於萬様は宮部に養育されていた

2017年07月06日 18:40

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 11:00:20.83 ID:shzTRTJ6
 秀吉公の於萬(秀次)様は秀吉公の鳥取陣に供をして当国に来ていて、宮部継潤に養子として預けていた。
宮部の陣所辺山森という要害には、役者も数多く居た。落城後は秀吉公播州へ帰陣して、
於萬様は当城に留まり宮部に養育されていた。
天正十年の春には秀吉公は何を思ったか播州に送り返せと命じられ、
継潤に家老として友田左近右衛門か田中久兵衛(吉政)二人のうち一人を付けろと併せて命じられたので、
田中久兵衛を付けた。
この二人宮部家中では才覚武勇優劣付かない侍で、秀吉公も内々召し抱えたいと考えていて、
特に友田を望んだのだが、継潤が惜しんで出さないと考え両人のうち何れかという形にされた。
案の定友田惜しみ、田中の方を差し出してきた。
後於萬様は播州に帰り、秀吉公は近くに置いて大変可愛がり、次第に成長して元服した。
(因幡民談記)


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「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」

2017年03月16日 21:16

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)



672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

秀次妻子の処刑

2017年01月14日 15:43

513 名前:1/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:19:11.80 ID:rE+exn0h
文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次が切腹。
そして8月2日、秀次の若君、上臈、婦人たちを誅すべきとの上使が立ち、いやが上にも悲しみは増した。
検使には石田治部少輔、増田右衛門尉をはじめ、橋より西の片原に、布皮敷いて並び居た。
彼らは若君達を車に乗せ、上臈達を警護して、上京を引き下り、一条二条を引き下り、三条の河原へと懸った。

橋のあたりまで着くと、検使たちが車の前後に立ち「先ず若君達を害し奉れ」と下知した。
青侍・雑兵共が走り寄り、玉のような若君達を車から抱き下ろし、変わり果てた父秀次の首を見せた。

仙千代丸は冷静にこれを見て、「こは何と成らせられるや」と呟き、嗚呼と嘆いた。
その姿に母上たちだけでなく、見物の貴賎男女、警護の武士に至るまで前後を忘れともに涙に咽んだ。
しかし太刀取りの武士は「心弱くては叶うまじ」と目を塞ぎ、心を太刀だけに集中して仙千代丸達を害した。
この時彼らの母上たちは、人目も恥ずかしさも忘れ声を上げた

「どうして私を先に殺さないのか!急ぎ我を殺せ!我を害せよ!」
(こは何とて、我をば先に害せぬぞ。急ぎ我を殺せ我を害せよ)

そう、仙千代丸の死骸に抱きついて伏し嘆いた。
それより夫以下の目録に合わせ、順に座らせた。
一番に上臈、一の台の御局、前大納言殿の息女にて、三十路余りであった。これを今わのすさみとて
『存へて ありつる程を浮世ぞと 思へば残る言の葉もなし』

二番は小上臈、於妻御前であった。三位中将殿の息女にて、16歳になられていた。紫に柳色の薄絹の重ねに
白袴を引き、練貫の一重絹うちかけ、緑の髪を半切り、肩の周りにゆらゆらと振り下げて、秀次の首に三度拝し、
こう詠んだ
 『槿の日 影まつ間の花に置く 露より脆き身をば惜まじ』

三番は、姫君の母上、中納言の局於亀の前であった。摂津小浜の寺の御坊の娘で、歳は33。栄に少し
過ぎていたが、西に向かい「南無極楽世界の教主弥陀仏」と観念し
 『頼みつる 弥陀の教の違わずば 導きたまへ愚かなる身を』

四番には仙千代丸の母上、於和子の前であった。尾張日比野下野守が娘にて、18歳になられていた。
練絹に経帷子を重ね、白綾の袴を着て水晶の数珠を持ち、若君の死骸を抱きつつ、泣きながら大雲院の上人に
十念を授かり、心静かに回向して、こう詠じた
 『後の世を 掛けし縁の栄えなく 跡慕ひ行く死出の山路』

五番には百丸の母上であった。尾張国の住人山口将監の娘。19歳になられていた。
白装束に墨染の衣を掛け、若君の死骸を抱きつつ、紅の房の付いた数珠を持って、これも大雲院の十念を受け心静かに回向して
 『夫や子に 誘はれて行く道なれば 何をか跡に思残さん』

六番には土丸の母上、於ちゃの前であった。美濃国竹中与右衛門が娘にして、18歳。
白装束に墨染めの衣着て、物毎に軽々しい出で立ちであった。かねてから禅の知識に参学し、飛華落葉を観じ、
世理無常を悟って、少しも騒ぐ気色無く、本来無一物の心と
 『現とは 更に思わぬ世の中を 一夜の夢や今覚めぬらん』

七番には十丸の母上於佐子の前であった。北野の松梅院の娘で、19歳になられていた。
白綾に練絹の単衣の重に、白袴を引き、戻の衣を掛け、左には経を持ち右には数珠。西に向かって法華普門品を
心静かに読んで、秀次、若君、そして我が身の菩提を回向して
 『一筋に 大慈大慈の影たのむ こころの月のいかでか曇らん』

八番には於万の方であった。近江国の住人多羅尾彦七が娘。23になられていた。練絹に白袴引き、
紫に秋の花が刺繍された小袖をかけておられた。その頃病中であったので、見た目にもいと悲しく、
心も消え入るように思えた。これも大雲院の十念を受け掌を合わせ
 『何處とも 知らぬ闇路に迷ふ身を 導き給へ南無阿弥陀佛』

九番には、於与免の前であった。尾張国の住人堀田次郎右衛門が娘で、これも白装束に数珠と扇子を持ち添え、
西に向かい十念して
 『説置ける 法の教の路なれば 弧り行くとも迷ふべきかは』

十番に、於阿子の前であった。容姿よりも尚勝る心にて、情け深く聞こえた。毎日法華読誦怠らず、最後にもこの心であった
 『妙なれや 法の蓮の花の縁に 引かれ行く身は頼もしき哉』

514 名前:2/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:20:23.81 ID:rE+exn0h
十一番には於伊満の前であった。出羽最上殿の息女であり、十五歳になられた。東国第一の美人であると
伝え聞かれ、秀次より様々に仰せになり、去る7月上旬に上洛したが、旅の疲れにて未だ見参のない内に、
この難儀が勃発し、淀の方より「いかにもして申し請け参らん」と心を砕かれたため、太閤秀吉も黙し難く、
「命を助け鎌倉に遣わし尼にせよ」と言った。これにより伏見から大至急早馬が出たが、あと一町という所で
処刑された。哀れと言うにも余りある、最後の際、やさしくも
 『つみを切る 弥陀の剣に掛かる身の 何か五つの障あるべき』

十二番には阿世智の前であった。上京の住人秋葉の娘であり、30あまり、月の前、花の宴、事に触れて
歌の名人であったとか。最後の時も先を争ったが、目録どおりとのことで仕方なく、辞世に
 『迷途にして君や待つらん 現とも夢とも分かず面影に立つ
  彌陀たのむ 心の月を知べにて 行けば何地に迷あるべき』

十三番には小少将の前であった。備前国本郷主膳が娘にて、24歳になられた。彼女こそ関白の御装束を
賜った人である。
 『存へば 猶もうき目を三瀬川 渡るを急げ君や待つらん』

十四番には左衛門の後殿であった。岡本某の後室で、38歳であったという。琵琶、琴の名人で、歌の師匠も
されていた。是ぞ今わの気色にて
 『暫くの 浮世の夢の覚め果てて 是ぞまことの仏なりけり』

十五番には右衛門の後殿であった。村瀬何某の妻であったとか。村井善右衛門の娘にて、35歳になられていた。
21歳で父の村瀬と生き別れ、今また重きが上のさよ衣、重ね重ねの憂いの涙。よその袖さえ乾く間もない
 『火の家に 何か心の留まるべき すずしき道にいざやいそがん』

十六番は妙心老尼であった、同坊の普心の妻であったが、夫に先立たれた時も自害しようとしたのを
無理に止めて、尼と成られたのである、最後の供を悦んで
 『先達ちし 人をしるべじ行く路の 迷を照らせ山の端のつき』

十七番は於宮の前であった、これは一の台の娘であり、父は尾張の何某にて13になられた。
母子を寵愛されたこと、ただ畜生の有様であると、太閤は深く嫉み思われたとか、最後の体、おとなしやかに念仏して
『秋といへば まだ色ならぬ裏葉迄 誘ひ行くらん死出の山路』

十八番には於菊の前であった。摂津国伊丹兵庫の娘で、14歳になられていた。大雲院の上人に十念授かり、
心静かに取り直り
 『秋風に 促はれて散る露よりも 脆きいのちを惜しみやはせじ』

十九番には於喝食の前であった、尾張国の住人、坪内右衛門の娘で、15歳であったとか、武士の心で
男子の姿をし、器量類なかったため、稚児の名を付けられた、萌黄に練絹の単衣衣の重ねに白袴を引き、
秀次の首を拝して残る人に向い「急がれよ。三瀬川に待ち連れて参りましょう。」と語りかけ、検使にも
暇乞いをして、西に向かって声高に、こう2,3回吟じた
 『闇路をも 迷わで行かん死出の山 清る心の月をしるべに』

二十番には於松の前であった。右衛門の後殿の娘にて、12歳であったとか。未だ幼く、唐紅に秋の花を
刺繍した薄衣に、練絹をかけ、袴の裾を握りながら、母親の死骸を拝しつつ
 『残るとも 存へ果てん浮世かは 終には越ゆる死出の山路』

二十一番には於佐伊の前であった。別所豊後守の身内の客人、という者の娘で、15の夏の頃初めて見参し、
新枕のあと絶えて召されず、拙き身を恨んでいたが。ある酒宴の折に「君やこじ我や行きなん」と謡ったことで
他に勝って寵愛されるようになった。しかしその後何があったか、事情があり久しく出仕しなかったが、
最後の御後を慕い参られた事こそやさしくも哀れである、法華経を読誦してこれだけを言った
 『末のつゆ 本の雫や消え返り 同じ流れの波のうたかた』

二十二番には於古保の前であった。近江国の住人鯰江権之介が娘にてこれも15の春の頃より寵愛深く、
閨の袖の香浅からず成り染めて、花月の戯れに、後の事は思いもよらなかったであろう。
そしてこの期は大雲院の十念を受け回向して
 『悟れるも 迷いある身も隔てなき 弥陀の教を深くたのまん』

二十三番には於仮名の前であった。越前国より木村常陸守が呼んだ上臈とか。17歳であった。
非常に賢く、浮世を泡のように観念して
 『夢とのみ 思ふが内に幻の 身は消えて行く哀れ世の中』

515 名前:3/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:21:29.42 ID:rE+exn0h
二十四番には於竹の前であった。一条あたりで、ある方の拾った娘であったという。類なき美人にて
昔の如意の妃もこうであったと思われた。仏元来今無く、心又去来の相なしと悟り
 『来りつる方もなければ 行末も死らぬ心の仏とぞなる』

二十五番には於愛の前であった。古川主膳の娘で、23であったとか。法華転読の信者で、草木成仏の心を
 『草も木も 皆仏ぞと聞く時は 愚かなる身も頼もしきかな』

二十六番には於藤の前であった。大原三河守の娘で、京の生まれ。21歳になられていた。
槿花一日の栄、夢幻泡影と観じて、大雲院の十念を受け
 『尋ね行く 仏の御名をしるべなる 路の迷の晴れ渡る空』

二十七番には於牧の前であった、斎藤平兵衛の娘で16歳だとか。これも十念を受け西に向かい手を合わせ
 『急げ唯 御法の船の出でぬ間に 乗遅れなば誰を頼まん』

二十八番には於國の前であった、尾張国大島新左衛門の娘で、22になっていた。肌には白帷子に山吹色の
薄衣の重ねに、練絹に阿字の大梵が書かれているのを掛けて、秀次、若君たちの死骸を拝し、秀次の
首に向かって直られるのを、太刀取が「西に向かれよ」と言うと、「本来東西無し。急ぎ討て」と答え、
そのままに討たれた
 『名計を 暫し此の世に残しつつ 身は帰り行く本の雲水』

二十九番には於杉の前であった。19歳。前年より労気を患い、秀次とも疎遠になっていたため、浮世を恨み、
どうにかして出家したいと願っていたが、叶わずこのような最期を遂げた
 『捨てられし 身にも縁や残るらん 跡慕ひ行く死出の山越』

三十番には於紋といって、御末の人。心静かに回向して
 『一聲に こころの月の雲晴るる 仏の御名を唱へてぞ行く』

三十一番は東といって61歳。中居御末の女房が預かる人であった。夫は75歳で、この3日前に相国寺にて
自害した。

三十二番に於三。末の女房であったとか。

三十三番は津保見。三十四番は於知母であった。

この三十余人の女臈たちをはじめ、午の刻(午前11時頃)から申の刻の終(午後5時頃)までに
朝露となられたのは、彼女たちのことを知る人も知らぬ人も、見る人聞く人ごとに、肝も裂け魂消えて、
涙に暮れぬものはなかった。
秀吉は殊更に、死骸を親類にも返さず、巨大な穴を掘らせて、旃多羅が手にかけてその手足を取って
投げ入れた。その有様、昔玻斯国の瑠璃太子が浄飯王宮を攻め破って、五百の宮女美人を穴埋めにしたという
哀れさも、これにはどうして勝るだろうか、
こうして最期に臨んで、歌を詠まれし風情、万年の後までも、聞くに涙に咽ぶであろう、

色を誅するのは、不義を後にして己の嫉を先にすると、世史に謗って記されているのもこのためである。聖智ある明将のやることではない。
太閤秀吉の強暴さは支那をも動かしたが、慈しみの心が嫉妬に勝つ事を得なかった。婦人や幼い子供を億万殺しても、一体何の益があるのか。
人々は誠に、「御代が短かるべき事ぞ」と申した。

(石田軍記)
秀次家族の処刑についての記述である。



516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 13:12:53.81 ID:QLhwJ8hg
まだ出てなかったんだ、秀次妻子の処刑の模様

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 15:56:12.34 ID:YLjoeKPp
妊娠してたら困るからってここまで殺さんでも…

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 16:48:44.45 ID:tVr6p7UI
手当たり次第に手を出して子を産ませるアホは死んで当然
秀長を見習うべきだったな

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 18:21:08.96 ID:z7jd4P8T
???「城中の女に見境なく手を出して100人以上作ったけど何か?」

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 19:52:46.06 ID:399BbC7j
はいはい、お薬出しておきますねー

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 20:49:57.21 ID:AHLvRmkW
>>514
於伊満の命乞いを淀がしてるのか

豊臣秀次の最期

2017年01月12日 08:39

501 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 19:41:29.26 ID:JXo5ixzE
豊臣秀次は高野山に上り、木喰上人の坊へと案内された。木喰上人は秀次の来訪を大いに驚き、
急ぎ招き入れ「只今の御登山は思いもよらぬことです。」と涙を流した。秀次は何も言わず、
袖を顔に当てて涙にむせんでいたが、
「私はこのような事が起こるとは思いもよらず、世にあった頃、気をつけることもなかった。
今更浅ましいことであるが、今にも伏見より検使がくれば、私は自害する事になるだろう。
そうなった跡の事は、一体誰に頼めばいいだろうか。」
そう、涙ぐんで尋ねた。

「御諚ではありますが、当山の衆徒一同に訴えれば、太閤殿下がどれほど憤り深くあられようと、
どうしてその御命令を承知するでしょうか?」
木喰上人はそう頼もしく答えた。

秀次はそこで法体と成り、道意居士と名乗った。供の者達も皆髻を切って、ひとえに来世を祈り、
上使を今か今かと待っていた所、福島左衛門大夫正則、福原左馬助長堯、池田伊予守景雄を大将として、
都合1万余騎、7月13日の申の刻(午後4時頃)伏見を立ち、14日の暮れ方に高野山に到着した。
3人の上使は、木喰上人の庵室に入った。この時秀次は大師の御廟所に詣でるため、奥院に居たが、
これを知らされ戻り、3人と対面した。

福島正則は畏まり、法体姿に変わった秀次を見て涙を流した。秀次は言った
「汝らは、私を討ちに来たのだな。この法師一人を討とうとして、由々しき振る舞いではないか。」

福原が畏まって申し上げた
「その通りです。御介錯仕れとの上意にて候。」

「さては我が首を討とうと思ったか。しかしお前はいかなる剣を持っているのか?
私も腹を切れば、その首を討たせるために、形のごとく太刀を持っているぞ。さあ、汝たちに
見せてやろう。」

そう言って3尺5寸ある金造の帯刀をするりと抜き、「これを見よ」と言った。
秀次は福原左馬助が若輩であり、推参を申したと思い、重ねて物申せば斬って捨てると考えているようであった。
秀次の3人の小姓は秀次の気色を見て、少しでも動けば、秀次が手にかけるまでもなく自分たちで
斬り捨てるのだと、互いに目と目を合わせて刀の柄に手をかけていた。その有様はいかなる天魔鬼神も退くように思えた。

秀次は刀を鞘に収めると、
「お前たちは私が今まで存命しているのを、さぞや臆したためだと思っているだろう。
私も伏見を出た時に、どうとでも慣れと切腹を思ったが、上意を待たずに切腹すれば
『はやり自身に誤りがあったからこそ自害を急いだのだ』と言われ、これにより責任の無い者たちまで
多く命を失うことになるとの懸念から、今まで生きていたのだ。

今は最期の用意をしよう。故なき讒言によって私はこうなってしまったが、私に仕える者に一人も
罪有る者は居ない。良きように言上し、申し扶けて、私への饗応にしてほしい。
この事、相構えて汝らに、頼むぞ。」
一座の者たちはこれを聞き、有り難き御志と感じ入った。

そうして座を立つと、最後の用意を初めた。しかしここに木喰上人はじめ一山の衆徒が集まり、
3人の上使に対して抗議をした
「当山は七百余年このかた、この山に登った人の命を害したこと、その例ありません。
一旦この旨を太閤殿下に言上していただきたい!」

3人はしかし「そうではあろうが、とても叶うことではない。」と説得した。それでも衆徒の抗議は
止まなかった。ここで福島正則が進み出て
「衆徒の言うこと、尤もである。だがこれ以上時刻を費やせば、お前たちまで太閤殿下の勘気を蒙り、
腹切れと言われるだろう。それでも言上したいと言うなら、先ずここに居る我々3人を衆徒の者達が
手に懸けよ。その後はお前たちの心次第だ。」
そう、膝を立てて言うと、所詮は出家の事ゆえ、上人はじめ一山の衆徒も、力及ばず立ち去った。

その夜はこのような評議に時遷り、漸く曙になると、巳の刻(午前9時頃)に秀次の御最後となり、その有様は非常に神妙に見え聞こえた。
彼は付き従った人々を召して、
「汝らこれまでの志こそ、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、数人が最後の供をするというのも、前世の宿縁というものだろう。」

502 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 19:42:20.88 ID:JXo5ixzE
そう涙を流した。そして3人の小姓たちに
「若き者達だから、最後の程も心もとない。その上自ら腹切ると聞けば、それを妨害しようと雑兵共が
乱れ入って、事騒がしくなるのも見苦しい。」
そう考え、山本主膳に国吉の脇差を与え、「これにて腹切れ」というと、主膳承り、
「私は御介錯仕り、その後にこそと思っていましたが、先に参り死出三途にて、道を清めておきましょう。」
そう言ってニッコリと笑い戯れた姿は優美ですらあった。
彼は脇差を押しいただくと、西に向かい十念して、腹十文字に掻っ切って、五臓を腹から繰り出した所を、
秀次が手にかけて討った。この時19歳。

次に岡三十郎を召して「汝もこれにて腹切るべし」と、厚藤四郎の9寸8分を与えた。
「承り候」とこれも19歳であったが、さも神妙に腹を切り、また秀次が手にかけて討った。

3番目の不破万作には、しのぎ藤四郎を与え、「汝も我が手にかかれ。」というと、「辱し」と脇差を頂戴した。
彼はこの時17歳。日本に隠れなき美少年であり、雪よりも白い肌を押し開き、初花がやや綻ぶ風情なのを、
嵐の風に吹き散らされるように、弓手の乳の上に突き立て、目手の細腰まで引き下げた。
秀次はこれを見て「いみじくも仕りたり!」と太刀を振り上げると、首は前に落ちた。
誠に彼らを人手に掛けたくないと思われた、その寵愛のほどこそ浅からぬものであった。

その後、秀次は僧侶の立西堂を呼んで伝えた
「その方は出家であるから、誰も咎めるものは居ない。ここから急ぎ都に上り、私の後世を弔うように。」
しかし
「これまで供奉仕ったというのに、今更都に上って何の楽しみがあるでしょうか?
私も厚恩深き者ですから、出家であるからと言って逃げることなど出来るでしょうか?
僅かに命を永らえるために都に上り、人手に掛かるなど考えもできません。」そう言い切った。
この僧は博学多才、和漢の書に詳しく当檀那の弁を持っていたのに、秀次の酒宴遊興の伽僧となった事で、
多くの人々から宜しからぬ人物と思われていた。それが最後の供まで仕るのも不思議な事である。

次に秀次は篠部淡路守を召して
「この度私の後を慕い、ここまで参った志、生々世々まで報じ難いものである。汝は特に、私を介錯した後、供をせよ。」

淡路は畏まり、大いに悦んだ。
「今度、その跡を慕い参らんと思っている者達はどれほど居ることでしょうか。その中でそれがしは
武運にかない、御最後の供を申し付けられただけでなく、御介錯まで仰せ付けられました。今生の望み、何事かこれに過ぎるでしょう。」

これを聞いて秀次は心地よさげに静かに笑い、両目を閉じ、「迷故三界城悟故十方空」と観念して後、
「ならば、腰の物を」と申し付けた。
篠部は1尺4寸の正宗の脇差の中巻きしたものを差し上げた。
秀次はこれを右手にとり、左手で心元を押し下げ、弓手の脇に突き立てると、目手にキッと引き回し、
腰骨に少しかかったと見えた所で、篠部淡路守が刀を構えた。しかし秀次は「暫く待て!」と、
さらに取り直して胸先から押し下げた。ここで篠部は秀次の首を討った。

惜しむべきかな。御年31を一期として、南山千秋の露と消えられたのだ。哀れと言うにも余りあるではないか。
そして立西堂は死骸を収めると、これも秀次の供をした。

篠部淡路守は関白秀次の死骸を拝して後、3人の検使に対し
「それがしは不肖ですが、この度秀次様の後を慕った恩分に、介錯を仰せ付けられました。誠に弓矢都っての面目です。」

そう言うやいなや1尺3寸平作の脇差を腹に二回刺したが、切っ先が五寸ばかり背に貫いた。
更に刀を取り直し、首に押し当て、左右の手をかけて、前へと押し落とすと、頸は膝に抱かれ、身体はその上に重なった。
これを見た人は目を驚かし、諸人一同に「嗚呼」と感じ入った。

木村常陸も摂津茨木にて腹を斬った。その子木村志摩助は北山に隠れていたが、父の最期を聞いて、その日寺町正行寺にて自害して果てた。
熊谷大膳は嵯峨の二尊院にて腹を斬り、白井備後は四條大雲院、阿波木工は東山にて腹を斬った。
有為転変は世の習い、盛者必滅の理とはいいながら、昨日まで聚楽の花の春の宴も、今は野山の秋の露と、皆散り果てられた事も哀れである。

(石田軍記)



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:07:35.12 ID:dM5tBKtA
グロ、と書きたくなるわ

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:13:45.93 ID:BSUyfD/D
そんなこと言ってたら戦国時代行けないぞ

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 10:43:58.52 ID:6QVQ91xf
秀次事件て秀次はどうでもいいけど連座させられた人たちがかわいそうで仕方がない

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 15:55:20.00 ID:SCP5Kk/o
女性陣が悲惨すぎて草も生えない
当時女性への極刑は珍しかったのになんやあれ(ドン引き
秀吉ぐう畜過ぎ

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 17:46:30.88 ID:ApKa+Wr8
畜生塚、て呼ばれたってことは当時の人から見たら秀次たちがぐう畜扱いされてたのでは

伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に

2016年11月28日 18:29

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 08:45:22.81 ID:TtoGbpWs
文禄3年(1594)、豊臣秀吉は山城国伏見の指月に城の建設を進め、日を追うごとに石垣や天守が
造られていった。
すると秀吉は、伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に遣わし、その他の東国北国西国の大名たちは、
皆伏見に移った。このため家造りは夥しいものであった。

(慶長年中卜斎記)

指月伏見城建設の時点で、秀次は東海道だけの存在になっていたのですね。



血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕

2016年09月17日 20:14

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/17(土) 00:25:27.25 ID:iAZnnAm7
方広寺大仏殿開帳(天保三年,1832年)のとき、
京都を通行した者が来て、そこで聞いた話をしてくれた。

かの大仏の宮の殿内、宝物を置いた間が所々ある中で、
書院の縁側、幅二間長さ十間ばかりの所の板天井に
血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕がある。
その色赤いのもある。黒づいているのもある。
板天井一面がこのようである。

人に伝わっているところでは、
昔関白秀次生害のとき、随従の人が腹切り刺違えなどして死んだときの
板敷の板を、後に天井板にしたものという。

(甲子夜話続編)




これがすなわち松梅院の先祖である

2015年12月04日 13:55

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 12:53:59.54 ID:CEXRMiHA
 北野聖廟院の宮司は昔から妻帯で神務なされていたところ、天正年中に清僧が『出家した者もいるのもよいだろう』とのことを申した。そこで宮司達は相談して、日枝山に申し遣わしたところ、
『高僧が上京して神務に加わる』、と申されたという。

これがすなわち松梅院の先祖である。

 この僧は隠密に妾に女子を産ませていた。後に殿下秀次公の妾となった。
この勢いで古来からの書物などを宮司から取り立てて、ついに天満宮第一の社僧となった。もちろん妻帯も許された。
それからは相続は今の通りとなり、宮司は逆に下座となった。ひとえに秀次公の威勢によるものである。
この松梅院の女は秀次公が自害なされた後、七条河原で死罪となった。
今でも松梅院では、大切にこの女の年忌を務められなさっているとの事である。

そして、宮司は他所からの養子は制禁のところ、自然と隠して他から貰って、実子と申し立てましても、
早世か、または身持ちは放埓でその家を潰すかで、神慮の程がはっきりとあらわれている。
それなので、互いに仲間同士で養子をしているとの事である。
(本阿弥行状記)




秀次公の事は

2015年11月16日 16:31

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/16(月) 15:17:50.53 ID:D/ynLXEf
 秀次公の事はもっぱら石田の讒言と申し伝えられているが、決してそのような事ではないでしょう。
また殿下に対して謀反をする程の器量の人でもないでしょう。
文武両道の事は少しも知らず、浮き立って驕り散らして、天下を保ちなさる人ではなかったでしょう。
そのうえ神代より関白職の事は藤原氏に限られていたのに、
恐れ多くも二代も関白職を持ちなさったようなことをなされたので、
春日大明神の罰があったのでしょう。
(本阿弥行状記)




652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/16(月) 15:31:01.57 ID:169FjyFW
本阿弥光悦の逸話暫く前から貼られてるけど
身分制度の悪い面を抽出したような逸話ばかりで
段々イライラしてくるな
新手のネガキャンかこれ

ふたつの藤四郎

2015年06月25日 12:59

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 19:09:30.95 ID:LLYxrcJj
ふたつの藤四郎

鎬(しのぎ)藤四郎と厚藤四郎という短刀がある。

鎬藤四郎は織田信長が所有し、これを息子の神戸信孝に与えた。
その後関白豊臣秀次が所有し重器として珍重したが、彼が高野山で自害する時、
小姓の不破万作が殉死を請うたため、この鎬藤四郎を与えて切腹させたという。

この刀は後太閤秀吉の手に入り、秀吉逝去の時、その遺物として伊達政宗が賜った。
そして政宗逝去の後、嫡子忠宗より将軍家光に献上され、徳川家の重器となった。

厚藤四郎は足利家代々の重器であったが、いつしか紛失し、その後堺の商人の手に落ちたのを、
黒田如水が知って買い求め、それを豊臣秀次に献上した。
秀次切腹の時、小姓の山田三十郎も殉死を請うたため、これを与えて切腹させた。

これも、そののち太閤秀吉の手に入り、程なく毛利秀元が賜り、やがて秀元から徳川家光に
献上され、こちらも徳川家に納まった。

秀次の小姓二人を切腹させた、ふたつの藤四郎についての逸話である。

(刀剣談)




978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 19:44:27.97 ID:D8uCv7te
若死にのはずなのに不破万作ってどっかで聞いたことがあるな、
と思って調べたら天下三美少年だったのか

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 23:43:52.41 ID:JszQow8o
信孝自害の際に藤四郎もちいたのかな?

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 11:35:54.22 ID:fHKZT830
全然、来歴違うのに同じ事件の切腹に使われるような不吉な刀か
徳川に仇をなす村正とかと同じで何かあるのかね

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 15:09:17.65 ID:rUKrOdBH
武田信虎の武田左京大夫信虎所持兼定 、鬼武蔵の人間無骨、三歳の歌仙兼定

持つと家臣や仲間を斬り殺したくなる妖刀之定…

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 20:55:27.21 ID:kqBXHWdi
>>981
二代目兼定自身も吃驚だな

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 23:43:47.31 ID:RityHn55
>>981
よかった。刀のせいだったんだ!

豊臣秀次娘・お菊のこと

2015年04月02日 18:21

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/02(木) 14:03:01.18 ID:IehglBm9
 豊臣秀次が高野山で自害させられた後、秀次の妻子たちも処刑されることとなったが
秀次と小督局の間に赤ん坊は まだ生まれたばかりでしかも女の子だったため助命され、
その身柄は和泉の国、波有手村に住む親戚の後藤興義に預けられた。
 赤ん坊はお菊と名付けられ、後藤興義夫妻とその娘のお梅に囲まれて幸せに育った。
お菊は義理の姉にあたるお梅と仲が良く、大きくなってもいつも助け合っていた。
 お菊が20歳になった頃、彼女は紀州の山口村で代官をつとめる山口喜内の嫡男、山口兵内
ところへ嫁ぐこととなったが、山口村で結納を済ませたすぐ後に大坂夏の陣が起こり、大坂城
から戦いの参加を求める使者がやってきた。夫の山口兵内はすぐに戦の支度をして出発したが
途中で徳川に味方する紀州の浅野の軍と戦いとなり、討ち取られてしまった。その知らせを
聞いた舅の山口喜内は仇討ちのため戦支度を始めると、お菊は「浅野の殿様に従うふりをして
やりすごし、山口村と大坂城で挟み撃ちにした方が得策でございます」と進言し、そのために
大坂城へ手紙を届ける役目をかってでた。
 お菊は2人の共を連れて大坂城を目指したが、和泉の信達村まで来ると周囲は敵兵ばかりで
あった。そこで近くの堀河山に登って一本の松の木の下でひと休みして思案したお菊は自分の
髪を切って男の侍の格好に変装することにした。そして、松の木の根元に自分の髪の毛を埋めると
山を降りて敵の目を盗んでやっとの思いで大坂城に辿り着いて密書を届けることに成功した。
 大坂城からの作戦の返書を受け取ったお菊はその返書をまげの中に隠してすぐに山口村へ
引き返した。ところが樫井川のほとりまで来た時に敵の襲撃を受けて共の一人が殺され、
さらに逃走中にまげがほどけて返書を落としてしまい、敵に奪われる結果となった。
 お菊は山道を急いで山口村に着いてみると、時すでに遅し、村は紀州の浅野の軍勢に滅ぼされていた。
 夫の一族を失って絶望したお菊は自害を考えたが、死ぬ前に育ててくれた家族に会いたくなり、
夜道を歩いて波有手村の実家に戻った。
 変わり果てたお菊の姿を見て養父母は驚いたが、暖かく迎え入れてかくまった。養父の後藤興義は
お菊をなぐさめるために隣り村に嫁いでいるお梅を呼び寄せた。お梅は自分の子供を連れて帰ってきて
お菊の話し相手となった。
 しばらくして浅野の侍たちがお菊を捜しに波有手村にやってきた。お菊は家の奥に隠れていたが、
侍たちが家の中にまで入ろうとすると姉のお梅が「私がお菊です」と名乗り出て身代りになろうとした。
お梅が連れて行かれそうになった時、お梅の子供が飛び出してきて母親にすがりついた。
そこへお菊が出てきて「待ってください。私がお菊です」と叫んだ。姉が身代りに捕まるのを
見過ごせなかったのである。姉のお梅は「いいえ、お菊は私です」と主張してなおもお菊をかばおうと
したが、お菊は「お姉さん、お気持ちは嬉しいですが、もう覚悟は出来ています。どうか亡くなった
主人のところへ私を連れていってください」と涙を流しつつ言った。みな声をあげて泣いたが
どうすることもできない。侍たちに連れて行かれたお菊は紀の川の田井の瀬の川原で短い生涯を閉じた。
 その後、養母の手によって波有手村の法福寺にお菊の木像がまつられた。いつしか、このお寺は
「お菊寺」と呼ばれるようになり、お菊が登った堀河山は「お菊山」、髪を埋めた松の木は
「お菊髪結いの松」と名付けられた。




この若者は、伯父とは全く異なって

2014年03月31日 19:06

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 20:51:19.39 ID:2aPeRQvX
天正15年(1587)、九州征伐に赴いていた豊臣秀吉は、筑前箱崎よりいわゆる「バテレン追放令」を出し、
宣教師の追放を決定。これにより京にあった教会(南蛮寺)も破却されることとなる。

この教会の司祭たちは都を去るにあたって、異教徒で関白の側近である都のゴベルナドール(奉行)、
前田玄以を訪問させた。彼は事情を聞いて激昂し、その母親の言葉を無視し、自らの身分すら省みず、
司祭からの使者に対し
「大阪で関白(豊臣秀吉)を殺したい!よって、この挙に抜かりはないから、伴天連たちは安心されよ」
と言った。同様のことを関白の甥の孫七郎殿(豊臣秀次)も司祭たちに伝えさせ、秘書のコスメ(庄林)に
答えて言った

「関白殿下は自分に何ら相談も通知もなく伴天連達を立ち去らせてしまったが、伴天連たちは明らかに、
関白に何か言いたかったに違いない。だがおそらく逡巡し、あるいは自分たちのための仲介してくれる
者が居なかったので、あのようにして去っていったのであろう。」

そこで孫七郎殿はオルガンティーノ師に宛てて非常に丁重な書状をしたためさせた。
近江国の領主であるこのプリンシベ(君侯)には五畿内で最初で最古の二人のキリシタンが奉仕していた。
一人は池田シメアン丹後殿といい、もう一人はコスメ・ショウヨと称する彼の秘書であった。
彼らは関白が下(九州)から五畿内に帰還した時には、棄教しないキリシタンを殺す決意である、との噂に
接すると、名望ある貴人である両人はともに主君なる孫七郎殿の前で、おのが信仰を宣言し、

「我らは既に27年間もキリシタンとして生きてまいりました。我らの妻子、家臣らも皆同様です。
デウスの教えを受け入れている今、我らにとってはこの教え以外に救いがないことは、あまりにも明確です。
殿の伯父君である関白殿下が、この件で我らを殺すように命じられるにおいては、我らは喜んで
関白殿下の前で信仰を表明する決意でございます。」

そのように申し出た、彼らはそれを、大いなる歓喜と平静さと信念を持って述べた。そしてさらに

「もしこのままキリシタンとして奉仕して差し支えなければ、身共としては従来と何ら変わりなく
忠誠に励むでありましょう。だがその許可が与えられぬにおいては、潔くデウスの名誉と信仰の証として
追放処分を受ける決意であります。」
と言った。

この若者(豊臣秀次)は、伯父(秀吉)とは全く異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。
特に禁欲を保ち、野心家ではなかった。
日本では自然に反する悪癖(男色)が一般に行われていたが、彼はそのようなことを忌み嫌い、
数日前にも一家臣が他に対して日本ではそれまで今だ見聞きしたことがないようなことを犯したので、
その男を殺させた。

ルイス・フロイス『日本史』)

宣教師によるバテレン追放令への対応と、豊臣秀次への評価に関する記述である。




688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 23:11:28.99 ID:s9zM/PcZ
バレンティン追放に見えた俺は疲れてるんだろうな

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/31(月) 00:35:24.06 ID:Id18rSAo
浜に追放してくれてもええんやで

聚楽城の生身魂祝

2013年09月06日 19:51

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 16:42:56.15 ID:n8IVE67a
聚楽城の生身魂祝

天正十九年七月、秀次公から生身魂の御膳が聚楽へと差し上げられ、
秀吉公、北政所、松の丸殿、淀殿が座を共にして祝われ、その日の
御馳走として観世今春方松に能を仰せ付けられていた。

秀吉公は「今日は秀次の馳走であるから客人の望み次第であるな。
能の番組は何であろうか」と仰せられ、方松は「白髭・忠度・野の宮
でございます」と申し上げた。

秀吉公はこれを聞いて「脇能は誓願寺をいたせ」と告げたが、方松は
「古より脇能は目出度い神祇の能を用います。誓願寺などは如何かと
存じますが」と答えた。

秀吉公が再び仰せられたのは「阿弥陀如来は九品の浄土の主である。
その主たる身が喜び踊り上がるのは、ますます目出度い事だろう。
さすれば今日の能は誓願寺を脇能に致すべし」との事で、その通りに
相勤められたと言う。

(翁草)

なお生身魂(いきみたま)は御盆の前に生きている目上の人に対して
馳走すると言う習慣だそうな。

秀次の孝行ぶりと秀吉のちょっとだけ我儘な話





熊谷大膳の最後

2013年08月27日 19:51

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 06:38:26.00 ID:U2EEhzjR
秀次の重臣熊谷大膳は嵯峨二尊院にいたが、徳善院は賜死の使者として
大膳と親しい家老松田勝右衛門を遣わした。

大膳は松田と会い「私が召し使っている者どもが最後の供をしたいと言う
のを色々と押しとどめています。もし私が死んだあとにこの旨に背いたら
来世までも勘当し縁者一類をも五畿内近国より所払いにすると申し付けま
すので、くれぐれもお願いします」と頼んだ。

最後の盃を松田と酌み交わしていると、大膳の郎党どもが「最後のお供を
すれば勘当されるのならお先に参ります」とあっと言う間に三人が腹を
切って死んでしまった。

残るものはこれを見て「これは理である」と我も我もと続こうとするのを
松田の郎党や寺中の僧達が一人につき三人五人と取りついて、太刀を奪い
取った。

大膳はこれを見て「何という不覚なる者どもか、誠の志あれば命長らえて
熊谷の菩提を弔って欲しい。これでは却って黄泉路のさわりとなろう。

主がこの世にあればこそ主の為に命も捨てるのだ。

この大膳もすぐさま出家して主君の御菩提を弔いたいがお許しが無くて
どうしようも無いのだ」と涙にむせんだ。

郎党も仕方がないと諦め「皆で髪を剃り主の御坊の御弟子となって、後は
ねんごろに弔います。御心易く最後のご用意を」と申した。

熊谷はことの他これを喜び、すぐに行水をして仏前に向かって礼をし客殿
の前に畳を裏返して重ね、その上で水盃を取り交わして、三方に乗せた
脇差を取り、西に向かって腹を十文字に切って、首をのべて討たせた。

松田も日頃から深い付き合いであったので、涙にむせびつつ御坊に頼み
百箇日までの弔いのように勤めてもらった。

(聚楽物語)

秀次事件に連座した熊谷大膳の最後について




217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 10:55:59.06 ID:9Cd7M8E5
小姓の自殺競争も秀次だったっけ
人徳あったのかなあ

藤原惺窩と関白秀次

2013年03月22日 19:51

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 18:06:24.16 ID:Buhd4xQf
藤原惺窩は関白秀次の召しに応じて、五山の僧侶と同じく詩を相国寺に賦した。
そして惺窩は他日にまた召されたが、病気を理由にこれを辞した。

惺窩が弟子に言うには「君子には君子のなかま、小人には小人のなかまがある。
なかまでもないのに交われば最後まで相容れない。

余が秀次に交われば、ただ最後まで心が合わないのみならず、後に必ずや
悔やんでも手遅れなことになるだろう。余は再び見えることを欲しない」
ということだった。

秀次はこれを聞いて心中に恨みを抱いた。惺窩は免れざることを懼れて、
避けて肥前名護屋へと赴いた。

――『先哲叢談』




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 20:22:00.90 ID:J/+0MHyH
どいつもこいつも秀次がいったい何したってんだよ(´;ω;`)


羽柴秀次公の父、武蔵守(三好吉房)殿は

2011年12月16日 22:01

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/15(木) 22:44:00.33 ID:k1M5pya0
関羽といえば、元和年間に刊行されたと言われる笑話集
「戯言養気集」にこんなのが

羽柴秀次公の父、武蔵守(三好吉房)殿は、髭に一段と自信があった。
十人ほどが髭を見にきて「なんと見事なお髭でしょう。日本ではとうてい見つかりません。
きっと唐物でございましょう」といったところ、大変ご満悦であった。
皆が帰った後、武蔵守はその中で特に仲のよいものを呼び戻し、
「この髭は実は日本のものなのだ、ただし他言無用だぞ」
とねんごろに語ったそうである。




377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/15(木) 22:50:10.18 ID:LYjS0cQR
>>376
これは江戸初期の、安楽庵策伝師匠の醒睡笑にも載ってるな。
どうもどう時代から、よほど有名な笑い話だったらしいw

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/15(木) 22:54:32.97 ID:k1M5pya0
ついでにこれが載ってた本によると
「醒睡笑」では三好吉房に遠慮してか「大名」とだけのってて
「軽口福おかし」では宗祇の逸話になってるとか

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 00:25:05.34 ID:VHtBRGng
弥助さんは秀次にまで「うちの父は頼りなくて…」と言われてるぐらいの人だからなあ

長久手の戦いの秀次勢

2011年11月22日 22:01

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/21(月) 23:51:27.71 ID:nDKbrrqW
長久手の戦いの秀次勢

御前8時頃、秀次が三河に向かっていると、後ろから7・800人程の部隊が不意に現れた
秀次「あれは何だろう」
側近「何でしょう」
そんな事を言っている内に、新たな部隊が出てきて4キロまで近づくと、穂富という家臣が
「あれらは何らかの意図を持っている部隊です。覚悟してください」
そんな事を言っている内に、また新たに4・5つの部隊が現れ、先の二隊に合流するし、
たちまち一塊になると1キロまでそのまま秀次隊に押し寄せ、後方の小荷駄を蹴散らし始めた
そこで車輪と永楽銭の旗を見て、徳川と織田勢と気が付き、恐慌状態に陥り壊乱した

いや、秀次勢
あんたらやっぱりダメダメだわ




116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/21(月) 23:58:17.47 ID:EKvj8+pz
って、いろいろあるわなぁ。

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/22(火) 00:04:51.13 ID:TTJQ2Q0v
秀次隊で冷静だったの長谷川秀一ぐらいだな

しばらく徳川隊としっかり戦ってから先行してる堀秀政に連絡入れて撤退

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/22(火) 00:12:23.64 ID:v0VWk4dr
冷静にほっぽらかしてトンズラこいた笹の才蔵さん辺りもか?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/22(火) 00:15:24.22 ID:XJMdxzY5
書き手によって全然違うw

武功の訴訟

2011年11月09日 22:01

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 21:44:30.91 ID:eqfgyOin
坂井右近政尚の子、久蔵は姉川の戦いで討ち死にしたが、三井角右衛門という者と生瀬平右衛門という者が
「自分が久蔵の首を取った」と主張していた。

のちに二人は、ともに豊臣秀次に仕えて顔を合わせる事になったが、互いの主張を譲らず訴訟となり、
結果「三井がウソを言っている」と判定され、三井は牢に押し込められ、罰を待つ身となった。

なおも三井は獄中から主張した。
「今一度、詮議を!命を惜しむのではない、『他人の功名を盗んだ』と恥辱を受けるのが我慢ならんのだ!
同じ戦に出た、浅見藤右衛門なら実否を語れよう。浅見を呼んで下され!!」

「三井め、いよいよ惑乱したか。」
人々が三井を罵るのも無理は無く、浅見は生瀬の旧友であり、三井とはロクな付き合いも無かった。

ともかく三井の主張は通り、秀次臨席のもと、聚楽第の広間に呼ばれた浅見は証言を求められた。
「拙者は、生瀬とは年来の知人、三井とは交際も無し。その二人の詮議に関われば、世人に何と言われるか。
証人は、他の者に仰せつけ下され。」

「仲良からぬ三井の虚妄について語るに躊躇あるは分かるが、証人として呼ばれたからは、早く申せ。」
関白秀次直々の命に、浅見は重い口を開いた。

「されば・・・坂井久蔵が首は、三井が取りたるに相違無く、かの戦において、その働き比類する者少なし。
生瀬の主張は、何かの間違いでしょう。」

一同は思わぬ証言に驚き、すぐに三井を解放した。生瀬は秀次の寵臣だったので、罪に問われなかった。
(常山紀談)




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 22:31:32.30 ID:p7kLBXjY
その後、生瀬さんと浅見さんの仲はどうなったのか気になる

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 22:49:38.79 ID:Wqk3b/4+
生瀬は秀次の寵臣だったので、罪に問われなかった。

何この後味の悪さ

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 23:12:18.39 ID:I3CdmeiH
>>440
でも寵臣ってことは連座必至じゃね?

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 01:16:33.43 ID:pKCZLA+Z
寵臣に限らず三人とも連座で死んでそうで怖いわw

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 07:44:14.61 ID:239SAsSc
寵臣と言うことは後の秀次切腹の時はお供したんかな

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 10:06:09.04 ID:TdKyJ+ru
いい話?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 10:31:51.51 ID:aLupD/gf
浅見さんのいい話って言えるんじゃないの?
後味の悪さはあるが

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 16:03:28.84 ID:L+jmBk4x
生瀬は他人の手柄横取りしようとして、しかも本当に手柄立てた奴を
殺そうとしてるのにお咎めなしとかwww
俺が秀次ならその場で手打ちにするわ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 18:42:32.88 ID:7oDi95vT
まあ本当に坂井によく似た人を討ち取って勘違いしたのかも知れない。
でも当時重臣の子とはいえ、まだ坂井は年恰好の似た小姓がいる身分ではなかったかな?

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 18:51:10.33 ID:UhbLlTKg
こういう奸臣を重用したから秀次は滅ぼされた・・・的な後世の作り話の気もしないではない。

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 19:01:46.58 ID:232FKQjI
あー、この坂井ってセンゴクでスーパーサイヤ人覚醒のきっかけのクリリンみたいな役もらってた奴か

しかしこれだけ後になって名指しされるくらいに価値のある首だったら記録とか残ってそうなもんだがな

豊臣秀次は武具の好みに拘りのある男であった

2009年12月20日 00:01

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 19:53:38 ID:q1nN+eV0
豊臣秀次は武具の好みに拘りのある男であった。

金の御幣のまといと言えば、柴田勝家のそれが有名であったが、「あれは大変見事である。
あれにすべき。」と、御幣をまといとした。

甲冑は、「様々あるが、日根野弘就の唐冠の形のものほど見事な物は無い。」と、
これを所望した。日野根、これを拒みがたく献上したが、この時

「これは我が家に秘蔵の甲冑ではございますが、貴き命令により献上仕ります。
ただしこの甲冑は今まで、押し付け(鎧の後部、背中の部分)を見せた事の無い鎧であります。
この意味をどうかお忘れないように。」

そう、念を押した。

その後、木村常陸介の鳥毛の羽織を所望し、これを陣羽織とし、指物は金の棒とした。

さて、天正十二年四月、小牧長久手の戦いにおいて秀次は三河中入りの大将として、
例のまとい指物甲冑羽織にて出陣した。その後の大敗、皆知るところであるが、
この折、唐冠の冑鳥毛の羽織を着ながら甚だ見苦しい有様であったと、人々に言いそやされた。

秀次はこれを大変に恥じ、自分が任を務められなかった事を悔い、この時より、鷹狩り狩猟の時は
勿論の事、詩歌の会、酒宴、遊山のような時であっても供の者に必ず具足箱を持たせ、
その行動も剛強をもっぱらにしたのだという。

が、このように武張った事が後に、殺生関白の汚名に繋がる事にもなる。

秀次の、その思いと噛みあわぬ結果、の話である。






秀次のちょっとカッコ悪い話

2009年12月08日 00:02

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 20:36:43 ID:r5SiJP7g
秀次のちょっとカッコ悪い話

小田原征伐の時の某お公家さんの日記
4月●日
秀長経由で秀吉からの戦況報告がきた。3月末に孫七郎(秀次)が力攻めで山中城を攻め落としたとか。珍重珍重。

4月◇日
実は秀次も配下に大損害を出したという噂じゃw
↓噂の出所?
某お寺さんの日記
4月●日
秀次が山中城落としたらしいけど味方もいっぱい討死したとかwww

秀次って小田原の頃から人気なかったのだろうか・・・




872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 21:38:32 ID:Z8LQaSAg
落とせなかった治部よりいいじゃない。


873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 22:57:56 ID:EzI7DShh
公家や寺社からすれば、秀吉のコネだけで昇進する若造に好意をもつはずがないからな・・

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 23:04:42 ID:P+BDU6oc
そもそも公家は武家自体にあんまいい感情持ってないじゃない

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 23:10:07 ID:aOy6JAXf
公家が血筋のコネ否定したんじゃ生きてけないから
秀吉も込みで嫌いだったんだろうね。

秀次処分、それから

2009年12月07日 00:04

918 名前:1/5[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:24:11 ID:2f3LoAlx
秀次(と蜂須賀・ねね?)のちょっと良い話 生存end  
本を書いた著者がこの事に詳しい方から加筆してもらった様です。逸話と新説がまじってると思います。
秀次は高野山に追われ切腹させられたと言われている。
しかしそれは表向きの事で、事実は秀次は切腹したと見せかけて阿波に救出され
丹生氏を名乗って岩脇の政所(後の庄屋)になった。秀次の娘重子は、阿波藩主2代目
蜂須賀忠英の正室(名は繁)になって三代藩主光隆を生んだ。
秀次の子孫丹生氏は幕末まで代々庄屋を勤め現代まで存続している

 秀次救出は秀吉正室北政所と蜂須賀家政によって極秘で行われたが、秀次・北政所・家政は
血縁・姻族で数代にわたる相互扶助など、強い絆で結ばれていた。
蜂須賀家政の生母マツが北畠具教の側室であった頃、具教の正室に殺されそうになった時
マツを助けて匿ったのがマツの叔父で秀次の父三輪(三好)吉房であった。
やがてマツは蜂須賀正勝の正室になり、家政を生んだ。
秀次は吉房と秀吉の姉智(瑞龍院日敬)との間に生まれ、北政所の甥に当たる
そして秀頼が生まれ秀吉は関白を秀次に譲った事を後悔し、秀次は悩む
こうした時期に、秀吉子飼の武将達と側近官僚との間で対立が厳しくなっていた。
中でも武将派の宿将蜂須賀家政と官僚派の首謀石田三成との間には人間的反目があった。
朝鮮出兵によって武将達が出陣させられた後、石田三成以下五奉行を中心とする若手官僚派は
秀吉没後を睨んで、自分達が実権を握りやすい幼君秀頼を担ぐため、淀君・大野治長と結託した



922 名前:2/5[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:30:39 ID:2f3LoAlx
秀吉・北政所血縁者のうち、弟秀長・秀次の弟秀勝・秀保の3名は1591年の5年以内に次々死亡している
北政所の甥秀秋は小早川家に養子に、淀君や官僚派にとって最大の強敵秀次を倒すため奸策を続けた。
秀次は官僚派包囲網によって、秀吉との間をしだいに隔たれていった。
謀略と讒言によってあらゆる悪評が立てられ、あらぬい悪事の嫌疑がかけられ、しかも弁明の機会は与えられなかった。
官僚派が不得意な合戦でなく謀略で天下を取ろうというのであるからその悪(辛束)さは凄まじいものであった←漢字ワカラナカッタ
秀次が頼みとする武将達は朝鮮での悪戦と領内の疲弊に苦しんでいて、孤立無援の中で秀次は高野山に追放され、切腹命令が出された。
 その直前まで、叔母北政所を母と慕う秀次は京都○楽第にあり、秀吉の側室16人中淀君を除く全ては
伏見城において北政所と同居していた。淀君だけは秀頼とともに官僚派の本拠大坂城にあった。
秀頼の父は秀吉でなく大野治長の疑いがあり、関ヶ原で豊臣子飼・豊臣恩顧の大名・秀秋が寝返った動向の全ては
「秀頼は秀吉の子ではない」と知っての北政所の指令によるものだった。
細川・三好両氏が阿波(平島)公方を庇護してきた。家政も阿波に就封するとすぐ
阿波公方の阿波国退去を慰留した。家康をして「阿波の狸」と警戒させた家政が秀次を救出して
自領にかくまうには風雲を望む下心がなかったはずはないだろう。
 秀吉・秀次について書かれた史書は数多く、「太閤記」だけでも四、五にとどまらない。


923 名前:3/5[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:32:55 ID:2f3LoAlx
それらの中の秀次切腹の記事のほとんどは、官僚派の公式発表のままに書かれている。
しかし「川角太閤記」は少し趣が違う、特に秀次切腹については秀次の傘持ち吉若(改名して服部吉兵衛)
と長年親交のあった筆者が吉兵衛から詳しく聞いて書いている。
吉兵衛は秀次、実は身代わりの切腹のあと自分も切腹しようとしたが押しとどめられて生存し
別の大名に召し仕えられた。その太閤記に書かれた切腹の場面はこうである。
まず秀次の小姓三人が切腹し刀法にすぐれた秀次が解釈した後、秀次に大恩のあった僧西堂玄隆が、
頭を丸めた秀次ち向かい合って着座した。2人で掛声をかけ、玄隆が切腹した。吉兵衛が秀次の愛刀
「波泳兼光」で玄隆を介錯したが、一刀目は誤って肩に切り付け、玄隆が床机に倒れこんだ。
二刀目も誤って頭に切り込んだ。秀次が「よう心を鎮めてせい!」と励まし三刀目は成功し
秀次の近臣篠部淡路守が、その首を桶に入れて福島正則・池田伊代守両検死役に渡した。
この両人は挨拶して『後小姓たちを御介錯なさった時は、検死役として確認しました。
関白様御切腹の時は、私ども二人は少しも頭をあげておりません。その上涙がとめどなく溢れ何も見ておりません」と言った。
その後淡路守が切腹したのに続いて、吉兵衛が切腹しようとしたが検死役2人に押しとどめられてしまった。
 福島・池田両人は翌日夜には伏見城に帰り着き、秀吉の前に出ている。詰蓋された首桶を差し出して
『秀次公の御首はどう致しましょうか』と伺った。秀吉はこれに対して返事は与えず
『木食上人はあえなくも切腹させ侍るなよ』と言って涙を流すばかりであった。
高野山には興山上人と称えられ、秀吉、秀次と親しかった木食上人がいたのである。
その上人が秀次を助けてくれると期待していたのにと、嘆いて見せたのは秀吉一流の芝居で、結局首実験は行われずじまいであった。
こうして北政所と蜂須賀家政による秀次救出策戦は、秀吉・福島・池田・木食上人たちの暗黙の了解による行動
肚芸によって成功し、秀次を蜂須賀領の阿波国内で生き長らえさせたのである。


924 名前:4/5[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:35:13 ID:2f3LoAlx
阿波に救出された秀次は、高野山丹生神社神宮の一族というふれこみで五人の家来と
別に救出されていた側室池田信輝の長女と共に、須賀郡岩脇村政所としておちついた。
世を忍ぶ名は与兵衛で、蜂須賀家政が全面的に庇護した。
蜂須賀領内では武士、領民すべて家格身分が細かく分けられ、それぞれに家役、賃祖が定められていた。
もと左大臣、関白で藩主の主筋の秀次に、不敬にならず将来にまで秘密が漏れない身分をつけるのに苦慮した。
その結果異例の「身居(家格・身分)なし」とした。身居なしとは郡奉行どころか家老の支配さえ受けない事であった
実際には内々で藩主の最高賓客待遇であった。
 初代政所与兵衛こと秀次は家政の格別な恩顧筋であり、二代藩主忠英の岳父である。
二代目政所平十朗は藩主の義兄になる。この二代の間は蜂須賀家の一族として生活の一切を蜂須賀が保障した。
平十朗の子供たちが成長しかかった頃、将来自立できるようにと田畠を持たせた。
幕府の命令で全体的に検知が行われて「検知帳」が作られたのが1603年~04年である
それが岩脇村に限って1634年で三十年遅れている。
土地は売買が許されず、開墾して検地を受けた物しか名義人になれない制度の中で
年貢で生活できるほどの土地を新しく持たせるため、名義人を変えた検知帳を新しく作ったもので
それは藩主の命令でしかできないことであった。
特別に作られたこの検地帳に平十朗名義の土地は、屋敷地と土蔵敷地合計二反六畝余があって田畠はない
従って収入はない。一二歳の子供とその弟は合計三町六反余の田畠があり、年貢で生活ができる。
ここに「秀次と平十朗の二代は蜂須賀家が丸抱え、以後は自立」とした方針が確認できる。
しかも帳簿の平十朗の部分は最上級の敬語を使って書かれていることも異例である。


925 名前:5/5[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:36:57 ID:2f3LoAlx
秀次の子は、平十朗の後1610年に娘重子が生まれた。重子は家政の子初代藩主至鎮正室の
実家小笠原忠脩家で繁姫として養育されたが忠脩は大坂の役で討死した
繁姫は忠脩の弟忠真の養女となり、寛永6年二十歳で蜂須賀2代藩主忠英に嫁ぎ
3代藩主光隆を生んだ。
~重子時代の乳母豊について付記しておきたい~
岩脇の隣古庄村の岡本助兵衛の娘豊は、家老牛田監物の側室となり、男児小伝次を生んだ。
まもなく秀次の丹生家に重子が生まれたので、この豊が乳母として召しだされた。
助兵衛の本姓湯浅氏は、後醍醐天皇の昔大塔宮護良親王の乳母を出した家柄であることを、
監物を通じて知った家政の推挙によるものであった。
前述したとおり丹生家は身居のつかない特別の家柄として、夫役御免で労役義務免除・毎年の藩主謁見
須賀川での漁業。苗字帯刀などの数々の特権を与えられてきた。
室町将軍直系の阿波公方でさえ身居は『浪人』であった。
丹生家は秀次来国以来二百五十年、九代目になっての天保一四年に初めて浪人の身居がつけられ、御奉公の支配下に入る
なお、丹生家五代目作之丞の二男が西玄隆を名乗って分家独立し、家老長谷川近江の用心になった。
西玄隆を名乗ったのは、高野山で秀次の身代わりとなって切腹した西堂玄隆に感謝し、永くその名を伝える為であった。


926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 15:42:45 ID:2f3LoAlx
以上です、最近の三成評価に覆し追い打ちをかける内容になっていますね。
この著者があった方(名前は伏せますが)は阿波の郷土史とかから探したっぽいですね。
著書の方は三好(阿波)一族を研究されてる人ですがまさか秀次と交差するとはね~
地元でないとこういう細かいのはのは解りませんよね。
蜂須賀家とねねの株が上がるのは解るとして、福島正則の株がこう言う形で上がるのは珍しいですねw
秀次ファンの方には朗報?なんでしょうかね…生きていたら良いですねー!





927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 16:53:00 ID:dPNhTZig
大作乙でした。
事の真偽はともかく、蜂須賀藩に実際に政所与兵衛、平十朗と言う存在がいたとすれば、
いろいろ伝奇的な想像力をかきたてますな。

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 17:47:33 ID:WlENEcz8
大作おつです。
秀次生存エンドとは新しい。秀次も三成も好きな私としては三成が悪役なのが悲しくもありますが
まぁ、家康と並んで武断派から頼りにされていたらしいという話は聞いたことあるので他にも逸話あると面白いですね。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 18:28:12 ID:O1yWnnv7
あれだけ秀次の縁者に酷な処置をした太閤が秀次を生かしておくとは思えないね
でも面白い異説だと思います

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 18:35:37 ID:epUd1+L0
乙でした 面白かったよ
>>929
秀次妻子のひどい扱いはカムフラージュだったのだよ(AA略

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 21:30:07 ID:HH3ABR1c
>>929
縁者に酷な処置をして多少溜飲が下がり、落ち着いて考えてみたら急に憐憫の情がわいてきたとか

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 21:38:35 ID:5KB65IlT
> 最近の三成評価に覆し追い打ちをかける内容になっていますね。

というかかなり古臭いタイプの話だとおもいますよ。

徳川についた豊臣恩顧の大名たちの言い訳になりそうな
筋立てを並べているだけでしょう。
豊臣家を裏切った大名たちとしては、石田三成や大野治長が奸臣で、
秀頼が秀吉の子ではなく、さらに北政所のお墨付き。


むしろ北政所が関ヶ原西軍に近かった、とかいう話のほうが興味深い。