【ニュース】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述

2017年02月04日 17:37

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 16:46:58.10 ID:qH0d9C1Q
【歴史】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述、恨み辛み込め「苛政暴虐枚挙に堪えず」弾圧時の仏教界感情示す

http://www.tonichi.net/news/index.php?id=58285
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内裏の修理を完了

2017年02月03日 10:59

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:29:23.06 ID:sJ2XoiVV
内裏の修理を完了

内裏はいまや朽廃し、元の姿をとどめぬほどだったので、
信長は御恩に報いるため修理して差し上げようと考え、
先年(永禄12年)日乗朝山と村井貞勝を担当の奉公に任命した。
それから3年かかって紫宸殿、清涼殿、内侍所、昭陽舎、
そのほか諸々の建物などすべての工事を完了した。

さらに宮中の収入面において後々まで困ることがないようにと、
信長は思案を廻らし、京都市中の町人に米を貸付け、
毎月その利息を宮中に献上するよう命じた。
また零落した公家たちの領地と相続のことに関しても、復興のための諸施策を実施した。
天下万民の満足、これに過ぎるものはなかった。
信長の功績と名誉、および織田家の威勢は我が国において他に並ぶ者がいないものである。

また信長は領国中の関所を撤廃した。
点火の安泰を図り、往還の旅人の便を思いやる施策は、
慈悲深い信長の心から発したものであって、
このことにより神仏の加護も果報も誰にも増して恵まれ、
織田家がますます栄える基礎を築いたのである。
これもひとえに信長が
「道を学び、身を立てて、後世に名を残そう」
と望んだことだからである。めでたいことである。

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 11:43:11.27 ID:sJ2XoiVV
>>574
信長公記 巻4 元亀2年(1571)です


575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:40:23.32 ID:iWka4lYR
いい話だけど、その数年後に本能寺の変か・・
諸行無常、盛者必衰

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:51:25.94 ID:gB0AAng4
信長より父親の信秀が尾張守護代家臣の地位で内裏修繕費に4000貫寄進している事に驚く

津島支配だけでそれだけの経済力があるなら、子供の信長が上洛後、堺を支配したがるのも分かる

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 17:26:24.38 ID:iWka4lYR
>>582
本能寺の変の約10年前だったんですね
御貸米制度や内裏修理完成はもう少し後の話だと思い込んでました(汗)
ご指摘ありがとうございます

松阪城の歴代城主に服部一忠ってのが居た

2017年01月13日 11:31

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 23:06:38.30 ID:hQcVxIgQ
この間行った松阪城の歴代城主に服部一忠ってのが居た
http://i.imgur.com/BvILZWf.jpg
BvILZWf.jpg


誰かと思って調べたら今川義元に槍をつけた服部小平太だった
すげー出世したんだなと思ってたが最期は秀次事件で連座切腹...



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 09:26:45.98 ID:79vl6XnC
その人信長の小説で桶狭間の場面で毎度出てくる有名人じゃん
最後そんなことになってたんだ

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 12:21:26.02 ID:cnMSw6Qs
そして毛利新助は本能寺の変で信忠と一緒に討ち死に
三人まとめると赤穂浪士の毛利小平太元義になってしまうな

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 18:25:00.95 ID:ALhyLUvV
吉良義央-吉良義冬-女-今川範以-今川氏真-今川義元
討ち入り前日に脱盟した毛利小平太が吉良義央を討ってたら
吉良義央は祖先同様、毛利と小平太に討たれた、と話題になったのに

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 20:41:28.73 ID:AHLvRmkW
>>512
今川から吉良になったかのような印象をうける
西条だから今川との結び付きも強かったんだろうなあ

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 20:53:20.45 ID:QLhwJ8hg
今川義元「わしを弔うためにわしの孫が和尚となって、わしの号(栴岳承芳)を元に『せんがく』と
名前をつけた寺なのに、なぜこの寺に来た者はわしの子孫を殺した奴らの墓に参拝しに来るのだ」

白熊の引きまわしなどでは、

2017年01月12日 08:38

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 04:42:22.31 ID:fItAvr7B
信長の御前へ武者修行を致しているという武功の者がまみえた。

冑に白熊の引きまわし(引き回し合羽)をつけて、甲立に立てて
出たのだが、公は見なさって、

「この者は手酷き合戦に、いままで合わなかったものだと見える。
白熊の引きまわしなどでは、なかなか戦の急な時には、叶わない
ものである」

と、仰せになったということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



承諾の無い以上は、力及ばず

2016年12月01日 16:13

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 04:29:29.58 ID:tN7pLp6l
信長は9月11日(元亀2年)、勢多の山岡玉林斎(景猶)の所に
止宿しなさった。

「明日、叡山を攻め崩すべし」との旨を言うので、佐久間右衛門
(信盛)並びに、夕庵入道(武井夕庵)が達て諫言に及んだ。

信長は曰く、「去年、汝らをもって懇意の言葉を尽くしたが、承諾
の無い以上は、力及ばず」と、理を尽くして言うため、

彼らの考えは及ばず、各々は未明に出発致した。

――『当代記』



長篠に後詰のため出陣すべきや否や

2016年10月14日 21:15

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 21:46:35.99 ID:bYvnjc+T
織田信長は、毛利河内守秀頼、佐久間右衛門尉信盛を召して聞いた

「長篠に後詰のため出陣すべきや否や。各々、異見を申し述べよ。」

先ず、毛利秀頼が言った
「御出陣は無用です。何故ならば、味方は大軍ですが新参の集まりであり、武田方は小勢ですが、
信玄以来磨き上げた精錬の兵たちです。また長篠は切所が多く、大軍の駆け引きが自由にならない場所で、
小勢に利があり大軍に不利な地です。

今回の戦いに勝ちを得るためには、敵を広場に誘い出すよりほかありません。ですが武田には、
馬場、内藤、山縣ら武功者の老臣たちがあり、このような計略には乗ってこないでしょう。
そして実際にそのような結果になれば、我らは徒に対陣の日を重ね、その間に武田は、
瀧川あたりの切所に押さえを置いて、長篠城を攻め落としてしまうでしょう。そうなれば、
織田徳川の両旗にて、しかも敵に倍する大軍を率いて後詰しながら、目前に城兵を見殺しにし、
出来ることも出来ずおめおめと御馬を返す事となり、天下の嘲りを受けるでしょう。

無理な合戦をすれば、必ず負けるものです。」

これに対し佐久間信盛は言った
「毛利殿の申される所、至極尤もです。ですが万一御出馬無い時は、かねてから徳川と取り交わしていた
御誓詞は水の泡となり、家康は武田方と合体するでしょう。そうなれば御当家は甚だ手薄な状態となり、
今後の御家運もいかがかと考えます。

ですから、この度は勝っても負けても御出馬あるべきです。」

信長はこの意見に賛同した。
「これはおもしろき右衛門が言葉である。早々に出馬いたそう。」

ここで佐久間は更に申し上げた
「御合戦に御勝ちなされたいのなら、御勝たせ申し上げましょう。この事について、私に一つの才覚が
あります。何とそ信盛に一任してください。但しこれは、私が武田に心を通じてこのような事を
言い出しているわけではありません。後日の証拠に、起請文お手元に差し上げ置き、その上で武田に対する
計策を申し上げます。」

そして誓書を献じた上で述べた
「先ず長坂長閑、跡部大炊助の両人に金を取らせて謀りたいのです。」

「易き事である。何なりと取らせてやる。良いように取り計らえ。」

「では金銀に添えて、光忠の脇差も賜りたく存じます。」

こうして信長は家康家臣の小栗大六重常を召して「近日出陣する」との意向を伝えた。
大六は大いに喜び、御前を下がるとそのまま岐阜を出立して急ぎ浜松に帰り、あった次第を詳細に
家康に伝えた。家康も大喜びし、即座に陣触れをして岡崎まで出陣、信長をここで迎えるとした。

信長は浜松に返事を済ませると直ちに陣触れを行い、5月13日岐阜発陣、熱田に着陣後、桶狭間勝利の
吉例を用いて熱田神宮に参詣し、神官の田島丹後守、惣検校の千秋喜七郎に御目見得を許した。
この時、内陣において轡の音がし、これに信長は歓喜した
「この合戦、神明の加護を以て勝利を得れば、当社は勿論、八剣の破損、及び末社に至るまで残らず造営、
修理いたそう!」

そして翌15日、岡崎城に着陣した。

(長篠軍記)




『心掛けた武辺は、おのずからの武辺に優っている』

2016年10月13日 17:55

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 04:37:15.61 ID:p8RqE2DR
昔、江戸大普請の時、人の家居も未だ定まらず、大名高家の屋敷取りがここかしこに
あった。ある大名は屋敷の中にいかにも趣のある小屋掛けなどをしておられたのだが、
夏の時分に狭い所で蝿が多く、払いかねなさり、

13,4歳の小姓に蝿を打たせ、主人も蝿打ちを持って蝿をお打ちになっていた。この時、
主人は、「驚いたか!(おほへたる哉)」と言って、その小姓の背中を強く打った。これに
小姓は驚いて怯えてしまった。

小姓は心の中で、「このような面目なきことはないぞ。今の有様ほど滑稽なことはない。
『未熟な者だなぁ』と思し召されては、恥ずかしきことだ! あぁ、仏神の恵みあって、
いま一度お打ちになって下されよ!」と、思って、

蝿を打ち参っておると、しばらくしてまた初めのように、主人は言葉をかけて仰々しく
お打ちになったが、小姓は少しも騒がずに蝿を打っていた。主人は「汝はさっき打った
時は驚き怯えたのに、いま打ったら少しも驚かないのは何故だ?」と、問いなさった。

小姓が心に思ったことをありのままに申すと、主人は深く感心して、「信長公も秀吉公も
『心掛けた武辺は、おのずからの武辺に優っている』と、仰せになられていた」と、言い、
朋たち(意不詳)の大脇差に時服を添えて、その小姓へお与えになったという。

――『備前老人物語』



242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 06:08:27.64 ID:6i3gVmaF
誰なんだろう。あの人っぽいが。

赤座七郎兵衛は鉄砲頭である

2016年08月24日 18:14

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 04:21:00.00 ID:QmNZSZ0d
中川修理太夫秀重(秀成)の家来・赤座七郎兵衛は鉄砲頭である。赤座の妻の
弟に村井津右衛門という浪人がいて、彼は赤座のところにいた。

岡城は険阻な地理で諸士の居宅はここかしこにあって続かず、10町ほど家から
離れたところには墓場があった。いつの頃からかこの墓場で、雨風の夜に物の
羽撃きと鳴く声がするようになった。

そのため化物が出て来たと言い広められ、農商女童はたいへんこれを恐れた。
こうして数日が過ぎた時、村井はある所に行って夜に入り、帰ろうと言った折、
雨風は激しく、夜も更けていた。

その帰路は前述の墓場を過ぎる所だったため、その座中の人々は、「きっと、
最近の化物が出るだろう。とにかく、ここに泊まりなされ」と、村井を止めた。

村井は「何の思慮も無く粗忽な言葉だな。こう言われては泊まるべきだろうか」と、
心中で思ったが、なんでもない体で「赤座に必ず帰ると申したので、寝ずに待って
いるでしょうから」と言って、帰った。

ところが、村井が墓場近くに来ると、羽撃いて鳴く音が聞こえた。村井は、「さては
事実だったか!」と思い、その声に従って歩み寄ったが風の絶え間に声が止んだ。

彼がこの辺だろうと声のした所に近づくと風が吹くと同時に“はたはた”“ひょうひょう”
と言って、頭の上に何かが掛かった。村井は前もって、「斬らずに捕らえてやる」と、
覚悟していたので、これを捕らえ手探りして見た。

すると、それは竹の子笠で、墓場の竹垣に掛けて置いてあったものだった。これを
外すと風が吹いても声はしなかった。村井はこれを取って帰り、とっくに寝ていた
赤座を起こして、「私は今夜、かの化物を斬り留めました」と言った。

赤座が「それは奇怪なことだな」とその事を問うと、村井は人を退かせて、「こうこうの
首尾です」と、言った。これを聞いた赤座は、「事実は言うな。単に斬り留めたという
ことにしろ」と言って、次の日に人に会いこれを語った。

つまり“はたはた”という音は笠が垣根に当たる音である。“ひょうひょう”という声は、
笠にさえぎられた風が、垣根の竹の穴に激しく当たる音である。

その後、羽撃きも鳴く声も無かったので、人は村井が斬り留めたのだと信じた。
世上で妖魔などと言い伝えるものは、その実を正せば皆竹の子笠の類なのだろう。

――『武将感状記』



37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 14:02:15.40 ID:pPGBazbw
>>36
手柄にしちゃうのか(困惑

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 14:41:12.97 ID:jO55FeWP
はやく出てってもらいたい居候だしな
妖魔退治の噂が拡がれば仕官の話くらい出てくるだろう

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 16:06:04.15 ID:v1aiHHVU
騒動の原因を取っ払って不安を解消してるんだから
手柄にはなってるしいいんじゃないか
種明かしするか妖怪退治したことにするかは
教訓話が好きなタイプは前者の方を評価するだろうけど
義兄は後者の方がいいと判断したんだろう

信長公の時代に勇者と申した者は

2016年07月20日 10:25

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 03:46:26.93 ID:cFB0egY4
信長公の時代に勇者と申した者は、

菅谷九右衛門(菅屋長頼)、安藤与兵衛、神子田半左衛門(正治)などである。
半左衛門は八右衛門の弟である。八右衛門の子の四郎右衛門は、大坂で討死した。

また他の説では、信長の時代の勇者というのは、稲葉伊予守(良通)、池田伊与守、
氏家卜全(直元)である。

美濃西方の三人衆というのは氏家卜全、稲葉伊予守、伊賀伊賀守(安藤守就)である。

――『武功雑記』




949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 09:59:34.15 ID:ZNGYzNmM
あと、鬼武蔵を止めようとした瀬田の橋の番人

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 12:29:48.39 ID:daAkwI4G
勇者として菅屋の名前があがるんだねえ
どちらかというと官僚をイメージしていただけに意外だった

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 12:56:10.58 ID:dOYI8WFy
美濃三人衆って何で4人いないの?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 14:12:18.92 ID:nMsEvtnS
伊賀伊賀守って喉風邪の親玉ですか

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 22:24:15.75 ID:2PTcoJ25
>>952
つ 不破光治

【ニュース】[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]

2016年07月08日 16:27

814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 09:41:10.15 ID:lO69aRU1
[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160708-00000021-asahi-soci


本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れた後、後継をめざした次男・信雄(のぶかつ、1558~1630)
が羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状を、中京大の村岡幹生教授らが入手し、7日発表した。日付は信長の後継者を決
めた清洲会議の3日前。秀吉に指示を仰ぐ内容で、慌てた様子もうかがえるという。
書状は、縦29・4センチ、横40・1センチ。古書市場に出品されていた。日付は6月24日。年は書かれてい
ないものの、共同で分析した播磨良紀教授が、時代で変遷した信雄の花押(サイン)の形を分析して特定した。
「そちらの様子でよきように決め、連絡して下さい。近くへ陣を寄せます」といった内容が書かれていた。本能寺
の変が6月2日。13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破っており、信雄が秀吉軍に加わろうとしたとみられる。

・・・古書市場で出品って誰が?



815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 13:32:55.55 ID:eVs+Krws
所有者

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 14:09:34.84 ID:uhV5wMs+
だいたい価値の分からない遺族が一括して業者に渡すので
業者が市場に売りに出す

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 16:10:51.53 ID:EZmvQCNr
>>814
こういうのいいなぁ、もっとでてきて欲しい。

公方が御謀反された時

2016年06月14日 17:46

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 17:15:53.28 ID:ZCjPkN6A
信長公に対し、公方が御謀反された時、
信長公が御出馬されて、上京を放火なされたことがあった。
その後連一検校が御前に出て
「このたびの御陣の洛中での騒ぎで、上下が怖がり恐れることは前代未聞のことです。」
と申し上げれば、信長公が
「そうであろう。さてその恐れたる様子とは?」
と仰せられたので、連一検校は以下の話をされた。

「上京に火がかかったと見ると、二条にいた者の妻が、
まず我が子だけでも連れて逃げればすむと思い、
三つか四つの子を背中に負い、慌てて走り、四条の橋のたもとまで逃げきった。
あまりに苦しくて、ちょっと子を降ろして休もうと思って地面の上にどっと置いてみると、
石臼でございました。」
(醒睡笑)



712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 18:27:43.12 ID:rxTBNthZ
>>711
落語みたいw

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 20:03:03.72 ID:ceKeV3cO
>>711
>信長公に対し、公方が御謀反された時、

謀反ってw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:36:16.80 ID:tavheLe0
天皇御謀反ともいうんだから公方が謀反したっていいだろ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:53:46.47 ID:F7+1vUHt
室町将軍が都を追い出されるのはよくあった事だけど
義昭の場合、昵近公家衆がついて行かなかったんだよな。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:48:29.32 ID:xgZWF6Y2
義輝の時点であまりついていかなかったそうだ
正確には京を退去するまでは従ったが、亡命先までは付いて行かなかった

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:54:02.95 ID:zYwTxKAt
>>713
信長公なんだから信長が主人公、公方は敵役

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 00:12:22.96 ID:twXBwpVX
東洋史学の岡崎文夫は魏の皇帝である曹髦が臣下のはずの司馬昭に対してクーデタを図ったのを
「浪漫的な反抗」と評してたが
義昭に対してそういう言葉を使う人はいないんかな
それともナポレオン3世の自己クーデタ(こっちは成功)のような喜劇扱いだろうか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 02:53:59.02 ID:MKd78BCA
すでに傀儡だったじゃん。実権ねえから謀叛なんだって。

御爪が1つ足りません

2016年06月08日 17:09

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 03:07:57.55 ID:/fdBuAhc
ある時、信長公が手の爪を取りなさるのを小姓が取り集めていた。
すると小姓があれこれ調べ、探し求めている様子だったので、

信長公が「何を探しておる?」と問いなさると、小姓は「御爪が1つ
足りません」との旨を申した。そこで信長公が御袖を払いなさった
ところ、爪が1つ落ちてきた。

信長公は御感心なされ、「物事にはこのように念を入れなければ
ならぬ」と仰せになり、小姓に御褒美を与えなさった。

――『備前老人物語』




814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 03:24:05.47 ID:mrEuZqdb
これが後に乱ちゃんの話になるんだっけ

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 08:13:06.45 ID:RqtV25Pc
爪を取るだなんてどんな拷問だよ
サディストはやっぱ違うぜ

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 12:54:18.75 ID:oRXpAH/t
備前老人物語みたいな逸話集のせいで
本来の人物像からかけ離れちゃったイメージを植え付けられた被害者は結構いると思うんです

織田三七殿の侍・二宮千太郎は

2016年06月02日 10:45

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/02(木) 02:37:34.31 ID:oHeDRgaS
織田三七殿(信孝)の侍・二宮千太郎は、これも博打に打ち負けて馬や物具まで取られ、
どうしようもなく三七殿の御前へ参り、

「私は不心掛けにより博奕を打ち、このような次第となりました。相手の者に様々に
詫びましたが、馬も具足も貸してはくれません。このうえは彼と果たし合いしようかと

思いましたが、私がこのようになってもきっと御用には立つだろうというのに、この時に
果たし合いをしたとしても、いよいよ不忠でございます。このうえで、御慈悲を頂ければ、
御検使を受けて切腹仕りたく存じます」と、申し上げた。

三七殿は、「お前の申すことは、理解できることも少しはある」とのたまい、黄金2枚と
具足や馬までも与えなさった。それから、二宮は次の日の合戦で組討ちをして高名を
極めた。そのため、三七殿も御機嫌を直しなさったということである。

――『備前老人物語』



梶原又右衛門の忠節

2016年03月20日 18:59

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:32:52.43 ID:vEIBgH9Y
本能寺の変が起こった時、尾張の住人梶原左衛門尉の嫡子松千代丸は13歳になっていたが、
その折病に冒され、己の宿舎で養生していた。

しかし、織田信忠の在る二条城の様子を聞くと、すぐにそこに向かおうとした
「私は未だ幼稚ではあるが、一廉の弓取りの子であるのだから、どうにかして私を連れて
御所の中に入れよ。働くこと叶わずとも、ただ伏しながら敵の刃にかかり、君の御供をいたさん!」

これに同姓の家臣である又右衛門という者が、強いて諌めた
「らとえ御所の中に入ることが出来たといえども、この有様ではどうしようもありません!
君御父子(信長・信忠父子)は逆臣のために殺されたとしても、その後いかようにも、織田家
ご親族の人々によって逆徒討伐の儀がなされるでしょう。であれば、今は治療をして、
その折を得て忠節を成されるべきです。

であれば、私はこれより御所に駆け入り、この事を申し上げ、恐れながら御名代として
信忠卿のお供をいたします!」

そう言い捨てるとその場をづんと立ち、馬を引き寄せ打ち乗り。諸鐙を合わせて二条城に馳せ、
寄せての明智軍に紛れて御所の中に入り、広縁にて跪き、松千代丸の状況を信忠に委細に言上し、そして言った
「主の代官に、それがし、御敵を防ぎ奉らん!」

その至忠に信忠も感じ入り、自らの薙刀を又右衛門に与えると
「屍は戦場に晒すとも、まことに後世までの面目なり!」
そして庭上に躍り出て、蜻蛉返し水車と、八方透かさず斬って廻り、敵数十人を薙ぎ伏せ突き伏せ、
尽く防いだが、寄手は大勢であったので事ともせず次々と向かってきたため、終には討たれた。

その忠節を感じ、陪臣でありながら、彼の名は阿弥陀寺の過去帳にも書き載せられているという。

(甫庵信長記)




500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:44:12.47 ID:hslUDo2B
こないだから甫庵を出してくるのは
小説の「良い話」を紹介するのとおんなじなんだけどなぁ…

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:53:01.40 ID:ECqYoMqa
もっと後代の名将言行録からもいろいろ出てるし問題ないだろう
武功夜話でも出典書いてれば載せてOKだろうし

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:57:47.45 ID:Ile/5imJ
>>500
一応指摘しておくと、昨今は甫庵太閤記の史料性も再評価されてる。
徳川家の武田旧臣などから、独自ルートで取材したフシがあるらしい。
あと太田牛一信長記と甫庵信長記は、成立したのはほぼ一緒の時代の軍記。
逆に言えば太田牛一信長記を信用しすぎるのも危険。

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:57:53.86 ID:hq9GYHmV
軍鑑なら、甲陽軍鑑なら...

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:58:24.17 ID:Ile/5imJ
>>502
甫庵太閤記じゃない、甫庵信長記だw

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 23:55:07.93 ID:4DVvuEN+
武人百話も100年位前だね

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 08:43:31.70 ID:jqPquz/P
>>502
史料として見直されてるのは、甲陽軍鑑と同様に風習が参考になるって話で
事件などの顛末については評価が低いよ。

甫庵信長記は一次史料とあからさまに食い違ってる話が多いからさ

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 11:05:53.99 ID:Q9Nctl58
春日惣次郎の時代までは遡れそうなもので間違いないんだっけ?
まあおじいさんの回顧録とかには「時系列ぐちゃぐちゃだし話盛るし細かいところ適当過ぎ」ってのしばしばありそうなもんだが

『知人太郎国清』『才二郎国綱』『剛三郎勝光』

2016年03月19日 18:02

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/18(金) 18:15:55.45 ID:Vxh6YQdw
ある時、京堺などから、才知ある人、あるいは名のある者たちが、安土に信長への御目見えとして下ると、
とある暮時、信長より饗応があると、森の乱(森蘭丸)より伝えられ、皆安土山に登ると、
信長は大変機嫌よく、深夜に至るまで饗宴は続いた。

その座に良琢という丹波の者があったが、彼が「荒木山城守(村重)殿は、馬印に興のある事をしていました。」
と発言した。信長は「それは何か?」と尋ねると

「はい、山城守殿は、白い絹の四半に朱にて

『態と申入候。近日西国へ下向せしむべく候。拙者好物共、いろいろ調へ置かるべく候。
 聊御油断なく御調へ頼入候 恐惶謹言。
(あえて申し入れますが、近々西国(西方浄土)へ行く予定なので、私の好物を色々準備しておいて下さい。
 少しも怠りなく準備して頂くよう頼み入ります。 恐惶謹言。)

  天正三年八月吉日      荒木山城守(判)
    進上 阿弥陀殿 参』

と、このように書かれておりました。」

この話に信長は殊更喜んだ。
また渋屋万左右衛門はこんな話をした

「この頃洛中では、翠竹院道三が、『福の神の10人の子供』に仮名・実名などを付け、京童たちは
これを屏風や扇畳紙などに書き記し、口ずさんでいます。」

「それは如何なることか?」

「はい、それらは『嗇(しわ)太郎為持』『内寝二郎仲吉』『斟酌(しんしゃく)三郎末安』など…」

語り終わらぬ内に信長はみるみる機嫌が悪くなり、大声で言った

「いや!それは工商等には福の神かも知れないが、武家にとっては貧乏神である!
我らの福の神とは、『知人太郎国清』『才二郎国綱』『剛三郎勝光』といった者たちだ。

”知人”とは、彼は宰相の器、これは有司の器、誰々は武将の量など、心優れた人にも問い選び、
心にも練ってこれを知り、そして実際に抜擢し信用する。こういう時はその国の上下恨むことも無くなる。
これぞ国清というべきであろう。

”才”というのは智謀度量を逞しく伸ばし、ただ国綱の久しからん事をのみ、昼夜、寝床の中でまで
考え工夫し尽くせば、その国は必ず久栄となるだろう。これそ国綱と言うべきである。
ただし、周公の才をのみ専ら用いるべきである。その他は才に似て才ではない。
今の世の中で『才覚者』と呼ばれる者は、多くはただ佞人なだけの人物がその名を得ている。

剛の者は進退よろしきに叶い、小功に心を労せず、邪悪の敵を討伐し、温厚の君を尊び、
ただ大功を天下国家に及ぼし、民を撫育しようと思う心が実であるから、天神も感じ入り、
人も自然と服する。こういう時は、一戦功成ってその威光も大変雅やかである。
これもまた、勝光ではないか!

かの嗇太郎為持にして、天下国家を失わざるは稀である。」

そう声高に言われる姿は、辻談義の坊主が椅子に上がって、いかめし顔に説法し、
他宗を誹謗し、自宗を賞賛する様子より、さらに越えたものであった。


(甫庵信長記)



493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/18(金) 23:05:57.10 ID:83Oss3NM
その例えって褒めてるように思えないんだけど

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/18(金) 23:09:43.28 ID:Ltj02MCp
信長記だからなぁ…

願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡は

2016年03月07日 17:23

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 17:15:06.26 ID:kS/hBmPc
織田信長の元へ、鏡屋の宗白という者を、村井長門守(貞勝)が召し連れ、彼は手鏡を献上して
御礼申し上げた。

信長はこの手鏡を取り上げると言った
「たいへん明白に映る鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡はないものだろうか?

世の癖として、諸侯太夫、寵臣たちは、良くも悪くも皆適切な発言をする。しかしこれによって
主君たる者は却って心を暗まされてしまう事、日々月々にいや増しているが、行いの悪しきを
諫むる者は居ない。
だからこそきちんとした諫臣を得なければ、政道の実利は聞こえてこなく成るものなのだ。」

そんな事を語りながらふと鏡の裏を見ると、そこには『天下一』と銘してあった。
信長の機嫌はたちまち悪化した

「去年の春、どこぞの鏡屋が献じた物にも『天下一』と銘じてあった。天下一はただ一人あってこその、
一号にてあるべきだ!それが二人もあるのは濫りというものではないか!

これは偏に長門守の不明より起こったことであるが、汝の不明は私の不明である!」

そう、殊の外ショックを受けたようであった。(事の外にぞ痛み思召し給ひける。)

(甫庵信長記)



286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 17:26:02.55 ID:3as9S0BN
オンリーワンて意味だろ

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:10:39.31 ID:Zknb0aiq
そもそも、信長が色んなものに天下一って評価を与えてるんじゃなかったっけ?
自分が関係ないところで「天下一」を使ってることに起こったんじゃないか?

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/08(火) 10:24:08.55 ID:42/aHoLr
おこなの?

このような肴を以って酒宴に及ぶ事ができた。誠に大慶

2016年03月06日 11:41

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 00:31:56.39 ID:wMKdL7YO
天正元年の12月下旬頃より、織田信長配下の大名小名は遠近を限らず一人残らず岐阜に集まり、
正月元旦の出仕のための準備をした。

そして元旦、儀式厳重にして信長も打ち祝い、酒も出て既に三献に及ぶ時、

「珍しき肴が有る。今一献あるべき」

そう言って黒漆の箱を出してきた。人々、何であろうかと怪しみ見るところ、
柴田勝家が呑んでいる時、自ら箱を開けると、そこには金箔で覆った頸3つがあった。
それぞれには札が付けられており、朝倉左京大夫義景、浅井下野守、子息備前守長政、
彼ら3人の頸であった。

万座の人々これを見て大いに喜んだ
「この御肴にては、下戸も上戸もおしなべてただ食べよ!」
そう言うがまま各々歌い舞い、酒宴はしばらく止むことはなかった。

信長は言った
「皆々がいずれも数年苦労をいたし、勲功重畳するによって、このような肴を以って酒宴に及ぶ
事ができた。誠に大慶、これに過ぎたことはない。」

そうして刀脇差しなど数多出して下された。

(甫庵信長記)

有名な逸話ですが、ドラマなんかじゃ信長の行為に家臣たちドン引き、ってパターンが多いのに、
こちらでは信長のサプライズ披露に一同大盛り上がりで大フィーバーなのですね。



416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 06:31:32.92 ID:S+0nU0Jf
>>415
まぁ、敵の髑髏みてビビる様じゃ、戦国武将やってられないでしょうけど

…最大の問題は、小瀬甫庵が今で言う山田風太郎って事なんですよねぇ…

桶狭間の奇襲も、長篠の三段撃ちも、橋の下の秀吉も、話の出所はみーんな小瀬甫庵…

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 08:14:43.45 ID:9f1O8Ufp
正月祝いのドクロについては、信長公記でも一座は沸いたとあって
「ドン引きした」なんてのはそれこそ戦後の小説の類からなんだよなあ

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 09:15:24.03 ID:llBUOtPS
当時の庶民だって、晒し首を見るのは娯楽の一つだったんでしょ。

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 14:18:45.51 ID:M2FNLIul
滝川一益が諫言した逸話もあるでお

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 14:19:29.42 ID:3rdYTjdp
佐々成政な

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 15:19:51.03 ID:ndK+URkg
まぁウソなんですけどね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 16:06:10.63 ID:Od0Q5EBR
これか。佐々成政、信長への諫言・いい話 
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2132.html

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 16:30:50.14 ID:1HlgnIZB
>>418
今より死体見る機会多かったからそんなでもなかったのかもね
裁判傍聴するような感じかね

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 17:47:53.08 ID:ogl0BerH
節なら首実検で慣れてるだろうし、髑髏なら腐乱生首よりマシだしいいかーって感じじゃね?

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 18:59:08.59 ID:XNriMdrd
ああ、武士か。何かと思った。

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 21:51:32.57 ID:+PZ9S6Yh
戦国時代の武士なんて道端に死体が転がってたら
とりあえず試し切りする連中だぞ
鎌倉時代の武士よりは優しいけど、現代人よりはずっと鬼畜だよ

松永久秀臣従

2016年03月04日 18:21

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 22:14:31.27 ID:23E5b8t+
松永弾正少弼(久秀)は、その嫡子右衛門佐(久通)と共に計った

織田信長は若年の頃より、小勢を以て大軍を砕き、度々勝利を得たのは、時の運に乗じたのみではない。
武勇も世に超え、智謀も人に優れ、古今に傑出した人なるが故である。
往を以って来を計るに、今後彼の武威はいよいよ四海を覆うだろう。私が危険に逼迫してから屈服しては、
敵にも味方にも侮られてしまい、それから悔いても意味は無い。未だ余裕のある内に降参し、和州多聞城を
明け渡して偏に忠をなせば、きっとその益もあるだろう。」

そう議定し、内々に佐久間右衛門尉信盛に遣いし、この旨を述べると、信盛は早速岐阜に参じて
これを取り次いだ。信長は言った

松永久秀は武略にも達し、かつ聡明な人物だが、隠れなき佞人である。
己が名利のために計る者は、その威積累する時には、果たして国家を乱すこと、掌を返すより
簡単に行ってしまう。そのような徒者をどうすべきだろうか?」

佐久間は答えた
「それは暗君に仕えての事です。まず御赦免されれば、天下静謐の功も、速やかに成し遂げられるでしょう。」

これに信長も説得され
「ならば汝が、兎にも角にも計らうように。」と信盛に任せた。
これによって降参の義は調い、先ず多聞城を請取、こうして松永父子は元亀4年4月10日に
岐阜に参向し御礼申し上げ、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差など進上した。
こうして多聞城には山岡対馬守を入れ置かれた。

(甫庵信長記)

甫庵信長記より、松永久秀臣従の模様である



276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/04(金) 10:11:20.67 ID:752mqM54
全て甲斐の生臭坊主が悪い

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/04(金) 14:20:47.94 ID:1i+wHq0y
>>276
人とは欲を生きることじゃ、己の欲に生き生き抜いてこそ見える境地あるかもしれぬ

織田信長が鷹狩を好んだのは、

2016年03月03日 18:18

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 00:14:46.09 ID:23E5b8t+
織田信長が鷹狩を好んだのは、ただ逸楽の為ではない。万民百姓らが愁い申すことなどを
知ろうとする為であった。

されば、これは尾張国海東郡での事だという。ある時信長はただ一人、地味な格好で鷹を据えたまま
在郷を通っていると、老いた婦人が悲しんでいるのに出くわした。

「一体どうしたのだ?」信長が尋ねると婦人は
「これはお侍様、わが家が先祖より所持していた田畑を、里の長に横領されたため、今このように
飢えに至り、何とも涙がそぞろに流れるのです。」

聞いて信長は思った
『このように邪なことも、近年兵乱が打ち続き、制法と言うこともなく、ただ明けても暮れても
武勇のみを事とするように成ったためだ。これは、私の罪ではないか!
古人は言った。おおよそ民において、姦邪、窃盗、非法、妄行といった所業をする者は、不足があるから
生じるのだ。不測は度無きより生ずる。度の無き時は、小物は盗みをし大物は奪い尽くして、それぞれ
節義を知らない、などと言い伝わる。』

こうして信長は自らの政道が正しからざるを嘆きつつ帰城し、人も多い中、丹羽五郎左衛門尉(長秀)を
召して

「百町の里にてしかじかの事があった。急ぎ対応し、世の懲らしめ、又は式法にも成るように処置せよ。」

そう命じると、丹羽は即座にその里に参り老人(おとな)衆を呼び集め、事の様子を仔細に尋ね問うて、
先規の如く沙汰すると、かの老婦人、喜ぶこと限りなかった。
立ち帰って信長にこれを報告すると、「かの里の長は見せしめの為にも、永き先祖の所領を改易し、
かの老婦人に取らせよ。」と重ねて命じ、そのように計らせた。

これによって信長の領内では日を逐い月を経て、下の下に至るまで、自ずから淳直になっていくように見えた。
昔北条時頼が姿を変えて、六十余州をめぐり、摂津国難波の浦に至ったという話があるが、
これなどかくやと思われる。

(甫庵信長記)



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 02:13:36.07 ID:D9oiY5Ee
老婆に田畑を与えて耕作できるのか?
創作もたいがいにしろ

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 06:48:04.64 ID:jcsXy8cn
>>410
老婆が一人暮らしという事を前提にしてるようだが

銭轡 はめられたるか右馬助

2016年03月02日 19:25

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/02(水) 18:06:45.15 ID:qjSQcFqM
織田信長の時代のこと。

ある時堂上の人と、上北面の侍との間に、事の仔細あって諍論があり、
彼らは佐久間右衛門尉(信盛)と村井長門守(貞勝)にその勝敗の決断を請うたが、
「我ら裁断に及び難し」と、織田信長に伺いを立てた。

信長は双方の主張を仔細に聞き、「さらに衆議し、評定した上で結論するように」との旨を
仰せ出しになり、佐久間・村井の両人、これを承り、理の明らかなる人々呼び集めて
それぞれ評議した結果、堂上の人に道理があるとの結論に至った。

この事に北面の侍は強く憤り、織田右馬助という人の元に行き、言を巧みにし非を飾り、種々頼むよし
申し上げると、織田右馬助殿という人は大変心が浅く、体格もよく頼もしげに見える人物であったので、
是非も考えず信長に対し再三この事を取り申した。

信長は、『いつも物事に雑な人物だが、老いたるを敬うのも礼儀というものだ』と思い
「先ず帰宿されよ。追って返答する」と言って座敷を立った。そして

「このような僻事を重ねて聞かされるのも、私の不明のためだ」と、政道の正しからんことを
嘆いたが、『理に従う時は幸いなり、欲に従う時は危うし』という言葉を思い出し

 銭轡 はめられたるか右馬助 人畜生とこれをいふらめ

そう一首、狂歌を認め右馬助へと送った。
右馬助はその後より次第に御前遠くなったが、彼はその後、この轡の狂歌を思うたびに悔しく思い、
ずっと強く恥じていたため、やがて何が理由ということもなく衰病して、ついに儚くなったという。

(甫庵信長記)