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熊谷大膳の最後

2013年08月27日 19:51

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 06:38:26.00 ID:U2EEhzjR
秀次の重臣熊谷大膳は嵯峨二尊院にいたが、徳善院は賜死の使者として
大膳と親しい家老松田勝右衛門を遣わした。

大膳は松田と会い「私が召し使っている者どもが最後の供をしたいと言う
のを色々と押しとどめています。もし私が死んだあとにこの旨に背いたら
来世までも勘当し縁者一類をも五畿内近国より所払いにすると申し付けま
すので、くれぐれもお願いします」と頼んだ。

最後の盃を松田と酌み交わしていると、大膳の郎党どもが「最後のお供を
すれば勘当されるのならお先に参ります」とあっと言う間に三人が腹を
切って死んでしまった。

残るものはこれを見て「これは理である」と我も我もと続こうとするのを
松田の郎党や寺中の僧達が一人につき三人五人と取りついて、太刀を奪い
取った。

大膳はこれを見て「何という不覚なる者どもか、誠の志あれば命長らえて
熊谷の菩提を弔って欲しい。これでは却って黄泉路のさわりとなろう。

主がこの世にあればこそ主の為に命も捨てるのだ。

この大膳もすぐさま出家して主君の御菩提を弔いたいがお許しが無くて
どうしようも無いのだ」と涙にむせんだ。

郎党も仕方がないと諦め「皆で髪を剃り主の御坊の御弟子となって、後は
ねんごろに弔います。御心易く最後のご用意を」と申した。

熊谷はことの他これを喜び、すぐに行水をして仏前に向かって礼をし客殿
の前に畳を裏返して重ね、その上で水盃を取り交わして、三方に乗せた
脇差を取り、西に向かって腹を十文字に切って、首をのべて討たせた。

松田も日頃から深い付き合いであったので、涙にむせびつつ御坊に頼み
百箇日までの弔いのように勤めてもらった。

(聚楽物語)

秀次事件に連座した熊谷大膳の最後について




217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 10:55:59.06 ID:9Cd7M8E5
小姓の自殺競争も秀次だったっけ
人徳あったのかなあ

藤原惺窩と関白秀次

2013年03月22日 19:51

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 18:06:24.16 ID:Buhd4xQf
藤原惺窩は関白秀次の召しに応じて、五山の僧侶と同じく詩を相国寺に賦した。
そして惺窩は他日にまた召されたが、病気を理由にこれを辞した。

惺窩が弟子に言うには「君子には君子のなかま、小人には小人のなかまがある。
なかまでもないのに交われば最後まで相容れない。

余が秀次に交われば、ただ最後まで心が合わないのみならず、後に必ずや
悔やんでも手遅れなことになるだろう。余は再び見えることを欲しない」
ということだった。

秀次はこれを聞いて心中に恨みを抱いた。惺窩は免れざることを懼れて、
避けて肥前名護屋へと赴いた。

――『先哲叢談』




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 20:22:00.90 ID:J/+0MHyH
どいつもこいつも秀次がいったい何したってんだよ(´;ω;`)


羽柴秀次公の父、武蔵守(三好吉房)殿は

2011年12月16日 22:01

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/15(木) 22:44:00.33 ID:k1M5pya0
関羽といえば、元和年間に刊行されたと言われる笑話集
「戯言養気集」にこんなのが

羽柴秀次公の父、武蔵守(三好吉房)殿は、髭に一段と自信があった。
十人ほどが髭を見にきて「なんと見事なお髭でしょう。日本ではとうてい見つかりません。
きっと唐物でございましょう」といったところ、大変ご満悦であった。
皆が帰った後、武蔵守はその中で特に仲のよいものを呼び戻し、
「この髭は実は日本のものなのだ、ただし他言無用だぞ」
とねんごろに語ったそうである。




377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/15(木) 22:50:10.18 ID:LYjS0cQR
>>376
これは江戸初期の、安楽庵策伝師匠の醒睡笑にも載ってるな。
どうもどう時代から、よほど有名な笑い話だったらしいw

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/15(木) 22:54:32.97 ID:k1M5pya0
ついでにこれが載ってた本によると
「醒睡笑」では三好吉房に遠慮してか「大名」とだけのってて
「軽口福おかし」では宗祇の逸話になってるとか

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 00:25:05.34 ID:VHtBRGng
弥助さんは秀次にまで「うちの父は頼りなくて…」と言われてるぐらいの人だからなあ

長久手の戦いの秀次勢

2011年11月22日 22:01

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/21(月) 23:51:27.71 ID:nDKbrrqW
長久手の戦いの秀次勢

御前8時頃、秀次が三河に向かっていると、後ろから7・800人程の部隊が不意に現れた
秀次「あれは何だろう」
側近「何でしょう」
そんな事を言っている内に、新たな部隊が出てきて4キロまで近づくと、穂富という家臣が
「あれらは何らかの意図を持っている部隊です。覚悟してください」
そんな事を言っている内に、また新たに4・5つの部隊が現れ、先の二隊に合流するし、
たちまち一塊になると1キロまでそのまま秀次隊に押し寄せ、後方の小荷駄を蹴散らし始めた
そこで車輪と永楽銭の旗を見て、徳川と織田勢と気が付き、恐慌状態に陥り壊乱した

いや、秀次勢
あんたらやっぱりダメダメだわ




116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/21(月) 23:58:17.47 ID:EKvj8+pz
って、いろいろあるわなぁ。

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/22(火) 00:04:51.13 ID:TTJQ2Q0v
秀次隊で冷静だったの長谷川秀一ぐらいだな

しばらく徳川隊としっかり戦ってから先行してる堀秀政に連絡入れて撤退

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/22(火) 00:12:23.64 ID:v0VWk4dr
冷静にほっぽらかしてトンズラこいた笹の才蔵さん辺りもか?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/22(火) 00:15:24.22 ID:XJMdxzY5
書き手によって全然違うw

武功の訴訟

2011年11月09日 22:01

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 21:44:30.91 ID:eqfgyOin
坂井右近政尚の子、久蔵は姉川の戦いで討ち死にしたが、三井角右衛門という者と生瀬平右衛門という者が
「自分が久蔵の首を取った」と主張していた。

のちに二人は、ともに豊臣秀次に仕えて顔を合わせる事になったが、互いの主張を譲らず訴訟となり、
結果「三井がウソを言っている」と判定され、三井は牢に押し込められ、罰を待つ身となった。

なおも三井は獄中から主張した。
「今一度、詮議を!命を惜しむのではない、『他人の功名を盗んだ』と恥辱を受けるのが我慢ならんのだ!
同じ戦に出た、浅見藤右衛門なら実否を語れよう。浅見を呼んで下され!!」

「三井め、いよいよ惑乱したか。」
人々が三井を罵るのも無理は無く、浅見は生瀬の旧友であり、三井とはロクな付き合いも無かった。

ともかく三井の主張は通り、秀次臨席のもと、聚楽第の広間に呼ばれた浅見は証言を求められた。
「拙者は、生瀬とは年来の知人、三井とは交際も無し。その二人の詮議に関われば、世人に何と言われるか。
証人は、他の者に仰せつけ下され。」

「仲良からぬ三井の虚妄について語るに躊躇あるは分かるが、証人として呼ばれたからは、早く申せ。」
関白秀次直々の命に、浅見は重い口を開いた。

「されば・・・坂井久蔵が首は、三井が取りたるに相違無く、かの戦において、その働き比類する者少なし。
生瀬の主張は、何かの間違いでしょう。」

一同は思わぬ証言に驚き、すぐに三井を解放した。生瀬は秀次の寵臣だったので、罪に問われなかった。
(常山紀談)




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 22:31:32.30 ID:p7kLBXjY
その後、生瀬さんと浅見さんの仲はどうなったのか気になる

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 22:49:38.79 ID:Wqk3b/4+
生瀬は秀次の寵臣だったので、罪に問われなかった。

何この後味の悪さ

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 23:12:18.39 ID:I3CdmeiH
>>440
でも寵臣ってことは連座必至じゃね?

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 01:16:33.43 ID:pKCZLA+Z
寵臣に限らず三人とも連座で死んでそうで怖いわw

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 07:44:14.61 ID:239SAsSc
寵臣と言うことは後の秀次切腹の時はお供したんかな

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 10:06:09.04 ID:TdKyJ+ru
いい話?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 10:31:51.51 ID:aLupD/gf
浅見さんのいい話って言えるんじゃないの?
後味の悪さはあるが

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 16:03:28.84 ID:L+jmBk4x
生瀬は他人の手柄横取りしようとして、しかも本当に手柄立てた奴を
殺そうとしてるのにお咎めなしとかwww
俺が秀次ならその場で手打ちにするわ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 18:42:32.88 ID:7oDi95vT
まあ本当に坂井によく似た人を討ち取って勘違いしたのかも知れない。
でも当時重臣の子とはいえ、まだ坂井は年恰好の似た小姓がいる身分ではなかったかな?

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 18:51:10.33 ID:UhbLlTKg
こういう奸臣を重用したから秀次は滅ぼされた・・・的な後世の作り話の気もしないではない。

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 19:01:46.58 ID:232FKQjI
あー、この坂井ってセンゴクでスーパーサイヤ人覚醒のきっかけのクリリンみたいな役もらってた奴か

しかしこれだけ後になって名指しされるくらいに価値のある首だったら記録とか残ってそうなもんだがな

豊臣秀次は武具の好みに拘りのある男であった

2009年12月20日 00:01

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 19:53:38 ID:q1nN+eV0
豊臣秀次は武具の好みに拘りのある男であった。

金の御幣のまといと言えば、柴田勝家のそれが有名であったが、「あれは大変見事である。
あれにすべき。」と、御幣をまといとした。

甲冑は、「様々あるが、日根野弘就の唐冠の形のものほど見事な物は無い。」と、
これを所望した。日野根、これを拒みがたく献上したが、この時

「これは我が家に秘蔵の甲冑ではございますが、貴き命令により献上仕ります。
ただしこの甲冑は今まで、押し付け(鎧の後部、背中の部分)を見せた事の無い鎧であります。
この意味をどうかお忘れないように。」

そう、念を押した。

その後、木村常陸介の鳥毛の羽織を所望し、これを陣羽織とし、指物は金の棒とした。

さて、天正十二年四月、小牧長久手の戦いにおいて秀次は三河中入りの大将として、
例のまとい指物甲冑羽織にて出陣した。その後の大敗、皆知るところであるが、
この折、唐冠の冑鳥毛の羽織を着ながら甚だ見苦しい有様であったと、人々に言いそやされた。

秀次はこれを大変に恥じ、自分が任を務められなかった事を悔い、この時より、鷹狩り狩猟の時は
勿論の事、詩歌の会、酒宴、遊山のような時であっても供の者に必ず具足箱を持たせ、
その行動も剛強をもっぱらにしたのだという。

が、このように武張った事が後に、殺生関白の汚名に繋がる事にもなる。

秀次の、その思いと噛みあわぬ結果、の話である。






秀次のちょっとカッコ悪い話

2009年12月08日 00:02

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 20:36:43 ID:r5SiJP7g
秀次のちょっとカッコ悪い話

小田原征伐の時の某お公家さんの日記
4月●日
秀長経由で秀吉からの戦況報告がきた。3月末に孫七郎(秀次)が力攻めで山中城を攻め落としたとか。珍重珍重。

4月◇日
実は秀次も配下に大損害を出したという噂じゃw
↓噂の出所?
某お寺さんの日記
4月●日
秀次が山中城落としたらしいけど味方もいっぱい討死したとかwww

秀次って小田原の頃から人気なかったのだろうか・・・




872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 21:38:32 ID:Z8LQaSAg
落とせなかった治部よりいいじゃない。


873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 22:57:56 ID:EzI7DShh
公家や寺社からすれば、秀吉のコネだけで昇進する若造に好意をもつはずがないからな・・

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 23:04:42 ID:P+BDU6oc
そもそも公家は武家自体にあんまいい感情持ってないじゃない

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 23:10:07 ID:aOy6JAXf
公家が血筋のコネ否定したんじゃ生きてけないから
秀吉も込みで嫌いだったんだろうね。

秀次処分、それから

2009年12月07日 00:04

918 名前:1/5[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:24:11 ID:2f3LoAlx
秀次(と蜂須賀・ねね?)のちょっと良い話 生存end  
本を書いた著者がこの事に詳しい方から加筆してもらった様です。逸話と新説がまじってると思います。
秀次は高野山に追われ切腹させられたと言われている。
しかしそれは表向きの事で、事実は秀次は切腹したと見せかけて阿波に救出され
丹生氏を名乗って岩脇の政所(後の庄屋)になった。秀次の娘重子は、阿波藩主2代目
蜂須賀忠英の正室(名は繁)になって三代藩主光隆を生んだ。
秀次の子孫丹生氏は幕末まで代々庄屋を勤め現代まで存続している

 秀次救出は秀吉正室北政所と蜂須賀家政によって極秘で行われたが、秀次・北政所・家政は
血縁・姻族で数代にわたる相互扶助など、強い絆で結ばれていた。
蜂須賀家政の生母マツが北畠具教の側室であった頃、具教の正室に殺されそうになった時
マツを助けて匿ったのがマツの叔父で秀次の父三輪(三好)吉房であった。
やがてマツは蜂須賀正勝の正室になり、家政を生んだ。
秀次は吉房と秀吉の姉智(瑞龍院日敬)との間に生まれ、北政所の甥に当たる
そして秀頼が生まれ秀吉は関白を秀次に譲った事を後悔し、秀次は悩む
こうした時期に、秀吉子飼の武将達と側近官僚との間で対立が厳しくなっていた。
中でも武将派の宿将蜂須賀家政と官僚派の首謀石田三成との間には人間的反目があった。
朝鮮出兵によって武将達が出陣させられた後、石田三成以下五奉行を中心とする若手官僚派は
秀吉没後を睨んで、自分達が実権を握りやすい幼君秀頼を担ぐため、淀君・大野治長と結託した



922 名前:2/5[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:30:39 ID:2f3LoAlx
秀吉・北政所血縁者のうち、弟秀長・秀次の弟秀勝・秀保の3名は1591年の5年以内に次々死亡している
北政所の甥秀秋は小早川家に養子に、淀君や官僚派にとって最大の強敵秀次を倒すため奸策を続けた。
秀次は官僚派包囲網によって、秀吉との間をしだいに隔たれていった。
謀略と讒言によってあらゆる悪評が立てられ、あらぬい悪事の嫌疑がかけられ、しかも弁明の機会は与えられなかった。
官僚派が不得意な合戦でなく謀略で天下を取ろうというのであるからその悪(辛束)さは凄まじいものであった←漢字ワカラナカッタ
秀次が頼みとする武将達は朝鮮での悪戦と領内の疲弊に苦しんでいて、孤立無援の中で秀次は高野山に追放され、切腹命令が出された。
 その直前まで、叔母北政所を母と慕う秀次は京都○楽第にあり、秀吉の側室16人中淀君を除く全ては
伏見城において北政所と同居していた。淀君だけは秀頼とともに官僚派の本拠大坂城にあった。
秀頼の父は秀吉でなく大野治長の疑いがあり、関ヶ原で豊臣子飼・豊臣恩顧の大名・秀秋が寝返った動向の全ては
「秀頼は秀吉の子ではない」と知っての北政所の指令によるものだった。
細川・三好両氏が阿波(平島)公方を庇護してきた。家政も阿波に就封するとすぐ
阿波公方の阿波国退去を慰留した。家康をして「阿波の狸」と警戒させた家政が秀次を救出して
自領にかくまうには風雲を望む下心がなかったはずはないだろう。
 秀吉・秀次について書かれた史書は数多く、「太閤記」だけでも四、五にとどまらない。


923 名前:3/5[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:32:55 ID:2f3LoAlx
それらの中の秀次切腹の記事のほとんどは、官僚派の公式発表のままに書かれている。
しかし「川角太閤記」は少し趣が違う、特に秀次切腹については秀次の傘持ち吉若(改名して服部吉兵衛)
と長年親交のあった筆者が吉兵衛から詳しく聞いて書いている。
吉兵衛は秀次、実は身代わりの切腹のあと自分も切腹しようとしたが押しとどめられて生存し
別の大名に召し仕えられた。その太閤記に書かれた切腹の場面はこうである。
まず秀次の小姓三人が切腹し刀法にすぐれた秀次が解釈した後、秀次に大恩のあった僧西堂玄隆が、
頭を丸めた秀次ち向かい合って着座した。2人で掛声をかけ、玄隆が切腹した。吉兵衛が秀次の愛刀
「波泳兼光」で玄隆を介錯したが、一刀目は誤って肩に切り付け、玄隆が床机に倒れこんだ。
二刀目も誤って頭に切り込んだ。秀次が「よう心を鎮めてせい!」と励まし三刀目は成功し
秀次の近臣篠部淡路守が、その首を桶に入れて福島正則・池田伊代守両検死役に渡した。
この両人は挨拶して『後小姓たちを御介錯なさった時は、検死役として確認しました。
関白様御切腹の時は、私ども二人は少しも頭をあげておりません。その上涙がとめどなく溢れ何も見ておりません」と言った。
その後淡路守が切腹したのに続いて、吉兵衛が切腹しようとしたが検死役2人に押しとどめられてしまった。
 福島・池田両人は翌日夜には伏見城に帰り着き、秀吉の前に出ている。詰蓋された首桶を差し出して
『秀次公の御首はどう致しましょうか』と伺った。秀吉はこれに対して返事は与えず
『木食上人はあえなくも切腹させ侍るなよ』と言って涙を流すばかりであった。
高野山には興山上人と称えられ、秀吉、秀次と親しかった木食上人がいたのである。
その上人が秀次を助けてくれると期待していたのにと、嘆いて見せたのは秀吉一流の芝居で、結局首実験は行われずじまいであった。
こうして北政所と蜂須賀家政による秀次救出策戦は、秀吉・福島・池田・木食上人たちの暗黙の了解による行動
肚芸によって成功し、秀次を蜂須賀領の阿波国内で生き長らえさせたのである。


924 名前:4/5[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:35:13 ID:2f3LoAlx
阿波に救出された秀次は、高野山丹生神社神宮の一族というふれこみで五人の家来と
別に救出されていた側室池田信輝の長女と共に、須賀郡岩脇村政所としておちついた。
世を忍ぶ名は与兵衛で、蜂須賀家政が全面的に庇護した。
蜂須賀領内では武士、領民すべて家格身分が細かく分けられ、それぞれに家役、賃祖が定められていた。
もと左大臣、関白で藩主の主筋の秀次に、不敬にならず将来にまで秘密が漏れない身分をつけるのに苦慮した。
その結果異例の「身居(家格・身分)なし」とした。身居なしとは郡奉行どころか家老の支配さえ受けない事であった
実際には内々で藩主の最高賓客待遇であった。
 初代政所与兵衛こと秀次は家政の格別な恩顧筋であり、二代藩主忠英の岳父である。
二代目政所平十朗は藩主の義兄になる。この二代の間は蜂須賀家の一族として生活の一切を蜂須賀が保障した。
平十朗の子供たちが成長しかかった頃、将来自立できるようにと田畠を持たせた。
幕府の命令で全体的に検知が行われて「検知帳」が作られたのが1603年~04年である
それが岩脇村に限って1634年で三十年遅れている。
土地は売買が許されず、開墾して検地を受けた物しか名義人になれない制度の中で
年貢で生活できるほどの土地を新しく持たせるため、名義人を変えた検知帳を新しく作ったもので
それは藩主の命令でしかできないことであった。
特別に作られたこの検地帳に平十朗名義の土地は、屋敷地と土蔵敷地合計二反六畝余があって田畠はない
従って収入はない。一二歳の子供とその弟は合計三町六反余の田畠があり、年貢で生活ができる。
ここに「秀次と平十朗の二代は蜂須賀家が丸抱え、以後は自立」とした方針が確認できる。
しかも帳簿の平十朗の部分は最上級の敬語を使って書かれていることも異例である。


925 名前:5/5[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:36:57 ID:2f3LoAlx
秀次の子は、平十朗の後1610年に娘重子が生まれた。重子は家政の子初代藩主至鎮正室の
実家小笠原忠脩家で繁姫として養育されたが忠脩は大坂の役で討死した
繁姫は忠脩の弟忠真の養女となり、寛永6年二十歳で蜂須賀2代藩主忠英に嫁ぎ
3代藩主光隆を生んだ。
~重子時代の乳母豊について付記しておきたい~
岩脇の隣古庄村の岡本助兵衛の娘豊は、家老牛田監物の側室となり、男児小伝次を生んだ。
まもなく秀次の丹生家に重子が生まれたので、この豊が乳母として召しだされた。
助兵衛の本姓湯浅氏は、後醍醐天皇の昔大塔宮護良親王の乳母を出した家柄であることを、
監物を通じて知った家政の推挙によるものであった。
前述したとおり丹生家は身居のつかない特別の家柄として、夫役御免で労役義務免除・毎年の藩主謁見
須賀川での漁業。苗字帯刀などの数々の特権を与えられてきた。
室町将軍直系の阿波公方でさえ身居は『浪人』であった。
丹生家は秀次来国以来二百五十年、九代目になっての天保一四年に初めて浪人の身居がつけられ、御奉公の支配下に入る
なお、丹生家五代目作之丞の二男が西玄隆を名乗って分家独立し、家老長谷川近江の用心になった。
西玄隆を名乗ったのは、高野山で秀次の身代わりとなって切腹した西堂玄隆に感謝し、永くその名を伝える為であった。


926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:42:45 ID:2f3LoAlx
以上です、最近の三成評価に覆し追い打ちをかける内容になっていますね。
この著者があった方(名前は伏せますが)は阿波の郷土史とかから探したっぽいですね。
著書の方は三好(阿波)一族を研究されてる人ですがまさか秀次と交差するとはね~
地元でないとこういう細かいのはのは解りませんよね。
蜂須賀家とねねの株が上がるのは解るとして、福島正則の株がこう言う形で上がるのは珍しいですねw
秀次ファンの方には朗報?なんでしょうかね…生きていたら良いですねー!





927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 16:53:00 ID:dPNhTZig
大作乙でした。
事の真偽はともかく、蜂須賀藩に実際に政所与兵衛、平十朗と言う存在がいたとすれば、
いろいろ伝奇的な想像力をかきたてますな。

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 17:47:33 ID:WlENEcz8
大作おつです。
秀次生存エンドとは新しい。秀次も三成も好きな私としては三成が悪役なのが悲しくもありますが
まぁ、家康と並んで武断派から頼りにされていたらしいという話は聞いたことあるので他にも逸話あると面白いですね。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 18:28:12 ID:O1yWnnv7
あれだけ秀次の縁者に酷な処置をした太閤が秀次を生かしておくとは思えないね
でも面白い異説だと思います

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 18:35:37 ID:epUd1+L0
乙でした 面白かったよ
>>929
秀次妻子のひどい扱いはカムフラージュだったのだよ(AA略

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 21:30:07 ID:HH3ABR1c
>>929
縁者に酷な処置をして多少溜飲が下がり、落ち着いて考えてみたら急に憐憫の情がわいてきたとか

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 21:38:35 ID:5KB65IlT
> 最近の三成評価に覆し追い打ちをかける内容になっていますね。

というかかなり古臭いタイプの話だとおもいますよ。

徳川についた豊臣恩顧の大名たちの言い訳になりそうな
筋立てを並べているだけでしょう。
豊臣家を裏切った大名たちとしては、石田三成や大野治長が奸臣で、
秀頼が秀吉の子ではなく、さらに北政所のお墨付き。


むしろ北政所が関ヶ原西軍に近かった、とかいう話のほうが興味深い。

豊臣秀次の数寄

2009年11月27日 00:03

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 09:28:26 ID:fHQQhh+b
そういえば秀次のいい話とかないのかなぁ。
やっぱラスボス周辺によって抹殺されたり、豊臣系大名が由緒書くときに小牧長久手関連で
ボロクソいったりしてるせいなんだろうか。



673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 10:21:00 ID:MLKVud2f
豊臣秀次が百人一首の元祖である藤原定家筆の『小倉色紙』を手に入れ、聚楽第の茶席に
千利休らを招き、色紙披露の茶会を開いた。

時は旧暦初夏の早朝、まだ日も出ぬうちに利休らは茶席に入った。室内は亭主たる秀次が
いるだけで灯りも無く、ただ茶釜の煮える音がするばかりで、何とも言えぬ寂びた席だった。

「さて今日の秀次様は、どんな趣向であろうか?」
客たちが考えていると、利休の座った席の背後の障子が、ほんのりと明るくなってきた。
不思議に思って障子を開けてみると、残月の光が冴え冴えと茶席の床の間に差し込んだ。
「・・・さては!」
思い当たった利休が床の間の掛け物を見ると、果たして小倉色紙の一つが掛けられていた。

ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
(ホトトギスの鳴き声が聞こえた方を見れば、その姿は既に見えず、ただ明け方の月が
空に残っていたよ。 ※ホトトギスは初夏の季語)

季節と時間を踏まえた演出に感嘆せぬ客はいなかったという、殺生関白、実は茶聖をも
驚かす数寄者だった話。




674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 10:36:17 ID:YjTCLmFC
歴史的に見れば及第点を挙げられない為政者だったかもしれないけど、
豊臣家としては大事な中継ぎをトップの意向で消してしまったよなあ

実際に帝の喪中に殺生していたのだって秀吉だし・・・

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 10:40:58 ID:6OwAcq2l
>>673
公家的な感じも受ける話だけどラスボスはこういうの気に入らないだろうなあ…

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 10:48:58 ID:cA7z6Uvt
確か唐入りの時は朝廷と一緒になって中止を求めたんだっけ?
秀次が秀吉弟に変わるストッパーになれていたら

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 17:55:40 ID:fHQQhh+b
>>673
おお、いい話あるんだthx。だけど、大名っぽくないいい話具合が>>675もいうように
ラスボスに受けなかった一因かもしれないネェ
>>674近江八幡での治世は結構いいものだった、とかいう話もどっかで聞いたし
秀忠くらい世の中が安定した状況で跡継ぎに
なったらもっとマシだったんじゃないかと思うんだ。評判とか末路とか。

雀部重政の狼狽

2009年09月25日 00:03

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 17:06:09 ID:94ALnD7q
豊臣秀次を介錯した雀部重政は武勇で知られる人物だったが、
さすがに介錯の時は感極まったのか二回失敗している。
最初は下過ぎて肩甲骨のあたりに打ち込み、二度目は上過ぎて空を切った。
秀次にも「落ち着け」と励まされつつ三度目にようやく成功し、
直後「私の手並みを御覧あれ」と言って切腹し果てた。

元ネタが20年位前に見た本のうろ覚えなので適当で申し訳ない
他にも利休の切腹の様子とか、刃物が怖かったので腹壊して切った事にした男の話とか
あったんだけどもう完全にあやふやで書けません




703 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/24(木) 18:39:24 ID:IveNN7UH
>>701
わざと失敗して、死ぬ前の責め苦を増大させただけじゃないのかw


704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 18:44:31 ID:7fpxwkQc
そういや北条氏規は氏政と氏照の介錯役やってるが
手元が狂ったりしなかったのかね
失敗したら余計に苦しいとわかっていても
実の兄貴二人の首を落とさにゃならんとか
俺だったら多分頭がおかしくなる

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 18:50:29 ID:weW5bWhP
仲の良い兄貴だからこそ自分がって気持ちもあるんじゃないかな。


関白豊臣秀次の「悪魔の招待状」

2009年09月03日 00:17

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/01(火) 23:59:58 ID:xwQvkLjc
関白豊臣秀次の「悪魔の招待状」
同じ時期に三人の美童のもとに「悪魔の招待状」が届いた

一人は東国一の美女と名高い最上家の二女・駒姫
父義光も度重なる要求を断り切れず泣く泣く嫁がせる事になる

一人は蒲生氏郷に寵愛された名古屋山三郎
氏郷は激怒したが山三の武功を並べこの者は当家に必要と冷静に断った

一人は織田信雄の愛童浅香庄次郎
信雄は「何考えとんじゃ」と失礼なくらいの文で断った

一人はとても焦った関白秀次から寵愛を受けていた不破万作である
「美麗とお噂の姫様に僕とは違って武功を持つ小性が二人も・・・
あぁこれは何かとても不吉な予感がする・・・」
不破万作の予感はあながち間違ってなかった

この時の蒲生氏郷・織田信雄の対応次第では
四大美童は全滅していたかも知れないのだ・・・




875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/02(水) 00:02:21 ID:48BWxojf
>>874
はじめ3人と断わってるのに4人いるからびびったぜ
だが全員断ってたら家潰れたかな

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/02(水) 00:03:59 ID:NAnRcMm+
姫なのに美童とはこれいかに

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/02(水) 00:37:19 ID:3elspqiJ
秀次が秀吉より怖いのは女だけじゃなくどっちも美味しく
頂きましたフヒヒと言えるところじゃな


秀吉が秀次を憎んだ理由・悪い話

2008年12月28日 00:01

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 13:42:33 ID:FkPlUXh9
秀吉が秀次を憎んだ理由


ある時の事、聚楽第の奥で大切に飼われていた猿が、どういうことか檻を抜け出し、たまたま近くを
通りかかった秀次の愛妾の一人を、後ろから襲った。

この人は御小督前(おごうのまえ)と言い。大変な美女であったがそれだけではなく、武芸にも優れ、
男にも勝る胆力を持つともっぱらの噂であった。
この時も彼女は少しも騒がず、後ろから抱きついてきた猿の肘を締めると、その痛さに猿は気を失い、
御小督前はそのままその場を逃れた。

少しして肘を痛め失神した猿が見つかり、その事が秀次に報告された。大切にしている猿である、
何者の仕業かとすぐに取調べが行われたが、御小督前が「わたくしです」と、申し出、これこれと
理由を語った。
それが嘘かまことか、彼女の前に件の猿を連れてくると、御小督前を見たとたんおびえ恐れた。
これにて偽りなしとわかり、御小督前は許され、このことは聚楽第での大きな話題となった。



そしてそれは、秀吉の耳にも入った。

「関白は、猿を飼って女どもになぶりものにさせておるのか…。」

もちろんゆがんだ形で。

「これはわしの幼名が猿ゆえ、わしをなぞらえての事であろう…。
わしを女にいたぶらせて喜んでいるとは…おのれ秀次!」

後に秀吉が三条川原で秀次の妻子、子女まで三十余人を斬首したのは、この一件以降、
秀次のみならす、その女中たちまで深く憎んだ事によるそうだ。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 13:47:22 ID:5KrrEOIb
>>704
面白かったけど

「わしの幼名が猿」

この部分おかしくないか?

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 14:02:04 ID:FkPlUXh9
>>705
そこはこの逸話の原典の、続武将感状記の記載に準拠したので、
あんまり突っ込まないでくださいw

秀吉の幼名って実は、信憑性のあるものは一切伝わっていないしね。

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 15:05:43 ID:d7hJmnEI
藤吉郎の前は何て呼ばれてたんだろうな

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 15:12:38 ID:usfES8RX
>>707
日吉

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 17:01:53 ID:kXAzeYI/
>>708

それはどうも太閤記の創作っぽいって事で
現在は定説無し。

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 17:35:05 ID:6FosQ33E
どこまで猿っぽかったのかな?
禿鼠って呼ばれてたって話もあるし、実際はどんな感じだったんだろ

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 17:38:35 ID:5KrrEOIb
>>709
自称太陽の子だもんな
太陽=日+藤吉郎の吉で日吉でしょ?
かなり嘘くさい

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 18:01:17 ID:HqI+4l0y
>>711
それもあるかも知れんが、どっちかというと日吉大社=猿田彦だと思うんだよね。
「猿」というあだ名も、実は秀吉自身が自分でつけたんじゃねーかと。

713 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/27(土) 18:34:13 ID:10KCYVNY
>>710

腐れ鼠への面当てなら、鼠を大量殺戮すればよかったんだよw

穀物を守るためにやりました、と言い逃れもできるだろうしw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 18:45:55 ID:Kipu66Xe
信長からは禿げ鼠とは言われていたけど猿とは呼ばれてなかったと聞いたけどな。

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 19:04:51 ID:5KrrEOIb
>>712
なるほど
ぐぐったら面白いサイトを見つけた
日吉大社を意識してたのは確からしい
ttp://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_hie.html

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 19:55:12 ID:wb5MTOG7
>>714
禿げていて身長が低い男と言った所か

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 20:03:58 ID:FkPlUXh9
とりあえず、羽柴秀吉時代に、宣教師や毛利家の記録に「猿に似ている」ってのがあるので、
実際に当時から猿呼ばわりされていたのは間違いないようで>秀吉

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 20:16:12 ID:v9LpJJsR
家臣たちよ、妻を隠せ!
女たらしのハゲ鼠が帰ってきたぞ!!

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 21:36:16 ID:bBgORpvh
>>714
信長が出した書状でおもいきり文頭から「猿帰り候て~」て秀吉の事書かれてるよ
宛名が長岡兵部大輔(細川幽斎)、惟住五郎左衛門(丹羽長秀)、滝川左近(一益)、
惟任日向守(光秀)のやつ

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 21:43:22 ID:BVlGfYjj
>>718
カエサルなら笑って済ますけど秀吉に言うと殺されるだろw

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 21:45:07 ID:FkPlUXh9
まあ、信長の付けた「ハゲ鼠」が独創的(もしくはあだ名として酷すぎ)だっただけで、基本的には
誰が見ても第一印象が「うわ、猿だ」って容姿だったようねw>秀吉

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/28(日) 00:35:22 ID:MyyPcZhH
>>718
カエサルと腐れはげ鼠の違うところは、自分の魅力か権力による力ずくかの違いだw


725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 00:37:04 ID:Qoev2pa3
中川清秀は秀吉に正面切って「猿め!」と言い放った事がある。するとこうなる。

1582年、山崎の戦い
最前面に配され明智隊と正面からがっぷり四つ。消耗度大。

1583年、賎ヶ岳の戦い
 戦 死

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 00:39:13 ID:xv/zPGOg
>>725
そういえば賤ヶ岳の時の中川は、高山右近にはめられた、って説があるな。

豊臣秀次の女癖、などなどについて・悪い話

2008年11月30日 00:12

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 00:37:47 ID:pdIDB95g
秀吉は有名だけど
秀次もすごくなかったっけ?

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 00:51:40 ID:0uok0+HD
>>753
どっちも有名。
ただし秀吉は子が少なかったが、秀次は多い。
秀吉はキモメンオッサン、秀次は若くてイケメン。
秀吉は上流好みでロリコンだが、秀次はストライクゾーンが広い。
秀吉はノンケ、秀次はバイセクシャル。

一番二番の違いから、秀吉は秀次に嫉妬みたいなものも
あったんじゃないかとも言われている。
側室ごと秀次の胤を消したいなら、妊娠しているかどうか数ヶ月待てばいいだけ。
秀次の妻子を連座させて殺すのはあまりに異常なので、そういう意見もあるそうだ。

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 00:52:55 ID:oUqpV9uM
13歳といえば、女の盛りパート1だからなあ

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 00:54:04 ID:ud5UprBS
>>753
母と娘をともに側室にしたとか、あのへん?>秀次

秀次が女好きじゃ無かったとは言わないけど、秀次の側室に関する逸話は、
他の暴虐な行いも含めて、典型的な「暴君譚」のテンプレそのものなんだよね。
中国の古典に出てくるような。

秀吉のこの手の話に出てくるような、生々しい感じが無くて、個人的には
秀吉周辺によるプロパガンダであった可能性が強いと思ってる。

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 00:56:48 ID:oUqpV9uM
13歳の娘と33歳の母親かあ
女の盛りパート1とパート2のせっとか
そりゃああこがれるなあ

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 01:11:54 ID:pGx8xTkj
秀次が若くてイケメンとか上でも出た妖説太閤記の創作じゃんw
秀吉が容姿の冴えない小男だったのは史書に残ってるが、
秀次の容姿に関しての記録は見たことが無いよ
秀吉は秀次に関白職を譲る時に彼の好色を危ぶんで
「関白になったらスケベは程々にしろよ、自分の真似はするな」なんて訓戒状を出してる
自分のことを棚に上げる養父も笑えるが、その訓戒を聞かず側室集めまくった秀次も何というか
色好みは羽柴一族の特色だったんじゃないかと


759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 01:15:06 ID:0uok0+HD
瑞泉寺由来から抜粋。
・処刑される秀次の妻子は、獣のように車に押し込められて引き回された。
殺されると知らない子供たちは母親に甘えていて、都人はそれを見て涙した。
・処刑場になった三条河原には、秀次の腐り始めた首がある。
妻子たちはそれを拝むと、順番に首をはねられた。
・姫君のひとりが処刑を見ていった。「私もああなるの?」母は応える。
「念仏を唱えれば父上に会えますよ」。それを聞いた処刑人は「叶わぬ望みよ」
と姫を引きずり出し刺し殺した。亡くなった子供は上は九歳、下は三歳五名。
・殺された妻妾は三十四名。上は尼僧68歳、下は12歳。
おそらく唯一、処女のまま殺されたのが有名な駒姫十五歳。
 駒姫は、静かに座り落ち着いてみずから首をさしだした。

  罪なき身も世の曇りにさへられて、ともに冥土に趣かば、
  五常の罪も滅びなんと思ひて   伊満(いま)十五歳
    罪を切る弥陀の剣にかかる身の
     なにか五つのさわりあるべき

(罪のない私ですが、世間のいわれない誤解から皆とともにゆきます。
ありがたい阿弥陀様の剣にかかる私です、どうして往生できない五つの罪があるでしょう)

・彼女らの死骸は、犬のように転がされてひとつの穴に捨てられた。
その上には「秀次悪逆塚」ときざまれた碑が置かれ、ひとびとはいつのまにかそれを
「畜生塚」と呼ぶようになった。
・都には夜のうちに貼り紙がなされた。
「今日の狼藉は、あまりにひどい、こんな政権は滅びてしまえ。
ああ、因果のほどを覚悟しろ」と。
秀次に連座した大名は最上義光、伊達政宗、細川忠興らがいる。彼らはのちに
東軍につく。確かに因果はめぐったのだ!

その塚はしばらくそのままで、洪水で破壊されていたが角倉了以が慶長十六年、
高瀬川改作のさいに瑞泉寺を建立し菩提をとむらった。
これが瑞泉寺の由来である…

ちょっと悪い話じゃねえ!
関連エントリ http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-514.html


760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 01:17:17 ID:5zgCib3e
>>157
でも秀長はそういうのはない気がする。
秀吉は成り上がり者だし秀次は若いからな…権力のこわさかも。

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 01:19:22 ID:0uok0+HD
>>758
んー、オレはうろおぼえだけど小説以外で
秀次イケメンってみたけどな。肖像画も結構立派な顔だった。

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 01:41:40 ID:WkndspAo
>>757
そのパート1とパート2の定義はおかしい

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 01:42:16 ID:ud5UprBS
豊臣秀次
http://blog-imgs-21.fc2.com/k/o/u/koudainobuon/untitled.jpg
秀次01

イケメンかどうかはともかく、たしかにちょっと秀吉に似てるんだよね
さすが親戚w

まあ、若くてインテリで貴公子だから、もてたのはもてたでしょうな。
あと、側室が多いのは、急造りの「豊臣家」というものには、どうしたってその藩屏を、
急速に「製造」しなきゃいけなかったわけだから、そう言う意味では政権の要請に従ったと
考えられなくも無い。

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 01:46:52 ID:0uok0+HD
あ、思い出した。
宣教師の記録では優雅な美男だった希ガス>秀次

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 02:17:26 ID:an320nMw
>>760
秀長はめちゃめちゃ常識人だからな。
破天荒な兄を支えるのはそういう人物じゃなくちゃ駄目だったんだろう。

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 02:58:23 ID:oUqpV9uM
>>762
何がおかしいのですか、先達よ

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 03:06:34 ID:mhPJ9fWS
>>759
>上は尼僧68歳

( Д )゚ ゚

オールマイティーにも程があるわ……
それともいわゆる、乳母→愛人の類なんだろうか…

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 05:23:02 ID:30YHYRZs
>>768
妻妾の母親という線もあるでよ

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 11:11:17 ID:kIIxhFu5
関白の何が怖いって、山風の妖説太閤記が
一番実情に近かったんじゃないか、って思わせるところが怖い。

豊臣秀次の小姓と浅井井頼の出奔・悪い話

2008年11月10日 00:12

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/09(日) 18:04:52 ID:fpLUCQGR
嫁ではなく別のものを奪ったお話

豊臣秀次の家臣に、浅井井頼(あざいいより)という剛勇の侍がいた。
一説に、浅井長政の落とし種とも言われる男である。

秀次には寵愛する小姓がいた。この小姓がある時罪を得、罰として座敷牢に押し込められることとなった。
この話を井頼は聞きつけ、主君の寵愛する小姓とはどれほど美しいものかと一目見たくなり、
夜陰に紛れ秀次の屋敷に潜入した。

難なく潜入に成功し、小姓を一目見た井頼は、その美しさにすっかり魂を奪われた。
小姓が彼に気付き声を上げようとしたため、そのまま押し倒し、事を遂げてしまった。

翌日、その事を知った秀次は激怒し、「井頼を成敗せよ!」と命令を出した。が、浅井井頼は
そのくらいでへこむような男ではなかった。

彼は堂々と城に登り、大広間で

「わしを殺せと、殿のご命令じゃ。誰か殿の命を受けてわしを討つ者はおらぬか!?」

と、高言を吐いた。しかし秀次の家臣たちは皆、井頼の武勇を恐れ、誰一人立ち向かおうとせず、
彼はそのまま見得を切って、秀次の元を出奔した。

やがて、戦争真っ最中の朝鮮に渡り、彼は毎朝、日本の方向を向き刀を振り回しながら
「日本大乱!国家滅亡!」と叫んでいたという。

後、真田十勇士の、根津甚八のモデルに成ったとも言われる男のお話。



841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/09(日) 19:34:51 ID:291KJiP4
>>832
これまたかなりのDQNだな

豊臣秀次と遊行上人・いい話

2008年10月16日 10:46

656 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/11(月) 21:04:13 ID:ewA72rmA
関白であった頃の豊臣秀次と、遊行上人との会話

秀次、上人に向かって

「上人は 霞の衣 きりの数珠 あまけはなれぬそら念仏かな」

すると上人

「水鳥は 水に入りても 羽も濡れず 海の魚とて汐に染まばや」


これは秀次が「上人はそのような尊いお方なのに、女っ気が耐えない(あまけはなれぬ)のはいかがなものか?」
と、和歌で諭したのに対し、上人が「環境や外観がどうであろうと、大切なのは心の純潔であります」と同様に返したもの。
秀次の教養と洒落っ気の伺える逸話。

ちなみに秀吉はこれを、さっぱり理解できず、「そんなまどろっこしい話し方をするな」と叱ったとか。




660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/12(火) 03:56:07 ID:/prcwaau
>>656
一見していい話だけど、女性への情欲は内の心から沸き起こるもんで、
それに支配されてるっちゅうことはお前の羽はびしょびしょだしお前の魚はしょっぱいじゃないかと思う。