「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」 行ってきた

2017年09月26日 17:43

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 15:28:33.97 ID:l7q/KHP7
>>238行ってきた
ここやまとめサイトで突っ込まれてる「秀吉を支えた」についてはこんな描かれ方
「天正十八年(一五九〇)、小田原城の北条氏を滅ぼした秀吉は、つづいて宇都宮城に滞在して天下統一の総仕上げに着手した(宇都宮仕置)。
(中略)
二二代国綱は秀吉から領地支配を認められ、その後も秀吉への奉公に励んだ。
国綱は、太閤検地を領内で実施して経済基盤を固め、朝鮮出兵(文禄の役)などの過度な軍役をつとめた。
秀吉からは豊臣姓・羽柴名字を許され、朝廷の官職である侍従にも任じられるなど、国綱は秀吉の一門格として処遇された。
慶長二年(一五九七)、国綱は突如、領地を没収された。秀吉の不興をかったことが原因とされるが、真相は不明である。
国綱旧領の事後処理は、秀吉の奉行浅野長政と真田昌幸に命じられ、両人は宇都宮でその対応にあたった。
宇都宮氏の再興を期す国綱は、旧臣たちとともにふたたび朝鮮半島に渡ったものの(慶長の役)、秀吉の死去によってその望みは断たれた。
再興の願いがかなわぬまま国綱は、慶長十二年(一六〇七)に江戸で死去した。」

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 15:51:47.42 ID:l7q/KHP7
また展示されてた上杉家文書に収められている景勝宛の宇都宮国綱書状に
「景虎を破って家督を確固たるものとしたこと喜ばしいです
佐竹たちと一味中を結成して対北条同盟をつくってるので安心してください
特に秀吉との関係強化をはかることをお考えください」
とあったから「秀吉を支えた」でも不自然ではない気が

ほかにも
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=5134
で第20代当主宇都宮尚綱が使っていた軍旗の展示もあったが、その説明文が
「本軍旗は、宇都宮俊綱(のちに尚綱)が天文十八年(一五四九)に喜連川早乙女坂(さくら市)の合戦で実際に使用したものである。
俊綱は那須氏との合戦で討死をとげ、この軍旗は敗走する宇都宮勢から那須氏が奪い取ったものになる。
以後、那須家では「宇都宮俊綱旗」として伝来された。」
だったせいで適当に読んでたら
「ああこの戦いの時にはまだ俊綱で、後から尚綱に改名したのか
…てこの戦いで死んでる!」と突っ込んでしまった。
軍旗の名称が俊綱旗だからそっちをメインにしたのだろうか

ついでに、この早乙女(五月女)坂、現在では尚綱を射殺した鮎瀬弥五郎実光にちなんで「弥五郎坂」という名前になっている。
尚綱坂や俊綱坂と呼ばれないのが少し不憫



252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 16:26:55.27 ID:ItlnoGBr
うむ、レポ乙

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 18:57:34.46 ID:KrZ4khGv
マイナー大名だけど地元でこうして扱われるのはなんか嬉しい

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 20:17:15.98 ID:iEpll7pY
大体歴史ある家ってのはマイナーなんだよな
メジャーどころは伊達島津大友あたりか微妙な感じで上杉か

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 22:49:41.70 ID:8e1WUmfJ
佐竹

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 23:01:33.66 ID:r0Me4Piv
確かに戦国期の千葉介はマイナーだ
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【情報】 「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」 開催中

2017年09月19日 18:53

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 18:21:30.94 ID:5pudpMB+
栃木県立博物館にて、
「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」
が開催中です
期間は9月16日~10月29日

展示品によっては10月9日まで・10月10日からなど、期間限定のものもあるようです

ttp://www.muse.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/kikaku/170916utsunomiyashi/index.html

お近くの方、興味の有る方はぜひ

行った方のレポ
「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」 行ってきた


239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 21:53:04.03 ID:dH0BVuCT
栃木県の戦国関連
日光:東照宮
足利:足利学校
小山:小山評定
佐野:犬伏の別れ
は戦国好きならみんな知ってるし

那須、大田原
はあの三兄弟のおかげで此処の住人にはおなじみなのに

宇都宮や広綱
はいまいち目立ってないような

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 22:02:00.80 ID:0FIENwtC
ごめんね4行目までしか分からないんだ

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 17:04:29.57 ID:7v4OVPV9
まあ名族は確かだな。

宇都宮国綱改易後の結城朝綱への書状

2016年06月21日 21:15

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 11:35:27.38 ID:/z1n7eoo
真崎文書より宇都宮国綱改易後の結城朝綱への書状

返返、早々為脚力承候、忝候、宇都宮之様子何と候哉、一切不相聞候、以上、
来礼被見、忝候、仍不斗様子を以身上相果候、天道浅間敷存迄候、
然者、西国備前岡山へ可罷下由御諚候間、即罷下、岡山近辺号鷹辺山家ニ指入居候、
石治・増右、内存少も不相替懇切候間、其憑迄候、其方事何様ニも関東中堪忍候様、
尤候、当国へ被打越事、遠境と云、爰元堪忍無調之儀と云、必此方へ之儀叶間敷候、
其元取乱之様、令推量、扠々痛間敷候由存候、尤身之手前之儀可有推量候、巨細追々可申遣候、
恐々謹言、
(慶長二年) 霜月九日 国綱 
七郎殿へ

突然改易された事は天道によるものであったとしてもあまりになげかわしいものという悲しみ
増田長盛石田三成はこれまでと変わらず懇切に対応してくれるので彼等を頼みとしていること
改易された状況でも結城朝勝を岡山訪問を思いとどまって関東にいるようにと気遣っている手紙



876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 18:01:13.44 ID:zZxvwWud
>>875
宇都宮は最初取次は石田三成だったのが浅野長政に変わったんだよなあ
石田のままだったらこんなことにはならなかったのかなあ
佐竹は石田のままで石田がかばってくれたけど

弟はたしかに気性の荒いイメージはあってこう心配するのはわかる
しかし彼の行動は戦国を生き抜いた武将そのものだよなあ

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:09:28.38 ID:eaC71Bj5
タイトルのほうは結城朝綱になってるけど朝勝だよね

秀吉に実家を潰されさらには結城家を出ることになったけど終始豊臣方なんだね

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 22:02:58.19 ID:B/LRMvhn
>>877
豊臣方と言うより結城領を取り戻す為には秀康や家康の敵に回るしか方法が無いとも言える

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 23:50:14.47 ID:HAdMnRVS
実家の宇都宮も潰されてる可哀想な坊っちゃん

宇都宮家滅亡

2013年12月04日 18:58

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/04(水) 09:13:28.40 ID:PK20oFe9
宇都宮下野守国綱は代々下野宇都宮十八万石を領し、関東にて豪家の一つであった。

しかるに慶長十二年十二月二十三日に無嗣のまま卒去。これまで宇都宮に無嗣の場合
庶流多賀家よりこれを継ぎ、多賀に子が無い場合は宇都宮の庶子を遣わして継いだ。

今度はこれに反し家老神野川与左衛門は密かに正安らと相談して浅野弾正三男を養子
として家名を立てようとした。

多賀はこれを聞いて大いに怒り正安がこの事を談合する為に上方へ登ったのに追っ手
を遣わし正安を殺害し、神野川与左衛門の元へも討手を送って屋敷を取り囲んだので
与左衛門は思うさまに戦ってから切腹した。

この事を家康公が聞かれ大いに咎められ多賀には切腹を仰せ付けられ、宇都宮の所領
は没収となり、永く続いた家名が断絶したのは惜しまれる。

かの家の祖、栗田関白道兼公の玄孫宇都宮宗円以来、代々弥三郎下野守を称し数百年
宇都宮の領主であったが、この時一朝にして滅びたのは無情のことであった。

後裔は今わずかに残って水戸家に仕えている。

(翁草)

大意は残ってるけど時期やら登場人物やらがえらい事になってる逸話
伝言ゲームって怖いよね





家督簒奪の末路

2012年08月15日 20:51

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 20:39:04.46 ID:lPYzGUNE
家督簒奪の末路


永正9年(1512年)、下野宇都宮家で「宇都宮錯乱」と呼ばれる大きな家中騒動が起き、
当主宇都宮成綱は隠居に追い込まれ子の忠綱が跡を継いだ。
隠居をした後も実質的な権力をは忠綱に有り、2年掛けて錯乱を鎮圧し、反抗勢力の主である芳賀家を叩き、
宇都宮家の安泰に務めたがその成綱も永正13年(1516年)に死亡してしまう。

忠綱の代の宇都宮家には2つの爆弾があった。まずは父成綱の弟興綱、もう一つは宇都宮錯乱で
大いに活躍した壬生綱重の息子、壬生綱房である。
忠綱は叔父の忠綱を仲の悪かった芳賀家に送り込んで取り込みを図ったが、仲の悪い芳賀家に
これまたさほど良好ではない間柄の叔父を送り込んだ事は、反忠綱勢力の結集を強めてしまったらしい。

大永3年(1526年)、ついに反抗勢力が忠綱に牙をむく。
結城政朝が宇都宮領に攻め込んで来たことで忠綱が迎撃に出撃した隙に興綱が宇都宮城を占拠したのである。
本拠を追われた忠綱は壬生綱房に匿われたが大永4年(1527年)に興綱を接近した綱房に暗殺されてしまった。

こうした経緯で宇都宮家19代当主宇都宮興綱が誕生したのであるが家中の混乱はこれで収まらない。
興綱は忠綱への反抗に役立った芳賀家嫡流に家督を返還し、宇都宮家中での地位を保全したのだが
これがまずかった。
芳賀家は忠綱時代より更に強大になった壬生綱房と手を結び、やがてこの両者の専横に
手が付けられなくなったのである。

天文元年(1532年)、興綱は芳賀高経・壬生綱房によってかつての「家督簒奪」の罪を糾弾され
強制的に隠居に追い込まれ、
天文5年(1536年)にはついに芳賀高経よって暗殺されてしまう。

芳賀や壬生が興綱の家督簒奪を罪に問うのはまさに「お前が言うな」状態では有ったのだがこうして
興綱の短い春は終わった。


後日談
宇都宮家のその後
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6692.html


986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 20:44:47.89 ID:QoHnq8Qd
>仲の悪い芳賀家に これまたさほど良好ではない間柄の叔父を送り込んだ事は、反忠綱勢力の結集を強めてしまったらしい

頭悪すぎだろう・・・

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 21:30:35.14 ID:xUEdL4ex
宇都宮家にとっての芳賀と壬生は、那須家にとっての大田原みたいなもん

宇都宮家のその後

2012年08月15日 20:50

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 23:59:11.01 ID:xUEdL4ex
>>985で紹介された宇都宮家のその後

宇都宮中興の祖・成綱の跡を継いだ18代当主・忠綱は叔父の興綱に城を追われ、腹心の壬生綱房の元に
落ち延びるも暗殺。
これにより19代当主となった興綱も壬生綱房、芳賀高経らによって若干二十歳の嫡男・尚綱に家督を
譲らされたうえ暗殺された。
しかし宇都宮家の混乱はさらに続くのである。

まず、興綱へのクーデターで協力関係にあった芳賀高経と壬生綱房が対立した。
芳賀家は宇都宮家当主を出すほどの有力な一門だったが「宇都宮錯乱」で失脚。返り咲きを望む
芳賀高経は先代当主・興綱排除の功績から宿老筆頭の座を要求した。
しかし先々代当主・忠綱暗殺の功績により宿老筆頭となっていた壬生綱房はその座を譲らず、
クーデター後も尚綱の後見役として宇都宮城代に就任。
家中での権勢を高め、ついには宇都宮惣領家が相伝してきた日光山御神領の支配権まで握ってしまった。
これに憤った芳賀高経は天文7年(1538年)に挙兵するも敗走。常陸の小田政治を頼って落ち延びるも、
あっさり宇都宮家に引き渡され斬首。

そして天文18年(1549年)に那須高資との戦いで20代当主・尚綱が討ち死にすると宇都宮家の混乱は
最高潮に達する。
当主討ち死にの知らせが伝わるやいなや城代の壬生綱房は宇都宮城を占拠。
那須高資と和睦し、那須家に身を寄せ亡父・芳賀高経の仇を討った芳賀高照を当主として招く。
もちろん高照にはほとんど実権がなく、実態は綱房による傀儡に他ならない。
こうして主家を乗っ取った壬生綱房、まずは会心の笑みであった。




991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 01:11:14.22 ID:7RQ+gPFV
>>990
これの更に続きがこれになる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4508.html

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 07:51:11.19 ID:NQXs0Hg/
北関東大荒れすぎw

993 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/15(水) 08:50:24.96 ID:JcWCV5o5
>>常陸の小田政治を頼って落ち延びるも、あっさり宇都宮家に引き渡され斬首。

ちょwwww天庵パパひどいwwwww

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 09:13:00.06 ID:2eVX/EEK
そりゃそうだろ小田氏がかくまってもなんのメリットもないもの

995 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/15(水) 10:18:31.21 ID:JcWCV5o5
窮鳥入懐って言葉もあるじゃないですかwww

つか、まぁ、逃げる先が小田家ってのがそもそも間違いだと思うんだけど、
なんか縁故あるんだっけ?



996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 10:22:45.47 ID:/k4Ik1zx
>>995
簡単に言うと先祖が一緒。500年ほど前のw

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 10:26:08.30 ID:qxrimqnS
>亡父・芳賀高経の仇を討った芳賀高照を当主として招く

えっ

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 10:41:38.76 ID:mr0nU9S7
そもそも何で尚綱の外祖父である天庵パパを頼ったのか
じーちゃんから孫に口聞いてもらう気だったなら考え甘すぎだろ…

999 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/15(水) 10:49:46.05 ID:JcWCV5o5
孫が可愛くて仕方がない 

これが世の爺・婆の常だ!
孫の頼みなら引き渡しても仕方ないか~

宇都宮尚綱の死

2011年02月15日 00:00

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 19:52:35 ID:kYVX1VUy
宇都宮尚綱の死

宇都宮尚綱は足利晴氏の要請を受けて領を接する那須高資を倒すべく兵を率いて出陣。1549年9月27日の朝、
下野の喜連川で両軍は激突した。
宇都宮軍3000人に対して那須軍が用意できた兵はわずか300人、兵力差は歴然としていた。
しかしながら那須軍の粘りは凄まじく、午前中は宇都宮軍と互角に渡り合うほどであったがやはり午後になると
徐々に劣勢となっていく。

那須軍を押し始めていた宇都宮軍であったが那須軍もただ小勢でやられに出て来たわけではない。
山越えで迂回していた那須七騎の一つ、伊王野資宗の軍勢がにわかに宇都宮本陣に肉薄していたのである。
勝利を目前にしてやや慢心があったのかもしれない。予期せぬ新手の登場に宇都宮本陣は混乱した。

尚綱「な、なんだと・・・ええい、落ち着け!」

怒涛の勢いで攻めかかる伊王野の軍勢を前に尚綱の判断も冷静さを欠いた。混乱を収めようと尚綱は
馬を進めてしまう。
そこで伊王野資宗は立派な身なりをした騎馬武者を視界に捉えた。

資宗「弥五郎よ!あの騎馬武者こそ宇都宮尚綱ぞ!矢を放て!」

伊王野家一の弓の名手、鮎ヶ瀬弥五郎の剛弓は一矢で尚綱の胸板を貫き、命を奪い去った。
そして弥五郎は敵陣に討ち入ると尚綱の首を取り、高らかに叫んだ。

弥五郎「宇都宮尚綱討ち取ったりー!那須勢、伊王野家家臣、鮎瀬弥五郎実光が討ち取ったりー!」

総大将が首を取られた宇都宮軍はもはや混乱どころではなく総崩れである。宇都宮軍は甚大な被害を出しながら
領国へと逃げ帰った。
こうして「喜連川女月坂の戦い」は那須高資の逆転大勝利で幕を下ろしたのであった。




810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 20:10:30 ID:+iHgqyzK
那須家は戦いになると本当に強いな。
家中はある一家のおかげでゴタゴタだが。

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 20:40:00 ID:qyXH6lX6
那須家はいつも寡兵だな。糞田舎で人が集まらないのか。

地の利で最大限カバーしてる感じ。

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 20:48:34 ID:nNVuD4M0
戦場で大将が討ち取られるなんてそんなにないのに
圧倒的兵力差があるときの大将討ち死に率高すぎだろ


上杉朝定
武田元繁
今川義元
陶晴賢
龍造寺隆信

油断大敵とはよくいったものだ


813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 20:49:36 ID:TiFls+sU
戦国時代を通して数少ない大名が野戦で討ち取られた事例
そのうち二件が下野で発生しているのはなぜか?

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 20:51:20 ID:GP5eG0oW
神はまず天と地を作った。海と山を作った。
そして日本という国を作った。
那須地方には日本一有名な弓取りと、それなりにうつくしい風景と、
まあまあおいしい水と、日本一過ごしやすい(?)気候を作った。
天使がいった。
「神様、これではあまりに那須家が恵まれすぎています!」
神はこたえた。
「心配するな。獅子身中の虫を作った」

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 21:02:17 ID:kYVX1VUy
>>813
もう一人は佐野宗綱だっけ?

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 21:13:32 ID:q5nxc30x
>>812
大友親貞も忘れないであげてください

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 21:38:29 ID:TiFls+sU
>>815
そうだね

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 21:44:11 ID:ErCRo6fT
>>812
そのうち2人も元就が首getしてるのか
その運をもう少しTERUに残してやれよ・・・

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 22:01:18 ID:bEx/fawy
>>818
そしたら毛利の勢力がいまいち拡大できなくて、
TERUに現実以上の苦労が舞い込んだんじゃなかろうか。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 22:07:33 ID:a6DCbeqi
隆元パパが長生きしてくれたら、財源ガッポガッポだったのにね・・・可哀そうなTERU

『常陽四戦記』より、宇都宮家中・笠間氏と猿子氏の争い

2010年11月19日 00:00

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 01:15:14 ID:MY7sqxkw

常陸国笠間の城主・笠間大和守心休と猿子(益子・マシコ)城主・猿子某は共に宇
都宮尚綱に仕える同僚同士であった。
それも笠間は家老、猿子は一門と、常陸方面における宇都宮家の大黒柱と言っても
良い二人だったのである。

ところがある時、両家の領民の間で山林争論が起こる。初めは口論だったものが、
徐々にエスカレートし始め、笠間側の領民が猿子側の領民を殺害してしまうという
事態にまで発展する。

これ以来、笠間と猿子は互いに争うようになってしまう。
互いの領内で境を接していたのは富谷城の加藤大隅守(猿子側)と橋本城の谷中玄
蕃允(笠間側)。
加藤は谷中に押されつつ三年の間、何とか持ちこたえていた。
しかし、主君・宇都宮家からは何のアクションもない。配下の者同士が三年間も戦
争を続けているというのに、どちらかを成敗する気配もなければ、和平を仲介する
でもない。まったくのスルーである。

「笠間領民による猿子領民の殺害」が原因で戦となり、「富谷城が笠間軍によって
陥落寸前」であるという現状に対し、宇都宮家の援軍を期待していた猿子は激怒。
一門衆の身でありながら宇都宮家を見限って、結城家と手を結ぶ。

結城家の動きは素早かった。
約束した五千石の領地を受け取ると同時に富谷城へと援軍を派遣する。
猿子軍は加藤大隅守の手勢を囮に笠間軍を誘き出すと、結城軍と共に包囲殲滅、こ
れによって谷中玄蕃允も戦死する事になる。


大敗を喫し、谷中玄蕃允を失った笠間氏は、橋本城に江戸美濃守を派遣する。
谷中の息子・孫八は十八歳と未だ若く、紛争地の最前線を任せる事は出来ない、と
の判断であった。

これを屈辱と受け止めた孫八、江戸美濃守を上回る手柄を立て、皆を見返してやろ
うと心に決める。
孫八の従兄弟(谷中玄蕃允の甥)である安達大膳もこの次第を聞きつけ、笠間心休
の許を辞し、橋本城に入った。

谷中勢の生き残りを集めた孫八と大膳は兵を三つに分け、自らは富谷城近辺にまで
出向。近くの畑で農作業中の少女達を襲い始める。
勿論、富谷城の猿子軍はこれを座視してはいられない。
逃げる孫八&大膳、追う猿子軍。まんまと孫八達は猿子軍を伏兵のど真ん中へと誘
き寄せたのである。
合図と共に二方から一斉に襲い掛かる谷中勢。
猿子軍はこの戦で、勇者と名高い伊達出雲守が孫八に討たれたのを初めとして、青
柳豊後守、青柳肥前守等、主だった将を大勢失ってしまった。

三手に分けた最後の部隊は、その隙に富谷城を突いたが、これは流石に失敗。
富谷城と橋本城の間での睨み合いはその後も変わらなかったと言う。
しかし先年敗北した分は二人の若者の活躍で取り返す事が出来た。
笠間心休はこの働きを大変喜び、橋本城を孫八に任せ、亡父・玄蕃允の名を継がせ
たのであった。


『常陽四戦記』より宇都宮家中骨肉の争い。
んでも益子家って、この事件の前から度々宇都宮家に対して反乱を起こしてる、半
独立領主だったみたいですね。
那須にしろ宇都宮にしろ、この辺りは大変だったんだなぁ。




645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 01:38:50 ID:nkwyw5lt
史実では益子と笠間の争いがあったのは天正9年から11年。
せっかく佐竹=宇都宮=結城の三氏同盟を中心に常陸・下野・下総の諸勢力を結集させて
北条の侵略を阻止しようとしたのに、
洞中連合は全く足並みがそろわず、相変わらず仲間割ればっかりで、
厩橋の北条や由良・長尾等の味方を北条に各個撃破されてしまいましたとさ。

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 02:32:24 ID:rQgo9qW5
>>645
利根川東岸の豪族衆は基本こんな感じだよなぁ。

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 09:36:41 ID:pEMafOx1
U字工事の益子卓郎の適当な「ごめんねごめんね~~」は先祖譲りか

653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/18(木) 15:37:14 ID:Np2HG5hu
>>639
大関は汚い本当に汚い

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 16:06:21 ID:q888NI4o
益子の最後の当主って芳賀氏出身だっけ?
あの辺のgdgdぷりはひどいよなあ

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 16:34:03 ID:FgimBAEK
>>645
隣近所には色々あるんだよね…
関東における北条包囲網はどうにもうまくいかない。
一番うまくいった謙信の小田原城攻めも微妙な結果に終わるし。

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 18:37:29 ID:FpFA1fe/
>>654
そうだっけ?
逆に益子氏出身で芳賀氏の当主になった人なら知ってるが

芳賀高定「海老で鯛を釣る」

2010年08月09日 00:00

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 05:25:41 ID:C8qf5jv/
海老で鯛を釣る


天文18年(1549年)、下野の宇都宮家は同国の那須高資に戦を仕掛けるも当主尚綱が戦死するほどの惨敗を喫する。
この合戦後の宇都宮家は家中最大の実力者である壬生家の独立、宇都宮城の占拠などの出来事が相次ぎ、
一気に勢力が縮小し窮地に追い込まれる。
そんな宇都宮家であったがまだ優秀な人材というのは残っているもので若き重臣・芳賀高定が主家の衰運に
歯止めをかけるべく奔走する。

当時の宇都宮家がこの絶望的な状況を打開する為には宇都宮家に害を成す那須高資・芳賀高照・壬生綱房の
3人をどうにかしなければいけなかった。
この中で最優先で排除しなければならないのが宇都宮家の宿敵で高照・綱房の両名を陰ながら援助している
那須高資の存在で
高定は那須家中の結束の脆さを突き、天文20年(1551年)高資の排除に成功する。
(詳細http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4435.html

那須高資を消した事で親宇都宮である大田原資清が実権を掌握し、ひとまず那須家の脅威を取り払った高定は
次なる標的を芳賀高照に定める。
この芳賀高照は那須家の援助で宇都宮城に入り、「宇都宮家当主」を自称し壬生綱房と協力体制の元で
政務を行っていた。
芳賀家というのは度々宇都宮家の当主を排出しており、本来なら謀反である壬生綱房の宇都宮城の
不法占拠を高照を奉じる事で正当化せしめている形だ。

実は高照を釣りだす「餌」は既に高定の手中にあったがこの時点では高照がかかる可能は0と言っていい。
成功させるためには入念な準備が必要であった。
高定は様々な手を尽くし高照と壬生家の仲を裂こうと工作を行う。
協力体制と言いつつも実態は高照がただの傀儡に過ぎないこと、高照の父・高経が宇都宮家に誅伐される
遠因を作ったのが綱房であること・・・高定は巧みに高照の心に壬生家への不信感を植えつけていった。

高定は焦らずじっくりと時が熟すのを待つ。その間、壬生家も宇都宮家に止めをさそうと度々攻めて来たが、
外交の責任者も務める高定は他家との周辺他家を次々と味方につけ壬生家の宇都宮領侵食を許さなかった。
そして天文24年(1555年)、ようやく高定は「餌」を使う。血のつながりはなくとも一応は高定の先代当主に当たる
芳賀高経の法要を執り行なう権利を行使したのだ。
高定は高照に先代の法要を行う旨を伝え、高照の出席を要望した。高照がまともな精神状態なら
まず掛かることのない「餌」である。
しかしながら壬生に利用されるだけの人形に成り下がって居るという事実と高定からの揺さぶりを受け続けた
高照の精神状態は現状への不満が鬱積し、色々と麻痺してしまっていた。

同年3月、芳賀高照は父の法要に参列する為に真岡城に赴き、そして城内で「自害」して果てた。
一説には高定が高照の犯した悪行を説き、高照は涙を流しながら訓戒の言葉を述べて腹を切ったとも言われるが
極めて胡散臭い話である。
ともあれ、高照は父の法要に行ったきり、二度と生きて宇都宮城に戻ることはなかったということだけは事実のようだ。
更に同じ年の同じ月に壬生綱房も謎の急死。宇都宮家再建への3つの障害が無くなった宇都宮家の
反撃が始まるのはまた別のお話・・・




365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 11:16:57 ID:sqecPOpJ
>宇都宮家の反撃が始まるのはまた別のお話・・・

そして宇都宮家が改易されるのもまた別のお話・・・

宇都宮国綱の改易・悪い話

2009年02月26日 00:13

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 08:50:36 ID:hP1oaepa
小田原陣の後、正式に十八万石の豊臣家諸侯となった宇都宮国綱。
ところがその国綱に、豊臣政権との繋ぎ役である浅野長政がこのような事を言ってきた

「息子の長重を、世継ぎとしてあなたの養子にしてほしい。」

これには宇都宮家家中で猛反対が起こった。当然である。宇都宮家と言えば鎌倉以来の名門。
それに、浅野などという、どこの誰とも知れない者の子を当主にして良いものか。

結局、国綱はその話を断った。


さて、太閤検地が行われる。
宇都宮氏の領地の検地は、浅野長政が担当した。
すると、なんということだろう、宇都宮氏の石高は、表高の十八万石に対し、
倍以上の三十九万余石が計上されたのだ!

「これは宇都宮氏の所領申告に不正があったのだ!」

国綱は豊臣政権の摘発を受け、慶長二年(1597)九月、秀吉の命によって改易とされた。




355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 09:33:55 ID:rbu1pror
戦国時代のパワハラですねこりゃ

356 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/25(水) 13:29:41 ID:AEZJ5TYE
宇都宮氏にとって豊臣政権は鬼門だにゃぁ

宗家にとって大恩がある城井宇都宮は滅ぼされ、結城に養子に出してたのに秀康送り込まれて…
挙句の果てに本宗家も改易w

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 13:59:43 ID:L4IPkL0C
年若いぶん、空気読めなかったのが墓穴堀田
あんまり同情できないな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 17:57:17 ID:BdeuhsGr
宇都宮氏、麻生太郎ちゃんの遥か遠い親戚、
と言うか大昔の御本家なんですね。

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 18:20:48 ID:6e6bZV74
>>362
深谷上杉の家老で、江戸時代に老中をだした秋元氏も宇都宮支流らしいな。