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当時の武将間の呼び名について

2022年09月29日 15:52

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 19:20:21.19 ID:TRfck96B
大した話ではないし悪い話でもないが>>602の関連で
利家夜話』より
当時の武将間の呼び名について

越中魚津の城を北国の軍勢が柴田修理(勝家)を総大将にして取り巻いたとき、越後の上杉景勝が後詰めの軍勢を出してきた
その日の先手を求めて柴田伊賀、佐久間玄蕃、佐々内蔵介がいさかいを起こしていたので、(前田)利家が争いを納めようとした
そこに柴田がやってきてその話を聞くと、又左(利家)が仲裁に入っているのに「倅(せがれ)供」がなにを言うのかとお叱りになった

少なくとも織田家では寄り親のことを寄り子は「親仁(おやじ)」と呼び、寄り親は寄り子のことを「倅(せがれ)」と呼んでいた様子
いまも職人や渡世人の世界に色濃く残る疑制的親族関係ですが、戦国の時代はより濃厚だったのでしょう
こういう当時の口語的な呼び方が史料に残るのは比較的珍しいので、ご参考までに



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鬼と虎と秀成と

2021年11月17日 17:43

794 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/16(火) 22:59:22.27 ID:7UcW+FxV
鬼と虎と秀成と

賤ヶ岳の敗戦後、捕縛され宇治槙島に移送された佐久間盛政に中川清秀の子中川秀成が面会に来ます。さぞかし親の仇と罵るかと思われた中川秀成だが「武人の戦いの勝ち負けは時の運、父はあなたに敗れあなたは秀吉の前に捕らわれたが共に立派な武将だ」といって丁重に挨拶しました。佐久間盛政はこの事に感動し「敵将の息子ながら天晴だ、自分の一人娘虎姫もあのような青年に嫁げれば...」と言い残して処刑されます。この事を聞いた羽柴秀吉(豊臣秀吉)のはからいで虎姫と中川秀成が結婚し秀成はやがて豊後国竹田で岡城(現在の大分県竹田市)城主・大名となり夫婦の仲は至って良く嫡男久盛をはじめ多くの子宝に恵まれました。
7人目の子を妊娠した虎姫は夫秀成に願い事をします。「もし今度の子供が男子ならば、その子に亡き父盛政の佐久間家を継がせたいのです。」
生まれた子は男子でした。ところが虎姫は産後の肥立ちが悪く間もなく死んでしまいました。
しかし秀成は妻との約束を守ります。秀成は生まれた子を内記と名付けると、佐久間盛政の弟である佐久間勝之に養子に出しました。勝之は内記を養育し元服させて『佐久間勝成』と名乗らせ自分の娘と結婚させました。
ここに盛政流佐久間家の復興は成りました。この盛政流佐久間家は竹田に居住し中川家の親族衆として存続し明治まで至りました。
余談ですが虎姫は息子である嫡男の中川久盛にも頼みごとをしていました。それは「亡き父佐久間盛政の菩提寺を建立して欲しい」ということでした。
久盛も母の死後、約束を果たしました。
菩提寺の名を『英雄寺』と付けて...

大分県竹田市に伝承された話



795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/16(火) 23:05:36.22 ID:mOzRPKhG
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-19.html
豊臣秀吉と佐久間盛政・いい話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6355.html
虎姫の戦い

佐久間盛政と二曲姫

2021年11月07日 16:14

771 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/07(日) 15:42:07.17 ID:zqCg70Kl
佐久間盛政二曲姫
二曲姫は鳥越城の戦いで盛政と激闘を演じた鈴木出羽守の娘である。
父親と兄弟は和睦交渉で赴いた松任城で柴田勝家(史料によっては佐久間盛政)に謀殺され、鳥越城の陥落時に捕虜にされた。
城を攻め落とした佐久間盛政から婚姻を迫られたが拒絶し故郷で尼になることを願い出た。
盛政はその願いを聞き届けて姫を解放した。
その後、一向一揆残党が再び挙兵して鳥越城を奪還したが盛政軍に再び攻め落とされた。
盛政軍が残党狩りを始めたことを知ると自分も捕縛されて殺されるだろうと覚悟し自害した。
想いを寄せていた二曲姫を失った盛政の怒りは強く、さらに徹底した残党狩りに繋がったという。
地元石川県白山市に伝承された哀話。



773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/07(日) 20:41:28.71 ID:gNLIs54R
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-19.html
中川秀成のように父親の仇と縁組しようと思う方が珍しい

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/07(日) 22:23:04.57 ID:FeOxBh8Q
秀成はモラハラ男だったか

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/07(日) 22:38:09.82 ID:DqnQohIU
次男で跡取りではない予定だったしなあ

かの藤吉猿面郎が方へ連れ行き

2020年12月18日 18:10

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 15:21:42.04 ID:Z7QWz4kr
佐久間玄蕃允盛政は、二十一日の合戦(賤ヶ岳の戦い)では、険阻を隔てて、柴田勝家と合流することが
出来なかったため、蔵王の社を出、北ノ庄城の後巻(救援)のために加州に赴いた所で、中村の郷民たちによって
取り囲まれた。盛政はこれを見ると
「我既に運命尽き、又戦ったとしても利はない。かの藤吉猿面郎が方へ連れ行き、一言云うことが有る。」

そう言って彼等に捕われた、そして北ノ庄に連行されると、これを見た浅野弥兵衛長政は云った
「君は鬼玄蕃と言われたほどの人ではなかったのか?何を以てか死することを得ないのか。」

これを聞いた盛政は咲って云った
「汝は愚かである。源頼朝は大庭景親に負けてふし木の中に隠れ、義昭将軍(原文ママ・義稙の事か)は
細川政元に囚われて幽閉されたが、ついに免れて大功を立てた。将たるもの、どうして容易く敵に死を
免ずる事をするだろうか。」
(汝ハヲロカヤ、源頼朝ハ大庭景親ニマケテフシ木ノ中ニカクレ、義昭将軍ハ細川政元ニトラハレテ
ソノカコミヲウクトイヘトモ終ニマヌカレテ大功ヲ立テタリ。将タル者何カ容易ク敵ニ死ヲ免スコトアランヤ)

聞く者皆、舌を鳴らしたと云う。

佐久間軍記



768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 15:45:49.31 ID:h8twP6Rp
舌を鳴らすって当時はどういう気持ちの表れなんだっけ
今だとねこを呼ぶ気持ちの表れだが

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 17:59:33.49 ID:Z7QWz4kr
>>768
この場合はおそらく、佐久間盛政が秀吉軍の前で不敵なことを言ったので舌打ちした、という感じかと。

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 18:31:59.74 ID:a6o/ts1Y
>>769
なるほど、不快で舌打ちしたったことね

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/19(土) 09:50:00.40 ID:re0CaR1W
賞賛だろうに

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/19(土) 12:50:51.45 ID:V1a9YlEB
賞賛だよね

これによって柴田は敗北した。

2020年07月20日 18:31

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 14:19:10.63 ID:ZrmSldMr
天正十一年四月二十一日、近江北部において柴田勝家、羽柴秀吉の両陣が相向かい睨み合っていた。
柴田は賤ヶ岳を攻め落とし、籠もっていた人数を討ち果たし、この時に合戦を企てた所、柴田方であった
丹羽五郎左衛門(長秀)、前田又左衛門(利家)が秀吉に属し、柴田の備に手勢を出し、これによって
柴田は敗北した。

秀吉はこれを追い、越前へ討ち入り、柴田居城へ押し掛けた。敗北の士卒が未だ城に戻っていない間に、
柴田の城に火を懸け、同二十四日に柴田が切腹したため、越前は平均となった。

柴田の妻女は城を出ず焼死された。これは織田信長の妹で、浅井備前守(長政)の後室であった。
この腹に浅井の息女が二人(原文ママ)あった。彼女らは乳母の才覚によって無事に城から出られた。
大阪の秀頼の御袋(淀殿)、並びに江戸将軍の御台所(お江の方)がこれである。

当代記

前田利家だけじゃなくて、丹羽長秀も本来柴田方だったという受け取り方も有ったのか…。



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 19:06:38.05 ID:AS+ANcNz
>>208
のちほど腹わたぶちまけた逸話があり、長重もひどい目に遭わされてるからなのかな
利家は優遇されてるけど

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 16:29:36.08 ID:vNuSlIAR
長重は酷い目にあったから大成したわけだしあれで良かったのさ。
じゃなかったら利常とのエピは発生してない。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 21:21:32.00 ID:pwPPcnwp
>>210
にしても、賤ヶ岳や小牧長久手にも出陣し、
しかも小牧長久手は長秀の代理での出陣だからその時点で半ば家督継いでいたようなものなのに、
長秀が亡くなって正式に相続した途端に難癖つけられて、123万石→15万石→4万石の大減封はありえん…。
織田信雄が100万石→0になったのよりも減っているって、凄まじい。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:27:07.78 ID:AxVMh1z5
>>212
柴田も丹羽も、秀吉には邪魔だったんだね
佐久間が追放されてなかったらどうなっていたか
関連で、羽柴姓の由来ももうちょっと、真面目に考察した方がいいと思う

第一次鳥越城の戦いと鬼玄蕃の活躍

2020年06月23日 17:20

304 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/23(火) 14:47:54.63 ID:eVb1P6yE
第一次鳥越城の戦いと鬼玄蕃の活躍

※管理人注
こちらのリンク先のブログにある記事と同文同内容でしたので、ブログの方でお読み下さい
http://hannkotu.blog.shinobi.jp/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E3%80%80%E5%85%B6%E3%81%AE%E4%B8%80/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%96%B9%E9%9D%A2%E8%BB%8D%E3%81%A8%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%20%EF%BC%92



柴田勝家の最期

2020年06月20日 17:47

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/20(土) 11:05:28.43 ID:LeVTVuZE
賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は、北庄の城に馳帰り、籠城の手配をした。
その明日、羽柴秀吉はその城を十重二十重に取り囲み、先ず愛宕山へ登り城中を見渡すと、
種々の紋が描かれた旗、馬印が夥しく押し立てられ、静々と控えていた。
秀吉はこれを見て感歎し

「城中を察するに、柳ヶ瀬の出陣に従わなかった老人、又は女童の、物の役にも立たざる者共に、
敗れ帰りし者共相加わったのであろう。それを巍々しく城を飾りし形勢、流石に武勇を天下に
顕せる柴田程ありけるよ。」

と繰り返してこれを称賛した。
勝家は死に臨み、気象少しも平常に違うこと無く、夫々に功ある者を賞し、やがて腹掻っ切って死した。

名将言行録



柴田勝家の刀狩り

2020年06月19日 18:06

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/19(金) 00:53:50.92 ID:A3E0IVhU
朝倉氏の亡んだ後、越前国では一揆が度々起こり、強敵が蟠り居りけるを、柴田勝家が数年かかって
攻め伏せ、漸く一国平均した。
そうして勝家は村里へこのように触れを出した

『よろず掟を正しくして撫育を致すにつき、自今以後、一揆を起こすべき覚悟が無いという事を
汝らが相断った事、尤も神妙の至である。この事は信長公にたしかに申し上げた。
であれば、汝らの持っている武具は、もはや所持していても益のない物なのだから、少しも残らず
上へ差し上げるべきである。その代わりとして、我等は農具を拵え、各々の望みに任せて、何程も
下し賜るべし。もし兵具の類を隠し置き、なんのかんのと違背するような輩は、心底に悪事を
挟んでいるのではないだろうか。』

そう言い渡した。郷民等に承り届くと、遅参に及べばどうなるかわからないと、弓銃は勿論、太刀、鞍、
鎧等まで己が村中を穿鑿し、我劣らじと持ち参った。
集まった兵具は幾千万とその数を知れず、山のごとくに積み上がった。勝家は鍛冶を召し寄せ、農具に
打ち換えて与えると、国中いよいよ静謐にして、一揆の沙汰は無くなった。

名将言行録

柴田勝家の刀狩りについての逸話ですね。



彼は当地において信長のよう

2019年06月19日 15:10

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 01:30:36.02 ID:dilkD3xh
柴田殿(勝家)は去る5月22日(天正9年4月20日)月曜日に我等を招待した。彼は越前国の半分以上、
及び征服した加賀全土の王の如き人で、領土及びその兵たちに対しては、当地において信長のようであった。
諸人は彼を上様 Vyesama 、その子(養子の勝豊、もしくは勝政か)を殿様 Tonsama と称していた。

饗宴は立派なもので、我等、すなわちダリヨとイルマン・コスメ、および私は各々食卓3つを与えられ、
私一人、食卓の頭(上座か)に置かれ、我等に対し多くの親愛が表せられたため、縁側に居る武士たちは
驚いた。また高槻から我等と共に来たキリシタンたちを別の食卓に招いた。

彼(勝家)はヨーロッパ並びにインドのこと、および尊師(イエズス会指導者)について色々尋ねたが、
ここに記すには長すぎる。また3,4回繰り返して、当所に聖堂が有ったならばキリシタンの数は増加するだろう、
もしパードレ又はイルマンが当地に居らねば、キリシタンと成った者たちは直ぐに失われるであろう、と言い、
ダリヨを招いて、私に市内を見せて良き敷地と認めた所を彼に通知したならばこれを与え、聖堂が出来たなら
恩恵を加えるであろう、と言った、彼の子もこれより先に同じ事を言い、この事について父に話す必要なく、
彼自ら我等の満足する地所を与えるであろうと言った。

(1581年5月29日(天正9年4月27日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

北ノ庄で柴田勝家に対面したフロイスの記録。勝家、領地で上様って呼ばれていたのですな。
そりゃ信長も国掟で勝家を縛ろうとするわ。



23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 14:17:43.21 ID:M0+GVcV7
>>22
もう少し読み込んでみるといい

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 09:37:30.92 ID:3qib0QTB
>>22
国掟が出されても上様と呼ばれていたのかな?w
縛りになってないな

武功を挙げた盛政は

2019年04月13日 12:47

794 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:41:30.13 ID:8euuL6hJ
佐久間盛政は、1554年尾張国御器所に生まれた。
『佐久間軍記』によれば、長じては身の丈六尺(約182㎝)となったとある。
相当な巨漢だったらしい。
盛政は勇猛果敢な武将であったが、微笑ましい逸話も残されている。
『陳善録』によると、まだ18歳の頃のこと、前田利家の家臣村井長頼とともに敵将の首をとるという武功を挙げた盛政は、信長ではなく真っ先に叔父の柴田勝家に首を見せに行ったため、一番首の恩賞を信長からもらえなかったという。



795 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:48:49.39 ID:aHLiQiKX
>>794
確か比叡山焼き討ち直前の金ヶ森攻めの時のエピソードだよね?

796 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:53:12.45 ID:8euuL6hJ
>>795
よく知ってるな!どマイナーEpなのに...
盛政からしたら立場的に一段下の村井長頼と仲が良かったのは意外だったことは印象に残るて

797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 12:41:34.23 ID:aHLiQiKX
佐久間盛政って面白い逸話多いよね~

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 17:47:33.27 ID:w1OWPUsS
地下鉄で有名なあの御器所出身の人なんだ!

玄蕃助は罪多き故

2019年02月23日 17:24

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 13:40:02.74 ID:HxtaoOXS
柴田勝家討伐後)

また勝家嫡男の柴田権六と佐久間玄蕃助(盛政)は先刻、越前府中の山林に馳せたところを生け捕ら
れて来た。そこで後日の戒めのために、隣国方々の城で引き回した(爲後證引廻隣國方々城)。

権六は近江佐和山で誅殺し、玄蕃助は今回の矛盾の主犯格にして罪多き故(玄蕃助今度矛楯張本人而
罪多故)、車で洛中を渡して六条河原で誅殺し、柴田権六の首と同じく獄門に掛けたものである。

――『天正記(柴田退治記)』

最期の美談で知られる佐久間玄蕃だが、柴田退治記には「大罪人だから処刑した」としか記述されず


柴田勝豊の死

2019年02月22日 18:58

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/21(木) 19:29:31.77 ID:SlVLXdW7
柴田勝豊の降参と織田信孝との和睦後)

山崎城で越年した秀吉は元日より播磨姫路に赴き、2日3日の間には諸国の大名小名が袂を連ねて
踵を接し、車馬門前の市をなす。秀吉は朝には礼者に向かって親愛を尽くし、夕には近習に対して
政道を説き、天下の工夫は昼夜いとまあらず。

そうして若君御幼少の間は伯父の織田三介信雄を御名代となし、まず若君を安土に移し奉った。閏
正月初旬に秀吉もまた安土に至り、国々の諸侍は若君への礼儀を調え尊仰をもっぱらにする。あた
かも将軍(織田信長)御在世の時のようで、まことに君臣の礼は諸人の感心するところであった。

秀吉は安土に10余日逗留してその後また山崎に帰り、諸国に陣触して軍兵を集めた。軍兵は長浜
に寄せ来たり、秀吉は重ねて堅固にその人質を取った。

その頃、勝豊(柴田勝豊)は病気が穏やかならず、起き伏しも叶わずに病床にあった。これ故に自
身で出張することはできず、与力に大金藤八と山路将監(正国)を越前の境目に遣わし、片岡天神
山に出城を拵えて修理亮勝家に相対し、秀吉への無二の色立ての奥底を極めて、惟住五郎左衛門尉
(丹羽長秀)と組んで越前の押さえとなった。

(中略。滝川一益の挙兵)

秀吉は引き退いてまた長浜に至り、しばしば帷帳の中にいても心はあらゆる方面に向けられ、夙興
夜寝の謹み浅からず。

はたまた伊賀守勝豊は病気に堪えずにより上洛して、扁蒼の術を尽くしてもその効果はなく、すで
に易簀に及ぶを嘆いて曰く、遺言したのである。

「私は一世の内に再び越州の地を踏んで本懐を遂げるべく、恨みを晴らそうというところで、不幸
にもこのようになった。秀吉が越前を平らげて私の望みが叶えば、草葉の陰の弔慰となるだろう」
(我一世中再踏越州之地復寃可遂本懐之處不幸而如此。秀吉平越前於達我望者可爲草陰之吊慰)

秀吉は涙を押さえて離別を惜しむも、無常の習いでついに勝豊は逝去したのである。秀吉は金銀を
賜って洛中洛外の僧をもって供養し、葬礼法会を行ったことは数えきれないほどであった。

ここに至って秀吉は勝豊の人数を同木山に入れ置いたが、調略の風説があった。これにより木村隼
人佐(定重)が入れ替わり、大金藤八・木下半右衛門(一元)・山路将監は外構に出してもっぱら
これを用心した。すると山路将監の謀叛は次第次第に露見し、将監は妻子を捨てて白昼に敵陣へと
走り入ったのである。

――『天正記(柴田退治記)』


柴田勝家自害

2019年02月13日 17:48

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 00:14:41.65 ID:WTqP41ZB
柴田勝家自害の時)

勝家の家城である北ノ庄に前田又左衛門殿(利家)は真っ先に着かれた。城と寄り口との間に川一つあり。
その川に橋があって“北ノ庄の石橋”と申すはこれなり。

10間ほどの桁行短い淀みの橋があったが、これを渡らずに西の地に“愛宕山”という山があって、又左衛
門殿はその山に陣を取りなされた。そこに御旗本の先手の御人数が早くも到着した。

又左衛門殿の下知により、川端に又左衛門殿の手勢の人数が立てられた。橋口を又左衛門殿は心掛けられ
て一番に渡ろうと思われたのか、先手の御人数さえも橋口を渡らずに、主の手回りだけの人数で橋口を固
められて、又左衛門殿自身はまた愛宕山へ登って待ちなさった。

そこへ秀吉が早くも愛宕山に登りなされた。秀吉の仰せには「軍兵どもは腰兵糧を使え」とのことで、御
使番衆を所々に差し遣されて又左衛門殿へ仰せになり、「城を持ち固める前に攻め入ろう」と御談合なさ
れたところで、北ノ庄城は天守から焼け上がった。

後に城から出た者が申し上げたことによれば、勝家はとても叶わないと思われたということなのか、前述
に申し上げたように、天守へ鉄砲の薬を上げさせて二重に詰め置かれ、御前方(お市の方)やその他の片
を付けて勝家も自害なされたのだ。

勝家は燠掻きに火を入れて前述の時に上げ置きなさったのだが、腹を切ってその火を掛けなされたことよ
と見えて、二重の鉄砲の薬によって爆発すれば、天守の部材は四方八面に跳ね散らし、秀吉御陣取りの愛
宕山へは城から10町ほどもある所にまで、瓦などが虚空を跳ねて来たのである。

(おきかきに火を入右に被上置しか腹を切り其火をかけられたるよと見え二重の鉄炮の薬にてはね候へは
天しゆの引物とも四方八面にはねちらし秀吉御陣取の愛宕山へは城より十町程も御座候はん所にかはらな
とこくうにはねて来り候)

――『川角太閤記』


同道し引き取れば良かったのではないか

2019年02月10日 17:41

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 07:29:58.83 ID:4nGBoZpj
織田備後殿(信秀)からの、息子信長への遺誡のうちに、「大利を得た場合、其の勢いをよく養えば
敵国は自然に滅びるものである。」というものがあった。
この事を柴田勝家はよく知っていた故に、賤ヶ岳の戦いの際、中川清秀の砦の急襲に成功した
玄蕃允(佐久間盛政)に急ぎ引き取れと、使者数度に及んだが、玄蕃はそれを用いず自分の戦果を誇る
様子が見えた。

或いは曰く、このように玄蕃允が下知を用いないのであれば、勝家が早々に進み来て、玄蕃を引き立て
同道し引き取れば良かったのではないか。秀吉ならばそうしただろうと、心ある人は悔やんだという。

(甫庵太閤記)


佐久間玄蕃の最期

2019年02月07日 09:39

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 19:54:36.66 ID:Ofct1FS2
(柴田勝家自害後)

秀吉卿より諸侯大夫、その他馬廻小姓中へと端午の祝儀として美酒肴がおびただしく下し賜れた。

秀吉卿は坂本に10余日御滞留されたが「権六郎(柴田勝家の子)と玄蕃(佐久間盛政)は洛中を
引き渡して六条河原で生害するように」との旨を浅野弥兵衛尉(長政)へ仰せ出されたことにより、
その沙汰に及んだ。権六は是非に及ばず、その様子は骨髄に徹して見えたのであった。玄蕃は曰く、

「中川(清秀)を討ち取った後、勝家の下知に任せ早々に本陣へ引き取っていたならば、どうして
この期に及んだだろうか。戦功をまっとうして上方勢を侮らなければ、秀吉を今の私のようにして
いたというのに。果報甚だしき筑前であることよ」

と言ったので、浅野はこれを聞いて数々の悪口をすれば、玄蕃は振り仰いで、

「大忍の志をおのれらに言って聞かせるのもどうかと思うが、そもそも頼朝は虜の身となり池の尼
(池禅尼)の便りで許しを受け、後に平家を攻め平らげて父の仇を報じたのだ。生きて封候を得ず、
死して五鼎に煮られようとも侮らない。これが偉丈夫の志ではないのか! 知らぬのだな!」

と言って浅野を睨み付け大いに叱り、「あっぱれ大剛の者なり!」と人は皆感心し合ったのである。
玄蕃は「所詮夢なり」と言って硯を乞い、一首をこう詠んだ。

「世の中をめくりも果ぬ小車は 火宅の門を出るなりけり」

玄蕃は途中で表情を変えることもなく首を打たれた。“鬼玄蕃”と言われたこともあったというのに
(このような最期を迎えてしまった)。

――『賤嶽合戦記』



秀吉は越前を丹羽長秀に、加賀を前田利家に与えて上洛した。山口甚兵衛(宗永)と副田甚左衛門
(吉成か)は佐久間盛政を警固して上洛する。秀吉は浅野長政を使者にして盛政に曰く、

「私は汝の大功を知っているので誅するに忍びない。怨敵の心を翻して私に従うのだ。九州の諸将
は未だ私に属してはいない。汝に肥後国を授けて九州を征伐させよう」

盛政は答えて曰く、

「命を助かり、あまつさえ大国を授けられることは後代の誉れである。私が九州に赴けば、これを
討ち治めるのは1年の内に実現することであろう。しかし、私が上洛して秀吉に対面すれば、必ず
や憤怒を生じ、思わず秀吉を切ることだろう。そうでなくとも肥後に下って謀叛を起こすであろう。
命が助かる恩も国主となる恩も報じずに、かえって災いをなしても良いのだろうか。殊の外の恩で
はあるが、早く死罪にするべきである(返テ禍ヲナサハ可乎トテモノ恩ニハ早死罪ニ可行也)」

長政は帰って秀吉にこれを告げ、秀吉はまた長政を使者にして曰く、

「私に謀があると思うのか。天の照覧に任せて私は偽ってはいない。早く私を求めて従うのだ」

盛政はこれに、

「まったく秀吉に謀があるとは思っていない。勇士たる者、一言を出して翻してはならない。私は
明日必ず車に乗って洛中を一見し、河原で誅されるものである」

と答えたという。秀吉はこれを聞き「勇士の一言は綸言(綸言汗の如し)。もう一度言い聞かせた
としても、従いはすまい」と盛政に最期の衣装を賜った。盛政は白小袖の上に、染物の赤裏が付い
た大広袖を着て車に乗った。その姿は身長6尺、血眼で面は曲見、頬には髭があった。

5月12日。盛政30歳。盛政は洛中を渡り、世に聞こえる“鬼玄蕃”を見ようと貴賤上下は馬車道
に横たわって男女は巷に立ち並んだ。これを見て盛政は睨み回し行き、河原で討たれたという。

――『佐久間軍記』


668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 20:07:43.45 ID:Ofct1FS2
秀吉が佐久間玄蕃(盛政)を御教訓されるために、蜂須賀彦右衛門(正勝)を槇島へ御使者に立て
られて仰せになったことには、

「勝家(柴田勝家)は以上の次第なれば、必ず是非もなしと思いなさるのだ。早く後のことは何事
も目算して捨てられよ。やがて年が明ければ、多くの国が手に入ろう。その時に大国を一国与える
ものである。この上は秀吉を勝家と思いなされば、秀吉も満足するものである」

ところが、思いの外の玄蕃の返事であったと聞いている。

「仰せの次第は承り届けました。合戦の勝ち負けは世間の習いであるものです。勝家に合戦の御利
運があったなら、秀吉を私めの成り行った姿になされたと存じます。しかし、勝家が自害した以上、
玄蕃は浮世に留まりたとえ天下を下されようとも、秀吉と勝家を思い替えるなど思いも寄りません。

自害したく存じますが、心で考え直すと『どのような糾明を受けるかと悲しんで自害したのだよ』
と取り沙汰されれば、屍の上の不覚であるため自害は留まったのです。死罪の体を如何様にも行わ
れよ。さあ早く早く!」

玄蕃はこのような御返事に及んだ。その返事の次第を申し上げれば秀吉は「それは玄蕃に似合った
返事だな。心底を残しなさらぬ事の神妙さよ。君子に二言は無い故、重ねての教訓には及ばず。そ
れならば腹を切らせよ」と、森勘八(毛利高政)を御使者に立てられた。すると玄蕃は申されて、

「秀吉に一言の訴訟あり。ここで首を刎ねられては密かに死んだようなものです。願わくば車に乗
せて縄下の体を上下に見物させ、一条の辻から下京に引き下げさせなさって頂ければ、忝く存ずる
ものなり。その上であれば、秀吉の威光も天下に響き渡るのではないか」

秀吉はこれを聞こし召され「玄蕃の遺言に任せよ」と仰せになり、玄蕃を京に召し寄されて「車の
次第は粗相にしてはならぬ。潔く飾り立てよ」との仰せで、玄蕃の所には「これを着なされ」と御
小袖2重を遣しなさった。玄蕃がこれを見て申し上げたことには、

「忝く存じます。しかしながら、紋柄仕立ての様は気に入り申しませぬ。大紋の紅物の広袖で、裏
は紅絹紅梅の小袖を賜りたく存じます。これを着て車の上に乗り、目立って『あれこそ玄蕃よ!』
と見られるためなり。軍陣の時の大指物ように人目に掛かり申したいのである。紋柄の小袖では、
軍陣の時の鉄砲の者などの指物に似ているようなものである」

秀吉は聞こし召され届けて「最期まで武辺の心を忘れずにいることよな。惜しい惜しい」と仰せに
なり、望みの如くのような小袖を2つ用意され、1つは白の小袖でいずれも広袖である。それを玄
蕃の宿へ遣されて差し上げ、玄蕃はこれを戴き紅物の横紋を着た。さて車を差し寄せた時に玄蕃は、

「わざと縄を掛けよ。越前敦賀の在郷で百姓めらに召し捕らえられた時、玄蕃に縄を掛けたことは
天下に隠れなき事である。縄を掛けずに渡されたならば『玄蕃は縄の詫び言を致したか』と見物の
者も不審を思い立てるであろう」

と縄に掛かって車に乗り、一条の辻から下京まで玄蕃の遺言に任せて渡した。京中の上下見物衆は
取り囲んで群衆をなすこと限りなし。玄蕃は「さて、下京の町屋に入れ置け」と申し上げた。

秀吉の仰せには「夜に入ってからまた槇島に玄蕃を遣しなさり、御成敗の次第を昼に行うことは無
用である。夜に首を刎ねよ」と仰せ出され、また森勘八に仰せ付けられて「槇島に着いたらすぐに
野に敷皮を敷かせる。ただちに御切腹召されよ」と、脇差を扇に据えて玄蕃に差し出した。

すると玄蕃は「腹を切るなどということは、世の常のよくあることでしょう。腹を切るくらいなら、
どうして今日の車の上で縄を掛けようか。この上から縄を後ろ手に回して、よく縛められよ」と申
されたが、昼の高手小手の縄で縛めたまま、玄蕃の首を刎ねた。勘八殿は玄蕃の遺体を念を入れて
よく納め置き、この後に石堂を据えて玄蕃の墓印に定め置かれた。

秀吉が玄蕃を槇島に長く御置きになったのは、玄蕃を惜しく思し召され「長く置けば心も和らぐだ
ろう」と思し召されたためと聞いている。秀吉直々の御教訓をなされれば、おのずと玄蕃が申し上
げることもあるだろうとのことであった。しかしそうはならず、この通り彦右衛門を遣されて君子
に二言は無しと思し召されてこのあらましと、相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 20:03:01.87 ID:J4Ys0hA7
>>666
面白い違いだ

彼藤吉猿面郎カ方ヘ我ヲツレ行一言可云事アリ

2019年02月02日 20:01

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/01(金) 23:31:44.36 ID:wYso0K98
佐久間玄蕃允盛政は21日の合戦(賤ヶ岳の戦い)では険阻を隔てて勝家(柴田勝家)に通じる
ことができず、蔵王社を出て北之庄城の後巻のために加賀へと赴いたが、そのようなところに中
村の郷民が赴いて、盛政を取り囲んだ。盛政はこれを見て、

「私はすでに運命尽き、また戦おうとも利はあるまい。かの藤吉猿面郎の所へ私を連れて行け!
一言申すべき事がある!(彼藤吉猿面郎カ方ヘ我ヲツレ行一言可云事アリ)」

と申し彼らに捕らわれた。その後、北之庄でこれを見た浅野弥兵衛長政は「あなたは“鬼玄蕃”
と言われた人ではないのか。どうして死ぬことができなかったのだ」と申した。盛政は笑って、

「汝は愚かだな。源頼朝は大庭景親に負けて節木の中に隠れ、義昭将軍(足利義稙か)は細川政
元に捕らわれてその囲みを受けるも、ついには免れて大功を立てたのだ。将たる者が、どうして
容易く敵に死を許すことあらんや!」

と申し、聞く者は皆舌を鳴らして感嘆したという。佐々源六勝之(佐久間勝之)は勝家に従って
北之庄に至り、その後に盛政のことを聞き加賀尾山へ赴いて北之庄の後詰をしようしたが、兵は
集まらず越中に帰ったという。

――『佐久間軍記』


前田利家うらきりしたる故

2019年01月17日 19:05

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 21:13:33.90 ID:QYRGmbyD
柴田勝家は賤ヶ岳の砦に居たが、前田利家の裏切りのため敗北し、彼はここにて討ち死にしようと
決心していた。しかし勝家家臣の徳山五兵衛と言う者が
「ここで討ち死にしても意味がありません。越前北ノ庄に退かれ、御城にて心静かに御腹を召すべきです。」
と諌めた。勝家もそれに同意し、越前へと撤退した。この時五兵衛は
「天下に隠れなき、勝家様の金の御幣の馬印をお預け下さい。勝家様の御命に代わり、私が
討死いたします。」と申し、言葉通り死を遂げた。

(原文)
柴田しつがたけの取出に居たりけるか、前田利家うらきりしたる故、柴田爰にて討死せんとありし時、
柴田か家臣徳山五兵衛と云もの申けるは、是にて討死し玉はんこと詮なし、越前北の庄へのかせ玉ひ、
御城にて心しつかに御腹召候へかしと諫めけれは、けにもとやおもばれけん、越前さして退玉ふ。
五兵衛申けるは、天下にかくせなき、きんの五弊あつけたまへ、御命にかはり討死仕らんと申て死をとげたり。

(祖父物語)

賤ヶ岳の敗因を、はっきり「前田利家の裏切りのため」と書いているのはホント珍しい。


清州会議

2018年10月07日 16:05

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/07(日) 15:22:44.89 ID:KeNTnhbo
その日、秀吉は勢を分けて丹波亀山城をも攻め取り光秀の長子・十兵衛光慶をも誅殺し、信長公御父子を始め
本能寺・二条御所で忠死した人々を厚く改葬し、それより岐阜へ赴いて、

信長公の長子・三法師丸(信忠嫡子・秀信)に拝謁した。この時、柴田勝家も北国より馳せ上り信雄・信孝も
来会せられ、丹羽・池田などの輩も皆来会したところ、秀吉の計らいで三法師丸は今年わずか2歳ではあるが、

織田家の正統なので主君と定めて信雄・信孝両人を後見とし、信忠卿の御遺命であるからと前田徳善院玄以・
長谷川藤五郎(秀一)を保傅の役とし、三法師丸を安土に移した。また三法師丸が15歳になられるまでは、

信長公の所領の国々を諸将が配分して守護すると評定し、尾張は信雄、美濃は信孝、近江長浜に旧領を添えて
柴田、播磨と光秀が領した丹波を秀吉が預かり、丹波は以前養子と定めた信長公の末男・次丸秀勝(羽柴秀勝)
に授けるとのことだったという。これにつけても「秀吉の計らいは私無し」と言って人々は感服した。

若狭は丹羽、摂津尼崎は池田父子、伊勢長島は滝川に授けて5万石を渡し、3万石は蜂屋(頼隆)に授けた。
その他、近江30万石は三法師丸の賄料と定めた。何事も秀吉一人の沙汰としてなされ、信雄・信孝も一言も

加えること及ばなかった。丹羽長秀らはまったく秀吉の指示のままであえて異論を申す者もいない。柴田勝家
は大いに憤りを含んで秀吉の威権を嫉み、今日の評定の席上でも勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または

衣をかかげて尻を叩くなどして傲慢不礼の有様であった。このため丹羽は秀吉に囁き「ただいま四海は大いに
乱れている。貴殿に大望があるなら早く勝家を討ち果たしなされ」と言った。秀吉は大いに笑って、

「勝家は当家の元老宿将である。傲慢不礼も咎めるべきにあらず」と、少しも心頭にかけない様子に見えた。
さて諸将は三法師丸に拝謝して各々帰国に赴いた時、勝家は秀吉の帰路に伏勢を設けて秀吉を討たんとして

いるとの由が聞こえたので、秀吉は道を変えて早く美濃長松から近江長浜へと帰城した。勝家はこれを聞いて
自身は越前に帰るとして近江長浜を通行するという時に、「秀吉はどんな計略を設けているだろう」と大いに

気を遣い、美濃垂井の道で躊躇して大いに狼狽した。これを聞いて秀吉は大いに笑い、「私が何の遺恨あって
勝家を害するだろうか。心置きなく通行せられよ」と言って養子の次丸を人質に遣わすと、

勝家はようやく安心して木本辺りまで次丸を同道し国境より帰した。この時に人々は皆、秀吉と勝家の優劣を
察した。賤ヶ岳の戦いより前に、早くも勝敗雌雄は現れていた。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/07(日) 15:34:22.16 ID:Pi4MhT5K
>>280
>勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または衣をかかげて尻を叩くなどして
えぇ…w

『お静の涙雨』(またはお静の血の涙)

2018年10月07日 14:58

277 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/06(土) 20:11:11.24 ID:HbSLVMGi
1万以上も記事があるのに何故この逸話がないのかが不思議だから投下。
今回は城の看板から。そのまま書くのは憚れるので、表現を加えたりします。


戦国時代の建築は死と隣り合わせと言っても過言ではない。運んでいた石が落下したり、積んでいた石垣が崩れ落ちるなど、死者は相当なものであった。
そのため、当時は人柱をすることで災害などで破壊されないように城の完成を祈願する目的があった。
この当時、誰が人柱になるかはそれぞれ異なっており、たまたま通りかかったから人柱にされたり、定めた日の1番目にその城に来たから人柱にされたり、籤引きによって人柱にされるケースもあった。


1576年、柴田勝豊は丸岡城を築城していた。
しかし、何度天守閣の石垣を積んでも崩壊したため、人柱を入れることとなった。
そこで選ばれたのが2人の子供を抱えて貧乏な暮らしを強いられていた隻眼の女性であるお静であった。
生活に困窮していたお静はせめてでも子供だけはという親心があったのか、子供のうち1人(2人説もある)を侍に取り立てて勝豊に仕えさせてもらえないだろうかと頼んだ。
勝豊のほうもこの条件で了承し、お静は人柱となって埋められた。


こうして丸岡城の天守閣は立派に完成した。
さあこれでお静の子供も侍に、となるはずであった。
ところが、勝豊はどこぞに転封を言い渡された。(長浜には1582年に転封)
『息子を侍に取り立てるだと?あれは嘘だ。』とばかりに、お静の子供は侍にしてもらえなかった。恐らく転封先でさえ連れて行ってもらえなかったのだろう。


折角自らの命を犠牲にしてまで子供の幸福と城の繁栄と引き換えにしたお静はこの反故に失望と激怒したことだろう。
お静は事実上怨霊となり、藻刈りをする卯月に大雨が降り、洪水が起きたため、人々は『お静の涙雨』(またはお静の血の涙)と呼び小さな墓を建ててお静の霊を慰めた。
(現在でもこの時期に雨量が増えるのは丸岡の両隣に該当する坂井市春江や勝山市が該当している。気象庁参照。)


一方、勝豊はお静が死んだ7年後に死んだ。
どこぞの西国の大名ならば人柱となって埋められたはずの娘が実は生きていたという美談があったものを、結局のところ今回は全員不幸になってて胸糞悪い。


日本国に大いなるうつけたる者三人あり

2018年10月04日 21:35

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 09:12:34.05 ID:mCJF7Uvf
上杉家の侍が織田家の城下に来た。これは直江方(景綱か)より、織田方へ謀の使いとして
派遣された者であった。しかしこの使者は柴田勝家によって捕らえられ、拷問にかけられた。

しかし使者は拷問の中、高らかに笑った。目付けの者これを見て「何故笑うのか」と問うた。

「日本国に大いなるうつけたる者三人あり、よってこれを笑うのだ。」

「うつけたる者とは誰だ。」

「うつけた知音(友人)を知らずして、このような大事を申し通ずるうつけが一人、
またそんな事も辨えず、使いに頼まれたうつけ者が一人、
また味方になるものを敵にするうつけ者一人。
この三人の大馬鹿者が寄り合い、その中で私一人が目壺に入ったのは、おおいなる仕合せと存じ、
これを笑うのだ。」

勝家はこの報告を受けると信長に申し上げた上で、この使いの者を免し様々に馳走し、褒美を取らせ
彼を援助した。

(名将言行録)

上杉からの使者が怪しいので拷問にかけてみたが、「友好国の使者にこういうことするの?上杉を敵に
回す気!?」という内容を言われて待遇を変えた、という所でしょうか。