「今迄の鼻は、ここにてかむべき為であった。」

2017年07月05日 18:30

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 17:38:50.37 ID:YxoXjZLJ
竹中半兵衛斎藤龍興に奉公して稲葉山にあった時、半兵衛と同じように使われた者があり、
ある時、半兵衛には巣鷹の仔が与えられ、このもう一人にはコノリ(ハイタカの小型の雄)が与えられた。
ところが、龍興は一旦半兵衛に与えた巣鷹の仔を取り返して相手に与え、コノリの方を再度
半兵衛に与えた、

この事に半兵衛は強く憤り、稲葉山から出奔すべく計画を立てた。
彼は同士の侍18人と語らい、番つづらにそれぞれ具足を入れさせ、当番として場内に入ると
切って廻り、そのまま出奔した。

この時、稲葉山城内の一人が半兵衛に切りかかったが、半兵衛も刀を抜いて切り込み、向こうの刀を
柄で受け止めた。そこで刀に打たれたために半兵衛の刀が抜けたが、この抜けた刃が相手を
仕留めた。
彼も幼少より剣術を習っていたが、実戦を行ったのはこの時が初めてであったという。半兵衛19才の
時の事だそうだ。

彼が若輩の頃、人々から『鼻たらし』と嘲られていたが、この時自ら手鼻をかんで

「今迄の鼻は、ここにてかむべき為であった。」

と言ったという。

半兵衛は一生の間、常に数珠をつまぐり、「美濃の国には誰もない。誰もない。」とばかり
言っていたそうだ。

この半兵衛、元は美濃赤坂の商人、あかねやの子であり、龍興の元から出奔する頃までは父も存命し、
至って裕福な者であったという。

(士談)



929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 22:18:54.21 ID:QCAwnrGS
美濃では商人の出でなければ身の立てようがないんか
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一つとして難ずるべき所無し

2017年06月09日 18:40

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 18:36:19.82 ID:ezl2clO7
竹中半兵衛には、若くして弓矢巧者の評判があった。

織田信長の時代、柴田滝川といった人たちは寄り合いで
「若輩者に何ほどのことがあるだろうか。いつか竹中に出会った時、弓矢の詮索だてを致せば、
一句も言えずに理に詰まるだろう」
などと彼を評していた。

そのような折、羽柴秀吉は中国より竹中を使者として、信長に仔細を言上するため京に上らせた。
柴田たちはそんな寄り合い話をしていただけに、内々に竹中と参会したいと望み、「ならば招き入れて
一献を勧め、そして詮議をも致そうではないか。」と、竹中を柴田の所へと招待した。

その場において一礼の後、柴田がまず言った
「この度、中国において毛利家との対陣の様子、筑前(秀吉)の思惑などを話してみよ。」

竹中聞いて
「私は筑前殿よりその思惑を承ってはおりません。何事を申せるでしょうか?」
そういって、それを語ることを辞退した。
すると柴田は重ねて

「ならば筑前の思惑は差し置き、そなた自身の考えもあるだろう。御辺の思惑、如何様に
この戦をすべきか、それを語られよ。」

竹中、止むを得ずして、毛利家弓矢の風情、此の方のあしらい方、双方の考えといったことを
一々に説明し

「未だ上様(信長)に、筑前殿よりの使いの趣を言上いたしておりません。先ず御前を済ませたいと思います。」
そう挨拶して出ていった。

その場に居た、柴田、滝川、丹羽、佐久間といった歴々は竹中の言ったことを聞いて
「彼は前々に聞いていたより、なお勝っていた。
今日の物語、毛利家のあしらい、弓矢の勘弁、一つとして難ずるべき所はなかった。
ならば、弓矢の才というものは、合戦の経験の多い少ないによるものでは無いのだろう。」
そう感じ入ったという。

(士談)


その事の始末を探求し

2017年05月10日 08:39

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/09(火) 22:42:32.68 ID:hFxQRGCZ
竹中半兵衛が語ったことによると
「人はみな合戦の話を尋ねるが、聞くべき要を問わず、要らざることを多く聴き覚える。
故にその聞いた事が功に繋がらないのである。

聞かれ答える者もまた然りで、善き物語も役に立たないことが多い。
どこどこで誰が手柄を成し功を立てたなどという、一本槍匹夫の手柄話にて事終わるのは、
人の習いになること無し。

その事の始末を探求し、心の付け所を肝要とすることこそ、あるべき形である。」
そう云ったという。

(士談)


門役の大切

2017年05月07日 17:47

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/07(日) 09:50:54.31 ID:UvNQKj6R
古より、城より突いて出た後には、門役を務めることを以って城中の大切と致し、能く事に成れた
侍を以ってこれに当てた。六条合戦の門役は明智十兵衛(光秀)が務めたこと、人の知るところである。

秀吉が信長の命を受けて金ケ崎に殿として残り、朝倉中書(景恒)と戦を決した時、朝倉中書は
金ケ崎の城より出て秀吉と戦ったが、この時毛屋七左衛門を以って門役とした。
中書敗軍して兵士ら我先にと城を指して引いていたが、秀吉はその機を失わず追い打ちを仕掛け、
門際まで押し入った。しかし毛屋が素早く門を打ったため、城中つつがなかった。この事は当時
朝倉の家にて沙汰されたという。

後に秀吉は横山城に居たが、彼が信長への報告のため岐阜に赴いた時、浅井長政が兵を出して
横山城を囲んだ。
この時城中は以ての外に無勢であったが、竹中半兵衛が居留まり下知したため、危ういこと無く、
むしろ城より突き出て、大いに戦ってまた城に入った。竹中半兵衛は状況をよく見て、
門役に下知し、早く門を打たせたため、城をよく持ち固めたのだという。

こういった事を詳細に極めない輩には、このような大切の役儀は命じにくいことである。

(士談)


半兵衛、宮田光次を引き合いに秀吉を窘める

2015年12月05日 17:49

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/05(土) 16:43:51.34 ID:XxQWIDmT
半兵衛、宮田光次を引き合いに秀吉を窘める

天正7年、秀吉は家臣を集めて酒宴を開いた時のこと
上機嫌だった秀吉は「我が家の弓矢の勢は、昔に比べて随分盛んになったと思わんか」と家臣団に問うた
家臣たちは「三倍になりました」「五倍になりました」と述べた
有頂天の秀吉は「いやいや十倍になった」と大笑いした
これに対して秀吉の参謀だった竹中半兵衛は「弓矢、昔に劣れり」と反論
秀吉が驚いて半兵衛を問い詰めると半兵衛「宮田喜八死して以来甚だ劣れり」と述べた
これを聞き秀吉は三木城攻めで討ち死にした勇将・宮田光次(羽柴四天王の一人)のことを思いだし
「半兵衛の申すとおりだ」と言って嘆息を漏らしたという

(『名将言行録』)

半兵衛が病死する前年の話

半兵衛にすれば秀吉の慢心や驕りに対する危惧の念をこの時期から抱いていたのだろうか
後年半兵衛の危惧は的中するがそれは半兵衛が死んでからかなりの時間が経ってからのこと

ちなみに宮田光次は後年「太閤の臣に宮田喜八とて武勇第一の人あり」(老人雑話)と言われた武勇の士
秀吉に仕えていた時期は5年程度だったが羽柴四天王の中で最も秀でてたという
市松や虎之助とかがまだまだ出てこない時期であり宮田を喪ったことがいかに羽柴軍団にとって
大きいダメージだったかを半兵衛は言いたかったのだろう



いかに竹中半兵衛と言っても

2015年11月14日 17:27

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/13(金) 20:51:56.56 ID:v+7gJ81c
竹中半兵衛は美濃国赤坂茜屋の子であった。斎藤道三が召し出し、念入りに使った。
しかし実は人質として召し出されていたのだという。

この竹中半兵衛は、陣中において常に牛に騎乗していたと言われる。
地元の人達が言うには、『陣中において、いかに竹中半兵衛と言っても、いつも心静かに
牛に騎乗できるわけがない。あれはたまたま、1,2度牛に乗った事があるのを、
話を大きく盛っただけの話だ』との事である。

(武功雑記)



641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/13(金) 21:21:17.51 ID:jEQ03ZPQ
昔の人も逸話にマジレスしてるんだな

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/14(土) 10:12:28.74 ID:R8CGO542
>>641
逸話集には結構つっこみや分析が載ってるよ
読んでて面白いものが多い

豊鑑、後書き

2015年02月28日 18:12

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 01:41:06.59 ID:y03jN6Nc
ここまで長々と著述してきたが、思いもよらず外病の霧に冒され、もはや我が身は
秋の露と消えようとしている。思いの程を残すことが出来ないのは、口惜しい限りである。
もし心ざしを同じくする人がいるなら、この後を継いでほしい。

この書は清書にすら及んでいないので、もとより拙い私の著述であるが、なお拙く、
人の官名、氏なども、前後が正しくないこともあるだろう。これも病のせいだと見て
許して頂きたい。

秀吉公は慶長4年8月18日に、例ならぬ心地にて薨ぜられたのだが、東山に葬られ、
豊国大明神と崇められた。
その嫡男である右大臣秀頼公がその後を継がれたが、未だ幼少であったので、
世の掟は松平源家康公により計らわれるようになった。

元和元年5月8日、家康公によって秀頼公は摂津国大阪の城にて自害し、煙と上られ、
豊臣氏は跡無く成った。

 残しをく 筆の跡さへ末とけで あだに消えにし秋のゆふづゆ
(残し置くべき文書でさえ最後まで書けなかった。意味もなく消えてしまう秋の夕の露のような生涯であった)

竹中丹後守刺史源重門取筆
(豊鑑)

竹中重門の書いた豊鑑の、後書きの部分である。




竹中半兵衛、黒田官兵衛の意図を

2013年10月26日 19:40

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 20:05:57.73 ID:MTndVanY
ある時、羽柴秀吉は別所長治の籠もる三木城を攻めた。
三木の城山より尾根が続いて下る山の尾崎があり、秀吉はその向かいの山の陣を敷いたが、
その距離は甚だ近いものであった。
三木城からは度々この尾崎に兵を出し羽柴軍と小競り合いを起こし、何度も敵が利を得て帰っていった。

とある早朝、秀吉が本陣から見ると、その尾崎の後ろの方の山陰に、4,500ほどの兵が備えており、
伏勢のように見えた。あれが敵か味方なのか、秀吉が迷っていると、竹中半兵衛がこれを見て言った

「今日の合戦は味方が勝利するでしょう。何故なら、あの山陰に見える伏勢は敵ではなく、
小寺(黒田)官兵衛の部隊だからです。

と言っても、私が官兵衛殿と話し合ったのではありません。ですが、官兵衛はここに私が居ることを
知っています。

彼の伏勢を見ますと、三木城から人数が出撃した時、尾崎の前に備えている神子田半左衛門(正治)は
それと一戦し、わざと早々に引き退く作戦をとるべきでしょう。そうなれば敵は必ず、
逃げる軍勢を追撃します。
その時官兵衛殿は伏兵を起こし、追い打ちにするのです。

そうなると、追い詰められた敵はこの本陣の前を通過するはずです。そこでここからも兵を出し
それを討てば、必ず充分なる勝利を得られるでしょう。

官兵衛殿の考えは、鏡を合わせて見るように解ります
神子田殿に敵が出てくれば矢戦を少々やって、必ず早々に引き退くようにと仰せ付けられるべきです。」

秀吉はこれを聞いて尤もだと思い、神子田に使いを送ってその旨を命じた。
この時竹中半兵衛は、印をつけておくと、小笹を7,8本切らせて腰にさし、馬に乗って
尾崎と本陣の間まで行くと、谷あいを横に見た所にこの笹を挿した。
そして本陣に帰ると「敵があの笹の印を越えてきた時、ここから人数を出して、
横合いに攻めかかるようにして下さい。」と言った。

この様に、神子田も下知を得て待っていた所に、案の定三木城から兵が出てきた。
神子田は下ってくる敵に矢戦にて一戦するように見せたが、早速撤退を始めた。
敵はこれを謀とは知らず、後ろについて追撃を始めた。
ここで案の定官兵衛の伏兵が立ち、追いかけて三木勢を手痛く攻撃した。
こうなっては三木勢は、後ろに戻ることが出来ないため秀吉の本陣の前を通過するより他にない。
そして例の笹の印を超えた時、兼ねての想定通りに本陣より兵が出て横合いに攻めかかる。
後ろからは官兵衛の部隊が更に激しく攻めかかり、神子田勢も取って返してこれを攻撃する。
こうして前後と横から挟み討たれ、敵は一支えも出来ず即座に壊乱し、その殆どが討ち取られた。

合戦が終わって秀吉は、官兵衛と半兵衛の謀を大いに感じ入った。
官兵衛は伏兵を置くことを、秀吉や半兵衛に告げなかったのは、急に敵が出てくる様子があったため
にわかに兵を備えたため、連絡する暇がなかったのだ、と語った。

(黒田家譜)

竹中半兵衛、黒田官兵衛の意図を即座に理解し戦勝に導く、というお話。





419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 23:34:22.53 ID:/qI2tW2t
>>417
長生きしてもらいたかった

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 00:22:50.13 ID:8yfDmZf/
半兵衛が存命なら、関ヶ原ではどちらに就くのか気になる

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 00:38:52.42 ID:2zS4mEmT
普通に朝鮮に渡って三成にぶちぎれ組の一員になってんじゃない

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 01:04:12.34 ID:j0ARABPu
そりゃ知らぬ顔で毛利の陣でからあげ弁当を…

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 01:13:26.86 ID:cByI3DZg
>>420
黒田と同じく息子が東軍なので東軍確定

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 01:36:02.17 ID:jGB7mCkb
重門って寝返り組だよね
井伊が誘ったから寝返ったのかな
それとも井伊に頼み込んだのかな

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 03:33:42.12 ID:ZIyHnAFD
真田と同じく息子が東軍なので西軍確定

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 06:09:40.93 ID:uTiz2UFY
>>424
犬山の調略は直政と加藤貞泰の間で進んでたので
縁戚である竹中も乗っかったんじゃないかな

竹中半兵衛と牛について

2011年04月07日 00:01

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/05(火) 23:48:29.41 ID:HdSj0QPA
竹中半兵衛は陣中にて常に牛に乗っていた、と言われている。
ある人がこの事について語るには

「陣中に於いて、いかに竹中半兵衛とは言え、いつも心静かに牛に騎す事など出来はしない。
あれはたまたま一度、竹中殿が牛に騎した事があったのを、後の人が話を大きく、面白おかしく
したのだ。」

と評したと云う(武功雑記)


後世の人が話を広げすぎた悪い話




528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/06(水) 00:25:47.49 ID:hgWvtWfN
本当は貧馬を好んだそうな

良い馬だと馬をかばって手柄を逃してしまうかららしい

一豊さんが姉川で妻のヘソクリで買った馬を逃がしてしまった事を証明してる話

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/06(水) 21:57:12.89 ID:Z/yVKo29
山内一豊の馬は、長久手で逃げた後帰ってきたんじゃなかったっけ?

竹中半兵衛、ある人物の手紙によると?

2010年04月08日 00:00

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 16:35:07 ID:FJ/vowhz
主君、斉藤龍興の暗君ぶりを諌めるため、城内に潜ませた手勢わずか十数名で美濃稲葉
山城を乗っ取ったと言われる竹中半兵衛。
織田信長に城を渡すよう打診されるもコレを拒否。
龍興に反省の色が見えると速やかに城を返却。主君に弓を引いた責任を取って隠居して
しまうという鮮やかな進退。

……通常語られる「半兵衛の稲葉山城乗っ取り」と言えばこんな所だろう。
しかし、ある人物の手紙によると少々話が変わってくる。


「金華山城(稲葉山城)は竹中遠州の子、半兵衛が二月六日の白昼に奪い取り、安藤伊
賀守と二人で美濃一国を領有した。太守(龍興)らは一戦した後退散し、鵜飼、揖斐の
辺りに城を構え、にらみ合いを続けている。美濃の中で義理も恥も知らない連中は皆、
竹中の下へと馳せ参じた」

厳しい口調で半兵衛を非難するこの手紙の送り主は美濃崇福寺の住職、あの快川紹喜で
ある。

半兵衛が奇策を使って一戦もせずに城を乗っ取ったのではない事、美濃の諸将が彼の許
に降り、龍興に十分対抗出来る勢力を築き上げていた事がわかる。

安藤、竹中両名による町や寺社への禁制はいくつかだされているが、その内の一つは七
月二十九日付けである。
半年近くも占領が続いていたのである。


そんな中、快川は以前住職を務めた甲斐国恵林寺の住職にもう一度ついてくれないか、
という武田信玄からの打診を受ける。
反竹中の立場に立っていた快川はこれを好機と、自らが仲介となって龍興と信玄の同盟
を纏め上げる。
手紙には美濃からの使僧が寒い中に甲斐の快川を訪ねたとあるので、同盟成立は同年の
冬の様だ。

半兵衛の反乱が冬まで続いていたのかは不明であるが、龍興のバックに信玄がつくかも、
という噂だけでも、美濃のパワーバランスを崩すのに十分だったのだろう。
竹中半兵衛は近江に逃げ、反乱は終息。しかしそれから幾許もしない内に、織田信長に
より安藤伊賀守を筆頭にする西美濃衆の反乱を招き、斉藤義興は美濃を追われるコトと
なる。

しかしこれなら信長も楽だったろうね。
この時半兵衛についた連中を中心に調略を仕掛けりゃよかったんだもん。
つか、快川の修行時代、同じ寺で修行していた一鉄さんはどっちについたんだろう?


語られてるより生々しく現実的な半兵衛の稲葉山城乗っ取りの実態。
竹中半兵衛の悪い話なのか、それを阻止した快川の良い話なのか。




935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 16:50:18 ID:VDNtGMwu
実際半兵衛って相当の食わせ物だよねえ。
まあ西美濃の国人で食わせ物じゃない方が少ないんだがw、その中でも相当の玉。
それが何がどうなってああいう軍師キャラになったのやらw

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 16:55:27 ID:KvhuCLJM
むしろ食わせ物だからこそ軍師っぽいこと得意なんじゃないのw

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 18:02:22 ID:rI2KnW2Y
軍師は軍師でもキレイな軍師になりすぎているきらいはある
清廉潔白というか

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 18:15:46 ID:aKSPZAhk
黒田さんは黒い軍師だけど
竹中は綺麗な軍師なイメージだなぁ
本能寺前に死んだことも影響してるんだろうか

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 18:22:08 ID:KvhuCLJM
黒田さんとの対比、病弱短命
そこらへんから来てるイメージだろうね

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 18:24:58 ID:Sg3s3SyB
孔明の影響もあるのかも?

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 18:27:19 ID:R0MI9rry
孔明はダメ皇帝にも最後まで忠誠を尽くしたが・・・。

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 18:30:27 ID:Sg3s3SyB
三雇の礼で今孔明の称号が付与されちゃったのかね?

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 18:31:13 ID:VvAXLdH+
出世欲がない分、権謀術数を楽しみすぎているきらいはあるね
ま、血で血を洗う戦国時代に「清廉潔白」なんてありえないし

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/07(水) 22:15:24 ID:Rtjb2gLt
稲葉山を主君に返したとか嘘だったのねw
支えきれずに逃げ出したと

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/08(木) 20:14:02 ID:C9XJIRbQ
>>944
竹中さんの過大評価は、息子が大ボラ吹いたことにも起因するようだしね。「うちの親父はこんなに凄かった」と

竹中半兵衛が参加した合戦では珍妙な光景を見ることができた

2009年12月03日 00:08

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 22:53:01 ID:c98H24kp
竹中半兵衛が参加した合戦では珍妙な光景を見ることができた。
「なあ、あれ半兵衛殿だよな?」
「ああ…なんで牛に乗ってるんだろう…」

半兵衛は周りが馬に乗った者ばかりでも、周りがどんなにうるさくても
平気な顔をしていた。こういう時は必ず茶化す者が現れる。
「やあやあ半兵衛殿。このクソ忙しい時に、呑気に牛に乗ってどうなされた?」

そういう者に半兵衛はこう答えた。
「忙しいからこそ、よい策を考えるために、牛に乗って心を鎮めている。
君たちみたいに忙しがっていては、よい策が浮かばん」





797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 23:03:28 ID:ZW6qhzih
後の牛歩戦術である

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 23:12:19 ID:J448pHGI
現代の牛歩戦術使用者もよい策を考えてくれてると信じたい。

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 23:17:40 ID:BggSIZaL
牛の角に松明つけて敵に突入させる

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 23:18:10 ID:/JR/A8DS
これは半兵衛が光武帝に准えられる人だったってこと?

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 23:25:59 ID:MVt9hcxQ
インテリだし中国の故事かなんかに影響されてるっぽいなw

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 23:39:33 ID:Qtri8c4r
>>800
光武帝は金無くて牛に乗って挙兵したと聞いた

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/02(水) 00:08:16 ID:l7q2tssH
戦場に出れば光武帝のように牛に乗り、
登城すれば范雎のように小便をかけられ、
隠居すれば孔明のように召し出しを断る…

単なる中国かぶれじゃね?

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/02(水) 00:29:28 ID:F9SVT6nX
まあぶっちゃけると、江戸期に成立した「竹中半兵衛」像は、古代中国の軍師たちを
モデルに作られたものなわけで。

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/02(水) 13:22:22 ID:Zl7E7MtZ
>>803
独眼竜も大陸発祥だし、そんなもんじゃね?

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/02(水) 13:49:14 ID:bcxOXIw7
>>819
もともと「独眼竜」は李克用のあだ名だったとか言う話だな

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/02(水) 14:08:37 ID:70qxLt30
まあかの御仁の場合ここで新たにDQがN竜に進化したわけでw

竹中半兵衛と織田家の歴々・いい話

2009年04月23日 00:13

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/22(水) 00:13:04 ID:qFkDF/2M
竹中半兵衛は若くして軍略の巧者と、世間で持て囃されていたそうだ。
柴田勝家や滝川一益と言った歴戦の面々は、どうにもこれが気に入らない。

半兵衛が中国の秀吉の使者として、信長への状況報告のため京に上った折
それを待ち構えた柴田たちが、「そなたに一献差し上げたい」と、無理に竹中を自分達のいる部屋に
連れ込んだ。

『竹中半兵衛、何ほどの事やあらん、軍略に付いて、やり込めてやろうぞ』
との魂胆であった。

さて、半兵衛に柴田が言う
「この度中国においての毛利家との対陣の様子、秀吉の考えなどを聞かせて頂きたい。」
しかし竹中
「私は秀吉殿の考えなど聞かされておりません。よって何事も申し上げることはありません。」

「では秀吉の考えはさて置いて、竹中殿、お主は中国戦線の状況をどのように考えるか、
それを語っていただきたい。」

これには半兵衛やむを得ず、毛利家の軍事能力、織田方の対処方針、双方の思惑などに付いて
彼の分析を語った。それから

「私はまだ信長様に秀吉の使いの趣を報告しておりませぬ。こちらを先に済ませてまいりますので、
失礼いたします。」と、出て行った。

半兵衛が行った後、その場にいた柴田、滝川、丹羽、佐久間と言った歴々は、
「竹中とは、聞いていた以上の男だ。彼の中国戦線に対する状況分析と展望には、
文句のつけようが無い。軍略の才能と言うのは、合戦の経験で測れるものではないのだな。」

そのように感嘆した、とのことである。





竹中半兵衛さんより、逸話を読むときのご注意

2009年04月21日 00:09

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/20(月) 16:32:14 ID:19wRXfir
竹中半兵衛さんより、逸話を読むときのご注意。


竹中半兵衛がある時こんな事を言ったそうだ。

「人は合戦の話を聞くときに、問うべき要の部分を聞かず、要らぬ事ばかり
多く尋ねる。そんな事ではその話を手本にして、功を立てることが出来ない。
また、聞かれているほうも、要らぬ事を強調しがちである。
これでは、良い物語であっても、役に立たない事が多くなるわけだ。

ここで誰々が手柄をなした功をなした、などという、一本槍の匹夫の手柄話だけを
聞いて終わってしまっては、人の習いになることは何もない。
その合戦、その状況がどうして起こりどう収束したのか、そう言う部分を心にとどめ
考えることこそ、肝要なのだ。」

人は派手な場面をピックアップしがちだが、そうではなく、全体の流れからものを見るべきなんだよ。
そんな、半兵衛さんのご意見でした。




865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/20(月) 16:40:44 ID:mD8pnFL0
正純「で、誰が戦場で恥をかきましたかな?」

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/20(月) 19:41:13 ID:5oyY2TK7
>>864
「英雄なんて酒場にいけば幾らでもいる」
「そのかわり歯医者の治療台には一人もいない」
ですね。 by楊文歴(架空の人物)


竹中重治流、馬の買い方・いい話

2009年04月15日 00:04

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/14(火) 19:20:43 ID:drNOKD2o
竹中重治がある時言うには

「侍たるもの、分の過ぎた馬を買うべきではないぞ。
分の過ぎた馬に乗れば、馬に乗って良き敵を見つけて飛び降りようとした時、あるいは
槍を合わせようと馬から降り立つ時、こんな時でも馬添えの人間がついてきていなければ、
その馬は人に盗られてしまうだろう。
又、「この馬を失うのは惜しい」と言う気持ちが出て戦うのをためらい、よい馬である故に
返って功名の機会を逃す事もある。

侍は、金十両で馬を購入しようと考えたなら、五両の馬を買うべきである。
それならば惜しげもなく飛び降り、乗り放てるし、必要があって馬を捨てた時も、
余った五両で又馬を買うことが出来る。

馬に限らず、武士って言うのは普段から、こういう心がけがあってしかるべきなんだよ。」

そんな、竹中重治流、馬の買い方。




735 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/04/14(火) 19:36:39 ID:KOQyMCAS
>>734
何処かの山内さん「嫁さんに買ってもらいました」
何処かの前田さん「牛でもいいじゃん」

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/14(火) 19:58:54 ID:xWmFHBo7
>>735
山内ちよ「馬など買った覚えはないぞえ」

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/14(火) 22:09:00 ID:joh7BsgP
>>735
何処かの劉さん「牛は馬の代用に最適だよね」

竹中半兵衛のちょっと良い話

2008年12月19日 00:05

372 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/18(木) 10:05:13 ID:pzR6Zbmo
竹中半兵衛のちょっと良い話 ~智将半兵衛その人~

智将として名高い竹中半兵衛。もちろん戦国の当時
でも、その評判は高かった。特に半兵衛の陣立ては
素晴らしく、他の武将の陣立てにも積極的に助言した。
だがあまりに口を出しすぎるので、半兵衛の助言を疎
ましく思う者も居た。
ある時、「今日こそ半兵衛に口出しさせるか!」と
息巻く武将がいた。そこに訪れた半兵衛、陣立てを
見るなりこう言った。
「なんとも素晴らしい陣立てですね。感服いたした。」
と、その武将を褒め称えた。半兵衛に褒められて悪い気
はしない。すっかり和気あいあいとなった頃、半兵衛は
言った。「ここを少し変えて見ましょう。もっと良い
陣形になりますよ。」と言った。気を良くしていた武将
は言われるまま、陣立てを変えてしまった。後になって
その武将は「しまった、半兵衛にしてやられたわ。」
と笑いながらぼやいた。


374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/18(木) 10:22:57 ID:pzR6Zbmo
竹中半兵衛のちょっと良い話 ~武人半兵衛その人~

半兵衛は時折、手足をぶらぶらさせる癖があった。
秀吉や他の武将、果ては客人の面前でも、その癖
を直そうとはしなかった。
ある時、その癖を見咎めた武将が「無礼であろう!」
と怒った。だが半兵衛は平然と答えた。
「これはいつ敵に襲われても、すぐに身動きが出来る
様に備えているのです。もしその時、手足が痺れて動作
が遅れれば、大事となりますから。」
わずか十六人の手勢で、稲葉山城を落とした武人の言葉
に「さすがは半兵衛殿。武士とはかくあるべし。」
と、怒った武将もこれに納得した。



375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/18(木) 10:32:40 ID:6BbDgdTh
>>372・374
半兵衛様カッコいいです。
そういえば逸話あんまり出てなかったね。有名だからかな。

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/18(木) 12:49:05 ID:6iZoeZag
>>372
いかに人をうまく使うかという現代でも役に立ちそうな話だな。
プライドの高い人に有効だし覚えておこう。

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/18(木) 12:57:57 ID:DX1ig76S
やる相手を間違えると

きいたふうな口を利くなー!!

だけどなw

竹中半兵衛と黒田官兵衛・いい話

2008年10月16日 00:24

337 名前:人間七七四年[SAGE] 投稿日:2008/04/18(金) 02:59:18 ID:n2WOmkCO
有名な話だけどまだ出てないので一つ

黒田官兵衛は謀反を起こした荒木村重を説得するべく、
秀吉に命じられて村重の有岡城へと赴いた
しかし官兵衛は有無言わさずに村重に牢屋に閉じ込められてしまう
有岡城へ説得しにいった官兵衛が行ったきり帰ってこない
このことを知った信長は官兵衛が村重に寝返ったと勘違いし、
人質にとっている官兵衛の息子・松寿丸(のちの長政)処刑するように秀吉に命じる
秀吉は迷った挙句、信長の命令なので従おうとしたが、
竹中半兵衛が独断で信長には松寿丸を処刑したと報告し、密かに匿って
石田正継(三成の父)の元へ隠しておいた

やがて有岡城が織田の軍勢によって落城し、中からやせ細った衰弱した男が出てきた
足に障害を持っており、知っているものが彼が官兵衛であることに気づいた
秀吉は官兵衛が生きていたと知って喜んだが、官兵衛の息子を殺してしまったことに
罪悪感を覚えて素直に喜ぶことができなかった
するとそこに半兵衛が密かに松寿丸を匿っていたという報せが届いた
これに秀吉は自分の面目が立って喜び、官兵衛の方も息子の命を助けてくれた
半兵衛に感謝しても感謝しきれぬ思いを抱いた

しかしその時既にことの功労者である半兵衛は世の人ではなく、
中国攻めの陣中で没していた
官兵衛は息子の恩人である半兵衛に感謝の言葉を直接言えなかったことを深く悲しんだと言う

一方信長は生前の半兵衛が自分に内緒で松寿丸を匿っていたと知ると呵呵大笑した
「さては半兵衛め、またしてもやられたわ」
と呟いたという

半兵衛はその以前にも秀吉に進言して、柴田勝家の軍勢から無断退却させ
信長に反抗したことがあった
半兵衛が官兵衛の息子・松寿丸を匿ったことは
ある意味彼なりの信長への挑戦だったのかもしれない




341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/18(金) 11:34:39 ID:/c/bhcs8
>>337
地味に正継の人の善さが伺える話でもあるな。



350 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/04/19(土) 19:52:28 ID:/Zoeg4ZK
>>337
黒田長政が関が原後、捕らえられた三成に丁重に接したというのは
幼いころ石田家に匿ってもらったということもあったのかな?

>>337じゃないけど正継の逸話を一つ。

石田家が統治する近江4郡は豊臣時代を通じてもっともよき民政地だった。
太閤に近侍し、日本全国をとびまわりめったに自分の統治地に帰ってこられない三成に代わり、
民政は主として父の正継(隠岐守入道)が担当した。正継は学問があり、
人柄も温和で土地では「藤右衛門どの」とよばれて親しまれた。
正継は農民に対し
「苦情があれば、じかに申し出よ」
と制限つきながら直訴主義をとった。江戸期にもこのようなことは無く
正継は非常によく仁慈をもって、農民の面倒をみていたといえる。
石田家の領地に上坂郷という地があった。
この地には、近江の浅井家に滅ぼされるまで上坂氏という有力な国人衆があった。
正継は上坂氏の零落ぶりを気の毒がり、そのうちの一人を豊臣家に推挙した。
さらには知行地も故郷の上坂郡の一部に設定してやったりもした。
ところが昔、上坂氏に搾取しつづけられていた上坂郡の農民はみなこれを喜ばず、
「いまさら上坂に殿様面して帰ってこられても困る」
と誰もがそっぽを向いた。
ところが、正継はあくまでも面倒見のいい領主であった。
大名でありながら、領民である上坂郡の農民に対し、下世話にも調停者になってわりこんだのである。
文書のなかで正継は
「昔を思えば旧主ではないか。道で出会えば、腰をかがめるだけでよいのだよ」
それだけの礼でよいのだ、上坂氏が昔のように重々しくのしかかって搾り上げるわけではないから礼をつくすだけでいい、ということである。
「でなければ草木も枯れるよ」
と最後に軽妙に付け加えた。



357 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/05/01(木) 18:39:42 ID:f5qmCC8C
>>337
その後、関ヶ原の戦で、松寿丸⇔長政は竹中半兵衛の息子、重門を
石田方から徳川方に付くよう説得し、共に丸山で陣をとった。
そして両家の良い関係はその後も。。。

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/05/02(金) 12:07:40 ID:fwlkkh19
>>337の続き。
竹中半兵衛死後、信長は重門に家督を継がせず(自分の命に背いたからか?)
一家は一時離散する。

>>357の続き。
徳川幕藩体制では5000石の旗本となり、竹中半兵衛の威名により8万石格の待遇を与えられる。
重門の次男から分かれた分家は黒田家家臣となり、幕末では本家と戦う。
この時竹中姓を「岩手」に改めた。
鳥羽伏見の戦いでは本家の重固は陸軍奉行となって総指揮に当たるが、
拙劣な指揮で「半兵衛は一代限り」と言われた。

竹中半兵衛と座り小便・いい話

2008年10月16日 00:07

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/04(金) 18:32:51 ID:sLw6T0ur
名将言行録にあった竹中半兵衛の話

ある日、半兵衛が人々の前で合戦の話をしていると、その最中に息子の左京(後の竹中重門)が
座を立って退出し、しばらくしてから戻ってきた。
 戦物語の途中に座を立つことがあるか、と、半兵衛が息子に対して叱りつけると、左京は
小便に行っていたのです、と言い訳した。すると、半兵衛は「ならなぜ小便をその場で垂れ流さないのか。
竹中の子が合戦の話に夢中になるあまり、小便をもらす粗相をしたと言われるのは当家にとって名誉なことだ」
と、言った。




287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/04(金) 22:12:48 ID:W6iw6qV+
ノブヤボ天下創世やってるとどこでも起こるあのイベントか。



291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/04/05(土) 22:43:47 ID:c/4K8Fzw
竹中半兵衛には逸話が多いよね。

ある時、黒田官兵衛が「秀吉様から恩賞として約束頂いた領地が、いっこうに頂けない。約束の書状が溜まるばかりだ。」
それを聞いた半兵衛は、ではその書状を見せて欲しいと言った。
官兵衛から書状を受け取った半兵衛は、そのまま囲炉裏に放り込み、すべて灰にしてしまった。
唖然とする官兵衛にこう言った。
「この様な書状があるから、欲が出て秀吉様に疑心を抱く事になります。
秀吉様にあらぬ嫌疑を抱かれぬ様、ご懸念致して下され。」
さすがに官兵衛はその意味を悟り、黙ってうなずいた。



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/05(土) 23:18:34 ID:8P5N4Yqt
なんか政宗の百万石の書状の話に似てるな。
家康以下の偉大なやつらがみんな死んだ後に政宗が百万石の話を蒸し返して脅したら井伊の息子が激怒して書状を破いて「こんなものは御家の為になりません」と威圧されて
政宗が恥じ入ってショボーンした話。