成政の治水

2015年12月11日 07:33

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/11(金) 02:09:45.15 ID:eZBB58jF
天正8年秋、富山では長雨が連日止まず、大いに出水した。
旧来、神通川は呉服山の麓を流れたが、この時から河身は東に転じ、
富山城の後ろに傾注したという。

また常願寺川も氾濫して富山城を浸し、家屋は漂流して人馬の溺死も
数え切れなかった。城主・佐々成政は大いにこれを憂いて、その後の
水患を除こうと望み、被害地を巡検して大いに治水に力を尽くした。

成政は馬を馬瀬口に進めて自ら人夫を指揮し、土石を運搬させ、
記念として巨岩に自分の氏名を刻み、これを河底に埋めて、その上に
堅固な石堤(敷石25間)を築いた。

また新たに洪水のために分派した支川を鼬川と名付け、原野を開墾して
禾穀を植えさせた。

――『富山市史』




スポンサーサイト

何事も変わり果てたる世の中に

2015年11月30日 07:20

696 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/30(月) 02:01:57.71 ID:jPpIu+lP
何事も変わり果てたる世の中に

佐々成政は、日本アルプスを踏破して12月1日、信州上諏訪に到着した。
諏訪頼忠からの第一報を受けた徳川家康は、この予想だにしなかった来客の報に驚き、
乗馬50匹・伝馬100匹を迎いとして出立させたという。
成政は駿府で一旦歓待された後、間を置かず遠州浜松に移動し、12月4日いよいよ対面となった。
結果はよく知られているように、家康側は外交的な辞令に終始し、
落胆した成政は信雄に謁見するため12月10日頃、清須に向かった。
成政は「将来必ず織田家の立場は危うくなる」と根気強く説得したが、
信雄は態度を左右するのみで、徒に月日は過ぎていった。
成政は滝川勝利とも面会し、滝川家を通じて信雄の再挙兵を促そうとした。
が、小牧・長久手合戦後、伊勢の所領を失い零落していた滝川家の近況を見知るにつけ、
成政は反・羽柴陣営の再構築が完全に困難であることを痛感し、相当な衝撃を受けた。
 
望みを絶たれた成政一行は、12月26日清須を出立。
来た道を引き返しながら、浜松城を経由し、再び越中へ戻ることになった。
その前に、成政と共に越山した佐々政元、前野勝長(前野長康の弟)等は、
最後の帰郷になるかもしれないと各々の故地に立ち寄っている。
ある者は付き従った従僕を留め置き、ある者は以下のように悲壮な思いを語っている。
「末森合戦の結果、主人・内蔵助の娘は大坂で磔にされております。殿の頭からは姫子を見捨てて、
織田家を取ったのだという思いが強いようです。ここに至っては、越中に立て籠って
筑前守と最後の一戦を交わし、越中武者の忠節を上方に思い知らせるのみです・・・」。

得るものもなく、再び厳寒の日本アルプスを前にした時、成政の頭には何が過ぎったのだろうか。
家康の当り障りのない対応、煮え切らない信雄、滝川家の零落、見殺しにした娘、そして信長。
本能寺の変からまだ3年と経たず、世の中はあまりに大きく変化してしまった。
そんな思いを胸に、成政をこの時、以下のような詩を詠んだという。

「何事も 変わり果てたる世の中に 知らでや雪の白く降るらん」

(武功夜話、家忠日記など)

※この詩については、成政降伏後に詠まれたとの説もありますが、成政降伏時は1585年8月。
真夏の盛りに詠むかな?と私は思いましたので、さらさら越え後に詠まれた説を支持したいと思ってます。
第一、その方がロマンチック。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 21:54:25.33 ID:ht74SbzR
>>696
「信長が亡くなった後、日本の大部分は動揺し混乱した。
 そして諸国、環境、また個人の上にあまりにも多くの変化があったので、あたかも突如として別世界が出現した観があった。」

フロイス日本史

こうして成政は肥後国にはめ置かれた。

2015年10月16日 13:40

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 20:43:33.97 ID:RVfz5yB3
豊臣秀吉は九州征伐を終えると、思った
「肥後の国を平和な人間に与えた場合、たちまち一揆が起こること必定である。
であれば佐々内蔵助(成政)を召し出し、この国にはめ置こう。」

そして佐々成政を召し出し、抜け目なしに一国を宛てがった。
また肥後国内の一揆の四人には、1万2,3千石づつ与えた。

その上で秀吉は、一度没落した佐々成政の人数は、方々に散っているであろうと考え、

『成政を召し出すので、成政がかつて抱え置いていた者達は、彼は国大名になるので
帰ってくるように』

との制札を、九州から京、堺まで立てた。このため成政の旧家臣は残らず成政のもとに
戻り集まった。

また、武具鉄砲以下は越中を没落した時、居城であった富山に残し置いていたのを、
秀吉が前田利家に申し付けたところ、諸道具は成政が残した時と少しも違わず、そのまま
大阪に差し上げられた。

それから、成政は肥後に船で向かった。大阪より2万石の米が、転封の費用として
援助された。また銀子千枚、鞍置き馬50疋が成政に拝領された。
こうして成政は肥後国にはめ置かれた。

(川角太閤記)

もしかして肥後国人一揆が起こったのって、秀吉が変に気を回して成政の家臣団みんな呼び戻したせいでは
ないだろうか…




495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 21:05:23.53 ID:Lpm+lIzk
まぁそりゃ新参の家臣主体じゃ佐々も困るだろうけど
最後の文読むまではいい話に見えた

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 23:02:10.72 ID:9FyttcUj
>>494
それはない
奥州の木村をみてみろ

成政、諸国より勇士を集めること

2015年03月17日 18:31

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 01:55:43.08 ID:VZePkvoA
成政、諸国より勇士を集めること

 佐々内蔵助成政の領国の越中は大国と申せども、過分の数の軍兵を召し抱えられていることは不審に思われるのも最もであった。
 その故は成政は謀反の心を抱き、尾張内府(織田信雄)と徳川(家康)殿に加担し、
『北国の大将』と呼ばれたいと心中に思われたからである。
越中は山の多い国であるから、知行の内に、山野までも含めたり、
或いは、上方から知行五千石と約束して呼び出し六千石、七千石、
又は、千石と言って千五百石を判形(知行を与える際の署名)で保証したりしたので、我も我もと越中を志して下ったのである。
 ところが所付(領知の内訳を記した文書)を見ると石高は一割五分から二割足らないものであったので、
人に知られた侍達は暇を乞い上洛したり、あるいは加州利家卿に認められ暇を出す者も多かった。
その内に加賀越中に争いが生じたので、さすがに兵達も成政を見捨て上洛もし難く、そのまま留まらざるを得なくなり、
越中勢は思いの外人数が多かったのである。
(末森記)

成政の浪人採用事情の裏話



575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 09:56:22.71 ID:qqL96DcH
ブラックと社畜ですね

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 18:16:19.16 ID:VyNDIpmW
銭をけちって兵を集められなかった前田家が佐々よりも兵が少なかった言い訳をしているみたいw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/18(水) 02:37:23.95 ID:987CuGCF
前田側の資料だし悪く書かれるのは当然だよな

円隆寺とさんさい踊り

2015年02月10日 18:45

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 11:26:39.59 ID:KT02FOvC
円隆寺とさんさい踊り

 本寺は正覚山円隆寺と称する天台宗のお寺で、初代富山藩主、前田利次公の富山城入り以来、
代々前田家の祈願所としての格式をもっていた。はやり病を払うという京都の祇園さまや、女性の川流れ除けの神とされ、
「かわうそ大明神」の呼び名で親しまれている如意輪観世音菩薩坐像を祀り、特に女性の参詣が多い。
 さんさい踊りは、毎年七月十四・十五日の両日円隆寺の祇園会の宵に、
同寺の境内を中心にくりひろげられる盆踊りで、女の子だけの盆踊りということで全国的にも珍しい民衆芸能といえる。
この踊りの起源は、利次公が初代藩主として入城した寛永十六年(一六三九年)頃であろうと伝えられる。
「サーンサンサイ、ヨンサノヨヨナーイ」というはやしことばには、
「もう佐々(成政)の世ではない」という、前田家の治世を謳歌する意味合いがこめられているという。

富山県富山市の円隆寺前の立て看板より




佐々が越中にいたのって精々数年だし、
寛永のころにはもう一昔前の人だと思われてそうだが

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 14:23:14.82 ID:xMugn9Xw
忠興「呼んだ?」

佐々成政という人は大変な人傑である

2014年08月11日 19:13

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 00:11:51.56 ID:Z2oXRHJt
佐々成政が、いわゆるさらさら越をして、密かに浜松の徳川家康の元に辿り着いた時のこと。
家康は家臣の高力與次郎正長を召して
佐々成政という人は大変な人傑である。ああいった人物とは知人と成って、その様子を
見習うように」と命じた。

さて、家康は佐々に
「私は元より秀吉と遺恨はありません。しかし信雄殿の衰弱を見るに忍びなく、故織田殿の
旧好を忘れかね、わずかにこれを助けたのみなのです。ですが、信雄殿が秀吉と
和議を結んだと聞けば、私のこれまでの信義も、詮無きことに成りました。

さりながら成政殿が旧主の為に義兵を起こすというのであれば、私からも援兵を出しましょう。」
そう言って懇ろに饗した。

この後、成政は家康との物語の中に、家康を武田信玄に、自身を上杉謙信に比して
大いに自負の念を披露した。

酒井忠次は、この佐々の自負を聞いて大変に腹を立て
「ああいう馬鹿者に御加勢なさることは無用です!」と家康に詰め寄った。
しかし家康は

「彼は元より大剛の士であるのだから、その勇気に任せて、失言をしてしまうのも仕方がない。
そんな事を気にしてはいけない。」

と語った。

(柏崎物語)

家康が、佐々成政を非常に高く評価している逸話である。




505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 06:58:20.07 ID:JPzfnsZ7
>>501
評価してると言うより、短所があるからと言って長所まで否定しない話に見える

佐々成政の滅亡について

2012年12月30日 19:50

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/30(日) 17:58:24.40 ID:6swtotlv
佐々陸奥守は柴田などと同じく織田信長譜代の家である。信長の死後、
太閤を討つも降参して坊主になり大津へやって来た。この時、太閤は
大津城にいて陸奥守の礼を受ける。

さて陸奥入道は、大津の城中で武道の談話があった時に浅野弾正殿を
散々に叱った。「武道の事はお前などが知ることではない」とのことで、
聞いた人は皆「後々不味いことになるだろう」と言った。

太閤は肥後半国を陸奥守に与えた。入部の後に一揆があって状況は
悪くなり遂に陸奥守は身を滅ぼした。弾正殿の妨げもあったという。
陸奥守の入道号は道閑、尾崎の寺にて自滅。尾崎に石塔があるという。

――『老人雑話』




945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/30(日) 18:30:24.49 ID:jGus6LDt
日本人が他人の間違えを訂正するときついでに人格否定になってしまうのはいつからの伝統なんだろう?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 08:53:40.44 ID:i/jmB30T
浅野さん宇都宮でも何かやらかしてるし
権勢をかさに着たこの種の横柄な公私混同は豊臣の家風なのかね?

昔懐かしい某大河ドラマだと豊臣の天下が終わった途端
恨みを我慢してた伊達さんから出入り禁止食らってたじゃん

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 09:10:08.90 ID:FQuRrf3p
伊達が逆恨みしてただけじゃねーのw

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 09:14:22.76 ID:yEczM5Nn
内匠頭の事を考えると、家風ってのも納得できちゃう

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 15:15:03.10 ID:GPkwHloS
浅野って北条攻めで小勢ばっかり攻めて恩賞貰えなかったり、九戸に圧倒的兵力で
歯が立たなかったりで戦ではろくなイメージが無いな

挙げ句宇都宮の件に加えて佐々まで・・・

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:33:27.76 ID:di0KPi6D
長政ってどういうわけか地味に嫌われてるよな

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:43:39.54 ID:xzIqKjG7
長政自身の問題もあるかもだけど
立ち位置的に恨まれやすい立ち位置だったという気もする

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:51:10.22 ID:hcZfLqjy
伜どもの活躍で浅野家に悪いイメージはない

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:03:09.32 ID:di0KPi6D
思えば奥州仕置あたりも汚れ役もいいとこだよなぁ
「とりあえず奴のせいにしておけば丸く収まる」的ポジションだったのかねぇ・・・

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:25:51.52 ID:c0om2kDi
>>953
それだけ豊臣という権力が急進且つ不安定だった、というのもあったとは思う。
制圧する手段に信服させる段取りが追いついてなかったというか。

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:29:20.71 ID:rsk1zaCt
豊臣風なんてものはない、全て誰かの猿真似なんだから。

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:57:39.65 ID:pay35FP+
戦国時代の浅野家に悪いイメージは無い
だが赤穂浅野テメェーはダメだ、知れば知るほど殿様は擁護できなくなる

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:11:14.54 ID:SeZsMtLu
電柱に子猿、電柱に子猿!

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:19:01.75 ID:bsCCajT9
お前ら、何度も既出だが「長政」って略すなw

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:22:16.19 ID:ForaGXAd
ちくしょうw
うちの方リアルに猿ときどき出るから普通に電柱に登る子猿想像しちまって「?」てなったw

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:23:13.97 ID:Df2MEhDu
黒田のほうはNGMSと略すと決まっているし、
木沢や山田はほとんど出てこないし、
浅井は浅井でだいたい出てくるし、
弾正を使うとだとこのスレでは爆死と決まってるから長政でおk

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:32:48.82 ID:SeZsMtLu
高坂「…」
真田「…」
保科「…」

決めつけイクナイ

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:41:30.56 ID:Df2MEhDu
その三人は弾正だと三弾正の誰かわからないから、
受け弾正、攻め弾正、槍弾正で弾正単独では出てこない
[ 続きを読む ]

佐々成政の最期

2012年09月01日 20:57

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 01:37:12.60 ID:eWA0Nf07
肥後国人一揆も概ね制圧されると天正16年(1588)、秀吉は上意によって佐々成政に畿内に上がるよう命令した。
そこで成政は直ぐに尼崎まで上がり、その地の法華寺にて命を待っていた所、遺恨のある弾正殿(浅野長政)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6740.html参照)が支障を申し立てたわけでは無いのだろうが、
藤堂和泉守(高虎)が検使として派遣され、秀吉の御意を伝えた。それには

『去年九州に馬を出し(九州征伐)、西国においてはめでたく相治まったはずなのに、そこで肥後に一揆が蜂起したのは、
すべて内蔵助(佐々成政)が時分をわきまえず厳しい施政を行ったためである。それにより天下の騒ぎを
起こしてしまった!
小早川隆景も統治の難しい国に遣わしたが、彼は何事も神妙に仕置きしたため、見事に鎮めたと聞いている!

私はやがて東国に出馬しようと考えているというのに、西国の統治が動揺しているように東国に伝わり、
東国に私の政権能力に対し疑問を抱かせた、そして諸大名への今後の見せしめのため!』

切腹を命じた。


成政はこれに従い、庭の泉水の所まで行き石に腰掛け家臣の主馬を呼び出し、金30枚、その他身の回りの衣装など
すべて主馬に渡し、自分の座っている石を見て

「この石は内蔵助腰掛岩と呼び伝えよ!!」

そう言うと腹を十文字に掻っ切り臓腑を掴み出し「時分は良いぞ!」と、己の頸を差し出した。
そこを、藤堂高虎が介錯したとも、また小姓が介錯したのだとも後に沙汰された。
(川角太閤記)

秀吉の言うことによれば、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6744.htmlで小早川隆景が一揆を起こさなかった事も、
成政切腹の理由になったのですね。

佐々成政の最期についての逸話である





佐々成政の大蛇退治

2012年08月22日 20:51

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 17:19:36.77 ID:W4C+cbjW

佐々成政が越中を支配していた頃、国中を栄えさせるために古道を改修することにした。
ある所に両方を山に囲まれた三十間ばかりの大きな淵があった。谷底を廻って行く
難所だったので、成政はここに橋を掛けて、安心して往来できるようにしようと考えた。

ところが住民によると「昔からここには大蛇が住んでいて、毎年必ず犠牲者が出ます。
旅人はその話を聞いてここを通ろうとはしません」ということだった。

「それは本当か。なんて悪い奴だ。昔は好き勝手できたのだろうが、今は私の領地だ。
往来の邪魔は許さぬ。それならば早く追い出してしまおう」と言うと成政は淵に

石火矢を仕掛け、兵を集めて「私はこの国の守護として、この街道を昔のように
旅人が安心して通れるようにしようとしている。お前が毎年人を喰らっていることは
けしからんことだ。早くここから立ち去れ。何処へなりとも人の迷惑にならない所へ

行け。出て行かないなら酷いことになるぞ。まずは手並みを見せてやろう」と
石火矢数挺を天地も響くばかりに淵の底に打ち込ませた。

すると水面が逆波を立てて震動し始めて突然霧が降り、四方は暗くなった。
そして底より大蛇が長い竿のように出でると、それは一直線に十六、七町飛んで
山の尾崎に落ちた。この時、大地は大きく震動して山は崩れ、五十間ほどの
淵ができた。大蛇はそこを新しい棲みかとした。

この出来事の後、初めの淵に橋が掛けられ、往来は便利になったということだ。

――『名将言行録』

日本昔ばなしみたいな逸話。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2174.html
上の逸話とは何か関係があるのかな?




176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 18:00:19.63 ID:H2BgoqMO
追い出すだけで退治はしてくれなかったのか…

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 18:54:50.14 ID:gIVvrAPU
特に悪さもしていない巨大すっぽんを虐殺した鬼武蔵とどうして差がついたか

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 21:52:43.38 ID:CXChx6EW
佐々と蛇といえばあまが池での信長暗殺未遂(´・ω・`)

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 22:27:22.59 ID:FHB3GzUE
佐々とか勝家の歌は綺麗だよな
オレの偏見だけど愛知人て芸術性には疎い感じがするけど、
信長配下の歌は素晴らしいのが多い
まあ、戦国時代は愛知が一番輝いていた時代だからな

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 22:58:11.04 ID:juAjoS+I
まあでも尾張人と三河人では結構違いあると思いますし

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 23:14:52.55 ID:FHB3GzUE
三河って東国気質だよね
今でも名古屋人てより静岡人っぽいもん

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 23:39:47.10 ID:/ZQR3Cu5
東三河と西三河でも結構ちがうからなあ

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 00:25:34.85 ID:MPz4H9Ho
>>180
徳川宗春「もっと金を大放出じゃ! 篝火を焚け! 飲めや、歌えや、名古屋をもっと輝かせるのじゃ!」

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 01:37:04.84 ID:JVi/jbOU
尾張の歌は雅やか
三河の歌は土ストレートだよな
鳥居さんとか忠勝さんとかw
三河の歌は幕末で言うと土方さんみたいな感じ
技巧はないけど、なにを言いたいかは物凄く伝わってくるw

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 07:08:58.56 ID:S2SfW5cB
信秀がやたらと貴族を引っ張ってきて勉強会を開いていたからでしょ?

佐々成政「謙信などという者は」

2012年06月14日 21:07

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 20:52:17.68 ID:vpGfu2C7
ある時、富山城の佐々内蔵助成政は、城内に桜の馬場が完成したというのでそこに出向くことにした。
そしてこの時、氷見郡阿尾城主であった菊池伊豆入道(武勝)にも出仕するよう申し付けた。

菊池入道は「私はもう隠居した身です。どうぞお許し下さい」と申し上げたが、たっての事だと言われ、罷り出ることになった。

さて、出仕してみると成政は御機嫌で酒など飲んでおり、菊池入道を見つけると、”なますの盃”という秘蔵の盃を取り出し酒を注がせ入道を呼び

「其方、この盃で一献指すがよい」

と言う。菊池入道は喜び「忝き次第です。生前の大慶、これに過ぎることはありません。成政様が
常々おっしゃっているように、この盃は常にはお出しすることのない物です。有難いことです。」

と一盃飲み干し、盃をそこに置いて立ち下がろうとした。と、ここで成政
「その盃をこちらにも指さないか。」

返杯をせよ、というのである。しかし盃を交わすというのは同格かそれに近い者の間ですることである。これには菊池入道恐縮し

「いかに成政様の仰せと言えどもそれは憚るべきことです。どうかお許し下さい。」などと必死にこれを
断ろうとした。しかし成政は

「其の方は常の人並みの者ではない。ただ、私に返杯するのだ。」

これには菊池入道も「重ねて御辞退するのも、憚りのあることです。」
この待遇に感激した菊池入道は、御前に自分が飲んだ盃を置くと

「さてさて忝き次第。この度の返杯の仰せ付け、吾が家の威光となるものでございます。
このためわたくし、御前を憚らず御肴を進上したいと思います。

そう言うと指していた脇差を抜き

「この脇差は鬼神大王と言いまして、上杉謙信が当国に討ち入られました時に私に下されたものです。
上杉謙信は、7ヶ国の管領となりました。殿様もどうか、謙信に御あやかりください。」

と、成政に進上した。ここまではいい話である

これを聞くと成政はみるみる機嫌を損じた
「さてさて年寄りめ途方に暮れ、うつけたことを言い出したものよ!
あの謙信などという者は、私の足元にも及ばない人物だ!それにあやかれとは、どういうことだ!?」

そのように激しく叱りつけた。この時菊池入道は脇差を下げることもできず、だからと言って
進上することも出来ない状況で申し上げたことには

「御尤も千万でございます!上様(織田信長)がお亡くなりになり、今や御前(成政)が天下を得ること、
疑いありません。この年寄り、うつけを申し上げてしまいました。

しかしながらこの脇差を引けとは仰らないでください。お酌をしている小姓の方に、これを差し上げたいと思います。
小姓殿、殿様は天下の主。あなたは殿様の御太刀かげにて、謙信にあやかり、7ヶ国取り給え。」
そうして盃も脇差も小姓に渡した。

「私も頼もしいことです。殿様太刀かげにて一国の主にもしていただけるでしょう。」

これに成政、たちまち機嫌を直し
「尤もである!あれらは謙信にあやかるのが良い!」そう笑った。

さて、菊池入道がその座を立って帰宅するという時、傍輩にこんな事を言い残した
「今日も面目を失ってしまったよ。是非もないことだ。これは私が老耄してしまったせいであり、
今後はもう、公の場所には出ないようにするよ。とすればこの富山城も、今日が見納めか…。」

菊池伊豆入道武勝が佐々成政から前田利家に寝返ったのは、それから間もなくのことであった。
(菊池文書)




899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 21:22:16.49 ID:B3IkbAH6
信長が死んでよほどうかれてたんだな 佐々

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 22:34:31.62 ID:Mz61eB0V
惜しいな佐々
ちょっと足りない

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 13:52:04.49 ID:f2rPJSJg
>>899
ノブが死んでうかれる?
佐々,前田、丹羽は、ノブが死んで秀吉が出しゃばって、内心残念な気分では

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 14:04:27.17 ID:nKUDRsxz
そんな気持ちはさらさら越え

徳川家康と佐々成政

2012年05月13日 21:03

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 14:55:58.88 ID:mQAiqYTz
長久手の戦いの後、佐々成政は越路の雪を踏み分けて
はるばる浜松までやってきた。世にいう『さらさら越』である。
成政が徳川家康と面会したところ、家康は成政を丁重にもてなした。

「この度は信雄様をお援け頂き感謝にたえません。
これからもどうか織田家興隆のためにお力添えをお願いいたします。」

「よくぞ深冬風雪をかえりみずに参られましたな。私は秀吉と遺恨が
あったわけではありませんが、信雄殿の窮状を見て忍びなく、
また亡き織田殿との旧好を忘れられなかったので、およばずながら
お援けした次第です。

しかし、信雄殿は秀吉と和議を結んだそうですから、私の信義も
詮なきこととなりました。ですが、成政殿が主のために義兵を起こす
おつもりであれば私も援兵を送りましょう。」

成政は家康の言葉に感謝した。その後、会話の中で成政は、
家康を武田信玄、自らを上杉謙信に例えて、己の自負を語ったという。

次に成政は織田信雄とも面会した。成政は信雄に上洛を勧めたが、
信雄は秀吉と和議を結んだことを理由に勧めを拒否した。
とうとう、どうしようもなくなった成政は後に秀吉に降伏した。

家康は成政が訪ねてきた時、高力正長に「佐々は人傑である。
あのような者とは知人になって、その様を見習うがよい。」と言い、
成政を評価した。

しかし、老臣の酒井忠次は成政の自負に不快感をあらわにし、
「あのような者に御加勢は無用でありましょう。あの者は
大剛の士なれば、その勇気に任せて失言するのも道理である。
関わらないほうがよろしい。」と批判した。




162 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/13(日) 14:58:01.65 ID:ZJGf6pn7
大剛自体は三河者にも認められるレベルだったのだな

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 15:01:37.70 ID:60Eo2k8l
忠次の場合、お前が言うなって話のような

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 15:29:25.23 ID:wk3JHOPB
三河武士は、本音の暴言は吐いても失言はしない(キリッ

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 17:58:20.11 ID:zXq2moZZ
というかタヌキをお屋形様になぞらえていいのか?

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 18:17:10.82 ID:So+1BAHS
家康はこの時期すでに、全盛期の信玄を超える勢力を持っているわけだが

佐々成政にまつわる、地元の伝承

2011年12月16日 22:02

7 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/16(金) 01:03:18.27 ID:CQPWop3i
佐々成政にまつわる、地元の伝承。

天正11年(1583年)4月。賤ヶ岳で羽柴軍と柴田郡が激突していた頃。
成政は兵を越後に向け、糸魚川付近の数城を攻め落とした。

「このまま春日山まで攻め上がろう」、成政は意気込んだ。

だが、簡単に物事は進まないのが常。
成政の越中不在に乗じて、弓之庄城主・土肥政繁が越中で挙兵し、
佐々方の数城を陥れたとの報が入ってきたのである。

成政は急遽兵を越中にとって返し、弓之庄城を大軍で包囲した。

この際成政は、「通説」では土肥軍の士気を下げるために、
政繁の次男・平助を城から見せる距離で磔刑に処したという。

この行為に対する後世の評価はすこぶる悪い。

wikipediaにもあるように、作家の海音寺潮五郎は
「このような残虐な手口に頼るようでは人心掌握に長けた秀吉に対抗するのは無理」と手厳しい。

ところが、富山県にはこの磔刑の続きとなるお話が存在する。

天正13年(1585年)、秀吉に降伏した成政は
新川郡を除く越中所領をすべて召し上げられた。

この時、新川郡のほぼ中心に位置する弓之庄城に入った成政は、
入城以来、一人である墓所に頻繁に通ったという。

そう、2年前に弓之庄城を包囲した際に磔にした平助の墓である。

天下分け目の賤ヶ岳合戦が繰り広げられているその時。
「自分は本国さえ手中に収めきれていない」。
そうした焦りが当時の成政に、磔刑を決意させたのかもしれない

時は戦国とはいえ、残酷な仕打ちを行ったことを悔やんでいた成政は、
その後大坂に行くまで、何度も手を合わせに平助の墓に花を手向けたという。





8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 11:35:15.21 ID:pA2EQ9vb
ヤンキーが捨て猫を拾ったらいい人扱いみたいな・・・

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 12:15:14.17 ID:00Sec9i4
政治的手段としての磔
個人の意向としての墓参り

全く別の次元のものだからなあ
そもそも磔が政治的手段として成功してたかはあれだけど

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 13:27:56.43 ID:Xc9z9sap
焦って処刑した事を後悔したのかな

佐々成政『槍之先の水湧き』

2011年11月23日 22:01

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/23(水) 15:17:10.14 ID:xH549lC5
越中に置いて佐々成政前田利家が争っていた頃のことである。
成政は越中と加賀の国境の要所要所に多くの砦を築き、そのうちでも最も見晴らしが効き要害でもある、
舘村の城山の砦に入った。

ところがこれを知った前田軍は、城の南側にある南谷川を堰き止め、このため城山の砦は水に大いに
困ることとなった。
これに佐々成政は水源を求め、城山の峰の西に、湿気を多く含んだ場所を見つけた。
そこで成政、槍を持つと岩間に向けてそれを一気に突き立てた!すると

ドォォォォ

槍を突き立てた場所より、滔々と水が湧き出てきたではないか!
このとき奥方もその近くを突き、そこからも水が湧き出した。

成政の家臣たちは大いに悦び、競って喉を潤した。

しかし前田軍に圧迫により、成政は結局この城山から撤退する。
この時成政は城山の東にある舘村の民家に立ち寄り、あの水源に突き立てた槍を取り出すと

「我々はこの槍のお陰で命の水にありつくことが出来、家臣一同の命を守ることができた。
だから、この槍は戦に使うことは出来ない。
これは大切な槍なので、おまえの家に預けていく」

と、それを置いていった。

やがて佐々成政は没落し、前田家の時代となる。
舘村のあたりは成政の見つけた水源のお陰で多くの田畑を開くことが出来た。
成政の突いた所は男水、奥方の突いた所は女水、
その地は『槍之先の水湧き』と呼ばれた。

前田藩は何度も佐々成政の槍について捜索を行ったが、槍を預かった家では
これを隠し通し、槍を水の神として、大切に伝え守った。

しかしはるか後世、昭和18年頃、政府による金属提供の求めに槍先を提出し、今は槍の柄のみが
伝わるとのことである。
そして成政の発見したこの水は、今も銘水として知られ、日本酒の醸造などにも使われている。

佐々成政『槍之先の水湧き』、の伝説である
(富山・福光の昔ばなし)





732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/23(水) 18:04:20.17 ID:GmOU0buX
>>730
富山に「成政」って酒あるもんな

俺は立山と銀盤と風の盆しか飲んだことないけど今度行ったら飲んでみるわ

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/24(木) 04:12:59.69 ID:Vy5IPMKR
成政のちょっとかっこいい話だな
別に領民や酒造りのためにやった訳じゃなかったけど

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/24(木) 10:00:21.56 ID:uLO2IbRd
ダウジングで水脈を探す成政

735 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/25(金) 01:23:45.31 ID:KpKL3nxS
( ;∀;)イイハナシダナー

佐々成政の謀略

2011年09月30日 22:04

143 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/30(金) 18:42:53.15 ID:IaKOSBR4
羽柴軍と織田・徳川連合軍による小牧・長久手の戦いが始まろうとした頃、佐々成政
織田信雄に

「羽柴秀吉の元に人質に出している子供を見捨てて味方するので、秀吉亡き後は加賀と能登を頂きたい。」

という書状を送り、寝返りを表明した。そして、秀吉方として前田利家に接近し、

「利家殿の次男である利政殿を佐々家の養子に迎え、自分の娘と結婚させて越中を譲ろう。」

と申し出た。前田家にとっても悪い話ではなかった為縁談も順調に進み結納も終えたが、当時富山城に
茶坊主として仕えていた養頓(じょうとん)という男が、成政が織田・徳川方に加担している事を前田家家臣に密告した為、
前田家の味方を装ってその領土を攻めようという成政の謀略は水泡に帰してしまったという。




144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 22:04:24.74 ID:i66FYDwW
多分その茶坊主は前田の間者だろうな

黒百合の呪い。。。(別バージョン)

2011年01月23日 00:00

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 13:39:13 ID:jhdSEYjf
黒百合の呪い。。。

北海道ではアイヌ族の間に恋の花として伝えられています。好きな人に思いをこめて贈れば必ず結びつくといいます。
ただしその人に送り主が分からないように相手の人が何気なく手に取るようにしむけなくてはいけません。
富山県や長野県では家を滅ぼし、人を不和にする呪いの花といわれています。

佐々成政が、愛妾ばかりをかわいがるのをねたんだ他の腰元たちがあることないことを吹き込んだ為、
怒った成政が愛妾を斬り殺してしまいました。この愛妾が立山に黒百合が咲くとき、
佐々家は滅亡するとうらみを込めて叫んだそうです。
その後成政は珍しい花として黒百合を淀君に献上したことがもとで、お家断絶の
憂き目にあってしまったと伝えられています。




483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 15:48:10 ID:lCMCvMyq
何年か前の大河ドラマで見たような気がするな>淀に黒百合献上
功名が辻だったかな

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 15:50:58 ID:kanMUdF+
>>482
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2215.html
黒百合を献上した相手が北政所と淀殿の違いはあるけど既出かと。

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 15:53:39 ID:0hbGveok
いろいろバリエーションがあるんだねぇ・・・

前田家中、佐々成政を笑う

2011年01月11日 00:00

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/10(月) 20:43:10 ID:kdkuQA1B
天正13年(1585)、佐々成政は秀吉自身が出馬した越中平定作戦により遂に降伏した。
そして秀吉のもとに、供の者十人ばかりを連れただけで、秀吉を主君として
初めての出仕をすることとなった。

この時成正は秀吉のもとに向かう途中、前田利家の陣の前を通った。すると前田家の者たち、
成政に向かって一斉に、どうと笑い出したのだ。

言うまでもなく「笑われる」というのは、この時代の武士にとって最大の侮辱である。
賤ヶ岳以降、成正と争い続けていた前田家の者たちは、ここぞとばかり降服した成政を
嘲笑したのだ。

しかしこの侮辱に、少数の供を連れただけの成正は何もできず、屈辱に耐え
笑われるがままにその前を通り、秀吉の元へと向かったという。


『利家夜話』より、前田家中、佐々成政を笑う。と言うお話。




『川角太閤記』より、肥後国人一揆の原因

2010年09月22日 00:01

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/21(火) 20:39:00 ID:NsX49+lT
『川角太閤記』にある佐々成政統治下で起こった肥後国人一揆の原因についての箇所なんだが、
原文の

『肥後の一揆も内蔵助手あらく被仕候故なり。
検地を仕り其上に昔是より三里と申所をば、五里の津出仕候へ、
五里の所をば八里も可仕のよし。
彼是に仕置あらく被申付故、一揆起り申候。』

これの

> 昔是より三里と申所をば、五里の津出仕候へ、
> 五里の所をば八里も可仕のよし。

ここの部分の意味がよく解らん。

「昔から三里と言われた土地を五里と記録し、
五里と言われた土地を八里と記録した(農地の広さをを過大に測りなおした)」

って解釈したんだけどそれでいいんだろうか?
悪い話なんだが悪さの内容が良く解らんので、教えて欲しい。





209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 04:46:21 ID:n2uCFfoK
>>206
要するに、旧来の石高を見直して、新たに成政が測量したら
石高が跳ね上がって、年貢を今までより多く収める事になった
者達の反感を買ったって事かな。
まあ、成政はこれまでの失点を取り戻すために、成果を焦り過ぎた
のが実情かもね。
この後、肥後は加藤、小西の二大名が分割統治するわけだし、
元々、成政が単独で治める国では無かった、と言う見方も出来る。
秀吉が成政に期待したのか、過大な役目を与えて潰したのか…
真相は闇の中。

佐々成政とその側室、早百合・悪い話

2009年06月12日 00:07

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 11:14:02 ID:vHUDeOqg
佐々成政の側室に、早百合と言う美女があり、成政の寵愛を受けていた。

さて、成政は対秀吉の交渉の為、富山から駿河の徳川家康の許に向かう。
有名な「さらさら越え」である。
この時に成政の小姓の一人、竹沢は病を得ていたため、この一行に加わらなかった。

やがて交渉は失敗し、成政は空しく富山に帰った。
帰国草々の成政に、さらに不快な噂が耳に入った。

「早百合は懐妊している。その父親は竹沢である。」

先の交渉の失敗もあり、気が立っていたのか、成政は竹沢を呼び出すと、たちまち斬り殺した。
そしてその足で早百合の部屋に駆け込み、早百合の髪を逆手に持って宙に引き上げ、
首と胴を切り離し、その首は神通川の柳の枝に結んでぶら下げた。

早百合懐妊の事は、彼女が寵愛されているのを妬んだ、他の側室達の謀であったそうだ。


この後、神通川では、夜な夜な火の玉が現われた。富山の人たちはそれを、無実で殺された
早百合の亡魂であるとし、「早百合火」「ぶらり火」と呼んで、恐れたと言うことである。





206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 11:32:03 ID:7zoKuayY
徐々に成政がDQN化して行く…福島よりも血なまぐさいのが
なんとも…




207 名前:訂正[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 12:04:42 ID:M/LjrgMY
>>205
この話には眉唾だけど続きがあるんだよね

処刑される寸前に小百合がこう成政にこう呪いを吐きかけた

「立山に黒百合が咲く頃、佐々の家は絶えるであろう」

ラスボスに降って越中の所領を没収された成政だったが、
彼の助命を取り成し、後に肥後の大名に復帰させてくれたのは
ひとえに北政所の尽力によるものだった
成政はなんとかこの恩に報いたいと日頃考えていた

さて、その頃、成政の旧領立山に季節はずれの黒百合が咲き出した
これを聞いた成政、すぐ飛脚を手配させ

「珍しい花が手に入りました」

と、北政所に献上し、彼女もその可憐で貴重な花を大変に気に入り
茶会の席でこれを活けさせた。さて、そこに出席していた淀殿。
その場では黒百合を誉めそやしたものの、北政所にメラメラと対抗心を燃やし
黒百合の群生地である白山からごっそりと株を京に運び
聚楽第の廊下中に花入れをかけて大量に活けさせた。

これを見たねねさん大激怒

「成政め、ありふれた花を珍しいなどと言って、私に恥をかかせおって!」

この後、肥後で国人一揆が起こるが以前はあれほど成政を庇ってくれた
北政所が逆に成政の失態を夫に讒訴したため、成政は死を命じられたという。

地元の昔話集なんかにも載ってて有名な話。




208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 12:15:02 ID:GwRy/JFn
ダブルで女の恨みは怖いな。

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 14:50:05 ID:RlhovSPt
昔、立山いったときに佐々の格好が再現されてたような
記憶があるんだが、藁沓レベルで冬季北アルプス越えとか
キチガイだとおもたw

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 16:15:10 ID:ch41pWeA
佐々家は存続してるけどな。
今現在でも。

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 18:08:17 ID:VbL0rQ2V
元警察官のあの人のことか

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 19:11:02 ID:RlhovSPt
水戸藩に仕えた家系とかあったな

224 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/12(金) 00:19:06 ID:mRFVwe3h
>>207
助命はともかく、肥後一国は本当なら迷惑だったな。

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 01:31:04 ID:lZD+E4gI
>209
そら日本山岳史、登山史的に空前絶後の壮挙(暴挙)だもん


佐々成政、さらさら越えの途中で

2009年06月12日 00:06

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 19:44:21 ID:GVVwokCp
政略が成功してれば日本のハンニバルとか呼ばれたかもね。>さらさら越え

なぜか佐々には怪異譚が多い。別に悪い話じゃないが、流れで書いておく。

さらさら越え最中の佐々一行、途中で小屋発見。
はて小屋なんてあったかなとおもいつつも寒さをしのぐために入ってみると
中に大男が二人。
まあ、挨拶しないわけにはいかない。自分らは佐々成政の一行である云々。
大男、答えて
「わしは悪七兵衛景清」
「わしは越中次郎兵衛盛嗣」

工エエェェ(´д`)ェェエエ工     それって源平時代の人じゃん!

「いかにも。山中に潜伏し、機をうかがって鎌倉へ忍び込み、頼朝めの首を
挙げてやろうと……」

からかわれてるのか? 本当に平家の大将方だというなら証拠をみせろ!

そこで大男二人、小屋の外へ出て大きな雪の塊を持ち上げ、大声一喝、
谷に投げ飛ばした。

その瞬間、二人の姿は消えてしまったそうな。




214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 19:48:16 ID:wh0ZFYw+
>>213
悪七兵衛景清って源平討魔伝のあの景清さん?

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 19:48:33 ID:nrxlmyKP
こりゃまた凄いのが出てきたなw

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 19:55:44 ID:vHUDeOqg
>>214
そう。藤原景清こと伊藤景清こと平景清。

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 21:14:51 ID:H+hZGXa7
まあ戦国時代に限らず雪山って怪異譚には事欠かないからねぇ。

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 23:24:58 ID:JNT/cbP0
>>213
イエティの見間違いだろ


佐々成政、謙信由来の脇差を・悪い話

2009年06月07日 00:00

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 02:07:42 ID:9ifeAUDT
佐々成政が越中を支配していた頃の事である。

越中の阿保と言う所に、菊池入道と言う者がいた。彼は、元は上杉に属し、
今は佐々に従い、息子を成政の傍に人質として置き、成政が居城にしていた外山に
常に出仕していた。

ある時外山にて酒宴が行われ、成政は興に乗じて、彼がいつも自慢にしていた
ナマズの盃を取り出し、これを菊池入道に差し出した。
入道、これを頂き三度傾け成政に返した。

そこで入道、自分の脇差を差し出し「これはかつて、上杉謙信公より頂いた物であります。
どうぞこれをお納めあって、謙信公にあやかりますよう…」

これを聞いたとたん成政は激怒した。

「何をあやかれと言うのだ!謙信の武勇など、何ほどのことがある!」

そうしてその脇差を投げ捨てた。入道はあわてて、

「ぶ、武勇の事ではありません。
謙信公は九ヶ国の管領になられました。その果報にあやかるようにということです。
この入道は歳ゆえ耄碌してしまい、酒に酔っ払ってもしまったようです。
この脇差はどうぞ、お傍の小姓の方に差し上げてください。」

と、酌をしていた小姓に渡した。
これに成政の機嫌は直り、「小姓があやかるには丁度よいものだ。」と、
笑って言ったそうである。

気宇壮大というべきか、思い上がっているというべきか。
そんな、佐々成政のおそらく絶頂期の頃のお話。





80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 02:26:03 ID:4r3SsSBo
>>79
末路を知ってるだけに哀れな話だね

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 17:10:25 ID:AaxVXT0A
>>79
結局この後に菊池氏は前田利家に寝返って末森城の合戦につながるんだっけ。
成政にとっては大変悪い話。