これよりしてこそ、信長公の名誉は

2017年03月19日 15:44

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 03:49:08.21 ID:WspcWOTG
今川義元の討死により、)残る敵どもはどうして少しでも溜まることであろうか、総軍一度に敗北して、
四角八方へ崩れ立ち、後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、

ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。さてもこの合戦の場“桶狭間”というところ
は山の狭間、深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、逃げ行く者どもはいっそうに
途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、首を2つ3つずつ討ち取って、信長公の御前へ参った
ところ、首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、御馬の先にその首をもたせ、
勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、はるばる後陣にいたところで義元の
討死と聞き、馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、「まことに命は義によって軽し!」と言い捨てて、義元の
討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、伊井肥後守、笠原等が一所で討死
した。三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を
始めとして、駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。また3千ともいう説もある。
これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

――『織田軍記(総見記)』
スポンサーサイト

平手政秀は優美な男であった

2017年03月16日 21:17

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 06:35:00.73 ID:IzqYErIF
平手中務丞政秀は思案を廻らし、何とかして清洲勢(織田大和守家)を味方にし、
一国の乱を静めようとして、様々に和睦のことを取り扱ったが、

清洲の家老・坂井大膳、同甚介、河尻(与一)らの同意なくして、年内<天文17年>
は打ち過ぎた。ようやく翌年の春の末に、互いに同意して差し障りなく和睦させた。

政秀はそもそも優美な男であったため、その頃、大膳、甚介方へ和睦珍重の旨の
書札を遣わした。その端に一首の古歌を書き付けたという。

「袖漬ぢて 結びし水の 凍れるを 春立つ今日の 風や解くらん(紀貫之の歌)」

――『織田軍記(総見記)』


「織田信長は類なき大うつけ者」

2017年03月10日 13:11

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 03:14:47.66 ID:wBEwJPR7
さて、信長公は17,8の御歳まで、特別の御遊びをなさらず、朝暮武芸を御好みになり、
日夜合戦の御嗜みであった。

弓の師は市川大介、鉄砲の師は橋本一巴、剣術の師は平田三位で、この者どもを
毎日召し寄せて稽古しなさった。朝夕、馬に乗りなさったが馬も優れた上手であった。

3月から9月までは、河水の遊びを御好みになり、たいそうな、水練の達者であった。
その頃、若侍どもを呼びなさり、竹で叩き合わせたのを見なさると、

「とにかく、槍は短き柄は良くないであろう。長柄に優ることはあるまい」と、仰せになり、
三間柄、あるいは三間半の柄で槍を拵えさせなさった。

その頃、信長の御行儀は甚だもって異相であった。日頃着なさる帷子の両袖をほどき
なさり、半袴や燧袋など、色々数多のものを身に付けなされた。

御髪は茶筅頭に紅糸、あるいは萌黄糸などで巻き立て結いなさり、太刀は朱鞘で皆
ことごとく赤武者の出で立ちにするよう仰せ付けなさった。

さてまた、鷹狩りを御好みになり、鷹野に出なさる時に毎度町を通りなさると、人目を
少しも憚らず、栗や柿、梨を馬上でかぶり食い、町中では立ちながら餅などを食い食い
通りなさった。

あるいは人に寄り掛かり、または人の肩に取り付き、連なりぶら下がって通りなさった。
その頃、世間は古風を慕って人は皆公方家の礼義を忘れず、儀式を好む世であった故、

このような異相であったから、近国や他国は押し並べて「織田信長は類なき大うつけ者」
と、申し合った。

――『織田軍記(総見記)』



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 04:43:13.72 ID:e8L42e2/
三男坊だしええやん

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 08:09:59.39 ID:Ku4oyBYM
順序は関係ない
嫡男やし

すなわち御名を織田三郎信長と付けなさる。

2017年03月09日 20:38

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 04:04:26.09 ID:v5m1NhMr
さて、吉法師殿(織田信長)を名古野(那古野)の城に差し置きなさり、備後守殿
(織田信秀)より、林新五郎(秀貞)、平手中務(政秀)、青山与三右衛門(信昌)、
内藤勝介、この4人が家老に付けられ、もっぱら傳り立て奉った。台所(財政)の
賄いは平手中務が奉行したということである。吉法師殿は内外共に、ことのほか
困窮しておられた。

成長に従い天王坊という寺へ毎日登山して、手習いをなされたが、すでにその頃
から気性は異相にして世の常人とは違っていた。信秀は古渡の新城におられた。
台所賄は山田弥右衛門がこれを勤めた。

かくて天文15年に吉日良辰を選び、吉法師殿は四家老を召し連れ、古渡の城へ
参上なされて、その城内で元服なさった。御歳積もって、13歳ということである。

備後守殿は怡悦なさり、上下の身分とも御祝いの酒宴をなさった。すなわち御名を
織田三郎信長と付けなさる。

翌天文16年、信長公は武者初めとして三河へと御出陣となった。この時、信長公
は紅筋の頭巾と羽織、馬鎧の出で立ちだった。これは、平手中務が計らい申した
ということである。

さて三河へ至り、今川家から人数を籠め置いていた吉良大浜という場所で信長公
は民屋を焼き払い、その日は野陣を張って一宿され、翌日に名古野へ帰陣された。

これが信長公の陣初めである。

――『織田軍記(総見記)』



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 07:48:00.48 ID:577KVNZe
宿舎を焼いて寒空の下で泊まるなんてバカな奴だな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 08:12:59.84 ID:O8/yWz+H
家康「というわけで信長公にあやかるため、秀忠の傅役には青山と内藤をつける」

浅井殿を打ち潰そうと心がけなさったことによって

2017年03月07日 21:34

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 02:24:25.85 ID:f/PBwvWV
信長公はもともと上戸である。浅井殿を妹婿に取って後、浅井殿を
何とかして、打ち潰そうとの謀ばかりを心がけなさったことによって、
大酒を止めなさったという。

――『武功雑記』

桶狭間の戦いの時

2017年03月05日 18:35

697 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:56:50.58 ID:yOjylQgb
(桶狭間の戦いの時、)さて、信長公が「今日の合戦は首を取るべからず! 打ち捨て
にするべし! この戦場へ出た者は家の面目、末代の高名であるぞ!」と、諸勢を
勇めて攻め掛かりなさると、

先駆けの前田犬千代(利家)生年18歳、毛利河内(秀頼)、森十助、木下雅楽助、
中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人などが高名をなし、
手に手に首を持って来た。

信長公は御感あって、「皆々旗を巻き、忍びやかに山際まで押し付け、敵勢の後ろの
山を押し廻り、義元の本陣に打って掛かれ」と下知しなさった。この時、簗田出羽守
が申し上げるには、

「敵は今朝鷲津・丸根の両城を攻めてから未だ備えを変えていないはず。この分にて
攻め掛かりなされば、敵の後陣は先陣となりましょう。只今、この口より突き掛かって、
差し向かいなされば、必ず大将・義元を討ち取ることでしょう!」

とのことで、これは甚だ御心に叶うと信長公は御満足なされた。さて、忍んで山際を
御廻りなさると、にわかに急雨が降り、石などを投げる如く敵の顔へ風が吹きかけた。

敵にとっては逆風、味方には後ろから吹く風である。余りに強い雨風で、沓掛の山の
上に生えている、二峡三峡の松の木や楠の木なども吹き倒すほどである。

「これは只事ではない。熱田大明神の神戦、神風か」などと、言うほどであったので、
味方の大勢が廻り来る物音は、少しも敵には聞こえなかった。

698 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:59:19.28 ID:yOjylQgb
かくて雨の晴れ間を御覧になり、晴天になると等しく、信長公は槍を押っ取り真っ先に
御進みになり、「掛かれ掛かれ!」と大声をあげて下知しなさるところを、森三左衛門
(可成)が申し上げて、

「味方が下り立ち攻め掛かれば、敵はきっと備えるでしょう。ただこのまま馬を入れて
乗り崩しなされ!」と言い、信長公はもっともであるとして、

毛利新助(良勝)、林佐渡守(秀貞)、織田造酒丞(信房)、簗田出羽守、中条小一郎
(家忠)、遠山甚太郎、同河内守等が、大将に打ち続いて一度に馬をどっと入れ、

その勢いは勇みに勇んで黒煙を立てて駆け破れば、敵陣は思いも寄らぬところへ、
にわかに攻め掛かられ、心ならずも後ろへさっと崩れてしまった。敵どもはあまりに
慌て騒ぎ、喧嘩かと言う人もあれば、謀反人や裏切りかと思う人もいた。

取り捨てられた弓や槍、鉄砲、旗指物は算を乱すに他ならない。なかでも、義元の乗り
なさっていた塗り輿を捨て置いた。信長公はこれを御覧になり、「敵の本陣に疑いなし!
ますます追い詰めよ!」と、同未の刻、東へ向けて追い掛けなさった。

初めは3百ばかりの敵が義元を囲んで退いたのだが、繰り返し繰り返し追い付かれて
2,3度、4,5度取って返しては討死し、次第に次第に薄くなった。後にはようやく50騎
だけが取って返して戦っていたところへ、

信長公を初めとして皆々が馬から下り立ち、若武者は互いに先を争い、しのぎを削って
鍔を破り、切っ先からは火炎を出して散々に戦う内に、手負いや死人は数知れず。

今川義元は無双の勇者であり、なおここまでも騒がずに諸勢を下知しておられたところ、
織田方の服部小平太(一忠)が槍で義元を突き通した。義元は太刀を抜いて小平太の
膝の口を一刀で切り割きなさった。

小平太は尻もちをついて切り付けられ、起き上がることが難しいところを、毛利新助が
やって来て隙間なく切って掛かり、義元の首を取ろうとした。義元は組み伏せられ、

すでに、刀で切ることも叶いなさらず、新助の人差し指に、がばと噛み付き、ついにその
指を食い切りなさった。新助はもとより強かな者なので指を食い切られながらも押し付け、
義元の首を取った。義元はこの年、42歳であった。

――『織田軍記(総見記)』



699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 09:10:55.55 ID:C2X6WTSC
今日の大河のネタバレされた…
まさか先週あんなに勝ち誇っていた今川義元
桶狭間で殺されるなんて…


703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 21:47:41.55 ID:/43BOv/l
    ___________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |  今川義元  | ::|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |…. |:: |2万5千で上洛| ::|   | よし、決まったな!風呂にでも入るか
  |…. |:: |          | ::|   \_ ______
  |…. |:: └──────┘ ::|      ∨
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∬  (  _)
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )
           /             \
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
             ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄

   ~30分後~
     ___________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |  桶狭間で  | ::|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |…. |:: |義元討ち死に| ::|   | ふう、いい湯だった…アレ?
  |…. |:: |          | ::|   \_ ______
  |…. |:: └──────┘ ::|      ∨
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     (  _)
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )
           /             \
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
             ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄ 


織田信長殿、内裏様を殊の外大切に思われ

2017年03月05日 18:30

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 14:02:31.44 ID:HSagfeNr
 織田信長殿、内裏様を殊の外大切に思われ、村井春長(貞勝)を奉行に任命し禁中を尽く御修理をなされた。

 このことであるうつけ者が言った。

「内裏様の御念者は村井殿じゃ。」
「なぜに。」
「今日も『内裏様のみしりをしに行く』と、日に日に御出かけされるのでそうだと思ったのだ。」

※みしり 御修理 御尻

(昨日は今日の物語)


【ニュース】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述

2017年02月04日 17:37

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 16:46:58.10 ID:qH0d9C1Q
【歴史】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述、恨み辛み込め「苛政暴虐枚挙に堪えず」弾圧時の仏教界感情示す

http://www.tonichi.net/news/index.php?id=58285

内裏の修理を完了

2017年02月03日 10:59

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:29:23.06 ID:sJ2XoiVV
内裏の修理を完了

内裏はいまや朽廃し、元の姿をとどめぬほどだったので、
信長は御恩に報いるため修理して差し上げようと考え、
先年(永禄12年)日乗朝山と村井貞勝を担当の奉公に任命した。
それから3年かかって紫宸殿、清涼殿、内侍所、昭陽舎、
そのほか諸々の建物などすべての工事を完了した。

さらに宮中の収入面において後々まで困ることがないようにと、
信長は思案を廻らし、京都市中の町人に米を貸付け、
毎月その利息を宮中に献上するよう命じた。
また零落した公家たちの領地と相続のことに関しても、復興のための諸施策を実施した。
天下万民の満足、これに過ぎるものはなかった。
信長の功績と名誉、および織田家の威勢は我が国において他に並ぶ者がいないものである。

また信長は領国中の関所を撤廃した。
点火の安泰を図り、往還の旅人の便を思いやる施策は、
慈悲深い信長の心から発したものであって、
このことにより神仏の加護も果報も誰にも増して恵まれ、
織田家がますます栄える基礎を築いたのである。
これもひとえに信長が
「道を学び、身を立てて、後世に名を残そう」
と望んだことだからである。めでたいことである。

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 11:43:11.27 ID:sJ2XoiVV
>>574
信長公記 巻4 元亀2年(1571)です


575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:40:23.32 ID:iWka4lYR
いい話だけど、その数年後に本能寺の変か・・
諸行無常、盛者必衰

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:51:25.94 ID:gB0AAng4
信長より父親の信秀が尾張守護代家臣の地位で内裏修繕費に4000貫寄進している事に驚く

津島支配だけでそれだけの経済力があるなら、子供の信長が上洛後、堺を支配したがるのも分かる

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 17:26:24.38 ID:iWka4lYR
>>582
本能寺の変の約10年前だったんですね
御貸米制度や内裏修理完成はもう少し後の話だと思い込んでました(汗)
ご指摘ありがとうございます

松阪城の歴代城主に服部一忠ってのが居た

2017年01月13日 11:31

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 23:06:38.30 ID:hQcVxIgQ
この間行った松阪城の歴代城主に服部一忠ってのが居た
http://i.imgur.com/BvILZWf.jpg
BvILZWf.jpg


誰かと思って調べたら今川義元に槍をつけた服部小平太だった
すげー出世したんだなと思ってたが最期は秀次事件で連座切腹...



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 09:26:45.98 ID:79vl6XnC
その人信長の小説で桶狭間の場面で毎度出てくる有名人じゃん
最後そんなことになってたんだ

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 12:21:26.02 ID:cnMSw6Qs
そして毛利新助は本能寺の変で信忠と一緒に討ち死に
三人まとめると赤穂浪士の毛利小平太元義になってしまうな

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 18:25:00.95 ID:ALhyLUvV
吉良義央-吉良義冬-女-今川範以-今川氏真-今川義元
討ち入り前日に脱盟した毛利小平太が吉良義央を討ってたら
吉良義央は祖先同様、毛利と小平太に討たれた、と話題になったのに

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 20:41:28.73 ID:AHLvRmkW
>>512
今川から吉良になったかのような印象をうける
西条だから今川との結び付きも強かったんだろうなあ

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 20:53:20.45 ID:QLhwJ8hg
今川義元「わしを弔うためにわしの孫が和尚となって、わしの号(栴岳承芳)を元に『せんがく』と
名前をつけた寺なのに、なぜこの寺に来た者はわしの子孫を殺した奴らの墓に参拝しに来るのだ」

白熊の引きまわしなどでは、

2017年01月12日 08:38

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 04:42:22.31 ID:fItAvr7B
信長の御前へ武者修行を致しているという武功の者がまみえた。

冑に白熊の引きまわし(引き回し合羽)をつけて、甲立に立てて
出たのだが、公は見なさって、

「この者は手酷き合戦に、いままで合わなかったものだと見える。
白熊の引きまわしなどでは、なかなか戦の急な時には、叶わない
ものである」

と、仰せになったということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



承諾の無い以上は、力及ばず

2016年12月01日 16:13

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 04:29:29.58 ID:tN7pLp6l
信長は9月11日(元亀2年)、勢多の山岡玉林斎(景猶)の所に
止宿しなさった。

「明日、叡山を攻め崩すべし」との旨を言うので、佐久間右衛門
(信盛)並びに、夕庵入道(武井夕庵)が達て諫言に及んだ。

信長は曰く、「去年、汝らをもって懇意の言葉を尽くしたが、承諾
の無い以上は、力及ばず」と、理を尽くして言うため、

彼らの考えは及ばず、各々は未明に出発致した。

――『当代記』



長篠に後詰のため出陣すべきや否や

2016年10月14日 21:15

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 21:46:35.99 ID:bYvnjc+T
織田信長は、毛利河内守秀頼、佐久間右衛門尉信盛を召して聞いた

「長篠に後詰のため出陣すべきや否や。各々、異見を申し述べよ。」

先ず、毛利秀頼が言った
「御出陣は無用です。何故ならば、味方は大軍ですが新参の集まりであり、武田方は小勢ですが、
信玄以来磨き上げた精錬の兵たちです。また長篠は切所が多く、大軍の駆け引きが自由にならない場所で、
小勢に利があり大軍に不利な地です。

今回の戦いに勝ちを得るためには、敵を広場に誘い出すよりほかありません。ですが武田には、
馬場、内藤、山縣ら武功者の老臣たちがあり、このような計略には乗ってこないでしょう。
そして実際にそのような結果になれば、我らは徒に対陣の日を重ね、その間に武田は、
瀧川あたりの切所に押さえを置いて、長篠城を攻め落としてしまうでしょう。そうなれば、
織田徳川の両旗にて、しかも敵に倍する大軍を率いて後詰しながら、目前に城兵を見殺しにし、
出来ることも出来ずおめおめと御馬を返す事となり、天下の嘲りを受けるでしょう。

無理な合戦をすれば、必ず負けるものです。」

これに対し佐久間信盛は言った
「毛利殿の申される所、至極尤もです。ですが万一御出馬無い時は、かねてから徳川と取り交わしていた
御誓詞は水の泡となり、家康は武田方と合体するでしょう。そうなれば御当家は甚だ手薄な状態となり、
今後の御家運もいかがかと考えます。

ですから、この度は勝っても負けても御出馬あるべきです。」

信長はこの意見に賛同した。
「これはおもしろき右衛門が言葉である。早々に出馬いたそう。」

ここで佐久間は更に申し上げた
「御合戦に御勝ちなされたいのなら、御勝たせ申し上げましょう。この事について、私に一つの才覚が
あります。何とそ信盛に一任してください。但しこれは、私が武田に心を通じてこのような事を
言い出しているわけではありません。後日の証拠に、起請文お手元に差し上げ置き、その上で武田に対する
計策を申し上げます。」

そして誓書を献じた上で述べた
「先ず長坂長閑、跡部大炊助の両人に金を取らせて謀りたいのです。」

「易き事である。何なりと取らせてやる。良いように取り計らえ。」

「では金銀に添えて、光忠の脇差も賜りたく存じます。」

こうして信長は家康家臣の小栗大六重常を召して「近日出陣する」との意向を伝えた。
大六は大いに喜び、御前を下がるとそのまま岐阜を出立して急ぎ浜松に帰り、あった次第を詳細に
家康に伝えた。家康も大喜びし、即座に陣触れをして岡崎まで出陣、信長をここで迎えるとした。

信長は浜松に返事を済ませると直ちに陣触れを行い、5月13日岐阜発陣、熱田に着陣後、桶狭間勝利の
吉例を用いて熱田神宮に参詣し、神官の田島丹後守、惣検校の千秋喜七郎に御目見得を許した。
この時、内陣において轡の音がし、これに信長は歓喜した
「この合戦、神明の加護を以て勝利を得れば、当社は勿論、八剣の破損、及び末社に至るまで残らず造営、
修理いたそう!」

そして翌15日、岡崎城に着陣した。

(長篠軍記)




『心掛けた武辺は、おのずからの武辺に優っている』

2016年10月13日 17:55

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 04:37:15.61 ID:p8RqE2DR
昔、江戸大普請の時、人の家居も未だ定まらず、大名高家の屋敷取りがここかしこに
あった。ある大名は屋敷の中にいかにも趣のある小屋掛けなどをしておられたのだが、
夏の時分に狭い所で蝿が多く、払いかねなさり、

13,4歳の小姓に蝿を打たせ、主人も蝿打ちを持って蝿をお打ちになっていた。この時、
主人は、「驚いたか!(おほへたる哉)」と言って、その小姓の背中を強く打った。これに
小姓は驚いて怯えてしまった。

小姓は心の中で、「このような面目なきことはないぞ。今の有様ほど滑稽なことはない。
『未熟な者だなぁ』と思し召されては、恥ずかしきことだ! あぁ、仏神の恵みあって、
いま一度お打ちになって下されよ!」と、思って、

蝿を打ち参っておると、しばらくしてまた初めのように、主人は言葉をかけて仰々しく
お打ちになったが、小姓は少しも騒がずに蝿を打っていた。主人は「汝はさっき打った
時は驚き怯えたのに、いま打ったら少しも驚かないのは何故だ?」と、問いなさった。

小姓が心に思ったことをありのままに申すと、主人は深く感心して、「信長公も秀吉公も
『心掛けた武辺は、おのずからの武辺に優っている』と、仰せになられていた」と、言い、
朋たち(意不詳)の大脇差に時服を添えて、その小姓へお与えになったという。

――『備前老人物語』



242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 06:08:27.64 ID:6i3gVmaF
誰なんだろう。あの人っぽいが。

赤座七郎兵衛は鉄砲頭である

2016年08月24日 18:14

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 04:21:00.00 ID:QmNZSZ0d
中川修理太夫秀重(秀成)の家来・赤座七郎兵衛は鉄砲頭である。赤座の妻の
弟に村井津右衛門という浪人がいて、彼は赤座のところにいた。

岡城は険阻な地理で諸士の居宅はここかしこにあって続かず、10町ほど家から
離れたところには墓場があった。いつの頃からかこの墓場で、雨風の夜に物の
羽撃きと鳴く声がするようになった。

そのため化物が出て来たと言い広められ、農商女童はたいへんこれを恐れた。
こうして数日が過ぎた時、村井はある所に行って夜に入り、帰ろうと言った折、
雨風は激しく、夜も更けていた。

その帰路は前述の墓場を過ぎる所だったため、その座中の人々は、「きっと、
最近の化物が出るだろう。とにかく、ここに泊まりなされ」と、村井を止めた。

村井は「何の思慮も無く粗忽な言葉だな。こう言われては泊まるべきだろうか」と、
心中で思ったが、なんでもない体で「赤座に必ず帰ると申したので、寝ずに待って
いるでしょうから」と言って、帰った。

ところが、村井が墓場近くに来ると、羽撃いて鳴く音が聞こえた。村井は、「さては
事実だったか!」と思い、その声に従って歩み寄ったが風の絶え間に声が止んだ。

彼がこの辺だろうと声のした所に近づくと風が吹くと同時に“はたはた”“ひょうひょう”
と言って、頭の上に何かが掛かった。村井は前もって、「斬らずに捕らえてやる」と、
覚悟していたので、これを捕らえ手探りして見た。

すると、それは竹の子笠で、墓場の竹垣に掛けて置いてあったものだった。これを
外すと風が吹いても声はしなかった。村井はこれを取って帰り、とっくに寝ていた
赤座を起こして、「私は今夜、かの化物を斬り留めました」と言った。

赤座が「それは奇怪なことだな」とその事を問うと、村井は人を退かせて、「こうこうの
首尾です」と、言った。これを聞いた赤座は、「事実は言うな。単に斬り留めたという
ことにしろ」と言って、次の日に人に会いこれを語った。

つまり“はたはた”という音は笠が垣根に当たる音である。“ひょうひょう”という声は、
笠にさえぎられた風が、垣根の竹の穴に激しく当たる音である。

その後、羽撃きも鳴く声も無かったので、人は村井が斬り留めたのだと信じた。
世上で妖魔などと言い伝えるものは、その実を正せば皆竹の子笠の類なのだろう。

――『武将感状記』



37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 14:02:15.40 ID:pPGBazbw
>>36
手柄にしちゃうのか(困惑

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 14:41:12.97 ID:jO55FeWP
はやく出てってもらいたい居候だしな
妖魔退治の噂が拡がれば仕官の話くらい出てくるだろう

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 16:06:04.15 ID:v1aiHHVU
騒動の原因を取っ払って不安を解消してるんだから
手柄にはなってるしいいんじゃないか
種明かしするか妖怪退治したことにするかは
教訓話が好きなタイプは前者の方を評価するだろうけど
義兄は後者の方がいいと判断したんだろう

信長公の時代に勇者と申した者は

2016年07月20日 10:25

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 03:46:26.93 ID:cFB0egY4
信長公の時代に勇者と申した者は、

菅谷九右衛門(菅屋長頼)、安藤与兵衛、神子田半左衛門(正治)などである。
半左衛門は八右衛門の弟である。八右衛門の子の四郎右衛門は、大坂で討死した。

また他の説では、信長の時代の勇者というのは、稲葉伊予守(良通)、池田伊与守、
氏家卜全(直元)である。

美濃西方の三人衆というのは氏家卜全、稲葉伊予守、伊賀伊賀守(安藤守就)である。

――『武功雑記』




949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 09:59:34.15 ID:ZNGYzNmM
あと、鬼武蔵を止めようとした瀬田の橋の番人

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 12:29:48.39 ID:daAkwI4G
勇者として菅屋の名前があがるんだねえ
どちらかというと官僚をイメージしていただけに意外だった

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 12:56:10.58 ID:dOYI8WFy
美濃三人衆って何で4人いないの?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 14:12:18.92 ID:nMsEvtnS
伊賀伊賀守って喉風邪の親玉ですか

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 22:24:15.75 ID:2PTcoJ25
>>952
つ 不破光治

【ニュース】[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]

2016年07月08日 16:27

814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 09:41:10.15 ID:lO69aRU1
[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160708-00000021-asahi-soci


本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れた後、後継をめざした次男・信雄(のぶかつ、1558~1630)
が羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状を、中京大の村岡幹生教授らが入手し、7日発表した。日付は信長の後継者を決
めた清洲会議の3日前。秀吉に指示を仰ぐ内容で、慌てた様子もうかがえるという。
書状は、縦29・4センチ、横40・1センチ。古書市場に出品されていた。日付は6月24日。年は書かれてい
ないものの、共同で分析した播磨良紀教授が、時代で変遷した信雄の花押(サイン)の形を分析して特定した。
「そちらの様子でよきように決め、連絡して下さい。近くへ陣を寄せます」といった内容が書かれていた。本能寺
の変が6月2日。13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破っており、信雄が秀吉軍に加わろうとしたとみられる。

・・・古書市場で出品って誰が?



815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 13:32:55.55 ID:eVs+Krws
所有者

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 14:09:34.84 ID:uhV5wMs+
だいたい価値の分からない遺族が一括して業者に渡すので
業者が市場に売りに出す

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 16:10:51.53 ID:EZmvQCNr
>>814
こういうのいいなぁ、もっとでてきて欲しい。

公方が御謀反された時

2016年06月14日 17:46

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 17:15:53.28 ID:ZCjPkN6A
信長公に対し、公方が御謀反された時、
信長公が御出馬されて、上京を放火なされたことがあった。
その後連一検校が御前に出て
「このたびの御陣の洛中での騒ぎで、上下が怖がり恐れることは前代未聞のことです。」
と申し上げれば、信長公が
「そうであろう。さてその恐れたる様子とは?」
と仰せられたので、連一検校は以下の話をされた。

「上京に火がかかったと見ると、二条にいた者の妻が、
まず我が子だけでも連れて逃げればすむと思い、
三つか四つの子を背中に負い、慌てて走り、四条の橋のたもとまで逃げきった。
あまりに苦しくて、ちょっと子を降ろして休もうと思って地面の上にどっと置いてみると、
石臼でございました。」
(醒睡笑)



712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 18:27:43.12 ID:rxTBNthZ
>>711
落語みたいw

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 20:03:03.72 ID:ceKeV3cO
>>711
>信長公に対し、公方が御謀反された時、

謀反ってw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:36:16.80 ID:tavheLe0
天皇御謀反ともいうんだから公方が謀反したっていいだろ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:53:46.47 ID:F7+1vUHt
室町将軍が都を追い出されるのはよくあった事だけど
義昭の場合、昵近公家衆がついて行かなかったんだよな。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:48:29.32 ID:xgZWF6Y2
義輝の時点であまりついていかなかったそうだ
正確には京を退去するまでは従ったが、亡命先までは付いて行かなかった

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:54:02.95 ID:zYwTxKAt
>>713
信長公なんだから信長が主人公、公方は敵役

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 00:12:22.96 ID:twXBwpVX
東洋史学の岡崎文夫は魏の皇帝である曹髦が臣下のはずの司馬昭に対してクーデタを図ったのを
「浪漫的な反抗」と評してたが
義昭に対してそういう言葉を使う人はいないんかな
それともナポレオン3世の自己クーデタ(こっちは成功)のような喜劇扱いだろうか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 02:53:59.02 ID:MKd78BCA
すでに傀儡だったじゃん。実権ねえから謀叛なんだって。

御爪が1つ足りません

2016年06月08日 17:09

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 03:07:57.55 ID:/fdBuAhc
ある時、信長公が手の爪を取りなさるのを小姓が取り集めていた。
すると小姓があれこれ調べ、探し求めている様子だったので、

信長公が「何を探しておる?」と問いなさると、小姓は「御爪が1つ
足りません」との旨を申した。そこで信長公が御袖を払いなさった
ところ、爪が1つ落ちてきた。

信長公は御感心なされ、「物事にはこのように念を入れなければ
ならぬ」と仰せになり、小姓に御褒美を与えなさった。

――『備前老人物語』




814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 03:24:05.47 ID:mrEuZqdb
これが後に乱ちゃんの話になるんだっけ

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 08:13:06.45 ID:RqtV25Pc
爪を取るだなんてどんな拷問だよ
サディストはやっぱ違うぜ

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 12:54:18.75 ID:oRXpAH/t
備前老人物語みたいな逸話集のせいで
本来の人物像からかけ離れちゃったイメージを植え付けられた被害者は結構いると思うんです

織田三七殿の侍・二宮千太郎は

2016年06月02日 10:45

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/02(木) 02:37:34.31 ID:oHeDRgaS
織田三七殿(信孝)の侍・二宮千太郎は、これも博打に打ち負けて馬や物具まで取られ、
どうしようもなく三七殿の御前へ参り、

「私は不心掛けにより博奕を打ち、このような次第となりました。相手の者に様々に
詫びましたが、馬も具足も貸してはくれません。このうえは彼と果たし合いしようかと

思いましたが、私がこのようになってもきっと御用には立つだろうというのに、この時に
果たし合いをしたとしても、いよいよ不忠でございます。このうえで、御慈悲を頂ければ、
御検使を受けて切腹仕りたく存じます」と、申し上げた。

三七殿は、「お前の申すことは、理解できることも少しはある」とのたまい、黄金2枚と
具足や馬までも与えなさった。それから、二宮は次の日の合戦で組討ちをして高名を
極めた。そのため、三七殿も御機嫌を直しなさったということである。

――『備前老人物語』