江戸のもののはじまり事典

2017年11月24日 17:18

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 21:29:17.74 ID:XjByv4RE
江戸のもののはじまり事典「本朝世事談綺」よりいくつか


鹿苑相国義満公の時、内野合戦が正月元日に起き、殿中の祝賀会に出席していた者共が
素襖の袖と裾をとって戦に従事したことが吉例となった。
細川頼之の行いであった。
一説によると、信長公の時に松永弾正がはじめたとも。

月代
月代を剃ることは、鎌倉北条執権(泰時の頃)に始まった。
その昔は本朝では貴賤ともにみな総髪でお歯黒をつけていた。
山海経に言う「東海に黒歯国あり、その俗、婦人の歯悉く黒く染む」というのは日本のことである。
その後、貴賤を分かつために男の歯を染めることを禁じたが、気が発さなくなったせいで歯の痛みとなった。
そこで月代を剃ることとなったのだ。
一説によれば、鎌倉時代は髪を抜いたという。信長公のときに剃刀で剃るようになったという。
おそらく髪を抜くというのは額のことであろう。
剃刀は眉を剃るために神功皇后の時に始まった。眉剃り用の剃刀は小さかったのを、
信長公の時に大きくしたのが今の剃刀であろう。
(信長が毛を抜くのを痛がって剃ることにした、という説もある)

ロウソク
文禄年中までは日本にロウソクなし。呂宋助左衛門が秀吉に献ずるところのロウソクを真似してこれをつくった。

一里塚
正親町天皇の御世に信長公の下知にて一里を三十六町に定めてその表示に一里塚をつくり榎を植えさせた。



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『松野平介に劣らぬよう』

2017年11月14日 21:29

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 07:41:35.14 ID:GSRO0ABL
織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、
武義の詮議を行い、家職を忘れず、武運のことを神慮に祈った。
また同士の輩は、一同に誓詞を記し、互いの非を伝えあった。

ある時、何れも寄り合いをして、願書を書いて武運を祈るとき、
「皆は何を目標にして、どのように武職を勤めたいと思っているのか、それぞれその趣旨を書いて
入札にしよう」
という事になり、集まって書き出した所、皆『松野平介に劣らぬよう』『松野平介より先を致したい』
といった心がけが書かれていた。

この松野平介という人物は、美濃の三人衆に仕えていた武士であり、後に信長に召された、
信長は、その身が陪臣であると雖も、武の職業を勤めたる者であると、彼を非常に高く評価し、
岐阜の大手先の侍町に屋敷を与え、「諸人の規範にもなる人物だ」と言った。

このため織田家の諸侍は彼を見習い勤めを甚だ励み、それぞれに武義の職を勤め守った。

(士談)



421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 17:52:44.33 ID:tx0xGda4
織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、

初めて聞く話やな

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 18:53:48.72 ID:Un1oa4VD
織田家では月二回、職場内の勉強会兼飲み会をやっていたという事か。

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 19:49:11.27 ID:71UKaADV
織田家中自己啓発セミナー

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 20:33:05.07 ID:Cr5IYuoH
織田家で自己啓発とか
無道なことを

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 21:07:10.78 ID:WV2H8aGD
庚申講みたいに実質、ただの飲み会じゃないの?
まあ庚申講はいろいろと危ない相談もされてたんじゃないかって話もあるけど

武家事紀での織田岸蔵坊

2017年11月10日 21:31

284 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/09(木) 21:26:20.98 ID:529zOpoH
ググったら武家事紀の同じ話が有り、書かれてるサイトが有った。そちらでは織田岸蔵坊の事を

きわめて貧しきが故に、布の旗、筵の障泥にて疲れ馬に鞭をあつ。 

村上紀伊守は馬具・武具も整え岸蔵坊とは対照的な姿。
 どちらが一陣、二陣となるかをくじで決め、村上紀伊守が一陣、二陣は岸蔵坊となった。
 村上紀伊守の第一陣は破れ、岸蔵坊は身に三箇所の傷を被りながらも一揆を打破った。
 こうして凱旋し将軍家に討捕らえた首を献上した。
 その様子を『武家事紀』は、 
 
  将軍家感悦のあまり御盃を下され、ことに駿馬を賜う。 
  村上も御盃にあずかりぬ。 
  村上もとより大酒なれば、数盃を傾く。 
  将軍家興に入り給うて御太刀を賜いて各退出す。 
  岸蔵坊大いに怒れる気色にて、 
  一番に逃亡せる村上は重代につたわる太刀を賜り、軍功無双の某には、明日もしらざる馬を賜る。
  此の馬を殺し皮をはいで太鼓に張り、是こそ将軍家より軍功に賜れる馬の皮よと銘をしるし、子孫に伝うべし。
  これ村上が上戸ゆえなり。 
  下戸なる者は益なし。 
  下戸無念なりと、ののしり立って帰れりとなる。 


これを見るに将軍には悪気無く、岸蔵坊さんに良かれと思って馬を与えたように見える。
岸蔵坊さんは襤褸を着ても心は錦じゃないけど、負けた筈の村上さんが褒美を貰うのが気に食わなかったのかなぁ?


http://www.gokuh.jp/ghp/busho/oda_001.htm

関連
織田岸蔵坊は激怒した


285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 23:18:27.34 ID:WWQClPL8
織田の陪臣である岸蔵房がどうして将軍家に拝謁できるのか?
尾張に流れてくる前の話なのかな?

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/10(金) 07:28:13.28 ID:6GS648by
一揆はどこの一揆で将軍はどの将軍なのか

287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 08:07:19.31 ID:0CxMzdfO
>>285
織田岸蔵房で調べたら孫の織田信房が出てくるけど、信秀の代から仕え、元々織田姓ではないとある。
岸蔵坊が元々何処に仕えていて、どう流れて信房の代で信秀に仕える様になったかは興味深いね

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/10(金) 08:30:37.15 ID:a9KTd7T+
>>287
信房の子に菅屋長頼がいるんだよね
織田姓を貰うことといい、かなり厚遇されていた一族なんだろうなあ

織田岸蔵坊は激怒した

2017年11月09日 17:14

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 10:22:19.01 ID:Y5rjaGJg
かつて、織田岸蔵坊(信長に仕えた織田信房 (造酒丞)の祖父)と村上紀伊守とが、当時の公方の
命により敵を退治したが、織田岸蔵坊は比類なき働きあり、紀伊守はさほどのことはなかった。

帰京した時、織田は馬を賜り、村上は太刀を賜った。
これに織田岸蔵坊は激怒した

「村上は一戦に崩れて恥を取ったと言うのに、それがしと一緒に御盃を賜っただけでなく、
御剣まで賜った。村上は『この太刀こそ勲功の賞である』と、子孫に伝え家の面目に備えるだろう。

しかし馬は生物なのだから、明日をも知れず、後代に残ることもない!
すぐに其の馬を打ち殺し皮をはぎ太鼓に張り、『これこそ将軍より賜った馬の皮である』と
銘を打って子孫に伝えよう!

各々、武勇を棄てて酒の飲み方を学ばれよ!村上が上戸故にこれほどの面目に余る待遇を受けたのだ!」

そう罵って御前から下がり、将軍は大いに興を覚ましたという。

(士談)

関連
武家事紀での織田岸蔵坊


273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 10:28:26.47 ID:gGam2wU+
信長の言い分と真逆w

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 11:55:35.48 ID:W5g8hSJd
汗血馬でも屠殺しちゃいそうな奴だな

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 15:16:29.17 ID:eUduDq1c
いい馬なら繁殖させれば儲かると思うんだが
それでは駄目なのか

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:25:06.33 ID:eVs8SPKm
戦国時代の名馬って繁殖に回って子孫も名馬っていう話聞かないし
いい馬をもとに繁殖させるっていう発想自体がないんじゃね


277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:44:38.79 ID:kZkZr3ob
そもそも儲かるとかそういう話じゃなくて面子の問題なんだろうしな

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:52:43.95 ID:z/A/VUKh
池月・磨墨を頼朝から下賜されて宇治川で先陣争いした
佐々木高綱や梶原景季はいまだに語られてるのに

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:57:05.12 ID:W8CGtvmK
それは平家物語の作者と琵琶法師たちのおかげだな

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:15:56.14 ID:bdaIAzlk
>>276
ない。馬産に関しては明治まではとてつもない後進国。
なんせ、去勢すらまともにしようとしないぐらいだし。

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:38:04.85 ID:WWQClPL8
アラブを導入してみたもののうまくいかなくて小さく出ちゃったのって島津だったっけか?
まあ種馬を見分ける相馬が無かったんだろうけど

当時って自然交配なのかな?

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:42:26.36 ID:wtXKSyfd
日清だか日露の時に日本の軍馬が騒いで困ったので、それからせんばの導入が進んだって聞いたことある

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:43:21.07 ID:xGkzgLXd
>>277
馬を貰った=記念品と共に長く伝えられる程の功名と評価されなかった、と解釈したのかも。
あるいは「あの時こういう功名を遂げて馬を貰ったんだ」より、
「あの時こういう功名を遂げて太刀をもらった、それがこれ」と言えるほうが格好がつくと思ったか。
感状に拘る武士に似た考え方かな?

武田左吉の子

2017年11月03日 20:57

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 21:10:59.46 ID:j17J6I/M
織田信長足利義昭を戴いた上洛戦の時、近江北郡にて坂井右近将監の子である久蔵が、この時わずか13歳にて
鑓を合わせ、彼の働きに義昭ならびに信長より感状が与えられた。
その頃、武田左吉という者の子も同じ13歳で、信長の側に仕えていたが、久蔵の振る舞いを羨ましく思った。

信長は入京すると、京より青龍寺、山崎あたりに退いていた三好勢を続けて攻めた。
この時、武田左吉の子が一番に、三好の陣へ馬を入れた。彼は敵との距離が良い所で馬より降りて
闘おうと思っていたが、其の身、未だ幼く、また馬は癇が強く逸っていたため、降りること出来ず
そのまま敵陣の中に引き込まれ、討たれた。
志は猛しといえども、本意無きことである。

武田左吉はこの他に子が無く、後に土方彦三郎という者の弟を養子とし、その者は武田宮内と名乗った。

(士談)



不覚悟の討ち死に

2017年11月02日 17:30

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 17:25:55.37 ID:j17J6I/M
丹波において、織田信澄の扈従の若者6、7騎が朝駆けを行い、敵30騎ばかりの中へ馬を乗り入れ、
それぞれに首を取って帰ろうとした。

この中に居た里見小才助と言う者の乗っていた馬は、三寸にあまり四寸に及ぶほどの大型であったが、
馬取は付かず、殊に腹帯もしっかり付けられていなかった。

鎧武者が指物を指して、首と槍と抜いた刀を持って乗ろうとすれば、鞍が返って上手く乗ることが出来ず、
そうしてもたもたしている間に敵が数多返してきて、小才助は討たれてしまった。
そして他の6騎は小才助を助けずに帰ったため、その頃その行為に対して批判が有ったそうだ。

大柄の馬に乗るべきではない、というのはこういう事であり、かつその上に、彼は馬の腹帯が
鞍の固定のために大切であるということを知らず、かといって鞍をつけない馬に乗る術も知らず、
その身の不覚悟のために討ち死にし、それだけでなく傍輩まで人々から批判させてしまった。
まさに誤りと言うべきであろう。

(士談)



214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 17:33:38.20 ID:SXEm+Gu2
そんなやつに馬のせんな

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 18:33:24.83 ID:zdtRAxdV
今の出来事に置き換えるとバイクで立ちゴケするようなもんか

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 20:33:18.88 ID:9+jJPnHU
舅の援軍として丹波に赴いたのかしら
信澄の話は貴重だねえ

朝夕樫の柄をこそ

2017年10月27日 17:04

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 13:21:15.40 ID:QPdRFwSZ
織田信長の黒母衣衆に、伊藤武兵衛という者があった。
彼は坂井近盛という者を斬り尾張より退転し、駿河に亡命して今川氏真を頼った。
尾張からの牢人ということで、今川家の人々も彼を丁重に遇した。

ある時、乱舞の座において他の人々より「伊藤殿も何ぞ遊ばし候へ」と、座興を促されたが
彼は元より乱舞というものを知らぬため

「私は何も心得ませんので」

と断った。しかし「いやそう言われずに、何か一色」と更に促された。それでも
「今まで知らぬことであり、面目無いのですが、何も存じませんので。」

そういった所、座の若き者共、「この男、何も知らぬ」と嘲り、小鼓を彼に向かってころばして、
強いて所望した。
この様子を見て伊藤は、居直って言い放った

「私は若き頃より信長の脇に仕えて近国を従え、朝夕樫の柄(槍の柄)をこそ握っていたため、
穢多の皮を叩いた遊ぶ暇もなければ、知らぬなり!」

そして鼓を跳ね戻したが、かの若者達は

「いや、穢多の皮を叩く時は叩き、樫の柄を握るべき所で握る者こそ良いと言うべきだ」

そう言い、これに怒った伊藤が刀を抜こうとしたのを周りの人々が慌てて抑え止めさせた。

程なく、今川氏真は武田信玄のため駿河を退き、遠江掛川に籠った。ここを信玄と連携した
徳川家康が攻めた。
天王山の北に旗を立て、大須賀五郎左衛門、大久保七郎右衛門、松平周防守、土井豊後守らが
大手を攻め立てた時、城中には勇士多かったが、この時伊藤武兵衛が今川家の武士たちに言った

「穢多の皮の事承り及んでおりますが、畳の上では心安いでしょう。こういう時こそ少し叩いては如何か?
この武兵衛は信長の側にて習い置き樫の柄を握ってみせましょうぞ!」

そう申すと城より何度も打って出て、遂に討ち死にした。椋原次郎右衛門に討たれたという。
類少き勇者である。
しかし、もし彼に音曲の方の素養もあったなら、このように後まで心にかかることも無かっただろう。
であれば、知らぬというのは少し劣ることに似ているのではないだろうか。

(士談)



203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 16:29:06.71 ID:xqOpkIKt
価値観が変わってしまっていることが窺えるな

きうりの紋

2017年10月07日 15:59

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 23:28:53.28 ID:KxLBGXY6
牛頭天王を信仰する者は、必ず胡瓜を食らうことを禁じている。これを食らうとたちまち邪疫に
感染すると言うのだ。或いは云う、牛頭天王の紋所は木瓜であり、これを”きうり(胡瓜)”と
読み誤ったのだ、とも、

しかし素戔嗚尊(牛頭天王の本地とされる)に紋所があるとも覚えず。
これについては、かつて織田信長がこの牛頭天王を深く信仰し、神輿の類ことごとくに、織田家の紋所である
木瓜を染めて納めたため、終にはこの木瓜が牛頭天王の紋所であると誤って伝えられたのだと言われる。

(今古雅談)



169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 23:39:35.87 ID:sv0B/QpK
瓜にかぶりついていた若いころの信長…

今朝とあけて 麓は柳桜哉

2017年09月24日 16:36

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 14:39:42.65 ID:4xTwE4Xq
織田信長が岐阜に在城していた時、城内に桜の馬場を取り立て、その祝いとして連歌師の里村紹巴
発句をするよう命じた。そこで紹巴は

『今朝とあけて 麓は柳桜哉』

そう連歌したところ、これを聞いた信長は

「城に”あくる”と言う事は禁忌である!時と場合によってはこの城を調伏する言葉であり、
遠島に配すべし!」

と、命じたという。

(士談)



145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 15:34:24.41 ID:WJQIg07t
信長が言うととんちとか禅問答をしているようにもとれる

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 19:37:19.83 ID:Tjttvdh3
里村紹巴っていろいろ不運な目に会いつつもギリギリ許されることが多くて運が良いのか悪いのかよくわからん奴だな

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 04:01:35.13 ID:OzTAV6SS
生き残ってる以上死ぬ話を作るにはいかんからな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 08:02:54.28 ID:cqcIMXVs
>>147
天庵様は生き残ってるけど、軍記物では死んでるよ

【雑談】信長が生きていたら次に追放されるのは

2017年09月18日 18:37

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 06:53:07.43 ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:11:44.64 ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:43:44.23 ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 10:35:41.22 ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 11:34:35.22 ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 18:33:26.75 ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 21:31:49.60 ID:GB5g7IWs
初めから預けてあるだけだから仕方ないね

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 02:51:37.49 ID:SAQd3Wid
領地も預けてるだけだからしゃあないつか秀吉も同じだし

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 09:38:19.60 ID:S6O7voU+
堀家の文書だと秀吉も長浜から追い出されることになってたんだよね

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 14:03:08.13 ID:8hOQvV3e
>>117
光秀が追い出されるのだから、まあ当然そうなるでそ。

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 14:10:19.11 ID:duF2E/F9
滋賀とか奈良って現代だと糞田舎で全く無価値な場所だけど
近江とか大和って言われると輝いて見える不思議
戦国脳のなせる業なり

左門殿は殊の外おどけた人で

2017年09月13日 18:21

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/13(水) 02:13:56.64 ID:5Fm8W0c9
大坂御陣の時分、織田左門殿(頼長)も籠城した。

左門殿は殊の外おどけた人で、牛の角に銀箔を捺して乗られ申した。
また女中に刀を持たせ、毎度堀裏を廻り申されるような人であった。

(牛の角に銀箔を置乗被申候。女中に刀を持せ、毎度堀裏を廻り被
申候様なる人に候由。)

その由を前述の御話と同じ時に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/13(水) 11:20:54.14 ID:mz9dNTx1
大阪の夏の前に上手いこと城から出て長寿庵を営んだけど早死した人か

浅利のハイタカ

2017年09月09日 10:14

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/08(金) 23:39:00.53 ID:XzrI/Uma
尾張内府(織田信雄)の元に、「鷹の上手である」と、浅利牛乱という者が目通りした。
彼は「ハイタカに雁を取らす」との言い立てをした。信雄は「これは珍妙である」と、彼を召し抱えた。

浅利はこの雁取りの鷹を据えて御前に出たが、この鷹、殊の外羽を羽ばたかせて鳥を取ろうとする
様子であったが、その日は狩りをさせずに置いた。脇から見れば、まぎれもなく雁を取るような体であった。

しかしその翌日、浅利は信雄の前に出ると「あの鷹はイタチに食われてしまいました」と、涙を落として
説名した。

実は、先に鷹が羽ばたいていたのは、一方に餌を持って見せたため、鷹が興奮していたということで、
つまりは偽りであったという。すなわち、信雄を騙したということである。

(士談)



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 08:31:06.55 ID:4xz0EMTm
>>100
つまり、人を騙した浅利に罰があたった、ってこと?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 18:19:41.24 ID:pozdrvhm
イタチにヤられたことだって本当かどうか

首の臍

2017年07月24日 18:06

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/24(月) 14:55:04.07 ID:0xK7yMrw

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)


蜂屋を加えておけば、

2017年07月22日 18:50

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/22(土) 18:44:44.31 ID:q3SVQupX
織田信長の初めの頃、柴田勝家と坂井右近(政尚)の二人が軍奉行を担当し、織田家の弓矢のことは
全てこの二人が指引した。信長はここに「蜂屋兵庫頭(頼隆)をこの両人に加えるように」と命じた。
蜂屋は武功抜群の者であった。

ところが柴田と坂井は、信長に対し
「蜂屋を加えられるのであれば、我々は軍奉行の役儀を返上します。」と、強い拒絶を表明した。

信長はこれを聞いて、
「こういったことは両人も進んで同意すべきなのに、そうしないのは不審である」と、
再び使いを以て命じたが、両人は猶以て役儀の辞退に及んだ。

信長はやむを得ず、両人に対し何故蜂屋を加えるのかを、直に説明した。

「蜂屋については、お前たち両人と同じ武功の者であるとは考えていない。だが彼は
諸事口才のある者である。合戦の最中、戦場から両人のうち一人帰って報告を行わなければ
いけない事もあるだろう。またこちらから両人の一致した判断に疑問を持つこともある。
そういう時、蜂屋を加えておけば、私の元に使いとして送るときも、また判断について
問い合わせるのにも便利ではないか。」

柴田、坂井はこの理に納得し、反対を取り下げたという。

(士談)



108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 02:08:28.81 ID:4+4ziU7k
始めの頃っちゃまだ尾張の頃かな?

山口重政は申し触れて廻った

2017年07月11日 17:39

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 12:47:58.44 ID:F9sSnusY
佐久間不干斎(信栄)が織田信長の叱責により高野山へと立ち退く時、その道中に
野伏が殊の外起こり、通行が非常に困難となった。

この時、佐久間不干の側には唯一人、当時16歳であった山口修理亮重政が付いていた。
彼は飛脚のように先行し、先々で所の名主にこう申し触れて廻った

「佐久間不干が明日、ここを通られる!罪過はご赦免されているため、郷人どもがもし
一人でもこれに手を出せば、後日御詮索あって、必ず罪を問われようぞ!」

翌日、佐久間不干の通行を妨げる者は無かった。

(士談)



90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 19:58:20.11 ID:I0EiXcXu
>>88
これ信長の威光の話だよねw

伊賀伊賀守のことなど

2017年07月06日 18:39

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 18:44:48.75 ID:qrjRLL6v
信長は伊賀伊賀守を召し抱えていたからな

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 23:10:53.92 ID:HAtZa1yb
>>872
遅レスだが伊賀伊賀守って安藤守就のことだったんだ
(斎藤義龍が一色氏に改姓した時に、以下の六人衆の面々も一色氏の家臣の姓に改姓させたみたい
安藤日向守守就→伊賀伊賀守守就
桑原三河守直元→氏家常陸介直元
竹腰新介尚光→成吉摂津守尚光
日根野備中守弘就→延永備中守弘就)
信長が明智光秀→惟任、丹羽長秀→惟住、塙直政→原田、と九州の姓を与えたようなもんか

ところで信長を裏切った安藤や氏家はともかく、龍興に従って信長と戦った弘就は
一色への忠義を示すため延永(のぶなが)を使い続けなかったんだろうか

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 23:17:10.92 ID:QCAwnrGS
安藤氏は伊賀氏の流れ
それどころか守就から安藤になったとも言うし

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 23:27:32.33 ID:HAtZa1yb
なるほど、守就の弟の子孫が明治に入ってまた伊賀氏に復姓しているようだし
伊賀氏のほうが由緒正しいわけね

>>930訂正
龍興を裏切って信長についた安藤や氏家

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 02:48:56.85 ID:I7m6iQir
のぶながっていう読みが合ってるし忌み嫌って日野根で通したのかもね

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 06:12:42.94 ID:LKwEnJ+9
氏家がいつ裏切ったんです?

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 21:00:33.50 ID:s4VGcAwR
>>930
伊賀伊賀守って野比のび太とかオレンジレンジみたい

織田信長の頃まで、槍という功名は

2017年06月25日 17:43

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/25(日) 12:18:03.00 ID:MAg8NU8C
古の者の云えることを記せる書に、一番先陣、一番乗り、一番頸のそれぞれに軽重があるとしている。
但し名を得て人々から唱えられる為には、一に天命、二に国、三にその場、四に主人、といった要素が
必要であり、こう言った条件が揃わなければ、世に隠れない高名というのは成り立ち難い。

永禄天正以来の名を顕す輩は、この4つの条件を外していないのだ。
しかし高名があっても隠れて人に知られないのも、また皆天命であるから、更に恨むべきではないだろう。

また永禄天正以来、一番槍には千石、二千石、三千石、八千石までの賞が与えられている。
一番乗りには、豊臣秀吉は、一万石を宛てがうべきと定めたそうである。

保元・平治より織田信長の頃までは、槍という功名はなかった。信長の頃より、槍を以て世に誇るようになって、
それより皆以って、槍にあらざれば功にならない程に成った。

(士談)


「南蛮寺興廃記」より、南蛮寺ができるまで

2017年06月07日 18:51

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 11:11:11.05 ID:xmUg3Ve1
「南蛮寺興廃記」より、南蛮寺ができるまで

頃は人王百七代正親町天皇の御宇。
織田信長は尾張より発起し斎藤を討って美濃を奪い佐々木を追って近江を取り
将軍義昭を保護して上洛、徳川と合縦し北越の朝倉、江北の浅井を滅ぼし
武威中国を呑まんとし高名西国に轟く。
この時九州肥前の領主竜造寺高重の領分長崎に南蛮船一艘着岸せり。
この船に異相の者一人来る。その人身長九尺余、面赤く眼丸く鼻高く肩広し。
歯は馬のごとく雪よりも白し。爪は熊の手足に似たり髪は鼠色で年齢五十ばかり。
名はウルカン破天連といい、南蛮切支丹国の者で天帝の宗門弘法のために渡来せり。
日々に長崎の霊社仏閣に徘徊するに其の異相を見る人群衆をなせり。
或いはその異相を絵に写し書に記して中国に伝え京師に入る。
信長江州安土に在りて是を伝え聞きし召して見んと欲すると言えども
領主龍造寺の押留せしものなれば思慮して謀を廻らし将軍家の従臣フカヤ源内に
義昭公が異国人を召すとのご教書偽造し、源内を西国に下し龍造寺に渡す。
この異国人京着は九月三日なりし。
その前八月二十四日摂州住吉の社鳴動して松樹六十六転倒すると奏聞あり。
朝廷僉議あって松樹の木数六十六本と限ること日本の国数にて凶事とすべしとて
寺社に仰せて祈祷ありける。これ異人渡来して邪法を弘め人民の害を成すべき前兆なるべし。

異国人安土の城に到着しければ妙法寺に入りて三日休息し九月三日城中へ召し信長謁見せられける
ウルカン破天連身にハァイトというものを着す。毛氈の様なる類なり。
裾短く袖長し左前に合わせその体相甚だ卑しく声は鳩の鳴くがごとく言舌わからず
蝙蝠の羽を広げたる如く最も見苦し。各香を懐中して御殿に薫り渡る。
ウルカン、信長に対して礼する法、両臑指先を揃え向こうへ差し出し両手を組みて
胸に当て頭を仰ぐ誠に不思議の礼式なり。
献する所の物七種、七十五里を一目に見る遠眼鏡、芥子を卵の如くに見る近眼鏡
猛虎の皮五十枚、毛氈五丁、鉄炮、伽羅百斤、八畳釣りの蚊帳、一寸八分の香箱に入る
コンタツという数珠、紫金にてこれを造る四十二粒あり
(切支丹国四十二国あり、これに擬す)
信長、ヴルカン何のために日本に来ると尋問せらる。ウルカン答えて曰く
この度渡来すること唯仏法を弘めたき願望のためのほか更になしと。
信長、謁見畢(おわ)りて妙法寺に入れ置き、ウルカンの弘法のこと安土において
評議あり、信長菅谷九衛門に命じて京都四条坊門に四町四方の地を寄付し石垣を築き
一寺を建てて永禄寺と号す。
これにより叡山の衆徒憤り、延暦寺の外、年号を以て寺号とすること不可なりとて
座主要圓僧正へ訴えければ僧正の曰く「其の儀、故ありと言えども今朝廷衰え王位も軽く
仏法の威力もまた薄し。信長権勢に募りて我が意を働くと言えども之に敵して却って
叡山の街ある時は王威を以て制しがたし。穏便の沙汰あるべし」と制せられけれども
衆徒朝廷へ強訴の奏上を認め、朝廷僉議あって強訴沙汰延引せば、また神輿など
捧げきたらんは京都の騒動なるべし、早く信長へ命ぜらるべしとて、
花山院中納言廣政を以て山門奏状の趣信長へ命ぜらる。
信長不快なりと雖も勅命に従い永禄寺を改めて南蛮寺と号す。

延暦寺衆徒の教会建設反対理由が「年号を寺の名前に使うな!」だったという話



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 14:36:04.02 ID:tlQMINJk
延暦って暦じゃ…

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 17:20:58.58 ID:xmUg3Ve1
だから
「延暦寺」のほかの寺が、年号を寺号にするのは許せん!てこと

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 17:37:51.95 ID:FhLlsoTq
ギリギリまで堪忍する信長の姿がこんなところにも

この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある

2017年04月23日 16:54

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 02:16:34.28 ID:rgVM3E7M
同年(天文18年)2月下旬より、備後守殿(織田信秀)は疫病を患いなさった。
療治祈祷の効果もなく、同3月3日夜、ついに末森の城で病死なさった。

行年42歳。上下万民は愁嘆追悼し合った。法名を桃巌居士と号す。曹洞家
の禅宗である。備後守殿は存命の時に一宇を建立し、これを萬松寺という。

すなわち、この寺で信長公より、たくさんの施行を引き、関東上下の会下僧
3百人余を集めなさり、美々しき法事を行いなさった。

嫡男なるが故に、信長公は今年16歳なれども、すなわち家督を継ぎなさった。
右の法事の時、萬松寺へ参詣され、林、平手、内藤、青山が御供に参った。

次男・勘十郎信行は武蔵守と号す。これも同じく参詣なさり、御供には家臣の
柴田権六(勝家)、佐久間大学(盛重)、佐久間次右衛門、山田弥右衛門、
長谷川宗兵衛らがいた。また聴聞見物のために貴賎上下が群がり集まった。

信長公は焼香に出なさった。その出で立ちは甚だ異形であり長柄の刀と脇差
をみご縄に巻いて差し、袴も着なさらず髪は茶筅に巻き立てて結いなさった。

仏前へ出でなさると、信長公は抹香をくわっと取り掴み、仏前へ投げ掛けて
帰りなさった。勘十郎殿は折り目高の袴に肩衣で、あるべき体の装束だった。

見物の諸人らは皆、信長を指差して、「これはまた例のうつけ者よ」と言って、
とりどりに批判した。しかし、その中に筑紫往来の客僧が1人いて、

「何と見ていたのだろうか。この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある」と、
相し申したということである。

さて、信長公は末森の城を勘十郎信行へ進ぜなさり、柴田、佐久間以下歴々
の臣下を付け置きなさった。また信長は自ら改名して上総介と名乗りなさった。

――『織田軍記(総見記)』



750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 07:15:38.30 ID:p+EnUnNt
上総守に改名したんじゃないのか

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 07:16:17.37 ID:p+EnUnNt
改名じゃなかった、名乗ったんじゃなかったのか

遠吠えしてぞ 返る犬山

2017年04月20日 21:17

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/20(木) 01:51:53.36 ID:70+44rP6
備後守殿信秀は古渡の城を破却して、末森というところに山城を築き移り居なさった。

信長公を名古野に置きなさり、また守山というところに要害を構えて、舎弟・孫三郎
(信光)を差し置きなさった。

天文18年1月17日、上の郡犬山、楽田より人数が出されて、春日井原を駆け通し、
龍泉寺の下、柏井口へ相働き、所々を放火して煙を上げた。

即時に備後守は軍兵を率いて末森より駆け付けなさり、一戦に及び切り崩し、数十人
を討ち取りなさった。犬山楽田の衆は春日井原を逃げ崩れて、ことごとく敗軍した。

その時に落首があった。

「鑓縄を 引き摺りながら 広き野を 遠吠えしてぞ 返る犬山」

――『織田軍記(総見記)』