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申す旨に任せ、朱印を遣わす

2020年07月03日 18:12

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 22:01:31.81 ID:IgtsYTjv
天正五年十月二十三日、羽柴筑前守(秀吉)は播州に入ると、「この次に中国で一州を望む」という事を
言上した。これを信長に、右筆の楠長庵が披露した所、これを聞いた信長は不快な様子であった。
しかし暫く思案し、「申す旨に任せ、朱印を遣わす」と言った。
ところがどうしたわけか、楠長庵はこの朱印を作成しなかった。

その後、筑前守は但馬国へ相働き、敵城を数多攻め落としたことが注進されると、信長は御感甚だであった。
この時に成って長庵は、中国の内一州の拝領を許可した朱印状を作成し秀吉に遣わした。
これについて信長は、非常に心地よい様子であった。

『当代記』



343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 01:27:08.17 ID:wNBo2v6N
>>341
見事なまでのブラック企業
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弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ

2020年07月01日 17:13

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 21:54:30.51 ID:G1TABAxh
織田信長公より九八郎(奥平信昌)が拝領した刀は、目貫口蓋は、去々年後藤光乗に仰せ付け、京都に於いて
掘られたもので、昔、弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ、それは、女は色に耽る者なれども、
老年なれば面は猿に似て手にあじか(土を運ぶ道具)を持ち、その中にくわえ蕨など入れ、肘に掛け後ろに
袋を負い、前打ち広げて腰を掛けていたる体が書かれており、信長はこれを見給うと、「この図を写すべし」
と命ぜられ、そうして掘られた口蓋であった。

その頃、この図を明智日向守(光秀)が狩野が絵像に写させた所、尽く出来、眼に点入れまでしてあったのが、
一夜の内にこの絵が腐り果てた。この事を明智に申し上げた所、「権者の筆跡を凡夫として写しけるによって、
このように成ったのだろうか。奇特である」と云ったという。

『当代記』



十七ヶ条の意見書

2020年06月30日 18:00

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 01:40:08.43 ID:G1TABAxh
元亀三年の冬、織田信長は十七ヶ条の書付を以て足利義昭に諫言を遂げた。
この諫言の書は信長記(信長公記)にこれ有り、右は何れも忠言である。
後に武田信玄はこれを見て、信長を「ただ人ならず」と云ったという。

元亀四年(天正元年)正月十日、松永久秀は織田信長に降参し、岐阜へ参上した、
この時、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差を進上した。これらは何れも天下無双の名物であった。
このように松永が降参したのは、佐久間右衛門(信盛)の取り扱いを以てであった。

この頃、将軍足利義昭は信長を亡ぼす旨を思い立てられた。これは去る年の冬に信長が出した
諫言の書(十七条の意見書)が御耳に逆らう故であると聞こえた。

当代記



乱以後その猿は居なく成った

2020年06月29日 17:17

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/29(月) 15:44:13.80 ID:tj/soCjd
元亀二年九月十二日、織田信長は叡山を退治した。
近年朝倉義景と内通し、特に去年、越前衆がかの山に陣を敷き、信長に敵対したために斯くの如くとなった。

この時の消息に依ると、衆徒、児童に至るまで、或いは首を刎ね、或いは焼き殺し。逃げ去る者から
衣類を剥ぎ取った。堂舎仏閣一宇も残らず焼き払い。哀れなりし事共であった。

これは偏に近年、叡山が大師の掟に背き、衆徒乱行、殊には去年越前衆が陣を張り、この時伽藍、仏前で
食事に魚鳥を用い、男女が登り乱れ放蕩したため、自業自得の果の道理ではないか。

これについて、山王の使者であるため、この乱の時までは山に猿が限りなく充満していたのだが、
乱の以後はその猿が全く居なく成った。奇特なことであると云われた。

信長はこの時、「後代にもし、当代の衆天下に知られていると云えども、叡山を建立しないと、各々に
起請文を捧げさせた。

当代記



猶以てこのように

2020年06月28日 17:11

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/28(日) 10:40:18.37 ID:vBavp88v
元亀三年、武田信玄は遠州に発向した。この時織田信長公はその歴々の衆を徳川家康公へ
加勢有り、またかの信玄の娘と信長息(信忠)との縁辺の契約もあり得なくなった。
年来家康と信長は別して子弟同然の間であり、その贔屓の沙汰も斯くの如しであったが、
この時の信長の真実の心底は、「家康が滅亡すれば、定めて信玄は信長を討ち、天下を取るべき
企てがある」と予てより推察されていたため、猶以てこのように援助したのである。

当代記



大船検分と茶の湯

2020年06月19日 18:04

291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/19(金) 11:40:20.33 ID:eM6MrUNt
大船検分と茶の湯

1578年9月30日、織田信長は第二次木津川口の海戦で活躍した大船の検分の為、昵懇の公家、重臣、側近を引き連れて堺の港へ赴いた。
大船は九鬼嘉隆がのぼりや旗指物をたてるなどして飾り立てており、堺衆は信長の御座船に唐物の茶道具を集めていた。
その他各所から集まった船もそれぞれに武具を並べ立てるなど装飾を凝らしていた。
堺中の人々が着飾って見物に集まり、彼らが衣服に炊きこめた香りがあたり一帯に立ち込めたという。

その後、堺衆の今井宗久、紅屋宗陽、津田宗及、天王寺屋道叱の屋敷に順番に御成した。
この時信長に同道したメンバーが宗及の『天王寺屋会記/自会記』に記録されている。

・宗及の茶の席に同席した者
近衛前久、松井友閑、佐久間信盛、滝川一益

・御供衆として供奉した者
細川昭元、津田信澄、細川藤孝、佐久間信栄、筒井順慶、荒木村次、
万見仙千代、堀秀政、矢部家定、菅谷長頼、長谷川秀一、大津長昌、
河尻秀隆、三好康長、若江三人衆



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/20(土) 03:28:51.70 ID:r6tZbjLO
河尻がいるのが興味深い

298 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/21(日) 11:29:41.97 ID:VyXDYm6h
有閑、佐久間、滝川がトップで
中でも息子も供奉している佐久間が別格か。

存命は 又信長や忍ばれん

2020年06月13日 17:26

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/13(土) 01:31:09.72 ID:C/rfgG4J
永禄十二年(1569)五月二十日、織田信長は勢州の北畠が上洛しないため征伐するとして、数万人を率いて
彼の国へ発向し、同十一月まで百余日在陣し、所々の城を攻め破り、或いはまた和議を知れて、勢州を残らず
一統に退治すると、直ぐに同十一月十一日、勢州より上洛し、この事を将軍・足利義昭に言上すると、
公方家は大いに御感有って、國光の御脇差を下賜され、御暇を賜り帰国して、長陣の疲労を休息し、大将も士卒も
相悦んで越年した。

そのような中、信長より任命された朝山日乗村井貞勝島田秀満の三人の奉行は、諸公家と相談し、旧式
先例を正し、禁中の御修理の事も三ヶ年で成就したため、今上の御移徒があった。
諸公家、堂上の面々も皆、信長より宅地を修理され、乱中に領地を奪われた人には、旧規証文の旨に任せて
各領地を還付されたため、朝廷も諸公家も皆々安堵の思いを成し、

「織田弾正忠信長は近代無双の執権也」

と、都鄙遠近ではそう美談した。然れども、京童の曲として、その頃このような一首の落首があった

「存命は 又信長や忍ばれん 憂と三好ぞ今は恋しき」

續應仁後記

本圀寺の変の後くらいの、信長の評判について



桶狭間後日譚

2020年06月11日 17:03

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/11(木) 02:07:06.11 ID:HTSH4nvb
上総介信長は御馬の先に今川義元の首を持たせられ御急ぎなさり、その日の内に清州へ御出あって
翌日に首実検をなされた。首数3千余あり。そこへ義元の差された鞭と弓懸を持った同朋衆を、下
方九郎左衛門と申す者が生け捕りにして進上した。「近頃の名誉を仕った」との由で御褒美があり、
御機嫌ななめならず。

同朋衆は義元前後の始末を申し上げ、首々に一々誰々と見知り申す名字を書き付かせなさった。か
の同朋衆には、のし付きの大刀脇差を下された。そのうえ10人の僧衆を御仕立てになり、義元の
首を同朋衆に添えて駿河へ送り遣わされたのである。清州から20町南、須賀口・熱田へ参る海道
に“義元塚”という塚を築かせなさり、弔いのためと千部経を読ませ大卒塔婆を立て置きなさった。

今回、分捕りになった義元が日頃差されて秘蔵した、名誉の左文字の刀を召し上げられて何度も切
らせられ、信長は日頃差しなさったのであった。御手柄は言葉で申し尽くせない次第である。

――『信長公記 首巻』


桶狭間の戦場で義元の同胞衆の権阿弥という者は、義元の差された弓掛けと鞭を持っていた。下方
九郎左衛門という者はこの権阿弥を生け捕って大将へ奉る。(中略)大卒塔婆を立てなさり「信長
は情けある大将かな」と、近国までも沙汰しけり。

熱田大明神へも今回の御願成就があった奉幣を捧げ、御修理を加えなされた。また今回、義元が陣
中へ差しなさった松倉郷義弘の刀をこちらへ分捕りに取って差し上げると、「これは天下の重宝で
ある」と信長公は御秘蔵なされ、この刀を御差料になさった。

――『織田軍記総見記)』



桶狭間の毛利新介と服部小平太

2020年06月10日 17:16

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/10(水) 01:56:53.83 ID:tKLQnxUk
(桶狭間の戦いの時)

毛利新助(良勝)、服部小平太(一忠)などを初め、高名の輩に一々恩賞を宛て行われ、いずれも
面目を施した。さても今回、服部小平太は早く義元を槍付けたが切り倒され、新助は遅かったが、
ついに義元の首を取って末代まで聞き伝える高名となり、これは只事ではない。天の恵み、仏神の
冥加に叶いたり。

先年の清州騒動の時、新助は未だ毛利十郎(実際は別人)といって若輩だったが、先武衛(斯波義
統)の若君を生け捕って御命を助け参らせた。「代々の国主にかようの大忠を致した故に、天道に
も叶ったのではないか」と、皆人は感じ褒め合った。

――『織田軍記(総見記)』


服部小平太は義元に掛かり合い、膝の口を切られ倒れ伏す。毛利新介は義元を切り伏せ首を取った。
これひとえに先年の清州城において(織田彦五郎が)武衛様をことごとく攻め殺した時、(一族の
毛利十郎が)御舎弟を1人生け捕って助け申され、「その冥加たちまち来て、義元の首を取り給う」
との、人々の風聞であった。

――『信長公記 首巻』

濃州稲葉山由来之事

2020年05月29日 17:13

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 03:19:43.35 ID:L0gBJ9YR
濃州稲葉山由来之事

そもそも当国稲葉山は不双の勝跡で、いわゆる和歌の名山なり。当山は3つの名があって“金華
山”“一石山”“破鏡山”とも申すなり。この場所を言う和歌はおよそ21首が万葉集に見える。

仁明帝の御宇に中納言行平卿(在原行平)は勅命によって、陸奥国より金華石を引かせられた。
この石が濃州に到着する。その頃またにわかに勅詔あって、行平を京に召し上げられた。行平
はかの石を捨てて上洛なさる。後にこの石を召して山の神と崇め“金太大明神”と号したという。
行平卿がこの時に歌を詠ぜられたことは、世に知られている。

そもそも当大明神は、人皇11代・垂仁天皇の第8の皇子・五十瓊磯城入彦命を祭る所である。
清和天皇の御宇、貞観元己卯年(859)2月、正一位因幡社と勅額を賜る。蓄奥の院峰権現
は陰神にして五十瓊磯城命の后という。

また峰の権現は垂仁天皇を崇めるともいう。いわゆる“岐山”と号す。麓の里を“岐阜”と号する
ことは往古よりの称号で、明応から永正(1492~1504)までの旧記に多く載せるとこ
ろである。後世に織田家が名付けたということは信ずるに足りない。

ただ一説に往古は加納を沓井・吉田と称して、岐阜を今泉・忠節・井の口・宗田と言ったのを、
織田家入城の時に及んで沓井・吉田を合わせて加納と言い、今泉から宗田までを岐阜と称した
のだという。

――『土岐累代記



先年御腹めさせ候刻を佐渡覚悟を以て申延候

2020年05月27日 18:18

林秀貞   
93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 22:55:16.97 ID:wLd/15L7
一、去る程に信長公の一大人(家老)の林佐渡守(秀貞)、その弟の林美作守(通具)、柴田権六
  (勝家)が申し合わせて、3人が勘十郎殿(織田信勝)を守り立てようとして既及逆心との由
  で、風説取り取りであった。

  信長公は何と思し召したことなのか、5月26日に信長と安房殿(織田信時)とただ2人で清
  州から那古野城の林佐渡の所へ御出になった。

  「よき巡り合わせなので、御腹を召させよう」と弟の美作守が申すのを、林佐渡守はあまりに
  面映ゆく存じたのか「三代相恩の主君をおめおめとここで手にかけ討ち申しては、天道が恐ろ
  しい。どのみち(信長は)御迷惑に及ばれるのだから、今は御腹を召させることはできない」
  と申して御命を助け、信長を帰し申した。

  一両日が過ぎてから御敵の色を立て、林の与力の荒子城が熱田と清州の間を取り切って御敵に
  なり、米野城と大脇城は清州と那古野の間にあってこれも林の与力であるため、一味して御敵
  を仕った。

一、(信勝との和睦の時)

  林佐渡守のことは、これまた召し出されまじきことではあったが、先年御腹を召させるという
  時のことを、佐渡は覚悟をもって申し延べた(先年御腹めさせ候刻を佐渡覚悟を以て申延候)。
  その子細を思し召し出されて、このたび御宥免なされたのである。

  ――『信長公記 首巻』



94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 11:03:28.43 ID:LokIAzXC
秀吉の信雄三家老懐柔を思い出した

ついに武蔵守殿を生害し奉りけり

2020年05月25日 18:21

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 19:26:51.09 ID:wRe4BRWs
織田信勝誅殺の時)

これより信長は作病を御構えになり一切表へ御出にならず、御兄弟なので勘十郎殿(織田信勝)に
「御見舞いしてしかるべき」と、御袋様(土田御前)ならびに柴田権六(勝家)が意見申すにつき、
清州へ御見舞いに御出になった。

そして清州北矢倉天守の次の間において、弘治4年戌午(1558)霜月2日、河尻青貝に仰せ付
けられて御生害なされた。この忠節を仕ったことにより、後に越前大国を柴田に仰せ付けられた。

――『信長公記 首巻』


柴田勝家の密告を)信長公は聞こし召されて隠密の智謀を柴田に仰せ聞かされ、その夜に勝家を
末森へ返された。さてそれより信長公は病気と称して虚病を構え、長く籠居なされた。同年の冬に
村井民部を御使として御母堂へ仰せ上げられるには、

「某の病気は日を追って盛んになり、治ることは有り難く覚えます。いまだ子を持ち申しませんの
で家督を武蔵守信行に譲ろうと存じます。早く武蔵守方へ迎えを遣されては頂けませんか」

と真らしく仰せ遣わされた。御母堂は事実と思し召して一先ず御嘆きなされたのを早く早くと勧め
申せば、難無く迎えを遣されて(信勝に)子細を仰せ聞かされた。

武蔵守殿は心浅き人で、この事を真と思し召したため、同11月2日に清州城へ入りなされて信長
へ御対面なさりたいと御寝所の矢倉へ通らせなさったところを、この矢倉の天守の次の間であらか
じめ信長が仰せ付けおかれた如く、討手の人々の山口飛騨守、長谷川橋介、河尻、青貝、この者ど
もは小志津の御刀を預かっていて初太刀を強かに打ち付けると、信行はそこを切り抜けなさって、
御母堂の御座所へ走り退きなさった。

そこを、その方向の受け手である池田勝三郎信輝(恒興)が引き組んで三刀刺し、ついに武蔵守殿
を生害し奉りけり。

――『織田軍記総見記)』



【雑談】織田信長と弟・信勝との争い等について

2020年05月24日 16:20

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 19:46:27.56 ID:mS797We3
自分と弟の家老両方に見切られた信長が勝利する運の強さは異常

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 00:07:33.67 ID:B7yyK1lo
信勝方に油断があったんじゃないのかな

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 01:29:39.83 ID:xoSedNu4
林秀貞「三代相恩の主人だから押し込めて腹を切らせるなんてとんでもない」
稲生の合戦で大苦戦中の信長が怒ると、優勢の柴田勢は家臣だから威光に恐れて逃げ崩れた
                    (上の『総見記』と『信長公記』だと若干合戦の推移が違う)

もちろん、太田牛一らの信長称揚もあるだろうけど
なんだかんだで信秀の認めた当主の威光も大きかったんじゃないかと

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 11:51:51.26 ID:T2cDKMkS
むしろ穏健的な信成が正当な後継者だったという論文最近見たな
なかなか衝撃的

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 12:53:05.09 ID:8CTNbWdt
>>213
スケート選手がなんかしたのか?

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 14:17:31.03 ID:rR8W1qw3
多分信勝と書き間違えたんだろう
論文出すだけならとんでもだろうとなんだろうと出せるからね、とんでもな方が衝撃的になりやすいし

内容見てないのでどういう証明のされ方をしてるのかわからんけども

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 15:14:56.39 ID:n0g5aAoo
信広と間違ったんじゃない?
人質になったせいで廃嫡されたんじゃないかって聞いたことある
そういう論説があるのかまでは知らんけど

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 15:33:31.57 ID:8CTNbWdt
いくらなんでも同母弟の信勝が嫡男なのはありえない。齋藤家が嫡男でもない輩に娘を嫁に出すわけがないし。
ただ、信秀の居城の末森城を信勝に譲られたのは大きい。事実上、二頭体制になっていた可能性は高い。

信広は捕虜にならなきゃ家督継いでいた可能性はもちろんある。
けど、大きな実績挙げる前に捕虜になってアウトだったからなぁ。

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 15:37:57.30 ID:0FVd0Msv
文書上は信行は信勝だったけど
信長の上総介の名乗りに対抗して
弾中正建成に(建は守護代家の通字)改名
稲生の戦いで後継者争いに負けた後は「信成」に
と谷口克広「天下人の父・織田信秀」に書いてた

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 17:43:42.67 ID:6knF1Ax8
谷口先生がいうのなら、そうなのだろう。

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 19:27:36.34 ID:B7yyK1lo
いまは分割相続・共同統治からの主導権争いって見方なのかな?

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 07:32:50.31 ID:lbGMsvkA
>>220
タワケの語源って知ってるか?

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 22:04:49.63 ID:Z78nCZoG
>>225
田分け?
戯け?

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 23:28:49.96 ID:388ZJOBP
古事記の仲哀天皇段の
上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚(うまたはけ)、牛婚(うしたはけ)、鶏婚(とりたはけ)、犬婚(いぬたはけ)
近親相姦や獣姦の禁止の箇所で出てくる「たはけ」が初出ではないか

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 02:45:00.99 ID:7sddv3kp
たわけ うつけ 
似てるよね。どっちも信長のイメージ

武蔵守殿にまた御謀叛の企てある由

2020年05月24日 16:19

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 22:51:09.31 ID:LqQOcs28
武蔵守殿信行(織田信勝)は先の和睦の後もまたまた野心を挟まれ、春日井郡龍泉寺に居住なさる
として当所に要害を構えられた。これは上郡岩倉城主・織田伊勢守(信安)衆と心を合わせ、東郡
篠木三郷を始め、信長御台所入りの知行所どもを、ことごとく押領なされるためである。

また信行は不行儀の事どもが多かったのを柴田権六勝家が度々諫めたのだが御許容なさることなく、
あまつさえ近習の小姓で寵愛なされた津々木十蔵という者は出世甚だしく、諸事の別当となり諸侍
の総頭を仰せ付けられて、この頃は津々木蔵人と名乗った。

この者は智もなく勇もなく第一に驕りを極めたため、諸人に憎まれ疎み果てられた。中でも柴田権
六と仲が悪く、権六を万事引き下げてあしらえば、内々に権六は安からぬことに思っていたのだが、
弘治2年(1556)正月5日、武蔵守殿は家中の面々に椀飯の饗応を下されたのだが、柴田には
その沙汰なし。

勝家は不審に思い、もてなし顔で台所辺へ伺候したけれども、津々木が連日何事かを讒言したのか
信行は柴田に言葉をも掛けなさらなかった。勝家は蒸すが如く腹立ったけれども、わざと顔色に出
さずにいたが、心安き朋友の手を取って自分の眼の上を探らせると、眼の上はさながら猛火のよう
に熱していた。

これほどに感情が高まればどうして少しでも躊躇えようか、その日すぐに勝家は清州へと参上して、
密かに武蔵守殿にまた御謀叛の企てある由を信長公へと申し上げた。

――『織田軍記(総見記)』



まず今回は御赦免なさった

2020年05月23日 16:46

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 06:05:32.82 ID:QRLkc+Fv
(稲生の戦い後)

それより後、敵は末森・那古野に籠城したのを節々御働きなされて町口を皆々放火し給う。しかる
に信長公の御母堂(土田御前)と武蔵守殿(織田信勝)は御一緒に末森城にいらっしゃたが、清州
より島田所之助、村井民部を御使に遣わされた。

武蔵守殿謀叛の罪科を今後御赦免なさって和睦させなさるようにとの由で信長公へ様々の御詫言が
あり、信長もさすがに御舎弟といい御母堂の御詫言といい、いずれにしても捨て置き難くすなわち
御同心なされた。

以来、武蔵守殿より信長公へ疎意あるまじき由の起請文を書き遣わされ、御母堂の御同道で武蔵守
殿、ならびに柴田権六(勝家)、津々木十蔵(蔵人)が黒染の衣を着て清州城へ参上申し、御目見
と御礼を申し上げた。

林佐渡守(秀貞)はひとしお罪科の者で御赦免なりがたき輩であったが、諸々の御詫言を申し上げ、
先年に安房守殿(織田信時)御同道で彼の館へ御入りになった時、舎弟の美作(林通具)は信長公
を殺害しようと申したが、佐渡守は差し止めたということをよくよく聞こし召し届けられて、まず
今回は御赦免なさった。

これも首を延べて清州へ参り御許しの御礼を申し上げれば、信長公よりあまつさえ元の如く那古野
城を守るようにとの旨で安堵の御書を賜った。

――『織田軍記総見記)』



尾州稲生合戦事 同美作守被討捕事

2020年05月22日 18:13

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 03:50:07.09 ID:Qm/OZvwl
尾州稲生合戦事 同美作守被討捕事

弘治2年(1556)の夏頃より、林佐渡守(秀貞)・同美作守(林通具)・柴田権六(勝家)3人
の勧めによって武蔵守殿(織田信勝)は謀叛を企てられ、信長公御台所入りの御知行・笹木三郷を押
領なされた。このままではきっと河際に砦を付けられ、河東の御知行をも押さえられること必定であ
るとして、こちらより先立って清州の東50町にあたる名塚村という所を砦の城に拵え、佐久間大学
(盛重)を籠め置きなさった。

かくてこの年の8月、霖雨晴れ間なく降り続き水洪大いに流れるのを良き時節と思ったか、同月24
日朝、柴田権六勝家は末森城を出て1千余人の軍兵を引き連れ、林美作守は那古野城より7百余の人
数を率いて両口より我も我もと名塚村へ押し寄せた。

名塚村の砦よりこの由を清州に告げるため、当月21日より毎日の大雨で小多井河の水は出で鳥でも
なければ渡り難きものを、さすが水の上手を便りにして難無く川を泳ぎ越し、この由を清州へ申し上
げた。

信長公は聞こし召され「名塚村の砦はようやく塀1重堀1つ、そして大学は無勢で籠っている。両手
の大軍を引き受けて難儀に及ぶことは察し入る。今日某が後詰せねば、間違いなくこの城は落ちるで
あろう。後悔何の益かあらん。速やかに打ち立つべし!」と、上下7百に足らぬ人数を引き連れて、
即時に清州を出発されて小多井河に到着なさった。

水上みなぎり波高く渡れる様子もないところ、河向かい名塚の砦では合戦は今が盛りと見え、弓鉄砲
鬨の声おびただしく聞こえたり。信長公仰せられるは「私がこの河を渡りかねて目の前で味方を討た
せれば、これ以上の弓矢の恥辱はない。我と思う者は続いて渡れ!」と下知し給い、自身馬を入れて
さすがの大河を真っ先に駆けて一文字に渡りなさる。大将が渡り給うのを見て、総勢は我劣じと乗り
入れ、7百の人数残らず大河を渡り越えて向かいの岸に駆け上がる。

柴田これを見て稲生村の外れの道を西向きに掛かり来る。林美作は南の田方より北向きに備を立てる。
信長公は総人数を2つに分け織田造酒丞直政(信房)・同勝左衛門に人数を添えて柴田の方へ差し向
けなさる。信長公は林の陣へ指し向いて、同日午の刻に辰巳へ向かって無二無三に合戦を始められた。

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 03:52:39.31 ID:Qm/OZvwl
一番の合戦は柴田がいささかの勝利を得て、造酒丞は打ち負かされた。山田治部左衛門・佐々孫助を
始め数輩が討死し、山田の首を柴田自身が討ち取って残る軍兵を散々に追い崩し、信長公の御前近く
に追い掛かる。信長公御馬の周りには森三左衛門(可成)を始め、わずかに持槍の中間ばらまでのよ
うやく40ほどであった。

織田造酒丞・同勝左衛門は大原という大剛の者を突き伏せ首を奪ったところへ敵兵多く取り掛け、合
戦すでに大事と見え、信長公は大声で「憎き奴ばらめかな!」と御怒りになれば、さすが主君の御事
なので敵ながら恐れ憚り、そのまま掛かることはできなかった。河村助右衛門はこれを見かね、御馬
の先へ4,5町ほど進み出て晴れなる討死をしたのだった。

美作守はいよいよ勝利に誇り、信長公の御方を捨て置いて逃げる勢を追いすがって切り掛かるのを、
信長公は南へ向かって横合いに突き掛かりなさる。森三左衛門以下が槍を取って進み掛かれば、美作
勢は敗軍して信長公自身で美作を目掛け給うと、近習に召し使われた黒田半平が槍を持って美作に渡
り合い互いに突き合って、半平は左手を切り落とされた。美作も戦い疲れて互いに息継ぎするところ
を信長公はキッと御覧になり「天の与えた幸いなり!」と自身槍を引っ下げ美作を突き伏せなさった。

美作も剛の者でなお働きたるところを、御小人の口中杉若という者が走り掛かってついに美作を切り
留め首を取って差し上げた。杉若は今度の御褒美として後には侍になされ、黒田杉左衛門と名乗らせ
なさった。

織田造酒丞の下人の禅門という中間も敵方の勇士・河辺平四郎を切り倒し、主人に「この首を御取り
なされ!」というのを、造酒丞は申して、「いくらでも切り倒せよ!私めは首を取るに及ばず!」と、
なお先へ進んだが、造酒丞も森三左衛門も終始戦の下知のみしてついに首を取らなかった。

さて柴田権六は造酒丞・勝左衛門・織田左馬允(津田盛月)・佐久間大学などの諸勢に向かってなお
支えて戦っていたのを、信長公は大声を揚げて「林美作は某が自身で討ち取ったるぞ!柴田めを余す
な漏らすな!」と、一度にドッと突き掛かり給うや否や、その御威光に騒ぎ立ってさすがの柴田も崩
れ立ち、四角八方へ敗軍した。

ここで橋本十蔵という者は佐久間大学に討たれた。前田又左衛門利家はその頃は未だ犬千代といって
16歳の若武者であったが、敵方の宮井勘兵衛が射た矢を右の眼の下に受け止め、その矢を抜かずに
ついに勘兵衛を討ち留め、首を取って御目に掛けた。誠に古の権五郎景政(鎌倉景正)にも劣らない
働きであると皆人これを誉め合った。

さて信長公の御勢は皆々馬を引き寄せて打ち乗り、敵が逃げるのを追って行き、小幡守山の辺りまで
ことごとく追い打ちした。これより追い捨てて引き返し清州城へ御入りになり、この日は御休息用心
なさって討ち取った首を翌日に御実検なされた。

まず林美作守を御大将・信長公自身がこれを討ち取り給う。鎌田助之丞を織田左馬允が討ち取る。富
野左京を高畠三右衛門が討ち取る。宮井勘兵衛を前田又左衛門が討ち取り、山口又五郎を木全六郎三
郎が討ち取る。橋本十蔵を佐久間大学が討ち取る。大脇虎蔵は織田勝左衛門が討ち取る。角田新五郎
を佐々内蔵助(成政)が討ち取る。この他に河辺平四郎を始めとして屈強の首を討ち取り、その数は
450余とぞ聞こえける。

信長公は清州城へ御居住以後、初めての勝ち合戦でそのうえ逆心の張本人である林美作を討ち取りな
さったと、殊の外御怡悦であった。

――『織田軍記総見記)』



207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 11:49:34.21 ID:sEvfHqod
林美作を討ったのが大きい

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 15:29:52.42 ID:9CMjUVvv
よく勝家は許されたよな。信長政権が続いたら、いつか追放されたかもしれないけど。

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 09:01:54.02 ID:pvlENMfI
>>208
後継が無能だったら佐久間と同じ道を辿る

さて通貞は

2020年05月16日 18:17

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/15(金) 18:51:02.51 ID:RLxOE1g1
一、大野郡清水の城主  稲葉伊予守良通入道一鉄斎 始めは安八郡曽根の城主なり。
  安八郡大垣の城主  氏家常陸介友国入道卜全  元亀2年太田村にて討死。
  厚見郡鏡島の城主  安藤伊賀守守就入道道足  天正11年に討死。
  安八郡西の保の城主 不破河内守通定(光治)  天正9年に病死。

  右の四家を“西美濃四人衆”と号して、土岐氏代々相恩の旧臣である。もっとも各々天文・弘
  治・永禄・元亀・天正の頃の人々である。土岐頼芸より義興に属して龍興の代に至り、永禄
  7年(1564)の頃より織田信長に随身した。右の内、稲葉は子孫繁昌、氏家は内膳・志
  摩守が関ヶ原で終わる。不破は彦三郎より北国に果てる。安藤は関東にいるという。

一、さて通貞(不破光治)は土岐の旧臣にして、美濃の国四人衆の内より土岐頼芸・一色義龍・
  斎藤龍興に属し、永禄7年の秋より心変わりして織田信長に属した。

  この人は勇猛武功のことについてさしてその名は無い。しかしながら、その気質温和にして
  人愛深く、その姿に威厳の相あり。殊に弁舌奇麗にして談合仲裁の事に良くその理明白の人
  であった。しかしながら戦功においては、生涯の中で一立の優れた働きを知らない。時に天
  正9巳年(1581)8月に亡くなった。

  その子・彦三郎通家(直光)は柴田勝家の与力として北国征伐の烈将であった。よって越前
  国に居住し、後には加州に移った。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では前田家に組
  し、度々武功をあらわした。子孫はどこにいるのか、その名を知れず。

  今、濃州不破郡にも不破氏を名乗る小百姓など少々ありといえども、通貞の子孫とも見えず。
  いずれにせよ彦三郎の子孫は北国にいると見える。今、西の保村にも少しの堀の跡、ならび
  に小高き丘などのようなものが見える。これすなわち河内守居城の跡と見えたり。

  ――『美濃国諸旧記



織田信雄、敵を助けた小姓を

2020年05月15日 18:18

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 22:50:40.61 ID:EOK6TkPy
織田信雄、敵を助けた小姓を


丹羽左兵太は織田常信(信雄)の小姓である。
長久手合戦のとき池田の手に石黒善左衛門、常信の手に石黒善右衛門がいて二人は伯父甥であった。
常信の手にいる石黒と丹羽は仲が良かったが、一戦で丹羽は池田の手の石黒と槍を合わせた。

丹羽の下人が「これは味方の石黒とは一家ですよ」と申したので、石黒と仕合を止め
(丹羽は)その先で敵一人に槍を付け首を捕ったが、味方の大兵が来て首を奪われてしまった。
「これ程多くいる敵を討たず人の討った首を奪うか!」と言って先に行きまた敵を討ったという。

その後東照宮(家康)へ(徳川家臣の)西尾丹後が「常信の小姓が、仕掛けた敵を助けました」と
申し上げたので、東照宮はそのことについて常信にお尋ねになられた。
常信は敵を助けたと申すのはどうかと思われて「左様の者はございません」と返答された。

その後東照宮が常信の所へ越されて、長久手での勝利を喜ぶ御話をされた後
「最前にいる御小姓に手柄をいたした者がいるそうですが、何と申す者でしょう」とお尋ねされたので
「只今お酌をしているのは(小姓ではなく)余の倅です」と常信は申されたという。
このとき佐平太[十九歳だったという]は、お酌取りとして御前にいたという。


――『烈公間話



心得ざる左近の言い分かな

2020年05月13日 18:15

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/13(水) 01:10:04.09 ID:6M4HJyPQ
安八郡西の保の城主・不破河内守通貞(光治)は、東美濃の遠山刑部允正元の孫であるという。
通貞の父は不破彦左衛門通直といって、西の保村の城主である。

一説に不破氏の先祖は山城国の松井蔵人直家といった者であるが、笠置の城没落の後に六波羅
の命に従い、後醍醐天皇を探し奉った。この恩賞として、美濃国に数ヶ所の荘園を六波羅より
賜って初めて当国に至り、不破郡府中村に居住した。その後に氏を不破と改めて、その子孫は
不破・多芸の両郡に数多おり、府中の住人・不破隼人直重は江州の篠原で討死した。

さてまた退翁軒法印の日記を見ると、天正元癸酉年(1573)12月、不破河内守通貞は滝
川左近将監一益に対し、刀傷に及んだことがある。これをもって見る時は源姓ではなかろうか。

その故は、滝川一益の長女を不破通貞の嫡子・彦三郎通家(直光)に嫁がせたいとの由を申し
入れたところ、滝川はどういうわけかこれを承諾しなかった。「我が娘は筋目正しき大名の内
へ嫁がせようとこそ思えども、不破などには得参らせ難し」と言ったである。これを聞いて通
貞は大いに怒り、

「心得ざる左近の言い分かな! 私は今は信長の臣であるといえど、その昔を言えば清和源氏の
後裔である土岐・遠山の正統にして、当国の本家である! 滝川は何程の者なるぞ! 彼はただ
江州佐々木出の浪人者とは聞いているが、祖父の来歴も分からない! 近年ようやく信長公の御
取立てに預かった者だが、今は勢いに乗って当家を侮るとは奇怪なり!」

と立腹して、その年の12月11日の夜に滝川の宿所へ打ち入り、刀傷に及んだと記してある。
しかれば、これなどをもって考える時は(不破は)当国の侍で土岐氏の庶流であろう。山城の
国から来たというのは不審である。

按ずるに土岐頼貞の末子に五郎頼之という者がいるが、不破郡府中に居住したと言われている。
これすなわち通貞の先祖だろう。しかしながら通貞までの来歴の次第は詳らかではないという。

――『美濃国諸旧記』




63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/13(水) 13:17:44.63 ID:4JVWnVPW
由緒正しき清和源氏の流れだったら息子の嫁も良いとこから貰えよw
なお正室は北畠具教の娘らしいが

下郡半国も過半は御敵となったのである

2020年05月11日 17:37

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 02:53:00.32 ID:2m/XX9y0
(長良川の戦い後)

戦が終わり首実検をすると(斎藤義龍は)信長の御陣所である大良口へ人数を出した。信長は大良
から30町ほど駆け出て、および河原で戦い合う足軽合戦があって、

山口取手介 討死
土方喜三郎 討死
森三左衛門(可成) 千石又一に渡し合い、馬上で切り合って三左衛門は脛の口を切られ引き退く。

しかし、山城(斎藤道三)も合戦に切り負け討死の由なので、信長は大良の御本陣まで引き入った
のだった。ここで大河を隔てていたので、雑人・牛馬をことごとく退かせなさり、殿は信長がなさ
るとの由で全ての人数に川を越させなさり、上総介殿(信長)の乗られる御舟1艘を残して各々は
川を打ち越えた。

すると馬武者少々が川端まで駆けて来た。その時に信長は鉄砲を撃ちなさり、敵はそこから近くに
は寄らず、信長はそこを去って御舟に乗られて御越しになった。

そのようなところで、尾張国半国の主・織田伊勢守(信安)は濃州の義龍と申し合わせて、御敵の
色を立てる。信長の館・清州の近所、下の郷という村を放火したとの由が追々注進された。信長は
御無念に思し召し、ただちに岩倉口へ御遣わしになって岩倉近辺の知行所を焼き払い、その日の御
人数は御引き取りになった。

このようであったため、下郡半国も過半は御敵となったのである。

――『信長公記 首巻』



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 15:47:24.33 ID:YxnV2kQk
土岐のご落胤なんてのは取って付けた名分であって実際は国人領主に担ぎ上げられた義龍が道三を討っただけ
伊達も武田も似たようなものでしょう