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関東律儀の風にて、斯くの如し。

2021年06月23日 18:27

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/23(水) 15:40:02.75 ID:WZDH2Cja
関東衆が神流川の戦いおいて、滝川一益に対しあのように粉骨を尽くしたのは、滝川の智より出たものである。
信長公御生害(本能寺の変)の事についての密書が到着した時、滝川の家老達は、「先ず隠密し給え」と、
その情報を隠すことを勧めた。これに対して一益は

「悪事千里を走る習いなのだから、隠せば却って顕れるだろう。信長公より私が関東管領に仰せ付け
られ、手柄次第に切り取るべしとの御朱印を頂戴した。士は義を立てる者であるのだから、弔い合戦の
ために上る私に対しては、加勢する事こそ本意であり、背く士は有るまじ。

しかし、もし隠して上ろうとすれば、滝川は主君から離れた東国を持ちこたえることが出来ず
逃げ上がるのだ、として、追いかけ討ち留めようと申し合いする事必定である。

顕して申し聞かせれば、義を守る士は、却って見届けるだろう。
それでも、もし敵対するのであれば、信長公の追腹と思えば本望である。」

と言うと関東衆を呼び集め、信長御生害の様子を申し聞かせ
「私を上らせ給うのも、上らせなくするのも、各々の心次第である。」
と申した事で、関東衆はこれに感じて、武州の一戦(神流川の戦い)にも、滝川の先陣をして
粉骨した。

滝川は神流川の戦いの後、倉賀野より箕輪城に入り一宿し、そこでの様子も良かったため、関東衆は
いよいよ心を変ぜず、それより松枝に移り、碓氷峠を越えて追分に出て、信州小室へ懸かり、
諏訪へ行き、中山道を経て、七月朔日、勢州長島の城に到着した。
この時、関東信州の、その通路の士大将衆は、何れも一益に人質を出して見届けた、という。

関東律儀の風にて、斯くの如し。

管窺武鑑



276 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/23(水) 19:22:40.67 ID:mKXoheLL
管窺武鑑(夏目軍八定房)
定房は永井美濃守の家臣。父・定吉は上杉家臣。

上杉関連の軍記物。最初に父・定吉が仕えた上杉謙信・景勝の事を記し「上杉記」とも称される。
次に夏目家と縁のある景勝家臣の藤田能登守信吉、定房が仕えた永井家について記し、夏目家についても記す。

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/23(水) 19:30:10.69 ID:mKXoheLL
上記は米沢市図書館の記述ですが
該当する永井尚政は信濃守です
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雀の楽しみを楽しみ候へ

2020年06月21日 17:55

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/21(日) 10:54:20.63 ID:+NODlI7m
滝川一益が関東の管領であった時、山屋敷に亭を造り、閑暇の時はここにて休憩をした。

ある日、広野に鶴が数多下り餌を食らっていた。これを見るに、鶴の中でも番をしている鳥は
四方を幾度も見合わせて、一声鳴く時も用心し、他の鳥とは格別であった。
また植木の枝、亭の軒端には雀多く来て、人をも恐れず餌を食らい、友鳥戯れていた。
一益は近臣に

「あれを見よ、鶴が用心するのと、群雀の何心無きは、人と比較すれば、鶴は私の冥加に叶う。
大名と成り、国郡多く領知して、数万人を我が物にすれども、一言をも遠慮して粗末に言わず、物を食するとも、
膳番目付などと役人が有り、濫りに食うことをしない。夜は寝ずの番、外には夜回り時回りという役人が
有って、我一人寝た後までの用心をし、家中大小上下領内の万民も、我一人を目当てにするのだから、片時も
身を楽々と持つこと出来ない。あの鶴の身持ちと同じことだ。私の昼夜の心遣いを察して見よ。
汝等は鶴を羨まず、雀の楽しみを楽しみ候へ。」

そう言ったという。

名将言行録



一益退去

2019年10月20日 15:53

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 14:12:47.91 ID:WlBR2NHp
天正十年六月十九日、滝川一益は本能寺の変を受けての、北条氏との神流川の戦いに敗北する。

この日、晩景になると敵もそれほど追い打ちをかける姿勢は見せず、一益は敗卒を駆けあつめると、
国衆たちに、もう一度力を合わせ、生死の有無を決する戦いをすべきかどうかという伝令を出した。
しかし皆は「人馬ともに疲れ果て、日も既に暮れている」事で、「明日を待って一戦交えるべし」との
返答であった。一益もこの上は力及ばず、またこのような疲れ武者で目に余る大軍に向かっても
戦果を得ることは出来ないと判断し、国衆たちに触れを出し、速やかに陣払いをすると神流川を渡り、
ひとまず倉賀野淡路守秀景の城へ入ってしばらく休息し、それから厩橋城へと戻った。まさに負け戦であった。

翌日、一益は武蔵野で討死した味方の士卒の供養を城下の寺に頼み、金子百両を渡して回向した。
その後、上州衆を集めると、「この度の戦いで粉骨して働いた無二の志は、生きている限り忘れない。」と
感謝を伝え、それまで預かっていた人質を悉く返すことこそ真の弓矢の道であると、彼等に返した。
そして
「これよりすぐに上洛して、小田原の北条とは和睦をなし、この上の迷惑を、皆にはかけぬつもりである。」
と今後についても話し、繰り返して感謝を伝えた。

それから、今日が今生の別れとなるだろうからと酒宴を催した。二十夜の更待月(ふけまち)がくまなく
城内の庭を照らし、涼しい風もようやく立って、生き返ったような夜であった。
一益は鼓を取って「つわものの交わり頼ある中の…」り今様を謡うと、倉賀野淡路守が
「名残いまはと啼く鳥の…」と和した。
互いに抔を交わして別れを惜しんだが、夏の夜は短く、既に明け始めると、滝川一益父子は
「さらば」と厩橋を発った。
小幡、倉賀野をはじめ上州衆は、返された人質までもが道々に警護に立って彼等を見送った。

明けて二十一日、松井田城に着くと、津田小平次、稲田久藏の兵一千余騎に守られ碓氷峠を越え
信州小諸に付いた、そこで一日逗留し、諏訪街道より木曽路を経て、七月一日、伊勢国の領分、
唐櫃島に到着した。

およそ今度の滝川一益の命運ほど、変転の激しいものはなかった。人が予測できるような事では
無かったのに、一益がよくその中を切り抜け生き残ったのは、彼の処世の上手さも在ったのであろうが、
彼自身の誠意が神に通じたのであろうと、人々は噂した。

(関八州古戦録)

滝川一益の、関東よりの撤退について。一益についてはかなり好意的に描写されていますね。



278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 15:42:28.18 ID:weGQo7Ul
鬼武蔵の撤退についてもあるのだろうか
既出とかぶるかな

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 16:33:40.12 ID:OKDUeII+
有能なのに、なぜかドラマ等では地味な一益さん
伊勢攻め自体が描写されないこと多いし
北勢48家とかなかなかおもしろいと思うんだが

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 18:39:46.47 ID:iGxZu7xH
終わり方がね…

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 22:10:29.82 ID:d2rGB6b5
映画の清洲会議ではそこそこ目立ってた

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 22:47:39.33 ID:4NQZ+C9a
>>279
真田丸ではそこそこ出番が

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 08:46:49.19 ID:5hhUmyRm
一応、一益の最高役職が関東管領だから!

伊藤内蔵という者を討つ

2018年12月18日 18:28

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 17:51:17.65 ID:ZMc4njbi
瀧川左近(一益)が未だ匹夫の頃、伊藤内蔵という者を討つ事を、諸人あぐんでいた。そのような中、
ある宮の拝殿で、内蔵がここに参詣する時必ず座する柱が有ったのだが、左近はここに密かに穴を開けておき、
内蔵が社参した時、この穴より鉄炮で撃ち殺した。

この事でその場の人々は大いに立ち騒いだが、左近はその中を何事もなかったかのように退いた。
しかしこの時刀の鞘を落としていたことに気が付き、これを無念に思い、再び立ち帰って鞘を取って
また退いた。
(武功雑記)

肝が座っているのやら座っていないのやら


滝川辰政の履歴

2018年10月21日 17:33

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 12:25:02.49 ID:D27mfuVN
滝川辰政の履歴


滝川一益の息子(五男とされる)辰政は、のちに池田家に仕え岡山藩士となった。
以下は本人が書いた寛永21年の身上書の抜粋&意訳。

一、祖父(一益の父)のことは存じません。近江国日野郡甲賀にいたということを
  人から聞きました。その縁で父(一益)は信長公から(甲賀を)与えられたのだと
  蜂須賀蓬庵(家政)様の家臣、益田宮内少輔が言っていたので、そのように
  承っています。

一、父は尾張国の賀伊道郷で生まれたそうです。北伊勢5郡と尾張2郡はその縁で
  信長公から与えられたのだと、当時のことを知っている人から聞いたので
  承った通りに書き付け申し上げます。

一、父左近に対して信長公が、関東を残らず与え、日の本(東国)の将軍に
  なるようにと御意があったことを、山上道及が直接伺ったと聞いています。

一、(父が)武蔵野での合戦に破れて帰郷した際、種々の事情で越前に私がいたので
  太閤様(秀吉)からそちらに行くようにと命じられ、(父は)越前まで五分の一
  というところで病気になり、62歳で亡くなってしまいました。

一、私は丹羽五郎左(長秀)殿の養子でした。しかし息子の丹羽長重殿が加賀へ
  転封になったときに、富田左近殿が太閤様にお取次ぎをしてくれました。
  織田上野介(信包)様のところにいた長兄の三九郎(一忠)が亡くなっていたので
  跡目として次兄の久助(一時)と一緒に預けられることになり、仕官しました。

一、(私は)少年のときに小田原征伐にお供し、児小姓の番衆として母衣を指して
  韮山城攻め、小田原城攻めにお供しました。そこで両城での奉公ぶりを
  上野介様に褒めていただきました。

一、朝鮮出兵のときも上野介様に仕えていましたが、備前国の伊部で同僚と喧嘩して
  出奔しました。岐阜少将(豊臣秀勝)様の家臣に津田筑後*の祖父と伊藤豊左衛門が
  おり、2人が以前父に仕えていましたので、その縁で一緒に朝鮮に渡り
  岐阜少将様に釜山海というところでお仕えすることになりました。

一、岐阜少将様が釜山海で亡くなられたので、浅野弾正(長政)殿の指揮下に入ることに
  なり"ちんちう"(晋州)という城を攻めました。落城させた際(私は)城内に乗り込む
  ことが出来たので、弾正殿と黒田如水殿にお褒めの言葉をもらいました。

一、帰国後、石田治部少輔(三成)殿に召し出されましたが、関ヶ原合戦の年の2月に
  暇乞いをしました。同年の4月に金吾中納言(小早川秀秋)様に召し出されました。
  合戦では奉公ぶりを評価されました。(そのことを知っている)存命の者が紀州に
  おり、他にも他国にいる小早川家の旧臣たちの知るところです。

一、小早川家をお暇し伏見におりましたところ、慶長6年8月に荒尾平左衛門(成房)が
  先の津田筑後から(私のことを)聞いて、(池田)輝政様の御意で播州に来るように
  とのことでしたので(池田家に)参り、知行二千石をいただき組頭になりました。


――『池田家文庫 家中諸士家譜五音寄』

* のちに鳥取藩の家老となる津田氏。出自ははっきりしないが織田信張の兄・寛維
 の子孫という。




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 13:24:06.87 ID:s/79RoCk
見切りが上手いな。関ヶ原前に三成の元を去り、秀秋が死ぬ前に小早川家を去って池田家とは勝ち組じゃないか?

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:42:57.37 ID:POkXOWYA
>>379
確かに凄いw

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 18:54:54.60 ID:TnZZlKuJ
信長は一益に関東一円の仕置を本気で任せる気でいたのか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも

名馬を2頭も貰った滝川さん

2018年10月16日 21:16

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 16:15:36.68 ID:aYmZcFzl
天正10年(1582)3月12日に信忠卿(織田信忠)は、武田勝頼父子やその他の首を実検せられ、

滝川左近将監一益の大功を賞し給い、吉光の脇差ならびに“一の日影”と名付けた名馬と金子5百両に
感状を添えて賜り、今回討ち取った首を関加平次・桑原助六郎に持たせて信長公の本陣に参られた。

(中略)

23日、(織田信長は)滝川左近将監一益に対し「今回、武田勝頼父子の首を得たのみならず、軍功は
抜群であるから」と仰せられ、関東総管領を命じて「陸奥・出羽まで賞罰征討を沙汰し、もし決し難き

事があれば徳川殿の御旨を受けて計らうように」と仰せになり、伊勢の本領五郡に添え信濃佐久・小県
二郡を賜り、上野厩橋城に居城するように命じられ“海老鹿毛”という駿馬に脇差を添えて下賜された。

諸人羨まざる者なし。

――『改正三河後風土記』

名馬を2頭も貰った滝川さん



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 16:42:50.36 ID:hDUMUMtw
>>363
ここで徳川の名前を出してくるのが、いかにも三河な資料…

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 17:41:00.85 ID:3Zo5jnv6
関東管領といえど所領は伊勢と信濃の分国、北条から見ると笑っちゃうレベル

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 17:55:24.80 ID:fORrQkXO
上野は?滝川の指揮範囲全部で100万石近いのでは?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 19:29:05.65 ID:ITZGz8H9
担当地域と領地が違うってのは、考えてみれば北条と似たようなものか

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 20:25:23.08 ID:wqAxIbJP
>>366
指揮範囲はともかく、現実としてはほとんど領地を持たず厩橋城などのいくつかの城を確保しているに過ぎなかったので、徹頭徹尾織田政権の存在を前提とした関東管領だな。滝川は。

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 06:53:08.18 ID:HviX83N+
傘下の豪族が日和ったら籠城するしか打つ手なくなるよね

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 09:35:00.72 ID:ODXOLop4
そんな事したらその豪族が滅ぼされる

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 12:14:10.41 ID:/rA8Mwv+
信孝は岐阜に籠城するしかなかった

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 23:31:50.48 ID:X8J89QXk
滝川「馬より茶器が欲しい…」

神流川の戦い、戦後

2018年10月13日 17:06

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 16:15:45.83 ID:asM7S4h2
(神流川の戦い敗戦後)

厩橋城に引き返した滝川一益は、今日討死した人々の姓名を書き記して金銀を添え城下の寺院へと送り、
追善供養を頼んだ。その後、一益は上野衆を招き集めて終夜酒宴を開き、自身で鼓を打って謡を歌った。
その後、一益は扇を取り直し「兵の交り頼み有る中の酒宴哉(謡曲『羅生門』の一節)」と歌い舞えば、

倉賀野淡路守(金井秀景)も拍子を取り「名残今はと啼く鳥の(謡曲『源氏供養』の一節)」と歌って
互いに興に乗じた。さて一益は太刀・薙刀ならびに金銀や、その他日頃秘蔵した書画・珍器を尽く取り
出し、上野衆に授けて今日の一戦の功労を賞した。一益は鳥鳴く空も明けると暇乞いし、

「厩橋城を打ち立つ」と言って、人々の人質をすべて各領地へと帰した。上野諸将は皆一益の大勇義信
に感動して涙を流し、倉賀野まで付き添い送った。沼田城では真田安房守(昌幸)が郊外に赴いて迎え、
厚く馳走し諏訪まで送って来た。一益は始めは木曽路を気遣っていたのだが、

木曽左馬頭(義昌)も一益の義勇に感動したのか軍勢を数多差し添え伊勢長島の一益の所領まで送った。
一益が難無く帰国したところ早くも光秀は誅に伏し、三法師丸(織田秀信)は織田殿の家督として安土
に在城していたので一益は安土へ参り拝謁し、つつがなく居城の長島へ帰った。

世人は一益を称して“鬼滝川”と字せしという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い一日目
神流川の戦い二日目



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 18:08:58.32 ID:7+dcbMCb
鬼滝川
神流川

字面的にあってるような

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 20:57:54.90 ID:06zbrJY1
コロッケの弟子の神無月がなんだって??

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 21:50:37.32 ID:JrNRmdHT
立ち振る舞いが爽やか過ぎるのが一益の美点であり欠点だったんだろうか
酷い立ち回りだが武略知略を感じさせる鬼武蔵と逆だったらどうしてたか気になる

神流川の戦い二日目

2018年10月12日 20:16

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:18:19.04 ID:fnyKwghu
(神流川の戦いの時)

北条方は先手の敗北により二陣を差し向け、滝川一益はこれを迎え撃たんと逞兵3千余人が神奈川(神流川)を
背に敵を待ち受けた。北条勢は尽く坂東生まれの馬達者であり「上方の小勢何程のものか! ただ蹴り散らして
捨てよ!」とまっしぐらに打って掛かる。

滝川方は小勢といえど死を覚悟した者どもなれば、掛かりに掛かって息をもつがず喚き叫んで苦戦した。そこで
北条勢は偽って走り、小勢を真ん中に引き込んで包み討ち取らんとわざと逃げ走ったが、あまりに激しく追い

立てられ思いのほか討たれる者少なからず、滝川方は後陣の備になだれ掛かり氏直の本陣までも友崩れして逃げ
ようとした。そこへ冑山の方に陣を取っている総大将・氏政の先陣・伊勢備中守貞宗や芳賀伯耆守正綱を始め

1万余騎が北条美濃守氏親を先手の部将として神奈川を馳せ渡り、滝川勢の後脇から例の騎馬達者の坂東武士が
鬨を作って馳せ立てた。滝川儀太夫(益氏)始め津田・岩田・粟田・太田などの逞兵どもは、堅を破り鋭を砕き

奮戦するもついに駆け負けて敗走した。この時、一益は大声を揚げて「死生命あり! 運は天にあり! 坂東武者
との合戦は今日が始めなるぞ! 卑屈な振舞いで織田殿(信長)の御名を汚すな! ただ引き組んで討死せよ!」

と命じ、津田・粟田・太田などの勇士どもは「仰せになるまでもなく!」と馬の鼻を引き返して3千余人は大山
の崩れるが如く馳せ掛かる。北条方は大勢なのでひしひしと取り籠めて討ち取らんとするのを、破っては通り

取っては返し奮戦するも、氏親は胸に孫呉の兵法を蓄えた勇略無双の名士である。氏親は正兵・奇兵を入れ替え
攻め戦う。折しも氏直本陣もまた盛り返して大軍が左右より激しく攻め立て、一益も既に危うく見えたところで

津田治右衛門・同八郎五郎・同修理亮・岩田平蔵・同市右衛門・粟田金右衛門・太田五右衛門・篠岡伊右衛門を
始めとして屈強の滝川勢5百余騎が討死し、その他手負いも多いので一益は後陣の上野衆に使いを立てて、

「各々の合力あらば再戦して運の程を試みたい」と申したが、上野衆は「今朝の合戦に疲れ、そのうえ手負いも
多いので今日の再戦は御免蒙るべし」と申し、一益は今は力なく厩橋城に引き返した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』


神流川の戦い一日目
神流川の戦い、戦後
298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:39:04.99 ID:fnyKwghu
>>297
“北条美濃守氏親”は原文ママですが氏規でしょう




299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:26:57.76 ID:X89uqhYO
>>296
大筋は関八州古戦禄あたりと同じだけど、細かいところは違うね。

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:35:21.71 ID:mhQerXtd
>>297
かなりの激戦なのにあまり有名でないような。大河ドラマ花の慶次に期待か。

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:37:00.47 ID:FSB7uYKJ
ドラマ的に言えばこれは勝つ!と思わせるシーン満載な滝川軍が
結局負けちゃう話だからなぁ…

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 23:20:55.14 ID:F7zdw75u
>>298
親と規って崩すと区別つかんもんな

滝川今の一言天晴な盟主

2018年10月10日 19:34

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:45:26.22 ID:87+YFNsB
滝川左近将監一益は織田殿の仰せを受けて関東を管領し、上野厩橋城にあって威名は奥羽までも輝いた。
そこに6月7日の晩景、京都から杉山小介貞次が急使として来たり、織田殿父子横死の次第を告げた。
一益は大いに驚きしばし黙然として伏せ沈んでいたが、ややあって篠岡平右衛門、津田治右衛門、滝川
儀太夫(益氏)の三臣を呼びその事を告げた。義太夫はこれを承り、「これは天下の大事なり。

しばらく隠密に秘せられるのがしかるべきでは」と言った。一益は聞いて、「汝が申すことも一理ある。
しかしながら“好事門を出でず。悪事千里を走る”という諺のようにこれは隠しても一両日も過ぎずに
知られるだろう。他人の口から洩れる時はかえって衆人の疑念を生じ、国中は騒動するであろう。私は

関東所属の諸将を尽く招いてこの事を披露し、これまで預かっていた人質をも返して自身は一刻も早く
上洛し、運を天に任せて亡君の仇を報じる。もし上野の諸将がこの虚に乗じ私を食い止めて討ち取らん
とするならば、それも時節である。一戦して討死するのも義のあたるところ、なんぞ命を惜しまんや。

もしまた諸将が志を変じずに味方すると言うなら、小田原の北条へ使者を立てて北条父子を引き出して
一戦を遂げ、その勝ち負けに構わずに一益は上洛して亡君の弔い合戦をする」と言うと、上野・武蔵の
諸将へ「急いで面議することがあるので早々に参着するべし」と通達した。よって内藤大和守秋宣・

小幡上総介信真・同三河守信尚・長尾但馬守顕長・由良信濃守国繁・真田安房守昌幸・蘆田深谷左兵衛
憲盛・本庄安中越中守・成田下総守氏長・木部宮内定利・上田又次郎入道安独斎・和田右衛門大夫信業・
渋川相模守氏勝・高山遠江守重光・名和対馬守宗元・倉賀野淡路守秀景・五閑刑部らを始めとして、

上野・武蔵の諸将はみな厩橋へと集まった。一益は諸将と対面して、「今度上方で不慮の大変があった。
明智光秀が叛逆して信長御父子は討たれさせ給うとの由の注進があり、一益は急ぎ上洛して亡君の弔い
合戦をせんとす。各々の人質は箕輪城に入れ置いたが尽く返し参らす。各々はこの弊害に乗じて

一益を討ち、それを手柄に北条へ降参せんとするならば只今ただちに一戦して一益の首を進上すべし!
もしまた信義を守り旧約を変ぜず、私めの下知に従わんと思いなさるならば、只今より小田原へ使いを
立てて『厩橋を渡すので北条父子は出馬なされよ。一戦して一益は上洛することであろう』と申し遣わ
すべし!」と言い捨てて奥に入った。その後、諸将は寄り集まって評議し内藤と小幡が一番に進み出て

申したことには、「滝川の今の一言は天晴な盟主と見え、義勇現れしものと覚える。かような事の大切
を少しも包み隠す様子もなく、まっすぐに申し出して我々の人質を返さんと言われては我々はどうして
不義の振舞いができよう。ただ一筋に同意して死生を共にする他ない!」と言い、諸将ももっともだと

これに応じた。その旨を滝川儀太夫を取り次いで返答すると、一益は聞いて再び諸将に対面し「各々の
義信、誠に感悦するところなり。一益は主君の弔い合戦を急ぐといえど上方近くに信雄・信孝の御兄弟
がおられ、柴田や丹羽など譜代の歴々が数多いるゆえ賊臣・光秀が誅に伏すのは一益の上洛を待たない

だろう。ここに北条氏政という表裏者は、信長公御父子が討たれ給うと聞けば早速旧盟を変改し、この
弊害を幸いと一益を討ち取る謀を巡らすのは必定だ。敵に先を取られる前にこちらから小田原へ使者を
遣わし、厩橋を渡すと申し送れば氏政父子は早々に出馬することだろう。その時に一戦して上洛するか、
一益が討死するか、運は天に任すべきと思うがいかがか」と言った。諸将は聞いて「仰せもっとも義の

当たるところ、誰が否と申しましょう」と返答した。よって同じく11日に蔵田小次郎を使者として
小田原へ遣わし、翌12日に小田原へ参りその旨演説すると氏政父子は「これ天運の賜物」と大いに
喜び「早々に出馬して受け取る」と答えた。小次郎が馳せ帰りかくと申せば一益は「そうだと思った。
この上は運の程を試すとしよう」と言って用意した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:13:28.21 ID:CHjRchcL
ええ話というかどこか要領の悪さを感じるな
織田家臣団の中で秀吉や光秀と熾烈な出世競争してきたタマとは思えない
しかも散々こねくり回して負けとるやないか

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:17:47.85 ID:dpeX0mQH
>>333
ここまではカッコイイんだよなぁ…。

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:19:47.68 ID:YIy1byHU
坂井政尚だっけか
息子を亡くし意気消沈して戦死したように、一益も信長という希望を失って気が抜けてしまったのかもね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 22:02:04.57 ID:fsWVmvMn
勝家も一益も還暦前後の爺さんだからなぁ…

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 02:32:41.67 ID:+bk2wro/
>>337
そもそも滝川一益は引退させてくれと信長に頼んでるししゃーない

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 10:22:35.82 ID:yxuOoXB8
絶頂期が終わったら後は下り坂

義太夫が心剛であり

2018年05月10日 18:25

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/09(水) 22:01:45.51 ID:wx5+9+Fx
滝川左近将監(一益)の家臣に、滝川義太夫(益氏)と云う者があり、彼は左近の甥であった。

羽柴秀吉と滝川一益が戦った時、伊勢国嶺城に人数1200ばかりにて立て籠もったのを、
秀吉より仙石権兵衛、木村常陸、脇坂中務、服部采女、筒井なにがし等、八千余騎にて
45,6日に渡り攻めたがこれを落とすこと出来ず、金堀を入れて地中より攻めようとした。
しかし城方はこれに気が付き、城中に、羽柴方が掘り進める方向に横堀を作り、
焼き草に鉄砲の火薬を混ぜてここに入れた。
羽柴方の金堀が城中に掘り入ると、これに火をつければ、金堀たちは残らず焼け死んだ。

秀吉はこれを無念に思い、四万余騎の軍勢にて自ら采配を取り、
「この程度の小城、手で揉んで揉み殺すべし!かかれ者共!」と下知して攻めたが
落とすこと出来ず、48日の間に、秀吉方の死傷者は2万ほどにもなった。
しかし城中も、死傷者7,800人にのぼった。

滝川義太夫は心剛にして隠れ無き鉄砲の上手であった。
この籠城戦、後半は弾薬兵糧もなく、18日間を持ちこたえた。
そのうち、城内では馬や人をも食料としていると、秀吉にも聞こえてきた。

秀吉は義太夫を惜しみ、滝川左近にこのような使いを立てた
『義太夫は城中に弾薬兵糧ももはや無いようだ。押し殺すのは容易いが、あのように
城を今まで持ちこたえたのは、古今の名人である。彼に城を明け渡すように申して欲しい。』

これに左近は「尤もである。私も彼を不憫に思っている。」として、
義太夫に対し使いを立て、『急ぎ城を明け渡すように』と伝えた。
これに対し義太夫は
「左近様の自筆の書状ならば渡しましょう」
と、返答した。

その後、左近は自筆の書状を遣わしたため、義太夫は城を明け渡した。
この時秀吉は義太夫に言った
「左近はどうあっても討ち果たす。お主は我が方へ来い。五万石を遣わす。」
これに義太夫
「忝ない仕合、身に余ることですが、左近が生きているうちは、例え百万石を下されようとも
参ることは出来ません。御免なされ候へ。」
そう断った。
秀吉はこれを聞くと
「汝の心中であれば、左近が生きているうちはこれを見届けるであろう。
その間は、町人にでもなっておけ。」
そう言って、黄金二千枚に感状を添えて与えた。

嶺城は非常に小さな城で、亀山城などに比べると大変に劣るものであったが、これを保ったのは
義太夫が心剛であり、また分別深い人物であったからだと、人々は語った。義太夫はこの頃、
51,2歳であったという。

一方の亀山城には大野左次と言う者が大将として、二千ばかり籠め置かれていた。
秀吉は1万ばかりで押し寄せ、10日あまり攻めると、左次は叶わぬと思い城を明け渡し
滝川左近の居城である長島へと逃げ込んだ。
しかし長島において
「この者比興者である。二十日も城を保てず逃げ来ること、士たるものの所業ではない。」
そう批判され、同国大島という所にて切腹させられた。
惣じてこの左次は、常々心がけが薄かったが。終に主の役に立たず犬死したと、人々は語った。

(祖父物語)



883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 00:09:39.86 ID:I159reua
前田慶次郎の父親?かもしれないとしか知らなかったけど
ちゃんとエピソードあるんだな

少年のときは少年のように

2018年04月25日 15:39

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 00:02:36.86 ID:PxqwokfF
少年のときは少年のように


滝川一益の士に井口又兵衛という武功の者がいたが戦死してしまった。
その子供が十二、三歳になると、一益のお茶取りとして仕えるようになったが
十七、八ぐらいの小姓が無礼をして、井口が持っていたお茶をこぼさせた。

井口は相手に構わず懐紙でよく拭いてから下がったが
その後、次の間に件の小姓を呼び出して刀で突き刺した。
傍輩どもが騒いでこの事を一益に申すと、一益は涙を流し
「よくもまぁ父に似ない奴だ、何の役にも立たないだろうな」
と申されたので、近習の士どもが不審に思い
「井口の振る舞いは老士でも出来ない程のことです。
 どうしてそのようなことを仰せられるのですか」
と申すと、一益は
「だからこそだ。今年十二、十三で老士のような振る舞いをする者が
 年を取って何の役に立つだろうか。少年のときは少年のように
 後先考えず粗忽に働いてこそ、働きぶりがしっかりしているところと
 そうでないところが自然と分かってくるものなのだ。年の功を積んで
 不甲斐ない働きをしてきたことを悔やみ、よく働くようになる者もいれば
 粗忽で勢いだけの無分別な者が、老後に分別が出来るようになることもある。
 若いときと老いてから、そのときどきの拍子序破急があってこそなのだ。
 今から分別しすぎた振る舞いをする者は、年を取った後に隠居や法体
 世捨て人のような士になってしまうだろう。それは私の欲するところではない」
と言われたという。


――『筆のちり』


下総守の判断

2017年05月31日 22:05

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/31(水) 08:17:21.51 ID:Upp9in/W
羽柴下総守(滝川雄利)の家臣に、二蔵三蔵という弓矢にかしこき者があった。
下総守が居城において、城より出て働きがあったが、引き取る所を敵が追尾した。
この時二蔵三蔵は門役をしており、敵が城内に入った所で戸を下ろして、城内に閉じ込めた。
こうして敵は引き取ることもできなくなったが、そこで下総守は下知して門を開けさせ、その敵を引かせ、
討ち取ること無く終わった。

その頃、徳川家康より近藤石見守が下総守の所に加勢として派遣されていた。
石見守は下総守に、何故敵を逃したのかを尋ねると

「あの敵は閉じ込めにあって、死地の兵となっていた。これを討とうとすれば城中の人数も多く損じただろう。
また彼らを討ち取ったとしても戦全体の勝敗に関わらない。それ故である。」

そう答えた。
近藤石見守も武功の勇士であり、下総守の判断に感じ入ったという。

(士談)



969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/31(水) 09:49:09.23 ID:mUX2+cfS
弓矢で打ち取れよ、何のための伏線なんだい?

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/31(水) 12:25:38.54 ID:N5X+zJ2b
どの戦いのことなんだろうな

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/31(水) 13:56:59.83 ID:9KY4AUss
小牧長久手の時かその前後じゃね

滝川はよく察したようだ

2017年05月13日 17:37

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:16:00.86 ID:mIfYNUY+
太閤が岐阜を御攻めになった時のことだろうか。滝川左近(一益)は7寸ほど
の黒の馬に乗り、斥候に出馬した。

太閤は御覧になり、「滝川自身が物見に出るのは夜討ち致す心積もりなのだ。
容易には打たれまいぞ」と仰せになり、太閤の御備に柵を御付けなさった。

滝川はこれを見ると、「秀吉はこちらへ夜討ちする心積もりのようだ」と言って、
その場所から3里引き取った。

太閤はその時に仰せられて、「滝川の備へ夜討ち致そうと存じたが、滝川は
よく察したようだ」との御事であったという。

両方の大将の思慮は、符節を合するが如し。

――『武功雑記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:20:22.70 ID:Wq27HkK7
7寸の馬に乗るって何者?

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:47:13.60 ID:UMYW+heA
>>897
人間の身長と同じで尺を省略してるだけじゃないのかな

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 09:01:40.12 ID:uVKdKg7z
普通のサイズ+7寸 じゃなかったっけ?

901 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/13(土) 10:21:14.93 ID:8PuObztG
標準体高が四尺でそれを超える分を寸で数える

与えなかった者の馬は

2016年07月25日 13:46

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 02:35:17.88 ID:8T2sXMC4
滝川一益が武蔵野合戦(神流川の戦い)に打ち負けて撤退した時、
極暑の頃だったために馬はたいへん疲れ、全身が汗にまみれた。

川を馬に乗って渡る時、馬に水を与えた者と与えなかった者がいた。
水を与えた者の馬は、10町ほどでみな行き倒れたのだが、与え
なかった者の馬は、別段の支障はなかったという。

――『武将感状記』



915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:38:19.20 ID:qe87IzyC
体育教師「よし、運動中は水飲むなよ!」

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:44:13.86 ID:Ej7RqOj7
>>914
なんでだ?

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:47:28.36 ID:qe87IzyC
人間なら水だけで塩分与えないと帰って血中の塩分濃度が低くなり、
血中の塩分濃度を高くするために体外に水分を出そうとして
水を飲むとよけいに脱水状態になるとか

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 08:02:43.74 ID:JZ2D5XOT
水中毒ってやつか
水ばっかり飲んでるとバテるぞとよく言われたっけか

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 17:20:06.39 ID:8xAJT9gO
ノドが乾いても水を飲ませてもらえず
疲れたら馬針で脚をブスブス刺される
戦国時代の軍馬は地獄だぜぇ

滝川一益「服が乾くまで暫く待って下さい。」

2015年10月17日 12:22

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 00:35:30.38 ID:T1GsVD9m
ある老人の語ったところによると。戦国の頃、衣服も質素であったのは言うまでもないことで、
滝川左近一益が関東の管領として厩橋に至ると、諸将が対面のため駆けつけたが、その時

「ただ今一つある衣服の、垢の付いたのを洗ったため丸裸なのです。服が乾くまで暫く待って下さい。」

そう言ったと語り伝えられている。
しかしその後泰平に成って、衣服も美々しくなったが、寛文の頃までは、なお戦国の遺風があって、
金銀や利潤のことを語るのは武士の恥だと心得てしなかったものだ。

酒井雅楽頭忠清が大老であった時、春の末の頃のこと、殿中で下に着ている服が汗で濡れたのを、
休所の欄干にかけて乾かしていたが、その服も所々継当てられていて、とても見苦しいと、
帰宅してから語った。

ところが衣服を司る老女がこれを聞いて
「時が移って君は驕ってしまった!私が生きている間にこんなことになるなんて!」
と、絶句したという。
これは厳有院様(徳川家綱)の時代の事だという。

(明良洪範)



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 09:58:29.29 ID:HCgkqS4U
おあむさんげきおこ

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 10:01:50.91 ID:2u0qoykE
裸に鎧着用で問題なし

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 11:21:48.13 ID:Ot3kUTrA
蒸れ蒸れっすよ

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 17:37:17.09 ID:Usi9GtWj
???「衣服も鎧も必要なし!編み笠ひとつあればそれで十分!」

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 19:34:36.42 ID:r0DXq3kg
天海「時の流れには逆らえんな」

秀吉もこの道理に伏し

2014年05月23日 19:07

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 02:34:43.13 ID:UhcbaXh0
ある時、秀吉が多くの美女を集めて酒宴を行った際に、羽柴下総守(滝川雄利
を呼び出して言うには「合戦で勝利を得て、このように美女を集めて楽しい」
とのことだった。

その時、下総守は刀を抜いて女どもを激しく追い立てたので、秀吉は驚いて、
「何事を仕るのか」と言った。すると下総守は申し上げて、

「まったくもって、ひたすらふざけた事をしているわけではありません。

天下の大敵にさえお負けにならない御大将が、あれら如き女どもにお負けになって
天下の政をもお聞きなされず、そのうえ御病身にさえもなられてしまいましたので
以ての外なことであり、あの女の中にきっと一人か二人敵がいるはずです。

そう思いましたのでただいま切り殺そうと思い追いかけましたが、大勢の中なので
どれがそれとも知り難く思いました」と諫言した。秀吉もこの道理に伏して笑った
ということである。

――『明良洪範続編』





滝川一益の転落

2014年05月23日 19:07

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 19:20:11.04 ID:RWbobTCw
滝川左近(一益)は、関の城、亀山の城、長島の3ヶ所を所領する大名であった。

羽柴秀吉が柴田勝家を攻めた時(賤ヶ岳合戦)、一益は勝家の後巻をしようとしたのだが、勝家敗れるの報を聞くと、
秀吉に降参をした。

後、秀吉と織田信勝との関係が悪化し合戦となった時(小牧長久手合戦)、秀吉に対して抜群の忠節を成そうと思い、
この頃、蟹江城は織田信勝・徳川家康方の城であったが、この城主と内通して心変わりをさせ、一益はこれに入城
しようとした。

伊勢より船に乗って向かった所、蟹江城の周辺ではにわかに潮が引いて、船が着岸することが出来なくなってしまった。
この頃一益は病中であった事もあり、肩輿に乗ってようやく城に入り、従う者達も多くは入城できず、船に乗ったまま
海に漂っている状態であった。

ここに、徳川家康が急襲を仕掛け皆殺しにした。一益の身はあつかいと成り、信雄・家康の味方となって、
秀吉のことを謀ると約束し、生命は助かったが、自身もあまりの事と思ったのか、妙心寺に入って落髪、出家した。
その後一益は、越前において死んだそうである。

信長の時代、天下の政道は4人の手にあった。すなわち柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、である。
滝川一益の武勇は無双の名があって、度々関八州を引き受けて合戦した。関八州の者は、滝川の名を聞いただけで
恐れたほどであったのだが、末に至って散々の体となったのである。

(老人雑話)

滝川一益の転落についての記述である。





滝川さんのちょっとした勇み足

2014年05月19日 19:11

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 20:32:52.16 ID:0+1esdaL
滝川一益が、伊賀国衆を退治したとき、
つづけて甲賀に陣を張り、重ねて信長に使者を立て、
「甲賀衆をこの際、退治いたしましょう」
と申し上げた。

信長はこれを聞き、
「滝川は武勇の士なりと言えども、情を知らぬ。
甲賀は己の本国生地であろう。
例え信長が退治を申しつけたとしても、詫び言いたすべき所を、
是非退治を、と申す様、不道である」
と、言い、その後はあまり賞を与えなかった。

                  『異本小田原記』

滝川さんのちょっとした勇み足の話。




335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 20:37:21.33 ID:K9ROe21Z
滝川さん身内に恨みでも合ったのかね

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:20:06.06 ID:bJIgUvyy
そらまぁ、尾張まで流れていって就職したことを考えると、故郷ではあんまりいいことなかったんじゃないの

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:25:08.88 ID:HCLvtvw2
だから珠光小茄子が貰えなかったのか・・・

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:29:11.27 ID:YDeANWAP
その後はたったの上野一国しか与えなかった

339 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/18(日) 22:32:17.98 ID:EKkKofWP
上野一国って、地理的条件を除けば悪くはないんじゃね?

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:44:20.52 ID:Wh8Oshgl
上野一国って言うけど、信長は上野国衆の領地はほとんどそのまま認めているから、
一益は直接的には厩橋城とその一部の枝城程度しか支配できていないんだよね。
滝川一益の関東支配は、信長の威光あっての限定的なものでしか無く、一益が嫌がったのも
わからんでもない。

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 23:45:33.85 ID:w+UXueac
そんなこと書き込むと現代の真田家当主が悲しむぞ

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 23:51:44.85 ID:AD5N25Fc
最初は認めて~は上野だけの話じゃ無いし

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 00:37:09.87 ID:dkjLWj4b
本能寺の後に上野の国人集めて、光秀を倒すために国へ帰るけど
北条に味方して私の首を討ちたい者は遠慮なく攻撃していい
と言い張った一益は格好いい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 00:52:48.66 ID:VEUi/lf+
>>343
まあ実際には普通に秘密にしてたらしいけどねw
上野の国衆には北条経由で本能寺の件は伝わった。

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 04:43:27.53 ID:onfILAIp
>>340
そういう言い方するんなら、一益がもらったのは「関東」だぞ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 11:03:48.84 ID:XYhB37jT
>>345
だから、権限と実態が乖離しすぎてる、って話じゃないの?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 00:22:31.15 ID:zo2Jw5KY
>>346
直轄領の大きさについての話にしか読めないが

人の徳

2014年05月05日 18:08

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 04:43:19.79 ID:CtjeyP82
人の徳

織田信忠に従い武田勝頼を破った滝川一益は功績により上野と北信濃を新領として織田信長に与えられた

一益は厩橋を居城に定め、上野の国人衆に従来の本領を安堵する約束を行い、合わせて武田家滅亡により
上野に逃れていた武田の旧臣らに対しても「一益は関東には不案内。地の利は生まれ育ったその方らが
断然に詳しいだろうから是非に力を貸してほしい」と融和策を敷いた

信長が本能寺の変で斃れると、一益は上野の主だった城将や国人らを集め
京の本能寺で明智光秀の謀叛により信長親子が死んだ事を述べ
滝川一益は上野を離れ上方へ戻る。信長公の弔い合戦に臨むつもりである。
これを好機と感じこの一益の首を獲り北条へ寝返ろうと思う者は遠慮なく申し出よ。恨みはせん。
戦いを仕掛けてくる者とは一戦交えてでもワシはなんとしても光秀を討ちに西へ進む」と思いを吐いた

北信濃の藤田信吉が離反し
時を経ずに北条軍が上野へと侵攻を開始

一益の漢気に感じ入り「武士の鏡」と滝川一益が上野を離れるのを惜しみ、反北条の意を表した上野衆もいた

一益は上野の国人らを城に招き、別れの酒宴を開くと城の宝物を惜しみもなく与え、箕輪を後にした

一益は北信濃から尾張を目指したが、道中の木曾義昌が滝川勢の通過に難色を示した

一益は真田昌幸らから預かっていた人質を義昌に渡す約定を取り付け、信濃路の通行の権を得た

清洲についた時には一益抜きで織田家の指針を決める「清洲会議」はすでに終わっていた

織田家内での一益の権威は清洲会議を境に大きく失墜したが
森・毛利が全面的に敗走し、河尻が討たれた織田家の東国前線にあって
関東調停役としての人柄を見せた
滝川一益の没落に関してのお話

215 名前:214[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 04:49:47.40 ID:CtjeyP82
「一益は~」の書き出しばかりで読み辛くてすみません

…藤田信吉の所領
北信濃と書いてしまいましたが、もしかして…北上野?




216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 09:25:05.77 ID:IFd5Lhkm
一益帰る前に北条と一戦交えて敗れてるがあれは必要だったのだろうか
軍団率いて信濃は通れなかったとしたら結果オーライだろうが何とも勿体ない

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 10:22:02.79 ID:CtjeyP82
>>216
北条軍は5万、滝川勢は上野衆を交ぜて2万。
上野衆にとっても火事場泥棒に似た北条軍に地元を好き勝手にさせるわけにはいかなかったから
「いくさ」という形での意地(抵抗)を滝川一益への付き合いとして、最後の奉公と上野衆の誇り代わりで
示したのでは?

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 10:24:41.90 ID:CtjeyP82
長野業正の亡き後の上野は軍神・信玄・北条の草刈り場にも似た雰囲気みたいだから…

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 15:48:30.22 ID:PTPkC1JZ
真田昌幸「俺のターン!ドロー!」

滝川一益がいまだ匹夫だった時のこと

2013年10月24日 19:18

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:12:12.73 ID:JWtR0ukI
滝川一益がいまだ匹夫だった時のこと。伊藤内蔵という者がいて、
多くの人がこの者を討ちあぐねていたところ、

一益は思案して、ある宮の拝殿に伊藤が参詣する時に座るところの柱に
穴をあけておき、伊藤が社参した時にその穴から鉄砲で撃ち殺した。

これに立ち騒ぐ諸人の中を一益は障りなく退いたのだが、
刀の鞘を落としたことを無念に思って引き返し、鞘を取って退いた
ということである。

――『名将言行録』




576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:15:30.31 ID:EkpOBQfM
どこからつっこめと

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:35:40.34 ID:I65kX809
ケツからだろう

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:43:53.36 ID:2dc+yolJ
なぜ鞘だけ落としたw

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:57:23.67 ID:F3ZUhnVt
ノブ野望で滝川一益の鉄砲ステータスが高いのはこの逸話のせい?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 19:59:45.10 ID:p0HZ9wCZ
××人皆殺し!とか書いてあるから貶してるのかと思ったら
実は、カッケー!スゲー!!ってアゲてるんだった、なんて話を聞いてから
こういう話をどう受け取ったらいいのか分からなくなった…。

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 20:53:18.98 ID:+3FCDnJC
書かれてないけどこれは上意討ちか何かで、
首をとる必要があったから、その時に鞘を忘れたってことなのか?

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 21:00:15.42 ID:vQURCEwh
穴のあいた柱って残ってないのかな
つか穴あけてる最中に来たら間抜けだな

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 23:34:19.32 ID:UDBh0w+w
いまだ匹夫というか、やり口がまさに匹夫としか

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 00:48:56.43 ID:/qbf96ER
鞘だけ落としたってことは、抜き身で腰に差していたのか?
それとも抜き身をぶら下げて帰ろうとしたのか?

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 04:55:42.87 ID:95vLKmEi
『武功雑記』巻十(p33)にも同様の記述あり
http://bushomemo.blog.fc2.com/blog-entry-700.html
だそうだ