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姉川勝利

2018年11月22日 18:15

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 02:44:20.60 ID:hd5SfMHy
(姉川の戦いの時)

浅井長政も叶い難く小谷を目指して敗走すると、味方は矢島郷の尊照寺・田川辺りまで追い討ちした。安養寺
三郎左衛門経世(氏種)は生け捕りとなり、信長の前に引き出された。信長はかねてよりその名を

聞き知っておられたのでその命を許され、「私はこの軍威に乗じてただちに安養寺に案内をさせて小谷を攻め
ようと思うがどうだ」と問われた。安養寺は答えて「長政は今日は敗走したといえども、父の下野守久政の勢
1,800ほども備えて城を守っていますので、軽々しく押し寄せなさるのは御遠慮あるべきでは」と言った。

信長はその言葉をもっともであるとして、「小谷はまたのことにしよう」と安養寺を助命し、そのうえ願いの
ままに小谷へ送り帰しなさった。かくて今日討ち取った敵の首を数えると3,170級。多くは徳川勢の討ち
留めたところである。信長は神君の大功を感心されて、

 今日の大功は殊更に言うまでもない。前代に比類なく後世の誰が雄を争えようか。当家の綱紀にして武門
 の棟梁というべきものである。(今日大功勝て言う可からず。前代比倫無し。後世誰か雄を争う。当家の
 綱紀武門の棟梁と謂う可き也)

以上の感状に長光の刀を添えて進上された。この刀は光源院将軍(足利義輝)の秘蔵でその後に三好下野入道
謙斎(政勝)が所持した世に優れた名物である。(原注:『柏崎物語』にこの時、信長より源為朝の用いた

矢根を進上され、御当家で槍にされたと見える)その他氏家・稲葉・伊賀の3人(美濃三人衆)も横槍の功を
賞して感状を賜り、諸手の将卒の勲功も漏らさず褒美なされ、姉川で勝利の凱歌を奏せられた。

姉川の戦い大勝により信長は頻りに礼謝の言葉を尽くされ、神君は御勢を引き連れられて三河へ凱旋された。
信長はただちに横山城を囲んで攻めなさった。大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭などは
随分と防戦するも叶い難く、ついに城を渡して小谷に引き取ったため、ここは木下藤吉郎秀吉に守らせ、

姉川で討ち取った首は京都へ遣わして、義昭将軍の実検に備えて六条河原で梟首せしめた。京都では「ああ、
おびただしい首かな」とこれを見る貴賤ともども驚嘆して肝を潰したということである。信長は7月に至り
軍勢を進めて、磯野丹波守(員昌)が籠る佐和山城を囲み攻められた。この城は険阻な要害の地であり、

丹波守はさる老練の宿将で防戦の術を尽くしたので容易に攻め取り難く、そのうえ織田方の軍勢は打ち続いた
合戦で人馬も大半が疲れたため「この城はまた攻めるとする」と城の近辺に獅子垣を結い回し、鳥居・本口・
百々屋敷に向かい城を取って丹羽五郎左衛門(長秀)に守らせ、北方の尾末山に市橋九郎左衛門(長利)、

南方の佐渡山には水野下野守(信元)、西の彦根山には河尻与兵衛(秀隆)などと定め佐和山を押さえさせて
信長は入洛なさり、義昭将軍に謁して姉川の戦い勝利のことを告げられ、7月8日に岐阜城へ帰られた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞・織田真記)』


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おそらくこれが信長であった

2018年11月22日 18:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 20:25:38.67 ID:ucCeN/Yq
明智日向守が本能寺に押し寄せ、その軍勢が織田信長の御座所まで入った時、日向守の家臣である
天野源右衛門、鑓を持って縁へ上がると、鴨居に兜を当てて尻餅をついた。そこに森乱丸が鑓で源右衛門の
外腿を突いた。その後乱丸は内へ入ったが、源右衛門立ち上がり、障子越しに人影を見てこれを突いた。
おそらくこれが信長であったのだという。

(武功雑記)



460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 22:08:46.32 ID:sPYXC3wR
確かこの人はこの後に森長可の部下になるんだよな
そして信長と同じ日に死んだ

江州の滑者共さこそあらめ

2018年11月14日 19:13

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:37:54.35 ID:Kme0DLVB
永禄11年(1568)9月7日、足利義昭上洛のため六角承禎父子を討伐するべく織田信長は大軍を
催して近江へ出陣され、同8日、平尾村で人馬を休められる。11日には愛知川に着陣し、その近辺を

放火なされた。さて敵地に入ってみれば佐々木六角父子の設けた砦が数ヶ所あったが、織田殿は「諸塁
には目もくれてはならぬ。箕作・和田山両城を攻めよ」と手分けを定め、その後に宿老どもを召し集め

箕作城を攻める手立ては如何するかと評議された。坂井右近政尚が進み出て申すには「箕作と和田山の
間はさほど遠くはありません。敵もきっと互いに図り合って助ける手立てがあることでしょう。

幸いなことに、浅井備前守(長政)は味方であります。まずは和田山を浅井に押さえさせてしかるべき
でしょう」とのことで、織田殿も「もっとである。浅井はこの国の住人にして案内者であるから浅井に

箕作と和田山の間に陣を張らせて、和田山城を押さえさせよう」と仰せになり、佐々内蔵助(成政)と
福富平右衛門(秀勝)両人を浅井方へ遣わしてその旨を命じられると、浅井は「某父子はともに箕作

に向かい戦功を励みます。いかに織田殿の仰せであるとはいえ『和田山城の押さえをして手を虚しくし、
人の戦いを見物ばかりして日を暮らします』と申すことはできませぬ」と返答した。両使が帰って

その旨申せば、織田殿は重ねて両人を使者とされて、「浅井父子はそれならば急ぎ箕作城に攻め掛かる
ように」と仰せ遣わされた。浅井は承り「織田殿の御勢が攻め掛かる時は、某も引き続いて攻め掛かり

ます」と返答した。両使は立ち帰って来ると「近江第一の猛将と聞こえる浅井父子ですが、返答の鈍さ
からは近江侍の武勇の程が思い知られます」と申した。織田殿もこれを聞き給い、

「近江の浮かれ者どもはそんなものだろうよ」(江州の滑者共さこそあらめ)と打ち笑いなさり「それ
ならば我が手の者どもにこの押さえを命じる」と、美濃の三人衆といわれる氏家常陸介

(直元入道卜全)・稲葉伊予守(良通入道一鉄)・伊賀伊賀守(安藤守就)に、和田山の押さえを命じ
られ、また「箕作城の形勢を見て来い」と柴田修理亮(勝家)・森三左衛門(可成)・坂井右近の3人
に扈従・馬廻の侍5百余騎を添えて遣わされた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 12:42:34.27 ID:bQ2xyhE3
姉川で備を突き崩されたのはこの時の近江弱兵の先入観が出来てしまったからだろうか

早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ

2018年11月14日 19:12

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:39:43.95 ID:Kme0DLVB
箕作城の物見に出た森三左衛門尉・坂井右近将監は敵方の足軽と交戦し、敵80余を討ち取る。かくて
信長卿が仰るには「首途は良し。魁の勢は尽く愛知川表へ引き取り、観音寺に向かって鶴翼に陣を取れ」

と柴田に仰せ付けられ、各々主だった人々を召されて「なんといっても、出征の印が無くては叶うまい。
箕作城を攻めようと思うがどうだ。皆々計らい申すべし」と仰せになれば、坂井右近将監が進み出て、

「箕作と観音寺の間は少しばかりの距離の様に見えます。佐々木父子は目の前にいるというのに、なぜ
これを捨て置くべきでしょう。まずは観音寺を押さえる御手立てこそしかるべきです」と申せば、

信長卿は「幸いにも浅井備前守にとって近江は自国である。さぞ案内を知っていよう。『かの両城の間
に割り入って押さえられ、箕作城を攻められよ』と使者を遣わしてはどうか」と仰せになり、各々は

「もっともです」と申した。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が参り、「浅井方にこの事を申せ」と
命じられ、両人は急ぎ馳せ向かってその旨を申せば、浅井も家老の者どもを召し寄せて評定したのだが、

どうしたことか御返事を申しかねる様子のため、両人はやがて心を定めて「これはどうにもならないな
(罷成候まじ)」と馳せ帰ってその旨申し上げると、信長卿もさぞ不快に思し召されたろうが、今回は
浅井と初めての御見参でもあるし、特に君臣の睦みも未だ物慣れていないので打ち笑いなされて、

「それならば我が勢をもって両城の間へ割り入らせて、承禎父子を押さえさせよう。備前守には箕作を
攻めさせよ」と重ねて両人を遣わされた。ここで信長卿はのたまって、「かの大変のろまな浅井の所存

ならば同城どちらにせよ矢は受けるだろう。(彼大ぬる者の浅井が所存にては、両城何れも矢はうけ候
べし)その上で尽くして早く早く評議せよ」と仰せになり「ただいま攻められなされ」と申す者もあり、

「いやいや夜に入ってから攻められてしかるべきでは」と申す者もあり。信長卿は内々夜に入って攻め
ようと思し召していたのか、「日中に攻めれば城中の兵どもの多くは漏らさないだろうが、坂井の申す

通りと同じく思う。皆々支度を致し、夜に入ったら攻めるべし」と軍中へ触れさせ給う。そこへ佐々・
福富が馳せ帰り「なかなか(浅井は)申し上げるまでもなし! 美濃・尾張の者の他には、勇猛の者は

おりませぬ!」と怒って申す他もなかった。信長卿はかえって両人の気分を労わろうと思われたのか、
「私もまたそう察して早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ」と、御心良さげに仰せになった。

――『甫庵信長記』



442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 14:51:12.18 ID:p3uXClc3
>>440
最後に怒ってる部下をいたわるのが良いなぁw

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 04:05:32.41 ID:fNoTZAMW
ボロカス言ってるけど地理的には浅井は重要な味方だからな
今後も度々使者に立つであろう両人の機嫌が良くないと
以後のやり取りで思わぬトラブルを産む事にもなりかねないし
信長一流の細かい気遣いという事か

春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様

2018年11月13日 21:16

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:04:49.28 ID:L+t9VgNU
織田上総介信長はこの度足利義昭を守護して近江より切り上り、三好・松永などの逆徒を誅伐して足利家
再興の功を成就し、中国へ旗を立て将軍家を堅く抱えて四海を令すれば、斉の桓公や晋の文公のような

覇業も瞬息のうちに定まるであろうと喜び勇み、その旨早く近国へ触れ渡されると美濃・尾張・伊勢3国
は言うまでもなく近国の諸軍勢は我劣らじと、美濃岐阜城下へ馳せ集まる者は雲霞の如し。

信長は近江一円の地図をもって軍議を凝らして、永禄11年(1568)9月7日、5ヶ国の大軍を引き
連れて早く出陣すべしと、まずは義昭の旅館・立政寺に参上して細川藤孝をもって申し上げられ、

「5ヶ国の大軍は早くも参着しました。よって速やかに上洛を急ぐべきといえど、近江の佐々木六角承禎
父子は内々に三好・松永などの逆徒と志を通じ、伊勢国司・北畠の加勢を受けてこの度の主君御上洛の

御道を遮らんとすると聞きます。まず承禎父子を誅し、彼らの首を刎ねて軍神を祭り、その後に御迎えを
奉りましょう」と御伝えすると、義昭も対面されて世にも嬉し気に「当家再興の事をひとえに頼み参らす」
と礼を厚くへりくだって仰せになれば、信長も「畏まり候」と返答なさって退出された。

(中略)

都合4万余騎と聞こえる織田勢は先陣がすでに近江平尾辺りに至るも、後陣は未だ美濃垂井・赤坂辺りで
遮られるほどの数だった。信長は先祖・平相国清盛より相伝の蝶1羽を染め出した赤旗と、この度義昭

より賜った桐紋・二引両紋の旗、斯波武衛家より伝えられた瓜紋の旗、また織田殿の馬前には黄絹1幅に
永楽通宝の銭を墨で描いた1流の旗、また妙法蓮華経と題目を書いた馬印9本を立てて、この日は

平尾村に着陣された。8日には近江南宮山に滞留されて人馬の息を休めなさった。茫々たる平原に色々な
旌旗が翻っている有様は、春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様に異ならず。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 22:42:11.03 ID:E/F+EuE0
桓公に文公とはまるで漢書のような

この王子、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故

2018年11月09日 09:36

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 00:02:05.85 ID:of0Wpt0o
この王子(織田信雄)をもしキリスト教に帰依することが出来れば、大いなる収穫を得ること疑いない。
彼は意思甚だ強く、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故である。

彼は諸人に対して甚だ親切なのだが、もし命令に背くものが有れば直ぐにこれを罰する。故にその家臣の
行儀正しく丁寧なることは驚くほどである。

先ごろ、彼は兵士たちに与える物がなく、一方で、一人の殿が余るほどの収入を有するのを見て、彼はその殿から
六千俵を奪ってこれを兵士に与えた。

この事件の後、信長は信雄を招き、何故そんな事をしたのかと尋ねると、

「私は父上の子の中で最も貧しく、兵士たちに与える物を持っていません。そのためあの殿より、有り余るものを
少し取ったのです。」と答えた。

信長は彼を責め、「奪ったものを返すように。」と言ったが、信雄はそれを理解した様子を見せなかったので。
信長は怒って小さな枕を彼に投げつけ、その殿の財産に対する彼の侵害を責めたのだが、それ以上は何も
出来なかったため、この殿に対し
「この上は武力を以て奪うべし。」
と言い、実際に対陣させた。

この殿は1万人、又は一万五千の軍勢を集め、一方の信雄は七百人ばかりであった。しかし信雄は
「何人も動くべからず」と命じ、一人で馬を馳せてその殿の陣中に乗り込み、諸方に乗り廻して混乱させたが、
殿の陣中では、彼が信長の子であるため誰一人これに触ることも出来ず、殿は隠れ、これを聞いた信雄は
「これを捜すのは時間を損ずるに過ぎない」と、闘いを中止した。

(一五七八年一月十四日(天正五年十二月七日)附、都發、パードレ・ジヨアン・フランシスコ書翰)

正直ひでえ話だな。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:09:06.89 ID:4LmF8tH6
相手は四十万石くらいの人だったのかな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 07:39:04.23 ID:JEmsZ9R9
再評価せねばならぬ武勇伝だね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:28:31.32 ID:ow9Yza7j
三介殿のなさる事だからしょうがない

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:54:57.62 ID:tNMLWG7s
>>421
斜め上に

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 18:43:03.92 ID:DZoKZpxX
>>419
何でそうなるんだ…としか思えない行動回路だ

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 20:18:27.35 ID:Py2/VUOM
確かに事実とは思いがたい

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 21:08:40.86 ID:xhuQeHXe
>>419
頭鳩山かな?

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 22:13:01.97 ID:0+fdcXJE
本多正純「一人の殿とは一体誰のことなんです?」

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 11:07:22.55 ID:DMxEB0Op
神君だろ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 16:39:27.63 ID:9TutT64G
>>429
それは正純じゃなくても気になる

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:14:27.23 ID:Rb9DE5g9
収益のために頑張ったら主君のドラ息子に理不尽に収奪されるわ
気難しい主君がせっかく説教してくれたのに息子の物分りが悪いせいで
匙を投げられて合戦もどきまでさせられた挙句
アホでも主の息子だから手を挙げられないで居たら散々暴れられるとか
この殿にしてみれば降って湧いた災難すぎる…

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:18:40.73 ID:2rFScKgH
>>419
もしこのドラ息子の話が本当ならそんな役回りは光秀か村重かな
1年後に村重は謀反を起こしているし

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 17:16:11.36 ID:6IaFLY1o
本願寺に横流しする手筈だった兵糧を・・・
ぐぬぬ

三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


手ひどき合戦には不合と見へたり

2018年11月08日 18:23

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 17:41:29.66 ID:Y2HvOdmo
ある時、織田信長の前に武者修行をしているという武功の者がまみえた。
彼は冑に白熊の引き回しを付けて、冑立てに立てさせ、後ろに持たせて出た。

信長はこれを見て「彼はいままで手ひどい合戦には出会わなかったらしい。気に入らない。」
(彼はつひに手ひどき合戦には不合と見へたり。心にくからず。)
と言った。

これは白熊の引き回しなどと言うものは、それを損ねずに戦をするなどありえないためだという。

(士談)

関連
白熊の引きまわしなどでは、



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 18:07:11.78 ID:/DFHlKKj
おお。読んだことあると思ったら違うソースだった
いい悪いブログ10501 (まとめサイトのURL貼るとエラー出る)

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 20:17:44.62 ID:1gkzLAvN
>>414
信長公へのお目通りという事で気合入れて新調しただけかも知れないのに…
まぁ、何となく信長ってこういうの嫌いそうなのも判る
でも傷だらけの甲冑で来たらそれはそれで主張がワザとくさくて信用ならないとかも言いそう

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 20:34:15.44 ID:0WodYPFi
白熊ってホッキョクグマじゃなくてヤクのことなんだな

御父 織田弾正忠殿

2018年11月07日 19:38

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 04:36:39.32 ID:yJTjxHUj
足利義昭将軍宣下の時)

信長が帰国の暇を申し上げられると、義昭は不日に逆徒を退治し将軍家を再興した御感激のあまりに3通の
御内書を賜った。そのうち一通は信長を左兵衛督にと仰せ出されたものだったが信長はこれも辞退された。

その他には、

 今度国々の凶徒らを日を経ず時を移さずして退治せしめたのは武勇天下第一なり。当家再興の大忠として
 これ以上のものはない。ますます国家の安治をひとえに頼み入り候。この他に頼み入る他事はなし。なお
 子細は藤孝(細川藤孝)と惟政(和田惟政)が申すものである。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

また1通には、

 今度の大忠により桐紋と引両筋の紋を遣わし候。武功の力を受けることだろう。祝儀である。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

信長は大いに面目を施され、ただちに暇を賜り25日に京を発って、28日に美濃岐阜城へ帰陣され諸軍勢
に銘々賞禄を施して帰国せしめられた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』


信長が少女を斬り捨てたのは驚くに足らぬこと

2018年10月14日 18:15

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 19:46:33.21 ID:+oppITPP
日本人の清潔を好むことは想像が出来ないほどで、特に家および常に座する畳の清潔なことは、
最も忠実な聖器所預かり人の保った祭壇の清潔さに比べることができる。私はビジタドールのパードレと共に
織田信長、及び内裏の邸に行ったが、新しい靴でなければ入ることが出来ず、広間を通る時には、
暗黒の祝日の墓所の階段を登る時のようで、しかも一人が箒を持って塵を掃きつつ後ろから随って来た。
土間、及び縁側も清潔で、唾を吐くことが出来ず、ハンカチを用いなければならない。

台所には大きな鍋があり、沸騰していたにもかかわらず、水も灰もその他も、箒で掃いたように綺麗であり、
馬の居る厩もまた同様であった。

信長がその居室に落ちていた果物の皮を掃かなかった少女を斬り捨てたのは驚くに足らぬことで、
非常に清潔に注意するため、少しの不潔も大いなる罪と成るのである。

広間、居室、聖堂等は皆畳を敷き、外で靴を脱がねば入ることが出来ない。
庭(niuas)すなわち庭園は常に清潔で、箒を以て掃き、特別の位置に据えたものの他、一草一石も無く、
果樹を喜ばず緑と陰を珍重する。

(1586年1月6日付、パードレ・ロレンソ・メシヤ書簡)

ちょっとまて信長果物の皮掃き忘れた女の子斬ったんかい。



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 20:57:51.28 ID:z69OWUY6
信長って自分の爪を小姓たちに切らせたときに1つ隠して、あとでわざと落としたことあるよね

中国の逸話が元ネタだけど

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 21:22:11.58 ID:dQRjJYkR
内裏の邸って安土城を指すのかな?

坂井政尚の討死

2018年09月23日 19:00

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/22(土) 20:39:43.56 ID:5fRHuOJu
織田信長の軍の大将である坂井右近(政尚)が元亀元年(1570)11月26日に堅田の戦いでに討ち死にした理由だが、
彼はその以前、6月21日の姉川の戦いで嫡男久蔵(尚恒)が討ち死にして以来、何事も心に入ってこない様子で
あったのだが、敵対する堅田の一揆の内より、猪飼昇貞、居初又次郎、馬場孫次郎の三名が、信長へ寝返ることを
申し出てきたため、信長より「家臣の誰かが海を越えて堅田に行くべし」と命じたところ、坂井がこの命に応じ、
一千あまりの兵を率いて11月25日の夜中に堅田に入り、その構えに火の手を上げて合図を示した。

ところが、浅井朝倉軍がこの火の手に気づき「このまま放置して織田軍に堅田を取り固められては大変な
事になる!」と、26日の早朝よりこれを攻めた、そのため坂井政尚をはじめ安藤右衛門佐、桑原平兵衛などが
討ち死にした。

坂井は勇猛な将であったが、事の利を尽くさず、早くに敵に察知されたことが誤りであろう。

これは天正時代の尾張蟹江城の戦いでも、滝川一益が早くに合図の火を発したために、ついに敗北している。
全て名のある勇武の将であっても、事の理を詳らかにしなければ、このような落ち度があるものなのだ。

(士談)

嫡男を亡くした動揺が続いていて判断を鈍らせた、という事なんでしょうね。



197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/23(日) 21:50:26.46 ID:al5PRGdw
朝倉にしては動きが速いな

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 03:48:41.32 ID:XTRl6+g8
朝倉って動くべきところで全然動けて無いという偏見があるから
この動きも浅井主導だったんじゃ…とか思ってしまう

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 11:43:23.04 ID:EluHms2J
朝倉の初動の遅さについて理由も検証されるようになってきたからな
度重なる動員と領外出兵で徐々に統制ができなくなっていったっぽいとか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 15:07:56.65 ID:w1gRc5ll
義景さんは攻めはヒドいが守りはなかなかだろ

織田信長公は信を堅く守る人物であった。しかしそれ故に

2018年09月21日 10:00

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/20(木) 22:38:34.64 ID:myQ+WRsY
織田信長公ご自身は、金石をも欺くほど、信を堅く守る人物であった。
しかしそれ故に、人の非を以ての外に悪まれた。そして臣の職分に違う事があれば、
殊に記憶し忘れること無く、一旦はそれを宥しても、腹の中に籠め、多くの年月を経て
何人かは流罪に処せられた。

一善を賞する時は衆も善を励み、一悪を罰する時は衆は自らの悪を恐れる。況やその類悪であれば
なおさらである。これを以て惟任日向守(明智光秀)は、己がこれまでした事を顧みて、
非義が累積していると感じた。しかし

「それを弁解した所で宥してはもらえないだろう、今はそのような色が見えなくても、今後必ず
戒められるだろう。」

そう思い究め、却って逆寄せして弑したのだ。

自分は忠を尽くしても、人が己に忠を尽くすことを欲するべきではない、という言葉があるが、
これが至当であろう。上下共に旧怨というものは、義を優先して捨てるべきなのだ。

(甫庵信長記)

信長が、自分と同じ倫理基準を家臣にも求めたために結果として裏切られ殺された、という批評。



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/20(木) 23:22:50.07 ID:FJ0UgTgQ
>>186
突然過去のやらかしを理由に追放されたのが林秀貞だけじゃなかったならなおのこと光秀じゃなくても誰かに討たれそうだな

今川の ながれの末も絶えはてて

2018年09月16日 17:27

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/16(日) 14:19:10.26 ID:BFVsBUOo
天正10年の甲州征伐を終えた織田信長は富士遊覧の後駿河へと回り、駿府に到着すると
そこでは徳川家康が假屋を宜しく立ち置き、一献を進められた。

その頃は卯月の十日あまりであったが、今川義元が植えさせたという千本の桜も、花はすっかり
散り去っており、信長は「植え置きし主の栄えも、このようになってしまったな。」とつぶやき、
続けて思い浮かんだ一首を詠んだ

『今川の ながれの末も絶えはてて 千本の桜ちりすぎにけり』

(甫庵信長記)

ここから信長の「桜」が散るまで、4ヶ月あまりであった



信長は彼が陪臣であるにもかかわらず

2018年09月15日 19:05

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/15(土) 13:14:52.04 ID:134JHZze
天正9年3月26日、若狭の逸見駿河守(昌経)が病死した。彼の所領は八千石であったが、
相続すべき実子が居なかったため、織田信長の命により、そのうち三千石は武田孫八郎(元明)へ、
残りの五千石は溝口竹(秀勝)に与えられた。この溝口は後に受領して、伯耆守と名乗ったが、
彼は惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)が幼少の頃より取り立てた者で、普段より正意誠心にして
武道を心がけ、何事にも心を尽くす人物であったため、信長は彼が陪臣であるにもかかわらず、
五千石を与えたのである。

このように信長は、陪臣であってもそういった人物であるなら賞禄を与えたため、彼の配下は
上下の区別なく功に励むこと、日々新にして、日々に新に、また日々に新たなりとも申すような
雰囲気であった。

(甫庵信長記)

直接の部下でなくてもきっちり評価してくれる信長公であった。


汝の不明は私の不明

2018年09月14日 10:36

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:27:15.75 ID:pFVibWI+
ある時、織田信長の元へ、村井長門守(貞勝)が、鏡屋宗白という者を召し連れ、
彼は手鏡を信長に献上し、御礼申し上げた。

信長はこれを取り上げて眺め
「非常に明白な鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡であればなあ。
世の癖として、諸侯大夫、寵臣たちの為したことは、良いことも悪いことも、
人は皆極端に語るために、却って心を暗ませるという事が、日々月々に悪化している。
しかし行いの悪さを諌めるという事はしない。
そういう事に左右されない諫臣を求め得なければ、政道の実態を聞くことは出来ないのだ…」

などと物思いにふけりながら、ふと鏡の裏を見るとそこには『天下一』と銘があった。
これを見て信長たたちまち気色が変わった

「去る春、どこかの鏡屋が献上してきた鏡にも、裏に『天下一』と銘があった!
『天下一』はただ一人であってこその、一號にてあるべきなのに、二人あるというのは
猥りというものではないか!
これ偏に長門守、お前の不明より起こったことだ。そして汝の不明は私の不明なのだぞ!」

そう、殊の外悔やむ様子であった。

(甫庵信長記)


腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり

2018年09月11日 17:17

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 21:40:00.05 ID:kgqM6l2n
織田信長が有る時。安土城の御物預かりの者を召して、

「(信長の御物である)武具小袖、錦糸扇子等を、価値の高い順に千種広間に並べ置くように。
楠(信長の右筆である楠木正虎か)は給人帳(信長が禄を与えた者を記録したもの)を持ってくるように」

と命じた。
翌日、「その事調い候」と申し上げると、信長は給人帳の上下を切って、真ん中の紙に
千種広間に置かれた御物を書かせた。それが終ると三つに別れた給人帳を再び元に戻し
これを開くと、そこには

『扇筒井順慶』『小袖十村田吉五』『馬正林坊』

という具合に、御物と給人の名前が並んだ状態になっていた。

これを見た信長は「こんな高下(ランク付け?)になったか!」と、お腹も背中も切れてしまうかと思うほど
大爆笑し、あまりに笑いすぎて呼吸が苦しくなり倒れて転がる有様であった。
(斯様に高下ある事よとて、腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり)

万座も一入興に入り、笑いを含んだという。

(甫庵信長記)

御物の名前と家臣の名前をドッキングさせる遊びが信長のツボにはまって、呼吸困難になって
ヒーヒー言いながら転げ回るくらいに爆笑したらしい。ちなみに名前とドッキングした御物はその者に与えられたそうで。

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 06:08:45.23 ID:shsob15l
>>275
かわいいな
上司にしたい

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 13:11:12.76 ID:OkP/KYSh
>>275
何がそんなに面白かったのかわからんw

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 18:56:19.42 ID:bJM+QjnP
惟任日向(・・・今なら言上しても殴られないかな?)

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 19:00:52.86 ID:ucgBqjD7
>>277
御物と大名小名たちの組み合わせのギャップでしょ

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 00:26:40.23 ID:7ozAjbvN
絶対周りも空気読んで愛想笑いしてる

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 00:56:06.11 ID:zs9vkfK6
ちゃんと物をくれるあたりがさすが信長

一生の期はここにあり

2018年09月06日 21:10

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 07:40:35.46 ID:4nhJDA70
織田有楽の子、河内守(長孝)の所へ出入りする浪人に鈴木道休という者があり、彼は以前には
侍の役も勤めた者にして、大名貴人であっても侮らせないものがあった。

或る時、河内守の所にて人々寄り合い咄の有った時、河内守弟の左門(頼長)が鼓を鳴らした。
道休はそれを褒めたのだが、その褒め方が気に入らなかったのか、左門は鼓を道休に投げつけた。

道休もさしもの者故、その場にて左門を討ち果たそうとしたが、大勢が押し留めあつかいとなり、
その場は治められた。

道休はこの時不首尾に終わったため、返報の機会を待っていたが、その冬、大阪冬の陣が起こった。
織田左門は大阪城へ向かい、道休はこれをつけた。しかし左門は大名故に、道中で襲撃すること
叶わなかった。ここに於いて道休は思い究めた

「私は既に年老いている。もはや左門を討つ機会はないだろう。明日は左門が城中に入ってしまう
以上、一生の期はここにあり!」

そう言って、枚方において切腹した。

その後、織田左門はどう思ったのか、無頼漢と成り、冬の間城中に於いて戯け者となって、牛の角に
金銀の箔を貼り、自身はその牛に乗り、遊女にその牛を引かせるなどした。故に城より追い出され、
左門は入道して雲生寺と号して、武士を止めたという。

(士談)



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 10:15:29.07 ID:Ww/zjHKh
かぶいてるな

『運は天に在り、生死は定まる』

2018年09月05日 21:22

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/04(火) 23:29:30.08 ID:NGVt5dhV
天正2年の長島攻めの事、織田軍の荒川新八郎は度々駆け合い、何度も敵を突き退けたため、
非常に疲労しある堤に腰を掛け休息した。そして喉が渇いたため堤より下りて水を手で汲んで
飲んだ所、彼の兜の前立てに付けられていた『運は天に在り、生死は定まる』という文字が
水鏡に鮮やかに映った。

これを見て新八郎は一際心も励み、気も猛くなりて、また取って返し敵陣に駆け入り、比類なき
働きをして討ち死にした。

この時、休息してそのまま引いていれば、命に別状無かっただろう。しかし日頃の志を印として
付けていたため、これを感じこのように剛操な行為を行ったのである。

そして彼のような勇猛な働きが有ったが故に、長島は陥落し、北伊勢五郡を副えて滝川一益へ
与えられたのだ。

(士談)


幾程命伸びた所で

2018年09月04日 17:48

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/04(火) 06:42:27.78 ID:NGVt5dhV
天正2年、織田信長による長島の凶徒退治の時、貴族(信長の一族)多く討ち死にした。
その中に津田市助信成(織田信成)もあった。

信成の乳母人に小瀬三郎次郎清長という者が居たが、彼はこの時体調を崩し、陣屋に伏して
治療養生を受けていたが、信成討死と聞くと、物の具を着けて打ち出ようとした。
彼の郎従たちは「このように所労甚だしいのです、どうかお止めください!」と止めたが

「幾程命伸びた所で!」

そう言い捨て「何れの軍勢が信成を討ったのか」と問うと、振り返りもせずそこへ駆け入り、
馬を乗り放ちて敵5,6人を切り伏せ、自身もずたずたに成って討ち死にした。(我身もずたずたになりて打死す)

この小瀬は織田造酒丞の嫡男であったが、小瀬三右衛門尉の養子として家を継ぎ、尾張春日井郡小幡郷にて
五百貫を領していたが、極めて貧しかった。
その頃、柴田勝家が江州蒲生郡を領しており、「三千貫を参らせるほどに柴田をたのまれよ」と
彼の寄騎になることを誘われたが、

「代々市助家の家臣であり、どうして禄が豊かだからといって他に忠を成すでしょうか」

そう固く断り義を失わず、ついに戦死の功を顕した。

(士談)



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/04(火) 16:18:14.14 ID:yCWOoY3D
信長の弟が生きてたらまた違った歴史になってたな
特に信與は有能だった、一番信長に愛された弟だ

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 05:04:27.82 ID:NdrGecMC
最後が消えてる

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 14:25:45.77 ID:FXDdffr9
>>88
投稿者です。下から2行目の「 は入力ミスです。申し訳ない

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 15:57:05.24 ID:u9h/GRwu
信長の弟、一向一揆とのだから戦いで死にまくってるよな。
なのに信長は顕如が降伏してきたら、あっさり許してるし。
信長ってイケメンキャラだよな。

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 20:56:23.57 ID:MWzlI9b3
信長に家族愛とか一族愛とかあったのだろうか。
家臣や領民を労わったり情を示す話はいくらかあるが、一族に対しては聞いたことがない。
息子にすら、思いつきで変な名前つけるくらいだし。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 21:07:21.63 ID:VF4CIbvP
長島一向一揆で弟殺した一向勢皆殺しとか?

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 21:10:53.91 ID:G228q1j6
>>92
なんだかんだ、一族をそれなりには重用したよ。

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 22:34:52.10 ID:1WbwG0Kh
>>92
反抗した義兄と弟は一度は許してるね

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 23:24:33.42 ID:V05fc2qi
あの時代武士の子なんて親兄弟とは大して会わないからそんなに親愛の情もないだろ
恒興とかの方が関係深そう

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/08(土) 07:58:29.66 ID:2tdKSWZ8
>>92
息子の名前についてはありきたりな名前で無い所に
信長なりの愛情を感じないでも無いかな
信雄の伊賀のやらかしで思いっきりブチキレこそしたけど
実際に縁切りや処罰までは至ってないし

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/08(土) 10:03:17.08 ID:P3EW1Rpx
>>92
家族親族に甘々で有名なんですが?

武器がなくてもどうということのない伊東七蔵さん

2018年09月01日 21:24

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 23:21:25.07 ID:Nd9a42yo
織田信長が江州小谷城を攻めた時、織田方の伊藤七蔵は一番に乗り上がった。
しかしこの時、七蔵の上帯を下人たちがしっかりと掴んで彼に続いていたのだが、
それに耐えかね上帯が切れ、彼の刀脇差も下人たちと共に落ちた。

しかしそんな事で
伊藤七蔵は少しも動揺せず、無刀にて塀を乗り越え、傍らの柵の木を取って
3人打ち伏せた。

この事は無類の剛勇であると、信長も大いに感じ入ったという。

(士談)

相変わらず武器がなくてもどうということのない伊藤七蔵さんであった。



246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 23:34:53.60 ID:jNOLOAtT
やはり丸太は最強・・・