fc2ブログ

「武家閑談」から真田大助と三人の小姓

2023年02月23日 18:43

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/22(水) 21:55:36.40 ID:ZjICsJeG
武家閑談」から真田大助と三人の小姓

秀頼公に御供した三十二人のうち、高橋半三郎は十五歳、土肥庄五郎は十七歳、高橋十三郎は十三歳で、三人はいずれも秀頼公の御小姓であった。
秀頼公御自害の時、秀頼公の上意により、上﨟どもは皆介錯を受けることとなった。
三人の児小姓と真田大助は幼少であり、加藤弥平太と武田左吉が介錯を申しつけられた。
三人の児小姓と真田大助はいずれも具足を脱ぎ、四人とも西に向かって並んで手を合せ、念仏を高らかに唱え、
雪のような肌をおし脱ぐと、四人一度に声をかけ、いさぎよく切腹した。
弥平太と左吉は介錯し終わると刀を捨て、涙をむせび泣いたという。



677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/22(水) 23:07:30.48 ID:muSIJZw6
誰が見たんだよその場面

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/22(水) 23:15:28.01 ID:QsUorrkW
神君です
スポンサーサイト



「武家閑談」から真田大助

2023年02月22日 19:04

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 20:27:41.98 ID:bL5twcMw
「武家閑談」から真田大助

五月七日の合戦前に真田左衛門佐(真田信繁)は秀頼公が御出馬されないため、子息大助を人質に城へ置き、自身は出陣することにした。
大助は十五歳であったが
「父上はお討死を決意されているようです。
私は父母の懐に生まれてより、これまで片時も離れずいました。
去年、大坂城に入る時に母上とは生き別れ、その後の母からの文でも
「互いに会うことはもうないでしょう。
どうか父の御最後を見届けなさい。生きようとせず、同じ枕で討ち死にして真田の名を挙げなさい」
と常々言われております。
ただ今父を見捨てて城に戻ることはできません」
と左衛門佐の袖に取り付いて泣いた。
左衛門佐も真田の軍兵も泣かぬものはなかった。
左衛門佐は涙を拭い、はったと大助を見つめて
「武士の家に生れた者は忠義名利を大切にして父母を忘れ、自分の身を忘れるものだ。城へ入れ。
秀頼公御屋形の御側で死ねばすぐに冥途にて巡り合うだろう。
暫時の別れを悲しむのは弓箭の家に生まれた者として甚だ未練がましい。早く城へ入れ」
と取り付く手を引き離すと、大助は名残惜しげに父を見て
「さようであればお城に参ります。来世でまたお会いしましょう」と別れた。
左衛門佐は気にしないふりをしていたものの、涙で東西がわからぬほどであった。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 20:29:36.12 ID:bL5twcMw
大助は城に入り、郎等たちを拒み、ただ一人で秀頼公の御供をして芦田曲輪の朱三矢倉へ籠った。
七日の朝食時から翌八日の午の刻まで、秀頼公とその御供三十二人は矢倉に詰めていた。
大助は父の行方を気にして、城中に逃れた人に父について尋ねたところ
「真田殿は天王寺前で大勢の敵陣に駆け入り、馬上で戦い、そののち槍十本ほどに槍玉にかけられてお討死されました」
と詳しく申す者があったため、大助は涙をおしぬぐい、
母と別れた時「最期にはこれを持って討ち死にせよ」と渡された水晶の数珠を取り出し、念仏を唱えた。
こうして秀頼公の御自害を待っていると、速水甲斐(速水守久)は不憫に思い
「貴殿は一昨日誉田の戦いで股に槍傷を負ったと聞きます。
療養のためにここを出なされ。真田の縁者のところまで送り届けさせましょう」
と言ったが、大助は返答せず、念仏だけを唱えた。
八日午の刻、秀頼公は御自害なさり、供の男女三十二人も自害し、矢倉に火をかけ同じ煙に昇った。
大助も腹を十文字に掻き切り自害したため、見る人聞く人「さすが武士の子孫である」と誉めぬものはなかったという。



「武家閑談」真田信繁の大坂城入城

2023年02月02日 19:58

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/02(木) 19:32:25.06 ID:y38eWKJL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-476.html
の元だと思われる
武家閑談」真田信繁の大坂城入城

真田は大坂に着き、その身のまま大野修理(大野治長)殿のところに行く。
その頃は伝心月沢として薙髪であり、玄関で案内を乞うた。
奏者が出てきて「山伏はどこから来た?」と尋ねてきたので
真田はわざと「大峯辺の山伏であります。御祈祷の巻数を持参いたしましたので御目見を願います」と言った。
奏者は「殿は城におられるのでこちらに通るがいい」と番列の脇に呼び入れられた。
御目見を待つ若侍たちが十人ばかりいて、刀剣の目利きをしていた。
一人が真田に向かい「御僧の刀を見せてくれぬか?」と言ったため
真田は「ただの山伏の犬おどしの刀ですのでなかなかお目にかける必要もありますまいが、お慰みになれば」と取り出した。
するりと抜いて柄を見れば、格好は申すにおよばず、刀の匂いも艶があった。
若侍たちは「さてもさても見事なり」と口々にほめ、「中小身はどうだろう」と銘を見ると「貞宗刀匠正宗」とあり、「中小身も見事だ」と言いあった。
ここで皆々怪しみ、さては只者ではないだろう、と思っているところに大野修理殿が城より帰った。
奏者が「玄関にて御目見なさってください」と待っていたものたちを引き出してきた。
大野は真田の前に手をついて「近日お越しになるとは伺っておりましたが、御足労くださったとは。
いそいで城に戻り秀頼公のお耳に入れましょう。どうぞ舎院にお入りください」と言って城に馳せ戻った。
さて秀頼公より速見甲斐守(速水守久)が使いとして馳せ参じ、黄金二百枚、銀三十貫目を下された。
これを見た玄関の若侍どもはあきれかえった。
真田はおかしがったため、そののちその若侍たちに会っては「刀の目利きは当たっていたようだな」と言うと、皆赤面したという。




611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 11:53:24.30 ID:+VrU+S7l
わざわざ正体を隠すとは性格が捻じ曲がった奴だな
そんなクズでも正体を見破り粛々と対応した修理はさすがだ

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 14:34:43.05 ID:LD9TP4LV
いきなり真田左衛門佐であるといったとこで、顔を知ってる分けない衛士たちが、はいそうですかと通すわけもなく、軽く弄うてやろうとなるのは仕方ないんじゃないかな
話を作った人はそう考えたんだろう

「武家閑談」から真田信繁の九度山脱出

2023年02月01日 19:48

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/01(水) 18:55:20.52 ID:+Gwn3Mrn
武家閑談」から真田信繁の九度山脱出

真田左衛門佐幸村(真田信繁)は父安房守昌幸といっしょに高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
紀伊国守の浅野但馬守長晟は橋本峠村近辺の百姓どもに下知し
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき」と触れを出した。
高野山学匠ならびに宗徒にも九度山からの遁人監視を申し付けた。
真田幸村は九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、残っていたのは女子供だけであった。
しかも真田は槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、とうてい止められるものではなかった。
さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると
「昨夜の八つ時に真田殿が奥方や子連れで馬に荷をつけ、弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。



士たる者は、平生より

2022年06月27日 16:03

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/26(日) 22:05:18.83 ID:mmbd0jN2
真田左衛門佐信仍(信繁)(本書に、世に幸村と云うは誤りなりと云々)は、家康公に御敵対申す始めより、
千子村正の大小を常に身を放たず帯していたという。村正の道具は、徳川家に祟るという説を真田が聞いて、
調伏の心としたのであろう。士たる者は、平生よりこのような忠義を含み、心を尽くすべし。

また石田治部少輔(三成)は悪しからざる者である。如何なる人であっても、各々その主人のために
命を軽んじ、義を立てて事を行う者は、敵であっても悪むべきではない。これは君臣共に心得るべき
事である。

これは水戸黄門光圀卿は宣われた事だという。

新東鑑



真田はこの兜を着け、件の馬に乗って

2022年01月26日 17:21

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/26(水) 11:06:52.44 ID:WTGde5Db
記に、この頃武田信玄の家人であった、原田隼人正(一説に貞胤と諱するとあり)という者が在ったが、
勝頼滅亡のあと、浪人していたのを、越前少将(松平)忠直朝臣聞かれ、「彼は無双の剛の者なれな」と、
召し抱えられ、黒母衣の衆に加え軍使とされていたが、彼は真田左衛門佐と旧友であった。

大阪冬の陣が御和談になると、真田は頻りに彼を招いたが、原田は「自分では判断できない。」として
忠直朝臣にお伺いを立てた。忠直は「行って対面すべし。」と許された。

原田隼人正は喜んで、真田の陣屋に至ると、左衛門佐は様々に饗応し、往時などを語り、互いに袖を濡らした。
酒宴も終わると左衛門佐は言った

「それがしは今度討死を遂げるのだと思っていたのだが、不慮の御和睦となり、今日まで命を永らえ。
貴殿と再び見参できたことに悦び入っている。身、不詳では有るが、今回一方の大将を承ったことは、
生前の面目、死期の思い出と存じている。

御和睦も一旦の事であり、遂にはまた一戦があると推量している。
それがしも一両年の間には討死せんと思い定め、臨終の晴に、あそこの床の上に飾り置いた、
鹿の抱角(だきつの)を打った冑だが、あれはそれがしが先祖重代の家宝であるのを、父安房守より
譲り請うたものであり、これを着けて討ち死にを遂げたいと思っている。
もし、この冑をご覧に於いては、それがしの首であると思し召され、一遍の御回向に預かりたい。」

そのように語ると、隼人正はこれを聞いて
「戦場に赴く身は、誰が生き残ろうとするだろうか。遅れ、先立つとも、互いに冥土にて再会すべし。」
と笑った。
その後に、左衛門佐は白河原毛の馬に白鞍に金を以て六文銭を付けたものを曳き出させ、自ら騎乗して
地道を乗りながら、

「今度合戦があれば、城郭は破却されており、平場の戦と成るだろう。然れば平野辺りに駆け出て、
東国の大軍に馳せ合わせ、この馬の息の続く限り戦って討死を遂げようと存じており、そのために一入、
この馬を秘蔵しているのだ。」

と言って馬より下り、また酒宴になり、暮れに及んで隼人正は帰ったが、翌年五月七日、真田は
この兜を着け、件の馬に乗って討ち死にしたことこそ哀れであると云われた。

新東鑑



983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/26(水) 11:16:19.69 ID:ZiC+auCQ
新東鑑の凡例を見ると「記とは難波戦記をさす」とあり
増補難波戦記「禁裏より七箇条を仰出さるる事 并真田幸村原貞胤の事」にほぼ同じ話があるので
出典はそちらの方がいいかと

豊臣家二世にして、亡ぶべき時至る

2022年01月25日 17:00

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/24(月) 20:30:23.62 ID:mtcjsHOY
大阪冬の陣の和睦の時のこと

或る本に、この時真田左衛門佐(信繁)は秀頼公を諌めて

「敵味方、甲冑を脱ぎ万歳を唱えています。
今宵、敵の虚に乗じてこれを討てば勝利必然であり、両御所(家康・秀忠)を打ち取ること、
掌の中です。」

そのような事を申したが、淀殿の仰せに
「今日和議を約したというのに、言下に違変などできるわけがない。」
と、御承引無かった。真田は再々諌めたが、織田有楽、大野修理亮などは頻りにこれを制止した。

そのような中、真田は間諜を以て両将軍の陣営を窺ったが、それによると両御所も予めこれを慮って、
三軍の守りは非常に厳整であり、もし誤って城兵が夜襲すれば、たちまち粉々にされてしまうだろう、
との事であった。

これを聞いて真田も大いに感じ、豊臣家二世にして、亡ぶべき時至るを嘆いたという。

新東鑑



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/24(月) 21:34:08.49 ID:HJjNCmQ0
ええと、つまり真田のこわっぱ程度の悪だくみなど、
神君はまるっとお見通しだったって悪い話?

故に我等は、一番に攻め入って

2022年01月17日 16:50

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/17(月) 14:26:17.50 ID:1irRVzBy
或る記に、真田伊豆守信之の家来である、矢澤但馬守、半田筑後、榊原石見といった輩は
度々武功のある者共であったので、大阪冬の陣において、敵の鉄砲が雨よりも猶繁く降り注ぐ
場所でも、一番に進んで仕寄を付けた所、この日、将軍家(秀忠)が御巡見あり、

『真田河内守(信吉)の仕寄は他に異なり、甚だ城に近い』

との御諚があった。これに御目付衆が畏まって申し上げた

「この事、私共も先達て真田家に対し批判した所、河内守はこのように申しました。

『この手は城中の木村長門守(重成)の持ち口です。もし今にも総攻めとの御触が有れば、
ここで木村は手痛く働くでしょう。

かの長門守と私の叔父である左衛門佐(真田信繁)は、刎頸の交わりであると承っています。
故に我等は、一番に攻め入って長門守と勝負を決する覚悟をしており、そのために諸陣に勝れて
仕寄を付けたのです。もし御咎めが有れば、この事を言上し、切腹仕ります。』

そのように申したために、我々もそのままに差し置きました。」

と言上したという。

新東鑑

大阪方に付いた叔父の親友の持ち口だからこそ決死の覚悟をしていたという、真田信吉のお話



これに信之は、偽って

2021年11月16日 18:16

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/16(火) 17:21:56.14 ID:pClttnhG
或る記に、上方で石田三成らが挙兵した時、真田安房守(昌幸)は息子の伊豆守(信之)を呼び寄せ、
「豊臣家に従わん」と申し聞かせたが、信之は一向に同心しなかったために昌幸は不興の顔色にて

「私は既に老年であり、立身の望みは毛頭無い。然れども海野家(真田は海野小太郎幸常の裔である)の
再興を思い、次には其の方や左衛門佐(信繁)を世にあらしめんが為ばかりに存じ立った事であるのに、
汝は内府(徳川家康)の家来である本多中務(忠勝)の縁者であることを以て、親の命に背き
不届きである!」と申した。

これに信之は、偽って答えた
「近年内府の御懇志について、一旦は私の考えも申し述べました。しかし父上が是非にも上方と
御一味するとの思し召しであるのならば、御意に従うより他はありません。」

この言葉に安房守は大いに喜び、
「其の方同心の上はいよいよ相談を遂げ、秀頼公へ一忠節無くては叶うべからず。それについて
一層熟考致すべし!」
と申すと、伊豆守も
「なるほど、心得ました。」
と言ってその座を立ち、勝手の方より密かに外に出ると、直ちに馬に打ち乗って陣所を出、
関東の味方をしたという。

新東鑑

信之が昌幸を欺いて徳川に味方したという、「犬伏の別れ」の別バージョン?のお話。



紀州大納言 vs 尾張大納言 with 真田のお兄ちゃん

2021年09月25日 15:55

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 23:51:44.97 ID:AIMjDuGE
紀州大納言 vs 尾張大納言 with 真田のお兄ちゃん

南紀徳川史』より、島原の乱が起きた時のこと。

将軍・徳川家光のお召で徳川御三家の三人に大名旗本巧者の面々が登城した。

その席で尾張大納言・徳川義直は島原蜂起の一報に対し

「何物ぞや百姓どもの分際にて何程のこと有るや。踏みつぶすに手間取るまじき」

と述べた。これに対して紀州大納言・徳川頼宣曰く

「左様にては無之候。古の諺にも外の百人を以て内の一人を難窮と申候に万斗の凶徒ら必死に立て籠もり候を手軽にはなり兼申候
 殊に天草富岡城攻、本渡合戦の仕方聤兒志桓にての勢配り唐子表より陣払いの躰嶋原にては瀬野合戦三江杉谷表の兵糧論の体百姓計の
 仕方と不存候如何様御手間入可候」

要するに天草の一揆軍を愚民の反乱(プゲラ)ザーコザーコと完全に侮る尾張大納言と、伝え聞く一揆軍の戦いぶりは舐めたらアッカッンー(舐めたらアッカッンー)と
諫める?(反論する?)紀州大納言の構図である。

これを近くで聞いていた人物がいた。

信州松代藩主・真田信之(71)であった。二人の言い分を聞いていた信之は

「軍の儀は左様にては無御座ものにて候。むかし亡父の安房守・昌之御意違ひ権現様より御譜代歴々一万五千にて信州上田城へ御取懸被成候我等二十三歳にて
 父安房守昌幸か先手致し候一戦に打勝候御人数を加賀川迄追討に四百計首を取申候御譜代歴々の鎧の推付を見申候其時の様子尾張さま御家老成瀬隼人可存候。
 我等了簡には紀州さま御意御尤と奉存候」

このように述べた。

意訳するとお前らの親父の譜代の兵一万五千に攻められたとき俺二十三歳で親父の先手務めたけど、勝って首400取ったわ。尾張大納言の家老・成瀬隼人がその時のことよく知ってんよ。
あ、俺たちの考えとしては紀州大納言の意見が尤もだと思いますよ。

尾張大納言はこれを聞いて咳をした。

お兄ちゃん、成瀬隼人正正成は12年前に死んだでしょ。と思ったけど知らなかったのかもしれないし名将言行録由来の話のようだし、あからさまに南龍公贔屓な内容だと
思うのでその辺も考慮する必要はあるかと思うが、島原の蜂起に対して楽観視する尾張大納言・徳川義直とそれに異を唱えて慎重論を唱える紀州大納言・徳川頼宣に、それに加勢しつつ
自家の武功をガッツリアピールする信濃のお兄ちゃんであった。

自らを慕ってくれる南龍公をアシストしつつお家自慢も交える真田信之の要領のいい?お話。




576 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 11:30:43.08 ID:X1yrL8my
>>573
これ作り話で、真田ごときがこんな事言ったら取り潰しです

577 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 12:24:03.58 ID:J4tl1FN+
>>576
逸話スレでそんな野暮天言いなさんな

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:30:19.10 ID:rYrwbmjl
>>576
こういうのは「じゃあ何でこういう話が伝わったのか」を考えるのが大切

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:48:59.86 ID:aHWiSKfx
なんで?>南龍公をageたい
問題点>碌に実戦経験が無いのは南龍公もだから反論の説得力に欠けるな
解決策>ベテランの戦国武将に同意させれば説得力が生まれるな
対象者>南龍公と関係があって徳川とも戦った真田信之が適任であろう

こんな感じで産まれたんだろうか

581 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 15:04:37.24 ID:yrJbFXGK
>>579
南紀徳川史自体が明治に紀州徳川当主によって編纂されたものだし、この逸話も本編末くらいにある様に名将言行録ベースの逸話なので紀州徳川ageのためそう言う風に書かれているとは思う。

尾張徳川義直の発言も実際はニュアンスが違ってたかも知れないけど、恣意的に思うし。

真田信之は自家が権現様の大軍相手に大勝した例を出して、一揆を侮ってはいけないと言う風に諭してるのだと思う。

でも、事実を言ってるだけなのでこの程度では>>576の言う風にお取りつぶしにはならない気もする

安房守については「表裏の士」であると

2021年07月30日 18:50

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/30(金) 15:45:51.63 ID:B1SsKwpE
信州上田の真田安房守(昌幸)は上杉景勝公の御留守中に、太閤(秀吉)家臣の大谷刑部少輔(吉継)と
内縁の筋目が有ることを以て、大谷に頼り才覚仕り、次男源次郎(信繁)を秀吉に差し上げ、
景勝公との関係を引き切った。
彼が総領である伊豆守(信之)を自分の所に差し置いていたのは、安房守は老巧であり、末を考え、
今後権現様(家康)へ進上仕るべしと思案し、よって次男を太閤に差し上げたのだという。

こう言った事であったため、太閤に対し景勝公より御断りを仰せ入れられ、源次郎の身柄を
是非お返し下されるようにと訴えたが、太閤に大谷が能く取り繕った故に、太閤より様々に
御詫言が有ったことで、事済んだ。

これ故に安房守については「表裏の士」であると、彼を咲わない者は無かった。

管窺武鑑

上杉も真田昌幸には相当思う所あったんだろうな。


「真田次第」との御諚を承れば

2021年07月03日 17:32

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/03(土) 11:34:41.30 ID:+DRaKY/T
大阪城に於いて軍評定の時、真田左衛門(信繁)がこう申した

「旧冬の御和議は、至極残念でした。旧冬まではこちら方に心を通じる大名もあったのに、
御和議となり、惣堀まで埋め、皆悉く降参のようになりました。

大御所(家康)は名将であり、衆心を摂り、旧冬の働きも、軽き功を重くし、小さいことでも大きく
感じ給う故、上下ともにいよいよ親しみ付いていまる。

さて又、京、伏見へ発向し、膳所、大津は手勢を遣わし、瀬田の橋を焼き落とし、京、伏見を
確保してしまえば、その内に味方に通じる衆も有るはずですが、味方の密談は敵に漏れており、
この儀も成りません。

野戦をしようにも、味方は小勢であり寄り合い武者ですから、中々勝利は得難いでしょう。
御籠城なさる外に手立て有りません。

であれば、我等はいかにも怯懦の体を示し、それによって『大阪方は臆して戦いに出てこないのだ』と
敵に思わせれば、彼らに驕る心が出来ること必定です。

驕りが出来れば軍法が乱れます。その節を見て、秀頼様が大広間に御出になり、面々に御抔を下され、
御言葉に預かれば、衆心一統し、一戦を望むのは勇士の本意です。
その時、「真田次第」との御諚を承れば、私が両御所(家康・秀忠)の御陣場を見定め、彼らの不意を
突いて、又は夜戦の奇変、それがしの一身の采配にて御座あるべし!」

そう申した所、譜代衆その他、「自分こそ総大将を」と思う輩も多かったため
「真田の只今の言葉、我々を差し置いて総人数の采配は推参至極なり、耳の穢である!」
と謗る故、内輪の破れと成り、互いの権争のため評定不調となった。

管窺武鑑

大阪夏の陣では、みんな総大将をやりたがって方針が纏まらなかった、という話ですね。



室賀正武謀殺

2020年03月03日 17:06

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 00:42:44.47 ID:Zrb3PBKC
かくて(天正壬午の乱の結果)、信州一国は徳川家康公に属し奉ったが、同年(天正十一年)十月、真田安房守(昌幸)は
信州国中を従えんと企み、先ず室賀兵部太夫(正武)を討つべしと、一門が一手になって室賀の館へ押し寄せた。
兵部太夫は自ら討って出て、篠山において火の出るほどに戦い、互いに郎党が討たれ相引きに撤退した。
しかし翌日に安房守勢はとって返し攻めかけたことで、室賀方は内より和を乞い、これを安房守も許して
帰城した。

室賀は真田に屈することを無念に思い、翌天正十二年六月、家臣の高井彦右衛門尉を以て遠州の家康公にに申し上げた所、
家康公より「何としても謀を以て真田を討つべし」と仰せ寄越された。室賀は斜め成らず悦び、真田を油断させるため、
いよいよ以て上田を訪問し彼らに懇切にした。

ある時、上方より囲碁の上手が上田を訪れたため、室賀も彼と囲碁を囲む事に招待された。室賀は「良き時節」と心得、
日限を定めて、同苗孫右衛門を以て、『来月七日に真田が居城へ碁の会に参り候。その時昌幸を討とうと考えており、
御加勢を下さりますように。』と。家康の重臣である鳥居氏の方へ申し使わした。

ところが、この孫右衛門が内々に安房守へ心を通じており、そこから直に上田へ行き、この旨を申した。
昌幸は悦び、孫右衛門を馳走して返した。

室賀は準備が整ったと思い、家の子の桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛などを従えて上田に参った。
昌幸は兼ねて用意のことであり、彼を書院へと招いて囲碁を始めた。
この時、昌幸方で、室賀の討ち手は長野舎人、木村戸右衛門と決められており、この座にあった
禰津宮内大輔、麻里古藤八郎、長命寺、安楽寺、などの合図があると、長野、木村は次の間より太刀を抜いて
乱入し、室賀兵部太夫を無情にも殺したのである。

室賀の家臣である桑名、相澤、堀田たちは聞くより早く殿中に斬り入って散々に戦い、三人共に項羽の勇を
顕したが、多勢の敵に取り囲まれ、遂に生け捕りとなった。
この三人は後に心を変じて真田に仕え、無二の忠を尽くした。この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀に於いては、この事を聞くと、妻、子供たちは取るものもとりあえず甲州へと落ちていった。

(加澤平次左衛門覺書)

『真田丸』でも描かれた、室賀正武謀殺のお話ですね。




876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 06:27:25.79 ID:pgqA0lOw
黙れ!小童!

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 08:57:02.26 ID:xH2zkPKl
最期のセリフでいうかと思ったらそのセリフ言わなかった

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 15:04:15.57 ID:YETpin/L
茶坊主が正解

檀那、甲斐無し!

2020年03月02日 16:06

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/02(月) 02:37:29.84 ID:YMbOnqIi
大阪夏の陣

幕府方、真田信吉勢の矢澤但馬、原郷左衛門、禰津主水は下人を数多引き連れ敵に向かって進み、矢澤但馬は
暫く馬を止めると暫く控え、敵の色を見て左の方へ乗り下ろし、この時
「郷左衛門も主水も、己の馬に乗ってこちらに来るように。」と言った

原郷左衛門はこれに答えて曰く
「やあ、但馬殿はおかしな事を仰せに成るものかな!座敷に有っては御家老と申し伯父とも申し、大身にて
ありますから、我等も跡に属して回ります。しかし、今ここにては聞きたくもない!」
(ヤア但馬殿ハ可咲言ヲ仰セラルル者哉、座敷抔ニテコソ御家老ト申伯父ト申大身ニテ御座有故ニ跡ニ属テ回レ
今爰ニテカ聞度モ無)
そう言って真っ直ぐに突撃し、討ち死にした。
彼は討ち死にと兼ねて思い定めており、死生に拘らずと言っていたという。

また禰津主水のオトナ(家老)である小林金太夫は、主水が但馬殿が向かった方に定めて行くだろうと考え、
主の馬の口を取ってその方に向けた所、主水は怒りだし「知らぬことだ!」と言って原郷左衛門の向かった方へ
真っ直ぐに進んだ。
そして、少し面上りの場所にて歩兵の敵と鑓を合わせ、「鑓を付けて参った!(敵を突きしとめた)」と声を上げ、
その鑓を引き抜こうとした所に、また別の歩兵の敵一人が、主水と戦っていた歩兵を助けに来て、その鑓を以て
主水の弓手(左)の乳の上より馬手(右)の脇まで突いてそのまま引き返した。

その働きの脇で、小林金太夫は敵が鑓を以て内兜を突いてきた所を、顔を振ってそれを避けたが、左の頬を
横に突かれた。しかし少しも怯まず、とっさに飛びついて斬り倒し、そのまま乗り掛かって体を押さえ、
主人の方を見て

「檀那!これを高名になされよ!」

と声を上げた。しかし主水は「俺は手負うた。水をひとつくれよ。」と言いながら馬上より落ち、死んだ。
金太夫は押さえつけていた敵を捨てて走り寄り、「檀那、甲斐無し!」と叫んだが、既に息絶えていた。

そのため金太夫は、朋輩の須加伝助、杉原仁兵衛、同心の剣持ち・喜左衛門、大畠小兵衛、青木九右衛門、
馬取の作右衛門を招き、如何せんと嘆いた。
その時、関東の軍勢は崩れかかり追い立てられていた。青木九右衛門は当時十八歳であったが大力であり、
主人の屍を、長刀を守木にして軽々と背負い、三町余りを一息に走り退いた。
主水には百人ばかりの下人が付いていたが、この時九人の他は連れて行かなかった。

矢澤但馬は、敵が崩れて引いていく方向を見定めて、先立って待ち受けて功名した。

またこの勢とは別に、禰津伊予、湯本源左衛門などが懸った所は、大きな沼が有り、その沼を廻って
進んでいる間に敵軍は敗走して、逆方向の左へ引き退いた。このため上田衆も沼田侍も、一騎も
戦うことはなかった。備中衆には討ち死にが多く有ったという。

(眞田氏大坂陣略記)



874 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/02(月) 05:21:02.73 ID:Rs2dDG2O
>>873
流石は頼康さんカッコいい、頼綱の小松明は戦国最後のこの戦いでも活躍したのだろうか?

三左衛門はいかが致したか

2020年03月01日 15:18

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 21:14:03.53 ID:kvEn4uQ7
大阪夏の陣の事。

幕府方である真田信吉の陣では、合戦前に諸侍座陣し、鑓を膝に載せ、兜の錣(しころ)を傾け備えていたが、
この時城方より撃ち懸かる鉄砲の音は、百千の雷の如くであった。
そのような中、湯本三左衛門は頭を振り上げて、大阪城を睨みつけ、左右を見廻して声高に言った

「朋輩衆は、何れも定めて我も我もと思っているだろうが、この三左衛門に於いては、秀頼の首を!と存じているが、
ともかく大方は、この中で一番の高名を仕るであろう!」

傍に居並んでいた、三左衛門の端方の伯父である横矢惣右衛門はこれを聞いてたしなめた
「やい三左衛門、ここに歴々が御座有る中で、未だクチバシも青い体にて、推参慮外の言を云うものかな!」

三左衛門はそれに言い返した
「何を惣左衛門殿は言いなさるのか。合戦がいま始まれば…」

と、この申しばなを言った所で合戦が始まり、この口論は止まり、面々は我劣らんと働いた。
(三左衛門答テ曰ク何ヲ惣左衛門トノハ謂ナサルナ軍ハ今初リ申ハナ聴テ軍初リケレバ面々吾ヲトラシト働ク)

そして湯本三左衛門は、言葉通り一番に高名した。

一方の横矢惣右衛門は、敵陣へまっしぐらに乗り込んで鑓を合せ太刀打ちをして、数ヶ所の鑓傷、太刀傷を
手負いて働き難くなり、このため自陣へと引き返した。
既に半途まで帰った時、味方に会い併せ、彼らは惣右衛門を「高名をはせた朋輩たちの中でも殊の外見事である。」
と讃えた。惣右衛門は彼らに尋ねた

「湯本三左衛門はいかが致したか?」

「彼は一番の手柄にて、しかも折付きの首(兜首の事か)を提げ、只今旗本へ参っております。」

惣右衛門はこれを聞くとハラハラと涙を流し
「朋輩衆よ、親の左近と、せがれの新五郎とに目をかけて下されよ。」
と言い捨てると、馬を進め敵陣へ再び駆け入り、討ち死にをした。

(眞田氏大坂陣略記)



871 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/29(土) 21:33:23.59 ID:5YMD1mBS
この今日の3つの逸話、戦国時代の人死に急ぎ過ぎやろ… 恩に報いたいとか、申し訳ないとか、自らの言や負傷を恥じた?とか理由があるのは分かるけど…

夫婦地蔵の伝説
義士塚の由来


872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/01(日) 02:58:06.82 ID:vZ/swqht
大坂夏の陣は仕方ないよ
自分達の存在意義が否定される時代がすぐそこまで来てて、この先はもう死に場所すら無いんだよ
関ケ原から大坂冬の陣の間に、皆がそれを実感したんだろうと思う

安房守の死と大坂の陣の左衛門佐

2020年02月28日 16:37

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 01:22:07.17 ID:eWP8eY2H
或いは云う。真田安房守(昌幸)は大阪の一戦(大坂の陣)の三年前に、高野山の麓、瀬良という場所で病死した。
その死に至ろうという時、息子の左衛門佐(信繁)にこのように語った

「私が今から三年存命していれば、秀頼公へ容易く天下を取って進上すべきものを。」

左衛門佐はこれを聞くと、「いかにして天下が秀頼公に服させるのでしょうか?」と尋ねた。
しかし安房守は
「重病故に、心乱れて筋無き事どもを申してしまった。どうやって、今や乞食同然に成り果てた私が、
天下を取って秀頼公に進上するというのか。」と、答えなかった。

左衛門佐これに
「私に対して御慎みはあるまじき事です。是非、思っておられることを仰せ聞かせて下さい。これは懺悔の御物語とも
なるでしょう。」と、たって所望したため、安房守は

「そういう事であれば、懺悔の物語として聞かせよう。おそらくここ三年の内に、家康は叛逆して軍兵を催し、
秀頼と討ち果たそうとする事は必定、掌の如くである。その時私が存命ならば、人数三戦ばかりを引き連れ勢州
桑名を越えて備えを堅く立てれば、家康は私が数度手並みを見せているので、真田が出向くと聞けば家康も
容易く懸け向かう事は無い。そして暫くこれを相支える内に、太閤の御恩賞の諸大名多ければ、大阪へ馳せ集まる
人も多いであろう。そして家康勢が押しかかって来れば、桑名へ撤退し、また先のように相支え、又押し懸けて
一戦せんとするならば、さらに撤退してそこで支える。そのようにしている内に、こちらは悉く人数が集まるであろう。

さて、我等は勢多まで撤退し、勢多の橋を焼き落とし、こちら側には柵を付けて相支えれば、数日ほども経す内に
畿内の人数が馳せ集まる事、掌の如きである。然らば天下を治めること、手の裏に有り。

…と云うものの、これは皆妄念の戯言である。長物語に、胸が苦しくなった。水を飲もう。」

そう言って水を飲み干すと、そのまま死んだという。

その後、左衛門佐は大阪に籠城した折、安房守の末期の一句の謀術を献案したものの、諸将の評議紛々となり、
その意に任せることが出来なかった。秀頼校も諸将の言に迷い、左衛門佐の申すに任せなかった。

そのような中、左衛門佐が柱にもたれていた所、武見の者来て、「大和口より猛勢が押し入りました。
伊達陸奥守(政宗)です!」と申す所に、また一人来て「陸奥守の勢の跡より猛勢が押し入りました。
越前少将(松平忠直)です!」と報告した。しかし左衛門佐は少しも変わる気色無く、

「よしよし、悉く入り込ませ、一度に打ち殺そう。」

と、さにあらぬ体であったので、諸士、その器量を感じたという。その後、左衛門佐が人数を出した所、伊達の
先手騎馬鉄砲と言って、馬上にて鉄砲を撃つ兵五百騎が、鉄砲を並び立てて、敵の向かってくる所に馬を乗り入れ、
駆け乱た所に、後ろの勢が押し込んで切り崩すという備えであった。
左衛門佐はこれを見て士卒悉くを伏せさせ、鑓衾を作り前に鉄砲を並べて打ち立てさせ、そのしおをみて
一度にどっと、牛起きに起きて突き懸れば、騎馬鉄砲は却って敗軍した。

左衛門佐は勝って兜の緒を締めた。伊達方の兵再び集まり向かって来る間に、左衛門佐は諸卒に下知して曰く
「炎天の事なれば、皆々兜を脱げ」
と言って兜を脱がせたのだ。伊達勢が近々となった時、諸卒は兜を着けようとしたが、左衛門佐はそれを着けさせ
なかった。敵との間が一町の内に及んだ時、
「では兜を着けよ!」
と下知した。その時悉く兜を着けたが、心が金石のように成り、その勢いで切って懸かると、伊達の備えを
切り崩したという。

この他、左衛門佐の数々の軍略は、人の耳口にあまねき事であるので皆記すに及ばず。
大阪合戦で諸将の働き、秀でたる事ども有りと言えども、左衛門佐が第一に秀でていたのは、
その器量ある上に、平生より武術の学びを怠らなかった顕れであると、人皆感ずる事也。

眞田記



これは皆、其の方のためではないか

2020年02月27日 17:01

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 01:13:44.70 ID:CSksC/7s
豊臣秀吉公が御他界された時、その嫡子である秀頼公は幼少であったため、御遺言に寄って天下に
四奉行(原文ママ)を定め置かれた。そして東国表に事が起これば家康公鎮め給えと有った。

さて、石田治部少輔(三成)は天下を奪うべき邪念を持っていたが、家康公を先に滅ぼさねばそれは
成り難しと考え、上杉景勝と申し合わせて景勝に反逆の色を立てさせた。これに対して家康公御父子は
軍勢五万八千にて御発向された。そして家康公は下野国宇都宮まで御下向され、秀忠公は同国小山に
御陣を据えられた。

この時、真田安房守(昌幸)も家康公に相従い下野国佐野の天明(現在の佐野市天明町)まで出馬していた。
天明より宇都宮まで上道九里、宇都宮から小山へは天明の方向に向かって四里という場所であった。
ここに於いて、石田治部少輔方より真田へ書状を以てこのように伝えてきた。

『今度景勝反逆の事は、某が申し含めた、家康を討ち取る企てである。其の方もこれに与し、家康を
討ち取るのだ。さすれば、其の方の本国である信州は申すに及ばず、甲州も其の方の故主である信玄の
国であるから、この両州に駿州も加えて与えるであろう。』

そう熊野の牛王に誓紙血判して遣わされた。
これを見て真田は俄に心変わりをし、家康公を討とうと考え、幸いにも子息の伊豆守(信之)が家康の
御旗本に在ったため急使を遣わし『談合すべきことあり、急ぎ天明へ来たれ』と伝えた。
そして伊豆守が天明に到着すると、安房守はこのように言った

「其の方を呼んだのは他でもない、今度の上杉景勝の反逆の事、彼一身の企みではない。石田治部少輔と
牒を合せて、家康を討つという謀計なのだ。景勝の反逆として家康が関東に向かえばその跡より軍兵を
起こして家康を討ち取るという。然ればこの安房守には、景勝と牒を合せて味方すれば信甲駿の
三州を宛行うとの盟誓の状を石田方より差し越した。であれば、其の方のため、又子々孫々のためであるから、
其の方が家康を討ち取るのだ!」

これを聞いた伊豆守は
「最もな仰せであります。ですが其の事は是非に及びません。何故ならば、家康公はその威儀を見るに、
中々謀にて打てるような人物ではありません。逆に石田に与すれば、幾程もなく滅びてしまう事明らかです。
家康公に与し給われば、子孫長く永福となるでしょう。」

これに安房守は
「其の方には分別が無い!どうして三ヶ国を領すると思っているのか。私には既に余命がない。これは皆、
其の方のためではないか!」

そう強く翻意を促したが、伊豆守は頑なに同意しなかった。安房守は仰天し、立腹して
「其の方は妻子に心が残っているのか!これは勇士の業ではない!」と色々の悪口に及んだため、
伊豆守はその座を立ち破り、馬に乗り鞭を揚げて宇都宮に帰り、家康公にこの趣をありのままに申し上げた。
家康公はこれを聞いて

「伊豆守が忠義の程、山よりも高く海よりも深い。これはそれを忘れまじき証拠である。」
として、差されていた脇差の下緒の先を切って伊豆守に与えた。

眞田記

いわゆる「犬伏の別れ」についての内容ですね。この場合は天明という場所ですが。



真田が尤もである。家康の誤りである

2020年02月26日 17:03

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 03:13:31.93 ID:ZNrPeW1P
羽柴秀吉公が天下一統に治められた時、真田(昌幸)は秀吉に従った。これに対し徳川家康公は、
彼が後の禍を成すべき者と思われたのか、秀吉公にこのように仰せられた
「真田が息を本多中務(忠勝)の聟にしたいのです。」
秀吉公は「尤も然るべし」と仰せに成り、これによって家康公は真田方へ使節を以て
「その方の御息を本多中務の聟にしたい」
と仰せ遣わされた。ところが真田は使節に向かい
「そんな使いであるはずがない!使いの聞き誤りであろう。急ぎ帰ってこの旨を申されよ!」
と伝えた。これに対し使節はいよいよ「伝える内容はこの通りです。」と云ったのだが、
「いやそうではない」と受け付けようとせず、仕方なく使節は帰り、この事を報告した。

家康公は合点に及ばなかったので、これを秀吉公に御物語された。すると秀吉公の仰せには
「それは真田が尤もである。家康の誤りである。『中務が娘を養い置いているので(養女にしているので)、
某の聟に』とあらば承知するであろう。」と仰せになった。家康公も「御尤である。」として、この趣にて
再び仰せ遣わされた所、真田安房守も同心して、子息伊豆守信幸との祝言があった。
この時伊豆守は十八歳であった。

眞田記

実際には真田信之小松姫の婚姻は、信幸二十三歳頃(天正十七年)だったようですね。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 09:23:02.04 ID:2mY1Il8v
真田系の作品には必ずと行っていいほど出てくる有名なエピソードやね。

大名の嫡男の正室が他家の陪臣の娘ってなんじゃそりゃというのは、そのとおりだし。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 15:23:12.51 ID:sue4eaxm
東国無双の娘なのにな

【雑談】最近になって真田信勝という人について知ったのだけど、

2018年10月12日 18:59

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 10:18:09.74 ID:G9GAWRMg
最近になって真田信勝という昌幸さんの三男(?)という人について知ったのだけど、
いい話悪い話まとめのブログにこの人の記事ってないのね。
不確かな情報が多くて逸話とかもあまりない感じなのかな。
脚光を浴びがちな信之さんや信繁さん以外の、信勝さん・昌親さんの逸話があれば教えて欲しいです。



342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 16:42:25.32 ID:ZECAMyn7
滝川一益に昌幸の母を託した
昌幸の盟友の依田信蕃(のぶしげ)・依田信幸兄弟から次男と長男は名前を取られてるから
三男はどうでもいい説

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 18:15:03.05 ID:McmCB9Rv
秀忠の真田攻めの件で口論になって刀を抜いた不埒者のことなんかどうでもいい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 20:35:39.70 ID:G9GAWRMg
自分でも書き込んだ後でいい話スレで質問するのは不適切かもしれないと思いました>三男
答えてくださった>>342さん、>>343さん、ありがとうございます
信之さんと信繁さんの名前の由来知らなかったです

345 名前:342[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 21:14:03.01 ID:louFDlmS
>>344
すまん、342は一ヶ月前に出たネタ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 09:50:19.67 ID:hz3JoOpB
>>340
確か四男までいたはず

真田幸隆、危機一髪

2018年08月21日 19:42

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:28:31.73 ID:e2ACyTJw
甲斐・越後の軍兵たちは互いに名乗り合い、火花を散らして戦い申した。

その中で真田弾正幸隆は傷を負って引き退くところを、上杉方の高梨源五郎頼治が名乗りを
上げ、真田とむずと組んで押し伏せ、鎧の脇板の隙間を二刀刺し申した。

そのうちに保科弾正(正俊)が取って返し、「真田討たすな兵ども!」と言って戦い申した。

真田の家人・細屋彦助は下に合わせ高梨源五郎の草摺の外れ、膝の上より討ち落とし、主の
敵を取った。これより保科を“槍弾正”と申したという。

保科もその時に越後方の大将に取り籠められ、すでに危うく見えたところを後詰の侍の海野・
望月・矢代・須田・井上・根津・河田・仁科ら9人の侍がこれを見て「保科討たすな人々!」

と大勢で一度に鬨を揚げ追い散らし、越後の本陣近きところまで切り掛かり申した。そこを
越後の後詰の陣所より斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条安芸守・毛利上総介・

大関安房守ら3千余勢が鬨の声を揚げて切り出て、追い返し押し戻し戦い申した。敵・味方
の手負い・死人、算を乱して数を知らず。

謙信も紺地に日の丸、白地に“毘”の字の旗2本を押し立てて原の町に備を立てられた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

真田幸隆、危機一髪



46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 09:19:26.55 ID:OFF1GAII
高梨頼治って
真田信繁の傅役の高梨内記の兄説があるようだけど
この逸話を見ると無理があるような