fc2ブログ

義明はさしもの大将なれども

2021年12月30日 16:05

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/30(木) 13:58:13.14 ID:vgUkxAIX
(第一次国府台合戦の時。足利義明の討死後)

義明はさしもの大将なれども、運尽き果てむざむざと討たれ給う。

佐々木四郎、逸見八郎、佐野藤三、町野十郎以下、御馬廻は深入りして戦ったが、大将の御討死と聞いて、
今や誰がために戦をするというのかと各々馬を乗り放し、大将の死骸を枕として自害する他はないと各々馳せ行った。
そこへ逸見山城入道(忠次入道祥仙。小弓公方家の重臣)が馳せて来た。山城守は右臂を斬られ、
草摺に立つ矢は少々折掛け、彼らに理を尽くして申すには、

「皆々が自害なさるのは武士の本望である。しかしながら、小弓に残し置いた若公達を誰が隠せるというのか。
定めてむざむざと生け捕られて、名将の御一跡を匹夫の蹄にかけては口惜しいことであろう。嘆いても余りある。
此度の命を全うし君達を落とす謀をなし、時節を見合わせ先君の恨みを死後に報じなされば、君も嬉しく思し召すであろう」

だが彼らは一同に申し「口惜しきことを宣うものかな!ここを逃れて再び誰に面を合わせられようか、自害せん!」と留まる。
山城守は重ねて申して「これは各々の誤りなり!“死を一途に定むるは近うして安し。謀を万代に残すは遠くして難し”という。
ただ早く早く!」と勧められ、彼らは伴って小弓へ帰り若君に御伴して御宝物を取り、御殿に火をかけ房州へ落ちて行った。

山城守主従2騎は義明の御骸の辺りで馬から飛び下りて扇を挙げ、
「これはこの日頃、鬼神のように申しつる鎮東の将軍、源の義明と聞こえさせ給いし御内の侍にて逸見山城守という者なり!
小田原方に我と思う者あらば、押し寄せて首を取れ!」と扇を挙げて招けば、
小田原の住人、山中修理亮が名乗り近々と寄って来た。

山城守は馳せ寄り「御辺は氏綱(北条氏綱)の家人某と見えるな。我が首を取って高名にせよ!」
と打って掛かる。山城守の郎等が主を討死させまいと馳せ並ぶところに、修理亮の郎等が数多馳せ来て取り籠めば、
ついに山城守は修理亮に首を取られたのであった。

かの義明朝臣は久しく両総州に逆威を振るい、諸人は龍蛇の毒を恐れ、万民は虎狼の害を嘆いたのだが、
たちまち滅ぼされて跡は長く絶えたために、氏綱の武功の程を感じぬ人はいなかったのである。

――『異本小田原記』

逸見祥仙は義明の還俗以前から仕え奉行人も務めた筆頭家臣だったが国府台合戦で主君と運命を共にした



918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/31(金) 12:28:31.64 ID:QFDIs+Zb
>>912
さすが祥仙
最期はかっこいいな

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/31(金) 13:09:49.98 ID:xqwcfrJj
甲斐守護になれなかった末裔さん

920 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/01/01(土) 03:45:35.97 ID:dsmJJ+f6
謹賀新年。

>>912
この敗兵の動向によって小弓義明の血は喜連川公方まで繋がって行く
--の、ではあるが、
関東の王を夢見て古河晴氏と雌雄を決せんとした義明は、鉢植えの花となった末裔を泉下からどう見ていたか。
スポンサーサイト



「享徳の乱」

2020年04月28日 17:34

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 01:55:04.92 ID:Q9hZfobb
近年京都の乱(応仁の乱)より起こって、近隣諸郷はみな兵革の岐と成るのみではなく、関東の乱逆は
年久しく、騒動は更に止まず、日を逐って蜂起が起こった。

この概略は、去る享徳の頃より、関東では兵乱が再興して、鎌倉の新御所(足利)成氏朝臣は公儀を
蔑ろにし、恣に戦伐を行ったため、執事である上杉の一党は京に言上し、これによって公方家より、
成氏御退治のため、駿河の国主、今川上総介範忠を大将として御旗を賜り、多勢を付けられ鎌倉へ
発向した。また関東では上杉の一党。その他国人が大軍を促し、これも鎌倉へと攻め寄せた。
これによって成氏た忽ち一戦に打ち負け、野州古河へ没落した。この時享徳四年(1455)六月十六日、
鎌倉は兵火のために焼き払われ、治承以来の幕府の地は、ただ一片の赤土となって、これにより後も永く
里民の郊居となった。

今川範忠はこれより帰陣したが、その頃、東国の古家として、千葉、小山、宇都宮、結城、佐竹、那須、
小田、壬生を関東の八家と称し、大名であったが、それ故に、上杉の幕下であることを恥じ、無二に
御所方へ心を寄せ、上杉との合戦止まず、関東は治まらなかった。これによって、去る長禄元年(1457)、
京都より御下知があり、渋川左衛門佐義鏡を、関東の探題職として指し下し、上杉を愈々以て関東の管領とし、
諸家その下知に従って成氏を退治すべき旨を相触れたのだが、東国の者共は猶も御下知を用いなかった。
これによって上杉らは又京に訴望し、公方家の御舎弟である政知卿を申し下し奉って、寛正年中(1460~66)
この政知を関東の御所と称し、東国の大名高家、みなこの御所へ拝謁させ、上杉をその管領として
関東の乱を鎮めようとした。鎌倉炎上の後に御所無き故、政知卿は豆州堀越に御寓居あって、堀越御所と称した。

こうして上杉勢と成氏勢は、武州五十子という所で数年対陣し、未だ雌雄を決せざる所に、文正元年(1466)
二月十二日、上杉家の大将である、兵部太夫(上杉)房顕が病死し、翌年より応仁の大乱が起こり、都鄙悉く
戦国と成り、ただ騒動に月日を送ったが、終に文明十年(1478)の春、上杉方と成氏朝臣の和睦あって、
古河城に安居され、近隣を少々領知された。またこれによって堀越公方の政知卿は、威勢尽き果て、誰も
取り立てる者が無く、僅かの所帯を領して堀越に御住居あったという。

『應仁廣記』

戦国初期の関東、いわゆる「享徳の乱」についての記事ですね。



堀越公方のこと

2019年08月14日 17:22

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/14(水) 10:13:55.16 ID:W0NEcpVc
伊豆国下田から北に二里半ほど隔てて、堀の内村がある。ここが堀越御所の旧跡である。
御所の跡は今は田畑と成り、堀の内村の傍らに法(報)本寺という寺が有り、かの堀越御所の
追福供養を、今以て毎年日時を決めて執り行っているそうだ。この法会を執り行わなければ
疫病などが流行するなどと、現地の土俗では申し習わしているという。

この堀越御所というのは足利将軍の支族である政知が初代であり、その子義通(足利義澄)は
将軍を相続したともいう。その子茶々丸は北条早雲に攻められ、堀の内村の紅花畑の内に隠れたが、
その畑の中から鶏が飛び出してきたのを北条の追手が疑い、茶々丸を探し出し遂に害された。
この事よりこの村においては鶏を飼わず、紅花も作らなく成ったのだとか。

ただし茶々丸は政知の子であるとも、義通の子であるともいう。茶々丸は代々の幼名であり、
その通りに名乗ったのか、又は次男であったのだろうか。
中古治乱記(中古日本治乱記)という書には、茶々丸は北条の勢に逐われて山の麓の寺にて
自害したとある。

(耳嚢)



320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/14(水) 10:45:01.75 ID:TJIU/2V8
この名を見るといつも思うんだが
茶々丸って元服させてもらえなかったのかな?

「伝説の姫君嶋子」

2017年11月08日 20:23

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 16:19:17.49 ID:g4JuK26V
まとめのコメントに出ていた喜連川温泉に行ったら
「小さな大大名 喜連川足利氏」という小冊子をくれたのでそこから抜粋

「伝説の姫君嶋子」
大蔵ヶ崎城主の塩谷惟久には足利頼純(小弓公方)の娘で嶋子という大変美しい妻がいました。
1590(天正18年)の小田原攻めの頃、豊臣秀吉はそれぞれの大名に対して、人質を出すように命じました。
しかし、惟久はそれに応えられず、秀吉の怒りを恐れて鷲宿村に移ってしまいました。
そこで嶋子は、夫である惟久の無実と断絶しそうな古河公方家の再興を古河にいる豊臣秀吉にお願いするため、
死を覚悟しつつ、古河に向かいました。
秀吉は美しい嶋子の願いを聞き入れ、古河公方で残った氏女(うじひめ)と嶋子の弟国朝を結婚させ、
喜連川の地で再興させました。

ついでに戦国ではないけど興味深い話↓
「討ち入りで大名が幻になった話(国替えの話)
喜連川足利氏と同じく足利の血を引く吉良家に関するこんな伝説も残っています。
喜連川足利氏は、源氏の流れをくむ家として、大大名と同じ扱いをされていましたが、
でも下野の小さな大名にはかわりありませんでした。
それを残念に思った吉良上野介は将軍徳川綱吉に働きかけ、喜連川足利氏を足利尊氏と縁の深い
三河国へ国替えすることへの内諾を得ました。
この吉報は、吉良家から喜連川足利家へ伝えられました。喜連川足利家の使者が吉良家に出向き、
お礼を述べて帰ろうとしました。
その時、大雪が降りそうなので泊まっていくようにと、吉良家から声をかけられました。
しかし使者は「主君に急ぎ報告したいので」と丁重に答えて帰りました。
その夜のこと、吉良家に赤穂浪士の討ち入りがあり、肝心の吉良上野介が討ち取られてしまったので、
国替えの話は立ち消えとなってしまいました。



391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 17:02:46.75 ID:q4w5b6bw
>>390
この話でいつも思うのは、里見の庇護下にあった小弓頼純と那須の家臣である喜連川塩谷とが縁戚になったこと
どういう経緯があったんだろう

堀越御所の事

2016年07月12日 08:52

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 00:21:40.85 ID:b0mUZDs6
堀越御所の事

伊豆国下田から北に二里半ほど隔てたところに、堀の内村がある。
そこが堀越御所の旧跡である。
御所跡は田畠になり、堀の内村のかたわらに法本寺(報本寺)という寺があって、
堀越の御所で追福供養を今も毎年日時をきめて執行しているという。
法会を怠ると疾病などが流行すると、土俗の者は言い習わしているとか。

この堀越公方と申すのは足利将軍の氏族政知が堀越の初代で、
その子義通が将軍を相続したともいう。(義澄か?)
その子の茶々丸が、北条早雲に追われて堀の内村の紅花畠の内に隠れていた時に、
北条の追手に紅の中から鶏が飛び出すのを見られたことから、
紅花畠を疑われ、
ついには茶々丸は見つけ出されて害された。
このことから、今はこの村で鶏は飼わず、紅花は作らないそうだ。

ただし茶々丸は政知の子とも義通の子ともいわれる。
茶々丸は代々幼名で名乗っている。もしかしたら次男だったのだろうか。
『中古治乱記』という書には、茶々丸は北条勢に追われて、山のふもとの寺で自害したという。
(耳袋)




839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 07:33:32.07 ID:Poe8qw0x
あの時代に伊豆で紅花か

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 07:37:04.44 ID:Poe8qw0x
と思ったら対岸の千葉では平安の頃から栽培していたのか
てっきりもっと北の植物かというイメージがあった

家康は御座から立ち上がり

2013年05月24日 19:53

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 00:12:19.07 ID:Ggzcewb1
慶長二十年閏六月、喜連川頼氏は上京して徳川家康に拝謁した。

頼氏が退出しようとする時、家康は御座から立ち上がり、頼氏は御送礼を受けた。
これは頼氏が室町将軍家の支族で鎌倉幕府の末裔なので、その筋目を重んじての事だった。

徳川秀忠の時代より後は御送礼の儀は停められたという。

――『徳川実紀(駿府政事録)』




337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 00:14:23.48 ID:BhoaUw4r
>>336
鎌倉府じゃないかな

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 00:28:13.66 ID:OzcH20ZZ
男系では小弓御所の末裔だし価値なし

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 00:34:14.85 ID:Bw6khoQu
一万石に満たないのに大名扱いだから
江戸時代通して価値あると見られてたんでは

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 01:00:28.64 ID:N9Zz2Cb5
足利将軍家最近親たる平島公方家の冷遇されっぷりを見ると
反徳川勢力の旗印として担ぐには不足だが利用価値はある血筋の微妙さが喜連川厚遇の理由かと

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 10:33:59.95 ID:9VBw2bEs
確かに平島家なんか厚遇したら「わしが征夷大将軍だ!」なんて
うっとうしい事を言い出しそうだな。

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 11:21:34.86 ID:+qovmhjL
>>341
それは冷遇しても言い出す可能性あるから名門の扱いは難しい。
そういう戦略や秩序維持の目的だけではなく、
名門への遠慮や敬意って部分もあるとは思うけど

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 13:34:50.65 ID:azAGZ2bs
蹴鞠の人はもはやそういうことはないけどこう頻繁に遊びに来られると別の意味でうっとうしい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 13:45:50.32 ID:Ju0ZH8Vp
うっとうしがられるほど遊びに行ってないと危険視されるかもと思って…たわけないか

足利義明は大笑いして一蹴した

2013年01月16日 20:07

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/15(火) 23:58:57.27 ID:0huMzW0b
第一次国府台合戦の折、北条勢は河を渡河して松戸へ向かおうとしていた。
小弓勢先陣は物見の兵を本陣に参らせて、

「敵が河を越え始めました。その勢は雲霞の如く二、三万騎はいると思われます。
小勢で大勢を討つことは難しいでしょう。急ぎ本陣を動かして河中で勝負を決するか、
味方を引かせて敵の先陣が半ばを越える時に急いで河へ押し込めば必ず御味方の
勝利となるでしょう」と具申した。

この策に諸軍はそれがよいと賛成したのだが、足利義明は大笑いして一蹴した。

「一足でも引けば虎も鼠になり一足でも進めば鼠も虎になるのが合戦の例である。
引くような真似をすれば、それは敵に利を与える端緒となる。

また、勝ち負けは数が多いか少ないかではない、兵の剛勇と臆病によるのだ。
氏綱の武勇など我が片手にも及びもしないものを、何程のことがあろうか!

河を渡らせて敵を近くまで引き寄せ、我が手にかけて氏綱を討ち取った上で
東国を安々と治めてくれよう。年月の本望ここにあり! 氏綱を逃がしはせぬ!」

そのように言って義明は扇を打ち振った。
(諸軍の?)運も尽きて驚きあきれることは、たとえようもなかった。

――『異本小田原記』




174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 01:31:45.21 ID:8Cq6zkPG
鼠が虎って、早雲の両上杉倒す夢みたいだ
で、北条に殺されると

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 01:54:46.62 ID:mUK2EPMb
小弓公方様はそれまで腕力と気合でどうにかなる程度の弱小雑魚
しか相手して来なかったんだろうなあ・・・

身の程知らずにも通りすがりのケンシロウに挑むモヒカンを連想した

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 02:04:04.46 ID:mUK2EPMb
ところで、小弓御所家ここで親父と兄貴が揃って討ち死にした後
どうやって50年以上後の小田原征伐まで存続したんだろ?

秀吉が古河公方家に姫様との結婚を強要する程度の存在感をちゃっかり残した上でさ
堀越公方なんて跡形も無く消えちゃったじゃん?

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 02:24:55.58 ID:YKcYCbdl
堀越公方は本家に復帰しただろう。

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 10:00:00.31 ID:8325FJE1
>172
前秦の苻堅そのままw

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 10:31:47.84 ID:p3T6jrcE
>>176
なんだかんだで里見の支援を受けてたはず

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 20:55:18.03 ID:bRHHCH/T
>>181
里見さん小田原討伐の段になっても小弓公方を擁立
しようとしてるからなあ。

小弓御所の滅亡

2012年10月13日 20:03

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 09:47:53.06 ID:4/txyCnV
関東の公方・足利一族の知名度のなさに涙流した俺が外堀埋めに来たよ

国府台と足利義明
(前略)
天文八年下総の古河にあって古河公方といわれた左馬頭足利高基は、
北条氏綱の娘を子の晴氏に娶わせた縁で、氏綱は高基を援けたのである。

高基の弟右兵衛督義明は兄と仲が悪く、下総の小弓にいたので小弓御所といった。
足利義明は勇猛の将である。自ら関東八州を征服して、覇府を鎌倉に開こうする大野心があった。
そこで同年八月古河に晴氏を攻めた。晴氏驚いて急使を以って小田原の北条氏綱に援けを頼んだ。
氏綱は義明の勢力が強いのは自分にも不利益であると考え、晴氏を援けることにした。
この情勢を伝え聞いた義明は、北条軍を途中でむかえて撃つ作戦計画を立て、
弟基頼、里見義尭と共に房総二国の兵七千を率いて国府台に至り、
江戸川を前にひかえて陣を張った。

天文八年十月四日北条氏綱は子の氏康と共に小田原を出発し、二万余人の兵を率いて江戸城に入った。
群議の結果進撃と決し、諸隊は忍んで金町に進み、江戸川の堤の下に隠れて、夜の明けるのを待った。
七日の朝北条軍は川を渡って松戸の岸に上がり、勢い猛に攻めかかる。
義明の弟基頼は第一陣将として勇戦して倒れたので、小弓勢の一陣先ず敗れ、小田原勢は士気大いに振う。
義明は見方の敗走に憤激し、ただ一騎敵中に突入し、縦横に斬りまくる。
その大長刀にふれて斬らるるもの数知れず、その勢いに敵はどっと崩れ走る。
義明は丘上に立って味方が来るのを待ったが、小弓勢はこの時総崩れとなったから、義明を援けに馳せ集まる兵士はなかった。

北条軍の横井新助は剛弓の勇士、義明の丘上に立つを見て、馬から下り立ち、密かに近づき、矢頃を計って三人張りの弓に十三束の矢をつがえ
『これは三浦の守護代横井新助と申すもの、一矢受けたまえ。』
大音に呼ばわりつつ、きりきりと引きしぼってひょうと放つ。矢は義明の胸にぐさと射貫けば、流石の勇将もどっと地に落ち、太刀を杖につきつつ息絶えた。
『横井新助敵の大将を射とめたぞ。』
と呼ばわれば、北条軍はどっと鯨波をつくって勇み立った。義明の旗下の勇士はこの時馳せつけて、新助に斬ってかかる。
この隙に松田彌二郎は素早く義明の首を取った。
乱軍の中を斬り抜けた佐々木四郎等は小弓に馳せ戻って義明の一子頼純を連れて安房に落ち、小弓御所はここに滅びたのである。

『日本英雄史蹟 : 歴史地理. 関東地方及中部地方巻』より

内容自体は悪い話なのだが、原典元の趣旨が”歴史と地理は切り離すことの出来ない因縁で成り立っているよ!
引きこもって研究ばかりしてないで、治乱盛衰や文化興廃の跡をその目で見て肌で感じるために旅しようぜ!(要約)”
本書に掲載されているのが明治天皇を皮切りに、乃木大将・徳川家康・伊能忠敬・大石良雄・新田義興等、
有名人が名を連ねる中で紹介されていて、今の知名度の低さからとても考えられないと俺的にイイ話だったから





906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 10:34:32.92 ID:1CHK3a6O
小弓公方と真里谷武田の関係とか、堀越公方の登場とか
本当関東の状況はカオスで楽しいんだけどいまいち認知度がなぁ

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 11:09:55.83 ID:L7i5fm+Z
村雨の人で有名じゃないかw

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 11:16:04.54 ID:WF2ixMjG
天庵さまは堀越公方政知の孫やあ!

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 11:35:05.88 ID:4/txyCnV
>>906
おお、やっと話の分かる人がいてなんか嬉しい
後北条氏が興隆する陰に古河公方の没落があるからね
当方後北条氏好きだが、関東史を全体的に掘り下げた一般書籍が出回って欲しいと思うよ


>>907
ゲームでネタにされているだけで、古河公方のこと知らなかったら意味ないじゃんw

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 11:41:43.10 ID:WF2ixMjG
北条の後押しを受けて家督簒奪した里見義堯が、武田に同調して小弓に与するんだよなあ

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 11:51:49.34 ID:pMAA7Nd0
>>909
12月に発売予定のこれがドンピシャだと思われる

東国を知れば日本史が変わる! 動乱の東国史シリーズ、好評刊行中

⑥古河公方と伊勢宗瑞
則竹雄一著 〈12月発売予定〉978-4-642-06445-3
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n4643.html

こっちはこの間出たばかりで、なかなか面白かった

東国の戦国争乱と織豊権力 7
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b103247.html

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 12:09:15.09 ID:+bBk8dQC
やはり陸戦型モンスターには飛び道具が有効なのか

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 13:44:01.89 ID:uHwI5Nqd
小弓公方は臼井なら分かるんだがなあ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 18:20:24.08 ID:L7i5fm+Z
>912、眉間に当てても兜によっちゃはじくからちゃんとハチの巣にしとかないと。畳で畳みかけるとか

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 18:22:21.23 ID:o0IUkIam
これは戦ではない。狩りだ!といって落とし穴掘ればok

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 21:02:35.55 ID:rdF+Mj92
>>915
双璧はちょっと黙ってて!

残された妻・嶋子は秀吉のもとに差し出され・・・

2010年05月06日 00:00

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 12:06:54 ID:lT0bMlyM
以下蛇足

>>553-554の際、大関高増の外孫の倉ヶ崎城主・塩谷惟久も参陣せず、秀吉の怒りを買った。
これに対し惟久は、居城と妻を置いていずこかへ逃げ出し、残された妻・嶋子は秀吉のもとに差し出され・・・喰われた。
気丈にも嶋子は、秀吉の枕元で切々とお家再興を訴え続けた。



・・・実家の再興を。

実は嶋子は小弓公方・足利義明の孫であり、その弟は食うや食わずの生活を送っていたのだ。秀吉は嶋子の願いを容れ、
古河公方の血を引く足利氏姫を嶋子の弟・国朝と結婚させ、惟久が逃亡して空いたその旧領・喜連川郷を与えた。
こうして一ノ谷の戦い・屋島合戦にも名を連ねる名門・塩谷氏は滅び、鎌倉公方家が再興された。


『 日本一小さな大大名 』 喜連川藩が、これである。




557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 12:14:23 ID:0Oun9P+g
>>556
実に心温まる話だなw

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 13:39:18 ID:l69SEt3P
>>556
股かn…あ、いや、胸が熱くなるな

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 15:04:12 ID:IHGN8mgp
今もって栃木県民にはアンチ徳川、秀吉好きの人が多いが
喜連川公方の再興もその理由のひとつとなっているようだ。