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室賀正武謀殺

2020年03月03日 17:06

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 00:42:44.47 ID:Zrb3PBKC
かくて(天正壬午の乱の結果)、信州一国は徳川家康公に属し奉ったが、同年(天正十一年)十月、真田安房守(昌幸)は
信州国中を従えんと企み、先ず室賀兵部太夫(正武)を討つべしと、一門が一手になって室賀の館へ押し寄せた。
兵部太夫は自ら討って出て、篠山において火の出るほどに戦い、互いに郎党が討たれ相引きに撤退した。
しかし翌日に安房守勢はとって返し攻めかけたことで、室賀方は内より和を乞い、これを安房守も許して
帰城した。

室賀は真田に屈することを無念に思い、翌天正十二年六月、家臣の高井彦右衛門尉を以て遠州の家康公にに申し上げた所、
家康公より「何としても謀を以て真田を討つべし」と仰せ寄越された。室賀は斜め成らず悦び、真田を油断させるため、
いよいよ以て上田を訪問し彼らに懇切にした。

ある時、上方より囲碁の上手が上田を訪れたため、室賀も彼と囲碁を囲む事に招待された。室賀は「良き時節」と心得、
日限を定めて、同苗孫右衛門を以て、『来月七日に真田が居城へ碁の会に参り候。その時昌幸を討とうと考えており、
御加勢を下さりますように。』と。家康の重臣である鳥居氏の方へ申し使わした。

ところが、この孫右衛門が内々に安房守へ心を通じており、そこから直に上田へ行き、この旨を申した。
昌幸は悦び、孫右衛門を馳走して返した。

室賀は準備が整ったと思い、家の子の桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛などを従えて上田に参った。
昌幸は兼ねて用意のことであり、彼を書院へと招いて囲碁を始めた。
この時、昌幸方で、室賀の討ち手は長野舎人、木村戸右衛門と決められており、この座にあった
禰津宮内大輔、麻里古藤八郎、長命寺、安楽寺、などの合図があると、長野、木村は次の間より太刀を抜いて
乱入し、室賀兵部太夫を無情にも殺したのである。

室賀の家臣である桑名、相澤、堀田たちは聞くより早く殿中に斬り入って散々に戦い、三人共に項羽の勇を
顕したが、多勢の敵に取り囲まれ、遂に生け捕りとなった。
この三人は後に心を変じて真田に仕え、無二の忠を尽くした。この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀に於いては、この事を聞くと、妻、子供たちは取るものもとりあえず甲州へと落ちていった。

(加澤平次左衛門覺書)

『真田丸』でも描かれた、室賀正武謀殺のお話ですね。




876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 06:27:25.79 ID:pgqA0lOw
黙れ!小童!

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 08:57:02.26 ID:xH2zkPKl
最期のセリフでいうかと思ったらそのセリフ言わなかった

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 15:04:15.57 ID:YETpin/L
茶坊主が正解
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檀那、甲斐無し!

2020年03月02日 16:06

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/02(月) 02:37:29.84 ID:YMbOnqIi
大阪夏の陣

幕府方、真田信吉勢の矢澤但馬、原郷左衛門、禰津主水は下人を数多引き連れ敵に向かって進み、矢澤但馬は
暫く馬を止めると暫く控え、敵の色を見て左の方へ乗り下ろし、この時
「郷左衛門も主水も、己の馬に乗ってこちらに来るように。」と言った

原郷左衛門はこれに答えて曰く
「やあ、但馬殿はおかしな事を仰せに成るものかな!座敷に有っては御家老と申し伯父とも申し、大身にて
ありますから、我等も跡に属して回ります。しかし、今ここにては聞きたくもない!」
(ヤア但馬殿ハ可咲言ヲ仰セラルル者哉、座敷抔ニテコソ御家老ト申伯父ト申大身ニテ御座有故ニ跡ニ属テ回レ
今爰ニテカ聞度モ無)
そう言って真っ直ぐに突撃し、討ち死にした。
彼は討ち死にと兼ねて思い定めており、死生に拘らずと言っていたという。

また禰津主水のオトナ(家老)である小林金太夫は、主水が但馬殿が向かった方に定めて行くだろうと考え、
主の馬の口を取ってその方に向けた所、主水は怒りだし「知らぬことだ!」と言って原郷左衛門の向かった方へ
真っ直ぐに進んだ。
そして、少し面上りの場所にて歩兵の敵と鑓を合わせ、「鑓を付けて参った!(敵を突きしとめた)」と声を上げ、
その鑓を引き抜こうとした所に、また別の歩兵の敵一人が、主水と戦っていた歩兵を助けに来て、その鑓を以て
主水の弓手(左)の乳の上より馬手(右)の脇まで突いてそのまま引き返した。

その働きの脇で、小林金太夫は敵が鑓を以て内兜を突いてきた所を、顔を振ってそれを避けたが、左の頬を
横に突かれた。しかし少しも怯まず、とっさに飛びついて斬り倒し、そのまま乗り掛かって体を押さえ、
主人の方を見て

「檀那!これを高名になされよ!」

と声を上げた。しかし主水は「俺は手負うた。水をひとつくれよ。」と言いながら馬上より落ち、死んだ。
金太夫は押さえつけていた敵を捨てて走り寄り、「檀那、甲斐無し!」と叫んだが、既に息絶えていた。

そのため金太夫は、朋輩の須加伝助、杉原仁兵衛、同心の剣持ち・喜左衛門、大畠小兵衛、青木九右衛門、
馬取の作右衛門を招き、如何せんと嘆いた。
その時、関東の軍勢は崩れかかり追い立てられていた。青木九右衛門は当時十八歳であったが大力であり、
主人の屍を、長刀を守木にして軽々と背負い、三町余りを一息に走り退いた。
主水には百人ばかりの下人が付いていたが、この時九人の他は連れて行かなかった。

矢澤但馬は、敵が崩れて引いていく方向を見定めて、先立って待ち受けて功名した。

またこの勢とは別に、禰津伊予、湯本源左衛門などが懸った所は、大きな沼が有り、その沼を廻って
進んでいる間に敵軍は敗走して、逆方向の左へ引き退いた。このため上田衆も沼田侍も、一騎も
戦うことはなかった。備中衆には討ち死にが多く有ったという。

(眞田氏大坂陣略記)



874 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/02(月) 05:21:02.73 ID:Rs2dDG2O
>>873
流石は頼康さんカッコいい、頼綱の小松明は戦国最後のこの戦いでも活躍したのだろうか?

三左衛門はいかが致したか

2020年03月01日 15:18

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 21:14:03.53 ID:kvEn4uQ7
大阪夏の陣の事。

幕府方である真田信吉の陣では、合戦前に諸侍座陣し、鑓を膝に載せ、兜の錣(しころ)を傾け備えていたが、
この時城方より撃ち懸かる鉄砲の音は、百千の雷の如くであった。
そのような中、湯本三左衛門は頭を振り上げて、大阪城を睨みつけ、左右を見廻して声高に言った

「朋輩衆は、何れも定めて我も我もと思っているだろうが、この三左衛門に於いては、秀頼の首を!と存じているが、
ともかく大方は、この中で一番の高名を仕るであろう!」

傍に居並んでいた、三左衛門の端方の伯父である横矢惣右衛門はこれを聞いてたしなめた
「やい三左衛門、ここに歴々が御座有る中で、未だクチバシも青い体にて、推参慮外の言を云うものかな!」

三左衛門はそれに言い返した
「何を惣左衛門殿は言いなさるのか。合戦がいま始まれば…」

と、この申しばなを言った所で合戦が始まり、この口論は止まり、面々は我劣らんと働いた。
(三左衛門答テ曰ク何ヲ惣左衛門トノハ謂ナサルナ軍ハ今初リ申ハナ聴テ軍初リケレバ面々吾ヲトラシト働ク)

そして湯本三左衛門は、言葉通り一番に高名した。

一方の横矢惣右衛門は、敵陣へまっしぐらに乗り込んで鑓を合せ太刀打ちをして、数ヶ所の鑓傷、太刀傷を
手負いて働き難くなり、このため自陣へと引き返した。
既に半途まで帰った時、味方に会い併せ、彼らは惣右衛門を「高名をはせた朋輩たちの中でも殊の外見事である。」
と讃えた。惣右衛門は彼らに尋ねた

「湯本三左衛門はいかが致したか?」

「彼は一番の手柄にて、しかも折付きの首(兜首の事か)を提げ、只今旗本へ参っております。」

惣右衛門はこれを聞くとハラハラと涙を流し
「朋輩衆よ、親の左近と、せがれの新五郎とに目をかけて下されよ。」
と言い捨てると、馬を進め敵陣へ再び駆け入り、討ち死にをした。

(眞田氏大坂陣略記)



871 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/29(土) 21:33:23.59 ID:5YMD1mBS
この今日の3つの逸話、戦国時代の人死に急ぎ過ぎやろ… 恩に報いたいとか、申し訳ないとか、自らの言や負傷を恥じた?とか理由があるのは分かるけど…

夫婦地蔵の伝説
義士塚の由来


872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/01(日) 02:58:06.82 ID:vZ/swqht
大坂夏の陣は仕方ないよ
自分達の存在意義が否定される時代がすぐそこまで来てて、この先はもう死に場所すら無いんだよ
関ケ原から大坂冬の陣の間に、皆がそれを実感したんだろうと思う

安房守の死と大坂の陣の左衛門佐

2020年02月28日 16:37

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 01:22:07.17 ID:eWP8eY2H
或いは云う。真田安房守(昌幸)は大阪の一戦(大坂の陣)の三年前に、高野山の麓、瀬良という場所で病死した。
その死に至ろうという時、息子の左衛門佐(信繁)にこのように語った

「私が今から三年存命していれば、秀頼公へ容易く天下を取って進上すべきものを。」

左衛門佐はこれを聞くと、「いかにして天下が秀頼公に服させるのでしょうか?」と尋ねた。
しかし安房守は
「重病故に、心乱れて筋無き事どもを申してしまった。どうやって、今や乞食同然に成り果てた私が、
天下を取って秀頼公に進上するというのか。」と、答えなかった。

左衛門佐これに
「私に対して御慎みはあるまじき事です。是非、思っておられることを仰せ聞かせて下さい。これは懺悔の御物語とも
なるでしょう。」と、たって所望したため、安房守は

「そういう事であれば、懺悔の物語として聞かせよう。おそらくここ三年の内に、家康は叛逆して軍兵を催し、
秀頼と討ち果たそうとする事は必定、掌の如くである。その時私が存命ならば、人数三戦ばかりを引き連れ勢州
桑名を越えて備えを堅く立てれば、家康は私が数度手並みを見せているので、真田が出向くと聞けば家康も
容易く懸け向かう事は無い。そして暫くこれを相支える内に、太閤の御恩賞の諸大名多ければ、大阪へ馳せ集まる
人も多いであろう。そして家康勢が押しかかって来れば、桑名へ撤退し、また先のように相支え、又押し懸けて
一戦せんとするならば、さらに撤退してそこで支える。そのようにしている内に、こちらは悉く人数が集まるであろう。

さて、我等は勢多まで撤退し、勢多の橋を焼き落とし、こちら側には柵を付けて相支えれば、数日ほども経す内に
畿内の人数が馳せ集まる事、掌の如きである。然らば天下を治めること、手の裏に有り。

…と云うものの、これは皆妄念の戯言である。長物語に、胸が苦しくなった。水を飲もう。」

そう言って水を飲み干すと、そのまま死んだという。

その後、左衛門佐は大阪に籠城した折、安房守の末期の一句の謀術を献案したものの、諸将の評議紛々となり、
その意に任せることが出来なかった。秀頼校も諸将の言に迷い、左衛門佐の申すに任せなかった。

そのような中、左衛門佐が柱にもたれていた所、武見の者来て、「大和口より猛勢が押し入りました。
伊達陸奥守(政宗)です!」と申す所に、また一人来て「陸奥守の勢の跡より猛勢が押し入りました。
越前少将(松平忠直)です!」と報告した。しかし左衛門佐は少しも変わる気色無く、

「よしよし、悉く入り込ませ、一度に打ち殺そう。」

と、さにあらぬ体であったので、諸士、その器量を感じたという。その後、左衛門佐が人数を出した所、伊達の
先手騎馬鉄砲と言って、馬上にて鉄砲を撃つ兵五百騎が、鉄砲を並び立てて、敵の向かってくる所に馬を乗り入れ、
駆け乱た所に、後ろの勢が押し込んで切り崩すという備えであった。
左衛門佐はこれを見て士卒悉くを伏せさせ、鑓衾を作り前に鉄砲を並べて打ち立てさせ、そのしおをみて
一度にどっと、牛起きに起きて突き懸れば、騎馬鉄砲は却って敗軍した。

左衛門佐は勝って兜の緒を締めた。伊達方の兵再び集まり向かって来る間に、左衛門佐は諸卒に下知して曰く
「炎天の事なれば、皆々兜を脱げ」
と言って兜を脱がせたのだ。伊達勢が近々となった時、諸卒は兜を着けようとしたが、左衛門佐はそれを着けさせ
なかった。敵との間が一町の内に及んだ時、
「では兜を着けよ!」
と下知した。その時悉く兜を着けたが、心が金石のように成り、その勢いで切って懸かると、伊達の備えを
切り崩したという。

この他、左衛門佐の数々の軍略は、人の耳口にあまねき事であるので皆記すに及ばず。
大阪合戦で諸将の働き、秀でたる事ども有りと言えども、左衛門佐が第一に秀でていたのは、
その器量ある上に、平生より武術の学びを怠らなかった顕れであると、人皆感ずる事也。

眞田記



これは皆、其の方のためではないか

2020年02月27日 17:01

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 01:13:44.70 ID:CSksC/7s
豊臣秀吉公が御他界された時、その嫡子である秀頼公は幼少であったため、御遺言に寄って天下に
四奉行(原文ママ)を定め置かれた。そして東国表に事が起これば家康公鎮め給えと有った。

さて、石田治部少輔(三成)は天下を奪うべき邪念を持っていたが、家康公を先に滅ぼさねばそれは
成り難しと考え、上杉景勝と申し合わせて景勝に反逆の色を立てさせた。これに対して家康公御父子は
軍勢五万八千にて御発向された。そして家康公は下野国宇都宮まで御下向され、秀忠公は同国小山に
御陣を据えられた。

この時、真田安房守(昌幸)も家康公に相従い下野国佐野の天明(現在の佐野市天明町)まで出馬していた。
天明より宇都宮まで上道九里、宇都宮から小山へは天明の方向に向かって四里という場所であった。
ここに於いて、石田治部少輔方より真田へ書状を以てこのように伝えてきた。

『今度景勝反逆の事は、某が申し含めた、家康を討ち取る企てである。其の方もこれに与し、家康を
討ち取るのだ。さすれば、其の方の本国である信州は申すに及ばず、甲州も其の方の故主である信玄の
国であるから、この両州に駿州も加えて与えるであろう。』

そう熊野の牛王に誓紙血判して遣わされた。
これを見て真田は俄に心変わりをし、家康公を討とうと考え、幸いにも子息の伊豆守(信之)が家康の
御旗本に在ったため急使を遣わし『談合すべきことあり、急ぎ天明へ来たれ』と伝えた。
そして伊豆守が天明に到着すると、安房守はこのように言った

「其の方を呼んだのは他でもない、今度の上杉景勝の反逆の事、彼一身の企みではない。石田治部少輔と
牒を合せて、家康を討つという謀計なのだ。景勝の反逆として家康が関東に向かえばその跡より軍兵を
起こして家康を討ち取るという。然ればこの安房守には、景勝と牒を合せて味方すれば信甲駿の
三州を宛行うとの盟誓の状を石田方より差し越した。であれば、其の方のため、又子々孫々のためであるから、
其の方が家康を討ち取るのだ!」

これを聞いた伊豆守は
「最もな仰せであります。ですが其の事は是非に及びません。何故ならば、家康公はその威儀を見るに、
中々謀にて打てるような人物ではありません。逆に石田に与すれば、幾程もなく滅びてしまう事明らかです。
家康公に与し給われば、子孫長く永福となるでしょう。」

これに安房守は
「其の方には分別が無い!どうして三ヶ国を領すると思っているのか。私には既に余命がない。これは皆、
其の方のためではないか!」

そう強く翻意を促したが、伊豆守は頑なに同意しなかった。安房守は仰天し、立腹して
「其の方は妻子に心が残っているのか!これは勇士の業ではない!」と色々の悪口に及んだため、
伊豆守はその座を立ち破り、馬に乗り鞭を揚げて宇都宮に帰り、家康公にこの趣をありのままに申し上げた。
家康公はこれを聞いて

「伊豆守が忠義の程、山よりも高く海よりも深い。これはそれを忘れまじき証拠である。」
として、差されていた脇差の下緒の先を切って伊豆守に与えた。

眞田記

いわゆる「犬伏の別れ」についての内容ですね。この場合は天明という場所ですが。



真田が尤もである。家康の誤りである

2020年02月26日 17:03

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 03:13:31.93 ID:ZNrPeW1P
羽柴秀吉公が天下一統に治められた時、真田(昌幸)は秀吉に従った。これに対し徳川家康公は、
彼が後の禍を成すべき者と思われたのか、秀吉公にこのように仰せられた
「真田が息を本多中務(忠勝)の聟にしたいのです。」
秀吉公は「尤も然るべし」と仰せに成り、これによって家康公は真田方へ使節を以て
「その方の御息を本多中務の聟にしたい」
と仰せ遣わされた。ところが真田は使節に向かい
「そんな使いであるはずがない!使いの聞き誤りであろう。急ぎ帰ってこの旨を申されよ!」
と伝えた。これに対し使節はいよいよ「伝える内容はこの通りです。」と云ったのだが、
「いやそうではない」と受け付けようとせず、仕方なく使節は帰り、この事を報告した。

家康公は合点に及ばなかったので、これを秀吉公に御物語された。すると秀吉公の仰せには
「それは真田が尤もである。家康の誤りである。『中務が娘を養い置いているので(養女にしているので)、
某の聟に』とあらば承知するであろう。」と仰せになった。家康公も「御尤である。」として、この趣にて
再び仰せ遣わされた所、真田安房守も同心して、子息伊豆守信幸との祝言があった。
この時伊豆守は十八歳であった。

眞田記

実際には真田信之小松姫の婚姻は、信幸二十三歳頃(天正十七年)だったようですね。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 09:23:02.04 ID:2mY1Il8v
真田系の作品には必ずと行っていいほど出てくる有名なエピソードやね。

大名の嫡男の正室が他家の陪臣の娘ってなんじゃそりゃというのは、そのとおりだし。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 15:23:12.51 ID:sue4eaxm
東国無双の娘なのにな

【雑談】最近になって真田信勝という人について知ったのだけど、

2018年10月12日 18:59

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 10:18:09.74 ID:G9GAWRMg
最近になって真田信勝という昌幸さんの三男(?)という人について知ったのだけど、
いい話悪い話まとめのブログにこの人の記事ってないのね。
不確かな情報が多くて逸話とかもあまりない感じなのかな。
脚光を浴びがちな信之さんや信繁さん以外の、信勝さん・昌親さんの逸話があれば教えて欲しいです。



342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 16:42:25.32 ID:ZECAMyn7
滝川一益に昌幸の母を託した
昌幸の盟友の依田信蕃(のぶしげ)・依田信幸兄弟から次男と長男は名前を取られてるから
三男はどうでもいい説

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 18:15:03.05 ID:McmCB9Rv
秀忠の真田攻めの件で口論になって刀を抜いた不埒者のことなんかどうでもいい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 20:35:39.70 ID:G9GAWRMg
自分でも書き込んだ後でいい話スレで質問するのは不適切かもしれないと思いました>三男
答えてくださった>>342さん、>>343さん、ありがとうございます
信之さんと信繁さんの名前の由来知らなかったです

345 名前:342[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 21:14:03.01 ID:louFDlmS
>>344
すまん、342は一ヶ月前に出たネタ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 09:50:19.67 ID:hz3JoOpB
>>340
確か四男までいたはず

真田幸隆、危機一髪

2018年08月21日 19:42

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:28:31.73 ID:e2ACyTJw
甲斐・越後の軍兵たちは互いに名乗り合い、火花を散らして戦い申した。

その中で真田弾正幸隆は傷を負って引き退くところを、上杉方の高梨源五郎頼治が名乗りを
上げ、真田とむずと組んで押し伏せ、鎧の脇板の隙間を二刀刺し申した。

そのうちに保科弾正(正俊)が取って返し、「真田討たすな兵ども!」と言って戦い申した。

真田の家人・細屋彦助は下に合わせ高梨源五郎の草摺の外れ、膝の上より討ち落とし、主の
敵を取った。これより保科を“槍弾正”と申したという。

保科もその時に越後方の大将に取り籠められ、すでに危うく見えたところを後詰の侍の海野・
望月・矢代・須田・井上・根津・河田・仁科ら9人の侍がこれを見て「保科討たすな人々!」

と大勢で一度に鬨を揚げ追い散らし、越後の本陣近きところまで切り掛かり申した。そこを
越後の後詰の陣所より斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条安芸守・毛利上総介・

大関安房守ら3千余勢が鬨の声を揚げて切り出て、追い返し押し戻し戦い申した。敵・味方
の手負い・死人、算を乱して数を知らず。

謙信も紺地に日の丸、白地に“毘”の字の旗2本を押し立てて原の町に備を立てられた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

真田幸隆、危機一髪



46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 09:19:26.55 ID:OFF1GAII
高梨頼治って
真田信繁の傅役の高梨内記の兄説があるようだけど
この逸話を見ると無理があるような

白井百人衆謀討

2018年05月30日 19:55

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:08:50.93 ID:Q6o9fFY/
天正12年正月上旬の頃のこと
当時、白井長尾の家中には百人衆と言う、歩行の武士集団があった。
正月に、沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、私曲あって
沼田の真田家から立ち退き、白井に属し、この百人衆の一員となった。

ところが程なく真田家への忠信を立てて故郷に帰りたいと思うようになり、3人は談合して
この事を真田家の高橋右馬允へ申した。右馬允がこれを金子美濃に相談すると、
「その方、上田へ参りこれを注進せよ」という事になり、高橋は丸山土佐守、木村戸右衛門を
通して真田昌幸にこれを申し上げると、昌幸は非常に喜び

「神妙の事である。卒爾無きように計るべし!」

そう仰せになった。そこで高橋はお暇を乞い戸鹿野へと帰った。
かの3人の者たちは、指示に従い百人衆の朋輩たちをたぶらかした
「沼田の鹿野には有徳(裕福)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか。」
そうして130人が申し合わせ、林、吉野、井上が案内して戸鹿野へと忍び入った。

しかし、かねての計画通りであり、彼らが侵入した所で橋を外し、四方より取り巻いて
襲撃した。このためまたたく間に120人余が討たれ、水練の達者であった5,6人のみが
助かり、白井に帰ることが出来た。

この忠節により、高橋右馬允は昌幸より知行を賜った。

(加澤平次左衛門覺書)



828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:42:23.53 ID:m3QtbrAB
うーん、敵方をほいほい受け入れてはいけないのだな。120人討死って、大損害じゃないの。

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 21:50:14.33 ID:8830ayA8
>>828
この場合の120人て小者は無しだろうから
いきなり侍大将120はキツすぎると思う

頸の周りをよく拭くように

2018年01月19日 17:30

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/18(木) 20:07:18.19 ID:kApnLLZB
真田安房守昌幸の次男、左衛門佐が大阪城に入城した。
幕府は安房守の弟である真田隠岐守信尹を以って、冬の陣和睦の後こう伝えた

『達って我らの方に参るように。然らば大禄が下されるであろう。』

左衛門佐は申した
「最前、高野山にて蟄居の間、私は様々に御家への仕官を望みましたが、御許容有りませんでした。
今回秀頼公に頼まれ、ここに参り籠城したのも、本意ではありません。
また大阪の籠城が、最後には利があると見込んでいるわけでもありません。

しかし、一旦武士が約束仕ったことを違変するのも本意ではありません。
ですので幾度仰せになられても、同心することは出来ません。
もし不義をかまえ、無道を致して降参してしまえば、そんな私に微官微録であっても
下されるのは、そちらにとって益のないことです。
大録を下されると言うのも、私がこの義を守っている故でしょう。」

後に、信尹が左衛門佐を呼び寄せこの事について談じたが、重ねては兎角の返答もなく
「義のある所には、天下にまた天下を添えて賜るとしても、それで心が動かされることではないのです。」
そして
「暑くて汗が出るのです」と、大肌を脱いで小姓に汗を拭かせたが、この時
「頸の周りをよく拭くように。やがて頸となって、家康公に対面するのだからな。」
そう笑いながら言ったという。

(士談)


六文銭のチョイスが

2017年06月04日 19:34

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 11:47:12.07 ID:vFpFRXFg
海外でサムライ人気にあやかったグッズの六文銭のチョイスがひどかったw

https://ih0.redbubble.net/image.85378537.0484/flat,1000x1000,075,f.u3.jpg
六文銭

https://www.redbubble.com/people/lbfwandy/works/15780484-sanada-6-coins-symbol


823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 11:58:56.67 ID:aWWA1lM5
清朝銭やん

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 14:15:33.36 ID:dMP9v6Pk
あれってなんかモデルとかあんのか

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 14:35:34.05 ID:a94OQdhh
起源は中国にあるのを主張したいんだろうな
そのうち韓国が一世紀遅れで便乗しそうだ

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 14:45:31.08 ID:jewCaLSf
信長の旗の永楽通宝は中国起源!
って言っても問題ない気がするが

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 19:00:02.77 ID:+DlYUPcQ

永楽通宝は中国の貨幣だろ?

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 19:45:01.14 ID:VLkuu2EI
真田の旗ができた頃の一文銭なんてどうせ中国由来なんだから
中国の貨幣使うのは別にいいだろ、てこと
突っ込むのは
「中国の貨幣じゃないか」てとこではなく、
「なんで明銭じゃないんだ」てとこだろう

真田幸村の遺跡付秀頼

2017年03月07日 21:40

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 01:06:36.77 ID:XljhnUxf
真田幸村の遺跡付秀頼

 続編の五巻に、松代侯の物語を記した中に、幸村が薩摩にいたことを言った。
その後薩州の者との文通を見せてきた。

「熊本藩の斎藤孝寿(孝寿は、権之助と称す。細川侯の町奉行。犬追物に精通す。)が甲寅(1794年)に南の方薩摩へ遊行した。
官工の伊正良に刀剣を造らせるためであり、ここに三十日程いた。
かつて私は『豊公秀頼は大坂城を逃れて、西の方薩摩に逃れた。』というのを聞いた。
もしその事があるのなら、必ず墳墓や子孫があるはずだ。
この地で北や南、西から東へ行き広く尋ねたり相談したりして求めたが、
邦の人々は皆知らないと言う。

ところがある人が言った。
『遠く府の南三十里に谿山市という市が有る。
その西隣に一村落が有る。名を木下という。』
たぶんその所だ。私は一日ここへ遊びにいき、近くの諸村老に『豊公の家の跡はあるか』と問うた。
その広さは一段ばかりで、中に二松有る。その大きさは両手で三回抱えるほどであった。
枝葉は霞の中に生い茂り、花の香りは遠近にたちこめている。
ここがまさしく豊公の居た所だ。
その距離東に百歩ばかりに一小堂があり、仏が安置されている。
その側に多くの墳墓がある。そのなかで抜きん出て偉大なものが豊公の墳であろう。
その後ろに墳が有り、すなわち臣僕の墓だという。銘が皆明らかではない。
その廃墟に家にしているものがおり、脇木下という。(本木下は本家で、脇木下は別家という。)
その北へ五・六十歩ぐらいのところの家に住んでいる者が本木下という。

私は秘かに聞いた。
元和の役で、豊臣公は秘かにその臣の真田幸村等と謀り、大坂城で死んだと偽って薩摩に逃げたのだと。
豊臣公は谿山に在り、真田君は頴娃に在ったという。
しかし世人はこれを知られるのを恐れ、よってその名を悔い改めて木下としたと。
これから後世の人は遂に邑の名を木下と言った。
公の人となりは甚だしく肥大で、身長は殆ど六尺。
公は常に都下に往来し、酔えば必ず道路に縦横した。
真田君のなりは役小角の遺風のようだった。これらから今に至っても諺で
谿山(タニヤマ)ノ酔人(エクロ)、頴娃(エノフ)ノ山伏と也云々
(エクロは薩摩の方言で酒酔人を言う。秀頼、薩摩で大酒であったことは前編四巻にも見える。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
河村宗澹曰く今の番頭役谿山孫右衛門は秀頼の末葉だそうだ。但し、谿山の苗字は多くあるが統は右孫衛門だと話した。)」

 これに拠れば、幸村は大坂で戦死してはいない。大助もまた、第五巻松代侯の話を証拠とすべきだ。
これも生害ではない。また秀頼の容貌もここで知れる。またすでに前編六十一巻にもこのことを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10006.html
通観すべきだ。

(甲子夜話続編)



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 14:26:14.59 ID:vISgFD1K
>>704
>木下
改名がガバガバすぎて草

沼田の御方勇力の事

2017年03月05日 18:37

小松姫   
694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 21:18:47.48 ID:TjB0caXZ
 沼田の御方勇力の事

中務太輔忠勝の男女の子共皆武勇のほまれ有
まつ第一の娘おますと号するは、
家康公御養女として後に真田伊豆守信幸に嫁す
これを沼田の御かたといふ

此沼田の御方勇力無双にて、父のゆつりを得て剛騒なり
尤賢女の道を正しうして、貞女の操をうしなわす、
家康公ふかく是を感心し給ひて、御寵幸を蒙り奉る


ある時、沼田の方、信州まつ代の城下にて花見の返るさ、
とある松の木の元に立ちやすらひけるに、
八寸まわり計の下枝、地をする計はゐさかりて、
其さまおもしろかりけるに、皆人申しけるは、
此枝を手折て立花にさゝは然るへからなんとたはむれるに、
沼田の方聞て、いと安き事なり手折て家つとにせんとて、
打かけのすそいさゝかからけつゝ彼木の元に立より、
なんの苦もなくくたんのえたをふつ、とねち切れれは
有合女中はいふにおよはす付々のさふらい迄、
大きに其力量を感しけり

(後略)

(九六騒動記 第六)

本多家には、小松姫が怪力だったって伝えられてたんだね



695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 21:24:48.32 ID:x2xTiC3w
てっきり根っこごと引っこ抜くのかと

土呑み裁判

2017年02月04日 17:39

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 13:09:23.79 ID:eUvcYzR0
土呑み裁判

戦国時代から少し時代は下った寛永15(1638)年、真田信之治世の信州にて村の間で山境の争いが生じた。
役人が双方に事情を聞いたが、双方明確な証拠を出すことができず、水掛け論になった。

そこ真田家では、争いとなっている山境の土を呑み、起請文を書いて自らが正しいといった方に山を与えることとした。

そうしたところ、片方の村の百姓が本当に山境の土を呑んだため、その山や山中の切り開かれた田畠はその村のものとされたとか。

鉄火起請についてはよく知られるところであるが、土を呑んで判決を下すのは珍しいこととか。

太平の世になっても、百姓は大変というお話。



平山優「真田信之


勝者の百姓のガッツのいい話ということで、こちらに。



真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw

【ニュース】真田父子肖像 原画は別人? 上智大准教授が研究

2016年12月31日 20:31

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 20:33:02.40 ID:T9EaeWR+
まじかー
https://twitter.com/kino_mayohitsu/status/814790483427762176
http://pbs.twimg.com/media/C063ndIVEAA7Ubi.jpg
C063ndIVEAA7Ubi.jpg

真田父子肖像 原画は別人? 上智大准教授が研究
http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20161230/KT161227KQI090004000.php



485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 20:56:44.53 ID:BImuGQqE
たびたびこういうの見かけるけど寺ってどんだけいい加減なんだ

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 21:39:30.18 ID:GyTo8wUi
親族だし
源頼朝→足利直義
足利尊氏→高師直
武田信玄→畠山義続
とかの説よりはマシな気が

真田左衛門佐幸村の妻女

2016年12月22日 17:15

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 00:23:23.28 ID:qpvz8I6l
同月(慶長20年5月)、真田左衛門佐幸村〈又云ふ信為〉の妻女が紀州
伊都郡に忍んでいたのを、浅野但馬守(長晟)の家人が召し捕って来た。

闕所(没収)の黄金57枚、並びに秀頼から真田に与えられた来国俊の
脇差を添えて進上した。件の2品は即座に但馬守へ下しなさったという。

――『関難間記』



歌舞伎「盛綱陣屋」

2016年12月03日 09:00

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/02(金) 19:13:10.64 ID:vLLxwyfB
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)

大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も信繁の妻も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。

信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・



真田昌幸「そういう事は時と場合による」

2016年10月31日 09:38

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 23:52:44.11 ID:ky4QU8i1
慶長5年、真田安房守(昌幸)は下野国犬伏という所から引き返し、信州へと向かった。
その途中の上野国は徳川家の領分であったため、人数を連ねて通ることは出来ず、昌幸は
真田左衛門佐(信繁)、桑原若狭、佐藤軍兵衛の四騎にて上野国赤山の麓へかかり、夜を日に継いで
沼田へと到達した、

安房守は沼田へ行き、左衛門佐では沼田の町に火をかけ焼く恐れがあると、木村土佐という家老を
沼田に遣わし、安房守は沼田に参着した。

沼田は伊豆守(信之)の領地であるが、普代の所であるから、百姓たちは急ぎ城へ参り、
「大殿が突然こちらにお出でになられた!」と伝えた。
伊豆守内儀(小松姫)はこれを聴くと

「伊豆守は家康公の御供をして東に向かった。家康公は今頃下野におられるはずだ。であるのに
安房守殿が帰ってくるのは不審である。」

そう考え、留守居たちに「大手の門に寄らせてはならない!」と命じ、門を固めているところへ、
桑原若狭が表れ、「安房守様をこちらにお連れしたい」といろいろ申し上げたが、内儀は
「城口にも近づけてはならない!」と拒絶し、安房守は仕方なく、沼田の町にある正覚寺という
浄土宗の寺に立ち寄ると、そこに石庵という半俗の者が参って「伊豆守様はどうなさったのでしょうか?」
と尋ねた。これに左衛門佐が

「伊豆守殿は浮木に乗って風を待っているのだ。」

と言い放ち、石庵は、これは話にならないと座を退いた。

安房守一行は暫く休息を取ると沼田を通過する事にしたが、沼田の町は伊豆守の行方がわからぬと
大騒ぎに成っていた。この様子に左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」と安房守に
申したが、安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」と叱りつけ、その後は昼夜の境無く
上田へと急いだ。

この伊豆守内儀とは、本多中務(忠勝)の娘である。

(慶長年中卜斎記)

有名な逸話ですが、この慶長年中卜斎記だと真田信繁は何故か、
沼田に火をかけたくてしょうがなかったようですね。



268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/31(月) 23:09:10.75 ID:PVC4EiTg
>左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」
>安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」

草刈昌幸と堺幸村で見たかったなこのやりとり

真田家の幸村は

2016年10月28日 14:04

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/28(金) 04:45:28.23 ID:pe8bkluQ
 この九月初旬に、真田豆州が訪ねられて四方山話をされた。
その中で、耳底に留まった話のいくつかを記しておく。


一、真田家の幸村は薩摩に行ったと思われる。
かの国の言い方にも時々それと思われることがある。
彼は先ごろかの国に問い合わせた文通がある。近日見せてくれるとのことだ。


 これ世上の説にあるが、諸書で言うところと異なっている。
どうして秀頼の墓が薩州にあるのかというのは、豆州の言葉の通りなのだろう。
そうであっても神祖の御深仁御厚徳を察することができる。




一、大助生害とのことだが、これも大阪で死んだという話の通りだとは思われないそうだ。
高野山の蓮華定院は昔からの家の代々の菩提所であるが、
その過去帳に大助の戒名があり、没年七十いくつかとかある。
ならば老死である。
御旗本衆の中に八木氏がおり、この家は母のつづきゆえ、
彼は猷廟(家光)の御時にこの家で召し出されたと聞いた。
今更ながら子孫の口から八木氏に問うのもいかがと思われ、まだ確かめてないと。


 こうであるなら、幸村が高野山に退去したというのも、この蓮華定院だろう。
八木氏は今の大番頭丹波守〔四千石〕の家か。


(甲子夜話続編)