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今川の ながれの末も絶えはてて

2018年09月16日 17:27

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/16(日) 14:19:10.26 ID:BFVsBUOo
天正10年の甲州征伐を終えた織田信長は富士遊覧の後駿河へと回り、駿府に到着すると
そこでは徳川家康が假屋を宜しく立ち置き、一献を進められた。

その頃は卯月の十日あまりであったが、今川義元が植えさせたという千本の桜も、花はすっかり
散り去っており、信長は「植え置きし主の栄えも、このようになってしまったな。」とつぶやき、
続けて思い浮かんだ一首を詠んだ

『今川の ながれの末も絶えはてて 千本の桜ちりすぎにけり』

(甫庵信長記)

ここから信長の「桜」が散るまで、4ヶ月あまりであった



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信長は彼が陪臣であるにもかかわらず

2018年09月15日 19:05

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/15(土) 13:14:52.04 ID:134JHZze
天正9年3月26日、若狭の逸見駿河守(昌経)が病死した。彼の所領は八千石であったが、
相続すべき実子が居なかったため、織田信長の命により、そのうち三千石は武田孫八郎(元明)へ、
残りの五千石は溝口竹(秀勝)に与えられた。この溝口は後に受領して、伯耆守と名乗ったが、
彼は惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)が幼少の頃より取り立てた者で、普段より正意誠心にして
武道を心がけ、何事にも心を尽くす人物であったため、信長は彼が陪臣であるにもかかわらず、
五千石を与えたのである。

このように信長は、陪臣であってもそういった人物であるなら賞禄を与えたため、彼の配下は
上下の区別なく功に励むこと、日々新にして、日々に新に、また日々に新たなりとも申すような
雰囲気であった。

(甫庵信長記)

直接の部下でなくてもきっちり評価してくれる信長公であった。


汝の不明は私の不明

2018年09月14日 10:36

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:27:15.75 ID:pFVibWI+
ある時、織田信長の元へ、村井長門守(貞勝)が、鏡屋宗白という者を召し連れ、
彼は手鏡を信長に献上し、御礼申し上げた。

信長はこれを取り上げて眺め
「非常に明白な鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡であればなあ。
世の癖として、諸侯大夫、寵臣たちの為したことは、良いことも悪いことも、
人は皆極端に語るために、却って心を暗ませるという事が、日々月々に悪化している。
しかし行いの悪さを諌めるという事はしない。
そういう事に左右されない諫臣を求め得なければ、政道の実態を聞くことは出来ないのだ…」

などと物思いにふけりながら、ふと鏡の裏を見るとそこには『天下一』と銘があった。
これを見て信長たたちまち気色が変わった

「去る春、どこかの鏡屋が献上してきた鏡にも、裏に『天下一』と銘があった!
『天下一』はただ一人であってこその、一號にてあるべきなのに、二人あるというのは
猥りというものではないか!
これ偏に長門守、お前の不明より起こったことだ。そして汝の不明は私の不明なのだぞ!」

そう、殊の外悔やむ様子であった。

(甫庵信長記)


腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり

2018年09月11日 17:17

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 21:40:00.05 ID:kgqM6l2n
織田信長が有る時。安土城の御物預かりの者を召して、

「(信長の御物である)武具小袖、錦糸扇子等を、価値の高い順に千種広間に並べ置くように。
楠(信長の右筆である楠木正虎か)は給人帳(信長が禄を与えた者を記録したもの)を持ってくるように」

と命じた。
翌日、「その事調い候」と申し上げると、信長は給人帳の上下を切って、真ん中の紙に
千種広間に置かれた御物を書かせた。それが終ると三つに別れた給人帳を再び元に戻し
これを開くと、そこには

『扇筒井順慶』『小袖十村田吉五』『馬正林坊』

という具合に、御物と給人の名前が並んだ状態になっていた。

これを見た信長は「こんな高下(ランク付け?)になったか!」と、お腹も背中も切れてしまうかと思うほど
大爆笑し、あまりに笑いすぎて呼吸が苦しくなり倒れて転がる有様であった。
(斯様に高下ある事よとて、腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり)

万座も一入興に入り、笑いを含んだという。

(甫庵信長記)

御物の名前と家臣の名前をドッキングさせる遊びが信長のツボにはまって、呼吸困難になって
ヒーヒー言いながら転げ回るくらいに爆笑したらしい。ちなみに名前とドッキングした御物はその者に与えられたそうで。

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 06:08:45.23 ID:shsob15l
>>275
かわいいな
上司にしたい

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 13:11:12.76 ID:OkP/KYSh
>>275
何がそんなに面白かったのかわからんw

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 18:56:19.42 ID:bJM+QjnP
惟任日向(・・・今なら言上しても殴られないかな?)

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 19:00:52.86 ID:ucgBqjD7
>>277
御物と大名小名たちの組み合わせのギャップでしょ

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 00:26:40.23 ID:7ozAjbvN
絶対周りも空気読んで愛想笑いしてる

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 00:56:06.11 ID:zs9vkfK6
ちゃんと物をくれるあたりがさすが信長

一生の期はここにあり

2018年09月06日 21:10

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 07:40:35.46 ID:4nhJDA70
織田有楽の子、河内守(長孝)の所へ出入りする浪人に鈴木道休という者があり、彼は以前には
侍の役も勤めた者にして、大名貴人であっても侮らせないものがあった。

或る時、河内守の所にて人々寄り合い咄の有った時、河内守弟の左門(頼長)が鼓を鳴らした。
道休はそれを褒めたのだが、その褒め方が気に入らなかったのか、左門は鼓を道休に投げつけた。

道休もさしもの者故、その場にて左門を討ち果たそうとしたが、大勢が押し留めあつかいとなり、
その場は治められた。

道休はこの時不首尾に終わったため、返報の機会を待っていたが、その冬、大阪冬の陣が起こった。
織田左門は大阪城へ向かい、道休はこれをつけた。しかし左門は大名故に、道中で襲撃すること
叶わなかった。ここに於いて道休は思い究めた

「私は既に年老いている。もはや左門を討つ機会はないだろう。明日は左門が城中に入ってしまう
以上、一生の期はここにあり!」

そう言って、枚方において切腹した。

その後、織田左門はどう思ったのか、無頼漢と成り、冬の間城中に於いて戯け者となって、牛の角に
金銀の箔を貼り、自身はその牛に乗り、遊女にその牛を引かせるなどした。故に城より追い出され、
左門は入道して雲生寺と号して、武士を止めたという。

(士談)



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 10:15:29.07 ID:Ww/zjHKh
かぶいてるな

『運は天に在り、生死は定まる』

2018年09月05日 21:22

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/04(火) 23:29:30.08 ID:NGVt5dhV
天正2年の長島攻めの事、織田軍の荒川新八郎は度々駆け合い、何度も敵を突き退けたため、
非常に疲労しある堤に腰を掛け休息した。そして喉が渇いたため堤より下りて水を手で汲んで
飲んだ所、彼の兜の前立てに付けられていた『運は天に在り、生死は定まる』という文字が
水鏡に鮮やかに映った。

これを見て新八郎は一際心も励み、気も猛くなりて、また取って返し敵陣に駆け入り、比類なき
働きをして討ち死にした。

この時、休息してそのまま引いていれば、命に別状無かっただろう。しかし日頃の志を印として
付けていたため、これを感じこのように剛操な行為を行ったのである。

そして彼のような勇猛な働きが有ったが故に、長島は陥落し、北伊勢五郡を副えて滝川一益へ
与えられたのだ。

(士談)


幾程命伸びた所で

2018年09月04日 17:48

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/04(火) 06:42:27.78 ID:NGVt5dhV
天正2年、織田信長による長島の凶徒退治の時、貴族(信長の一族)多く討ち死にした。
その中に津田市助信成(織田信成)もあった。

信成の乳母人に小瀬三郎次郎清長という者が居たが、彼はこの時体調を崩し、陣屋に伏して
治療養生を受けていたが、信成討死と聞くと、物の具を着けて打ち出ようとした。
彼の郎従たちは「このように所労甚だしいのです、どうかお止めください!」と止めたが

「幾程命伸びた所で!」

そう言い捨て「何れの軍勢が信成を討ったのか」と問うと、振り返りもせずそこへ駆け入り、
馬を乗り放ちて敵5,6人を切り伏せ、自身もずたずたに成って討ち死にした。(我身もずたずたになりて打死す)

この小瀬は織田造酒丞の嫡男であったが、小瀬三右衛門尉の養子として家を継ぎ、尾張春日井郡小幡郷にて
五百貫を領していたが、極めて貧しかった。
その頃、柴田勝家が江州蒲生郡を領しており、「三千貫を参らせるほどに柴田をたのまれよ」と
彼の寄騎になることを誘われたが、

「代々市助家の家臣であり、どうして禄が豊かだからといって他に忠を成すでしょうか」

そう固く断り義を失わず、ついに戦死の功を顕した。

(士談)



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/04(火) 16:18:14.14 ID:yCWOoY3D
信長の弟が生きてたらまた違った歴史になってたな
特に信與は有能だった、一番信長に愛された弟だ

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 05:04:27.82 ID:NdrGecMC
最後が消えてる

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 14:25:45.77 ID:FXDdffr9
>>88
投稿者です。下から2行目の「 は入力ミスです。申し訳ない

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 15:57:05.24 ID:u9h/GRwu
信長の弟、一向一揆とのだから戦いで死にまくってるよな。
なのに信長は顕如が降伏してきたら、あっさり許してるし。
信長ってイケメンキャラだよな。

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 20:56:23.57 ID:MWzlI9b3
信長に家族愛とか一族愛とかあったのだろうか。
家臣や領民を労わったり情を示す話はいくらかあるが、一族に対しては聞いたことがない。
息子にすら、思いつきで変な名前つけるくらいだし。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 21:07:21.63 ID:VF4CIbvP
長島一向一揆で弟殺した一向勢皆殺しとか?

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 21:10:53.91 ID:G228q1j6
>>92
なんだかんだ、一族をそれなりには重用したよ。

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 22:34:52.10 ID:1WbwG0Kh
>>92
反抗した義兄と弟は一度は許してるね

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 23:24:33.42 ID:V05fc2qi
あの時代武士の子なんて親兄弟とは大して会わないからそんなに親愛の情もないだろ
恒興とかの方が関係深そう

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/08(土) 07:58:29.66 ID:2tdKSWZ8
>>92
息子の名前についてはありきたりな名前で無い所に
信長なりの愛情を感じないでも無いかな
信雄の伊賀のやらかしで思いっきりブチキレこそしたけど
実際に縁切りや処罰までは至ってないし

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/08(土) 10:03:17.08 ID:P3EW1Rpx
>>92
家族親族に甘々で有名なんですが?

武器がなくてもどうということのない伊東七蔵さん

2018年09月01日 21:24

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 23:21:25.07 ID:Nd9a42yo
織田信長が江州小谷城を攻めた時、織田方の伊藤七蔵は一番に乗り上がった。
しかしこの時、七蔵の上帯を下人たちがしっかりと掴んで彼に続いていたのだが、
それに耐えかね上帯が切れ、彼の刀脇差も下人たちと共に落ちた。

しかしそんな事で
伊藤七蔵は少しも動揺せず、無刀にて塀を乗り越え、傍らの柵の木を取って
3人打ち伏せた。

この事は無類の剛勇であると、信長も大いに感じ入ったという。

(士談)

相変わらず武器がなくてもどうということのない伊藤七蔵さんであった。



246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 23:34:53.60 ID:jNOLOAtT
やはり丸太は最強・・・

真実無妄の誠を以って

2018年08月28日 18:44

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 21:33:24.49 ID:FERgEUgq
天正7年(1579)11月3日、二条御新造の御所が完成し、織田信長は則ち四伝奏を以て奏聞あって、
皇太子誠仁親王へこれを奉った。
同じく22日に、式掌の御移徒(わたまし)があった。その後信長は参内したが、このとき親王に夥しい
捧げ物が贈られた。
かくして信長は妙覚寺において巻物、板の物二千端ばかり包みおき、近習外様の人々を召し寄せ、
それぞれに下された。

12月6日、山崎方積寺に至って御座を移されたが、俄に大雨があり両日逗留した所、八幡宮の木桶が
朽ちてしまったことを申し上げると、「唐金を以て鋳てまいれ」と、武田左吉、林甲兵衛に仰せ付けた。
また同所において片岡鵜左衛門尉が、周光香炉を所持していたのを召し上げ、対価として銀子一千両を
下した。

同17日、各方面において苦労をした諸侯大夫を慰るとして、天下一共の藝者を揃え、桟敷を作り、能を
仰せ付けた。そして桟敷桟敷へ四日の間、毎日食事として折二十合、柳五十荷づつ賄うようにと
京中に宛行わせ、その代金として黄金二百両を下した。そのほか見物の下々へも食事を配り、
寒飢を補った。
これぞ一河の箪醪(河に酒を流し兵士たちと分かち合う中国の故事)ではないか。

これは五逆罪の荒木村重に対し、幾程もなく御本意に達せられ天下静謐に帰した悦びの為であると言われた。
総じて信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
誠に今の世には稀なことである。

同じく20日、天下の仕置等仰せ付けられ安土に帰城したが、この時も京中に八千石、安土の町中に三百石、
酒を食べよと下された。

(甫庵信長記)

凄まじいほどに気前の良い天正7年の信長公であった




230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:16:21.53 ID:uouo1Z/w
>>229
>信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
宮本武蔵かな?
今じゃすっかり神仏に祈願するのが当たり前になっちゃったけどこのころはそうでもなかったのかな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:21:28.83 ID:FA447Pf0
苦しい時の神頼み

信長公、検校からの罰金で

2018年08月26日 18:14

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 22:11:53.36 ID:vdaAkkxv
摂津国兵庫の町人に、常見という、飽きるほど富み楽しむ者があったが、一生の間財産を減らさず
生きていく方法を考えた結果、検校の仲間に入り、その配下である座頭達からの配分を取れば、
そんな商売よりも効率的であると思い付き、すぐに良きように工作し、検校中へ本銭千貫を出して
その中に加わり、検校職と同じように、座頭からの配分の下りものを受け取った。

しかし配分を取られる側の座頭たちは、このように法度の濫用を行えば、果ては町人の過半が検校職を
持ってしまうようになると思ったものの、検校たちが一味して計ったこと故力及ばず、すでに数年、
その状況が変わらなかった。

そこで座頭たちはついに「織田信長公の正しき御制断を頂き、年来の愁眉を開き、先規のように
戻すべし」と衆向一同したため、信長に直訴を遂げた。

信長はこの訴えを聞き、暫く馬を止め内容を右筆に一々書記させ、
「申し状の如くならば不便の次第である。訴えどおりに計らうべきである。」
そう言って、直ぐに検校中へ問い合わせた
「云々の事聞こえあり、これは事実か?」
「左様候」

そこで信長は命じた
「法令を乱す事、悪行の内何がこれに過ぎるだろうか!されども盲目であるので斬刑まではしない。
検校の位をすべて剥奪する。今後再び、昇進のための功を励むように。」

これを村井長門守より申し付けられると、検校中は非義極々としたが弁解することも出来ず、
後悔してももはや及ばず、「御憐を垂れられて宥し置かれますように」と、五山僧侶を頼み
嘆き申し上げた

これに対し「ならば懈怠として黄金二千両出すべし」との事になり、検校中は畏まり、悦んでこれを出した。
すると信長は「ならば此れを以て宇治橋を掛けよ」と、宮内法印、山口甚介に命じて架橋させた。
翌年6月、橋は完成し、上下の往還安らかにしてその恩恵を楽しむ声、さらに洋々であった。

(甫庵信長記)

信長公、検校からの罰金で宇治橋を掛ける



221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 20:20:32.18 ID:dncSpBoR
>>220
ただの名君じゃねーか!

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 20:38:18.91 ID:Jwmeqw3a
やるなノブ

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 21:29:24.28 ID:W3LlOJZ8
ノッブは日本改造論の初代だな

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:31:04.77 ID:KYawnVbX
ノブ君の野望

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:37:22.65 ID:Sse4I+gN
腐儒の甫庵著作出展だからこれは疑わしいゾ

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:58:29.01 ID:xKUTCWuX
検校の話はこれとほぼ同じ内容で牛一の信長公記にもあるぞ

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 13:11:04.51 ID:rhnB8gQ5
宇治橋ってすぐに壊れたの?

右府信長公は末世において稀なる大将

2018年08月22日 19:24

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 18:21:57.45 ID:LwZBVn2t
織田信長は若年より弓箭を業として長じ、今天下を平らげたが、戎夷猶属せざるもの多かった。
そのため昼夜天下一統の事業のため暇なく、士の賞罰、国の安否、おおよそそういった物ばかりで
心安らぐこともなかった。

しかし、多くの場合己の功に誇って、古き事などは嘲り要らぬことと思うのが世の常であるのに、
信長は古き政に心をかけられ、それを知る者には様々に尋ねた。これは絶えてしまったものを継ぎ、
廃れたものを興そうという心からであった。
中でも、右筆である二位法印(武井夕庵)には特に尋ねること多く、夕庵も事に触れて信長を諌めた。

或る時、夕庵が申し上げた
「朝廷の節会が久しく廃絶して、中老以下の者では礼楽の事名も知らず、勿論見聞など夢にも
経験がなく、哀れにもその様になって十年あまりも過ぎたため、我が朝の礼楽は跡形もない
有様です。
国家を治めるには礼楽の正しきを以てする事、和漢の流例であり、哀れにも浅ましいことです。」

こうしめやかに語った所、信長がそれを痛ましく思う表情は、涙もさらに咽び顔であった。
上下万民を一子として天下を慰撫したいと二六時中励んでいるその耳に、どうしてその言葉が留まらない
事があるだろうか

「直ぐにお前たちで対策を計るように。そういった事は誰に問えば良いのか?」

「何と言っても、禁中伺候の老者たちでしょう。」

そこで誰彼と人の薦めるにまかせて問いただし「先ず何から初めて興行すべきか」と
詳細を求め、菅屋久右衛門尉(長頼)、武井夕庵を以て夫々改めた。
節会、あるいは謡物などにおいて、中老以下の諸卿殿上人も、まるで今はじめて稽古するようで、
大変趣深かった。

このようであったので、貴賤おしなべて、この右府信長公は末世において稀なる大将であると
誰言うと無く諷した。

(甫庵信長記)

古を尊び旧来のものを復興する事に熱心な信長



201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 19:22:27.49 ID:EP5h4uYx
>>200
意外と皇室を大事にしてるんだよね~。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 20:46:30.27 ID:hlLUN9am
朝廷・公家に対してラディカルにめちゃくちゃやらかすのは秀吉のほうがよほどひどいのに、
なぜかそのイメージが信長についちゃっているんだよなぁ。

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 22:15:31.40 ID:Hw58TqZF
まるで儒者だな
国学者の書いた創作の文ではないか?

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 22:42:27.63 ID:CBq0+MkX
朝廷にこまめに献金してた=皇室の権威を重んじていた大名って、毛利家と織田家ぐらいしかわからん。
朝廷が間に入れば両家の和睦ができたんじゃねえかと思う。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 23:32:48.70 ID:3GVdf7rN
信長以前は大内が莫大な献金してた

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 07:46:09.66 ID:0Yr8qeZS
信長のは親父譲り

各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に

2018年08月21日 19:43

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 14:29:17.07 ID:UbRWxlbF
去る程に、天下泰平に治まり行くによって、大名小名は尽く安土に集まり、織田信長に対し
歳暮の御礼を申し上げた。棒物(歳暮の御礼の贈り物)の類の夥しさは、限りもないほどであった。

明ければ天正6年正月の早旦、信長より諸侯大夫へ御茶を下されると兼ねて仰せが有ったため、
寅の刻(朝4時頃)より登城された。その面々は、まず三位中将信忠卿、羽柴筑前守秀吉、
二位法印(武井夕庵)、長岡兵部太夫(細川藤孝)、林佐渡守(秀貞)、長谷川丹波守(与次?)
惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)、滝川左近将監(一益)荒木摂津守(村重)、市橋九左衛門尉、
長谷川入道宗仁、以上11名であった。

お座敷の構は、六畳敷に四尺の縁、床には彼岸の絵、中に万歳大海、右に松島、左に三日月。
花の水差し、周光茶碗、うば口の釜、竹筒の花入れといったものであった。

信長は自身で迎えに出られ、座敷へ招き入れた。そして手づから配膳された。
この座の衆の中には後に、あまりの事に何を食べても、一切物の味の記憶が無いと言った人もいたとか。

御茶過ぎて、その日出仕した者達へは、諸大夫までは三献の土器(かわらけ)を、福富平左衛門尉、
矢部善七郎、大津伝十郎、大塚又一郎らの御酌にて下された。
平侍以下にはお通り(お通し)が出された。

翌日、大名小名尽く召されて「殿守見参らせよ」と、名物の茶器をかれこれと御見せになり、
南蛮、大明、珍奇の茶の子、数を尽くして下され、その後こう言われた

「各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に、この山が成就した事は、誠に珍重余りある。」

そう再三に仰せに成ったため、諸侯大夫は皆、感動に首を地に付け御返事を申し上げる者も無かった。

同じく4日に、信長より信忠へ贈られた数寄道具が、万見仙千代(重元)の所で御開きになったが、
羽柴秀吉、武井夕庵、宮内法印(松井友閑)、林秀貞、滝川一益、長谷川与次、市橋九郎左衛門尉、
丹羽長秀、長谷川宗仁、以上9人を召されて、終日丁寧のおもてなし、誠に善尽くし美を尽くされた。

(甫庵信長記)

この時は「お前たちが頑張ってくれたおかげだ!」って言ってるのに、何故甲斐征伐の時「我々も頑張ったかいがありました」
って言った光秀はあんな目に…



191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:03:49.56 ID:hEIi7MKj
信長は躁鬱の気がありそう、自分のメンタル具合によって似たような場面でも処置がまちまち

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:05:49.13 ID:CBpikV1D
>>190
仕事を頼まれる時と、仕事をこなした後で
上司の腰の低さが変わるのはブラックあるある。

上司『工程ミスったんで、しばらくサビ残よろしく』
部下達『…』
上司『俺のミスだから晩飯奢るし…取敢ずやって』
後日
部下達『やっと終わったけど、上のミスでサビ残とかきついよねw』
上司『会社批判か?こ○すぞ!?』

193 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/21(火) 15:50:12.38 ID:bCT5bmSJ
飯食ってるなら仕方ないね

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 07:17:12.20 ID:jZ5eq/tb
小姓たちじゃなくて福富や矢部たち奉行らが酌をして廻るのか

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 07:29:32.93 ID:CLHFQZxu
滝川が地方に飛ばされると茶会ができなくなると嘆く気持ちがこれでわかった

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 12:20:47.49 ID:AAf+nT0O
>>190
光秀は対武田において何か貢献してたか?
おべっか使うような家臣は折檻されて当然だろ

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 12:56:14.23 ID:PXuG0xCs
おべっか?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 13:43:03.41 ID:JOs6uGd/
ノブは新興成り上がりベンチャーの神経質社長やからな
そういう人物にありがちなステレオタイプの性格だったんだろう

仕事ができても人間性終わってるやつは今も昔もごまんといる

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 14:58:18.12 ID:L+C5gw+1
忠興さんとか鬼武蔵さんとか・・・

織田信忠三位中将任官

2018年08月19日 19:22

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 23:37:53.43 ID:rihvtvBY
天正5年(1577)10月、松永久秀の反乱を滅ぼした織田信忠は、13日上洛した。
この時主上(正親町天皇)より、「今度凶徒たやすく退治せしむるの條、尤神妙」の旨叡慮あり。
三位の中将に叙せらるべきと、三条大納言を勅使として仰せくだされた。

信忠は勅使に向かって申し上げた
「厳かの旨、誠に生涯の面目と申すべきことです。であればこのように申すのは恐れ多いのですが、
昇殿の義を軽く御請いたす事には恐れあるべしと。愚夫(信長)より制せられております。
それゆえ安土の父に尋ね伺い、その上を以てご返事をしたいと存じています。如何お思いでしょうか。」

勅使は「それ迄には及ばぬことです。」と申したが、「問わなくては勅答も如何」と
再三申し上げたため、大納言は帰参して、この様子を奏上すると、主上も
「武勇智謀有る上に、謙徳をも守り、父の命を重んずる事のいみじさ、このような人物にこそ。」
と、君も臣も感じ入った。

さて、信忠より信長に飛脚を以ってお尋ね有るに、翌日未明に帰った。この返書を開いて見ると
『今度古兵の松永を早速に退治せしめる事、最勲功の至りである。然らばはや勅諚に従い奉って、
三位の中将に任ぜらるべき。』
そう書かれていたため、信忠は昇殿された。目出度いことである。

そしてお供の人々は過半が一両日も前に先立った後、同17日に、僅かに小姓ばかりを召し連れ
安土にお出であって、信長に御礼申され、そこから岐阜へと下った。

(甫庵信長記)

織田信忠三位中将任官のお話



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 00:12:08.90 ID:Vh+8MRXk
城介はボンクラ扱いされる事が多いけど生き残れば柴田、丹羽はもちろん徳川、羽柴もただ従うしかない程の権威はあったと思うけどな

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 02:22:35.77 ID:MMEWa7kR
主人に断りもせずに叙せられ昇殿しちゃうのは凡夫義経くらいだろ

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 09:00:02.00 ID:7FRGYrbc
信忠がボンクラとは初めて聞いた

【話題】織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光

2018年07月18日 17:15

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 17:16:20.74 ID:HBQe+2EB
https://newsphere.jp/culture/20180714-1/
織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光 ハリウッド映画化も


映画化か、面白そうだけど、まさか白人がノブ役するんじゃないだろな



82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/17(火) 20:53:55.29 ID:pQPinb+R
欧米からすると衆道はどうなのかな??ウィーン少年合唱団みたいなもんか…

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 22:45:35.41 ID:H5KjFGzu
古代ギリシャから中世修道院にいたるまでやってることだから違和感ないんじゃない

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 23:37:05.03 ID:IibntZeN
弥助とホモだちだったの?
特に関係なきゃスルーでしょ

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:24:12.40 ID:uXyvS12w
キリスト教宣教師からは強く非難されたらしいけど。 主に、大内義隆が。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:40:54.03 ID:0wRJjWz4
どうしてすぐ衆道と結びつけたがるのか

常在寺の盛衰

2018年07月15日 17:55

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:07:50.52 ID:SA5mBLDe
永禄7年の9月中旬、織田信長は稲葉山城に移り、これを岐阜と称した。
この城の麓にある常在寺は、もともと寺領五百貫があったのだが、この時織田家によって没収された。
しかし由緒ある寺だったため、住職の日韵上人の申し出によって、日野村にて百貫文の朱印を賜った。

その後、信長は江州安土に城を築いて移り、嫡男信忠を岐阜城の守とした。
天正10年6月2日、明智光秀の謀反により信長信忠父子とも、京都にて生害した。
その後当城は信忠の長男である秀信の後見として、神戸三七信孝が住んだが、天正11年に柴田勝家と結んで
秀吉と戦い、これによって当城を去り、尾州野間の内海にて26歳にて切腹した。

この乱で常在寺も兵火に巻き込まれ、信長より賜った朱印やその他の遺物が焼失した。
しかし後に寺は再興された。

信孝の跡に岐阜城に入ったのは、少将豊臣秀勝であった。彼は織田秀信の後見であったが、
朝鮮の役の時に、肥前名護屋へ出陣し、彼の地にて病死した。

慶長5年、岐阜中納言秀信は石田三成に与して、東軍により岐阜城を攻め落とされ、終には紀州高野山に入って
没した。この時の兵乱で、瑞龍寺も焼けたが、後に再興された、しかし常在寺は、この秀信の時までは、
信長より賜った日野村百貫文の朱印地よりの収入を相違なく給わっていたのだが、秀信が滅んだ後は
寺領が断絶し、常在寺に今残るものは、斎藤道三の画像と、斎藤龍興の寿像だけである。

斎藤道三の画像は、道三が信長の北の方の父であることから、彼女が建立したものであり、斎藤龍興の寿像は、
その子息である龍興が建立したものだという。

(土岐累代記)

稲葉山の麓にあった常在寺の盛衰



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:42:02.56 ID:WP6C3Ozs
織田家がいなくなったら、領地の保証もなくなったわけか。しかし、頻繁に焼けてるなあ・・・

なにやってんねん織田家

2018年06月29日 18:16

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 19:52:50.59 ID:uDHlqSWM
大阪の陣が終わった後、京都ではもっぱら女能が流行した。

その頃、吉野という傾城の太夫が四条河原にて能を興行していたが、これを織田上心(常真・信雄)が
お忍びで見物をしていたところに、織田宇楽(有楽)も見物に来ており、ここで常真の衆と有楽の衆が
喧嘩と成った。
これにより双方多くの侍が死亡し、また能舞台も完全に破壊されるという、殊の外大きな騒動と成った。

この事件があったため、女能は固く禁止と成った。

(長澤聞書)

アイドルのライブで乱闘騒ぎ起こしたようなものか。なにやってんねん織田家



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 20:36:11.72 ID:z4iy15Aq
>>889
>能舞台も完全に破壊される
とばっちりにもほどがあるw

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 21:02:27.51 ID:7FJJQwwj
喧嘩という名の局地戦。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 22:20:16.12 ID:/ZvrGPKO
女能って言えばその芸女は遊女も兼ねてたから、きっとアフター権利を巡って争ったんだろうな

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 12:59:47.65 ID:aCJ1kYtX
阿国歌舞伎もレズビアンショーみたいなものだったしな

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 13:27:21.37 ID:5kUak/hA
あら^~

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 19:45:30.05 ID:Fy+Q12xR
どこからそうなるんえ?

岐阜四天王(ただし一人)

2018年06月03日 18:24

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 17:55:52.18 ID:PvhrymRI
岐阜四天王(ただし一人)

 「常山紀談」178話(巻12)は、関ヶ原の戦いの前哨戦、河田木曽川渡河の戦いにおい
て、池田輝政家臣の森寺長勝が、織田秀信配下の飯沼小勘平を討取ったエピソードである。
互いに傷を負いながら、最後は組打ちで、小勘平は討取られる。まあ、合戦場での戦功と
いう良くあるエピソード。
 しかし、本エピソードが印象的にするには、飯沼小勘平の肩書き。「岐阜四天王」の一
人と称されるが、四天王のうち、他の三人が誰か不詳という。現代語訳本の解説には、
「俗に、『岐阜四天王」は小勘平以外にその父勘平長実が入るともいうが、残り二人とと
もに未詳」と書かれている。つまり、確定一人、不確定一人、ほかは名前も伝わらない。
 四天王(五人)とかよく冗談にされるが、充足率半分以下というのは、あまり聞いたこ
とないなあ、と。

 ちなみに、飯沼小勘平を討ち取ったのは、池田長吉という説の方が有力らしいが…
若武者・飯沼長資
ttp://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/nagasuke.html



840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 19:26:55.57 ID:C7getkxy
>>839
>岐阜四天王(ただし一人)
雑すぎて草

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 20:04:39.33 ID:bFotNPBF
残りは百々綱家と木造長政と斎藤元忠が入りそう
あと加えるなら滝川主膳か

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 21:22:55.20 ID:QZ7pvvdB
秀信は身分のわりに石高なんでこんなに低いんだか…

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 01:57:22.27 ID:VAgWHEJe
実績がないから

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 03:18:46.58 ID:815y0WmW
朝鮮に行った実績はあるお

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 09:41:31.16 ID:+J45hqnd
あとは四天王(2人)と四天王(3人)が揃えばコンプリートだ

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 16:12:17.59 ID:U+nzB9tZ
憲政四天王、という言葉があるか知らないが
伊藤博文、板垣退助、大隈重信
(国会議事堂の台座は四つあるのに
「憲政に終わりはない」ということで3人の銅像だけ)
わざと一つだけ空席にするというのはあり得るかも
それか武田二十四将みたいに当主が含まれるから実質マイナス一人とか

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 19:35:37.84 ID:pYE9vd5P
四天王って5人いるもんだと思ってたわ

息子が分別無く深入りしたのだ

2018年05月04日 14:26

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 22:44:30.19 ID:02WQirZy
織田信長が甲州に出陣するとして、安土を出立し美濃国呂久の渡において、信濃国伊奈郡
高遠の城主仁科五郎(盛信)の首が曲げ物に入れられ織田信忠より飛脚によって届けられた。
その首は大髻にて、年齢は20ばかりに見えた。

首が届けられると、信長の近習であった菅屋九右衛門(長頼)、野々村三十郎、福富平左衛門、
オロシ彦右衛門といった者達、馬より飛び降り

「御出陣したばかりで五郎の首が届けられたこと、大変めでたいことです。」

そう賀して申し上げると、忽ち信長の機嫌が変わった

「何を以てめでたいというのか!?若輩なる奴原が深入りして追い立てられたらどうなるか、
面目を保ったまま討ち死にできるのは滝川(一益)一人だけだ、他の者達は芭蕉の葉で
位牌を払うような有様に成るだろう。
先陣の者達が残らず討たれたとしても、後陣が遠方ではすぐに弔い合戦をすることも出来ない
ではないか!」

そう殊の外の御気色であり、息子が分別無く深入りしたのだと思っておられた。

(祖父物語)



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:11:21.12 ID:vUy0oAOP
武田を心底恐れていた信長ならではの慎重論

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:20:37.16 ID:Z/z82csV
武田の東濃侵略の際、馬場の800の兵に恐れをなして1万の織田軍が撤退するぐらいだからなぁ。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 10:39:43.81 ID:FnXiDPmu
この時期の史料を読めば判るけど信長は武田を恐れてはいないね
武田にちょっとでも噛みつかれて「自分の評判が傷つく事」を恐れていた状態

日本の歴史を大きく変えた偽メール事件

2018年05月01日 21:09

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 00:20:36.62 ID:QiEhFTVJ
桶狭間の戦いの直前、三人の武将が無念の死を迎えた。
二人は鳴海城主山口教継と桜中村城主山口教吉の親子、一人は戸部城主戸部新左衛門である。
三人の城は織田と今川の勢力が衝突する最前線に位置しており、しかも一里以内に集中していた。
どちらがどちらを攻めるにも、ここを落とさねば話にならぬという要衝であった。

この三人、織田信秀の代までは織田家の忠勇なる武将であった。
ところが信長とかいう、うつけの若造に愛想をつかして今川方へ寝返ってしまったのである。
これが今川義元に尾張侵攻を決断させた一因とも言われている。

当時の信長の力量ではこの三人を倒すことは到底不可能。
そこで祐筆に猛練習を命じ、三人の筆跡を真似た偽の書状を作成する。
「信長くんへ、やっぱり義元を裏切って君んとこ戻るわ」
これを商人に変装させた森可成に持たせ、今川方へ持ち込ませた。
さても今川義元、この偽書状を信じ込み三人を呼び出した上まともに調べもせず処刑してしまった。

この事件が無ければ今川義元は悠々楽々と尾張を併呑した事であったろう。
信長は良くて臣従、悪ければ織田家ごと滅んでいただろう。
日本の歴史を大きく変えた偽メール事件である。

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 04:51:08.74 ID:QiEhFTVJ
さて、織田家を裏切った挙句に謀殺された山口教継・教吉親子ですが、家臣に成田弥六・助四郎という武将を抱えていました。
彼らもまた、大声出せば聞こえるほど御近所にある鳥栖城の城主でした。(この地域は徒歩一時間で六つの城を回りきれるくらいの城密集地帯でした)
成田氏は赤塚の合戦で山口氏に従って織田勢と戦ったのですが、その後は山口親子を裏切って織田方についています。

この結果、主家を裏切った山口氏の城と、主家を裏切った主家を更に裏切った成田氏の城の間が織田勢力と今川勢力の境界線となりました。
ちなみに山口氏の桜中村城と、成田氏の鳥栖城は200メートルほどしか離れていません。
尾張者のフレキシブルな生き方は、お隣の頑固な三河者と見事な対比をなしていますね。

されどこの成田氏、その後の行跡はあまり残っておりませんが敢えて挙げるならば、
子孫で尾張藩士だった成田甚右衛門がある日突然「平和が好き!戦は嫌い!」と刀を折って帰農したことくらいでしょうか。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 20:54:47.50 ID:uxusBUfH
>>700
三河者=頑固も後から作られた物語でしかなくて、家康がガチっとまとめるまでは誰もが転身しまくりなんですけどね

信長と云う者だ。

2018年04月27日 21:34

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 22:26:16.06 ID:Yot5dwqf
豊臣秀吉の小田原征伐の頃、尾張清州城の城代は植原加賀守という人であった。
彼は元々甲州からの巡礼であったが、織田信長が鷹狩をしていた折、六角堂にて
この巡礼の姿を見て、尋ねた

「汝はどこから来た者だ?」
「甲州者です。」

すると信長は聞いた
武田勝頼はうつけ者であり、悪しき法度の運用をしているというが?」
巡礼は答えた
「その事であります。彼は人を釜で炒り殺し、臼にて突き殺すなどしています。」

信長は呆れた
「それは勝頼が食うつもりなのか?勝頼は小気なる故にそういう事をするのだ。天下の望みは
成らないであろう。汝は奉公をする気はないのか?」

「それよりも、あなたは一体何者なのですか?」

「信長と云う者だ。」

巡礼はひれ伏し「何であっても奉公仕りたく思います!」

そこで信長はこの巡礼を即座に召し抱えると、彼を召し連れ、程なく御手のかかった
女房を下され、清須の城代としたのである。

(祖父物語)



814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 02:26:57.60 ID:ORHXMRvf
嘘くさい

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 07:46:22.58 ID:2ugiwSuW
>>814
永録10年11月の信長の朱印条によれば美濃で20貫の地行を貰ってるみたいだね
本当は勝頼じゃなくて信玄なんじゃないかな
埴原の出身である埴原谷てのが信濃(!)のどこにあるのか知らないけど、信濃では信玄の評判が良くない所もあったわけでしょう
又聞きの間に色々と入れ替わっていそうな気がする

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 08:31:36.59 ID:z6z/Bm5p
>>815
信玄と言うか武田の評判って甲斐以外だと酷いもんだからなぁ
特に信濃と上野

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 09:59:15.65 ID:+HCTm/8h
信濃は場所によるが

818 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 18:11:01.95 ID:LH5poK+P
信濃は北が武田アンチで南が武田贔屓と聞いた