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豊国大明神祭礼「風流踊り」の怪異

2021年12月15日 16:49

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/15(水) 16:18:55.11 ID:9XAdt7ZK
西垣源五左衛門浄観筆記」から豊国大明神祭礼「風流踊り」の怪異

慶長九年(1604年)八月十五日、京都全体総出で太閤秀吉の七回忌の豊国大明神臨時祭礼(八月十二日から八月十八日)のメインイベントである風流踊りが行われた。
踊りには上京、下京の町組から一組約百人の集団がくりだし、組を表す大団扇を掲げ、それぞれ贅を凝らした衣装で着飾り、
豊国神社の社頭で踊り狂った後、禁裏へとくり込んだ。また桟敷も町のあちこちに設けられた。
午の刻、群衆はいずくからともなく現れた風流踊りの一団を見て思わず粛然となった。
一団の女たちは辻ヶ花(桃山時代に流行し姿を消した絞り染め、幻の染めと呼ばれる)や縫い絞り小袖をまとい、男たちは上布でつくった小紋帷子を着ていたが
踊りには鳴り物がつかず、みな死人のように蒼ざめた顔をしていた。
かれらは群衆に見守られながら、豊国神社の大石垣の中に、静かに消えていった。
「人々消えしあと、群衆口々にあれは(秀次)関白御家の人と騒げり。
みな消えし大石のほとりに、女人被衣(かつぎ)とせし金襴落ちたり。
この被衣のちに洛中の名刹に蔵され、名物裂となれり。」


浄観筆記」について
時代小説家、澤田ふじ子氏の「染織草紙」によれば(この話も同書の孫引き)、
江戸中期の宝暦年間に近江小室藩、京都屋敷の用人を勤めた西垣源五左衛門(法名を浄観)による、京都の市井の話を書き留めたもので、
近江小室藩が藩祖・小堀遠州の遺風を受けてか風流な人物を輩出したためか、源五左衛門の記す内容も芸事に関することが多いのだとか。
なお資料としては未紹介であるらしく(少なくとも1984年時点では)、「浄観筆記」で検索してもほとんどが澤田ふじこ氏関連でしか出ず、どこに所蔵されてるかはわからなかった。



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黒川道祐「雍州府志 土産の部」から将棋盤について

2021年12月12日 16:34

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 19:40:07.66 ID:rA3d6hct
黒川道祐雍州府志 土産の部」から将棋盤について

将棋盤
二条東あるいは京極に榧(かや)の木をもってこれを造る。馬(駒)もまたしかり。(中略)
その文字にいたりてはすなわち筆法に堪えるの人をえらびて馬の名を記す。
近世に用いる所の馬、多くは水無瀬家の筆跡あり。
はじめ水無瀬兼成卿(三条西実枝(実澄)の弟)、男子なし。
高倉藤大納言永家卿の子を養いて親具朝臣と号す。
時に兼成、実子を産み、成長ののち氏成と号す。
ここにおいて親具、家督を辞し剃髪し一斎と号す。
すこぶる能書の名あり。豊臣秀次公、一斎をして将棋の馬の名を書かしむ。
これ水無瀬家の馬の名を書すの始まりなり。
およそ将棋、小将棋、中将棋、大将棋、大大将棋、摩訶大将棋の品あり。
その事に堪える者は家領あり。なお碁取りと称するがごとし。
倭俗、将棋の戯をなすに「指す」という。指をもって馬を点ずるの謂なり。

今でも将棋の書体に「水無瀬」というものがあり、関西将棋会館には「水無瀬の間」という対局室がありますが、秀次が選ばなければ別の名前がついていたかも。
(水無瀬兼成が水無瀬家で駒に書いた初めという説もありますが)
関西将棋会館移転のニュースを見て思い出したので。



豊臣秀次の切腹

2021年09月06日 17:11

16 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/09/06(月) 14:57:33.61 ID:rIgZ8UGP
文禄四年、秀次事件の勃発により、秀吉の嫌疑を受けた豊臣秀次は高野山に登り、法体にならせ給い、道意居士と
申された。供奉の人々もみな髻を切って、偏に後世を祈り、上使を今や今やと待っている所に、
福島左衛門大夫(正則)、福原左馬助(長堯)、池田伊予守(秀雄)を大将として、都合一万余騎が、
七月十三日の申の刻に伏見を立ち、十四日の暮れ方に高野山へ到着した。

三人の上使は上人の庵室に参ったが、そのころ入道殿(秀次)は大師の御廟所に詣でようと奥の院に
居られ、木喰上人よりこの旨が伝えられると、すぐに下向され三人の上使と対面された。

左衛門大夫は畏まって、御姿がすっかり変わられたのを見て涙を流したが、これを入道殿はご覧になって
「いかに汝等は、この入道の討手に来たのだな。この法師一人を討つために、事々しく振る舞うものだ」
と仰せになると、池田左馬助畏まって「さん候。御介錯仕れとの上意に候。」と申した。
これを聞くと秀次は

「さては我が首をお前が討つつもりか。いかなる剣を持っているのか。入道も腹切れば、その首を
討たせるためにこのように太刀を持っているぞ。汝等に見せよう。」と言って、三尺五寸ある
金作りの御佩刀をするりと抜き、「これを見よ」と仰せになった。
これは池田左馬助が若輩でありながら推参を申すと思われ、重ねて物申せば討って捨てようとの
ご所存のように見えた。
秀次公の三人の小姓衆は、御気色を見奉り、『上使たちが少しでも動くようなら、中々秀次公の
御手を煩わせるようなことはしない』と、互いに目と目を見合わせて、刀の柄に手を掛けて控える
その形勢は、いかなる天魔・鬼神も退くように見えた。

入道殿は御佩刀を鞘に収め、「いかに汝等、入道がこの時に至るまで、命を惜しんでいると、
臆しているように思っているだろう。これまでの路において、如何にもなるべしと思ってはいたが、
上意を待たずに相果てれば、『やはり身に誤りがあったからこそ切腹したのだ』と、それに連座して
故なき者共が多く失われる事の不憫さに、このように長らえている。

しかし、今は最後の用意をしよう。私は故なき讒言によって相果てるのであるが、仕えている者共は
一人も罪ある者は居ない。この事を秀吉公の御前に宜しく申し上げ、この入道の供養として、命を助け
得させよ。面々、頼むぞ。」
と宣われたのは、有難き御心底であると一同感じ入った。

それより座を立たれ奥に入られたが、ここで木喰上人を始め一山の衆徒会合して、三人の上使に向かい
「当山七百余年以来、この山に登った人の命を取ったこと、更に無し。一旦この事を秀吉公に言上し、
御願い申し上げる。」と、大衆一同が申したが、上使の三人はこれを聞くと
「そういう事ではあるのだろうが、とても叶うまじき事である。」と再三断り、衆徒たちと問答となった。
衆徒の意見が止まらない中、福島正則が進み出て言った

「衆徒の評議、尤も殊勝であると私も思う。さりながらこれ以上時間がかかれば我々も秀吉公の御勘気を
蒙り、切腹しなければならなくなるだろう。そなたたちが是非にも言上すべきと思慮しているのであれば、
まずこのように申している私を、各々の手にかけて殺すべし。その後は心次第にせよ。」
そう、膝を立てて申し直された。

17 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/09/06(月) 14:58:17.28 ID:rIgZ8UGP
その夜はこの評議に時移った。翌日の巳の刻頃(午前十時頃)、入道殿は付き従っていた人々を
召されて、「汝等これまで来たる志、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、五人、三人が
最後の供をするのも前世の宿縁なのだろう。」と、御涙を浮かべられ、三人の小姓に対し
「どうしても若者であるから、最後の程も心許ない。その上私が腹を切ったと聞けば
雑兵共が入り乱れ、事騒がしく見苦しい状況になるだろう。」

そう言って、先ず山本主殿に國吉の脇差を下され、「これにて腹切れ」と仰せになると、主殿承り
「私は御後にこそと思っていましたが、御先へ参り、死出の山、三途にて
倶生神(が生まれた時から、その左右の肩の上にあってその人の善悪の所行を記録するという二神)に
路を清めさせましょう。」と、にっこりと笑い戯れた様子は、悠々とした態度に見えた。そして
かの脇差を推し頂き、西に向かって十念して、腹十文字に掻き切って、五臓をつまみだした所で、
秀次公が御手にかけて討たれた。この年で十九歳であった。

次に岡三十郎を召して、「汝もこれにて腹切れ」と、原藤四郎の九寸八分あるものを下された。
「承り候。」と、これも十九歳であったが、さも神妙に切腹すると、また御手にかけられ討たれた。

三番目は不破万作であった。これにしのぎ藤四郎を下され、「汝も我が手にかかれ。」と仰せになると、
「忝なし。」と、御脇差を頂戴した。生年十七歳。当時、日本に隠れ無き美少年であり、雪に見紛うほどの
白き肌をおし肌脱ぎ、初花が漸くほころぶ風情であるのを、嵐に吹き散らされる気色にて、弓手の乳の上に
突き立て、馬手の細腰まで曳き下げたのをご覧になり、「いみじくも仕りたり。」と太刀を上げると、
首は前に落ちた。

誠に彼等を人手にはかけないと思し召す、その御寵愛の程こそ浅からぬものであった。

そして入道殿は立西堂を召して「その方は出家であるのだから、誰が咎めるだろうか。急ぎ都に上り、
我が後世を弔うように。」と仰せに成られたが、「これまで供奉仕り、只今暇を給わって都に上っても、
一体何の楽しみがあるでしょうか。私は厚恩深き者ですから、出家であっても遁れられないでしょう。
僅かに命を永らえようとして都まで上がり、人手にかかるなど、思いもよりません。」と申し切って
居られた。この僧は博学多才にして、和漢の書に明るく、当檀那の辯を持っていたため、秀次公の御前を
去らず伺候して、酒宴遊興の伽僧となられ、最後の供まで致されたのは、他生の縁であったのだろう。

さて、篠部淡路守を召されて、
「この度、跡を慕いここまで参ったその志は、生々世々報じがたい。汝はどうか、私の介錯をした後
その供をせよ。」と仰せになった。淡路守は畏まって、
「今度、御供を仕りたいと思っている者がいかばかりも有る中に、私が武運に叶い、御最後の御供を
申すのみならず、御介錯まで仰せ付けられたことは。一生の望み、何事かこれに過ぎるでしょうか。」
と、大いに悦んだ。

これを見て入道殿は心地よさげに笑われ、その後両眼を塞ぎ、「迷悟三界誠悟十方空」と観念あって、
「では、腰の物を」と仰せになった。この時、篠部は三尺三寸の正宗の中巻きしたものを差し上げた。
秀次公はこれを右手に取り、左手にて胸元を繰り下げ、弓手の脇に突き立て、馬手へキッと引き廻し、
御腰骨に少し懸ると見えた所で、篠部淡路守が立ち廻ろうとしたが。「暫く待て」と宣ってまた取り直し、
胸先より押し下げられた所で、御首を討ち奉った。惜しいかな、御年三十一を一期として、南山千秋の露と
消え給わった。哀れと言うにも余りある。

立西堂は御遺骸を治め奉って、これも供を致した。篠部淡路守は関白殿の御遺骸を拝し奉って後、
三人の検使の所に向かい、「その身不詳に候へども、この度慕い参った恩分として、介錯を仰せ付けられた
事は、誠に弓矢取っての面目と存じます。」と言うやいなや、一尺三寸の平作の脇差を太腹に二刀差したが、
切っ先が五寸ばかり後ろまで突き通し、さらに取り直し、首に押し当てて左右の手をかけて前にふつと
押し落とすと、首は膝に抱かれ、骸は上に重なった。見る人目を驚かし、
「天晴大剛の者かな。腹を切る者は世に多いが、このような有り様は伝えて聞いたこともない。」と
諸人一同に感嘆して感じ入った。

近世軍記

豊臣秀次の切腹について


秀次事件

2020年07月24日 18:30

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/24(金) 01:02:10.41 ID:r3NYavW9
文禄四年、関白豊臣秀次にこの頃御謀反の企てが露見したとの事で、七月八日、関白秀次は
聚楽を退出し高野山へ上り、同十五日、腹を御切りになった。

秀次の若君二人(一、二歳の孩児であった)并びに近習、女房の三十余輩、洛中を引き廻され切り捨てられた。

誠は秀次の逆心は虚言であるのだが、行跡が穏便では無かった故に、治部少(石田三成)の讒言によって
かくの如く成ったのだという。

聚楽城、并びに諸侍の家門は伏見に引き移された。

当代記



是そ摂政関白の家

2020年07月23日 18:17

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 20:58:45.26 ID:bZEQKy47
文禄二年の正月、正親町院崩御の時、諒闇中(天子が、その父母の喪に服する期間)にも拘らず、
関白秀次が鹿狩りをしたことについての落書が有った。

『院の御所 菩提の為の狩なれは 是そ摂政関白の家』

この落書を書いた者は厳重に捜索されたが、その後露見したものの、公家がやったことであったため、
何の沙汰にも及ばなかった。

当代記

摂政関白と「殺生」関白をかけたという落書の話ですね



214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:37:05.25 ID:AxVMh1z5
>>211
当代記の性格上、秀次貶めて秀吉を上げる必然性が薄い気がする

子のなき者はつる葉をも捜し求め

2019年01月24日 08:23

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/24(木) 03:48:09.63 ID:wqDfmpXE
子のなき者はつる葉をも捜し求め


(文禄四年)四月廿三日

太閤様(秀吉)は関白様(秀次)の此度の御嘆き(弟・秀保の死)を気の毒に思し召し様々なことを
仰せられたので、(秀次)は良きついでと思し召して
「脇(側室)に子がありましたが、太閤様がどのように思し召されるだろうかと思い
 御沙汰をしていませんでした」
と申し上げられると、(秀吉は)
「どうして左様のことを隠していたのか。めでたいことで言い分などない」
と仰せられた。

また(秀吉は)ついに北政所様(ねね)にも
「子のなき者はつる葉をも捜し求め養子にするが、幾人御子にしても満足することはないものなので
 (秀次の子について)不満はない」
と仰せられ、北政所様より(秀次の)内儀、大上様(日秀尼)、小少将*に(そのことの)仰せがあった。


――『駒井日記』

* 同一人物かは不明だが、秀次事件で同名の人物が秀次の妻妾として連座している。


「伴内が困っておる」

2018年09月30日 19:43

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 21:46:23.02 ID:SujEa8Yj
伴内と言う者、世に類ない咄の名人にて、豊臣秀次公の御前を離れず、世の中の事を興あるように
取り繕い咄をつかまつる程に、一段と御意良くして、常に秀次公の御前に詰めた。

彼の咄の内、十の内半分は観世又次郎(観世方小鼓打ち)がどれほどうつけた事を言ったか、という
物であったため、秀次公は「それほどうつけ者なのか」と思し召した。

ある時、秀次は観世又次郎を召した。彼は御前に参って謹んで罷りあり、またいつもと同じ様に
伴内も伺候した。秀次公は仰せに成った

「いかに観世、どうして汝は萬に疎く心がうつけているのか?普段伴内の話す内容を聞くと、
大方汝のうつけ話ばかりなのだ。又次郎いかに?」

観世承り「そうですな、伴内と言う者は身体無芸なる奴でありますから、私のような天下道具の名人の
事を申さないと、喋ることが無くなってしまいます。ですので仕方がないと、私は彼をかまい申しません。」

秀次公はこれを聞くと「非常に面白い。伴内返答は如何に!?」と仰せに成ったが、伴内は当惑して赤面し、
何も言えなかった。そこで秀次公は観世又次郎を大なる利発者と感じ、「伴内が困っておる」と、大いに
笑った。これ以降、伴内は観世又次郎の事を語らなくなった。

(義殘後覺)


坂井久蔵の頸

2018年01月28日 16:47

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 10:55:41.38 ID:tXZo+VwF
坂井久蔵(尚恒・織田信長の家臣で高名な勇士)が姉川の合戦で討ち死にした時、彼の頸を
取ったのは、今井角右衛門生瀬半兵衛右衛門の二人だとされていた。

両名ともに、後に豊臣秀次に仕えたのだが、秀次はある時このように奉行たちに命じた
「一人の首を二人で取るというのは不可能である。一人は虚説なのであろう。お前たちはこれを取り調べよ。」

そして詮議の結果、今井角右衛門こそが虚説を語っていたと結論され、刀を没収の上
鷹小屋に押し込められた。さらに侍への見せしめとして、切腹か斬首かと議論されていた
所に、今井が申し上げた

「常のことと違い、武士が他人の骨を盗んで罪科に逢うと言う事は、子孫において屍の上の
恥辱であり、何事がこれに過ぎるでしょうか。
全く命を惜しむということではありませんし、このような証人にするのは気の毒だとも思いますが、
願わくば浅見藤右衛門を召し出され、彼の申す所をお聞き召した上で、御成敗を仰せ付けられるように。」

この浅見は、今井と交流がなく、普段会話をしたこともなかった。
浅見はこの頃安土に居たが、秀次は「彼を召して、いよいよ正しく改め、武義の虚説を
言うものを成敗仕るように。」と命じた。

浅見は安土より呼ばれた。
彼は元々、生瀬とは無二の親友であったため、人々は
「沙汰にも及ばない。今井の非分ということに決まっている。今井は何を血迷って
浅見を証人に呼んだのか。」
専ら、そう取り沙汰した。その夜は浅見の友人たちが集まり、酒宴など行われた。

そして翌日、聚楽の大広間に諸侍集まり、この詮議を聞くべしとそれぞれ固唾をのんだ。
奉行が出仕して浅見を召し出し、篠部淡路守を通して坂井の件を尋ねが、この時奉行たちは

「定めて別の申し様も無いであろうし、今まで言われていた通りであろう。浅見の申し分一通りで
今井の罪科に決まるのだから、速やかにその旨を申し上げるように。」

そう、彼に促した。しかし浅見
「今井は、ここ三十年私と交流のない人物です。対して生瀬は日頃から別して親交のある友人です。
お尋ねのように、有り様に申し上げては、天下に私の外聞を失うことに成ります。これまで
長生きをしてこのようなお尋ねに逢い申す事、迷惑ここに極まるものです。
願わくば他の者を召し出し、よくよくご穿鑿を加えられますように。」

奉行衆はこれを聞くと
「今井と交流のない浅見であるから、今井の非分を申し上げにくいというのは仕方がないだろう。
しかしはるばると安土より呼び寄せ、秀次公も其方の証言を証拠に致すと仰っているのだから、
申し上げるように。」

そう説得したが、浅見はそれでも辞退を押し通した。篠部は一応、この事を秀次に言上すると、
秀次は重ねて証言をするようにと命じた。これに浅見は

「このように進退が極まったことは今までありません。生瀬は多年の友人、今井は多年の不通。
何れに付いて何と申しても、人々の誹謗は逃れがたいでしょう。しかし武義についての御詮議の
事ですから、有り体に申し上げなくては本意無い事ですので、申し上げます。

坂井久蔵の頸は、間違いなく今井が討ち取りました。

比類なき手柄であり、この事は私に限らず、大勢がその場のことについて見聞きしております。
生瀬については多年の友人であり、この件については彼の身を捨てるような事になりますが、
坂井の頸の事について、全く存じよりもありません。これは何かと勘違いをして、あのように
申し上げたのではないでしょうか。」

座中、興を醒まし、言葉もなかった。
しかし「この上は今井別儀あるべからず」と、別途賞せられることとなった。
生瀬は罪科に及ぶべきであった所を、秀次が惜しんで処罰に及ばず、その後に病死したという。
(士談)



512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 12:02:12.10 ID:t0jRki3R
>>511
なんで何十年もたってから言い出すんだw

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 12:33:51.88 ID:oyeAe0TI
昔話を聞くのは若侍のつとめ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 22:19:17.83 ID:+FUSGADB
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1450461.jpg
なおなぜかセンゴクでは坂井久蔵を山崎新平が討ち取って、
親友の仙石秀久がその仇を討つという展開だった模様
1450461.jpg

秀吉の甥としての覚悟

2018年01月11日 19:00

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:36:09.44 ID:cYyfG16o
秀吉の甥としての覚悟


一今日から秀吉の甥としての覚悟をするように。人に慮外の沙汰を下して
 甥としての振る舞いが出来ずとも、みな秀吉の甥と思って崇めようとするのだ
 という覚悟を持つこと。

一これ以後は秀吉がこのようなことはあってはならないと思ったり、不都合だと
 思うことがあっても、(秀次が)この一書を思い出し書き付けて心を改めて
 人にも立派な人と呼ばれるのなら、右のほかに進退のことを取り上げません。

一今年木下助左衛門、同勘解由を(秀次に)つけたところ、両人が討死したのは
 不憫なことでした。両人の者を殺してしまったことに対して(秀吉の)戸惑いを
 考えてくれてもよいのに、一柳市助に津田監物とやらを欲しいと申させましたが
 仮に秀吉がどの者を預けたとしても、今度預けた者も一人も残らず討死させ
 (秀次が)生き残ってしまえば、外聞が悪くなることも分からないのですか。
 申させた者はもちろん、取り次いだ者も無分別の大たわけと思い、市助めを
 手打にしたいとも思ったくらいですが、今まで腹の中に折り込んで遠慮を
 していたので言葉にはしませんでした。
 よくよく分別をして、諸事に嗜み、流石秀吉の甥と呼ばれるようになれば
 何よりの満足であるので、右の一書を心がけて下さい。

一覚悟を改めればどの国でも預けるつもりですが、只今の如く無分別のうつけ者では
 命を助けてやりたいと思っても、秀吉の甥の沙汰で、秀吉が面目を失うことは
 あってはならないのですから、手討にするしかありません。
 人を斬ることは秀吉は嫌いですが、その方を他国に移すのは恥の恥になる
 だけですから、人手には懸けられないことです。

一胸中は誰にもいわなかったのですが、秀吉の代理も出来るだろうと思っていた
 御次(秀勝、秀吉養子、実信長四男)が病身なので、天道が秀吉の名字を残さない
 ようにしているのだろうか、是非に及ばずと悟ったように振る舞っていましたが
 その方が器用に物を申し付け武者を致していると見えるようになり、このように
 覚悟を持たれるのなら、悔やみもありません。
 
右の五箇条の通り、これ以後分別をもって慎むことがなければ、八幡大菩薩に誓って
人手には懸けさせません。委細は善浄房(宮部継潤)、蜂須賀彦右衛門尉(正勝)の
両人にも申し含めておきました。せがれでもあるので、その心得を持つように、以上

(天正十二年)九月廿三日                秀吉(花押)


――『松雲公採集遺編類纂』


秀次の趣向

2017年10月20日 16:31

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 22:36:35.75 ID:5AVF+jbi
関白豊臣秀次が、筑紫において藤原定家の書いた小倉の色紙を手に入れた。
これにより座敷を改め、色紙開きの会を開いた。
千利休を上客として、相伴3人という会であった。

頃は卯月(4月)の二十日あまり。明け方の事であった。
人々、座敷に入ったが。そこには明かりも無く、闇の中に釜の沸く音だけが聞こえ、
いかにも静かな様子であった。

「これは一体どんな御作意であろうか」

その場の人々がそう思っていたその時、利休の後ろの明かり障子が、ほのぼのと明るくなった。
不思議に思い障子を開けると、月の明かりが座敷の内にほのかに入ってきた。
さればとにじり寄って見ると、小倉の色紙がかけ物として飾られていた。その歌は

『時鳥 啼きつる方をながむれば
  ただ有明の月ぞ残れる』

誠におもしろき趣向にて、その時利休をはじめとした人々も、「さても名誉不思議のご趣向かな」と、
同音に感じ入ったという。

(今古雅談)



鷺を持たせて

2017年09月07日 21:57

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 21:30:49.08 ID:LuuX7Y+o
関白秀次の供をして、大島雲八が伏見から大阪へと向かう時、6月のことであったので、生きた鷺を籠に入れて
持たせていた。

案の定、秀次が船の中で、雲八に「鷺を射て参れ」と命じた。
もし射外せば如何かと思ったものの、持ってきた鷺があったので、心やすく射たという。
たとえ射外しても、これを「射たものです」と差し出せば良い、ということであろう。

この大島雲八は名誉の射芸との名を得ており、それゆえにこのような嗜みがあったそうだ。

ただし、心得が悪しければ主人を偽るものとなるのだから、こういうことはよくよく心得を持った上で
行うべきであろう。

(士談)


於萬様は宮部に養育されていた

2017年07月06日 18:40

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 11:00:20.83 ID:shzTRTJ6
 秀吉公の於萬(秀次)様は秀吉公の鳥取陣に供をして当国に来ていて、宮部継潤に養子として預けていた。
宮部の陣所辺山森という要害には、役者も数多く居た。落城後は秀吉公播州へ帰陣して、
於萬様は当城に留まり宮部に養育されていた。
天正十年の春には秀吉公は何を思ったか播州に送り返せと命じられ、
継潤に家老として友田左近右衛門か田中久兵衛(吉政)二人のうち一人を付けろと併せて命じられたので、
田中久兵衛を付けた。
この二人宮部家中では才覚武勇優劣付かない侍で、秀吉公も内々召し抱えたいと考えていて、
特に友田を望んだのだが、継潤が惜しんで出さないと考え両人のうち何れかという形にされた。
案の定友田惜しみ、田中の方を差し出してきた。
後於萬様は播州に帰り、秀吉公は近くに置いて大変可愛がり、次第に成長して元服した。
(因幡民談記)


「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」

2017年03月16日 21:16

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)



672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

秀次妻子の処刑

2017年01月14日 15:43

513 名前:1/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:19:11.80 ID:rE+exn0h
文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次が切腹。
そして8月2日、秀次の若君、上臈、婦人たちを誅すべきとの上使が立ち、いやが上にも悲しみは増した。
検使には石田治部少輔、増田右衛門尉をはじめ、橋より西の片原に、布皮敷いて並び居た。
彼らは若君達を車に乗せ、上臈達を警護して、上京を引き下り、一条二条を引き下り、三条の河原へと懸った。

橋のあたりまで着くと、検使たちが車の前後に立ち「先ず若君達を害し奉れ」と下知した。
青侍・雑兵共が走り寄り、玉のような若君達を車から抱き下ろし、変わり果てた父秀次の首を見せた。

仙千代丸は冷静にこれを見て、「こは何と成らせられるや」と呟き、嗚呼と嘆いた。
その姿に母上たちだけでなく、見物の貴賎男女、警護の武士に至るまで前後を忘れともに涙に咽んだ。
しかし太刀取りの武士は「心弱くては叶うまじ」と目を塞ぎ、心を太刀だけに集中して仙千代丸達を害した。
この時彼らの母上たちは、人目も恥ずかしさも忘れ声を上げた

「どうして私を先に殺さないのか!急ぎ我を殺せ!我を害せよ!」
(こは何とて、我をば先に害せぬぞ。急ぎ我を殺せ我を害せよ)

そう、仙千代丸の死骸に抱きついて伏し嘆いた。
それより夫以下の目録に合わせ、順に座らせた。
一番に上臈、一の台の御局、前大納言殿の息女にて、三十路余りであった。これを今わのすさみとて
『存へて ありつる程を浮世ぞと 思へば残る言の葉もなし』

二番は小上臈、於妻御前であった。三位中将殿の息女にて、16歳になられていた。紫に柳色の薄絹の重ねに
白袴を引き、練貫の一重絹うちかけ、緑の髪を半切り、肩の周りにゆらゆらと振り下げて、秀次の首に三度拝し、
こう詠んだ
 『槿の日 影まつ間の花に置く 露より脆き身をば惜まじ』

三番は、姫君の母上、中納言の局於亀の前であった。摂津小浜の寺の御坊の娘で、歳は33。栄に少し
過ぎていたが、西に向かい「南無極楽世界の教主弥陀仏」と観念し
 『頼みつる 弥陀の教の違わずば 導きたまへ愚かなる身を』

四番には仙千代丸の母上、於和子の前であった。尾張日比野下野守が娘にて、18歳になられていた。
練絹に経帷子を重ね、白綾の袴を着て水晶の数珠を持ち、若君の死骸を抱きつつ、泣きながら大雲院の上人に
十念を授かり、心静かに回向して、こう詠じた
 『後の世を 掛けし縁の栄えなく 跡慕ひ行く死出の山路』

五番には百丸の母上であった。尾張国の住人山口将監の娘。19歳になられていた。
白装束に墨染の衣を掛け、若君の死骸を抱きつつ、紅の房の付いた数珠を持って、これも大雲院の十念を受け心静かに回向して
 『夫や子に 誘はれて行く道なれば 何をか跡に思残さん』

六番には土丸の母上、於ちゃの前であった。美濃国竹中与右衛門が娘にして、18歳。
白装束に墨染めの衣着て、物毎に軽々しい出で立ちであった。かねてから禅の知識に参学し、飛華落葉を観じ、
世理無常を悟って、少しも騒ぐ気色無く、本来無一物の心と
 『現とは 更に思わぬ世の中を 一夜の夢や今覚めぬらん』

七番には十丸の母上於佐子の前であった。北野の松梅院の娘で、19歳になられていた。
白綾に練絹の単衣の重に、白袴を引き、戻の衣を掛け、左には経を持ち右には数珠。西に向かって法華普門品を
心静かに読んで、秀次、若君、そして我が身の菩提を回向して
 『一筋に 大慈大慈の影たのむ こころの月のいかでか曇らん』

八番には於万の方であった。近江国の住人多羅尾彦七が娘。23になられていた。練絹に白袴引き、
紫に秋の花が刺繍された小袖をかけておられた。その頃病中であったので、見た目にもいと悲しく、
心も消え入るように思えた。これも大雲院の十念を受け掌を合わせ
 『何處とも 知らぬ闇路に迷ふ身を 導き給へ南無阿弥陀佛』

九番には、於与免の前であった。尾張国の住人堀田次郎右衛門が娘で、これも白装束に数珠と扇子を持ち添え、
西に向かい十念して
 『説置ける 法の教の路なれば 弧り行くとも迷ふべきかは』

十番に、於阿子の前であった。容姿よりも尚勝る心にて、情け深く聞こえた。毎日法華読誦怠らず、最後にもこの心であった
 『妙なれや 法の蓮の花の縁に 引かれ行く身は頼もしき哉』

514 名前:2/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:20:23.81 ID:rE+exn0h
十一番には於伊満の前であった。出羽最上殿の息女であり、十五歳になられた。東国第一の美人であると
伝え聞かれ、秀次より様々に仰せになり、去る7月上旬に上洛したが、旅の疲れにて未だ見参のない内に、
この難儀が勃発し、淀の方より「いかにもして申し請け参らん」と心を砕かれたため、太閤秀吉も黙し難く、
「命を助け鎌倉に遣わし尼にせよ」と言った。これにより伏見から大至急早馬が出たが、あと一町という所で
処刑された。哀れと言うにも余りある、最後の際、やさしくも
 『つみを切る 弥陀の剣に掛かる身の 何か五つの障あるべき』

十二番には阿世智の前であった。上京の住人秋葉の娘であり、30あまり、月の前、花の宴、事に触れて
歌の名人であったとか。最後の時も先を争ったが、目録どおりとのことで仕方なく、辞世に
 『迷途にして君や待つらん 現とも夢とも分かず面影に立つ
  彌陀たのむ 心の月を知べにて 行けば何地に迷あるべき』

十三番には小少将の前であった。備前国本郷主膳が娘にて、24歳になられた。彼女こそ関白の御装束を
賜った人である。
 『存へば 猶もうき目を三瀬川 渡るを急げ君や待つらん』

十四番には左衛門の後殿であった。岡本某の後室で、38歳であったという。琵琶、琴の名人で、歌の師匠も
されていた。是ぞ今わの気色にて
 『暫くの 浮世の夢の覚め果てて 是ぞまことの仏なりけり』

十五番には右衛門の後殿であった。村瀬何某の妻であったとか。村井善右衛門の娘にて、35歳になられていた。
21歳で父の村瀬と生き別れ、今また重きが上のさよ衣、重ね重ねの憂いの涙。よその袖さえ乾く間もない
 『火の家に 何か心の留まるべき すずしき道にいざやいそがん』

十六番は妙心老尼であった、同坊の普心の妻であったが、夫に先立たれた時も自害しようとしたのを
無理に止めて、尼と成られたのである、最後の供を悦んで
 『先達ちし 人をしるべじ行く路の 迷を照らせ山の端のつき』

十七番は於宮の前であった、これは一の台の娘であり、父は尾張の何某にて13になられた。
母子を寵愛されたこと、ただ畜生の有様であると、太閤は深く嫉み思われたとか、最後の体、おとなしやかに念仏して
『秋といへば まだ色ならぬ裏葉迄 誘ひ行くらん死出の山路』

十八番には於菊の前であった。摂津国伊丹兵庫の娘で、14歳になられていた。大雲院の上人に十念授かり、
心静かに取り直り
 『秋風に 促はれて散る露よりも 脆きいのちを惜しみやはせじ』

十九番には於喝食の前であった、尾張国の住人、坪内右衛門の娘で、15歳であったとか、武士の心で
男子の姿をし、器量類なかったため、稚児の名を付けられた、萌黄に練絹の単衣衣の重ねに白袴を引き、
秀次の首を拝して残る人に向い「急がれよ。三瀬川に待ち連れて参りましょう。」と語りかけ、検使にも
暇乞いをして、西に向かって声高に、こう2,3回吟じた
 『闇路をも 迷わで行かん死出の山 清る心の月をしるべに』

二十番には於松の前であった。右衛門の後殿の娘にて、12歳であったとか。未だ幼く、唐紅に秋の花を
刺繍した薄衣に、練絹をかけ、袴の裾を握りながら、母親の死骸を拝しつつ
 『残るとも 存へ果てん浮世かは 終には越ゆる死出の山路』

二十一番には於佐伊の前であった。別所豊後守の身内の客人、という者の娘で、15の夏の頃初めて見参し、
新枕のあと絶えて召されず、拙き身を恨んでいたが。ある酒宴の折に「君やこじ我や行きなん」と謡ったことで
他に勝って寵愛されるようになった。しかしその後何があったか、事情があり久しく出仕しなかったが、
最後の御後を慕い参られた事こそやさしくも哀れである、法華経を読誦してこれだけを言った
 『末のつゆ 本の雫や消え返り 同じ流れの波のうたかた』

二十二番には於古保の前であった。近江国の住人鯰江権之介が娘にてこれも15の春の頃より寵愛深く、
閨の袖の香浅からず成り染めて、花月の戯れに、後の事は思いもよらなかったであろう。
そしてこの期は大雲院の十念を受け回向して
 『悟れるも 迷いある身も隔てなき 弥陀の教を深くたのまん』

二十三番には於仮名の前であった。越前国より木村常陸守が呼んだ上臈とか。17歳であった。
非常に賢く、浮世を泡のように観念して
 『夢とのみ 思ふが内に幻の 身は消えて行く哀れ世の中』

515 名前:3/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:21:29.42 ID:rE+exn0h
二十四番には於竹の前であった。一条あたりで、ある方の拾った娘であったという。類なき美人にて
昔の如意の妃もこうであったと思われた。仏元来今無く、心又去来の相なしと悟り
 『来りつる方もなければ 行末も死らぬ心の仏とぞなる』

二十五番には於愛の前であった。古川主膳の娘で、23であったとか。法華転読の信者で、草木成仏の心を
 『草も木も 皆仏ぞと聞く時は 愚かなる身も頼もしきかな』

二十六番には於藤の前であった。大原三河守の娘で、京の生まれ。21歳になられていた。
槿花一日の栄、夢幻泡影と観じて、大雲院の十念を受け
 『尋ね行く 仏の御名をしるべなる 路の迷の晴れ渡る空』

二十七番には於牧の前であった、斎藤平兵衛の娘で16歳だとか。これも十念を受け西に向かい手を合わせ
 『急げ唯 御法の船の出でぬ間に 乗遅れなば誰を頼まん』

二十八番には於國の前であった、尾張国大島新左衛門の娘で、22になっていた。肌には白帷子に山吹色の
薄衣の重ねに、練絹に阿字の大梵が書かれているのを掛けて、秀次、若君たちの死骸を拝し、秀次の
首に向かって直られるのを、太刀取が「西に向かれよ」と言うと、「本来東西無し。急ぎ討て」と答え、
そのままに討たれた
 『名計を 暫し此の世に残しつつ 身は帰り行く本の雲水』

二十九番には於杉の前であった。19歳。前年より労気を患い、秀次とも疎遠になっていたため、浮世を恨み、
どうにかして出家したいと願っていたが、叶わずこのような最期を遂げた
 『捨てられし 身にも縁や残るらん 跡慕ひ行く死出の山越』

三十番には於紋といって、御末の人。心静かに回向して
 『一聲に こころの月の雲晴るる 仏の御名を唱へてぞ行く』

三十一番は東といって61歳。中居御末の女房が預かる人であった。夫は75歳で、この3日前に相国寺にて
自害した。

三十二番に於三。末の女房であったとか。

三十三番は津保見。三十四番は於知母であった。

この三十余人の女臈たちをはじめ、午の刻(午前11時頃)から申の刻の終(午後5時頃)までに
朝露となられたのは、彼女たちのことを知る人も知らぬ人も、見る人聞く人ごとに、肝も裂け魂消えて、
涙に暮れぬものはなかった。
秀吉は殊更に、死骸を親類にも返さず、巨大な穴を掘らせて、旃多羅が手にかけてその手足を取って
投げ入れた。その有様、昔玻斯国の瑠璃太子が浄飯王宮を攻め破って、五百の宮女美人を穴埋めにしたという
哀れさも、これにはどうして勝るだろうか、
こうして最期に臨んで、歌を詠まれし風情、万年の後までも、聞くに涙に咽ぶであろう、

色を誅するのは、不義を後にして己の嫉を先にすると、世史に謗って記されているのもこのためである。聖智ある明将のやることではない。
太閤秀吉の強暴さは支那をも動かしたが、慈しみの心が嫉妬に勝つ事を得なかった。婦人や幼い子供を億万殺しても、一体何の益があるのか。
人々は誠に、「御代が短かるべき事ぞ」と申した。

(石田軍記)
秀次家族の処刑についての記述である。



516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 13:12:53.81 ID:QLhwJ8hg
まだ出てなかったんだ、秀次妻子の処刑の模様

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 15:56:12.34 ID:YLjoeKPp
妊娠してたら困るからってここまで殺さんでも…

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 16:48:44.45 ID:tVr6p7UI
手当たり次第に手を出して子を産ませるアホは死んで当然
秀長を見習うべきだったな

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 18:21:08.96 ID:z7jd4P8T
???「城中の女に見境なく手を出して100人以上作ったけど何か?」

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 19:52:46.06 ID:399BbC7j
はいはい、お薬出しておきますねー

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 20:49:57.21 ID:AHLvRmkW
>>514
於伊満の命乞いを淀がしてるのか

豊臣秀次の最期

2017年01月12日 08:39

501 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 19:41:29.26 ID:JXo5ixzE
豊臣秀次は高野山に上り、木喰上人の坊へと案内された。木喰上人は秀次の来訪を大いに驚き、
急ぎ招き入れ「只今の御登山は思いもよらぬことです。」と涙を流した。秀次は何も言わず、
袖を顔に当てて涙にむせんでいたが、
「私はこのような事が起こるとは思いもよらず、世にあった頃、気をつけることもなかった。
今更浅ましいことであるが、今にも伏見より検使がくれば、私は自害する事になるだろう。
そうなった跡の事は、一体誰に頼めばいいだろうか。」
そう、涙ぐんで尋ねた。

「御諚ではありますが、当山の衆徒一同に訴えれば、太閤殿下がどれほど憤り深くあられようと、
どうしてその御命令を承知するでしょうか?」
木喰上人はそう頼もしく答えた。

秀次はそこで法体と成り、道意居士と名乗った。供の者達も皆髻を切って、ひとえに来世を祈り、
上使を今か今かと待っていた所、福島左衛門大夫正則、福原左馬助長堯、池田伊予守景雄を大将として、
都合1万余騎、7月13日の申の刻(午後4時頃)伏見を立ち、14日の暮れ方に高野山に到着した。
3人の上使は、木喰上人の庵室に入った。この時秀次は大師の御廟所に詣でるため、奥院に居たが、
これを知らされ戻り、3人と対面した。

福島正則は畏まり、法体姿に変わった秀次を見て涙を流した。秀次は言った
「汝らは、私を討ちに来たのだな。この法師一人を討とうとして、由々しき振る舞いではないか。」

福原が畏まって申し上げた
「その通りです。御介錯仕れとの上意にて候。」

「さては我が首を討とうと思ったか。しかしお前はいかなる剣を持っているのか?
私も腹を切れば、その首を討たせるために、形のごとく太刀を持っているぞ。さあ、汝たちに
見せてやろう。」

そう言って3尺5寸ある金造の帯刀をするりと抜き、「これを見よ」と言った。
秀次は福原左馬助が若輩であり、推参を申したと思い、重ねて物申せば斬って捨てると考えているようであった。
秀次の3人の小姓は秀次の気色を見て、少しでも動けば、秀次が手にかけるまでもなく自分たちで
斬り捨てるのだと、互いに目と目を合わせて刀の柄に手をかけていた。その有様はいかなる天魔鬼神も退くように思えた。

秀次は刀を鞘に収めると、
「お前たちは私が今まで存命しているのを、さぞや臆したためだと思っているだろう。
私も伏見を出た時に、どうとでも慣れと切腹を思ったが、上意を待たずに切腹すれば
『はやり自身に誤りがあったからこそ自害を急いだのだ』と言われ、これにより責任の無い者たちまで
多く命を失うことになるとの懸念から、今まで生きていたのだ。

今は最期の用意をしよう。故なき讒言によって私はこうなってしまったが、私に仕える者に一人も
罪有る者は居ない。良きように言上し、申し扶けて、私への饗応にしてほしい。
この事、相構えて汝らに、頼むぞ。」
一座の者たちはこれを聞き、有り難き御志と感じ入った。

そうして座を立つと、最後の用意を初めた。しかしここに木喰上人はじめ一山の衆徒が集まり、
3人の上使に対して抗議をした
「当山は七百余年このかた、この山に登った人の命を害したこと、その例ありません。
一旦この旨を太閤殿下に言上していただきたい!」

3人はしかし「そうではあろうが、とても叶うことではない。」と説得した。それでも衆徒の抗議は
止まなかった。ここで福島正則が進み出て
「衆徒の言うこと、尤もである。だがこれ以上時刻を費やせば、お前たちまで太閤殿下の勘気を蒙り、
腹切れと言われるだろう。それでも言上したいと言うなら、先ずここに居る我々3人を衆徒の者達が
手に懸けよ。その後はお前たちの心次第だ。」
そう、膝を立てて言うと、所詮は出家の事ゆえ、上人はじめ一山の衆徒も、力及ばず立ち去った。

その夜はこのような評議に時遷り、漸く曙になると、巳の刻(午前9時頃)に秀次の御最後となり、その有様は非常に神妙に見え聞こえた。
彼は付き従った人々を召して、
「汝らこれまでの志こそ、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、数人が最後の供をするというのも、前世の宿縁というものだろう。」

502 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 19:42:20.88 ID:JXo5ixzE
そう涙を流した。そして3人の小姓たちに
「若き者達だから、最後の程も心もとない。その上自ら腹切ると聞けば、それを妨害しようと雑兵共が
乱れ入って、事騒がしくなるのも見苦しい。」
そう考え、山本主膳に国吉の脇差を与え、「これにて腹切れ」というと、主膳承り、
「私は御介錯仕り、その後にこそと思っていましたが、先に参り死出三途にて、道を清めておきましょう。」
そう言ってニッコリと笑い戯れた姿は優美ですらあった。
彼は脇差を押しいただくと、西に向かい十念して、腹十文字に掻っ切って、五臓を腹から繰り出した所を、
秀次が手にかけて討った。この時19歳。

次に岡三十郎を召して「汝もこれにて腹切るべし」と、厚藤四郎の9寸8分を与えた。
「承り候」とこれも19歳であったが、さも神妙に腹を切り、また秀次が手にかけて討った。

3番目の不破万作には、しのぎ藤四郎を与え、「汝も我が手にかかれ。」というと、「辱し」と脇差を頂戴した。
彼はこの時17歳。日本に隠れなき美少年であり、雪よりも白い肌を押し開き、初花がやや綻ぶ風情なのを、
嵐の風に吹き散らされるように、弓手の乳の上に突き立て、目手の細腰まで引き下げた。
秀次はこれを見て「いみじくも仕りたり!」と太刀を振り上げると、首は前に落ちた。
誠に彼らを人手に掛けたくないと思われた、その寵愛のほどこそ浅からぬものであった。

その後、秀次は僧侶の立西堂を呼んで伝えた
「その方は出家であるから、誰も咎めるものは居ない。ここから急ぎ都に上り、私の後世を弔うように。」
しかし
「これまで供奉仕ったというのに、今更都に上って何の楽しみがあるでしょうか?
私も厚恩深き者ですから、出家であるからと言って逃げることなど出来るでしょうか?
僅かに命を永らえるために都に上り、人手に掛かるなど考えもできません。」そう言い切った。
この僧は博学多才、和漢の書に詳しく当檀那の弁を持っていたのに、秀次の酒宴遊興の伽僧となった事で、
多くの人々から宜しからぬ人物と思われていた。それが最後の供まで仕るのも不思議な事である。

次に秀次は篠部淡路守を召して
「この度私の後を慕い、ここまで参った志、生々世々まで報じ難いものである。汝は特に、私を介錯した後、供をせよ。」

淡路は畏まり、大いに悦んだ。
「今度、その跡を慕い参らんと思っている者達はどれほど居ることでしょうか。その中でそれがしは
武運にかない、御最後の供を申し付けられただけでなく、御介錯まで仰せ付けられました。今生の望み、何事かこれに過ぎるでしょう。」

これを聞いて秀次は心地よさげに静かに笑い、両目を閉じ、「迷故三界城悟故十方空」と観念して後、
「ならば、腰の物を」と申し付けた。
篠部は1尺4寸の正宗の脇差の中巻きしたものを差し上げた。
秀次はこれを右手にとり、左手で心元を押し下げ、弓手の脇に突き立てると、目手にキッと引き回し、
腰骨に少しかかったと見えた所で、篠部淡路守が刀を構えた。しかし秀次は「暫く待て!」と、
さらに取り直して胸先から押し下げた。ここで篠部は秀次の首を討った。

惜しむべきかな。御年31を一期として、南山千秋の露と消えられたのだ。哀れと言うにも余りあるではないか。
そして立西堂は死骸を収めると、これも秀次の供をした。

篠部淡路守は関白秀次の死骸を拝して後、3人の検使に対し
「それがしは不肖ですが、この度秀次様の後を慕った恩分に、介錯を仰せ付けられました。誠に弓矢都っての面目です。」

そう言うやいなや1尺3寸平作の脇差を腹に二回刺したが、切っ先が五寸ばかり背に貫いた。
更に刀を取り直し、首に押し当て、左右の手をかけて、前へと押し落とすと、頸は膝に抱かれ、身体はその上に重なった。
これを見た人は目を驚かし、諸人一同に「嗚呼」と感じ入った。

木村常陸も摂津茨木にて腹を斬った。その子木村志摩助は北山に隠れていたが、父の最期を聞いて、その日寺町正行寺にて自害して果てた。
熊谷大膳は嵯峨の二尊院にて腹を斬り、白井備後は四條大雲院、阿波木工は東山にて腹を斬った。
有為転変は世の習い、盛者必滅の理とはいいながら、昨日まで聚楽の花の春の宴も、今は野山の秋の露と、皆散り果てられた事も哀れである。

(石田軍記)



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:07:35.12 ID:dM5tBKtA
グロ、と書きたくなるわ

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:13:45.93 ID:BSUyfD/D
そんなこと言ってたら戦国時代行けないぞ

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 10:43:58.52 ID:6QVQ91xf
秀次事件て秀次はどうでもいいけど連座させられた人たちがかわいそうで仕方がない

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 15:55:20.00 ID:SCP5Kk/o
女性陣が悲惨すぎて草も生えない
当時女性への極刑は珍しかったのになんやあれ(ドン引き
秀吉ぐう畜過ぎ

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 17:46:30.88 ID:ApKa+Wr8
畜生塚、て呼ばれたってことは当時の人から見たら秀次たちがぐう畜扱いされてたのでは

伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に

2016年11月28日 18:29

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 08:45:22.81 ID:TtoGbpWs
文禄3年(1594)、豊臣秀吉は山城国伏見の指月に城の建設を進め、日を追うごとに石垣や天守が
造られていった。
すると秀吉は、伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に遣わし、その他の東国北国西国の大名たちは、
皆伏見に移った。このため家造りは夥しいものであった。

(慶長年中卜斎記)

指月伏見城建設の時点で、秀次は東海道だけの存在になっていたのですね。



血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕

2016年09月17日 20:14

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/17(土) 00:25:27.25 ID:iAZnnAm7
方広寺大仏殿開帳(天保三年,1832年)のとき、
京都を通行した者が来て、そこで聞いた話をしてくれた。

かの大仏の宮の殿内、宝物を置いた間が所々ある中で、
書院の縁側、幅二間長さ十間ばかりの所の板天井に
血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕がある。
その色赤いのもある。黒づいているのもある。
板天井一面がこのようである。

人に伝わっているところでは、
昔関白秀次生害のとき、随従の人が腹切り刺違えなどして死んだときの
板敷の板を、後に天井板にしたものという。

(甲子夜話続編)




これがすなわち松梅院の先祖である

2015年12月04日 13:55

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 12:53:59.54 ID:CEXRMiHA
 北野聖廟院の宮司は昔から妻帯で神務なされていたところ、天正年中に清僧が『出家した者もいるのもよいだろう』とのことを申した。そこで宮司達は相談して、日枝山に申し遣わしたところ、
『高僧が上京して神務に加わる』、と申されたという。

これがすなわち松梅院の先祖である。

 この僧は隠密に妾に女子を産ませていた。後に殿下秀次公の妾となった。
この勢いで古来からの書物などを宮司から取り立てて、ついに天満宮第一の社僧となった。もちろん妻帯も許された。
それからは相続は今の通りとなり、宮司は逆に下座となった。ひとえに秀次公の威勢によるものである。
この松梅院の女は秀次公が自害なされた後、七条河原で死罪となった。
今でも松梅院では、大切にこの女の年忌を務められなさっているとの事である。

そして、宮司は他所からの養子は制禁のところ、自然と隠して他から貰って、実子と申し立てましても、
早世か、または身持ちは放埓でその家を潰すかで、神慮の程がはっきりとあらわれている。
それなので、互いに仲間同士で養子をしているとの事である。
(本阿弥行状記)




秀次公の事は

2015年11月16日 16:31

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/16(月) 15:17:50.53 ID:D/ynLXEf
 秀次公の事はもっぱら石田の讒言と申し伝えられているが、決してそのような事ではないでしょう。
また殿下に対して謀反をする程の器量の人でもないでしょう。
文武両道の事は少しも知らず、浮き立って驕り散らして、天下を保ちなさる人ではなかったでしょう。
そのうえ神代より関白職の事は藤原氏に限られていたのに、
恐れ多くも二代も関白職を持ちなさったようなことをなされたので、
春日大明神の罰があったのでしょう。
(本阿弥行状記)




652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/16(月) 15:31:01.57 ID:169FjyFW
本阿弥光悦の逸話暫く前から貼られてるけど
身分制度の悪い面を抽出したような逸話ばかりで
段々イライラしてくるな
新手のネガキャンかこれ

ふたつの藤四郎

2015年06月25日 12:59

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 19:09:30.95 ID:LLYxrcJj
ふたつの藤四郎

鎬(しのぎ)藤四郎と厚藤四郎という短刀がある。

鎬藤四郎は織田信長が所有し、これを息子の神戸信孝に与えた。
その後関白豊臣秀次が所有し重器として珍重したが、彼が高野山で自害する時、
小姓の不破万作が殉死を請うたため、この鎬藤四郎を与えて切腹させたという。

この刀は後太閤秀吉の手に入り、秀吉逝去の時、その遺物として伊達政宗が賜った。
そして政宗逝去の後、嫡子忠宗より将軍家光に献上され、徳川家の重器となった。

厚藤四郎は足利家代々の重器であったが、いつしか紛失し、その後堺の商人の手に落ちたのを、
黒田如水が知って買い求め、それを豊臣秀次に献上した。
秀次切腹の時、小姓の山田三十郎も殉死を請うたため、これを与えて切腹させた。

これも、そののち太閤秀吉の手に入り、程なく毛利秀元が賜り、やがて秀元から徳川家光に
献上され、こちらも徳川家に納まった。

秀次の小姓二人を切腹させた、ふたつの藤四郎についての逸話である。

(刀剣談)




978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 19:44:27.97 ID:D8uCv7te
若死にのはずなのに不破万作ってどっかで聞いたことがあるな、
と思って調べたら天下三美少年だったのか

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 23:43:52.41 ID:JszQow8o
信孝自害の際に藤四郎もちいたのかな?

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 11:35:54.22 ID:fHKZT830
全然、来歴違うのに同じ事件の切腹に使われるような不吉な刀か
徳川に仇をなす村正とかと同じで何かあるのかね

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 15:09:17.65 ID:rUKrOdBH
武田信虎の武田左京大夫信虎所持兼定 、鬼武蔵の人間無骨、三歳の歌仙兼定

持つと家臣や仲間を斬り殺したくなる妖刀之定…

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 20:55:27.21 ID:kqBXHWdi
>>981
二代目兼定自身も吃驚だな

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 23:43:47.31 ID:RityHn55
>>981
よかった。刀のせいだったんだ!