231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 04:07:09.23 ID:2ZKpV0XZ
森武蔵守平井頼母を討つ
岩村城主・森蘭丸は京都本能寺の変に殉じたので、森氏家中の各務兵庫(元正)を城代に遣わした。土岐の
高山・小里及び明智分は城附である。
高山の城主・平井頼母方へ
森長可は使者をもって曰く、「貴殿の領地は当方の朱印の内なので、紛れもなく
当家中である。そうであるからには金山に屋敷を渡し申すので、近日参着して受けとるように」と。平井は
使者に対面し「下命の趣、つぶさに承る」と言って、急に返状をしたためて使者に渡した。
来命を受けるといえども、いささか承知しがたい。
さて私は元来播磨国に城を有し、昔より数代の将軍にかしずき、諸騒乱の時のみならず木曽の戦の砌に
は、織田信長公に従って木曽路に迫り、丹波国の住人・西尾某は3百余人を率いて上海道を固めて、土
岐郡釡戸境権現の城を守った。某もまた2百余騎を率いて伊賀・伊勢・尾張から下海道の要害として当
城を固め、ついに軍功をなして自力の働きあり。
しかるに何故、今新たに武蔵守に属すというのか。まったくもって思慮に及ばぬなり。よって返状かく
の如し。
天正11末年(1583)正月
平井頼母佐 森武蔵守殿
この返状が武蔵守のもとに至る。武蔵守はこれを見て「頼母方は当方の領分でありながら、謂れなきこの言
い立て、近頃のわがままな振る舞い以ての外である! 高山の城へ押し寄せて討ち取るべし、用意せよ!」
と命ず。時に森主水が進んで曰く「今の治平の世に、私に弓矢を弄んではこれ偏に乱を好むようなものです。
私がよろしくこれを処しましょう」と。武蔵守が主水に任じると、主水はすなわち家中の
高木与一を久々利
に招いて、密かに内談した。
与一は分別して「まず私が高山の城主・頼母に対面して、計略をもって我が方へ招き寄せて詰腹を切らせま
しょう。私に了見があります」と言い、高山の城へ馳せ参った。頼母に対面すると慇懃に一礼を述べ、次に
「今日某が来城したのは別儀にあらず。この度、貴方より武蔵守へ返状した趣を、君公(長可)は甚だしく
立腹しています。しかしながら私がよろしく取り成し、そのうえ和睦を取り繕うとしています。内談もして
頂ければ」と来訪を勧めた。頼母はその好意を感謝し、「明日推参する」と約束した。
高木与一は急ぎ立ち
帰り、屈強の武者2,30人に旨を含めて、頼母が来るのを待った。
平井は家老の土本某とその他家来2人を連れて、久々利に高木を訪ねた。与一は迎え出て、山海の珍味でこ
れを遇した。予め用意した兵どもは広縁の先に出ると「森武蔵守の命である! 平井頼母急ぎ切腹せよ!」と
大音声で呼ばわった。
平井は思いも寄らず「そのこと心得難し! 誰かある!」と呼べば、随行の家老を始めとして部下2,3人が
太刀を抜き、切り出て守り戦うも衆寡敵せず、多勢に切り立てられついに土本は討たれ、他の者どもは皆逃
れ去った。平井も今や叶わぬと思ったのか押し肌を脱いで、「口惜しや! 高木に謀られたるか!」と腹を十
文字に掻き切って死んだ。与一は立ち寄って首を掻き、ただちに武蔵守に送った。
この報が高山に至る。頼母の嫡子・巳之助はすでに13歳の時に母と離別し、今また18歳で父を討たれて
愁嘆限りなし。頼母の妾のまのという者は腹に子を持っていた。
時に巳之助は命長らえても仕方のないことと既に切腹せんとするのを、まのはすがり付いて「どうして切腹
するのです! 播州には一門多し、一先ずはかの地へ忍び、両親の御菩提のために出家しなされ! まず私の
故郷である渡合の里に姥母の家もありますから、ここへ忍ばれませ。幸いにもまた、虎渓山の慶徳院の僧は
播州生まれで、先君と縁だと常に承っておりますから、播州への案内も私から願い出ましょう。それ故、急
ぎ渡合の里へ忍びなされ!」と諫めれば、巳之助ももっともであると部下1人を連れて渡合へ落ちて行った。
232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 04:14:45.25 ID:2ZKpV0XZ
小里城主・和田彦五郎、明智城主・遠山民部(景行)らはこの由を聞き、密かに城を開けて各々立ち退いた。
さて小里・明智の両城主は三河辺りに隠れる。武蔵守は高山の次第を聞き、林長兵衛(為忠)を城代とする。
さて林長兵衛はその城下の百姓どもを召し寄せ「この度、平井の一子・巳之助が落去した。所在が分かった
らただちに当方へ知らせよ」と命ず。百姓どもは村々家並に触れを出した。しかるに渡合にいたまのの母は
この由を聞いたことにより娘に密かに告げ、「巳之助を匿ってもし高山に漏れ聞こえたら、どんな憂き目に
あうかも計り難い。密かに訴人して汝も我も命を逃れようと思うがどうか」と語った。
まのは思って「さてはもはや命のほども知れた老母! 今際も知れぬ歳で訴人し命長らえようと計る所存は、
親子ながら恨めしい!」と申せば老母は手持無沙汰の顔をして、ただしおしおと立ち出て後ろの山に登って
行く。まのはこの様子を見るなり「さては訴人するか!」と合点して、老母の心底委細を巳之助に告げた。
巳之助は「そうだろうな。某はこのように世に落ちたのだから是非もなし。討手が向かうなら討死する所存
である。汝は若君を連れてここから妻木の家中に忍び、中垣助右衛門を訪ねて行って、この由かくの如しと
頼み申せ」とあって、まのは仰せを承る。
「私とて女であっても心は男に違いありません。この若君を刺し殺して御最期の御供申さん! たとえ討手
が50騎,百騎来ようとも私が防ぎ申します! 主君はその間に御自害なされよ!」と、まのは足を上げて
力足を踏めば、大地も動くほどであった。
巳之助もこの有様を見て「汝は常に柔和に見えたが今の有様は、まことに木曽義仲の妾の巴とやらもどうし
て汝に勝てようか。たとえ軍兵50騎,百騎が押し寄せてくるとも恐れるに足らず。けれども今を限りの我
が命、所詮長らえることはできない。是非若君を連れて落ち、成長すれば父母、次には私の忌日も語り知ら
せて菩提を頼むぞ!」と是非に是非にと促せば、まのも今は力及ばずして「主君の仰せならば」と泣く泣く
妻木の城下へ落ちて行った。
そこへ討手の大勢が馳せ来たり「頼母の一子・巳之助がここにいる由により討手に向かった! 早く御切腹
あらせられよ!」と呼ばわると、「平井の一子・巳之助これにあり!」と言うやいなや太刀を振りかざして
受けつ開きつ戦ったが、さしもの大勢に切り立てられて思わず後ろのいり(圦か)へ落ち込んだ。討手の者
どもがこれを見て、松明に火を付け振るが如くに投げ込めば、どうして堪えられようか、ついに巳之助は空
しくなりにけり。討手の者どもは首を取り、勝鬨を揚げて帰った。
また、まのはようやく妻木の城下に着き、中垣助右衛門を訪ねて泣く泣く始終を語れば、助右衛門はこれを
聞き「さても頼母氏は切腹、巳之助も今を限りとは痛ましき有様なるかな。願いのままに親子諸共匿い申す
のは安きことだが、ここは高山に程近い。幸い尾州品野の里に永井作右エ門という私の縁者がいる。私から
書状をもって頼み送ろう。まず今宵はここで休息せよ」と心を尽くして言った。
まのは一入力を得て当方の子を抱いて中垣に向かい「このうえの情には、この君は未だ名もありません。名
を付けて頂ければ生々の情でございます」と申すと、中垣は「しからば」と自分の名を形取り“平井助五郎”
と呼ばしむ。程なく夜も明ければ、仲間1人を添えて尾州品野村の永井氏へ送られた。作右エ門は承知して
「5年,10年匿い申そう!」と頼もしく申されたので、諸共に安堵したのである。
かくて助五郎まだ7歳の時、土岐郡の某はかねてこの事々を詳しく伝え聞き「養子にしたい」と永井氏へ申
し入れると、永井氏は「いかにも所望に任せよう。しかしながらこの人は深い由緒のある者なので、養子と
なされても平井の名字を名乗らせられたし」と、肥田の某の方へ送り遣わした。しかるにこの時は
森長可は
討死して、舎弟の森右近忠政の代であった。
――『妻木戦記』
234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:55:25.67 ID:BTnI+Yho
>>232
戦国の世とはいえ読んでてつらい