丙が降伏の議を説いたのは

2014年07月06日 18:52

248 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/07/05(土) 18:59:59.57 ID:NnkLvtji
名将長野業正の死後、武田信玄による箕輪城攻めの際の話

箕輪城方は1500ほどしか兵士が集まらず、若き城主の長野業盛は諸将を集め、防御の方法を議した。

甲は「城を固守して上杉謙信に救援を乞うべきだ」と主張した。
乙は「属城がことごとく敵方に落ち、将兵は死ぬか背くかした。そのような中で謙信に助けを乞うのは
かえって世の笑いを受けてしまう。万死を期して決戦あるのみ」と主張した。
すると日頃城主の信任が厚かった丙が「我が先君(業正)は上杉氏のために最後まで身命を賭して
尽くした。しかし憲政は愚者であり、先君を用いず、遂には国を失い、謙信を頼る様となった。
かような次第なので、今我々の幼君(業盛)も犬死することがあっては先君に申し訳ない。
むしろ武田家に降りお家を残すのが適切だろう」と主張しだした。
皆はこれを聞いて驚き、「昨日まで我が主家の棟梁豪勇の忠臣であったのが、なぜにわかに
臆病者になったのか!」と声をあげ涙を流し、甲などは憤然として刀に手をかけ丙を斬ろうとした。

すると業盛は諸将を制して、そのまま奥の間に行き、業正の位牌を奉じて上座に安置して拝礼したので、
諸将もこれに従い拝礼したが、どういった意味なのかわからなかった。
業盛はその様子を見て、おもむろに「丙が降伏の議を説いたのは皆の心底を知ろうと私が命じたものだ。
今、皆の心が鉄石の如く堅いのを見ることができ、これ以上喜ばしいことはない!」
と言ったので、皆再び驚き、業盛の用意周到なるに敬服したという。

その後業盛率いる箕輪衆は、若田原へ打って出た後に箕輪城に立てこもり、そこで業盛は散った。
享年19歳

アカツキ9巻12号(1934)より




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サイカチの木、武田勢を退ける

2013年08月31日 19:54

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 20:27:00.84 ID:mMEqwZnc
ある時、上州箕輪の長野業正の軍勢が、武田信玄の軍に撃ち負けた。

この時長野業政の家臣で、隠れなき勇者と呼ばれた赤名豊前守が殿となって退いていたが、その途中、
自分の旗指物を道の傍のサイカチの木に引っ掛けてしまった。

赤名は取ろうとするも枝葉が茂り、そのうえ刺が生えているので取ることが出来ない。
しかしこのまま捨てていくのは武士の名折れ、家の恥であると難渋している所に、同僚である
土肥実吉が引き返してきた

「何をしている!?早く城へ戻れ!」

そう怒鳴ったが赤名は退こうとしない。
この上は木を切り倒すより仕方がないと、二人は馬から降り、その馬の尻を叩いて城の方に駆け去らせると、
サイカチの木を切りにかかった。

もし敵が追撃してくれば、ここで斬死する他ない。やっとの思いで木を切り倒し、旗指物を取り戻すことが出来たが、
その時にはもう敵の甲州勢4,50騎が直ぐ目の前まで迫っていた。
しかし、さすがは勇者である、赤名豊前守土肥実吉は少しも動じず槍を取って構えた。

ところが、どうしたことであろう、敵は目の前5,6間ほど先でピタリと止まり、掛かってこようとしなかった。
彼らは、道に意味ありげに倒れているサイカチの木に、なにか仕掛けがあるのではと警戒したのである。

その時、先に追い返した馬をみた城兵が、赤名と土肥が危ないと見て、10騎ばかりで引き返してきた。
その騎馬の足音を聞いた甲州勢はやはり罠だと思い

「すわ!反撃してきたぞ!」

と、口々に叫んで逃げ去った。
こうして赤名と土肥は危ない命を全うし、箕輪城へと戻ることが出来た。
(関八州古戦録)




8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 20:30:56.46 ID:O18MHKQv
名のある武将の軍勢は得だな

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 20:38:39.57 ID:yBNh4XDa
まて、これは孔明の罠だ
意図しなかったとはいえ空城計に通じるものがあるな

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 21:06:51.74 ID:lEn5yrH0
殿お待ちください、これは三楽の罠です!!
小田城を狙っているのです!!!

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 23:06:12.58 ID:bDMg7T57
面白い話だなw こういう損得勘定じゃなくて、些細とも思えるようなことに命を掛けちゃう武士は好きだなー

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 23:12:15.56 ID:9zYsfYAG
旗指物とか母衣ってぶっちゃけ邪魔になるときあるだろうなw

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 23:17:21.53 ID:O9vwY6Hs
旗指物無くすとか全然些細じゃないから

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/31(土) 12:45:28.75 ID:sOTeg4TL
そりゃ汚い信玄公の配下だからな。何かあったら深読みするだろうね

長野業正は和歌や連歌が上手だった

2013年05月16日 19:51

291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/15(水) 21:47:30.50 ID:N/jQmoYI
長野業正は和歌や連歌が上手だった。

ある時、家臣の男が百姓の家から妻を娶った。
ある日のこと、この妻が髪を結んでいると庭を5,6尺ほどの蛇が這っている。
妻は夫である男を呼び、「見て、オウコ(肥桶を荷う棒)みたいな蛇よ」と叫んだ。
それを聞いた男は、このような下品な言葉を使う田舎者な妻と一緒にいると笑いものにされると、この妻を親元に帰した。
妻は去り際に「万葉の 歌の言の葉 なかりせば 思いのほかの 別れせまじ」(万葉集の歌の言葉さえ無ければ、
このような別れはなかっただろうに的な)と和歌を1首残していった。

男はそのわけがわからず、いろいろな人にそのことを話した。
それが業正の耳に入り、早速男は業正に呼ばれた。
そして男がその経緯を業正に説明したところ、業正はこう言った。。

「これは恥ずかしいことだ。『陸奥(みちのく)の 千引の石と わが恋を になわばオウコ 中や耐えなん』
と万葉集にも出ているように、オウコという言葉はけして下品な言葉ではない。それなのに下品な言葉を使ったとして
離縁したとあれば末代までの恥だ。早く仲人に頼んで呼び返すべきだ。」

そして男は業正の言葉通り妻を呼び戻して、復縁しましたとさ。

『名将言行録』より




292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 21:50:26.19 ID:HGl43v6v
>>291
流石は 在原業平の子孫

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 22:53:11.86 ID:1GA0Oylg
百姓の出と言っても、いいとこのお嬢さんだったのかな

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 23:43:22.62 ID:pXdybTPZ
金上盛備「メゴイと言ったら都の連中に嘲笑われましたが
     古の歌にも使われている言葉です」


太田道灌「雨が降ってきたので蓑を借りに民家に立ち寄ったら
     雨に濡れるよりも恥ずかしさで汗塗れでした」

長野一族と「白岩観音」

2012年03月28日 21:34

461 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/27(火) 22:50:12.12 ID:4HZylCEP
上野国の白岩山にある長谷寺は、坂東三十三ヶ所霊場の十五番札所で、「白岩観音」と呼ばれ親しまれていた。
古くから信仰があり、源義家や新田義貞などの武将の信仰もあつかった。

戦国の時代に入ってもそれは変わらず、天文元年(1532)に上杉憲政が伽藍を整えてからより発展した。

しかしその後、戦国ちょっといい話・悪い話まとめにもある武田の先手、那和無理之助と箕輪の老将、
安藤九郎左衛門の戦い(白岩の戦い)
に巻き込まれ、その観音堂は焼失してしまった。
そこで武田勝頼が世無道上人に命じ、天正八年(1580)に観音堂を再建させた。



時はめぐり、時代は昭和。

浜川(現在の高崎市)に住む箕輪城主の長野氏の直系、52代目当主である長野正弘氏がまだ小学生の時、
まちに待った遠足の行先が白岩観音であった。
すると父親である弾正氏は、白岩観音が長野家を滅ぼした武田氏によって再建されたものであることを理由に、
彼を遠足に参加させなかった。

しかしそれは弾正氏の個人的考えではなく、浜川の長野氏一族は上記の理由により代々白岩観音への参拝を
拒み続けてきたのだ。
今でも彼らは白岩観音への参拝をしないという。

(「箕輪城と長野氏」などより)




462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 22:56:00.34 ID:/Ro6vyQq
でも、「弾正」という名前を見ると逃げ弾正、攻め弾正を思い浮かべてしまう

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 23:20:46.20 ID:SOOqRVvF
爆弾正が最初に浮かぶのは色々毒されたって事なのだろうか?w

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 23:29:21.45 ID:1kX57yPL
仏閣焼失=爆彈正はこの板的には正しい判断でしょw

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 10:30:08.78 ID:4QSbrPV6
>>461
神田明神、筑土明神の氏子が成田山新勝寺には行かないのは常識


466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 10:35:14.29 ID:IRw6935b
市川海老蔵暴行事件は、日本橋に成田山新勝寺に関わりの深い市川家にちなんだ
名前の通りをつくろうとしたことにたいする、神田明神の怒り、というネタを思い出した

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 11:05:46.76 ID:q3xGK0yl
普段は口数がすくないが時に能弁になる薬剤師がでてきそうだなw

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 11:39:28.71 ID:XRlGRS79
那須氏の子孫だが赤城山に行った帰りに車擦ったわ
日光の権現の怒りを買ったのかもしれん

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 13:57:07.88 ID:yu/C1NF1
>>468
擦った車の絵を描かせるんだ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 14:35:29.34 ID:64EBTHMq
>>468
逆パターンで牛込赤城神社の氏子の旗本、御家人は将軍の日光参拝にお供
する際は穴八幡の氏子として参加したらしい。

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 14:37:28.68 ID:4ewCEkSn
神様は嫉妬深いってことか

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 18:59:00.78 ID:kWdZ4wYu
洋の東西を問わず、神様はエロくてヤキモチなもんじゃ

「箕輪城落城後の悲劇」

2012年03月22日 21:40

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 13:50:12.28 ID:IMrUndkD
「箕輪城落城後の悲劇」

永禄9年、上野の堅城である箕輪城はついに武田信玄によりついに落城し、城主である長野業盛
父業正の遺言通り降伏することなく自害した。
この業盛の妻、藤鶴姫は元は上杉家の出であり、わずかな家臣と共に越後へと逃れようとした。
しかし敵の追っ手がやってきたため家臣たちはその相手をして、姫を先に逃がした。
1人で峠を越えようとした藤鶴姫、しかし女性の身では峠を越えるのは大変であり、お堂のところで
少しだけ体を休めた。
すると今来た道の方から「おーい!」と呼ぶ声が。
「もう追っ手がそこまで…。もはやこれまで…。」と彼女はお堂の中で自害した。
しかしその声の主は追っ手からどうにか逃れてきた家臣だった。

哀れ藤鶴姫、彼女が自害したお堂近くを汚すと今でも祟りがあり、鼻血が止まらなくなるという。

(藤鶴姫墓所説明文を元に)





405 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/22(木) 14:56:18.96 ID:He2oWlbg
鼻血が止まらなくなるという...
地味に嫌な祟りだな

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 20:00:29.54 ID:NwAjg9XY
悲劇のはずなのに…悲劇のはずなのに最後の一行で…

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 20:01:27.57 ID:Z5dzxfgr
HANAJI

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 20:40:20.82 ID:/FUPqjpi
逆に試したくなる

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 21:55:28.45 ID:P25R++O7
たしか年は15か14だぞ。
いまなら中学生だわ。


ほんま、信玄は人でなしだわな・・。





にしてもこんな激戦でやすやすと生き延びた上泉伊勢守てのは?

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 11:01:01.30 ID:HPOwiGDF
>>409
別に信玄が特別残忍ってわけじゃないし、
剣聖が下野したのもこの戦じゃないよ

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 12:59:24.31 ID:22Qp5/5g
>>413
剣聖が下野したのはいつの戦い以後?

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 13:22:32.74 ID:s9weI/cZ
>409、ヨーダばりに斬ってはなげ斬っては投げを繰り返したんじゃね?どこぞのアチャーみたいに
辺り一面刀差してれば100人ぐらいいけるだろ

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 13:44:54.95 ID:XYM26r8r
箕輪落城後に流浪が通説じゃないのかなん?

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 14:10:33.98 ID:22Qp5/5g
>>415
漫画ですまないが、岩明均の「剣の舞」で剣聖が敵兵を攪拌しるわ~

>>416
箕輪城が落ちた戦の話なのに、剣聖下野がその戦じゃないと言っておられるので聞いてみたのです

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 17:22:14.82 ID:U/r1annt
剣聖なら大熊とちゃんばらしてたよ

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 18:06:37.43 ID:KJ7UnLbs
剣聖下野守

長野業盛家臣、安藤九郎左衛門の覚悟・いい話

2009年06月06日 00:06

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/05(金) 10:48:54 ID:BOmyUVMV
長野業政が病死し、武田信玄による上野攻めがいよいよ本格化する。
信玄の先手、那和無理之助の手勢200余騎は、秋間山を越え鳥川を渡り、
鷺坂長信の砦を攻め立てた。

この時鷺坂は長野氏の主城、箕輪におり、砦には留守の者たちしかいなかった。
彼らも必死で防戦したが衆寡敵せず、ついに砦を捨て箕輪へと落ち延びていった。

無理之助は砦を放火すると、敗兵を追撃し白岩山に至る。ここで箕輪より、
老将、安藤九郎左衛門、100騎ほどを引きつれ援軍に現れた。

彼は那和勢と激突、3度まで敵を追い崩したが、深入りした所を狙われ終に討ち死にした。
その首を取る折、安藤の直垂の裏より、血に塗れた一首の歌が見つかった。

『老いの身は 何国(いずこ)の土になるとても 君が箕輪に心留まる』

これを見た人々は皆、安藤を感賞しないと言う事はなかったと言う。

長野氏の滅亡が目前に迫った時期の、ある武将の覚悟と忠義、のお話。





255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/05(金) 12:11:27 ID:djkxJA2z
名は無理の助きた

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/05(金) 16:09:56 ID:6pWaMSJG
名和宗安の名前が出るのは珍しいな
那波/那和、またはそのまんま縄とも書いた資料があるみたいね
通称の無理介のとおり、どんな無理でも押し通す頑固で豪傑肌の人物だったとか

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/05(金) 16:18:51 ID:HPmoofU/
花沢城の逸話面白いなw 本当武田軍は戦あるたびに歌詠むのなw

無理の助 無理するわけでもないなら 道理の助に改名しろよとかw


土井大膳、大木を切る・いい話

2009年02月07日 00:13

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 11:50:54 ID:4+HYzei4
大木を切る

土井大膳は元は北条氏の被官であったが、北条氏に背き長野業正の客将となった。
長野氏と武田氏は長年の抗争状態にあったが、ある戦で長野氏が武田氏に負けて
退却することになった。
殿軍は、土井大膳と赤石豊前の2人が務めることとなった。

ところが、運のないことに赤石の旗指物がさいかちの木にひっかかって取れなく
なった。馬上から手を伸ばしても取ることはできない。
「お~い大膳。旗指物が取れなくなった。旗指物を捨てて帰るのは末代までの恥。
何としても取り返したいので助けてくれ。」
大膳は「よっしゃ、心得た。とにかく貴様も馬から降りろ。その木を切って旗指物
を取り戻そう。」と言って馬から飛び降り、先に退却した殿軍のいる箕輪城の方向に
2頭の裸馬を走らせた。
二人は刀を抜いて「えっさほいさ」とさいかちの大木を切り始めた。
そして、やっとこささいかちの木を伐り、大木は道をふさぐ形で「どうっ」と倒れた。

豊前が倒れた木から旗指物を取り戻している間に、武田軍の追っ手がやってきた。
「武田の侍は多勢。こちらはたった2人じゃ。存分に働いて討ち死にせん!」
と死を覚悟したころに、先ほど引き揚げた殿軍の一部の10名が2人の元に引き返してきた。
聞けば、大膳と豊前の裸馬だけが追い付いてきたので、「さては大膳と豊前は討ち死にした
か。心配だから様子を見に行こう。」ということで引き返してきた、とのことである。
そして、「われも俺も」ということで、続々引き返してきて総勢100人余りになった。

武田軍は大膳らを打ち取ろうとするも、さいかちの大木が道をふさいでおりしてなかなか先には
進めない。さりとて、さいかちにはびっしりとトゲが生えており乗り越えていくこともできない。
大膳と豊前はさいかちを盾にして、「ござんなれ!」陣を組み両軍はこう着状態となりやがて日が
暮れ始めた。
とうとう武田軍の追っ手は追跡をあきらめて引き上げ、大膳と豊前は無事に箕輪城に帰還した。

業正は二人に対して、
「敵を我が城に寄せ付けず、途中で踏みとどまった大膳と豊前の働きは莫大な功である。」
として大いに褒めたという。
(続武者物語)




389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 17:25:37 ID:ER1pOmgT
>>378
逆に、指物がサイカチに引っかからなかったら、追っ手に捕捉されて討死してたかもしれんのだよな
こういうのを、昔の人は武運と言ったのかね

真田幸隆と長野業正の、「その後」・いい話

2009年01月10日 00:18

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 12:42:16 ID:Z68yCiyN
>>964に便乗して、真田幸隆と長野業正のお話、「その後」


永禄四年(1561)、名将、長野業正も七十一歳。
老齢からの体の衰えは隠しようもなく、体調を崩し、人に会うことも少なくなり、屋敷に籠もりがちの
日々を送るようになっていた。

そんなある日、業正が家人に突然このようなことを言い出した。
「そろそろ客があるだろうから、迎える用意をしておくように。」

不思議に思いながらもその準備をしていると、程なく、その頃、羽尾に引退した真田幸隆が
旧恩のお礼の言上にと、業正の元を訪れた。

真田幸隆殿がいらっしゃいました。そう聞くと業正は「そうだろうと思っていた」と、手を打って喜んだ。
そして幸隆と二人で語り合った。

「幸隆殿、貴公が箕輪にいた頃、誰もその言を用いることがなく、ついに武田家の謀臣となり、
信濃もとうとう切り取られてしまった。この上野も、いずれそうなるであろう。
私ももう、七十を過ぎた。同じ切り取られるなら、どこの誰とも知れぬものより、気心のわかる
貴公に渡すことが、憂いの中の喜びというものだ…。

さて幸隆殿、ここに吾妻郡に続いた地に、利根郡という地がある。

私の養女の夫で、沼田上野介景康という者がここを治めておる。色に溺れるような、
思慮のない男ではないのだが、最近、金子美濃守の姪とかいう、素性の知れぬ女に産ませた子を
平八郎景義と名乗らせ寵愛し、嫡子景久をないがしろにし、廃嫡せんとする気配が見受けられる。
これでは沼田の家も、長くあるまいよ。

私が盗ってやろうと思っていたのだが…、もう、寿命も尽きるようだ。
かと言って、わが子の力ではまだまだ及ばぬ。
よってこの沼田、貴公に進上しよう。ははは、まあ疑いなさらぬことだ。」

幸隆は形を正して座を降り、業正に深々と頭を下げた。

「拙者、これより沼田において方便を駆使し、必ず奪い取って見せましょう。」

そう言って、箕輪を後にした。

後、この沼田は幸隆の子、昌幸が攻略するのだが、これは業正の教えに従った幸隆が、
十分に布石を打っていたからこそ出来たのだ、ということである。




969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 12:50:47 ID:qo+xZuC2
>>968
沼田万鬼斎の話か。なんか沼田側視点で小説になっていたのを読んだっけな。

昌幸が大北条、そして徳川と敵対しても沼田領にこだわったのは、
そういう父祖以来の縁で治めた地だったから、かもね。

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:37:52 ID:f8WuQhos
息子の業盛はかわいそうだ、遺言に
「降伏するな、闘って死ね」
って書かれてたそうな
これを守った業盛も偉いよ

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:43:25 ID:r0gU3SXu
>>995
>>968が本当だとすると何がしたかったのかよくわからなくなる。
息子の花道でも用意したつもりなのか・・・

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:47:31 ID:Z68yCiyN
>>996
「他の地を攻め取るにはまだ器量が足りない。
だが父祖の地は守りぬけ」

ってことじゃないかね?

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:51:04 ID:f8WuQhos
一回は遺言通り撃退できてるんだけど、
その後に2万ほどの大軍に攻められてる
こんな大軍追い返すには才能だけじゃなく
経験も必要だったんじゃないかな…
19歳で死んだのが惜しいよ

長野業正、真田幸隆への手紙・いい話

2009年01月10日 00:05

964 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/09(金) 11:49:38 ID:d/RhsbSy
真田幸隆への手紙

村上義清との戦いで所領を失った幸隆は箕輪城主の長野業正を頼り暫く滞在してた。
山本勘助の紹介により武田信玄の元へ仕えることになった幸隆は一計を案じる。
彼は病を患ったと言って出仕を止めた。
これを聞いた業正は使者を遣わし、さらに馬までも与えた。
幸隆は驚いたがいつも通りに使者をもてなし、その夜の内に箕輪から出ていった。
下仁田にさしかかったころ、続いて来る馬の背には家具が積まれ、その後には妻や家僕がやってくる。
これはと不審に思い聞いてみたところ、幸隆の出立後に業正の老臣がやってきて、これを我らの追い及ばない所で幸隆殿に渡されよと、一通の手紙を手渡した。
手紙を開けてみるとこう書かれていた。
「甲斐に武田信玄あり、まだ若いがまたとない弓取りである。しかし、箕輪にこの業正がいる限りは、碓氷川を越えて馬に草飼わせようと思ってもらっては困るぞ・・・」
幸隆はこれを読んで恥ずかしく思い、こんなことなら腹を割って話し合うべきだったと幸隆は立ちすくんだ。

いい(じいさんからの手紙)の話




965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 11:57:36 ID:qo+xZuC2
>>964イイハナシダナー
長野業正がかっこよすぎる……全て見通していて、餞別がわり?の馬までやって。
気概溢れる手紙の文面といい、武人の鑑だな。

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:33:30 ID:Mww8Zzxk
>>964

今川・北条・上杉・徳川・織田と錚々たるメンバーを
纏めて亘りあった信玄が業正が生きている間は無理って絶望した程だからね
信玄が10年長生きしたらと言う話しは良く持ち上がるが
業正が10年早く亡くなっていたらと言うのもまた面白そうだ
それほどの武将だね

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 23:37:52 ID:f8WuQhos
息子の業盛はかわいそうだ、遺言に
「降伏するな、闘って死ね」
って書かれてたそうな
これを守った業盛も偉いよ

長野業正とその娘達と国人・いい話

2008年10月16日 10:44

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/05(火) 19:33:03 ID:ABtOf6Ki
いい話というか、長野業正のちょっと面白い話を見つけたので張り

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/03/08(土) 21:56:37 ID:i4ZXIU7M
業正の娘たちはいずれも美女揃いだったので先を争って縁談の申し入れがあったそうだ。
あまりの人気ぶりに業正も生産が追いつかず娘を貰えなかった豪族が反抗したりして上州戦略に支障を来たした。
あと10人娘がいれば信玄に箕輪城とられずに済んだのに惜しい。





637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/05(火) 20:44:34 ID:Bisuc0Cm
さすが在原業平の末裔だ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/05(火) 23:47:17 ID:/v/TPvAG
じゃあ、業正はものすごく顔立ちが整ってたのかもしれんな
というか豪族どもはどんだけ美人の嫁が欲しかったんだw

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/06(水) 09:46:15 ID:xM69f+Ww
政略に有効でかつ美女だったら言う事なしだしw

640 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/06(水) 12:16:37 ID:ufKHF8s9
>>636
あと10人いればって、12人も嫁がせてんだよ。
徳川家斉みたいにやること無くて子作りマシーンならともかく、ふつう無理だよなwww

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/06(水) 12:22:13 ID:rL17nwz+
関東管領家の下で上野を実質支えてきた長野家
国人衆にしてみれば少々のぶさいくでも婚姻関係になりたいだろう
ましてや美女だなんてサイコーすぎる!

もらえなかった国人衆がふてくされるのもしょうがないな