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北条一門の歌

2018年09月18日 18:13

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 01:12:50.18 ID:3a6RWHwE
「見恋」 いかにせむ心ひとつに月日へて つゐにあはての浦のみるめを 氏政
「蚊遣火」 ながめるつる月日のひかりに影そへて 草の庵りに蚊遣たくらむ 氏直
世の中にあらぬ草木を求めても 法のみちにふみもまよはじ 氏規
「契空恋」 知らせばや契し事ももしほ草 そをだに絶て思ふ心を 氏堯
逢坂のせきのひかしに武の 名やはかくるゝ十五の駒 氏照
色ゝのさかなはあれど今夜しも わきてさゞいのめづらしきかな 氏光
都路をかけていた鳴駒の音 新月夜にや今や別らむ 氏忠
月もはやさ夜ふけがたになりぬれば かれヽになるむしの声かな 氏邦
「月前雲」 やまかぜの吹よはるより久方の 月のな□□の秋のうき雲 氏能
「通書恋」 かばかりやさきの世くやし玉章の むすぶちぎりはあはじ物かな 氏親
冬のうみの時雨るゝ波のはげしきに 身もはづかしのさゞいなるらん 氏冬
見ぬ花やおもふばかりにかきつばた ふかき色香を面影にして 範冬

(喜連川文書)
足利義氏、北条氏康とともに当時の北条一門が読んだ和歌を氏照が記したとされている
また、範冬とは今川範以のこととされている
問題は現在北条関係で発見されている史料において唯一の所見になる氏能、氏親、氏冬とは誰のことなのか

悪い話というか北条研究で未だ解決されない謎の1つ



155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 08:16:59.64 ID:SFBIDdSW
夭逝した氏政の兄貴が氏親とかいわれてなかったっけ?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 10:16:28.04 ID:kAdBeT5C
早死したんなら和歌が読めない年齢のはず
母親の身分が低過ぎて虫けら扱いだったんだろうな

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 12:59:53.16 ID:d3+CY0nG
>>155
読んだ順番ではなく一門でも家格順じゃないかなあこれ
氏政が上の時点で氏政が家督継承したか次期家督継承者になってるんじゃないかなあ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 17:15:20.78 ID:rWqd47zb
今川範以だって?妄言も大概にしろ
可能性があるとしたら氏真だろうな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:04:26.15 ID:J62I4Vu1
崩し過ぎて読めなくなったんかな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:05:50.75 ID:HApGphN1
>>156
いや最近の黒田基樹先生あたりの北条研究の本を読めよ。「北条氏親」は氏康の嫡男で
しかも氏康の正妻である瑞渓院(今川氏親娘)の子であり、氏政の同母兄だ。夭折と言っても
氏親の名乗りからも解るように既に元服していて、16歳で亡くなったと考えられているので、
このくらいの歌は詠める。
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貧乏の時によく仏神の心に叶う

2018年08月16日 20:13

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 15:23:07.36 ID:FW+EssqZ
弘治2年(1556)、相模小田原の北条氏康は切り誇り、武徳をもって足利左馬頭晴氏の
子・義氏を取り立てて葛西谷に移し、奏聞を経て左馬頭に任じさせ“鎌倉公方”と号した。

伝え聞くところによると氏康の先祖は常に絵島明神を祈ったということであった。

浅井久政は曰く「人は必ず貧乏の時によく仏神の心に叶う。神もまたこれを憐れむのである。
富貴の時でも貧を忘れてはならない」と言ったということである。

――『浅井日記』


新九郎は大いに喜んだ。

2018年08月05日 18:05

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/05(日) 09:00:37.54 ID:dcTjLiP3
新九郎(北条早雲)の住国をあるいは山城国の宇治といい、あるいは大和国の在原と申すのは異説である。

さてさて、この伊勢平氏の先祖を申せば桓武天皇第五の皇子・一品葛原の親王第二の御子・高見王の子息・
上総介高望王が初めて平の姓を賜り、子孫は平氏として武家に下る。清盛の一門がすなわちこれなり。

(中略)

尊氏公愁嘆の時節、尊氏公はある夜に、当家の先祖がことごとく平家を滅ぼしなさったゆえにその報いが
たちまち来たりて子孫長命ならず。されば、世に名のある平氏を召し寄せて国家の政事を執り行わせれば、
子息長命なるべし、との夢を見て目を覚ました。

尊氏公は喜びなさり天下の平氏を尋ねられ、伊勢守盛継に優る者なしとして盛継を近臣とされた。その後、
若君誕生の時に盛継は蟇目の役を勤められ、それより若君の繁昌があったとして御名付親とされた。以来、
公方代々はかの例に任せて、御子誕生の時は必ず伊勢守の家より御名を付けたということである。

(中略)

されば伊勢守の家は管領家にも劣らず出世し奉った。

さて、尊氏将軍より八代の孫を義政将軍といって慈照院東山殿と号した。初め御子のいらっしゃらぬ時に
御弟・浄土寺の義尋を還俗せしめて養子として左馬頭義視と名を改めて今出川殿と号し、天下を譲るとの

契約あって細川勝元を義視の執事となされた。その後、義政の御台所(日野富子)が男子を産みなさり、
公方相続の旨を山名宗全に仰せ付けられた。これにより細川と山名は大いに異論が起きて天下は乱れた。

世に“応仁の乱”というのはこれである。その頃、伊勢守貞親は政事を執行していた。貞親の弟・伊勢
備中守貞藤はかの乱の時に山名入道と深い知音であったゆえ、細川右京大夫勝元は貞藤を憎み公方へ

讒言したため、貞藤はひそかに花の御所を忍び出て伊勢国へ下った。義視公も御身の上を気がかりに思し
召して北畠の中納言教具を御頼みになって伊勢へ御下向された。この時に貞藤の子息・新九郎長氏も、

もとより今出川殿が御還俗の以前より御馴染みであったゆえにかの地へ参り、今出川殿へ見参したのだが、
あくまで御旅亭であるから、むやみにいつまでそこにいるべきかとなった。伊豆国には義政公の御弟・

政知公がいらっしゃった。そのうえ親族もいたから新九郎は関東へ下ろうと思い立ち伊勢大神宮へ参って
弓矢の冥加を祈念したところ不思議の霊夢を蒙った。そしてひとつの神符を求めたところ、

「諸願成就、子孫繁昌疑いなし」とあったので新九郎は大いに喜んだ。

――『北条五代記』

北条五代記もやっぱり早雲は伊勢氏出身としていますね。


伊勢新九郎盛時という者があった

2018年07月20日 12:31

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 22:04:00.97 ID:VToEx01u
その頃、駿州興国寺の城主に伊勢新九郎盛時という者があった。後には北条氏長と改名し、剃髪した後は
早雲寺宗瑞居士と言った。

彼は文武二道に達し、才知抜群の士であった。京都にあった伊勢貞国の外叔父の甥にあたる。
彼の先祖である伊勢伊賀守盛綱は、建武年中等持院殿(足利尊氏)による天下草創の時手越河原の戦いで
討ち死にした。以来代々、京都公方家の御供衆であり、また一族であったので代々伊勢守家伊勢氏と
相親しんでいた。

新九郎盛時は先年、今出川殿(足利義視)のお供をし伊勢に下ったのだが、関東兵乱の久しきを鑑みて、
時運に乗じて我家を興起せんと思ったのか、京には帰らず、駿河国府中の城主である今川義忠という人が、
駿河一国の守護にて盛時の姉聟であったので、これを頼んで新九郎は駿州へ下った。

その頃、隣国との合戦があって義忠は討ち死にし、その家督である五郎氏親はようやく7歳の幼児であり、
国政に関われるはずもなく一族老臣たちが我意に任せ威を争い、様々に分かれて合戦に及んだ。
このような中、新九郎は氏親を助け様々に和議を以てこの騒乱を集収し、終には駿河を平和に治め氏親の
世と成した。氏親はこの忠義に感じ入り、同国興国寺の城に富士郡を副えて新九郎に与えたのである。

(應仁後記)

現在の研究に照らし合わせて、「盛時」の諱なども含めて、相当正しく伊勢新九郎盛時の履歴を描いている應仁後記の記事。


伊勢新九郎の伊豆討ち入り

2018年02月07日 19:38

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/07(水) 19:03:12.81 ID:p0mpqMFF
その頃、関東は上野を本拠とする山内上杉と、相模を本拠とする扇谷上杉の間が不和となり合戦に及び、
このため山内上杉の勢力下にあった伊豆の侍たちは皆、上野へと馳せ参じた。

この状況を察知した伊勢新九郎は、「願うに幸いである。これ天の与える所時を得たり」と、
自領の百姓どもを招き、この内武の用に立つべき者共を近づけて言った

「相模、上野両国に弓矢起こって、伊豆の侍たちは皆上野に参っており、今や百姓ばかりである。
私は、伊豆の国を切って取る。我に同心合力せよ。
その時はお前たちの忠恩に、必ず報いるであろう。」

百姓たちはこれを聞くと
「累年の御憐れみを忘れることは出来ません。御扶持人(在村給人)も我らも同意します。
我々は地頭殿を、一国の主に成し申さんと願い、たとえ命を捨てるとも微塵も惜しくはありません。
どうぞ、決断し実行されませ。」
そう、衆口一同に返答した。
新九郎はおおいに喜悦し、その上近隣他郷の者までも、この事を聞いて、新九郎殿に与力せんと参集した。

伊豆国北條には、堀越の御所成就院(足利茶々丸)という名高き人があった。
新九郎は「軍のはじめに、先ずこれを討ち滅ぼす!」と、延徳年中の秋、百姓たちを引き連れ夜中に
北條に押し寄せ御所の館を取り巻き鬨の声を上げ家屋へ火をかけ焼きたてた。御所は肝を消し、
防ぎ戦うべき事を忘れ、火炎を逃れ落ち行く所を追撃され、郎従共に皆討亡した。

新九郎が北條に旗を立てると、伊豆国の百姓たちはこれを見て「駿河の大将軍として、伊勢新九郎が
攻めてきた!」と、避難のため山嶺に逃げたが、新九郎はこのような高札を立てた

『伊豆国中の侍・百姓は、皆以って味方すべし。本知行は相違なく保護する。
ただし、もし出てこない場合は、作物を尽く刈り散らし、在家を放火する。』

これを見て百姓たちは我先にと馳せ来て「私はどこそこの百姓」「どこどこの郷の長」などと
申し上げると、彼らの地所相違なしとの印判を取らせ、皆々安堵した。

また、佐藤四郎兵衛という侍が一人、降人と成って新九郎の前に出た。
新九郎は「伊豆国中田方郡大見郷は、佐藤四郎兵衛先祖相伝の地であり、最初に味方したこと
神妙である。今度改めて地頭職を申し付ける。子々孫々永代に渡り、地の妨げは無い。
百姓らもこれを承知すべきで、あえて違失あるべからず。」
と、印判を出した。

上州に参じていた伊豆の侍たちはこのことを聞くと、急ぎ馳せ帰って降人となって出た。新九郎は、
本地皆領納すべき旨の印判を出した。そのため、伊豆の侍は一人残らず新九郎の被官となり、
30日の内に伊豆一国が治まった。

(北條五代記)

伊勢新九郎の伊豆討ち入りについて



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/08(木) 10:55:16.87 ID:ygpHBN7f
>>622
上野と伊豆が同心なら相模を挟めるのに上野に出向くとは阿呆の極み

長柄刀のこと

2018年02月06日 19:26

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/06(火) 18:44:11.64 ID:WKKaJAK1
「昔、関東では北条氏直の時代まで、長柄刀といって、刀の柄を長く拵え、腕貫(鍔つばにつける革緒)を
打ち、束にて人を切るほどの形状であった。

当世ではかき鑓と言って、黒金を長く延べ、鑓の柄に十文字に入れ、その先に小しるしを付けて、
柄にて人を突くような威風を成しているが、物好きと言うのもの、時代によって変わるもののようだ。」

このような話があった時、これを聞いた人は

「その昔の長柄刀を、当世に差す人がいれば、柄が長すぎて目鼻の先につかえて見苦しく
可笑しな事になってしまうだろう。」

そう笑いだした。
この時、かつて関東において、若者たちが皆長柄刀を差していた時代を知っている老士が言った

「どうか若き方々、そのように昔を笑わないでほしい。古今の違いがあっても、その志は同じである。
得ることのみ有り失無く、失のみあって得るものが無い、という事は無いと、先賢の書いた
内外の文章にも見えるではないか。人をそしって我が身の失を省みる、これ人を鏡とする云々。
そも鎌槍は昔より用いられ…(以下神功皇后や頼朝の故事など延々と語るが中略)

さて、長柄刀における、長柄の益というものは、太刀では短く、かといって長刀では長すぎるという
場合に、その中間を取った益である。また、太刀と長刀両方の利点を合体させて常に差すという
利点も有る。

関東の長柄刀は、目鼻の先というような近距離での斬り合いには少なからず欠点がある。
だが、合戦において敵を亡ぼし我が命を護ることには、大益があるのだ、」

(北條五代記)



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/07(水) 14:40:28.85 ID:0VAmVwxs
>>620
>太刀では短く、かといって長刀では長すぎる
そんな時あるかなぁ?

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/08(木) 22:00:40.69 ID:h1pB8ljj
>>621
屋内とか?

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/09(金) 01:08:37.57 ID:VQF9KdDF
そういえば、刀の腰への差し方が逆になったのは
室町以前の太刀式だと屋内でつかえて面倒だからなんだってな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/09(金) 14:43:51.13 ID:78A2SVdl
>>625
家の中なら刀で十分と思ったけど、昔の屋敷や土間のある作りならたしかにぴったりかも。

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/09(金) 15:42:22.81 ID:8hqIVnpV
薙刀が振り回せない程度の密集した乱戦で使えば太刀より少しリーチがある分有利って事やろ

670 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/25(日) 15:16:32.73 ID:7M1bZXLQ
>>621
有るよ
リーチが長いので突きに有利
巌流島でもそうだけど長い方が勝つ場合がある
当時剣術が未発達だったからね
平安鎌倉は薙刀も標準装備だよ

横山光輝の漫画って結構、こういう交渉が優れてなされてるんだよね
今の漫画のように解説で述べるんじゃなくて漫画そのものに説明なく描かれてる

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/25(日) 16:58:03.35 ID:ugAEYEIr
なお横山光輝水滸伝の双鞭・呼延灼
https://i.imgur.com/mue2gnr.jpg
mue2gnr.jpg

下知につかずば

2018年02月05日 18:07

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 14:55:26.63 ID:hwMsmEIU
軍法、兵略というものは、後代においていよいよ厳重となっていった。
北条家の侍に、大石平次兵衛という者が居たが、彼はこのような歌を詠んだ

『樊カイを あざむく武者を集めても 下知につかずば餓鬼にをとれり』

これを北条氏政聞き及び、「彼は一方の大将とすべき者である」と絶賛し、
実際に足軽百人を預けた。
この事があって、北条の諸侍はいよいよ法度を守るようになったという。

(北條五代記)


関八州に鉄砲始まること

2018年02月03日 11:55

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 10:39:52.82 ID:Wka7mPI2
関八州に鉄砲始まること

昔、相州小田原に玉瀧坊という、年寄りの山伏が居た。愚老(三浦浄心)がまだ若かった頃、
その山伏からこんな話を聞いた。

「私は関東より毎年大峰に登るのだが、享禄(1528年8月20日~1532年7月)の始まる年、
和泉の堺へ下った折に、大変な鳴り物の音がした。これは何事かと問うた所、鉄砲という、
唐国より永正七年(1510)に初めて渡ってきたのだ、そういって標的を撃った。
私はこれを見て、さても不思議奇特なるものかと思い、この鉄砲を1挺買い取って関東へ
持って下り、当時の屋形であった北条氏綱公へ進上した。そしてこの鉄砲を試射をご覧になると、
『関東に類なき宝である』と、秘蔵された。」

この事を近国他国の、弓矢に携わる侍たちが聞くと、『これは武家の宝である。昔鎮西八郎為朝は
大矢束を引く、日本無双の精兵で、弓の威力を試みるため鎧三領を重ね木の枝にかけ、六重を射落とした
ほどの強弓であったという。保元の合戦で新院(崇徳院)に味方し、八郎一人あって多くの敵を
射殺し、そのため数万騎にて攻めても、その矢を恐れ、院の御門を破ることは出来なかったという。

現在では、弓があっても良き鎧を着けていれば恐るるに足らない。しかしなんといっても、
かの鉄砲は、八郎の弓にも勝るものなのだ。所帯に変えても、一挺欲しきものだ。』

そう願っていた所、氏康公の時代に堺より國康という鉄砲張りの名人を呼び下された。
また根来法師の杉坊、二王坊、岸和田などという者たちが下ってきて、関東を駆け回り鉄砲を教えた。
このような事があって、現代では人ごとに一挺所持している、というような状況となった。

そうして、あの北条氏直公の小田原籠城の時(小田原の陣)、敵は堀際まで押し寄せ、海上も隙間なく
船で包囲した。秀吉は小田原城の西に山城を築き、、小田原城を目の下に見てこう申された
「この秀吉は何度も合戦城攻めをしたが、これほどの軍勢を揃え、鉄砲を用意した事は初めての
幸いである。時刻を定めて、一度に射撃させ、敵味方の鉄砲の様子を観察したい。」
そう、北条方へよびかけた。双方同意し、五月十八日の夜、双方数万挺の鉄砲にて一斉射撃を行った。
これにより盾も矢倉も残り無く撃ち崩されたという。

北条氏直の方も、関八州の鉄砲を兼ねて用意した上で籠城をしたのであるから、敵には劣るまじ、
鉄砲比べせんと、矢狭間一つに鉄砲三挺づつ、さらにその間に大鉄砲を設置し、浜手の衆は船に向けて、
海際まで出、日が暮れるのを待つと、十八日の暮れ方より撃ち初め、敵も味方も、一晩中に渡って
射撃し続けたため、天地振動し月の光も煙に埋もれ、まったくの暗闇となった。
しかしそれにより、射撃による火の光が一層現れ、限り無く見えること、満天の星のようであった。

氏直公は高矢倉よりこれを遥かに見て、狂歌を詠まれた

『地にくだる 星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄砲の火を』

これを口にした所、御前に従う人々が
「御詠歌のごとく、敵は堀辺の草むらに、蛍火が見え隠れするようです。城中の鉄砲は
さながら星、月夜に異なりません。」

そのように語ると、氏直公はニコニコと笑みをお見せになられた。
愚老は相州の住人であった。小田原に籠城した時の事、今のように思い出される。

ともかく、鉄砲は永正七年に唐国より日本に渡り、それ以降繁栄し、この慶長十九年までで
百五年である。関八州にては、享禄元年より今年まで、八十七年となる。

(北條五代記)

一般に言われる、鉄砲記の天文12年8月25日(1543年9月23日)伝来説からは、33年も遡っていますね。



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:27:55.53 ID:t7jLHXY4
イゴヨサンガホシイテッボウ

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:36:10.42 ID:bwluwx56
一斉射撃だなんて粋だねえ

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 14:05:47.02 ID:T8vcZ8Wi
まとめの1077に
北条氏康が12歳の頃鉄砲の音聞いて驚いて笑われた話があるけど
これはその鉄砲かな

ポルトガルの文書だと1542年だっけ、鉄砲伝来は

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 17:26:41.43 ID:6A/dZne6
いわゆる鉄砲伝来は欧州からのマスケット銃が伝来した史実を指す。
一方、東アジア及び東南アジアでは中国発祥のマスケットである鳥銃が広く普及していて、これが日本に部分的に伝来していた可能性は以前から指摘されている。
というか16世紀中盤時点で銃を知らなかった文化ってアジアでもフィリピンと日本だけなんじゃないか。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 19:05:07.80 ID:7bntfjjr
キリスト教:1世紀前半にできて、日本伝来は1549年(1500年くらいかかった)
鉄砲(マスケット銃):15世紀前半にできて、日本伝来は1549年(100年くらいかかった)
梅毒:1492年くらいにヨーロッパ人が感染し、日本伝来は1512年(20年くらいかかった)

宗教、武器、性病の伝来順序が西欧に現れた逆なのが面白い

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 22:46:11.25 ID:C2CGA8dd
景教の経典として漢語訳された聖書を遣隋使か遣唐使が持ち込んではいるけどな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 11:12:21.53 ID:4RZFuuGH
元代のマニ教の宇宙図が日本にあった、て話はあるけど
景教経典が持ち込まれた、て話はあったっけ
あとは「甲子夜話」で松浦静山が
「群馬県の多胡碑(711年頃)の近くに十字架が発掘された。
おそらく多胡碑の羊というのはキリスト教徒の一族だろう」
と怪しげな説を唱えているくらい

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 14:27:46.51 ID:s4DWgBB+
景教って平家とか朝倉家にいてもおかしくなさそうな名前

氏康傷

2018年01月25日 11:34

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 10:42:23.28 ID:/wkT3dlw
永禄7年正月8日、下総国国府台において、北条氏康里見義弘の合戦の砌、敵味方入り乱れ
氏康の下知も聞こえぬほどとなった。

ここで氏康は「加美」と名付けた黒き馬に乗り、白柄の長刀を持ち駆け出した。
そして剛敵を三十騎斬り落として猛威を振るい、合戦に勝利を得た。

この時、彼は身に鑓刀の傷七ヶ所、頬先に太刀傷をうけた。
この事があってより、侍の顔の傷を、人は称して「氏康傷」と言うようになった。

(北條五代記)



595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 12:58:29.71 ID:vTmFWARm
てことは身体に残る傷を受けたのはこの時だけなのか

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 13:14:36.37 ID:aJgje1Yo
まとめの3410の「上杉龍若丸の処刑」
だと、風林火山では上杉憲政の息子と一騎討ちして氏康傷つけられた、てことにされたんだっけ
しかし自分の息子殺されてるのに氏康の息子を助けようとして
養子の養子に殺される元関東管領さんは憐れすぎる

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 10:47:43.77 ID:d6wQLa55
>>596
因縁ある上杉憲政がそれでも推せる人物だったんじゃねえの上杉景虎
越後衆でもないししがらみなく客観的に人物見られたと思う

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 11:01:12.86 ID:LvwdCRRO
越後での「お館様」は憲政で、結構生前の謙信にも抑えられないところはあったみたい

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:04:15.69 ID:WuemNIBu
山内上杉の憲政が屋形様って変な感じするけど

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:14:43.83 ID:LvwdCRRO
謙信も屋形号下された割には尊称が「御実城様」やし

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:23:34.13 ID:3Opyz5ir
>>599
謙信への宛名が山内殿だからなぁ
憲政は前当主として遇されてますわな

一つ提灯

2018年01月24日 18:36

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/24(水) 05:54:22.06 ID:oHBascNf
北条左衛門大夫(綱成)家中に、相州甘縄の住人、三好孫太郎という勇士があり、彼は指物に
提灯七つを付けており、「孫太郎が七つ提灯」と言って、隠れない物であった。

そのころ松山肥後守寄騎に山下民部左衛門尉という者がいたが、彼の指物は六つの提灯であった。

天正十三年の秋、北条氏直佐竹義宣が下野において対陣を張り戦ったが、この時、
三好孫太郎山下民部の六提灯の指物を見て馬を寄せ、尋ねた

「其方の指物に、何か仔細はあるのか?」

「提灯に何の仔細があるものか。我の好みだ。」

これを聞くと孫太郎は憤った
「武功を積まずして六ッ提灯は指して良いものではない!あれは天文十五年頃、上杉と
北条氏康公が武州において合戦した時、私は一番槍の誉れあり、氏康公より褒美の感状があり、
その時私は、一つ提灯を指物として頂いた。その後また忠ありて、二つ提灯を指す。三度功ありて
三つ、四度五度六度七度忠勤を抜きん出て、重ね重ねの功により、この七つ提灯を授かったのだ。
故に、孫太郎が七つ提灯と名が付けられ、関八州に隠れないものとなったのだ!」

馬上にてこのような問答となった。

その日の競り合い戦に、佐竹方に大石八郎という者、釣り鐘の指物を指すていたが、彼は名乗りを
上げると

「諸人に先立ち、我と思わん者あらば組んで腰部を決せよ!」

そう言って長刀にて斬って回る所に、山下民部馳せ合わせ、馬上から組んで双方落馬した。
民部は大力であったので、八郎を組み伏せ首を取った。

この時、ふと気が付き、自らの指物のうち、提灯五つを切り捨て、一つ提灯にして指した。
人々はこれを見て、「民部左衛門は問答してから時を移さず誉れを顕し、一つ提灯を指すこと、
かつて聞いた孫太郎の武勇にも劣らない!」
そう賞賛したという

(北條五代記)



592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/24(水) 23:37:21.30 ID:ztqaLHlA
ちょっとカッコいい話だな

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 00:34:38.71 ID:kYpqHmCq
山下(あっこれ面倒くさい人だ、次にアピールしとかないとなあ)

賞賛してるのが人々で、三好さんの評価が無いのも気になる

人の所為に非ず

2018年01月22日 16:44

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/21(日) 23:29:21.82 ID:QAKBjbLf
小田原城が開城し、北条氏政、氏直、氏照などは下城し、医師安栖の邸宅に居した。
ここにおいて氏政、氏照は切腹したのだが、氏政はこの時、このように言った

「今度小田原城より下城し、早雲以来の五代の興行も、私において断絶する、
きっと、世が静謐になった後には、氏政氏直の籠城の仕様に対して、善悪の評判が起こるだろう。
しかし存亡は皆、天の命にして人の所為に非ず。当家滅亡の時が至ったからこそ、数代の家老である
松田の逆心もあったのだろう。
この一つの出来事を見ても知るべきだ。天命の致すところである。そう思うべきなのだ。」

そう語って、切腹したのだという。

(士談)



494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 10:54:40.16 ID:6+wsPjF9
天下人に頭を下げれないからそうなる
信長であっても臣従しなかったろ

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 12:25:47.34 ID:cpmBsmlg
この期に及んでまだ天のせいとか言ってんのか
お前のせいだろ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 13:25:55.31 ID:YGHa10Qu
項羽の最期に通じるものがある

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 13:46:37.28 ID:IOqdOmQR
まあ人事は尽くしてないかな・・・降伏する機会は何度もあったわけだし。

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 19:14:37.82 ID:9tAUH3DO
だって儒教系の史料だし
北条は善性しいてたってことになってんだからそれが滅んだからには天のせいってことにしなけりゃアカンだろ

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 01:40:01.65 ID:kYpqHmCq
まだ項羽みたいに綺麗に締められれば伝説なんだけどなあ

最後の後南朝

2017年09月18日 18:40

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 18:27:32.39 ID:ur7iNDF1
最後の後南朝

明徳三年(1392)に南北朝の合一が成った後も、南朝の残党(後に後南朝という呼称が作られた)は
禁闕の変などの武装蜂起を起こしたり、応仁の乱で西軍に祭り上げられたりと度々歴史の舞台に登場していた。、
しかし15世紀末のある記事を最後に、遂に後南朝は史書からその姿を消してしまう。

明応八年(1499)
此年の霜月、王が流されて三島にお着きになられた。早雲入道が諌めて、相州へお送りになった。
『妙法寺記』

たった一行の短い記事だが、「王」(後南朝の王とされる)が関東へ流され、途中で伊豆の北条早雲(伊勢宗瑞)が
それを迎えて、何かの罪(南朝復興の活動か)を犯したことについて諌め、その後相模へ送り出したというもの。
この記事が史書に見える後南朝の終見で、相模へ送られた王のその後の行方はまったく分かっていないが、
南朝の歴史の最後に、意外な人物とちょっとだけ接触があったよ、という話。



235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/17(日) 18:54:07.83 ID:zv/ao8/x
森茂暁「闇の歴史、後南朝」だと確実な後南朝の最後は山名宗全関連のようだ、以下抜粋

東京大学史料編纂所編纂の 『大日本史料第八編 』の一一 、文明一一年 (一四七九 )七月一九日の条には 、
「小倉宮ノ王子 、越後ヨリ越前ニ到ラセラル 」という綱文のもとに 、
① 『晴富宿禰記 』文明一一年七月一九日の条 、
②同記 、同三〇日の条 、
③ 「妙法寺記 」文明一〇年霜月一四日の記事 、
④同記 、明応八年霜月の記事を掲載している 。
なお ③ ④は 『続群書類従第三〇輯上 』に収められる 「妙法寺記 」にも載せられている 。妙法寺とは甲斐国都留郡の妙法寺 。

①は山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた 「南方の宮 」が国人らに送られて 、越後より越前国北荘へ移ったということ 、
②は 「出羽王 」が高野へ向かう道中のこと 、
③は 「王 」が京都より東海に流され 、甲斐に赴き小石沢観音寺 (現山梨県笛吹市 )に滞在したこと 、
また ④は 「王 」が明応八年一四九九 )霜月に流されて三島 (現静岡県三島市 )に着き 、
「早雲入道 」 (北条早雲 )が諫めて相模国に送ったこと 。
『大日本史料 』当該巻の編者が 「王子 、越前ニ到ラセラルヽ日ヲ詳ニセズ 」
「王子ト出羽王 、並ニ妙法寺記ニ記セル王トノ関係明ナラ 」ずと注記しているとおりで 、詳細は不明のままである 。
比較的信頼のおける南朝皇胤の所見史料の最後は ①であろう 。

自分の手で頸をもたげ

2017年04月13日 11:21

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 08:32:23.85 ID:WJZIhrj7
北条家の馬屋の預かりであった諏訪部という者は、度々善き働きがあった。

豊臣秀頼の小田原陣の時、諏訪部と勝田八左衛門という両人が物見に出た所、急に敵に接近され、
二人は早々に引き取った。
この時、諏訪部は馬屋の別当であったために善き馬を持っており、この敵の急追を振り切って
帰ることが出来た。
しかし勝田は良馬を持っていなかったため、敵を振り切ることが出来ず、立ち止まってこれと戦った。
勝田が後に残ったと聞いて、北条軍の人々はこれを救出するため馳せ参る間に、勝田は敵に討ち伏せられ
頸を半ば過ぎまで切られていた。

敵は勝田の救援が来たのを見て引き取った。しかし助けに来た味方も
「勝田は深手を負っているから連れ帰っても死ぬだろう」とこれを棄て帰ろうとした。

ところが、勝田もさすがの勇者であった。彼は自分の手で頸をもたげ、
「未だ生きているのに、各々は棄てて帰るか!?」
と喚いた。

味方はこれを聞きつけ、彼を連れて帰った。

この時、諏訪部は良馬を持っていたが故に却って遅れを取り、勝田は危うい命助かり、勇を表した。
そう、その頃の人々は沙汰したという。

勝田八左衛門は吊り鏡の指物を差していた。後に漂泊し、松平右衛門太夫(正綱)の所で身罷ったそうである。

(士談)

なんというか色々凄まじいお話



807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 11:04:17.58 ID:5tXU3jKh
デュラハンかよ....

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 11:22:59.31 ID:KM5oiyGV
関東武士はいろいろとオカシイ

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 14:31:47.16 ID:wGmclQZB
>>806
助かったのかよw!

”八幡大菩薩”の大旗を差しかざし

2017年01月21日 10:29

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/20(金) 22:32:00.52 ID:KtL+lcuT
天正10(1582)年、伊豆方面で武田氏に対していた北条方では、戸倉城主・笠原政堯の寝返りや
笠原平左衛門(照重)の討ち死にもあって士気の低下が著しく
小田原での評定により、最前線である大平城の守備を玉縄城主・北条氏勝と交替させる事になった。


氏勝の軍勢が箱根を越えた頃、大平城から使者が来て
「おのおの方が城番としてやってくる事を敵が聞きつけ、三島の辺りに伏兵を潜ませたとの風聞があります
ここは軍勢を迂回させて城に入るのがよろしいでしょう。このまま進んでもし不意の合戦になっては交替もできなくなってしまいます」
と伝えた。

それを聞いた氏勝は
「もっともではあるが、敵をも見ずに迂回して城に入るようでは、戦う前からすでに相手は弱いと敵に知らせるようなものだ。
たとえ武田方が軍勢を配して待ち伏せしていたとしても、蹴散らして通るまでだ」
と答えて、”八幡大菩薩”と書いた大旗を差しかざしてまっすぐ大平城に向かい、やすやすと城兵の交替を済ませてしまった。

(小田原北条記)より


実際に伏兵がいたのかはさておき、兵書に言うところの
「正々の旗は邀(むか)うることなく、堂々の陣を撃つことなし」という感じの話



士は終わる所に強い意地が

2016年12月26日 16:02

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 13:14:43.95 ID:1WIkHi0K
 小田原陣の仲立ちとして、北条新九郎氏直から伊豆韮山の城主北条美濃守氏規へ自筆の書状を送った。
そこには『しかたがないが城を渡すべし』との事が書いてあった。
「しかしながらただ今まで、城に向かって矢玉を打ってきた人へはっきりとした理由無く
城を渡すのは本意ではない。家康公の家人を遣わされましたら渡しましょう。」
との趣旨を申された。
秀吉もその志が強く意地が爽やかなのを感じて、家康公から内藤三左衛門(信成)を遣わされて韮山の城を受取られた。
 とにかく士は終わる所に強い意地がありたいことである。
(武士としては)

やもめ女とやもめ男

2016年09月02日 19:56

142 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/02(金) 04:57:31.31 ID:Esn9Ugfg
やもめ女とやもめ男

ある日、上野の国の吉村の男が女に頭を棒で殴られ血を流したと訴えてきた。

男は「それがしは男やもめであり、この女もやもめであります。私達二人は同じ里の近所に住んでいて、
この女の家に夜な夜な通って情を交わしておりましたが、この女は別の男ともつきあい、
それがしを嫌い始めて泥棒呼ばわりして棒で頭を叩いてきました。
しかしそれがしは決して泥棒ではありませんから、無実を訴えに来たのです」と言った

女は「男と会ったことは無く、この男が夜中に家の戸を破って入ったので泥棒に間違いありません」と言った。

男はこれを聞いてもさしたる変化も無く、目もすわっていて受け答えもよどみがない。

結局どちらが正しいのかはっきりしないでいた。

そこで奉行の板部岡江雪斎が「やもめの男女を裁くのは珍しい事だ。両人とも証拠を示せ」と言った

すると女が「私は三年前に夫を亡くして、その時から理由の分からない腫れ物が出来ています。
医者曰く、これは「開茸」と呼ぶそうでなかなか治りません。
これを他人に見せるのは恥ずかしいので、それ以来男と付き合うなどと思った事がありません」と答えた

男は「しかし、女に腫れ物があっても寝起きは容易にしています」と返すと女は大笑いして

「私の体には腫れ物なんてありません!わざと嘘を言ったのです」と言った。

そのとたんに男は顔色を変え返答できなくなってしまったので、男を縄にかけて女は家に帰した。

盗人もうまく嘘をついたが、女の知恵には敵わなかった。それにしても
「開茸」の嘘は良く思いついたものだと、ここに訴訟を記しておく。

「北条五代実記」

見た事あったような気がするけど、まとめ探しても無かったので




143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 16:18:11.74 ID:aSA/depL
>>142
ありがちだけどそれだけに実際あってもおかしくなさそうで好き

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 16:51:40.99 ID:2JRig5Tm
豆泥棒だったのか

【雑談】北条家が生き残るのは

2016年02月25日 19:04

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 20:56:52.37 ID:xvX4Nzda
氏政と黄梅院の話とか、夫に尽くす早川殿、北条夫人をみると
北条家が戦国時代を生き残るのは難しかった気がする

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 22:31:33.07 ID:4Krux0rQ
早いうちに同盟を結び後々臣従すれば生き残れただろう
しかしながらどこの大大名も猿ごときなどと侮って過小評価してるからなw
魔王くらいインパクトないと畏怖しないんだね

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:03:12.07 ID:GZz9U8JJ
ぶっちゃけ東国組で速攻秀吉と手を結んだのは
勝家との確執って理由があった(勝家の対抗馬なら誰でも良かった)上杉くらいですし

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:43:00.97 ID:GDc0Jsbf
上杉毛利は勝ち組、徳川についた奴は負け組

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:43:57.09 ID:OZ8/vebl
西国だってそうだわ。毛利は秀吉と勝家を両天秤にかけてて、賤ヶ岳合戦のあと秀吉から糾弾されてる。

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:59:32.29 ID:lg3xEMyk
北条まで本領安堵なんかしちゃったら与える土地が全く無くなるからな
北条が生き残るには秀吉が西より東から統一してなきゃ無理だな

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 14:22:15.78 ID:GDc0Jsbf
そもそも抵抗してる時点で詰んでるよ
本拠地を攻められて降服じゃあ相模伊豆安堵も危うい
やるなら野戦して降服しないと

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 18:25:33.36 ID:yQOMArRR
小牧長久手の時にラスボスと同盟結んで背後から徳川を攻撃する事以外、
北条が生き残る道は無かった
それ以外にラスボスに恩売るタイミング無かったし

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 19:54:52.15 ID:6Blzu3C3
北条は大領で本領安堵は難しいという説はよく聞くが、実際どうかな?
状況は違うが家康は5か国安堵してもらっているし、毛利・上杉もそう。
家康入府以前に関東なんて大して開けてないし、九州征伐前後の時期、
北条から腰を折って来たら秀吉も受け入れたのでは?

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:26:16.51 ID:kmCFO9Qi
かろうじて河内狭山藩主として残ってるからま、多少はね?

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/25(木) 17:47:51.90 ID:O9n+VizP
>>228
その時は受け入れるが、後々徳川と両天秤に掛けられてどちらかが潰されてた気はする
そうなるとより大身で色々と火種を抱えやすいほうが・・・

氏政公が飯へ汁を二度かけて

2016年02月23日 17:32

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:17:26.49 ID:pY+DLWFU
 北条三代目の氏康公は御子の氏政公と御昼食の時、氏政公が飯へ汁を二度かけて召し上げられたのを氏康公はご覧名さなれ、
 「後に関八州は氏政が世で亡ぶだろう。わずか飯椀の中に汁を入れるということさえ、一度だけで行う加減がわかっていない。
そのようなひととなりではどうやって八ヶ国の人々の目利きをすることができようか」
と御落涙したという。
 その言葉の通り氏政公の御代で滅びました。厳密にいうと氏政公は滅びなさったときは御隠居で、氏政公の御子氏直公の御代で亡びましたということだが、
彼はひどいうつけ者であり、氏政公はその愚昧の氏直公へ御相続させられましたことから、汁かけ飯での氏康公のお目利きは神のごとしだと思われます。

 冷泉家は北条執権のころ無二の懇情でしたが、その後君の御憎しみがつよく遠流となられ、
程経て帰洛の後に、家の掟で武家と縁組等を無くし、今でもその通りであります。
先代の掟をこのように守りなされることは甚だ感心します。
 その他の公家方は時節につれてなされたように思われます。
心ある堂上方はこのことを恥と申されたという。清貧と申す事はとかくならぬ事と思われます。
(本阿弥行状記)



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:27:17.81 ID:+ttG42F8
本阿弥光悦の時にこの話が広まっていたとは驚き

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 01:45:53.87 ID:nRXKJORI
氏政暗愚説っていうか、まぁ時流を読み間違えたのはそうなんだろけど

だからって汁かけ飯ごときで暗愚判定されるとは、氏政も草葉の蔭で泣いてるんじゃないかな…
もうちょっとこう…あるだろ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 16:51:20.67 ID:drP4ghCp
2度目に薬味も入れとけばこうもこき下ろされずに済んだハズ

この時、松田の末子左馬助は

2016年02月22日 11:39

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 20:51:34.09 ID:sic6Ivqj
小田原陣の際、北条家第一の大名松田尾張守父子、氏政へ逆心し敵の勢を城中へ引き入れるという企てが会った。
この時、松田の末子左馬助は一向に合点しないので、父子は申し合わせて一間へ押し込んで、いよいよ逆心を取り急ごうとした。
ところが、左馬助は具足櫃に入って忍んで本城へ参り、父兄の逆意を申し上げたので松田父子は早速罪に処せられた。
 その後小田原落城の後、氏直と高野山へ登られたときも、この左馬助は付き添って忠を尽くされたという。

 惜しむらくは父兄への孝道が欠けていること、大いに玉に疵である。
父兄が罪に処せられましたときにすぐさま腹をも切ったら、忠孝二つとも全うできたものを残念な事である。
父は子のためにかくし、子は父のためにかくすという聖人の示された言は今更である。
(本阿弥行状記)

忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず



204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:23:58.99 ID:MU5FSvyb
黒官「あれ、わしが秀吉の命令に背いて、
長男を殺して末子を助命した、て話は」

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:32:00.19 ID:fw1BDPma
城井一族を騙して皆殺しにしてるから、北条も適当に嘘ついて開城させたんだと思う

八王子城落城始末

2015年10月21日 13:23

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 12:30:17.25 ID:YdwXRHRU
八王子城落城始末

八王子城の城主北条氏照は小田原城にあり、家臣がその留守を預かっていた。
そこに前田・上杉が攻め寄せ、先に降伏した北条氏邦を使者にし「小田原城は既に落ちた。早く開城せよ」と言いつけたが、
「主の氏照が降伏したのであればその書状を以て開城に応じよう。だが主の命なくして降伏するのは、武士の恥だ。氏邦如き臆病者は一人も城内にはおらん!」
と家臣らは突っぱねた。利家や景勝はその義に感じ入ったが、鞘を納めるわけにもいかず、一万五千の兵で城を包囲した。
城将の狩野一庵・近藤出羽助実・金子三郎右衛門家重らは死兵となって討って出て、討死を遂げた。氏照の第一の重臣横地監物も、城に火の手が上がるのを見、今日を最期と散々に戦い、寄せ手側は多くの犠牲を払うこととなった。

同じく城将の中山勘解由家範は猛将として知られ、特に八条修理満朝の馬術を会得し、関東無双と称されたほどの人物であった。
大敵に怯むことなく、200人を引き連れ駆け込み、ここが死に際と切って回ったが、寄せ手も次々に新手を入れ替えて攻め寄せたので、供回りが15,6人にまで討ち減らされてしまった。
この奮戦を見た利家は「誰か中山の縁者はおるか」と問い、「松山城の降人根岸定直が妻は中山の妻と姉妹であり、小岩井雅樂助は中山の馬術の弟弟子であります」と返事を聞き、中山を味方に引き込むようにと両人を城中へと送ったが、既に中山とその妻は自害してしまっていた。
まだ息が残っていたため両人は中山と言葉を交わして帰っていき、その旨を報告すると利家は非常に惜しんだ。
なお横地監物は死地を切り抜け落ち延びていった

北条の城は多しと雖も豆州韮山の城以外は大半が降伏を選ぶ中、その城兵が城を枕に討死したことを東照宮も聞き、中山の嫡子助六郎昭守・次男佐介信吉に禄を与えた。
昭守の子信守は大阪の陣で功をたて、信吉は後に水戸家に仕えて備前守と称した。狩野一庵の子主膳も徳川家に仕えたそうな。

『常山紀談』