fc2ブログ

先週、二本松城を訪れたところ

2023年03月08日 19:09

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/07(火) 22:57:50.86 ID:7zUYzkh2
先週、二本松城を訪れたところ、本丸に「丹羽和右衛門・安部井又之丞 自刃の碑」というものがあった。
横の立て札を見ると、戊辰戦争での落城に際して自刃した城代と勘定奉行の供養塔だそうだ。

そこには、前者の割腹の様子が「床几に腰を下ろし、膝の上に広げた軍扇に内臓をつかみ置いて、前屈みのまま絶命」
と説明があって、「これ、藩祖(という言い方でいいのかな?)に倣って、ってこと?」と思わずにはいられなかった次第。

いい話なのか悪い話なのか迷ったけど、この他にも壮絶な逸話を聞いた長州人の自分がちょっとバツが悪くなったのでこちらに



スポンサーサイト



清州会議後の情勢と丹羽長秀

2020年04月11日 14:48

969 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 01:21:52.15 ID:CIFVpg9h
秀吉卿は天正十年十月十五日、信長公の御葬儀を相勤め、以来城南の宝寺を城郭と成し(山城国山崎城)、
梁于を畿内に棟、万民を撫育し、城介信忠卿の御若君が信長公の嫡孫であったので、江州安土山へ据えられた。
北畠中将信雄卿を、若君が15歳に成らせ給う迄の御名代と成し、諸事御計らいあったが、これも安土山に
置き奉り尊崇した。頗る君臣親愛の様子が巍然としており、まさに忠臣と言うべき姿であった。

秀吉卿は真に小柄な人物であったが(秀吉卿ハ真小輩之人なるか)、数ヵ国を領するのみ成らず
若君を守り立てるというのも名のみであり、実際には天下の政務はこの人に有った。そのため
故将軍(信長)の如く、威は月を追って加わり、禄は年を追って増した。これ偏に離倫の才知、絶類の武勇に
よってのものである。

然るを、小智小見なる傍輩はこれを妬み、これを悪む事甚だ以て浅からず、とりわけ深く妬み思うは、
修理亮(柴田)勝家に極まっていた。京童のうち、秀吉卿に頼り幸いいみじき者を。柴田方の町人は
羨みつつ、越前に至って秀吉卿の威勢の程を語るため、妬心は日々に生じ怨みは月々に増した。
これ誠に、古今不易の同情である。

これによって、柴田勝家は瀧川左近将監一益と与し、縁者でも有ったので、相談して言いけるは
「秀吉は、今若君を安土に置き奉り、おのれは後見として天下の裁判自由に至り、是非に及ばずとは
この事どもである。彼は、贔屓のものにはその沙汰快しとし、頼る者には粗略がないという。
今、小さな葉の内に切り取らねば、後日斧を用いることに成るだろう(「両葉不去、将用斧柯」の故事)。」
こうして織田三七信孝にありましを申し上げ、秀吉を押し下さんと謀った。

かくて丹羽五郎左衛門尉長秀を「この赴きに与してほしいと御頼みされるべきだ。」と瀧川より指図があり、
信孝より三宅中記が派遣され、長秀へ委細に仰せに成ると、
「秀吉が後見であることを嫌い、他の誰かにその沙汰が及んだとしても、若君幼稚の間は悪口両説を
絶えて申すまじき事、よくよく思召しに成るべきです。」
とだけ申し、しっかりと「与する」という返事はなかった。

長秀はこのように考えていた
「天下の裁判は、中々勇猛に達しているだけでは、古今成らざる例、和漢甚だ以て多い。
武勇を以てすれば、柴田形には十に八、九目出度い事こそ多い。何故かと言えば、第一に柴田は信長公の
老臣において武勇の長であり、殊に北国には前田左衛門尉、佐々内蔵助、不破彦三、原彦次郎などという
歴々の勇者多く有し、その上勝家甥である佐久間玄蕃允、舎弟久右衛門尉、同三左衛門尉、同源六郎、
何れも確かなる者にて、まして武備あり。これ偏に柴田に対し肩を比べるべき人無き事瞭然である。

一方で、天下の器にあたる地位は、能き人を知りてそれを用いる実があり、度量大やうにのび、才知盡くし、
武勇に達しながらも武を以て事とせず、賞罰両輪の如く用いると雖も、賞を強く、罰を弱く施し、何事も
理の正に当たり、せわせわしくしない。法度の立てるべき本は、己を正しくして他を悪む事も大やうに、
広く衆を愛し、民を撫育し、財貨を愛さず、専ら威の柄をよく養う、という類にある。

970 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 01:22:14.21 ID:CIFVpg9h
私は久しく信孝、勝家、一益の行いを窺ってきたが、彼らは武勇を以て事とし、その他は勝れない。
これは鳥とすれば、羽翼が片方だけあるようなものだ。それでどうして自由を得られるだろうか。

秀吉卿は勝家より勇功は少ないが、江北浅井父子を敵として小谷の城に向かって対陣し、終に大利を得、
その後播州の強敵の中に在国し、これも程なく一国平均に治めた。これは一国から六国を滅ぼした秦の威に
似ている。殊に勇猛も且つ備わり、才知は古今に独歩している程に見える。であれば秀吉が天下を席巻
すること、掌握に覚える。
また、勝家が大利を得ても、若君をないがしろにしてしまうだろう。周公旦のような事は、昔でさえ
稀であったのに。今の日本でどうしてありえるだろうか。ならば何れであってもはかばかしき事は無い。
同じであればどうすべきか。」

そのように、家臣である由戸田半右衛門尉、高木佐吉、坂井与右衛門尉などに対し悲嘆した。

「大方は、秀吉こそ天下の器に当たるだろう。惜しいかな、華麗に身を飾り、自己の栄華こそ天下国家を
知っての本意であると思っている。また翫物喪志(無用なものを過度に愛玩して、本来の志を見失ってしまうの意)
の癖もある。しかしこういった癖病を除けば、賢君と言うべき人物だ。何にしても彼こそ天下の器に近い。
天下の器に当たる才は、天のなせる所である。天が作るものを、人の道としてどうして妨げられるだろうか。
思いもよらぬところだ。

信長公には御連枝歴々多く、大臣数多侍っていたが、明智を討つ時は、池田高山に在し、さりながら秀吉着陣を
待ち得てこそ合戦を始めた。であれば、則ち主君の怨敵を滅ぼしたのは実際には秀吉卿である。
その上故将軍(信長)御葬送を、莫大な費えも厭わず勤めたのもこの人である。あれといいこれと言い、忠義
甚だ多い。天が忠義を感じられること当然であり、秀吉は何れも天の心に合う所が多く見える。どうして天心に
背けようか。私は天理に従おうと、深く思う。」

そう密かに老臣たちに評した所、各々承り「御遠慮、御尤も宜しきと存じ奉ります。これ当家繁栄すべき
金言であります。」と限りなく喜んだ。

賤嶽合戰記

清州会議後の情勢と丹羽長秀について。



971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 09:24:41.45 ID:993hYZ3y
長秀さんが勝家に与したら情勢変わっただろうか
でも他の人も似たような考えだったのかもしれんし無理かな?

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 11:13:28.03 ID:V/uRSZPV
真冬に滝川を落とした秀吉が有利すぎた

白河小峰城のおとめ桜

2019年11月19日 17:37

584 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/18(月) 20:54:34.23 ID:R9xUvLnM
寛永の話ではあるが、まだ出ていない話の様なので白河小峰城の人柱の話をば….

白河小峰城のおとめ桜

初代白河藩主、丹羽長重は白河藩主として赴任した後、幕命で白河小峰城の改修を始めたものの、ある一角の石垣だけが何度工事しても崩れてしまう。
工事が進まず困った作事奉行の和知平左衛門は合議の末に人柱を立てる事に決め、身分の上下老若男女問わず、次に城門の前に現れた者を人柱とする事に定め、城門に訪れる者を皆で待つ事にした。
すると、1人の娘が城門に近づいて来るのが見えた。何とそれは当の作事奉行・和知平左衛門の娘「おとめ」であった。
仰天した和知平左衛門は
「おとめー!来るな!!来るな!!!」

と必死に身振り手振りで娘がこちらに来ない様に合図を送ったが、父親に会う為に城へと向かっていたおとめは父の合図を早く来いと言う合図と勘違いし、逆に城門へと向かってしまい、
こうして人柱にはおとめがなる事が決まり、それを告げられたおとめは驚き逃げ出したが、遂には捕まってしまい人柱とされてしまう。
この後、工事は無事成功したものの、>>581に書いた様におとめが藩士に追われ捕まった場所は「追廻」と言う地名として今も名を残し、
人柱にされたおとめを哀れんだ人々はおとめが人柱として埋められた場所に桜を植え、おとめ桜と呼んでその死を悼み供養したと言う。
なお現在のおとめ桜はこの際植えられたものが戊辰戦争で焼失した為2代目であると言う。

http://shirakawa315.com/sightseeing/post_43.html

白河観光協会のホームページ他参考にまとめました。

585 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/18(月) 21:04:39.46 ID:R9xUvLnM
追記 おとめ桜の話は竹中直人がこの作事奉行・和知平左衛門役で数年前に短編映画化されたそうな。

https://eiga.com/news/20160828/6/
https://youtu.be/bDxtGQMmJd0



586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 21:05:18.21 ID:EOdgOTzr
事なかれ主義は昔からか

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 21:31:24.22 ID:Z4HZ3/VQ
旧約聖書の士師記のエフタの話でも
戦争に勝って凱旋帰国する時にユダヤ人の指導者のエフタが
「神よ、帰った時に私を一番最初に出迎えた者をあなたに捧げましょう」
と誓ったところ、出迎えに出たのが自分の一人娘だったために泣く泣く犠牲に差し出した
って話があったっけ。

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 21:36:04.12 ID:Z4HZ3/VQ
まとめの5102
世禰(よね)姫

だと太田道真の娘(道灌の姉妹)が生贄になった話があるな

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 22:07:32.12 ID:J67dMudt
工事がうまく行かないなら神主読んで地鎮祭でもすればよかろうもん
やってもだめで最後の手段が人柱なのか

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 10:18:36.31 ID:E3OwGiOx
追廻って城前の馬場のことでしょ
そこに人柱の話が混ざっちゃったのかな

597 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/21(木) 09:28:57.17 ID:Av9/D6vT
>>595
火のない所に煙は~って言うけど、或いは福山藩みたいに前の藩主家の遺徳を消すための意図的なマッチポンプとか風説の呂布とかかもね。
とは言え記録として当事者の名前も残ってるし、やはりこじ付けの線もなきにしもあらずか。

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/22(金) 02:55:36.03 ID:jkB1AxvD
風説の呂布だと噂が1日に千里駆けめぐりそう

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/22(金) 14:27:26.92 ID:Qpp5OHLL
呂布の武勇はは風説に過ぎなかったと…
まあたしかにそんな感じだけど

この瓢箪こそ賜るべきもの

2017年10月10日 10:19

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 23:19:55.75 ID:6zdH1xbb
丹羽長重の将、江口三郎衛門の従者に出口藤蔵という者があった。
彼は剛勇にして戦功も少なくなかったが、傲岸不遜な性格のためはかばかしい所領を得ず、
齢既に60を過ぎていたが、録僅かに200石であった。

慶長5年、前田利長が大聖寺城を攻め、これを下して凱旋する時、丹羽長重は兵を出してこれを追撃し、
浅井山下にて戦った。
出口藤蔵はこの時後軍にあったが、「吾が畢生の功名を立てるべきは今日にあり!」と、まっしぐらに
敵陣に駆け入って縦横自在になぎ倒し、遂に敵将を斃してその頸を取り去ろうとした所、そこに敵兵
15,6騎駆け集まってきた。藤蔵は彼らの攻撃をとっさに防いだが、彼の斃した敵将の頸は奪い去られた。

この時、この戦場に藤蔵の妻が、半白の髪を後ろに結い上げ、手織りの麻衣をかいがいしく引き掲げ、
腰には短刀を帯び手には瓢箪を持って、足早に歩み来るのに彼は気がついた。

「あわれ我が妻、我に酒を与えん為に敵兵の中を健気にも来たれるものか」

藤蔵は両手を上げて差し招き「出口藤蔵はここに在る!早く来たりて酒を飲ませよ。見まごう事なかれ!」と
声を限りに呼んだ。
ところが妻はこれに応えず、逆に本陣の方に向かって行こうとしたため。傍らに居た兵卒が彼女を呼び止めた
「出口氏があのように呼んでいるのに、何故応えないのか?」

妻は言った
「いいえ、頸わずかに一つばかり、しかもそれを取り返されて追うことも知らぬ男に、私の夫だからといって
どうして言葉を交えることが出来るでしょうか?この酒は、主君に奉らんとわざわざ持ってきた物です。
卑怯者に振る舞うために持ってきたわけではない!」

そう言い捨てて本陣へと向かった。
この言葉を聞いた藤蔵は大いに感奮し、逸足出してかの首級を奪い去った一隊に追いつき火花をちらして
戦闘し、四方八面に追い捲り再び首級を取り返して、山下の本陣へと戻った。
この時彼の主人である江口は、藤蔵の妻が酒を持ってきたのを喜び、副将の南部右衛門と共に
瓢箪の酒を傾けていたが、藤蔵が首級を携えて来たのを見て大いに喜び、
「お前もこの酒を呑むべし」
と言ったのを、藤蔵の妻は傍らで止め

「その酒は、この瓢箪こそ賜るべきものであり、藤蔵が飲むべき理由はありません。
何故ならその首級を取り戻したのはこの瓢箪であり、藤蔵ではありません。」

これには藤蔵も笑いだし
「このババア、またしても悪口を申し出したり。せっかくの勲功も汝のために無駄骨折となったわ」

このやり取りに、陣中で笑い転げぬものはいなかった。

(今古雅談)

関連
酒瓢箪の仕業
江口三郎右衛門の家来出口とその妻、酒と泪と男と女・いい話



298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 19:56:05.70 ID:fEscj1Be
こんな女絶対結婚したくねえ

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 20:33:34.23 ID:o40fN3zB
大人しい女性ならともかく何十年と連れ添っていればたいていはそうなる

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 20:57:37.46 ID:k1cXf0Y7
俺の嫁だったら絶対家で餅食ってるぞ
なんだかんだ情があるよこの夫婦

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 23:36:54.30 ID:LIJlKtSs
詰まらせて死ねばいいのに

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 11:32:31.80 ID:LNFCsoX1
戦陣に来るのはまあ無いと言えないが、戦場の最前線に酒持ってくるのはこの時代でも凄い

這い出る病

2017年06月05日 21:11

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 01:20:22.37 ID:wjxtjziB
丹羽五郎左衛門殿(長秀)には常々強い痞えがあった。にわかに胸先に
込み上げる折には、五郎左衛門殿は事の外難儀致された。

ある時、急に差し痞え、何ともしのぎ難いために五郎左衛門殿は脇差で
胸を突いて、すぐに卒去された。

その後、火葬に致したところ、病が火の中より真っ黒になって這い出た。
その病には首・足・耳などがあり、亀子(亀の甲)に似ていた。

家来の者どもは主人の仇であるので、近寄ってそれを打ち殺した。
稀有のことに付き、太閤秀吉公にそれを御覧に入れたところ、

「今後は、医者の考えにもなるであろう」との由にて、竹田法印の先祖に
与えられ、今もこれを所持しているとのことである。

いかにも常に痞える折には、胸の内を噛むように“めりめり”と歯の音が
聞こえたとの旨、己丑6月14日の夜に(松雲公前田綱紀より)拝聴仕る。

――『松雲公御夜話』


が、江口石見という者は

2017年01月10日 17:47

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 04:28:01.89 ID:XIXVpzdu
 人の禍福は決まっているという事は、珍しくない事である。
が、江口石見(正吉)という者は、さしたる場も聞き及んでもなく、徳が有る人でもない。
されども、幸運な生まれつきなので丹羽五郎左衛門(長重)について万石を領した。
朝倉能登は首供養を三回もした武功の者であるが、北条氏康のもとで五百石を領したとか。

 茶臼と石臼の替わりがあるように、世間で言う福耳というものがあるのだろうか。
これを見て必ず羨ましがってはならない。
自分は自分で生まれ持ったものがあり、ふさわしくない事を願い無理に利を得れば滅亡することも早くなるのである。


『武士としては』

江口さんにやたら厳しい



「あざ丸」

2016年12月11日 16:30

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 12:19:38.64 ID:wrFBh8rX
斎藤道三と織田信秀が合戦したとき、
千秋季光という武将が討ち死にした

季光は平景清が所持していたという「あざ丸」なる刀を差していたが、
後に陰山一景の手に渡った

その後、この刀を持って出陣した一景は、
牛屋山大日寺の寺内に陣を構え床机に腰を掛けていたところ、
敵方の城内から矢が飛んできて、
その矢が一景の左眼に深く突き刺さったという

一景はすぐさまこれを引き抜いたが、
また鋭い矢がまた飛んできて、今度は右眼を射潰されてしまった

この後、あざ丸は丹羽長秀の所持するところとなったが、
間もなく丹羽長秀は眼病を煩ってしまった

そのため、『あざ丸を所持すれば必ず目を煩う』という風聞が流布し、
丹羽長秀は周囲の勧めもあって、
この刀を熱田神宮に進納したところ間もなく眼病は回復へ向かったという

実はこの刀の最初の持ち主である平景清は、
源平合戦において『悪七兵衛』と呼ばれた男であったが、
源平合戦に敗北した後は怨みのあまりに
自ら両目を繰り抜いて盲になってしまったのだという

この痣丸は今も熱田神宮に奉納されているという




408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 12:28:15.11 ID:HWGYWPFm
千秋家って熱田神宮の宮司だな
神主武将

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 15:29:21.03 ID:L8TjvmB6
千秋さんの痣丸に因る死は以前出たと思ってたけどまだだったか
ついでに千秋家は桶狭間の前哨戦で佐々と一緒に突撃かまして全滅してるね

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 18:46:41.12 ID:vfphFEwK
今年の漢字をやってた清水の観音様のところに百日参りすれば
悪七兵衛景清の奉納した両眼をもらって眼を治すことができたのに

【雑談】そういや五郎左さんの織田家の序列って

2016年10月24日 18:25

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/23(日) 23:34:18.48 ID:0wNx8Ksp
安定の五郎左さんだが、そういや五郎左さんの織田家の序列って
どんなもんなんだっけ?

小説とかでは、佐久間追放後は織田家ナンバー2扱いだけど、
織田家四天王に入っている割には、石高が圧倒的に下で、軍団長にも
任命されずじまい。(好意的な視点では信孝の副将=実質的な総大将だけどさ)

信長末期時での立場とか考えると、光秀・勝家よりは下で、「信長の古参中の古参」
ということで、秀吉や一益よりは上(ただし絶対的な差はない)あたりかねえ。

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/24(月) 09:06:27.85 ID:ufTBOjVK
大将向きじゃなかったんだろ
補佐役のイメージがある
突出した武功があったわけでもないしね
野心もなさそう

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/24(月) 10:27:48.70 ID:A54ceQ90
織田家臣団は一国持ちまでというサラリーキャップ制を取ってて
近江攻めまでに抜群の功績上げて最初に一国持ちになったのが過小評価の元。
織田が巨大勢力になった後なら一国でも大国をポンともらえたが、まだ小国やるのがせいぜいの時だったからね

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/24(月) 11:18:42.06 ID:RyTlRMNM
五郎左はショウカみたいな存在だったんだろうね。織田幕府ができていれば一番評価されてたんじゃなかろうか。

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/24(月) 15:19:40.86 ID:ngDmiDsL
自身は信広の娘を(信長の養女として)嫁に貰いその息子の長重は信長の娘を嫁に貰ってるんだから
能力の評価はともかくとして信長からすれば一番信頼してる存在なんじゃないか

丹羽長重が赦免された理由

2015年11月27日 17:47

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 21:19:33.99 ID:UmHPvjDh
関ヶ原の戦いのあと、丹羽長重が赦免された理由の一つとして、
大相国家(徳川秀忠)が未だ童形であった頃、この長重と親しく語り合い、
『如何なる事があってもこの好を決して忘れない!』と、
固く誓った事があった。

このことを密かに家康に伝えた人があり、それもあって赦免に至ったのだという。

これを家康に伝えたのは、土井利勝だとも、本多正信だとも伝わる。

(藩翰譜)

徳川家康、息子の友だちならしゃーないと丹羽長重を許すの巻



39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 23:43:35.70 ID:Anv+yfLZ
前田利常が人質だったときの逸話があるし、仁徳者だったんだろうね

成田十左衛門、一矢報いる

2015年10月26日 18:53

889 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/25(日) 16:45:45.59 ID:Mf6eo+pI
「お前たちは人間じゃない」(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7244.html)

成田十左衛門が、細やかではあるが一矢報いたいい話。



成田道徳に謀反の計画があるということで、豊臣秀吉は蒲生氏郷に命じて町野左近を
討手として道徳を攻めさせた。そして道徳の首を刎ね、京の一条戻り橋(勢多橋という説もある。)にて梟した。

その後、たまたま梟し場を通りかかった秀吉が台上の道徳の首級を見て「何者の首か、不浄なり」と糾問すると、
道徳の首級はカッと目を見開き今にも飛びかからんばかりに秀吉をにらみつけた。秀吉は一瞬たじろぐも、
家臣の「成田弥左衛門尉道徳の首級にござりまする」の声に気を取り直し、「成田弥左、勇者なり。
豪の者なり」と、静かに呼びかけた。
すると、道徳の首級は静かに目を閉じ、円満な仏顔に変貌したという。



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 19:42:06.12 ID:jaBqglJz
暑さで目やにが緩んだのかな

酒瓢箪の仕業

2015年04月05日 14:16

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/05(日) 04:49:32.80 ID:33Db5drP
 江口三郎左衛門正吉の家人に出口某という者がいた。
この者は元来丹羽長秀の旗指であり、度々の手柄を立てていたが、ひどい無法人であったので取り立てもされていなかったところを、
江口が申し請けて、二百石の所領を与えて召し置いたのである。
 
 浅井畷の戦いのさい、真っ先に進み、思う様に戦って、敵一人を切り伏せ、首を取ったが、六十余歳の男であるので、
息切れをして休んでいると、そこに雑兵十四、五人が駆け寄って、何者かが理不尽にも首級を奪ってしまった。
 またこの出口の女房という者は似た者を友とする習いのとおり、甲斐甲斐しい女であった。
糟毛の髪を唐輪曲げで結い、染帷子に上帯し、酒瓢箪と茶の湯を左右に持って、江口のいる陣所を目指して、敵の中を通り行く。
遅れて引き上げる金沢勢が田のあぜ道の傍らに芝居して休んでいたが、この女房に向かって、
「姥御前は、何を手に持って、どこへ行きなさるのか。」
と問うと、
「そのことでございますが、向かいの山上に陣されている、江口殿とは我らが主君でございます。
今朝からの合戦に、さぞやお疲れなさっていると思ったので、酒を持っていこうと参ったのでございます。」
と答えた。出口はこれをみつけて大喜びし、
「それがしはここにいるぞ。」
と指し招いた。しかし女房はこれを見やりもせずに通り行く。敵も是を見て、
「どうなされたのですか姥御前、あの田の畔に休んでいる武者が呼んでいますよ。」
と言うと、
「案の定、あの男は我が夫です。殿が山上にいらっしゃるのに、首の一つも取なさいよ。
昼寝するくたびれ男に、酒を飲ませても無駄でございます。」
となんでもない体で、山にたどり着いて登り、
「ご酒宴に参りました。」
と件の酒を差し出す。江口は是を感じ、手先が遮って見えないほどの盃を取りふるまおうとしたところに、
南部南無右衛門は江口の寄子であったので、助勢しようと来ていたのだが、
江口に劣らぬ上戸で、指し受けて飲んでると、
酒はあったが、盃を流せる流れもなく、南無右衛門が一滴も残さず飲みつくしてしまい、残りは喉が渇いたままであった。
 出口は、女房にすげなく言われて、
「ならば、首を持参し、首を肴にして酒を呑もう。」
と、太刀を打ち振るい回して、また首を取り提げて、浅井山の陣へ参った。
「姥よ、是を見よ」
と、首級を投げ出す。女房は打ち笑って、
「その首はあなたの高名によるものではなく、この酒瓢箪の仕業と申すべきでしょうよ。」
と瓢箪を逆さに振って見せれば、出口は頭を垂れて、
「おまえに誑されて、アダ骨折ったよ。」
と言うと、江口も、南部も笑ったというそうだ。
(小松軍記)




丹羽家の太郎坊

2015年03月28日 17:33

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/27(金) 23:28:06.20 ID:5De09kWQ
丹羽家の太郎坊

加藤嘉明が会津四十万石を拝領して入部した時、白河にあった丹羽五郎左衛門長重は、かねてから
懇意の間柄でもあったので、会津まで入部の見舞いに行った。
これに嘉明は大いに喜び、酒宴を催して饗応し、酒も追々進んで興に入った時、嘉明はこのように言い出した

「今度のあなたの来臨は、どう感謝していいかわからぬほどである。
せめての事として、私が秘蔵する道具を進上しよう。」

そして太郎坊という刀を取り出し

「これは関ヶ原の一戦が終わった後、家康公より下された名刀なのだ。」

そう言って手ずから長重に渡すと、長重は大いに喜び厚く礼を言うと、どう思ったのか、
その日のうちに急ぎ若松を起って白河へと戻っていった。

翌日になり、嘉明は近臣たちを招き尋ねた
「昨日、酒の興に乗じて太郎坊を丹羽に譲ったような気がするのだが、まさかその通りか?」

「御意の通り、進ぜられました。」

これに嘉明たちまち不機嫌となり
「それは私が大酔して前後を忘却した上でしてしまったことだ!例の太郎坊を出せと汝らに申し付けたとしても、
遠慮して他の刀を出すべきなのに!
ともかく秘蔵第一の道具を人手に渡したのは是非もない次第である。急いで取り返すのだ!」

そうしてにわかに早馬をたて白河に向かわし、「件の刀は我家の重宝第一の道具であれば、返し賜るべし」
と申し入れたが、長重は

「重宝の賜り物ですから、お返し申すこと思いもよらず」

と、一向に取り合わなかったという。

この刀はもともと織田信長秘蔵の品で。明智光秀がこれを賜り、光秀が後にこれを愛宕山に奉納したのを、
豊臣秀吉が他の刀を納めてこれを取り出し、太郎坊と名づけた。その後徳川家康の所有となった。
長さは二尺三寸であった。

(刀剣談)





615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 08:50:44.37 ID:oFwOfqpk
>>613
返せって言われたら

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////

ってやれば多分大丈夫だろその刀
そもそも太郎坊は愛宕山に住む天狗の名前
一説によると日本一の大天狗(後白河法皇とは別人)

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 11:11:49.18 ID:xiYsLJmM
>>613
懇意の間柄だったのに重宝がもとで…
しかしこの時代って返さない奴おおいな
ごうつくばりばっかり

北陸の関ヶ原の戦いの原因

2015年03月28日 17:32

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 00:22:36.97 ID:cx1J4gVH
 慶長五年七月二日、家康公は武州江戸にご到着になり、御仕置等を仰せ置かれ、同二十一日、家康公秀忠公御父子は十二万余の軍勢を
率いて奥州へ向かいなされた。
景勝もかねてから支度していて、城々を堅固に守り、自らも二万余騎を率いて白川口へ出張る。
 利長も本国へ馳せ下り、近隣の勢に会津攻めの軍勢を出すよう促し、小松の丹羽長重にもその旨を達した。

長重が思はれるに、
『心得ぬことだな。去る頃、内府が利長に謀反の企てありとお疑いになったあの時、内府から頼まれてやむなくその周囲を探った。
利長との長い厚誼を振り捨てたのだ。これは忠義のためである。たとえ利長の陳謝がどのくらいであろうとも
内府はわしに知らせてから、和睦なされるべきであった。
 こたびの上杉景勝討伐、相手は天下の逆賊であるから誰が断るはずだろうか。
すぐにも、内府から直々に、長重も兵を出せとのご催促があって然るべきであるのに、利長からこれを達してくる事に納得がいかない。
利長はなにか計っているかもしれない。この頃の、わしの行った計略を遺恨に思い、会津長征の道すがら討ち果たすつもりかもしれぬ。
しばらく世間の様子をよく聞いて検討しよう。』
とて、
「早々に打ち立つべきでありますが、病にて歩行も思うままにできませぬ。
その上、長征の準備もいまだ半分しか整っておりませんので、それがしは後陣を担当したい。
まず、あなか方の国の者をお先に行ってください。」
と返答した。

利長はお聞きになされて、
「長重のこの頃の態度は分からない。わざわざ後陣を望むのはおかしい。ともかく、彼の安否をよく調べた上で打ち立とう。」
と不破斎宮之助という者を使者とした。
「奥州退治のこと、諸方の寄口を知らせる必要があります。催促したのは私ではなく貴命であります。
どのようなお考えから、こんなふうに出兵を延引なされるのか。このままでは人から不審も招きましょう。急ぎ出陣されよ。」
催促は立て続けに四度に及んだが、なおぐずぐずしている。
 そこへ、大坂の三奉行から、『秀頼公の命によって謀反を起こす』との廻文が届き、ほぼ時を同じくして内府から、
北国のことでは、特に長重を勇猛の武将として頼もしく思っている旨の檄文が届いた。
『かように期待されるのは本望であるが、利長の謀略も計り難い。いかがしたものか。』
と思案していた。

 斎宮之助は金沢城へ馳せ戻って、『小松側の態度は心得がたい』と報告した。利長は、
『大坂での三成らの謀反の動きは既に伝え聞いている。その上、謀反に加担せよとの回文も到来した。
さては長重、かねてより三成に与していればこそ、会津への出兵を遅らせたものと思われる。
この上は早々に小松を踏み散らして手元を安全にして、然る後に、上方へ打ち抜けるか、奥州へ向かうか、時宜に応じて行動するとしよう。』
と決めて、七月二十六日申の下刻、四万余騎の軍勢を率いてにわかに小松表へ押し出した。
「松任より向こうは小松領であるので、焼き払って通れ」
と道筋の在家を放火し、手取川を渡り、水島寺井まで押し寄せた。すでに時が過ぎて暁になっていた。
 
 小松側では、思いも寄らぬ事なので、上を下へと騒乱ひとしおの中、長重は、
『かねては内府を敵にまわす覚悟ではなかったといえども、今、大軍に押しかけられ、利長に陳謝するわけにもいかず、
もはやいかんともしがたい。籠城しよう。』
と決めた。
(小松軍記)

北陸の関ヶ原の戦いの原因である




丹羽長秀、危篤の時に

2013年08月19日 20:02

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 18:30:01.36 ID:t/koTy7R
丹羽長秀は数年来の積聚に侵されて危篤の状態になった時、

「たとえどんな病気であっても、我が命を失わせるのならばまさしく敵である。
どうしてその敵を討たずして死ねようか」と腹をかき切り、腸を引き出した。

腸を見てみると奇妙な怪物が出て来た。形は石亀の如く、くちばしは鷹の如く
尖り曲がっていて、背中には刀の当たった跡があった。

長秀は自ら筆を執って事の次第を記し「我が家督の事を良いように処理してください」
と書きしたためて、腹を切った刀に積蟲を添えて御殿に献上した。秀吉はとても驚いて嘆き、
自ら筆を染めて「間違いなく子息に本領を与える」と固く誓った。

長秀はこの返事を披き見て「もう思い残すことはない」と言って亡くなった。

――『藩翰譜』




189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 18:49:14.63 ID:8HWuks11
>>188
権現様「参考にさせて頂きます」

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 19:00:37.73 ID:CUYyB3q+
有名な割に丹羽長秀の逸話って死ぬじきくらいのばかりなような

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 19:07:24.98 ID:I74R3XdJ
>>188
そして子息にガッツリと減封につぐ減封を食らわせたと

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 05:40:54.99 ID:+9AwLDop
織田の有力家臣はどうして嫡子がいなかったり若年だったりするんだろ
ふつう30歳辺りで子供が何人かいるよね

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 13:15:07.24 ID:S8iFuCUq
>>193
なんかそれ、働きすぎのサラリーマンみたいじゃないか

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 17:09:23.25 ID:L6kJ8zBX
>>193
年長の子が娘だらけだったりするケースもあるからね

丹羽長秀、任官を断る

2013年05月06日 19:52

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 07:31:06.78 ID:UwuGLQuO
丹羽長秀、任官を断る

天正三年信長、長秀に惟任の氏を賜り壱岐守に任じた。

長秀は「惟任については畏まり受け奉りますが、
壱岐守についてはご勘弁ください
某は若き時分より呼ばれている五郎左衛門のままでいたいのです。」

と達て申し上げたので、その望みに任された。

(名将言行録)


198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 08:43:05.61 ID:br2kSEcp
>>196
惟任じゃなくて惟住じゃね

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 09:43:17.03 ID:UwuGLQuO
>>198
判ってはいるけど、元本にそう書いてあったのでそのままにしといた。

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 10:10:09.55 ID:MqipYOaQ
丹羽丹羽丹羽丹羽長秀がいる

丹羽長秀の憤死

2013年05月05日 19:10

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 06:59:37.19 ID:L9T8304a
丹羽長秀の憤死

後年、秀吉天下を掴まんとするに、心平らかなるあたわず。
ひそかに信雄(のぶを)卿を助けて、織田家の再興を計りて果たさず、
一室に籠りて懊々たり。

疾病に罹り、晩年ほとんど堪えず、遂に刀を抜きてはらを割き、
塊物を抉り出して死す。

塊物亀形をなして、鷹觜の如きあり、背に刀痕を帯ぶ、
秀吉竹中法印に命じて、これを蔵さしめたりき。

(続 鳴呼古英雄)




543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 09:00:21.04 ID:GBiO5QUA
〉竹中法印に命じて、これを蔵さしめたりき

この部分の現代訳をご教授お願いします

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 09:11:55.39 ID:BkSiWucm
>>543
「蔵さしめる」は「蔵に納める」ってこと。
つまり丹羽長秀が腹から取り出した塊を、秀吉が竹中法印に命じて蔵に納めさせた、という事だね。

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 10:23:59.64 ID:OWxix9Q8
腹に納めて縫ったのかと思ったが
塊を秀吉に送りつけてた気がするから、やっぱり蔵に納めたのか

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 11:28:35.29 ID:GBiO5QUA
>>544
ありがとうございます。
そのニュアンスは、丹羽さんの覚悟を讃えて蔵入りか、
それともその覚悟を隠したくて蔵入りなのか、
どちらに読めばいいのか…いまいちわからない

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 12:13:35.78 ID:ulbPAqWe
丹羽長秀を検索したらフンドシ姿のお姉ちゃんが出てきて死にたい

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 13:44:02.91 ID:befZ1wQQ
激寒採点おばさんの悪口やめーや。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 15:52:47.11 ID:+ZHacaZi
>>547
画像も笑えたけど、検索したついでにあったアンサイクロペディアがくそ笑えた
>「織田」と名前のつくチンピラどもが仲間割れを繰り返す厄介な国である尾張において、牧舎の鶏小屋で丹羽長秀は誕生した。ってなんだよw

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 17:17:42.91 ID:hl7L+R7x
丹羽には丹羽丹羽鳥がいる

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 07:35:54.88 ID:WUvNQt0U
>>538
丹羽長秀の死に方の何が怖いって

「去ぬる十四日(天正十三年四月)に腹切り、終に十六日死去しおはんぬ」
(多聞院日記)

ってことなんだよな。
腸抉り出すほどの割腹して尚死亡までに二日のタイムラグがあると言う・・・

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 14:19:54.01 ID:pCP2coqL
長秀が亡くなって以降の丹羽家はそれこそ波乱万丈の連続だったが息子は逞しく育ったな
決して世渡り上手の人ではなかったみたいだけれど

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 11:29:47.62 ID:97/v4Lob
>>567
多聞院日記はネタの宝庫だなー
噂を書きつけておくことが多いからビックリするような話が残ってて楽しい。

雑談・丹羽長重って

2013年04月28日 19:00

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:28:53.41 ID:KmFhVaoa
北陸関ケ原はちょっと前まで敵だった、前田が味方で、
味方だった大谷と丹羽が敵になってて面白い。

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 01:00:28.79 ID:N2441eKb
>>427
丹羽長重って立花宗茂と同じくらい名将だと思うけど
全く評価されてないよね

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 04:20:52.81 ID:T2ysZs7J
>>435
全く評価されてない人をなぜ名将と思うのかが知りたい

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 06:13:48.24 ID:MkNtV6ec
築城に長けていたとはよく聞くけど

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:08:03.56 ID:nVqyR022
名将かは知らないけど、関ヶ原で改易されたのに
最終的に関ヶ原前以上の石を得てるのはすごいかもしれない
もっとも、親父から受け継いだのは100万石以上だけど
あれはほら、ラスボスに睨まれてたし

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:29:48.21 ID:p2cuovEF
同じように改易から復活したのにその点で仙石秀久を評価する人はめったにいない罠
まあそもそも仙石の改易は完全に自業自得だけど

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:37:48.44 ID:T2ysZs7J
力関係を見極めての根回しとか、自分の印象付けとか上手いよね。
御子柴とかに比べて圧倒的に。

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:38:27.23 ID:9iZ4bBa4
>>430
生前の家康公は、狸ではなく猛牛に喩えられていたとか何とか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 08:00:31.96 ID:Pm2buK+h
>>441
なんか、現在の良くも悪くも我慢強くて怜悧なイメージと違って、秀吉が「おれに天下でかなう奴居ない」って言ったとき
「殿下は小牧のことを忘れたか!」って怒鳴った話みたいに、あいつ怒らせるとガチで危ない、みたいな印象があったらしいね。
多分三方ヶ原で武田軍相手に玉砕して以来の印象。

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 08:19:26.74 ID:KTXbAPOz
>>440
御子柴って、阪神の元ピッチャーの?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 10:27:35.89 ID:I+I6BckX
>>438
秀忠のアッー!の兄貴だったからじゃないの

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 11:08:13.16 ID:I+I6BckX
修行中の身でリンク禁止だから貼れないけど
まとめサイトの「丹羽長繁るへの、秀忠の懇志」にも書かれているけど
ほぼ確実に衆道の間柄だったとみていいと思う

『徳川実紀』には
「右大将殿もとより長重とは懇に御したしみありければ、しばしば長重が事なげかせ給ひしにより、
かく召し出されたり」

『名将言行録』には
小田原の役の時に長重がまだ若いのによく兵を用いているのを見た家康が深く親しで
秀忠と兄弟の契りを結ぶように引き合わせたと書かれている

「お前たちは人間じゃない」

2013年01月28日 19:52

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 23:47:22.68 ID:HRn8JFsi
丹羽五郎左衛門の家臣に成田十左衛門(弥左衛門道徳)という勝れた武士がいた。

丹羽家の大きな領地が、子の長重の代には豊臣秀吉に取り上げられて四万五千石に
なってしまった時、成田は広間で「誰か我に一味する者はいないか」と言ったのだが、
座の者は誰一人として答えなかった。

「お前たちは人間じゃない」と、成田は言った。

後にこれが秀吉に知られ、成田は(出奔して隠れていた)伊勢で誅された。

――『老人雑話』




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 18:16:00.79 ID:C2ohUS3j
>>321
当時丹羽家で最大の重臣だった長束正家が、とっくに秀吉に取り込まれているんだよなあ…。

丹羽長重の戦略

2012年10月07日 19:17

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 12:09:46.04 ID:SGttm6PW

世に言う浅井畷の戦いの折、江口正吉は引き退く前田軍に喰らい付き、
鳥銃を打ち掛けた。主君の丹羽長重は銃声を聞いて「遅れるな者共!」と、
馬に鐙を合わせて馳せ着け、終には寡兵をもって前田利長の大兵を追撃した。
この時、正吉は「この殿の早業は今に始まったことではないぞ!」と喜んだ。

この戦いは立花宗茂が寡兵で鍋島勝茂の大兵を打ち破ったのと並び称された。
この後、長重は封地を失うことになったが、後に白川十万石に封じられたのは、
この戦いの勇功を賞されてのことといわれた。当時、諸将は長重と会うたびに
その戦略を質問していたということである。

――『名将言行録』





772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 12:29:16.09 ID:QgFtWxCg
知りたいのは戦場の駆け引きじゃなくて老中たちの接待についてだろうけどな

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 14:49:06.91 ID:DxV9hUs0
老中よりむしろ秀忠さんとのお付き合いの仕方だと思うの

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 15:19:45.74 ID:nlO52Lj8
長重さんって賤ヶ岳当たりで初陣で戦役の度に減封なのによく腐らずに育ったよな

丹羽長重への、秀忠の懇志

2012年03月21日 21:51

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 13:07:34.69 ID:Mw6q4DU5
慶長6年(1601)正月のこと。

関ヶ原で没落した丹羽長重の元に、何事か、土井利勝よりの書状が届いた。
これを開いてみてみると、そこには徳川秀忠の内意が記してあった

『内府公(家康)のあなたに対するご機嫌も和らぎ、今こそ復権の機会です。
早々に江戸に出府してください。』

長重はこれを見て甚だ喜び、早速3人の共を連れて江戸へと登った所、芝の町家において不思議なものを見た。
そこには大きな木札に『丹羽五郎左衛門宿』と書かれていたのだ。

不審に思った長重がその家の亭主に尋ねると、亭主曰く「先日、土井大炊頭(利勝)様より、このようにせよと
仰せつかまつりました。」と言う。

そして長重一行はこの宿にて非常な歓待を受けた。そして数日ここに滞留している間に、
小松時代の家臣たちがこの事を聞きつけ毎日のように馳せ訪ね、あっという間に24,5人も集まった。

これも全て秀忠の心遣いであったが、それまでも、家康が長重を許さずにいた間も、秀忠は長重に対し
色々な懇志をずっと示していたのだという。

長重はここでしばらく幽居し、慶長8年3月、常陸古渡1万石を拝領し、ついに大名に復帰した。

(雄藩雑話略抄)





354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:10:39.79 ID:gQEkI2Ji
>>352
何で秀忠が丹羽にここまでやってくれるかが分からん。

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:57:53.74 ID:kBRjxao5
>>354
親父さんと比較される次代の立場にシンパシーでも感じてんじゃね?w