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世は変わり行くとも

2021年10月24日 16:08

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/24(日) 11:23:33.99 ID:kqitHUZS
香西豊前入道宗玄はこの竹山の原に一宇の禅林を建て、常世山宗玄寺と号す。いま
寺跡に小庵がある。またこの東南の原に三位義興(大内義興)の像を造立して一宇
を立て“大内堂”という。また“大内寺”と号す。退転して今はない。

鎮守荒神の小祠があり、この辺を大内堂と地名に称す。大内寺本尊の観音は、今は
西光寺の内仏にあるという。この大内堂の東隣は作山城跡である。

――『香西記

讃州の諸将は細川政元卒去の後、大内義興に服従して国を守り、地を保ち数年を越
した。特に将軍家より安富山城守、香西豊前守(元定)は海上の警衛を奉り、廻船
の非常を制した。故に上京せずして、兵衆の煩労もなかった。

かつまた、能島兵部大夫に属して大内家の朝鮮の役(>>719)に加わったので、財は
足り民は豊かで、兵力は有り余った。

これは義興の芳恩であるとして、香西氏の産神藤尾八幡宮の向かいの山に堂を立て、
義興の霊像を安置してこれを祭った。これを“大内堂”という。

世は変わり行くとも、その林木と名だけは今も存在する。

――『南海通記



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そのため異邦人は大内家を日本国王と

2021年10月23日 16:23

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/23(土) 15:29:28.02 ID:Ejmsdc+U
伊予国の海表に能島、来島、院島という3つの大島があり、その他小島が10余
ある。予州河野氏の部類にして、周防山口の府に隣するため、大内家に交接する。
能島と院島は村上源氏である。来島と興居島は河野氏である。

(中略)

大内政弘より以来、大明朝鮮の勘合をもって商船を渡し給う故に、島家を保つ輩
は大内家の陰に倚らずということ無し。

大内義興は九州の戦に勝ち、兵威を盛大にして諸国を帰服せしめ、周防、長門、
石見、安芸、豊前、筑前6ヶ国を領し、伊予讃岐を来服せしめ、大明朝鮮の勘合
をもって商船を渡した。そのため異邦人は大内家を日本国王と思っていた。

そうして永正17年(1520)、村上兵部大輔より使者を通して大内義興の命
を達する。讃州塩飽島は村上鎗之助が来て、宮本佐渡守の宅より香西に達した。

その言に曰く「今年、朝鮮国へ兵船を渡海させるところである。公儀軍用の余分
をもって兵船を仕立て差し遣わしたい者は、その員数を記して注進せよ。その趣
によって禄物の差別があるべし」と、すなわち塩飽より香西氏に達する。

香西氏は議定して注文を調えこれを送り、乃生縫殿助、池水太郎兵衛、本津右近
を船長として兵船3艘を遣わした。

塩飽島より宮本佐渡とその子助左衛門、吉田彦左衛門、妹尾、渡辺が加わり用意
をなした。直島に高原左衛門尉、児島日比の戸に四宮隠岐守が共に用意し、引田
小豆島は寒川丹後守の所有なので引田浦に船が揃った。

讃州諸浦の船どもは能島隼人佐の手組に約し、深く交わりを結んで朝鮮の役を勤
めた。浦々は繁昌して、諸方これを羨まずということ無し。

さて朝鮮の役は先年に大内政弘が大軍を催して朝鮮に発向し、朝鮮王はすなわち
政弘に和を乞うて全羅道の貢物を大内家に入貢した。これより続いて義興も全羅
道を入貢せしむ。

この年、朝鮮国に大軍を遣わして全羅道の境を巡察した。これは大内家の兵威を
敵に振るうためであろうか。義興が年来管領としてその費用を繕ったのも、朝鮮
の入貢、大明の勘合の利用があったからである。

――『南海通記

実際の出来事かは分からないが大内氏の貿易の様子を伝えるものだろうか



【ニュース】【山口】大内氏の宴は…料理を再現

2021年10月07日 16:27

648 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/05(火) 21:25:35.67 ID:9t9xVy1s
ニュース
【山口】大内氏の宴は…料理を再現

https://news.yahoo.co.jp/articles/bbbc5dc457ad971b98d9e2c564bf332fb4a8b5f8

関連
大内義興、足利義稙歓迎宴会メニュー!・いい話

石見銀山の発見

2021年07月22日 17:06

330 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 12:37:17.70 ID:3kVbbLt2
石見銀山の発見

鎌倉時代末期に周防を支配した大内弘幸はある日、自家の守護神で有る北辰の神が枕元に立ち、『石見国仙の山に宝有り、汝銀をとりて外敵を排せよ。』との神託を夢に見てこの銀山を発見したと言う。
それから200年ほどが過ぎたある日、博多の豪商神谷寿禎は鷺銅山の購入目的で海路を行き出雲へと向かっていた。
その最中、船が石見沖に差し掛かった時、寿禎は陸の山から眩い光が放たれているのを見て船頭に尋ねたところ、

「あれは仙の山と言い、昔、銀が出た山で、光は清水寺の観音様の霊光だ」

と船頭は答えた。寿禎は急ぎ船を陸に寄せて上陸し、光の差す方へと目指して行くと、清水寺へ辿り着き、そこに転がる多くの光る石を目にした。

幾つかの光る石を貰い受けた寿禎は当初の目的地である鷺銅山に赴くと、当地の山師・三島氏に光る石を見せて鑑定させたところ、三島はこれは銀鉱石に相違ないと答えた。

寿禎は帰路、周防の大内義興に面会すると、石見の仙の山に銀脈があることを申し上げ、この報告を受けた義興は直ちに軍を石見へ派遣すると、この地を占拠し神谷寿禎に銀山の採掘と経営を始めさせた。

寿禎は多くの技術者らを招いて銀山の採掘と銀の精錬を行い、これにより当地は栄えることとなるが、同時にこの銀山を巡って大内義興、尼子経久を含む周辺の武家勢力の争いも始まることとなった。

銀山旧記)より

以下参考サイト
島根県ホームページ
http://www1.pref.shimane.lg.jp/contents/kochokoho/photo/145/01a.html

石州瓦 屋根の学校
https://www.sekisyu-kawara.jp/iwamiginzan/hakken/index.html

石見銀山通信
http://iwami-gg.jugem.jp/?eid=3761#gsc.tab=0

331 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 12:42:29.56 ID:3kVbbLt2
続参考サイト
山陰いいもの探県隊
https://sanin-tanken.jp/guttokuru/detail-2021-spring



334 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 17:51:30.55 ID:EEyg0KQp
大内氏って元々多々良姓を名乗ってるし、本拠地近くには鋳銭司って地名も有るから、精錬関連に関わりのあるお家かと思ってたけど掘る方にも関わりが有ったのね。

335 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 21:05:12.87 ID:GW5wIYkV
武田信玄「採掘にかけては我が家も負けてはおらぬぞ(意味深)」

事情を聞いた義興は

2021年06月05日 17:27

250 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/05(土) 04:43:15.95 ID:SzDQL2Bk
大永5年(1525年)2月22日、大内義興が安芸国厳島に滞在中のこと。義興は大野(現在の廿日市市大野町)の門山城の辺りを見るため島から渡海した。
義興が島を留守にしている最中、有ノ浦(厳島)沖に停泊した御座船で火事が起こり、その日の船番を担当していた能美孫三郎は御幡箱(旗の入った箱)を手に取って持ち出すと、海へ飛び込み他の船の舵だか何かに取り付いて辛うじて命は助かった。
そうこうしている内に義興が島へと戻って来たが、御座船が焼けた責で孫三郎は切腹になるのではないかと孫三郎本人や周囲の人々は思ったが、
事情を聞いた義興は孫三郎が若輩ながら旗を守って船から逃れたことを褒め称え、防州田布施に50貫の所領を与えた。

棚守房顕覚書

義興さん太っ腹なお話。



これが、現代にも伝わる宮島踊りである

2012年11月22日 19:57

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 22:51:07.72 ID:79AnIxRV
良い話で踊りの話が出てたから、悪い話でも踊りの話。

1503年、大内義輿が上洛する前の頃、安芸の厳島神社の祭礼にやってきた時の話。
お祭りと言えば酒である。
祭礼に来ていた参加者たちもどうも呑んだらしい、しかもベロベロになるまで…。
酔ったら気が大きくなるのは今も昔も変わらない。
彼らは酔った勢いで神社で行われている神事に対して悪口放逸をし始めた。
これに怒った厳島神主支配下の神領衆は暴れてた人々を十人ほど殺してその船を沈めた。
神社の勢力なのに過激な事である。

ところでこの殺された人たちの中に、
伊予の豪族であった多賀江(多賀谷とも)氏の郎党も含まれていた。
多賀江氏も宮島と同じく大内の傘下に居たため、神社の祭礼に参加していたのだろう。
それで祭礼に参加して殺されたのでは、カチコミに至るのは当然だろう。
…そして蒲刈島を出発した160~170隻の船が厳島を襲った。
島に上陸して火を点けて回るなど暴れ放題。
まさしくヤクザの抗争である。
と、奇跡的なタイミングで風雨が強くなってきた。
さすがにこれは帰らねば、と、暴れた者の中の一人、
多賀江氏の勇士として知られた多賀江兵部小輔は神社に軽く拝礼して船に乗り、
神社の鳥居の前まで漕ぎ出して…。

船が沈没し24人の郎党と一緒に海中に消えた。
※ ついでにその後来た多賀江氏の親戚である重見氏の船も沈んだ。

で、この時死んだ多賀江兵部達が悪霊となって厳島の住民を苦しめたので、
その霊を慰めるために念仏踊りを始めたという。

これが、現代にも伝わる宮島踊りである。
ttp://www.miyajima.or.jp/event/event_odori.html
と奇麗に纏めてみたけど、味方同士での抗争で死者まで出た上、
悪霊にまでなってしまったという悪い話。




453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/22(木) 00:23:18.91 ID:KaHK7Kje
そして誰もいなくなった…

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/22(木) 08:29:09.23 ID:+Jo1HRuw
由来を知るとなんか馬鹿馬鹿しくなる踊りだなw

大内義興帰国問題と朝廷

2012年03月31日 21:42

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 14:20:14.87 ID:/BGKpUzg
永正5年(1508)6月、足利義尹(義材)は大内義興らのの援助と細川高国の支持を受け、足利義澄を没落させ入洛、将軍位に復帰。
ここに将軍義尹を細川高国大内義興が支える体制で、畿内は一定の安定を築けるように見えた。…だが大内義興は直ぐに帰国を望み、
これに将軍足利義尹は勿論、朝廷も大いに慌てその慰留に務めた。
以下、三条西実隆の日記、『実隆公記』より、朝廷側の動きを見てみよう


・7月23日
晴れ。夜になって小雨。
(略)

午後、阿野季綱が来る。大内義興の周防への帰国は決定的だという。帝が勅命で留まるようにおっしゃらないのは好ましくない。
この事について、内々に申し入れをする。帝直筆の女房奉書を発給して頂くこと、そして大内義興のもとに伝奏を派遣して頂くこと、
また私も内々に義興の元に参上するということの詳細などを内談した。そして、夜になってから小直衣に浅葱色の指貫を着て、
義興のいる六角の宿所に向かった。そこで勅書の旨に任せて対話をした。
神代紀伊守(貞綱)が出て来たので、彼に対して重ねて、京に在留することを説得した。そのうちに右大弁相公(勧修寺尚顕)も
やって来て、私と同じく勅命の内容を伝えた。その間のことについては、ここに記すことはしない。

今夜、大内義興の元に参上するという行為をすることに、我々の間にためらいがなかった訳ではない。しかし、確かに世間の称賛や
そしり受けることは確かに堪え難いことだが、今は天下のために、全ての事柄を忘れて行ったのである。
『道を守ることは簡単である。しかし、世評に応じることは難しいことだ』
これは古の賢人の格言であるらしい。実に厄介なことである。浮世の交わりとは誠に無益なものである。

帰宅の途中に、長橋局に直接参上し、勧修寺尚顕と三条西公条も同道した。私の家で、冷泉政為、甘露寺元長、姉小路済継らが、
先の件について聞いてきたので、おおまかな事情説明をした。

・24日
晴れ。
早朝、帝が新大典侍(庭田源子)を通じて、私が昨夜、義興を慰留した件について、色々と感謝の意を伝えられた。

・25日
賀茂在重が来て、大内義興が先日の夜の一件について、大変忝なく思っているということを語った。今日、大内雑掌を召し寄せて、
義興に帝の勅命の詳細を伝えたということらしい。

・28日
晩になって、阿野季綱が使者を送ってきて、

「今日、大内家家臣の陶興房と神代紀伊守(貞綱)らが室町殿(足利義尹)のもとに参上して、もろもろの御裁許を恐れ多い事だと申された」

と伝えてきた。これで大内義興の帰国は確実に無くなった。非常に目出度い事だ。
また、河州での合戦で(義尹派の)尾張守(畠山尚順)が勝利した。実に神妙な事である。

・30日
曇り。夜になってから激しい雨。早朝に賀茂在重が来て、ちょっとした報告があった。

阿野季綱から使者が来て、本日、大内義興が我が家を訪問するという事を、内々に知らせた。

夜になってから、大内義興が太刀を携えてやって来た。彼は先日の夜の事に感謝の意を表した。私は、この訪問について武家伝奏を通じて
詳細を報告する事を語った。義興は神妙なおももちで、重々しく感謝の意を表した。


大内義興は烏帽子をかぶり、自ら携えた太刀を私に贈った。私は、座った敷物の上で大内義興が帰るのを見送って感謝の意を表した。
その後、大内義興が来られた旨を、手紙で勾当内侍(東坊城松子)に報告した。

今日は、玄清庵で宗祇の追善連歌が行われた。私は発句を所望されたので、それを送った。そして、酒一荷三種も送った。

発句の内容はこうである

『とをき世もかゝらは風の葛葉かな』






482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 19:17:19.21 ID:p+D/YpwV
>>478
この辺、西国の歴史の大きな分岐点の一つだよねえ

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 22:08:57.71 ID:BMM6zWVr
>>482
戻っていれば、尼子の膨張はなかっただろうからねい。

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 00:53:12.53 ID:kqNjbGIi
義興が存命なうちは経久も大人しくしただろうか

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:09:50.44 ID:s7Ilnh3F
>>478
>『道を守ることは簡単である。しかし、世評に応じることは難しいことだ』
今も昔も、まつりごとは大変だな

瀬戸内水軍の遠征

2010年10月29日 00:06

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 18:07:13 ID:jMdOby3K
永正9年(1512)の事だそうだ。

讃岐の寒川氏は大内義興の命により兵卒を揃え引田の浦にて五艘の軍船を整えた。
そこに同じく讃岐の香西氏、安富氏の軍船が集合し、計二〇艘となって引田の浦を出航、
備後の鞆に到着すると伊予の能島に報告、能島、因島の村上氏と合流すると、瀬戸内を拔け
南洋、中国南部方面へと進んだ。

さて、このような船団が組まれたことには、こんな理由がある。

この少し前、能島村上氏(村上隆勝か?)より大内義興に提言があった。

「南洋にある離島があります。これを得れば和漢の交易路を保持するのに、長く日本の利益と
なるでしょう。」

寒川家の記録には、その島の名は書かれていないものの、どのような島かは記載がある。
島の主は元々明国は浦東(今の上海か)の領主であり、明から大船を招き、日本と中国との中間交易の地として
大いに栄え、住民達は互いに親しむこと親友以上であり、その島はまるで一国の首都のような賑わいだというのだ。

島に行った日本人の中には、自らの国が乱世であり、一夜の安眠すら困難なのに比べ、この島には争いもなく
皆安楽に暮らしていることに、帰国を嫌がるものも多かったという。


さてこの島、日本の武装した兵船が押し寄せるとすぐに通詞を出して和を請い日本に服すことを約束した。
このため何事も起こらずこの遠征は終わったのだが、これには理由がある。

この当時の日本船というもの、外国船に行き当たればそれに押し寄せ攻め立て、資財を出させてそれを取り、
嫌だというものには攻め懸けて船を乗っ取った。
このようであったため、異邦人でも日本の兵船の言うことを聞かない、という者はなく、海上において
日本船に行き会うことを恐れない船はなかった。
ためにこの島も、あえて日本船と戦おうとはしなかったのである。

ところでこのころの日本船、皆八幡宮の文字を書いて旗印としていた。
このため異邦人より、日本船をさして八幡船と言うようになったそうである。


大内義興の命による、瀬戸内水軍の連合軍によってなされた、とある島への遠征についてのお話。




106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 21:15:42 ID:NVTqAnCd
>>101
この頃は村上水軍は大内に心中していたんですね
どういう縁でこの後離れて義隆の代に攻められることになったのかな?

雑談・あの将軍歓迎メニューが再現!

2010年10月20日 00:01

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 18:10:45 ID:ax1N1cKW
この話の

大内義興足利義稙歓迎宴会メニュー!・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-848.html

将軍歓迎メニューが再現されたらしい


室町時代の豪華料理を再現

 室町時代に中国地方を中心に勢力を伸ばした守護大名大内氏が足利幕府前将軍をもてなした
豪華な料理が、このほど約500年ぶりに山口市内の観光拠点施設で再現された。
 再現されたのは、ホヤ、タラ、からすみなどさまざまな食材を使ったメニューで、32膳(ぜん)
101品に上る。
監修した食文化研究家の江後迪子さん(75)は「文献として現存する献立としては日本一の品数」と
説明する。
http://www.jiji.com/jc/c?g=jfn&k=2010101500515&mogi
http://www.jiji.com/news/kiji_photos/20101012bo01n.jpg




790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 19:17:53 ID:FwBbE0O/
>>789
おもしろいね
記事読むと、やっぱ鶴やイルカはダメかー
鶴の吸い物とかいろんなとこで出てくるから、一回くらい食べてみたいw

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 19:25:30 ID:LxveChbw
ひこにゃん「醤油はないんですか?」

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 22:23:13 ID:aUbGAMgQ
>>789
ホヤって山口でも食べてたのか

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 23:41:40 ID:uNWMaIa6
醤油もない時代の料理だろ
あんまり美味そうな気がしない

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 23:54:58 ID:Tv2naFzg
醤油の代わりに酒に梅干し入れて煮詰めた、煎り酒ってのがあったが、
これの考案が室町末期っていうから、ひょっとしたら使ってたりするのかなぁ。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 02:24:26 ID:KdVZ1ggJ
醤油って結構昔からあるみたいだぞ
少なくとも原型の味噌と醤油の中間みたいなものはあった筈

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 03:18:52 ID:3XNpWj4G
>>791
醸造の醤油が一般的になるのはもう少し後で、この頃は醤(ひしお)なんじゃない?

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 03:32:42 ID:TjK5xz0G
>>797
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-23.html

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 03:39:01 ID:3XNpWj4G
ないとは言ってないんだけどね。逸話の類は成立時期の風俗とかの影響もあるしなぁ。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 12:31:18 ID:PEEVABz9
一般に出回ったのが江戸期で暫くは伊勢の方だけのものだって何かで読んだんだけど、出展が思い出せない…

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 18:00:24 ID:CzCqT+wL
>>794
ホヤは延喜式の時点で既に出てくるくらいの伝統食なわけだが。

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 22:24:38 ID:57Jy+cZn
>>801
どうしてアレを食べようと思ったのか、延喜式には記録しておいてほしかった。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 22:31:14 ID:TjK5xz0G
どうして・・・って
昔の人は何でも食べてみたし、不味かったり毒があれば、
どうにか食べる方法がないか工夫を凝らしたんだと思うよ。
食えるかどうかは最大の関心事だったんだから。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 22:50:25 ID:h3nTBWBi
河豚すら食ってるんだからな。
河豚を食おうと最初に思った奴は凄い。
とてもあんなの喰えるとは思えないだろ…。
[ 続きを読む ]

大内義興のソテツ

2010年02月24日 00:08

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 22:21:30 ID:oPKCYjpK
大内義興が将軍から「義興」の名前を授与された時のこと、
足利義尚の側近の有力者である鹿苑院(金閣寺)主の亀泉集証が山口に赴いてきた。
彼は大内氏館の庭に見たことのない木を目にすると物欲しげになんども眺めていた。
あまりに気にしている様子なので「朝鮮から取り寄せたソテツというものです。上様が欲しいのなら献上しましょう」
と気を使うと、院主は「御所にもソテツくらいある、あまりに立派なので見入っていた」と意地になって固辞した。
しかしこの後、院主の残した蔭涼軒日録に何度もソテツのことが記されており
相当後々まで引きずっていたことがうかがえる。

実はソテツは宮崎や鹿児島にはいっぱい自生して珍しいものでもなく
朝鮮から取り寄せずとも硫黄取引のあった島津氏から容易に調達できる。
しかし、京都人には珍しいものであることを見越したうえで献上品として箔をつけるために
義興は朝鮮から取り寄せたという話をしたのだ。

ソテツといえば堺の妙国寺のソテツを織田信長が安土に移すと泣くので切りつけたら
血が吹き出たという逸話などが有名ですが、豊臣秀吉も徳川家康もソテツに興味を持ち
わざわざ遠方から取り寄せています。
なぜか権力者達が気に入って遠方に移されたソテツは現在国の天然記念物に指定されています。




761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 22:23:42 ID:oPKCYjpK
ちなみに遠征中の加藤清正が秀吉の為に朝鮮からソテツを送っているので
朝鮮にもソテツはあります。

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 07:08:44 ID:b2QDX3Xy
>>760
ぐぐってみたらなにやら南国の匂いがする植物だった

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 11:41:41 ID:hxUa/PwS
日本庭園の石と松と苔の中にポツ~ンとソテツがあるところを
想像するとシュールだよな。

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 11:46:09 ID:SWtCtub7
でもソテツって大きなまつぼっくりみたいな形だしなあ
松との相性はいいかもしれん

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 12:57:38 ID:2MTwyopv
最近ではけっこうポピュラーな植物な気がする>ソテツ
庭というほどでもない一戸建てのちょっとしたスペースによく植えられている。

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 13:29:45 ID:8ubqZHpA
ミニ庭(せいぜい4畳半程度)とソテツの相性の良さはガチ

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 14:03:24 ID:vwCA8HK1
ソテツと聞くとソテツ地獄という言葉を思い出すな。
なんでも有毒なので食用にするには入念に毒抜きする必要があるそうなんだが、
飢饉が悪化してソテツを食べざるを得なかったりした時に毒抜きが十分じゃない
ソテツを食べて苦しむ人が沢山出たとか。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 18:35:03 ID:ynvPmYZx
>>769
彼岸花みたいなエピソードですね。
あれも根だかにでんぷんが含まれてて、食べれるんですが有毒なんで流水で長時間晒すなど
毒抜きをしないと大変な事になるとか。
これを食べた後は飢え死ぬか人肉しかない。
故にこの世とあの世の狭間を指す、「彼岸」花と言われるとかいう説はありますね。
775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 18:46:44 ID:lmiEYOG9
>>773
ヒガンバナ科の植物は根に毒性があるのが多いから注意が必要。
水仙も毒性が強くて、野蒜と間違えて食べて食中毒起こす事件がたまに起こる。

あと、その手の間違って食べて中毒起こす植物だと夾竹桃。
野外調理の際に、枝を削って箸にして食中毒。

我が家に伝わる大内さん家の家庭不和の事情

2010年01月13日 00:07

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 23:30:47 ID:stxta5Kz
我が家に伝わる大内さん家の家庭不和の事情。

永正四年、当時の管領細川政元が家督を巡る養子間の抗争の煽りで暗殺された。
いわゆる永正の錯乱である。
養子の一人で暗殺の首謀者である細川澄之は、程なく澄元との抗争に敗北して自害したが、
今度はその澄元と、澄之打倒までは澄元を支持していたもう一人の養子、高国が対立。
この高国が西国の雄大内義興と結んでその軍を山城に引き入れ、
以後約十年にわたって畿内に大内軍が駐留することになった。

さて、永正十五年。
長らく留守にしていた領国が尼子氏をはじめとする周辺敵対勢力の蚕食に遭い、
また強大な大内義興の存在を将軍や管領が疎ましく思い始め、
義興の立場は時を追うごとに極度に悪化してきていた。
義興はこれ以上京の都に留まることに意義を見出せず、ついに帰国の途に着くのである。



この時、山口目指して山陽道を進む大内勢の中には、
数万の武家のほか、長槍が林立し甲冑が日光を照らし返すその行列にそぐわぬ人の姿があった。
本来都に在って帝に侍るべき公家衆が加わっていたのである。


625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 23:31:06 ID:stxta5Kz
十年に渡る大内軍の畿内駐留の間に、義興と親しくなったその公家は、
暮らしの厳しい都を離れ、大内勢に従って一路山口目指して旅立ったのだ。

「姓を考えねばならぬな」

小松原という土地に差し掛かったところで、義興はその地下人の公家にそう告げた。
公家は藤原某を名乗っていたが、都を落ち、周防の地から
もう還らぬ覚悟であるなら姓も変えたほうがいい。
そんな話の成り行きだった。

「ちょうどこの土地は小松原……小は新たにつける苗字には余りよき漢字ではないな。
 そこもとは今日より松原某を名乗るがいい」

都落ちの公家に否を告げるべくもない。かくして大内家の家臣団の末席に、
新たに松原某という公家崩れの武士が加わったのだった。

さて、こんな光景はこの行列中ではもう何度も繰り返された光景だった。
じつは都落ちの公家はこの松原某ばかりではない。
少なからぬ公家が大内義興の都落ちに同行し、そのまま周防長門の地で在地化、武士化して、
大内義興、義隆の近臣を形成してしまったらしい。
後年、太寧寺で大内義隆に殉死した近臣の中に、譜代には見えぬ名前が
多くあるのはそういう理由もあるのだとか。

相良武任だけならばまだしも、蹴鞠や和歌しか知らぬような公家崩れの側近が多く
義隆の周囲を固めている。
陶隆房や内藤興盛らの心中いかばかりか……というのは想像に難くない。

歌や蹴鞠では国は保てない、ましてや一門譜代をおろそかにしては……
知らずと我が子我が家の災いを自ら持ち込んでしまった、そんな大内義興の悪いお話。




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 23:39:47 ID:+XvoFDWo
戦国といい幕末といい、山口と公家は何かと縁があるな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 23:54:56 ID:q31qJIj8
相良武任さんは肥後で下相良氏との争いに敗れた上相良氏の末裔らしいので、
大内における地盤が無く、軋轢を覚悟で働かざるを得なかったわけで少し同情はする。


629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 00:30:59 ID:jOazsnk8

>>627
義隆がとっかえひっかえ男色しすぎなのがよくないんだよな



昌山は豊臣政権でも准后・前将軍として厚遇されてるし同席することも多かっただろうけど
幽斎は昔のことで昌山に詫び入れたのかな





630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 00:38:34 ID:kz15k83h
>>625
まさにそれご先祖様w
義興公の山口帰還に加わった公家の1人というか一族で、その後うちの長は太寧寺で自刃
生き残った一族はほぼ全滅しかけたけどツテを頼って安芸に移動して土着
(吉見領に向かおうとしたけど封鎖されており安芸路のほうが安全だったという話)

631 名前:625[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 00:54:24 ID:n2IpQAI7
>>630
いよう、ご先祖のご同僚w

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 01:48:43 ID:mWjPlpO3
公家が遊芸と机上の学問しか能がない、というのは誤解だと思うじぇ
新規の政治集団が大量に入ったことで、在地豪族との軋轢を生んだのは間違いないだろうけど

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 07:15:30 ID:hkOZ+VGZ
そういえば土着武断派のトップ陶隆房の息子と
新参文治派相良武任の娘を結婚させて縁続きにして
丸く収めようという計画があったのに、肝心の隆房が泣いて抗議した為に
縁談がこじれたばかりか、話を進めていた義隆の面目まで丸潰れになってしまった
っていう話を見た事がある

大内関係の小説だとテンプレのように使われるからどこかに元逸話があるのかもしれない
泣いて抗議ってどれだけ嫌なんだよって感じだがw

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 13:26:48 ID:JnuR6l8J
>>633
陶隆房は、負け戦で退却中に「俺のせいじゃない!(殿のせいだ)」と怒ったり、
短慮で部下を斬って亡霊にたたられたりと、坊ちゃん気質の悪い面が出る逸話ばかり多い気がする。
泣いて抗議も、坊ちゃんならありうるなあと思えてしまった。
これも毛利の謀略……?

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 13:58:55 ID:G4UHZ0ly
>>637
陶晴賢が部下を生きたまま火あぶりにして祟られたというのは
江戸時代の僧、浅井了意の書いた怪談物語「伽婢子」の五十章、厚狭応報・厚狭が死霊の事
というのが出典でモトネタは中国古典だかにあるらしい
そもそも火あぶりにされた厚狭弾正という人物も大内家には存在しなかったので、
良かった!部下を火あぶりにした陶晴賢はどこにもいなかったんだ!

まあそれを抜きにしても強引で何かと災いを振り撒く武将ではある
謀反後にかつての政敵だった杉重矩を討ったのはいいけど、
厳島の戦いの後には、逆に杉の息子に自分の息子が殺されてるし
晴賢が首を突っ込んだ山田事件も悲惨だった

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 14:04:46 ID:L04w149B
まぁ、簒奪者なんだし、結構強引なことしないと何にも出来ないだろう
満場一致で簒奪大歓迎というわけでも無いんだし

寧波の乱顛末

2009年09月01日 00:05

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 20:01:10 ID:HK4aalzW
寧波の乱顛末

大永3年(1523)、明の年号では嘉靖2年、大内義興は明の寧波に、謙道宗設(けんどうそうせつ)を
正史とした遣明船を派遣した。

さてこの時、幕府管領細川高国も、鸞岡端佐(らんこうずいさ)を正使、日本に帰化した中国人である
宋素卿(朱縞)を副使として寧波に遣明船を派遣していた。

大内家と細川家は、貿易利権をめぐって伝統的に仲が悪いのだが、このときは大内義興の
京から山口への帰国による細川高国政権からの離脱で、特に関係が悪化していた。

寧波には大内家の船が先に入港していた。この頃の慣習として、先に入港した船から
入港検査が行われるのだが、細川側は明の担当官吏に賄賂を渡し、これにより細川の船から先に
入港検査を始めたのだ。

これも本来なら、穏やかに口頭での抗議などで済んだ話だったのかもしれない。
が、時期が悪かった。大内家の者達はこれを、細川家による大内への露骨な挑発と
受け取ったのだ。
この時代の武士はこう言うとき、我慢はしない。

宗設と大内家の者達は突如、細川方の船を襲撃し、たちまち鸞岡端佐を討ち殺した。
この時明の官吏が細川方を助けて抵抗したので、宗設はさらに寧波の港を焼き討ち、
さらに紹興城へ逃れた宋素卿を追いかけ、明の役人まで殺すなど、やりたい放題に暴れまわると、
悠々と日本へと帰っていった。

さて、哀れなのは細川方の副使、宋素卿である。大内方の手から逃げ切ったのはいいが、
明の政府はこの騒動の責任を彼に取らせ投獄、のちに獄死する。

この後、この事件は明と日本の深刻な外交問題となり(そりゃそうだ)、日明貿易の停滞から
倭寇が活発化する原因になったりもするのだが、ともかくも、海外でも自重しない戦国武士の、
現地の人には大変迷惑なお話。







大内義興、足利義稙歓迎宴会メニュー!・いい話

2008年12月28日 00:07

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 00:10:37 ID:FkPlUXh9
年末年始、忘年会や新年会など、宴会の多い時期ですね。
それでは、戦国時代の大名は、どんな宴会をしていたのでしょうか?

明応の政変で失脚した前将軍、足利義稙が、明応九年(1500)大内義興を頼って山口へと亡命してきた時、
義興は大歓迎をし、丁重にもてなしました。
どれほど喜んだか、義稙を屋敷に迎えた際の、歓迎の宴会でのメニューから見てみましょう。


初献
きそく(串物)、雑煮五種

二献
刺身、鯉子付、ひしくいの皮煎り、えび船盛り

三献
ちじみ鮑、鯉のいりもの、たこ

供御(お勧め料理)
鯉の焼き物、塩引、せわた、鮒なます

供御
塩、かどのもの(数の子)、干鯛、子うるか

二御台
鳥の焼き物、鮭の焼き物、刺身鯛、御汁

三御台
大かまぼこ、雁の皮煎り、貝あわび、御湯、たこ味噌焼き

四御台
こごり、しろうお、雁の焼き物、御汁、くらげ、ほや

五御台
鮒焼ひたし、御汁いるか、ふと煮

御菓子
まつき、けづり栗、昆布、みかん、ところ(山芋の一種)、あめ、串柿、くるみ、のり
まだ続きます

四献
小かまぼこ、鮒丸いりめ入、サザエ盛りこぼし、

五献
つのまた、三方せん、御添え物鵠(コウノトリ)生鳥

六献
刺身鱸、ひしお煎、あわび

七献
とっさか、まんじゅう、御添え物がざめ(わたりがに)甲盛

八献
小串さし鯛、はらか(鱒)の煎物、かせ(紫ウニ)

九献
ゆでにし、鶴煎物、かどの子(数の子)

十献
大根、蒸し麦、御添え物羽しきうずら
まだ終わらない

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 00:11:10 ID:FkPlUXh9
十一献
刺身ぶり、鮎の煎物、はまぐり

十二献
いわたけ、うんせんかり、御添え物かき

十三献
つべた、やまぶき煎、くるくる(鰤のはらわた)

十四献
鳥の足、海老羹、御添え物ふりこ

十五献
さしくらげ、エイの煎り物、まて

十六献
はる、羽ようかん、御添え物ほや

十七献
小串さし雁、雪魚の煎り物、からすみ

十八献
刺身こち、海苔からみ、いいだこ

十九献
こがし海老、つまかさね、羽ふしあえ

廿献
ほろす、寸金羹、御添え物こごり煮鮒

廿一献
刺身はまち、鴨の煎り物、はらこ

廿二献
さわらのせんばん焼き、あかほご(カサゴ)煎り物、たちばな焼

廿三献
い貝、ぶりの煎物、けづり塩引

廿四献
もみさざえ、つぐみ煎物

廿五献
刺身名吉(ぼら)、ほっけ煎物、しとと焼


やっとおわった(;´Д`)

これで一回の宴会分。大内義興が義稙をどれだけ重要視したか伝わってくるでしょう。
人間関係の基本は食事だとはよく言ったものです。
皆さんも年末年始の宴会、パーティなどでの暴飲暴食、気をつけましょうね。

関連
【ニュース】【山口】大内氏の宴は…料理を再現


570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 00:13:37 ID:n225EvTA
>568
こんな時間に腹の減るものをw

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 00:14:51 ID:wb5MTOG7
>>567-568
こんなに喰わせたら将軍が死んでしまうw

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 00:18:36 ID:jUTt7A6i
つ 本膳料理は手を着けるのはちょっとだけ 後は全部おみやげとして持って帰る

沖縄の宮廷料理とか
ケコーン式の引き出物で鯛や赤飯を持ってかえるのはこの風習の名残

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 00:18:48 ID:Kipu66Xe
一品一口分づつ出たとしても食い切れないだろ…。

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 02:19:06 ID:GKMyDxOt
>>567
基本魚介類なんだな。
つーか「御汁いるか」ってあの海のイルカ?イルカの吸い物なんて食ってたのか。
この頃からエイとかカニとかクラゲも食ってたんだな。ちょっと参考になった。
鶴はごちそうだったらしいけど、どんな味するのかなー。一度食べてみたい。

749 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/02(金) 19:02:08 ID:TpAtqacp
>>567 568
その宴会フルコースを再現したら数十万円レベルか?

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/02(金) 20:40:29 ID:OI+KgOFr
>>749
一人分?
おそらく材料集めるだけで、100万円規模にはなるんじゃないかな?



関連
雑談・あの将軍歓迎メニューが再現!
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4756.html

大内義興の恋文・いい話?

2008年10月16日 10:47

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/11(月) 23:42:32 ID:ewA72rmA
戦国初期、大内義興が在京していた頃、京で彼が密通していた女への恋文を、侍女がよりにもよって間違って、
当時京に上がってきていた、彼の北の方に届けてしまう。
北の方は勿論これに激怒し、義興を追求。それに窮して義興は、彼女をなだめるためにもなんのかんので
帰国する事になり、それによって、彼の存在で安定していた畿内の政情はまたもや乱れる事になったとかw




658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/12(火) 00:27:12 ID:uxnuT1zV
面白いが別にいい話では無いぞw