鬼武蔵、神蛇を喰う

2018年05月29日 09:49

森長可   
819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 22:19:24.48 ID:G3/hr0Wa
小牧長久手の陣において、羽黒合戦で若干の味方を討たれた森武蔵守(長可)は、
備の編成を変えるため移動し、小牧山の東北、二ノ宮の森の麓に陣を取った。
そこには朱の玉垣の花表(鳥居)があり、武蔵守も「いかなる神の社か」と思っていた所、
神主が現れ、武蔵守の御前に参り、このように申し入れた

「この神は深く穢を忌まれます。精進潔斎無ければ、花表の内に入ってはいけません。
殊に不浄の人馬を入れるなど、誠に勿体無い事です。諸人が木の枝を折ることすら
神慮計り難いのです。御陣場を速やかに改められるべきです。」

武蔵守はこれを聞いて激怒した
「悪しき神主の申しざまかな!異議があるなら鉄砲で討ち殺す!
(悪敷神主ノ申様也、及異議ハ鉄砲ニテ可打殺)
私は大義を思い立ったのだ、全く私の利益のためではない。それは神慮も鑑みるだろう!」

そう言っているところ、社壇の上に、長さ一丈(約3メートル)ばかりの蛇が現れ、
軍勢の方に向かい声高く鳴いた。
神主これを見て叫んだ

「御覧有るべし!あれこそ当社の御神体です!」

軍勢の者たちも驚いた。しかし武蔵守は

「この蛇を飼い置いて、土民共を迷わし金銀を取っておるのか!
井原はおらぬか!?あのような有様であるぞ!」

これを井原小市郎承り、腰刀を抜いて蛇を寸々に斬った。
そして武蔵守は

「そういえばここでは精進しろと言っていたな。」
そう言って切られた蛇を二口三口食い、残りは社壇に捨てた。
神主は身の毛もよだち、立ち退いた。

※この後兼山記の作者がこれだけでは鬼武蔵がやべー奴と思われると考えたのか、鬼武蔵とは
全然関係ない甲斐に現れた巨大鱸を漁師が獲って切り刻で神なんてものは人間が信仰するかどうかの
問題で云々とか書いてるけど割愛
(兼山記)



820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 22:39:29.27 ID:DVaPyOBu
この後、亡くなったんだよね…

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 22:42:30.80 ID:homQuwcC
生蛇はだめなんじゃないか・・・

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 23:46:26.00 ID:T+OMRWOR
捕まえたマムシをその場で皮剥いで心臓を食った爺さん見たことあるから大丈夫なんじゃ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/29(火) 02:10:04.73 ID:8lE87rYa
寄生虫やばいよ

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/29(火) 02:59:40.77 ID:IFix9tXT
蛇やカエルは絶対に火を通さないとだめ。

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/29(火) 05:38:33.97 ID:nZWjCmsu
ヒャッハーすぎるぞ武蔵守

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/29(火) 12:18:31.80 ID:/SpPBZVC
迷信打破って西門豹みたいなつもりなんだろうけどやり方が短絡的過ぎる
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仙千代奪出

2018年05月28日 17:28

森長可   
958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 09:59:11.73 ID:G3/hr0Wa
本能寺の後、信州より居城兼山に帰ってきた森長可は言った
「弟である乱丸、坊丸、力丸は討ち死にしたという事だ。信長公も御生害なされ、
この上は京に上っても意味がない。
岐阜の城にいる、残る弟の仙千代(森忠政)を奪い取ろう。
しかし人数多くては無理であろうから、井戸宇右衛門一人供をしろ。」

宇右衛門畏まり、加えて下人少々召し連れ、主従6人にて岐阜城に忍び入った。
日暮れまで静かに待ち、人質を置かれている家に、長可一人忍び入った。
傅役として付けられた各務長助13歳、仙千代14歳、二人共に手を取り家より引き出し、
城の下十丈ばかり(約30メートル)の谷底に大きな布団が用意してあり、
井戸宇右衛門その他が待っていた。

長可は二人をその布団の上に飛び降ろさせ、下に落ちると馬に乗せ、豆渡りの渡に向かい、
浅瀬に馬を入れて難なく川を越え尾張の地に入った所で夜が明けた。
そこから馬を早め、その日の内に兼山へ入った。

兼山で待っていた御母公は、「七世の孫に逢ったような心地です」と、喜ぶこと限りなかった。

(兼山記)



959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 12:07:42.11 ID:kUWGZNYS
30mと言うとマンションの10階位の高さか...
こわっ!!

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 12:38:40.87 ID:DVaPyOBu
布団でなんとかなる高さなのか・・・
かなり、高さは盛ってある感が。でも、岐阜城だと、山の上だしなあ。

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 18:46:24.88 ID:homQuwcC
布団にまいて落としてなかったっか?

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 22:48:48.01 ID:8830ayA8
>>960
すまんけど、ちょっと布団持って行ってやって来てくれよ
報告よろ

瀬田橋乗打

2018年05月27日 16:40

森長可   
804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/27(日) 09:42:07.54 ID:Y4V4mLfi
織田信長が天下を掌握した頃、内裏修理のため伏見に滞在し、またこの普請のため
国々の大名残らず上洛した。ここで信長は、瀬田の橋に関を設け、家中実名を尋ねた上で
通過させるようにと命じた。

このような中、森勝蔵が家中の面々を引き連れ瀬田の橋へと指し懸った。
関守の侍たちが出てきて「上意であります。下馬をして家名実名を名乗り通って下さい。」
そう声をかけたが、勝蔵は

「それは許してもらおう。私は濃州住人森勝蔵と申す者である。御帳に書いておけ。」

そういい捨てて通ろうとした。関守の侍たちは驚いて馬の口にすがり
「そんな事で通せるものか!その上乗打など以ての外!」そう叫んで、鑓長刀などを
番所から出してきて色めき、絶対に通さない姿勢を示した。

勝蔵はこの様子を見ると
「なんと心得のない者達だ!乗打だと!?公方の御前ならばともかく、汝らごとき
侍分の為にこの勝蔵に下馬をしろと!?推参である!」
(元来心得ス者共也、乗打トハ何事ソヤ、公方之御前ニテアラハコソ汝等如キ侍之為す分ト
此勝蔵ニ下馬トヤ推参ナリ)

そういって太刀を抜き、2,3人の首を落とし諸鐙をかけて橋を走り通った、
関守の侍たちはこれを大勢で追いかけ、大津膳所の町口の木戸を早く閉じるよう
呼びかけた。町人たちは二ヶ所の木戸を閉じようとした。しかしこれを見た森勝蔵が

「ものども!火を懸けよ!」

と叫んだため、町人たちは驚き木戸を開いた。ここから勝蔵は急ぎ伏見の信長のもとへ向かい、
御前に罷り出でると瀬田のことを詳細に申し上げ、「切腹つかまつる覚悟」を伝えた。

これを聞いた信長は笑いだした
「昔五条の橋にて人を討ったのは武蔵坊だとか。汝も今より武蔵と名を改めよ。」
そう、非常に機嫌よく仰せに成った。
万座の人々は「実に忠ある武士の例かな。」と羨ましく思った。

勝蔵はその年の内に侍従の位に上り、森武蔵守長可と名乗った。

(兼山記)

鬼武蔵には自分の命令を違反されても自分が命じた関守を殺されても嬉しそうな信長公



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/27(日) 12:15:38.40 ID:hpLrEv3C
史実だと武蔵守を名乗るのは信長死後の話だけど
いかにも鬼武蔵らしい逸話だな

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/27(日) 14:15:52.36 ID:YRLqfHWA
字が書けなかったからだろ
記帳させたらバレるもんな

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/27(日) 15:44:17.34 ID:XRtYoX8J
あの有名な妻宛の長可の遺言状は自筆だぞ

よく人を見立ててから

2018年03月22日 18:39

森忠政   
717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 14:38:32.21 ID:Ml9sJDFQ
よく人を見立ててから


あるとき、森忠政君に近習の者が
「中小姓の扶持方に切米で勘定するのは、百石の物成より多くなりますから
 (中小姓に)所付*されて下さい」
と申し上げれば、(忠政は)
「折紙は本阿弥の札のごとく大切な物である。切米を貰っている者が
 他の国へ行っても大したことにはならないが、所付は他国でその者が
 放言すれば『あんな馬鹿者に知行を取らせたのか』と俺が笑われることに
 なるのだから、よく人を見立ててから所付はするものだ」
と仰せられたという。


――『森家先代実録』

* 具体的に知行所(領地)を付けること。


首を取り返す程なら

2018年01月27日 15:41

森忠政   
502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 03:05:35.16 ID:sDG9Imzt
首を取り返す程なら


大坂夏の陣でのこと。
森家家臣の石田惣右衛門が、佐竹衆から味方討ちにあったので
惣右衛門の子供二人が追いついて首を取り返すということがあった。

そのころの評判で
「知らないふりをしておけば、親はよく奉公したことになり
 佐竹衆も手柄に出来ただろう。首を取り返す程ならその者を討って
 親の首と一緒に持って帰ればよかったのに。二人とも弱いことだ」
といわれたという。


――『森家先代実録』



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 09:44:51.58 ID:VA82doJi
お、おう

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 10:43:16.03 ID:MG3bVX6b
情け容赦がねえな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 15:18:35.40 ID:oJeOzHbl
夏の陣でも戦国の気風は残ってたんだなw

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 16:23:19.87 ID:jh7qn4rj
まさむね「知らないふりをしておけばいいものを神保が…」

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 18:26:15.97 ID:h5bGR4Hh
この場合、惣右衛門さんの扱いはどうなるんだ?
事故死?

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 20:58:26.45 ID:S3i1cgJH
たぶん討たれ損なんだろうね
だからこそ、黙ってれば戦闘中の討ち死にですんだんだろうし
武士としての面目を考えるなら、やはり敵を討ち取ってくるべきだったと思う

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 22:45:01.93 ID:CmJGJAHL
中途半端が一番悪いというのがよくわかる事例

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 23:42:10.35 ID:VA82doJi
秋田佐竹は遅参で居ないからどこの佐竹衆だろう

勝蔵は手負たり

2017年10月22日 16:47

森長可   
332 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2017/10/22(日) 10:17:08.95 ID:lD4HBGRz
勝蔵は手負たり


信州高遠城に仁科五郎信盛・小山田備中・渡辺金大夫が立てこもったので
信忠公が攻められた時の先手は森長可・川尻肥前守・毛利河内守・団平八が
追手(大手)より向かうことになった。
然るところ長可は右の衆を出し抜かれて、小笠原掃部之介に案内させて
夜明けには高遠へ詰めかけられたので、(高遠方は)すぐに二の丸を空けて
本丸へ集まったので、(長可は)虎口を固められて御注進された。

信忠公は早々とお越しになられ総攻めと仰せられたので、長可が一番に
本丸へ乗り込まれて、広間口左の方へ入り座敷内で迫り合いになり
比類なき御働きで高名を上げられたが、手傷を負われた。
長可の家臣渡辺助右衛門豊守・林長兵衛為忠も高名した。

長可が腰より下は血になられて、首を持って参られたところを
信忠公が御覧になり
「勝蔵は手負たり」
と仰せになった様子は見事なる義にございました。


――『森家伝記』



333 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2017/10/22(日) 12:14:35.34 ID:MmZEA88k
まとめの3131
「森長可『血染めの赤備え』」
だと腕にかすり傷で腰から下は全て返り血だったけど
これだと自分の血も混じってるような

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/22(日) 21:12:38.35 ID:LPWCxxI8
返り血のことを手負いと言い表すのか、手負いが高名なのかどっちだろう

淀殿に仕えた各務兵庫の娘

2017年06月29日 11:48

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/29(木) 00:04:31.96 ID:RInqlD5Z
淀殿に仕えた各務兵庫の娘


森家の家臣・各務兵庫(元正)には息子が2人、娘が5人いた。
長女は森重政の妻だった。
次女は大坂衆で落城後に切腹した竹光伊豆の妻だった。
三女は丹後の田中七兵衛の妻だった。
四女は作州の各務勝太夫の妻だった。
五女は淀殿の侍女だった。

大坂城が落ちる前、淀殿は不憫に思い城を出るように勧めたが
どうあっても出ていかない旨を述べ、小脇差を懐に差したという。

後に京極高知の側室となり一男一女をもうけた。


――『武功雑記』



70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/29(木) 06:23:26.13 ID:Tm2U+4xu
脇差が欲しかったのか

人間無骨の槍

2017年04月18日 18:22

森長可   
831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/17(月) 23:11:23.85 ID:K6rQcq2l
人間無骨の槍

かの武州(森長可)が戦で持っていた人間無骨という槍のことは、
今でも町の中にいる軍書よみという者どもの口からも普く出ている。
先年美濃守(森忠賛)と同席した時に話し合ったなかで、
濃州が話してくれた。

「正しく今でも伝わっています。すなわち出入に見られる玄関に掛けてあるものがそうですよ。」

と答えたので注意して見ると、成程殊に大きな十文字槍である。
立ち寄って見たけれど、さすがに勤番士が並み居る前なので憚って、
濃州に頼んでその図を写してもらった。
今思い出して図を出して見ると、直刃がけら首から鋒までは一尺二寸二分、
横手刃端の見渡しが一尺一寸であった。
直刃のところに血漕が一筋あった。横刃には二筋で表裏で違っていた。
四分の所に、表に人間と彫り、裏に無骨と彫ってある。
茎には和泉守兼定と銘じてある。

また濃州の話か、もしや馬谷〔軍書よみの名〕の話か、今は分明でないが、
武州が戦争のとき首を獲って、この槍鋒に貫き槍を立てて一突きすれば、
首が槍柄を貫いて槍の下に至ったという。
剛者の所為といえども、これはこの刃が鋭いためであると聞いたことがある。

(甲子夜話)

蜻蛉ではなく生首とは…


832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/18(火) 19:58:13.20 ID:Aio4r9/e
和泉守兼定
あまりに切れ味がいいので手にすると無性に人が斬りたくなるのである。

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/18(火) 23:53:22.49 ID:DRuzF2OV
三斎様「うん、しょうがないよね」

今西春房と娘の大蔵姫

2017年03月31日 21:45

森忠政   
708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 22:04:28.35 ID:Tm99nypP
今西春房と娘の大蔵姫


摂津今西氏は元を辿れば春日大社の社家出身で摂津国垂水西牧に下向し
現地において荘園経営を行った荘官である。
代々従五位下に叙され室町時代には「南郷目代」と称されたとする。
戦国時代になると周辺の有力国人が台頭して荘園を
脅かすようになったため、今西氏の屋敷の回りの約216m四方は
内外二重の堀で囲まれ、内堀は約2mの深さがあったという。

荘園を守るため姻戚関係を結ぼうと、社家36代目の今西春房
明智光秀の娘・美津を正室にする。
長女の大蔵姫をはじめ子に恵まれたが、本能寺の変が起きてしまう。
山崎の戦いでは弟の春光が明智方で参戦したが敗戦。
当然秀吉の怒りを買い荘園を没収され、目代としての実権を失ってしまった。
以降は医者や神主として家を続けていくことになる。

一方光秀の孫娘にあたる大蔵姫はというと、最初は多田の豪族
山問左近将監に嫁いでいたが、山問氏が没落したため
娘二人を連れて実家に戻っていたらしい。
どういう訳か大蔵姫はその後中川秀成の養女となり、森忠政に再嫁した。
その縁で弟たちの浅田宗英は2700石、今西道春は1500石で召し抱えられ
他の一族からもその後何人も森家に仕えることとなった。

大蔵姫は元和9年9月13日に亡くなったが、忠政に遺言をして自分の衣装と
愛玩の手道具、自身の肖像画を今西氏に送らせたという。
大阪府豊中市にある今西氏の屋敷は現在は国指定の史跡となっており
その西南にある松林寺の墓地には大蔵姫の五輪塔がある。

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以上の話は、主に今西家に伝わる史料(『今西家文書』)から見た話で
森家の史料とは少々食い違っている部分がある。
『森家先代実録』では、大蔵姫は森忠政に嫁いだとは記されていない。
大坂夏の陣で森軍の渡河で活躍した宗英・道春兄弟の姉として紹介されるが
”中川清秀の従弟山問の妻” ”女中頭を務め御内所まで申し上げることが出来た”
という記述があるのみで、表記も大蔵卿となっている。
加えて大蔵姫の肖像画の記述を見ると忠政が従三位とされていたり
遺体が葬られたとする津山の寺がどこか分からないなど不明な部分が多い。
おぉこれは……という訳で悪い話スレに。


春日周防の徒党の磔

2017年03月25日 20:44

森忠政   
698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 00:05:44.43 ID:Ko4xD5Gw
春日周防の徒党の磔


ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-357.html
↑の記事の2つ目の話の詳しい版になります。

天正壬午の乱のときに森長可を裏切ってひどい目にあった春日周防
(参照 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5950.html)
慶長5年3月に弟の忠政が海津城に入った頃には病死していたので
(葬儀で)親類が一か所に集まっており磔に懸けることになった。

そのとき彼の地の風説では、信州は人がいない国なので
徒党の者を残らず成敗してしまっては亡所になるだろう。
ならば(忠政が)見回りに来る前に、磔に懸けてご覧に入れ
御成敗したと判断してお通りした後で悉く命を助けようと
下劣の者共が(春日周防の徒党に)申し做した。

そういうことならば一日磔に懸けられているのもどうかと
日用を雇って名代として磔に懸かってもらうことにした。
米壱石で懸かる者が多く、あるいは七、八斗で懸かる者もいたが
少しの内なのだからと値切る者がいたり、壱石出すくらいなら
自分で懸かろうという者が、金持ちの中にもいたそうだ。

海津城はその頃松城といったが、乾の方角にある鳥居坂から
なしか池まで二十町ばかりに磔を懸け並べた。
そこに先走りの者が、忠政様の追付きお通りと参るやいなや
大身の槍を持って片っ端から突いて通った。
そのとき磔木の上から口々に日用なりと断る声があったという。
百々瀬加兵衛、三溝三右衛門[両人共に信州のあのあたりの地侍の家
だったが森家へ召し出された]がこの話を度々承ったそうだ。

そのときの罪人の内6才の子供を一人、名は又右衛門と申す者を
お竹様(忠政側室・香々美殿)が引き取り養われた。
後に大膳重政様(忠政庶長子・母お竹)の草履取りとして仕えたが
元和4年に大膳様が御逝去の後、作州久米南条郡中嶋村へ引っ込んだ。
百姓をしていたそうだが、同郡北村の者と公事取詰になり
寛永16年6月3日、46才で一家残らず長法寺河原で御成敗に逢ったのは
天罪奇妙な事なのでここにこのことを記す。


――『森家伝記』


702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 22:47:30.61 ID:gmJK76VS
>>698
この「松代物語」でも春日皆殺しについて触れられてるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4100.html
ところで高坂信達(春日周防)って病死って書いてるけど、真田昌幸のせいで上杉裏切ろうとして殺されたんじゃ
(真田丸では調略がバレたのをなぜか昌幸の策略にして主人公側を悪どく書いてたな)

一人の弟を捨て殺さば

2017年02月06日 17:56

森長可   
588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 13:03:39.23 ID:hcZgHN4K
一人の弟を捨て殺さば


天正十年冬、未だ天下の主が定まらないなか森長可の弟
お千(忠政)は岐阜城で神戸信孝の人質になっていたが
秀吉は(長可に)尾藤甚右衛門を遣わして、自分に一味するならば
遠江駿河両国を約するという誓詞を送ってきた。

森家の家老衆を悉く集めた評議の時に、一同それぞれが
秀吉公に一味するのが尤もだと長可様に申し上げたが
長可様がお千のことはどうしようと言われたので、その時
長田又左衛門(長可の姉婿)がお捨てしましょうと申し上げた。

長可様は
「先年三左衛門殿(父可成)が討死になり、蘭丸を始め三人が本能寺で
 生害した。御母公はこのことで日々お目が乾くことはないという。
 その上予の骨肉にはお千を除いて外はいない。秀吉公に一味して
 たとえどれほど立身しようとも、一人の弟を捨て殺さば母公への
 不孝となるので心得がたい」
と仰せられご同心されなかったので、林長兵衛為忠が進み出て
「私がお千様を盗み出してみせます」
と申し上げたので、ならばその方が取り計らうようにと仰せられた。

長兵衛が岐阜城へ行くとお千様は近江櫓にいたので
長兵衛は機転を利かせ櫓の窓子を引き剥がしお千様を跳躍させて
下には大布団を広げ待ち受けたので怪我などはなかったという。


――『森家系譜』

ちなみにこの長田は忠政が家督を継いだ後、居づらくなって出ていったとか。



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 16:43:13.61 ID:r2/kuP1d
>>588
森家らしくない(偏見

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 18:38:33.89 ID:94zKLE+Z
遺言状とこの話だけで鬼武蔵を知った人は
情に厚い家族思いの武人だったと感動するなきっと

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:49:41.22 ID:H2xryelB
徳川の領土の遠江駿河を宛がうだなんて、いくら武蔵がアホの子だからって舐めすぎだろ

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 23:08:42.84 ID:94zKLE+Z
>>591
過去に二回ほど出た逸話だと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5948.html
鬼武蔵「駿河遠江に加え甲斐もよこせ」
秀吉の使者「さすがにそれはならぬ」
(使者が帰った後)
鬼武蔵(家来に)「さっきの条件でもわしに不自由はないのだ。だが駿遠甲の三ヶ国を手に入れれば、次節が来れば
其の方達にも小城の一つでも持たせることが出来たのに、お前たちにとっても運がなかった。」

やはり鬼武蔵さんは情に厚いお方だ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 23:15:08.55 ID:2frsTZP4
逸話スレが広まる以前に戦国関係の個人サイトでは、
森長可の遺言書の件で情にも厚い武人だったというと紹介されてた思い出

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 23:30:12.41 ID:DTcCJHU8
情に厚い人ではあるんだよ。戦になるとやりすぎちゃうだけで。

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 01:35:08.44 ID:t/aGTs/k
酒呑むと人格変わるキチガイと一緒やな

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 06:01:55.42 ID:MBpleLyQ
ああ嫁が絡まなければの人と一緒だな

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 15:22:33.98 ID:Qz9rerfe
>>597
敵に厳しく家族に甘い…そういえばプーチンやトランプも家族には凄く優しいそうな

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 16:51:11.22 ID:YRcOd+eb
DQNの家と一緒ですね

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 17:47:17.86 ID:tUWAHyh0
そりゃ敵には強面で当たらないといけないんだから
その分身内には優しくしないとまずいだろう

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 17:53:07.49 ID:jlg7zLfd
その割には家族で殺し合いする家が多いような…

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 19:31:21.27 ID:5gqA2q1V
おっと河内源氏の悪口はそこまでだ

森忠政の水理

2017年01月08日 16:12

森忠政   
494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/08(日) 14:57:57.93 ID:IDAI/Glu
森忠政の水理


森忠政は美濃国可児郡金山城に生まれ、慶長5年に信濃国川中島城に移ったが
どちらの場所も川に近いところだったので、水理には細心の注意を払っていた。

美作に初めて入ったとき、津山川(現:吉井川)の水の勢いを見て
日照りの年でも涸れないだろうと喜ぶと共に、排水にも大いに配慮した。
津山への築城に決まってからは、市街に三十六の町を置く計画で区画を定め
市街の南方、津山川の沿岸には悉く石垣を設けて十箇所余りに水刎を築いた。

ttp://www.civil.pref.okayama.jp/img/hyakusen/spot/059-03.jpg
059-03.jpg
(画像手前の構造物が今も現役の吉井川の水刎)

洪水に備え津山川の川幅は、水上の村落や山野の広狭を考えて
上流一里に対し、幅員を六間以上八間までに定めた。
津山川の水源、西々條郡上齋原村までは七里十一町の行程だったが
伯耆国の境までの川路が屈曲しているので十里余りあるものとみなし
津山町においては、岸に達する川幅が最も狭い八出村覗山下までの
距離を八十二間とした。
(津山)市中を南北に横断する宮川の源流の上横野村までは
二里九町余りだったが、川路屈曲から三里余りとし宮川大橋を二十六間とした。
翁川は水源まで一里以内だったが、市の西北部を取り囲むように流れているので
翁橋を八間一尺に定めた。

森氏入封後この排水の施策が行われない内は、慶長12年と17年の二度の洪水で
市中が浸水し、いくらか人家も流出したことは先代実録にも記載があるが
その後市内の備えが全て出来た後は、天明5年までの170年あまりにわたり
しばしば洪水があって、この施策のない沿岸で堤防が決壊したり浸水しても
津山市中では水災がなかったのは忠政の余沢である。


――『美作中古紀事』



伴惟安、妙向尼と森忠政を救い出す

2016年11月02日 17:11

森忠政   
283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 16:21:59.71 ID:e8s4vPn2
伴惟安妙向尼森忠政を救い出す


天正十年六月二日、京都に於いて信長・信忠親子と蘭丸、坊丸、力丸
伴氏の伴正林伴太郎左衛門等が討死したことは三日の辰刻には甲賀の伴惟安にも伝わった。

そのとき長可は川中島にいて、母の妙向尼と千丸(忠政)は人質のために安土にいたが
惟安は以前から可成、長可にとりわけ目をかけられていたので
「今お二人はさぞ途方に暮れていられるだろう」と一族で話し合い
四日に野越の間道を越え安土へ行き、妙向尼と千丸をお守りして五日に甲賀へ連れ帰り
二人をすぐに自分の家に移し、伴氏一党で番をした。

十三歳の千丸はどじょうすくいとカエル釣りが好きなので伴家の子供達は日々お供していた。
あるとき「お千殿、いざカエル釣りに行きましょう」と子供達が言うと親どもが来て
「大名のお子様だが、訳あって少しこちらにいらっしゃる間は
お千様とお呼びし、何事も逆らわずお心のままにするのです」
と堅く制したという。

長可が信州を引き払って金山に帰ってくると、九月十一日に甲賀に迎えを送ったが
伴一党は守山武佐筋に朝倉の残党がいる可能性を危惧し、伊勢街道をお供して
勢州坂下で妙向尼と千丸を迎えの金山の者に渡した。

この忠義により天正十二年の暮れ(長可が討死し忠政が家督を継いだ頃)に甲賀に迎えが送られ
十三年の春、伴惟安と惟利の親子は初めて森家へ出仕することになり
他の残った伴党もこの親子の口利きで召し出されることになったという。


――『森家先代実録』



徳守神社と森忠政の奉納鉄盾

2016年10月18日 18:39

森忠政   
252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:17:10.34 ID:aUAL/OcM
徳守神社と森忠政の奉納鉄盾


現在、大阪歴史博物館で行われている特別展『真田丸』に展示されている"鉄盾"は
森忠政が大坂の陣後に徳守神社に奉納したとされ、津山市の重要文化財に指定されている。

ttp://stat.ameba.jp/user_images/20160920/19/tokumorijinjya/7a/b5/j/o2336175213753264122.jpg
o2336175213753264122[1]


盾一つの大きさは縦91cm横44cmで15kgの重さがあり、一対で30kg。
ところどころに深さの異なるくぼみや、銃弾が当たって割れたような跡がある。

森家の記録には直接この鉄盾の記載はないものの、
『駿府記』等には大坂の陣のときに家康が備後から鍛冶を呼んで鉄盾を作らせ
城内からの銃撃を竹束で防いでいた諸大名に10張ずつ配ったという記述があり
そのときに使った物ではないかと推定されている。

徳守神社では津山城完成400周年を記念し、この鉄盾のレプリカを作成する。
10月23日に行われる徳守大祭には忠政が徳守神社を造営したときの時代背景を伝えるため
今年から従来の神事に加え津山城鉄砲隊と備州岡山城鉄砲隊の発砲演武などを行い
鉄盾のレプリカもその際に使用される予定。



253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:35:55.52 ID:PWWTSBp7
>>252
一応防げたのか

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:39:34.54 ID:gq55S696
鬼武蔵の眉間よりは頑丈だったということか

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 20:23:28.97 ID:YdJlLrny
古田織部のハゲ頭と組み合わせればこうかはばつぐんだ!

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 21:51:26.62 ID:9mEXkEVr
ソーラレイ+重装甲か

森武州の具足

2016年10月15日 10:41

森長可   
215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/15(土) 00:45:21.73 ID:3Myx/OD/
森武州の具足

第一巻に、森氏の先祖武蔵守の具足のことを言った。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10190.html

今年その孫美濃守〔初めは右兵衛佐。既に退隠して名を変えている。〕(森忠賛)と
逢ったときに物語した中で、この甲冑のことに及んだ。
濃州が言うには、甲冑は革具足で黒糸で威ていて、殊に粗末な物で、
なかなか大将の物とは見えなかった。
また小さい具足で、私が着てみると胸さきは空いていて、腹ばかりにある体であった。
兜は討死のとき首とともに敵に渡したので、家にはなく、今は井伊家に伝わっている。
とのことだそうだ。

前記と違うがそのまま記した。

(甲子夜話)

小さい事には変わりはありませんね
結局鬼武蔵の兜は永井家か、井伊家か、どっちの家にあったのでしょうか



それがしは家康公へ庭先のハシゴを差し上げたが

2016年10月14日 21:12

森可政   
212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/14(金) 14:54:41.43 ID:UGi9nDJa
徳川家には……


春も末のある時、森可政(森可成の弟で忠政の叔父)が忠政へ生の鱸を差し上げようとしたところ
近習衆は「忠政公は奥にいらっしゃるので今お披露目するのは難しい」
と断りそのまま持っていこうとした。

可政は大いに腹を立てて
「この時分は落ち目のナマモノがあるので、忠政殿はお出でになるべきだ。
ナマモノを直接ご覧にならないのは以ての外である!先年それがしは家康公へ庭先のハシゴを差し上げたが
御列座の衆は
『あの可政は秀吉公の代には黄母衣の御大役として口を聞くような者だったが、庭先のハシゴをくれたのか』
と機嫌よく家康公の御前へ持っていってくださった。何を差し上げようとも
『公儀の場よりも奥の間にいるので披露できません』と返すような御列座の衆は徳川家にはいなかったぞ!
早く取り返してきてくだされ!」
と言ったので近習衆は驚き早々に生の鱸を忠政に披露したということだ。


――『武家聞伝記』




今が御侍の世の中だ

2016年09月01日 17:52

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 09:28:23.41 ID:OMaP3/ky
今が御侍の世の中だ

(美作国)大庭郡湯原村に住む宗玄という百歳超えの長寿の老人が言うには
今は御侍の世の中だという。

「某(宗玄)が若き時分は、笹向の侍、飯山の侍、一瀬の侍衆は
表裏によく糊を付けた白い布を打ってそこに綿を入れ布子にし、着物にしていた。
備前からの通路が不自由なので朝夕は麦飯と赤鰯しか食べることが出来ず
『誰尊上(目上の人)とは久しく会っていないなぁ』と言えば
『十日以上前に討ち死にして、毛利家に首を取られたよ』と言われて
『(奉公してから)そんなに間がなかっただろう』と聞けば
『奉公して三十日で討ち死にしたらしい』と言われた」

「今の侍は小袖を着て白米飯には肴を添え、その上敵に首を狙われる事もないので
今が御侍の世の中だ」と言ったとかいうことだ。

――『森家先代実録』



51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 00:05:46.39 ID:TDgDkPzi
>>49
森家ってあの森家?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 09:24:33.24 ID:HDiKfvez
>>51
先代実録自体はいろんな書からの集成なんで(家記は大体そうだけど)
森家自体の話ではなくて森家が入った津山の地元の侍の話ね

森武蔵守戦死のときの甲冑所在の事

2016年08月24日 18:15

森長可   
32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 21:27:08.57 ID:JLm47JcP
森武蔵守戦死のときの甲冑所在の事

予が在勤していたとき、森右兵衛佐(忠賛)〔赤穂城主〕としばしば会った。
そのとき彼が語った中で、

彼の先祖の武蔵守は、世に鬼武蔵と称されていて、
長久手で戦死した時に着ていた具足が今に家伝しており、
糸威の鎧であるが、小兵と思われて、胴が小さく某には合わなかったとの話が出た。

この右兵衛佐もさほど大兵ではないので、かの鬼武蔵というのは
世の沙汰には似ず小兵と見える。

またその時着ていた兜は家には伝わってない。
聞くところでは永井の家にあると語った。

(甲子夜話)

鬼武蔵チビ説

関連
森武州の具足


33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 21:36:21.16 ID:fxMtgD6b
鬼さん、ちびっこだったんか

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 21:43:13.34 ID:67sBkC92
>>32
信憑性が気になる

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 23:52:10.01 ID:AYGW6QM6
松浦静山が実際に聞いたってんだから、森忠賛がとりあえずつけてみたのは確かなんだろう
本当に森長可の具足だったのかどうかはさておき

でも小さくても鬼のように強いとかたまにあることだし

松平の家がある限り

2016年08月12日 18:56

森忠政   
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/12(金) 13:27:31.42 ID:s4KcRqqy
松平の家がある限り


慶長三年の冬、石田三成が家康を暗殺しようとしているという噂があり、
その警戒のために伏見向嶋の家康の屋敷に諸大名が毎日出入りしていた。
森忠政細川忠興と示し合わせ、御供には具足と食物を挟箱に入れて持ってくるように言って
家康邸に三日三晩一緒に詰めて(自分の)屋敷には帰らなかった。

夜中に家康公は井伊直政に手燭を持たせ(忠政と忠興を書院に呼び出して)お出ましになると
「両人の懇志は言葉に言い尽くせないほどです。大坂方には詮なきことを企んでいる者がいること
聞き及んでいますが、もし万一そのような者が(本当に)いたときは
大坂方面に信頼できる者を配置しているので大坂勢が出陣することがあればすぐに注進があるでしょう」

「そうなればこの屋敷にいても守るのは難しいので大仏へ閉じこもり防戦をする覚悟です。
両人の衆もそのときは大仏で戦ってもらうことになるので自分の屋敷へ帰って一報を待って下さい。
必ず使者が参ります。いずれの衆(他の諸大名)にもこのことは伝えませんでしたが
両人の深切は他と異なるので内々に申し合わせておこうと思いました」

そうして家康公は御両将(忠政・忠興)の御手を一度にお握りになると
「松平の家がある限り末々まで今回の心遣いを忘れません」と仰せられたと言う。

――『森家先代実録』



大将の兜、鉛痕

2016年07月14日 13:11

森可成   
851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 22:48:09.91 ID:nZuFrBJI
大将の兜、鉛痕

 今冬、赤穂老侯〔美濃守忠賛〕が予の荘を訪ねられた。
そのときの談中で、
「私の祖の三左衛門〔可成〕が着られた兜が今も伝わっている。
鉢の側には銃鉛が半ば打ち込まれた痕がある。
上の方にも十文目の鉛痕がある。これは上にすべったかと思われる。
このような事に遭っても、やはり着ておられたものなのか。」
と話された。

 先年仁正寺侯〔下総守長昭〕の祖の長勝〔初め平左衛門、後に下総守〕が着られた
一谷と称する兜の図を侯が示したものを写しおいた。
この兜には後立がある。大きな版のようなものであった。
これにも銃鉛の痕があると聞いた。

 聞き伝わることには、板倉内膳正(重昌)は、正月元日に天草の城を攻めたとき、
城中の賊が、十文目筒で内膳正の兜を打つと、真向かいに当たり、
内膳はすぐに落馬して死んだ。
徒士は内膳を負って退き、兜を脱いで見てみると、鉢に弾が当たったが貫通していなかった。
内膳の頭は砕けて腐肉のようになっていたという。

(甲子夜話)