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上見ぬ鷲

2019年10月19日 17:28

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 13:45:37.91 ID:tJZLWrU3
甲州征伐の後、織田信長滝川一益を関東管領としたが、この時信長は関東における一益の行動に
便利なように、総州の千葉介胤富を一味につけようと(ただし千葉胤富は天正七年に死去している。
後を継いだ千葉邦胤との混同であり、以下邦胤とする)、書状に名馬一頭を添えて使者を出した。

ところがこの書状を見た千葉介邦胤は、その内容が無礼であると激怒した

「甲州の武田が没落し、小田原の北条も織田へ付いたからと言って、上見ぬ鷲(鷲は他の鳥を恐れず、
警戒のために空を見上げる必要がない。何も恐れはばからぬさま)の思い上がりである!
このような書状をよこすとは奇怪至極、たとえ総州の千葉介邦胤小国とは言え右大将頼朝公以来の
名家であり、関八州に於いていずれの列侯が、わが千葉介の上座に座るというのか。
一時の武威に奢り、誰もが彼になびいて来ると思っているのだろうが、以ての外である。
返事に及ばぬ!」

そう言うと信長が贈った馬の尾を切って道へ放り出し、使者の頭も剃り上げて厩橋へ追い返したという。

(関八州古戦録)

どれだけ無礼な書状だったのか。



271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 19:42:04.34 ID:T3laPqfw
馬が可哀想だと思いました

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 20:53:47.18 ID:YAAZcgX4
一応文章は丁寧だったんじゃないかと推測
信長はその辺バカじゃないし、千葉側も情勢を知ってるし
・人質の要求
・回答期限があった(せかした)
・領地替え
怒るとしたらこんなとこ?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 21:35:28.80 ID:vgH2YXzB
そもそも関東管領にしたって時点で創作だろ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:00:55.59 ID:8Bh4YjPD
別所もそうだけど武士の意地で勝てない戦やらされる家臣はたまらんかったやろうねえ

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:05:53.47 ID:zpNVJK7z
戦国時代は割と簡単に主君を見限ったりするんじゃなかったっけ

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:56:14.14 ID:vgH2YXzB
メンツは命より大事ってのは前近代では普通だったからそこは仕方ないけど
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臼井城攻防戦

2019年10月09日 17:22

259 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 12:53:26.60 ID:KpTeOAT+
臼井城攻防戦

永禄6年の事
総州河西郡臼井の城は千葉介親胤の家老。原上総介胤繁が守っていた。
彼の父治郎座衛門胤高は、豊後守光胤の子で、その前は生実の城に居たが、発性院足利義明に追い落とされ、
弟中無少輔賢胤と共に臼井城へ逃げ籠もり、そのまま現在の上野介に至った。既にかなり長く居城としていた。

そこへ越後勢が押し寄せてきた。上野介はすぐに、千葉、佐倉へ救援を頼んだ。しかし人並み外れて
攻め足の早い輝虎であるので、臼井城を素通りして一気に千葉城へ向かうかもしれず、その時は
こちらが後詰と成る事も考えられ、ともかく攻めと守り両用の構えで待機することとし、とりあえずは
椎津主水正、椎名孫九郎に五百の兵を差し添えて臼井の城に残し、自身は加勢として大和田の砦へ
向かおうとした所、大和田より派手な赤一色の具足を付けた、松田孫太郎秀郷が、手兵百五十余人を
連れて駆けつけた。

この孫太郎は松田筑前守(康定か)の次男で、左衛門佐村秀の叔父にあたり、坂東に隠れない
剛の者で、常に主具足を好んで着け、金の鹿の角を打った兜を用い、数度の合戦で遅れを取ったことがなく、
その働きは「北条家の赤鬼」の異名で恐れられている歴戦の勇士であった。

四月二十日、月のまだ残る早朝の薄明かりの中に法螺貝の音が聞こえ、やがて陣鉦を打ち鳴らし、
上杉勢の攻撃が始まった。この城門へ向かって上がる鬨の声に、城中の武者である
臼井(白井)四郎左衛門入道浄三がまず軍配を取った。

この臼井浄三は、千葉より加勢に来た勇士で、最近まで武者修行のため上方に赴き、三好日向守(長逸)
の元にあったが、たまたま下向して臼井城に在り、よく城中の兵を押さえて好機を待った。

寄せ手の二陣は本庄越前守繁長で、第一陣と合流して一挙に城門を抜こうと攻めかかった。
臼井浄三は、頃は良しと弓鉄砲でこれに応戦し、城門をさっと開くと鬨の声を上げて突き出した。
先頭を切ったのは城主上野介の長男・原式部少輔胤成と、高城下総守胤長で、寄せ手の
長尾新五郎、富永主税介らと、たちまち火花を散らす攻め合いとなった。

そこに輝虎の下知で沼田の藤田能登守信吉、三上兵庫介正秋、石毛平馬持之、森下三河守が加わり、
柵を壊し堀を越えて、外曲輪七、八間ばかりを引き崩して城中に攻め入ろうとした。
これを見た原上総介の家老・佐久間主水正と、赤具足の松田孫太郎が飛び出してこれを支えた。
松田は大長刀を打ち振り、またたく間に沼田衆六、七人をなぎ倒し。今度は樫の棒に持ち替えて
騎馬武者めがけて打ちかかり、散々に暴れまわった。
負けじと寄せ手の本庄越前が横合いから打って出て、松田の仲間の橋本伝左衛門、陰山新四郎といった
歴戦の勇士を討ち取り、残兵を城中へ追い戻した。

そうしている内に曇っていた空より雨が降り始め、夕暮れとともに酷くなったため、寄せ手は一旦引き上げて
陣を張った。その夜は夜通し風雨が強く夜戦はなかったが、夜明けとともに風雨が収まると、上杉勢は
再び鬨の声を発して攻めかけた。しかし臼井浄三は再び音無しの構えでそれに応えさせなかった。

260 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 12:55:53.73 ID:KpTeOAT+
輝虎は不審に思い「恥を知る侍も多くいる。城内の人数もそう少ないわけではないのに、
何も反応がないのは昨夕の合戦に疲れたのか、もしくは風雨が気に入らず黙っているのだろうか。」
そう疑問を発した所、海野隼人正が進み出て言った
「城中に臼井入道浄三という軍師が居ると聞いております。何か策が有ってのことではないでしょうか。」
これに輝虎は
「頃を見て打って出るつもりであろうが、空堀に柵を巡らせただけのこのような平城、何するものぞ。
一もみに揉み潰せ!」と下知した。

これを受けて長尾新五郎顕長が馬を乗り回して配下を指揮し、城戸、逆茂木を打ち壊し、えいえいと
喚声を挙げて無理矢理に攻め込み、たちまち敵二百ほどを討ち取った。もう少しで大手が破られそうに
なった時、思いもかけず城壁が崩れ落ち、寄せ手の雑兵八、九十人がその下敷きと成って死んだ。
「さては、やはり策か」と考えた輝虎は、直ぐに引き上げの貝を吹かせて退こうとすると、城中より
松田孫太郎を先頭にどっと騎馬武者が打って出て、上杉勢の背後より討ちかかった。
中でも松田は黒馬に黒地の旗指物、筋金の違い打の馬印を掲げ、より一層真っ赤な具足が目立ち、
赤鬼が暴れこんできたようであった。続いて原式部少輔が、隅赤の指物に十曜紋の旗をなびかせ、
兵四、五百を引き連れ攻め込んできた。

上杉勢の中からは北条丹後守(高広)が引き換えして踏みとどまり、これを迎え撃った。続いて
新発田因幡守(重家)も、金の福禄寿の前立の兜に白綾の幌をかけ、手兵七百騎を円陣に作り、
追撃してくる臼井勢を斜めに横切って後続を断った上、大手の城戸口を破る構えを見せた。
これを知った赤鬼松田は、原式部少輔と分かれて後退し、新発田の七百騎に手勢とともに突っ込んだ。
しかし大勢に押されて百余人を討たれ、やむなく原の勢とともに城中へ入った。

ここで、今が引き上げ時と見た輝虎は、これ以上戦わず上州へ帰陣した。

この時、赤鬼松田孫太郎の敵ながら衆に優れた見事な働きを、輝虎は高台から見て感じ入った。
北条家に於いてもこれを知り、氏政より感状が与えられ、相州田島に二千貫の加増が有った。

(関八州古戦録)



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 14:06:03.70 ID:9t5CcVx+
軍師は白井じゃなくて臼井なのか

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 15:11:55.95 ID:KpTeOAT+
>>261
手元にある関八州古戦録には「臼井」に成ってますね。臼井(白井)と書いておくべきだったか

文明十一年、臼井城の戦い

2014年03月22日 19:00

790 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/22(土) 13:41:30.74 ID:EFmaNP9T
千葉介孝胤は、先年、父の陸奥守入道常輝と共に胤直兄弟に腹を切らせて足利成氏に奉公した人で、
足利成氏から千葉の名跡をたまわった人である。

その後、上杉から、胤直の名跡として実胤を千葉介に任じて下総に遣わしたが、足利成氏は千葉孝胤を贔屓にして
これを千葉に置かれたため、実胤は千葉城に入れず、武州石浜葛西のあたりを知行した。
やがて、実胤は世をはかなみ遁世し、濃州に上って閑居したため、上杉はその兄の自胤を取り立てて実胤の跡を
継がせ、千葉介に任じた。
これを武蔵千葉氏という。

その後、千葉孝胤は長尾景春に味方してあちこちで合戦し、足利成氏が上杉と御和談されるのをしきりに妨げた。
千葉孝胤は、上杉の御敵の一人であった。

そこで、千葉自胤を取り立てて南総州の侍を千葉自胤に付け、千葉の名跡を相続させようと、足利成氏の内意を
得て両上杉から加勢し、太田道灌が下総国府台に陣を取り、仮の城を構えた。

文明十年十二月十日(1478年1月2日)、千葉孝胤は原二郎と木内を先手として下総国境根原に出陣した。
太田道灌がこれに馳せ向かって合戦を始めた。
一日中戦った末、千葉孝胤は敗れ、木内、原をはじめことごとく討死した。
その残党は臼井城に立て籠もった。

文明十一年(1479)正月十八日、軍勢は臼井城を攻めた。

太田道灌は帰陣して、太田図書助資忠(道灌の弟or甥)と千葉自胤が両大将として攻め戦ったが、寄せ手は
小勢だったため、攻め落とすことができなかった。
管領の出馬を願ったが、これもすぐにはかなわなかった。
臼井城は総構えの要害堅固で、力攻めで落とすのは難しい様子であった。

そこで軍を割き、上総国長南の城主である武田三河入道を攻めたところ、七月五日に降参して千葉自胤に
帰順した。丸ヶ谷の上総介も、同じく千葉自胤に降参した。
また、下総国飯沼も落ち、海上備中守師胤も、千葉自胤に降参した。

千葉自胤は千葉へ入らなかったが、両総州の大半が千葉自胤に帰順し、長陣となったためひとまず帰陣しようと
七月十五日に陣払いをすると、その様子を見た城方が城から討って出た。太田図書助資忠も取って返して戦い、
敵に付け入って攻め込んで、ついに城を攻め落とした。
しかし、太田図書助資忠をはじめ、僧中納言、佐藤五郎兵衛、桂縫殿助以下五十三人が討死した。

千葉孝胤が敗れたものの、味方も長陣に疲れたため、それ以上は攻め入らず、千葉自胤は陣払いして
武州石浜に戻った。
しかし、臼井城は千葉自胤の領するところとなり、臼井城には城代が置かれた。

(鎌倉大草紙)

臼井城の合戦というと上杉謙信がボロ負けした事で有名ですが、そのさらに前にも、太田道灌の軍勢が
攻めあぐねた挙げ句、大将の一人を失ってしまった戦いの様子です。
臼井城跡には現在もなお太田資忠の墓が残っています。
ちなみにこの時臼井城主臼井教胤と千葉孝胤が逃亡しており、臼井城は千葉孝胤の支援により臼井教胤が
奪還したようです。




791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 15:31:11.27 ID:1KpOvJNW
やっぱ鎌倉大草紙はいいわあ
この教科書っぽい叙述が特に

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 16:22:40.14 ID:CtuidhWK
フロイスの後だから余計にそう思うのだろう

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 20:00:45.56 ID:WUhJXsOs
>>790
江戸時代にお家再興を嘆願する千葉氏は自胤を祖にすることが多かったらしいけど血統的な問題かな?

千葉良胤、織田信長からの勧告状に

2013年10月20日 19:15

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 10:52:19.68 ID:cEfgxVoU
天正10年(1582)、甲斐武田家を滅ぼした織田信長は滝川一益に関東を任せる。
そして関東での一益の行動を便利にするため、下総の千葉良胤(原文では胤富)に、一益に従い
協力するようにとの勧告状に、名馬一等を添えて使者を出した。

千葉良胤はその勧告状を見て、激怒した。

「甲州の武田が没落し、小田原の北条も織田に従ったからといって、これは上見ぬ鷲の思いあがりというものである!
こんな文書をよこすとは、奇怪至極。

たとえ総州の千葉家が小国だとはいえ、右大将頼朝公以来の、武家の名門である。
関八州において何れの列侯に、我が千葉氏の上座に座るものがあるだろうか!

一時の武威に奢って、誰も彼も自分に靡いてくるなどと考えるのは、もっての他の事である。
このような書状、返事に及ばぬ!」

そう言うと信長の送ってきた馬の尻尾を切って通に放り出し、使者の髪を剃り落として坊主にし、厩橋に返したという。

(関八州古戦録)




536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 21:36:20.14 ID:EJUFdxRT
>>530
馬は献上品ということにしてもらっとけば良いのに

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 03:48:20.34 ID:tQ2ARwAR
>>530
実在の疑われる良胤はないと思うわ
仮に実在したとしても、この時期は奥州に追放されてた頃だろうし
あと良胤は大の信長贔屓で、それが原や北条に嫌われて追放されたことになってる

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 10:51:37.39 ID:qix5bUKE
というか
「関八州において~」
って、この時期の千葉氏って小田原北条氏の支配下、とまではいかずとも、庇護下みたいなもんなんじゃないの
胤富亡くなってるし

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 18:11:41.05 ID:qghfbuzv
しかし、なぜ北条は直重をあのまま入れて千葉を乗っ取ろうとしなかったんだろ?
直重を追い出せるだけの力が原にあったとは思えないけどなあ

千葉宗家、惣領の印

2013年08月29日 19:53

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 22:22:36.13 ID:kKwI9dDG
下総の千葉氏といえば武家の名門である
千葉宗家は代々星の宮と称して妙見大菩薩を祖神とし、数多の星の中でも一番優っているというところから
北斗七星を崇め、そこから北斗を家紋とし、月に星、或いは十曜を用いた。そして

『月星を手に取るからに この家の 栄えんことは銀河のごとし』

と、自らを謳った。

そんな千葉宗家の後を継ぐ惣領には必ず、体の中に月星のイボがあった。これは不思議な事であったが事実である。
千葉邦胤の祖父・利胤が弘治三年(1557)八月七日に30歳で亡くなる。彼には二人の男子が在ったが、
長男の胤富にはそのイボがなかったが、次男の親胤には7つのイボがあったので、無理に兄の胤富を押しのけて
次男の親胤が後を継いだ。

ところがこの親胤は生来暴虐で、領民の保護も出来ぬ有り様であり、千葉家中では危機感を持ち、天正七年(1579)五月四日、
密かにこれを殺し、改めて長男胤富が家督を継いだ。

しかしこの胤富に、殺された親胤が怨霊となって祟り、胤富も早死してしまった。
胤富の後を継いだ子の邦胤も、元々邪狂の性質はあったものの、たかが屁のことで殺されてしまったのである
(屁と恨み http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3035.html)

このこともまた、殺された千葉親胤の祟りであると、噂されたのである。
(関八州古戦録)

千葉氏当主の特徴と、千葉氏を襲った千葉親胤の祟りについての逸話である。




238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/08/29(木) 10:57:20.44 ID:vII51v6o
イボは7つだけじゃなくて、8つ目の死兆星もあったんだろうなきっと

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 11:59:25.33 ID:jqbIHLb0
北斗七星は死を司るから不吉って、初期のケンシロウが言われてた

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 12:35:20.20 ID:J9/XG8id
孔明は北斗に祈って寿命を伸ばそうとしてた

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 16:10:06.79 ID:RC7CS/1y
ジョースターの血統かよ

成東家、再興ならず

2010年06月04日 00:00

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 02:03:48 ID:FmHEMEC+
関東に名だたる名家の一つに、関東八平氏の一家に数えられる千葉氏がある。
戦国時代においても形の上では下総一国の大半を支配する大勢力だったが、
その内実は多くの一族、家臣が半独立した勢力として活動し、
惣領家にはあまり権限が委ねられていない緩やかな同族連合といった存在で、
その為に躍進してきた北条家の圧力に耐えかね、その従属国という地位に貶められていた。

天正十三年には当主千葉邦胤が頓死すると家督を北条氏政の子直重に乗っ取られ、
名実共に下総は北条家の直轄領に組み込まれてしまう。
そして同十八年の小田原征伐にも独自性を完全に奪われた千葉氏は北条に組し、
一族ことごとく失領の憂き目を見ることになったのだった。

さて、この時に領地を失った千葉一族の一人に、成東千葉家の房胤という人がいた。
彼の父将胤は成東城落城に際して自害を遂げ、今は天涯孤独の身である。
ある時、彼の存在を知った徳川家中の者が、彼の登用を家康に具申した。
家康は名門の家系に手厚い。そして成東家は千葉一族でも宗家に継ぐ家格である。
おそらく誰もが成東家の再興なることを予期しただろうが、意外なことに家康の答えは「否」だった。

それから暫く、三代将軍家光の傅役青山忠俊らが、再び成東家の再興を斡旋した。
だが今度も幕府の答えは「否」で、以後は成東家のために取り計らおうというものもなくなった。
房胤はその後も臥薪嘗胆の時を過ごしたが、老境に入ってもはやこれまでと観念し、
承応二年に自害を遂げてしまった。
二度目の仕官拒否は、面談直前に房胤が病を得て応じることができなかったためとも言うが、
千葉一族は全般的に大名としての復活や幕府直参への取立てが認められない傾向にあり、
その関東への影響力を警戒されて将軍家に疎まれてしまっていたらしい。

これは千葉宗家についても同じで、宗家と成東家は復興の芽もないまま、
生まれながらの浪人という日々を以後百数十年(宗家は明治維新まで!)まで過ごしていくことになる。

……ちなみにこの千葉家と成東家。
幕府が影響力を恐れるのも当然で、両家とも浪人身分ながら帰農したり、
或いは他の大名家に仕えた旧臣たちと百年の時を重ねつつ交流を保ち、
18世紀末になってもまだ昔の家臣から仕送りしてもらったりして生活していたらしい。
おかげでニートでも不自由はなかったっぽいけど、それはそれでどうなのだろう。

千葉一族の生まれが良すぎて悪かったお話。




167 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/03(木) 02:13:42 ID:WJwcs81S
>>166
そんなに恐れるほどのもんなんですかね?
畿内とかどこか遠い土地で3千石くらい与えて旗本にしとけば、
旧家臣との付き合いもなくなっただろうに。


169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 02:24:15 ID:LndYSzql
>>166
飼い殺しにすらさせてもらえなかったのか…
家康なんかは、関東でのよそ者意識をまだ感じてたのかなあ

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 02:33:18 ID:FmHEMEC+
>>167
関東入部~幕府草創期はやっぱり恐れるほどのものだったんじゃないかなぁ
で、草創期を抜けたら今度はわざわざ配慮するべき存在でもなくなっていると
だから草創期も登用されないし、安定期も無視される……

というか房総半島の旧支配者に冷たいんだよね、江戸幕府
せっかく北条征伐や関が原を切り抜けた里見も、難癖つけて潰されてるし

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 02:50:55 ID:4z+0aMl6
越相同盟のときも
北条が佐竹に譲歩して出した領有地だと
千葉氏を下に抑えなきゃいけないから無理、とか言ってるくらいだしな
断る言い訳だろうけど



172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 06:29:32 ID:K8xbx2Kg
千葉は現代においても県内に影響力を持つ氏族だよ
宗家である下総系と仲たがいした武蔵系もずっと嘆願活動を続けていたんだよね

執権原氏の家臣で北条氏の直参扱いにもなる高城氏だったか
江戸時代に旧領にもどると旧家臣や領民が集ってきて旧主の子孫を囲んでもてなしていたとか

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 12:51:42 ID:W0wKUtIi
>或いは他の大名家に仕えた旧臣たちと百年の時を重ねつつ交流を保ち、
>18世紀末になってもまだ昔の家臣から仕送りしてもらったりして生活していたらしい。
名門の威光ってのは凄いもんだな…
逆に、一代でのし上がった秀吉はこういう目に見えないところでの蓄積の無さが後々の泣き所になったな



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 15:10:21 ID:bonYjEQ7
だから小田さんはフェニックスのように
何度も復活できたんだね。

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 15:26:51 ID:FLfxh0Ge
といっても、全ての旧家名族の子孫がそうなったというわけでもないしねえ。
そもそも本当に家臣たちが慕い忠誠を誓っていたのなら、一族分裂も下克上もなく衰退も無かったわな。

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 15:35:14 ID:bMcVD0tC
>>174
毎回家臣を生贄にしてるけどなー

177 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/03(木) 15:47:29 ID:FxfGugzg
フェニックスって確か不死じゃなく死ぬ度に甦るんだよ~
まさに小田さんにピッタリだ

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 15:50:21 ID:c6BQW+KK
>>176
生贄はコストなので帳消しにはできませn

むしろ家臣があれだけ沸いて出るのが異常かと

179 名前:大浦政信[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 15:55:56 ID:4uviHLKT
よし、生n…もとい誰かある!
突撃するぞ!我に続け!!

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 17:40:00 ID:1P/6fSdb
>>174
結城さんとこに太いパイプもあるからいざという時は結城さん経由で詫び入れられるしなー。ついでに軍神様も佐竹さんも
諸方に敵抱えてるから、小田さんの首にとことんこだわる余裕もなかったしね。

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 19:55:02 ID:cUpO4Con
>>170
源頼朝に対して恩着せがましい房総半島の連中がいたから、頼朝を尊敬してたらしい家康にとっちゃ嫌な先入観でも
あったのかしらね

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 20:04:37 ID:7knymvTF
房総だけじゃない。
下野・常陸の諸豪族も根こそぎ改易・転封だ。
力はなくても、関東の支配の正統性を持ってる一族を旗印にして
攻めて来られることのないよう危険の芽を摘んだんだろうな。

しかし、それにしては一番危険そうな喜連川公方家を残してるのは変な感じだが。

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 20:48:47 ID:/KBF0XII
大関・大田原も何だか知らんが明治維新まで全く不動だったがよく分からん


で、大関は迷いなく新政府軍に参加しました

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 23:07:00 ID:mtuRBCsj
>>184
大関は汚い!本当に汚い!

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 23:27:49 ID:hgAGRPDS
>>190
漂白剤入り洗剤でよく洗ってから陰干ししてやれ

今孔明、白井胤治

2010年04月24日 00:03

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/23(金) 16:07:45 ID:dcWtVQG6
んじゃ軍神謙信公のちょっとかっこ悪い話をひとつ


今孔明

1566年3月に上杉謙信は15000人の大軍を率いて、原胤貞以下2000の兵がいる下総臼井城を包囲し、
臼井城は上杉軍の猛攻の前に落城寸前となった。
と、たまたま城内に居合わせた男が「今孔明」と関東一円に聞こえた軍略家・白井胤治で、落城寸前の
城の指揮権を原から託された。

胤治は「上杉軍は大軍で味方は寡勢であるが、士気はお味方の方が勝っています。かならずや、謙信
めを蹴散らしてくれましょうぞ!」と士気を鼓舞した。
一方、「この程度の小城なぞ一気に攻め落としてしまえ!」と3月26日に謙信は総攻撃をかける。
対して、胤治はなんと城門を全開にして謙信の本陣目がけて突撃をかけ、不意をつかれた謙信軍は大
混乱に陥り一時撤退を余儀なくされた。

翌日、「勢いに乗る原はかならずや攻め込んでくるだろう。」と本陣で手ぐすね引いて待っていた謙信だが、
いっこうに敵はせめてこない。
ついにしびれをきらした謙信は、家来が「今日は悪日です。」と止めるのも聞かずに総攻撃をかけた。
それを待っていたかのように、胤治は臼井城の城壁を一気に倒し、轟音とともに取り付いた上杉兵数百を
崩れた城壁の下敷きにした。

「はわわ。」
謙信はあわてて全軍に撤退命令をだすも、城内から原の軍勢が一気に襲いかかり上杉軍は5000の死傷
者を出して命からがら逃げたという。





314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/23(金) 16:16:39 ID:S1Xnd0ZB
白井さんの良い話なんだけどその字がですね・・・

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/23(金) 16:25:58 ID:0vMlJy/D
「はわわ」はやめなさい「はわわ」わw

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/23(金) 17:23:18 ID:oKcdDW72
軍師交代をお知らせいたします
軍師白井胤治に変わりまして背番号1小田氏治、軍師小田氏治です。

それでは逆転を許した上杉軍9回裏の最後の攻撃です

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/23(金) 17:33:32 ID:0vMlJy/D
マモノの出番と聞いて        炎上神のお告げときいて    劇場→忍城堤防決壊ときいて

     |\_/ ̄ ̄\_/|     |\_/ ̄ ̄\_/|     |\_/ ̄ ̄\_/|
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        \  皿 /.          \ 皿 /          \  皿 /
   キコキコ □( ヽ┬U      キコキコ □( ヽ┬U       キコキコ □( ヽ┬U
   ~ ~. ◎->┘◎       ~ ◎->┘◎      ~~ ◎->┘◎

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/23(金) 17:35:08 ID:+ih0uZ/g
はわわ ってw かわいい

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/23(金) 18:11:08 ID:StKMGnG4
「ジャーン、ジャーン」もあればなおよかった

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/23(金) 18:11:13 ID:i18WiL2U
謙信のキャラがまた変わる。w

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/23(金) 18:17:22 ID:Bfov9QvL
そして謙信女性説ですね、わかります

屁と恨み

2009年10月18日 00:05

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 03:02:03 ID:pgxm5fPq
屁と恨み


天正十三年(1585)正月。
関東の名門千葉氏第29代当主、千葉邦胤の居城、佐倉城では、新年の祝賀が行われていた。
旗本の将士達が登城し、例年の如くの儀式、そして書院においての饗応。
この饗応の配膳を行っている者の中に、邦胤の近習で、当時18歳の鍬田万五郎と言う者が居た。

この万五郎が配膳の最中、大きな屁をした。
しかも、二発。

大切な正月の饗応の最中、なんたることか!千葉邦胤は大いに怒り、目を怒らせ
口を極めて叱責した。

ところがである、これに万五郎がたてついた

「出物腫れ物所かまわずと言うではないですか!
このくらいの事、普段からありうる失敗なのに、こんな晴れの場でそんなに叱り付けなくても
いいじゃないですか!!」

この憚るところを知らぬ口答えに、邦胤は激怒した。
彼は万五郎を蹴り倒すと短刀に手をかける。そこを傍の者達が必死に止めて、
万五郎を引き下がらせた。その上で邦胤をどうにか言い宥めて、万五郎は
椎木主水正に召し預け、と言う処分となった。

そうして左右の者達は「万五郎は殿から見れば、もとより吹けば飛ぶような小物ではありませんか。
そう言うものが逆上して妙な事を言っても、そんなことは気にするほどの物では無いでしょう。
どうか寛大なお心で、あいつを許しては頂けないでしょうか?」

そう詫び言を言うので、邦胤はやがて万五郎の謹慎を免じ出勤を許した。
確かに邦胤は許した。が、問題が一つ。鍬田万五郎は、これを許していなかったと言うことである。

万五郎は最初に蹴り飛ばされた無念を忘れなかった。「必ず復讐してやる!」
四六時中、邦胤の隙をうかがっていた。
そしてその時は来た。5月1日、深夜。

万五郎は邦胤の寝所に密かに忍び込むと、ふた刺しして逃げ出した!
「憎き小倅の仕業だ!」邦胤の叫びを聞いた佐倉城の宿直の者達が寝所に走り入ると、
邦胤の体は鮮血に染まっていた。

「鍬田の奴を逃さず、討ち取れ!」

そう叫ぶと、そのまま事切れた。

鍬田の方は城の物陰に隠れ、夜が明けてから堀を乗り越えて菊の間のある台地まで逃げたが、
その先に追っ手の人数が充満していることに逃走をあきらめ、林の茂みの中に入り、
切腹して果てた、とのことである。

この事件により、千葉氏は事実上北条氏に吸収されるなど、大変なことになるのだが、
それもこれも、元はと言えば二発の屁から始まったことであった。

げに恐ろしき、屁のお話。





523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 03:06:00 ID:DhaOGc6j
へー

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 03:10:57 ID:O+plwcSj
先にレスされてしまった

先陣争いに敗れた心境はこんな感じなんだろか(´・ω・`)

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 06:03:04 ID:dVP0qwdr
伝説の兄貴、良胤が実在して惣領として力を奮っていたら千葉の未来は変わっていただろうに

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 06:14:06 ID:2FfnTrOt
なんていうか坂東はフリーダムだな

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 08:18:31 ID:vLNEEX+P
       _({})      
      ノノノ小ヽ    
    川`;ω;´)  < 万五郎! 出ていらっしゃい!  
    ,ノ゙゙゙゙゙ハヽ、   
    `~ェ-ェー'′

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 09:49:30 ID:dVP0qwdr
>526
すでに北条に隷属していて千葉介の権威は失墜
家臣たちは直接、北条に命令を受けるような状況にあった

さらには千葉の氏族で重臣筆頭である原氏の家臣高城氏などは、
原氏・千葉氏・北条氏の3氏に加え一時期には古河公方の命令を受けて活動しているような始末
つまりお家の上層部は力を失っていてグダグダになっていたのだ

こんな状況を憤っていた良胤は、家督を継ぐとさっそく親北条の方針を転換して当時の畿内に
力を持っていた織田信長に接近を図ることにした

ところが北条の直臣同様の家臣たちは良胤の方針に猛反発し、原胤栄を中心にして
ある陰謀が企てられた
すなわち、当主良胤の幽閉である

良胤は下総公津(成田市)に幽閉されさらにのち奥州へと追放されることになる
こうして弟の時に屁こき事件が起きるのであった


あくまでそういう言い伝えがあるだけで、"この"良胤の存在は史料上確認できないけどね


529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 11:44:38 ID:kMpF0qsk
万五郎の単独犯にしてるけど黒幕が居るんじゃね?>邦胤暗殺

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 12:46:12 ID:nfItTYzG
>>529
氏康「例えば?」

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 14:33:01 ID:C85c7Wb+
クワマンの黒幕か…

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 14:34:27 ID:KMjDk7hv
白塗りのアイツ?

533 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/17(土) 15:39:08 ID:z4u6hAoJ
>>528
気仙郡のあたりに千葉氏がいたが、それと関係あるのかな?

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 18:32:49 ID:nfItTYzG
そういえば氏康も戦国大名らしくなかなか謀略や調略を多用してるんだけど
爺さんがよりはっちゃけてて、近所に同盟破りの名人いるせいか
あんまり謀将っていうイメージ無いのがズルいよなあ……
信長の野望の氏康の義理値がいつも納得いかない

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 18:58:53 ID:FxgLhkFu
学がある家臣が長宮に「岡豊という地名はもと豊岡と言ったのを誤って
伝わったものです。旧に復すべきです」と申し出た。
長宮は「先祖が伝えてきた地名を軽々しく変えてはならない」と、その
家臣を切腹させてしまった。

信念はかっこいいけど切腹させる必要は……

ちなみに岡豊城のある山は確かにもともと豊岡山で、山上に豊岡上天神
社という神社があり、城を作るときに麓に移したという。
岡豊の名をつけたのは初代能俊との説もあるが、そのころから岡豊山に
城を築いていたかは疑問。


537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/17(土) 21:13:11 ID:M5ShpqIe
>>534
 ,'"~`ヽllllllllll!'  ==、:;;;/;;;;;;;;;;;;;::.:. j     
 !.l"`,, |llllll!' :.:.:::;,,,___`ヾ、;;;;;;;;::;、rィ    
 ', ',>、|lll''   .:.::`'''゙メ`';;;:::::;;イェュ┤  いや、全くですな  
 ,゙、゙'- .!l' :..:..:.:.::;r'"´;;;:::..:.: :.l; :.:.:. |  


549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/18(日) 02:43:16 ID:t82X8Tca
>533
鎌倉幕府によって北は東北から南は九州まで、相馬や国分など一族朗党を従えて
各地を治めてきたのが千葉氏

元寇のときに惣領が太宰府に下っていったわけだけど、なんと留守番の弟が
地位と下総の領地を横領
この系統が戦国期に内紛を繰り返しながら北条に吸収されていくんだけどね


ちなみに横領されたお兄ちゃんの系統も戦国期まで続いていて、鍋島直茂が
家督は相続しなかったものの幼少期に養子入りしている

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/19(月) 07:52:18 ID:KPt7O7YN
>>549亀だが、龍造寺四天王の円城寺信胤が千葉氏の支族、
江里口信常は鍋島さんにつけられて千葉氏から龍造寺に出向した家臣だったっけ


屁に殺された男・悪い話

2008年11月15日 00:06

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/14(金) 20:12:54 ID:WxAizyGz
屁に殺された男の話

千葉邦胤は正月に家来を集めて宴会していたところ、近衆の鎌田万五郎が配膳の際に、邦胤の御前で
思わず2度も屁をこいた。
邦胤「このめでたい席に屁をこくとは何事かっ!!それも1度ならともかく、2度もこくとは余をないが
しろにしてのことか!!」
鎌田「いや、そのようなことは。思わず…」
邦胤「「思わず」とは何事だ。思って屁をこけば大逆の大罪である。余に遺恨あってのことか!」
鎌田「屁をこいたのは手前の不覚。世に「出もの腫れものところかまわず」といいます…」
邦胤「口応えするなっ!!」
激怒した邦胤は鎌田を蹴り飛ばし、脇差に手を掛けた。重臣たちはおどろいて鎌田を宴会場から引きずり出し、
邦胤に助命を嘆願したのでことなきを得たが、半年間蟄居の処分となった。
しかし、万座で恥をかかされた鎌田はその恥辱を抑えることができず、7月のある晩に邦胤の寝所に忍びこみ、
邦胤を刺し殺した。
家来たちは虫の息の邦胤から鎌田が犯人であることを知りしらみつぶし捜索し、もはや逃れることはできないと
悟った鎌田は切腹して果てた。

出典「関八州古戦録」




187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 12:11:50 ID:oZrO8AEL
>>162
Wikiでは、屁をこいたのは桑田万五郎とあるね。
結局、邦胤の早死が原因で千葉家は北条家に乗っ取られるんだよな。