愚判定されるとは、氏政も草葉の蔭で泣いてるんじゃないかな…
もうちょっとこう…あるだろ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 16:51:20.67 ID:drP4ghCp
2度目に薬味も入れとけばこうもこき下ろされずに済んだハズ

この時、松田の末子左馬助は

2016年02月22日 11:39

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 20:51:34.09 ID:sic6Ivqj
小田原陣の際、北条家第一の大名松田尾張守父子、氏政へ逆心し敵の勢を城中へ引き入れるという企てが会った。
この時、松田の末子左馬助は一向に合点しないので、父子は申し合わせて一間へ押し込んで、いよいよ逆心を取り急ごうとした。
ところが、左馬助は具足櫃に入って忍んで本城へ参り、父兄の逆意を申し上げたので松田父子は早速罪に処せられた。
 その後小田原落城の後、氏直と高野山へ登られたときも、この左馬助は付き添って忠を尽くされたという。

 惜しむらくは父兄への孝道が欠けていること、大いに玉に疵である。
父兄が罪に処せられましたときにすぐさま腹をも切ったら、忠孝二つとも全うできたものを残念な事である。
父は子のためにかくし、子は父のためにかくすという聖人の示された言は今更である。
(本阿弥行状記)

忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず



204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:23:58.99 ID:MU5FSvyb
黒官「あれ、わしが秀吉の命令に背いて、
長男を殺して末子を助命した、て話は」

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:32:00.19 ID:fw1BDPma
城井一族を騙して皆殺しにしてるから、北条も適当に嘘ついて開城させたんだと思う

八王子城落城始末

2015年10月21日 13:23

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 12:30:17.25 ID:YdwXRHRU
八王子城落城始末

八王子城の城主北条氏照は小田原城にあり、家臣がその留守を預かっていた。
そこに前田・上杉が攻め寄せ、先に降伏した北条氏邦を使者にし「小田原城は既に落ちた。早く開城せよ」と言いつけたが、
「主の氏照が降伏したのであればその書状を以て開城に応じよう。だが主の命なくして降伏するのは、武士の恥だ。氏邦如き臆病者は一人も城内にはおらん!」
と家臣らは突っぱねた。利家や景勝はその義に感じ入ったが、鞘を納めるわけにもいかず、一万五千の兵で城を包囲した。
城将の狩野一庵・近藤出羽助実・金子三郎右衛門家重らは死兵となって討って出て、討死を遂げた。氏照の第一の重臣横地監物も、城に火の手が上がるのを見、今日を最期と散々に戦い、寄せ手側は多くの犠牲を払うこととなった。

同じく城将の中山勘解由家範は猛将として知られ、特に八条修理満朝の馬術を会得し、関東無双と称されたほどの人物であった。
大敵に怯むことなく、200人を引き連れ駆け込み、ここが死に際と切って回ったが、寄せ手も次々に新手を入れ替えて攻め寄せたので、供回りが15,6人にまで討ち減らされてしまった。
この奮戦を見た利家は「誰か中山の縁者はおるか」と問い、「松山城の降人根岸定直が妻は中山の妻と姉妹であり、小岩井雅樂助は中山の馬術の弟弟子であります」と返事を聞き、中山を味方に引き込むようにと両人を城中へと送ったが、既に中山とその妻は自害してしまっていた。
まだ息が残っていたため両人は中山と言葉を交わして帰っていき、その旨を報告すると利家は非常に惜しんだ。
なお横地監物は死地を切り抜け落ち延びていった

北条の城は多しと雖も豆州韮山の城以外は大半が降伏を選ぶ中、その城兵が城を枕に討死したことを東照宮も聞き、中山の嫡子助六郎昭守・次男佐介信吉に禄を与えた。
昭守の子信守は大阪の陣で功をたて、信吉は後に水戸家に仕えて備前守と称した。狩野一庵の子主膳も徳川家に仕えたそうな。

『常山紀談』

であるが、あの景虎という者

2015年10月01日 13:56

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/30(水) 21:36:17.05 ID:QV802Zwr
永禄4年、最初の越山で北条氏の本拠、小田原に迫り来る上杉景虎の軍勢に対し、小田原城では
重臣たちが集まりその対応を協議していたが、様々な主張が出て議論となり、いかなる方針を取るか
結論が出なかった。
ここで、北条氏康が重臣たちを諌めて言った

「今度の景虎発向の事について各々の主張はどれも尤もである。
であるが、あの景虎という者、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、腹が立って怒る時は
炎の中にも飛び入ろうとし、鬼であっても掴み拉ぐというほど短気な勇者である。

であるが、そんな彼も少し時が過ぎると、その勇も醒めて万事思慮するようになる傾向がある。
『仁者は必ず勇あり、勇者必ず不仁』と言うではないか。

現在彼は上杉憲政から関東管領の名を譲られ、諸侍を配下に付けているのだから、彼の考えを
想像すれば、一層その強みを出そうとしているだろう。
その上彼の軍勢は多勢である。だからその進軍する先々に、我らは軍勢を出さずに籠城して、
彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。

来鋭を避け惰気を撃つとはこれなり。
勇気も疲れ、数日対陣し兵糧が減って飢えたところを討つのだ。」

(相州兵亂記)

上杉謙信北条氏康から超熱しやすく冷めやすいと思われていた模様。




豊鑑より、北条への認識

2015年06月23日 17:39

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:35:01.10 ID:yUxMH566
その秋、北条美濃守(氏規)と言う者が上洛した。これは北条氏直の叔父である。
この北条氏直というのは、東の国々を7つばかり従え、相模の小田原に在った。

彼は北条時政の子孫ではない。早雲という人物の子孫であるが、彼も彼の国の者ではなく、
都あたりの出身であったが、従者一人二人ばかりで駿河国にさすらい行きて、今川のなにがしに
縁があったが、よろず優秀な人物だったので今川氏の心にかない、漸次出頭したが、伊豆の国に移り、
どうやったのか彼の国を従え、2年3年の内に相模の国を心のままにして、相模の小田原に移り住んで
なおも武蔵、上野の切り取りををこころざしたという。

その嫡男である氏康という男子、父にも劣らず賢く、武士の道にたけく謀ある人物だったので、
彼の時に武蔵、上野、上総、下総などまで従え、一族広く富み、権勢盛んとなったこと思い知るべきであろう。

氏康の嫡男である氏政は、老いたというには幾ばくも至らない内に嫡男氏直に世を譲ったそうだ。

(豊鑑)

当時の畿内における、北条への認識がかいま見られる豊鑑の記事である。
というか氏綱…。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:58:04.50 ID:wOzHKolz
まあ、ハブられてもしゃあないというか
無関係なところの人間にしてみたらそんなものじゃないの

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:03:39.10 ID:IpAvlnDm
もう出自不明になってたんだんだ

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:31:55.43 ID:g+i0E8PA
毛利の長男よりはまし

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:46:03.74 ID:LkICDGu3
斉藤道三の国盗りと一緒で一人と思い込んでたんじゃねーの?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:34:23.03 ID:KeJRBl/z
>>973
興味薄いからろくに調べなかっただけでそ。
東国は別の国みたいなもんだし。

河越夜戦の事

2015年05月07日 18:49

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 21:17:42.95 ID:6Q3hoisF
永禄6年(1563)、北条と武田の松山城攻めの時のこと。
武田信玄北条氏康に、かつての河越夜戦の様子を聞きたいと所望した。
しかし氏康は「信玄殿のような戦巧者に話すのはお恥ずかしい」などと遠慮したが、信玄は

「私は氏康殿より6つも歳劣っております。学問として、お話を承りたい。また嫡男である義信にも
聞かせてやりたいのです。」と、しきりに所望したので、ついに氏康も語り始めた

「川越の夜戦は天分7年7月の一五夜(原文ママ。天文15年(1546)4月20日の間違い)であったと記憶している。

敵は山内・扇谷の両上杉。その人数は8万6千ほど。一方の我々は、、伊豆・相模の両国を領有していたものの、
1万の人数を駿河・甲州との国境に置き、安房の里見への警戒のため三浦にも人数を置いたため、
残った8千の人数を引き連れ、入間川まで進軍すると、敵3万ばかりがこちらに向かって来るのを見て、
早々に小田原に引き退いた。

この時、諜報の者共を出して調べさせると、敵は『氏康は逃げた』と笑い事に沙汰していると聞こえた。
良き沙汰であると思った。
5,6日してまた出陣した。そして前と同じように、敵が向かってくると早々に小田原に撤退した。
敵の沙汰を調べさせると、「氏政はもう出てこないだろう。仮にまた出てきたとしても、いつもの様に
逃げ出すだろう。」と取り沙汰している事が解った。

ここで私は、彼らの沙汰が両上杉による謀略であるという疑いを解き、入間川の端まで出撃し、
人を出して様子を調べさせると、「氏康はどうせまた逃げるだろう。構わずそのまま置いておけ。」と、
敵方は申していることが解った。

そこで私は、8千の人数に白い紙で作った胴肩衣を着せ、
「敵の首を取ってなならない。斬捨てにせよ!そして敵であったとしても、白いものを着た者は
斬ってはならない。また、敵を斬りかけていたとしても、後ろから貝の音が聞こえたら、そこに
集合するように。」と、三カ条を申し含めた。

夜の子の刻(0時頃)、両上杉の旗本が駐屯していたかしわ原という所に斬り込んだ。そして
八つ過ぎ(午前3時頃)まで敵を討ったが、味方の死傷者は100人も居なかった。
後で調べさせると、上杉家の者達は、雑兵合わせて1万6千ほど討ち死にし、1万あまりが負傷して敗軍した。
逃走する両上杉は我らが軍を警戒するあまり我先にと逃げ落ちたため、合戦はこの氏康の利運と成った。

しかし、これは氏康の手柄ではない。この勝利は北条上総介(綱成)と、”ため”という者が剛強であった
故なのだ。

私が中武蔵にて少しばかり切り取ったところを、上総介に与えた所、彼はその所領を自分の欲のために使わず、
それを使って上杉家を背いた侍達500人ばかりを抱え、良き人質を取り小田原に指し寄越し、
川越の城を強靭に持ちこたえた。

また”ため”は河越夜戦の時、50人の足軽を引き回し、私の脇に寄り身構え、夜が明けてもこの氏康を
守護した。そしてこの松山の城に退き籠もった。

上杉家の侍大将たちは弓矢巧者の衆であるから、一旦退いたといえども、氏康の軍勢の人数を見積もり、
疲労したところに掛かって氏康を討とうと戦場に再び押し寄せたが、氏康は既に松山城に堅固に籠もったと
聞いて、流石の侍大将達といえども、上杉敗軍して総大将が居ない状況であったので、どのようにするかと
いう議論がが紛糾した所に、上総介は川越城から出撃し、上杉勢を追い崩し、直ぐに松山城に入って
私を守護し、このあたりの仕置を行った。
その後、川越の城には大同時を置き、上総介は玉縄城で安房を警戒し、氏康のため良くしてくれている。」

この話を聞いた信玄は、自分の陣屋に戻ると、馬場民部(信春)を呼んで言った
北条氏康の弓矢、手立て、だいたい解った。」

(甲陽軍鑑)
北条氏康、信玄に河越夜戦について語る、というお話。




942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 21:22:24.79 ID:UDS3Nmt/
>「北条氏康の弓矢、手立て、だいたい解った。」

最後でお茶吹いたわw

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 22:07:38.77 ID:dHplT8NS
えらく長いなと思ったけど、最後まで読んで
ちょっと悪い話として秀逸と思った。

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 02:51:42.66 ID:EwhgJU5F
これで分かるわけないんだよなあ

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 03:10:35.47 ID:W26AB9aq
で、ため って人は誰に当たるの?
風魔か

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 03:30:39.63 ID:sa/Ml6Bk
ためは多目だろ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 04:01:13.54 ID:GDeBRSsV
多目元忠だろうね。北条五色備の一人で黒備。
北条綱成と双璧を為した武将で、氏康の軍師だったとも。

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 05:48:28.41 ID:ObHfsY57
安心の軍鑑w
信玄を持ち上げてるつもりで書いたんだろうが、単なる小知恵者にしか思えないよw

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 09:57:41.61 ID:NzRwIDv/
>>942
馬鹿にしてるようでワロタw

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 15:43:37.44 ID:ow36jQfs
永禄6年だと馬場民部じゃなくて美濃なんじゃ?とか細かいとこが気になった

「あれを麦飯にして、早々にここに出すように

2015年05月06日 15:32

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 21:54:29.55 ID:m744MYgG
永禄6年(1563)、上杉謙信方の太田資正(三楽)が守る松山城を、北条氏康と武田信玄の連合軍が
陥落させた時のこと。

その陣はとかくあって4月末になり、陣夫たちが馬の餌として麦を刈っているところを北条氏政が見て、
家老の松田憲秀に「あれを麦飯にして、早々にここに出すように」と命じた。
武田信玄はこの言葉を聞くと

「さすが氏政殿は大身であられるので、ご存じないのも道理です。あれは、先ず扱いて、こなして干して、
搗いてまた干して、その後まづきというものをして、食せるようになり、これに水を入れよく煮て、
ようやく麦飯と成るのですよ。」と言った。

北条家の松田、大道寺を始めとした家臣の者達は、『信玄が氏政を下げずんでいる』と、
恥ずかしく思ったという。

(甲陽軍鑑)




747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 23:16:39.40 ID:efiNJHlg
太郎晴信と言われていたとき領内の米の収穫を見物した際に
老臣の板垣にあれで餅をつくって持ってこいと命じたらしいねw

748 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/05(火) 23:36:12.27 ID:bk8L788Z
甲陽軍艦て何でこんなに氏政を虚仮にしようとする逸話多いんだろう
第一次駿河侵攻で氏政に信玄が敗走させられた腹いせ?

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 00:24:06.76 ID:K/zNr46c
氏政は北条遺臣の書いた北条五代記でもディスられてるし
馬鹿殿氏政はこの時代の共通認識だろ

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 02:28:26.98 ID:88LFcJYm
秀吉と敵対した大身の大名の中で滅亡させられたのは北条のみだしね

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 03:46:49.18 ID:vxBWnKFh
実父からは「北条は俺の代で終わり」と嘆かれ
義父からは「婿殿は物を知らぬ」と蔑まれるバカ殿氏政

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 10:10:30.37 ID:NpPIqbQ/
>>737
謙信の影武者は戦国最強

信玄影武者との一騎打ち

北条の大軍が包囲する唐沢山城を僅かな手勢で突破

小田原包囲戦の際、鉄砲の射程圏内で平然と弁当を食う

本物は超用心深い

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 10:23:35.96 ID:4Ht9e4Kr
>>751
実際に終わったのは俺の孫の代でしたw残念!

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 11:56:05.84 ID:P49wh2UI
河内狭山藩ェ…

庭林坊の事

2015年04月26日 16:08

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 03:06:59.59 ID:ier522gz
庭林坊の事

天正元(1573)年北条と里見との間で合戦があった

小田原へ向け里見の水軍が押し寄せているという噂が広まると、誓願寺の庭林坊は唐傘を差して見物に出かけた

すると浜には先客がいて、三本唐傘の旗印を差した高山大膳といった侍が沖の船に向かっていくさ名乗りを上げていた

庭林もこれを見て「拙僧は第二陣、浄土宗誓願寺の法師武者、唐傘の庭林なり」と名乗りを上げた

ところが沖の船はただの釣り船だと判明し、集まった人の間から失笑が漏れた

「高山某と誓願寺の坊主が釣り船に勝負を挑んだwwwwwwwwwww」

この噂は北条氏政の耳に入り、氏政の子の国王丸がその坊主を見たいと御前に召し「昨日のごとく言葉を違えず名乗ってみよ」と命じた

庭林坊はほかならぬ北条の若君の頼みとあって、庭へ下りて唐傘をばっと開き名乗って見せた

国王丸は大笑いし、庭林にたくさんの褒美を下されたという

『北条五代記』

ちなみにこの庭林、後の前田慶次の朋友と言われる




北条氏康、今川義元に依頼をする

2015年04月17日 18:04

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/17(金) 00:01:08.36 ID:DAofRnT6
天文19年9月9日に、駿河の今川義元より四ノ宮右近、庵原弥兵衛の両人が甲府に御使に参った。
四ノ宮右近は節句の御使、庵原弥兵衛は、小田原の北条氏康から、今川義元に頼まれた使いであった。

氏康から義元への依頼は、このようなものであった
「我が北条家が、(山内)上杉家と弓箭を取ること、私まで三代に渡ります。しかれば、今年中には
有無の一戦を仕る所存です。

もし上杉憲政の運が尽き、私に利運が有れば、関東諸国については北条家によって仕置きするつもりです。
ことさら上野国は上杉憲政居城の国であるが、この上野に武田晴信が手をかけるのを思いとどまるようにと、
そちらから甲府に言って頂きたいのです。

我々の方から晴信に申すべきなのですが、若き人の事でもあり、我らは彼の父信虎とは別して入魂仕り、
信虎も我らと一入懇ろに取り扱い頂きました。ですが、今の晴信にはしかじかと申し談ずることもなく、
殊に、晴信という人物は、少々喧狂のように承っています。
このため、こちらより申し入れて、事破れてしまってはいかがかと思い、義元公を頼りたいのです。
義元公は晴信の姉聟ですから、晴信が気に入らないことであっても義元公が申し入れれば合点するでしょう。」

このように北条氏康今川義元に頼み、武田晴信に仰せに成って、武田が上野に出陣することはなかった。
ただしそれから8年目に、仔細が在って上野に出陣した。

(甲陽軍鑑)

後日談
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9214.html

北条氏政妻、鳳翔院の事

2015年04月13日 18:47

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/12(日) 18:50:57.84 ID:f4K0Om5X
北条氏政の妹が実家へ帰らず武田勝頼と運命を共にしたという話は有名だが、氏政にも小田原征伐の際に運命を共にした妻がいた。

氏政の継室である鳳翔院は一説では公家の関係者ではないかという話もあるがその出自は明らかにされていない。
彼女は小田原籠城中に氏政七男の勝千代を産んだらしいが、六月十二日に氏政母の瑞溪院と共に自害したと伝わる。

小田原市にある北条氏政・氏照の墓と共にある氏政妻の墓は前妻である黄梅院の墓と言われているが、北条氏と運命を共にした鳳翔院の墓という説も存在する。



外郎事

2015年03月01日 19:58

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 01:41:54.70 ID:1YOMHe++
外郎

相州小田原における北条氏綱の政道は、無私にて民を慈しんだので、近国他国の人民は
その恵みに懐き移住し、津々浦々の町人職人が遠隔の西国や北国からも群来した。
そのため小田原の街は、古の鎌倉もどうしてこれ程だろうかと覚えるほどに発展した。

東は一色より板橋に至るまで、その間約一里に商店が密集し、数多の売買を行っていた。
山海の珍物、琴碁、書画や細工に至るまで、無いというものは無かった。
異国の唐物で、未だ目に見たこともなく、まして聞いたこともないような器物が、
幾つと言うことも無いほど積み置かれていた。

このような交易の売買で利潤を得た者は、四条、五条の辻にも溢れ、民のカマドも豊穣と成り、
東西の業も繁盛した。

小泉という人が小田原の町奉行に任命されたが、彼は賞罰が厳重で堪否を知り、理非分明で物の正否を
糺したので、不正に嘆く人もなかった。

そのような中、京都より外郎という町人が来て様々な薬を商った。なかでも透順香という霊薬は、
長生不老の薬であると言って、氏綱にも進上されることと成った。
そこで町奉行の小泉がこの町人を伴って登城した。
氏綱の御前において
「かの薬の効能は測れないほどです。先ず第一に口中の臭気を除き、眠気を取り、命を延ばします。」
と言上した。

そこで外郎が申し上げるには
「この霊薬は、唐においては仙家の秘薬ですが、我が先祖が代々これを伝えていました。
そして鎌倉建長寺の開山大覚禅師が来朝する時、お伴して本朝に渡り、以後この国に居住しております。」

氏綱はこれを聞くと
「誠に珍しい貴物である。今後小田原に居住するように。」
と申し付け、明神の前の町家を与えた。今の小田原の外郎の店はこれの事である。

(相州兵亂記)

北条氏綱の時期の、小田原の繁栄と外郎についての記述である。




679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 11:00:14.18 ID:HohDDBDN
ういろうはミステリアスフード
当時のういろうは甘くなくて薬っぽかったんだろうなあ
友人は石けん味の食い物なんぞ食えるかといって嫌ってるw

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 11:27:15.98 ID:LdFAmnHA
小田原のういろううまいよな。また城ついでに買いに行きたい

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 12:33:49.30 ID:Hf4nG+dx
それ仁丹みたいな丸薬の方のういろうやろ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 13:38:18.36 ID:59L9f9Rt
外郎発祥は小田原なのに、何で名古屋が有名なんだろうか

http://i.imgur.com/4pmjg73.jpg
4pmjg73[1]

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 13:53:19.22 ID:qv6GP8+Z
>>685
外郎の発祥は京都。そこから各地に伝わって様々に進化した。
小田原のは外郎の宗家が移住したから小田原発祥というような誤解が伝わっている。
名古屋の外郎が有名になったのは東海道新幹線の開通で車内販売され、おみやげとして有名になったため。

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 21:15:24.09 ID:61zzAPJY
字が違うと分かっているのに、つい「げろう」と読んでしまう、外郎に縁が薄い馬鹿が俺

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 07:45:28.88 ID:HUBXNlue
下がれ!外郎!

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 08:34:26.54 ID:Ug9IlYrZ
前に出ろ。羊羹。

伊勢宗瑞の伊豆取り

2015年01月13日 18:54

553 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 15:02:47.57 ID:QnBHyRdV
その頃、伊勢平氏葛原親王より続く子孫(桓武平氏)に、伊勢新九郎入道宗瑞という人があった。
伊勢国の住人であったが、壮年の頃より京都に上り、将軍家に奉公していたそうである。

少年の始めより生涯、山野江海において猟漁を好み、馬に乗って悪所を越え岩石を駆け上がる事は、
まるで神変を得ている如しであった。あの造父(周繆王に仕えていた優れた御者)は馬を御して
千里を走っても疲れること無かったと言うが、この新九郎以上ではなかったであろう。

水練もまた、馮夷(ヒョウイ:中国神話の水神)の道を得ており、驪竜頷下の珠(黒色の竜の顎の下にある珠)
をも奪うことが出来るほどであり、
弓は養由基(春秋時代の武将で弓の名手)の跡を追う程で、弦を鳴らしてはるかな樹上に居る猿を
落とすほどであった。
彼は謀に巧みで、人を良く観察し、気力健やかで心も不屈であったので、戦場に挑むごとに
敵を退け、堅きに当たり強きを破ること、樊カイ・周勃が得られなかった所を得ていた。

そういう人であったので、似た者たちを友とし、その頃伊勢国に荒木、多目、荒川、在竹、大道寺、
そして新九郎の7人、いずれも劣らぬ勇士たちであったが、彼らは常に近づき共に交遊していた。

ある時この七人、一同に関東へ弓矢修行に下る時、七人神水を飲んで誓ったことには、
『この七人、いかなる事があっても不和になってはならない。互いに助けあって軍功を励まし、
高名を極めるべし。もしまた、一人優れて大名となれば、残る人々はその家人となって、その一人を取り立て、
国々を数多治めよう。』
こうしてそれぞれに東国に下り思い思いに活動する中、伊勢新九郎宗瑞は駿河の国司である今川氏親に仕えた。
そして度々戦功があったので今川殿はその功を感じ、富士郡下方庄を与えられ、興国寺城に在城した。

その頃、伊豆国は山内上杉家の分国であった。伊豆は興国寺よリほど近く、どうにかして伊豆国を
討ち取ろうと、宗瑞は常に考えていた。

554 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 15:04:40.75 ID:QnBHyRdV
伊豆国には、堀越御所と呼ばれた公方があった。この御所は、去る長禄二年(1458)、京都の
将軍である足利義政の舎弟、政友卿が関東に下向あって伊豆国に御旗を立てたものである。
その子孫が今の堀越御所であった。
かの御所の侍に、外山豊前守、秋山新蔵人という忠功の士があったが佞人・奸臣らが彼らの出頭を妬み、
讒言したのを、御所も御運の末であったのだろう、糾明することもなく二人の士を討ち取ってしまった。
これに家中の面々大いに騒ぎ、お互いに疑い合って国中混乱した。

この時、宗瑞は伊豆国に湯治をしてこの有り様を見聞し、「今である」と判断した。
山内、扇谷の両上杉は関東において絶え間なく争っており、伊豆国は山内家の分国であったために
国中の軍兵、並びに御所侍たちも跡を払って関東へと出陣していた。残る兵は僅かであり、これに
宗瑞は大いに喜び、かつて七人の約束をした荒木、山中、大道寺など六人を呼び、また今川殿にも
この旨を申して加勢を請い、伊豆に向かって出陣した。

堀越御所は俄なことでもあり、立て籠もるべき兵もなく、いかがすべきと驚き、山林に立て籠もった。
御所の家中の武士の内、関戸播磨守という者名乗り切って出てしばし戦ったが、終に討ち死にした。
その後、堀越殿もかなわずと自害したため、宗瑞は伊豆を侵攻し北条に旗を立て、韮山の城に在城した。

そして『末代に至った凡下の侍は義を忘れ、欲に命を忘れるのだ。』と、多年蓄えた金銀米銭を取り出し、
これを尽く施した。このように民を撫育し軍兵を哀れんだので、伊豆国は申すに及ばず、近国の
牢人達まで、我も我もと韮山殿へと参った。

その中でも伊豆の住人である、三津の松下、江梨の鈴木、火見の梅原、佐藤、上村、土肥の富永、
田子の山本、雲見の高橋、米良の村田などという侍たちも我劣らじと駆けつけた。
彼らは山内上杉の支配に抗い、堀越御所の政道に背いた者達であったが、宗瑞の器量は只人に非ずと
それぞれ同心して、皆彼の下知に従うことにしたのである。

こうして、神水の誓いをした六人は宗瑞の家老となって伊豆国を治めた。
その威は近隣に響き、軍勢は招かなくても集まり、攻めなくとも従った。
それはただ風に草木がなびくようであった。
(相州兵亂記)

伊勢宗瑞の、伊豆取りまでの逸話である。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 19:02:05.84 ID:O+SAY8hh
これ深根城の戦いことかな?
この関戸播磨守って関戸吉信のことかと思ったら官職名見たら父・宗尚のことになってる。
と油断してたら吉信も播磨守の官職だったでござる。

関戸吉信の奥さんは上杉憲実の娘なのねえ。

関戸家って関東管領家からかなり信用されてた家だったのか。

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 11:43:58.80 ID:8DfnmH1g
堀越と深根との両所に討ち死にしたって話があるみたいね
関係ないけど、早雲の小田原攻めは地震のあとのどさくさに紛れて行われたんだね

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 15:18:15.80 ID:I5LgzJhZ
>>556
小田原じゃなくて伊豆攻めじゃない?まあ伊豆攻めも明応大地震と時期的に合わないみたいだけど。
あと軍記物にあるような小田原攻めは存在しなかったというのが、昨今は定説だね。

北条早雲逝去

2015年01月11日 17:09

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 08:27:00.73 ID:aKWPqlZr
北条早雲逝去

永正十六年八月十五日、北条早雲伊豆国韮山の城で逝去された。
生年已に八十八歳、これまでもなお眼にかすみがなく、耳も定かで、歯牙にも欠損はなく、ただ白髪であるばかりで、
精神の正しき事、さながら壮年の時と変わらず、誠に布衣白屋(布衣=無官、白屋=貧乏人)の下から立てて、
一家を起こせるほどの果報がある故であると、人はみな感じ思わぬ者はいなかった。
当国の修禅寺で送葬し、一片の煙と焼き上げて、遺言の旨に任せ、小田原の湯本に墳墓を築いて、金湯山と号して、
洛陽紫野大徳寺の僧某長老を請いて、仏事を営み、早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門と称す。
昨日までは、相豆両州の太守となり、弓矢の威名を東国に震い、今日は忽ちに白骨を、黄壌に埋めて、一菊の卵塔に神魂を棲ませる。
人世誰かこの苦を免れるだろうか、高きも賤しきも、遂に同じく黄泉下に帰るのだ、誠に儚い生涯である。
(鎌倉九代記)



534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 09:42:09.93 ID:+DfIPhPS
己にしたがい行くは只是れ善悪業等のみなり
造悪の者は堕ち、修善の者は昇る
毫釐もたがわざるなり

大丈夫と言うべきである

2014年11月23日 18:58

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 14:13:46.03 ID:Pe986KLZ
北条氏滅亡の後、豊臣秀吉板部岡江雪斎に対し、

「お前は先年、北条の使いとして上京し、約束したのに、たちまち背いて
名胡桃の城を取った。それは氏直の姦計だろうか? あるいはお前の偽りか?」

と責め問うた。これに江雪は「じきに申しましょう」と答えたので、

秀吉は大いに怒り、手かせ足かせを並べて江雪を呼び出し、刀を奪い取って
左右の手を引っ張り、庭上に引きずった。そして罵って曰く、

「お前が約束に背いたことは、誠に憎むに余りある! その上、日本国の兵を
動かし、主君の国を滅ぼしたことは、お前にとって快いことなのか!」

と、江雪を責めた。これに江雪は顔色も変えず、

「氏直には、まったく約束に背く心はありませんでした。辺鄙の士が愚かだった
ために名胡桃を取り、ついに戦いに及んで北条の家は亡んでしまいました。

その事は、江雪の思慮では、どうにもなすべき手立てがありませんでした。
誠に家の亡ぶべき運命だったのではないでしょうか。

されども、日本国の兵を引き受けて戦ったことは、北条家にとって名誉でした。
この他に申すべきことはありません。早く首をお刎ねになってください」

と言った。すると秀吉の顔色は打ち解け、

「お前を京に引き上らせて磔にかけようと思ったが、大言を吐いて主君を辱め
なかった。大丈夫(立派な男子)と言うべきである。命を助けよう、我に仕えよ」

と言って、彼を許した。板部岡を改めて岡と称したのはこの時からのことである。

――『常山紀談』



235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 14:38:09.50 ID:VfEz0+kO
憲秀「…

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 19:48:24.26 ID:RIqtraW4
岡江雪斎になったのか

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 21:16:06.58 ID:jjCqT+TR
獏「岡江さん?」

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 01:54:49.33 ID:Axoil3Ue
>>236
岡野融成

北条三四郎の仁義忠信

2014年09月22日 19:18

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 19:30:32.98 ID:Lpg/YPD5
北条三四郎は酒井忠勝の祐筆であり、常にその居間へも立ち入ることを許されていた。

ある時、伊達政宗より自筆の書状が届いた。その内容は、
『今朝そちらから遣わされた書状についてだが、宛名は私になっているが、その文面は、
他の人に遣わされるものであった。これは書いた者の誤りだと推察したので、この書状は
返信いたす。』

これを読んで忠勝は激怒し、家司を呼ぶとこの事を話し
「この書状を書いた者に切腹を申し付ける!」
そう大声で言いつけ、そのまま江戸城に登城した。

その後、家司衆は評議した上で、先ず祐筆頭である北条三四郎を呼び、今度の事態を聞かせ、
これを書いた者を糾明するようにと伝えた。

三四郎はこれを聞くと
「御存知の通り我々祐筆の者達は毎日数十通の書状を分担して書いています。ですので、伊達殿への書状を
誰が書いたのかは解りません。筆跡を引きあわせて、その上で判断したいと思います。」

そう申して退出した。この時、三四郎はこう思ったのだ
『今朝、主人である忠勝様が声高に切腹のことを言われたのは、深慮せねばならないことだ。
だいたい人を罰するのに、どうして声高に申し渡すのだ。』

そのようなことを考えつつ密かに忠勝の居間に入って見ると、政宗から返されてきた書状が
床の上にあった。「これか」と取って見たところ、紛れも無く同役の某の筆跡であった。
そこで三四郎は、すぐさまこの書状を引き破り、更に焼き捨てて、そのまま知らぬ顔をしていた。

程なく酒井忠勝が帰宅し、家司衆に「今朝申した書状の事はどうした」と尋ねた。

「その件についてですが。北条三四郎に尋ねた所、数十通を数人で書いているため、
誰の書いたものだとすぐには解りかね、そのため筆跡を引きあわせて書いた者を認定したい、
と申していました。」

「それは尤もの事である。ならば、あの書状をここに持ってくるように。」

そう命じたが、どれほど探しても書状は見つからなかった。そのことを申し上げると

「詮議があるのを知って紛失させたか!不埒者め。」と言ったが、この事はそれで相済んだ。
伊達政宗には、忠勝が自筆で返答をした。

「人の志も立て、また人命を失うこと無く事済んだのは、北条三四郎の仁義忠信の為す所である。
君臣合体とはああ言う事を言うのだ。」
これは酒井忠勝が死去した後、ある人が語った言葉である。
(明良洪範)




854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 21:02:58.32 ID:qjRlHk5I
>>850
切腹が軽すぎてもやっとする話

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 23:13:03.90 ID:kGGh35yq
>>850
誰かが見ていたか、三四郎が喋ったんか