666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 19:54:36.66 ID:Ofct1FS2
(柴田勝家自害後)
秀吉卿より諸侯大夫、その他馬廻小姓中へと端午の祝儀として美酒肴がおびただしく下し賜れた。
秀吉卿は坂本に10余日御滞留されたが「権六郎(柴田勝家の子)と玄蕃(
佐久間盛政)は洛中を
引き渡して六条河原で生害するように」との旨を浅野弥兵衛尉(長政)へ仰せ出されたことにより、
その沙汰に及んだ。権六は是非に及ばず、その様子は骨髄に徹して見えたのであった。玄蕃は曰く、
「中川(清秀)を討ち取った後、勝家の下知に任せ早々に本陣へ引き取っていたならば、どうして
この期に及んだだろうか。戦功をまっとうして上方勢を侮らなければ、秀吉を今の私のようにして
いたというのに。果報甚だしき筑前であることよ」
と言ったので、浅野はこれを聞いて数々の悪口をすれば、玄蕃は振り仰いで、
「大忍の志をおのれらに言って聞かせるのもどうかと思うが、そもそも頼朝は虜の身となり池の尼
(池禅尼)の便りで許しを受け、後に平家を攻め平らげて父の仇を報じたのだ。生きて封候を得ず、
死して五鼎に煮られようとも侮らない。これが偉丈夫の志ではないのか! 知らぬのだな!」
と言って浅野を睨み付け大いに叱り、「あっぱれ大剛の者なり!」と人は皆感心し合ったのである。
玄蕃は「所詮夢なり」と言って硯を乞い、一首をこう詠んだ。
「世の中をめくりも果ぬ小車は 火宅の門を出るなりけり」
玄蕃は途中で表情を変えることもなく首を打たれた。“鬼玄蕃”と言われたこともあったというのに
(このような最期を迎えてしまった)。
――『賤嶽合戦記』
秀吉は越前を丹羽長秀に、加賀を前田利家に与えて上洛した。山口甚兵衛(宗永)と副田甚左衛門
(吉成か)は
佐久間盛政を警固して上洛する。秀吉は
浅野長政を使者にして盛政に曰く、
「私は汝の大功を知っているので誅するに忍びない。怨敵の心を翻して私に従うのだ。九州の諸将
は未だ私に属してはいない。汝に肥後国を授けて九州を征伐させよう」
盛政は答えて曰く、
「命を助かり、あまつさえ大国を授けられることは後代の誉れである。私が九州に赴けば、これを
討ち治めるのは1年の内に実現することであろう。しかし、私が上洛して秀吉に対面すれば、必ず
や憤怒を生じ、思わず秀吉を切ることだろう。そうでなくとも肥後に下って謀叛を起こすであろう。
命が助かる恩も国主となる恩も報じずに、かえって災いをなしても良いのだろうか。殊の外の恩で
はあるが、早く死罪にするべきである(返テ禍ヲナサハ可乎トテモノ恩ニハ早死罪ニ可行也)」
長政は帰って秀吉にこれを告げ、秀吉はまた長政を使者にして曰く、
「私に謀があると思うのか。天の照覧に任せて私は偽ってはいない。早く私を求めて従うのだ」
盛政はこれに、
「まったく秀吉に謀があるとは思っていない。勇士たる者、一言を出して翻してはならない。私は
明日必ず車に乗って洛中を一見し、河原で誅されるものである」
と答えたという。秀吉はこれを聞き「勇士の一言は綸言(綸言汗の如し)。もう一度言い聞かせた
としても、従いはすまい」と盛政に最期の衣装を賜った。盛政は白小袖の上に、染物の赤裏が付い
た大広袖を着て車に乗った。その姿は身長6尺、血眼で面は曲見、頬には髭があった。
5月12日。盛政30歳。盛政は洛中を渡り、世に聞こえる“鬼玄蕃”を見ようと貴賤上下は馬車道
に横たわって男女は巷に立ち並んだ。これを見て盛政は睨み回し行き、河原で討たれたという。
――『佐久間軍記』
668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 20:07:43.45 ID:Ofct1FS2
秀吉が佐久間玄蕃(盛政)を御教訓されるために、蜂須賀彦右衛門(正勝)を槇島へ御使者に立て
られて仰せになったことには、
「勝家(柴田勝家)は以上の次第なれば、必ず是非もなしと思いなさるのだ。早く後のことは何事
も目算して捨てられよ。やがて年が明ければ、多くの国が手に入ろう。その時に大国を一国与える
ものである。この上は秀吉を勝家と思いなされば、秀吉も満足するものである」
ところが、思いの外の玄蕃の返事であったと聞いている。
「仰せの次第は承り届けました。合戦の勝ち負けは世間の習いであるものです。勝家に合戦の御利
運があったなら、秀吉を私めの成り行った姿になされたと存じます。しかし、勝家が自害した以上、
玄蕃は浮世に留まりたとえ天下を下されようとも、秀吉と勝家を思い替えるなど思いも寄りません。
自害したく存じますが、心で考え直すと『どのような糾明を受けるかと悲しんで自害したのだよ』
と取り沙汰されれば、屍の上の不覚であるため自害は留まったのです。死罪の体を如何様にも行わ
れよ。さあ早く早く!」
玄蕃はこのような御返事に及んだ。その返事の次第を申し上げれば秀吉は「それは玄蕃に似合った
返事だな。心底を残しなさらぬ事の神妙さよ。君子に二言は無い故、重ねての教訓には及ばず。そ
れならば腹を切らせよ」と、森勘八(毛利高政)を御使者に立てられた。すると玄蕃は申されて、
「秀吉に一言の訴訟あり。ここで首を刎ねられては密かに死んだようなものです。願わくば車に乗
せて縄下の体を上下に見物させ、一条の辻から下京に引き下げさせなさって頂ければ、忝く存ずる
ものなり。その上であれば、秀吉の威光も天下に響き渡るのではないか」
秀吉はこれを聞こし召され「玄蕃の遺言に任せよ」と仰せになり、玄蕃を京に召し寄されて「車の
次第は粗相にしてはならぬ。潔く飾り立てよ」との仰せで、玄蕃の所には「これを着なされ」と御
小袖2重を遣しなさった。玄蕃がこれを見て申し上げたことには、
「忝く存じます。しかしながら、紋柄仕立ての様は気に入り申しませぬ。大紋の紅物の広袖で、裏
は紅絹紅梅の小袖を賜りたく存じます。これを着て車の上に乗り、目立って『あれこそ玄蕃よ!』
と見られるためなり。軍陣の時の大指物ように人目に掛かり申したいのである。紋柄の小袖では、
軍陣の時の鉄砲の者などの指物に似ているようなものである」
秀吉は聞こし召され届けて「最期まで武辺の心を忘れずにいることよな。惜しい惜しい」と仰せに
なり、望みの如くのような小袖を2つ用意され、1つは白の小袖でいずれも広袖である。それを玄
蕃の宿へ遣されて差し上げ、玄蕃はこれを戴き紅物の横紋を着た。さて車を差し寄せた時に玄蕃は、
「わざと縄を掛けよ。越前敦賀の在郷で百姓めらに召し捕らえられた時、玄蕃に縄を掛けたことは
天下に隠れなき事である。縄を掛けずに渡されたならば『玄蕃は縄の詫び言を致したか』と見物の
者も不審を思い立てるであろう」
と縄に掛かって車に乗り、一条の辻から下京まで玄蕃の遺言に任せて渡した。京中の上下見物衆は
取り囲んで群衆をなすこと限りなし。玄蕃は「さて、下京の町屋に入れ置け」と申し上げた。
秀吉の仰せには「夜に入ってからまた槇島に玄蕃を遣しなさり、御成敗の次第を昼に行うことは無
用である。夜に首を刎ねよ」と仰せ出され、また森勘八に仰せ付けられて「槇島に着いたらすぐに
野に敷皮を敷かせる。ただちに御切腹召されよ」と、脇差を扇に据えて玄蕃に差し出した。
すると玄蕃は「腹を切るなどということは、世の常のよくあることでしょう。腹を切るくらいなら、
どうして今日の車の上で縄を掛けようか。この上から縄を後ろ手に回して、よく縛められよ」と申
されたが、昼の高手小手の縄で縛めたまま、玄蕃の首を刎ねた。勘八殿は玄蕃の遺体を念を入れて
よく納め置き、この後に石堂を据えて玄蕃の墓印に定め置かれた。
秀吉が玄蕃を槇島に長く御置きになったのは、玄蕃を惜しく思し召され「長く置けば心も和らぐだ
ろう」と思し召されたためと聞いている。秀吉直々の御教訓をなされれば、おのずと玄蕃が申し上
げることもあるだろうとのことであった。しかしそうはならず、この通り彦右衛門を遣されて君子
に二言は無しと思し召されてこのあらましと、相聞こえ申し候事。
――『川角太閤記』
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 20:03:01.87 ID:J4Ys0hA7
>>666
面白い違いだ