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合戦も仕掛けず、人質も出さず、

2019年01月13日 17:40

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 15:43:00.78 ID:Zdhm48/O
石田三成らの挙兵により、徳川家康が宇都宮から江戸へと出立する際、佐竹義宣や秋田城介(秋田実季)
らは、石田三成に一味していると考えられていた爲、『上方と一味に候哉、そうではなく今回
我々に同心するというのであれば人質を出し、我らへの一味の験を顕すように。』と、花房助兵衛、
島田次兵衛の両人を使いとして佐竹へ仰せに成った。

これについて義宣は父親の義重に「これはどうするべきか」と相談した。義重はこう言った

「私は隠居であり、万事はお前の心次第にすべきである。しかしながら上方に既に妻子を人質として
置いているからといって、彼等を不憫に思い、心では家康に一味したいと思いながら、人質故に
上方に一味するような事は有ってはならない。戦国の頃は、人質を棄て義兵を起こす事が武家の習いであった。

もし又、とにかく上方に一味したいと考えているのであれば、上杉景勝、秋田実季と申し合わせ、
早々に軍を起こし家康を食い止めるべきだ。」

しかし義宣はこの言葉を用いず、合戦も仕掛けず、人質も出さず、徒に時を過ごした。

(武功雑記)



630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:33:32.84 ID:/HqfRDEu
>>626
後世の人間の感覚だと、関ケ原の頃はまだ戦国自体だけど、当時はもう戦国の世は終わったって意識だったんだな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:48:06.46 ID:mKSNkryl
太閤殿下のおかげやで

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 03:05:53.78 ID:MKG9TZe7
>>631
惣無事令の有無はさておき、小田原→奥州仕置で天下統一、各大名が実力で領土をぶんどるのはもうありえず、戦国は終わったという認識になるでそ。

ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続くわけだけど。

638 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 09:53:34.15 ID:xO1Bprze
>>636
>ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続く

(改易しまくる)幕府が悪いよ幕府が~

ムダに浪人増やす事になったのもなぁ

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 09:58:48.12 ID:IEDTryi4
改易しないと舐められるしなあ

640 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 12:21:36.97 ID:2qBLxhgW
>>630
おれは60歳だが、

15歳で関ヶ原に従軍してから、

37年間、弓鉄砲を使う場面は1度もなかった。
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律儀なる佐竹義宣

2018年08月13日 18:45

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 17:37:35.92 ID:edUVcuNz
権現様(徳川家康)が駿府城にあった時、御伽衆の一人が「誰々は殊の外律儀な人だ」と語った所、
これを聞いた家康は

「律儀なると者というのは極めて稀なものだ。私はこの歳に成るまで、律儀なる人というものは、
佐竹義宣以外に見たことがない。」

そう仰せに成った。しかしこれを御伽衆の者達は皆合点できなかった所、御前に居た永井左近が
「義宣殿を左様に思われるのはいかなる理由でしょうか?」
と申し上げた所、

「その方なども知るように、先年大阪にて石田治部と7人の大名たちの出入りの時(七将襲撃事件)、
治部は大阪を立ち退き、我等を頼み伏見に参った。この時大阪からの道中を佐竹義宣が警護して
上がった。その後、石田治部が佐和山に蟄居と成った時も、その道中において大名たちが語らって
彼を討ち果たすとの風聞があった、そのため私は三河守(結城秀康)に道中の見送りを申し付けたが、
これを義宣は聞き及び、『治部を大名共に討ち果たさせては一身の一分が立ちません!』と、
道中に目付け物聞きを置き、何か事が起これば即座に馳せ出して三河守と一手になって治部を
救援すると、上下とも軍装のまま待機していたという。となれば、律儀の人の実仁に紛れもない。

その後関ヶ原の一戦の時も、大阪方にも我々にも付かず、心底がわからず訝しいと思い、しかし
そのままには置いておけなかった。もし我等に一味して関ヶ原表に出勢し、戦功などあれば、朝熊も
先祖代々の領地であったし、水戸の安堵は相違無かったはずなのに、残念な事であった。

人が律儀というのは、褒めるべき資質で随分良いことでは有るのだが、律儀すぎると、
事に臨んでは一思慮無ければならぬものなのだ。」

そう仰られた。
(駿河土産)

自分も律義者と言われていた家康の考える律儀No.1は佐竹義宣なのね



152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:51:56.64 ID:2MDI+lEV
佐竹が関ケ原で東軍について戦功挙げたら、関東と南東北に合わせて100万石クラスの
大大名が登場するわけで、徳川にとって危険極まりないわけだが…

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:12:25.13 ID:2pUDfcy6
その場合は中国か九州あたりで大封を与えるんでないの

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:17:19.99 ID:edUVcuNz
佐竹は秀吉に臣従した時は25万石だったのが、太閤検地で領地そのままなのに一気に54万石にされちゃってるんだよなあ。
単純に軍役倍って事だから、豊臣政権ってホントエグいと思う。

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:49:33.76 ID:k3r0B2xw
下手に東軍で活躍して大大名になってたら大阪の陣のあと血眼になって粗探しされて改易されてそう

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:16:21.87 ID:AaT6or0e
義宣ならやらかさんとは思うが
まあ突っつくなら配下の徳川氏とかか
あそこは将軍家に憚ることなく徳川を名乗り続けたよね

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:33:31.48 ID:Fqze60QX
>>155
関ケ原後に川井事件とか、お家騒動やらかしているしねい。
佐竹って小田原後、豊臣大名になってから中央集権化にやっと取りかかれて、
関ケ原後に転封されてからが改革の本番という感じだったから、
まだ家内統制取れていない段階で、しかも転封されずに大封になったら、
いったいどんなことになるやら…

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:38:52.18 ID:T7fOEd4M
人間万事塞翁が馬だな!

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 21:24:11.74 ID:wsGVjBat
>>154
無役16万石が設定されたから倍にゃなってない
島津の時もそうだけど検地の打出し分で大名の蔵入りを増やすのが主目的だしね

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:12:30.83 ID:BRAOGxPy
>>157
関ヶ原後に転封なし加増ありで大封というと前田氏、最上氏、伊達氏くらいかな
その後を見てると結局は運次第かねぇ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:16:13.37 ID:i/S8w+GS
>>163
基本、どれも田舎の藩だなぁ。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:26:50.19 ID:uVBU3cE+
>>163
加藤

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 13:34:42.18 ID:+D6JsEd6
>>151
朝熊って伊勢のだよね?ここが先祖代々の領地ってどういうことなの?

夜々互いに往来し、昼は終日の合戦

2017年12月27日 22:36

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/26(火) 20:42:38.22 ID:0CHlz54H
佐竹義重蘆名盛隆との対陣の折、盛隆の弓矢を取っての器量のゆゆしさに、陣中にて
ひと目逢いたいと艶書を投じた。

実は盛隆も同じように思っており、彼は佐竹の陣中に、夜更け人静まってから参会に及んだ。

それからは、夜々互いに往来し、昼は終日の合戦をした。
しかしこの事は隠し通すことは出来ず、それぞれの老臣たちが互いに和議を入れ、無事となった。

(武野燭談)



「その方、先に下に降りろ」

2017年08月27日 22:57

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/27(日) 22:52:38.35 ID:d6s6yIK8
茂木山城(茂木治良か?)という者、下総茂木山城の城主にて、佐竹に属していた。
朝鮮征伐の時、佐竹に従って西国に至った。

佐竹の人数を集めて、老臣たちが手配をしている時、佐竹の家老が縁の上に立って、他の者達はすべて
軒下に降りるよう下知した。しかし皆、これに従おうとしなかった。

この様子を見て茂木山城は、その家老に言った
「その方、先に下に降りろ」(其方先下に居よ)

人を下知するなら手前を慎むのが、古よりの戒めである。
(士談)


85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 00:23:20.76 ID:tb33UCMO
下総じゃなくて下野茂木なんじゃないかな
佐竹が下総と接点あるのは北総・東総あたりだろうけど茂木氏はちょっと記憶にない

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 03:07:52.48 ID:IAXy0+oW
これ人名はもぎやましろで城がもぎやまじょうなのか

どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて

2016年09月10日 09:01

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 07:36:06.71 ID:jkkgXYN4
佐竹義宣石田三成と親しかったのは、理由の有ることであった。
常陸国には三十三館(南方三十三館)といって、名家の末があったら、年来義宣の下知に
従おうとしなかった。石田三成は関白秀吉の覚えめでたい人物であったので、義宣はこの人に
付いて「三十三館の者共が、関白の仰せを軽んじています。」と訴えた。

三成は秀吉の側にあり、これを取り次ぐと、秀吉は「下知に背くものは尽く誅すべし。」と
仰せ下した。
義宣はこれを受け、三十三館の者達を招き寄せると、そこに武士を伏せておき、尽くこれを殺した。
そして彼らの城々に討手を遣わしてその一党を攻め滅ぼし、所領尽く併呑した。

関ヶ原の後、佐竹は出羽国に転封となった。
この時佐竹家臣の群馬丹波守猛虎という者は義宣を諌めた

「君にはどうして、唯々諾々と先祖伝来の地を他人に渡されるのですか!?
ここには恩顧普代の侍が5万人あり、兵糧の蓄えも、10年ほどは不足しません。
さらに、この城(水戸城)は要害堅固であり、天下の兵を集めて攻められたとしても、
一気に落とされるようなことはありません!
しかし一旦ここを去ってしまえば、もうどうにも出来なくなるではありませんか。」

しかし義宣は言った
「お前の言葉は理あるに似ている。だがな、佐竹義久が内府のことを天の許せる英雄であると言ったのは
違っていなかった。

私は先に、三十三館の者たちを滅ぼし、その領地を尽く取り上げた。
今日、私に従っている者達の中には、その親族遺臣が少なからず居るが、彼らが背き離れようとしないのは
私を畏れるためではない。内府の威を憚っているからだ。

お前は私のために命を惜しまぬと言うが、どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて、
天の許せる人に歯向かうことが出来るだろうか?戦が始まる前に、内乱が起こればそれこを
どうしようもなくなる。」

こうして、佐竹義宣は七十余騎のを率いて累代の地を去り、秋田城へと入った。
しかし群馬丹波守猛虎は

「よしよし、大腰抜けの大将の手に従って、何の功があるだろうか!我のやり方を見よ!」
そう言って手の者を率いて旧領に立ち返り、徳川家の代官を夜討ちしようとしたが、事表れて
捕縛され斬られた。

(話園)



67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 08:06:35.79 ID:nMnnQhTV
車か

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 10:01:45.01 ID:FHiD7+jV
団吉さんの先祖か

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 11:36:58.85 ID:6O+I42Iv
猛虎魂を感じる

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/12(月) 13:19:51.55 ID:BBC0j9Np
>>66 悪名高い三十三館のだまし討ちですね。

佐竹(東)義久の事

2016年09月09日 20:58

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/09(金) 08:50:50.12 ID:zP/Tqzz+
東下総守政義(佐竹(東)義久の事か)といえば、佐竹義宣の老臣であった。
戦国の時の武士は先陣に進み一番に敵の首を得るをのみ心として、己の主人のために利害得失を
深く考える者は少なかった。佐竹義久は打物を取っては人に優れるほどの功名は無かったが、常に
謀略を考案し、主のために益有ることが多かった。

慶長の関ヶ原の事が始まる前、徳川家康は会津の上杉景勝を征伐せんと出兵したが、この時
佐竹義宣は、那珂郡に陣して、徳川の背後から攻めようとした。義久はこれを聞くと、義宣に向かって言った

「私がこのところの徳川殿を見るに、彼には今、天の授ける幸運がついています。それはほとんど
人の力ならざる物です。我が君がこの人に従って会津征伐に参加されれば、当家の幸運もこの上ないでしょう。
しかしもし、眼前の利に迷って、戦後になってからその疑いをかけられれば、ゆゆしき御大事に
なりかねません。」

そう諌めたが、義宣はもともと石田三成と親しい仲であり、義久の諫言を用いず、そのままの方針で日を送っていた。

ところが、徳川家康は上方に兵乱が起こったとの情報を得ると、下野より軍勢を引き返した。この時使者を佐竹に送った

『和殿は、先に仙道より会津に攻め入られると約束したが、いま水戸を去ること数里にて軍勢を止めているのはどういう事であろうか。
今の天下の情勢を見るに、御身の勢力では、その進退によって天下の軽重を為すのは無理である。
いまこの時に、よく考えられるべきだ。東西の何れにも従わないというのは、先祖より伝来されし所領もどうなるかわからない。

会津を攻められるとも、人質として親族を出されるとも、また子息らを我が軍に従わさせるとも、御身の望む所に任せる。』

この書状に対し義宣は
『私は内府を恨む所はありません。であればどうして背くことがあるでしょう。
ですが義宣の子息どもは、おおかた大阪に参らせていて、今こちらには参らすべき者一人も
おりません。もしそういう者がいれば、どうして仰せを待つような事をするでしょうか。』

そう返書した。この佐竹義宣の態度に徳川家の人々は怒り
「憎き佐竹の申状かな!その義であれば踏み潰して後、西に向かうべし!」との意見が多く出た。
しかし家康はこれを押し留めた
「そうではないぞ。樹木を以ってこれを例えるなら、石田三成は根であり、その他は枝葉にすぎない。
その根を刈り捨てれば、枝葉はどうにもならない。」

そして、皆川下妻の勢を以って佐竹の押さえとし、急ぎ引き返した。この時、佐竹義久は進み出て

「内府、西軍の挙兵を聞いて俄に引き返しました。いま、そこに従軍している者達は合戦の考えはありません。
追撃すれば勝利疑いありません!」

そう進言したが、佐竹義宣は雄々しからざる性格であったので、この案を用いようとしなかった。
義久は歯噛みしながら
「ああ、危うい!我が君既に徳川殿に従わず、もし徳川が勝利すれば必ず我らの災となります!
また西方にしっかりと従わない以上、かの軍もこの情報を得れば、我が君を疑うでしょう。
これは一挙にして両失というものです!」

義宣は尋ねた「ならばどうすれば良いのだ?」
「当面は数百騎を東軍に派遣して、二心無き事を示すべきです。」
義宣はようやくその議に従った。

関ヶ原の合戦が終わり西軍が敗北すると、佐竹義宣は大いに恐れ、徳川家康の前に伺候し
「窮鳥懐に入る時、猟者もこれを許すと承ります。どうか重き罪を許していただきたい。」と訴えた。家康は打笑い

「乱世の時は各々その国によって敵の隙を伺うのは豪傑の為す所であり、誰がその是非を批判すべきだろうか。
佐竹が今回したことは、東西両道をかけた汚き心であり、赦すべきものではない。
であるが、佐竹義久の謀略は世に得難き優れものである。あの男が世にあるかぎりは、今までどおりにおこう。」

そう言って許した。
しかし慶長7年、佐竹義久が病死すると、義宣は常陸から出羽へと移された。
「国の柱石とは義久の事だ。」義宣はそう悔い思ったという。
(話園)



175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/09(金) 09:25:54.18 ID:iZKY3YXj
これでブチ切れて人材という人材(美人含む)を秋田に連れ去ったのか。

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/09(金) 15:45:29.51 ID:FxmGZWdl
>>174
>あの男が世にあるかぎりは、今までどおりにおこう
ほんとにその通りにしてんじゃねーよw

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 07:23:09.47 ID:QjJSiX+F
流石は大御所様、信賞必罰有言実行の名君であらせられるw

佐竹傘下の鮭騒動

2014年08月22日 13:47

991 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 08:30:20.62 ID:k/wP8bZN
佐竹傘下の鮭騒動

久慈川には鮭が遡上し、石神領と額田領で秋月の半々を折半し、漁をする決まりが約定されていた
しかし天正4(1576)年の額田領ではほとんど鮭が獲れず、これをおかしいと感じた額田の民らが川を調べたところ、石上領側が川底に網を仕掛け、約定を無視し、鮭を獲りまくっていたことがわかった
額田領主・額田照通は石神領主・石神通長に文句を付けたが石神通長はのうのうと無視
さらに石神通長は「言い掛かりで武士の体面を汚された」と、額田氏にいやがらせを続けた

ある日額田照通佐竹義重を饗応する際に、家の子二人に久慈湊に鮮魚を買出しに行かせたが、この二人が使いの帰りに石神領を通る際にいざこざに巻き込まれ、斬首にされた
額田城では、使いに出した者が帰って来ず、料理の準備が間に合わず、来訪していた佐竹義重を大いに怒らせてしまった

堪忍袋の緒が切れた額田照通は石神城を攻撃

燃え盛る城の中で石神通長は自害して果てた

『石神後鑑記』




994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 09:07:24.21 ID:Ty8ilLKV
>>991
常陸でも鮭とれたんだ。江戸にも遡上してたんだっけ。

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 09:39:48.11 ID:+ShZ5FQX
>>994
下総でも獲れる
九十九里からだったか香取海からだったかは忘れたが上がってきていたようだ
小さい頃に父親の田舎の秋祭りで炭のようになった鮭を風邪予防だといって食わされたのを覚えてる

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 10:13:59.39 ID:/2QViTit
ハタハタといっしょに秋田に遡上の経路が変わってたりして

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 13:14:01.35 ID:Ty8ilLKV
>>996
ってことはあの辺までは鮭がとれたのか。秀元はどこで手に入れたんだろうか。

佐文にはどういうわけなのか

2014年07月20日 19:01

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:07:48.67 ID:3Wfshzas
佐竹義宣の家士に忠野佐文という者がいた。弓馬槍剣に熟達し、
そのうえ猛勇大力の士である。

しかしながら、佐文にはどういうわけなのか礼義というものが
まるで無く、諸人に疎まれて誰一人として交わる者も無かった。
そうではあるが、戦場へ出ては度々とび抜けて優れた働きがあった。

この佐文は、戦場へ出る時は大指物を用いた。その指物は白木綿に
『一足不去忠野佐文』と大文字で書いた幟の指物である。

ある合戦で佐竹勢が敗軍した時、佐文は敗軍の兵士に押され、
心ならず一、二町引き退き、道端の川の水を飲もうとした。

その時、自分の大指物が水に映り、佐文はその文字を見て一、二町
引き返したことを残念に思い、ただ一人取って返して敵の大軍の中へ
突入し、大勇戦をして兜首を三つ取った。

けれども、佐文は平生きわめて不行跡な我儘者であるためか、
生涯二百石で終わった。

――『明良洪範続編』




735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:18:08.90 ID:rqgpDVeb
ただの数人、ならともかく大軍相手に
忠野の名がすたると考えるとは

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:37:00.99 ID:n8qrhaPF
大ふへん者

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:41:06.36 ID:lkmgnqtr
どことなく三河武士っぽさを感じる

佐竹義宣、ついうっかり

2014年01月30日 19:14

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:04:57.33 ID:eZ/ti//Q
慶長5年(1600)、徳川家康公は上杉景勝征伐のため東下し、7月21日に江戸を出立。24日には
下野の小山に到着した。

この頃、常陸国の佐竹右京大夫義宣は敵とも味方ともはっきりしなかったため、家康公より
島田治兵衛が遣わされ、その趣きを聞かせた。

佐竹義宣は島田に対し、この様に答えた
「我々は家康公に対し別心はありません。しかしながら大阪に人質を置いているため、会津に
出陣することは出来ないのです。」

島田はこの答えを不思議に思った
「現在、上方は平穏ではありませんか。それなのにどうしてそのように仰るのでしょうか?」

これに義宣は
「上方において石田治部少輔(三成)が軍を起こし、関ヶ原へと攻め下るのだから、そう申すのです。」
と答えた。

これより以前に、石田三成が家康公関東御下向の後で陰謀をめぐらし反逆を企てる、という話は
風聞としてはあったのだが、ここまで確かに顕れた証拠はなかったのだ。
そしてこの24日に上方より小山に飛脚が到着し、石田が家康公を討とうと謀りをめぐらし、
諸国の軍勢を集め家康公の味方の城へ軍勢を派遣したという事を伝えた。

(黒田家譜)

佐竹義宣、ついうっかり三成の挙兵を言ってしまったお話。




422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:21:50.67 ID:3S0k67iN
おい、三成は最初から関ヶ原へしか行かないつもりだったのかよw

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 21:32:30.04 ID:XoDdgJfy
>>421
西軍って岐阜城を背にして清洲まで攻める計画じゃなかった?

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:12:27.78 ID:4N27C86U
会津征伐に参加した諸侯が普通に味方してくれるとか期待してたっぽいけど

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:15:47.93 ID:utcKB+T2
>>425
島津義弘が国元に送った書状ね。「奉行たちは自分たちが決起すれば家康について東下した連中は
みんな頭下げて畿内に戻ってくるって言ったのに、誰一人帰ってこない。どうなってるんだ!?」って内容の。

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:17:12.13 ID:Qc5ZAT+e
兄ちゃんもそんな手紙見せられたんじゃ、援軍送りたくないわな
実際送らずに正解だったし

佐竹義宣、肥前名護屋にて

2013年01月22日 19:52

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 02:48:10.79 ID:JhwoqoZl
文禄二年(1593)、朝鮮出兵のため肥前名護屋城に在陣していた佐竹義宣が国元の重臣・和田昭為へ送った
面白い書状が残っている。

(追而書き)

なおなお、重ねて桃源へ申します。(肥前名護屋の)陣中では茶の湯の流行ること、並々ならぬ次第です。

太閤様などは一日はお城を出られて方々へ出向かれ、私なども同じように数寄のため
方々の陣へ出向いております。
まつほ(茶器か?)なども二十余見ました。

そうそう、また茶の湯の稽古をしたので、関東で一番の数寄者でもなければ、私の前では
茶でも湯でも、貴方などには口を開かせませんよ?
(原文:関東ニおゐてハ一之すきしやたらす候ハゝ、それかしまへなとにてハ、茶とも湯共、
其方なとハ口ハあかせ申ましく候)
今はただただ茶の湯一つばかりをしております。
(原文:たゝ/\きさ一ハかりハすかるへく候)
以上。

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 02:49:25.91 ID:JhwoqoZl
(本文)
重ねて手紙にて申し遣わします。
こちらは別段何事もなく、高麗(朝鮮)のことも順調である、などと聞こえております。
ただ、今のまま相済む、などという事は無いでしょう。
度々申し遣わしている事ですが、当春は太閤様が自ら朝鮮へ御渡海される事になるでしょうから、
中の丸の事は少しも油断してはなりません。
年貢についても引き詰めて催促するようにして下さい。
普請は三月から申し付けるようお願いします。

それから、人見主膳の所に置いてある鼓の筒(どう)を返事の際に大小ともに寄越して下さい。
大鼓は瓜の蒔絵、小鼓はたんぽぽの蒔絵のものですよ。

ああ、小鼓は皮も一緒に添えて送って下さい。大鼓は筒だけで結構です。

そうそう、笛が館にありますからよくよく尋ねて送って下さい。
主膳の所にも笛が一つあるはずですから、これもまた送って下さいね。
主膳の所にないなら宗叱の所にあるでしょう。

太閤様は日々御能をされますから、陣中では乱舞が流行っております。
重臣共はこぞって狂言をしているので、私も稽古をしてやろうと思います。
狂言の相手には桃源、玄喜、伊賀などを寄越して下さい。
唐へ渡って無事に帰ったら、国元で能の興行を考えておりますから、何事においても諸法度以下、
油断無く申し付けて下さい。謹言。

正月十九日 義宣(花押)
和田安房守殿

(『阿保文書』)


陣中では秀吉の影響で能と茶の湯が流行っており、茶の湯や乱舞を楽しむ大名も多かったようだ。

義宣は国元の仕置きだけでなく鼓、笛に関してもあれこれと細かい指示を出しており、
追伸にあたる追而書きでも茶の湯の腕前についても自信満々に述べていて、あの肖像画からは
伺い知れない佐竹義宣像が浮かび上がってくるような書状である。




161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 06:02:00.85 ID:PNOCPoXy
太閤様は日々仮装コント大会をされますから、陣中ではコスプレが流行って云々…

小貫五左衛門とその娘のこと

2012年03月24日 21:33

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 10:57:08.36 ID:sbmYM6C0
秋田藩二代藩主、佐竹義隆公の時代のことである。
そこに小貫五左衛門という、微禄の藩士がいた。
五左衛門は妻が幼い娘を残して死んだ。しかし貧乏な上に頼れるような親族もおらず、
一人で娘を育てていた。
城詰めの宿直などがあるときは、娘を葛籠に隠して城中に連れ入った。同僚たちはこの事を知っていたが、
彼に同情して見て見ぬ振りをしていたという。

ところがある時、宿直の夜、まだ4歳であった娘が夜泣きをし、こともあろうかその鳴き声が、藩主義隆公の
耳に入ってしまった。

すぐさま事情は究明された。無断で城中に娘を連れ入れてしまっていたのだ。小貫五左衛門はじめ同僚たちも、
定めし重い処罰がなされるだろうと、皆戦々恐々としていた。
そのうちに義隆よりのお達しがくだされた。そこには、こうあった。


『娘が成長するまで、小貫五左衛門の宿直は免除する』


そして小貫五左衛門や同僚たちへのお咎めは一切なかったそうだ。
(黒甜瑣語)




400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 11:01:54.98 ID:DHT0bOLs
いい話だけど現代ならまちがいなく出世コースからは外れるだろうね。
仕事任せたくとも任せられないし。

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 11:13:16.58 ID:NlMSR2gr
後の子連れ狼である

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 11:34:44.71 ID:osEZtxOS
クレイマークレイマーのダスティン・ホフマンを思い出した
ホフマンは育児に傾倒して離婚裁判中にクビになったっけな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 11:36:50.68 ID:5f7HNkWT
>>399->>400
明治以前は金の支払いは年末だけだったらしいからな。
ゆったりした社会だったんだよ。
幕末に越後屋(今の三井財閥の祖)が店頭売りを始めた。
ここから瞬時瞬時町なかで金が飛び交うようになっていったそうだ。

ここからは陰謀論だが、三井は古代ユダヤ系渡来人らしいぞ(笑)
宇野正美が言うにはさ

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 14:25:42.81 ID:a15XJm0g
宇野正美w

旭町由来

2012年03月23日 21:44

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 23:57:27.87 ID:15alBe6a
旭町由来

現在のJR神田駅西口商店街
神田旭町は、出羽秋田藩の藩主、
佐竹右京太夫義宣の屋敷地があったことに由来する。

天和2年(1682)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷(現台東区)三味線掘に移転し、その後が
町屋となった。
明治二年、このあたりが、慶長九年(1604)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷だったという縁で、
当時の役人が佐竹家の家紋『五本骨扇に日の丸』から町名を考えた。

昭和36年(1961)5月、内神田ビル建設の際、その地下3メートルのあたりから「佐竹家」の鐙瓦数枚が出土した。
この瓦は扇に日の丸の紋もあざやかに金箔をほどこし、豪放華麗な桃山文化を継承した江戸初期の大名屋敷を
偲ばせるものだった。
この他鳩笛、キセル、塩つぼ、とっくり、盃、印鑑、土人形、木製上水道管など、多数の出土品を数えた。

昭和四十一年(1966)に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は
地図から消えた。
現在はその名残として、瓦が出土したビル前に佐竹藩・上屋敷跡地の石碑が、
商店街通りには、佐竹藩2代目当主の義隆が、勧請したことに始まる佐竹稲荷神社がある。


ただし、佐竹の家紋は『五本骨扇に日の丸』ではなく『五本骨扇に月』です。




411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 01:02:31.36 ID:22Qp5/5g
月○は由来しらなきゃ判らないしなぁ~
まぁ、間違ってるからこそ町名として残らなかったってことなんだろうけど~

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 01:15:36.61 ID:Kc+fXu84
白黒や瓦紋でしか見たことなかったんじゃないの?
色なしで丸が書いてあれば大抵の日本人は日の丸と思うよなぁ
中東辺りの国の人は丸といえば月をイメージするらしいけど
しかし単純に佐竹町じゃいかんかったのか

佐竹義宣が八郎潟で猟をした後

2012年03月18日 23:39

336 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/18(日) 02:56:39.11 ID:24AxVwLe
佐竹義宣が八郎潟で猟をした後、義宣が撃った弾が白鳥に命中したものの、死なずに
泳いで逃げたうえ、後を追っていた家臣も白鳥を取り逃がしてしまった。これに苛立った義宣は

「白鳥を取り逃がすとは使えん奴だ!儂が撃ち殺してやる!」

と、この時同行していた家臣の宇都宮帯刀に銃に弾を込めるように命令した。
しかし、帯刀は銃に紙の弾を込めた為に発砲しても家臣は死なず、義宣は益々怒ってもう一度弾を込めるように指示。
すると帯刀は

「銃は平時に人を撃つものではございませんぞ。」

と諫言した。この言葉に我に返った義宣は、家臣を許し、帯刀を

「猟に出て家臣を一人得たのはお前の功績だ」

と称えたという。




337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 03:00:03.41 ID:HcujyE4w
白鳥の後を追っていた家臣っていうのも
実は捕まえる気が無かったんじゃね?

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 03:02:45.97 ID:GnNxOBxs
干潟とはいえ泳いで逃げたから追った家臣は船でもねぇと追いつかないだろうしな

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 07:01:34.27 ID:mqjLXVLP
鶴のお吸い物って聞くけど
白鳥って食べてたのかな?

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 08:14:55.09 ID:OVCW5fx9
>>336
いい話か?…w

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 09:29:54.04 ID:uyfew7X6
>>339
秀吉が博多の茶会で食べてるらしいよ
あと会津辺りにも記録があるらしい
そんなに珍しいことでもなかったみたい?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 20:54:32.89 ID:Yh2hzR8m
>>339
塩漬けにして、主に贈答品に使われたらしい
「しろとり」と呼ばれていたようだ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:29:52.20 ID:mzZLnm0k
鮭様が仮病をはじめたようです

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:52:28.03 ID:BGiYtDlP
>>347
まむし「なんと!」
爆弾正「これは縁起の良い」
八丈島「早速父上に献上せねば」

佐竹義宣「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」

2012年03月17日 22:35

338 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/17(土) 03:07:14.50 ID:YFD4c2fs
佐竹義宣が、伊達政宗上杉景勝島津忠恒らと共に徳川家家臣の屋敷での酒宴に参加した時のことである。
義宣はこの時、普段から仲が悪かった政宗と景勝を和解させる為に

「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」

と何度も言い聞かせた。

これに景勝は応じたが、政宗はといえば

「俺も別に構わんぞ。だが、もし貴殿が幕府に背くような事あらば、俺が直ちに粉砕してやるわ!」

と逆に景勝を挑発した。

「・・・・・・てめぇ」

善意を踏みにじられてしまった義宣は政宗のこの発言にブチギレてしまい、

「上等だよ!だったら、もしお前が幕府に背いた時には、俺か景勝のいずれかか先陣になって
 お前をぶっ潰してやんよ!」

と応酬した。その後、政宗は自身の後継者である忠宗が忠恒に刀を贈った話をきっかけに

「義宣の刀が見たい。」

と言い出したが、義宣は

「誰が見せるか。」

と頑として応じなかった。

「おいおい、お前は何をそこまで用心してんだよ?」

と政宗に問われると

「お前相手に、用心しない訳がないだろうが。」

と返したという。仲介役がケンカの当事者になってしまったお話である。
最後に、この三人の喧嘩をすぐ傍で見ていた忠恒の胸中は如何ばかりか・・・




339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 03:31:25.29 ID:pEH00W7A
www

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 04:11:18.12 ID:r7ZtpCnm
さすが従兄弟、仲がいい

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 04:44:19.56 ID:uNP/Qpy5
島津忠恒「従兄弟なら仲良くするべきだし、刀を御披露目して何か都合の悪い事などあるまいキリッ
あぁこんな時に七柱槍同期の直江君がいれば場が収まっただろうに…」

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 04:59:36.50 ID:afywaHqA
こんなに表面を取り繕うのが下手で武将として大丈夫なのかw

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 09:54:56.76 ID:McuEaZUB
なんとなく話がすすんでるけど景勝さんひとこともしゃべってないな

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 10:07:51.64 ID:pspJNCZ6
代わりに怒ってあげた義宣はいい奴
政宗は馬鹿
忠恒は恐らく黒い

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 10:34:11.64 ID:FUzLXt9Y
>>338
期待に違わぬ流れで安心した

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:03:14.68 ID:8tVuFdRW
>>338
これは…。

ホストの徳川家家臣は胃が痛かっただろうなw

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:35:07.64 ID:fn8GZJRV
従兄弟でも義宣さんはどちらかというと政宗さんとは反りが合わないだろうしね

つか、喧嘩の仲裁ってよっぱど格が上とかじゃないとこんなことになるよね
酔っ払いの喧嘩も止めに入った人がボコボコにされてるのよく見るしw

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:37:53.13 ID:evOgrSns
>>338
でもこの頃にはもう幕府の先陣は
譜代大名は井伊家、外様大名は藤堂家と決まってるんだよな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:47:27.63 ID:TcCo+wg/
井伊藤堂は将軍の露払い役。徳川本隊の先陣な。
全体の先陣は近隣の大名が勤める物。(例、島原の乱)

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:50:21.46 ID:evOgrSns
成る程そうだよな

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 13:46:09.14 ID:a5/BpXjG
秀忠が江戸城で政宗、景勝、義宣を招いて茶会を開いたら、政宗が関ヶ原の時の活躍を自慢して険悪な空気になったって話があるけど、
これ、秀忠が仲裁目的で開催した茶会だとしたら気の毒だな

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 14:23:05.37 ID:WFciijk8
景勝生存中だから秀忠が将軍時代で間違いはないな

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 14:52:43.90 ID:McuEaZUB
景勝さん無口だからいつも伊達さんが喧嘩ふっかけてんのかな

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 15:05:10.63 ID:r7ZtpCnm
兼続「と、殿がおっしゃっております」

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 16:29:25.46 ID:8wkEdfSc
佐竹義宣ももう立派な徳川幕府配下の大名だな

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 18:36:57.63 ID:q943JvhR
そもそも伊達と上杉以上に、伊達と佐竹は仲悪いだろ

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 23:07:17.55 ID:ehVTna+S
伊達さんは相馬佐竹上杉蒲生最上木村…敵大杉

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 23:13:54.77 ID:4VULFOJs
>>357
四面楚歌だなww

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 23:47:28.93 ID:AYDJTTsS
そもそも義宣と景勝は仲が良くて、二人とも政宗とは仲が悪い
という関係なんだから佐竹上杉と伊達を秀忠が和解させようとした
って方がなんとなく納得できる

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 10:51:06.53 ID:gjoJoBI7
上杉は上杉で、伊達の陣幕の一件があったりするしなあw

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 20:53:08.82 ID:Yh2hzR8m
誰だよ、佐竹に仲介役頼んだのw

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/18(日) 21:06:07.50 ID:qD2nic9E
私です。

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 21:35:54.68 ID:5qVzWQfa
>>361
当人たちでも、景勝か政宗に頼むよかまだ可能性はあるだろ、と思ったんだろう…

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:27:02.98 ID:mzZLnm0k
伊達が敵だらけなのは全部まーくんのせいだろw

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:49:35.23 ID:cEK7zCkv
周り全てに喧嘩売って敵にして
徳川に泣き付いたんだっけ

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 23:00:29.10 ID:XkcCDWo5
東北の信長だな

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 23:04:56.64 ID:SCH5DpQ9
東北の信長といえば八戸信長だろう

律義者と岩瀬御台のちょっと切ない話

2011年11月10日 22:01

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 17:22:04.68 ID:w3gtJ+56
律義者と岩瀬御台のちょっと切ない話


二階堂氏の本拠地である須賀川城は、天正十七年、伊達政宗に攻められて落城。
蘆名盛隆の娘で、二階堂家の養女となっていた姫は
祖母であり且つ養母でもある阿南の方とともに常陸国の佐竹に身を寄せた。
このとき佐竹義宣は正室を亡くして独り身だった。

ほどなくして姫は義宣の側室となる。
南奥羽の名門、蘆名・二階堂両家の血を引く姫である。本来なら正室に据えられるべきところだが、
多賀谷重経の娘を継室に迎える話がほぼ決まっていたため、義宣は家柄より約束を優先した。
律義者はこの頃から律義者である。
二階堂の姫はその生まれの良さから、側室ながら「岩瀬『御台』」と呼ばれた。
二人に子は出来なかったが、仲は良好だったようだ。

ちなみに義宣の父・義重と母・伊達御前は姉妹で、阿南の方は伊達御前の実の姉。
岩瀬御台の母も阿南の方の妹で、父の盛隆は阿南の方の実の息子。
義宣は従兄妹同士の結婚で生まれ、自分は従妹を側室に迎えたことになる。


時は流れ、関ヶ原の戦いで向背を明確にしなかった佐竹はその咎で出羽久保田へ転封。
義宣の母と正室は江戸に人質住まいとなり、岩瀬御台と阿南の方は入部に従った。
しかし阿南の方は久保田へ向かう途中で体調を崩し、懐かしい須賀川で没した。

これでようやく落ち着くかと思ったのも束の間、公儀から突然「岩瀬御台と離縁せよ」との命が下る。
理由ははっきりしない。
伊達政宗が最後まで自分に抗った二階堂を憎み、その血筋を残したくなかったためとも言われている。
ともかく、逆らえば今度こそ佐竹は御家取り潰しである。
義宣は岩瀬御台を離縁。二度と会うことはなかった。

岩瀬御台は、かつての二階堂の忠臣・須田盛秀が城代を務める横手城に預けられた。
ここで須賀川衆と呼ばれる二階堂以来の懐かしい家臣たちに囲まれて余生を送る。

久保田城との糸は完全に切れたわけではなく、梅津政景らが頻繁に往来してご機嫌伺いに訪れた。
義宣からの書状は一通もなかったが、何かにつけ贈り物があったという。
体調を崩したと聞いて、医師を寄越して来たりもした。
不本意な離別を強いた女への、義宣のせめてもの心遣いだろうか。

佐竹義宣は寛永十年一月に64歳で死去。
その6年後の寛永十六年、岩瀬御台は波乱に満ちた生涯を終えた。法名・昌寿院殿光円正瑞大姉。




465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 18:39:14.96 ID:QvBNPVth
>>464
佐竹義宣はなんで子供が生まれなかったんだろうな・・・立花宗茂は戦いづくめの日々だったという理由があるが

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 18:50:01.55 ID:bThRjFnh
>>465
戦国武将だって人間だし、現代と同じ理由じゃないかな
当時は養子を貰うことに対して今ほど偏見はなかっただろうけど、
それでも我が子ができないってのは切なかったと思うよ
正室との間には一人生まれたが夭折したとも言うね

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:31:14.46 ID:7oWHMmq6
種無しじゃなかったのか、はたまた正室が浮気(ry

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:33:45.78 ID:bThRjFnh
秀頼俗説じゃあるまいしw

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:41:08.25 ID:UJyW/bsg
秀頼は、むしろ本当に秀吉の子だったら驚くレベル……


470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:42:09.99 ID:iVapbY9H
そういえば福島正則って跡継ぎに親族から養子取ったらそのあと実子が生まれて邪魔になった養子を殺す、という
秀吉と全く同じ事をしているな。

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:45:52.34 ID:hy+M0ysC
ええ話や・・・・と感動したのに>>467で台無しw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:46:06.32 ID:mhXZ9dUg
足利義政を考えると、実際さっさと殺したほうが混乱が拡大しないような

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:51:26.51 ID:hy+M0ysC
そういや松明あかしは今度の土曜日か


474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 20:02:13.72 ID:YIMqTpm4
>>472
最近の研究だと、足利義政の嫡子問題と応仁の乱の勃興は殆ど関係ないらしいぞ。
むしろ足利義視は、応仁の乱の対応で義政と対立して廃嫡された模様。

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 20:07:21.74 ID:mhXZ9dUg
あれ、応仁の乱の原因は様々だから跡継ぎ問題にしぼることはできない、とは聞いていたが
混乱に拍車をかけてた、まで否定されているのか

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 20:13:01.38 ID:0ug3rxk6
>>472
さっさと殺して、それが主原因ではないにしろ、
豊臣家も福島家もわやになってるから甲斐もなし

正則の場合は殺した養子の嫁が、徳川縁故者だっただけに
さっさと殺したことが、後々けっこう響いたのかもよ?

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 20:31:22.24 ID:YIMqTpm4
>>475
「勃興」ね。
そもそも応仁の乱は畠山、斯波の両管領家の家督争いがベースにあって、義政実子義尚の誕生以前、
斯波義廉が畠山義就と、細川勝元の盟友でありながら赤松問題で勝元と対立した山名宗全を結びつけることで
「西軍」が形成された。

これと細川勝元・斯波義敏・畠山政長勢力との抗争が、文正の政変で義政が将軍専制政治の確立に
失敗したことによりストップがかからず、ついに合戦に発展した、という見方が最近では主流だと思う。
そもそも文正の政変では義政は義尚の乳父の伊勢貞親を失脚させ義視の肩を持っているほどだし。

応仁の乱はものすごくややこしいけど、いずれにせよ応仁元年の時点でまだ31歳の若さで、
非常に健康だった足利義政の後継が大きな争点だったというのは、ちょっと無理があると思う。

結果的に義尚が文明5年にわずか8歳で将軍位につくけど、あれは後継抗争の結果と言うより
人心一新のためという要素が強いと思うよ。

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 20:51:02.27 ID:MTuD2flb
後継者問題ってその時の当主が健康だろうと若かろうと
明確に決まってる存在がいない限り常に起こってる印象があるけど

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 22:00:47.50 ID:4KBaWTkO
>>464
伊達御前は彦姫かな?とすると「義宣の父・義重と母・伊達御前は姉妹」は、
「義宣の母と伊達御前、阿南の方は姉妹」(いずれも伊達晴宗と久保姫との娘)で整合性が合うね

それと他のスレで教えてもらったけど、阿南の方は二階堂盛義の後室で蘆名盛隆の生母ではなく、
盛隆の生母は葦名盛氏の娘で、その縁で盛隆が葦名を継いだらしい
よって阿南の方は岩瀬御台の祖母ではなく、伯母になる
母が阿南の方だと盛隆は叔母と結婚した事になるからなぁ…
(伊達実元は姪と結婚して成実が生まれたけど…)
それでも盛隆の正室・彦姫は、元は葦名盛興(盛隆の伯父か叔父)の正室だった訳で
義理とは言え盛隆は叔母と結婚した事には違いない

あー複雑だ

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 22:47:52.32 ID:hy+M0ysC
>>480
蘆名盛隆は二階堂盛義と阿南の方の実子じゃなかったっけ??
盛隆は二階堂家から蘆名へ人質に出されてたが
出来が良かったのか顔が良かったのか何なのか、
蘆名盛興が死んだ後に彦姫を正室に迎える形で婿養子になった筈。

彦姫と盛興との間には岩姫(のちの小杉山御台。岩瀬御台の異父姉)がいて
彼女は蘆名に養子に入った佐竹義重の次男・義広を婿に迎えた。
それが伊達と佐竹・蘆名の間の軋轢を更に広げて
最終的に摺上原の戦いに繋がった。


482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 22:51:10.31 ID:hy+M0ysC
そういや阿南の方が産んだ娘(岩瀬御台の母親とは別)は岩城常隆に嫁いだけど
こっちは身重の体で佐竹に追われて伊達に逃れて、成実の継室に入ったんだっけね

483 名前:480[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 23:45:54.86 ID:4KBaWTkO
>>481
うん、俺も蘆名盛隆は二階堂盛義と阿南の方の実子だと思ってた
Webでは何を見てもそう書いてるし
よって、ソースを提示出来ず申し訳ない

血縁的には葦名は佐竹よりも伊達に近いのになぁ
・蘆名盛高の娘は伊達稙宗の正室
・蘆名盛氏の正室は伊達稙宗の娘
・蘆名盛興と盛隆の正室は伊達晴宗の娘(彦姫)

>>482
そうそう、岩城御膳
常隆との間に出来た子、長次郎隆道が政宗の偏諱と伊達姓を賜って
伊達政隆として一門第六席・岩谷堂伊達家の祖になってる
祖母の久保姫に並々ならぬ敬慕の念を持っていた政宗だけに
久保姫の実家である岩城の血統を厚遇したと言えるね(政隆の祖父・親隆は輝宗の実兄だし)
「政」の字の拝領なんて、そうそうない
(留守政景と国分政重(盛重)、小次郎政道(?)は将来の藤次郎政宗の血族として輝宗が
与えたものか??)

ちなみに岩城御膳、資料によっては妾とか佐竹側の資料には政隆共々、存在が抹消されてる
仕方ないか

「家康一代、中務一代、国替ノ儀是アルヘカラス」

2011年10月09日 22:13

230 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/09(日) 09:37:54.83 ID:qftO/ZMC
 ついでに新ネタ。

 佐竹家で外交を任されたていた東家の佐竹義久(中務大輔)は関ヶ原の折、
家康から「家康一代、中務一代、国替ノ儀是アルヘカラス」という安堵の
誓紙を取り付けた。秀忠の所へ援軍に向かう途中だったとも、戦後だった
とも言われる。

 後者の説によると、家康は義久に「宇都宮十五万石を与えるので義宣の
国替を承知せよ」と持ち掛け、義久が断わる代わりだった。
 
 帰路、同道していた和田昭為から「足下一代国替の儀御免あれとは何事
か!」と詰られると、義久は「自分は家康より若い。家康が世を去れば、
恐れることはない」と答えた。

 まともな医学もない時代に、自分も壮年なのに自営製薬業者の健康ヲタク
天下人に長寿レースを挑むのは楽勝とは言えない賭けだが、発言自体も死亡
フラグっぽい。
 義久は関ヶ原翌年に四十八歳で病死。暗殺説もある。半年後、佐竹家には
出羽転封が言い渡される。西軍寄り中立だったことへの懲罰で、公儀による
佐竹領接収が終わるまで石高も告げられなかった。義宣が「清和后胤源義宣
朝臣」の名で大藩として存続が叶うよう神仏に祈ったほど厳しい処分だった。

 秋田の無明舎が出した『佐竹氏物語』より。




231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 15:07:11.93 ID:JQd/Mrtb
有名な話なのに今まで出てなかったのか。
仮に義久が生き永らえて転封に従ったとしても
川井伊勢守らと同じ運命だった気がする。

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 16:01:47.24 ID:qcrFCojR
有名すぎて今更という話って結構あるよね
まとめサイトに見かけないと思ったら、どんどん出してほしいな
それで初めて知る人もいるだろうし

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 16:28:24.77 ID:JQd/Mrtb
三行半で終ってしまう小ネタ程度ならあるんだが
逸話として出すほどじゃないんだよなー

誓紙提出、佐竹義宣と伊達政宗

2011年09月09日 22:18

805 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/09(金) 18:18:32.91 ID:h6RlMJbq
徳川家康が病死した後、江戸幕府二代将軍に就任した徳川秀忠は諸大名に自分への忠誠を示す
誓紙を提出するように求めた。この時伊達政宗と同席していたのは、かつて勢力争いを繰り広げた
因縁の相手、佐竹義宣であった。そして政宗は義宣に対し

「誓紙に使う牛王宝印(ごおうほういん・熊野神社等が出す護符)を何枚か持っているから使いたければ使うといい。」

と持ちかけたが、義宣は政宗を見るや

「かつて大名達は豊臣秀吉公にも誓紙を差し出したが、背く者は多かった。貴殿もその一人だ。余った護符は取っておいて、
 次の機会に使えば宜しかろう。」

と皮肉交じりに拒絶した。義宣からすれば「お前と一緒にすんじゃねぇ!」という想いがあったのかも知れない。
さすがの政宗も

「くっ・・・・・・」

黙るほかなかったという。以上、佐竹義宣が政宗に放ったきつい一言である。




806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 18:24:49.39 ID:GQDIxff8
義宣さんは颯爽としてて格好いいな
これはさすがのまーくんも言い返せなかったか


807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 18:32:46.91 ID:rxC0jH8I
(でも感じちゃう…)

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:00:10.54 ID:n7Z16FiT
爽やかなまでにド直球な皮肉だなあw

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:13:01.03 ID:Q4gMti3q
名家の余裕

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:18:06.35 ID:JUUlwqn3
さすが律義者www

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:34:41.79 ID:bS3KZeml
伊達さんも佐竹さんも名家だからなぁ~
つか、従兄弟になるんだっけ?

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:42:37.72 ID:nVAR94ip
秀吉がとった誓紙がなんの役にも立たなかったことを知っているのに、
秀忠はなんで同じ事をしたのかな、そこが小心者の秀忠らしさかな

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:50:29.35 ID:GQDIxff8
秀忠のどこが小心者…?
歴代将軍は代替えしたら常に誓紙を求めてなかったっけ

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 01:43:55.60 ID:QrskhIo+
>>812
政権としての一種の儀式でしょ
まさかそんなので謀反が防げるとは誰も思ってないよ

先代‥先々代の恐ろしさ

2011年08月22日 23:00

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 10:52:49.66 ID:u9qyDYfN
佐竹義宣の養子義隆は、徳川家康に「律儀に過ぎる」と言われた養父にならい、常に紋付袴をまとい、
人と話す時は家臣であっても必ず正座、朝起き、飯を食い、政務を執り、晩に奥で眠る時刻を
一日たりとも変えない、という暮らしぶりだった。

「いや~我らが殿の謹厳実直なることよ!御前で下手な真似をすればどうなるか、
恐ろしゅうて殿の前ではロクに物も言えぬわい。」
「まことに、まことに。」

小姓たちのグチを聞いていた老臣の一人が、おかしくなって彼らの会話に割り込んだ。

「殿が恐ろしいものかよ!先代の義宣様と比べれば、猫のようなものじゃ。わしらの若いころは、
義宣様の前で物言うどころか、あのお方の顔もまともに見たことが無いわい。

先々代の義重公はなお恐ろしく、戦に臨んで勇猛果断なること鬼神の如し。あれが常陸の鬼義重よ
と、家中どころか関東中の、敵も味方も恐怖したものじゃ。」(秋藩温故談)


佐竹家歴代の威厳を示すいい話…ではあるのだが、「へうげもの」で義宣の茶席に呼ばれた家臣が
ビビりまくったあげく漏らしてたの思い出した。




176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 20:00:56.63 ID:14mtRMja
>>173
そういえば佐野天徳寺が「武田信玄や上杉検診の前に出たら恐ろしすぎて顔も上げられなかった。
それに対して秀吉様は自分たちにも気軽に声をかけて親しく接してくれる。だから秀吉様は
天下を取れたんだ」みたいなこと言ってたなあ。

佐野天徳寺の言うことの是非はともかく、戦国真っ最中の武将の言うのはとにかく怖かったようだ。

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 20:28:35.57 ID:LeErMJHC
謙信には唐沢山城攻められて殺されそうになったし、
信玄には理不尽な理由で弟殺されたからだろ、
太閤殿下の方が恐ろしいはわ

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 20:53:31.14 ID:bceoqKQC
殿下はニコニコ顔で恐ろしいこと言うから油断ならねぇw
でも親しみやすい雰囲気ではあったんだろうな

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 00:35:53.14 ID:5fiVScwc
太閤殿下はニコニコしながら誰とでもすぐに仲良くなって、そのまま笑顔で相手を刺し殺せるんだろうなぁ

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 00:49:28.90 ID:bgcvNuHW
勝新秀吉思い出しちゃう

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 01:36:45.85 ID:XfRyRlVv
秀吉は逸話一つ一つを抜き出して見ると、
「良くも悪くも個性的な人だったんだなあ」っていう感想を持つことが多いけど
全体を通して見ると腹の内が全然読めなくて怖い

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 01:37:39.28 ID:ARP0znoU
>>180
ありゃどう見ても信玄だわw

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 01:40:12.38 ID:HyUQH3XY
秀吉は信長の悪い部分を反面教師にして天下取ったからな
そして家康も秀吉の悪い部分を反面教師にして天下を治めたと

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 18:19:07.32 ID:bqosklXE
>>181
そうか?

186 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/23(火) 18:47:41.87 ID:LnNVAI9i
やっぱラスボスより家康のほうがいいと思うわ。
佐竹家と違ってめんどくさい人たちのおかげで忠言愚痴切腹騒ぎなんでもあり。
本人は短気だったみたいだけど家康に忠言して恨まれたとか左遷されたって話聞いたことがないわ。

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 19:12:46.10 ID:YPkKUyu8
家康はその場で即断するというより、
根回しをしっかりやるタイプだからな。
だから太閤の指示をあっさり翻すなどの大きな腹黒さはあっても、
小さな所ではあまり言ったりしないね。

降参峰

2011年07月10日 23:32

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:03:56.49 ID:Jxnn7roW
降参峰


永禄9年(1566年)8月24日、佐竹義重大関高増の持ちかけた義重の弟義尚が那須家の家督を継ぐという策に乗り、
重臣佐竹義堅(東義堅)を大将として那須家討伐の兵を下野に派遣した。
佐竹軍は佐竹義堅の軍勢2000に加えて宇都宮家からの援兵1000、更に大関ら上那須衆300の総勢3300に対して、
大関の引き抜き工作などで伊王野・蘆野など有力な国衆にも離反された那須家は総動員を掛けても兵が集まらない。

佐竹勢は茂木城、千本城を順調に落とし、那須家の本拠である烏山城に迫る。
上那須衆も烏山城の事はよく知っているので彼らの情報で佐竹軍は的確に防御に穴のある烏山城の西側に布陣した。

一方で那須家はなんとか集めた兵で反撃の機会を伺っていた。もう烏山の目前まで兵が迫っている事もあり背水の陣である。
烏山のすぐ西の治武内山へと向かって南から佐竹勢、西から宇都宮勢、北から上那須衆が三隊に分かれて進軍していたが
那須勢はまず兵数の少ない上那須衆に標的を定め出馬した。
動きを察知された上那須衆は佐竹・宇都宮と急ぎ合流しようと南下し、那須軍出馬の報告を受けた佐竹義堅
宇都宮勢に上那須衆との合流を急がせたが
那須の動きは速く、上那須衆は合流前に高瀬の地で那須軍に捕捉されてしまう。

追いつかれてはやむなしと上那須衆も応戦したが、4倍の敵相手に何の策もなく勝つのは無理であった。
しばらくすると宇都宮勢もようやく追いついたが既に上那須勢は崩れており少々遅かった。今度は那須の軍勢が
宇都宮勢に襲いかかる。
宇都宮勢ももちろん反撃しようとしたが敗走してくる上那須の兵などが逃げこむとどうにも士気が上がらない上に
むしろ混乱が生じた。
結果として決死の那須の兵の攻撃を支えきれずついには宇都宮勢も敗走した。

場面は変わって治武内山を制圧した佐竹義堅はそこで高瀬の戦いで上那須衆・宇都宮が敗走した報告を受けるが、
それがまた混乱を呼んだ。
なんと「大関の家紋の軍勢が那須側に寝返って敗走する宇都宮を追撃し、今度はこちらに向かってきている」
というのである。
この報告、実は大関家が一枚岩では無く大関家を乗っ取った高増をよく思わない本来の大関の一門が
那須軍に参加していただけだったのであるがこれがまた佐竹軍の戦意を萎えさせた。

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:05:32.67 ID:Jxnn7roW

義堅も備えを固めて那須の軍勢を迎え撃ったが、ここを抜かれればもう後がない那須軍は反撃されても
突撃を繰り返した。
だんだんと日が落ちて暗くなるにつれて元々士気の高くなかった佐竹軍も那須軍の度重なる突撃に
不安に駆られ始める。
「敵の数は我が方の倍らしい」「宇都宮は既に敗れて撫で斬りにされた」など根も葉もない噂が飛び交い出すと
いよいよ統率がままならなくなってきた。

勝手に戦線を離脱する者なども出始める始末でこれでは戦にならない。
義堅は家臣の大窪秀光の「ここは一度退いて再起を図るべし」との進言を受け入れて撤退を始めた。・・・が
判断が遅かったらしい。
この頃には義堅も周りには馬廻や旗本など数百程度しか付いておらず、これを見た那須家臣千本資俊の
執拗な追撃を食らった。

そしてついに義堅は烏山城の南の千束台という場所で千本資俊に完全に包囲されてしまう。もう護衛は
20人程度しか居なかった。
資俊は和議を持ちかけ「ここで降服して軍をまとめて常陸に帰って頂けるなら命は取らない」と義堅に宣言する。
もう戦っても勝ち目は無い上に総大将が討たれた佐竹軍が追撃を喰らえば被害はより深刻なものとなる事は
明らかなので義堅も提案を受け入れて降伏する他はなかった。


以後、この地は『降参峰』という佐竹軍にとって不名誉な名で地元民に呼ばれるようになった。




949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:16:03.78 ID:tyyRP2Po
大関さんは裏切っても不思議では無い奴だと佐竹にも思われてたんだな。

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 03:42:38.29 ID:9Uno5LPh
随分綺麗に各個撃破が決まったな
那須家の強さもあるだろうけど

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 08:39:09.96 ID:C5saOIz6
追い詰められた時の那須家の強さは異常w

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 21:09:44.16 ID:0TTBYdH+
迎撃側だといつも強いな

佐竹義重の秋田転封と伊達政宗

2011年07月08日 23:02

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 21:38:19.97 ID:A2xBlLDI
関が原の戦いの後、佐竹家は転封を命じられ、佐竹義重も奥州路を通り一路、新天地・秋田へ向かった。
途中、白河は滑津まで来たところで武装した集団に出会った。伊達政宗が、陣を構えていた。

「さては旧怨を報いんとてか、それとも別の魂胆あっての事か?誰ぞ政宗に談判して参れ!」
義重は家臣に伊達軍との交渉を命じたが、苛烈をもって知られる政宗と、背後に控える軍容を恐れて
誰も名乗り出ようとしない。

ついに、末席に控えた小姓の和田十二郎が、しばしためらった後に使者の役を買って出た。
ただ一騎、十二郎は思い切って伊達軍の中を駆け抜け、中央に位置する陣幕の中へ乗り入れた。
「狼藉者め、何奴じゃ!?」
床机に腰掛け、眼光鋭く睨みつける政宗を前に、十二郎は馬を飛び降り、平伏した。

「突然の無礼、失礼致しました。拙者、佐竹義重配下の者。ただ今、義重が秋田へ向かうに及び、
大勢で待ち受けるは、野伏り等が追剥ぎせんとの企みなり。追い散らせとの主命により、参った次第。あに図らんや、伊達殿のかかる振舞いは、義重を妨げ、通さずとの心にございますか?」

「いや、これは義重殿が途中にて不慮の事あれば、政宗これを保護せんとの心。いざ心安く通られよ。」

「武門たる家が、他家の保護を受けて秋田へ赴いたと言われては、末世までの恥辱になり申す。
ご好意の程は主にお伝え致しますゆえ、速やかにお引き取りあるべし。もし引かずば、義重もこの道を
動くまじ。さすれば、互いに遺恨が残りまする。」

政宗は十二郎を見据えて考え込んでいたが、やがて立ち上がった。「よし、引き上げじゃ!この政宗に異心なき事、お主の口から義重殿によーく伝えよ。それにしても、
お主は年若く見えるに、大事の使者を良く成し遂げた。名を聞いておこう。年はいくつじゃ?」

「拙者は、和田昭為が孫・十二郎。生年は十八!!」
「家老の和田安房が孫か!道理で・・・よし、これをやろう。」
十二郎の態度に感心した政宗は、褒美としてみずからの替鎧を与えた。

堂々たる大将の鎧をかつぎ、意気揚々と佐竹家の一団に戻った十二郎は、事の次第を義重に報告した。
「よくやった!しかしお前確か、年は十六じゃろ?なぜ十八歳などと偽ったのだ?」

「はっ、えー、いや、そのぅ、十六歳と言って、もし政宗に小僧扱いされたらシャクだと思い・・・」
破顔一笑した義重は、厚く十二郎を賞してやった。(秋藩温故談より)





517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:00:44.99 ID:Dh3NzgPM
結局政宗は何しにきたんだ?
佐竹との遊び収め?

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:05:51.67 ID:DTb+47mN
禍根ある相手が自領を通るんだから狼藉略奪を警戒しての行動なんじゃね?

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:07:55.34 ID:huLOkJw5
白河って伊達?

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:08:05.61 ID:K7A2lEAM
>>517
まあ史実かどうかはともかく、キャラクター的に言えば政宗のことだから、
半ば嫌がらせでそれに対し佐竹が怒ってなにか仕掛けてきたら、これ幸いと
自分の勢力拡大のために何らかの手をうとうとした、ってあたりかねw

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:16:43.84 ID:CUF0qj+e
さすがに具体的に何かしようってのはないだろう、どっちもそんな馬鹿じゃない。
地方に飛ばされていく旧敵を眺めてにやにやしたかっただけだろうな。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:21:52.33 ID:QAJpI4rj
明らかに嫌がらせだな。
でも、ただの嫌がらせが、ちょっと対応間違えると血腥いことに。

523 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/08(金) 23:29:06.70 ID:Kc80vtsS
暇だなー正宗

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 23:36:44.40 ID:05Kpxf63
政宗個人がやるのは構わんが、そんなことのために軍隊動かすのは何だかな

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 01:39:29.15 ID:AxlGhnwt
多少の流血沙汰は期待してたかもしれんね



526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 01:42:21.45 ID:Jykh43aO
国分盛重を引き渡せ、と迫ったりしてw
まぁ、居なくなってもらった方が政宗には都合が良いか。
これが叔母(義重室)への敬慕故の行動だったらロマンティックなんだけど。
実際はニヤニヤするために出張って来た、ってのが妥当かな。
義宣と従兄弟なんだから仲良くしろw

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 04:18:39.45 ID:56pNIyFm
佐竹をそのまま素通りさせるのはシャクだぜ、な空気が伊達家中にもあったけど
大仰に事を構えたように見せかけて実質的には東北らしい馴れ合いで済ませたぜ
なんて所じゃないかね

政宗時代の伊達家中ってノリも主君に毒されているような気がしてならん

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 07:51:01.09 ID:Py3a/zpv
ねぇねぇ、代々の領国から北の果てに飛ばされるけど
今どんな気持ち?
        ∩___∩                     ∩___∩
    ♪   | ノ ⌒  ⌒ヽハッ    __ _,, -ー ,,    ハッ   / ⌒  ⌒ 丶|
        /  ×   (●)  ハッ   (/   "つ`..,:  ハッ  ×   (●) 丶     今、どんな気持ち?
       |     ( _●_) ミ    :/       :::::i:.   ミ (_●_ )    |        ねぇ、どんな気持ち?
 ___ 彡     |∪| ミ    :i        ─::!,,    ミ、 |∪|    、彡____
 ヽ___       ヽノ、`\     ヽ.....:::::::::  ::::ij(_::●   / ヽノ     ___/
       /       /ヽ <   r "     .r ミノ~.    〉 /\    丶
      /      /    ̄   :|::|    ::::| :::i ゚。     ̄♪   \    丶
     /     /    ♪    :|::|    ::::| :::|:            \   丶
     (_ ⌒丶...        :` |    ::::| :::|_:           /⌒_)
      | /ヽ }.          :.,'    ::(  :::}            } ヘ /
        し  )).         ::i      `.-‐"             J´((
          ソ  トントン                             ソ  トントン

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 09:26:08.40 ID:L8rv7rTO
>>528
政宗も、秀吉時代にやられてるじゃないか

534 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/09(土) 11:26:16.07 ID:pDQPVeAA
こういうヤツだから100万石もらえないんだろうな> 政宗w