両大将の御軍法

2018年02月18日 19:04

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:31:02.46 ID:dR3J4lSy
一、信長様の御軍法は、敵と成った者は、その子々孫々までも討ち果たし、その跡まで
  掘り返すほどに厳しくして、天下を治められた。内裏の修理など仰せ付けられ、王法の
  衰えたのもお取り立てされ、その後仔細あって、上京の騒ぎを払うとして、京の地子を
  御免になられた。万事において賞罰を正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで、
  その仰せを奉らないという事は無かった。
  ではあったが、一度敵対した者は、詫び言を申し上げ旗下に付いても、お心を許すこと無く、
  御憎み浅からず、故に謀反人が多く出た。こういう時は、強いだけではどうにもならないものだ。

  こういった事を太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、敵対した者へは厳しく申し付け、
  これに対し詫び言申し上げ旗下と成れば、御譜代同然に懇ろに心を開かれた。是故に、昨日まで
  敵対していた者でも、身命を捨て忠節を致すべきと考え、故に謀反人も無く、早く天下を
  治められたのだ。

  両大将の御軍法はこのように裏腹に違う、この心持ちは、小身の召使の者にも心得あるべきである。

(細川幽齋覺書)



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:57:18.66 ID:cegVxge2
秀頼シフトを敷かなければ豊臣政権は続いたのだろうか?

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/19(月) 15:28:24.75 ID:TRb3+EFk
>>650
信長のほうが寝返りに甘い印象あるけどなー、細川の処世術かな

>>651
秀吉死後に秀次派と秀頼派で関ヶ原なりそう

653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/19(月) 15:41:39.50 ID:jY3t1EHB
>>652
「信長と消えた家臣たち」って本を読むと細川幽斎の気持ちが少しわかるよ
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京都四条糸屋の事件

2018年02月11日 16:31

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 19:12:39.08 ID:gbjmgkWA
京都四条糸屋の事件


天正7年(1579年)、京都で前代未聞の事件が起こった。

下京四条小結町の糸屋の後家で、70になろうかという老人がいた。
娘が一緒に住んでいた。

4月24日夜、娘は良い酒を買ってきて、母親が充分だと言うのに、更に無理やり飲ませた。
酔い伏した母親を土蔵に担ぎ入れ、夜更けて人が寝静まってから刺殺した。

自分で死体を箱に入れ厳重に縛った。
家は法華宗であるのに浄土宗の誓願寺の僧侶を呼び、人に分からぬように
死体を寺へ運んだ。

この家には下女が一人いた。
娘は下女に美しい小袖を与え、
この夜のことは絶対に内密にするように言いつけた。

しかし下女は、後で発覚したときの恐ろしさを思い、
村井貞勝の役所へ駆け込み事件を告げた。

村井貞勝はすぐさま娘を逮捕して取り調べた。
4月28日、娘を上京一条の辻から車に乗せて市中を引き廻し、六条河原で処刑した。



532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 19:26:01.19 ID:psbhjA/6
京の四条の糸屋の娘、母は七十で娘は十五♪
諸国大名は刀で殺す、糸屋娘は懐剣で殺す♪

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 21:51:51.95 ID:fhHkUYw7
>>531
姥捨て山とかあるし親殺しなんて珍しくなさそうな気がするけど前代未聞なのか。意外と平和…?

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 22:23:36.38 ID:udfaa2Lf
良家のお嬢様が母親を殺して完全犯罪をもくらんだって十分スキャンダラスな出来事じゃね?
戦国時代でもこんな事件はあるってことが驚き

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 22:56:49.20 ID:wOZAjPNf
なんか見たことある話だと思ったら信長公記だった

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 00:02:53.76 ID:6HQtIGdn
このサスペンスみたいな展開、雲仙のお糸地獄を思い出す

http://livedoor.blogimg.jp/fukucyan_jp-part2/imgs/5/b/5b1948ab.jpg
5b1948ab.jpg

真に必死と志さなければ

2018年01月06日 19:26

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 21:09:25.99 ID:GQe9Igv/
織田信長のもとに、美濃侍で元は斎藤道三に仕え、度々戦功のあった平野与兵衛という勇士が
招き召された時、この平野に近付きになろうと、織田家の諸士がこれを訪ねた。
道化清十郎も彼の所に至りて対面し、このように言った

「平野殿の事は隠れも無き儀であり、当家にも招かれた以上、今後別して御意を得、
御指引にも預かりたいと思っています。」

これに平野
「思いのこもった仰せです。私は他家にあったとは言いながら、斎藤の家は御当家とも
縁がありますし、今後は御指図も請けたいと思います。
…ところで貴殿のお名前は?」

「私は当家でこれといった者でもありませんので、名乗るのもいかがと思いますが、
お尋ね故に申します。私は無双道化と申す者です。」

「さては聞き及ぶ無双殿でありましたか、初めて面謁いたしますが、久しくその名は伝え聞いて
おりましたので、久しき知音のように思います。」

この時道化は尋ねた
「非常に粗忽な質問だと思いますが、平野殿はいつでも、攻めかかるときは先駆け、
退く時には殿と、先駆け殿を毎回勤められていると承っています。こういったことは、
若輩として承っておきたい事です。我らもそういった働きを致すこともあるでしょうから、
その心がけを知りたく、仰せ聞かせて頂けないでしょうか?」

平野はこれを聞くと
「結構な質問だとい思います。ただ私は、何であっても存ずることがあって仕るという事は
ありません。

斎藤の家の子たちは、度々の取合いに、冥加に叶う者達は、先に先に、討ち死にしました。
私などは生き残ってしまった故、何とぞ重ねての戦にては必ず討ち死にを仕ろう。そう考えて
いるのですが、武勇が足らないゆえでしょうか、度々死を逃れ今日まで永らえ、つれなき命を
全うして、このようなお尋ねに出逢ってしまいました。恥ずかしいことです。」

道化はこれに
「平野殿の只今の御返答を承って、さても深切な事と存じました。
先駆け殿の事は、真に必死と志さなければ、勤め難きものなのですね。」
そう、感じ入ったという。

(士談)

まとめ1544の「俺は断じて及ばない」の、詳しいバージョンですね



566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 21:15:57.17 ID:dyTR67CM
無双

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 21:21:50.09 ID:V+zRlDZ1
>>566
信長が、道化清十郎の武功を賞賛して、彼の旗指し物に「無双道化」と書いたそうな。

信長の度量

2017年12月08日 21:24

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:42:06.30 ID:ZG2/Mmcy
織田信長は二十年あまり、憤怒を抑えていたが、石山本願寺が和睦し開城すると、
天下はここに平均成った。

すると天正八年、信長は林佐渡守を流罪とした。
彼がかつて、名古屋において信長を謀ろうとした罪によってであった。
また安藤伊賀守を流罪とした。
これは、彼がかつて武田信玄に内通したためであった。

小さなことであっても、自分が恨みに思ったことを、後に自身が世に盛んになってから、
報復することを考えるのは、おおよそその人に度量があるとはいい難い。
我が身の遺恨故に人を害し、損なおうというのは、大丈夫の心とはいい難い。

織田信長にはこう言った誤りがあった故に、荒木村重、松永久秀らは安んずること出来ず、
天下に乱逆を成した。惟任光秀による禍も、この故であると言えるだろう。

一方秀吉は、毛利が柴田と内通し、室町殿(足利義昭)を再び京に復帰させようとしたことを
知りながら、後に毛利や義昭に対し、聊かもそういった気色を見せなかった。
信長と比べ、その度量大きく違うと言うべきであろう。

(士談)



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:46:35.05 ID:ek3nQsgY
毛利そんなことしたの

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/08(金) 07:31:31.32 ID:H32lLvCl
>>397
史実で言うと本能寺の変後にあった義昭の京復帰話は秀吉や家康も絡んでて
史料を見てるとかなりの進展を見せていた時期もあったようです。

柴田に内通うんぬんは秀吉と勝家のどっちが勝つか分からんので片方に加担せず
様子見を続けたってのが真相ですね。

そういった事で勝家滅亡後に秀吉から隆景へ送られる脅迫状としか思えない書状へとつながる訳ですが....

江戸のもののはじまり事典

2017年11月24日 17:18

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 21:29:17.74 ID:XjByv4RE
江戸のもののはじまり事典「本朝世事談綺」よりいくつか


鹿苑相国義満公の時、内野合戦が正月元日に起き、殿中の祝賀会に出席していた者共が
素襖の袖と裾をとって戦に従事したことが吉例となった。
細川頼之の行いであった。
一説によると、信長公の時に松永弾正がはじめたとも。

月代
月代を剃ることは、鎌倉北条執権(泰時の頃)に始まった。
その昔は本朝では貴賤ともにみな総髪でお歯黒をつけていた。
山海経に言う「東海に黒歯国あり、その俗、婦人の歯悉く黒く染む」というのは日本のことである。
その後、貴賤を分かつために男の歯を染めることを禁じたが、気が発さなくなったせいで歯の痛みとなった。
そこで月代を剃ることとなったのだ。
一説によれば、鎌倉時代は髪を抜いたという。信長公のときに剃刀で剃るようになったという。
おそらく髪を抜くというのは額のことであろう。
剃刀は眉を剃るために神功皇后の時に始まった。眉剃り用の剃刀は小さかったのを、
信長公の時に大きくしたのが今の剃刀であろう。
(信長が毛を抜くのを痛がって剃ることにした、という説もある)

ロウソク
文禄年中までは日本にロウソクなし。呂宋助左衛門が秀吉に献ずるところのロウソクを真似してこれをつくった。

一里塚
正親町天皇の御世に信長公の下知にて一里を三十六町に定めてその表示に一里塚をつくり榎を植えさせた。



457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 17:55:58.07 ID:E7qzUXBx
>>450
> (信長が毛を抜くのを痛がって剃ることにした、という説もある)

    ノノ
 〆 ⌒ヽ∩ ブチ!ブチ!
 (  ゚ω゚)ノ⌒ ミ
 ヽ⊂彡(´・ω・`) <信長「…」

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 18:05:03.73 ID:b86Bif5A
抜くんじゃ時間かかりそうだしね

『松野平介に劣らぬよう』

2017年11月14日 21:29

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 07:41:35.14 ID:GSRO0ABL
織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、
武義の詮議を行い、家職を忘れず、武運のことを神慮に祈った。
また同士の輩は、一同に誓詞を記し、互いの非を伝えあった。

ある時、何れも寄り合いをして、願書を書いて武運を祈るとき、
「皆は何を目標にして、どのように武職を勤めたいと思っているのか、それぞれその趣旨を書いて
入札にしよう」
という事になり、集まって書き出した所、皆『松野平介に劣らぬよう』『松野平介より先を致したい』
といった心がけが書かれていた。

この松野平介という人物は、美濃の三人衆に仕えていた武士であり、後に信長に召された、
信長は、その身が陪臣であると雖も、武の職業を勤めたる者であると、彼を非常に高く評価し、
岐阜の大手先の侍町に屋敷を与え、「諸人の規範にもなる人物だ」と言った。

このため織田家の諸侍は彼を見習い勤めを甚だ励み、それぞれに武義の職を勤め守った。

(士談)



421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 17:52:44.33 ID:tx0xGda4
織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、

初めて聞く話やな

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 18:53:48.72 ID:Un1oa4VD
織田家では月二回、職場内の勉強会兼飲み会をやっていたという事か。

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 19:49:11.27 ID:71UKaADV
織田家中自己啓発セミナー

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 20:33:05.07 ID:Cr5IYuoH
織田家で自己啓発とか
無道なことを

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 21:07:10.78 ID:WV2H8aGD
庚申講みたいに実質、ただの飲み会じゃないの?
まあ庚申講はいろいろと危ない相談もされてたんじゃないかって話もあるけど

武家事紀での織田岸蔵坊

2017年11月10日 21:31

284 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/09(木) 21:26:20.98 ID:529zOpoH
ググったら武家事紀の同じ話が有り、書かれてるサイトが有った。そちらでは織田岸蔵坊の事を

きわめて貧しきが故に、布の旗、筵の障泥にて疲れ馬に鞭をあつ。 

村上紀伊守は馬具・武具も整え岸蔵坊とは対照的な姿。
 どちらが一陣、二陣となるかをくじで決め、村上紀伊守が一陣、二陣は岸蔵坊となった。
 村上紀伊守の第一陣は破れ、岸蔵坊は身に三箇所の傷を被りながらも一揆を打破った。
 こうして凱旋し将軍家に討捕らえた首を献上した。
 その様子を『武家事紀』は、 
 
  将軍家感悦のあまり御盃を下され、ことに駿馬を賜う。 
  村上も御盃にあずかりぬ。 
  村上もとより大酒なれば、数盃を傾く。 
  将軍家興に入り給うて御太刀を賜いて各退出す。 
  岸蔵坊大いに怒れる気色にて、 
  一番に逃亡せる村上は重代につたわる太刀を賜り、軍功無双の某には、明日もしらざる馬を賜る。
  此の馬を殺し皮をはいで太鼓に張り、是こそ将軍家より軍功に賜れる馬の皮よと銘をしるし、子孫に伝うべし。
  これ村上が上戸ゆえなり。 
  下戸なる者は益なし。 
  下戸無念なりと、ののしり立って帰れりとなる。 


これを見るに将軍には悪気無く、岸蔵坊さんに良かれと思って馬を与えたように見える。
岸蔵坊さんは襤褸を着ても心は錦じゃないけど、負けた筈の村上さんが褒美を貰うのが気に食わなかったのかなぁ?


http://www.gokuh.jp/ghp/busho/oda_001.htm

関連
織田岸蔵坊は激怒した


285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 23:18:27.34 ID:WWQClPL8
織田の陪臣である岸蔵房がどうして将軍家に拝謁できるのか?
尾張に流れてくる前の話なのかな?

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/10(金) 07:28:13.28 ID:6GS648by
一揆はどこの一揆で将軍はどの将軍なのか

287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 08:07:19.31 ID:0CxMzdfO
>>285
織田岸蔵房で調べたら孫の織田信房が出てくるけど、信秀の代から仕え、元々織田姓ではないとある。
岸蔵坊が元々何処に仕えていて、どう流れて信房の代で信秀に仕える様になったかは興味深いね

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/10(金) 08:30:37.15 ID:a9KTd7T+
>>287
信房の子に菅屋長頼がいるんだよね
織田姓を貰うことといい、かなり厚遇されていた一族なんだろうなあ

織田岸蔵坊は激怒した

2017年11月09日 17:14

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 10:22:19.01 ID:Y5rjaGJg
かつて、織田岸蔵坊(信長に仕えた織田信房 (造酒丞)の祖父)と村上紀伊守とが、当時の公方の
命により敵を退治したが、織田岸蔵坊は比類なき働きあり、紀伊守はさほどのことはなかった。

帰京した時、織田は馬を賜り、村上は太刀を賜った。
これに織田岸蔵坊は激怒した

「村上は一戦に崩れて恥を取ったと言うのに、それがしと一緒に御盃を賜っただけでなく、
御剣まで賜った。村上は『この太刀こそ勲功の賞である』と、子孫に伝え家の面目に備えるだろう。

しかし馬は生物なのだから、明日をも知れず、後代に残ることもない!
すぐに其の馬を打ち殺し皮をはぎ太鼓に張り、『これこそ将軍より賜った馬の皮である』と
銘を打って子孫に伝えよう!

各々、武勇を棄てて酒の飲み方を学ばれよ!村上が上戸故にこれほどの面目に余る待遇を受けたのだ!」

そう罵って御前から下がり、将軍は大いに興を覚ましたという。

(士談)

関連
武家事紀での織田岸蔵坊


273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 10:28:26.47 ID:gGam2wU+
信長の言い分と真逆w

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 11:55:35.48 ID:W5g8hSJd
汗血馬でも屠殺しちゃいそうな奴だな

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 15:16:29.17 ID:eUduDq1c
いい馬なら繁殖させれば儲かると思うんだが
それでは駄目なのか

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:25:06.33 ID:eVs8SPKm
戦国時代の名馬って繁殖に回って子孫も名馬っていう話聞かないし
いい馬をもとに繁殖させるっていう発想自体がないんじゃね


277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:44:38.79 ID:kZkZr3ob
そもそも儲かるとかそういう話じゃなくて面子の問題なんだろうしな

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:52:43.95 ID:z/A/VUKh
池月・磨墨を頼朝から下賜されて宇治川で先陣争いした
佐々木高綱や梶原景季はいまだに語られてるのに

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:57:05.12 ID:W8CGtvmK
それは平家物語の作者と琵琶法師たちのおかげだな

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:15:56.14 ID:bdaIAzlk
>>276
ない。馬産に関しては明治まではとてつもない後進国。
なんせ、去勢すらまともにしようとしないぐらいだし。

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:38:04.85 ID:WWQClPL8
アラブを導入してみたもののうまくいかなくて小さく出ちゃったのって島津だったっけか?
まあ種馬を見分ける相馬が無かったんだろうけど

当時って自然交配なのかな?

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:42:26.36 ID:wtXKSyfd
日清だか日露の時に日本の軍馬が騒いで困ったので、それからせんばの導入が進んだって聞いたことある

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:43:21.07 ID:xGkzgLXd
>>277
馬を貰った=記念品と共に長く伝えられる程の功名と評価されなかった、と解釈したのかも。
あるいは「あの時こういう功名を遂げて馬を貰ったんだ」より、
「あの時こういう功名を遂げて太刀をもらった、それがこれ」と言えるほうが格好がつくと思ったか。
感状に拘る武士に似た考え方かな?

武田左吉の子

2017年11月03日 20:57

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 21:10:59.46 ID:j17J6I/M
織田信長足利義昭を戴いた上洛戦の時、近江北郡にて坂井右近将監の子である久蔵が、この時わずか13歳にて
鑓を合わせ、彼の働きに義昭ならびに信長より感状が与えられた。
その頃、武田左吉という者の子も同じ13歳で、信長の側に仕えていたが、久蔵の振る舞いを羨ましく思った。

信長は入京すると、京より青龍寺、山崎あたりに退いていた三好勢を続けて攻めた。
この時、武田左吉の子が一番に、三好の陣へ馬を入れた。彼は敵との距離が良い所で馬より降りて
闘おうと思っていたが、其の身、未だ幼く、また馬は癇が強く逸っていたため、降りること出来ず
そのまま敵陣の中に引き込まれ、討たれた。
志は猛しといえども、本意無きことである。

武田左吉はこの他に子が無く、後に土方彦三郎という者の弟を養子とし、その者は武田宮内と名乗った。

(士談)



不覚悟の討ち死に

2017年11月02日 17:30

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 17:25:55.37 ID:j17J6I/M
丹波において、織田信澄の扈従の若者6、7騎が朝駆けを行い、敵30騎ばかりの中へ馬を乗り入れ、
それぞれに首を取って帰ろうとした。

この中に居た里見小才助と言う者の乗っていた馬は、三寸にあまり四寸に及ぶほどの大型であったが、
馬取は付かず、殊に腹帯もしっかり付けられていなかった。

鎧武者が指物を指して、首と槍と抜いた刀を持って乗ろうとすれば、鞍が返って上手く乗ることが出来ず、
そうしてもたもたしている間に敵が数多返してきて、小才助は討たれてしまった。
そして他の6騎は小才助を助けずに帰ったため、その頃その行為に対して批判が有ったそうだ。

大柄の馬に乗るべきではない、というのはこういう事であり、かつその上に、彼は馬の腹帯が
鞍の固定のために大切であるということを知らず、かといって鞍をつけない馬に乗る術も知らず、
その身の不覚悟のために討ち死にし、それだけでなく傍輩まで人々から批判させてしまった。
まさに誤りと言うべきであろう。

(士談)



214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 17:33:38.20 ID:SXEm+Gu2
そんなやつに馬のせんな

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 18:33:24.83 ID:zdtRAxdV
今の出来事に置き換えるとバイクで立ちゴケするようなもんか

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 20:33:18.88 ID:9+jJPnHU
舅の援軍として丹波に赴いたのかしら
信澄の話は貴重だねえ

朝夕樫の柄をこそ

2017年10月27日 17:04

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 13:21:15.40 ID:QPdRFwSZ
織田信長の黒母衣衆に、伊藤武兵衛という者があった。
彼は坂井近盛という者を斬り尾張より退転し、駿河に亡命して今川氏真を頼った。
尾張からの牢人ということで、今川家の人々も彼を丁重に遇した。

ある時、乱舞の座において他の人々より「伊藤殿も何ぞ遊ばし候へ」と、座興を促されたが
彼は元より乱舞というものを知らぬため

「私は何も心得ませんので」

と断った。しかし「いやそう言われずに、何か一色」と更に促された。それでも
「今まで知らぬことであり、面目無いのですが、何も存じませんので。」

そういった所、座の若き者共、「この男、何も知らぬ」と嘲り、小鼓を彼に向かってころばして、
強いて所望した。
この様子を見て伊藤は、居直って言い放った

「私は若き頃より信長の脇に仕えて近国を従え、朝夕樫の柄(槍の柄)をこそ握っていたため、
穢多の皮を叩いた遊ぶ暇もなければ、知らぬなり!」

そして鼓を跳ね戻したが、かの若者達は

「いや、穢多の皮を叩く時は叩き、樫の柄を握るべき所で握る者こそ良いと言うべきだ」

そう言い、これに怒った伊藤が刀を抜こうとしたのを周りの人々が慌てて抑え止めさせた。

程なく、今川氏真は武田信玄のため駿河を退き、遠江掛川に籠った。ここを信玄と連携した
徳川家康が攻めた。
天王山の北に旗を立て、大須賀五郎左衛門、大久保七郎右衛門、松平周防守、土井豊後守らが
大手を攻め立てた時、城中には勇士多かったが、この時伊藤武兵衛が今川家の武士たちに言った

「穢多の皮の事承り及んでおりますが、畳の上では心安いでしょう。こういう時こそ少し叩いては如何か?
この武兵衛は信長の側にて習い置き樫の柄を握ってみせましょうぞ!」

そう申すと城より何度も打って出て、遂に討ち死にした。椋原次郎右衛門に討たれたという。
類少き勇者である。
しかし、もし彼に音曲の方の素養もあったなら、このように後まで心にかかることも無かっただろう。
であれば、知らぬというのは少し劣ることに似ているのではないだろうか。

(士談)



203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 16:29:06.71 ID:xqOpkIKt
価値観が変わってしまっていることが窺えるな

きうりの紋

2017年10月07日 15:59

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 23:28:53.28 ID:KxLBGXY6
牛頭天王を信仰する者は、必ず胡瓜を食らうことを禁じている。これを食らうとたちまち邪疫に
感染すると言うのだ。或いは云う、牛頭天王の紋所は木瓜であり、これを”きうり(胡瓜)”と
読み誤ったのだ、とも、

しかし素戔嗚尊(牛頭天王の本地とされる)に紋所があるとも覚えず。
これについては、かつて織田信長がこの牛頭天王を深く信仰し、神輿の類ことごとくに、織田家の紋所である
木瓜を染めて納めたため、終にはこの木瓜が牛頭天王の紋所であると誤って伝えられたのだと言われる。

(今古雅談)



169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 23:39:35.87 ID:sv0B/QpK
瓜にかぶりついていた若いころの信長…

今朝とあけて 麓は柳桜哉

2017年09月24日 16:36

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 14:39:42.65 ID:4xTwE4Xq
織田信長が岐阜に在城していた時、城内に桜の馬場を取り立て、その祝いとして連歌師の里村紹巴
発句をするよう命じた。そこで紹巴は

『今朝とあけて 麓は柳桜哉』

そう連歌したところ、これを聞いた信長は

「城に”あくる”と言う事は禁忌である!時と場合によってはこの城を調伏する言葉であり、
遠島に配すべし!」

と、命じたという。

(士談)



145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 15:34:24.41 ID:WJQIg07t
信長が言うととんちとか禅問答をしているようにもとれる

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 19:37:19.83 ID:Tjttvdh3
里村紹巴っていろいろ不運な目に会いつつもギリギリ許されることが多くて運が良いのか悪いのかよくわからん奴だな

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 04:01:35.13 ID:OzTAV6SS
生き残ってる以上死ぬ話を作るにはいかんからな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 08:02:54.28 ID:cqcIMXVs
>>147
天庵様は生き残ってるけど、軍記物では死んでるよ

【雑談】信長が生きていたら次に追放されるのは

2017年09月18日 18:37

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 06:53:07.43 ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:11:44.64 ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:43:44.23 ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 10:35:41.22 ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 11:34:35.22 ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 18:33:26.75 ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 21:31:49.60 ID:GB5g7IWs
初めから預けてあるだけだから仕方ないね

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 02:51:37.49 ID:SAQd3Wid
領地も預けてるだけだからしゃあないつか秀吉も同じだし

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 09:38:19.60 ID:S6O7voU+
堀家の文書だと秀吉も長浜から追い出されることになってたんだよね

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 14:03:08.13 ID:8hOQvV3e
>>117
光秀が追い出されるのだから、まあ当然そうなるでそ。

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 14:10:19.11 ID:duF2E/F9
滋賀とか奈良って現代だと糞田舎で全く無価値な場所だけど
近江とか大和って言われると輝いて見える不思議
戦国脳のなせる業なり

左門殿は殊の外おどけた人で

2017年09月13日 18:21

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/13(水) 02:13:56.64 ID:5Fm8W0c9
大坂御陣の時分、織田左門殿(頼長)も籠城した。

左門殿は殊の外おどけた人で、牛の角に銀箔を捺して乗られ申した。
また女中に刀を持たせ、毎度堀裏を廻り申されるような人であった。

(牛の角に銀箔を置乗被申候。女中に刀を持せ、毎度堀裏を廻り被
申候様なる人に候由。)

その由を前述の御話と同じ時に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/13(水) 11:20:54.14 ID:mz9dNTx1
大阪の夏の前に上手いこと城から出て長寿庵を営んだけど早死した人か

浅利のハイタカ

2017年09月09日 10:14

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/08(金) 23:39:00.53 ID:XzrI/Uma
尾張内府(織田信雄)の元に、「鷹の上手である」と、浅利牛乱という者が目通りした。
彼は「ハイタカに雁を取らす」との言い立てをした。信雄は「これは珍妙である」と、彼を召し抱えた。

浅利はこの雁取りの鷹を据えて御前に出たが、この鷹、殊の外羽を羽ばたかせて鳥を取ろうとする
様子であったが、その日は狩りをさせずに置いた。脇から見れば、まぎれもなく雁を取るような体であった。

しかしその翌日、浅利は信雄の前に出ると「あの鷹はイタチに食われてしまいました」と、涙を落として
説名した。

実は、先に鷹が羽ばたいていたのは、一方に餌を持って見せたため、鷹が興奮していたということで、
つまりは偽りであったという。すなわち、信雄を騙したということである。

(士談)



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 08:31:06.55 ID:4xz0EMTm
>>100
つまり、人を騙した浅利に罰があたった、ってこと?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 18:19:41.24 ID:pozdrvhm
イタチにヤられたことだって本当かどうか

首の臍

2017年07月24日 18:06

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/24(月) 14:55:04.07 ID:0xK7yMrw

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)


蜂屋を加えておけば、

2017年07月22日 18:50

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/22(土) 18:44:44.31 ID:q3SVQupX
織田信長の初めの頃、柴田勝家と坂井右近(政尚)の二人が軍奉行を担当し、織田家の弓矢のことは
全てこの二人が指引した。信長はここに「蜂屋兵庫頭(頼隆)をこの両人に加えるように」と命じた。
蜂屋は武功抜群の者であった。

ところが柴田と坂井は、信長に対し
「蜂屋を加えられるのであれば、我々は軍奉行の役儀を返上します。」と、強い拒絶を表明した。

信長はこれを聞いて、
「こういったことは両人も進んで同意すべきなのに、そうしないのは不審である」と、
再び使いを以て命じたが、両人は猶以て役儀の辞退に及んだ。

信長はやむを得ず、両人に対し何故蜂屋を加えるのかを、直に説明した。

「蜂屋については、お前たち両人と同じ武功の者であるとは考えていない。だが彼は
諸事口才のある者である。合戦の最中、戦場から両人のうち一人帰って報告を行わなければ
いけない事もあるだろう。またこちらから両人の一致した判断に疑問を持つこともある。
そういう時、蜂屋を加えておけば、私の元に使いとして送るときも、また判断について
問い合わせるのにも便利ではないか。」

柴田、坂井はこの理に納得し、反対を取り下げたという。

(士談)



108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 02:08:28.81 ID:4+4ziU7k
始めの頃っちゃまだ尾張の頃かな?

山口重政は申し触れて廻った

2017年07月11日 17:39

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 12:47:58.44 ID:F9sSnusY
佐久間不干斎(信栄)が織田信長の叱責により高野山へと立ち退く時、その道中に
野伏が殊の外起こり、通行が非常に困難となった。

この時、佐久間不干の側には唯一人、当時16歳であった山口修理亮重政が付いていた。
彼は飛脚のように先行し、先々で所の名主にこう申し触れて廻った

「佐久間不干が明日、ここを通られる!罪過はご赦免されているため、郷人どもがもし
一人でもこれに手を出せば、後日御詮索あって、必ず罪を問われようぞ!」

翌日、佐久間不干の通行を妨げる者は無かった。

(士談)



90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 19:58:20.11 ID:I0EiXcXu
>>88
これ信長の威光の話だよねw

伊賀伊賀守のことなど

2017年07月06日 18:39

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 18:44:48.75 ID:qrjRLL6v
信長は伊賀伊賀守を召し抱えていたからな

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 23:10:53.92 ID:HAtZa1yb
>>872
遅レスだが伊賀伊賀守って安藤守就のことだったんだ
(斎藤義龍が一色氏に改姓した時に、以下の六人衆の面々も一色氏の家臣の姓に改姓させたみたい
安藤日向守守就→伊賀伊賀守守就
桑原三河守直元→氏家常陸介直元
竹腰新介尚光→成吉摂津守尚光
日根野備中守弘就→延永備中守弘就)
信長が明智光秀→惟任、丹羽長秀→惟住、塙直政→原田、と九州の姓を与えたようなもんか

ところで信長を裏切った安藤や氏家はともかく、龍興に従って信長と戦った弘就は
一色への忠義を示すため延永(のぶなが)を使い続けなかったんだろうか

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 23:17:10.92 ID:QCAwnrGS
安藤氏は伊賀氏の流れ
それどころか守就から安藤になったとも言うし

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 23:27:32.33 ID:HAtZa1yb
なるほど、守就の弟の子孫が明治に入ってまた伊賀氏に復姓しているようだし
伊賀氏のほうが由緒正しいわけね

>>930訂正
龍興を裏切って信長についた安藤や氏家

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 02:48:56.85 ID:I7m6iQir
のぶながっていう読みが合ってるし忌み嫌って日野根で通したのかもね

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 06:12:42.94 ID:LKwEnJ+9
氏家がいつ裏切ったんです?

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 21:00:33.50 ID:s4VGcAwR
>>930
伊賀伊賀守って野比のび太とかオレンジレンジみたい