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ひとりには 塵をもをかじ ひとりをば

2019年08月31日 16:44

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/31(土) 11:08:13.82 ID:rF2nTSPU
太田道灌は文武の将であった。彼には最愛の美童が二人あり、その寵愛に甲乙をつけなかったが、
ある日、両童側に有る時、風が吹いて落ち葉が一人の美童の袖に止まった。道灌は扇でこれを
払ったが、もう一人の美童はこれに、いささか寵を妬む色があった。
これを見て道灌は一首を詠じた

 ひとりには 塵をもをかじ ひとりをば あらき風にもあてじとぞ思ふ

このように詠じたという。おもしろき歌ゆえここに書き留める。

(耳嚢)



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露すぼこくて折られないもさ

2019年08月11日 19:18

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/11(日) 05:37:12.29 ID:1/QIaclw
太田持資(道灌)が上京した時に、彼が歌道を好むということで、公卿たちがこれを求めると
「関東の田舎に住んでおりますから、堂上の人々にお目にかけるべき歌など有ろうはずもありません。
これは田舎にて詠んだ歌です。」と奉り

『武蔵野の 折べい草は多けれど 露すぼこくて折られないもさ』
(「折べい」は「折るべき」の、「露すぼくて」は「露に滑って」の、「もさ」は「ものさ」の、それぞれ関東訛り)

こう詠んだところ、人々声高く大笑いした。この時持資は「もう一首、このように詠みました。」と
再び奉った

『露おかぬ かたも有けり夕立の 空よりひろきむさしのゝ原』

これに一同深く感心したという。

(耳嚢)




139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/11(日) 11:43:52.93 ID:JHp/WRi1
>>138
やはり頭いいんだな
最初に受けを狙い、その後で切り返し
暗殺なんて事にならなかったら

今ここに二つの不思議が有る

2019年02月23日 17:25

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 12:52:27.36 ID:e/hNmUGt
小田原の役の時、太田三楽斎(資正)は豊臣方として小田原の攻口にあったが、北条方の松田尾張守(憲秀)の
陣を見て、「彼に異心あり」と言った。実はこの時、松田はすでに秀吉に欺かれて内通していたのだが、
三楽斎はこの事を知らないはずであったのに、これを指摘したのだ。

この言葉を聞いた秀吉は怪しみ、「何を見てそのように言うのか」と尋ねた所、三楽斎は

「松田の勇謀は人の恐れる所です。所が今、軍備を正さず、諸卒を戒めず、役所を巡りません。
彼はもとより臆するような人物ではない。であれば、これは心をこちらに通じているが故なのでしょう。」

この答えに秀吉は感嘆し、源君(徳川家康)に対してこれを語って
「今ここに二つの不思議が有る。それが解るだろうか。」

「一つは三楽の事でしょう。もう一つは解りません。」

秀吉は言った
「私は匹夫より起こり天下の主となった。一方で三楽にはあれほどの知がありながら、一国すら持ち得て
いない。これが二つ目の不思議でなくてなんだというのだ。」

(武将感状記)



691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 17:20:42.46 ID:HuShFIb5
>>688
反北条を貫いたからだろうな、あとは本貫地に拘ったから

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 10:39:08.62 ID:Y+43REht
太田資正は上杉謙信が関東勢を従えて小田原城を包囲したときも
白倉丹波という武将の離反を見抜いて事前に防いだらしい

それでは、試しに受けて見給え!

2019年01月04日 19:54

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 01:31:25.48 ID:YYkFjjjl
天文23年(1554)の春、今川義元の三河出陣に際して織田信長は北条と通じ、氏康は駿河へ軍勢を
差し向けなさった。対して義元は甲斐を頼み、武田晴信も駿河に軍勢を出して、両軍は苅屋川で戦った。

武田旧臣の原虎胤は近年故あって北条家に来たり、剛強名誉の働きを致してこの度の戦いでは先手の斥候
となり、紺糸の鎧に半月の指物を差して、冑の真向に“原美濃守平虎胤”と書いている立物をして猪首で
身に着け、鹿毛の馬に黒鞍を置いて打ち乗り、小幡に言葉を掛けて小山田の備へと乗り掛けた。

小山田弥三郎の備の内から「関東浪人、近藤右馬丞!」と名乗って馳せ掛かる者がいた。原はキッと見て
「優れた気立てであることよ!」と太刀を抜き持ち、峰打ちで近藤の冑の錣の端や首の骨を続けて3打4
打すれば、近藤は馬からドッと落ちた。

そこへ後から続く小田原勢が下り重なって首を取らんとする。これに原が「その者は私が甲斐で目を掛け
た者で候! 許してくだされ!」と申したので、引き取ったのであった。

太田源六(康資)は知られた大力の剛の者で、大荒目の鎧に三枚冑の緒を締めて、樫の木の棒を抱え込ん
で白鴇毛の馬に乗って駆け巡った。「おい美濃守殿! これを見給え!」と申すと源六は、武田勢の先駆
けの武者7,8騎を馬の上から打ち落とし薙ぎ倒し、猛威をあらわした故、甲斐勢は辟易して引き退いた。

源六は乗っている馬に矢を射立てられて徒立ちとなり、原と連れ立って静々と引き返した。

永禄7年(1564)正月7日、国府台で北条と里見の軍勢が戦った。太田源六は遠山丹波守(綱景)を
始めとして進む兵6騎を馬上から切って落とした。

北条方の相州無双の大力で、志水右馬丞という剛強の兵は、柘の棒に筋金を入れて打ち振り、太田源六と
寄せ合わせてしばし戦うと見えたが、源六は持っている太刀を鍔本から打ち落とされて、貝を吹いて逃げ
ていったのであるが、余りに無念に思い、常に秘蔵して持っていた長さ8尺周囲7寸の鉄の棒引っ提げて
「志水を打ち落とす!」と、乗り廻し乗り廻し探すも、志水と遭遇しなかった。

源六は「この上は!」と当たるを幸いに向かう敵の冑の鉢や甲の胴中、馬人ともに尻居になるほど打ち据
え、横手に払い薙ぎ倒して打ち据えれば手負い死人はますます重なった。太田下野守は源六の舅であるが
小田原勢の先手にあって、源六の有様を見て馬を駆け寄せると、

「源六よ、余りにも正なく謀反したものだ! 咎を悔いて降参し給え! 某が命に替えても取り成すべし!
今日の働きは厳めしく見える。しかしながら、人こそ打ち給うとしても、馬には咎もないのに無用の罪を
作り給うものだ!」

これを聞いて源六は高らかに打ち笑い、「殊勝にも宣うものですな! 今は仰せに任せて人だけを打ちま
しょう。それでは、試しに受けて見給え!」と鉄棒を取り伸ばし、下野守を丁と打った。

下野守も「心得た!」と太刀で打ち背けようとしたが、大力で打たれてどうして耐えられようか、冑は砕
けながら首は胴に没入し、前方の深田へ転び落ちて死んでしまった。

戦いが散じて源六は宿所に帰り、妻の女房に向かって申したことには「和主の下野守殿は某に諫めの言葉
を掛けられたので、鉄棒で冑の鉢を打ち参らせたのだが、今頃は痛んでおられよう」と語った。

このため女房は大いに驚き「なんですって! 父を打ち殺しなさったのですか! 情けのないことじゃ!」
と下人を遣わして探したところ、下野守は深田に倒れて頭は冑とともに打ち砕け、首は胴の中に没入して
いるのを、泥にまみれながらも葬礼して仏事を営んで女房は髪を剃り、尼になって菩提を深く弔った。

この女房の建立した寺という武蔵江戸神田の浄心寺に尼の木像が今も存在している。

――『鎌倉九代記』

先に投稿した逸話と微妙に内容が違うので

関連
なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!


なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!

2018年12月15日 19:39

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 01:11:20.41 ID:wQqzwCcr
武蔵江戸の住人に太田源六資高(康資。父子の混同)という者がいた。大力武勇の誉れは関東8ヶ国に並ぶ者
なし。およそ30人でも動かし難き大石を、軽く持ってしまうほどの剛の者である。その弟に源三郎と源四郎
という者がいて、共に大力の兵どもであった。

ある時に3人が集まって言うには、「そもそも兵は剛強だけでは末代までの高名にはなり難し。それは何故か
といえば、今武蔵の中に我ら兄弟の上を越える力量の者はおるまい。如何なる鬼神であるとも3人で従えよう
として従わせられないということがあろうはずもない。

しかしながら(北条家からの)賞翫にも預からず、未だ一城の主にもなっていない。先祖の道灌(太田道灌)
は無力でも武功を顕し、末代までも名を揚げたものだ。我らは武勇を励んで氏綱父子二代に型の如く奉公した。
とりわけ過ぎ去りし大永3年(1523)、江戸城へ氏綱を引き入れて管領(上杉朝興)を追い落としたが、
城には遠山を置かれて、万事が我らの心に叶わない。

いざ同苗の美濃守入道三楽斎と相談し、安房の里見義弘と引き合わせ江戸城を攻め落とし、長く豊島郡を知行
して、言うまでもなく道灌の跡を継いで江戸城を取るべきと思うが、どうだ」

これに2人の弟どもは「もっともしかるべし!」と勇む。それから「これほどの大事を無造作には言うまい」
と、かの源六郎の菩提寺である法音寺という法華寺の番神堂に集まり、神水を飲んで、「この事を思い定めた
ならば二度と変じてはならない」と謹んで申し、その後に太田三楽の方へこの旨を言い遣わした。三楽は大い
に喜んで安房へ使者を立てて里見義弘を招けば、義弘は安房一国の勢と上総の軍兵を催し、下総国の国府台に
出張した。

そのようなところに法音寺の住持の僧は、かの太田兄弟の密談を聞き、日頃の誼を忘れて小田原へ注進して、
自身の檀那兄弟が謀反との旨を告げたのである。これによって遠山丹波守(綱景)に太田誅伐の討手を賜り、
すでにこれが押し寄せたので、太田兄弟は案に相違して夜に紛れて岩槻へと落ちて行った。これによって氏康
父子は日を置かずに打ち立ち、国府台へ発向された。

(中略。第二次国府台の戦い開戦)

ここに今回敵となった太田源六・同源三郎・同源四郎・黒川権右衛門・長南七郎などといった大力の若者ども
は一面に打って掛かった。志水太郎左衛門という大力無双の聞こえありし者は源六と渡り合ったが、志水の樫
の棒で源六は太刀を打ち折られ、力無く逃げたのである。源六はあまりに無念だったので「また太刀で打てば
折れるかもしれない」と、常に秘蔵していた長さ8尺の鉄の棒を取り寄せて軽々と引っ下げ、「なんとしても
志水めを打ち落とす!」と打ち振り打ち振り馳せ巡ったが、ついに見付からなかった。

源六はいよいよ腹を立てて、冑の鉢や胴中を構わず当たるを幸いに打って廻ると、多くの人馬が打ち殺された。
太田下野守という人は小田原勢の先手であったが、源六の有様を見て、「これは我が婿の源六なり!」と思い、
乗り寄せてくると源六に声を掛けて、

「おい源六、無益な謀反を致したものだな! 私は味方であるから、なんとしても先非を悔いて降参せよ!
命だけは助けよう! それにしても今日の振舞いは厳めしいものよ。しかしながら馬は何の咎によって打た
れたというのだ。人こそ打つだろうが、多くの馬を打ち倒すことは罪作りであろうぞ。どうなんだ源六!」

これを聞いた源六は「殊勝なことを宣うものですな。それならば人だけを打ちましょう。受けてみなされ!」
(いしくも宣ふものかな、人計り打つべし、受けて見給へ)と言うや否や、舅の下野守を開き打ちに丁と打つ。
下野守も太刀で打ち返さんとするが、大力で打たれてはどうして耐えられよう、前方の深田へ打ち落とされて
見るにしのびない有様であった。

(中略)

国府台の戦いが散じて後、太田源六は宿所に帰って妻女に向かって「私主の父の下野殿はこの度、戦場で某に
向かって言葉を掛けられたので、棒で頭を打ったのだ。必ずや痛んでおられよう」(某に向て言葉を掛け給ひ
し程に、棒にて頭を打ちぬ、定めて痛み給ふらん)と語った。

女房は大いに驚いて「なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか! 探し参らせよ!」と下人
どもを遣わすと、案の定下野守は深田の泥にまみれ、頭を打ち砕かれていたのを探し出した。女房は下野守の
葬礼を懇ろに営み、髪を剃り落として父の後世菩提を祈ったことは哀れである。武蔵神田の浄心寺はこの尼の
建立であるという。

――『小田原北条記』

関連
それでは、試しに受けて見給え!



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 17:01:55.03 ID:6Uin1sXO
>>526
リアル戦国無双でワロタw

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 19:13:40.40 ID:S5q0Xu8o
>志水太郎左衛門
清水だよね
足の力で馬を絞め殺せる人

こうしてこの者どもの手並みは知れた

2018年12月14日 17:41

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/13(木) 19:20:15.18 ID:4rbL4FzT
天文23年(1554)2月中旬、北条氏康は小田原より駿河へ馬を出された。先陣は松田尾張守(憲秀)・
北条常陸介(綱高)・笠原能登守・志水・大道寺を始めとして下方庄へ打ち入り、吉原・蒲原に陣を取った。

駿河の今川義元はその頃、尾張の敵が蜂起して三河まで発向しており、その敵と対陣しているため小田原勢に
向かい難かった。甲斐の武田晴信は義元の小舅なので、義元から頼まれて軍勢を引率し、富士川の端、加島の
柳島に陣を取った。小山田弥三郎・馬場民部(信房)を先陣として、大宮厚原辺りへ足軽が出合い、日々矢戦
に及んだ。同3月3日、氏康父子の出陣あって、浮島ヶ原に旗を立て給う。

(中略)

越智弾正が物見に出ると、甲斐勢より小田兵衛尉が弾正を目掛けて乗り寄せて、互いに名乗って槍を合わせて、
ついに小田を討った。すると敵の大勢が取り巻いてすでに弾正が危うく見えたところに、原美濃守(虎胤)が
これを見て敵の中に割って入り、馬上の敵2騎を討って落とした。美濃守のその日の装束は、紺糸の鎧に半月
の2間ほど両方へ出ている指物で、冑の真甲に“原美濃守平虎胤”と書き、太く逞しい駁の馬に乗り敵を追い
散らし、弾正を連れて味方の陣へ引き退いた。

武蔵国の住人・太田源六(康資)は筋金を入れている例の樫の棒で、甲斐勢の先駆けの武者を馬上から7,8
騎打ち落とした。その他馬の平首や太腹など、人馬を選ばず当たるを幸いに薙ぎ払った。敵は冑の真甲や脇骨
を微塵に打ち砕かれ、この勢いに恐れてあえて近付く者はいなかった。源六自身も馬を射られ歩行立ちとなり、
美濃守と一緒に引き退いた。

さてさて、この美濃守は下総国千葉の侍である。父・原能登守友胤は小弓御所の合戦の頃に下総より浪人し、
甲斐へ行って武田信虎に仕えて、数度高名を顕してついに討死した。その子・美濃守は父に劣らぬ大剛の者で
あったので、信虎は憐愍を加えて烏帽子子にして、虎胤と名付けられて数度の高名類無し。その虎胤は近年に
小田原に来たり、氏康に仕えて忠戦を励ました。

甲斐の軍兵は敵ながらも昔の朋輩なので、美濃守を見知って「我が討ち取らん!」と進んだ。中でも小山田勢
から武者5騎が虎胤を目掛け、「近藤右馬丞!」と名乗って近々と追っ掛けて来た武者がいた。虎胤はキッと
これを見て「優れた心ばえだな!」と近藤の冑の錣の端を峰打ちして首の骨を2打3打すると、近藤は馬から
ドッと落ちてしまった。

かの近藤が立ち上がらんとするところを、太田源六が取って返して「どれ目に物見せよう!」と棒を振り上げ
打たんとし、虎胤は立ち返って、「この者は私めが甲斐にいた時に目を掛けた者に候ぞや! 命を助け給え!」
と制止し、源六は同心して静かに味方へ引き入った。

こうしてこの者どもの(原・太田の?)手並みは知れた。寄せ合わせようともせず日は既に暮れて、甲斐勢も
流石に叶わないと思ったのか、合戦は明後日有無の勝負と極め、その日は互いに相引きに引き退いたのである。
この日の合戦で小田原勢2百3十余人が討たれ、甲斐勢も2百余騎が討ち取られた。

――『小田原北条記』



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/13(木) 20:19:38.02 ID:/uZzskCv
>>558
>源六は同心して静かに味方へ引き入った
かっこいい…。

末の松山波もこさなん

2017年12月24日 18:14

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 17:33:05.05 ID:c//5mowE
扇谷上杉氏の家臣である難波田弾正(憲重)は、武州松山に居城していたが、天文6年7月、
扇谷上杉朝定が北条氏綱によって川越城を攻め落とされると、この松山城に入った。
難波田は熱心にこれを補佐した。

7月20日、北条氏綱は松山に押し寄せ強力にこれを攻めたが、難波田は固く守り落城を防いだため、
氏綱は近隣を放火して兵を小田原へ入れた。
この戦いの時、北条家の家臣、山中主膳という者、難波田と戦ったが、難波田は軽くあしらうと
早々に引いた。山中はこれを追いかけつつ歌を叫んだ

「あしからじ よかれとてこそ戦わめ など難波田のくずれ行くらん」

難波田はこれを聞くと、古歌を以って返した

「君を置て あだし心を我もたば 末の松山波もこさなん」
(古今集。百人一首「契りきなかたみに袖をしぼりつゝ末の松山浪こさじとは」の元歌とされる)

(士談)



535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 07:42:06.28 ID:Tmn6MQLZ
松山城歌合戦については、難波田城資料館が以下のように紹介している
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/TV-TOKYO20111231.html
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/files/nanbatajo-dayori49.pdf の3ページ目
末の松山

あまりに五郎はたしなまず

2017年11月11日 11:40

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/11(土) 09:38:31.22 ID:n5TRw1sH
扇谷上杉定正は、養子で後継者とした朝良が食分を忘れて武士の業を勤めぬことに、曽我豊後守の許へ
戒めの書を記し送った。その内容に曰く、

『年来これについて言っては来たが、あまりに五郎(朝良)はたしなまず、一つのことすら、
この定正が納得するものは無かった。

去年の正月以来、朝良の随従の者たちに申し付け、彼の朝夕の雑談の内容を知らせるよう命じた所、
4,5人が密かに注進してきたが、何れも同じ内容であった。

朝良の所へ山口、小宮、仙波、古尾谷といった面々が参った時、朝良が彼らに尋ねるのは
ウグイスの事、武蔵野にての鳥追、狩りの雑談、武州六社(武蔵国一宮から六宮までの六社の神社)の
物語、深谷の馬場の早馬の事、酒宴数盃の物語であり、また或いは、京の方からきた牢人の面々が
出頭した時、彼らに尋ねるのは招月の歌、手跡の物語、心敬・宗祇の連歌、洛中貴賎、清水男山の眺望、
諸五山の様子、観世今春の能仕舞の雑談、といった内容だったそうだ。

これを知って私が悲しみのあまり涙を流したのは言うまでもない。この愚老が明日にも討ち死にすれば、
当方屋形の者共は皆、命を失うか生き残っても乞食に身を落とすであろう。』

そのように書いたのだという。

(士談)



熱川温泉は猿が温泉に入っているのを

2017年02月27日 18:28

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 23:35:57.60 ID:lnr7vVWg
道灌公と猿
http://i.imgur.com/h8LjG3u.jpg
h8LjG3u.jpg

折檻された例のイタズラ猿かと思ったら、
熱川温泉は猿が温泉に入っているのを道灌公が見つけて開湯されたとの事。



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 09:57:29.60 ID:3PJYeBvg
信長と若き日のラスボスでも通用しそうだな


.....なわけない

江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事

2016年12月09日 09:19

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 22:25:27.26 ID:J91C5wri
江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事

 ある人が語るには、
江戸の御城は、初めは太田道灌が興したというので今は何事も道灌に帰しているようだが、
道灌が築いたのは今の西の丸で、御本丸は藤堂高虎と諮られて御新築されたという。
よって『駿府政事録』には、"新城"とあるのだそうだ。

 また道灌も流石は風流人であって、
今の桜田という辺りには多く桜を、今の紅葉山という地には楓樹を植えて、
春秋の詠を専らとしていたという。
今増上寺の門前に流れている小川を桜川と呼ぶのも、その源泉は桜田から出ているので、
その年からこう言っているのだという。

 この事を林老(述斎)が聞くと
「桜楓のことは同意しない。桜田はもとから村の名で桜を植えたからではない。
御城外の桜田から今の桜田町まで行程はかなりある。
その年にどうして一年間で花木を植えることができようか。
また紅葉山は駿府に有った名を移されたものである。」
と話された。

(甲子夜話続編)

松浦静山の頃には、かなりの誤伝が広まっているのだと思われます



398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/09(金) 22:52:45.81 ID:8ZfVzv1H
>>392
昔から道灌すげーと思われていたんだな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 00:02:16.10 ID:mqM9v91Y
道灌「この城どうかんならねえか?」
家康「家、やすいなら買おう」
と庶民には思われてた説

401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/10(土) 00:18:49.26 ID:6eJna+f9
>>400
        シャカ
      [二] シャカ
  ロ=== (´・ω・)
  (::) ( >on o θ
日[二二] と_){三}


        ス...
      [二]
  ロ=== (´・ω・)(
  (::) ( >oy>o )
日[二二] と_)_){三}

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 10:55:42.83 ID:BHAJeKED
世紀末荒野だった戦国の関東平野で
歌詠みまくって風流も競い合ってたってのがまた不思議

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 19:47:48.65 ID:J3N68zoo
北条家も風流なイメージ持ってる

道灌さんは以降和歌をガッツリ勉強して

2015年07月20日 13:25

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 21:09:32.42 ID:YllLvnMf
(前略)
上杉宣政が下総に出兵した時、山と海が接した場所を通る必要があったが
宣政は山上から弩を射かけられないだろうか、また満潮であったらどうしようと
大変不安がっていた。
その為夜半であったけれども太田持資は「では私が確認してきましょう」と
海の状態を確認しに行った。
そうして暫くして戻って来た彼は「今は干潮です。」と報告した。
何故それが分かったのかと宣政が問うと、持資は
「『遠くなり近くなる身の浜千鳥鳴く音に潮のみちひをぞしる』という歌が有るでしょう。
千鳥は潮が引くと広がった干潟に沿って移動して遠くに行く習性があり、その鳴き声は遠くに聞こえるようになります。それで今は干潮だと判断したのです。」
と答えた。

またある戦において退却中、夜間で視界が悪い中で利根川を渡る必要が生じた。
この時も持資は
「『そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたて』という歌が有るだろう、
その通り水音の騒がしい位置が浅瀬であるから、そういう場所を選んで渡れ。」
と部下達に指示し、無事利根川を渡り退却する事ができた。
(常山紀談)

前略部分は例の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ哀しき」の故事
道灌さんは以降和歌をガッツリ勉強して役立ててました、という後日談。
彼の主君が上杉「宣政」なのは原文ママ。





太田資長が松山城を築いた時の話

2015年06月23日 17:39

222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/23(火) 06:05:52.95 ID:B5AQbp3J
太田資長が松山城を築いた時の話、
資長「この城に何か欠点があって文句がつける者があれば、重賞を与えて感謝する!」
という一書を東門にかけた。

すると一人の旅人が城の周りに植えてある松を見て
旅人「松は終始風を含み、松籟といって颯々たる響きがあるから忍び込むには便利だ、
城の周りに松を植えるべきではない」と言って去って行った。

資長はこれを聞きとても驚きこの旅人の行方を追わせたがついに見つかることは無かった
世にその旅人は神人だと言い伝えられている。

「名将言行録」謎の旅人に新築の城の欠点を見抜かれる話




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 07:16:02.75 ID:9vUPh6Xn
呂不韋と呂氏春秋の話に似てるな
あっちは城じゃなくて百科事典だが

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 07:48:54.23 ID:5rId61GS
松の代わりに何を植えたのだろう
とすると松山じゃなくなるよな

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 08:46:58.98 ID:JgRv8cn3
城の周りなら松か竹を植えるのが多いんじゃない

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 08:54:02.01 ID:FRsbJcyr
城は敵が隠れないよう見晴らしを良くしないといけないから、みんな切っちゃったんじゃないかね?

そういえば今の城跡の多くは桜が植えられてるけど、桜の根が伸びて石垣を崩し
全国で結構な問題になっているらしい。

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 09:33:54.51 ID:lwcX4nWk
>>226
実用ではなくイメージでやるからそうなるw

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:35:25.41 ID:LkICDGu3
実用なら梅かな

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 11:06:33.67 ID:Ip0Rxk1t
桜と城は合うからなあ。

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 11:50:16.14 ID:eztrH43z
成富茂安がこのスレを発見しました

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 12:29:21.48 ID:MT8d1vxG
>>228
如水さんこんなとこで何してますのん

太田道灌と猿

2015年06月22日 18:10

215 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 15:31:04.52 ID:MTMHuJgH
先ほど悪い話スレに場違いな逸話を投稿してしまったのでお詫びに有名だけどまとめに無かった話を一つ

太田資長(道灌)が京に上がった時、将軍の義政が饗応するといった。
資長は、義政が一匹の猿を飼っていて、その猿は見知らぬ人と言うと、
必ず引っ掻いて傷をつけていると伝え聞いていたので、猿師に銭を与えその猿を借りた。

そして旅宿の庭にその猿をつなぎ出仕の装束で側を通るとその猿は飛びかかってくる
資長は思いっきり鞭でその猿を打ち伏せると猿は首を垂れて怖れ入ってしまった
資長は猿師に厚く感謝をして猿を返した。

そして饗応の日がきた、義政は例のごとく猿を通路につないでおき、資長の様子を見ようと待ち受けていたが、
その猿は資長を見るや否や地にひれ伏してしまった

資長は悠然と衣紋をひき繕い、素知らぬ態で通り過ぎたので、
義政は「尋常な人ではない」と言って大いに驚き入ったという事だ。

「名将言行録」の太田道灌が凶暴な猿を調教した良い(?)話、
政宗にも似たような逸話があったような気が、、、



217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:48:39.97 ID:XdcpUGeK
>>215
立花道雪にシバかれた大友宗麟の猿といい、
この時代の猿はよく殴られるなw

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:50:31.93 ID:IpAvlnDm
サルのペット化はステータスなのかそれとも何かの暗喩なのか

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 22:23:24.45 ID:bXJSOZYX
猿は魔除けで飼うとかじゃなかったっけ?

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 22:31:19.32 ID:+Le+v5ss
子孫繁栄みたいな意味もあったような気がする

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 22:53:39.45 ID:J0EE1+V0
馬の守り神としてよく厩で飼ってたから
江戸時代以前の武士には馴染み深いペットだったんだろう

ただこの理屈を

2014年12月11日 18:36

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/11(木) 02:13:40.44 ID:oE57dufK
(両上杉が関東諸)国をよく治めていたところに、大事を引き起こす事が一つ起こった。詳細は次のようである。
扇谷(=上杉定正)に中次彦四郎・曽我伝吉という二人の殿方がいた。この二人は仲が良く、互いに相談し、分別もあるので、良く奉公し扇谷殿の心をとらえていた。
後に扇谷へ諫言できるほどまでになったが、彼等は家運を傾ける類の諫臣であった。
二人が言うことは続けて上手くいくので、定正は二人に官位を与え中次主馬助・曽我右衛門佐とし、すっかり扇谷殿は曽我・中次の言いなりとなってしまった。
ある時、二人は談合して、それぞれの所領を沢山取ろうと思い、扇谷殿へ

「財政の収入がなく、物事が不便であるのに、家老衆が江戸・河越の国中に徘徊して遊んでおります。
将来は彼らの子供が扇谷家の子孫に敵対し、ご子孫は今の公方のようになってしまうだろう。
そして家老衆は今の両上杉殿のようになることは少しも違わないだろう。ご分別を。」

と申し上げると、扇谷殿は武州江戸の太田道灌を召し寄せて殺しなさった。
これを聞いて残る上田・見田・荻谷を始めとした道灌の一族、城主共は言うに及ばず、少しでも所領をもつものは、おおかた身構えて、それぞれの屋敷に引き籠もった。
その年のうちに、この事で山内殿と扇谷殿の間に所領争いが起こり、羽入の峰・岩戸の峰・ふく田の郷・奈良梨などと申すところで大きな合戦あった。
味方も敵も見分けがつかず、日頃心懸けをしていない奉公人共は働く術を知らず、行ったり来たりとうろつき回る。
小旗を捨て、或いは槍を切り折り杖として逃げる者は後ろを見ず、
主を捨てて、自分の在所へ逃げてしまうものが扇谷にも、山内にも一合戦に二人三人と出る。
勿論関東・奥州北国にも、たびたび手柄を立てる大剛の者があまたいたが。家運が傾いた徴候だろうか、若武者にも負けてしまう。
しかも十人の中に八人九人は心懸けの無い弱者共に掻き回されて、長年合戦に慣れている者も、自分の身を守るだけで何の手柄にも立てられない。
これらは味方の中の裏切りによるものである。この時節に伊豆の早雲が出てきて、小田原を乗っ取ったのである。明応四年乙卯のことであったと聞いている。
前代のことである。しかも他国の事、人からの雑談によるものを書き記したので、相違なことは多いのは確かだろうが、ただこの理屈を勝頼公の代の参考にしてほしい。
(甲陽軍鑑)




太田三楽斎、今や首を掻かれようとしたが

2013年09月21日 19:52

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 05:45:08.99 ID:pBifOIl7
永禄7年(1564)第二次国府台合戦でのこと

太田資正入道三楽斎も、北条氏康の軍勢と戦い奮戦し、二ヶ所の手傷を被りながらも踏みとどまり、
北条方で勇士として有名な清水太郎左衛門の嫡子である又太郎と組み合い、競り合っている内に、
父に劣らぬ大力の又太郎に組み伏せられた。

手負いの身でもありついに力尽き、今や首を掻かれようとしたが、ふと、又太郎の力が緩んだ時、
三楽斎は目を見開き声を荒らげた

「何をうろたえる!我が首には喉輪が嵌っている、早く外してこの首を掻け!」

これに又太郎は、立派な態度だと感心し、気を取り直して言われたとおりに喉の金輪を外している所に、
三楽斎の近習である舎人孫四郎、野本与次郎たちが駆けつけ、又四郎を引き倒し、三楽斎に、逆にその首を取らせると、
そのまま逃げ去った。
(関八州古戦録)




353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:03:18.05 ID:y4mF5ILd
負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:22:23.25 ID:0jYeIXiy
>>353
天庵「ですよねー、何回かチャレンジしたら野戦で勝てると俺は信じてる!」

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:49:33.47 ID:YwAXm8oJ
>>352
なんともコメントに困る逸話だなw
三楽斎はこれ分かってて言ったのだろうか?

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:24:55.57 ID:d3MufPM6
>>352
殺してから首を取り外すわけじゃないんだな

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:29:50.68 ID:udAXqqDk
太田「……計算通り!!」
近習「(´-`)…………」

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:38:54.22 ID:cuNV9HT7
大声の叱咤で立派な態度と思わせつつ仲間を呼ぶ、という高等テク

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 15:56:23.25 ID:ChSpHib2
要約すると
三楽斎「タスケテー」  って事だよねw

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 17:59:19.14 ID:URCEdLHY
2コンのマイクに向かって言ったんですね

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 18:03:18.24 ID:0jYeIXiy
それはフェニックス天庵きてまうで

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 19:47:18.19 ID:mmlohXqo
なんというか、源平合戦のノリだな
そのまま逃げ去った の部分が妙に気になるが

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 23:51:29.45 ID:wElm0qam
>>352
喉輪を外せとアドバイスされ、ちんたら外してるうちに逆に討ち取られるという
どちらかというと、又四郎があほぅな気がする

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 00:19:09.54 ID:veH309aX
親父に倣って首をねじ切ればよかったのに

上杉朝興の遺言

2013年01月18日 20:04

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 18:09:52.04 ID:yadoiax/
武州の国司、扇谷家の上杉朝興は度々の合戦には負け、江戸城も落とされて
おもしろくなかったが力は及ばず、何とかして北条氏綱を亡ぼしたいものだと、
骨髄に徹して思い暮らしていた。

しかし、重病に侵された朝興は瀕死の状態になってしまう。
朝興は子息朝定、三田・萩谷以下の老臣を呼び出して遺言を残した。

「わしの命は尽きようとしている。汝等はしかと遺言を聞いて背いてはならない。
わしは氏綱と合戦すること十四度に及ぶが、一度も勝つことはできなかった。

この事が未来永劫の恥辱に思うのだ。この恥辱は妄執ともなるであろう。
よいか、わしが死んだら仏事作善よりもまずは氏綱を退治して国家を平定せよ!」

天文六年四月下旬、朝興は朝の露と消えた。上杉朝定は十三歳で家督を継ぎ、
父の遺言に従って仏事作善をかえりみずに、まず武州深大寺の古要害を取り立てて
城とし、氏綱を退治せんと支度を始めた。

しかし、この動きを知った氏綱が出兵したために河越城の戦いが勃発し、
朝定は敗北して松山城へ走った。

――『異本小田原記』




三楽は智がありながら

2012年09月08日 20:32

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 19:41:05.39 ID:jBL3aG4B

小田原征伐の時のこと。松田憲秀の手を見た太田資正
「裏切る腹積りだ」と言った。この時、確かに憲秀は内通して
いたが、資正はその事実を知らなかった。

豊臣秀吉は何故資正に内通が分かったのか奇妙に思い「何をもって
そのように見たのだ」と尋ねた。

「憲秀の勇謀は人の恐れる所ですが、今日は軍備を正さず、諸卒を
戒めず、役所も巡りませんでした。もとより彼は臆するような者では
ありませんから、これは心を味方に通じた故にございます」

資正の答えを聞いて秀吉は大いに感嘆し徳川家康に向かい
「今ここに二つの不思議がある。何だか分かるか」と問いかけた。

「ひとつは三楽でありましょう。もうひとつは分かりかねます」

との家康の答えに秀吉は「わしは匹夫より起こって天下の主となった。
だが、三楽は智がありながら一国をも持つことはできなかった。

これぞ二つの不思議であろう」と言った。

また別の逸話では、秀吉は資正を召して曰く「その方は智仁勇を
兼ねた良将でありながら小身であるな。わしはひとつの徳もないが、
天下を取ることはもっとも得意とするところだ」ともいう。

――『名将言行録』




384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 21:16:38.44 ID:66FBQWN/
もう一つの不思議
カリスマブリーダーとしての名声が無い

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 23:30:18.49 ID:gMAi9LmC
ここらのカリスマといえば天庵様の方が大きかったからね

太田道灌、居城の怪異に

2012年08月28日 20:51

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 17:36:51.53 ID:nmVw6k3Q

ある時、太田道灌の居城に一夜にして笠ほどのキノコが生えた。
人々が「物怪だ!」と驚いてこれを道灌に告げたところ、

道灌は「決して物怪ではない。湿気の深い所には大きなキノコが
生えるものだ。逆さまに生えたとしたら不思議なことだがな」と言って

動じなかった。その後、十日ばかり過ぎて、今度は同様のキノコが
逆さに生えた。人々が驚いて道灌に告げると、

道灌は「最初に生えた時は逆さなら不思議だったのだが、
今度は智恵をつけて逆さに生えたか。これは笑えるな」と言った。

すると今度は火炉の鉄輪が踊り歩き始めた。道灌はこれを見ても
「人間は足二本でさえ自由に歩けるのだから、三つ足で歩けたって
珍しくもない。

そのようなことは全て狐狸の仕業だ。狐狸めは人間にたぶらかされて
戸惑っているようだな」と冷笑するだけで自若としていた。

その後は何の怪異も起こらなくなった。

――『名将言行録』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1185.html
↑の別バージョンか?





202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 21:20:25.39 ID:CxSchxLm
俺のところに美女が大金を持参して嫁入りに来れば不思議なことだが

203 名前:こうか[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 21:23:56.15 ID:CxSchxLm
秀吉「わしのところに大勢の美女が嫁入りに来れば不思議なことだが」

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 21:52:28.56 ID:jjWVqCyv
子孫がリアル化け物だから物の怪ぐらいじゃ驚かないわな

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 22:34:28.10 ID:qrwWJkEU
要求をエスカレートさせて、
どこまでやってくれるか試せば面白かったのに。

川越城水源の事

2011年05月24日 01:11

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 18:29:48.80 ID:QLWEygVY
太田道真・資長(道灌)の父子が川越城を築城するときの事
城の堀へ張る水をどこから引いてこようかと毎日踏査していたのだが、これという水源は見つからず困っていた。

ある朝、道灌が何げなく初雁の杉のあたりを通ると井水に足を浸して洗っている一人の老人に出会った。
見ればそこにはこんこんと湧き出る泉が・・・

これに道灌は大いに喜び、これはまさしく日ごろ信仰している天神の御加護であったかと改めて感謝したのだった。
しばらくしてその老人の所に向かい、この地に城を築く決意を告げ、水源となっている場所を尋ねた。
すると老人は快く承諾し、さっそく道灌を水源へ案内してくれた。
行く行く着いていくとそこは満々と水を湛えた底知れぬ深さの水源地が現れた。

道灌は手を打って喜び、老人の好意に対して心からお礼の言葉を述べ再会を約束して別れたのであった。
こうして謀らずも問題を解決できた道灌はこの地に難攻不落の川越城を完成させたのである。

さて、かの老人とは再会の折もなく時が過ぎ去っていった。
だが、かつて井水で足を洗っていたときの姿が気品にあふれていたので、
あれぞ紛れもない三芳野天神の化身であると納得したのであった。
以来この井水を天神御洗(てんじんみたらし)の井水と名づけて大事にし、神慮に応えたと言う。
そして道灌はますます敬神の念を深くし、有名な川越城内で連歌の会を催して千句を天神に奉詠したのであった。

なお、この水源地は川越城内清水御門のあたりとも、または八幡曲輪とも三芳野天神社付近とも言い伝えられている。




世禰(よね)姫

2011年02月06日 00:00

世禰姫   
592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/05(土) 14:20:00 ID:aXJbtTz/
太田道真・道灌親子は、扇谷上杉氏から河越城の築城を命じられた。建設地は北に赤間川、南に遊女川が流れ、
加えて七ツ釜と呼ばれる底なしの湧き水が7箇所も湧いているドロ沼地帯だった。ぬかるんで土が盛れず、
道真は困った。

そんなある晩、道真の夢枕に龍神が現れた。

「道真、明朝一番に会った者を人身御供として差し出せ。そうすれば神の力で城はすぐに完成するだろう…」
「マジで!?わかりました!」

毎朝一番に自分に会いにくる愛犬を少し可哀想に思いつつ、龍神と約束をした。


翌朝。

「犬ジャネ━━━(゚д゚;)━━━!!」

愛娘の世禰(よね)姫が来た。

「夢に龍神様が現れてry…私が生贄になります!」

道真と同じ夢を見たというのだ。
しかし、可愛い娘にはそんな事させられない。龍神を怒らせてしまってもだ。

「ゆ、夢なんか気にしなくていいって!生贄とかなにそれこわい」

思いとどまらせようと道真は必死に説得するが、世禰の決意は固かった。世禰は館を抜け出し、城の完成を祈りつつ
七ツ釜に身を投じた。
まもなくして、城は完成したという。


あるとき、河越城が攻められた。
堀のあたりに敵兵がやってくると、どこからともなく霧が発生し、それは集まって雲になった。
風も吹いて辺り一面真っ暗になり、ついには洪水も発生した。敵はすっかり混乱し、退散したという。
これらの現象、太田道灌が城の堀に棲む主に起こさせたらしい。
河越城の危機を救った堀の主の名は「ヤナ」。


よねが(人として、怪物ヤナとして?)太田親子の危機を救ったいい話。




593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/05(土) 14:30:38 ID:DUf7I7Ag
旧約聖書にも似たような話が(士師記11章より)

エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、
わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を
主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」
こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。

エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。
彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。
彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、
お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」
彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりに
してください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」

二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/05(土) 14:37:04 ID:URXl6evD
>>593
しかし誰を想定してこんな願いを口にしたのかね?嫁?使用人?

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/05(土) 14:47:31 ID:DUf7I7Ag
>>594
自分の知り合いのフロイスよりずっとましな宣教師は
「エフタはおそらく使用人を念頭に神に誓ったのでしょう。
同胞の命を軽んじた彼に対し神は罰を与えたのです。
アブラハムがイサクを神に捧げようとしたときの故事からもわかるように、
神は人身御供など求めてなかった、ただ彼が悔い改めることを望んでいた
しかし彼はおろかにも娘を捧げてしまった」
と旧約の神を新約っぽく解釈してた。
戦国時代の宣教師もこの人身御供をつかれたら痛かっただろう

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/05(土) 15:53:12 ID:mSJNP5TH
やはり野見宿禰は立派な人だな