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里見氏の海防体制

2020年12月05日 16:23

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/05(土) 14:40:26.12 ID:Z0N+W521
里見義弘公は常にご油断無く、小田原方より船にて狼藉に来る時は、速やかに防いで、百姓、浦人、町人に
難儀無きようになされ、淵ノ崎に番所を据え、軍船か賊船(略奪目的のもの)が来る時は、早速合図の
太鼓を打ち続け、北には瀧山、東金、所々の番所より合図の太鼓を打ちつつ、その時妻子などを山に入れて
忍ばせ、貨財を隠し、敵勢を防ぐ勢が駆けつけると、百姓、町人、浦人も、その時の大将の下知を受け、
狼藉の者たちを討った。そして百姓以下手柄の者には御褒美が下された。

里見九代記

里見氏の海防体制について。



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里見忠義の改易

2020年12月04日 17:29

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/04(金) 15:45:56.96 ID:xfgVEgNm
元和元年の秋、大膳殿(正木時茂)が国替えとして備前国に預け置かれ、九月中旬、里見忠義公は
伯耆国へ流罪と成った。これは相模殿(大久保忠隣)と同罪の故であった。
忠義公の御前は相模殿の息女であり、家老は板倉、堀江、印東、黒川であった。

この公の落去の事については、当時新家老である印東采女が出頭していた故に、譜代の諸士は悉く
不満や不平を感じならが奉公しており、また忠義自身の悪行として、彼は「非人は国の費えである」
として、悉く打ち殺した。

また相模殿と一味の事は、諸士は知らなかったのだが、その事について、忠義は、彼の威勢に馴うか
その心を見るとして、ある時は水弾き(水鉄砲)を以て諸士の頭に水を弾きその様子を見た。

このような中、新出頭の者たちが次第にはびこり、譜代の士は次第に浪人した。
また相模殿に鉄砲百挺を遣わされたこと、並びに陰謀のことが江戸に早々に知れたのは、
かの浪人達の話より広まったのだろう。

また怪しきことに、寅の年、安房の八幡宮に、里見家御先祖より納めた宝剣を申し下し、
替わりに守家の御腰物を納めた所、宮殿がおびただしく鳴動した。
卯年の夏、お城の堀に稲が一株生え出たのを、諸人群衆して見物したのは、尋常ではないことであった。
同九月、江戸に出府される時、北様に明星と言って二疋の名馬が有った。明星は辻趺して死す故に、
北様が召して御出になった。
また鬼門の方角に向かって、大厳寺という浄土宗の寺が建てられたのも不吉なことだという。

御前は江戸代万町へお越しになられ、公儀より百表づつの扶持を下された、四歳になられた姫君も御一緒であった、
後に姫君は御守りの人に預け置かれ、御前は鎌倉に引き込み、比丘尼となられた。
三の御前については、藤井より美濃へお越しになられた。上下の人々は、そのここかしこと漂白の体を
哀れと言わぬ人も無かった。

忠義公は元和八年六月一九日、二九歳にて逝去された。

里見九代記

里見忠義の改易について



473 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/05(土) 13:10:00.81 ID:HOdkqwdh
里見と北條は、肝付と島津の関係にちょっと似てる

里見騒動

2019年10月14日 17:05

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/14(月) 12:28:02.56 ID:qrq/6fPw
天正六年五月四日、房総の里見左馬頭義弘が上総の国浦田城で死去した。かねて遺言があり、
嫡子である刑部大輔義頼(弟で養子とも)へ安房一国、弟に下総の領内半分を与え、房州館山に在城の事、
次男梅王丸へは上野国を譲る、しかし未だ若年なので天羽郡佐貫の城主・加藤伊賀守が後見すべし、
とあった。そして下総の残り半分は末の娘の化粧田として、都合三ヵ国の家人は、義頼・梅王丸の
領地の2つに分かれて奉公するように、とあった。

梅王丸と妹君の母は上総千本城主・東平安芸守の妹で、加藤伊賀守の孫娘にあたるため、
幼少の姫君とともに亀の城へと移った。

ところが里見義頼は、自分に譲られた領地があまりに少ないことに怒り、内々に加藤伊賀守に
相談し、梅王丸を房州の円明寺にやって春斎(淳泰)と名乗らせ剃髪させ、わずかに二十貫文の厨料を
与えて館山の城へ押し込んだ。その上母堂および妹君は、上総国高滝の琵琶が首という所に小さな居宅を
普請して移した。

この事を母堂は恨みに思い、「我が身死なば悪霊と成って義頼に取り憑くであろう。」と歯噛みして
口惜しがった。また梅王丸の所領であった上総の領民たちが、東平安芸守、同右馬允父子にけしかけられ
方々で一揆を起こした。

義頼はやむなく、東平父子を討つため正木大膳亮時義を大将に立てたが、これに加藤伊賀守が
反対し数日間内輪もめが続いた。かといって今更房州の寺にやってしまった梅王丸を引き戻すという
わけにもいかず、結局、久留米、千本を根城とする東平父子へ強く談じ込み、条件をつけて収まった。

また梅王丸についた一族も、円明寺の住持を通じて歎訴してきた事で、ある程度その意向を聞き、
上総、下総を平均して義頼の持ち分とした。

その後義頼は春斎を還俗させ、里見讃岐守義成(義重)と名乗らせ、所領一万石を分け与えた。

(関八州古戦録)

里見義弘死後の、里見の騒動の模様。



515 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/16(水) 10:49:58.51 ID:37WPgNMg
>>512
この大膳亮って誰だろう?
梅王丸の側近である当主の憲時か、それとも勝浦の時忠か

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/16(水) 10:51:49.41 ID:37WPgNMg
時忠じゃない、頼忠だった(´・ω・`)

片手綱を達者に覚えてこそ

2019年05月14日 17:30

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 02:46:49.63 ID:fYL2tmxB
安房・上総両国の府君である里見義弘公、その一家の正木大膳という者は12,3歳の頃から馬を習う時
に片手綱で乗ることを好んだ。馬を教える者は怒って言う。

「片手綱というのはよくよく馬を乗り覚えて功者になってからのこと。片手綱で御乗りになろうとされる
ならば、未だ鍛錬もなさらずに左様になさるとその身なりも悪くなられます。絶対に片手綱は無用ですぞ」

そのように制すると大膳の申しようは「侍の将たる者は馬から降りて槍を合わせて高名するということは
多くはあるまい。馬上で下知してそのまま勝負を決するならば、片手綱を達者に覚えてこそである」と。

幼心に申したように、大膳は度々馬上で勝負を決した。とりわけ国府台で里見義弘の子息・義高(義堯。
義弘の父)が北条氏康と合戦し、義高は負け給う。この後れ口の時、件の正木大膳は良き侍を一所で8人、
また一所で9人、また一所で4人、日中に以上21人を馬上で切り落として退いたのだという。

――『甲陽軍鑑』



故に私は法体となるべし

2018年12月30日 16:40

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 00:31:04.83 ID:iDiiY0TM
義堯公(里見義堯)が御法体となられるにつき、御一門や御家老中が申し上げたことには、

「昔から大将が法体となることは色々とありますが、大方は不吉でした。平清盛や北条高時のように
侍の行儀を苦しく思って法体となり、悪行をなす者もいました。また常人では大将の威勢がないので、
法体となる者もおりました。主君はどのように思し召されますか」

義堯公はこれを聞こし召すと、

「私が義豊を討ったのは父の仇である故で、是非なく討ったものである。それなのに私は嫡子の方を
殺して自分が大将と誇ることを喜ばぬのだ。故に私は法体となるべし。しかしながら、両国を他人に
取られることは、なおもって不孝である。今より以後は義弘を大将として、各々は忠を励まし給われ」

と涙を流して宣った。このため皆々これを感動し、涙を流して御前を罷り立った。その後の合戦では
義堯公は後見のために出陣されるといえども、大将は義弘公と御定めになったのである。

――『里見九代記』


只今ほど通りやすい事はありません

2018年11月25日 17:23

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/25(日) 17:11:20.22 ID:wok7f2q1
安房里見義康の重臣である正木将監(頼忠)は関ヶ原の陣の折、当時里見家の妻子方が因幡国に在ったのを
見届けるため、下人五、六人を召し連れ関東より上った。この事について朝比奈喜左衛門という人物が、
「只今の騒動に、軽き体にて海道を通られるとは、奇特なる事と存じ候。」と、殊の外誉めたのであるが、
これに対して正木将監は

「いや、只今ほど通りやすい事はありません。何故ならば、天下を望む治部少輔が、私のような者を一人
打ち留めて、却って里見に恨みを含ませるような事はする筈がないからです。」と申した

(武功雑記)


異郷の地にて

2018年04月19日 18:27

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 13:12:40.81 ID:vWQ9chld
異郷の地にて

安房里見家九代目当主、里見忠義は突然先祖代々の地を離れることとなった。
大久保忠隣の失脚への連座、城郭の無断改築や浪人召抱えの咎とされる。
転封先の伯耆国倉吉で失意の日々を送る忠義は神仏にもすがる思いであったのだろうか、
山田八幡宮へ以下の棟札を奉納している。


社殿の倒壊と言うのは全く思いがけず、不思議なことです。
安房一国の太守であったのに、徳川の御威光によって
西国の地に住む私の命運もまた奇妙と言えるでしょう。

里見は代々、神社仏閣の建立復興に尽力してきましたが、
世の中の移り変わりによって今では斜陽の日々を送っております。
しかしながら、太陽や月が大地に墜ちでもしない限り、必ず東の空から明日はやって来るのです。
領主の立場は奪われてしまいましたが、どんなに時を経ても里見代々の気風が
安房の人々の心に残ることは明らかでしょう。

この度は梁や柱、どんな小さな部分にも
領主・領民の楽しみ、子孫の繁栄、国家の安寧、神仏への信心不滅の願いを込めて
八幡神社を建立させました。
君主というものは忠孝・武運の道を以て朋友と付き合い、仁義礼智信の五つの徳を専ら行い、
剣を握って悪魔どもを打ち払ってこそ功徳が積まれ、天を輝かし地を照らすと言います。
それらを心がけつつ、君臣皆が世の平和を誇り、罪は消え、神仏の教えが子々孫々に伝えられ、
国家が安泰であることを願います。


安房の地を懐かしみ徳川の仕打ちを嘆きつつも、旧領復帰の望みを失っていない忠義の心情が残されている。
しかしこの翌年、与えられていた僅かながらの知行も召上げとなり、
やがて病床に就いた忠義は郷里の土を踏むことなくこの世を去った。
享年二十七歳であった。



681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 14:41:35.60 ID:iLYECfx3
おめでたい頭してんな忠義
つーか奇妙とか言ってるけど政争に巻き込まれた自覚すらないのかよ…

「万年君」

2018年04月13日 16:51

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:06:14.87 ID:bVtCrpO+
1560年頃、安房・上総の西沿岸部は舟に乗って東京湾を渡ってきた盗賊たちが跋扈しており、夜中に民家や寺院に押し入り、放火や略奪、強姦など狼藉すること限りなかった。
盗賊と言えど身を立派な武具甲冑で固めた者たちなので、恐らく北条氏の水軍衆だったのだろう。
当時既に家督を嫡男義弘に譲って隠居の身となっていた里見義堯は領民の惨状を聞いて驚き、洲の岬、滝山、明ケ根の三か所に物見櫓を建てると、昼夜問わず湾に近づく船を片っ端から改めることとした。
しかしそれでも闇夜に紛れて小舟で乗り込んでは、民家を襲う者が絶えなかった。物見櫓から賊を見つけても、里見の武士団が到着した頃には小舟でさっさと逃げ帰ってしまうのである。
これには房州中の武士たちが怒り、岡本城という湾に面した小城を大改修し、賊に備えることとなった。

岡本城が完成するとここに里見義弘が入った。そして先に築いていた物見櫓と狼煙を使って連携し、賊が現れようものなら城より番士組という警備隊が出動、これを撃退することに成功した。
元亀年間(1570年代)にはかつての乱暴の煩いは嘘のように消え、房総の人々は戸閉まりを忘れるほどだったという。
盗賊を一掃した主君の恩を想い、民は万年君と称えた。


「万年君」と言えば里見義堯というイメージですが、元ネタの一つである『房総里見誌』を読むと里見義弘(あるいは里見親子)を指しているようにも読み取れます。
この逸話ではやられる側の里見氏も当然水軍衆を率いており、度々北条領(時には鎌倉まで)攻め入っていますので、
東京側・千葉側を問わず東京湾沿岸の人々は保安のために北条・里見の両方にミカジメを払わなければならない状況が続きました。
天正年間に里見義弘と北条氏政が和睦し相房御和睦が成りますと、房総の人々は歓喜したと言います。里見氏が尊崇すること止むない妙本寺日我も、
湾の向こう側が「味方」となったことで平和となり、二重賦課や乱暴狼藉が無くなり流通が盛んになったので、この和睦を大変高く評価しました。
父以来の因縁であった北条氏に事実上屈服することとなった里見義弘は大変悔しがった苦渋の選択でしたが、東京湾の平和は多くの人々から歓迎されたようです。



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:22:00.82 ID:ipnwiLT3
里見が無駄な抵抗を続けたせいで民が被害を被った悪い話では

里見八犬伝と資料捏造の影響かメジャーじゃないけど、
里見家って北条への裏切り、上杉から武田への寝返り、家督簒奪だのお家騒動だのが頻発するろくでもない一族だしな…

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:42:32.29 ID:R36Ud/OQ
>>761
安西や丸さんですか?

そんな家は日本中にごろごろしてるやん?
北隣の千葉もそうだし、鹿島、長尾、結城、由良・・・
内紛、鞍替えなんて珍しくもない

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 19:03:34.40 ID:R36Ud/OQ
>>760
結局、江戸湾の奥まで北条が進出してきたから小弓やそのあとを襲った里見とぶつかってるんだよね
早々に小弓が千葉を従えて武蔵や古河を狙う状況になっていたら、その後の関東の戦国時代が変わっていたかもしれない
まあ、あの脳筋さんではどんなに頑張っても北条とぶつかるだろうけど

この海賊って内房の正木一族なんじゃないかな
仲の悪かった内房正木が里見に帰ってくるのがこの頃(永録年間)だったし、手打ちで海賊行為を止めて復帰って感じだったりしないかな

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 21:57:15.40 ID:JVeO1YPB
>>761
家督簒奪は武田の方が有名だろ
もはやDNAレベル

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 08:16:17.93 ID:ucnig8gM
>>764
源氏の血筋が悪い

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 11:44:15.87 ID:TbCnxCmu
為義、義朝が悪いね

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 13:04:55.58 ID:gyi31u/K
>>760
領民の建前「里見最高!万年君!」
領民の本音「さっさと北条に降伏しろよ…税の二重取りも略奪もキツいわボケ」

こういうことか

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 14:22:04.29 ID:4Dlrdyb0
氏政の娘貰っておきながら死んだから変わり寄越せって氏政の妹ひったくって、また死んだから武田と結んで最後は豊臣と結んだ里見くん凄すぎー

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 14:46:39.00 ID:908VFRFc
同盟の大枠が変わるたびに出るありきたりの話だが、里見に親でも殺されたのだろうか?

足利義明と止められなかった逸見忠次、里見義堯

2018年03月30日 18:04

634 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/29(木) 18:38:44.55 ID:Stb2uth1
1538年、10月。現在の千葉県松戸市にあたる地で、江戸川を挟み対峙する二つの軍勢があった。
片方の軍を率いるのは鎌倉を制して勢いに乗る北条氏綱
もう片方の軍を率いるのは武田氏・里見氏を従属させ力を増しつつあった小弓公方足利義明であった。
世に言う第一次国府台合戦である。

里見や正木、酒井、土岐といった房総の諸将を従えたとは言え足利軍の総力は一万程度。
一方の北条率いる軍勢はは二万とその差は大きかった。
数の上での不利を補うべく、義明に従う里見義堯が進言した。

「敵の数は多けれど、太日川(江戸川)は流れも早いので渡河は困難。先手が川を渡りきる前に矢衾を作り、続く敵を討てば勝機も見えますぞ」

ところがこれを聞いた足利義明は大笑いした。

「儂は小弓公方義明ぞ。北条の雑兵共が儂に弓など向けられるものか。
 北条軍が川を渡り終えたところで氏綱の首級を取ってみせるわ」

自らの武勇と威光に自信満々の義明と対照的に、慌てたのは義明の重臣、逸見忠次たち。

「公方様、いけませぬ。敵はおよそ我らの倍、地の利を活かさねば活路はございません」

しかし義明はこれを聞き入れない。忠次の必死の説得も空しく、結局房総連合軍は北条の渡河を待ってから攻撃をかけることとなった。
すると里見義堯が再び進言した。

「公方様、敵はその数に物を言わせ市川方面から別動隊を繰り出す可能性がございます。
 公方様が敵の主力を叩く間、某が邪魔者を追い払って参りましょうぞ」

これに対し義明、

「頼もしい限りよ!」

と義堯を前線から外してしまい、義明率いる軍勢は更に少なくなってしまった。

やがて北条勢が次々に江戸川を渡ってきた。しかし足利軍は動かない。
とうとう渡河が終わったところで、ようやく両軍は激突した。
義明はその自信に違わぬ武勇で敵兵を蹴散らすものの、所詮は多勢に無勢。
次第に押され始めた義明軍は、義明の嫡男義純までもが討たれた。

「おのれ、北条め!」

激怒し刀を振るう義明に対し

「公方様、ここはお退き下さい!某殿となり、公方様の御命をお守りいたす!」

義明に懸命に訴える忠次だが、またしても義明は聞き入れない。

「かくなる上は氏綱と刺し違えてくれるわ!」

義明は北条軍へ突撃し、呆気なく射殺されてしまった。
それを見た忠次、自軍の将兵達に大音声で呼ばわった。

「者共は義純様(義明次男)を守り、義堯殿を頼って安房へ落ちのびよ!」

殿となった忠次は奮戦するものの、山中修理亮に討たれ義明の後を追うこととなった。
一方北条の挟撃に備えると称して戦場から離れていた里見義堯は、義明戦死の報を聞くとすぐさま本拠地の安房へと引き返す。
そして軍勢を整え、味方のはずの旧小弓公方領を火事場泥棒的に次々と攻略し、小弓公方に代わる勢力となったのは皆様ご存知の通り。

足利義明の暴走を止められなかった(止めなかった?)逸見忠次里見義堯、二人の対照的なお話(『房總里見軍記』より)。



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 19:19:32.36 ID:YqWh7fXG
義堯にしてみれば、我が儘な義明にうんざりしてたんじゃないかな
義明方に誘ってきた真里谷武田との仲も芳しくなくなっていたし、国府台での義明戦死はもっけの幸いだったろうね
事実、義明を助けるそぶりすら見せないで退いたし

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 21:32:21.21 ID:1MeYh122
そもそも義堯が懇意だった北条と手を切る原因になったのが義明の真理谷家(武田家)への介入だからね
目の上の瘤な上に無茶をする義明には遅かれ早かれ見切りをつけるつもりだったのかも知れん
で、思いの外簡単に上総に進出できたから北条と戦い続けることにした、と

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 21:36:11.78 ID:irORd9HY
>>635
小笠原長時をさらに弱くした感じ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 01:12:21.44 ID:Z/Xh5N+q
小田氏治「忠臣の進言無視は敗北フラグだぞ」

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 14:25:56.13 ID:r8DQgxnY
譜代の逸見君と違って足利家臣でもない足利の旗に集まった地方領主の里見君を比較しちゃだめだよ
見限って退却するのは当然の判断、それに倣ったのが真田昌幸な

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 15:07:43.43 ID:D15gAl9j
逸見も姓からして元真理谷武田家臣じゃないの?
と言うか小弓公方に譜代家臣なんかロクにいないんじゃ…

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 19:00:08.19 ID:xOGpPgXm
>>640
逸見は甲斐武田か真里谷の一族とされてる
ただ古河から移ってきた家臣もいたはず

642 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/30(金) 19:10:02.92 ID:UvmHsxPi
逸見と書いてへんみと読むらしいな

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 19:39:50.61 ID:DJSp8WgA
>>637
小笠原長時は戦いに冠しては評価がわりと高い
人心掌握がへた

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 01:17:23.11 ID:baFuhFEn
>>642
読みでいつみの方が認知度高いのは故政孝の関係だな
若狭にもいた同族のおかげで戦国時代はへんみでいける

南総の友情

2018年03月19日 17:27

707 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/19(月) 15:09:10.97 ID:pGLzIasn
有名な話だけどまとめサイトの方に地元の話題があまりなかったので。
初投稿なので作法がなっていないかも知れません。ご容赦ください。

南総の友情

天文二年(1533)、一人の若き僧が安房の保田妙本寺にやって来た。
僧の名は日我。日向に生まれ六歳にして三河阿闍梨に教えを受け、二十代の若さで妙本寺の代官に任じられた秀才であった。

やがて日我は日蓮崇拝の気風が強い安房にて深い尊崇を受けるようになり、ついには妙本寺を継いだ。
そして同じ頃、安房ににて頭角を現した者がもう一人いた。天文の内訌の勝利者となり安房里見氏を掌握した里見義堯である。
二人は出会うと互いに感銘を受け、尊敬し合う仲となった。
当時義堯は三十歳、日我は二十九歳であったと言われる。

古の義舜の治世を夢見たとも言われる義堯は学徳深い日我を謂わば政治顧問の様に頼り、その助言によく耳を傾けたという。
また日我は寺領を前線基地として里見氏に貸し出すなど、二人は二人三脚でその勢力を拡大していった。
だがたった一度、日我の進言を義堯が退けたことがあった。相模の北条氏康が日我を通して義堯に和睦を持ちかけたのだ。
「日我上人の申し出でもそれだけは受け入れられぬ」
義堯はそう言って断ったが、その後も二人の交流は途切れなかった。

月日は流れ天正二年(1574)六月一日。その半生を北条との戦いに投じた安房の狼、里見義堯は泉下の人となった。
日我と義堯の出会いから四十年近く経っていた。
里見氏の門派は曹洞宗であり、当然義堯も日蓮宗に帰依はしていなかったが、日我は願い出て義堯の百日法要を行った。
百日間の読経の後、日我は友の為に歌を詠んだ。

隔つとも 心の空に 照る月の 光は同じ 眺めなるらん

二人の眺めた光とは房総の安寧か尽きることなき野心だったか。
幾度北条に大敗しても立ち上がり続けた義堯を日我は「関東無双の大将」と述懐したという。



708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 15:34:31.80 ID:3GoBRh6O
古の義舜って佐竹義舜のことか?
また里見らしい中途半端な目標だなw

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 15:42:38.16 ID:dxw5TKgB
「堯舜の治世」の間違いじゃないの?

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 16:38:47.11 ID:DgvlYfoX
>>708
いや君の洞察力もなかなか中途半端w

主人の馬を戦場で放つ時

2017年07月29日 16:43

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 13:46:06.13 ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)


正木信茂、牛の角を

2013年09月08日 19:08

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 21:08:11.86 ID:I0PrKMFi
ある時、里見義堯は家中の者たちを集めて宴を行ったが、その中で古今の豪傑の話となった。
義堯が

「昔、異国の孟賁という豪傑は、牛の角を握って捻り潰したというが、本朝には未だ、
そのような武者はおらんなあ。」

と言うと、そこに正木大膳亮(信茂)が進み出て

「私がやってみます」

と言い出した。里見義堯は宴会の良い余興だと面白く思い、庭に出て大きな牛を連れてこさせた。

すると、大膳亮は牛の角を左右の手に握り、まるで五月雨の頃に草を抜くように、
いともたやすく牛から二本の角を引き抜いた。

これには里見義堯以下、驚き肝をつぶさぬものはいなかったという。
(関八州古戦録)




58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 21:32:27.95 ID:er6/6ZjN
坂東武者って…

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 05:25:15.57 ID:ttDeX7al
牛が可哀想だ

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 06:07:17.64 ID:pUDhCi6C
ホモ・サピエンス以外の何か

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 06:23:25.36 ID:blsv0fNV
戦国の宴会芸は血なまぐさいのお

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 06:37:00.04 ID:YYChAss4
>>57
牛「モーやだこんな国」

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 07:53:44.59 ID:OlnOaeaz
H川F孝「どれ、拙者がひとつチャレンジをば…」

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 10:44:06.44 ID:bK/qCks7
親父の大膳ばかり注目されて息子の大膳はほとんど無視されていたから名前が出てくるのはうれしいね

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 18:47:31.26 ID:CRrfZWGO
(´・ω・`)「力自慢がいると聞いてきますた」

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 19:03:12.03 ID:7jINFss/
>>63
寝ながら考えたけど、H川F孝って誰か分からん。
てか、F行ってことは「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」のどれかだよな。
一体誰だ?w

桐生家顛末

2010年05月11日 00:01

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/10(月) 21:46:51 ID:muMvWpiF

この関連の話でよく見かけるのはこんな感じかな

戦国時代、桐生家の版図を歴代最大に広げた助綱には子がなく、
ために同族(藤原姓足利氏。源氏じゃない)の佐野昌綱から親綱を養子に貰い受けた。
この親綱、入嗣の際に都布子、山越ら四人の佐野家譜代の家臣を後見人として連れ添い、
永禄十二年に助綱が病没すると桐生家家臣を排斥し、伝来の家風は無視し、
四家臣のみの意見を重用して佐野家の属領であるかのような統治を始めた。

このため佐野系と桐生系の家臣団の対立が急速に拡大、
旧来の桐生家を慕う民心は親綱から完全に離反して支配体制は麻の如く乱れ、
これを憂えた里見勝弘は旧臣代表として繰り返し諫言するが親綱は聞く耳持たず。

これに呆れた勝弘の子二人は出奔して越後に亡命、
勝弘を疎んじていた親綱はこの事を反逆の証としてついに勝弘に腹を切らせるに至る。

で、この状況を奇貨とした由良国繁は藤生紀伊守を大将として柄杓山城を攻撃。
桐生系家臣団の内応を得て瞬時にこれを陥落させて親綱を佐野に追い、
以後桐生領は由良氏の領知するところとなった、ってもの。

ちなみに親綱(重綱)には後日談があって、
天正六年に由良成繁の病没すろと、由良家の家中に混乱が発生すると期待して、
桐生に潜入して旧臣や領民を扇動してみたけど、『誰一人』応じるものがなく
むなしく佐野に戻ったそうな

里見実堯の切腹、そして

2010年05月10日 00:00

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/09(日) 16:51:30 ID:KsBT8uBT
房州里見家に、里見実堯という人物がいた。
第一次国府台合戦の後、当主であり、甥でもある里見義堯と不和になり、安房を出
奔、一族の由来の地である上野国に流れてきていた。

里見家が房州に逃れた際、上州に残った一族の許を尋ね、その食客として遇されて
いた実堯だったのだが、天正二年、身を寄せていた里見宗連が上杉謙信の攻撃を受
けて自害。上州里見家が断絶してしまう。

再び浪人となった実堯を庇護したのは桐生直綱。
直綱の許で実堯は頭角を現し、外様の家臣であるにも係わらず、小さな城を任され
るまでに出世した。

この頃の関東は北条家と上杉家の草刈場と化しており、桐生家内部でも親北条派、
親上杉派の対立が深刻になってきていた。
謙信の強さを目の当たりにしていた実堯は親上杉の急先鋒として家中に重きをなし
ていた。
しかし、桐生直綱が没し、養子である重綱が桐生家を継ぐと、事態は複雑になって
くる。

親北条派 vs 親上杉派
譜代家臣 vs 新参の実堯
桐生家家臣 vs 重綱の実家出身の家臣

複雑に絡み合った対立関係は、結局の所一番単純な形に落ち着くようだ。
すなわち

「アイツ気にいらねーから殺っちまおうぜ」

実堯は以前から、謙信とのパイプ役として二人の息子を越後に出仕させていた。
それが反実堯派の口実となってしまう。
「上杉家と結んで独立、桐生家に取って代わろうとしている」
というのだ。

居城を攻められた実堯、家臣が防戦する間に越後に向かって落ち延びる。
少なくとも本人はそのつもりだった。
しかし、城を離れ、供のモノも少なくなったその時。

「殿、ここで自害してくだされ」

近侍の者として非常の際にも係わらず、実堯の側を離れなかった石原石見守が敵と
通じていたのである。
もはやココまで、と観念した里見実堯は切腹して果てた。
石原石見守はその首を持って桐生の陣に帰って行ったと言う。
この後まもなく桐生家は没落し、由良国繁の庇護の下、細々と命脈を保つコトとな
るのは、この時の卑怯な振る舞いに対する報いだと噂された。


663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/09(日) 16:52:13 ID:KsBT8uBT

この顛末を聞いて怒ったのが越後にいた実勝、勝安の兄弟。
「父の仇を取らずには死ねない!」
越後からひそかに上野に帰ると、高津戸城にて旧桐生家で親上杉派、親実堯派とし
て知られた面々を糾合、反乱を起こす。
反乱から約半年後、用明城を攻略。
この城を守っていたのは、桐生家没落後、由良家の下に仕えていた石原石見守。
兄弟は石原の首を狙って奮闘するも取り逃がしてしまう。

この反乱は怒りに任せて、というモノではなく、かなり周到に準備されていたモノ
らしい。
天正四年冬の挙兵から、実に鎮圧まで二年近くを要している。

最終的には本気になった由良勢の前に父の仇を討てぬまま、弟の勝安が討死。
兄の実勝も城兵の助命を条件として切腹して果てた。
天正四年から六年と言えば謙信は北陸方面にかかりきり、遂には死去。という時期
である。
越後から期待していた援助も得られず、孤軍奮闘の末に志も果たせぬまま死した兄
弟。

現在、里見兄弟のモノとされる墓が群馬県みどり市に残っている。
その形式から鎌倉時代のモノと推定され、里見兄弟についての記録も江戸中期以降
のモノしか残っていない為、父の実堯はともかく、兄弟の反乱については疑問視さ
れているらしい。
が、仇討ちの物語を作るなら反乱が失敗で終わったり、石原を取り逃したりと色々
微妙なストーリーと言わざるを得ない。
脚色があったにせよ、基になる史実がそこにあったと信じたいような気がする。




664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/09(日) 21:29:12 ID:BE5mwTXT
この話は里見実尭じゃなくてその子の勝弘で、
路線対立も佐野家による桐生家乗っ取りの話が主軸になってるのが主流だよね

このバージョンは正直はじめて見たな、何に載ってるものだろう

666 名前:662-663[sage] 投稿日:2010/05/10(月) 14:05:42 ID:/PCApoSE
>>664 こめ 遅 ゴメ

前半の里見実堯の話は『関八州古戦録』が元ネタです。
で、後半の里見兄弟の仇討ちは逸話中にも登場する「里見兄弟の墓」という群馬県
みどり市内の史跡を紹介したHPを中心にあちこちのサイトから拾い食いを。(^^;

父も兄弟も紹介されているHP毎に名前が違うような状態でしたので、名前は全て
『関八州古戦録』のモノで統一していますが、『古戦録』には仇討ちの話は載って
いません。

元々GW中に桐生の方に旅行した際、「里見兄弟の墓」なる史跡があるのを知り、
そこから調べて行ったモノですから、里見勝弘というのも里見実堯の名前が別バー
ジョンで伝わっている、という程度の認識しかありませんでした。

親子なんスか。佐野家による桐生家乗っ取り、というコトは「桐生重綱の実家」と
いうのが佐野家のコトなんですかね?
『古戦録』にはその辺りのコトは載っていないんですが。

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/10(月) 21:46:51 ID:muMvWpiF
>>666
あんがと



関連
桐生家顛末
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4122.html

里見弘次の娘「夜泣き石」

2010年05月03日 00:01

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 13:49:55 ID:/kkGCr6V
北条と里見・太田の連合軍が戦った、第二次国府台合戦。
連合軍は国府台城周辺の起伏に富んだ複雑な地形を利用して有利に戦を進めていた
が、「地黄八幡」北条綱成の奇襲をきっかけに総崩れとなり、多くの死者を出して
崩壊した。

その際討死した者の中には、里見一族の里見弘次の名前もあった。
弘次が討死したという報は、逃げ延びた里見軍の兵士によって安房に届けられる。
嘆き、悲しんだのは弘次の末の娘。十二、三歳となるこの娘は、異国の地で果て、
遺体も帰らないままの父を探して下総の地へと赴く。

が、そこに待っていたのは落城後の国府台城。
あちこちに遺体が転がるが、腐臭が漂い、もはや誰の遺体かも判別出来ない有様。
勿論、どれが父の遺体なのかも判るハズがない。

凄惨な光景を見たショックと悲しみとで、娘は近くの石に倒れかかり、そのまま息
を引き取ってしまった。

以来、娘の死んだ石からは夜毎すすり泣くような声が聞こえ、「夜泣き石」と呼ば
れるようになった。
徳川の世になり、国府台城が廃城になってもこの石は残り、現在城址に整備された
里見公園の片隅にひっそりと鎮座している。


……つっこみ所多いなぁ、この逸話。www
「里見弘次は戦死当時十五歳だったのでは?」
「北条に接収されたハズの国府台城本丸付近にどーやって忍び込んだんだアンタは」
「そこにまだ腐った死体が転がってたんかいっ」
etcetc……(^^;

まぁ逸話の真偽を問うのは野暮だから置いておくとして、国府台城からすぐ近くの
「じゅん菜池公園」付近の姫宮と呼ばれる祠にも、里見の姫たちがじゅん菜池に入
水自殺したのを祀ったモノだ、という言い伝えが残っているらしく、どうやら国府
台城は安房からの人気ツアースポット(女性専用)になっていたようだ。


更にはネットで調べていると、こんな話もあった。

昭和九年、台風で国府台城址の近くで数本の松が倒れ、道をふさいでしまった。
住民達は兵隊に頼み、それを撤去してもらった。
切ってもらった倒木は薪として近所の家で分けたのだが、倒木の株の内、大きな一
つだけがどうしても切るコトが出来ない。
近所の酒屋で「切れないのなら、あがりかまちの台に使おう」と言ってそのまま引
き取るコトになったのだが、それ以来、家族に病人が出たのを初めとして良くない
コトが次々と起こる。
まじないを良くする老婆に見てもらうと、貰ってきた松の株に古めかしい着物を着
た若い女性が縋っている。
「コレは国府台合戦で死んだ武将に縁のある姫君である」と言われた。
供養の為に社を建て、松の株をそこに祀ったのだという。


…………どーやら国府台付近では里見家縁の女性達がわんさか漂っているらしい、
というお話。(^^;




正木時茂の奔走と「里見の八賢士」

2009年10月17日 00:19

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/16(金) 14:09:04 ID:KPVS2Z0r
まとめに里見家と小田原の陣について載っていたので、
その続きを「イイい話」の砲へ。

関八州を与えられた家康にとって片隅に居座る里見家は邪魔な存在だった。
主家の危機を感じた正木時茂は、又従兄妹である家康側室「お万の方」を通じて、
お家安堵を計るが、大久保忠隣の失脚に連座させられ里見家は改易となった。
里見忠義は倉吉藩にながされ失意の中で没する。

この時家臣8名が殉死しており、みな戒名に「賢」の文字が入っていたことから、
「里見の八賢士」と呼ばれた。
後に滝沢馬琴はこのことを知ると、「賢」に「犬」をあてて
「南総里見八犬伝」の構想を練ったという。





戦国時代のとうもろこし

2009年09月27日 00:45

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 15:38:34 ID:r+1ra3R9
いい話スレで食べ物が賑わっているようなのでこっちにも


千葉県市原市には戦国時代から伝わるとされる話に、とうもろこしが登場します。

里見家に仕える多賀氏の池和田城が、小田原北条家に攻められ落城しました。
城主の姫は城から落ち延びますが、逃げた先にはとうもろこし畑があり、
風でとうもろこしの葉が音を立てると、敵の追っ手と勘違いした姫は自害してしまいました。

それ以来、池和田城周辺の人々は姫の死を悲しみ、落城から400年以上経った現在に至るまで
とうもろこしの栽培をしないということです。

つまり戦国期には、すでにとうもろこしは日本で栽培されていた事になります。
まぁとうもろこしは連作障害が酷いので勝手に廃れた、というあたりでしょうか。




773 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/26(土) 16:27:54 ID:lrF/GiKy
>>772
土地がやせる割には食うところが少ないからな。
北朝鮮でも目先の収穫にとらわれてとうもろこし栽培
奨励して、益々土地がやせていったそうだ。


里見義弘、大蛇を見る・いい話

2009年03月04日 00:22

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 00:35:15 ID:RBcCZQ7L
里見義弘が、かねて争っていた隣国の大名と講和し、盟約を結ぶため国境へと向かった。
その折の事である。

彼が四、五人の郎党達と共に城下を出でて、三里ほどすすみ山間の道に入ると、谷を隔てた場所で
どこからともなく長さ十丈(約三十メートル)あまりの大蛇が現れ、そこにいた大きな牛を
一口で飲み込んでしまった。

里見の君臣は「なんというすさまじい光景だ」と、しばらく馬の足を止めそれを眺めていると、
牛を飲み終わったかの大蛇は谷へと下って行ったが、不思議な事にこの大蛇、下るに連れて
その姿を小さくし、谷底に着く頃には、ようやく一尺(約三十センチ)ほどの蛇となってしまった。

そしてこの蛇は草叢へと隠れようとしたが、空を飛んでいた鳶がこれを見つけ、急降下して掠め取り、
二町ばかり先の辻堂の屋根でたちまち喰ってしまった。

家臣たちは「これは一体どういうことなのか」と、この不思議に困惑していると、
義弘は、はっと気がつきこう言った。

「つまりこういうことだ。この大蛇が始め、十丈の時は大きな牛も呑み込んだが、変形する通力を
使ったのであろうが、一尺の蛇となっては、鳶にすら喰われてしまう。

これは蛇だけの話ではない。人にも大身小身の別がある。大身は大身なりの威を用い、
小身も小身なりの力を尽くす。大象兎径に遊ばず、鸞鳳鶏雀と群れを同じくせず、と言うではないか。

ところが、今日我々は会盟に、このわずかな人数で挑もうとしている。
これは大蛇が小蛇となって草叢に遊ぶのと同じ事ではないか?

先ほどの事は我等が氏神、八幡大菩薩がわしを守るために見せてくださったのであろう。
もし今回の会盟で何事か変事あれば、この少人数では何も出来ないという事を悟らせるためにな。」

そうして義弘たちは城にとって返し、しっかりとした共揃えを整え、再び会盟へと出発した、
とのことである。





472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 01:30:58 ID:YRY+lOzR
>>469
>長さ十丈(約三十メートル)あまりの大蛇

・・・え?

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 01:46:38 ID:ch158lLX
>>469
わがままフィリップと木伏ディレクターがアップを始めました

476 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/03(火) 10:53:25 ID:pqCIVy4s
>>469
鬼武蔵ならその蛇すら食ってしまうなw

正木時茂の「片手綱」・いい話

2009年02月09日 05:01

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 00:33:00 ID:FEWbUksu
安房の国里見義弘の家臣に、正木時茂と言う、剛勇無双と呼ばれた侍が居た。

時茂が12歳ほどの時である、乗馬の訓練を受けた時、彼は手綱を片手で持って
乗る事を好んだ。これに馬の師匠は怒りだし

「片手綱とは馬をよくよく乗り覚え、巧者と呼ばれてからはじめてやる様な乗り方です。
あなたは未だ、初歩の訓練すら終わっていないのに、そのような乗り方をすればそれは
馬上の姿勢も悪くなります。とにかく先ずは両手できちんと手綱を取って乗りなさい!」

それを聞いた時茂少年、
「わたしは将来、一軍を任されるほどの侍大将となることを目指しています。
大将であれば、馬から下りて敵に向かっていき、槍をあわす機会はほとんどありません。
大将として馬上において下知をし、また敵と戦うためには、片手綱の達者に
なっておくべきではないでしょうか?」

そう言って、ついに師匠の言う事を聞くことは無かった。

さて、時は流れ、里見義弘と北条氏康の戦った、鵠台の合戦が起こる。
この合戦において里見は敗北したが、正木時茂はしんがりの軍の大将として、
北条方の名のあるものを、片手綱で馬上より21人斬りおとし、その猛威をみせつけ、
静かに撤退した。


正木時茂は太膳亮を称していた。この時両軍の侍大将に、大膳と名乗るものが三人居た。
そこでこの頃の歌に

『依田の大膳、銭大ぜん。矢田の大膳、逃げ大ぜん、正木大膳、槍大ぜん。』

と、歌われたそうだ。

関東の勇者として名高い、槍大膳のお話。




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 00:53:27 ID:i6m0WJec
21人て凄まじいな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 01:35:27 ID:gZCXANk7
>438
うむ「いくさ人の真の頼もしさが発揮されるのはむしろ負け戦、撤退戦」というヤツだな

普通に忠勇の士ってことだけど殿軍で大ハッスルした槍大膳カコイイ

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 02:22:06 ID:24IaX46/
>>438
この前後に正木時茂は3人居るからなぁ
どの正木時茂なのやら
謙信に救援要請して、その越軍南下によって里見の窮地を救った初代正木時茂
彼は鵠台の合戦以前に病死したというのが近年有力
初代が一番有名な「槍太膳」
その嫡男・信茂も正木時茂と呼ばれてるけど鵠台で戦死
初代時茂の養子、正木憲時(悪い話前スレ「越山して下さいヨー」の人)まで正木時茂
鵠台の合戦時は14歳
その年頃で「槍太膳」なんて呼ばれてるもんかな

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 07:23:18 ID:9sMsv83s
>>438
戦国のオレ流だな。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 09:44:58 ID:OjWwYhRC
>>443
森武蔵を育成足軽で年俸400石で採用

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 10:00:54 ID:blLshG7I
>>441
殿で活躍できる武将って凄いよなー
退佐久間や逃げ弾正、金ヶ崎で殿軍務めた秀吉・家康とか
まー、活躍できなかった武将って名前も残らんのだろうけど

って事で退き佐久間や逃げ弾正の逸話ってなんか無いかな?
異名の割にはあんま逸話が有名じゃない気がする

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 11:52:31 ID:CN1l/RZK
>>444
俺達のモリさんが“きれいなモリさん”に!?

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 12:26:25 ID:6yb5N9sc
万石無いとゴネそうw

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 14:47:56 ID:gZCXANk7
>447
複数年契約と代理人交渉、甲斐入りの出来高で信濃川中島を要求するのか

 ・・・お乱の「近江坂本をどうのこうの」噂話が笑えなくなってきたじゃねーかw

里見義弘と青岳尼・悪い話

2009年02月09日 04:42

681 名前:里見義弘と青岳尼1[] 投稿日:2009/02/08(日) 19:04:46 ID:m4x87EQC
小弓公方足利義明の娘、青岳尼。
父の義明が第一次国府台合戦で血気に逸った末に討死すると、安房の里見氏の庇護を受け更に鎌倉の太平寺に尼として入った。
この寺は代々関東公方家から女住職を迎え入れており、小田原北条氏も保護していた。
青岳尼は父の仇の北条氏康の保護を受けることになったのである。

江戸湾の制海権を巡って戦火の絶えなかった里見氏と北条氏であったが、ある時に里見義弘が三浦半島への上陸に成功、鎌倉に突入してきた。
そして義弘は太平寺を訪れる。
彼は幼なじみであった青岳尼を安房へ迎え入れようとしていたのだ。

682 名前:里見義弘と青岳尼2[] 投稿日:2009/02/08(日) 19:10:17 ID:m4x87EQC
仏に仕えることで一生を終えるつもりでいた青岳尼にとっては、まさに青天の霹靂であった。
彼女は、本尊を手に対岸の安房へ渡ることを心に決めた。

めでたしめでたし、としたいが・・・

保護していた寺の住職と本尊を宿敵里見氏に奪われた北条氏康の怒りは尋常なものではなかった。

氏康は『まことにもって不思議なるお企て』と書状で不快感を顕にしたうえに、主のいなくなった太平寺を容赦なく破壊してしまった。

安房へ渡った青岳尼も、仏罰か長くは生きられなかったようである。