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常々変わり者であった故

2019年08月12日 18:49

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/12(月) 18:41:01.21 ID:noQSFKLS
織田左門(頼長。有楽斎の次男)が秀頼(豊臣秀頼)から家康公へ御使に参った時、御当家(徳川
家)の御家老衆が玄関へ迎えに出られた。

左門は家老衆に向かいなさり「出たか」と立ちながら不礼に致され、御書院へ通り上座におられた。
いかにも鷹揚の顔色でおられ、小姓衆は覗き見て(左門が)元来変わり者なので密かに笑った。

その様子を左門は見なさり小姓が茶を持参などすると、いかにも不礼を申されて小姓衆を憎み、大
茶碗に熱き茶を持って来たのを見ぬ顔をして、長くそのままにして小姓衆は耐え難く、難儀させた。

その後大茶碗を取ると熱いまま食らいなさり、「しゃ!」と罵って投げ出し御座敷を汚した(其後
取テアツクテクラワレテ社トテ抛出御座敷ヲヨコシ)。家老衆が出ておられたのにこの通りである。

さて家康公が御出になり御返答が済んで帰る時にまた御家老衆が出られると、「さてさて迷惑を仕
りました。こちらへおいでなされ」と下礼を厚くして(左門が)申されるには、「先刻は上使なの
でやむを得ず不礼の仕方でしたが、今は元の左門になりました」と申されたのだという。

常々変わり者であった故という。

――『烈公間話』

「社トテ」は次の意味にしました
しゃ( 感 )
人をあざけったり、ののしったりするときに発する語。 「 -何事かあらん/浄瑠璃・最明寺殿」



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信長の唐櫃

2019年08月04日 15:51

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 15:12:01.37 ID:20SiqXwU
霜月21日(1567)に織田信長より織田掃部助(忠寛)を使いになされ、「信玄公の御料人(松姫)が
御歳7歳になられるのを承り及び、信長の嫡子・城介(織田信忠)の内方に申し受けたい」と仰せ遣された
のである。武田の家老衆各々は寄り集まって談合し、信玄公へ申し上げられるには、

織田信長はすでに34歳に罷りなられ、27歳の時に義元を討って庚申より去年まで7年の間に美濃・尾
張を治めて今は美濃岐阜に居住されています。

殊更今年は公方の霊陽院殿義昭公を都へ御供申し、信長の被官の柴田修理(勝家)・野村越中の両侍大将を
都に付け置き申されているので信長は望みも多く、万一どのような謀で信玄公と縁を結び申したいと申され
るのかも分かりませんので、これはまず差し置きなされ」

と諫め申し上げた。信玄公は聞こし召して、

「それは各々の意見もっともであるが、近年信長が信玄に入魂仕りたがることは少しも偽りには見えない。
その訳は、信長が音信に小袖を送り、信玄の召すものを格別に致すと言って入れて送った箱を削らせて見る
に殊の外の堅地で、蒔絵も我が家の菱を同じ具合になしたのは、町物ではなく念を入れて、わざわざ申し付
けたと見える。勝頼と縁者になる2年前からこの如くである」

と仰せられ、各々にその唐櫃を取り出させ、年々のを見せなされば仰せの如くである。信玄公は仰せられて、

「人の真実・不真実は音信で知るものである。1度や2度は念を入れるとも、3度までは主か親を除いては、
その他の只の者には重ねて念を入れることなど小身な者でさえしないというのに、ましてや国持ちは自分も
人も事が多いので、年々このようにはならない。

信長は1年に7度ずつ必ず使いを送る。それでさえもこちらから使いを遣るならば、その返報とも存じよう
が、2年に1度でもこちらから人を遣ることはないというのに、親主の如くに信長が仕るのならば、縁者に
信玄となりたいと信長が存じるのは一段と真実であろう」

と仰せられ、御合点あって御返事なされた。そうして織田掃部が長坂長閑(光堅)を介して申し上げ、「こ
の上は細かな事をも申し上げます。私めに万一暇があって、佐々権左衛門や赤沢七郎左衛門が参る時は誰を
介して申し上げるべきでしょう」と申せば、信玄公は仰せ出され「高坂弾正に付いて申せ」とのことだった。

掃部はまた申し上げる。「高坂弾正殿は信州川中島に罷りおられますが、甲府に弾正がおられぬ時に川中島
まで参るのもいかがなものでしょう。小事で大名の弾正をここまでというのも申し悪いので、御膝下で奏者
を仰せ付けられれば、その上でも大あらましの事は高坂弾正殿へ申します」と織田掃部は申すので、原隼人
佐(昌胤)・跡部大炊助(勝資)両人を仰せ付けられ、織田掃部と原隼人・跡部大炊助を長坂長閑のところ
まで呼んで引き合わせたのである。

掃部は甲府に長く奉公仕った故、両人とも知人である。中でも跡部大炊助は織田掃部が信玄公へ御奉公申し
た時の奏者である。ことさら掃部が岐阜へ帰り、やがてその年11月中旬に御祝言の御樽肴を持たせて甲府
へ参り、御祝めでたきことである。よって件の如し。

信長より信玄公への御音信は、
一、虎の皮3枚 一、豹の皮5枚 一、段子百巻 一、金具の鞍鐙10口 以上。

御料人様への御音信は、
一、厚板百端 一、薄板百端 一、緯白百端 一、織紅梅百端 一、代物千貫 一、毛掛の帯上中下3百筋。

この他御祝の御樽肴は作法の如くで、御使は織田掃部助である。

――『甲陽軍鑑』



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:57:51.98 ID:W6PzTXQ5
そんな信長を平然と踏み潰そうとする信玄公

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:59:53.94 ID:w2LBZ5n+
その頃は信長のがデカいのにその表現は

家康の事は良きように頼み入ります。恐惶謹言。

2019年07月29日 17:29

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 23:37:06.23 ID:wJxV0U2v
(永禄13年)

駿河田中に御逗留の間に、織田信長より佐々権左衛門(長穐)を使者にして御音信があった。唐の頭20・
毛氈3百枚、そして猩々緋の笠。これは4年前に公方の霊陽院殿(足利義昭)と都へ御供仕り征夷将軍に備
え奉った時のもので、「弓矢に縁起の良き笠です」と信長は申されて、信玄へ送り進上なさった。

信長の使者がいる所で土屋平八郎(昌続)にその笠を下され、「信長の武辺にあやかれ」と信玄公は仰せら
れた。唐の頭は奥近習衆に下され、籤取りを仰せ付けられた。そうして2月下旬に江尻へ御馬を寄せなさる
と、江尻までまた織田信長より飛脚を御越しになされた。その御状は、

 三河岡崎の松平家康(徳川家康)は、私めが取り分けて目を掛けている者ですので、御引き回しを頼み
 入ります。そこで、その地に今川殿へ前々より差し置いていた家康の弟(松平康俊)を召し置きなされ
 ているそうですが、幸いですので家康の人質として甲府まで召し連れなさって、御心安く御用などを仰
 せ付けられますようにと、家康も私めの方へ申し越していますのでこの次第です。家康の事は良きよう
 に頼み入ります。恐惶謹言。

   2月18日                           織田上総守
      甲州法性院殿 人々御中                      信長

――『甲陽軍鑑』



内裏様のみしり

2019年06月14日 16:25

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 12:23:58.89 ID:IHLOoPFL
織田の信長殿は内裏様を殊の外大切に思し召し、村井春長(貞勝)を奉行に付けられ、禁中のこと
尽く御修理をされた。この事についてうつけたる者が申すには

「内裏様の御念者(男色相手)は村井殿じゃ」

「何故に」

「今日も内裏様のみしり(御修理と御尻をかけている)をゆかせられるといって、日々御出であるから
そうかと思った。」

と言った。

(きのふはけふの物語)



【雑談】『弥助』について

2019年06月03日 18:11

弥助   
92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 16:30:35.40 ID:tPHC7BVm
外人さんの価値観で日本史を再構築されるのなんか嫌だ。
意識高い系の黒人さん達が弥助をモデルに映画化するんだけどちょっと美化が過ぎる。
奴隷じゃなかったとか、日本では仏像が黒いから尊敬の対象として見られてたとか
現代の価値観でブラッシュアップしすぎ。

93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/01(土) 21:43:40.45 ID:wUAqMo66
でキャストも日本人一人もいなかったりしてねw

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 23:26:18.37 ID:lKcUPN5J
日本人だってヒラコーとかが好き勝手やってるから無問題

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 05:07:03.89 ID:myTmwpEj
>>93
さすがに1人はいるだろう…渡辺謙とか

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 17:26:04.25 ID:hP+zLXOQ
仏像が黒いのは禅宗ダゾ
うちは浄土系だから金ピカ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 18:31:31.03 ID:INaZgM35
大国主(おおくにぬし)→ダイコク→大黒天(マハーカーラ)の垂迹
大きくて黒い男が神様仏様扱いされても問題ない気が

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 18:35:59.90 ID:fbrKsrrq
>>97
宣教師の記録見ても日本人の記録見ても、どうみても珍獣扱いなんですが

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 20:23:22.59 ID:BkTlaOA4
坊さんだったらまた違ったろうが奴隷だしな…>弥助

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 21:22:08.93 ID:4fi9sHcb
>>98
制作者は弥助を洗った話などの宣教師の記録は黒人を貶めるための嘘と言ってるが
同じ宣教師の記録でも信長が城持ちにさせてやると言った件は映画に組み込むらしいよ
花の慶次並みのでっち上げヒーローを作る気でいるみたい
黒人の地位向上の為のなんちゃって日本の歴史が世界にばらまかれる

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 00:19:00.80 ID:jqkjDxBD
信長が疑って洗わせたのも差別って言われそうだよね
今の感覚で考えないでくれ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 07:42:24.93 ID:oDTu8Lzk
禅僧でも城持ちになれる時代だしいいんじゃね

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 11:10:13.32 ID:k7P3FsGF
映画製作者「フロイスや太田牛一や松平家忠の書いてる内容は信憑性低いと考えて、我々の考えた真の弥助像を描きました」
と言い出したりして

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 14:33:42.04 ID:Zjew9uM6
黒人でユダヤ人でゲイでヴィーガンなヤスケが本能寺でポリコレ棒を振り回して大奮闘するよ


102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 00:19:00.80 ID:jqkjDxBD
信長が疑って洗わせたのも差別って言われそうだよね
今の感覚で考えないでくれ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 07:42:24.93 ID:oDTu8Lzk
禅僧でも城持ちになれる時代だしいいんじゃね

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 11:10:13.32 ID:k7P3FsGF
映画製作者「フロイスや太田牛一や松平家忠の書いてる内容は信憑性低いと考えて、我々の考えた真の弥助像を描きました」
と言い出したりして

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 14:33:42.04 ID:Zjew9uM6
黒人でユダヤ人でゲイでヴィーガンなヤスケが本能寺でポリコレ棒を振り回して大奮闘するよ

ついにその名は高きものだという

2019年05月29日 18:26

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/28(火) 23:02:18.14 ID:nF4+lOrm
  此比の大将衆弓矢取様之事

一、織田信長は取り巻いている城の包囲を解いて退き、境目の小城をいくつ競い落されても苦しからず。

  追い崩されて自分の人数を追い打ちに討たれなければ、世間の取り沙汰しは無いものなので、難しい
  ところを急いで引っ込み、やがて出て行き国を多く取って持ち、大身になったので、ついにその名は
  高きものだということである。

――『甲陽軍鑑』



藤きちろうおんなども  のぶ(印)

2019年05月26日 15:16

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/26(日) 14:18:28.07 ID:mopXN2yD
同集(古筆集)に、足守候(足守木下家)の蔵物として、織田信長が木下藤吉郎の妻に賜う書という
ものが掲載されている

『仰せの如く、今度こちらへ初めて越し、見参に入り祝着に候。殊にみやげ色々、美しさ中々目にも余り、
筆にも尽くし難く候。祝儀ばかりに、この方よりも何やらんと思い候へば、その方より見事なるもの
持たせ候あいだ、べちにこころざし無くのまま、まずまずこの度はとどめ参らせ候。重ねて参るの時、
それに従うべし。

なかんずくそれの見目振り、かたちまで、いつぞや参らせ候折節より、十の物、廿程も見上げ候。
藤吉郎、近々不足の旨申すのよし、言語道断、曲事候が、何方を相訪ね候とも、それさまほどのは
又二たび、かのはげねずみ、相求めがたき間、これよりいかにもかみさまなりに重々しく、悋気などに
立ち入り候ては然るべからず。ただし女の役にて候あいだ、申すものの申さぬ中に、もてなし然るべし。

猶文ていにはしいり、拝見請い願うものなり。
まいらせ候かしく

 月 日
  藤きちろう
     おんなども
             のぶ(印)』
(訳)
「前から仰られていた通り、今度こちらに初めて来られ、見参されたこと、祝着です。殊に様々なみやげは、
その美しさは目にも余り筆にも尽くせないほどで、こちらとしては祝儀であるのだから、何か与えようと
思っていたのですが、そちらが大変見事なものを持って来られたため、それに釣り合うようなものを思いつかない
まま、とりあえず今回は思い止めました。次に来られた時に、この思いに従った物を下すでしょう。

それにしてもあなたの見目ぶり、姿形まで、以前に参られた頃よりも、十のものが二十に成ったかと思うほど
見違えました。藤吉郎は最近、あなたに対し不足の旨を申しているようですが、言語道断、まさしく曲事です。
今、どこを探したとしても、あなたほどの女性は二度と、あのはげねずみが求めることは出来ないでしょう。
ですので、あなたも今後はいかにも御上様らしく重々しく、悋気などを起こすべきではありません。
ただし女性の役なのですから、物事を語らない中にも、察して対応するべきでしょう。

文末に至りましたが、拝見を請い願います。かしこ。」

(甲子夜話)

有名な織田信長が高台院に宛てた書状



信長の武辺形儀は父の弾正忠を少しも真似ず

2019年05月22日 13:20

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 18:40:38.18 ID:D7yWtb0Y
(前略。元亀元年(1570)12月の事)

馬場美濃(信春)が申すには、

「尾州犬山の城主・津田下野守(織田信清)は信長の姉婿ですが、信長に負けて追い出され諸国を浪々致し、
3年以前より当国へ参って御舎弟の一条右衛門太夫殿(信龍)の咄衆となり“犬山哲斎”と申しております。

この人の物語りによれば、信長の武辺形儀は父の弾正忠(織田信秀)を少しも真似ず、舅の斎藤山城守(道
三)の弓矢形儀を仕っております。『(信長は)そそくさとしている様で、殊の外締まって働く』と、犬山
哲斎は沙汰致しました」

と申し上げた。信玄公が仰せられたことには、

「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることならずして、小身故に故今川義元の旗下となって駿府へ出仕
致した。斎藤山城は殊に私めを頼っておられた。土岐殿浪々の後に美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には、越前から朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどなれば、斎藤の弓
矢と弾正忠とはかけ離れた弓矢の位、山城が上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取るところと致すは、
もっともなり。

しかも山城の孫・龍興を信長は押し散らして美濃侍を数多抱えたわけで、父の弾正の代には小家中であった
故、侍はどのようにしても大家中の家風を真似るものであるから、自然と信長衆の大方のことは斎藤山城の
ように致すものであろう。それはあえて真似るわけでなくとも、浄土寺へ行けば自然と『念仏申したい』と
の心になるのと同じことである」

と仰せになられた。

――『甲陽軍鑑』



勝ちを千里の外に決す

2019年05月16日 16:44

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:47:31.40 ID:JyrqVqki
その後、信長公は24歳で是非義元(今川義元)を討たんと心掛け給えども、ここに妨げる男あり。
戸部新左衛門(政直)といって笠寺の辺りを知行する者なり。

能書才学が形式通りの侍で、主君を無二と思って義元に属し、尾張を義元の国にせんと二六時中謀る
ことによって、些細であっても尾張のことを駿河へ書き送った。

これにより信長は心安き寵愛の右筆に、かの新左衛門の消息(手紙)を多く集めて1年余り習わせな
さると、新左衛門の手跡と違わず。この時に右筆は義元に逆心の書状を思うままに書きしたためて、
「織田上総守殿へ。戸部新左衛門」と上書をし、頼もしき侍を商人として出立させ駿府へと遣された。

義元は運の末であったのか、これを事実であると御思いになり、かの新左衛門を御呼びになると「駿
府まで参るに及ばず」と、三河吉田で速やかに首を御刎ねになった。

その4年(永禄3年の誤り)にあたって庚申、しかも七庚申のある歳5月。信長27の御年で人数は
700ばかり。義元公は人数2万余りを引率して出給う(桶狭間の戦い)。

時に駿河勢が所々へ乱妨(乱取り)に散った隙をうかがい、味方の真似をして駿河勢に入り混じった。
義元は三河国の僧と路次の傍らの松原で酒盛をしていらっしゃるところへ、信長は切って掛かりつい
に義元の首を取り給う。この一戦の手柄によって日本においてその名を得給う。

これでさえも件の戸部新左衛門が存命であれば中々難儀であったろうが、信長公は智謀深く、陳平と
張良が項王の使者を謀ったのと異ならず。

信長公の消息の手立ては24歳の御時なり。評言すれば、『籌を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外
に決す(戦略の巧妙なこと。漢の高祖が張良の軍事的才能を評した言葉)』。

そのため、尾張の諸侍で義元を大敵と称し信長を軽んじた者どもは、翌日から清洲へ参候して信長を
主君と仰ぎ申したのである。

――『甲陽軍鑑』



925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:54:39.69 ID:i428Al7X
ゆらり

小次郎は信長の時分の脇の上手であるという

2019年05月04日 14:54

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 01:12:13.79 ID:LlOPDr9S
小次郎(観世元頼)は信長の時分の脇の上手であるという。信長の初めの頃である。

小次郎の嫡子に弥次郎という者がいた。これも脇の上手で小次郎に劣るまいという。これは大徳寺
だったかで能があって、その帰りがけに僕に殺されたのである。

優れた男色でその弟に了室という者がいた。了室は近頃まで存生した。これは脇は下手なり。

――『老人雑話』



978 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/04(土) 17:29:40.26 ID:1Ob+Bu4A
>>977
>これは大徳寺
だったかで能があって、その帰りがけに僕に殺されたのである。

犯人は江村専斎か…(すっとぼけ)

河尻秀隆の最期5撰

2019年05月03日 15:09

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 12:59:03.48 ID:r3toUv4n
河尻秀隆の最期5撰

本能寺の変後の混乱の中で散った秀隆の最後を語る同時代史料は皆無ですが、後世の書物には細部の異なる形でいくつものパターンが記録されているのでご紹介。

①当代記

6月10日頃、本多百助、家康の命により甲斐国に派遣される。

彼の国は織田信長により河尻与兵衛が置かれていたが、信長が他界したことが伝わると人々は河尻に服従せず、百助に従う様子を見せた。

やがて一揆が起こり、河尻の居所に押し寄せた。百助はこれをなだめ、河尻に事態収拾のために上方へ帰ることを求めた。

河尻はこれに応じず百助を生害し、その後自害して果てた。家来等は上方へ退いたので、家康が甲斐を横領なされた。

②三河物語

本多百助は河尻与兵衛とは知り合いだったので急いでやって来て、「一揆が起こったら援軍を差し向ける」と言った。河尻も「ありがたい」と言った。

しかし実際は百助が一揆を煽動し自分たちを討とうとしていると思っていた。河尻は百助を馳走すると、蚊帳を吊って寝かせた。

その後長刀を持って来ると、釣り手を斬って落として突き殺した。一揆の者はこれを聞くとただちに押し寄せて河尻を殺した。

③落穂集

信長は甲斐半国を河尻与兵衛に下されたとき、甲斐は領地並であるのでいろいろと面倒を見てやってください、と家康に申された。

その後、家康は百助を甲斐に派遣したが、河尻はこれを自分を討つ計略があるものと考え違いを起こしてしまった。

ある夜、河尻は稚小姓を用いて百助を殺した。百助の家来はこれを知ると怒り、武田の浪人に訴えて一揆を起こした。

河尻は家を襲撃され、従者も全員が殺害された。討手は武川衆の三井十右衛門という。

報告を受けた家康は大変喜び、岡部・成瀬・芦田を派遣し、甲州経営を始められた。

④岩淵夜話

本能寺の変後、家康は度々、手紙や使者を送り河尻の様子をうかがってあげていた。ところが河尻は全くこれをありがたいとは思っていなかった。

むしろ、名のある武田の浪人は河尻に仕えようとせず、家康に奉公しようとする者が多いことから、家康には何か裏があると考えていた。またそのために国からつれてきた僅かな家臣のみを頼みとしていた。

やがて家康は河尻が甲州に嫌気が差しているとの噂を耳にし、百助を派遣して「百助を案内として私の領内を通れば安全に上方へ帰らせる」と伝えた。

河尻はこれを聞くと怪しみ、6月14日に小姓を用いて百助を殺した。

武田の浪人はこれを聞くと「家康公にこのようなことをするやつに遠慮はいらない」などと言い、一揆を結んで河尻を攻め殺した。

家康は百助の死を知ると、河尻の事を思って色々してやったのに、相談役として付けた百助を殺すとはなんたる不義理だ、それにしても惜しい男を河尻などのために殺されてしまったと涙を流した。

家老らは軍勢を派遣して河尻を打ちましょうと言ったが、そのようなことはこの家康がすることではない、しばらくこのままにして様子を見ようと言われた。

⑤武田三代記

信長親子は明智光秀に殺された。河尻は国を捨てて逃げようとしたが、道路の害を恐れて進退窮まり、如何ともしがたい状況に陥った。

源君はこれを知って不憫に思われ、上方へおくり届けてあげようとした。

しかし間に合わず甲州の土民が蜂起し河尻を打ち殺してしまった。浅ましいことである。

首は三井が取り、勝頼の墳墓に供えた。諸人、これを感ぜずことなしと言う。



962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 13:24:12.63 ID:GQfzXxkN
家康は悪くないってことにしてるのは全て共通なのね

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:04:02.93 ID:xjWKeatT
>>962
そもそも家康の甲斐侵攻は「織田政権」の承認のもとに行われているんだから悪く書きようがないだろ。
織田家臣なのに政権中央の意向に反した行動をした河尻のほうが悪い

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:25:31.63 ID:TISqcbEJ
家康が織田政権の承認を得たのはあくまで織田家臣退去後の上野・信濃・甲斐を敵方に渡さないために軍勢を出して確保することだろ

河尻が健在の甲斐に侵攻する許可を得た訳ではないし河尻が政権中央の意向に反した行動を取ったわけでもない

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:39:13.93 ID:xjWKeatT
>>965
それを家康は織田政権から委任された以上、家康の指揮命令に従わなかったらそれは織田政権への謀反と
解釈されても仕方ないと思うぞ。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:57:24.06 ID:TISqcbEJ
>>966

もう一回整理してほしいんだが、織田政権は河尻・滝川・森・毛利などの織田家臣が退去したあと、敵方にその知行地の3か国(上野・甲斐・信濃)を渡さないために家康に軍勢派遣を認めてるんだよ

当然、それ以前の家康に河尻等の織田家臣に指揮命令する権利は認められていないし、河尻が家康の命令に従わなかったとしてもそれが織田政権への謀反とみなされる道理がない

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:42:08.71 ID:mGxBMjMX
帰国後即甲斐国人に調略開始、穴山旧領を押さえた上で
川尻に「美濃に帰ったらどうです?」って使者送ってんだよな、家康

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 13:08:38.50 ID:0e5zpXHp
>>963
政権中央の意向に反した行動って何?
道中危険だから領地に留まったんでしょ。
それと家康に保護されて逃げ帰るっていうのもバツが悪いよねえ。
石田三成がいい例でしょ。武断派なら死んだ方がマシと思ったはず。

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 16:36:53.95 ID:Js/5uKIb
>>981
当時の武士ならなんとか逃げ延びて屈辱をはらそうとするんじゃないかね
それが無理なら自害か玉砕か

又ものの分として何とて能せん

2019年05月01日 16:18

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 13:19:53.30 ID:8nKSRDUM
信長が甲斐の四郎(武田勝頼)と対陣の時(長篠の戦い)、鳶の巣の城を乗っ取ることを酒井左衛門尉
(忠次)が信長に乞うた。信長は叱って曰く、「陪臣の分際でどうして良い働きができるか!(又もの
の分として何とて能せん)」と。

左衛門尉は重ねて乞わず、即時に赴いて城を乗っ取ったという。左衛門尉は東照宮(徳川家康)の家臣
なり。東照宮が甲斐・信濃・上野を所領し給う時、威勢は一人盛んであった。今の宮内(原注:四郎)
の父なり。

――『老人雑話』



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 14:45:50.07 ID:zLaAnMy+
信長の功績を過少にしてる話多いよね

951 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 15:29:18.99 ID:2GWH/FK7
後であの場ではああ言ったが良い案だ、やれって言われたってバージョンもあったな。

これ武略なり

2019年04月27日 15:54

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:13:34.77 ID:2r7o4uZh
信長は5千騎で今川義元の4万の人数を鳴海で敗った。義元の首を取ったのは川尻与兵衛(河尻秀隆
という者なり。後に信濃で死す。

この時、信長は清洲にいて乱舞し、先手から送られる文箱をも開き見ず、皆が「負けた」と推し量った
のである。信長は馬を出し、熱田の神前でしばしまどろみ夢を見ている体で、応じる声が3度あった。
これ武略なり。

さて大雨の降る中で信長が馬を進めると、輿を控えて諫める者あり。その時、信長は鞍の前輪を叩いて
敦盛の『人間五十年』のところを舞われたという。

人々は皆それならばと押し掛かった。義元が台子で茶会をしているところに急に打って掛かって、勝利
を得たり。この時、義元の勢4万は七備に陣を立てていた。しかし間道から本陣へ掛かった故に、七備
も空しくなったという。

――『老人雑話』



936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:18:07.66 ID:mExy/+Tj
>>935
毛利新介「!?」

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 16:24:35.08 ID:YVf5kat/
伝言ゲームのように話が変わっていくんでしょう
それにしてもこの場合の乱舞ってなんだ

織田信長公、座興ふかき事

2019年04月10日 17:16

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 00:31:04.91 ID:Y0JDf8tv
織田信長公、座興ふかき事

正月五日、「節振舞あるべし」と言うことで、佳例にまかせ、諸大名を集められた。
さて、種々の饗応あって後、夜に入ると信長公より「大盃にて、上戸も下戸も押し並べて給うべし」と
仰せになり、「余興として順に舞をするように」と言われ、面々は嗜んでいた芸を以て舞い歌い
入り乱れ、各々前後も解らぬほどの大酒盛りとなった。

このような所に、柴田修理介(勝家)が飲もうとしていた大盃を見て、信長公は「今一つ明智光秀に指すように」
と仰せになった。「畏まって候」と勝家は一息に飲み干し、これを日向守(光秀)に渡したところ、光秀は
「これは困ったことだ、たった今ようやくその盃を飲み干して貴殿に回したというのに、またそこから
給わるという事、どうやって給わればいいのか。そうか御免を頂きたい。」と、頭を畳につけて辞した。
これに修理介「私もそう思うが、殿の御意によって指すのだ。否応有るべからす。」
「如何ほど御意にても、もはや塞ぎ詰まっています。御宥免頂きたい。」
そう申して、座敷の隙間から次の間へと逃げた。

その時、信長公は座敷を立った。光秀が次の間でうつ伏せにひれ伏していると、その首を取って押し付け、
御脇差を引き抜き

「いかに、きんかん頭、飲むのか飲まないのか、一口に返事をせよ。飲まぬと言うならこの脇差の切っ先を、
後ろから喉まで飲ませてやろう。光秀いかに、いかに!?」

これを聞いて光秀も心乱れるが、この有様に酒の酔も俄に醒め、

「ああ殿様、切っ先がひやひやと見に覚え候。さりとては御脇差御ゆるし候へ。死に申すことは、
今少し早うございます。」

そう申し上げる。これに信長公

「そういう事なら、仰せを背かず飲むべきか、さに非ずば、脇差を飲ますべきか、何れを飲むのか、
はやはや返事をせよ。いかに、きんかん頭!」
そう言いながら、脇差のみねにてかなたこなたを撫で回した。
光秀は気も魂も消える心地して
「御ゆるし候へ、起き上がって、御意のごとく御酒を飲みましょう。」

「なるほど、それならば立ち退こう。もし飲めなければ、今度は脇差をしかと飲ますぞ!」
そう仰せになって立ち退かれると、光秀は顔の色青く、目の色、顔つきも変わって起き上がり、かの大盃を
取って戴き、酒を請けた。
そしてようやく九分ほど飲み及んだ時、信長公ご覧になり

「あれを見よ人々、何ほど詰まりても、酒は自由なる物にて飲めるものだ。餅や飯などは、詰まった時は
どうあっても食せない。私は饗宴の亭主役をつとめて、飲ませることが面白いのだ。」
そう仰せになると、座中一同、どっと興じた。

かくして夜も、はや東が白んでくると、信長公は簾中へ下がられた。これを見て、諸侍は、
我先にと帰っていった。


光秀は宿所に帰ってつらつらと考えた
「助かった。危うき命を保つことが出来た。諸侍数多ある中に、私一人がこのような目に合わされること、
今回も含めて三度目である。これは普段から、私を殺そうと折を待っているのではないだろうか。
酒というものは、必ず心底を打ち明けるものであれば、あのようにされたのだろう。
『思う内に有れば色外にあらはるる』という言葉はまさにこれだ。重ねてよくよく心得ておくべきだ。」

この事があってから、光秀は事(謀反)を思い立たれたと言われる。

(室町殿物語)



840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:16:14.65 ID:/JL74bm0
さすがに嘘だろ

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:24:54.58 ID:Y0JDf8tv
>>840
室町殿物語の元になった「室町殿日記」は慶長二年から慶長七年の間には成立したと考えられていて、なおかつ文禄五年ころに成立したとされる
「義殘後覺」にもほぼ同じ内容の話が収録されているので、事実かどうかはともかく、秀吉の時代に、光秀の謀反の理由についてこういう話が
語られていたのは確実だと思う。

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:30:16.23 ID:zxEYpi3D
年次はいつなのか 3回目というが1回目と2回目は何があったのか

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 04:14:55.06 ID:oaAsJqRE
「是非もなし」

やっぱアイツ怒ってたのか
( ´•ω•` )

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:55:15.98 ID:LRQ0nIoS
>>841
思い付くのは2つあると思うんだ

そんなに極端に本能寺から経ってないこの時代でも
光秀謀叛の理由は良く分かってなくて話の種になってたんだなってことと

なんかもう面白くする方向に走っちゃってるんじゃないかということ

今宵、なんとも心得ざる夢を見たため

2019年04月09日 12:23

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 07:59:58.78 ID:aTiipaij
ある時織田信長公は不思議の夢を見て、心もとなく思い「誰かこの夢を判じてくれないものか」と
かれこれ案じわずらっていたが。急に思いついて、乗慶僧都を召され、仰せに成った

「ちと御坊に考えて頂きたいことが有って、このように招いたのだ。」

「承ってみましょう。どのような事でしょうか」

すると信長
「今宵、なんとも心得ざる夢を見たため、御坊の判断を聞きたいのだ。その内容を具体的に言うと、
広々とした山野に、私は唯一人躍り出て、東から西へと向っているようだったが、道の中ほどと
思しき所に、その向こうに半反(約5.5メートル)ほどと見える大河が有った。それは岸打つ波荒く、
水面の様子も凄まじく、どうやってこれを渡ろうかと立ちすくんでいた所に、この河の水が俄に
紅血に変じ、生臭いことこの上なかった。

そのような中、三尺ほどに見える剣が流れてきた。夢心にこれを取ろうと思ったが、たやすく取れず、
どうするべきかと色々考えていた所、そのまま汗して夢が覚めた。
この夢は一体どう言うことなのか、心もとない。」

そう仰せに成ったのを僧都は聞かれて
「これは誠にめでたき御夢です。近きうちに、河内(河血とかける)の国が手に入るでしょう。
また、その剣は、則ち敵の魂であり、その精魂が抜け出て水に流れ失せる、という御告げでしょう。」

そう判じた所、信長公は大いに感じ入り、御手をちょうと打って
「さてさて目出度く判じられたものかな。そういう事であれば、年来の本意を達するための不安や心配が
消滅した!」そう喜び、「それそれ」と宣うと、当座の引き出物として料足五貫文、白布弐端を賜った。
僧都は「ありがたし」と拝領し、御前を立たれた。

(室町殿物語)



779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 11:59:53.32 ID:+CA7OqT0
ニンジャの仕業ですね間違いない

782 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/09(火) 20:40:54.30 ID:OrWwEnk8
>>778
人の夢と書いて儚い…何か物悲しいわね…。

禁中は信長の時から興隆した

2019年04月05日 16:42

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 19:45:06.04 ID:/rqPzBC8
信長の時代の禁中が微々なりしことは、近郊の民屋と異ならず。築地などは無く、竹の垣に茨などを
結い付けた有様であった。老人(江村専斎)が児童の時は遊びに行って、縁で土などをこね、破れた
簾をちょうど開けて見れば、人もいない様子であった。

信長が知行などを付けられて、造営など寄進があった故に、少し禁中の居做は良くなったのである。
これによって信長を御崇敬なされて、高官にも進められた。

禁中は信長の時から興隆したといえども、太閤の時代の初めまでは未だ微々たるものであった。近衛
殿(近衛前久か)のところで歌の会などがあると、三方の台の色はあくまで黒く、ころころとする赤
小豆餅を乗せて出されたのであった。しかしながら、歌は今時の人に10倍した。

――『老人雑話』



私が切腹に及ばない事の方を憂い

2019年03月23日 18:43

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:03:33.17 ID:R2H6RQcv
織田信長の次男である信雄は、本能寺に於いて信長が弑されたことを知る前に、鬼頭内蔵助を信長の
様子をうかがわせるため京都に遣わした。

鬼頭が山科に至った時、伊藤安仲に出会った、伊藤は信長の笛役であった。
伊藤は鬼頭を見て「ここは何処だろうか。」と尋ねた。逆に鬼頭は「貴殿はどうしてここに
居るのか」と聞いた。伊藤は涙を流し

「貴殿は未だ知らないのか。信長公が今朝、明智の謀反により弑され給われた。私のような者共は
途方に暮れて行先も解らず迷い逃げたのだ。」

それは朝日が山端に差し昇る頃であった。鬼頭は且つ驚き且つ疑った。しかし伊藤は
「偽りも事による。もし今信長公が恙無く、私がこのように大事の偽りを言えば、一体どうして
日本の地に身を置く所があるだろうか。」

「然らばここより立ち返り、貴殿の言葉を信雄様へ申し上げよう。」

「尤もである。証拠として、これは信雄様が御覧じ覚えたるものである」と、小刀を渡した。

鬼頭は急ぎ信雄の居城伊勢長島へと乗り戻り、その日の太陽が傾く頃に、三十余里を馳せ到着した。
然れども馬は疲れを見せず、まさしく稀代の駿足であった。

さて、鬼頭はこの趣を申し上げたが、信雄は信じようとしなかった。そこで証拠としてかの伊藤の
小刀を出すも、猶信じず、却って鬼頭が狂気したと思うような顔色であった。
致し方なく鬼頭は「やがて注進が参るでしょう。」と言って自宅へ帰った。
信雄は御伽衆の梅心という者に命じ、鬼頭を訪れてその様子を伺わせた。

鬼頭は浴衣を着ながら梅心の前に出て対面し、
「私が狂気したのかと思われたによって、その方に伺わせたのだろう。
もしあの情報が虚説と成って私が切腹させられれば、むしろ大いなる幸いであり、まことに望む所である。
虚説ではなく、私が切腹に及ばない事の方を憂いている。」
そう言って外に出て、繋いでいる馬の湯洗いをすると、馬はいなないて前掻きをした。鬼頭は馬の健盛なる
事を梅心に自慢した。梅心は帰ってこれを信雄に報告した。

その日の日暮れより諸方の早飛脚が、本能寺での事を告げた。
信雄は信長の弔い合戦について、今日よ明日よと言いつつ、出陣を十余日も引き延ばした。
その間に秀吉が備中高松より上がって、信長の仇を討った。これは信雄が無勇の故である。
これによって、後年、信雄は秀吉のために領地を没収された。しかし秀吉は信雄の制しやすいことを知って、
害はないと判断したため、大和に於いて五万石を与えた。

(武将感状記)

関連
鬼頭内蔵助の報告と織田信雄、+おまけ


811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:23:06.52 ID:1Z0ElKd4
信雄「大坂城捨てよっと」

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/27(水) 13:05:37.15 ID:BAFAiwld
>>810
史実は伊勢長島じゃなくて伊勢松ヶ島だろう

この時に及んで富士山が私の山となり

2019年03月02日 09:27

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 21:43:00.97 ID:AJJackbD
(甲州征伐後)

将軍(織田信長)は年来、富士山御見物の望みがあった。この山は天竺・震旦・扶桑三国に無双
の名山なり。

「この時に及んで富士山が私の山となり、これを見たことで大望が叶った」と、将軍は快喜する
こと斜めならず(於是成吾山見之、達大望、快喜不斜)。

そうして、遠州と参州の主・徳川三河守家康の館があってそこに滞留となり、御父子で伴って御
馬を納めなされたのであった。

――『天正記(惟任退治記)』


信長信託

2019年03月02日 09:27

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 09:10:48.38 ID:MUrTNxKn
信長信託


足利義昭を擁して上洛した織田信長は、皇室の窮状を憂い、元亀2年(19711571年)に財政支援を行うこととした。

そのために洛中洛外の全田畑に税を課し、米を徴収したが、信長はそれをそのまま皇室に献上するのではなく、いったん町衆に預託し、町衆が運用した成果である「利米」を献上することとした。

こうすることによって、皇室は継続的に利米を得ることができ、安定的な財政基盤とすることができるため、信長はあえてこの形をとったといわれる。

信託制度は受託者に対する信頼がベースになるが、委託者である信長を裏切ればどうなるかは自明であったので、その点では信託に必要な要素がうまく揃っていたといえる信長の構想であった。
信長がおこなったこの政策は「信長信託」とも呼ばれる。

余談であるが、日本における信託の活用のさらに古い事例としては綜芸種智院の設立・運営が挙げられる。


新井誠「信託法」ほか



702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 19:03:23.25 ID:RKcGEcQw
利米が安定的?

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/03(日) 19:29:16.79 ID:d3zIT82y
>>702
強制的に貸し付けて利子を取るっていうやり方。

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/04(月) 08:35:01.82 ID:fv/Rq9Yr
>>703
なるほど

甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は

2019年03月01日 21:08

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/28(木) 18:57:47.48 ID:g5ewcyU1
(甲州征伐の時)

ここに甲信両国の主・武田四郎勝頼あれば、年来の朝敵をなす故、秋田城介朝臣信忠は信濃に至
り出馬されて、高遠城を取り巻いた。

ここは勝頼の舎弟・仁科五郎(盛信)ならびに小山田備中守(昌成)相践の地なり。川尻与兵衛
尉秀隆(河尻秀隆)は調略をもって即時に攻め崩し、ことごとくこれを討ち果たした。

その勢いをもって甲州韮崎府中に入り、勝頼は一戦に及ぶも堪えず、敗北して天目山に隠れた。
信忠先勢の川尻与兵衛尉と滝川左近将監一益は、かの山中に追い詰め入り、数度の合戦に及ぶ。

武田勝頼・同嫡子太郎信勝・同左馬助勝定(信豊か)・逍遙軒(武田信廉)ならびにかの一族は、
ことごとくその首を討って来た。甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は(織田信長の)上
聞に達し、よって御動座あり。三ヶ国御一見の時、残る関東・鎌倉の諸大名はことごとく御味方
に馳せ参じたものである。

――『天正記(惟任退治記)』

河尻秀隆が活躍してますね



697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 19:22:02.22 ID:olrrmJYZ
信勝を討ったあとは東美濃で武田に備え信忠の付家老に抜擢され武田滅亡後は甲斐を賜り大出世
ええ奴やったで

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 02:58:55.19 ID:hF8oIddC
>>697
お前何百年生きてるの?