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人、夢に春苑、道灌静勝公を見るあり

2021年12月13日 17:32

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/12(日) 22:20:57.19 ID:D27xJOHb
道灌つながりで
万里集九「梅花無尽蔵」から、道灌死後一ヶ月ほど経った文明十八年(1486年)八月の話を
(道灌の死時点は作詩どころではなかったため「梅花無尽蔵」には当時の記載なし)

人、夢に春苑、道灌静勝公を見るあり。
その面壮然として、恰も平素のごとし。
而して唯、扇を求め、略(ほぼ)世故の談に及ぶと。
遂に蓮経を漸書し、便面一枝を副え、公の影堂に寄せんと。
すなわち余、扇面に題していう。
一夢縦途亦有由 風声墓樹漸驚秋
平生白羽慕諸葛 餘習未忘呼扇求

夢の中とはいえ、主家への恨みを気色にも表さない死せる道灌であった。
扇を求めたのが風流のためか、諸葛亮のようにまた軍を率いたいという心かはともかく。
なお万里集九は明応三年(1494年)正月三日に東国での十年間の思い出として、
山は富士山を仰ぎ、人は道灌に会えたことを挙げるほど、
道灌を敬愛していたことで知られている。

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/12(日) 23:02:07.31 ID:D27xJOHb
ついでに永田徳本の医書「梅花無尽蔵」の拾遺を読んだら
「蛇が玉門(女性の隠部)に入った時は枇杷の実を砕き、酒か湯か油で溶かして入れましょう」
とか書かれてた。
130歳まで生きた渡辺幸庵が「女の陰門に蛇が入ったのを3回見たことがある、蛙を突き出したり山椒をかけたりしたら外に出てきた」
とか言ってるのを考えると
118歳まで生きた永田徳本がそういう症例に出くわしてても不思議ではないか



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三楽斎は武略の達人である

2021年05月30日 17:18

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/30(日) 16:17:55.41 ID:K7e2Q0fr
武州岩槻の住人である太田三楽斎(資正)は、幼少の頃より犬が好きでこれを飼っていた。
そして三楽斎は、同国松山城を保持しており、己の守護を据え置いてこれを守らせていた。
ある時三楽斎は、松山城に行って城代にこのように申し付けた

「我が居城岩槻よりこの城までは路次はるばるである。もし俄の事が起きて人馬が通る道が
封鎖された場合は、この犬の首に文を付けて、追い放つべし。」

そう言って、岩槻に於いて飼い慣らしていた犬を五十匹、松山城に置いた。また松山城で
飼っていた犬を岩槻に置いた。

そしてある時、松山城に一揆殊の外に起こり、北条氏康公もこれに連携して出馬したとの情報があった。
しかし松山城より岩槻に使いを立てようとするにも、すでに道路は封鎖されており叶わず、難儀に及ぶ時、
件の犬の首に、竹の筒を手一束に切ってその中に書状を入れ口を包んだものを結びつけると、
それを追い放った。

かの犬どもは片時の間に岩槻にたどり着いた。三楽斎は怪しんで犬を見ると、首に件の文があった。
これにて三楽斎は直ぐに武士たちを引き連れて松山城の後詰をした。
一揆の者共はこれを見ると、

「この事が早くも岩槻に聞こえたというのか、不思議である。誠に三楽斎は離れた場所の状況を悟る
名将である。」

そう感嘆し、一揆は治まった、その後、松山に於いて終に一揆が起こることはなかった。
三楽斎は武略の達人である。

謙信家記

太田三楽斎の犬について



小網神社御由緒

2020年10月15日 18:21

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 21:02:59.89 ID:4443tF/k
小網神社御由緒

小網神社HP
https://www.koamijinja.or.jp/history.html


※管理人注
こちらのHP内の記事と同内容でしたので、ご興味の有る方は上記HPにて
記事をお読み下さい




639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/15(木) 22:30:55.61 ID:PKG5DZ+s
>文正元年(西暦1466年)、庵の周辺で悪疫が流行し、人々は困り果てていました。
>そんななか、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れ、

アマエビでもかかったのかと

三楽斎の小田城乗っ取り

2019年10月12日 15:49

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/12(土) 12:05:11.95 ID:zZ547gHR
常州の小田讃岐守入道天庵(氏治)は、家の吉例の行事として。毎年十二月の大晦日の夜、
家臣を集めて連歌の会を催し、これを年忘れとした、その後夜明かしで酒宴を張るのも
恒例となっていた、

この頃太田三楽斎は片野の砦に住んでいたが、この事を知って色々と工夫をしたが、ついに
小田城を乗っ取ろうと決心した。
そのころ天庵は藤沢城に住み、小田城には息子の彦太郎守治が入っていたが、彼のもとでも
この行事は行われていたのである。

三楽斎はまず、真壁氏幹入道道無に相談し、佐竹、多賀谷も巻き込んで密議を行った。
彼はこのように説明した
「これは必ず成功する。小田城中には二、三内応する者もあり、大晦日の夜に兵を出せば
正月には城はこちらの手にあるだろう。」

これに多賀谷側より「その内応する者とは誰か」と問われると、三楽斎はそれらしき書状を
二、三出してみせた、それで安心したものか、真壁、多賀谷、佐竹も彼の企てに同意した。

その年の大晦日、三楽斎父子、同新六郎康資、真壁掃部介、坂本信濃守、佐竹より岡谷縫殿介、
根本太郎、多賀谷より家人の白井全洞などが集まり、小田城近くまで進んだ。そこで人馬を休めつつ
手引の者を待ったが、いっこうに現れない。
佐竹側が
「三楽斎殿、これはどういうことか」
と尋ねると、

「内応のものが有ると言ったが、あれは嘘だ。」

と答えた。
一同驚き
「嘘だと言うが、証拠の書状まで見せたではないか。」
「だからそれが嘘である。」
「ではあれは偽の書状か」
「いかにも。そうでもしなければあなた方は同意しないと思った。」
「それは酷い。そのような事なら我々は帰る。」

憤る彼等に三楽斎は
「まあ待て、連歌のことについてはよく調べてある。小田城の者達は必ず遊び呆けて酒に成り、
家中一同は酔いつぶれて物の役に立つものは一人も城中に居ないだろう。
ここは一つこの三楽斎に任せて頂きたい。決して悪いようにはしない。」

こうも三楽斎の術中に落ちた以上、一同も今更否とも言えず、夜明け近く、貝を吹き盾を叩き、
一斉に鬨の声を上げ小田城に攻めかかった。三楽斎の旗本である益戸勘解由、高橋上野介、石井峰岸
などの勇士は真っ先に大手門を押し破り城中へと乱入した。

小田方はこんな事が起こるとは夢にも考えておらず。連歌の後の酒宴で酔いしれていた所で、寝耳に水の
驚きようであり、周章狼狽はその極みに達し、太刀よ物具よと探す者はまだいい方で、堀を乗り越え、
狭間に潜って逃げ出し、敵を防ごうという家来は一人も居なかった。
彦太郎守治も仕方なく脇虎口より逃れ出て、菅谷金吾入道全久の木田余城へと退散した。
三楽斎はやすやすと小田城を乗っ取ったのである。そしてしばらく番兵を入れて様子を見ていたが、
取り返しに来る様子もなかった。

ところが二月に入って異常に雪が降ったのだが、その大雪の日に小田彦太郎守治は、菅谷、大藤、月岡
といった家臣を率いて不意に押しかけ、小田城を取り戻した。
こうして元のように小田守治が城主に戻ったのである。

(関八州古戦録)

続き
小田城再乗っ取り


太田三楽斎追放

2019年10月10日 17:01

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 12:42:52.59 ID:6oB8WiqO
永禄六年五月、小田原の北条氏康太清軒は、法華の僧を使いとして岩付城へ赴かせ、太田三楽斎(資正)に
このように伝えた

「この正月、国府台の合戦で思わず我等が勝利したが、これも弓矢を取る身の運不運である。
敵と味方に別れるのも時の勢いであろうが、もし今和睦をしても良いと言うなら、嫡子源五郎(氏資)に
家督を譲り、隠居されたい。そのようにして老後を心置きなく過ごされるおつもりなら、我が子氏政の
妹を源五郎に娶せ、自分がその後ろ盾と成り長く岩槻の社稷を守るであろう。」

そのように言い、それも二度までも使いが来た。その裏には、もし同心しないというのであればこちらにも
覚悟がある、という脅しの意味も含まれていた。

三楽斎も利口な男であったのでそのくらいの事は理解していた。しかし長年の兵乱に勢力は尽き果て、
この正月の合戦で兵の消耗も甚だしく、要害でもない平城でどれほど持ちこたえられるか先は知れており、
ここは一番和睦し、後日に事を謀ることが肝要であると、多年の宿意である上杉への肩入れを打ち切り、
小田原の意に従うことを決心した。

この事を伝えられた氏康・氏政父子は大いに喜び、すぐに吉日を選んで娘を岩槻へ送り、婚姻の式を挙げ、
千鶴万亀の祝をして、両家の昵懇はこの上なくまとまった。実に無意味な事である。

それからしばらく後、氏康は婿となった源五郎氏資に、垣岡越後守、春日摂津守などという太田家の
奉行職と相談させ、野州小山城、長沼城攻めを開始させた。しかしそれは氏康の策で、彼等を両城に
出陣させた後で、不意に岩付城を襲おうという密計であった。

三楽斎はその事に気づいており、またもとよりそのくらいの事は有ると思っていたので別に驚く事もなく、
何食わぬ顔で、密かに妾腹の子である梶原源太左衛門政景を招き、その場合に打つ手を色々と相談して、
政景に川崎赤次郎を添えて盟友である佐竹義昭(実際には義重 )の元に行かせ、自分は浜野修理介を
連れて、これも盟約の有る宇都宮三郎左衛門広綱の元へ向かった。

しかしこの事をすぐ、氏資に付いていた垣岡、春日が小田原に伝えた、氏政は早速太田大膳亮に兵二百騎を
付けて岩付城へ向かわせた。大膳亮はまたたく間に外郭を固めて二度と三楽斎を城に入れなかった。

ここにおいて三楽斎と梶原政景は浪々の身となり、政景のみは、弟の新六郎とともに佐竹に寄宿する
事となった。三楽斎はそのまま武州忍城の成田左馬助氏長を頼った。氏長は三楽斎の娘婿である。

ああ、世に前管領上杉憲政の旧臣は多いが、その中でも太田三楽斎と長野佐衛門大輔業正ほど
無二の忠誠を尽くし、上杉家の再興のため心を尽くした者があろうか。であるのに、時に利非ずとはいえ、
業正は箕輪にて討ち死にし(実際には病死)、三楽斎は今流浪の身となった。そして北条の武威のみが
したり顔となったのは皮肉なことである。

(関八州古戦録)

北条の謀略というより太田三楽斎が策に溺れた感強いな。



501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 23:56:01.31 ID:wCzp0YSp
太田資正って、扇谷上杉ならともかく、上杉憲政の臣下だって意識あったんだろうか
扇谷上杉壊滅後は北条(古河公方)家臣で、謙信越山以降は独立路線でやってるよね

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 08:34:36.97 ID:ZngsXh4S
>>501
越相一和後の行動は完全に独立勢力でそ。

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 15:33:46.50 ID:tAqYfxfy
>>500
策に溺れたというより、身の危険を察して逃げたというべき
養父、義父が婿に討たれるなんてのはよくある話
北畠具教や宇都宮鎮房をみよ

ひとりには 塵をもをかじ ひとりをば

2019年08月31日 16:44

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/31(土) 11:08:13.82 ID:rF2nTSPU
太田道灌は文武の将であった。彼には最愛の美童が二人あり、その寵愛に甲乙をつけなかったが、
ある日、両童側に有る時、風が吹いて落ち葉が一人の美童の袖に止まった。道灌は扇でこれを
払ったが、もう一人の美童はこれに、いささか寵を妬む色があった。
これを見て道灌は一首を詠じた

 ひとりには 塵をもをかじ ひとりをば あらき風にもあてじとぞ思ふ

このように詠じたという。おもしろき歌ゆえここに書き留める。

(耳嚢)



露すぼこくて折られないもさ

2019年08月11日 19:18

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/11(日) 05:37:12.29 ID:1/QIaclw
太田持資(道灌)が上京した時に、彼が歌道を好むということで、公卿たちがこれを求めると
「関東の田舎に住んでおりますから、堂上の人々にお目にかけるべき歌など有ろうはずもありません。
これは田舎にて詠んだ歌です。」と奉り

『武蔵野の 折べい草は多けれど 露すぼこくて折られないもさ』
(「折べい」は「折るべき」の、「露すぼくて」は「露に滑って」の、「もさ」は「ものさ」の、それぞれ関東訛り)

こう詠んだところ、人々声高く大笑いした。この時持資は「もう一首、このように詠みました。」と
再び奉った

『露おかぬ かたも有けり夕立の 空よりひろきむさしのゝ原』

これに一同深く感心したという。

(耳嚢)




139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/11(日) 11:43:52.93 ID:JHp/WRi1
>>138
やはり頭いいんだな
最初に受けを狙い、その後で切り返し
暗殺なんて事にならなかったら

今ここに二つの不思議が有る

2019年02月23日 17:25

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 12:52:27.36 ID:e/hNmUGt
小田原の役の時、太田三楽斎(資正)は豊臣方として小田原の攻口にあったが、北条方の松田尾張守(憲秀)の
陣を見て、「彼に異心あり」と言った。実はこの時、松田はすでに秀吉に欺かれて内通していたのだが、
三楽斎はこの事を知らないはずであったのに、これを指摘したのだ。

この言葉を聞いた秀吉は怪しみ、「何を見てそのように言うのか」と尋ねた所、三楽斎は

「松田の勇謀は人の恐れる所です。所が今、軍備を正さず、諸卒を戒めず、役所を巡りません。
彼はもとより臆するような人物ではない。であれば、これは心をこちらに通じているが故なのでしょう。」

この答えに秀吉は感嘆し、源君(徳川家康)に対してこれを語って
「今ここに二つの不思議が有る。それが解るだろうか。」

「一つは三楽の事でしょう。もう一つは解りません。」

秀吉は言った
「私は匹夫より起こり天下の主となった。一方で三楽にはあれほどの知がありながら、一国すら持ち得て
いない。これが二つ目の不思議でなくてなんだというのだ。」

(武将感状記)



691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 17:20:42.46 ID:HuShFIb5
>>688
反北条を貫いたからだろうな、あとは本貫地に拘ったから

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 10:39:08.62 ID:Y+43REht
太田資正は上杉謙信が関東勢を従えて小田原城を包囲したときも
白倉丹波という武将の離反を見抜いて事前に防いだらしい

それでは、試しに受けて見給え!

2019年01月04日 19:54

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 01:31:25.48 ID:YYkFjjjl
天文23年(1554)の春、今川義元の三河出陣に際して織田信長は北条と通じ、氏康は駿河へ軍勢を
差し向けなさった。対して義元は甲斐を頼み、武田晴信も駿河に軍勢を出して、両軍は苅屋川で戦った。

武田旧臣の原虎胤は近年故あって北条家に来たり、剛強名誉の働きを致してこの度の戦いでは先手の斥候
となり、紺糸の鎧に半月の指物を差して、冑の真向に“原美濃守平虎胤”と書いている立物をして猪首で
身に着け、鹿毛の馬に黒鞍を置いて打ち乗り、小幡に言葉を掛けて小山田の備へと乗り掛けた。

小山田弥三郎の備の内から「関東浪人、近藤右馬丞!」と名乗って馳せ掛かる者がいた。原はキッと見て
「優れた気立てであることよ!」と太刀を抜き持ち、峰打ちで近藤の冑の錣の端や首の骨を続けて3打4
打すれば、近藤は馬からドッと落ちた。

そこへ後から続く小田原勢が下り重なって首を取らんとする。これに原が「その者は私が甲斐で目を掛け
た者で候! 許してくだされ!」と申したので、引き取ったのであった。

太田源六(康資)は知られた大力の剛の者で、大荒目の鎧に三枚冑の緒を締めて、樫の木の棒を抱え込ん
で白鴇毛の馬に乗って駆け巡った。「おい美濃守殿! これを見給え!」と申すと源六は、武田勢の先駆
けの武者7,8騎を馬の上から打ち落とし薙ぎ倒し、猛威をあらわした故、甲斐勢は辟易して引き退いた。

源六は乗っている馬に矢を射立てられて徒立ちとなり、原と連れ立って静々と引き返した。

永禄7年(1564)正月7日、国府台で北条と里見の軍勢が戦った。太田源六は遠山丹波守(綱景)を
始めとして進む兵6騎を馬上から切って落とした。

北条方の相州無双の大力で、志水右馬丞という剛強の兵は、柘の棒に筋金を入れて打ち振り、太田源六と
寄せ合わせてしばし戦うと見えたが、源六は持っている太刀を鍔本から打ち落とされて、貝を吹いて逃げ
ていったのであるが、余りに無念に思い、常に秘蔵して持っていた長さ8尺周囲7寸の鉄の棒引っ提げて
「志水を打ち落とす!」と、乗り廻し乗り廻し探すも、志水と遭遇しなかった。

源六は「この上は!」と当たるを幸いに向かう敵の冑の鉢や甲の胴中、馬人ともに尻居になるほど打ち据
え、横手に払い薙ぎ倒して打ち据えれば手負い死人はますます重なった。太田下野守は源六の舅であるが
小田原勢の先手にあって、源六の有様を見て馬を駆け寄せると、

「源六よ、余りにも正なく謀反したものだ! 咎を悔いて降参し給え! 某が命に替えても取り成すべし!
今日の働きは厳めしく見える。しかしながら、人こそ打ち給うとしても、馬には咎もないのに無用の罪を
作り給うものだ!」

これを聞いて源六は高らかに打ち笑い、「殊勝にも宣うものですな! 今は仰せに任せて人だけを打ちま
しょう。それでは、試しに受けて見給え!」と鉄棒を取り伸ばし、下野守を丁と打った。

下野守も「心得た!」と太刀で打ち背けようとしたが、大力で打たれてどうして耐えられようか、冑は砕
けながら首は胴に没入し、前方の深田へ転び落ちて死んでしまった。

戦いが散じて源六は宿所に帰り、妻の女房に向かって申したことには「和主の下野守殿は某に諫めの言葉
を掛けられたので、鉄棒で冑の鉢を打ち参らせたのだが、今頃は痛んでおられよう」と語った。

このため女房は大いに驚き「なんですって! 父を打ち殺しなさったのですか! 情けのないことじゃ!」
と下人を遣わして探したところ、下野守は深田に倒れて頭は冑とともに打ち砕け、首は胴の中に没入して
いるのを、泥にまみれながらも葬礼して仏事を営んで女房は髪を剃り、尼になって菩提を深く弔った。

この女房の建立した寺という武蔵江戸神田の浄心寺に尼の木像が今も存在している。

――『鎌倉九代記』

先に投稿した逸話と微妙に内容が違うので

関連
なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!


なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!

2018年12月15日 19:39

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 01:11:20.41 ID:wQqzwCcr
武蔵江戸の住人に太田源六資高(康資。父子の混同)という者がいた。大力武勇の誉れは関東8ヶ国に並ぶ者
なし。およそ30人でも動かし難き大石を、軽く持ってしまうほどの剛の者である。その弟に源三郎と源四郎
という者がいて、共に大力の兵どもであった。

ある時に3人が集まって言うには、「そもそも兵は剛強だけでは末代までの高名にはなり難し。それは何故か
といえば、今武蔵の中に我ら兄弟の上を越える力量の者はおるまい。如何なる鬼神であるとも3人で従えよう
として従わせられないということがあろうはずもない。

しかしながら(北条家からの)賞翫にも預からず、未だ一城の主にもなっていない。先祖の道灌(太田道灌)
は無力でも武功を顕し、末代までも名を揚げたものだ。我らは武勇を励んで氏綱父子二代に型の如く奉公した。
とりわけ過ぎ去りし大永3年(1523)、江戸城へ氏綱を引き入れて管領(上杉朝興)を追い落としたが、
城には遠山を置かれて、万事が我らの心に叶わない。

いざ同苗の美濃守入道三楽斎と相談し、安房の里見義弘と引き合わせ江戸城を攻め落とし、長く豊島郡を知行
して、言うまでもなく道灌の跡を継いで江戸城を取るべきと思うが、どうだ」

これに2人の弟どもは「もっともしかるべし!」と勇む。それから「これほどの大事を無造作には言うまい」
と、かの源六郎の菩提寺である法音寺という法華寺の番神堂に集まり、神水を飲んで、「この事を思い定めた
ならば二度と変じてはならない」と謹んで申し、その後に太田三楽の方へこの旨を言い遣わした。三楽は大い
に喜んで安房へ使者を立てて里見義弘を招けば、義弘は安房一国の勢と上総の軍兵を催し、下総国の国府台に
出張した。

そのようなところに法音寺の住持の僧は、かの太田兄弟の密談を聞き、日頃の誼を忘れて小田原へ注進して、
自身の檀那兄弟が謀反との旨を告げたのである。これによって遠山丹波守(綱景)に太田誅伐の討手を賜り、
すでにこれが押し寄せたので、太田兄弟は案に相違して夜に紛れて岩槻へと落ちて行った。これによって氏康
父子は日を置かずに打ち立ち、国府台へ発向された。

(中略。第二次国府台の戦い開戦)

ここに今回敵となった太田源六・同源三郎・同源四郎・黒川権右衛門・長南七郎などといった大力の若者ども
は一面に打って掛かった。志水太郎左衛門という大力無双の聞こえありし者は源六と渡り合ったが、志水の樫
の棒で源六は太刀を打ち折られ、力無く逃げたのである。源六はあまりに無念だったので「また太刀で打てば
折れるかもしれない」と、常に秘蔵していた長さ8尺の鉄の棒を取り寄せて軽々と引っ下げ、「なんとしても
志水めを打ち落とす!」と打ち振り打ち振り馳せ巡ったが、ついに見付からなかった。

源六はいよいよ腹を立てて、冑の鉢や胴中を構わず当たるを幸いに打って廻ると、多くの人馬が打ち殺された。
太田下野守という人は小田原勢の先手であったが、源六の有様を見て、「これは我が婿の源六なり!」と思い、
乗り寄せてくると源六に声を掛けて、

「おい源六、無益な謀反を致したものだな! 私は味方であるから、なんとしても先非を悔いて降参せよ!
命だけは助けよう! それにしても今日の振舞いは厳めしいものよ。しかしながら馬は何の咎によって打た
れたというのだ。人こそ打つだろうが、多くの馬を打ち倒すことは罪作りであろうぞ。どうなんだ源六!」

これを聞いた源六は「殊勝なことを宣うものですな。それならば人だけを打ちましょう。受けてみなされ!」
(いしくも宣ふものかな、人計り打つべし、受けて見給へ)と言うや否や、舅の下野守を開き打ちに丁と打つ。
下野守も太刀で打ち返さんとするが、大力で打たれてはどうして耐えられよう、前方の深田へ打ち落とされて
見るにしのびない有様であった。

(中略)

国府台の戦いが散じて後、太田源六は宿所に帰って妻女に向かって「私主の父の下野殿はこの度、戦場で某に
向かって言葉を掛けられたので、棒で頭を打ったのだ。必ずや痛んでおられよう」(某に向て言葉を掛け給ひ
し程に、棒にて頭を打ちぬ、定めて痛み給ふらん)と語った。

女房は大いに驚いて「なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか! 探し参らせよ!」と下人
どもを遣わすと、案の定下野守は深田の泥にまみれ、頭を打ち砕かれていたのを探し出した。女房は下野守の
葬礼を懇ろに営み、髪を剃り落として父の後世菩提を祈ったことは哀れである。武蔵神田の浄心寺はこの尼の
建立であるという。

――『小田原北条記』

関連
それでは、試しに受けて見給え!



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 17:01:55.03 ID:6Uin1sXO
>>526
リアル戦国無双でワロタw

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 19:13:40.40 ID:S5q0Xu8o
>志水太郎左衛門
清水だよね
足の力で馬を絞め殺せる人

こうしてこの者どもの手並みは知れた

2018年12月14日 17:41

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/13(木) 19:20:15.18 ID:4rbL4FzT
天文23年(1554)2月中旬、北条氏康は小田原より駿河へ馬を出された。先陣は松田尾張守(憲秀)・
北条常陸介(綱高)・笠原能登守・志水・大道寺を始めとして下方庄へ打ち入り、吉原・蒲原に陣を取った。

駿河の今川義元はその頃、尾張の敵が蜂起して三河まで発向しており、その敵と対陣しているため小田原勢に
向かい難かった。甲斐の武田晴信は義元の小舅なので、義元から頼まれて軍勢を引率し、富士川の端、加島の
柳島に陣を取った。小山田弥三郎・馬場民部(信房)を先陣として、大宮厚原辺りへ足軽が出合い、日々矢戦
に及んだ。同3月3日、氏康父子の出陣あって、浮島ヶ原に旗を立て給う。

(中略)

越智弾正が物見に出ると、甲斐勢より小田兵衛尉が弾正を目掛けて乗り寄せて、互いに名乗って槍を合わせて、
ついに小田を討った。すると敵の大勢が取り巻いてすでに弾正が危うく見えたところに、原美濃守(虎胤)が
これを見て敵の中に割って入り、馬上の敵2騎を討って落とした。美濃守のその日の装束は、紺糸の鎧に半月
の2間ほど両方へ出ている指物で、冑の真甲に“原美濃守平虎胤”と書き、太く逞しい駁の馬に乗り敵を追い
散らし、弾正を連れて味方の陣へ引き退いた。

武蔵国の住人・太田源六(康資)は筋金を入れている例の樫の棒で、甲斐勢の先駆けの武者を馬上から7,8
騎打ち落とした。その他馬の平首や太腹など、人馬を選ばず当たるを幸いに薙ぎ払った。敵は冑の真甲や脇骨
を微塵に打ち砕かれ、この勢いに恐れてあえて近付く者はいなかった。源六自身も馬を射られ歩行立ちとなり、
美濃守と一緒に引き退いた。

さてさて、この美濃守は下総国千葉の侍である。父・原能登守友胤は小弓御所の合戦の頃に下総より浪人し、
甲斐へ行って武田信虎に仕えて、数度高名を顕してついに討死した。その子・美濃守は父に劣らぬ大剛の者で
あったので、信虎は憐愍を加えて烏帽子子にして、虎胤と名付けられて数度の高名類無し。その虎胤は近年に
小田原に来たり、氏康に仕えて忠戦を励ました。

甲斐の軍兵は敵ながらも昔の朋輩なので、美濃守を見知って「我が討ち取らん!」と進んだ。中でも小山田勢
から武者5騎が虎胤を目掛け、「近藤右馬丞!」と名乗って近々と追っ掛けて来た武者がいた。虎胤はキッと
これを見て「優れた心ばえだな!」と近藤の冑の錣の端を峰打ちして首の骨を2打3打すると、近藤は馬から
ドッと落ちてしまった。

かの近藤が立ち上がらんとするところを、太田源六が取って返して「どれ目に物見せよう!」と棒を振り上げ
打たんとし、虎胤は立ち返って、「この者は私めが甲斐にいた時に目を掛けた者に候ぞや! 命を助け給え!」
と制止し、源六は同心して静かに味方へ引き入った。

こうしてこの者どもの(原・太田の?)手並みは知れた。寄せ合わせようともせず日は既に暮れて、甲斐勢も
流石に叶わないと思ったのか、合戦は明後日有無の勝負と極め、その日は互いに相引きに引き退いたのである。
この日の合戦で小田原勢2百3十余人が討たれ、甲斐勢も2百余騎が討ち取られた。

――『小田原北条記』



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/13(木) 20:19:38.02 ID:/uZzskCv
>>558
>源六は同心して静かに味方へ引き入った
かっこいい…。

末の松山波もこさなん

2017年12月24日 18:14

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 17:33:05.05 ID:c//5mowE
扇谷上杉氏の家臣である難波田弾正(憲重)は、武州松山に居城していたが、天文6年7月、
扇谷上杉朝定が北条氏綱によって川越城を攻め落とされると、この松山城に入った。
難波田は熱心にこれを補佐した。

7月20日、北条氏綱は松山に押し寄せ強力にこれを攻めたが、難波田は固く守り落城を防いだため、
氏綱は近隣を放火して兵を小田原へ入れた。
この戦いの時、北条家の家臣、山中主膳という者、難波田と戦ったが、難波田は軽くあしらうと
早々に引いた。山中はこれを追いかけつつ歌を叫んだ

「あしからじ よかれとてこそ戦わめ など難波田のくずれ行くらん」

難波田はこれを聞くと、古歌を以って返した

「君を置て あだし心を我もたば 末の松山波もこさなん」
(古今集。百人一首「契りきなかたみに袖をしぼりつゝ末の松山浪こさじとは」の元歌とされる)

(士談)



535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 07:42:06.28 ID:Tmn6MQLZ
松山城歌合戦については、難波田城資料館が以下のように紹介している
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/TV-TOKYO20111231.html
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/files/nanbatajo-dayori49.pdf の3ページ目
末の松山

あまりに五郎はたしなまず

2017年11月11日 11:40

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/11(土) 09:38:31.22 ID:n5TRw1sH
扇谷上杉定正は、養子で後継者とした朝良が食分を忘れて武士の業を勤めぬことに、曽我豊後守の許へ
戒めの書を記し送った。その内容に曰く、

『年来これについて言っては来たが、あまりに五郎(朝良)はたしなまず、一つのことすら、
この定正が納得するものは無かった。

去年の正月以来、朝良の随従の者たちに申し付け、彼の朝夕の雑談の内容を知らせるよう命じた所、
4,5人が密かに注進してきたが、何れも同じ内容であった。

朝良の所へ山口、小宮、仙波、古尾谷といった面々が参った時、朝良が彼らに尋ねるのは
ウグイスの事、武蔵野にての鳥追、狩りの雑談、武州六社(武蔵国一宮から六宮までの六社の神社)の
物語、深谷の馬場の早馬の事、酒宴数盃の物語であり、また或いは、京の方からきた牢人の面々が
出頭した時、彼らに尋ねるのは招月の歌、手跡の物語、心敬・宗祇の連歌、洛中貴賎、清水男山の眺望、
諸五山の様子、観世今春の能仕舞の雑談、といった内容だったそうだ。

これを知って私が悲しみのあまり涙を流したのは言うまでもない。この愚老が明日にも討ち死にすれば、
当方屋形の者共は皆、命を失うか生き残っても乞食に身を落とすであろう。』

そのように書いたのだという。

(士談)



熱川温泉は猿が温泉に入っているのを

2017年02月27日 18:28

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 23:35:57.60 ID:lnr7vVWg
道灌公と猿
http://i.imgur.com/h8LjG3u.jpg
h8LjG3u.jpg

折檻された例のイタズラ猿かと思ったら、
熱川温泉は猿が温泉に入っているのを道灌公が見つけて開湯されたとの事。



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 09:57:29.60 ID:3PJYeBvg
信長と若き日のラスボスでも通用しそうだな


.....なわけない

江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事

2016年12月09日 09:19

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 22:25:27.26 ID:J91C5wri
江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事

 ある人が語るには、
江戸の御城は、初めは太田道灌が興したというので今は何事も道灌に帰しているようだが、
道灌が築いたのは今の西の丸で、御本丸は藤堂高虎と諮られて御新築されたという。
よって『駿府政事録』には、"新城"とあるのだそうだ。

 また道灌も流石は風流人であって、
今の桜田という辺りには多く桜を、今の紅葉山という地には楓樹を植えて、
春秋の詠を専らとしていたという。
今増上寺の門前に流れている小川を桜川と呼ぶのも、その源泉は桜田から出ているので、
その年からこう言っているのだという。

 この事を林老(述斎)が聞くと
「桜楓のことは同意しない。桜田はもとから村の名で桜を植えたからではない。
御城外の桜田から今の桜田町まで行程はかなりある。
その年にどうして一年間で花木を植えることができようか。
また紅葉山は駿府に有った名を移されたものである。」
と話された。

(甲子夜話続編)

松浦静山の頃には、かなりの誤伝が広まっているのだと思われます



398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/09(金) 22:52:45.81 ID:8ZfVzv1H
>>392
昔から道灌すげーと思われていたんだな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 00:02:16.10 ID:mqM9v91Y
道灌「この城どうかんならねえか?」
家康「家、やすいなら買おう」
と庶民には思われてた説

401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/10(土) 00:18:49.26 ID:6eJna+f9
>>400
        シャカ
      [二] シャカ
  ロ=== (´・ω・)
  (::) ( >on o θ
日[二二] と_){三}


        ス...
      [二]
  ロ=== (´・ω・)(
  (::) ( >oy>o )
日[二二] と_)_){三}

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 10:55:42.83 ID:BHAJeKED
世紀末荒野だった戦国の関東平野で
歌詠みまくって風流も競い合ってたってのがまた不思議

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 19:47:48.65 ID:J3N68zoo
北条家も風流なイメージ持ってる

道灌さんは以降和歌をガッツリ勉強して

2015年07月20日 13:25

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 21:09:32.42 ID:YllLvnMf
(前略)
上杉宣政が下総に出兵した時、山と海が接した場所を通る必要があったが
宣政は山上から弩を射かけられないだろうか、また満潮であったらどうしようと
大変不安がっていた。
その為夜半であったけれども太田持資は「では私が確認してきましょう」と
海の状態を確認しに行った。
そうして暫くして戻って来た彼は「今は干潮です。」と報告した。
何故それが分かったのかと宣政が問うと、持資は
「『遠くなり近くなる身の浜千鳥鳴く音に潮のみちひをぞしる』という歌が有るでしょう。
千鳥は潮が引くと広がった干潟に沿って移動して遠くに行く習性があり、その鳴き声は遠くに聞こえるようになります。それで今は干潮だと判断したのです。」
と答えた。

またある戦において退却中、夜間で視界が悪い中で利根川を渡る必要が生じた。
この時も持資は
「『そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたて』という歌が有るだろう、
その通り水音の騒がしい位置が浅瀬であるから、そういう場所を選んで渡れ。」
と部下達に指示し、無事利根川を渡り退却する事ができた。
(常山紀談)

前略部分は例の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ哀しき」の故事
道灌さんは以降和歌をガッツリ勉強して役立ててました、という後日談。
彼の主君が上杉「宣政」なのは原文ママ。





太田資長が松山城を築いた時の話

2015年06月23日 17:39

222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/23(火) 06:05:52.95 ID:B5AQbp3J
太田資長が松山城を築いた時の話、
資長「この城に何か欠点があって文句がつける者があれば、重賞を与えて感謝する!」
という一書を東門にかけた。

すると一人の旅人が城の周りに植えてある松を見て
旅人「松は終始風を含み、松籟といって颯々たる響きがあるから忍び込むには便利だ、
城の周りに松を植えるべきではない」と言って去って行った。

資長はこれを聞きとても驚きこの旅人の行方を追わせたがついに見つかることは無かった
世にその旅人は神人だと言い伝えられている。

「名将言行録」謎の旅人に新築の城の欠点を見抜かれる話




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 07:16:02.75 ID:9vUPh6Xn
呂不韋と呂氏春秋の話に似てるな
あっちは城じゃなくて百科事典だが

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 07:48:54.23 ID:5rId61GS
松の代わりに何を植えたのだろう
とすると松山じゃなくなるよな

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 08:46:58.98 ID:JgRv8cn3
城の周りなら松か竹を植えるのが多いんじゃない

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 08:54:02.01 ID:FRsbJcyr
城は敵が隠れないよう見晴らしを良くしないといけないから、みんな切っちゃったんじゃないかね?

そういえば今の城跡の多くは桜が植えられてるけど、桜の根が伸びて石垣を崩し
全国で結構な問題になっているらしい。

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 09:33:54.51 ID:lwcX4nWk
>>226
実用ではなくイメージでやるからそうなるw

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:35:25.41 ID:LkICDGu3
実用なら梅かな

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 11:06:33.67 ID:Ip0Rxk1t
桜と城は合うからなあ。

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 11:50:16.14 ID:eztrH43z
成富茂安がこのスレを発見しました

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 12:29:21.48 ID:MT8d1vxG
>>228
如水さんこんなとこで何してますのん

太田道灌と猿

2015年06月22日 18:10

215 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 15:31:04.52 ID:MTMHuJgH
先ほど悪い話スレに場違いな逸話を投稿してしまったのでお詫びに有名だけどまとめに無かった話を一つ

太田資長(道灌)が京に上がった時、将軍の義政が饗応するといった。
資長は、義政が一匹の猿を飼っていて、その猿は見知らぬ人と言うと、
必ず引っ掻いて傷をつけていると伝え聞いていたので、猿師に銭を与えその猿を借りた。

そして旅宿の庭にその猿をつなぎ出仕の装束で側を通るとその猿は飛びかかってくる
資長は思いっきり鞭でその猿を打ち伏せると猿は首を垂れて怖れ入ってしまった
資長は猿師に厚く感謝をして猿を返した。

そして饗応の日がきた、義政は例のごとく猿を通路につないでおき、資長の様子を見ようと待ち受けていたが、
その猿は資長を見るや否や地にひれ伏してしまった

資長は悠然と衣紋をひき繕い、素知らぬ態で通り過ぎたので、
義政は「尋常な人ではない」と言って大いに驚き入ったという事だ。

「名将言行録」の太田道灌が凶暴な猿を調教した良い(?)話、
政宗にも似たような逸話があったような気が、、、



217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:48:39.97 ID:XdcpUGeK
>>215
立花道雪にシバかれた大友宗麟の猿といい、
この時代の猿はよく殴られるなw

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:50:31.93 ID:IpAvlnDm
サルのペット化はステータスなのかそれとも何かの暗喩なのか

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 22:23:24.45 ID:bXJSOZYX
猿は魔除けで飼うとかじゃなかったっけ?

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 22:31:19.32 ID:+Le+v5ss
子孫繁栄みたいな意味もあったような気がする

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 22:53:39.45 ID:J0EE1+V0
馬の守り神としてよく厩で飼ってたから
江戸時代以前の武士には馴染み深いペットだったんだろう

ただこの理屈を

2014年12月11日 18:36

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/11(木) 02:13:40.44 ID:oE57dufK
(両上杉が関東諸)国をよく治めていたところに、大事を引き起こす事が一つ起こった。詳細は次のようである。
扇谷(=上杉定正)に中次彦四郎・曽我伝吉という二人の殿方がいた。この二人は仲が良く、互いに相談し、分別もあるので、良く奉公し扇谷殿の心をとらえていた。
後に扇谷へ諫言できるほどまでになったが、彼等は家運を傾ける類の諫臣であった。
二人が言うことは続けて上手くいくので、定正は二人に官位を与え中次主馬助・曽我右衛門佐とし、すっかり扇谷殿は曽我・中次の言いなりとなってしまった。
ある時、二人は談合して、それぞれの所領を沢山取ろうと思い、扇谷殿へ

「財政の収入がなく、物事が不便であるのに、家老衆が江戸・河越の国中に徘徊して遊んでおります。
将来は彼らの子供が扇谷家の子孫に敵対し、ご子孫は今の公方のようになってしまうだろう。
そして家老衆は今の両上杉殿のようになることは少しも違わないだろう。ご分別を。」

と申し上げると、扇谷殿は武州江戸の太田道灌を召し寄せて殺しなさった。
これを聞いて残る上田・見田・荻谷を始めとした道灌の一族、城主共は言うに及ばず、少しでも所領をもつものは、おおかた身構えて、それぞれの屋敷に引き籠もった。
その年のうちに、この事で山内殿と扇谷殿の間に所領争いが起こり、羽入の峰・岩戸の峰・ふく田の郷・奈良梨などと申すところで大きな合戦あった。
味方も敵も見分けがつかず、日頃心懸けをしていない奉公人共は働く術を知らず、行ったり来たりとうろつき回る。
小旗を捨て、或いは槍を切り折り杖として逃げる者は後ろを見ず、
主を捨てて、自分の在所へ逃げてしまうものが扇谷にも、山内にも一合戦に二人三人と出る。
勿論関東・奥州北国にも、たびたび手柄を立てる大剛の者があまたいたが。家運が傾いた徴候だろうか、若武者にも負けてしまう。
しかも十人の中に八人九人は心懸けの無い弱者共に掻き回されて、長年合戦に慣れている者も、自分の身を守るだけで何の手柄にも立てられない。
これらは味方の中の裏切りによるものである。この時節に伊豆の早雲が出てきて、小田原を乗っ取ったのである。明応四年乙卯のことであったと聞いている。
前代のことである。しかも他国の事、人からの雑談によるものを書き記したので、相違なことは多いのは確かだろうが、ただこの理屈を勝頼公の代の参考にしてほしい。
(甲陽軍鑑)




太田三楽斎、今や首を掻かれようとしたが

2013年09月21日 19:52

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 05:45:08.99 ID:pBifOIl7
永禄7年(1564)第二次国府台合戦でのこと

太田資正入道三楽斎も、北条氏康の軍勢と戦い奮戦し、二ヶ所の手傷を被りながらも踏みとどまり、
北条方で勇士として有名な清水太郎左衛門の嫡子である又太郎と組み合い、競り合っている内に、
父に劣らぬ大力の又太郎に組み伏せられた。

手負いの身でもありついに力尽き、今や首を掻かれようとしたが、ふと、又太郎の力が緩んだ時、
三楽斎は目を見開き声を荒らげた

「何をうろたえる!我が首には喉輪が嵌っている、早く外してこの首を掻け!」

これに又太郎は、立派な態度だと感心し、気を取り直して言われたとおりに喉の金輪を外している所に、
三楽斎の近習である舎人孫四郎、野本与次郎たちが駆けつけ、又四郎を引き倒し、三楽斎に、逆にその首を取らせると、
そのまま逃げ去った。
(関八州古戦録)




353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:03:18.05 ID:y4mF5ILd
負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:22:23.25 ID:0jYeIXiy
>>353
天庵「ですよねー、何回かチャレンジしたら野戦で勝てると俺は信じてる!」

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:49:33.47 ID:YwAXm8oJ
>>352
なんともコメントに困る逸話だなw
三楽斎はこれ分かってて言ったのだろうか?

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:24:55.57 ID:d3MufPM6
>>352
殺してから首を取り外すわけじゃないんだな

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:29:50.68 ID:udAXqqDk
太田「……計算通り!!」
近習「(´-`)…………」

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:38:54.22 ID:cuNV9HT7
大声の叱咤で立派な態度と思わせつつ仲間を呼ぶ、という高等テク

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 15:56:23.25 ID:ChSpHib2
要約すると
三楽斎「タスケテー」  って事だよねw

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 17:59:19.14 ID:URCEdLHY
2コンのマイクに向かって言ったんですね

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 18:03:18.24 ID:0jYeIXiy
それはフェニックス天庵きてまうで

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 19:47:18.19 ID:mmlohXqo
なんというか、源平合戦のノリだな
そのまま逃げ去った の部分が妙に気になるが

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 23:51:29.45 ID:wElm0qam
>>352
喉輪を外せとアドバイスされ、ちんたら外してるうちに逆に討ち取られるという
どちらかというと、又四郎があほぅな気がする

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 00:19:09.54 ID:veH309aX
親父に倣って首をねじ切ればよかったのに