息子が分別無く深入りしたのだ

2018年05月04日 14:26

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 22:44:30.19 ID:02WQirZy
織田信長が甲州に出陣するとして、安土を出立し美濃国呂久の渡において、信濃国伊奈郡
高遠の城主仁科五郎(盛信)の首が曲げ物に入れられ織田信忠より飛脚によって届けられた。
その首は大髻にて、年齢は20ばかりに見えた。

首が届けられると、信長の近習であった菅屋九右衛門(長頼)、野々村三十郎、福富平左衛門、
オロシ彦右衛門といった者達、馬より飛び降り

「御出陣したばかりで五郎の首が届けられたこと、大変めでたいことです。」

そう賀して申し上げると、忽ち信長の機嫌が変わった

「何を以てめでたいというのか!?若輩なる奴原が深入りして追い立てられたらどうなるか、
面目を保ったまま討ち死にできるのは滝川(一益)一人だけだ、他の者達は芭蕉の葉で
位牌を払うような有様に成るだろう。
先陣の者達が残らず討たれたとしても、後陣が遠方ではすぐに弔い合戦をすることも出来ない
ではないか!」

そう殊の外の御気色であり、息子が分別無く深入りしたのだと思っておられた。

(祖父物語)



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:11:21.12 ID:vUy0oAOP
武田を心底恐れていた信長ならではの慎重論

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:20:37.16 ID:Z/z82csV
武田の東濃侵略の際、馬場の800の兵に恐れをなして1万の織田軍が撤退するぐらいだからなぁ。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 10:39:43.81 ID:FnXiDPmu
この時期の史料を読めば判るけど信長は武田を恐れてはいないね
武田にちょっとでも噛みつかれて「自分の評判が傷つく事」を恐れていた状態
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日本の歴史を大きく変えた偽メール事件

2018年05月01日 21:09

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 00:20:36.62 ID:QiEhFTVJ
桶狭間の戦いの直前、三人の武将が無念の死を迎えた。
二人は鳴海城主山口教継と桜中村城主山口教吉の親子、一人は戸部城主戸部新左衛門である。
三人の城は織田と今川の勢力が衝突する最前線に位置しており、しかも一里以内に集中していた。
どちらがどちらを攻めるにも、ここを落とさねば話にならぬという要衝であった。

この三人、織田信秀の代までは織田家の忠勇なる武将であった。
ところが信長とかいう、うつけの若造に愛想をつかして今川方へ寝返ってしまったのである。
これが今川義元に尾張侵攻を決断させた一因とも言われている。

当時の信長の力量ではこの三人を倒すことは到底不可能。
そこで祐筆に猛練習を命じ、三人の筆跡を真似た偽の書状を作成する。
「信長くんへ、やっぱり義元を裏切って君んとこ戻るわ」
これを商人に変装させた森可成に持たせ、今川方へ持ち込ませた。
さても今川義元、この偽書状を信じ込み三人を呼び出した上まともに調べもせず処刑してしまった。

この事件が無ければ今川義元は悠々楽々と尾張を併呑した事であったろう。
信長は良くて臣従、悪ければ織田家ごと滅んでいただろう。
日本の歴史を大きく変えた偽メール事件である。

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 04:51:08.74 ID:QiEhFTVJ
さて、織田家を裏切った挙句に謀殺された山口教継・教吉親子ですが、家臣に成田弥六・助四郎という武将を抱えていました。
彼らもまた、大声出せば聞こえるほど御近所にある鳥栖城の城主でした。(この地域は徒歩一時間で六つの城を回りきれるくらいの城密集地帯でした)
成田氏は赤塚の合戦で山口氏に従って織田勢と戦ったのですが、その後は山口親子を裏切って織田方についています。

この結果、主家を裏切った山口氏の城と、主家を裏切った主家を更に裏切った成田氏の城の間が織田勢力と今川勢力の境界線となりました。
ちなみに山口氏の桜中村城と、成田氏の鳥栖城は200メートルほどしか離れていません。
尾張者のフレキシブルな生き方は、お隣の頑固な三河者と見事な対比をなしていますね。

されどこの成田氏、その後の行跡はあまり残っておりませんが敢えて挙げるならば、
子孫で尾張藩士だった成田甚右衛門がある日突然「平和が好き!戦は嫌い!」と刀を折って帰農したことくらいでしょうか。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 20:54:47.50 ID:uxusBUfH
>>700
三河者=頑固も後から作られた物語でしかなくて、家康がガチっとまとめるまでは誰もが転身しまくりなんですけどね

信長と云う者だ。

2018年04月27日 21:34

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 22:26:16.06 ID:Yot5dwqf
豊臣秀吉の小田原征伐の頃、尾張清州城の城代は植原加賀守という人であった。
彼は元々甲州からの巡礼であったが、織田信長が鷹狩をしていた折、六角堂にて
この巡礼の姿を見て、尋ねた

「汝はどこから来た者だ?」
「甲州者です。」

すると信長は聞いた
武田勝頼はうつけ者であり、悪しき法度の運用をしているというが?」
巡礼は答えた
「その事であります。彼は人を釜で炒り殺し、臼にて突き殺すなどしています。」

信長は呆れた
「それは勝頼が食うつもりなのか?勝頼は小気なる故にそういう事をするのだ。天下の望みは
成らないであろう。汝は奉公をする気はないのか?」

「それよりも、あなたは一体何者なのですか?」

「信長と云う者だ。」

巡礼はひれ伏し「何であっても奉公仕りたく思います!」

そこで信長はこの巡礼を即座に召し抱えると、彼を召し連れ、程なく御手のかかった
女房を下され、清須の城代としたのである。

(祖父物語)



814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 02:26:57.60 ID:ORHXMRvf
嘘くさい

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 07:46:22.58 ID:2ugiwSuW
>>814
永録10年11月の信長の朱印条によれば美濃で20貫の地行を貰ってるみたいだね
本当は勝頼じゃなくて信玄なんじゃないかな
埴原の出身である埴原谷てのが信濃(!)のどこにあるのか知らないけど、信濃では信玄の評判が良くない所もあったわけでしょう
又聞きの間に色々と入れ替わっていそうな気がする

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 08:31:36.59 ID:z6z/Bm5p
>>815
信玄と言うか武田の評判って甲斐以外だと酷いもんだからなぁ
特に信濃と上野

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 09:59:15.65 ID:+HCTm/8h
信濃は場所によるが

818 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 18:11:01.95 ID:LH5poK+P
信濃は北が武田アンチで南が武田贔屓と聞いた

”信長”という字が欲しい

2018年04月23日 12:04

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 10:23:47.49 ID:0sNfbvnH
織田信長という人は、若い頃はお供を一人も召し連れず市町在々を歩き回るような、
諸人にすぐれたわやく者(無法者、いたずら者)であった。

御若名を三郎と申していた時、中間一人に荷俵を背負わせ矢立を腰に挿し、西国巡礼に
出かけた。
堂宮に落書きをしながら廻り、摂津国天王寺に参ったが、近くの寺に侍らしき者6,7人
寄り合い、名乗り字を書き読んでいた。
信長はこれに近づくと

「その名乗り字一つ、私に頂きたい。国への土産にいたしたい」

そう望んだ所、先の者達尋ねた

「何れの字が欲しいのか?」

「”信長”という字が欲しい」

「これは天下取りか国盗りの付ける名前だ。その方などにはもう少し身の丈に合った
名乗りのほうが良い。」
そう笑いながら言われたが、三郎は

「それを付けるというのではない。ただ国の土産にしたいとだけ考えているのだ。」

「そういう事なら、使わない、付けないのであればこのまま取らせよう。」

そう言って、”信長”の書かれた所を切り取って三郎に渡した。

(祖父物語)

この話、司馬遼太郎の国盗り物語にまんま出てたけど、祖父物語が元ネタだったんだな。



786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 10:40:38.48 ID:Wg26+URo
武田信長は上総国盗りを意味する名前だったのか

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 19:21:46.66 ID:rCIHAaKF
>>786
甲斐を追われたあとは義教に仕えて結城合戦とかで活躍してるんだよね
義教が没したあとは成氏を頼ってその命で上総の上杉領を攻略して息子たちに残した
結構、激動の人生を歩んでるよね

この茶筅御曹司は

2018年04月22日 21:18

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 20:37:34.77 ID:O7Cf+qsQ
本能寺の変が起こった頃、蒲生飛騨守(氏郷)は近江の日野の谷に居たが、即座に安土へ参り、
土山に在った茶筅御曹司へ使いを立てて

「私の人数は三千あまり有り、また信長公馬廻りの士は五千もおわします。
この五千は明智の十万にも勝るでしょう。
必ず明智は安土に参ります。これと合戦すべきです!」

そう申し上げたが、茶筅御曹司はどう思ったのか蒲生に同意せず、終に合戦は無かった。
この茶筅御曹司は、後に尾張常真(織田信雄)と申した人である。

蒲生も一人の力ではどうにも出来ず、空しく日野谷へ帰った。
その後明智は坂本より船にて襲来し、安土の城を焼き払い、金銀を取り集め坂本へと帰った。

(祖父物語)


信長公、木曾義昌を酷評

2018年04月18日 10:01

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 20:48:00.99 ID:fBlgphlZ
織田信長の甲州征伐の折、諏訪の寺へ本陣を据えるため入る折に、信長は
木曾(義昌)に軍勢を見せるべしと思われたためか、「従う大名小名、一人も
騎馬してはならない。歩行にて我が馬の先へ立つように」と命じ、五千人の人数皆、
信長の御先を歩んだ。

その頃、燻革(ふすべがわ)のたちつけ(膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもの)が
流行っており、殆どはその装束であった。

寺の門前にて菅谷九右衛門(長頼)が信長に申し上げた「木曾殿がここに参られました」
信長は「寺に入れ、ここで礼を申させよ」と命じ、木曾義昌を寺の中に通すと、
礼を述べる木曾に対し、黄金二百枚を台に積んでこれを与えた。
この時、木曾義昌は台を持ち上げてこれを戴こうとした。

後に信長はこう言った
「木曾はうつけ者であるな。二百枚を積んだ台が持ち上がるものか。ああいう時は
台に手をかけ頭を付けて礼をするものだ。山家の遠国者は何も知らぬ。」

(祖父物語)

信長公、木曾義昌を「うつけ者」「田舎の礼儀知らず」と酷評



674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 21:47:39.53 ID:KT0ozs1S
持ち上がったら危険だからと謀殺するんだろうなあ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 21:49:48.25 ID:9ncWBotz
自称、木曽の山猿の子孫だし
なお義昌に裏切られた勝頼の敗走ぶりは木曽義仲に例えられたとか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 22:05:20.90 ID:TfZAIlfs
まあ、本能寺後の動向やら末路やらを考えるに、木曾義昌は本当にうつけだからしょうがない

今後『菊石』と呼ぶ

2018年04月17日 16:11

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 22:17:26.90 ID:1I0mDnDt
ある時、織田信長は御刀持に名をつけたことがあった。

「汝の事を今後、『菊石』と呼ぶ。何故ならば、長刀持は庭に居て良きものである。
また菊石も庭にあって見事であるからだ!」

そのように仰られたのである。

(祖父物語)

信長のネーミングセンスもわりと反応に困るものが多いような。
菊石というのはこういう「菊花石」の事でしょうね
https://i.imgur.com/jE6DOtF.jpg
img27.jpg




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 08:31:00.65 ID:Tn6Pyrjz
庭にいていい者か
なら禿鼠でいいんじゃね?

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 20:22:44.33 ID:DiicARIH
まあ菊石なら名字にしてもカッコがつくからええわ

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 22:14:32.61 ID:b4/LIygH
人「」

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/18(水) 12:57:54.91 ID:4ciD4O7a
ノブ「お前の菊花は実に締まり具合が良いので、お前は菊石だ」

汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?

2018年04月16日 18:29

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/15(日) 23:12:20.06 ID:jJSKP1dL
織田信長の甲州征伐の折、

織田信長は信州諏訪郡の何れの寺であったか、御本陣を据えられると、その席にて
明智光秀がこう申した

「このような目出度き事は御座いません。私も年来骨を折りたる故、諏訪郡の内は皆
織田家に従っています。何れも御覧ぜよ!」

そのように武田の総崩れを喜んだ所、信長の御気色たちまち変わり

「汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?我こそ日頃粉骨を尽くしたのだ!
憎き奴なり!」

そう激怒し、懸造りの欄干に明智の頭を押し付け叩いた。
その時、明智は諸人の中で恥をかき無念千万と存じ詰めた気色が現れたという。

(祖父物語)

有名な逸話ですが、出典は祖父物語だったのですね



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 03:07:07.82 ID:7xkzIepw
川角太閤記にもあるので、そっちが原典かもしれないし、いずれにせよ又聞きした話だからなぁ。
ただ、フロイスの書簡にも光秀が殴打されたという話はあるらしい。

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 04:27:04.65 ID:PS026Nxp
川角太閤記の光秀殴打に関する記事は至って簡潔で「信濃の上の諏訪にての御折檻」としか書いてないな

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 23:23:57.60 ID:9mr2vYq2
おまゆう

諍いの原因は、「男色のもつれ」

2018年03月18日 19:08

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 12:23:05.91 ID:T43lWMTR
「信長記」首巻によれば、織田信長は父信秀から那古野城を譲られた際、四人の家老を付けられたという。
その筆頭は林秀貞(通勝)、次席に平手政秀、三番が青山与三右衛門、末席が内藤勝介
林・平手の二人がよく知られているのに対し、青山・内藤の知名度は低い。青山などは信長元服前に戦死
したのではないかとも言われ、内藤も家老と呼べる程の分限であったか疑わしい、などとされている。

信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、三河の徳川家康と同盟を結び、美濃攻略のため、本拠を清洲から
小牧山に移そうかという永禄六年(1563年)のこと。
既に廃城となっていた古渡城付近の松原で一つの事件が起きた。青山与三右衛門の嫡男虎と内藤勝介
嫡男小三郎の二人が織田因幡守家臣桜木隼人助を襲撃したのである。といっても、虎と小三郎の二人で
襲撃したのではない。青山・内藤両勢合わせて八十六人!対する桜木も三十人を揃えていたというから、
これはちょっとした合戦である。戦いの結果、双方合わせて四十二人の死人が出て、桜木隼人助は青山の
家臣に弓で射殺されたという。虎と小三郎はそのまま織田家を退転、揃って三河に逃げて家康を頼ったと
いわれる。


諍いの原因は、「男色のもつれ」。


息子の不始末ゆえ、内藤勝介の立場が弱くなり、既に冥途へと旅立ち現世で活躍できなかった青山とともに
影の薄ーい存在とならざるを得なかったのかも知れない。

それにしても、男色のもつれで五十人近くが死ぬとは… すごく 濃い世界です…


以上、和田裕弘「織田信長の家臣団」からの受け売り。
名古屋の鶴舞中央図書館にある「津島十一党家伝記及牛頭天皇社記」に書かれているそうな。
誤読あったらごめんm(__)m。



617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 12:56:52.98 ID:5nKM9M85
秀忠「こっちの傅役の青山・内藤はかなりの知名度なのに
地名になるほど」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 21:19:39.10 ID:xl9vsyvP
徳川に使えたのが正解だったようですね

桶狭間の戦い

2018年03月17日 18:18

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 19:40:54.30 ID:FA5jxJkX
ここに織田弾正正信長と申す人、父に少年にて死別したが、少しもその跡を敵に侵入
させなかった。

そのような中、駿河国の今川義元は、三河遠江駿河伊豆四ヶ国の軍勢を率い、三河と尾張の間の、
信長方の城である大高、沓掛二ヶ所の取手(砦)を一刻に攻め取り、永禄三年五月十八日の晩、
桶狭間と申す所に今川義元は陣をとった。

一方、尾張清州城では、林、平手を始めとした信長の重臣たちが揃って、
「清須は日本一の名城なれば、籠城こそ最善です」
と申し上げたが、信長はこれを聞くと拒絶した
「昔より籠城して運の開けたことはない。明日は未明に鳴海方面へ打ち出て、義元の首を
刎ねるか、私が討ち死にするかである。」

信長が日頃から心をかけていた侍である、森三左衛門(可成)、柴田権六(勝家)といった者達は、
「快き仰せである。我らは御馬の先に立ち、討ち死にを致しましょう!」
と申し出、その他何れも、信長の方針こそ然るべしと申し上げ、座敷を立った。

十八日の夜半過ぎ、信長は広間へ出て、”さい”という女房に「今は何時か」と尋ねた。
「夜半過ぎです」と申し上げると
「馬に鞍を置かせよ!湯漬けを用意せよ!」と命じ、御前に昆布、勝栗を持って参らせた。
そして床几腰を掛け、小鼓を取り寄せ、東向きになり

「人生五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の間なり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」

そう、三度舞われて、城の内より、小姓七、八騎を引き連れただけで出立した。
既に大手の口にて、森三左衛門、柴田権六、その他三百ばかりが控えていた。信長は森、柴田へ
「両人早し!早し!」と声をかけた。

熱田源太夫殿の宮の前にて、千七、八百となった。星崎方面に控えていた佐々下野守(政次)は
その手勢三百あまりにて今川軍六万を抑える役割を仰せつかり、信長の前に出ると

「それがし、一人であっても今川と組み合い、討ち死にしようと考えていたところ、
さても妙なるお出でです。それがしが命を捨てる以上、今日の合戦に御勝ちすること
必定です。今日の戦いこそ、天下分け目の合戦です。殿が天下を治められた時、
弟の内蔵助(成政)、また私の倅を、お見捨てなされませんように。

我々は東向きに、今川の旗本へ乱れ入ります。殿は脇鑓に向かわれ、鉄砲弓も打ち捨て、
ただひたむきに打ってかかって下さい。」

そう伝えて攻撃へと向かった。

今川義元は油断していた所に、織田軍三百五十ばかりが突然攻撃をしてきた事で、「本陣で
喧嘩が起きた」と、六万余騎の者達騒ぎ立てた所へ、信長が二千あまりにて
「一人も逃さじ!」
とわめき叫んで大音を上げて切ってかかった。

これに今川勢は一支えも出来ずたちまちに敗軍し、義元の頸は毛利新助が取った。
この時、大風、あられが降り、大高、沓掛では大木が吹き倒れたという。

五月十九日巳の刻(午前十時ころ)、首数五千ばかり討ち取り、大利を得た。
この時織田信長、二十七歳であった。

(道家祖看記)



703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 07:59:50.97 ID:q6+MveO/
柴田勝家は桶狭間に参加してないと思うけどね

木造長政の警護

2018年02月23日 19:35

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/23(金) 19:23:08.02 ID:800FetQ9
福島正則が病死した時、その葬礼の場には、一町四方に木の柵を結い、四方に門を立て、
この警護には木造大膳(長政)、本多対馬両人の人数が当たった。
二町は木造の人数が受け持ち、彼の人数は長柄鑓をひしと立ち並べ、その次に控える
木造手前の侍たちは鑓を段々に飾り、その様子は殊の外見事であると、人々は褒め称えた。

残る二町は本多対馬の担当であったが、ここには長柄もなく、それぞれが自分の持ち鑓を装備し、
そのため長いもの短いものがバラバラであり、大変見苦しいと人々は悪しく申した。

日頃より木造大膳は、要らざる所に大気が過ぎ、そのため経済的に苦しく、御用の役には立たない、
などと謗られていたのだが、このことがあって以降、そういった悪口は止んだという、

(福島太夫殿御事)

正則から恥をかくほど叱られた木造長政さんですが、その正則の葬式にはこうして男を見せたというお話



両大将の御軍法

2018年02月18日 19:04

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:31:02.46 ID:dR3J4lSy
一、信長様の御軍法は、敵と成った者は、その子々孫々までも討ち果たし、その跡まで
  掘り返すほどに厳しくして、天下を治められた。内裏の修理など仰せ付けられ、王法の
  衰えたのもお取り立てされ、その後仔細あって、上京の騒ぎを払うとして、京の地子を
  御免になられた。万事において賞罰を正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで、
  その仰せを奉らないという事は無かった。
  ではあったが、一度敵対した者は、詫び言を申し上げ旗下に付いても、お心を許すこと無く、
  御憎み浅からず、故に謀反人が多く出た。こういう時は、強いだけではどうにもならないものだ。

  こういった事を太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、敵対した者へは厳しく申し付け、
  これに対し詫び言申し上げ旗下と成れば、御譜代同然に懇ろに心を開かれた。是故に、昨日まで
  敵対していた者でも、身命を捨て忠節を致すべきと考え、故に謀反人も無く、早く天下を
  治められたのだ。

  両大将の御軍法はこのように裏腹に違う、この心持ちは、小身の召使の者にも心得あるべきである。

(細川幽齋覺書)



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:57:18.66 ID:cegVxge2
秀頼シフトを敷かなければ豊臣政権は続いたのだろうか?

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/19(月) 15:28:24.75 ID:TRb3+EFk
>>650
信長のほうが寝返りに甘い印象あるけどなー、細川の処世術かな

>>651
秀吉死後に秀次派と秀頼派で関ヶ原なりそう

653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/19(月) 15:41:39.50 ID:jY3t1EHB
>>652
「信長と消えた家臣たち」って本を読むと細川幽斎の気持ちが少しわかるよ

京都四条糸屋の事件

2018年02月11日 16:31

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 19:12:39.08 ID:gbjmgkWA
京都四条糸屋の事件


天正7年(1579年)、京都で前代未聞の事件が起こった。

下京四条小結町の糸屋の後家で、70になろうかという老人がいた。
娘が一緒に住んでいた。

4月24日夜、娘は良い酒を買ってきて、母親が充分だと言うのに、更に無理やり飲ませた。
酔い伏した母親を土蔵に担ぎ入れ、夜更けて人が寝静まってから刺殺した。

自分で死体を箱に入れ厳重に縛った。
家は法華宗であるのに浄土宗の誓願寺の僧侶を呼び、人に分からぬように
死体を寺へ運んだ。

この家には下女が一人いた。
娘は下女に美しい小袖を与え、
この夜のことは絶対に内密にするように言いつけた。

しかし下女は、後で発覚したときの恐ろしさを思い、
村井貞勝の役所へ駆け込み事件を告げた。

村井貞勝はすぐさま娘を逮捕して取り調べた。
4月28日、娘を上京一条の辻から車に乗せて市中を引き廻し、六条河原で処刑した。



532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 19:26:01.19 ID:psbhjA/6
京の四条の糸屋の娘、母は七十で娘は十五♪
諸国大名は刀で殺す、糸屋娘は懐剣で殺す♪

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 21:51:51.95 ID:fhHkUYw7
>>531
姥捨て山とかあるし親殺しなんて珍しくなさそうな気がするけど前代未聞なのか。意外と平和…?

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 22:23:36.38 ID:udfaa2Lf
良家のお嬢様が母親を殺して完全犯罪をもくらんだって十分スキャンダラスな出来事じゃね?
戦国時代でもこんな事件はあるってことが驚き

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 22:56:49.20 ID:wOZAjPNf
なんか見たことある話だと思ったら信長公記だった

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 00:02:53.76 ID:6HQtIGdn
このサスペンスみたいな展開、雲仙のお糸地獄を思い出す

http://livedoor.blogimg.jp/fukucyan_jp-part2/imgs/5/b/5b1948ab.jpg
5b1948ab.jpg

真に必死と志さなければ

2018年01月06日 19:26

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 21:09:25.99 ID:GQe9Igv/
織田信長のもとに、美濃侍で元は斎藤道三に仕え、度々戦功のあった平野与兵衛という勇士が
招き召された時、この平野に近付きになろうと、織田家の諸士がこれを訪ねた。
道化清十郎も彼の所に至りて対面し、このように言った

「平野殿の事は隠れも無き儀であり、当家にも招かれた以上、今後別して御意を得、
御指引にも預かりたいと思っています。」

これに平野
「思いのこもった仰せです。私は他家にあったとは言いながら、斎藤の家は御当家とも
縁がありますし、今後は御指図も請けたいと思います。
…ところで貴殿のお名前は?」

「私は当家でこれといった者でもありませんので、名乗るのもいかがと思いますが、
お尋ね故に申します。私は無双道化と申す者です。」

「さては聞き及ぶ無双殿でありましたか、初めて面謁いたしますが、久しくその名は伝え聞いて
おりましたので、久しき知音のように思います。」

この時道化は尋ねた
「非常に粗忽な質問だと思いますが、平野殿はいつでも、攻めかかるときは先駆け、
退く時には殿と、先駆け殿を毎回勤められていると承っています。こういったことは、
若輩として承っておきたい事です。我らもそういった働きを致すこともあるでしょうから、
その心がけを知りたく、仰せ聞かせて頂けないでしょうか?」

平野はこれを聞くと
「結構な質問だとい思います。ただ私は、何であっても存ずることがあって仕るという事は
ありません。

斎藤の家の子たちは、度々の取合いに、冥加に叶う者達は、先に先に、討ち死にしました。
私などは生き残ってしまった故、何とぞ重ねての戦にては必ず討ち死にを仕ろう。そう考えて
いるのですが、武勇が足らないゆえでしょうか、度々死を逃れ今日まで永らえ、つれなき命を
全うして、このようなお尋ねに出逢ってしまいました。恥ずかしいことです。」

道化はこれに
「平野殿の只今の御返答を承って、さても深切な事と存じました。
先駆け殿の事は、真に必死と志さなければ、勤め難きものなのですね。」
そう、感じ入ったという。

(士談)

まとめ1544の「俺は断じて及ばない」の、詳しいバージョンですね



566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 21:15:57.17 ID:dyTR67CM
無双

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 21:21:50.09 ID:V+zRlDZ1
>>566
信長が、道化清十郎の武功を賞賛して、彼の旗指し物に「無双道化」と書いたそうな。

信長の度量

2017年12月08日 21:24

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:42:06.30 ID:ZG2/Mmcy
織田信長は二十年あまり、憤怒を抑えていたが、石山本願寺が和睦し開城すると、
天下はここに平均成った。

すると天正八年、信長は林佐渡守を流罪とした。
彼がかつて、名古屋において信長を謀ろうとした罪によってであった。
また安藤伊賀守を流罪とした。
これは、彼がかつて武田信玄に内通したためであった。

小さなことであっても、自分が恨みに思ったことを、後に自身が世に盛んになってから、
報復することを考えるのは、おおよそその人に度量があるとはいい難い。
我が身の遺恨故に人を害し、損なおうというのは、大丈夫の心とはいい難い。

織田信長にはこう言った誤りがあった故に、荒木村重、松永久秀らは安んずること出来ず、
天下に乱逆を成した。惟任光秀による禍も、この故であると言えるだろう。

一方秀吉は、毛利が柴田と内通し、室町殿(足利義昭)を再び京に復帰させようとしたことを
知りながら、後に毛利や義昭に対し、聊かもそういった気色を見せなかった。
信長と比べ、その度量大きく違うと言うべきであろう。

(士談)



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:46:35.05 ID:ek3nQsgY
毛利そんなことしたの

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/08(金) 07:31:31.32 ID:H32lLvCl
>>397
史実で言うと本能寺の変後にあった義昭の京復帰話は秀吉や家康も絡んでて
史料を見てるとかなりの進展を見せていた時期もあったようです。

柴田に内通うんぬんは秀吉と勝家のどっちが勝つか分からんので片方に加担せず
様子見を続けたってのが真相ですね。

そういった事で勝家滅亡後に秀吉から隆景へ送られる脅迫状としか思えない書状へとつながる訳ですが....

江戸のもののはじまり事典

2017年11月24日 17:18

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 21:29:17.74 ID:XjByv4RE
江戸のもののはじまり事典「本朝世事談綺」よりいくつか


鹿苑相国義満公の時、内野合戦が正月元日に起き、殿中の祝賀会に出席していた者共が
素襖の袖と裾をとって戦に従事したことが吉例となった。
細川頼之の行いであった。
一説によると、信長公の時に松永弾正がはじめたとも。

月代
月代を剃ることは、鎌倉北条執権(泰時の頃)に始まった。
その昔は本朝では貴賤ともにみな総髪でお歯黒をつけていた。
山海経に言う「東海に黒歯国あり、その俗、婦人の歯悉く黒く染む」というのは日本のことである。
その後、貴賤を分かつために男の歯を染めることを禁じたが、気が発さなくなったせいで歯の痛みとなった。
そこで月代を剃ることとなったのだ。
一説によれば、鎌倉時代は髪を抜いたという。信長公のときに剃刀で剃るようになったという。
おそらく髪を抜くというのは額のことであろう。
剃刀は眉を剃るために神功皇后の時に始まった。眉剃り用の剃刀は小さかったのを、
信長公の時に大きくしたのが今の剃刀であろう。
(信長が毛を抜くのを痛がって剃ることにした、という説もある)

ロウソク
文禄年中までは日本にロウソクなし。呂宋助左衛門が秀吉に献ずるところのロウソクを真似してこれをつくった。

一里塚
正親町天皇の御世に信長公の下知にて一里を三十六町に定めてその表示に一里塚をつくり榎を植えさせた。



457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 17:55:58.07 ID:E7qzUXBx
>>450
> (信長が毛を抜くのを痛がって剃ることにした、という説もある)

    ノノ
 〆 ⌒ヽ∩ ブチ!ブチ!
 (  ゚ω゚)ノ⌒ ミ
 ヽ⊂彡(´・ω・`) <信長「…」

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 18:05:03.73 ID:b86Bif5A
抜くんじゃ時間かかりそうだしね

『松野平介に劣らぬよう』

2017年11月14日 21:29

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 07:41:35.14 ID:GSRO0ABL
織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、
武義の詮議を行い、家職を忘れず、武運のことを神慮に祈った。
また同士の輩は、一同に誓詞を記し、互いの非を伝えあった。

ある時、何れも寄り合いをして、願書を書いて武運を祈るとき、
「皆は何を目標にして、どのように武職を勤めたいと思っているのか、それぞれその趣旨を書いて
入札にしよう」
という事になり、集まって書き出した所、皆『松野平介に劣らぬよう』『松野平介より先を致したい』
といった心がけが書かれていた。

この松野平介という人物は、美濃の三人衆に仕えていた武士であり、後に信長に召された、
信長は、その身が陪臣であると雖も、武の職業を勤めたる者であると、彼を非常に高く評価し、
岐阜の大手先の侍町に屋敷を与え、「諸人の規範にもなる人物だ」と言った。

このため織田家の諸侍は彼を見習い勤めを甚だ励み、それぞれに武義の職を勤め守った。

(士談)



421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 17:52:44.33 ID:tx0xGda4
織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、

初めて聞く話やな

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 18:53:48.72 ID:Un1oa4VD
織田家では月二回、職場内の勉強会兼飲み会をやっていたという事か。

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 19:49:11.27 ID:71UKaADV
織田家中自己啓発セミナー

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 20:33:05.07 ID:Cr5IYuoH
織田家で自己啓発とか
無道なことを

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 21:07:10.78 ID:WV2H8aGD
庚申講みたいに実質、ただの飲み会じゃないの?
まあ庚申講はいろいろと危ない相談もされてたんじゃないかって話もあるけど

武家事紀での織田岸蔵坊

2017年11月10日 21:31

284 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/09(木) 21:26:20.98 ID:529zOpoH
ググったら武家事紀の同じ話が有り、書かれてるサイトが有った。そちらでは織田岸蔵坊の事を

きわめて貧しきが故に、布の旗、筵の障泥にて疲れ馬に鞭をあつ。 

村上紀伊守は馬具・武具も整え岸蔵坊とは対照的な姿。
 どちらが一陣、二陣となるかをくじで決め、村上紀伊守が一陣、二陣は岸蔵坊となった。
 村上紀伊守の第一陣は破れ、岸蔵坊は身に三箇所の傷を被りながらも一揆を打破った。
 こうして凱旋し将軍家に討捕らえた首を献上した。
 その様子を『武家事紀』は、 
 
  将軍家感悦のあまり御盃を下され、ことに駿馬を賜う。 
  村上も御盃にあずかりぬ。 
  村上もとより大酒なれば、数盃を傾く。 
  将軍家興に入り給うて御太刀を賜いて各退出す。 
  岸蔵坊大いに怒れる気色にて、 
  一番に逃亡せる村上は重代につたわる太刀を賜り、軍功無双の某には、明日もしらざる馬を賜る。
  此の馬を殺し皮をはいで太鼓に張り、是こそ将軍家より軍功に賜れる馬の皮よと銘をしるし、子孫に伝うべし。
  これ村上が上戸ゆえなり。 
  下戸なる者は益なし。 
  下戸無念なりと、ののしり立って帰れりとなる。 


これを見るに将軍には悪気無く、岸蔵坊さんに良かれと思って馬を与えたように見える。
岸蔵坊さんは襤褸を着ても心は錦じゃないけど、負けた筈の村上さんが褒美を貰うのが気に食わなかったのかなぁ?


http://www.gokuh.jp/ghp/busho/oda_001.htm

関連
織田岸蔵坊は激怒した


285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 23:18:27.34 ID:WWQClPL8
織田の陪臣である岸蔵房がどうして将軍家に拝謁できるのか?
尾張に流れてくる前の話なのかな?

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/10(金) 07:28:13.28 ID:6GS648by
一揆はどこの一揆で将軍はどの将軍なのか

287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 08:07:19.31 ID:0CxMzdfO
>>285
織田岸蔵房で調べたら孫の織田信房が出てくるけど、信秀の代から仕え、元々織田姓ではないとある。
岸蔵坊が元々何処に仕えていて、どう流れて信房の代で信秀に仕える様になったかは興味深いね

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/10(金) 08:30:37.15 ID:a9KTd7T+
>>287
信房の子に菅屋長頼がいるんだよね
織田姓を貰うことといい、かなり厚遇されていた一族なんだろうなあ

織田岸蔵坊は激怒した

2017年11月09日 17:14

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 10:22:19.01 ID:Y5rjaGJg
かつて、織田岸蔵坊(信長に仕えた織田信房 (造酒丞)の祖父)と村上紀伊守とが、当時の公方の
命により敵を退治したが、織田岸蔵坊は比類なき働きあり、紀伊守はさほどのことはなかった。

帰京した時、織田は馬を賜り、村上は太刀を賜った。
これに織田岸蔵坊は激怒した

「村上は一戦に崩れて恥を取ったと言うのに、それがしと一緒に御盃を賜っただけでなく、
御剣まで賜った。村上は『この太刀こそ勲功の賞である』と、子孫に伝え家の面目に備えるだろう。

しかし馬は生物なのだから、明日をも知れず、後代に残ることもない!
すぐに其の馬を打ち殺し皮をはぎ太鼓に張り、『これこそ将軍より賜った馬の皮である』と
銘を打って子孫に伝えよう!

各々、武勇を棄てて酒の飲み方を学ばれよ!村上が上戸故にこれほどの面目に余る待遇を受けたのだ!」

そう罵って御前から下がり、将軍は大いに興を覚ましたという。

(士談)

関連
武家事紀での織田岸蔵坊


273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 10:28:26.47 ID:gGam2wU+
信長の言い分と真逆w

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 11:55:35.48 ID:W5g8hSJd
汗血馬でも屠殺しちゃいそうな奴だな

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 15:16:29.17 ID:eUduDq1c
いい馬なら繁殖させれば儲かると思うんだが
それでは駄目なのか

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:25:06.33 ID:eVs8SPKm
戦国時代の名馬って繁殖に回って子孫も名馬っていう話聞かないし
いい馬をもとに繁殖させるっていう発想自体がないんじゃね


277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:44:38.79 ID:kZkZr3ob
そもそも儲かるとかそういう話じゃなくて面子の問題なんだろうしな

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:52:43.95 ID:z/A/VUKh
池月・磨墨を頼朝から下賜されて宇治川で先陣争いした
佐々木高綱や梶原景季はいまだに語られてるのに

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 17:57:05.12 ID:W8CGtvmK
それは平家物語の作者と琵琶法師たちのおかげだな

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:15:56.14 ID:bdaIAzlk
>>276
ない。馬産に関しては明治まではとてつもない後進国。
なんせ、去勢すらまともにしようとしないぐらいだし。

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:38:04.85 ID:WWQClPL8
アラブを導入してみたもののうまくいかなくて小さく出ちゃったのって島津だったっけか?
まあ種馬を見分ける相馬が無かったんだろうけど

当時って自然交配なのかな?

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:42:26.36 ID:wtXKSyfd
日清だか日露の時に日本の軍馬が騒いで困ったので、それからせんばの導入が進んだって聞いたことある

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/09(木) 18:43:21.07 ID:xGkzgLXd
>>277
馬を貰った=記念品と共に長く伝えられる程の功名と評価されなかった、と解釈したのかも。
あるいは「あの時こういう功名を遂げて馬を貰ったんだ」より、
「あの時こういう功名を遂げて太刀をもらった、それがこれ」と言えるほうが格好がつくと思ったか。
感状に拘る武士に似た考え方かな?

武田左吉の子

2017年11月03日 20:57

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 21:10:59.46 ID:j17J6I/M
織田信長足利義昭を戴いた上洛戦の時、近江北郡にて坂井右近将監の子である久蔵が、この時わずか13歳にて
鑓を合わせ、彼の働きに義昭ならびに信長より感状が与えられた。
その頃、武田左吉という者の子も同じ13歳で、信長の側に仕えていたが、久蔵の振る舞いを羨ましく思った。

信長は入京すると、京より青龍寺、山崎あたりに退いていた三好勢を続けて攻めた。
この時、武田左吉の子が一番に、三好の陣へ馬を入れた。彼は敵との距離が良い所で馬より降りて
闘おうと思っていたが、其の身、未だ幼く、また馬は癇が強く逸っていたため、降りること出来ず
そのまま敵陣の中に引き込まれ、討たれた。
志は猛しといえども、本意無きことである。

武田左吉はこの他に子が無く、後に土方彦三郎という者の弟を養子とし、その者は武田宮内と名乗った。

(士談)